ついうとうととしてしまった希佐がぼんやりと我に返ると、隣ではアランが既に目を覚まし、何かの作業に取り掛かっていた。アランが使っていたはずの毛布は、希佐の体をすっぽりと包み込んでいる。辺りには挽きたてのコーヒーの良い香りが漂っていた。
「おはよう」アランはパソコンの画面に目を向けたまま、湯気の立ち上るコーヒーを口に運ぶ。「もう少し寝てたら。今は受け取った脚本に目を通してるだけだから」
「……ごめんなさい、寝るつもりなんてなかったのに」
「俺だってそのつもりだったけど」
おはようと言いながら、希佐がゆっくりと身を起こすと、アランはこちらに顔を向け、頬にそっとキスをくれた。
「レオとベネディクトさんは?」
「少し前に寝に行った」アランはぼんやりしている希佐を見て小さく笑い、足元に落ちかけた毛布を拾う。「コーヒーは?」
「自分で入れてくる」
頷く様子を見て腰を上げようとしたアランを慌てて押し留め、希佐はソファから立ち上がると、自分の足でコーヒーを入れに向かった。
キッチンにはケメックスのガラス製のコーヒーメーカーが置かれ、その中には丁度一杯分くらいのコーヒーが残されていた。希佐は棚から大きなマグカップを取り出し、その中に残っていたコーヒーをすべて注ぎ入れると、アランの隣に戻る。
ソファに腰を下ろし、コーヒーを飲みながら窓の外に目を向けると、どんよりとした空からしとしとと雨粒が落ちてくるのが見えた。
「雨だね」
「ん」
「朝日、見られなかったね」
「まだ日はある」
「うん」希佐は程よく冷めたコーヒーを嚥下してから、小さく頷いた。「そうだね」
アランは自分の原稿をあっという間に書き上げるのに対して、何か読み物をするときは、じっくりと時間をかけて、ゆっくりと咀嚼をしながら楽しむきらいがある。それが作者に対する敬意の払い方なのかもしれないと思っていたが、当人に言わせると、ただ読むのが遅いだけなのだそうだ。
アランは魔物のエクスを一通り読み終えると、今度は希佐が再翻訳した脚本を再び手に取った。
「酷いでしょ」
「うん、まあ」
「原本をそのまま使わせてもらっても大丈夫かな」
「いくらか脚色を加えたい」
「え、今から?」
「朗読劇にするつもりならナレーションのパートを増やす必要があるし、子供が相手なら効果音をつけた方が飽きずに見続けられる。ここ、ピアノがあるって聞いたけど」
「ピアノなら向こうの部屋にあるよ」
「調律は?」
「大丈夫」
裏方の仕事の方が好きだ、性に合っているというアランの言葉に、嘘偽りはないのだろう。こういうときのアランはいつも、とてもいい顔をしている。だから、希佐はいつも口を噤んで、アランの期待に応えようと思うのだ。こうしている間にも、アラン・ジンデルの頭の中には新しい世界が構築されはじめている。そう思うと、酷くわくわくしてくる。
「本当に朗読劇でいいの?」希佐は手にしていたカップをテーブルに置き、アランを見上げた。「幸いまだ時間はあるし、今からちょっとした変更をしても、ミシェルさんなら対応してくれると思う」
「君は?」
「私はストーリーなら頭に入っているし、英語の台詞もすぐに覚えられる。ミシェルさんのフォローもできるよ。だから、もしこのまま手伝ってくれるのなら、アランが思うように演出してほしい」
「俺は──」アランはたった今何かに気付いたという顔をしてから、徐に目を逸らした。「ごめん。手伝ってほしいとも言われてないのに、勝手なことをしてた」
希佐はそのアランの物言いに少しだけ目を丸くしてから、ふふ、と笑みをこぼす。
「私の方こそ、ごめんなさい」
「なんで謝るの」
「あなたなら手伝ってくれるだろうって当たり前みたいに思っていたから」それに、と言って希佐はアランの頬に手を添え、自分の方を向かせた。「私はあなたの世界に一つでも多く触れられて嬉しい」
こちらを見下ろす緑の目がゆっくりと瞬かれる。
「魔物のエクス、手伝ってくれる? やるからには最高のものにしたいんだ。準備時間が少ないからって、妥協はしたくない」
「……分かった」
脚本家のオンラインコミュニティで渡された原本を下地に、アラン・ジンデルは新たな脚本を組み上げていった。アランがゴダン所有のプリンターを拝借して脚本を印刷している間に、希佐は七時から開店している近所のコンビニエンスストアに駆け込み、ホッチキスを購入してくる。
「そういえば」ぱちん、と紙を留めながら、希佐は口を開いた。「夜のうちにサラダを作っておいたんだ」
「俺の分も?」
「うん。食べる?」
「食べる」
簡易的な台本を全部で五部だけ作り、希佐とアランはそれを一冊ずつ手に取ると、キッチンに向かった。ボウルに作っておいたサラダを二つに分け、ダイニングテーブルに移った希佐は、台本に目を通しながら静かにそれを食べ進める。アランも希佐の向かい側に腰を下ろすと、サラダを咀嚼しながら台本に目を落としていた。
アランが書く脚本は相変わらず描写が少ない。いつも必要最低限のことしか書かれていないのだ。読み合わせの機会は基本的にたった一度きりで、演出らしい演出はそれ以降、本番前までほとんど行われない。聞けば応じてくれるが、役作りや本番を迎えるまでの過程は、ほぼ個人に任されていた。劇団カオスの劇団員たちが、全員揃って稽古狂いと称される部類の者たちというのも、アランが口うるさく指導しない一要因なのかもしれない。
だが、今回は突貫工事で脚本が用意され、演出、本番が行われる。準備期間は一日しかない。
「んー、今回は私がエクスかな……」
このところずっと女性として稽古を積んできているので、体がやわらかくなりすぎている。声の出し方や、歌い方もそうだ。一日でどこまで男性的な感覚に寄せられるか──希佐がそう思いながら、長い髪を頭上でお団子状に結い上げていると、アランがこちらに目を向けた。
「そういえば君が留守にしている間に、上から降りてきた誰かが、俺を見るなり悲鳴を上げて逃げ戻っていったけど」
「……え?」
「呼んできたら」
「あっ、うん、そうだね」
希佐は残っていたチキンを口の中に放り込むと、脚本をテーブルの上に置いて席を立った。二階で寝ている人たちを起こさないように階段を静かに上り、自分に当てがわれた部屋の前に立つ。
コンコンコン、とノックをすると、すぐに返事があった。その返事がくぐもって聞こえていたのは、頭からすっぽりと布団を被っていたからだと、その姿を目の当たりにして気づく。
「おはようございます、ミシェルさん」
「おはようございます……」
「一度起きていらしたとアランから聞きました」希佐が言葉を選びながらそのように言うと、もぞり、とゾウを飲み込んだウワバミのような形の布団が動いた。「アランが魔物のエクスの脚本を書き直してくれたんです。それの印刷をしている間に、私はコンビニまでホッチキスを買いに行っていたのですが──すみません、ちゃんとお話をしてから出掛けるべきでした。昨日はお疲れのご様子だったので、起こすのが申し訳なくて」
「謝らないでください〜」少し情けない声がそう言ったかと思うと、もぞもぞと動いた盛り上がりの中から、ミシェルがひょっこりと顔を覗かせた。「やっ、やっぱり本物ですよね? あれっ? 夢かな? って、そう思っていたところだったんですけど……」
「本物ですよ。四時前に到着して」希佐はポケットから取り出したスマートフォンで時刻を確認する。既に九時を過ぎていた。「脚本が完成しているので、朝ごはんを食べたら早速読み合わせをしてみましょう」
「ア、アラン・ジンデルが書いた脚本で……?」
「はい」はわわわ〜、と気の抜けたような声を出すミシェルを見て、希佐は笑った。「大丈夫ですよ、ミシェルさん。そんなに怯えなくても、アラン・ジンデルも私たちと同じ人間ですから」
「そんな、あの人は神様ですよ……!」
そんな言い方をされたら臍を曲げるのではないかと思ったが、ここで余計なことを口走っては、ミシェルがまたベッドの中に潜り込んでしまう。
希佐は部屋に足を踏み入れ、コインランドリーで洗濯してきたタオルを手に取ると、ベッドの前に立ってそれを差し出した。
「私は下で待っていますから、まずはシャワーを浴びて、それからご飯を食べましょう。話はそれからです」
待っていますからね、と念を押すように言ってから、希佐はそのまま部屋を出た。こっそり扉に耳を当てて中の様子を窺っていると、間もなくして動き出す気配を感じ取り、安心してその場を離れる。
キッチンに戻ると、食事の後片付けはほぼ終わっていた。ふわあ、と欠伸をしている様子に小さく笑い声を上げ、シンクに立っている隣に並ぶと、洗い立ての食器を拭いているアランを見上げる。
「片付けてくれてありがとう」
「ん」シャツの袖で目元を拭ってから、アランは希佐を見下ろした。「どうだった?」
「今、シャワーを浴びてるよ。彼女の朝食を用意しておこうかな」希佐はそう言うと、その場を離れて冷蔵庫を覗きにいった。「ミシェルさん、アラン・ジンデルの大ファンなの」
「へえ」
アランは興味がなさそうにそう相槌を打つと、テーブルの脚本を手に取ってリビングの方に引き上げていった。自分の荷物をごそごそとあさっているようだ。
希佐は多めに作っておいたサラダを皿に盛り、好みでかけられるようにドレッシングを添えてテーブルに置いておく。フライパンにバターを乗せて火にかけ、程よく溶けたところで、ベーコンを敷き、卵を割り入れた。その上から、昨日ベネディクトが買ってきてくれたパンの残りを乗せる。
「キサ」パンの焼き具合を確かめてから後ろを振り返ると、アランが腕時計で時間を確かめながら通り過ぎていくところだった。「向こうの部屋に行ってるから」
「ピアノ?」
うん、と頷いたアランは、台本とノート、タブレットを手にキッチンを出ていく。幸い廊下で鉢合わせることはなかったのか、ほとんど入れ違いにミシェルがキッチンに入ってきた。
「わあ、いい匂いですね」
「もうすぐ焼けるので、座って待っていてください」
「えっ、それ、わたしのですか?」
「たいしたものはできないんですけど」
「そんな、すごく美味しそうです!」
ベーコンの表面がカリカリに焼け、黄身と白身の入り混じった卵の縁に僅かな焦げ目がついているのを確認すると、希佐はフライパンを煽ってパンをひっくり返した。隣からわっと歓声が上がると少しだけ照れたように笑い、裏面にも焼き色がついた頃、皿に移し替える。
「はい」
「ありがとうございます」
「是非サラダもご一緒に。水は常温が良ければそこに、冷えたものは冷蔵庫にあるので、ご自由にどうぞ」勝手知ったる我が家のように、食器棚からナイフとフォークを取り出して、それを紙ナプキンを敷いた上に置いた。「私はピアノのある部屋にいるので、何かあれば呼んでください」
「はい」
「あ、そうだ」希佐はリビングに行って台本を取ってくると、まだ立ったままのミシェルにそれを差し出した。「魔物のエクスの台本です。一度目を通してみて、エクスとピオーティア、どちらを演じてみたいか教えてください。私はどちらでも大丈夫なので」
「分かりました」
「よろしくお願いします」
ミシェルは渡された台本をどこか緊張した面持ちで見下ろしている。しかし、希佐が見ていることに気付くと口角を持ち上げて微笑み、椅子に腰を下ろした。
「じゃあ、お言葉に甘えていただきますね」
「Bon appétit」
テーブルの上に置いていた自分の台本を手に取った希佐は、そう言い残すとダイニングを後にした。旧応接室に足を踏み入れれば、アランがピアノの前に座り、ノートに何かを書きつけている姿が見える。その手に握られているのは、以前希佐が贈った万年筆だった。
「台本を渡しておいたよ」
「そう」
「席を外した方がいい?」
「いや」アランはそう言うと、顔を上げて希佐を見る。「ここにいて」
「うん」
希佐はアランが空けてくれた椅子の半面にちょこんと腰を掛けると、もう一度最初から台本を読みはじめた。
当然だが、英語と日本語とでは、文面から得られる雰囲気や、空気感のようなものがまるで違う。日本語にはやわらかさを感じるが、英語には鋭さがあるように感じられていた。言葉の選び方や、音の響きが関係しているのかもしれない。
