ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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出会い

 希佐がグラスミアに行って五日目の朝。水曜日の午前八時。アラン・ジンデルは自室のベッドの上でうつ伏せの状態のまま、かれこれ一時間近く微動だにしていなかった。眠っているわけではない。緑の目は開かれたままだ。

 毎夜眠れないのだと言うと、医者はすぐに睡眠薬を処方した。

「夜は眠れるようになりましたか?」

 首を横に振ると、医者はより強い睡眠薬を処方すると言った。

 新しく処方された薬を飲んで眠った日の夜──昨日の夜から今朝にかけてのことだ。アランは酷い悪夢を見た。普段ならば、これは夢だと自覚をした段階で、強制的に目を覚ますことができた。だが、薬で深く眠らされた状態では、いつまで経っても悪夢から逃れられず、目を覚ましたときにはもう既に疲弊しきっていて、ベッドから起き上がることもできずにいる。

 症状に合わせて処方された薬は手もつけていない。飲んでいるのは睡眠薬だけだ。それなのに頭が酷くぼうっとする。倦怠感に抱かれている。思考に靄が掛かり、考えることも億劫に思えた。

 更に一時間ほどそうしていると、この部屋に近づいてくる足音が聞こえ、アランはドアの方に向けていた顔をのろのろと動かし、壁の方を向いた。こんこんこん、とノックをされても無視をしていると、その人物は返事を待たずにドアを押し開く。

「Hey, sleepyhead.」乱暴に開かれたドアの向こうから現れた人物は、そう声をかけてきた。「You'll be late.」

「Let me sleep some more, Mommy.」

「Or at least call me Daddy.」

 はあ、と呆れたように大きくため息を吐いたバージルは、ずかずかと部屋の中に入ってくると、ベッドの脇に立って、横になっているアランを上から見下ろしてくる。

「なんだよ、具合でも悪いのか?」

「別に」

「顔色最悪じゃねぇかよ」ぐっと身を乗り出し、アランの顔を覗き込んだバージルが、ぎゅっと眉を顰める。「ちゃんと食って、しっかり寝てるのか?」

「六時間寝た」

「お前にしては上出来だ」

「夢見が悪かった」

「まあ、そんなこともあるだろ」

「頭がぼうっとする」

「普段寝ないやつが六時間も寝たら、そりゃぼうっとくらいするだろうな」

 その非常に腹が立つ返答の数々に苛立ちを覚えたアランが、睨みつけてやろうとベッドの上に身を起こすと、バージルはベッドサイドに置かれている処方薬を手に取って眺めていた。

「随分強い薬出されてんな」アランはベッドの上で胡座を掻き、薬を袋の中に戻しているバージルの横顔を見上げる。「これ、飲んでるのか?」

「睡眠薬だけ」

「医者はどんな感じだ?」

「押し付けがましい」アランが短く答えると、バージルは続く言葉を待つように、視線だけを投げかけてくる。「医者なんて大体そんなものだろ」

「まあな」

 バージルはそう言ったかと思うと、体の前で腕を組み、壁に背中を預けて立った。何やら思案げな面持ちを浮かべて黙り込んでいる。

 アランが寝癖の立っている髪を掻き上げ、スマートフォンの画面で時刻を確認していると、バージルが再び口を開いた。

「その医者が合わないと思うなら、別の医者に変えたっていいんだぞ」

「カウンセリングはまだ二回しか受けてない」

「回数の問題じゃねぇの」バージルはそう言って僅かに目を細める。「あのな、カウンセリングってのは人生相談をするところでも、医者の説教を聞くところでもない。お前が抱えている問題を解決するための手助けをするのが医者の仕事だ」

「分かってる」

「お前、薬嫌いだろ」頷くアランを見て、バージルは続ける。「飲みたくないって言ったか?」

「勝手に処方された」

「世の中にはそういう医者もいる。もちろん、そういう医者の下で良くなる患者もいる。でもな、俺はお前がその医者の治療を受けて良くなるとは到底思えないし、むしろ根っこから腐っていくんじゃねぇかって、今怯えてる」

 アランはバージルの言葉に目を丸くした。すると、その表情の変化を目の当たりにしたバージルは、意を決したように言った。

「俺がアメリカを離れてイギリスに帰ってきたのは、肉体的にも精神的にもぼろぼろになっていたからだ。あのままアメリカで舞台に立ち続けたら自分が駄目になると思ったから、周りの反対を押し切って帰国を決めた」

 それはアランも初めて耳にする話だった。自分からアメリカの話をすることはほとんどなく、何か触れられたくない事情があるのだろうと、ずっと静観していたのだ。

「膝の大怪我で舞台に穴を開けて、それが引き金になって精神的に参っちまってな。随分長い間カウンセリングに通ってたけど、症状は少しも改善しなかった。膝の具合は良くなっても、精神的な部分が回復することはなかった」

「……そう」

「俺の主治医はとにかく薬を飲ませたがるやつで、無気力やら倦怠感やら、とにかく副反応が酷かったよ。せっかく仕事に復帰させてもらっても、当人にやる気がないなら、周りの邪魔になるだけだ」

「でもそれは君のせいじゃない」

「仲の良かった連中もそう言ってた。でも、俺らの世界は結果がすべてだろ。役者が大病を患っていようと、客には何の関係もない。当時のぼろぼろだった俺が、主役級の役をもらっていたことに不満たらたらのやつらもいた。それが結構精神的にキツくてな、何もかもがうまくいかなくなっていって、ここらで一度舞台から離れようと思ったんだよ」

 アランはバージルと出会った日のことを思い出して、自分は何か取り返しのつかないことをしていたのではないかという、そんな感覚に苛まれる。

「イギリスに帰ってきたときは、本当に最悪の状態でな。知り合いに紹介された精神科医のところに通いながら、本当に何にもしない毎日を送ってた。その医者、変なやつでな。金に困っていないなら毎日遊んで暮らせばいいって言うんだ。好きなことだけをしていればいいって。でも、俺は踊る以外に能がないし、踊るより好きなことなんてなかったんだよ。だから余計につらかったんだろうなって、今となっては思うんだけど」

 眉を顰めたまま、それでもじっと目の前の顔を見つめていると、バージルはやわらかく微笑んだ。

「ある日、カウンセリング帰りにふらふらしていたら、古い知り合いに会った。最近ダンススタジオを開設したんだけど、そこで子供たちにダンスを教えたいから手伝ってくれって。他にすることもないし、週に一回、子供たちに無償でダンスを教えるようになったんだ。そこからかな、俺の中で少しずつ事態が好転していったのは」

 思い返してみれば、メレディスから得ることのできたバージルの情報は、少し前までブロードウェイで活躍していたダンサー兼役者であるということと、今話していた通り、無償で子供たちにダンスを教えているということだけだった。

 妙だとは思っていた。これほどのダンサーがどの事務所にも属さず、エージェントと契約をすることすらせず、フリーで活動していることが、不思議に感じられていた。

「子供たちと踊っていたら、なんていうか、初心に戻れた感じがしたんだ。ただ踊ることが楽しかった頃に戻れたような気がした。久しぶりに承認欲求が満たされていく感じが味わえて、正直嬉しかったよ。子供たちには今でも感謝してるんだ。だから、どんなに目が回るほど忙しくても、無償のダンス教室はやめられない」

「ヘスティアで踊ったのは……」

「それから半年後くらいだな。だいぶメンタルも回復して、酒でも飲んでみようかって思える程度にはなってた。それで、知り合いと連れ立ってヘスティアに行ったら、メレディスに声を掛けられたんだ。今度ここでチャリティイベントをやるから、お前も出ないかって」

 ああ、あれがチャリティーイベントの日だったのかと、アランは思う。

 メレディスから「面白いものが見られるよ」と声を掛けられ、何の期待もせずに向かったヘスティアで、ルロイ・アンダーソンのタイプライターでタップダンスを踊る、この男と出会った。今となってはもう、その記憶しか残っていない。

「まあ、先のことを考える良い機会かもなって思ったよ。当時の俺は、楽しく踊れればそれで良かったんだ。もう舞台に立つ必要なんかないんじゃないかって、そう考えはじめてた。指導者に回って後進を育てたり、振付師になって裏方に回るのも良いなって」

 そんなふうに考えていた男に向かって、自分は執拗に付きまとい、劇団に勧誘し続けていたのか。そう思うと、なんて迷惑なことをしていたのだろうと、今更ながらに自らの行動に嫌気がさす。

 反射的に前髪の辺りをくしゃくしゃと掻くアランを見て、バージルは声を漏らして笑った。

「久しぶりに客の前に立って踊るのは楽しかったよ。爽快だったし、痛快だった。だからと言って、表舞台に戻りたいと思ったかといえば、答えはノーだ。メレディスからお前を紹介される前にも、何本かオーディションの話をもらったけど、全部断った。お前みたいに、存在しない劇団に勧誘してくるようなやつは、他にいなかったけど」

「……迷惑だった?」

「そりゃ迷惑だろ」バージルは笑いながら言う。「ひょろっとしたむさ苦しくて鬱陶しいクソガキに連日付き纏われるんだぞ。自宅は思いの外近所で、いつの間にか場所も特定されてるし、買い物に行くマーケットには出没するし、どうやって番号を手に入れたんだか、暇さえあれば電話を掛けてきやがる」

「バージルのダンスが俺には必要に思えたから」

「当時もそんなこと言ってたな」

「今になって昔の自分を客観視してみると、自分勝手なことばかり言っていたと思う。今もそう変わらないけど、自分本位だったんだ。バージルの都合なんて考えてもいなかった。俺はただ、あなたのダンスを失いたくなくて──」

 ああ、そうか、とアランは思った。

 失いたくなかったのだ。あの日、ヘスティアの狭いステージの上で踊る姿はあまりに鮮烈で、まるで、燃え尽きる寸前の恒星のようだった。これが最期だと覚悟を決めた者の、決意のような凄みがあった。だからこそ、あれほどまでの輝きを放ち、アラン・ジンデルの心を鷲掴みにしたのだ。

「俺がこの目で見てきた数々の舞台の中でも、バージルが踊ったルロイ・アンダーソンのタイプライター以上のものには、出会ったことがない。あんなにも力強く、繊細で、命の躍動を感じるダンスを他に知らない」

「そんな小っ恥ずかしい言葉をよくも覚えてるもんだよ」

「今も同じ気持ちだから」

「おっ、そんなこと言っていいのか?」

「あのダンスがなかったら、今の俺はここにいない。カオスも立ち上げてない。あのときの俺は間違いなく、バージルに救われていたんだ」

 自分の目を真っ直ぐに見つめ、素直な思いを伝えてくるアランを見て、バージルは思わずというふうに目を見張る。しかし、すぐに穏やかな表情を浮かべてみせると、小さく頭を振った。

「いや、救われたのは俺の方だよ」

「え」

「感情に流されて、ついうっかり頷いちまったときは、さすがに失敗したかと思ったけど、こんな俺のために必死になってくれるやつがまだいたんだって。それに、見るからに俺よりヤバそうな状態のやつが、恥も外聞もかなぐり捨てて懇願してくる姿を見れば、俺みたいなやつは簡単に絆されるわけ」

「バージル……」

「生活を立て直せたのもお前のおかげだよ。正確には、お前とカオスのおかげだな。近くに仲間がいて、そこに帰る場所があるっていうのは、俺の心の支えになってた。もちろん、今もそうだ」

 バージルはそう言うと、寄り掛かっていた壁から身を起こし、アランの前までやって来る。そして、ジャケットのポケットから一枚の名刺を取り出すと、それを差し出してきた。

「俺の主治医、元々舞台畑の人間だから、今のやつよりは話しやすいと思う。無理に医者を変えろとは言わないし、今のところで様子を見たいなら、それでもいいだろうけど、こういう選択肢は多い方がいいだろ。お前のことは話してあるから、気が向いたら連絡してみてくれ」

「……うん」

「長々と自分語りをして悪かったな」渡された名刺から顔を上げて首を横に振ると、バージルは子供に対してそうするように、アランの頭をがしがしと撫でた。「お前は本当に良くやってるよ。あの頃の俺なんかよりもずっとな」

 この男は、自分とは毛色の違う苦難の末にここに立っているのだと、アランは改めて感じていた。

 カオスを立ち上げた当初、バージルがこう言っていたことを覚えている。劇団名すら決まっておらず、劇団員も自分たち以外にはいない、この先の見通しなど少しも立っていなかった頃の話だ。

『台本が用意できなけりゃ、俺が舞台の上で道化師でも何でも演じてやるよ。そういうのは得意だからな。アメリカで散々やってきたことだ』

 当時はその言葉を心強く思った。だが今は、そうは思えない。

 タップダンス界の至宝とまで呼ばれ、引く手数多だったはずの男が抱えていた問題はきっと、この程度では語り尽くせないのだろう。闇を背負っている者ほど、放つ光は強くなる。だから、惹かれたのだろうか。

「気分が悪いなら今日の稽古はやめておけよ」

「いや」アランは首を横に振りながらベッドを降りた。「話をしていたら大分マシになったから」

「そうか」

 話す必要のないことを、話して聞かせてくれたことへの感謝の思いと、話させてしまったことへの罪悪感とがないまぜになり、次ぐ言葉を見つけ出せずにいると、不意にバージルが口を開いた。

「アラン」

「なに」

「ありがとうな」コインランドリーから持ち帰ってきた袋の中から、着られそうなものを物色していたアランの背中に、穏やかな声が掛けられる。「俺はこの先何があっても、最後までお前についていく。劇団カオスは俺の家だからな、仲間たちは家族も同然だ。年長者として、この先も見守っていくよ」

「もう各々良い大人だし、そろそろ巣立ちの時期なんじゃないの」

「あいつら、巣立つ気なんて更々ないだろ。俺も含めて」

「俺はいつまで面倒を見続ければいいの」

「お前が嫌になるまでずっとじゃねぇか?」

 果たして、嫌になることなどあるのだろうか。そんな日は訪れなければいいのにと思う。自分の目と耳で見つけてきた才能たち。放っておいても勝手に育ち、巣立っていくものと思っていた。だが、今日という日まで誰一人として欠けることなく、それぞれが好き勝手なことをやっていても、一声掛ければすぐに集まってくる。それこそ、待っていましたとばかりに。

「そろそろカオスの公演もしたいもんだな」袋の中から稽古着を引っ張り出しているアランを見ながら、バージルが唐突に言った。「近くジェレマイアも帰国するって話だし」

「キサとイライアスは次の公演の契約上、他の舞台には出演できない」アランは着ていたTシャツを脱ぎ、別のTシャツを着る。「プロデューサーのご意向ってやつらしいけど」

「そういえば、キサがそのことで悩んでるみたいだったな」

「……プロデューサーのことで?」

「スペンサーとクロエ・ルーの板挟みになってるだろ。あいつ、何がなんでもキサのことを自分の言いなりにさせてぇみたいだし」

 それもプロデューサーのご意向ってやつなのかね、とバージルは呆れたうに言いながら、着替えを始めたアランに背中を向け、部屋を出ていった。

 スペンサー・ロローはとにかく主役に多くのものを背負わせ、強いプレッシャーを与えて、舞台の上に縛り付けようとする演出家だ。一つの舞台に全精力を注がせるせいで、公演後に役者が燃え尽き、この世界から消えていった者も少なくない。

「最近は特に切羽詰まってるみたいだからな。取り繕う余裕もなさそうじゃねぇか。本性丸出しって感じで」

「現行の舞台は安定してきたから誰かに任せるって話だけど」

「イライアスは、まあ、良くも悪くも自分のペースを崩さねぇやつだからいいとして、キサはその場の雰囲気を汲み取って、周りに気を使うタイプだからな、今だってスペンサーから威圧的な態度を向けられて困ってんだろ」

 着替えを終えて部屋から出てきたアランが、大欠伸をしている様子を目の当たりにしたバージルは、じっとりとした眼差しで睨みつけてくる。

「お前、そんなんだからキサに逃げられるんじゃねぇの?」

「分かってる」

「あいつのことちゃんと考えてやれよ」

「俺が何を言ったって、彼女は自分の頭で考えて、納得をしたことにしか従わない」

「前々から言ってるだろ、お前たちはもっと積極的に話し合うべきだって」アランはドアを後ろ手に閉め、バージルの前を通り過ぎて、そのままキッチンに向かった。「お前はただでさえ言葉が足りないんだ。キサなら言わなくても分かってくれるなんて思ってるから、今回みたいなことになるんだよ」

「そんなふうには思ってない」

「どうだかな」

 昨夜、希佐と通話しながら作っておいたサラダを冷蔵庫から取り出し、足で戸を閉める。洗ったままタオルの上に放置していたフォークを掴むと、立ったままそれを食らった。バージルはその姿を見て何かを言いかけるが、何を言っても無駄だと悟ったのか、椅子に腰を下ろしながら大きなため息を吐いた。

「本当に迎えに行けるのか?」

「行くよ」

「こんなことを言うと酷に聞こえるかもしれねぇけど」バージルはテーブルに頬杖をつき、アランを見上げた。「また同じことを繰り返すようじゃ、何の意味もねぇんだぞ」

「分かってる」

 自分にできることはもう何もないのだと、そう言わせてしまった。匙を投げられたのだ。このままでは愛想を尽かされるのも時間の問題だろう。だがしかし、捨てられる覚悟を決める前に、悪足掻きをすると決めた。

 こうしている今も、希佐は、自分を信じて待ってくれているのだと思うと、畏れのような思いを抱くと同時に、何か強いものに護られているような、そんな気がするのだ。

 何を引き換えにしても構わない。この才能をすべて失うことになったとしても、満たされたいと思う気持ちは、日に日に強くなっていく。だが、アラン・ジンデルという才能を失った男を、彼女は愛してくれるだろうか。

 そうした不安が、ここ最近、脳裏を過るようになっている。

 

 

 

 

 

 レオナール・ゴダンの天気予想はよく当たる。昨夜も、窓の外を眺めながら明日は晴れるでしょうかと希佐が問うと、ゴダンはその窓を開けて外の空気を香り、駄目かな、と言った。

 五日目の朝、空は曇天、午後からは雨の予報が出ているらしい。

 ゴダンの予想通り、やはり今日も晴れなかったかと残念に思いながら、希佐は早朝のランニングに出掛ける。それでもグラスミアの朝の空気はひんやりとしていて、清々しく、青々とした香りが感じられた。毎日同じ時間に犬の散歩をしている人々とは既に顔見知りだ。

 今日は少し長めに走ろうと思い、グラスミア湖をぐるりと一周するコースを辿って帰ってくると、あんなにひっそりとしていた村は、既に活気を見せはじめていた。数は少ないが、観光客たちはハイキングや軽いトレッキング用の装備を整え、村を出発しようとしている。

 三日目の夜、ゴダンとカレッジストリートにあるレストランで食事をした翌日から、不思議と見知らぬ人から声を掛けられることが増えていた。

 四日目の夕方、なぜだろうと思いながらマーケットで買い物をし、レジに並んで会計の順番を待っていると、背後から声が掛かる。

「あれ、あんた、あの動画の子じゃない?」とんとんと肩を叩かれて後ろを振り返ると、希佐よりも若い年頃の女の子が、嬉しそうににんまりと笑った。「あっ、やっぱりそうだ。あたしも見た、あの動画。セント・パンクラスの」

「そうなんですね」希佐は一瞬だけ目を丸くするが、すぐににこりと微笑みかけた。「ありがとうございます」

「あんた、今グラスミアでちょっとした有名人だよ。ほら、カレッジストリートのレストランの甥っ子がさ、あんたのこと触れ回ってんの。昨日オレの店に来たんだ、とか言ってさ。いつからあそこはお前の店になったんだっつーの」

 その女の子はそうして、まるで仲の良い友達のような感覚で、希佐に話し掛けてくる。希佐の順番が回ってきて、商品がレジに通されている間も、物凄い勢いで喋り続けていた。希佐が熱心に耳を傾けていると、女の子は手にしていたお菓子の代金を釣りが出ないように支払い、尚も話し掛けてくる。

「ね、あんた今何歳?」

「二十三です」

「じゃあ、年上なんだ。あたしはもう少しで十八なんだ」横に並んでマーケットの自動ドアを通り抜け、曇天の空の下を歩き出した。「どこの国の人? どこに住んでるの?」

「日本人です。今はロンドンで暮らしています」

「女優なんでしょ?」

「はい」

「役者ってどうやったらなれるの?」

「えっと、演技やダンス、歌を学べる学校に行ったり、劇団に所属したり、あとはオーディションを受けるとかでしょうか」

「ふうん」女の子は色とりどりに染めた自分の爪を眺めていたかと思うと、突然こちらに目を向ける。「学校に行ってない人も役者になれる?」

「はい、もちろん」

「本当?」希佐が質問に肯定で応じると、女の子は茶色に縁取られた目をまん丸にして、勢いに任せて顔を寄せてきた。「本当になれる? コネとかなくても?」

「どのような役者を目指しているのかにもよると思うんですけど、非商業劇場なんかで活動している小さな劇団とかだと、探してみれば未経験者でも受け入れてくれるところはあると思います。ワークショップなんかを開いている劇団もありますから、一度参加してみてはどうですか?」

「ワークショップってどんなことするの?」

「体作りや発声から教えてくれる本格的なところもありますし、レクリエーション感覚で楽しみながら即興劇なんかをするところもありますよ。ネットで検索するといろいろヒットすると思うので、自分に合っていそうなところを探してみるのがいいと思います」

 そうして話し込んでいるうちに、女の子は結局、ゴダンの家の前まで着いてきてしまった。あまりに熱心なその様子に、思わず寄っていくかと言ってしまうが、女の子は少し考えた後で首を横に振った。

「だってここ、あの映画監督の家でしょ? 無理、絶対入れないって」

 むしろ、ゴダンならこの状況を面白がるのではないかと思ったが、嫌がる子を無理に引き入れるわけにはいかない。

 女の子は「いろいろ教えてくれてありがと」と言うと、感謝の気持ちなのか、先程購入していたお菓子の中から選んだチョコレートを手渡し、希佐に背を向けて来た道を戻っていった。

 渡された合鍵を使って家の中に入り、そのままキッチンに直行した希佐が冷蔵庫の中に食材を納めていると、大欠伸を漏らしながらゴダンがキッチンに入ってくる。

「昨夜は遅くまで撮影されていたんですね」

「ん、朝方まで粘ったんだけど、良い画は撮れなかったなぁ」今夜またリベンジするよと言いながら近くまでやって来たゴダンは、テーブルの上にあるチョコレートを見て首を傾げた。「君が甘いものを買って帰ってくるなんて初めてのことだね」

「ああ、それは違うんです」

 希佐はマーケットで出会った女の子のことをゴダンに話して聞かせた。ゴダンは冷蔵庫の中でよく冷やされていた瓶入りの水を取り出し、コップに注いだそれを飲みながら話を聞いていた。

「確かに、僕は若い子には敬遠されがちだ。あのレストランの彼は違うようだけど」食べたそうにチョコレートを眺めているので、希佐がどうぞと勧めると、ゴダンは嬉しそうにしながらタブレットの一列だけを割り取った。「どんな子だったの?」

「好奇心旺盛で、かわいらしい子でしたよ」

「こういう片田舎に住んでいると、夢を見ることも難しいからね。その子も成人を迎えたらこの村を出て、ロンドンを目指すのかな。しかし、役者になりたいのか」

「そうみたいでした」

「キサの言う通り、その子がどんな役者を目指しているかにもよるけど、今は学校で技術を身につけた若者が多いから、いずれにしても茨の道になるのだろうね」

 昨日のことを考えながら、せめて名前くらいは聞いておくべきだったのかもしれないと、希佐は思う。これも何かの縁だ、あの子がロンドンに出てくるようなことがあれば、手助けをできたかもしれない。

 ランニングから帰ってすぐ、三階の部屋に上がってシャワーを浴びた希佐は、借りたドライヤーで髪を乾かしてから、窓の外に目を向けた。空の彼方から迫る暗雲が、今にも雨を降らせそうだ。あとでコインランドリーに洗濯をしに行こうと思っていたが、明日にしておいた方が良いだろう。

「お腹減ったな」

 昨夜、アランと通話を繋げながら作っておいたサラダを食べようと、希佐は階段を降りていく。

 結局のところ、天気が気に入らないと言って撮影には出ていかず、一晩中編集作業をしていたらしいゴダンは、まだ自分の部屋のベッドで眠っているはずだ。キッチンの冷蔵庫の前に立つと、朝食にどうぞ、と書いてサラダボウルに貼り付けておいた紙が、コルクボードに留め付けてあった。

《おいしかったよ、ありがとう》

 希佐が書いた文字の下に、そう書き足されていた。

 希佐は回収した紙をポケットに入れ、冷蔵庫の戸を開けると、サラダボウルを手に取った。戸棚の引き出しの中からフォークを取り出し、常温のペットボトルの水とグラスをテーブルに並べ、着席する。

『ちゃんと食べてるの』

「アランこそ」

『俺は周りに口煩いのが揃ってるから』

「レオはあんまり口煩く言わないよ」

『ふうん』

「なあに?」

『レオって呼ぶようになったんだ』

 サラダを口に運んでいると、アランとの会話を不意に思い出し、思わず笑みがこぼれた。

「Sirと呼ばれるのは嫌だって」希佐はそう言うと、見えない相手に向かって悪戯っぽく口角を持ち上げた。「ねえ、Mr.ジンデル?」

『Mr.はいらない』電話口の向こう側の雰囲気が僅かに和らぐのを、希佐は確かに感じ取っていた。『アランが良い』

「そういえば、どうしてアラン・ジンデルなの?」

『なにが』

「あなたの名前」

 一瞬、聞いてはいけないことだったのかもしれないと思ったが、アランの様子に目立った変化はなく、息を呑むことも、息遣いが変わることもなかった。アランは、なんだそんなことかとでもいうふうに、すんなりと話してくれた。

『特に理由はないよ。綴りがAから始まる名前ならなんでもよかった』

「ジンデルは?」

『フランス語だとザンデール。西アフリカにあるニジェール南部の都市の名前』アランは淀みない口振りで答える。『施設にいた頃にテレビで見て、どうしてか分からないけど、強烈に印象に残ってた。今思うと、俺は結局のところ施設から逃れられたつもりになっていただけで、その頃の記憶に縛られてたんだな』

 ふと、この人は今どんな顔をしているのだろうと、希佐は思っていた。

 その声を聞きながら目を閉じてみても、苦痛に歪む表情は見えてこない。いつもより少しだけ、他人事のような感覚が薄れているようにも感じられていた。

『AからZの間にはまだ二十四の文字があって、俺にはそれが、この先も続いていく人生と同じように感じられてた。施設を出て、俺はようやく一人の人間になれたような気がしていたんだ。だから、Aから始まる名前が良かった。一文字ずつ踏み締めるように歩いていけば、いずれZに辿り着く。最後に辿り着いた場所で、何か、俺が生まれて来た意味みたいなものが分かるんじゃないかって、子供の頃はそんなふうに思ってた』

 自分はアラン・ジンデルのKの文字になれただろうかと、希佐は考える。Kはアルファベットの十一文字目──アランの人生はまだ、道半ばだ。

 時間を掛けてサラダを食べ終えた希佐は、スマートフォンでフランス映画を流しながら、食事の後片付けをする。字幕を消し、登場人物に合わせて台詞を空で言えるほどには、何度も繰り返し視聴していた。

 途中、つい面白くなってきてしまい、声音を変えながら演じるようにフランス語の練習をしていると、くすくすと笑う声が聞こえ、希佐は咄嗟に後ろを振り返る。

『どうぞ、続けて』

『ずっと見ていたんですか?』

『十分くらい前からかな』

 ほとんど最初からではないかと思いながら、希佐が苦笑いを浮かべていると、ゴダンは動画を撮影していたらしいカメラを下ろし、キッチンに入ってきた。

「今日はお早いお目覚めなんですね」

「本当はもう少し寝ていたかったんだけど、今日はお昼からスタッフの子たちをランチに連れていく約束があるんだ。二度寝をしたら起きられないような気がしてね。君も一緒に来るかい?」

「ありがとうございます。でも、私は稽古がありますから」

「では、何かお土産を買ってきてあげよう。ジンジャーブレッドはまだ食べていなかっただろう?」

「あの緑の柵のお店ですか?」希佐の問いに、ゴダンは頷く。「一度食べてみたいとは思っているんですけど、近くを通り掛かるといつも行列ができているので、なかなか買う機会がなくて」

「それじゃあ、毎日頑張っている君のために、僕が代わりに並んで買ってきてあげようかな」

「えっ、あの、申し訳ないです。それなら、私が今から並んで──」

「申し訳ないなんて思う必要はないんだよ、キサ。僕が君にグラスミアのジンジャーブレッドを食べてほしいと思ったんだ。もしお口に合ったのなら、そのときは自分の足で買いに行けばいいだろう?」

「……はい。では、お言葉に甘えて」

「君はもっと人のお言葉に甘えるべきだと思うな」

 そうそう、サラダをご馳走様と言いながら、ゴダンはリビングの方に向かって歩いていく。希佐はその背中を横目に窺いながら、映画を再生したままだったスマートフォンを手に取った。ホーム画面に戻り、目に入ってきた時刻は、午前九時だった。

 希佐は、お腹が落ち着くまで応接室のピアノの前に腰を下ろし、グラスミアに来てから書き溜めたメモを読み返していた。

 最近は、事細かにメモを取るというよりは、感覚的な言葉や、感情を表現するための記号を書き記していることの方が多い。ほんの一瞬、頭の中に煌めいた閃きを逃したくなくて、大急ぎでペンを取ることが増えていた。ロンドンに帰ってから日記に書き起こすための覚え書きも、忘れてはいない。