希佐の中で生き続けてきたエクスとピオーティアは、いつだって日本語で言葉を交わしていた。それが突然英語に変わるのだから、役として正しくピントを合わせるためには、少しだけ時間がかかる。
「キサ」
「なに?」
「英語と日本語では感覚が違うだろうから、少し読み上げてみて」
「え?」まるで自分の考えていたことが聞こえていたかのようにアランが言うのを、希佐は驚いて見上げる。「英語で?」
「そう」
まだピントが合っていないのにと思いながら、希佐はゆっくりと息を吐いた。そっと目を伏せ、心の中にいるピオーティアに声を掛ける。もしもしと優しく揺り起こし、少しずつ距離を縮めていく。
「──Well, hello there, Piotia.」
希佐が息を吐き切ったそのとき、すぐ隣からそう呼びかける声が聞こえてきた。希佐は目を閉じたまま、思わずというふうに息を呑み、英語の台詞を口に出す。
「......Who are you?」
「Ah, a human girl interested in me.」加斎が演じたエクスとはがらりと違う、どこか影を感じさせる声が言う。「I'm Ex.Your......your......friend.」
「Ex...?」
「Yes.Thanks for calling my name, Piotia.」
控えめで、不器用。それでも、人間に対する興味を隠しきれない様子が、その声から滲み出ているのを感じられる。しかし、あくまで淡々と、深入りはするまいという雰囲気を漂わせながら、エクスは話をしているようだった。
「I don't know the nerve of people to keep you locked up in this dark room.」
「I have bad eyesight, so the world within my reach is just fine.I hate pebbles and stairs.They're really mean.」自分が演じるピオーティアも、あのときとは違うということを、希佐は明確に感じ取っていた。「But I love the stories you tell me about the outside world.So many beautiful things!」
「The sky is wide. When it rains, a rainbow forms.There is a spring on the outskirts of town. It can be used for drinking water and as a mirror.」
「What's a mirror?」
「It's like glass, reflecting your own reflection.It also shows your lovely face.」
「lovely? That's the first time anyone's ever said that to me.」
以前ピオーティアは、不幸な境遇にありながらも、純粋で無垢な優しい女の子をイメージして演じていた。だが、今のピオーティアは少し違う。現実を現実として受け止めつつも、突然現れた謎のお友達を前にして、非現実を楽しんでいる。普段の悲しい気持ちを押し隠し、今この瞬間を楽しもうとしている。
まるで、夢の中でしか受け取ることのできない、クリスマスプレゼントを開ける瞬間のように、幻想を楽しんでいる。これを当たり前と思わないように、心の中で線引きをしているようだった。
「Really?」
「All your father or mother ever gives me is a heavy sigh, and lately, they don't even give me that anymore.」
「You are so lovely.」アランはそう言うと、希佐の首筋に指先で触れた。「I would like to dance with you, reflecting your image in the fountain.」
これは少し大人なエクスだと思いながら、希佐はゆっくりと閉じていた目を開く。自分を見つめる眼差しをまっすぐに見上げると、アランは緑の目を細めてから、希佐の露わになった首筋に軽く音を立ててキスをした。
「どうだった?」
「悪くない」
「アランも」希佐はそう言ってからくすりと笑う。「悪くなかったよ」
「それはどうも」
余計なことを言うべきでないことは分かっている。だが、希佐は今この瞬間の喜びを噛み締めていた。こうしてアランと演じ合っている。本人にとっては、少しばかり台詞の読み合わせに付き合ってやったと、その程度の考えなのかもしれない。だがしかし、これは希佐にとっては記念すべき瞬間だった。ほんの戯れであったとしても、こうした特別な時間を共有するたびに、忘れがたい思い出として蓄積されていくのを感じる。
今度はエクスに挑戦したいと考えていた希佐は、少しだけ悪戯心をくすぐられ、ピアノを弾きながらタブレットの五線譜に音符を打ち込んでいるアランの顔を隣から覗き込んだ。こちらに一瞥をくれたアランは、希佐がよからぬことを考えていると察したのか、すぐに視線を逸らして眉を顰める。
「なに、その顔」
「私、エクスにも挑戦してみたくて」希佐がそう言っただけで、アランはすべてを理解したらしい。「ピオーティアの台詞をお願いできないかな」
「味を占めたな」
「あなたがピオーティアを演じたらセクシーになりすぎるかも」
それも悪くないよね、と笑う希佐を、アランは呆れた目で見ている。
「それは俺をセクシーだと思ってるってこと?」
「えっ?」
「キサが俺のことをそんなふうに見てるとは知らなかった」
「あっ、いや、その……」
そんなふうには見ていないと否定するのも違うような気がして言い淀んでいると、その様子を目の当たりにしたアランは、くつくつと喉を鳴らすようにして笑い出す。その珍しい姿を見て一瞬目を丸くしてから、希佐は少しだけ困ったように笑った。
「女を演じることに抵抗はなかった」
「メレディスの劇団に所属していたときの話?」
「そう」タブレットの譜面を確認するように、アランは鍵盤に指を走らせる。「カレッジに入るまでは身長が低くて、そこから急激に伸びたんだ。それまでは、女を演じることも度々あった。華奢だったし、変声期も遅かったから」
「そういえば……」
「ん?」
「前にね、ジョシュアにあなたの歌声が録音されているデータを聞かせてもらったことがあって」
「……彼、そんなものを持ってるんだ」
アランは一瞬嫌そうな顔をすると、台本の空いているスペースに、小さくメモを取っていた。見間違いでなければ、ジョシュア、データ、カンバセーション、と書き込んだようだ。
下手なことを言ってしまったと思いながら、希佐は心の中でジョシュアに謝罪する。
「とても綺麗な歌声だった。透明感があるのに、少しハスキーで、今とは全然違う」
「変声期の少し前かもな。あの頃の声は不安定で、声量や音程のコントロールが難しい。でも、君にもあったんじゃないの、変声期」
「え、私?」
「ユニヴェールの二年目、秋公演。春と夏の公演に比べて、声が若干低くなっていたし、音程を取るのに苦労してる感じがあった」初めて聞くその指摘に、希佐は目を丸くする。「男ほど劇的な変化はないにしても、女性だって声変わりはする」
「言われてみれば確かに、あの頃は喉の調子が良くなかったかも……」
空気の乾燥が喉に影響しているのだろうと思っていたが、どうやらそうではなかったようだ。今になって思い出してみると、白田からは喉のケアを怠るなと、そう口を酸っぱくして言われていた覚えがある。
「俺は中性的な容姿と声から一変してこんな形になったから、与えられる役柄ががらりと変わった──というか、その頃から舞台に立つ頻度を落としていったんだ。変声期は俺にとって良い口実になった。舞台に立ちたくないっていうのと、裏方の勉強をしたいっていう思いがあったから」
「私は中性的な体格と見た目から、自分が少しずつ女性になっていくのが怖かった」今はそんなふうには思わないけれど、と言う希佐を、アランは見下ろしている。「アランはどう思った?」
「正直、ここまで背が高くなるとは思っていなかったし、声が低くなることも想像していなかった。俺自身に不満はなかったけど、メレディスにとっては想定外の事態だったらしい」
「そうなの?」
「俺の売りが失われたわけだから」
「私が少年性を失うことと、あなたが中性的であるところから脱するのとでは、根本的な意味合いが違うとは思うのだけれど、その問題があなた自身の魅力に翳りをもたらしたとは思えないし、あなたの成長をメレディスが想定していなかったとも思わない」
「なぜ?」
「あの人なら、あなたの新しい魅力を売り出したくてたまらなかっただろうから」希佐は初めて会った頃のメレディスを思い出しながら、少しだけ苦々しい笑みを浮かべた。「私が初めてヘスティアに行ったとき、アランが一緒に『Falling Slowly』を歌ってくれたでしょう?」
「うん」
「次の日になって一人でヘスティアへ行って、メレディスと話をしたときに言われたんだ。『あの舞台に立つことを極端に嫌うアラン・ジンデルが、君という人と一緒にステージに立って、ピアノを弾いて歌まで歌った。それは酷く価値のあることだと、君自身が自覚できる日が来るといい』って。当時は──もしかしたら今も、私はあなたの凄さを少しも理解できていないのかもしれない。メレディスが言いたかった言葉の意味を、完全には理解できていないのかもしれないけれど、彼があなたのことを真剣に思っているんだっていうことは、よく分かる」
「異常な愛情だろ」アランは表情を変えずに、小さく肩をすくめた。「歪なんだ、あの人も」
「歪じゃない人なんていないと思う」
そう断言するように言う希佐を見て、アランは吐息を漏らすようにして笑った。そうだな、と小さく口にし、続く適当な言葉を探し求めるように台本に視線を落とした。
「こんなふうに生きられたらと思うことがある」
「エクスとピオーティアみたいに?」
「ただの夢物語なのにな」
有史の時代がはじまって以降、人間は様々な物語を紡いできた。物語の数はきっと星の数ほども存在していて、その一つ一つには、作者の心が宿っている。
中学生の頃、国語の試験で《これを書いた筆者の気持ちを答えよ》という問題が出てきたとき、希佐は模範解答を知っていたのに、答えを書かずに空欄のまま提出してしまったことがあった。その物語を書いた人間以外に、そのときの気持ちを説明できる人間はいないと、そう思ってしまったからだ。
たかが試験だろうと言われてしまえば返す言葉もないが、当時の希佐には、そうすることが試験の点数を得ることよりも大切に思えた。そして今、あのときの自分の選択を尊重して良かったと、心の底から思っている。
希佐がこれまでに出会ってきた万能の天才たちは、己の身を削り、命を削りながら、物語を紡いでいた。だが、彼らが何を思い、何を感じ、何を伝えたいと思いながら机と向き合っているのかは、希佐には分からない。
それを知ってはいけないし、知るべきではないと希佐は思う。
この世界の理が隠されている深潭に、立ち入るべきではないのだ。
魔物のエクスを書き上げた舞台脚本家にも、この物語を紡ぐにあたって、何か特別な思いがあったのかもしれない。魔物と盲目の少女の恋物語。なぜ一方は魔物で、一方は目の見えない少女である必要があったのか。
《これを書いた筆者の気持ちを答えよ》
物語を深く理解する上で、筆者の気持ちは必ずしも重要ではないはずだ。読み手や演じ手が受け取るべきは、筆者が掲げているテーマ性や、これを観るであろう観客を楽しませたいという、その思いくらいのものなのだろう。
物語の裏側を覗きはじめたらきりがない。筆者が真に望んでいるのは、自身を掘り下げられることよりも、物語を、そして登場人物を掘り下げ、深く理解されることであってほしいと、希佐は思っている。
少なくとも、アラン・ジンデルは、模範解答を望んではいないはずだ。
「俺には書けない脚本だよ」アランは少し自虐的にそう漏らした。「こうして二人は、いついつまでも幸せに暮らしました──そんなふうには考えられない」
「幸せの定義は人それぞれだから」それに、と希佐は続ける。「私はアランの書く物語の結末が好きなんだ。受け取る側に想像の余地が残されているし、それに、悲しいだけじゃなくて、優しさも感じられる。明確な答えが提示される物語も、受け取る側に解釈が委ねられる物語も、私は嫌いじゃないよ」
「全員が君みたいなお客じゃない」
「アランでもそういうことを気にしたりするんだ」
「俺じゃなくて、俺の顧客が気にしてる」アランは台本の空白に記号を書き込むと、流れるようにピアノを弾いた。「たまには幸せな結末で一本書いてくれって。そういう話を所望なら、もっと適任の脚本家はいくらでもいるから紹介すると言ったら、アラン・ジンデルが書くからこそ値打ちがあるとかなんとか」
「アランはそういうお話を書きたくないの?」
「書こうとすれば書けるのかもしれないけど」アランはそう言うと、今度はタブレットに音符を打ち込んでいく。「でも、それは誰かに書かされた話であって、俺が書く必要性のない話だ。向こうはアラン・ジンデルっていうブランドが発表する新作が欲しいだけで、俺が表現したい物語を形にしたいってわけじゃない」
だから、脚本家の仕事は金儲けのための手段だと、そう常々言っていたのかと希佐は思う。
自分の書いた話はどこか他者の条件を呑んだもので、一から十までアラン・ジンデルらしい物語かと聞かれると、そうだとは断言できなかったのだろう。どれだけ素晴らしい賞を受賞しても、それを誇りとせず、むしろ汚名か何かのように思い、盾やトロフィーを処分してきたのだろうか。
今度の舞台の脚本も、スペンサー・ロローに言われるがまま、何度も何度も改稿を行っていた。あの脚本は間違いなくアラン・ジンデルが手掛けたものではあるが、あまりに他者の意向が入り込みすぎた物語は、アラン自身の最も純粋な思いが損なわれてしまっているのではないかと、そう思う。
アラン・ジンデルが斜陽の雲にこだわるのも、劇団カオスを続けているのも、自らが注ぎ込んだ純粋な思いと、それを余すことなく表現してくれる仲間の存在が、救いになっているからなのかもしれないと、希佐は思った。
「Listen,Ex」
タブレットを見下ろしている横顔に向かって希佐がそう声を掛けると、アランは一瞬だけその動きを止めてから、こちらを見ずに口を開いた。
「What is it, Piotia?」
「What do you look like?」希佐はそう言い、そっと瞼を下ろす。「I think you must be a lovely person, having described me as lovely.」
希佐は、ふ、と前髪に吐息が掛かるのを感じた。ものすごく近くにアランの熱を覚えたような気がして、思わず目を開きそうになると、大きな手の平が希佐の目元を覆い隠してしまう。
「......It's already famous for its beautiful boys. I wish I could show it to you.」
「I knew it! I wish I could see your face.」
「The last secret will be told in a few moments.」台本には書かれていない言葉を口にしたアランは、希佐の目を塞いでいた手の平をそのまま頬に滑らせた。「If you know the secret, maybe you'll see my true face.」
自分はきっと誰よりもアラン・ジンデルの側にいて、多くの話を聞かせてもらっている。それでも、まだ知らないことの方が、ずっと多いのだ。心の最もやわらかい部分に触れることが許されているとしても、相手を知ったつもりにはなれない。だが、アランも同じように、もしかしたらそれ以上に、自分のことが見えないと思っているのかもしれないと、希佐は思う。
共通しているのは、自分の話をして聞かせるのが嫌なのではなく、あえて話して聞かせるほどの話ではないと、そう考えているところだろう。
「You do not ask me anything.」
そう言って目を開くと、驚くほど近くにあったアランの緑色の目に、自分の姿がくっきりと映り込んでいた。まるでビー玉の中に閉じ込められているようだと思っていると、希佐を見る目の瞳孔が、大きく広がるのを見た。
「I don't have the guts to open Pandora's box.」
「It may be a box that is emptier than it seems.」
「You're a liar.」
「Don't know.Because I've never tried to open it myself.」
「Hopefully they will keep it tightly closed.」
知る必要のないことだと思っているのか、知ることが恐ろしいのか、例えばその両方だったとしても、希佐は構わない。ただ、嘘だけは吐きたくないから、いつでも話せる心の準備だけはしておきたいと思う。もう大切な人たちに嘘を吐きながら生きていくことだけはしたくないのだ。
「そろそろミシェルさんとも読み合わせがしたいな」希佐はそう言いながら、アランの腕を掴んで時計を見た。「キッチンの様子を見てくる」
しかし、椅子から立ち上がった勢いのまま廊下に出ていった希佐は、そこで立ち尽くしていた人物と正面から衝突してしまいそうになった。わっ、という声を飲み込み、強張る体を庇うように一歩後ろに身を引くと、体勢を低くして何とかその場に踏み留まった。
「びっ、くりしました……」台本を胸の前で抱えるようにして持っているミシェルを見て、希佐は小さく深呼吸をした。「すみません、ちゃんと前を見ていなくて。大丈夫でしたか?」
「わ、わたしは大丈夫です」
「ご飯は食べられました?」
「はい、とても美味しかったです」
「良かった」希佐はそう言って胸を撫で下ろすと、後ろの部屋を肩越しに振り返る。「アラン・ジンデルを紹介します。たった今まで、読み合わせに付き合ってもらっていて」
「聞いていました」ミシェルが自分の言葉を遮るようにして申し訳なさそうに言うのを、希佐は不思議に思って見た。「ごめんなさい、盗み聞きをするつもりはなかったんです」
「あ、いえ、こちらこそ気を使っていただいたみたいで」
そうして立ち話を続けていると、今度は部屋の中から希佐の名前を呼ぶアランの声が聞こえてくる。どうやら、そんなところで話をしていないで、早く入って来いということらしい。希佐は部屋の方に向かって返事をすると、ミシェルに向き直った。
「うちの主宰は一見無愛想ですが悪意はないので──」
「キサ」
「はい」
なんとかミシェルの緊張をほぐせればと思ったのだが、下手をするとアランの気分を害してしまいそうだ。希佐は慌てて口を噤むと、ミシェルに軽く目配せをしてから、部屋に逆戻りする。
「ええと」どの肩書きで紹介するべきか迷いながら、希佐はアランの隣に立った。「劇団カオスの主宰、アラン・ジンデルです」
「は、初めまして……」耳と頬は赤く染まっているのに、それ以外の場所は異常なほど白い顔を毅然とあげて、ミシェルは言った。「レオナール・ゴダンの事務所で働かせてもらっています、名前は──」
「ミシェル」椅子に座ったまま、アランはその静かな眼差しを、正面に立っているミシェルに向けていた。「知ってる」
「え、どうして──」
「何年か前に送られてきたメールを覚えてる。かなり長文の、濃いやつ。映画全体に言及されていたから、レオにも転送しておいた」
「えっ?」
「件のレポートも読んだよ。興味深かった」
「あっ、えっ、あの、す、すみません……!」
「なんで謝るの」
「まさか、あなたがあのレポートを読まれるとは思っていなかったので、その、あの──」
「確かに、かなり辛辣なことも書かれてた。例えば、愚作、駄作、議論の余地なし、とか」
「わわわわわ、本当にすみませんっ」
「後で名刺を渡すから、俺のところにも一部送って」
「いえ、そんな、滅相もないです」
「別に冗談で言ってるわけじゃない」一向に視線の合わない相手を真っ直ぐに見据えながら、アランはいつもの調子を崩さずに続ける。「戒めのために手元に置いておきたいんだ」
アランは普段から表情に乏しく、慣れていない人にとっては彼が怒っているのか、本心を語っているのか、冗談を言っているのかを判断しづらい。今回は明らかに本心から物を語っているのだが、ミシェルにはその判断が難しいようだ。かくいう希佐も、出会ったばかりの頃は今のミシェルと同じように、困惑することばかりだった。
「あの……はい、分かりました。実家に何部か残っているはずなので、後日お送りします」
「ありがとう」
「い、いえ、お礼を言っていただけるようなものではないので」
ミシェルはすっかり恐縮しきってしまっていた。胸の前で固く握りしめている台本は、端の方が押し潰されてしまっているように見える。
この話題は早々に切り上げた方が良さそうだと希佐が思っていると、アランはこちらを一瞥した。希佐が僅かに首を傾げるのを目の当たりにしてから、ピアノの上に乗せていた台本を手に取り、口を開いた。
「この魔物のエクスだけど、キサの書いた脚本が思いの外酷かったから──」こういうときは、少しだけ片側の口角を持ち上げ、意地悪く笑うのだ。「原本を入手して、多少の脚色を加えながら書き直しておいた。台本には目を通した?」
「はい」
「うちの役者はどちらでも構わないと言ってる。君が演じたい方を先に選んで──」
「あの」
「なに」
アランが低く返事をするのに合わせて、ミシェルの表情が再び緊張したように強張る。しかし、意を決したように大きく息を吐き出すと、今度こそ真正面からアラン・ジンデルに焦点を定めて言った。
「その件でわたしから一つ提案があります」
「提案?」
「お二人の読み合わせを聞いていました。それで、思ったんです」ミシェルはそう言うと、希佐とアランの間で視線を往復させた。「ああ、エクスとピオーティアだって」
一瞬、その場の時間が止まったかのような感覚を覚えたあと、希佐は隣で座っているアランの横顔を盗み見ようとした。だがしかし、アランも同じように希佐の反応を窺おうとしていたのか、二人の視線が意図せず交わってしまう。
「この件はわたしが言い出したことではあるのですが、キサさんとわたしが演じるよりも、お二人で魔物のエクスを演じた方が、ずっと良いものになるんじゃないかって、そう思ったんです」
「それは君の勝手な言い分だ」
「分かっています」
「俺はそんなつもりでキサの読み合わせに付き合ったわけじゃない」
「はい」寸前までの狼狽え具合は一体何だったというのか、ミシェルは勇猛な態度でアラン・ジンデルと対峙している。「台本を読んでいるときは、ピオーティアを演じてみたいと思っていました。でも、キサさんが演じるピオーティアの声を聞いてしまったら、もうこれが正解だとしか思えなくて。エクスだって同じです。わたしにはお二人以上の演技はできません」
「だったらこの公演そのものを取りやめればいい。子供たちにはまだ知らせてないんだろ」
「それはできません」
「なぜ」
「わたしがお二人の演じる魔物のエクスを観たいからです」その明け透けなミシェルの言い様には、さすがのアラン・ジンデルも絶句していた。「きっとレオやベネディクトもそう言うと思います」
「この問題に彼らは無関係だ」
「あの二人も今回の一件には乗り気なんですよ。レオは記録係を買って出てくれましたし、ベネディクトにも手伝ってもらう予定なので、無関係とは言い切れません。せっかくですから、二人を起こしてきましょうか?」