 昨日、この辺りで一度歌を聴いてもらおうと、希佐は録音した音声データをジョシュアに送っていた。すぐに問題ないという返事があったのは、希佐にとっては喜ばしいことだった。

《イライアスも頑張ってるよ》文末には、ついでのように、そのようなことが記されていた。《ここ数日は、所謂軽いノリみたいなものを学ぶために、ロンドン中のダンススタジオに飛び入りで踊りに行ってるんだって。バージルも何回かついて行ったらしいんだけど、物凄いどよめきだったってさ。まあ、同年代の中では抜きん出た存在だからね、彼。どよめきのうちの半分くらいは、バージルに向けられたものなんじゃないかって思ってるんだけど》

 息抜きに別の歌を歌ってもいいと言われた希佐は、データで送られてきた楽譜を見比べながら、ピアノの鍵盤に指を走らせる。気分が沈んでいかないように、前向きになれる曲ばかりを選んでくれたようだった。

 数曲ある中から一曲だけを選び、自らでピアノを弾きながら歌うこと約二時間、以前から知っていた曲ということもあり、ある程度聞けるようになってくると、コンコンコン、と開け放ったままの扉が叩かれる。

 反射的にそちらに顔を向ければ、ゴダンがにこにこと楽しげに笑いながら、何も言わずに窓の外を指差していた。

 何を指しているのだろうと思い、今度はそちらに目をやると、窓ガラスの向こう側に、こちらをひょっこりと覗いている二人分の頭が見えた。

「……えっ?」

 二人と確かに目が合った。しかし、その次の瞬間、二つの頭はあっという間に見えなくなる。希佐が目を丸くし、突然のことに身動きを取れずにいると、応接室に入ってきたゴダンが、何の躊躇いもなく窓辺に歩み寄っていった。

「こんにちは、子供たち」ゴダンは窓を開けると、窓枠に身を乗り出すようにして、その下側を覗き込んだ。「天使の歌声に誘われて遊びに来てくれたのかな」

「あっ、いや、あの──」

「ここにエルファバがいるってお姉ちゃんから聞いたんです!」

「エルファバ? ああ、ウィキッドの西の悪い魔女のことだね」ゴダンには少しも咎めるような様子はなく、窓枠に身を乗り出したまま朗らかな口振りで話を続けている。「君はエルファバに会いに来たの?」

「はい!」

「うーん、がっかりさせてしまうかもしれないけれど、このお屋敷にエルファバはいないなぁ」

「えっ」

「でも、エルファバみたいに上手に歌える人ならいるよ。君たちがこっそり覗いていた彼女がそうなんだけど──」ゴダンは不自然に言葉を途切らせ、そのまま天を仰いだ。「雨の匂いがする。君たち、玄関に回っておいで。中に入れてあげよう」

「はい! ほらお姉ちゃん、行こうよ!」

「いやちょっと、それはさすがに駄目っていうか……」

「どうして? せっかく中に入れてくれるって言ってるのに」

「どうしてって──」

「ほらほら、早く早く」

 言い争うようにしている女の子たちの声が遠退いていくのを聞きながら、ゴダンは静かに窓を閉めている。目を丸くしたままの希佐を振り返ると、ゴダンはにこにことした笑みを絶やさないまま、女の子たちを玄関まで迎えに出て行った。

 一方の声に聞き覚えがあった希佐がゴダンの背中を追いかけて玄関まで出ていくと、そこにいたのはやはり、マーケットで声を掛けてきてくれた女の子だった。その傍らには、良く似た顔の、幼い女の子が立っている。

「やっぱり、昨日の」

 希佐がそう声を掛けると、女の子は些かばつが悪そうに視線を逸らした。

「別に盗み聞きをするために来たわけじゃなくて……」

「気にしないでください」希佐はゴダンの隣に並ぶと、その横顔を見上げてから、二人に向き合った。「ロンドンのスタジオでも、ご近所の子供たちが覗きにくることがあって。主宰が許せば見学をしてもらうこともあるので」

「エルファバ!」

 見たところ、ピアノ工房のエリザベスよりも僅かに幼そうな女の子が、希佐の顔を真っ直ぐに見上げ、その目をキラキラと輝かせていた。胸の前で祈るように両手を組み合わせ、半ば興奮した面持ちで鼻口を大きく膨らませている。

 希佐はどう言ったものかと思いながら、小さな女の子と視線を合わせるようにして身を屈めた。

「ごめんね、私はエルファバではないんだ。エルファバの歌を歌わせてもらっただけなの。あなたも私が歌っている動画を見てくれたの?」希佐がそう問うと、小さな女の子はその目をこぼれ落ちそうなほど大きく見開きながら、こくりと頷いた。「どうもありがとう」

「……妹の誕生日に、家族でロンドンまでウィキッドの舞台を観に行ったんだ」

 あれだけ希佐のことを質問攻めにしていた女の子が、昨日の勢いをすっかり失ってしまった様子で、訥々と話し出した。希佐はその場に身を屈めたまま、女の子のことを見上げていた。

「妹はあの舞台が相当気に入ったらしくてさ、毎日毎日ウィキッドの話ばっかりしてた。将来はミュージカルスターになって、自分もあの舞台に立つんだとか言い出して。その何日か後に、あんたがセント・パンクラスで歌ってる動画が回ってきたんだよ。妹はまたエルファバの歌が聴きたいって言ってたんだ。だから、凄く喜んでた」

「そうだったんですね」

「うちは父子家庭で、妹のことはあたしが面倒を見てて」女の子は──姉はそう言うと、妹の手を握る自らの手に、少しだけ力を込めていた。「学校では、お前なんかがミュージカルスターになれるわけがないって馬鹿にされたらしいけど、そんなの、やってみなきゃ分かんないし。だから、十八になったらロンドンに出て、あたしが舞台の勉強をして、それを妹に教えてあげたいって、そんなふうに思ってんだ」

 そう言って妹と顔を見合わせ、優しげに笑う姉の面差しを見て、希佐は強い既視感を覚えた。幼い頃の自分と、兄の継希の姿が、二人に重なって見えたのだ。

 将来のことなど何も分からない。ただ、このままずっと、みんなで楽しく演劇ごっこをしていたい。継希はそう言った希佐を否定しなかった。それどころか、ユニヴェール歌劇学校への道を切り開き、希佐をその場所へと導いてくれた。

 すべての人の夢が叶うような世界ではない。闇が存在するからこそ、光が際立つ世界だからだ。舞台の真ん中に立つことを夢見ていた人々の心が折れ、去っていく後ろ姿を、散々この目で見てきた。血反吐を吐くような努力は、いとも容易く裏切られる。諦めなければいつか報われるなどとは口が裂けても言えない。

 それでも、役者を目指したいという人を応援したくなるのは、希佐自身が舞台に立つ喜びを知っているからだ。仲間たちとその喜びを分かち合いたいからだ。たとえ舞台の真ん中に立つことが叶わなくとも、同じ世界を見ることはできるはずだと、そう信じている。

 ウィキッドの舞台は、この小さな女の子に夢を見せた。

 それを素直に羨ましく思ってしまうのは、自分の心にはまだ、舞台に対する強い未練があるからなのだろうと、希佐は思う。

 本当は辞めたくなどないのに。

 舞台と共に生き続ける道を選びたいのに。

 他の誰が許しても、立花希佐自身が、それを許さないから。

 気がつくと、ゴダンの言葉通り、外では屋根を強く打ち付ける雨が降りはじめていた。一気に薄暗くなった玄関ホールを見回しながら、不安そうにしている姉妹を見て、希佐は小さく笑う。

「練習していた歌がもうすぐ完成しそうなので」希佐が穏やかな口振りでそう言うと、二人の視線がこちらに向けられる。「もしよかったら、聞いていってくれますか?」

 もしここで自分の夢が潰えるのだとしても、また別のどこかで新しい夢が芽生えるのだとしたら、それはそれで良いことなのかもしれない。

 舞台に空いた穴は、別の誰かが埋める。

 ここは、そういう世界なのだから。

 

 

 

 

 

 ルイの冷やかしに耐えながら、バージルとの稽古を終えたアランは、シャワーを浴びた後の濡れ髪のまま、バスルームで蓋の閉じたトイレに腰を下ろしていた。右手には一枚の名刺、左手にはスマートフォンが握られている。

 バーシルから渡された名刺の裏側には、受付可能な時間に線が引かれ、その下に直筆で《いつでもお気軽に》と書き添えられていた。医者の名前は、ジョゼフ・エドワーズというらしい。

 ただ名刺と睨み合っているだけでは埒が明かないと、アランは医者に直通で繋がるという番号に電話をかけてみることにした。明後日には希佐を迎えに行く約束だ。それまでには、何とか突破口を見つける必要があるというのに、未だ何の手掛かりも得られてはいない。

 アランはスマートフォンに電話番号を直接打ち込むと、ひんやりとしたそれを耳に当てた。五コール、六コールと数えながら、これは掛け直した方が良さそうだと考えていると、不意にコール音が途切れる。

『Hello』

 一瞬、どこかで聞いたことのある声だと、アランは思った。頭の中にある引き出しを開けて回っていると、落ち着いた声が更に続く。

『どちら様?』バージルの紹介で電話をしていることを告げると、その人物は、ああ、と明るい声を上げた。『アラン・ジンデル』

 緩み切っていた記憶の糸が、途端にピンと張り詰める。ああ、この声は確かに知っている。自分を呼ぶ声で、そう確信した。

「名前が違うから分からなかった」

『戸籍の性別を変更して、名前もジョゼフィンからジョゼフに変えたんだ。更に結婚もしたんだよ。今は妻の姓を名乗っているから、名前だけを見るとまるで別人だよね』

「結婚おめでとう」

『ありがとう』

「ジョゼフと呼んだ方がいい?」

『昔みたいにジョーと呼んでよ』

「分かった」

 ジョゼフィン──ジョゼフ・エドワーズは、昔の劇団の仲間だ。アランよりも何年か早く、医者になると言って劇団を離れていった。それから十年以上、顔を合わせることも、連絡を取り合うこともなく、今に至る。

『世間って本当に狭いよね。君と彼が同じ劇団に所属していることはもちろん知っていたけれど、まさか患者として紹介されるとは思いも寄らなかった』

「俺も今の劇団仲間から昔の知り合いを紹介されるなんて思ってなかった」

 彼は当時から話好きで、それと同時に、人の話を聞くのが得意だった。

 そして、アラン・ジンデルにアイリッシュダンスを教えてくれた人でもある。幼い頃から有名なアイリッシュダンスの団体に所属していたが、学業を優先するために脱退したところを見計らって、メレディスから声を掛けたと聞いていた。

『何か込み入った事情があるんだって?』

「うん」

『僕で良ければ何年だって付き合うけど、君はどう? 知り合いに診られることを嫌がる人もいるから』

「何年もは困る」髪の毛先から滴った水滴が、ぽたり、と首筋に落ちる感覚があった。「今週末までに何とかしたい」

『君の解決したい問題がどのようなものかは知らない。でも、精神科医に助けを求めてくるような人が、二、三日で自らの抱えている問題を解消することは不可能だ。精神科医は催眠術士でも魔法使いでもないんだからね』

「……解決の糸口が欲しいんだ」

『そっか』

 ジョーはそう言うと、スマートフォンをどこかに置いて、スピーカーに切り替えたようだ。紙を捲るような音が近くから聞こえてくる。

『これから何か予定はあるの?』

「ないけど」

『僕のところのクリニックは夜間診療もやっているんだけど、ついさっき今日の予約をキャンセルしたいって連絡があったんだ。だから、丸々一時間空いてる。午後七時からだよ。来られる?』

「行く」

『了解』こんなことほとんどないんだ、神様の思し召しかもと言いながら、ジョーは笑っている。『メディカルカードを忘れないで。あと、処方されている薬があったら持ってきてね』

「分かった」

『待ってるよ』

 電話を切り、初期設定のまま変えていない画面を見下ろしながら、大きく息を吐き出す。まさか、ここで昔の劇団仲間に繋がるとはと思っていると、暗転した画面に心なしか疲れた表情の自分の顔が映っていた。

 内心で自業自得だと言い聞かせながら、アランはトイレから立ち上がる。鏡の前に立って髪を乾かしていると、不意に希佐の髪を梳いたときの感覚が指先に蘇るのを感じた。

「……重症だな」

 鏡に映る自分に向かってそう言い放ち、再び大きくため息を吐いた。

 着替えを済ませると、アランは希佐宛てにメッセージを書く。今から出掛けるので、帰って来たら自分から連絡をする。疲れているなら、待たずに寝ていい──そのように書いて送ると、すぐに返事が来た。

《I'll stay up and wait for you.》ぽこん、と続け様に通知音が鳴る。《Take care.》

 希佐にはカウンセリングに通っていることをまだ伝えていない。今話したところで無駄な心配をかけるだけだ。せめてこの一週間くらいは、他の誰かのためではなく、自分自身のために時間を割いてほしいと、アランは思っていた。

 いつも自分のことより、他者を優先してしまう女性だから、もしかしたらグラスミアでも問題を抱えている誰かに寄り添い、手を差し伸べようとしているのかもしれないが。

 スタジオに降りていくと、バージルは煌々とした明かりの中、チャリティーイベントで踊るダンスの稽古を行なっていた。時間が許せば、昼間の時間帯はほとんどアランの稽古に付き合ってくれていたので、自分の稽古は後回しになっているのだ。

 アランが事務室から出て行くと、バージルは珍しく呼吸を乱しながら足を止め、こちらを振り返った。二階のキッチンから持ってきた常温のペットボトルを差し出すと、バージルはそれを受け取る。

「サンキュ」

「バージルが紹介してくれた医者、昔の劇団仲間だった」

「は?」

「メレディスのところの劇団、ジャスト・ロビンの」ペットボトルの蓋に手をかけた状態のまま、バージルは静止してしまっている。「俺は彼からアイリッシュダンスを習ったんだ」

「お、おう」バージルはそう言うと、ようやくペットボトルの蓋を開け、それをごくごくと喉を鳴らして飲んでから、アランの方を見た。「今更かもしれねぇけど、世間の狭さを感じるな」

「ジョーもそう言ってた」

「あのセンセ、俺がお前のことを話したとき、何にも言ってなかったぞ」

「守秘義務ってやつじゃないの」

「まだ自分の患者でもないのにか?」

「義理堅い人だから」

 世間は狭い。この世界に身を置いていると、度々実感することだ。間に二人の人間を挟めば、大抵の人物には辿り着く。世界には六次の隔たりという法則が存在するが、舞台界隈に至っては、もっと少ない人数でそれが成り立っている。

 例えば、立花希佐はユニヴェールから逃れるために国外へと出たが、間に一人か二人の人間を挟むだけで、ユニヴェールを知る誰かと、もしくはユニヴェールに直接的な関係を持つ誰かと出会う可能性が高いということだ。

 希佐自身は、日本から遠く離れれば、それだけ見つかる可能性が低下すると考えていたようだが、物理的な距離には何の意味もない。

 今の今まで、何の騒ぎもなく舞台に立ち続けることができていたのは、奇跡と言っても過言ではないのだろう。まるで、何かに護られていたかのようだと、アランはそう感じている。

「七時から空いてるって言うから、今から行ってくる」

「そうか」口の端からこぼれた水を手の甲で拭いながら、バージルは頷いた。「気をつけてな」

「帰るときは──」

「戸締りだろ、分かってるって」

 バージルに見送られてスタジオから出たアランは、徒歩で大通りまで出ると、そこでタクシーを捉まえた。ドアを開けた途端、愛想の良さそうな運転手が、明るく挨拶の言葉を投げかけてくる。

 タクシーの運転手は多少無愛想な方がいいと考えているアランは、今回は外れを引いたと思いながら、平坦な声で行き先を告げた。それからすぐ、ポケットに忍ばせていたワイヤレスのイヤホンを耳に入れる。

 別に音楽を聴きたいわけではない。だが、大概の人間は、イヤホンをしている人間に声を掛けてはこないし、故意に無視をしても聞こえないものと判断されるので、いろいろと都合が良かった。

 イギリスの医療は国民保健サービスによって税金から賄われる。これによって、国民の医療費は一部を除いて基本的に無料だ。

 しかしながら、その街の人口によって差はあるものの、ロンドンのような都会では、国営の病院は常に混み合っていて、飛び入りで診てもらうということは、まず不可能だ。イギリスでは風邪を引いても、ほとんどの者は病院には行かず、市販薬で治すことが常識となっている。予約から診察までの期間が、平気で数週間空いてしまうので、予約を入れたところで診察を受ける頃には治ってしまっているからだ。

 だが、イギリスにも私立の病院はある。こちらは保険が適用されないため、掛かった医療費は患者が全額負担することになり、風邪の治療をするだけでも130ポンド近くの診察料を払う必要があった。広く門戸が開かれ、医療やサービスの質も良いが、莫大な医療費を負担することのできる裕福層以外の者は、ほとんど足を踏み入れることのない場所だろう。

 アランが今回向かっているクリニックは、私立病院だ。かかりつけ医から専門医を紹介してもらう時間的な余裕はない。それならば、多少金は掛かっても、すぐさま治療に取り掛かれる私立病院を選択した方が、精神的にも楽だろうと判断してのことだ。

 幸い大した物欲もなく、最近はカオスの公演で散財することもないので、使い所のない貯金残高は増加する一方だった。金は、死後の世界にも、来世にも持ってはいけない。そもそも、死後の世界も来世も、アランは信じてはいないのだが。

 まるで高級ホテルのような外装の病院の前でタクシーは止まる。アランはチップ込みの料金を支払うと、小さく感謝の言葉を口にしてから、タクシーを降りた。

 約束の時間よりも早く到着したアランは、受付で手続きを済ませ、自分以外には誰もいない待合室のソファに腰を下ろす。何か書くものを持ってくるべきだったと思いながらポケットに手を入れると、それと同時に、スマートフォンが微かに震えた。

 ポケットから取り出したスマートフォンの画面を開けば、先程の振動はメールの着信を知らせるものだったのだと分かる。

 From.Grasmereというタイトルを付けられたメールの送り主は、レオナール・ゴダンだった。メールには、それなりに大きな容量のデータが添付されている。どうやら映像データのようだ。

 アランは受付の方を一瞥してから、イヤホンを耳に装着し、すぐに動画を再生させた。小さなスマートフォンの画面に映し出されたのは、薄暗い部屋の中でピアノの前に座っている希佐の姿だった。

 カメラとピアノの間には二脚の椅子が置かれていて、それぞれに何者かが腰を下ろしている。何事かをこそこそと囁く声のあと、それを咎めるような「shhhh」という音が聞こえてきた。その様子を見ていた希佐は、首を竦ませるようにしてくすりと笑ってから、ピアノの鍵盤にそっと指先を乗せる。

 名曲というものは、最初の一小節で聞く者の心を鷲掴みにするものだ。その曲も、例外ではなかった。

 ここへ来たばかりの頃よりも、ずっと滑らかになったピアノの音色に乗せて、限りなく透明に近い色をした声が、大切に歌を紡いでいく。ジョシュアのところでレッスンを受けるようになってから、希佐の歌声は驚くほど伸びやかになっていた。

 『Defying Gravity』はその最たるものだ。あれは、聴く者によっては心を打ちのめされてしまうほどの、圧倒的な才能を感じさせる歌声だった。ユニヴェールで学んだことを基礎に、ロンドンで学んだすべてを詰め込んだ、至高の歌声だったと、アランは思っている。

 立花希佐は、ようやく自分自身の才能を自覚し、それを認め、覚悟と共に次の頂を目指していくのだろうと、そう思っていた。それなのに、自分がその弊害となり、道行きを塞ぎ、光を翳らせた現実を、アラン・ジンデルは重く受け止めている。自分の才能で君を殺すと宣言しておきながら、殺すことを惜しいとさえ思っている自分がいることにも、心底辟易していた。

 今はこの歌声を、切に愛している。

 きっと、今のままでは、別の意味で立花希佐の才能を殺すことになるのかもしれない。だが、それだけは絶対に避ける必要がある。そうなることなど、誰も望んではいないのだから。

 この女性のはじまりの場所に自分はいない。だがしかし、その終わりの場所になれるのだとしたら、その墓前に薔薇の花束を手向けて、この国から送り出してやりたいと思う。もしその先で生まれ変わることがあるのだとしたら、それ以上の喜びはない。

 第一の人生がユニヴェール、第二の人生がこのロンドンなのだとしたら、第三の人生は、再び日本で舞台に立ち続けてほしい。

 結局、この思考はいつだって、同じ着地点に戻ってくる。

 横並びになり、共に歩んでいく未来は、どうしても想像することができなかった。夢は所詮、ただの夢なのだ。それが叶わないことを、アラン・ジンデルは知っている。

 ここで迎える死が彼女の本懐なのだとしたら、そうしてやりたいと思う。だが、きっと、自分ではない誰かが、彼女を蘇らせてくれるとも信じているのだ。

「場所を移そうか、アラン・ジンデル」

 耳に挿していたイヤホンを抜き取られたかと思うと、懐かしい声が頭上から聞こえてくる。顔を上げると、じんわりと滲む視界の中で、スーツを着た男が、アランに向かって紺色のハンカチを差し出していた。

『やあ、アラン』

 稽古場の隅の人目につかない場所で膝を抱えていると、この人はひょっこりと現れて、付かず離れずの距離を保ちながら、何も聞かずにただ寄り添ってくれていた。

『今日は君に新しいステップを教えようと思って来たんだよ。どうする?』

 めそめそとしている自分を茶化すでも、慰めるでもなく、暗がりの中から自らの意思で出てこられるように、そっと手を差し伸べられる人だった。

 差し出されたハンカチを受け取らず、アランは手の平で頬の涙を拭うと、その場に自らの力だけで立ち上がった。その様子を目の当たりにしたジョーは、ゆっくりと目を細め、手に持っていたハンカチをポケットにしまいながら踵を返した。

「こちらだよ」

 そう言って通されたのは、廊下の突き当たりにある、両開きの樫の扉の先にある部屋だった。カウンセリング室と呼ぶには些か不釣り合いな、こだわりの書斎といったふうのインテリアで統一されている。

「久しぶりに見る友人の顔が泣き顔だとは思わなかった」

 部屋の中央、薄暗く室内を照らす照明の下に、座り心地の良さそうな肘掛け椅子が向かい合わせに置かれていた。ジョーはその一方を指し、座るように言う。アランはその椅子に浅く腰を下ろすと、ポケットから取り出した処方薬の袋を差し出した。

「ああ、ちゃんと持ってきてくれたんだね。ありがとう」

 横長の執務机からバインダーを取ってきたジョーは、アランの真正面に置かれている椅子に深く腰を下ろす。リラックスした様子で足を組み、バインダーを肘掛けに置くと、ごそごそと処方薬の確認をはじめた。

 昔から、すらりとした体躯の、とても綺麗な人だった。中性的な外見をしていたが、当人はもっと男性的で筋肉質な体つきで生まれたかったと、そう漏らしていたことを覚えている。周囲の人間が男性として受け入れていたこともあり、実際の体が女性であることを知ったのは、出会って数年が過ぎてからのことだった。

 相変わらず綺麗だとアランは思う。一目見ただけで、今もまだダンスを続けていることが分かるほど、衰えのない体をしていた。

「この薬を飲んで何ともなかった?」

「睡眠薬以外の薬は飲んでない」アランがそう言うと、ジョーはこちらに目を向ける。「一度目に行ったときは、もっと軽い睡眠薬だった。眠れないと言ったら、更に強い睡眠薬を処方すると言われて」

「うん」

「気分が悪くなった。眠れはしたけど、夢見も悪くて」

「そうか」

 ジョーはアランに処方薬を返すと、バインダーに留め付けた紙に、ボールペンで何かを書き込んでいた。アランがその様子を眺めていると、手を動かしながら口を開く。

「君に処方された薬のメモを取っているんだよ」アランの心を見透かしたかのような言葉を口にしてから、ジョーは徐に顔を上げた。「不眠に悩んでいるの?」

「不眠は子供の頃から常態化してる。それに、ここ数年は眠れていたから」

「それなのに突然眠れなくなった? その理由は自分でも分かっている?」

「理由は」

「うん」

「……一緒に暮らしている女性がいて」アランは頭の中で言葉を選びながら先を続けた。「彼女がいてくれると、よく眠れる」

「その女性は君の恋人?」

「いや」アランは一度口籠ってから、下唇を噛み、ジョーから視線を逸らした。「分からない」

「なぜ?」

「恋人の定義がよく分からない」

「恋人の定義」

 ジョーは至って真面目な表情でそう繰り返したかと思うと、スマートフォンを操作して電子辞書を開き、恋人という言葉について書かれた画面をアランに向けてきた。

「主に相思相愛な間柄のことを恋人と言うそうだよ」

「相思相愛な人間同士が必ずしも恋人になるとは限らない」

「君はその女性を愛している?」口を噤んでいるアランを見て、ジョーは静かに肩をすくめた。「答えたくない質問に答える必要はないよ」

「……俺の愛情が、世間一般の愛情と同義なら」

「君の愛情というのは、例えば、どういう感情なの?」

 自分は一体何の話をさせられているのだろうと思いながらも、アランは問われたことへの答えを探し求め、自らの思考の海を泳ぎ回っていた。ジョーからの質問を受けるたびに、海には大きな波が立って、無駄な思考に飲み込まれそうになる。

「庇護欲に近い感情、だと思う」

「じゃあ、厳密には違う?」

「……箱に」アランはゆっくりと息を吐き出し、目を伏せた。「箱に、閉じ込めたい」

「その女性を箱に閉じ込めて、君はどうしたい?」

「どうもしない」

「閉じ込めておくだけ?」

「そう」

「そうなんだね」ジョーはそう言うと、再び手元の紙に何かを書き出した。「ただのメモだよ」

 ほら、と言ってジョーが差し出してきたバインダーを、アランは躊躇いがちに受け取った。確かに、そこに記されている文字列の中に暗号の類が隠されていなければ、二人の間で交わされた会話が箇条書きにされているだけのものだった。

「どうして箱なのかな」

「え」

「君はどうしてその女性を箱に閉じ込めたいと感じたのだと思う?」

 アランは手元のバインダーを返しながら、思考を巡らせる。

 ずっと思っていたことだった。三年前、希佐がヘスティアのステージの上でレ・ミゼラブルの『夢やぶれて』を歌う声を聞いたときから、その歌声を綺麗な箱の中に閉じ込めて、自分だけのものにしたいと、そう思っていた。

 だが、なぜ箱なのか。そのことについて考えたことはない。

「箱に何か思い入れがあるの?」

「箱──」記憶の端に、ちら、と薄汚い段ボール箱が過った。「分からない」

「うん、いいよ」

 話を変えようかと言い、ジョーはバインダーの紙を入れ替えている。

「君に話したいことがあれば、何でも好きに話していい。特になければ、僕から質問をさせてもらうけど、どうしようか」

 アランは、ぱち、ぱち、と瞬いてから、意味もなく室内に視線を巡らせた。その間、ジョーは何も言わず、アランが口火を切るのを待っている。壁に掛けられている時計の秒針が、いつもよりゆっくりと回っているように感じられていた。

「ダンスを踊りたくて」

「いいね、ダンス」ジョーは朗らかに笑う。「誰かと踊りたいの?」

「今話していた女性と」

「一緒に暮らしているならいつでも踊れるんじゃない?」

「来月のヘスティアのイベントに出演したいんだ。でも、俺が……」

「君が?」

「……俺がペアダンスを踊れないこと、ジョーなら覚えてるだろ」

「うん」間髪入れずにジョーは頷いた。「でも、これは君のカウンセリングだから」

 自分のことを当事者として話すことが苦手だった。自分のことを話すときはいつも、頭と心を切り離し、自分以外の誰かの物語を語るつもりで話している。映画を観たあとや、本を読んだあとの感想を語るように、客観的に話をするようにしていた。

「彼女と踊りたいのに、思うように踊れない」

「それが君の抱えている問題?」

「そう」

「どうして思うように踊れないと思う?」

「それは多分、俺自身の問題で……」

「それはどんな問題なのかな」

「……子供の頃、俺は五歳まで、イギリス中の施設を転々としながら暮らしてて」もはやジョーの目を見て話すこともできず、アランは自分の手元を見下ろしながら、所在なく親指を弄んでいた。「子供ながらに、周囲から向けられる好奇の視線とか、面倒臭い人間関係とか、理不尽な仕打ちとか、いろんなものに嫌気が差して、心を閉ざしたんだ」

「それが原因だと思うんだね」

「施設を出て、劇団に入れてもらって、初めて人と組んで踊ったとき、とにかく気持ちが悪かった」

「どう気持ちが悪かったのか聞いても構わないかな」

「相手の感情が自分の中に流れ込んでくる感覚に耐えられなかった。それ以来、他人からの身体言語を遮断して、自分からも相手に対して働きかけることをしなくなった」

「そうすることで君は楽になった?」

「当時は」

「じゃあ、今はどう思っている?」

「安易だったと思ってる。あの頃にこの問題を克服していたら、ここまで拗らせることもなかったんじゃないかって」

「でも、今こうしてその問題と向き合う努力をしているじゃないか」

 ジョーはメモを取ることもせず、アランの目を真っ直ぐに見つめ、真摯な態度で話に耳を傾けてくれていた。これが彼の仕事だということは分かっている。それでも、自らの所感を挟まず、ただ淡々と話を聞いてくれるだけの存在は、今のアランにとって酷く好ましいものだった。

「自分の過去と向き合うことに遅過ぎるなんてことはないんだ。しかも、君は既にある程度の自己分析を終えている。なぜそうなってしまったのかという問題から原因を見つけ出し、その答えを得ようと模索している。もうこれ自体がすごいことなんだよ」