なんと珍しいことに、あのアラン・ジンデルが劣勢の立場に立たされている。まるで他人事のようにそう思っていると、ミシェルの照準が今度は自分に向けられるのが、希佐には分かった。
「キサさんだってそう思いますよね?」
「私は──」希佐は非常に形容し難い複雑そうな面持ちを浮かべているアランを横目に見てから、ミシェルに向かってにこりと微笑みかけた。「私はミシェルさんが演じるピオーティアを見てみたいですし、アランが演じるエクスも見てみたいです」
「……え?」
「私は村人AでもBでも全力で演じるだけなので」
「いや、いやいやいや、そうではなくて……」
見る見るうちに顔面が青ざめていくミシェルの様子を目の当たりにしながら、希佐は言った。
「ミシェルさんのお気持ちは分かります。でも、その役柄を上手く演じられることと、その役柄を演じたいと思うことは、まったく別の問題だと思うんです。今回何よりも重要なのは、子供たちをいかに楽しませられるかですよね?」
「は、はい、それはそうです」
「もしアランがエクスを演じたいと言うなら、もちろん、私はそれを歓迎します」希佐はアランには目もくれず、先を続ける。「でも、そうじゃないなら、今回は私がエクスを演じます。だから、ミシェルさんにはピオーティアをお願いしたいです。大丈夫、ちゃんとフォローはしますから」
「えっ、でも、わたしは──」
「それに、アランは脚本を書いてくれた他にも、劇に音を入れたいと言っていたので、稽古をする時間を十分には取れないと思うんです」
希佐は、アラン・ジンデルという人間が、他者に何かを決めつけられることが嫌いだということを知っていた。それに、嫌なときは絶対に嫌だと、そうはっきり口にすることも知っている。はっきり嫌だと断らなかったということは、気持ちが揺れているということだ。ここまで露骨な物言いをすれば、希佐の思惑など見え透いていることだろう。
「じゃあ、リビングで読み合わせをしましょうか」
「あっ、えっ?」
「さあ、行きましょう」
本当なら、ミシェルの提案に、両手を挙げて喜びたかった。なんて素敵な提案なのだろうと言って、飛びついてしまいたかった。でもそうしなかったのは、ここへ来て妙ないざこざを起こしたくなかったのと、アランに逃げ道を用意するためだ。
もちろん、どんなに小さな舞台でも、見てくれるのが何人かの子供たちだけだったとしても、舞台は舞台、一切手を抜くつもりはない。魔物のエクスは比較的短いお話ではあるが、軽く歌もあればダンスもある。
アランは歌を歌える。ダンスも人並み以上に踊れ、読み合わせをしたときの感覚では、エクスを容易く演じられるだろうと、そう思った。だがしかし、今のアランにそれを強要したくはない。
それに、あの感覚は簡単には忘れられなかった。あの、気持ちが悪いという感覚を引きずったまま、舞台に立ちたくはない。子供は敏感だ。演者が楽しんで舞台を作らなければ、心から楽しんではくれないだろう。
ここまで迎えに来てくれた。
ただそれだけで、こんなにも嬉しいのに、他に何を望むというのか。
だが、それでももし、アラン自身がこの小さな舞台に立つと言うのなら、そのときはただただ全力で、そのフォローに回りたいと思う。それがアラン・ジンデルの望みであり、願いならば、共に手を取り、歩いてみたい。
「キサさん、あの、わたし──」その背中を押し、半ば無理やりリビングまで連れていくと、ミシェルは困惑した面持ちを浮かべながら希佐を振り返った。「もし気分を悪くされたのなら、心から謝罪をします。でも、今回の魔物のエクスは、本当にお二人で演じられた方がいいと思ったんです」
「私もアランも気分を悪くしたわけではないので、お気になさらないでください。ただ、少し事情があって」
「事情、ですか?」
「詳しくお話しすることはできないのですが」
考えてみれば、この数ヶ月で、アラン・ジンデルの生き方は大きく変わってしまった。これまでの平穏な生活を捨ててまで前進することを選び、多くのことに挑んで、自らの過去と必死になって向き合っている。並大抵の覚悟では成し遂げられないことを、苦しみながらもやってのけている。
酷なことを強いているのだろう。本来ならばゆっくりと歩まなければならない道のりを、躓くたびに立ち上がり、物凄い速さで駆けてくる人を、希佐は待っていることしかできない。
「彼は今、たくさんの荷物を抱え込んでいて、両手が塞がっている状態なんだと思うんです。だから、別の荷物を抱えるためには、少し立ち止まって考える時間が必要なんだと思います。今持っている荷物を抱え続けるのか、それを一旦置いて、別の荷物に手を伸ばすのか」
「わたしにはよく分かりませんが……」ミシェルはそう言いながらも、どこか思慮深い面持ちを浮かべ、肩の力を抜く。「それはきっと、難しい問題なのでしょうね」
「そう思います」
希佐はリビングのソファに腰を下ろすと、濡れた窓ガラス越しに薄曇りの空を見上げた。いつの間にか雨は止み、雲間からは晴れ間が覗きはじめている。この辺りはロンドンよりもずっと天候が変わりやすい。
「キサさんが、アラン・ジンデルも自分たちと同じ人間だと言った言葉の意味を、たった今理解できたような気がします」
ミシェルは向かい側のソファに腰を下ろし、僅かに身を乗り出すと、向こうの部屋には届かないように声を顰めて言った。
「でも、もしあの方が今抱えている荷物の置き所を定めて、別の荷物を抱えてもいいという気持ちになられたら、わたしは喜んでこの荷物をキサさんにお譲りしますね。それまでは、わたしが責任を持ってこの荷物を抱えていようと思います」
「ありがとうございます、ミシェルさん」
「いえいえ。あっ、お二人の魔物のエクスを見たいっていう気持ちは、今も変わりませんので、悪しからず」
ふふっと悪戯っぽく笑いながらそう言ったミシェルは、強く握りしめたせいでくしゃっとしてしまった台本を、膝の上で真っ直ぐに伸ばそうとしている。希佐は取り換えましょうかと申し出るが、ミシェルはとんでもないと首を横に振り、最初のページを開いた。
「では、はじめましょうか」
「はい」希佐はそう言って頷くと、ミシェルに倣って台本を開いた。「よろしくお願いします」
『──キサさんとわたしが演じるよりも、お二人で魔物のエクスを演じた方が、ずっと良いものになるんじゃないかって、そう思ったんです』
アラン・ジンデルは、ピアノの前に腰を下ろしたまま、ミシェルが口にしたその言葉を思い返していた。なぜすぐに拒否することができなかったのか、自分でも正しく説明することができない。そんなことは願い下げだと言ってしまえば、それでよかったはずだ。
それなのに、口をついて出たのは言い訳じみた言葉ばかりだった。まるで、自分に演じる口実を与えてほしいと願うような、そんな中途半端で優柔不断な感情が脳裏をちらついて、自分自身に嫌気が差す。
昼前に一通りの作曲を終えたアランは、ピアノの鍵盤を拭き上げてから蓋を閉じ、その場を離れた。廊下を通り抜け、キッチンの方からダイニングに回り込むと、台本の読み合わせを念入りに行っている希佐とミシェルの姿を見ることができる。既に台詞が頭に入っている希佐に対して、ミシェルは覚えるのに難儀しているようだった。
アランは静かに椅子を引いて腰を下ろし、手元の台本を広げると、二人の声に耳を傾けながらペンを走らせる。いつもなら役者に多くを任せてしまうが、本番は明日だ、ただ静観しているわけにもいかない。
希佐が演じるエクスは気弱な印象だ。人間に対する好奇心はあれど、どこかおどおどとしていて、吃音が目立つ。魔物のエクスの原本にも、アランが書いた脚本にも、そのような指示書きはない。だが、ミシェルが演じる明るく元気なピオーティアとは対照的で、バランスは取れている。
ピオーティアとの仲が深まっていくにつれて、エクスの吃音は取り除かれていく。しかし、ピオーティアの「あなたの顔を見てみたい」という発言をきっかけに、エクスは再び吃音に悩まされるようになった。
自分が魔物だということを知られてしまったら、ピオーティアに嫌われてしまうかもしれないとエクスは考える。エクスは「ピオーティアの目は一生見えないままでいい」と吐き捨てるが、それと同時に己の思考の浅ましさを思い知り、ピオーティアに会いにいくことができなくなってしまった。
「──そろそろ休憩にしましょうか」アランはそう言う希佐の声を聞いて顔を上げる。「午後からは立ち稽古をはじめてみませんか?」
「そうですね、動きながらの方が台詞も入りやすいですし」
カオスの公演準備期間中も、希佐は進んで他の仲間たちと稽古を行い、役や物語の理解度を深めていた。カオス以外の現場でも、同じように協力し合いながら、丁寧に一つずつ舞台を作り上げていたのだろう。
『あの子は特別だよ』以前、希佐がゲスト出演した舞台で一緒に仕事をしていたジョシュアが、不思議そうに言っていたことがある。『いつだって控え目なのに、誰よりも目立つんだよね。意見を求められないかぎりは口を噤んでいるのに、いざというときは誰よりも穿ったことを言う。ベテランの役者が相手でも、遠慮なく自分の意見をぶつけるのに、それを少しも嫌味に思われない。彼女の周りには自然と人が集まってきて、良い関係性が築き上げられていく。あの子を通して現場が円滑に進みはじめるんだ』
立花希佐が現れるまで、劇団カオスの面々は各々に稽古を進めることが多かった。個々の能力値や、本番の完成度は高かったが、全体的な調和が取れていなかった。だからこそ、個人の才能に頼りきった、カオスな舞台と称されることが多かったのだ。
舞台に立つ劇団員も、公演を観に来る客連中も、物好きばかりだった。
ジョシュアの言う通り、立花希佐は特別な存在だ。彼女と関係を持ったことのある人間なら、誰もがそう思うだろう。劇団カオスは立花希佐の加入により、完成された。
アランがダイニングにいるのを見つけると、希佐はやわらかく微笑んで歩み寄ってくる。そのまま何かを言いかけるが、アランの手元にある台本に視線を落とすと、大きな目を丸くした。
「すごい書き込み」
「気になったところを書き出しておいた」アランは平坦な口振りでそう言いながら、台本を差し出した。「参考程度に」
「ありがとう」
希佐の隣に立っているミシェルは頬を紅潮させ、目を輝かせながら、やや興奮気味に台本を覗き込んでいる。自分のファンを自称する者と交流することなどほとんどないアランは、こちらを見る畏敬にも似た眼差しに困惑してしまうが、かといって相手を無視することも、邪険にすることもできない。そんなことをすれば、周りから非難を受けることは目に見えている。
「Bonjour,mes chéris.」
ランチの時間帯に合わせて起きてきたゴダンは、相変わらず寝起きが良さそうだった。にこにこと機嫌良くキッチンに入ってきたかと思うと、こちらに向かってそう声を掛けてくる。台本を覗き込んでいた希佐は、顔を上げると自然な様子でフランス語を口にした。
「Bonjour, Monsieur Leonard.」
「公演の準備は順調かい?」ゴダンは冷蔵庫の前に立つと、冷えた水を取り出しながら言った。「おやおや、人が増えると食材の減りも早いね。買い出しにでも行ってこようかな」
「ああ、それなら私が──」
「わたしが行ってきます」
ほぼ同時に口を開いた希佐とミシェルは、お互いに顔見合わせると、思わずというふうに破顔する。その様子を見たゴダンは、どこか満足そうに笑むと、水とグラスを手にダイニングまでやって来てアランの隣に座った。
「お金は僕が出してあげるから、好きなものを好きなだけ買っておいで。ベネディクトを叩き起こして、荷物持ちに連れていくといい」
「すぐに助監督を起こしてきます」
ビシッと敬礼をして見せてから、ミシェルは駆け足でダイニングを出ていく。希佐はその騒がしい背中を見送ってから、思い出したようにリビングに引き返し、台本を手に戻ってきた。
「レオ、魔物のエクスの台本です。アランが仕上げてくれました」
「仕事が早いね」
「脚本自体は既に完成されているから」