 そうして褒められるようなことではないとアランは思う。ただただ狂ったように、夜毎同じことばかりに考えを巡らせていた結果が、これなのだ。締め切り間近の仕事を仕上げもせず、自分の殻に閉じこもり、ある一つの問題について延々と思考し、彷徨い続けている。

 視線を落とし、口を噤んでいるアランを見て、ジョーは手に持っていたバインダーを自らの膝の上に伏せて置いた。ふう、と息を吐くので思わず顔を上げると、先程までの朗らかさとは違う、穏やかな表情を浮かべている。

「本当は駄目なんだけど、ここからはただのジョーとして話をさせてもらうよ」目を丸くするアランを見て、ジョーはバインダーに両手を乗せ、僅かに身を乗り出した。「その女性って、待合室で君が見ていた動画の子?」

「うん」

「一緒に暮らしてるって言ってたけど、どのくらい一緒にいるの?」

「三年──今年で、四年」

「ずっと?」

「まあ、大体は」

「セックスはしてる?」その質問の意図が掴めなかったが、アランは、ぱちん、と瞬いてから、小さく頷いた。「頻度は?」

「……週に、何回か」

「相手の子は満足してる?」

「待って、これは一体何の──」

「大事なことなんだ」

 あまりに真剣なその様子に閉口してしまったアランは、その最中や、終えたあとの希佐の姿を思い出し、何とも言えない奇妙な気持ちになった。実際に相手が満足しているかどうかなど、分かるわけがないと、そう思った。

「嫌がってはいないと思う、けど」

「じゃあ、質問を変える」ジョーはバインダーを自身の背中と背もたれの間に置き、椅子に浅く座り直した。「君はその子を抱いているとき、何を考えているの?」

「……」

「これには答えなくていい。でも、よく考えてみて」ジョーは真っ直ぐにアランの目を見つめている。「何を思っている?」

 彼女の表情を窺いながら、大切に、壊してしまわないように、真綿を包み込むように、やわらかく触れる努力をしていた。彼女の吐き出す息にすら、神経を向けている。視線の流れや、肌を這う指先の動きや、時折猫のように爪を立てる仕草まで、すべてをあますことなく享受できるように。伸びてきた手を捕まえ、指を絡めると同時に強く握り返されるあの瞬間が──。

「ほら、分かった?」アランの表情の変化を感じ取ったのか、ジョーは優しげに目を細めた。「極端なことを言うと、ペアダンスは愛する人を抱くのと同じなんだ。ダンスは情事だよ、アラン・ジンデル。その女性を慈しむように抱けるのなら、踊ることだってできるはずだ。君は固定観念に囚われ過ぎている。まあ、その固定観念を打ち崩していくのが、本来の僕の仕事なのだけれど」

 ジョーはそう言うと、自らの腕に巻いた時計に目をやった。アランも反射的に壁掛け時計に目を向ける。あれほど遅く感じられていた秒針が、アランの知らぬ間に時を刻み、時刻は既に午後八時を迎えようとしていた。

 次の予約が入っているのだろう、ジョーは椅子から立ち上がると、バインダーを取り上げながら言った。

「だからと言って、君がその女性と簡単に踊れるようになるとは思えない。思考はすぐに切り替えられても、気持ちの切り替えは難しい。心が抱える問題は思っている以上に根深いものだ。治療には時間が必要だよ」唇を噛みながら頷くアランを見て、ジョーは軽く笑みを浮かべた。「ただ、君は間違いなく踊れるはずだ。少なくとも、その女性となら」

「踊れる……」

 ぽつり、と声を漏らしたアランを見下ろし、ジョーは微笑んだ。

「さあ、次の患者が来るから、君はそろそろご退出を」ジョーはそう言うと、手にしているバインダーでドアの方を指し示した。「これからも通うつもりがあるのなら、受付で次回の予約を取ってから帰って。次からはしっかり医者と患者の節度を守るから、その辺は心配しないでいい」

「薬はないの」

「処方したところで飲まないだろう? それに、仕事や私生活に支障をきたすようなら、無理に薬を服用する必要はないというのが僕の持論だ。君の場合は執筆もあるだろうし、その女性と踊るための稽古もある。まずは様子を見て、必要そうならその都度相談をして決めよう。それでどう?」

「分かった」

「ダンスは情事だと言ったけど、対話でもあると僕は思っている。独りよがりではうまくいかない。その子とよーく話し合うんだ」ジョーはそう言うと、そっと右手を差し出してきた。「久しぶりに君と話せて嬉しかったよ、アラン」

 椅子から立ち上がったアランは、黙ってジョーの手を取る。

 すると、ジョーの手がアランの手を、ぎゅっと力強く握りしめた。その手は、劇団を去っていった日の最後の握手と同じように、アランの心にそっと寄り添い、励ましてくれているように感じられた。

 

 

 

 

 

 午後の稽古後、クールダウンとバスルームでの念入りなマッサージを終えてから希佐が階段を降りていくと、たった今帰宅したところだったらしいレオナール・ゴダンと玄関ホールで鉢合わせた。

 雨はまだ降り止まないようで、さすがのイギリス人も傘を差さずには外出することもできないと、ゴダンが鮮やかな青色の傘を手に出掛けていったのは、もう何時間も前のことだった。

「おかえりなさい」希佐が階段の中程からそう声をかけると、ゴダンは水気を払った傘を畳みながら顔を上げた。「雨は大丈夫でしたか?」

「僕なら平気だよ。雨は嫌いじゃないんだ」

「でも、夜空の撮影はまたお預けですね」

「天候だけはどうにもならないからね。せっかくだから、スタッフの子たちとカメラを回して、この景色を撮影してきたよ。雨の日のグラスミアも、晴れの日と同じくらい美しくて魅力的だから」

「タオルをお持ちしましょうか?」

「いや、このままバスルームに向かうよ」階段を降りきり、自分のところまでやってきた希佐を見下ろして、ゴダンは手に持っていた紙袋を差し出してくる。「濡れていなければいいけれど」

「これは?」

「約束のジンジャーブレッドだよ」

「えっ、こんなに雨が降っているのに、わざわさ買ってきてくださったんですか?」

「雨が降っているからか、他のお客さんはあまりいなかったんだ。閉店時間も近かったから、並ばなくても買えたんだよ」

 大きな壺のような傘立てに傘を入れ、ゴダンは希佐と入れ違いに階段を上がっていく。その背中に向かってお茶の支度をしておきますと言うと、ゴダンは肩越しに手を振りながら、ありがとうと言った。

 キッチンに入り、ケトルを手に取ると、希佐はすぐにお湯を沸かす。

 先日、ゴダンがお茶をもてなしてくれたときに使っていたものとは別の、ガラス製のティーセットを棚から取り出すと、微かに埃を纏っていたそれを、よく泡立てたスポンジで丁寧に洗った。キッチンペーパーで水気を拭い、沸騰した湯を注いで、ポットとカップを温めておく。

 茶葉が入っていると教えてもらった棚の中には、数種類の缶が並べられていた。セイロン、ウバ、キーマン、ニルギリ──ジンジャーブレッドの味を邪魔しない、さっぱりとした味わいのものが良いだろうと思い、希佐はヌワラエリヤというセイロンの缶を手に取った。

 そういえば、セイロンはイライアスが好きだと言っていた茶葉だと、希佐は思い出す。

「紅茶を選んでいたの?」

 白髪混じりの髪は、乾かし終えたばかりだからか、毛先がふわふわと彷徨っている。ゴダンはその髪を無造作に掻き上げながら、希佐の手元を覗き込んだ。

「ヌワラエリヤか」

「ジンジャーブレッドと合わせるなら、さっぱりしたお茶の方がいいと思ったので」

「これは数あるセイロンの中でもシャンパンと称される紅茶でね、ユーカリやミントの木の側に生えた木から摘み取られた葉を使っているから、それらの風味を取り込んで、とても爽やかな香りがするんだよ」

「レオは紅茶にお詳しいですよね」

「ただ好きなだけさ」

「私、イギリスは紅茶の国だと思っていたのですが、コーヒーを好んで飲む方が意外と多くて、少し驚きました」

「日本人だってグリーンティーばかり飲んでるわけではないだろう?」

「私は玉阪の御茶屋さんでよくいただいていたんですけど、そうですね、コーヒーや紅茶を好んで飲む人の方が多かったような気がします」

「僕は抹茶が好きだよ」ゴダンは紅茶を入れる希佐の隣で、ジンジャーブレッドを皿に取り出している。「添えられていたお菓子が実に美しくてね」

「上生菓子ですよね」希佐は砂時計の落ち具合を眺めながら、その先を続けた。「和菓子屋さんに行くと、季節ごとに違った意匠の生菓子が売られているんですよ。春なら桜や山吹、クローバーなんかも見たことがあります。夏は金魚や向日葵、秋になると銀杏やもみじ──冬は、寒椿が綺麗でした」

「君も十分詳しいじゃないか。小さな頃から好きだったの?」

「いえ、ユニヴェールの先輩に教えていただいたんです」

「へえ」

 砂時計の砂が落ち切ったところで、希佐はポットに被せていたティーコゼーを持ち上げる。透明だった液体は、美しい琥珀色に染まっていた。湯を含んで開き切った茶葉をそっと引き上げ、最後の一滴まで落ちるのを待っていると、ゴダンが不意に声を上げる。

「そのユニヴェールの先輩というのは、君が過去を過去のまま置き去りにしてきてしまった人?」

「え?」

「キサが僕にユニヴェール時代の話をしてくれるとき、ふとした瞬間に、酷く憂いを帯びたような表情を浮かべることがある。だから、日本に恋人を残してきたのではないかと思ってね」

「恋人……」

「違うのかい?」

 ぽたん、ぽたん、と雫が落ちるたびに、琥珀色の液体の水面に波紋が広がる。心がざわざわと落ち着かない気持ちになる。希佐は目を閉じて、密かに息を吐き出した。

「その方は、私のことを好いてくださっていました」

「うん」

「私にとっては、今でも大切な人です」ステンレスの茶漉しから茶葉を袋に取り出し、口元を結んでゴミ箱に捨てる。「こんなふうに言うと、自分勝手に聞こえてしまうと思うのですが」

「その話には興味があるな」

「レオに興味がないことなんてあるんですか?」

「もちろん、あるとも。この世界の大概のことには興味がないよ」

「そうは思えません」

「君はミステリアスで魅力的な女性だよ、キサ。人間として惹かれるのは当然のことだ。あのアラン・ジンデルですら、君に骨抜きにされているくらいだからね」

 折に触れて自らの愛情を言葉にして表してくれる。でもそれは、幸せから溢れ出る言葉ではなく、胸を締め付けられるような切なさを吐露したものであることを、希佐は知っていた。

 トレーにポットとカップ、ジンジャーブレッドを乗せた皿を置くと、希佐がそれを運ぼうとするより早く、ゴダンがダイニングテーブルに持っていってくれた。

「その人はどんな人?」

「とても素敵な方です」テーブルの傍に立って紅茶を注いでいた希佐は、一方のカップを既に着席しているゴダンの前に置いた。「芸事に対してひたむきで、いつだって真摯に向き合っている、心から尊敬のできる人でした」

「君はその人の影響を受けた?」

「はい」希佐は自分の紅茶を注ぐと、ゴダンと向かい合う位置にそれを置き、椅子にそっと腰を下ろした。「私なんて足元にも及ばないほど凄い人でした。常に周りの人より二歩も三歩も先を行く、牽引力のある方で。あの人が頑張っている背中を見ていると、私も負けていられないって、いつも思っていました。少しでもその背中に近づきたいって」

「負かしてやりたいとは思わなかったの?」

「そう宣戦布告したこともありました」悪戯っぽく笑うゴダンを見て、希佐は微笑を浮かべる。「誰に対しても人当たりが良くて、面倒見の良い方だったので、どんな人にも慕われていました。他のクラスの人たちからも一目置かれていて、玉阪座──ユニヴェールの母体である劇団に所属してからも、それは変わらなかったみたいです。玉阪座のお兄さん方には良くしていただいているとお話しされていました」

「君が日本を離れて──」

「五年です。今年で六年になります」

「五年も経てば人間は多かれ少なかれ変わるものだけど」ゴダンはシュガートングを使ってジンジャーブレッドを小皿に取り分け、希佐の前に置いてくれた。「その彼はどうしていると思う?」

「きっとお変わりないと思います」

「どうして?」

「五年前──いえ、それ以前から、あの人は芸事と共に生きていく覚悟を決めているように見受けられました。きっと今も、自分が求める舞を目指して、邁進されていると思います」

「君はそう信じているんだね」

 ゴダンはジンジャーブレッドを一口の大きさに割ると、それを口の中に放った。希佐はその様子を眺めながら、自らもジンジャーブレッドに手を伸ばす。

「あの人はまごうことなき天才でした。でも、決して努力を惜しまなかった。そういうところが、すごく格好良くて。私に高みを目指すことを教えてくれた人なんです。今でもあの人の背中を思い浮かべることがあります。今の自分は、少しでもあの人の背中に近づくことができているのかなって」

 薄い板状のジンジャーブレッドは、ビスケットのように硬いわけでも、パウンドケーキのようにやわらかいわけでもない、しっとりとした焼き上がりのお菓子だった。全粒粉がほろほろと口の中で崩れていくと、爽やかなジンジャーが香ってくる。これは焼いてから少し時間が経っているが、一番美味しいのは焼き立てという話だ。

 美味しいですと言って、希佐が二口、三口と食べていくのを、ゴダンはどこか微笑ましそうに眺めていた。

「その人に会いたいとは思わないのかい?」

 希佐はその質問に対する答えを探しながら、ティーカップに手を伸ばした。ゆっくりと時間を掛けて一口の紅茶を嚥下し、小さく息を吐く。その間も、ゴダンはこちらを観察するような視線を逸らそうとはしなかった。

「……日本に出てすぐの頃は、毎日のように思っていました」

「会いたいと?」

「申し訳ないなって」

「申し訳ない?」

「自分勝手に逃げ出した人間がそんなふうに思うなんて、おこがましいですよね」希佐はテーブルに戻したティーカップの縁を指先で撫でながら、自嘲するように笑った。「会いたいかどうかは考えないようにしていました。そんなふうに思ってはいけないと言い聞かせていたんです」

「君は酷く残酷な言葉を何の躊躇いもなく口にすることがある」ゴダンはジンジャーブレッドを咀嚼しながら、平然とした面持ちで先を続けた。「これは僕の想像に過ぎないけれど、君を慕っていた人々の多くは、君を失ったと悟ったとき、僕にはそれを推し量ることしかできないが、ありとあらゆる感情に苦しめられたはずだ。そうした人々の感情を我が事のように感じ取れるはずの君が、すべてを申し訳ないの一言で片付けてしまった」

「浅はかだったと思います。例えば、一通の置き手紙でも残しておけば、何かが違ったのではないかと、そう思うこともあります。利己的な考え方に囚われていたんです。正しさよりも保身を選んでしまいました。そして何よりも、人一人がいなくなったくらいでは、この世界は何も変わらないということを、私は知っていたから──」

 人は悲しみに慣れてしまう。溺れ続けていることはできない。それは、希佐自身が身を持って感じたことだ。

 兄の継希が姿を消したとき、言葉では表すことのできない絶望に襲われ、目の前が真っ暗になったことを、希佐は今でも昨日のことのように覚えている。もちろん、仲の良い友人はいた。親友と呼べる存在もいた。だが、どのような人間も、兄に代わる存在にはなり得なかった。

 当時の希佐には、兄だけが心の支えだった。ユニヴェールで活躍をしている兄が誇らしく、羨ましく、そして、少しだけ妬ましかった。

『いいな、継希にぃは』

 男として生まれてきて、ユニヴェールに入学することができて、好きなお芝居を続けることができて──入学したばかりの頃、新人公演の稽古で疲れていたはずなのに、時間を見つけて電話を掛けてきてくれた継希に向かって、希佐はそのような愚痴を溢したことがった。すると、継希は困ったように笑い、僅かに言葉を詰まらせたのだ。

 それ以降、希佐は慎重に言葉を選ぶようになった。継希にぃが羨ましい、継希にぃばっかりずるい──そうした言葉はすべて飲み込んで、聞き分けの良い妹を演じ続けた。

 継希にぃはお稽古を頑張っているんだから、うちのことは何も心配しないで大丈夫だよ。ご飯の支度も、お掃除も、お洗濯も、全部一人でできるから──受話器を手に持ち、にこにこと笑いながら、心の中ではあまりの寂しさに涙を流していた。本当は帰ってきて欲しいと思っているなんて、口が裂けても言えるわけがなかった。きっと、兄にはすべてお見通しだったのだろうと、希佐は思っている。

 今、立花継希に向けている感情を一言で表すなら、愛憎という言葉が最も相応しい。子供の頃と変わらず、同じように愛している。だがしかし、憎らしいとも思うのだ。

 置いていく者の気持ちも、置いていかれる者の気持ちも理解している。だからこそ思うのは、その人の人生はその人自身が決めるものであって、他人の選択に左右されるべきではないということだった。自らが下した決断には責任を持たなければならない。

 しかしだからと言って、残してきた人々の人生の責任まで背負う必要はない。たとえ大切な人を失ったとしても、その先の人生をどのように歩んでいくのかを決めるのは、他ならぬ自分自身なのだ。

 お前のせいで人生を滅茶苦茶にされたと、そう言われたとしたら、その言葉は甘んじて受け入れたいと思う。もしかしたら、場合によっては自分がその言葉を吐き出し、誰かを困惑させていたかもしれない。

 幸いにも、希佐は人との出会いに恵まれた。遠い異国の地で、過去に囚われ続けていた希佐の心を解放し、救ってくれる人と出会うことができた。一生ものの仲間を得た。過去にばかり目を向け、未来を拒み続けていたとしたら、手に入れることはできなかっただろう。これは、立花希佐が自らの力で手に入れた財産だ。

 立花継希の喪失が希佐に与えた影響は計り知れない。継希の面影を追い求めることもあった。だがしかし、今は自分で選び、進んできた道を、自分の足で歩みはじめている。

『君ばっかりが前に進んだって、日本にいる君の仲間たちはこうしている今も、立花希佐のことを忘れられずにいるんだ。彼らの中の立花希佐は、最後のユニヴェール公演のときの姿のまま、今も時間を止めているんだよ』

 以前、加斎中が希佐に向かって言い放った言葉だ。あのときは、その言葉を最もだと思った。そう思った上で、怒りのような感情を覚えたのだ。

 自分の苦しみを背負うことで精一杯だというのに、なぜ誰かの苦しみまで背負わされて、その上責め句を受けなければならないのか──そう思いながら、加斎の言葉を理不尽に感じていた。

『もし俺が五年前に君に置いていかれる側の人間だったとして──』加斎がスタジオを去り、自らへの怒りをダンスで発散させていた希佐に向かって、アランが言っていた言葉を思い出す。『五年後の君が自分自身の力で成功を掴んだのだと知ったら、それもまた一つの物語として喜べると思う。自分の人生を切り拓いていけるのは、所詮自分しかいないんだ。その人自身が正しいと信じて選択された道は尊重されるべきものであってほしいと思うし、簡単に否定していいものでもない』

『……私はどうしたらいいと思う?』

『それを考えて決められるのはこの世界に君一人だけだ。たとえ世界一の演出家だって他人の人生までは演出できない』

 日本を飛び出してきたばかりの頃は、罪悪感に塗れていた。こうする以外に方法はなかったのだと、暗示を掛けるように、自らに強く言い聞かせていた。もう二度と舞台に立つことはないだろうと思いながらも、あの煌びやかな世界に焦がれ、縋るような思いで舞台に通い続けていた。その場所に自分が立っている姿を夢想しては、分不相応だと諌め続けていた。

 自らの考えを正当化するつもりはない。だが、自分は正しい選択をしたのだと、今ならばそう思うことができる。自分は来るべくしてこのイギリスにやって来たのだと、そう思う。

 兄の継希が失踪しても、地球は回るし、月日は巡る。時間だけは、誰にとっても平等に、時を刻み続けている。

 がらんどうとした薄暗いスタジオの真ん中で、舞台演出家の独り芝居をして見せたときの情景が、ふと希佐の脳裏に蘇った。アラン・ジンデルは腕を組んだ格好のまま、長テーブルに寄り掛かって、簾のような前髪の向こう側から、こちらを睨むように見ていた。

『……君さ』億劫そうに身を起こしたアランが、ゆっくりと歩み寄ってくる。目の前でぴたりと足を止めたかと思うと、前髪が触れるほど近くにまで、顔を寄せてきた。『今の今までいったいどこで何をしてたの?』

 きっと、この一言に尽きる。

『なんですぐに俺のところに来なかったの?』

 ここに至るまでの日々の中に、無駄な時間など一秒たりともなかった。

 だから、もし今、あの瞬間に戻れるとしたら、こう応えるだろう。

『あなたに出会うための準備をしていました』

 遅過ぎても、早過ぎても、駄目だった。

 きっと、あれが二人にとっての、完璧なタイミングだったのだ。

「この目がカメラのレンズだったらなぁ」物思いに耽る希佐を飽きもせずに見つめ続けていたゴダンが、残念そうに口を開いた。「僕はこういう肝心な瞬間をいつも逃してしまう」

「え?」

「人が何かを悟る瞬間の目の輝きは、女王陛下の胸元を飾る豪奢な宝石の輝きにも勝るものだ」ゴダンは、両手の親指と人差し指で長方形を作ると、その箱の中に希佐の姿を収めた。「僕が望んだ形とは違った姿に羽化してしまったね」

「今の私ではお気に召しませんか?」

「……」ゴダンは少し驚いたように目を丸くしてから、参ったというふうに笑みをこぼす。「確かに僕好みとは違っているけれど、どのような仕上がりになるかは君次第だよ」

 そう言ったゴダンは、カップに残っていた紅茶を飲み干すと、半ば挑発するような眼差しで、真っ直ぐに希佐を捕らえた。

「どう? 試してみる?」

「はい」

「とは言うものの、その格好では色気がないね」

 希佐は自分が着ているグレーのトレーナーを見下ろし、思わず苦笑いを浮かべてしまった。確かに、色気の欠片もない格好だ。しかし、ウィンダミアで購入してきた衣類はどれも似たり寄ったりで、写真を撮ってもらうのには適していない。

 さて、どうしたものかと希佐が考えていると、ゴダンは徐に立ち上がる。

「あの──」

「メイクは必要ないよ」希佐の言葉を遮り、そう言ってダイニングを出て行こうとしたゴダンは、思い出したように振り返った。「髪は解いて」

「あ、はい」

 希佐がバレッタで留めつけていただけの髪を解くと、ゴダンは満足そうに頷いてから、今度こそダイニングを出て行った。

 希佐は自らの髪を手櫛で梳きながら、未だ嗅ぎ慣れない薔薇の香りに鼻を寄せる。ロンドンから離れてまだほんの数日だというのに、自分から香るのはまるで別人の匂いだ。アランの匂いを懐かしく思うと同時に、その香りを忘れかけている事実に、少しだけ愕然としていた。

 出掛ける前に、アランが髪を乾かしてくれたことを思い出す。大きくて優しい手が、何度も何度も髪を梳く。時折、希佐の丸みを帯びた頭に唇を寄せて、キスをしてくれた。あまりにも心地良くて、うとうとしてしまったことを、今更ながらに後悔している。

「おっと」白い布を手に戻ってきたゴダンが、希佐の様子を見るなり声を上げた。「今何を考えていた?」

「なに、を?」

「アラン・ジンデルのことかな」

 言われて初めて、自分が無意識にアランのことを思い出していたことを自覚し、希佐はなぜだか少しだけ頬を赤らめた。

「君はやっぱり、彼の隣にいるときや、彼のことを考えているときだけ、おそろしく魅力的な表情を見せる」これを着てと渡されたのは、コットン生地のネグリジェだった。「ここがホテルだった頃の備品だよ。処分し忘れていたものだけど、新品だから安心して」

 手を差し伸べて受け取ったネグリジェが、希佐にクロエ・ルーを連想させる。だが、レースや薄く繊細な生地で作られたあのネグリジェのように透けてはいない。歩くたびにふわふわと舞っていた裾を思い出していると、リビングに機材を撮りに向かっていたゴダンが声を上げた。

「そちらのコンサバトリーで撮ろう」

「分かりました」

「準備をしておくから、着替えておいで」

「はい」

 渡されたネグリジェを抱えるようにして部屋に戻った希佐は、着ていた服を脱いでベッドに放ると、少し考えてから、身につけていた下着も同じように外した。ネグリジェは比較的シンプルなデザインだが、胸元が谷間近くまでざっくりと開いているので、下着をつけていると見た目にも美しくない。

 バスルームの鏡の前に立ち、自らの見栄えを確かめていた希佐は、そこに映る自分の姿を見て、ほんの微かな困惑を覚える。一瞬、そこにいるのが自分ではないかのような、そんな錯覚を覚えたのだ。

 頬を撫で、鼻先をなぞり、ルージュを引くように唇に触れる。

 大丈夫、これは私だ──だが、自分を自分たらしめている要因は、一体なんなのだろう。

 希佐が一階に降りていくと、応接室の奥に位置しているサンルームに、ゴダンの姿があった。元々置いてあったアンティーク調のカウチの周囲を、いくつものランプで飾り、辺りは薄ぼんやりとした明かりに照らされている。部屋を囲う窓には終始雨粒が打ちつけられ、水滴がガラスを流れ落ちていく様子が、幻想的に浮かび上がって見えた。

「着替えてきました」希佐が後ろからそう声を掛けると、カメラの位置を調整していたゴダンが、こちらを振り返った。「これで大丈夫でしょうか」

「上出来だよ」

「サイズが少し大きいみたいで」

「そのままで構わない」ゴダンはそう言ってから、サンルームの方を指した。「そこに座ってみてくれる? 光源の具合を確かめたいんだ」

「はい」

 膝丈よりも少し長いネグリジェの裾を翻し、希佐は素足のままそちらに向かう。言われるがままに腰を下ろし、ふと窓の外に目をやると、カウチの影にランプがいくつか並べられているのを見ることができた。

「ランプもホテルの備品だよ。前のオーナーが趣味で集めていたものでね、処分するつもりだと言うから、それも一緒に譲り受けたんだ」

「いろんなデザインのものがあるんですね」

 希佐は天井から下げられている、モザイク柄のランプを見上げながら言った。すると早速、カシャ、とシャッターを切る音が聞こえてくる。

「それは前のオーナーがトルコで買ってきたランプ」不思議なことに、ここ数日カメラのレンズを向けられ続けていたせいか、希佐は撮られることになんの抵抗も覚えなくなっていた。「綺麗な緑だろう?」

 ふふ、と笑うゴダンの様子を見るに、この美しいモザイク柄のランプは、故意に設置されたものなのだろう。

 緑色のガラスを散りばめられた丸いランプは、光を拡散させ、窓ガラスにもその色を反射させている。窓を伝う水滴の一粒一粒までもが、鮮やかな緑色に染まっている。その輝きは、アランが時々見せる、星を散りばめたようにキラキラと輝く目の光を思い起こさせた。

「あの」

「ん?」

「この後は……」

「ああ」ゴダンは三脚に設置したカメラとは別に、もう一台のカメラを首から提げていた。「特にポーズを決めたりする必要はないよ。画角に収まる範囲の中でなら自由にしてくれていい」

 この数日の間、ゴダンは戯れにカメラのレンズを向けてきては、気まぐれに写真を撮っていた。しかし、希佐が頭のどこかでカメラの存在を意識していると、いつも興を削がれたとでもいうふうに去っていく。

 希佐が何かに集中しているときや、物思いに耽っているとき、何もせずにぼんやりとしているときほど、カメラのシャッターを切る回数は多かった。

「僕が写真を撮る上で守ってほしいルールは三つ」ゴダンはカメラのファインダーから顔を上げ、順番に指を立てた。「一つ、カメラのレンズは見ないこと。二つ、自分を良く見せようとしないこと。三つ、カメラマン──この場合は僕だね、僕に媚びないこと」

「はい」

「要は、自然体でいて欲しいということだよ。いつもと違うことをしようとすると、必ず違和感が生まれる。自分をよく見せようとすれば、その心が透けて見える。そういう写真は、安っぽい仕上がりにしかならない」

「……難しいですね」

「自然体でいることがかい?」頷く希佐を見て、ゴダンは顎の辺りを掻きながら言った。「僕のアトリエで写真を撮らせて欲しいとお願いしたときも、そんな顔をしていたね」

「時々自分が分からなくなることがあるんです」

「うん」

「多分、考え過ぎてしまうからだと思うんですけれど」希佐がそう言って苦笑いを浮かべると、ゴダンはその先の言葉を促すように頭を傾けた。「本当の自分はどこにいるんだろうとか、自分を自分たらしめている要因はなんなのだろう、とか」

「君は随分と哲学的な物の考え方をする子だね」

「私の場合、人よりもアイデンティティの認識が乏しいんだと思います。最も多感な思春期の時期に、自分の性別を偽って、少年を演じ続けていたことが影響しているんだと思うんです。前に、レオのアトリエでアランに言われたことが、今になって身に染みています。君は時々、自分が女であることを忘れて、自らを少年と信じ、錯覚しながら過ごしていたことがあったはずだって」

 当時は、女であることが露見してしまったらという恐怖の感情と、少年を演じ終えたそのとき、女である自分に価値はあるのだろうかという漠然とした恐れが、希佐の頭の中を支配していた。

 稀代のアルジャンヌと持て囃された少年は、少女であることを偽りながら少年を演じ、その上からアルジャンヌというヴェールを纏っていた。ただの女が女を演じていたわけではない。だが、一体どれだけの人々が、その事実を評価してくれるだろう。

 女である立花希佐には何の価値もない。

 それが、当時の希佐自身が導き出した答えだったのかもしれない。

「君自身はどう思う?」

「もし自分が男性だったらと、そう考えることはあっても、男性になりたいと思ったことはありませんでした。でも、少年を演じていると、段々と演じているという感覚が薄れていって、自分を女だと認識しなくなった瞬間は確かにあったと思います。そういうときは決まって、少年を演じているという罪悪感から解き放たれて、胸がすくような、そんな気持ちがしていました。今になって考えてみると、それはただの現実逃避だったのだろうなと、そう思うのですが」

「だが、今の君を君たらしめているのは、そうした経験の数々なのではないのかな」ああ、この人はきっと、カメラのレンズ越しに相対した者の心を見透かすのだろうと、希佐は思った。「今の自分を自分たらしめる主な要因は、過去の選択の果てにある。君自身が考え抜き、選り分けてきた結果の集大成が、今の君だ。どこかで道を違えていれば、君はこの国にはたどり着かなかったかもしれないし、こうしている今も君の心の多くを占めているアラン・ジンデルとも出会うことはなかったかもしれない」

「私もそう思っていました」

「うん?」

「今までの人生は、アラン・ジンデルと出会うための、準備期間だったのではないかって」

 少し大袈裟すぎる言い方かもしれませんが──そう言って軽く顔を伏せる希佐の様子を、ゴダンは写真に収める。

「誰かと出会うためにっていうのは素敵な考えだと思うよ」希佐が顔を上げると同時に、ゴダンはシャッターを切った。「人はごく稀に奇跡のような出会いをすることがある。生涯忘れることのできない、一生に一度の出会いを経験できる者は幸運だ」

「レオにもそういう経験があるんですか?」

「僕の場合は一度では足りないかな。幸い人との出会いには恵まれていてね。まるで導かれるように、出会うべくして出会うことが多いみたいなんだ。アラン・ジンデルや──君だってそうだよ、キサ」

「私、ですか?」

 希佐がそう問い返しても、ゴダンはにこにこと機嫌良く笑うばかりで、何も答えようとしない。僅かにむっとした顔をすると、ゴダンがそれを逃すはずもなく、シャッターを切るカシャという音が、雨音の中で異質に響いた。

「アランは、君という人間に出会った頃から強く惹かれてたと話していたけれど、君はどうだったの?」

「レオはどうだったんですか?」質問には答えずにそう問い返すと、ゴダンは僅かに目を丸くした。「初めてアランに会ったとき、どう思いましたか」

「どう思ったか、ね」ゴダンは癖のように視線を横に逃してから、再び口を開いた。「アラン・ジンデルと初めて会ったとき、彼は今の君とそう変わらない年齢だった。一見して危うい子だなと思ったよ。生気がまるで感じられず、人生にも絶望しているように見えた」

 カウチの隣にあるテーブルのランプが消えたのを見ると、レオはこちらに向かって歩いてきた。希佐の傍に膝をつき、ポケットから取り出したライターの火を近づけて、再び炎を宿している。

「僕はメレディスの父親と懇意にしていたんだ。でも、当時はアメリカで仕事をしていたから、葬儀には出席することができなかった。だから、後日ヘスティアに顔を出したんだよ。メレディスから彼の最期を聞かせてもらおうと思ってね」それと、と続けながら、ゴダンは腰を上げた。「映画を撮りたいという漠然とした計画を形にできる脚本家を探していたから、彼に良い作家を紹介してもらうつもりだったんだ」

「それでアランを紹介されたんですか?」

「紹介とは少し違うかな」ゴダンはそう言いながら、希佐の隣に腰を下ろした。「メレディスからは、人助けをしてくれないかと頼まれた」

「人助け?」

「若いが才能豊かな青年がいる。大学の演劇サークルや、過去所属していた劇団でも脚本を書いていたことがあるから、もちろんノウハウは知っている。ただ、商業の経験は皆無で、実績もない。今は自宅に引きこもっていて、時々教会の手伝いをしているだけの、何者でもない男でも良ければ、喜んで紹介をすると」

「それは確かに人助けですね」希佐は思わず苦笑いを浮かべてしまう。「でも、それではレオの希望には沿わなかったのでは……」

「メレディスにそこまで言わせる男なら、是非とも会ってみようと思ったんだ。話をしてみたら、つかみどころのない朴訥とした青年という印象を受けたよ。それなのに妙に太々しくてね。あの頃は、ほら、前髪が長くて顔もよく見えなかった」

「はい」

「服装にも頓着がない。背中が丸まった猫背で、見るからにだらしのない様相だった。でも、不思議と手が綺麗でね」

「手、ですか?」

「手にはその人自身の人間性や性格だけではなく、隠された心理や本質なんかが表れるものだ。アラン・ジンデルの手は美しく、指の先まで洗練されているように見えた。だから、興味が湧いたんだよ。この子はなぜ本来の自分を押し隠し、風変わりな若者を演じているのか」

 希佐はゴダンの話を聞きながら、無意識に自分の手を見下ろしていた。

 アランの手は、この手を容易く包み込んでしまうほど大きい。希佐に触れる指先はいつだって優しく、繋いだ手はあたたかかった。

 キーボードを弾く指先や、メモを取る仕草に思わず目を留めてしまっていたのは、ゴダンの言う通り、その所作の美しさに見惚れていたからなのかもしれない。

「僕は試しに脚本を一本書いてほしいとお願いをした。期限は設けないし、テーマも自由。君の好きなことを、好きなように書いていいと言った。すると、アランは少しだけ考えてから、すぐに分かったと応じてくれたよ。さすがに、上がってきた本をそのまま映画の脚本として使用することになるとは、このときの僕は思ってもいなかったけれど」

「それが『斜陽の雲』ですか?」

「当時は、心底恐ろしいと思ったよ」ゴダンはどこか苦々しげな表情を浮かべながら言った。「二十を過ぎたばかりの若者が書けるような本ではなかったんだ。壮絶な人生を歩んできた老齢の男が、今際の際に自らの人生を振り返り、それを物語として書き起こしたかのような──そう、例えて言うなら、もう思い残すことは何もないと言わんばかりの、最高傑作だ」

『俺にはもう斜陽の雲以上の作品は書けない』

 脚本を称賛するゴダンの話を聞いていると、アランが先日吐露するように口にした言葉が、希佐の耳の奥に蘇ってきた。

『あれ以降の作品はすべて、あの作品の焼き増しでしかない』

 希佐も以前、アラン・ジンデルが書いた小説『斜陽の雲』を手に取ってみたことはあった。だが、どうしても最後まで読み進めることができず、今は栞を挟んだ状態のまま、部屋の本棚に仕舞い込まれている。

「……アランが、レオに映画の脚本を書いてほしいと頼まれたって」

「ああ」

「レオは、アランの気持ちを理解した上で、脚本を書いてほしいと頼んだのですか?」

「彼の気持ちというのは?」

「自分にはもう斜陽の雲以上の作品は書けないと、そう言っていました」

「そうだね」ゴダンはそう言いながら小さく頷く。「僕もそう言われたよ」

「それでも、ですか?」

「だからこそ、だよ」ゴダンは希佐の隣から立ち上がると、そのままこちらを見下ろしてきた。「ある日の真夜中、アランが電話を掛けてきてね。ウェストミンスター橋にいるから、今すぐに来てくれと言うんだ。どこか高揚した様子で、以前の話振りとは随分違っていたから、訳も聞かずにその場所へ向かった。僕は、そこで斜陽の雲の初稿を手渡されたんだよ。完成した原稿を印刷して、ダブルクリップで留めただけの、簡素なものだった。冬枯れの時期だったのに、彼は酷い薄着で、寒さに体を震わせていた。暖かい場所に行こうと言ったら、彼はこう言ったんだ。ここで最後まで読んでほしい。最後まで読んだら、結果を教えてください──僕は言われるがまま、その場で脚本を読み、その場で結果を伝えた」

「なんて……?」

「Parfait.」

 I want you to read to the end here. If you read to the end, let us know your results.──その言葉に、切実な響きを感じるのは、自分の気のせいだろうかと、希佐は思う。すると、その感情が表情に出ていたのか、ゴダンは小さく息を吐いたあと、言葉を続けた。

「採用だと告げても、アランはいい顔をしなかった。それどころか、どこかがっかりした様子でね。どうしたのかと訊ねたら、彼は平然とした顔で、また死に損なったと、そう言った」

「え?」

「アランはね、斜陽の雲を書き終えたら、そのまま川に飛び込んで死ぬつもりだったと言ったんだ。これを書いている間中、つらくて堪らなかった、どうしようもなく死にたくなったけど、なんとか最後まで書き終えた。もしこれがあなたに酷評されたら、自分にはこの道の才能はないと諦めがつくだろうから、そのまま世を儚んで川に飛び込もうと思っていたとね。でも、あなたに認められてしまったら、この世にはまだ生きる価値があると錯覚してしまう、死ぬに死ねない──そう言って、泣きそうな顔をしていた」

 その話を聞きながら、希佐は妙な既視感に襲われていた。いや、既視感などではない。希佐は、今度の舞台の脚本を書いているアランの口から、直接聞いていたはずだ。

『しんどいんだ、ずっと。誰かに心臓を握られているみたいで、息が苦しい』

 あの脚本を書いている間中、アランはずっと心ここに在らずというふうな様子で、つらそうにしていたことを覚えている。それなのに、自分は脚本の内容に強く興味を惹かれるばかりで、アランがどのような思いでその脚本を認めているのかを、深く考えようとはしていなかった。

「僕は舞台に立っていた彼を知らない。でも、幼い頃から舞台人として生きてきたアラン・ジンデルという人間は、舞台を降りた自分に価値を見出すことができなかったのだと思うんだ。彼は自分の意志で舞台を降りたと話していたけれど、その後の人生について何か計画をしていたかといえば、そうではない。舞台しか知らなかった人間が、右も左も分からない世界に放り出されれば、一人で生きていくことは難しかっただろうと思うよ。その証拠に、彼は僕と出会うまで家の中に引きこもっていて、外出するのは教会か図書館に行くときだけ。度々ヘスティアには顔を出していたそうだけど、強い酒ばかりを浴びるように飲んでいたから、出入り禁止にされたらしい」

 メレディスからヘスティアへの出入り禁止を言い渡されるアランの姿を想像し、かろうじて笑顔を浮かべた希佐を見て、ゴダンは少しだけ安堵したような面持ちを見せた。

「夕刻、赤く燃えるような太陽の光を浴びて、ほんの一瞬だけ黄金色に縁取られる雲を、アラン・ジンデルは斜陽の雲と名付けた。斜陽は衰亡を連想させる言葉だけど、彼は斜陽に染まる雲に希望を見出し、物語を閉じている。僕はこの斜陽の雲をどうしても撮ってみたいと思ったんだ。物語が幕を閉じるその最後の瞬間のために、丹念に映画を作っていった。アラン・ジンデルの覚悟に報いるためには、ありとあらゆる賞を総なめにするつもりで挑んだよ。僕は何より、この若者に、世界にはまだ生きる価値があると思ってほしかったんだ」

 希佐はますます、斜陽の雲という作品に触れることを、恐ろしく感じるようになるだろうと、そう思った。命懸けで物語を紡いだ脚本家と、その覚悟に報いるために有言実行をしてみせた映画監督の作品を、生半可な気持ちで見てはいけないと思う。

「確かに、斜陽の雲はアラン・ジンデルの最高傑作と称されている。それを書き上げた当人だけでなく、数多の評論家たちが、彼はあれ以上の作品を書くことはできないだろうと嘯いているよ。でも、僕はそうは思わない。今のアラン・ジンデルになら、斜陽の雲以上の作品を書けるだろうと思ったから、声を掛けたんだ。斜陽はいずれ旭日を迎える。僕はそう信じているんだよ」

 希佐は二の句が継げなくなって、自らの視界を窓の外に逃した。

 雨は相変わらず降り続いている。轟々とした音を立てて風が吹き荒れ、裏庭に生えている木が、今の希佐の心と同じようにぐらぐらと揺れていた。それなのに、この室内はあまりに密やかで、狭苦しい箱の中に閉じ込められているような、そんな気持ちになる。

 アラン・ジンデルという人間について知れば知るほど、知らないことの方が多いという現実を突きつけられるのだ。あの夜、お互いを知りたいと思い、再び共に歩きはじめようと誓い合った夜から、まだ日は浅い。

 まだ間に合うだろうかと、希佐は思う。

 斜陽が旭日を迎えるその日まで、共に歩き続けることはできるだろうか。

 希佐は、窓ガラスに映り込んでいる緑色のランプを、ぼんやりと見上げた。それはまるで、ぽっかりと宙に浮かぶ月のように、ただそこに佇んでいる。手を伸ばして触れてみようとするが、窓ガラスに映り込んだそれは、ただの虚像にすぎない。

 はあ、と息を吐ききったその刹那、何とか引っ掛かっていただけの、薄いネグリジェの生地が、肩からするりと滑り落ちた。顕になった丸い肩を顧みず、希佐は焦がれるような目で、窓ガラスに映り込んだ虚像を見やる。

 今はただ、ただ無性に、アラン・ジンデルに会いたいと、そう思っていた。

 

 

 

 

 

「やっぱりここにも現像室が欲しいなぁ」

 昨夜、写真を撮り終えたところで、ネグリジェを頭から被っていた希佐の隣では、レオナール・ゴダンがそのように呟いていた。普段はスマートフォンのカメラやデジタルカメラを多用しているゴダンだったが、希佐を撮影していたのはフィルムカメラだ。

 希佐が、何か強いこだわりがあるのですかと問うと、ゴダンは慣れた手付きでフィルムを取り替えながら言った。

「デジタルも好きだよ。何百枚、何千枚と撮影したものの中から、最高の一枚を見つけるのも楽しい。でも、僕にとっては写真を現像するという行為が、何物にも代え難い喜びなんだ。自分の想像を遥かに超える良いものが撮れていることもあれば、思っていたほど良い出来ではないものが撮れていたりすることもあるが、それはそれで面白い。たった一度きりのシャッターチャンスを生かすも殺すも写真家自身の裁量次第。ある種ギャンブルのようなものかもしれないね。僕は堅実ではないんだ、きっと」

 これの現像はロンドンに戻ってからの楽しみに取っておくよ、とゴダンは言った。撮影が終わったとき、カメラを設置していた三脚の足元には、小さな筒状のフィルムケースが、いくつも並べられていた。

 翌朝、三階の部屋のベッドで眠っていると、希佐はドアをノックする音で目を覚ました。外はまだ暗い。ベッドからのろのろと起き上がり、目をしぱしぱとさせながら、昨夜のネグリジェ姿のままドアを開けに向かうと、廊下には既に着替えを済ませているゴダンが立っていた。

「おはよう」

「おはようございます、レオ」

「今日は快晴無風、雲一つない良い天気だよ。絶好の撮影日和だ」ゴダンの声は明るく、上機嫌だということがすぐに分かる。「今からグラスミア湖に朝日を撮りに行くけど、君も一緒にどうかと思って」

「朝日……」ぼんやりとしていた希佐は、その言葉で目を覚ました。「すぐに支度をします」

 希佐が目を擦りながら言うのを見て、ゴダンは微笑ましそうに笑った。

 大急ぎで身支度を整えた希佐は、グラスミアのアウトドアショップで購入したスニーカーを履き、ウインドブレーカーを羽織ると、髪を手櫛で整えながら階段を駆け降りていった。長い髪をくるりとまとめ、バレッタできゅっと一つに結い上げる。

「すみません、お待たせしてしまって」

「さほど待ってはいないし、まだ時間的にも余裕があるから大丈夫だよ」カメラや必要な機材などをバッグに詰め、それを背負いながらゴダンが言う。「外で撮影班を待たせているから、行こうか」

「はい」

 ゴダンが連れてきていた映画の撮影スタッフと、こうして正面から向き合うのは初めてのことだ。時々、ゴダンの様子を見にやって来たスタッフと軽く言葉を交わすことはあったが、名前を名乗り合うようなことはなかった。

 しかし、向こうはこちらのことを良く知っているらしく、よろしくお願いしますと言う希佐に向かって不審がる様子もなく、にこにこと親しげに対応してくれる。

「お手伝いします」重たそうな荷物を運んでいる若い女性がいるのを見て、希佐は咄嗟に駆け寄った。「何か私に任せられる荷物はありますか?」

「え?」

「どれも大切な機材ばかりだと思うので、なかなか任せづらいとは思うのですが──」

「あっ、いえ、機材とかではないんですけど」ずるりと下がったメガネを直しながら、その女性はどこか困ったように笑った。「これ、湖に到着したらみんなで食べる朝食なんです。ホテルの人にお願いして、朝食を包んでもらったんですけど、これが重いのなんの」

「よかった、それなら私にも運べますね」

 大きな四角い保冷用のバックパックを背負い、もう一方を体の前に抱えようとしていた女性の手から、希佐はバックパックを引き受けた。それは確かにずっしりと重たい。小柄な女性がこれを体の前後に抱え、グラスミア湖までの数キロを歩くのは、とても大変な仕事だろう。

「そ、それ、重たいですよ? 本当にいいんですか?」

「これでも毎日鍛えているので」希佐はバックパックを難なく背負うと、力こぶを作るような仕草をして見せた。「他にもお手伝いできることがあったら、なんでも言ってくださいね」

 ぞろぞろと連なるようにして進む撮影班の先頭では、頻繁にゴダンの様子を見に屋敷までやって来ていた男性が、ヘッドライトで道を照らしながら歩みを進めている。希佐と一緒にバックパックを背負っていた女性が、彼が助監督ですよ、と教えてくれた。

「斜陽の雲からレオに付いている人です」

「そうなんですね」

「キサさんは──」同年代の相手にMs.Kisaと呼ばれ、希佐は初めて、Mr.と呼ばれることを嫌ったアランの気持ちが分かったような気がした。「あのアラン・ジンデルの劇団に所属されているんですよね?」

「はい」

「凄いなぁ」感嘆するような声でそう言ってから、その女性はハッとした顔をする。「あっ、わたし、少し前までは役者志望だったんです。演劇学校にも通っていたんですけど、学校ではずーっと落ちこぼれで、オーディションを受けても全然ダメで」

 女性はバックパックの肩紐を少しだけずらしながら、ふう、と呼吸を整えるように息を吐いた。

「そんなときに、斜陽の雲を観たんですよ。自分とそう変わらない年齢の人が脚本を書いた映画だってことは知っていたんですけど、実際に観たことはなかったんです。なんていうのかな、妬みとは違うんですけど、なんとなく悔しい気持ちがして。絶対に凄い作品だってことは分かるんですけど、それを観てしまったら、途轍もない敗北感を味わって、その場から動き出せなくなってしまうんじゃないかって、そんな不安がずっとあって」

 ああ、その気持ちは良く分かる──希佐はそう思いながら、女性の話に耳を傾けていた。

「でも、意を決して観ることにしたんです」女性はキリッとした表情を一変させ、へにゃりと笑う。「結果、惨敗でした」

「惨敗?」

「演劇学校に通っている頃にも、天才と呼ばれる人たちを見て来ました。実際、脚本家志望で将来有望だなんて言われている人もいて、そういう人たちのことを凄いなぁって遠巻きに見ていたんですけど、思わず笑っちゃった。だって、次元が違いすぎるんですもん」女性はそう言うと、僅かに苦笑いを浮かべる。「台詞の一つ一つに意味があるんだって、無駄な台詞は何一つないんだって、そう思わされました。役者が息を呑むタイミングすら完璧にコントロールされている、そんな印象を覚えて。でも、役者がそれを強要されているようには見えなくて、自然とそう演じてしまうんだろうなとか、脚本家の意図を監督が余すことなく汲み取って演出に生かしているんだろうなとか、そんな生意気なことを考えながら観ていました。まあ、最後にはそんなことを考える余裕もなくなって、気がついたら大号泣しながらエンドロールを追いかけていたんですけど」

 えへへ、と女性は笑う。表情の豊かな人だなと思いながら、希佐はその横顔を眺めていた。間違いなく役者向きの人間だ。

「どのくらいかな、一週間か二週間か、とにかく半月くらいは放心状態のまま暮らしていました。だけど、このままじゃダメだと思って、メールを書いたんです。アラン・ジンデル宛に」それを聞いて目を丸くする希佐を見て、女性は更に笑みを深めた。「返事は期待していませんでした。それでも、自分の心を整理するために、ダメ元で送ってみたんです。きっと気持ち悪がられて、そのままゴミ箱行きだろうなって思ってたんですけど──」

 希佐は知っていた。アランは自分のアドレスに届いたメールには、すべて目を通している。公にはしていないが、所謂ファンレターが事務所のメールボックスに届くと、きちんと最後まで目を通してから、一つずつ丁寧にリプライを送っていた。

「でも、お返事が来たんですよ! しかも、わたしがメールを送った翌日に!」そう言う女性の表情が、酷く幸せそうに見える。「本当にびっくりしました。もしかしたら事務所の誰かが、アラン・ジンデルの代わりに返事を書いていたのかもしれませんけど、わたしはあれが本人から送られてきたものだって思ってます。だって、そう思うのはわたしの自由でしょう?」

「そうですね」

「もうそれでわたし、すっかりアラン・ジンデルのファンになってしまって。彼が脚本を手掛けた映画を片っ端から観ました。でも、斜陽の雲を観たときほどの感動は得られなくて。生意気ですけど、物足りないなって、そう思ってしまったんです」本当に、何様だって感じですよね、と女性は言う。「それで、今度はレオナール・ゴダン宛に手紙を書きました。手紙というか、レポートかな」

「レポート、ですか?」

「アラン・ジンデルが脚本を手掛けた他の映画作品と、斜陽の雲がどう違うのかをまとめ上げて、それを冊子にしてアメリカの事務所に送りました。でも、斜陽の雲の前例があるので、もしかしたら自分もアラン・ジンデルに続けるんじゃないかって勘違いをした人たちから、毎日のように脚本が送られてくるっていうんですよ。わたしの分厚い封書も、その中の一つだろうと思われたみたいで、開封することもなく雑用係が処分しようとしていたって」

「そのレポートは読んでいただけたんですか?」

「結果的には。助監督が拾い上げてくれたみたいで。なんでも、あまりに分厚い封書で異様なオーラを醸し出していたし、差出人を見てみたら、わたしの名前に見覚えがあったからって言っていました。あの助監督はわたしが通っていた学校の卒業生で、イギリスに帰ってくると、個人的に演技指導のワークショップを開いてくれるんですよ。これがいつも大人気で、毎回抽選で参加者を決めるんですけど、わたし、本当に運だけは良くて、そのワークショップの抽選に外れたことがなかったんです」

 ふう、ふう、と微かに呼吸を乱しながら、女性は更に続けた。

「それを読んだレオが、面白がってすぐに連絡をくれたんですよ。渡航費や滞在費の心配はいらないから、一度アメリカの事務所まで遊びにおいでって言ってくれたんです。当時のわたしは、命運を賭けたオーディションに落ちて自暴自棄になっていたので、そのまま飛行機に飛び乗って、事務所の門戸を叩きました。そうしたら、助監督に心底呆れ果てたという顔をされて、君は社交辞令という言葉を知っているかって言われちゃいました」

「行動力がおありなんですね」

 希佐が感心した様子でそう言うと、女性は誇らしげに笑う。

「それがわたしの唯一の取り柄です。とにかく、思い立ったら即行動に移して、挑戦してみる。もちろん失敗は怖いですけど、後になって後悔したくないじゃないですか。当たって砕けるのは得意なんですよね。結果的に、その行動力が気に入られて、今はレオの事務所で働かせてもらっています。助監督からは役者も続けるようにって言われていて、今でも時々舞台には立っているんですけど」

「ブロードウェイですか?」

「頭にオフ・オフが付くんですが」女性はそう言ってから、再びハッとした顔をした。「すみません、わたしったらお喋りが過ぎましたよね。助監督からいつも注意されるんです。頼む、五分でいいから黙っていてくれって」

「いいえ、素敵なお話を聞かせてくださって、ありがとうございます」

 徐々に空が白んできた頃、レオナール・ゴダンと撮影班、そして希佐はグラスミア湖の畔に到着した。昨夜の雨で、道は多少水溜まりにはなっていたが、特に急がずとも通常のコース時間通りに到着することができた。

「お疲れさま」希佐が背負っていたバックパックを慎重に下ろしていると、ヘッドライトをつけた男性が声を掛けてきた。「彼女の荷物運びを手伝ってくれてありがとう」

「他にも何かお手伝いできることはありますか?」

「あとは機材をセッティングするだけだから、お願いできることは特にないかな。映像に映り込まないようにさえしてくれれば、撤収まで自由にしていて構わないよ」

 失礼と言って、助監督だと教えられた男性は、他のスタッフと話をしているゴダンのところへと歩いていく。希佐は女性が敷いたビニールシートの上にバックパックを置くと、他の撮影班の邪魔にならないように、少し離れた場所に移動した。

 昨夜の雨が空気中に漂う塵や埃を一掃してくれたのか、空気が酷く澄んでいる。湖には僅かな濁りが残っているものの、風がないので漣すら立っておらず、まるで水鏡のようだ。まだ微かに雨の匂いが漂い、湿気の中に濡れた土や青々しい苔の香りが含まれているのを感じる。

 時間を掛けて吸い込んだ息をゆっくりと口から吐き出すと、綿のような白が一瞬だけ視界を遮った。体が火照っているので心地良さを覚えるが、辺りの空気はひんやりと冷たい。

「キサ」

 徐々に明るくなっていく東の空を眺めていると、不意に名前を呼ばれ、希佐はそちらに顔を向けた。すると、こちらに向かって歩いてきたゴダンが、その手に持ったベンチコートを差し出してくる。

「これを着て」

「いえ、私は──」

「今は大丈夫でも、じっとしていると体が冷えてくるよ」ゴダンは有無を言わせず、希佐の肩にそのベンチコートを羽織らせた。「君に風邪を引かせたなんてことになったら、迎えに来たアランに僕が叱られてしまう」

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

 普段はここまで走ってきて、景色を少しだけ堪能したら、また走って村まで帰る。この待機時間を想定していなかった希佐の落ち度を、ゴダンが指摘することはなかった。言い訳をするのも野暮だと思った希佐は、口を噤んだまま、再び東の空に目を向ける。

「もうすぐ日が昇る」

「はい」

「旭日だよ」

 そう言って希佐に向かってにっこりと微笑み掛けてから、ゴダンはカメラのところまで戻っていった。

 肩に掛けられたベンチコートの袖に腕を通しながら、希佐は東の丘の向こう側から太陽が顔を覗かせるのを、今か今かと待ち構えている。

「そうだ」小さくそう呟きながら、ポケットからスマートフォンを取り出した。「アランにも見せてあげたいな」

 画像よりも、動画を撮って送った方が、一緒に見ている感覚を味わえるのかもしれない。そう思った希佐は、今まさに日が昇ってこようとしている東の空にスマートフォンのレンズを向け、録画を開始させた。

 春の訪れを知らせるように、少しずつ緑に染まりはじめている丘の上が、黄金色に発光する。その数秒後、溶けた鉄のようなやわらかさを感じさせる鋭い光が、じり、と地上を焦がした。逆光を捉えたスマートフォンのレンズが、画面に光の線を走らせる。

 スマートフォンの画面から顔を上げた希佐は、思わず声を上げそうになった口を噤み、唇を引き結んだ。眩しい光に目を細める。この体が太陽の光に晒されると、冷えた体の表面にじんわりとした暖かさを覚え、安堵の息を漏らしてしまいそうになった。

 ゴダンをはじめ、撮影班のスタッフたちは自らの持ち場につき、息を潜めている。大きなマイクロフォンを掲げた助監督は、装着したヘッドフォンで周囲の音を拾っていた。どくん、どくん、という、この心臓の鼓動すら聞こえているのではないかと、思わず心配になってしまうほど、辺りは静寂に包まれていた。

 ちり、ちり、と太陽光に肌が焼ける。細めた目の視界に映り込む睫毛が、光を帯びてキラキラと輝いているのが分かった。

 寸前までは風の音すら聞こえなかった周囲からは、陽の光が地上を照らし出すと同時に、小鳥の囀りが聞こえはじめる。ちゅり、ちゅり、というかわいらしい声を上げながら湖の縁に降り立つと、翼を大きく広げて水浴びをしてから、太陽に向かって飛び立っていった。

 まるで謀ったように風が吹く。

 木々が揺れ、葉がさわさわと音を立てる。

 湖面に漣が駆け抜けていく。

 レオナール・ゴダンは、湖水地方には景色を撮りに来ただけだと、そう言っていた。役者は一人も連れて来ていないと。だが、ゴダンが撮りたがっていた映像は、この世で最も美しく、そして撮影することの難しい、地球という演者が見せてくれる、刹那的な一幕だったのだろうと、そう思う。

「もう少し気温が低ければ蒸気霧が出たんだろうけど」ゴダンがカットを掛けると、撮影班のスタッフたちは揃って大きく息を吐き出していた。「前回とは違った絵が取れて良かったね」

「美しかったです」

「来てよかっただろう?」

「はい」

 ゴダンと助監督が話している声に耳を傾けながら、希佐はたった今スマートフォンで撮影した映像をアランに送った。

 もう間もなく七時を迎える時間帯なので、既に目を覚ましているはずだ。Beautiful things──そう添えたメールを送信し終えると、ゴダンがカメラを片付けながら声を掛けてきた。

「どうだった?」

「とても幻想的でした」希佐がそう答えると、ゴダンは片付けの手を止め、こちらに顔を向けてくる。「連れて来てくださってありがとうございます」

「喜んでもらえてよかったよ」

 手伝えることはまだなさそうだと思った希佐は、先ほどまでゴダンが三脚を立てていた辺りに足を止め、その場所からグラスミア湖を見渡してみた。両手の親指と人差し指で作った長方形の箱を顔の前に掲げ、そこからの景色を眺めてみる。