「君たちが買い出しへ行っている間に目を通しておくよ」
「何か欲しいものがあれば一緒に買ってきます」希佐はスマートフォンを取り出しながらそう言うと、ゴダンの隣に腰を下ろす。「何かありますか?」
「取り寄せてもらった雑誌が書店に届いていると思うから、それを取りに行くくらいかな」
「代わりに受け取ってきましょうか?」
「頼めるかい?」
「はい、もちろん」
希佐とゴダンが話しているのを黙って眺めている間中、アランは奇妙な違和感のようなものを覚えていた。だが、ミシェルが未だ寝ぼけ眼のベネディクトを引きずって現れ、希佐を連れて家を出ていく頃には、その違和感の正体をなんとなく察する。
行ってきます、と言って出ていく三人をにこにこと送り出したかと思いきや、視線を戻すなりその表情を消すゴダンを目の当たりにして、アランは小さく息を吐いた。
「キサと寝たの」
「随分直接的な物言いをするんだね」頬杖をつき、じっとりとした眼差しを向けてくるアランを見て、ゴダンはゆっくりと目を細めた。「しかし、実に興味深い指摘だ。なぜそう思ったんだい?」
「距離感が近い」
「それだけ?」
「事後臭がする」僅かに首を傾げるゴダンを見て、アランは続ける。「匂いが同じだ」
「彼女の使っているシャンプーがあまりに魅力的な香りだったから、半分分けてもらったんだよ」ゴダンは機嫌が良さそうにそう言うと、ふふ、と穏やかに笑った。「君が嫉妬していると知ったら彼女はどういう顔をするかな」
「別に嫉妬をしているわけじゃない」
「心配しなくても僕に女性を抱く趣味はないよ。知っているだろう?」
「俺は例外があることも知ってる」
「第一に、少なくとも友人が大切にしている女性をどうこうしようとは思わない。第二に、一時の気の迷いで生涯の友情や最高の仕事仲間を手放すほど愚かでもない。第三に、確かにあの子は魅力的だけれど、君と天秤に掛けられるほどの存在かどうかは、まだ計りかねているところだ」
「ふうん」
「ん? もしかして君が嫉妬しているのは僕じゃなくて、彼女なの? キサが僕と仲良くしているのが気に入らない?」
「笑えない冗談を言わないでくれ」
「僕は彼女が羨ましいんだ。君からそんな表情を引き出すことができるのだからね」ゴダンはグラスに水を注ぎながら言った。「君は僕に抱かれそうになっても顔色一つ変えなかった」
「レオが本気なら別に構わなかった」でも、と言いながらグラスを掴んだアランは、それを呷るようにして飲み干してみせる。「写真のために寝る男とは寝ない」
「まったく、惜しいことをしたと思うよ」
くつくつと笑いながらそう言ったゴダンは、何事もなかったのようにグラスに再び水を注ぐと、それを一口だけ飲んだ。
「キサは未だに男の部分が抜け切っていないのではないかな。まあ、最も多感な時期に男として振る舞っていたのだから、それはもう癖というよりも、彼女の一部になっているのかもしれないね。子供たちや女性に対する振る舞いがフェミニストのそれなんだ」
「彼女はヘスティアで働いているときにメレディスの立ち居振る舞いを手本にしていたらしいから」
「ああ、それで身のこなしが妙に洗練されているのか。どうりで所作が美しいと思ったよ。彼女ならパリの三つ星レストランでも難なく給仕ができる」
立花希佐は自らの居場所を選ばない。どんな場所にも適応することができる。だから、器用であると同時に、不器用なのだ。自分一人で何でも出来てしまう人間は、進んで他者に頼ることをしない。希佐はその典型だ。
「僕は仕事柄多くの女優と対面してきたが、大成する女優には男性的な感性を持っているタイプが多いように感じる。キサは間違いなくその類の役者だよ。そうする必要性があると思えば、何だってできる類の人間だ」
「だからといって、それが何でもさせていい理由にはならない」
そう言うアランを横目に一瞥してから、ゴダンはポケットから取り出したスマートフォンを操作し、その画面をこちらに向けて差し出してきた。
「僕がそうしろと指図をしたわけではないよ。仄めかす程度のことは言った覚えがあるけれどね」
レオナール・ゴダンが撮影する人物写真の多くは、被写体が自然体で、カメラのレンズを気にする様子が見られない。ゴダンは、とにかく撮影に時間をかける写真家であり、映画監督だ。納得のいく写真や映像が撮影できるまで、何時間でも、何日でも粘り続ける。特に人物写真の場合は、長ければ数ヶ月単位で共同生活を送り、被写体がカメラを意識しなくなるまでレンズを向け続けるのだと話していたことがあった。
「フィルムの現像はロンドンに戻ってからするつもりだから、もう少し先のことになるけど、いい写真が撮れたと確信しているよ。これは君に見せてあげようと思って、一枚だけスマートフォンのカメラで撮らせてもらったものだ」
画面の中の立花希佐は、一糸まとわぬ姿でそこにいた。
伏せられた目元の、それを縁取る長い睫毛が、光の具合で輝いて見える。
長い髪で胸元は隠されているが、その輪郭は確かに見て取れた。無駄な贅肉は削ぎ落とされ、質の良い筋肉を纏ったその体からは、官能的な雰囲気は感じられない。ただただ芸術的な、彫像のような美しさだけが、絵画のように切り取られている。
「どう思う?」
「綺麗だ」
「確かに」アランがスマートフォンを押し戻すと、ゴダンは画面を暗転させてポケットに戻す。「彼女には性別を超越した美しさがある」
「これがあなたの撮りたかったもの?」
「いや、どうかな」
ゴダンは曖昧な口振りでそう言いながらグラスを掴むが、それを口元には運ばず、結露した側面を指先で撫でながら徐に口を開いた。
「僕自身の主義には反するが、自分好みの写真が撮りたければ、彼女がここへ来たときに、否が応でもカメラを向けるべきだったのだろう。正直、失敗をしたと思ったよ。待つべきではなかった。打ちのめされている彼女の表情には、酷くそそられるものがあったからね」
「相変わらず趣味が悪い」
「何を美しいと感じるかは人それぞれだろう? 君は夕日に、僕は朝日に魅力を感じる。それと同じことだよ。何も性的に興奮したと言っているわけではない。それとも、君は夕日を見て性的な欲求を覚えるのかい?」
俺は夕日を見ると死にたくなるんだ、とは言わなかった。ただ平然とした面持ちを浮かべ、小さく肩をすくめると、雑然とメモが書き込まれたノートのページを開く。
アイデアが次々と溢れかえってくるとき、どうしても手の動きが思考に追いつかない。そういうときは、いつも記憶の印を残すようにしている。その印を見れば当時の記憶が蘇り、いつでも思い返すことができるからだ。
「良い万年筆だ」アランが自らの書いた印を見ながら、思いついたアイデアを次のページに細かく書き出していると、その様子を眺めていたゴダンが静かに言った。「日本製だね」
「キサがくれた」
「趣味が良い」
「なに、羨ましいの」
「違うよ」横目に見たゴダンの表情は、どこか憂いを帯びているようにも見えた。「大昔、同じメーカーの万年筆を人に贈ったことがあるんだ。アクアマリンを埋め込んだ美しい万年筆でね、彼はそれを気に入って、いつも胸のポケットに挿してくれていた」
「恋人?」
「いや、ただの友人だよ」
「片想い」
「甘酸っぱい思い出さ」
「珍しい」ん? と言って眉を持ち上げるゴダンを見やり、アランは少しだけ目を丸くする。「レオがそういう話をするのは」
「それこそ羨ましくなってしまったのかな。一人で生きていく覚悟を決めたからといって、人肌が恋しくならない理由にはならないようだね」
「共同生活はそんなに楽しかった?」
「もちろん、楽しかったとも。彼女は理想のルームメイトだった」
「キサが聞いたら喜ぶ」
「それはどうかな、僕は下心があって彼女を受け入れたんだよ」
「キサだってレオを利用した」再びノートに視線を落としたアランは、ペンを走らせながら言う。「利害が一致していたのなら、俺は何の問題もないと思うけど」
「君は自分の愛する人が、自分以外の男を頼ったことに対して、何か思うところはないの?」
「彼女は俺を頼ったりしない」
「うん?」
「頼るのはいつだって俺以外の男だよ」
希佐が精神的な不安定さに襲われるのは、いつだって自分が原因なのだとアランは思う。それと同時に、自分の心も同じだけ掻き乱され、平常心を保ってはいられなくなっていた。
きっと自分たちは何かに導かれ、出会うべくして出会ったのだ。だがしかし、これから先も共に歩んでいくというふうな星の下には生まれていないのだろうという思いが、アランには確かにある。
このままではいずれ、互いが互いの足を引っ張り合うことになる。いや、今は確実に、自分が彼女の足を引っ張っている状態だ──幾度となく差し伸べられてきた手を、掴もうとしなかった付けを、今払っている。
「キサが助けを必要としているとき、俺はいつも彼女のそばにはいない。大抵の場合、俺が彼女のことを突き放すから。そもそも、キサは俺が手を差し伸べるまでもなく、自分で自分の道を切り開いていく。その決断はどうかと思うと俺が口を挟んだところで、彼女はその考えを改めない。脇目も振らずに、自分が行くと決めた道を真っ直ぐに進んでいくだけだ」
「あの子が日本を飛び出してきたときのように?」
「そうならないことを願ってる」アランは自らの左手が握り締めている万年筆を、愛おしげに見つめた。「同じことをしたら、彼女自身が苦しむだけだから」
一時間ほどが過ぎた頃、買い出しに行っていた三人が、和気藹々とした様子で帰ってきた。タブレットからデータを転送し、リビングに設置されているプリンターで楽譜を印刷していたアランは、無意識にキッチンの方へと目を向ける。
「遅くなってすみません」キッチンのシンクに紙袋を起きながら希佐が言った。「書店と文房具店に寄ったらこんな時間になってしまって」
つい数分前までダイニングでアメリカのスタッフとやり取りをしていたゴダンは、テーブルに手をついて立ち上がると、そのままキッチンに入っていく。外で荷物番をさせられる俺の身にもなれと、疲れた様子で漏らしているベネディクトの肩をとんとんと叩き、希佐とミシェルの方に向き直った。
「何か必要なものでもあったのかい?」
「キサさんが子供たちに招待状を出すのはどうかとおっしゃって。とても良い考えでしょう? これでも大急ぎで材料を揃えてきたんですよ」
「レオ、書店で受け取ってきた雑誌です」
「ああ、どうもありがとう」
「パンと惣菜を買ってきたので、各自好きなものを取り分けて、勝手に食べちゃってください」購入してきた惣菜をダイニングのテーブルに手早く並べながら、ミシェルが慣れた口振りで言う。「夜はレストランにデリバリーを頼んできました。夕飯を作っている余裕はなさそうですから」
プリンターが最後の紙を吐き出したのを見下ろし、アランは出来上がったばかりの楽譜の束を取り上げた。一枚ずつ目で音符を追いかけ、頭の中で音を鳴らしながらメロディーを確認していると、荷物持ちから解放されたベネディクトがリビングまで逃げ延びてくる。
「頼む、俺に優しい言葉をかけてくれ。気圧のせいで頭痛が酷いんだ」
「お疲れ」ばったりとソファに倒れ込んだ姿を一瞥し、アランは再び楽譜に視線を戻す。「アスピリンならあるけど」
「パラセタモールがいい」
「あれは効きが悪いから持ってきてない」
「アスピリンは副作用が──」ベネディクトはそこまで言ってから、顔面をクッションに押し当てて何事かを呻いたあと、こちらに向かって手を出してきた。「アスピリン、分けてくれ」
アランはソファの足元に置いていたバッグを拾い上げると、その中から筒型の容器を取り出し、こちらに向かって差し伸ばされている手に握らせた。
「ホテルに戻って休んだら」
「そういうわけにもいかないだろうが」
「俺はキサ以外の女には興味ないから」
「おい、言い方を考えろよ、言い方を。お前それでも世界的な脚本家か?」掴んだ容器をぐっと握り締め、ベネディクトは伏せていた体を勢いよく起こす。「お前がそうでも、あいつはそうじゃないかもしれないだろ。ほら、お前は顔だけは良いわけだし、気の迷いを起こさないともかぎらない……」
「顔だけ」