 希佐が立っていたところから、ほんの数メートルしか離れていないというのに、そこから見る湖はまるで別世界のように感じられた。視界を遮るものが何もなく、対岸には城のような建物があって、まるで御伽の国にでも迷い込んでしまったかのような錯覚を覚えた。

 きっと、この景色は何百年も前から、何一つ変わっていないのだろう。

 希佐がそのように思いながら、目に見える情景を脳裏に焼き付けていると、今度は背後から声を掛けられた。振り返ると、そこには両手にスープを持った助監督が立っている。

「君が運んできてくれたスープをどうぞ。体が温まるよ」

「ありがとうございます」紙の器に入れられたポトフと、先が三叉に分かれているスプーンを受け取った希佐は、立ち上る湯気に鼻を寄せた。「いい匂い」

「サンドイッチもあるけど、食べる?」

「いえ、私はこれだけで」

「隣で食べても構わない?」

「はい、もちろん」

「ありがとう」

 先日、君がグラスミアに来てから、レオがパブに通うことがなくなったと言って、感謝されたことがあった。アランやイズリントンにあるキングズ・ヘッド・パブの店員に、レオには酒を三杯以上飲ませるなと釘を刺して回っていたのは、どうやらこの助監督だったらしい。

「彼女からアランについて根掘り葉掘り聞かれなかった?」

「いえ」他のスタッフたちと和やかに話している女性の方を一瞥してから、希佐は首を横に振った。「アラン・ジンデルと斜陽の雲について熱く語ってくださいました。レポートのお話とか」

「ああ、あの狂気のレポートのこと?」助監督は堪らないという顔をして、吹き出すように笑う。「あのレポートは本当に恐ろしかったなぁ。熱量が半端じゃなくて。送ってきたのが知ってる子じゃなかったら、事務所の暖炉に焚べて燃やしていたんじゃないかな」

「それだけ作品を愛していらっしゃるんだと思います」

「彼女に限らず、あの作品は特にマニアックなファンが多いから、未だに新解釈やら考察やらでその手の界隈は盛り上がっているらしいよ。続編を求める声も多いんだけど、監督と脚本家にそのつもりはないみたいだし、逆に興醒めでしょ、あれの続編なんて」

「私、斜陽の雲はまだ観たことがないんです」

「……へ?」

「小説は途中まで読んだのですが」隣で目を丸くしている助監督を上目遣いに見てから、希佐はポトフのスープを少しだけ飲んだ。「そういえば、助監督さんは斜陽の雲の頃からレオに付いているとお聞きしました」

「あ、ああ、うん、そう」

「まだお若くいらっしゃいますよね?」

「自分は今、三十五。斜陽の雲は助監督としての初仕事だったんだ」

「そうだったんですね」

「元々は舞台演出家志望だったんだけど、演出家なんてどこもかしこも飽和状態でさ。劇団を立ち上げるにしても勉強不足を実感していたし、見聞を広めるために映画界に飛び込んだら、こっちはこっちで面白いってことに気づいたんだ。もちろん、最初は下っ端からだったけど。何年かボロ雑巾みたいになるまで揉みに揉まれた結果、何でも一人で出来るようになって、今じゃ助監督が天職みたいになってる。レオが映画を撮っていないときは、他所の現場で稼がせてもらってるよ。斜陽の雲の助監でしたって言うと、結構スルッと雇ってもらえるんだよな」

 ネームバリューが半端ない──助監督はそう言うと、ポトフの具をもぐもぐと食べはじめる。希佐もそれに倣って、ごろりと大きなじゃがいもをスプーンの先で半分に割ると、頬張るようにして口に入れた。

「しかし、あの作品を観てないのか」スープをずずずと啜り、飲み込んでから、助監督が独り言を漏らすように言った。「アラン・ジンデルの名刺みたいな作品じゃない、あの映画はさ」

「はい」

「よくここまで観ないでこられたな、と自分みたいな人間は思ってしまうわけなんだけど」

「そうですね、本当に」希佐は尤もだという顔をして、助監督の言葉を肯定する。「でも、私が出会ったのは斜陽の雲の脚本家であるアラン・ジンデルではなくて、劇団カオスの主宰であるアラン・ジンデルだったので、まず入り口から違っていたのだと思います」

 そもそも、アランは自分が脚本を手掛けた映画の話を、希佐に対してすることはない。積極的に観てほしいとも思ってはいないだろう。映画の脚本は所詮金儲けの手段だと明言している上に、すべては斜陽の雲の焼き増しでしかないのだと、本人がそう考えていることを希佐は知っている。

「観ようと思えば、いつでも観られたんです。彼の部屋の本棚の中には、円盤が全部揃っていて、手掛けた書籍もすべて綺麗に並べられています。好きに観ていいとも言われていました」

「それでも君は観なかった」

「怖かったんです」

「怖い?」

「もし興味を持てなかったらどうしようって」そう言いながら、希佐は苦笑いを浮かべる。「それと同時に、のめり込みすぎてしまったらどうしようっていう不安もありました。思考が両極端ですけれど、だったら観ないままでいた方が、心の平穏は保たれるだろうなって」

「もし俺がアラン・ジンデルだったら、俺のことに興味ないのかなって考えるだろうけど、あいつはそんなやつじゃないもんな」

「アランとは今も連絡を?」

「いや、俺は全然」助監督はそう言って首を横に振る。「今はそんなこと微塵も思ってないんだけど、若気の至りだったのか、妙に敵視というか、勝手な対抗心を燃やしててさ」

「対抗心?」

「同年代だろ、俺ら。なんならあいつの方が年下だ」

「はい」

「ジャスト・ロビンでの活躍は知っていたし、あいつが大学の演劇サークルで脚本と演出を手掛けた作品が、仲間内で話題になることもあってな。神様は不公平だなって思ったりもしたもんだよ。舞台や映像関係の仕事をしてる連中っていうのは、成功したいだとか、有名になりたいだとか、そんなことばっかり考えてる。特に若いうちはな。でも、あいつからはそんな欲が一切感じられなくて、こんなやつが本当にあの脚本を書いたのかって、疑問に思うくらいだった」

 確かに、アランから欲らしい欲を感じることは少ない。時折信じられないほどの強い我を通すことはあっても、普段は至って平坦だ。良く言えば誰に対しても穏やか、悪く言えば大抵のことには無関心だった。

 例えば、ヘスティアでファンから声を掛けられれば、その場でちょっとした会話を交わしはするが、それに対して感謝や有り難みを覚えることはないのだろう。顔や名前、そのときに交わした会話を記憶している分、たちが悪い。相手はまるで、あのアラン・ジンデルが自分を記憶し、興味を持ってくれていると錯覚してしまうからだ。中には実際に興味を持たれる者もいるが、そうしたことはごく稀にしか起こらない。

「でも、自分が歳を取って、改めてあの作品のことを考えてみたときに、ようやく当時のレオが言っていた言葉の意味を理解できた気がしたんだ」

 助監督は希佐のことをちらりと横目に見てから、随分高くまで昇った太陽の光を反射させ、キラキラと輝いている湖の先に目を向けた。

「残酷なだけの作品は誰にだって書ける。でも、救いようのない絶望の只中から、ただどうしようもなく幸せを渇望してしまう心情や、手に入りかけた幸福が指の間から滑り落ちていく感覚や、そんな日々の中でも不意に感じられるほんの些細な喜び──あの物語が評価されているのは、主人公自身が、映画を観ている一人一人の心に寄り添えるからなんだろうなって、今なら分かるんだ」

 ふう、と助監督は大きく息を吐き出してから、再び口を開いた。

「あの物語の主人公はさ、アラン・ジンデルなんだよ」

「え?」

「本当は、レオも主人公役にアラン・ジンデルを起用したがってた。でも、それはあいつの心を壊すことになるって分かっていたから、断念したんだ」湖面を眺めている助監督の目が、すうっと細められる。「そうありたかった自分と、そうなれなかった自分。幸せになりたいのに、幸せという感覚が分からないなんて、なんとも歯痒いし、考えるだけで胸が締め付けられるよ」

 帰り道、希佐は精密機械以外の備品を背負いながら、撮影班の列の一番後ろを、一人で静かに歩いていた。良い絵が撮れた達成感で気分が高揚しているのか、行きの道では些か口数が少なかったスタッフたちも、わいわいと楽しげに話をしている。

 ずっと遠ざけてきた。見て見ぬ振りをし続けてきた。まだそのときではないと自分に言い訳をして、目にすることを避けてきた。

 アラン・ジンデルの人となりを知れば知るほど、どんどん深みに嵌っていく。ぬかるみにはまって身動きが取れなくなるような感覚に襲われる。強く惹かれているのに、心のどこかでは、その事実を拒絶したがっている自分がいる。これ以上近づけば、もう後戻りができなくなるような、そんな気がしていたのだ。

 舞台上での死を望んでいる。

 アラン・ジンデルの才能に心臓を貫かれて。

 だが、それは自分自身を見失うほど盲目的に、その才能に染まりたいという意味ではない。

 立花希佐は常に求められながら、ここまでの道のりを歩いてきた。人に求められている形と、自分自身が模索して得た形とを重ね合わせて、舞台に立ち続けてきた。隣に立つ誰かと、互いを引き立て合い、支え合いながら、最高の形を探し続けてきた。

 希佐はアラン・ジンデルの色に染まりたいのではない。調和を望んでいるのだ。しかし、今のままでは、どちらの才能も焦げた色の中に溶け込んで、望んだ色に仕上がることはないのだろう。

「キサ」

 ゆっくりとした足取りで、景色を眺めているふうを装いながら物思いに耽っていると、先頭を歩いていたはずのゴダンが声を掛けてきた。どうやら、足を止めて希佐が追いついてくるのを待ってくれていたらしい。他のスタッフたちは先に行ってしまったようだ。

「考え事かな」

「……はい」希佐が追いつくと、ゴダンは再び歩き出した。「昨夜からずっと斜陽の雲について考えていたんです。そうしたら、それが他の方々にも伝染してしまったみたいで」

「みんな揃ってアカシックレコードから電波を受信してしまったのかもしれないね」

「アーカーシャですか?」

「おや、知っているのかい?」

「ユニヴェールの先輩が熱弁されていたことがあったので」ふうん、と相槌を打ちながら、ゴダンはにこにこと笑っている。「ご機嫌ですね」

「良い仕事をした後は自然と顔の筋肉が緩むんだ」

「貴重な経験をさせていただきました」

「旭日を迎えるためのヒントは得られた?」

「……三年も一緒に暮らしてきたのに、私はアラン・ジンデルのことを何も知らないんだって、改めて思い知らされました」

「でも、君は他の人が知る由もない彼の素顔を、誰よりも良く知っているはずだよ」ゴダンは事実を告げるように淡々とした口振りで言う。「君ほど彼に心を許された人はいないだろう」

「たとえそうだったとしても、私が知っているアラン・ジンデルは、彼の一側面に過ぎません」

「君は強欲だね、キサ」そう口にしながら、ゴダンはどこか皮肉っぽく笑った。「いずれ彼の前からも姿を消そうとしているのに、アラン・ジンデルのすべてを手に入れたいの?」

 希佐はその物言いに妙な引っ掛かりを覚えるが、まるで靄が掛かっているかのように、質問の向こう側にある意図を掴むことができなかった。

「いずれにせよ、君は自分が決めたことは最後までまっとうする子だ。昨夜はそれを僕に証明してみせてくれた。だから、アラン・ジンデルに手を差し伸べた以上は、それを成し遂げるための努力を惜しまないのだろうし、結果的には最良の結末に導いてくれると、僕は信じているよ」

 その言葉が脅し文句のように希佐の細い肩にのし掛かってくる。

 そうだ、挑発してみせたのも、手を差し伸べたのも、他ならぬ自分自身なのだと、希佐は思う。この道の先にある結末が、最良のものになるかどうかは、まだ分からない。

『アランのこと、もっと知りたい』

 そう吐露した言葉に、嘘や偽りはないのだ。

『俺も』だから、あの言葉にも嘘はないと、そう信じたい。『君を知りたい』

 知りたい。いや、知る必要がある。アラン・ジンデルのすべてを理解するつもりで掛からなければ、また同じことを繰り返すだけだ。もう不毛な追い掛けっこをするだけの時間は残されていない。

 茜色の夕日は間もなく濃紺に飲み込まれるが、優しい茜色の朝が訪れるまでは、夜空に浮かぶ満月のように、銀色の光で地上を照らすから。

 斜陽はいずれ、旭日に。

 手を伸ばしたその先に、この世界の禁忌はある。

 

 

 

 

 

「──ん? おっ、ようやくお目覚めか?」

 木曜日の朝、アラン・ジンデルはスタジオに吊られたハンモックの上で目を覚ました。昨夜、このハンモックに横たわって希佐と電話越しに話をしていたはずだが、通話を切ったあとの記憶がない。どうやら、そのまま気絶をするように、意識を手放していたようだ。

 事務室から毛布を引き摺ってきて正解だったと思いながら、アランがむっくりと起き上がると、ヨガマットの上でストレッチをしていたバージルがこちらに目を向ける。その向こう側には、バーレッスンをしているイライアスの姿が見えた。

「お前、そんなところで一晩中寝てたのか?」頭を掻きながら頷くアランを見て、バージルが呆れた顔をする。「風邪引いてもしらねぇからな」

「今何時」

「九時」

「歌のレッスンは?」

「ジョシュアの都合で休みです」イライアスはバーレッスンを続けながら答える。「歌唱について何か分からないことがあったら、アランに聞くようにって」

「そう」

 大欠伸をしながらハンモックから降り立ったアランは、眠い目を擦りながら、掛けていた毛布をずるずると引き摺って歩く。その様子を目で追いかけていたバージルは、はあ、と大きくため息を吐いた。

「おい、この俺が一体何のために、こうして毎日通ってやってると思ってるんだ? やる気あんのか?」

「ないように見えるの」

「お前なぁ……」ぼうっとしているアランを見上げ、何を言っても無駄だと悟ったのか、バージルはその場に立ち上がりながら言う。「シャワーでも浴びてシャッキリしてこい。話はそれからだ」

「ん」

 この三人だけでスタジオにいると、劇団を立ち上げたばかりの頃を思い出す。劇団とは名ばかりの、当人たちにも良く分からない集まりの中で、ただ戯れにダンスを踊っていた頃の記憶だ。

 今思えば、過去に浅からぬ傷を負った者たちが、各々の傷を探り合うわけでもなく、ただ純粋にダンスを楽しむという行為そのものが、それぞれの癒しになっていたのかもしれない。

 当時は、斜陽の雲を執筆後、レオナール・ゴダンの紹介を受けて、いくつかの脚本を手掛けていた。権威ある賞を受賞したあとは、次々と依頼が舞い込んで、斜陽の雲の書籍化の他、小説も何冊か出版することになり、ジャスト・ロビンを退団してからの自堕落な生活から、ようやく抜け出すことができていた。

『また君の脚本で映画を撮りたいと思っている』そう唐突に切り出されたときは、ついに来たかと、アランはそう思ったものだ。『テーマは問わない。期限も設けない。君が思うままに書いてくれれば、それでいい』

 いつか、再び脚本を書いてほしいと依頼される日が訪れるのだろうということは、もう何年も前から予期していた。数年に一度のペースで新作を発表していたゴダンは、映画の撮影がはじまるたびに連絡を寄越し、現場に顔を出さないかと声を掛け続けていた。

 大体の撮影は国外で行われるので、それを理由に断り続けていたアランだったが、ついにイギリスで撮影を行うと聞き、腹を括っていた部分はある。どのように断ろうかと考えていた文句は、予想通り一蹴されてしまった。

『僕はあれに勝る最高傑作を世に残したいのではない。あの頃の君が見ていた世界と、今の君が見ている世界は、まるで別物のはずだ。僕はね、今君が目にしている世界を見てみたいんだよ、アラン・ジンデル。今の君になら、斜陽の雲とは違った世界を、僕に見せてくれるはずだ』

 斜陽の雲はアラン・ジンデルの人生を一変させた。過剰な評価を受け、それが未だに尾を引いている。

 自分でも訳が分からないまま、賞レースに名を連ねられ、次々と受賞を積み重ねていき、テレビの中のニュースキャスターが連日、自分の名前を読み上げていた。新進気鋭の脚本家が世界的な写真家とタッグを組み、前例のない快挙を成し遂げました──それを見ているとき、肌の上を虫が這いずり回るような不快感を覚えていたことを、今もまだ鮮明に記憶している。

 もちろん、授賞式に参加したことはない。

 インタビューはすべて文書で応じてきた。

 人目に晒されることを嫌って舞台を降りたのに、国内の局所的な注目に留まっていたアラン・ジンデルの名前は、世界に向かって一人歩きをはじめ、今まで以上の注目を集めるようになってしまっていた。

 アランの代わりに矢面に立ったのはレオナール・ゴダンだ。

 イギリスのテレビ番組に出演すれば、毎度のように表舞台に顔を出そうとしないアラン・ジンデルについて訊ねられていた。だが、本人は少しも嫌な顔をせず、場の雰囲気を損なわないように気をつけながら、その持ち前の朗らかさで、そうした質問を切り抜けていた。

『多くの国民が彼の声を聞きたがっています。当局も採算番組への出演を打診しているのですが、快い回答を得られたことはありません。中には、彼のそうした態度を傲慢だと感じる方もいるようですが、あなたはどのように思われますか?』

『アラン・ジンデルの素顔を知る数少ない人間の一人として言わせてもらうなら』当時、番組の司会者と二人きりで話す番組に出演したとき、ゴダンがこう言っていた。『彼は非常に朴訥とした男なので、テレビ出演には不向きなのではないかと、僕は思う。だが、彼は決して不誠実ではない。その証拠に、数ある映画雑誌を購読している映画愛好家や、ネット上で我々の映画を批評してくださっているライターの方々はもちろんご存知のことと思うが、彼はすべての文書によるインタビューに無償で応じている』

『それ自体が売名行為であるという声すら上がっていますが』

『今や時の人となった彼が、一体何のために売名行為をする必要が? このロンドンにアラン・ジンデルの名前を知らない者はいない。人間という動物は、突出する者の足を引っ張りたがる』

『ご自身にもそうした経験がおありですか?』

『他社に足を引っ張られる云々以前に、僕は親の七光りを浴びてここに座っている。両親の才能には遠く及ばないさ。僕の才能など、両親のものに比べたら瑣末なものだよ』

『ご両親といえば、現在は本国のフランスでお父様が個展を開かれているそうですが──』

 これは、これ以上アラン・ジンデルの話を長引かせないために、レオナール・ゴダン自身が自らを生贄として差し出し、話題の転換を誘導したのだとアランには分かっていた。

 この頃、ゴダンとその父親が不仲であるというゴシップがネット上に流出し、話題になっていたのだ。ゴダンの父親は写真家でもあるが、同時に画家でもある。

 当時の記事は、父親が仕事にばかりかまけていて家庭を顧みず、母親が今際の時もそれを看取ることなくアトリエに篭っていたことから、親子間に確執が生まれた、というものだった。

 しかし、実際のところゴダンの父親は息子が呆れるほどの愛妻家で、母親が今際の時はすべての仕事を放棄し、永遠に瞼が下されるそのときまで、片時もそばを離れなかったという。今でも自身が撮影した妻の写真をロケットペンダントに入れて、肌身離さず連れ歩いているという話だ。

 ゴダンと父親は不仲どころか、非常に仲が良いことを、アランは知っていた。だが、大衆はそれを知らない。だからこそ、ゴダンの口から両親の話が出た段階で、司会者はインタビューの方向性を変えたのだ。司会者であるはずの自分が、インタビュー相手に主導権を握られているとは知らないまま。

 二階に上がってシャワーを浴び、別の稽古着に着替えてスタジオに戻ってくると、ウォームアップを終えたイライアスが、バージルにダンスを見てもらっていた。今度のイベントで披露する予定のものだ。

 二人はアランが戻ってきても、こちらには目もくれず、真剣な面持ちで意見の交換を行なっていた。

 この週明けから、ロンドンのダンススタジオに飛び入りで参加しては、自身のジャンルとは違うダンスを吸収しているだけのことはあり、イライアスの踊りは、少しずつ様になってきているように見える。

 アランは丸めて壁に立て掛けていたマットを広げると、スタジオの隅でストレッチをはじめた。背中、肩、股関節、アキレス腱──ゆっくりと、時間を掛けて、入念に伸ばしていく。一晩中ハンモックの上で寝ていたせいか、首の裏側から腰の辺りにかけての筋肉が凝り固まっている感覚があり、その辺りから重点的に解していった。

 希佐はストレッチをしている姿を見て、体がやわらかいと驚いていたようだったが、これでも昔に比べると随分固くなったのだ。大学時代が最も自分の思い通りに体を動かすことができていた。全盛期を無駄にした付けが、こうして今になって回ってきている。だが、去年の十二月から稽古を積み重ねてきた成果は、確かに得られていた。

 ただの趣味で終わらせるなら、おそらくこれで十分なのだろう。自分一人や、仲間内で楽しむだけなら、これ以上を望む必要はない。上を目指せば目指すほど、自分が追い求めている理想の姿と現実との差が、はっきりとしてくる。

『あのな』あの頃のようには踊れないことを受け入れている自分と、あの頃のように踊りたいと願っている自分との狭間で揺れていると、バージルが呆れたように言った。『お前は端から高望みをしすぎなんだよ。第一、あの頃みたいに踊る必要はないんだ。求められているものが違う以上、同じように踊ろうとすること自体が見当違いなんだよ。キサとのペアダンスが踊りたいなら、ソロダンスのことは一度忘れろ。お前は形だけなら踊れるって思っているんだろうけどな、ダンスは形だけじゃ意味がない。特に、キサと踊りたいなら尚更だ。あいつは感情で踊るダンサーだからな、感覚で踊るお前やイライアスとはタイプが違う。自分でも分かってると思うけど、お前とキサの相性は本来最悪なんだよ。あいつとイライアスが上手くいってるのは、お互いに思いやりがあるからだろうな。ああ、そうだ、お前にはキサに対する思いやりが足りない。だから逃げられるんだぞ』

 アランが黙っていると、バージルはつらつらといくらでも話し続ける。中には尤もだと感じることもあるが、理解できないことも多々あった。思いやりとは何なのか、考えれば考えるほど、深みにはまっていく。

 相手を気遣うばかりが思いやりなのか。過剰な優しさは時として毒となり、相手を苦しめることになるのではないか。先のことを考え、手放す準備をはじめることも、思いやりと呼べるのではないか。

 立花希佐が安心してこの国を立ち去れるように、少なくとも自分の面倒くらいは、自分で見られるようにならなくてはならない。希佐だけではなく、カオスの他の仲間たちのためにも、そうする必要がある。

 ストレッチをしながら二人の様子を鏡越しに見やると、今度はバージルがダンスの手本を見せてやっていた。

 ダンスを教えるとき、イライアスの場合は一つずつの動きを細かく指導していくのに対して、流れを止めることを嫌うバージルは、ダンスの振り付けを一つのセンテンスのように考え、区切ることなく指導していく。

 バージルはイライアスのことを感覚で踊るダンサーだと話していたが、そう言った当人は、希佐と同様、感情で踊るタイプのダンサーに該当した。

 だが、バージルが実際に感情を重要視するようになったのは、イギリスに帰ってきてからだ。アメリカのブロードウェイで踊っていた頃の映像を見るに、バージルが感覚で踊っていることは明らかだった。おそらくは心の病がダンスに対するスタンスを変えさせたのだろう。

 ヘスティアでルロイ・アンダーソンのタイプライターを披露しているのを見たときは既に、バージルは己の感情のままに、舞台に立つことを楽しみながら踊っていた。もし心境の変化が訪れていなければ、自分はそこまで、バージルのダンスには惹かれてはいなかったのだろうと、アランは思う。

 その美しさに目を奪われ、逸らすことができなくなるのは、感覚で踊るダンサーに多い。イライアスがまさにそれだ。しかし、感情で踊るダンサーには、確実に息の根を止められる。バージルや希佐の場合がそうだった。他者からどのように見えるかよりも、自身がどのように表現したいかを優先させる、根っからの表現者なのだろう。

 所詮、自分は己の承認欲求を満たすために舞台に立っていたのだろうと、アランは考えていた。舞台に立ち、大衆の目に映ることで、自分がこの世界に存在していることを証明したかった。だから、自分が望んでいたのとは違う見られ方をしていたのだと知り、何もかもが嫌になったのだ。

 こうして過去の自分と向き合うことに、確かな意味があるのだという。

 以前ほど心を抉られるような感覚に見舞われなくなったのは、もうすっかり痛みに慣れてしまったからなのだろうか。慣れることで何も感じなくなることと、自分自身と向き合うことで痛みを覚えなくなることでは、あまりに意味が違うようにも思える。

 ここしばらく眠れていない弊害か、それとも昨日の昼から何も食べていない空腹のせいか。ストレッチを終えた段階で体力の消耗を覚えたアランが、マットの上で仰向けに寝転がっていると、休憩に入ったらしいイライアスが視界の中に顔を覗かせた。

「大丈夫ですか?」

「不眠と空腹」

「ナッツとドライフルーツならありますけど」イライアスはそう言うと、手に持っていた容器を差し出してくる。「食べますか?」

「もらう」

 アランがその場に起き上がり、胡座を掻いて座ると、容器の中から手の平に乗る程度のナッツとドライフルーツが分け与えられた。アーモンドを口の中に放り、奥歯で噛み砕くと、香ばしさがすっと鼻に抜けていく。

「もうすぐですね」

「なにが」

「キサが帰ってくる」靴を履き替え、タップダンスの稽古をはじめたバージルを見やりながら、イライアスはどこか嬉しそうに言う。「いつ迎えにいくんですか?」

「土曜かな」

「あの辺りは良いところです」

「知ってる」アランはネクタリンを前歯で食いちぎり、それを咀嚼してから言った。「昔、あの辺りの施設にいたことがあるから」

「そうだったんですか」

「ロブに貸してる車が空いてれば、それで迎えに行こうと思ってるけど」

「四、五時間掛かりますよ」

「長距離列車は好きじゃないんだ」

 昔、施設を転々とさせられていた頃、移動はすべて列車を利用していた。

 少ない荷物を詰め込まれた鞄を抱え、座席から動くことも許されず、どこに連れて行かれるのかも分からないまま、ただ変わり行く窓の外の景色を眺めていることしかできない。子供にしてみれば、永遠に続くかのように思われる、拷問のような時間だ。

 荷物のように運ばれていく。

 あの頃はそのように思いながら、列車に揺られていた。

「迎えに行くって言ったってな」タップを踏みながらこちらの話を聞いていたらしいバージルが、足を止めて口を挟んできた。「ただ迎えに行くだけじゃ意味ねぇんだぞ」

「分かってる」

 I know,I know,I know.──そう呟くように漏らすバージルに苛立っているような様子はないが、どこか鬼胎を抱くような不安を覚えているように見えた。

「昨日はどうだったか聞かないの」

「お前は他人にカウンセリングの内容を聞かれたいのか?」

「別に聞かれたところで何とも思わない」

「本来は思うべきなんだよ」

 バージルは信じられないというふうに大きく息を吐いてから、こちらに向かって歩いてくる。そして、アランの正面に腰を下ろすと、傍に立っているイライアスにも座るよう目配せを送っていた。

「で、昨日のカウンセリングはどうだったんだ?」

「悪くなかった」

「そうだろうな」バージルはそう適当に相槌を打つと、二人の隣で僅かに困惑の表情を浮かべているイライアスを見た。「昨日、こいつに別の精神科医を紹介したんだ。そのセンセが、こいつの古い知り合いだったらしい」

「へえ」

 イライアスは興味がなさそうに頷くと、再び黙り込む。

「昔のよしみで何か助言はもらえたのか?」

「ペアダンスはセックスと同じ」アランがそう言うと、バージルは目を丸くして素早く瞬きをした。「そう言われた」

「……そうなの?」

 きょとんとした面持ちを浮かべたイライアスが、アランと一緒になってバージルを見る。四つの目を一気に引き受けることになったバージルは、指先で頬を掻きながら小さく呻いた。

「まあ、似たようなところはあるんじゃねぇのか」

「僕はもともとソリストとして踊ることの方が多かったし、本格的なパートナーはキサが初めてだから、良く分からない」

「俺だって踊れねぇことはないけど、基本はソロダンサーとしてやってきたからな」三人はそれぞれに顔を見合わせ、揃って険しい面持ちを浮かべる。「お前はどう思うんだよ」

「それが分からないから困ってる」

「何でこんな日に限ってルイのやつが来てないんだ?」

「今週はもう何もすることがないから、昨日の夜の便でフランスに帰ったよ。キサに感謝してた、久しぶりに奥さんと長い時間一緒にいられるって」

「どうでもいいときには冷やかしに来るくせに、肝心なときにはいねぇのかよ」ったく、と吐き捨てるように言いながら、バージルは頭を掻いた。「身体を使ったコミュニケーションって意味じゃ同じだろ」

「僕は経験ないから」

「ああ、そうか」じゃあ分からねぇか、と言いながら、バージルはアランの方に目を向ける。「お前はあるだろ、遊び人」

「ダンスの糧になるほど気持ちを込めて抱いた試しがない」

 女を抱くことに、特別な感情は必要ないと思っていた。自らの中にある欲求を吐き出すために、後腐れのなさそうな女をバーやパブで見繕って、一夜だけの約束で抱いていたこともあった。そうした女の顔や名前は誰一人覚えていない。

 そう訥々と話して聞かせると、バージルは呆れの滲むじっとりとした眼差しで、アランを見た。

「悪い、聞いた俺が間違ってたわ」

 この女性を抱きたいと強く思ったのは、希佐が初めてだったのだ。それと同時に、すぐに自分が初めての男だと分かった。

 まるで、生まれて初めて女性を抱いているかのような感覚と、酷く大切にしたい思いと、それとは相反する、このまま抱き潰してしまいたいと思うような、複雑な感情が入り混じる。

 一度だけ、後者の衝動が勝り、感情のままに抱いてしまったことがあった。そのときの希佐はとても苦しそうで、つらそうで、悲しげだったのに、それでもこちらを気遣うから、もう二度とするまいと、そう誓ったのだ。

 なるべくなら痛みを覚えないように。真綿を包み込むように。そっと、慈しむように。琥珀色の目が、快楽の海に沈んでいくかのように、色を濃くするあの瞬間が、ぞっとするほど愛おしかった。

「そのペアダンスとセックスが同じっていう理論を、お前自身が何の疑問も持たずに受け入れて、納得できてる状態なら、俺はそういう考えでも間違いではないと思うが。実際、女を抱くように踊る男はいるしな。ただ、お前がその型に嵌るかって聞かれると、素直には頷けねぇけど」

「ジョーの言いたいことは理解できたんだ」

「頭で理解するのと、実際に体で表現するのとでは、話が別だ」バージルはそう言うと、小さく唸り声を上げながら何かを考えている。「お前とキサはさ、お互いに向け合っていた理想が大きすぎたんだよ。それだから、いざ現実を目の当たりにしたときにも、失望が膨れ上がったんだ。本来はそう大した問題とは思えないことでもな」

「……僕は」ぽつり、ぽつり、とイライアスが言葉を零した。「もし二人が組んで踊ったら、何か途轍もないものが見られるに違いないと思ったんです。だから、キサを手伝って、アランをその気にさせられたらって」

「まさかこんなことになるとは思ってなかっただろ」

 苦笑いを浮かべながらアランがそう問うと、イライアスは素直に頷いた。

「ごめんなさい」

「謝るようなことじゃない」

「でも」

「少しでも早い方がよかったんだよ」アランは申し訳なさそうに自分を見るイライアスの眼差しを受け止めながら、静かに言った。「今だからまだ足を止めて考えられる時間があった。これがもう少しあとだったら、俺は何もかもを諦めて、すべてを放り出していたかもしれない。だから、君には感謝しているんだ」

「だけど、僕があなたとキサを傷つけたことは事実で──」

「それは違うな、イライアス。今回の一件は、こいつらが勝手に傷つけ合ったってだけのことだ」バージルがため息まじりに言う。「原因は前々から二人の中にあって、イライアスはその問題を浮き彫りにしてやっただけなんだよ」

 遅かれ早かれこうなっていたんだ──バージルはそう言いながら、肩を落としているイライアスの頭を乱暴に撫でた。

「どんだけ周りが気を揉んだって、こいつらの問題はこいつらにしか解決できねぇんだ。二人ともこうと決めたら絶対に考えを曲げない、頑固なところがあるからな。俺らがしてやれることといえば、二人がやる気を出したときに、黙って手を差し伸べてやることくらいしかないんじゃないのかね」

 うん、と小さく頷くイライアスの頭を小脇に抱え込んだバージルは、まるで犬を褒めるときのように、更にぐりぐりと頭を撫でてやっている。よしよしいい子だと撫でる手を掴んだイライアスは、それを自らの頭から引き剥がすと、酷く据わった目でバージルを睨んだ。

 しかし、睨まれたバージルに怯む様子はなく、むしろ愉快そうに笑い声をあげている。それどころか、嬉しそうでもあった。

「おっ、お前も随分反抗的な目ができるようになってきたじゃねぇか」

「バージルのそういうところは好きじゃない」

「じゃあ、どんなところが好きなんだ?」

 まるでたちの悪い酔っ払いのように絡んでくるバージルを、半ば軽蔑するように一瞥してから、イライアスはその場に立ち上がる。

「ただ黙って踊っていればいいのに」

 そうして捨て台詞のように置いていかれたイライアスの言葉を聞き、バージルは嬉しそうに笑っていた。

 ここ最近になって、イライアスのバージルを見る目が変わってきているような気がすると、アランは思う。同じ劇団の仲間ではあるものの、専門としているダンスのジャンルが違うからか、イライアスが一方的にある程度の距離を置いている印象があったのだ。だが、今は自分から話しかけることも増え、軽口を交わし合っている。

 それは間違いなく良い変化と言えるだろう。イライアスはまだ二十代半ばの、伸び代がある舞台役者だ。バージルは自分から積極的に指導することはしないが、相手に求められれば、自らの技術を出し惜しみすることなく披露してくれる。イライアスがバージルに学ぶことを覚えれば、更に上を目指していけるはずだ。

「アラン」少しくらいは体を動かすかと、そう思いながら立ち上がると、それを見計らっていたかのようにイライアスが声を掛けてきた。「僕とキサがカオスの公演で踊った競技ダンスの振り、入ってますよね」

「まあ、なんとなくなら」

 言わんとしていることを具に理解したアランは、スタジオの中央に立っているイライアスのところまで歩いていく。これは面白いものが見られるぞと言わんばかりににやりと笑うバージルの表情が、鏡越しに見えた。

「僕がキサの代わりをします」

「これに何の意味があるの」

「特には」イライアスはアランと向かい合わせに立つと、僅かに首を傾げた。「でも、あなたと踊れば、僕にもキサの気持ちが分かるかもしれない」

 アランは困ったように頭を掻いてから、ふう、と短く息を吐き出すと、その場で両腕を広げて見せた。イライアスは三拍子の音楽を流すと、スマートフォンを床に置いて、鏡の方に滑らせる。

「僕をキサだと思って踊ってくださいね」

「……善処はしてみる」

 とは言うものの、うまく気持ちを持っていくことができない──アランがそう思っていても、イライアスにこちらを待つ様子はなかった。

 迎えにいくまでもなく、イライアスは数歩の距離を歩み寄ってくると、差し出されたアランの左手を掴んだ。希佐よりも僅かに身長が高い分、ホールドを作りやすい。

 アランが右の手の平を背中に添えると、イライアスは驚くほどやわらかく背骨をしならせた。右の二の腕に添えられた左の手の感覚が、希佐のそれとぴたりと重なる。つくづく恐ろしいやつだと思いながら、体をゆっくりと左右に揺らし、音に合わせて大きく足を踏み出した。

 奇妙なことに、イライアスと踊っていても、希佐と踊っていたときほどの不快感は覚えなかった。しかし、それはイライアスが故意に自らの我を消していたからなのだと、後半に差し掛かった辺りで思い知ることになる。

 イライアスがアランの右腕を掴み、進行方向を指示するように、軽く押したのを感じ取ると同時に、視界がぐらつくような感覚を覚えた。ぐっと奥歯を噛み締め、瞬間的に断ち切ろうとした蜘蛛の糸のように細い自意識を、寸前のところで繋ぎ止める。だが、アランは思考が停止すると同時に、ほんの一瞬、体が硬直したように動かなくなった。

 しかし、転倒すると、そう思った瞬間、イライアスの視線が素早くこちらに向けられた。その刹那、イライアスの腰がアランの体を支えるように押し込まれる。後ろに下がるステップに合わせ、太腿が後ろに押し出された。

 転倒を免れた体は、ワルツを一曲踊り終えると、ゆっくりとブレーキを踏み込まれた車のように停止した。あの一瞬の間に、何かこれまでになかった感覚を獲得し掛けたような気がして、アランは未だ自分のホールドの中にいるイライアスを見下ろす。

「今、何か──」

 何かを分かりかけたような気がすると、そう口にしようとした言葉は、特大の叫び声によって押し止められた。

「アランとイライアスが抱き合ってる! 写真撮らなきゃ!」

 アランは途端に顔を顰め、ホールドを解いて後ろを振り返ると、うるさいと文句を言ってやろうとした。だがしかし、こちらにスマートフォンのレンズを向けている人物の背後に、特大のトランクを引き摺りながらスタジオに入ってきた大男の姿を見つけ、思わず目を丸くする。

「ジェレマイア」

「おっす」アランの呼び声に顔を上げたジェレマイアは、トランクから離した手を挙げ、きょとんとしている三人に向かって軽く手を振って見せた。「ただいま、お三人さん」

「お前、帰ってくるのはもう少し先だって話じゃなかったか?」

「そのつもりだったんだけど、みんながヘスティアのチャリティーイベントに出演するっていうのをノアから聞いてさ、これは帰国前に観光なんかしてる場合じゃないなって」

 そうしてバージルの問いに答えたジェレマイアは、スタジオの扉を閉めるとトランクをその場に置き去りにし、こちらへとやって来る。そして、アランの前で足を止め、にこりと笑った。

「アメリカでの出稼ぎはとりあえず終わり。今日からはまた、劇団カオスのジェレマイアだ」

「いいの、向こうにいた方がずっと儲かると思うけど」

「別に金儲けのためにアメリカに渡ったわけじゃない。でも、ドルはたんまり溜め込んできたから、しばらくは酷使した体をゆっくり休ませるよ」

 ジェレマイアはそう言ったかと思うと、何かを探すようにスタジオ内に視線を走らせた。

「キサはいないのか? いつも一番熱烈に歓迎してくれるのに」

「あいつは、まあ、旅行中だ。週明けには戻ってくる、多分な」

「ふうん、そっか」ジェレマイアはバージルの言葉を聞き、周りの様子を見て何かを察したような顔をすると、そう相槌だけを打って話を切り上げた。「そうだ、ボストンで適当にお土産を買ってきたんだよ。欲しい物があったら持っていってほしいんだけど」

「ボストン?」

「最後の公演がボストンだったんだ」

 未だスマートフォンの画面を眺めながらにまにまとしているノアに向かって、ジェレマイアはトランクを持ってくるように頼んでいる。ノアは、はいはい、と言いながらスマートフォンをポケットにしまうと、トランクを押して近くまでやって来た。

「ボストンのお土産って何があるの?」

「ボストン美術館にだけは行ってきたから、そこでいろいろと」

「あっ、ちょっとこれ、コンスティテューション号のTシャツじゃん! 趣味悪ぅ」

「ほら、ノア。マサチューセッツ工科大のマグカップだぞ」

「わあ、腹立つなぁ」

 開かれたトランクの中には、文字通りびっしりと、色鮮やかな美術館の土産物が詰め込まれていた。初めてヘスティアで顔を合わせたときも、自分は旅が好きで、必ずその土地にある美術館を巡るようにしているのだと、そう話していたことを思い出す。

 クリムト、ルノワール、モネ、モンドリアン、ゴッホ、バスキア──次々に取り出されていくのは、様々な芸術家の絵画やデザインを表紙にしているノートだ。

「キサが前にクリムトの接吻のことを話してた」

「じゃあ、これはキサの分だな」ジェレマイアはそう言うと、接吻のノートと栞を手に取り、それを脇に避けておく。「アイリーンは何が好きか知ってるか?」

「モネとルノワール」

「了解。彼女に渡しておいてくれ」

「うん」

「残りの野郎どもは適当に──あ、そうそう、これはカオスの分として買ってきたんだ。マグカップ、全員お揃いで」そう言ってジェレマイアが箱から取り出したのは、美術館のロゴが入った黒いマグカップだった。「是非とも自宅で使ってくれると嬉しい」

 イギリスの外に出たことがないアランは、ジェレマイアが酒の肴に話してくれる外国の話が好きだった。以前、ゴダンから一緒にパリに行かないかと誘われたことはあったが、土産話だけで十分だと言って断っていた。

 アランがそのようなことを考えながら、トランクの中をぼんやりと覗き込んでいると、ジェレマイアがこちらを見上げた。

「アランはどれにする?」

「なんでもいい」

「それじゃあ」ジェレマイアは花咲くアーモンドの木の枝と桜の表紙のノートを手に取って、こちらに差し出してきた。「歌川広重とゴッホ」

「ありがとう」

「なんか少し見ないうちに穏やかな顔をするようになったな」

「誰が」

「アランだよ」他に誰がいるんだと言いながら、ジェレマイアは笑っている。「俺がいない間に何か良いことでもあったのか?」

「別に、特には」

「そうか?」

 まあ、アランがそう言うなら、そうなんだろうけど──この男はいつも、こういうことをさらりと言ってのける。

 せっかくだから一緒にランチを食べようという話になると、ノアはバッグの中からタブレットを取り出して、フードデリバリーの検索をはじめた。何か食べたいものはないのかと聞かれたジェレマイアは、トランクの中身を整理しながら、何でもいいと答えている。何でもいいと言われるのが一番困るのだと言いながら、ノアはバージルにメニューの相談を持ちかけていた。

 ジェレマイアと同様、食べられるなら何でもいいと考えていたアランは、自分と希佐のボストン土産を手に、一人事務室へと引き上げていった。

 手にしていたものを、比較的片付いている作業用の机に置き、そのままどっかりと椅子に座り込む。背もたれにぐっと寄りかかり、天井をふり仰ぎながら、大きくため息を吐いた。

 先程、この手に掴み掛けた感覚は、一体何だったのか。

 椅子のスプリングを頼りに体を起こし、自らの左手を見下ろしたとき、視界の端にクリムトの接吻が映り込んだ。

「アラン」

 接吻の絵画が表紙になっているノートを手に取り、眺めていると、そう背後から声を掛けられた。

「キサがクリムトを好きだったなんて知らなかった」アランはそう声を上げてから、肩越しに軽く手を挙げた。「どうぞ、入ってきたら」

「クリムトが好きかどうかは分かりません」イライアスは事務室に足を踏み入れ、少し進んだところで足を止める。「キサが何を好きで、何を嫌いなのか、僕はほとんど知らない」

「俺もだよ」

 三年も一緒にいるのに、希佐本人の口から、これが好きだとか、あれが嫌いだとか、そういう話を聞くことはほとんどなかった。きっとこれが好きなのだろうと推測することはできても、実際のところ、それが正しい答えなのかどうかは分からない。だがそれ以上に、希佐の口から嫌いという言葉を聞く機会はなく、これまでの日々を過ごしてきた。

「結局何にするって?」

「ピザを頼むそうです」

「君はそれでいいの」

「自分が食べる分は持ってきているので」

「そう」

 クリムトの絵は色鮮やかで、一見すると華やかだが、酷く物悲しげだ。花畑の中、膝をつく女性を抱き寄せた男が、頬に唇を寄せている。そこはまるで楽園と見紛うような黄金の世界だが、女性の背後は切れ落ちた崖になっているのだ。女性は崖の縁に足の指を掛け、ぎりぎりのところで踏み止まっているようにも見える。

 アランはこの絵画を見るにつけ、言い知れぬ不安が脳裏をよぎるのだ。

「あなたと踊ってみて、分かったことがあります」アランは手に持っていたノートを机にそっと戻し、椅子を反転させてイライアスを振り返った。「あなたはこの後に及んで、まだ一人で踊ろうとしているんです」

「それは──」アランは一瞬言葉に詰まってから、すぐに先を続けた。「分かっているつもりだけど」

「僕も昔は人と踊ることが苦手でした。うまく意思の疎通を図ることができなくて、よく相手を怒らせていたんです。パ・ド・ドゥに求められている男性ダンサーの立ち位置は、パートナーをどれだけ美しく魅せられるかだと、そう思っていました。だから、僕はそうすることに徹していた。バレエは見目さえ美しければ、踊っているのが人形だって許される世界だったんです」

 イライアスはゆっくりと、言葉を選びながら、真剣に話している。

「でも、そうすることに慣れてしまうと、意思の疎通を図ること自体が無駄に思えてくるんです。僕はパートナーが最も美しく見えるように踊ってあげているのに、どうして怒られないといけないんだろうって、ずっと思っていました。精一杯助けてあげているのに、文句ばかり言われる理由が分からなくて、ペアダンスがあるような役のオファーは受けなくなっていったし、オーディションを受けるのも避けるようになったんです。一人で踊っている方がずっと楽だったから」

 自分とイライアスの感覚は似て非なるものなのだろうと、アランは思う。だが、言わんとしていることは理解することができた。二人で踊るよりも、一人で踊る方が、圧倒的に楽なのだ。

「僕は──」イライアスはそこまで言ってから、一度口を噤むと、アランに向けていた視線を僅かに落とす。「あなたからキサと組むように言われたとき、最初はとても嫌だった」

「なぜ?」

「『God Only Knows』の公演を終えて、キサは僕なんかよりもずっと凄い表現者だということが分かったし、ダンサーとしてのポテンシャルも高いことを証明しました。だから、僕なんかと組んでも良いことはないって、そう思ったんです。バージルと組んだ方が相性もいいだろうし、ずっと華やかだろうなって」

「そうすることも考えたよ」アランは否定しなかった。「その方が上手くいくだろうなとも思った」

「だったらどうして、キサと僕を組ませたんですか?」

「見てみたかったから」

「……それだけ?」

「キサとバージルを踊らせたらどうなるのかは、すぐに想像することができた。でも、君とキサが踊ったらどうなるのかは、俺でも予測がつかなかった。だから組ませたんだ。苦労することは目に見えていたけど、もし成功すれば、とんでもない化学反応を起こすに違いないと確信していたから」

 その通りになっただろうというアランの言葉を聞いても、イライアスは続く言葉を待つように黙っている。

「これだけでは不満みたいだな」

「不満というわけでは」

「キサと組ませれば君が成長できると思った。もちろん、キサも君から良い影響を受ける。君のおかげで、キサのダンスのレベルは格段に上がっただろ? 君は基礎からしっかり教え込んでくれた。バージルが相手では、こうはいかなかったはずだ。彼は表現者としては超一流だけど、指導者としては君に及ばない。それに、君は自分が尊敬できると思う相手からしか、物事を学ぼうとしない節があるんだ」

「え?」

「今までバージルのことをどう思ってた?」イライアスは答えない代わりに、どこかばつの悪そうな表情を浮かべ、アランから視線を逸らした。「なんとも思ってなかったんだろ」

「……あなたほどは」

「でも最近になって見方が変わった」

「はい」

「俺は、君を劇団に誘ったとき、バージルなら君に良い影響を与えるだろうと思っていたんだ。でも、それは俺の見込み違いだった。君はバージルに対してさほど興味を示してはいなかったし、バージルはキサがそうしたみたいに、必死に食い下がるような態度を見せないかぎり、本気になって応じてはくれない。仕事となれば話は別なんだろうけど、カオスが趣味の延長線上にある活動だからこそ、互いの領域に足を踏み入れることを避けたっていうのもあるのかもしれない」

「……今回、あの人が僕のために振り付けをしてくれて、踊り込めば踊り込むほど、僕のためのダンスだって、そう思えてきて」イライアスはスタジオの方を気にしながら、かろうじて聞き取れるほどの声で言う。「僕が思っていた以上に、あの人は僕のことを見ていてくれたんだな、と……」

「今からだって遅くない。たくさんのことをバージルから学べばいい。彼は頼られるのが意外と好きみたいだから」

「意外と?」

「かなり、かな」

 アランがそう言い換えると、イライアスは、ふふ、と小さく笑った。

 希佐と出会う前のイライアスは、こんなふうに笑うことはなかった。もう誰も、この青年をマネキンなどと呼びはしないだろう。きっと、次の舞台では、最高の歌とダンス、演技を見せてくれるに違いない。

「本当なら僕が言うべきことではないと思うのですが」イライアスはそう言うと、優しげな眼差しでアランの目を見た。「あなたはもっとキサのことを信じるべきです」

 そう奇をてらわずに指摘をされることで、その一言は驚くほど真っ直ぐに、アランの心に突き刺さった。

「僕は、キサが何を好きで、何を嫌いなのかをほとんど知らないと言ったけれど、アラン・ジンデルのことを大好きだということだけは、よく知っているから」

「イライアス……」

「キサならどんなあなたでも受け入れてくれます。あなたがアラン・ジンデルという人間と真正面から向き合う覚悟を決められたなら、キサも同じように、あなたという人から逃げたりはしない」

 自分によく似ているとばかり思っていた青年は、自分よりもずっと達観した、優しくて思いやりのある、よくできた人間だったのだと、改めて思い知らされる。

「今でも一人で踊る方が楽だとは思っています。でも、キサと踊ることが僕は好きだし、何より楽しいんだ。だから、あなたにも諦めてほしくない。今の僕はただ、二人が楽しそうに踊っている姿を、この目で見たいんです」

 立花希佐という人間は、本人にその自覚はなくても、一人の人間をここまで変えてしまった。きっと、自分も同じように変わっているのだろうと、アランは思う。

『なんか少し見ないうちに穏やかな顔をするようになったな』

 今まで見えていなかったものが、見えてきたような気がしている。だがそれと同時に、今まで見えていたはずのものが、見えなくなってきているような、そんな気もしているのだ。

 手を伸ばして掴み取りたいものがある。

 もう少しで手が届きそうだ。

 けれど、新しい何かをこの手で掴むためには、今まで手にしていた何かを、手放さなければならない。

 この代償は、きっと、高くつく。

 

 

 

 

 

 

 金曜日、先日出会った姉妹を招き、ささやかなお茶会を開いた。

 四人だけでは味気ないだろうと、ゴダンが自身の撮影班に声をかけてくれたので、とても賑やかなお茶会になった。最初の頃、姉はどことなく緊張した様子ではあったものの、どの人も気安い穏やかな人たちだと分かると、妹と一緒に会話を楽しむ余裕が出てきたようだった。

「あら、あなた舞台役者になりたいの?」姉の話を聞いていた、昨日の撮影班の女性──ミシェルはそう言うと、ふふふ、と嬉しそうに笑った。「面白いわよ、舞台は」

「私がなりたいというよりかは、妹がなりたがってて」

「妹ちゃんが?」

「少し前に家族でロンドンまでウィキッドを観に行ったら、妹がそれをとても気に入って、将来は自分もミュージカルスターになって舞台に立つなんて言い出したんだ。でも、学校ではお前がなれるわけないだろって馬鹿にされて、泣きながら帰ってきた」

「あらまあ」

「あたしはさ、もうすぐ成人だっていうのに自分の夢なんか持ってなくて、やりたいことも見つかってないけど、代わりに妹の夢を叶えてやりたいなとは思ってるんだよね。グラスミアは好きだけど、夢を見るには適さないところだからさ。あたしがロンドンに行って、舞台のことを勉強して、妹に教えてやれたらって思ってるんだ」

「わたしはそれだって立派な夢の一つだと思うけどなぁ」

「そうかな」

「そうだよ。それに、舞台の勉強をしているうちに、もしかしたらそれがあなた自身の夢になるかもしれないじゃない?」

「でも、あたしは人前に立って歌って踊ったりするような柄じゃないし」

「舞台人って案外シャイな人が多いのよ」

「そうなの?」

「これはわたしの個人的な考えだけど、内に秘めたる情熱を持っている人の方が、強いって感じがするんだよね。演劇学校に行ってたときも、そういう子の方がいつの間にかすごく上達していたり、オーディションにもさっさと合格してた印象がある。自分の世界を持つって大事だよ。その点、あなたは個性的でいいかも。わたしみたいな没個性的な人間は、学校やオーディション会場では埋もれてしまいがちだから──」

 こうして話をしている二人から少し離れた場所では、助監督のベネディクトが、妹の相手をしてあげていた。アメリカでは子役のためのワークショップを開くこともあるらしく、幼い子供の相手には慣れている様子だった。

「じゃあ、綿あめを食べた猫ちゃんの体が雲になって、ふわふわ空に浮かび上がっていくんだね?」

「うん! それでね、ふわふわ漂いながら、そのまま世界旅行をするの!」

「それは壮大だなぁ」

「途中でね、気球に乗ったおじさんとお喋りをしたり、渡り鳥と一緒にお空を飛んだりするんだよ。嵐が来たら、雲になった猫ちゃんは、みんなを体の中に隠して守ってあげるんだ!」

「レオ、このお話、絵本にしたら売れるんじゃないですか?」

「ベストセラーを狙えるかもしれないね」

 前にルイが言っていた。芸事の道を志す者は、その年齢が若ければ若いほど、多くの選択肢を得ることができると。子供の頃に多くの経験をしてきた者は幸運だ。そうでない者との間には雲泥の差がある。

 子供の頃に出会っておきたかった──ルイのその言葉は最高の褒め言葉だと、アランはそう言っていた。だが、イライアスは惜しんでいるのだと、そう言っていたことを覚えている。

 何かをはじめるのに、遅すぎるということはないと、希佐は思っていた。だが、もっと早くに出会うことができていたらと、悔しく思ったことは少なからずある。

 だから、もしもそのチャンスを欲している誰かが目の前にいるのだとしたら、そっと手を差し伸べてあげたいと思うのだ。そのあとで、どのような選択をするのかは、自分自身で決めていけばいい。

「これが君の望みだったのだろう?」紅茶を淹れ直している希佐の隣にやってきたレオナール・ゴダンが、穏やかな口振りで言った。「小さな村のワークショップだね」

「今日はお力添えくださってありがとうございます」

「どこで縁が繋がるか分からない世界だから。将来、彼女たちがこの経験を生かしてくれたら、僕はそれを嬉しく思うよ」

「でも、最初の縁がSir.レオナールだなんて、二人は強運の持ち主ですね」

「強運か。だけど、これは運だけで片付けて良い問題なのかな。だって、彼女自身が勇気を振り絞って君に声を掛けなければ、この縁は繋がらなかったんだよ。言うなれば、これは彼女自身が切り拓いた道だ。その勇気は賞賛に値する」

「そうですね」

「あの子にはどこかミステリアスな雰囲気がある。この先の未来、いつかどこかで出会うことがあるかもしれないね」

「それを本人に伝えてあげてはいかがですか?」

「必要ない」ゴダンはミシェルと話す姉を横目に見てから、首を横に振った。「機会があれば、そのときは君の口から伝えてあげればいい。彼女がどんな子かはまだ分からないが、下手に慢心を呼び込むような言葉を贈ってしまっては、彼女の高潔な覚悟に泥を塗ってしまうことにもなりかねない」

「ですが」希佐が一瞬言い淀むと、ゴダンは優しげな眼差しを向けてきてから、どうぞ、と静かに言った。「大切に胸にしまっておきたい、お守りのような言葉になるのではないかと、そう思ったんです。ときどきその言葉を胸から取り出して、自分の励みにできるんじゃないかって」

「君にもそういう言葉があるのかい?」

「はい、たくさん」

「そうか」それでも、とゴダンは言う。「僕は黙っているよ」

 遅くなる前に帰してあげた方が良いと言って、ベネディクトが姉妹を自宅まで送り届けに向かったのは、午後七時を少し過ぎた頃だった。それからすぐに、連絡先を交換した姉から、メッセージが送られてくる。

《今日はありがとう。妹はすごく喜んでいたし、あたしも楽しかった》

 こちらこそ、と返事を送っていると、応接室の方からピアノの音色が聞こえ、希佐は反射的に顔を上げた。

 時折ゴダンが弾いていることもあるが、今はリビングのソファに腰を下ろし、今朝撮影した映像のチェックをしているところだ。

 こっそりと廊下を挟んだ隣の部屋を覗きに向かえば、薄暗い部屋の中で、ミシェルがピアノの前に座っていた。

「わたし、ベヒシュタインのピアノが好きなんです」希佐が部屋の中に入って来たことに気づくと、ミシェルは言う。「これ、モデルチェンジする前のピアノですよ。よく整備されているなぁ。この高音、最近のベヒシュタインにはない透明感があって、すごく懐かしい」

「懐かしい?」

「あっ、わたしのお爺ちゃん、昔ソーホーにピアノの工房を持っていたんです。もう亡くなってしまって、工房も手放してしまったんですけど。その場所は今ナーサリーになってます。工房が解体されて、新しい建物が建設されて──そうしたら、両親が記念にって、家にあったベヒシュタインのピアノを、そのナーサリーに寄贈したんです」

 ミシェルは鍵盤を愛おしそうに指先で撫でながら、うっすらと微笑んでいる。

「わたしはそのピアノがお爺ちゃんと同じくらい大好きでした。工房のピアノはすべて売り払ってしまって、そのベヒシュタインが最後の一台だったんです。わたしにとってはお爺ちゃんの形見だったし、お爺ちゃんそのもののようにも感じられていました。心の拠り所だったんでしょうね。でも、わたしの母は音楽に疎い人で、ピアノの音色のことを雑音なんて言う人でした。ベヒシュタインの価値も分からないような人です。だから、母はわたしに何も言わず、邪魔なピアノを寄贈する手筈を整えていました。わたしが学校に行っている間に処分してしまおうと思っていたんでしょうけど、その日は業者の人が遅れてやって来て、それがわたしの帰宅時間と重なって……」

 ミシェルの指先が、ぽーん、とピアノを鳴らす。

 それは透明感のある、美しい音色だった。間違っても雑音などではない。

「わたしは母に跪いて懇願しました。絶対に手放さないで、家に置いておいてって。そう泣いて頼んだんですけど、無駄でした。母は仕事人間の父親が憎かったそうです。家族よりもピアノを愛している父親が許せなくて、お爺ちゃんが亡くなって一週間もしないうちに工房の取り壊しを決めて、最後の一台のピアノまで手放して──母は清々したと、そう言ってたのに、それからすぐに精神を病んで、家族を置いて旅立ってしまいました」

「I’m so sorry.」

「Thank you for your kindness.」

 イギリスに来てから、こうしてお悔やみの言葉を口にする機会が、何度かあった。ヘスティアで働かせてもらっていたとき、別のテーブルにいる赤の他人が親しい人の死について話していると、周囲のテーブルにいる人々が口を揃えて「I’m sorry.」とお悔やみを言うのを、何度も目にしたことがある。お悔やみを言われた人は、このミシェルのように穏やかに微笑んで、ご親切にありがとう、と言うのだ。