「お前は人に不用意に優しくするところがあるからな、おそらくそれでクラッとやられる女も多い──何だよ、その手は」
「不用意に優しくして惚れられると困る」
「うるせぇ」
ソファから立ち上がったベネディクトは、暗にアスピリンを返せと差し出したアランの手を払い落とし、水を求めてのろのろとキッチンに入っていった。薬を飲むから水をくれと言うベネディクトに向かって、その前に何か食べた方がいいとミシェルは言い、食事を取り分けている。
誰かを好きになり、愛するという感覚はほんの数年前まで、アランにとってはよく分からない感情だった。一生分からなくても困らないだろうと思っていたが、三年前、野良猫のようにふらっと現れた女性に、これだけの情を移すことになるとは思いも寄らなかったのだ。
魔物のエクスはおそらく、ピオーティアの目は一生見えなくていいのだと、そう口にした瞬間に、自身の思いを自覚したのだろう。ピオーティアの目を治してやれる力を持っていながら、自分の保身のために、この先も盲目であり続けることを、一瞬でも願ってしまった。エクスにとっては、自分が醜い魔物であるという事実が、最も重大な秘密だったのだ。
だが、ピオーティアは初めて出来た人間の友人であり、愛する人だ。自分の醜い姿を見て嫌悪感を抱かれたとしても、その目を見えるようにしてやれば、ピオーティアは薄暗い家の中に閉じこもっている必要もなく、他の人間たちと同じように、自由に、幸せに生きていくことができる。
「……エクスは俺か」
「アラン?」リビングに立ち尽くしているアランを見て、すぐ近くまでやって来ていた希佐が不思議そうに声を上げた。「どうしたの?」
「なにが」
「ぼーっとしてる」希佐はそう言って目の前に立つと、琥珀色の丸い目でアランの顔を覗き込んできた。「稽古はミシェルさんと二人で進めておくから、アランはベッドで休んできたら? 少しだけしか眠れていないでしょう?」
「考え事をしていただけで、眠いわけじゃない」
「エクスのこと?」
「そう」アランはそう言ってから、刷り上がったばかりの楽譜を掲げた。「立ち稽古をするなら、音も合わせておきたい」
「ピアノは──」
「俺が弾く」
「本当?」そう言って、希佐は嬉しそうに、そして少しだけ申し訳なさそうに微笑んだ。「何から何までありがとう」
「やるからには最高のものにしたいんだろ。だから、妥協はしない」
「……うん!」
軽い昼食のあと、希佐とミシェルは手作りの招待状を書き、封筒を封蝋とシーリングスタンプで閉じると、それをベネディクトに託して午後の稽古を開始させた。
希佐が演じるエクスは冒頭、辺りをきょろきょろと窺いながら現れる。
人間には興味があるものの、自らの姿を人前に晒すことには抵抗があるようだ。それでも、勇気を振り絞って、物陰から声をかけてみる。
『あ、あの……』しかし、エクスの姿を目の当たりにした人間は、叫び、驚き、怯えながら逃げて行ってしまう。『あっ、ま、待って、お、お願い……あ、あーあ、また行っちゃった……』
まず、見てくれが少しも恐ろしくないのが問題だと、アランは思った。
希佐の容姿では、どう頑張っても町で恐れられている魔物には見えない。元々気弱な魔物という設定ではあるが、それに加えておどおどとした態度が誇張されている分、むしろ可愛らしくさえ見えてしまう。
ミシェルのピオーティアは、純真無垢というよりも、破天荒に明るい。圧倒的な光だ。悪い演技ではないが、希佐が演技の中に吃音を取り入れ、より自信がなさそうに振る舞っているのは、やはりこの輝き過ぎている役作りが原因なのだと、そうはっきりと分かった。
アスピリンを飲んで頭痛から解放されたベネディクトが、姉妹の家に招待状を届けて戻って来たのか、目の前の廊下を通りかかる。アランは二人に「失礼」と断りを入れてから席を立ち、リビングの方に向かおうとしている背中を呼び止めた。
「免許持ってる?」
「は?」
「買い物に行って来て欲しいんだけど」
「買い物?」
「グラスミアでは手に入らないと思うから、ウィンダミアまで。メイク道具をいくつかと、ハロウィンの仮装で使うような角やら、翼やら、なんか使えそうなやつを揃えて来てほしい」
「俺が?」
「他に誰がいるの」アランはそう言って眉を持ち上げる。「どうせ暇だろ」
「暇じゃねぇよ」
「分かった。それなら他に頼む」不満そうな顔をするベネディクトの脇を通り過ぎ、アランはリビングで作業をしているゴダンの背後に立つと、装着していたヘッドホンを外した。「レオ、ちょっと買い物に行ってきて」
「あっ、おい──」
アランを追いかけて来たベネディクトが、僅かに慌てた様子で呼び止めようとするが、既に手遅れだ。アランにヘッドホンを取り上げられたゴダンは仰け反るようにしてこちらを見上げると、口元に笑みを浮かべる。
「もちろん、いいとも」
「レオ」
「急ぎの仕事をしているわけではないのだから、別にいいだろう?」苦言を呈するように声を上げるベネディクトに目をやり、ゴダンは言った。「多少の息抜きは必要だよ、ベネディクト」
「制作にはどう申し開きを?」
「天候が優れないからと言えばいい。事実、今日はあいにくの曇り空だ。それに、他の子たちは観光を楽しんでいるのだから、僕たちにもドライブを楽しむ権利くらいはあると思うね」
「あなたに好き勝手なことばかりされると、俺に皺寄せが回ってくるんですよ」そう言ってベネディクトは顔を顰める。「嫌がらせですか?」
「まあまあ、話なら車の中で聞いてあげるから」
最低限必要なものを紙に書いて渡すと、ゴダンはそれを軽く読み上げてから財布の中にしまっていた。そして、アランから昔の愛車の鍵を嬉しそうに受け取ると、いそいそと玄関ホールへと向かう。
「面倒臭がらないで一人で行くって言えばよかったよ……」
これで貸し借りはなしだと言いながら、ベネディクトは大きなため息を吐き、ゴダンの後を追いかけていった。部屋の扉の影からこっそりとその様子を眺めていた希佐とミシェルは、二人が出て行くのに合わせて、ひょっこりと顔を覗かせる。
「良かったの?」希佐がアランを見上げながら言う。「必要なものがあるなら私が行ってくるのに」
「ウィンダミアまでどうやっていくの」
「バス?」
「稽古は」
「買い物をして帰ってくるだけなら二、三時間あれば十分だと思うし、その間はミシェルさん一人で──」
「ダメですよ、キサさん。一人で買い出しなんて行かせられません。危ないです」えっ、と声を上げる希佐に向かって、ミシェルは思いの外厳しい面持ちを浮かべていた。「いくら田舎だからって、観光客を狙った犯罪がないわけじゃないんです。グラスミアはオフシーズンですし、あなたがレオのお客様だって知れ渡っているから、村の人たちの目がある分ここは比較的安全だと言えますけど、ウィンダミアにはレオナール・ゴダンのご威光も届きませんからね」
「ご威光、ですか」
「キサさんは一見しっかりしているようで、実はぽやんとしているところもありますから、わたしはすごく心配です」あはは、と困ったように笑う希佐を見て、ミシェルは続ける。「レオは外出が好きですし、いつも喜んでお使いに行ってくれるので、気にしなくて大丈夫ですよ」
さあ、稽古を続けましょうと言いながら、ミシェルは部屋の中に戻っていった。扉を押さえながら立っていた希佐は、傍に立っているアランを見上げ、どこか物言いたげにしている。
「なに」
「ううん」
吐き出そうとした言葉を飲み込むような一瞬の間のあと、希佐はゆっくりと首を横に振り、そのまま踵を返して部屋に入っていった。
ゴダンとベネディクトが帰って来たのは、希佐とミシェルが夕食にと注文していた料理がレストランから届けられた、ほんの十分ほど後のことだった。あちこち連れ回されたのだろう、くたくたになっているベネディクトとは対照的に、ゴダンは両手に大量の荷物を抱えて機嫌良く帰ってきた。
「最悪……マジで、あの人……」
買ってきたものをリビングのテーブルの上に並べ、女性陣に披露しているゴダンを横目に、ベネディクトはキッチンで夕食を保存バッグから取り出しているアランを呼び寄せた。
「車の荷物、下ろすの手伝ってくれるか」
「まだ何か買ってきたの」
「プリンターだよ」
「プリンター?」
「ああ」思わずというふうに繰り返したアランを振り返り、前を歩いていたベネディクトが大きくため息を吐く。「3Dプリンター」
「……なんで?」
「お前が余計な注文をするからだろうが」
要約すると、こうだ。
アランが魔物のエクスで使えそうな小道具、角や翼を探してきてくれと頼んでしまったばかりに、二人はいくつもの店舗を巡ったが、どれも子供騙しの安っぽい作りのものばかりで、主にゴダンがそれを気に入らなかったらしい。ベネディクトは妥協するしかないと提案したが、ゴダンがそれを受け入れず、なければ作ればいいのだという極論に至り、遠い街まで車を走らせて3Dプリンターを購入してきたのだという。
「プリンターがあっても元になるデータがないと何もできないって言ってやったら、あの人、知り合いのCGクリエイターに連絡して、データを作らせたんだ。すぐに出来るって言ってたし、もう届いているんじゃないか?」
そんな方法もあったかという顔をしていると、ベネディクトは後部座席のドアを開けながらアランを睨んだ。
「ほら、早く運んでくれ」
買ってきたプリンターを説明書通りに設置し、設定を終えると、既に届いていたデータを読み込ませる。細部まで作り込まれた魔物の角が完成するのは、開始から数時間後だ。明日の朝には出来ているだろうと言いながら、ゴダンは上機嫌で夕食を口に運んでいた。
「あれ、アメリカに持って帰るつもりですか?」
「いや、とりあえずはイズリントンのアトリエに置いておこうと思っているよ。あれでいろんなデザインのフレームを作ったら楽しそうだ。写真展を開くときに何かと重宝しそうだしね」
「じゃあ、あの話は進んでいるんですね」ゴダンが切り分けてくれたローストチキンの肉を、骨から切り離しながらミシェルが言った。「ロンドンで個展を開くかもしれないっていうお話をされていたでしょう?」
「一応話は進んでいるけれど、今は場所を探してもらっている最中なんだ」
「わたしたちがイギリスに滞在している間に実現すれば嬉しいんですけど、多分無理ですよね。残念です」
「いずれアメリカでも個展を開くよ」
アランの隣に座っている希佐は、三人の話には一切口を挟まず、黙々と食事を続けている。木目のテーブルにある節をじっと睨みながら、念入りに咀嚼している様子を見ると、どうやら心ここに在らずという状態らしい。
食後も少しだけ稽古を続けたが、疲労が原因で明らかに集中力が欠如しはじめていたミシェルを見かね、アランは切り上げることを提案した。
ミシェルはまだ不安が残ると言って、稽古を続けるべきだと食い下がったが、十分に睡眠を取ってからの方が、質の良い稽古をすることができる。そのように説得していると、そこにベネディクトが現れ、ホテルまで否応なしに引きずって帰ってくれたことには、素直に感謝するべきなのだろう。
「三階のキサの隣の部屋が空いているから、そこを使っていいよ」
稽古を終えてすぐ、希佐の姿が見えなくなったと思っていると、不意に背後からそう声を掛けられる。反射的に振り返ると、新品のバスタオルを抱えたゴダンが立っていた。
「キサを見なかった?」
「プリンターの前にいないなら、部屋に戻ったのではないかな。僕たちは何時間か眠ったけれど、君たちはほとんど寝ていないだろう? 今日は早めに休んで、明日に備えた方がいい」
「ああ、うん」
「それとも、何か思うところでもあるのかい?」ゴダンはそう言うと、手招きをしながらキッチンに入っていく。「夕食の席では二人とも静かにしていたね」
「あえて口を挟むような話題でもないと思っただけ」
「君の場合はそうだろう」
「キサが何を考えて黙り込んでいたのかは、俺には分からない」
「本当に?」
「俺に彼女の思考を読み取る能力が備わっていたら、彼女がグラスミアに来ることも、俺自身が真夜中に車を何時間も走らせて彼女を追いかけて来ることもなかったと思うけど」
「確かに、その通りだ」
シンクに寄り掛かるようにして立つゴダンを見て、アランは両腕を胸の前で組み合わせると、壁に背中を預けて立つ。
「ベネディクトから聞いたよ。ミシェルから、自分とキサが魔物のエクスを演じるよりも、君とキサが演じた方が良いものになるって、そう言われたんだって?」
「キサと俺が読み合わせしていたのを、彼女が聞いていたんだ」
「君自身はそれをどう思った?」
「どう?」
「少なくとも機嫌を損ねた様子はない」
「彼女に悪気がないことは分かってる」
「ミシェルは良い子だよ」それは君も知っているよねと言って、ゴダンは笑った。「本人は気づいていないようだけれど、あの子には特別な才能がある。物事を客観的に見る目を持っているんだ。自身の感情を上手にコントロールする術を覚えれば、プロデュース業で成功できるだろう。今回の映画に関しては、彼女の意見を多く取り入れているんだけれどね」
「上手くいってないの」
「概ね順調だよ。でも、ほら、君が前にロンドンの撮影現場を訪ねてきてくれたとき、思うような絵が撮れなくてね。とても重要なシーンなんだ。僕は役者自身の純朴さを気に入って起用したのに、いろいろと空回りをしてしまっているようで、こちらの意図を汲んでくれない」
「その役者は本当に純朴なの」アランがそのように問うと、ゴダンは僅かに目を丸くする。「それはただ、レオの目には純朴に映ったというだけのことで、実際のところは違うのかもしれない。例えば、初対面の緊張を純朴と捉えたのかもしれないし、キャスティングディレクターが入れ知恵をして、そのように振る舞わせたのかもしれない。本来自分の中にない要素を演じることは難しい。ここは現実世界で、夢の中とは違う。好き勝手に空を飛び回れたりはしない」
「君は明晰夢を見るタイプかい?」
「夢はほとんど見ないよ。でも、たまに見る夢は、そういう場合が多い」
「そうか」ゴダンは僅かに目を伏せたあと、再びアランに目を向けた。「もし君の言う通りなのだとしたら、僕の人を見る目も落ちたものだね」
「持つ者は持たざる者のように自由には振る舞えないって知り合いの演出家が言ってた。昔は何でも好きなものを作れたのに、ある程度名が売れて、資金が手に入るようになってからの方が、自由は制限される」
「アーティスティックな作風はもはや時代遅れだと言われて、スポンサーは続々と離れていったねぇ」
「俺は好きだ」間髪入れずにアランは続ける。「それに、俺もあなたも、自分が追い求める理想を捨てられない。でも、それでいいんだと思う。俺たちみたいな人間は、理想を切り捨てたら生きる意味を失うから」
「至極ご尤もだよ」
理想と現実の間には、海よりも深い隔たりがある。
ほんの一歩の隙間の向こう側、一見簡単に飛び越えられそうだが、足を踏み外せば最後、そこにあるのは奈落の底だ。
奈落は暗く、生暖かい。まるで生湯に浸かるような心地良さで全身を包み込み、落ちてきた者を絡めとろうとする。自分よりも先に奈落へと落ちてきた者らの何本もの手が、新入りの足を掴み、這い上がろうとするのを阻止しようとする。奈落から抜け出すことは難しい。残酷な現実を突きつけられ、夢という名の理想に裏切られた人々の中には、成功者を呪う者も多い。
諦めなければ夢は叶う──成功者たちのその言葉に、大勢の子供たちが騙されている。叶わない夢もあると教えてやった方が、ずっと親切だ。それなのに、本当のことを告げれば、子供の夢を壊すなと罵られる。
「幸にして、僕は自らが理想としてきた晩年に近づきつつある。最期にもう一本だけ、君が描いた世界を映像という形にできれば、あとはもういつ死んでも構わないとさえ思っているくらいだ」
「レオ」
「いやなに、君を急かしているわけではないよ。僕には僕の理想とする生き方があるように、君には君の理想があるだろう」
「……なにが言いたいの」
「アラン・ジンデルは本来、自らが理想とするものに妥協することを嫌う。命を賭して書き上げた斜陽の雲はもちろん、劇団カオスによる公演にも、君自身が掲げた理想を上回る仕上がりを求めてきた。君は驚かされたいんだ」
幼い頃、初めてベートーベンの月光を聴いたとき、訳も分からないままに号泣した。施設の支援者から招待を受けて出向いたホールで、讃美歌を聴いたとき、その美しさに圧倒されると同時に、神の不在を改めて確信した。養父に連れられてジャスト・ロビンの敷居を跨ぎ、舞台上で演じる役者たちの目の輝きを目の当たりにしたとき、自分も自分以外の誰かになれるのだと知り、その場所に希望を見出した。
こうした一度の目の驚きに勝る感覚を味わうことは、ほとんどない。
「劇団カオスの公演は、君にとっての生き甲斐だ。彼らはいつだって君の期待に応え、前回を上回る舞台を見せてくれる。対して、映画の脚本に身が入らないのは、斜陽の雲以上の映像を見せてくれる映画監督が現れないからだろう? 違うかな」
「あなたの考え方は正しいと肯定してほしいの」
「答えを求めてはいないよ」ゴダンはそう言うと、息を漏らすようにして笑った。「ただ、そういうところが良く似ているなと、そう思ったんだ」
「似てる?」
「キサだよ。彼女はより良いものを求めて前進し続ける。君と同じようにね。この一週間、彼女は毎日の稽古を欠かさなかった。時間さえあれば、朝から晩まで歌い、踊り続けた。立花希佐の理想は高い──おそらく、ミシェルが自分の相手では、何かが物足りないと感じる程度にはね」
気紛れに読み合わせをしたことは正しかったのか、はたまた誤りだったのか。あれのせいで、希佐が頭の中に思い描く『魔物のエクス』の世界観が再構築されてしまったのであれば、申し訳ないことをしたと思う。ミシェルも希佐が演じるピオーティアの声を聞いてしまった時点で、少なからず影響を受けている。
「子供相手の出し物だ、普通なら楽しく演じられればそれでいいのだろうけれど、僕が見たところ、君たち三人はそれで満足できるようなタイプじゃない。最善策を内に秘めたまま目的を果たしたとして、これでよかったと思えるかどうかは、そのときになってみないと分からないことなのかい?」
ゴダンはそう言いながら、腕時計に視線を落とし、シンクに預けていた身を起こす。
「すまないが、十一時からニューヨークのスタッフと通話会議があるんだ。僕はこれで失礼するよ」
おやすみと言ってゴダンがキッチンを出ていっても、アランは暫くその場に留まっていた。しかし、リビングからゴダンの声が聞こえてくると、物音を立てないように気をつけながら、静かにその場を離れる。渡されたタオルと自分の荷物を抱え、階段を三階まで上っていくと、右側のドアに向かい掛けた足を戻して、隣の部屋のドアの前に立った。
コンコンコン、とドアをノックする。
「はい」
「俺だけど」
「どうぞ」
その返事を待ってドアを開けると、希佐は床に敷いたマットの上で、ストレッチを行なっていた。思わず目を丸くしたアランを目の当たりにし、希佐は小さく苦笑いを浮かべる。
「今日は体を動かせなかったから、何だか落ち着かなくて」
「……そう」
「何か話があった?」
「いや」アランは首を横に振ってから、思い直したように口を開く。「シャンプー」
「え?」
「シャンプー、貸して」
「あ、うん」希佐は一度ストレッチを切り上げると、バスルームからいくつかのボトルを抱えて戻ってきた。「これがシャンプーとコンディショナー、ボディーソープも使う?」
「うん」
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
抱えたタオルの上にボトルを置いてもらったアランは、汗を掻いて前髪が張り付いている希佐の額を見やってから、その場で踵を返す。
「アラン」
「レオがリビングで通話会議をしてる」
「えっ、あ、うん、分かった」
「すぐ返しに来るから」
「まだもう少し体を動かしたいから、急がなくていいよ」
背中に掛けられる声に向かって、アランは肩越しに手を挙げて応えた。
ドアを開けると、目の前には民家というよりも、客室然とした広々とした空間が広がっていた。元々はホテルの一室ということもあり、無駄な家具は置かれていない。ハウスクリーニングを入れたのだろう、埃っぽさは感じられなかった。
アランはベッドの足元にあるオットマンの上にボトルを並べて置き、他の荷物はベッドの上に放り投げると、ジャケットを脱ぎ、腕時計を外しながらバスルームに足を向ける。
バスタブは大きく、広々としていて、アランのような長身でも、手足を伸ばして入ることができそうだった。タッチパネルを操作し、蛇口を大きく捻ると、金色の獅子の口から勢いよく湯が吐き出される。ゴダンの趣味ではないので、元々こうした作りだったのだろう。
一度部屋に戻り、シャツの首元をくつろがせながら、アランはベッドに腰を下ろした。そのまま後ろにばったりと倒れ込み、大きく息を一つ吐く。
自分が一体、何のためにグラスミア下りまでやって来たのかを考えようとするが、そうすると先程の、頬を火照らせた希佐の顔が思い浮かび、アランは奇妙な気持ちになった。汗で湿り気を帯びた髪からは、微かなバラの香りがしていたのを、今更になって思い出す。
『──極端なことを言うと、ペアダンスは愛する人を抱くのと同じなんだ』どういうわけか、カウンセリングのときにジョーから言われた言葉が、耳の奥に蘇ってきた。『ダンスは情事だよ、アラン・ジンデル。その女性を慈しむように抱けるのなら、踊ることだってできるはずだ。君は固定観念に囚われ過ぎている』
ジョーの言っていることが正しいのかどうかは分からない。バージルやイライアスの話は参考にもならなかった。ダンスは情事という物の考え方は、そもそも一般的なのだろうか。
『ダンスは情事だと言ったけど、対話でもあると僕は思っている。独りよがりではうまくいかない。その子とよーく話し合うんだ』
まるで今まさにその言葉を贈られたような気持ちになり、アランは複雑な思いを掻き消すように、喉の奥をぐるぐると鳴らすようにして呻いた。
希佐がロンドンに帰って来れば、落ち着いて話をすることなどできないだろうと思い、ここまで迎えに来ることを選んだのだ。それなのに、今となっては話し合うどころではなくなってしまっている。
だが、今何よりも大切なのは、明日の小さな公演を成功させることだ。
そう思い、気持ちを切り替えようとしたとき、その決意を揺るがそうとするかのように、部屋のドアが控えめに叩かれた。
アランは聞こえなかったことにしようと思い、その場で軽く寝返りを打つ。しかしもう一度、今度は意を決したように叩かれる音を聞くと、頭を掻きながら身を起こした。
ゆったりとした足取りでドアに向かいながら、さて、どうしたものかと考える。ノブをぐるりと回してドアを引き開けると、扉に頭を預けながら、目の前に立っている立花希佐の姿を見下ろした。
「どうしたの」至って平然とした口振りを装いながら、アランは訊ねた。「何か用?」
希佐はアランの顔を見上げたあと、はだけた胸元を一瞥してから、ついと目を逸らす。右手で自らの長い髪を梳きながら、右へ、左へと視線を彷徨わせ、再びアランの顔を見上げた。
「わ、私も本当はそろそろお風呂に入ろうかと思っていて──」自分を見下ろしたまま黙りこくっているアランの目を見つめたまま、希佐は自身の髪を梳いていた手を、こちらに向かってそっと伸ばした。「アランがお湯を溜めているなら、その、もったいないから、入らせてもらおうかと」
伸ばされた手の指先が、アランの左手の甲に触れる。それでも何も言わずにいると、希佐は甲に触れていた指先を、ゆっくりと引こうとした。こちらを見つめる潤んだ眼差しが伏せられるのを目の当たりにしたアランは、心の中で自分自身に対して舌打ちをしながら、希佐の右手を掴む。
「アラン──」
「溜まるまでにはまだ時間が掛かる」そう言いながら、希佐の手を握る手に力を込めた。「それに、今はあまり余裕がない」
「うん」
「みっともないくらい君を抱きたくてたまらないんだ」
アランの口からは、意図せず掠れた声が出た。すると、希佐は琥珀色の目を潤ませたまま、じわじわと大きく見開いていく。そして、今度はその目を徐々に細め、三日月のような形にして穏やかに微笑んだ。