 どこの国にもこうした常套句があることは分かっている。だが、希佐は相手の心に寄り添って、まるで悲しみを分け合おうとしてくれているかのようなこのやりとりが、不思議と嫌いではなかった。

「キサさんって本当に不思議な方ですね」

「えっ?」

「こんな話を真剣に聞いてくれて」ミシェルはピアノを見下ろしていた顔を上げ、こちらを見る。「昨日だって、わたしの話を黙って聞いてくれていたじゃないですか」

「特別なことをしているつもりはないのですが」

「いえいえ、そんな。わたしの話を黙って聞いてくれるのなんて、レオとキサさんくらいのものですよ。大抵はうんざりされるか、うるさいって怒鳴りつけられます」でも、そっかぁ、とミシェルは言う。「レオとキサさんって、そういうところが似てるような気がします」

「そうですか?」

「こう、懐が深い感じがするところとか、肝が座っていうというか、何があっても動じない感じがするところとか。年上のわたしなんかよりもずっと、落ち着いている印象がありますもの」

「そんなふうに言ってもらえるのは初めてです」

「えーっ!」

 そう大きな声を出してしまってから、ミシェルは両手でばちんと口に蓋をした。それからすぐ、亀のように首を竦めながらゴダンがいるリビングの方に目を向けたが、叱責する声が聞こえてこないことに安堵の息を吐くと、口元を覆っていた手をゆっくりと外した。

「キサさんって、本番前の舞台袖でも、今と何も変わらないような気がします」

「まさか」自分は一体どのような目で見られているのだろうと思いながら、希佐は目を大きくする。「私も本番前の舞台袖ではドキドキしますよ」

「それは緊張で?」

「緊張──ではない、です。なんていうか、気持ちが高揚してしまうというか。本番前ってワクワクするんですよね。もちろん、観に来てくださるお客さんを楽しませたいっていう気持ちはあるんですけど、それ以上に、自分が楽しまないとって」

「そんなふうに考えられること自体が凄いんですよ。わたしは全然駄目だったもの」ミシェルはそう言うと、微かに苦笑いを浮かべた。「稽古では上手くできることも、本番は緊張でいつも失敗してしまうんです。オーディションでもそう。絶対に大丈夫、今度こそは上手くいくって自分に言い聞かせても、それが逆にプレッシャーになったりして。かといって、いつも通りを意識したところで、結果は同じなんですけど」

「オーディション会場って独特の雰囲気がありますものね」

「そうそう。何なんでしょうね、あの周りの人間が全員自分よりも強者に見えてくる現象って。途端に自分が場違いに思えて、前日に作り上げたはずの自信が、ものすごい勢いで萎んでいくんです」

 ユニヴェールにいた頃から緊張することはほとんどなかった。だが、恐怖心を覚えたことはある。足が竦み、体が鉛のように重たくなって、途端に手足が震えはじめる──きっと、緊張するというのは、あの感覚と似ているのだろう。

「行動力と決断力はあるのに、人前に立つと途端に緊張で気後れしてしまうのって、人間的にバグってるなって思うんです」

「今でも舞台に立っていらっしゃるんですよね?」

「あっ、はい。とは言っても、知り合いの劇団のピンチヒッターとしてとか、ちょっとしたアンサンブルとしての出演とか、その程度ですが」

「そのときにも緊張を?」

「初日はもう心臓を吐くんじゃないかっていうくらい」でも、と女性は続ける。「何日かすると慣れてきて。のびのび演じられるようになった頃には、残念ながらいつも千秋楽を迎えているんですけど」

「そうなんですね」

 緊張というものは何が原因で起こるのだろうと、希佐は考える。

 これは難しい問題だ。すべての準備が万全に整っていると確信することができれば、緊張する理由などないように思うが、ミシェルの場合はそういう問題ではないのだろう。

 緊張癖、というものなのだろうか。過去に何か大きな失敗をし、それがトラウマとなって、本番前に体が強張ってしまうのか。だが、昨日今日の付き合いしかない自分が踏み込んで良い問題なのかが分からない。希佐は言葉を選びながら、口を開いた。

「舞台に立つことは楽しいですか?」

「え? え、ええ、それはもちろん」

「本番、特に初日はどうですか?」

「どうというのは……?」

「楽しめていますか?」

「……楽しむ余裕がないっていうのが、正直なところです」ミシェルは少しだけ困ったような顔をして言った。「失敗したらどうしようって、そういう思いばかりが膨れ上がっていって」

「でも、連日の本番をこなしていけば、気持ちは安定する。自分はもう大丈夫だ、失敗はしないと思える。それって要は成功体験の積み重ねですよね。だから安心することができる」

「はい」

「それが普通なのだと、私は思います。あなたは少しも変ではないし、何も間違ってはいない。緊張したり、失敗を恐れたりすることは、誰にでもあります。私だって舞台に立つことが怖いと思うことはありました。でも、舞台人はそうした感情を一つずつ消化して、少しずつ自分に打ち勝ちながら、それぞれのペースで成長していくんだって思うんです」

「だけど、それが何よりも難しい」

「分かります」希佐はミシェルの言葉に同意してから、先の言葉を続けた。「私が通っていた学校では、年に五回の公演を、三年間行います。だから、計十五回、舞台に立つ機会が与えられるんです。お客さんを招いての本番は、一公演につき一度きり。クラスは四つに分けられていて、学校は各クラスを競い合わせます。本番の出来によってクラスごとに順位をつけられ、更に個人の成績も決められる。誰もがクラス優勝と、個人賞金賞を目指して舞台に立ちます」

「わたしが通っていた演劇学校は、数年学んだあと、最後の年に五回の公演を行う決まりでした。三年間で十五回も公演をするなんて、本当にすごい」

「当時は自分が特殊な環境下にいることを自覚していませんでした。入学してすぐに役を与えられて、公演のための準備に追われる。それが終われば、また次の公演の役を与えられ、その準備に──三年間ずっとその繰り返しです。だから、本番の公演が行われる十五日以外は、常に準備期間でした。自主性が求められる学校でしたから、稽古の時間や内容も自分で決める必要がありましたし、やろうと思えばもう何時間でも稽古し続けることができるんですよね。三年生の時、陰で後輩たちが私のことを稽古ジャンキーと呼んでいるのを聞いたことがあるんですけど」

「あっ、わたしも似たようなことを言われた覚えがあります。いつも稽古場にいるから、先生がわたしに合鍵を預けてくれて、いつの間にか戸締り係に任命されていました。合鍵を持っているので、夜中にこっそり稽古をすることもできたりして」

 本当は駄目なんですけどと言いながら、ミシェルはちらりと舌を覗かせた。先生が目溢しをしてくれていたんですよね、という言葉を聞いて、希佐は不意に江西録朗のことを思い出す。

 見回りの途中だったのだろう、江西は真夜中に暗い稽古場で踊る希佐の前に現れては、それを咎めるでもなく、ほどほどになと言い残して去っていくことが度々あった。

「結局のところ、私の場合は、自分自身の不安を解消するために稽古をするんですよね。稽古時間の長さは、不安の大きさと比例すると思うんです。自分の不得手な部分を、少しでも完璧な形に近づけるためには、やっぱり稽古をするしかないなって」

「それは──」今度は希佐の話の聞き役に回っていたミシェルが、眉根を寄せながら言う。「わたしにはまだまだ稽古時間が足りなかったということでしょうか?」

「今のはただ、私の例を挙げてお話をしただけです。人それぞれに違った解決方法があって、私の場合、これまでに積み上げてきた稽古時間の長さや密度が、本番前の不安を和らげてくれると信じているんですよ。実際にそうなのかどうか、本当のところは私自身にも分からないのですが」

 希佐はそう言って困惑したような表情を見せるが、すぐにその表情を一変させると、口角を持ち上げた。

「それに、舞台がはじまってしまったら、あとは最後までやりきるしかないじゃないですか。舞台は生き物。私たちの人生と一緒で、一度動き出してしまったら、もう誰にも止めることはできません。だから、いざとなったら腹を括るしかないかなって」

「私も──」暗がりの中で目の錯覚を見たのでなければ、ミシェルはほんの一瞬だけ、今にも泣いてしまいそうな表情を浮かべたように見えた。「私もそんなふうに考えられたら、何か違っていたんでしょうか」

「今からだって遅くはありませんよ。ミシェルさんは今でも舞台に立たれていますし、ご自身の決断次第では、まだまだチャンスはあると思います。助監督さんだって、舞台人としての道を諦めてほしくなかったからこそ、役者は続けるようにとおっしゃったのではないでしょうか」

「そう、なのかな」

「そうですよ、きっと」

「うーん、そうなのかなぁ」

 ミシェルは半信半疑そうな声を漏らしていたが、その表情は満更でもなさそうだ。泣き笑いのような面持ちを浮かべ、鼻筋からずるりと落ちかけている眼鏡を元の位置に戻している。

 するとそのとき、背後から微かな物音が聞こえてきた。反射的に後ろを振り返ると、扉の陰に隠れるようにして立っていたベネディクトと目が合う。希佐が目を丸くしたあとで、ふと笑みを深めると、ベネディクトは困ったように頬を掻いてから、わざとらしく足音を立てて歩き出した。

「お嬢さんたちを自宅まで送り届けて来ましたよ」

「ああ、ありがとう」ゴダンが朗らかに応じている声が聞こえてくる。「二人とも楽しんでくれていたみたいだね」

「ちょうどお父さんが帰宅されたところだったので、少しだけお話を伺ってみたんですけど、上のお嬢さんのロンドン行きに反対はしていないみたいでした。叔母がロンドンに住んでいるので、都会暮らしに慣れるまでは面倒を見てもらうつもりだって」

「下の子のことは?」

「やっぱりロンドンに出すつもりはないようです。まあ、まだ小さいですからね。週末だけでも通って、今のうちから歌なりダンスなりを習わせてあげられたらいいんでしょうけど、こればかりは家庭の事情もありますから」

「将来有望そうなの?」

「それはまだなんとも言えませんけど」

「僕は舞台畑の人間ではないからなんとも言えないなぁ」

「知り合いのエージェントに話してみます。事務所に所属すれば、契約によっては演劇学校の学費をいくらかでも負担してくれるかもしれませんし。場合によっては、知り合いの劇団を紹介してもいいと思ってます」

「随分親身になってあげるんだね」

「オレ自身が、もっと早くにこの世界に足を踏み入れておけばよかったって後悔してるからですよ。映画に出演するような役者と、舞台に立つ役者とでは、育て方が根本的に違うので、はじめるなら早いに越したことはないんです。でも、口を挟みすぎるのは良くないので、こっちからは提案って感じで声掛けをするだけに留めておきます」

「僕もそれがいいと思うよ」

 この世界には夢を追い求める、可能性を秘めた原石がたくさん存在しているが、それが一級品の宝石として認められるためには、数多くの難関を突破していかなければならない。大きな夢を胸に抱いたまま、何の行動にも移せずに、ただ諦めることしかできない者もいるだろう。こうして、助けの手を必要としている若者は、きっと大勢いる。

 あの姉妹は自分と同じなのだと、希佐は思う。

 あの日、家の近所にある神社で中座秋吏に声を掛けられ、その手を取ることを選んだ自分と、同じなのだ。だからどうか、このチャンスを生かしてほしいと思う。後悔のない選択をしてほしい。あの日、あの場所で、あの手を取ってよかったと、心の底から思っているから。

「あっ、そうだ」リビングにいる二人の話に耳を傾けていた希佐は、そう言うミシェルの声でふと我に返った。「キサさんって、近々ロンドンに戻られるんですよね?」

「はい、その予定ですが」

「では、その前にまたあの二人を招待して、何か小さな催し物をしてみませんか? もう日がないので凝った出し物はできませんが、キサさんなら歌を歌ったり、ほら、朗読劇とかなら私も何とか出来そうですし」

「とても良い考えだと思います。是非、やってみましょう」

「そうと決まれば、善は急げです。ちょっとレオに許可をもらってきますね」

 自分が日本やロンドンで周囲の人々に手を差し伸べられてきたように、自分も誰かに手を差し伸べ、力になることができたら、きっと報われるような思いがするのではないだろうかと、希佐は思っていた。

 たとえ自分の道がここで潰えるのだとしても、また別の道が、先へ先へと向かって続いていく。そういう未来があると想像するだけで、心がすっと軽くなり、救われるような思いがする。

 レオナール・ゴダンの許可はすぐに下りた。風景の撮影は粗方終わっているので、この週末は他の撮影班のスタッフたちに数日間の休暇を出そうと、そういう話に落ち着いたらしい。

 ダイニングテーブルで無地のノートを広げ、出し物について希佐とミシェルが話し合っていると、ゴダンが大きなマグにミルクティーを淹れて持ってきてくれた。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」ごちゃごちゃと書き込まれたノートを興味深そうに覗き込みながら、ゴダンは言う。「当日の記録係は任せてくれていいよ」

「えっ、本当ですか?」

「もちろん」

「贅沢だなぁ」

 閉店間際のスーパーマーケットに駆け込み、食材を調達してきたベネディクトが、みんなのために夜食を作ってくれながら笑った。

 ゴダンが引き連れている撮影班のスタッフは誰もが穏やかで、終始和やかな雰囲気が漂っている。希佐がそのように言うと、ベネディクトはとんでもないというふうに大きく頭を振った。

「今はこんなゆるい感じだけど、ここに役者が関わってくると、話は別なんだ。レオは、自分の納得がいく演技が引き出されるまで何度だってやり直させるから、現場はよくピリピリしてる。何がどう悪いのか、どうすれば正解なのかも絶対に教えないから、この前なんかそのプレッシャーで女優が泣き出しちゃって、大変だったよ」

「あれは僕が悪かったのかい? 僕はただもっと自然にしてほしいとお願いしただけだ。そもそも、厳密な指示を出してしまったら、その時点で演技臭くなるだろう?」

「たとえそうだとしても、あなたの指示はいつも漠然としすぎているんですよ、レオ」

「僕は彼女の素朴なところを気に入って役に起用したんだよ。演技をしなくて良いと言っているのに、別の人間を演じようとするから──」

「ああ、もう、はいはい」ベネディクトはゴダンの言葉を遮り、参ったというふうに息を吐く。「カメラの前に立たされて、自分を偽らずにいられる人間がどれだけ貴重なのか、あなたは知らないんですよ」

「僕が撮りたいのは役者の顔じゃない」

「ええ、もちろんそれは知っています」

「この一ヶ月で改善されなければ──」

「キャスティングの変更」ベネディクトはそう言うと、もう一度大きくため息を吐いた。「分かっています」

 舞台は刹那的なものだが、映画は永遠だ。前にクロエ・ルーが言っていた言葉を、希佐は思い出す。

『舞台は生き物だとよく言われるけれど、私は、映画は彫刻だと思うのよ。大きな硬い一枚岩を、監督が小さな彫刻刀で地道に彫って、一つの作品を創り上げていくの』

 そうして完成された彫刻は次々と人の目に触れ、その出来栄えによって名声を博していくのだろう。それこそ、斜陽の雲のように。

 希佐とミシェルはベネディクトが作ってくれたサンドイッチを頬張りながら、尚もノートと向き合っていた。ゴダンたちは隣のリビングで、映像の編集作業を行っている。

「時間的には一時間前後、二人劇、今からでも段取りが頭に入って、若い女の子が楽しめる内容のもの──」

 ネット上には、脚本家の好意で公開されている使用料の掛からない公演用の台本が、無数に存在している。二人はその中から、二人劇用の台本で何か良いものはないかと読み漁っていたが、これぞ、というものはなかなか見つからなかった。

「人間ドラマや恋愛なんかは妹ちゃんが楽しめませんし、かといって子供向けに偏りが過ぎると、今度はお姉ちゃんが楽しめないでしょうし、困りましたね」

「でも、ウィキッドを理解できるなら、ある程度は大人向けのストーリーでも楽しめるのではないでしょうか」

「あ、そっか、そうですよね」

 だがしかし、希佐はネット上に公開されている台本のタイトルを眺めながら、頭の中にある別の選択肢について思考を巡らせていた。

 希佐は一つ、条件に当てはまる良い脚本を知っている。尺も丁度良く、幼い子供から若い女の子まで楽しめるような内容だ。ただ、その脚本はネット上のどこを探しても見つからないだろう。日本語の台詞ならすべて頭に入っているが、残念ながらそれを翻訳している時間的な余裕はない。

「あの、ミシェルさん」

「あっ、何か良さそうなものがありましたか?」

「いえ、そうではなくて──」期待をするような眼差しを向けられた希佐は、少しだけ申し訳なさそうな面持ちを浮かべる。「良さそうなお話を一つ知っているのですが」

「えっ、本当ですか?」

「はい」でも、と言いながら、希佐は眉を顰める。「今、手元には本がないんです。元々は海外の作品を日本語に訳して脚本に仕上げたので、日本語の台詞ならすべて覚えているのですが、それを再翻訳し直すとなると時間がいくらあっても足りなくて──魔物のエクスというお話なんですけれど」

「魔物のエクス、ですか」

「ご存知ですか?」

「多分知らないと思います。どんなお話か聞かせていただけますか?」

 希佐は、ユニヴェール時代に加斎中と授業の課題で翻訳した、魔物のエクスの物語を簡単に話して聞かせた。すると、ミシェルは眼鏡越しの目を輝かせて「素敵なお話ですね!」と興奮気味に言う。

「それならエクスとピオーティア、ナレーターは端役を兼任するとして、三人で何とかなります」

「それはもしかして、俺にナレーションをやれって言ってるのか?」

「他に誰がいるんです?」作業の手を止め、こちらを振り返っているベネディクトに向かって、ミシェルは言った。「それくらい手伝ってください」

「まあ、良いけど」

「ですが、脚本が手元にないので、実際問題難しいかと……」

 現在は金曜日の午後十時。明日の朝一番の列車でロンドンに帰り、脚本を取ってきたとしても、戻ってくる頃には夜を迎えている。姉妹を招くのは日曜日だ。稽古をする時間もない。

「アランに連絡をしてみたらどうかな」こちらを振り返らず、パソコンの操作を続けながら、ゴダンが言った。「どっちみち彼は君を迎えに来るのだから、ついでにその脚本を持ってきてもらえばいい」

「でも、その脚本って日本語なんだろ?」

「あ、いえ、それは英語です」

 日本を出たばかりの頃、英語の勉強のために、日本語の台詞を英語に書き換えたものが、今も部屋の棚の中に収められている。だが、今ほど英語を駆使できていたわけではないので、手直しは必要だ。それでも、一から翻訳し直すよりはましだろう。

 いずれにしても、そろそろどちらともなく連絡をし合う時間帯だ──希佐は手にしていたスマートフォンを操作し、アランの連絡先を画面に出した。

「持って来てもらえるか聞いてみます」

「あわわ、えっ、今からアラン・ジンデルに電話をかけるんですか? わたしの目の前で?」

「じゃあ、別室で──」

「いえ、いえいえ、ここでどうぞ! むしろ、ここでお願いします!」

「キサ、そいつのことは無視してくれていいぞ」

「だ、大丈夫ですよ、キサさん。ちゃんと大人しくしていますから」

 んっ、と言って唇を真横に引き結んだ上に、手の平で強く蓋をし、ミシェルはどうぞと言わんばかりにスマートフォンを指している。その様子を見ていたベネディクトは、やれやれと言いながら肩をすくめ、自らの作業に戻っていった。

 希佐は通話ボタンをタップすると、スマートフォンを耳に当てる。コール音を聞きながら隣に目をやると、ミシェルが嫌に緊張をした面持ちで、ぐっと息を止めているのが分かった。

「あの、ちゃんと息を──」

 息をしてくださいと言い掛けたそのとき、三回と半分でコール音が途切れた。思わず口を噤んだ希佐の耳に、普段通りの落ち着いた声が聞こえてくる。

『Hello.』

「Are you alright?」

『Not bad.』酷くらしい返事に小さく笑うと、アランは続けた。『You're earlier than usual.』

「Actually, I need a favour.」

 頼みごとがあるという希佐の言葉を聞くと、アランは「ちょっと待って」と言いながらスマートフォンを耳に当て直している。どうやらバスルームで電話を取ったようだ。その声が微かに反響して聞こえてくるのが分かった。

「ごめんなさい、もしかしてお風呂に入っていた?」

 希佐が申し訳なさそうにそう言うと、大丈夫だと言うアランの声と、隣で息を呑むミシェルの声が重なった。ミシェルの声が向こうにも聞こえていたのか、怪訝そうに「誰?」と訊ねてくる。

「レオの事務所の方で、ミシェルさん」

『ああ、あの人』アランはそう応じたものの、大して興味はないようだった。『それで、頼みってなに?』

「アラン、明日にはグラスミアに来るって言っていたでしょう?」

『うん』

「そのときに持って来てもらいたいものがあって」希佐はミシェルの様子を横目に見ながら続けた。どうやら息はしているようだ。「魔物のエクスっていうお話の脚本が、私の部屋の本棚に入っているのだけれど、それがすぐに必要なんだ」

『すぐに?』希佐はこの村でとある姉妹に出会ったことや、あらましを簡単に話して聞かせた。すると、アランは僅かな間のあとで、こう言った。『分かった』

「本当?」

『うん』ありがとう、と希佐が言うより早く、アランは次の言葉を口にする。『今から持って行く』

「えっ?」

 思わず驚いて大きな声をあげると、リビングにいた二人がこちらを振り返った。希佐は申し訳なく思いながら首を竦め、電話口の向こう側に声を掛ける。

「今からってどういうこと?」

『早い方がいいんじゃないの』

「それはそうなんだけど」

『元々車で行こうと思ってたから、別にいつ出発しても同じだ』

「だけど、もう十時だよ」

『夜の方が道も空いてるだろうから、逆に都合がいい。夜が明ける前には着くだろうし、運が良ければ君が見た朝日を見られる』

「夜通し走るなんて危なくない? それも一人で──」

『別に危なくはない』

「でも」

『君の言葉は矛盾してる』アランは少し呆れた口振りだ。『脚本はすぐに必要なんだろ』

「……うん」

『だったら普通にお願いと言えばいい。そうすれば俺はすぐに向かえる口実ができるし、本来の予定よりも早く君に会える』

 この人はときどき、こうして、よくあるラブストーリーで口にされる台詞のような言葉を、何の恥ずかしげもなく平然と言ってのける。それが安っぽく聞こえないのは、その言葉がアラン・ジンデルの本心で、飾り気がないからなのだろう。

 考えて出た言葉ではなく、ただ思ったことを口に出している。そのように努めてくれているのが分かる。頭の中で考えすぎてしまうが故に、飲み込まれてきたこれまでの思いの数々を、余すことなく浴びたいと思った。

「……お願い」

『分かった』アランの声が心なしか軽くなったように聞こえた。『他にもなにかある? 君、着の身着のまま出て行ったから。必要なものがあったら一緒に持っていくけど』

「ううん、大丈夫。ありがとう」

『じゃあ、今から準備する』

「うん」

『起きてなくていいから』寝ずに待つつもりでいた希佐に向かって、アランは言った。『稽古のためには寝ておいた方がいい』

「……分かった、じゃあ、そうさせてもらうね」

 そう言わなければ、きっとアランは納得しない──そう希佐が思ったことすら、恐らくアランには筒抜けなのだろう。

『そこにレオはいる?』

「うん」

『代わって』

「分かった」希佐はそう言って椅子から立ち上がると、リビングで鋭意作業中のゴダンにスマートフォンを差し出した。「アランが代わってほしいと言っています」

 ありがとう、と言ってスマートフォンを受け取ったゴダンは、パソコンの画面に映し出されている映像を確認しながら話し出した。

「Oui, C’est moi.」

『Why do you speak French?』はあ、というため息が、微かに聞こえてくる。『Je pars maintenant et j'arriverai avant l’aube.』

「Avez-vous trouvé les réponses?」

『Je n'en sais rien.』

「Kisa ne t'attendra pas.」

『Je vais leur courir après, désespérément.』

 アランの返事を聞いて、ゴダンはその表情を綻ばせる。これは聞いても良い会話なのだろうかと思い、その場を離れようとすると、ゴダンはそれを引き止めるように希佐を見上げた。

「Bonne chance, Alan Zinder.」そう言い、ゴダンは息を漏らすように笑った。「Come with care.」

 ゴダンはアランの返事を待たずに、スマートフォンを希佐の手に返してきた。正面のソファに腰を下ろしていたベネディクトは、自らの膝に頬杖をつきながら「秘密のお話ですか?」と悪戯っぽく声を上げている。

「ただのフランス語だよ」

「少なくとも俺やミシェルには理解できません」

「では、勉強をしてはどうかな」

「あなたの内緒話を盗み聞きする以外になんのメリットがあります?」

「海外旅行に役立つよ。あとは、そうだね、余生をカナダのモントリオールで過ごすのにも必要不可欠だ。僕は人生の最期をあの美しい街で迎えたい」

「まさか、死ぬまで俺をこき使うつもりですか?」

「そんなつもりは毛頭ないけどね、僕が今際の時に、フランス語が分からなかったという理由で臨終に間に合わなかったら、君は自分の死に際まで後悔し続けると思うなぁ」

「モントリオールってカナダでしょう? 英語が通じないなんてことあります?」

「あの街は道路標識から何からフランス語だからね。店の看板もすべてフランス語表記が義務付けられているから──」

 希佐は二人の会話を背中で聞きながら、スマートフォンを再び耳に当てた。電話の向こう側からは、時折、水の音が聞こえてくる。

「Merci d’avoir patienté.」

『君まで?』くすくすと笑う希佐に向かって、アランは面倒臭そうに言う。『グラスミアの公用語は英語だったはずだけど』

「レオがときどき思い立ったように英語を禁止するから、少しだけフランス語が上達したかもしれない」

『レオの暇潰しのおもちゃにされているだけ』

「私はてっきり勉強のお手伝いをしてくれているのだと思ってた」希佐は冗談を言うようにそう口にしてから、少しだけ声音を変えた。「本当に気をつけて来てね」

『何がそんなに心配なの』

「声が疲れているように聞こえるから」

『君も経験あると思うけど、毎日バージルとイライアスに扱かれ続ければ疲れもするよ』

 誰か一緒に来てもらえば良いのではないかと、そう提案しかけた口をなんとか閉じる。あまりしつこく言い過ぎるのも良くはない。本人が大丈夫だと言っているのだから、大丈夫なのだ。

『納得した?』僅かな沈黙のあと、アランが言う。『何なら一晩中でも通話を繋げておくけど』

「ううん」

『そう』

「じゃあ、脚本をお願いします」

『うん』

 最後に「またあとで」と言って、アランは電話を切った。希佐はスマートフォンから顔をあげ、ダイニングにいるミシェルのところまで戻っていく。

「エクスの脚本、アランが今から車で持って来てくれるので、明日の午前中から読み合わせができると思います」希佐が椅子に腰を下ろしながらそう声を掛けても、ミシェルはどこか唖然とした顔でこちらを見つめていた。「どうかされましたか?」

「あ、あのアラン・ジンデルが、わざわざロンドンから何時間も車を走らせて、台本を届けてくれるんですか……?」

「はい、そうみたいです」

「うわああ……」ミシェルは自らの腕に立った鳥肌を撫でさすった。「本当にいらっしゃるんですか?」

「ミシェル、あいつにはロンドンの撮影のときに会ってるだろ?」

「ちらっとお見かけしただけです」

「紹介してやるって言ってるのに、逃げ回ってたもんな」

「自分が憧れの人の視界の中に入るんだと思うと、なんていうか、恐れ多いじゃないですか」両頬を手の平で覆っているミシェルを振り返り、ベネディクトは愉快そうに笑っている。「ああ、どうしよう、物凄く緊張してきました……」

「えっ、もうですか?」

「今夜はもう眠れないと思います」

 それには同感だと思いながら、希佐は手元にノートを引き寄せる。もう少しだけ詳しく魔物のエクスについて解説しておいた方が、読み合わせのときに楽ができるはずだ。

 希佐は、現状を受け入れることに苦労しているミシェルの肩をとんとんと叩くと、ノートにペンを走らせながら口を開いた。

「その良い緊張感を保ちながら、お芝居の準備をしましょう。脚本が届く前に、もう少しだけ詳しく魔物のエクスについてお話させてください」

「あっ、はい」どこか恍惚とした面持ちを浮かべていたミシェルだったが、希佐の表情が引き締まるのに合わせて、心持ちを入れ替えたのが分かる。「よろしくお願いします」

 それでも、もう一本のペンを握るミシェルの手が、小刻みに震えているのを目の当たりにした希佐は、ほんの一瞬だけ、言葉を失ってしまった。

 

 

 

 

 ぶぶぶ、と枕元が振動して、希佐は慌ててスマートフォンを手に取る。

《もうすぐ着く》

 その短いメッセージを読むと、結局ホテルには戻らず、希佐の部屋のベッドで眠ってしまったミシェルを起こさないように、静かに、そっと、急いで階下に降りた。リビングの方を覗き込むと、ゴダンとベネディクトが昨夜と同じ格好のまま、未だに編集作業を続けている背中が見える。

「おや」希佐の足音に気づいたゴダンが、こちらを振り返った。「まだ起きていたのかい?」

「アランがもうすぐ到着するそうです」

「もうそんな時間?」ベネディクトは頭を掻きながら腕時計を見た。「そろそろ三時半か。もうすぐ着くってことは、ウィンダミアの辺りまで来てるんだろうから、あと二、三十分ってところかな」

 妙にそわそわすると思いながら、希佐が自らの髪を手の平で撫でつけていると、その様子を見ていたゴダンが笑いながらソファから立ち上がった。

「嬉しそうだね、キサ」

「えっ?」

「そんなに脚本の到着が待ち遠しいのかな」ゴダンはわざとらしく見当違いの言葉を口にしながら、希佐がいるダイニングの方へとやってくる。「せっかくだから、真夜中のお茶会と洒落込もうか。君も手伝ってくれる?」

「はい」

「姉妹がお土産に持って来てくれたジンジャーブレッドがまだあるし、僕がコトコト煮込んだルバーブのコンポートも冷蔵庫で冷えているから、生クリームを添えて出そう」

 ゴダンは、頭の中がアイデアでごちゃごちゃしてくると、キッチンに立って料理をするのだという。

 数日前の深夜、希佐がキッチンで朝食の支度をしながらアランと通話していると、ゴダンもそこへやって来て、突然ルバーブを取り出しはじめた。赤ワインと砂糖でコトコトと煮込まれたルバーブのコンポートは、ほんのりと甘く、さっくりとした食感を残したやわらかすぎない仕上がりで、とても美味しかった。

「茶葉はキサが選んでいいよ」

「分かりました」

 分かったとは言ったものの、希佐は紅茶の茶葉が保管されている棚の前で腕を組みながら、悩ましげに唸り続けることになる。アランが好んで飲んでいる銘柄の茶葉がなく、それ以外の銘柄のダージリンの缶が、二つも三つも並んでいるからだ。

 ぶつぶつと呟きながらうんうんと唸っている希佐を横目に見ながら、ゴダンはくつくつと笑っていた。

「存分に悩んでくれて構わないよ、キサ。時間はまだたっぷりとある」

「すぐに決めます」希佐はそう言うと、少し奥の方に入り込んでいた、フォートナム&メイソンの水色の色鮮やかな缶を取り出した。「これにします」

「では、次はお湯を沸かしてくれるかい?」

「はい」

 ケトルにたっぷりの水を入れ、コンロの火に掛ける。ゴダンはボウルに氷水を作り、それに生クリームを入れたボウルを重ねると、ホイッパーで手早くクリームを泡立てていた。

 以前、初めてアトリエを訪ねたとき、アランはレオが張り切るとろくなことにならないと言っていたが、希佐の目から見るに、ゴダンは何でもそつなくこなしてしまう印象がある。それを不思議に思っていると、ゴダンは内緒だよと言って教えてくれた。

「不器用なふりをしていれば、彼が何かと世話を焼いてくれるだろう? それが嬉しくて、ついね」

 アランはすぐに面倒臭いという言葉を口にするが、元来面倒見が良くて、あれこれと世話を焼いてくれる。働きたくないと言いながらも、毎日毎日机に向かい、時間を忘れて仕事に没頭している。少しくらい休んだ方がいいのではないかと言うと、君にだけは言われたくないと言って、いつも呆れた顔をするのだ。そういうところが、自分たちはよく似ていると、いつか話したことがあった。

「俺も何か手伝いますよ」

 編集作業が一段落したのか、ベネディクトがそう言ってキッチンにやって来た。ぐうっと天井に向かって伸びをしてから、ホイッパーを持ち上げて生クリームの固さを確認しているゴダンを見る。

「何をします?」

「食器棚から花柄のティーセットを出してくれるかな」

「はいはい」

 ベネディクトは食器を割るかもしれないなどとは思いもしないのか、高価なティーセットも他の食器類と変わらない様子で扱っていた。希佐は内心で冷や冷やとしながら、その様子を黙って見守っている。

「あ、ミシェルはどうします? 起こして来ますか?」

「いや、寝かせておいてあげよう」ゴダンはそう言いながら、ふふふ、と笑っている。「寝ぼけ眼で起きてきた彼女が、朝一番にアラン・ジンデルを見たらどんな顔をするのか、想像するだけでワクワクするよ」

「いつもの調子で起きてきたら卒倒しますよ、あいつ。ホテルでなんて、パジャマ姿のまま、寝癖も直さないで食堂に降りてくるんですから」

 身に覚えがあり過ぎると思いながら、希佐は思わず苦笑いを浮かべた。

 自分もときどきそうした姿をアランの前で晒してしまっている。アランは希佐が気の抜けた格好をしていても、特に何も言わないが、本当はベネディクトのようにだらしないと思っているのかもしれない。

 そうして、今度からは気をつけようと考えていると、遠くから近づいてくるエンジン音がふと耳に留まり、希佐は玄関の方に目を向けた。しかし、ゴダンとベネディクトの耳にその音は届いていないのか、気にせず話を続けている。割って入るのもよくないと思い黙っていると、今度はどこか聞き覚えのあるエンジン音が聞こえなくなり──ブー、と少し遠慮気味に、短く玄関のブザーが鳴らされた。

「キサ」その呼び声に、希佐はゴダンを振り返る。「出てくれるかい?」

「はい」

 この一週間で二人の問題が解決したとも、解決するだろうとも思っていない。この問題はきっと驚くほど根深いものだ。そう簡単に全容を解明することはできないだろう。それは分かっている。だが、夜毎互いの気持ちを打ち明け合うほどに、強くなっていく思いがあった。

 この人は驚くほど誠実で、悪意というものを知らない。斜に構えているように見えて、実際のところは酷く真っ直ぐだ。心の中は生まれたての子供のように純粋で、真っ白い色をしている。

 その心の最もやわらかい部分を覆い隠していたヴェールは透明になり、すべてをさらけ出してくれていると分かるから。

 もう逃げることはやめよう。

 玄関ホールを抜け、扉の前で足を止めた希佐は、手櫛で髪を整えてから大きく息を吐き出し、かちゃり、と鍵を外した。取っ手を回し、重たい扉をゆっくりと内側に開く。

 何となく真正面から目を合わせるのが気恥ずかしく、俯きがちになりながら上目遣いに見上げると、仕方なさそうに笑うアランの顔が、こちらに向けられていた。

「随分夜更かしだな」

「それなら、どうして──」

「メッセージを送ったのか」アランは希佐の顎に指先を添え、顔を上向かせる。「君なら俺に何を言われても起きて待っていると思ったから」

 屋内から漏れる光を取り込んだ緑の目が、星を散りばめたかのようにきらきらと輝いて見える。その眼差しに魅入られ、視線を逸らせずにいると、アランはその先の言葉を続けた。

「あんなふうに言っておかないと、もし君が待ちくたびれて眠ってしまったとしたら、そのときは自分を責めるだろ。先に寝ていてくれと言えば、俺に寝ろと言われたからだと言い訳ができる」

 あんなにも短く感じていた赤い髪は、いつの間にか緑の目に掛かるほどに伸びて、希佐の脳裏に以前までの面影をちらつかせる。

 ロンドンを離れてから、たった一週間しか経っていない。一ヶ月近く顔を見なかったこともある。それなのに、こうしている今の方がそのときよりもずっと、懐かしく感じるのはなぜなのだろう。

 アラン・ジンデルが自らの世界を広げ、あらゆる方向へ目を向けはじめている現実を嬉しく思う反面、この宝石よりも美しい目は自分だけのものだと、そう思えていた頃を懐古してしまいそうになる。

「なんで黙ってるの」

「あなたに見惚れてた」希佐がそう言うと、アランは目を丸くする。「もう何年も会っていなかったみたいに感じる」

「毎晩話していたのに」

「毎晩話していたからなのかな」

「どういう意味?」

「声だけでは足りなくて」秘め事を告げるような掠れ声で、希佐は囁くように言った。「あなたに触れられたかった」

 I wanted to be touched by you.──そう口にした次の瞬間、アランの手が希佐の腕を掴み、自身の方へと引き寄せた。その腕の中にすっぽりと包み込まれ、抱き竦められると、背後から扉の閉じる音が聞こえてくる。

 息ができないほど苦しいはずのに、こうして抱き締められてようやく呼吸をすることができたような、そんな感覚を覚えていた。

 アランは希佐の首筋に顔を埋めると、抱き締める腕に更に力を込めた。全身が拘束されたような状態のまま、それでもかろうじて身動きを取れる頭を傾け、アランの頬に自らの頬を擦り寄せる。

 ああ、そうだ、この匂いだ──安心できる香りに包まれ、肩の力が抜けていく。

「アラン」

「違う」

「……ラファエル」

「ん」

「私に会いたいと思ってくれていた?」

「俺が誰のために何時間も車を走らせてきたと思ってるの」アランはその身を僅かに起こすと、額と額が触れ合いそうなところから、希佐の目をじっと覗き込んだ。「会いたかった。焦がれるくらい」

 頬に添えられた手の平が、ゆっくりと、じらすように肌の上を滑る。間近で吐き出された熱い息が産毛を震わす感覚すら、今は余すことなく感じ取ることができた。

 希佐は胸元から滑らせるように手の平を這わせ、爪先立ちになりながら、アランの首に両腕を絡める。うっすらと開いた唇の隙間から微かに舌先を覗かせれば、アランは希佐の体を背後の扉に押しつけ、吸い付くような口付けをした。理性を手放しかけた感情が、更にその先を求めている。いけないと分かっているのに、自分ではどうすることもできない。

「キサ」

 キスの合間に、ぞくりとするほど甘い声が、その名を呼んだ。

 その声の中に何もかも、すべての感情が集約されて、すうっと胸の中に落ちてくるような心地がする。どんな感情も、この人から与えられるものはすべて、余すことなく享受しよう。この泉から湧き出るような愛情も、気持ちが悪いと感じた嫌悪感も、才能に対する嫉妬心も、そのすべてから目を逸らしたくない。この人のすべてが欲しい。すべてを奪い、そのまま攫ってしまいたい。

 だが、それと同じくらい、自由になってほしいとも思っているのだ。すべての柵から解き放たれ、自身の望むがままに生きていくことができたなら、そのときはもう、自分は役割を終える──きっとそれが、最も良い未来なのだろうと希佐は思う。

 バージルから指摘されていた共依存。今はまだ、その域から脱することができていない。この一週間でそれを痛感している。

 こうしている今だって、幸福感に包まれるのと同時に、言い知れぬ不安感を覚えている。いずれこれを手放さなければならないのだという、強迫観念のような思いが、脳髄の真ん中でぐずぐずと燻っている。まるで、産湯に浸かるように温かなこの人の腕の中は、一度足を踏み入れてしまえば最後、抜け出すことが困難なあの街によく似ていた。

 やわらかく抱きすくめられ、耳元でどこか満たされたかのような吐息が漏らされたそのとき、背後から、コンコンコン、と扉が叩かれた。希佐がその音を聞いて顔を上げると、アランはそっとキスをしてから、扉の向こう側に目をやった。

「なに」

「お取り込み中だったかな」

「そう思うならもう少し気を使ったら」

 アランがそう答えると、扉越しに立っているゴダンが、面白そうに笑う。

「長距離移動で疲れているだろう? お茶の支度が整ったから、少しゆっくりするといい」

「……分かった」希佐の目を見下ろしながら、アランは言った。「すぐに行く」

 アランはそう言うと希佐から離れ、踵を返して車まで戻っていった。

 ワゴンバスタイプのこのかわいらしい車は、アランが所有しているものだが、普段は義兄のロバートが使用している。ミゲルの送り迎えや買い出し、教会以外の仕事のときに活躍しているようだ。希佐がアランの運転する車に乗ったのは、三年前の引っ越しのときが最初で最後だった。

 後部座席のスライドドアを開けている後ろに歩み寄っていくと、アランはこちらを横目に見たあと、ボストンバッグを差し出してきた。

「着替え」

「私の?」希佐が問うと、アランは小さく頷く。「ありがとう」

 必要ないと言ったのに、とは言わなかった。希佐は受け取ったバッグを抱えるようにして持ち、自分の荷物を小脇に抱えて車の鍵を閉めているアランを待った。

「脚本も中に入ってる」

「届けてくれて本当にありがとう」

「ついでだから」

「どこにあるかすぐに分かった?」

「うん」

 希佐がその横顔を見上げていると、アランは僅かに口角を持ち上げて微笑んだ。なぜかは分からない。だが、その表情が一週間前よりもずっと穏やかに感じられて、希佐は思わず目を瞠った。

「早く行かないとレオに小言を言われる」

「あ、うん、そうだね」

 希佐はそう言うと、先に立って玄関の扉を大きく開き、アランを中へ迎え入れた。玄関ホールを抜けていくと、キッチンから廊下に光が漏れているのが見える。バッグを抱えたままキッチンに入っていくと、ダイニングで椅子に座り、背もたれに寄り掛かりながらにやけ顔を浮かべているベネディクトと目が合った。

「よう、アラン」ベネディクトは希佐の後ろからやってきたアランに向かってそう声をかけるが、アランはそちらに一瞥をくれるだけで、すぐに目を逸らす。「あっ、おい、無視すんなよ」

「無視はしてない」

 アランは短くそう応じると、小脇に抱えていたバッグをダイニングの椅子に置き、キッチンまで手を洗いに戻る。自分も洗っておいた方がいいだろうとアランの隣に並ぶと、手の平を出すように促され、その上にひんやりとしたハンドソープを押し出してくれた。

「ありがとう」

 もくもくと泡立った手を洗い流し、手渡されたタオルで水気を拭っていると、ダイニングで座っていたベネディクトが「ふうん」と、意味深長な声を上げるのが聞こえてきた。先ほどのにやけ顔とは違い、酷く意外だという面持ちを浮かべているように見えた。

「なに」

「いや、なんでもないよ」

 ゴダンに座るよう促された二人は、そのまま隣り合わせに腰を下ろす。希佐は椅子に置いていたバッグを膝に置き、その中から頼んでおいた脚本を取り出した。

「今どき手書き?」

「当時はパソコンとか持っていなくて」希佐はホッチキスで留めてあるだけの脚本をテーブルの上に置き、バッグを足元に下ろした。「今も持ってはいないんですけど」

 ゴダンがカップに紅茶を注いでくれる。希佐は感謝の言葉を口にし、全員にお茶が給仕されるのを待って、カップを口に運んだ。これまでに飲んだことのない香りと味わいだ。舌の根に残るのは微かな苦味なのだが、鼻から抜けていく香りは果物を思わせる。

 ミルクを入れるのはもったいないな──希佐がそう思いながら顔を上げると、正面に座っていたベネディクトが何の躊躇いもなく、カップの中にミルクを流し込んでいるところだった。

 紅茶の楽しみ方は人それぞれだと考え、カップをソーサーに戻していると、テーブルの上に置いた脚本をアランが手に取り、表紙をめくる。

「道中どうだった?」

「どうって、別に」ルバーブのコンポートを取り分け、生クリームを添えてテーブルに並べていくゴダンを一瞥し、アランは再び脚本に視線を落とした。「金曜の夜だから、結構車通りはあった方だと思うけど」

「僕の車が役立っているようで何よりだよ」

「え?」

 目を丸くする希佐の前にルバーブの皿を置きながら、ゴダンは笑みを深める。

「あの車は元々僕が乗っていたものなんだよ。渡英するときにアメリカから船で運んでもらったものなんだけど、いろいろと手続きが面倒でね。またアメリカに運ぶのも億劫だったし、アランが車を持っていないというから、そのまま譲ったんだ」

「メンテナンス費用のことを考えたら、新車を買った方がずっと安上がりなんだけど」

「大切に乗ってくれているみたいで嬉しいよ」

 あの日、アパートの部屋を引き払って、スタジオに引っ越しをしたときから、レオナール・ゴダンとの縁が結ばれていたのかもしれないと思うと、なんとも奇妙な心地がする。

「キサ」

 ルバーブをフォークで切り分け、クリームを纏わせて口に運んでいると、脚本を読んでいたアランが声を掛けてきた。急いで咀嚼し、紅茶で口の中を空にしてから、隣を見上げる。

「うん?」

「相当な手直しが必要だ。舞台演出家の脚本より酷い」

「あれは何度か書き直していくらかましになった状態だったんだけど、エクスは一度書いたきりそのままにしていたから」

「これは書籍?」

「ううん、海外脚本を日本語訳して、それを更に英訳したんだけど」

「原型残ってないんじゃないの」

「多分、そうだと思う」希佐が苦笑いを浮かべながらそう言うと、アランは呆れたような眼差しを向けてきた。「持ってきてもらったら、すぐに手直しをはじめるつもりだったんだ」

「元の作品を探した方が早い」

「どうやって探すの?」

 ここがロンドンであればいざ知らず、湖水地方の小さな村には、脚本集を販売しているような書店はない。すると、アランは脚本を顎の下に挟み、足元に置いたバッグの中からノートパソコンを取り出した。

「脚本家のオンラインコミュニティに行けば、誰か一人くらいは知ってるだろ」

「でも、今は真夜中だし──」

「オンラインコミュニティに時間は関係ない」アランはそう言うと、希佐の鼻先を軽く弾く。「世界中の脚本家が繋がってるコミュニティだから」

 失礼、と言ってノートパソコンを手に席を立ったアランは、誰もいないリビングの方に向かう。

「レオ、Wi-Fiのパスワードは?」

「待って、僕は君みたいに記憶力が良くないんだ」

 ゴダンはテーブルに両手をついて立ち、アラン同様希佐に向かって失礼と断りを入れてから、リビングに足を向けた。つい先ほどまでゴダンが座っていた場所に腰を下ろしていたアランは、ゴダンが差し出した紙を受け取ると、それを見ながら素早くキーボードを叩く。

「正直、意外だったよ」

「何がですか?」

「あんな男でも人並みに恋とかするんだなぁ」あんな男なんて言い方は失礼か、とベネディクトは声を低くして続ける。「昔からレオには妙に懐いてたから、レオだけが特別なんじゃないかと思ってたんだけど、どうやら違ったらしい。君を見る目が、とにかく優しいから」

「そう、ですか?」

「脚本家を紹介するってレオに連れられて挨拶に行ったとき、俺はあいつのことを、なんて暗い目をした辛気臭い陰気な野郎なんだろうって思った。世界に見放されたみたいな顔でさ、ホテルのラウンジに座ってたよ。でも、あんな形だから嫌でも人目を引く。それが不快でたまらないって感じで、すごく不愉快そうだった。俺と会うとさ、多分そのときのことを思い出して、毎度あんな顔をするんだ」

 面白いから俺は気にしてないけど、と言って、ベネディクトはにやりと笑う。

「レオが前に、君の隣にいるアランはとてもいい顔で笑うって言ってたよ。俺はこの週末のうちに是非ともその顔を拝んでみたい。この機会を逃したら当分見られないだろうし」

「そこ」アランはリビングのソファに座り、パソコンの画面に目を向けたまま言った。「聞こえてる」

「聞こえるように言ってるんだよ」

 アランの周りにはいつだって誰かが寄り添っている。きっと、そういう巡り合わせの下に生まれているのだろう。

 手を差し伸べられると同時に、自らも手を差し伸べている。どこかで誰かを絶望のどん底に叩き落とすことも、そこから救い出すこともある。もしくは、その両方を、一人の人間に味わわせることもある。

 木曜の夜、斜陽の雲を観た。

 フランス映画を観るために登録していた配信サイトに斜陽の雲はあって、字幕は日本語を含め数カ国語を選択することができた。それだけで、世界中の人々に観られている映画なのだと分かる。加斎中もこの作品と、アラン・ジンデルのファンなのだと言っていたほどだ。

 加斎は、希佐がアランを知るよりも先に、アラン・ジンデルの存在を認識していたのだ。そのどうしようもないことに対してすら、小さな疼きのようなものを心に覚えている。ずるいと言えば、加斎は困ったように笑うのだろうと、希佐は思った。

 斜陽の雲は美しい映画だった。全てのカットが計算し尽くされた画角で撮影されていると分かる。ミシェルが言っていた通り、無駄な台詞など一つもない。冒頭でぽつりと呟かれただけの言葉が、ずっと宙を漂っていて、最後の最後で一石を投じる。何一つ、どんなに些細な一言でも、聞き流すことができなかった。優しく、温かい。それなのに、厳しく、冷たい。観る人の心のあり方によって、その着地点が違う。

 斜陽はいずれ旭日を迎えると、そうゴダンは言った。主人公は夕暮れ時の黄金色に縁取られた雲を見て、希望を見出すのだと。明けない夜はない。今を辛抱すればきっと、朝日は再び昇り、新たな道が開けるのだと。

 だが、希佐はあのエンディングに、美しい絶望を見た。

 この世の終わりを見た。

 黄金色に縁取られた雲が光を失うその先に、主人公の死を感じた。

『俺にはもう斜陽の雲以上の作品は書けない』

 そう言ったアラン・ジンデルの言葉の意味を、理解できたような気がした。ゴダンが教えてくれた、また死に損なったと、そう言っていた言葉の意味もまた、同じように。

『アランはね、斜陽の雲を書き終えたら、そのまま川に飛び込んで死ぬつもりだったと言ったんだ。これを書いている間中、つらくて堪らなかった、どうしようもなく死にたくなったけど、なんとか最後まで書き終えた。もしこれがあなたに酷評されたら、自分にはこの道の才能はないと諦めがつくだろうから、そのまま世を儚んで川に飛び込もうと思っていたとね。でも、あなたに認められてしまったら、この世にはまだ生きる価値があると錯覚してしまう、死ぬに死ねない──そう言って、泣きそうな顔をしていた』

 アランは自らの命を賭けて斜陽の雲を書いた。それこそ、死ぬつもりで。

 それは、ユニヴェールを卒業した後のことを考えていた自分とよく似ていると、希佐は思った。

 最期のユニヴェール公演は、決死の覚悟で舞台に立った。この舞台を終えた瞬間、この息の根が止まっても構わないと思っていた。むしろ、このまま舞台上で死を迎えることができたらどんなにか幸せだろうと、そう思いながらカーテンコールに応えていた。

 だが、現実とは残酷なものだ。

 立花希佐は当然のようにクォーツにクラス優勝をもたらし、個人賞金賞を勝ち取った。喜びを分かち合う仲間たちを尻目に、立花希佐は絶望の最中にあった。すべてが終わってしまった。それはまるで、死刑宣告を受けた後のような、計り知れない虚無感が心を支配した瞬間だった。

 夢を見ていた。でも、目を覚さなくては。

 このまま死んでしまいたい。未来に希望などない。

 最期のユニヴェール公演が、立花希佐にとっての、斜陽の雲だった。

 斜陽の空で黄金色に縁取られた光り輝く美しい雲──もう二度と旭日を迎えることはないだろうと、そう思い込んでいた。

 これで最期──そう思うからこそ、完成されるものは、間違いなくある。

 もう二度とあのときのような情熱を取り戻すことはできない。夢を見ることもない。ただ無駄に時間を浪費し、刻一刻と迫る人生の終わりに向かって、惰性で生きていく。

 だがしかし、立花希佐は知っている。

 夢はまた見ることができる。死んでしまいたいと思った過去を回顧し、生きていてよかったと思うことができる。

 もうあれ以上のパフォーマンスをすることはできないと思っていた。でも、そうではなかった。『God Only Knows』が、立花希佐に生きる意味を与え、希望を施し、夢を授けたのだ。

 未来のことは、神のみぞ知る。

「見つけた」

 こちらに戻ってきていたゴダンやベネディクトと談笑していると、不意にそう言う声が聞こえ、希佐は思わず腰を上げる。

「すみません」

「いいよ、行っておいで」

 ゴダンにそう言って送り出された希佐は、アランが座っているリビングのソファに滑り込んだ。隣に座った希佐を横目に一瞥してから、アランは少しだけ画面をこちらに向けてくれる。しかし、そこには知らない言語がずらりと羅列されたチャット画面が表示されているだけで、希佐には何の話をしているのかも分からない。

「……これは何語?」

「ドイツ語」アランはそう言うと、自らの方に画面を向けてから、何事かを打ち込んだ。「スレッドを立てた人間が言語を指定できる」

「アラン、ドイツ語も分かるの?」

「まあ、それなりには」テーブルの上に置いていたノートパソコンを取り上げると、アランはそれを膝に置く。「ドイツ語は日本語に近い」

「そう?」

「そう」

 アランが話している相手は、Jenni Cocteauという人だった。スレッドを立てた人物とは異なるようだが、入室している他の脚本家たちは、二人の会話を静観している。アランは、Azaleaという名前で入室しているようだ。

「このジェニーという人がエクスの脚本を持っているの?」

「手元にはないけど、一、二時間で用意できると言ってる」

「頼めそう?」

「……」アランはすぐには答えず、眉を顰めていた。「見返りを求めてる」

「見返りって、お金のこと?」

「いや」くしゃりと前髪を掻き上げたアランは、小さく息を吐き出した。「映像データを所望だ。魔物のエクスの公演映像が欲しいらしい」

「それは別に構わないけれど」希佐はそう言ってから、急に不安になった。「これも契約違反?」

「グレーエリア」

「その人に映像をどうするのか聞いてみて」

 アランが希佐に言われたことをドイツ語で訊ねると、返事はすぐに返ってきた。

「自分で見て楽しむだけだと言ってる」

「それならいいんじゃないかな」

「正気?」

「だめ?」

 こちらを見下ろしてくる緑の目をじっと見つめていると、アランは大きくため息を吐いてから、分かったよ、言った。

 魔物のエクスの脚本を得るために、そちらの条件をのむと返事をすると、すぐに連絡交換用のアドレスが送られてきた。アランはその場で取得したフリーアドレスを送り返し、スレッドから退出する。

「このコミュニティはよく利用するの?」

「ときどき」アランは電源は落とさず、パソコンの画面を伏せた。「暇なときは翻訳を手伝ったりしてる」

 未だかつて、アランの口から暇という言葉を聞いたことはなかったが、希佐はそのことに対して食い下がらなかった。

 ふわあ、と欠伸を漏らしているアランを見上げた希佐は、その腕に巻かれている時計を覗き込んでから、横顔に声をかける。

「寝た方がいいよ、アラン。何時間も運転をして疲れているでしょう?」

「ん……」

「えっ?」

 希佐はアランの膝から滑り落ちそうになったパソコンを、寸前のところで掴まえた。しかし、その次の瞬間、赤毛の頭が傾いて、大きな体ごと希佐に向かって倒れ込んでくる。最初は肩にもたれ掛かっていた頭が、ずるずると滑り、すとんと太腿に落ちてくるのを、希佐は黙って見届けていた。

「レオ」

 希佐はソファに座ったまま肩越しに後ろを振り返る。すると、ダイニングでベネディクトと話し込んでいたゴダンが、こちらに目を向けた。希佐は何も言わずに、自らの膝を指す。

 何度か瞬いたあと、すべてを察したような面持ちを浮かべたゴダンは、再びリビングに足を踏み入れた。

「うーん、さすがにその大男をベッドまで運ぶのは難しいね」

「私はこのままでも大丈夫なので、あの、毛布か何かを貸していただけると……」

「すぐに持ってくるよ」

「俺が取ってきます」

 その場で踵を返そうとしたゴダンに代わって、ベネディクトが毛布を取りに二階へと向かう。ゴダンはベネディクトが階段を上がっていったのを確認してから、ソファの傍まで戻ってきた。

「おやおや、ぐっすりだね」

「そうみたいです」

「君の顔を見て安心したのかな」

「それはどうでしょうか」

 希佐がそう言って困惑したように笑うと、ゴダンはソファの背もたれに両腕を乗せて上半身を預け、二人の姿を覗き込むようにして見た。

「君はこの子から向けられる好意を理解しておきながら、ときどきそれを見なかったことにする」

「……それはどういう意味ですか?」

「何か後ろめたいことでもあるの?」他意のない質問だとでもいうふうに、ゴダンは普段通りの表情を浮かべてそう言った。「この子のすべてを受け入れてあげれば、君はアラン・ジンデルのすべてになれる」

「もし──」希佐はゴダンに向けていた視線を落とし、自らの膝で眠るアランを見つめた。「もし、私の存在でこの人の心を満たしてしまったら、きっと、この人はアラン・ジンデルという才能を失ってしまいます」

「だから日本に帰るのかい?」

「それだけが理由ではありませんが」

 すう、すう、という、穏やかで、規則正しい寝息が聞こえてくる。

 この腕の中にいる人を心の底から愛している。こんなふうに慈しみを持って誰かを思ったことはない。

 ふわふわとやわらかい赤毛を撫でながら、希佐は口元に笑みを浮かべた。

「前にも同じようなことを言っていたね」

「はい」

「もしアラン・ジンデルがその才能を失ったら、君は彼自身からもその興味を失うのかな」

 答えたくないことには、答えなくていい──アランはよくそう言ってくれる。だから、答えたくない質問には、答えない。ゴダンも答えを求めているわけではないのだろう。希佐の反応を見て、多くを理解するはずだ。

 もしアラン・ジンデルが才能を失ったら。そのときはおそらく、初めての安寧を得られるのだろうと、希佐は思う。夜はベッドでぐっすりと眠り、太陽に少し遅れて目を覚まして、凡庸であることを喜びながら、日々を過ごしていく。アラン・ジンデルという天才の名前を捨てて、何者でもない人として生きていく。

『もしアラン・ジンデルがその才能を失ったら、君は彼自身からもその興味を失うのかな』

 立花希佐はアラン・ジンデルの才能を愛している。もしその才能が失われたら、アラン・ジンデルの隣にいる意味も、理由も失うのだろう。

 だが、この人は本当の名前をくれた。

 だから、何も怖くはない。

『I love you so much,Raphael.No matter what happens next, I will always love you.』

 この先何があっても、ずっとあなたを愛してる──この言葉に、嘘はない。

 希佐は、ベネディクトが階段を降りてくる音を遠くに聞きながら、そっと上半身を倒した。そばかすの散る頬にやわらかく口付け、身を起こす。赤毛の隙間から覗く耳の先には、希佐が贈ったシャムロックが鈍く輝いていた。

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