「いいよ」一度解かれた手が、するりと、絡みつくように結ばれた。「みっともないくらいに、あなたに抱かれたい」
自らの胸に頭を乗せ、心音に耳を傾けながら眠りに落ちてしまった人の髪を優しく梳きながら、立花希佐は天井でくるくると回るシーリングファンをぼんやりと眺めていた。
当人はいつもと変わらない様子を装っていたが、一週間前よりも明らかにやつれ、久しく見ることのなかった目の下の隈が現れているのを認めて、この人はやはり眠ることができていなかったのだろうと、希佐は改めて思う。
《アランは今、カウンセリングに通ってる》バージルとの何気ないメッセージのやり取りの合間に、そうした話題が差し込まれた。《余計なお世話だろうとは思うが、あいつが自分の口からお前に話すことはないと思うから、一応伝えておく》
イライアスがこちらを気遣うような内容のメッセージを送ってきてくれるのに対して、バージルは何気ないメッセージの他にも、自分たちの稽古の進捗具合を動画で送ってくれていた。
イギリスにやって来てからの数年間、ロンドンを離れたことがなかった希佐にとって、この七日間は思っていた以上に長く感じられるものだった。だがしかし、新しい経験や人々との出会いが、自分自身を成長させてくれたようにも感じている。
本当に、濃密な一週間だった──希佐はそのように思いながら、自身の胸で眠るアランの寝顔に目を向けた。気が抜けてしまうような、穏やかな寝顔だ。すう、すう、と気持ち良さそうに寝息を立てている様子を見ると、なぜか心から安堵してしまう。
希佐はベッドサイドに手を伸ばし、アランの腕時計を取った。時刻は深夜二時を過ぎたばかりだ。リビングではゴダンが通話会議をしていると言っていたが、さすがにもう終わっているだろう。
この酷く心地の良い重みを押し退けるのは名残惜しいが、希佐はアランを起こさないよう十分に気をつけながら、ベッドをそっと抜け出した。自分の体の代わりにふんわりとした枕を滑り込ませ、体には肌触りの良い羽毛の布団をかけてやる。小さく唸り声を上げるのを聞き、希佐は思わず息を潜めるが、アランは枕を胸に抱き寄せると、再び静かに寝息を立てはじめた。
希佐はアランの肩にそっと口付けてから、床に散らばっている自らの衣服を掻き集め、靴を指先に引っ掛けて部屋を後にする。扉の近くの壁にあるパネルを操作し、天井のファンを止めて、照明を落とすことも忘れない。
物音を立てないように気をつけながら部屋に戻った希佐は、先ほどとは別の稽古着に袖を通すと、靴を履き直してからもう一度部屋を出た。しかし、階段を降り、玄関ホールを通って廊下に差し掛かったところで、キッチンの方から明かりが漏れているのが目に入り、思わず首を傾げる。
廊下からキッチンを覗き込むと、そこには誰の姿もなかったが、向こう側の薄暗いダイニングに人影が見えた。テーブルの上にはワインボトルとグラスが置かれ、その傍らではゴダンが突っ伏すような格好で眠っていた。
「レオ」希佐はゴダンの傍まで歩み寄ると、肩に手を乗せる。「こんなところで寝たら風邪を引きますよ」
軽く体を揺すり、もう一度名前を呼びかけると、ゴダンは蠱惑的なアースアイをゆっくりと開いた。
「風邪を引きますよ、レオ」
「あ、ああ、寝てしまっていたのか」ゴダンはその身を起こしながら、傍に立っている希佐を見上げた。「ありがとう、起こしてくれて」
「ちゃんとベッドで寝てください」
「そう心掛けてはいるのだけれどね。ワインを飲みながらうたた寝をするのがたまらなく好きなんだ」
「ワインを飲みながらのうたた寝は、もう少し暖かくなってからにしてください。それに、あまり飲酒が過ぎると、またベネディクトさんに叱られてしまいますよ」
「彼は少し口煩すぎるところがある」グラスに残っていた赤ワインを飲み干し、椅子から立ち上がると、ゴダンは空のボトルを手に取った。「このことは僕たち二人だけの秘密だよ」
ゴダンはそう言って、希佐の脇を通り過ぎて行こうとしたが、何を思ったのかぴたりと足を止める。すん、と軽く匂いを嗅ぐように鼻で息を吸い、こちらを振り返った。
「その痕は隠した方がいいね。子供の教育に悪い」
「えっ?」
驚きの声をあげ、思わず首筋を抑えた希佐を見て、ゴダンはくつくつと面白そうに笑った。
「冗談だよ」顔を赤くすればいいのか、青くすればいいのか分からず、口を窄ませている希佐を一瞥してから、ゴダンはキッチンに入っていった。「あの美しい男をベッドに一人残してくるなんて、贅沢なことをするものだ」
「その、ぐっすり眠ってほしかったので……」
「あの子は目を覚ましたとき、君に隣にいてほしいと思っているのではないかなぁ」ゴダンはときどき、アランのことをMy boyと呼ぶ。その言葉に含まれる親密さと、優しさと、愛情の深さに、希佐は微笑ましさを感じていた。「君のために夜通し車を走らせて来たというのに、これでは薄情者と罵られても文句は言えないね」
自分がもっと情に厚ければ、それこそ生き方そのものが違っていただろうと、希佐は思う。これまでの人生、自らの意思を優先してきたからこそ、自分は今イギリスにいて、こうして舞台にすべてを注ぎ込むような生き方が許されている。
「君はこんな時間に起き出してきてどうしたの」水道から流れ出てくる水と、グラスを洗っているゴダンの手元を眺めていると、そう声をかけられた。「まあ、聞くまでもないことかな」
「昼間はずっとお芝居の稽古をしていて、ダンスの稽古をすることができなかったので、少しだけでも体を動かしておきたかったんです。本当は、週末は休むようにって言われているんですけれど、稽古が身に染み付いていて、お休みする方が気持ちが悪くて」
「ときには体を休めることも必要だと言ったところで、君たちのようなハードワーカーは人の話に耳を貸さないからね」
あまり無理をしてはいけないよと言い残して、ゴダンは自分の部屋に引き上げていった。
リビングに置かれている3Dプリンターは真夜中でも休むことなく働き続けている。動きはじめた頃は、一体どのような形になるのか皆目見当もつかなかったが、今は渦巻きの形をした角の完成形が見えはじめていた。
「おつかれさま」希佐はプリンターに向かって、日本語で労いの言葉をかける。「君も頑張ってるよね」
ロンドンを発つ前、ホテルのロビーでルイに言われた言葉を、一人で踊るたびによく思い出していた。
『自分の内面を見つめるんだ。今の君になら、もうソロの課題はクリアすることができるよ。君は心の中にその答えを持っている』
これが答えだという確信はない。だがしかし、おそらくはこれなのだろうという確信に近い感情は、常に頭の片隅にはあって、希佐の自意識をちくちくと刺すように刺激していた。
毎日、毎日、踊りながら自問自答を繰り返す。きっと、アランも自分と同じように、自問自答を繰り返しながら、踊り続けていたのだろう。
《上手く踊ろうとしてるのが見え透いてるんだ》バージルから送られてくるメッセージの中に、そのような一文があった。《要は、格好をつけたいんだろうよ》
《格好をつけたい? アランが?》
《無様な姿を見せたくないんだ。俺や、イライアスや、特にお前にはな》格好悪くても構わないというこちら側の思いなど、当人には関係ないのだと、バージルは言う。《アラン・ジンデルっていう、完璧な人間の理想像を自分自身で創り上げて、自分で自分の首を絞めてる。何となくだけど、俺にはそういうふうに見える》
誰もいない部屋の中、サンルームに設置されたままの緑色のランプに、希佐は灯りを入れる。徐々に明るくなっていく様子を見届けてから背中を向けると、良く磨かれたピアノの表面に、その緑色の光りが映り込んでいるのが見えた。
希佐はポケットに入れてきたイヤホンを耳に装着し、手に取ったスマートフォンを操作する。ここへ来てから、もう何度聞いたかも分からない曲を流し、スマートフォンをピアノの椅子の上に置いた。
音楽を聞くことに集中していると、不意に、言葉が蘇ってくることがよくあった。その言葉たちはいつだって希佐の思考の外側からやってきて、否応なしにこんこんと語りかけてくる。
『あなたは随分とご立派な花瓶ね、アラン・ジンデル。ゴッテゴテで品のないのベネチアングラスみたい。それ一つで完結してしまっている芸術品は、花を飾ったところで美しくともなんともないの。逆に滑稽だわ』
今なぜクロエ・ルーの言葉が蘇ってくるのだろうと思いながら、希佐は音に合わせて体を動かす。もはや考える必要もなかった。イライアスの振り付けを叩き込まれたこの体は、その音を聞くだけで勝手に動き出すからだ。裏の音を拾い上げた体が確かな反応を示し、自らの体で音楽を奏でるように、音もなく空気を叩く。
『あなたは枝葉を広げ過ぎの花よ、キサ。花瓶に生けられる花は、きちんと整えられてこそ美しい』
ペアダンスに限らず、枝葉を広げ過ぎた花は変に間伸びをし、見栄えが良くないということを、希佐はここへ来て学んだ。
ロンドンでは、毎日鏡の中の自分と向き合いながら踊っていたが、ゴダンが貸してくれたカメラで自らの姿を撮影し、確認をすることで、より客観的に自分のダンスを見直すことができたのだ。それともう一つは、グラスミアの川沿いに咲き誇っている、黄色い水仙の花が、希佐に良い教えをくれた。
セイヨウスイセンは凛と咲く。すっと背筋を伸ばし、真っ直ぐに頭を上げ、風に揺られている姿は、ただそれだけで美しかった。
教会の敷地内に咲いていた水仙を分けてほしいとお願いし、一本だけ摘み取ってきたそれを一輪挿しに生けたとき、クロエが言っていた言葉の意味を、希佐は正しく理解できたような気がした。
飾り立てるばかりが美しさではない。足すばかりではなく、引くことも重要だ。目に見えるものよりも、見えないものを表現したい。感情で踊るばかりではなく、感覚を研ぎ澄ませ、言葉には表せないものを掴み取りたい。聞こえない音を、この体で奏でたいのだ。
頭を空っぽに。
感情の向こう側できらりと光る感覚に、指を掛ける。
ああ、イライアスはこんなふうにして、音を感じ取っていたのか。考えるより、感じるよりも早く、体が動く。でも、これは自分らしくない──もっと違う、自分らしいアプローチの仕方があるはずだ。
『――だから、私は新しい夢を探しに行きます。ユニヴェールにだって負けない、きらきら輝く、私だけの夢』
大きく、ゆっくりと、深呼吸。
指先にまで神経を行き届かせ、そして、息を止める。
視界の端には、暗闇の中にぽっかりと浮かぶような、緑色のランプが見えた。目を閉じたその瞬間、その緑色が赤く反転する。
消えることのない、茜と紫を染めた、深緋色。
それを忘れる必要はないのだと言って、優しく抱いてくれた人がいる。こんな自分を、受け入れてくれている。新しい道を敷き、導き、ここまで連れてきてくれた。だから、そのことへの恩返しをするためには、この先の道は自らの足で切り開く。生かしてもらったこの命は、あの人に新たな命を与えるためにあるのだと、今は強く思うのだ。
どうか、ここまで堕ちてきて。
他の人々と、仲間たちと同じ高さに立ってはじめて、恥や外聞をかなぐり捨ててはじめて、見い出せる世界がある。ただがむしゃらに、向こう見ずになってでも、何か一つのことを成し遂げることができたなら──。
そのとき、体を回転させた反動で、右の耳に嵌めていたイヤホンが外れ、床にころころと転がり落ちた。その場で踊ることをやめた希佐は、床に落ちたイヤホンを取りに行こうと、そちらに足を向ける。
しかし、希佐が拾い上げるよりも先に、そこに立っていた男が、細く長い指先で小さなイヤホンの片割れを拾い上げた。
アラン・ジンデルは、拾い上げたイヤホンを無言のまま差し出してくる。希佐も無言のままそれを受け取ると、左耳のイヤホンを外した。
「声を掛けてくれたらいいのに」くるりと踵を返し、椅子に置いていたスマートフォンを手に取って、流していた音楽を止める。「一週間前より少しは上達したかな」
そう言ってアランを振り返るが、ここからでは薄暗過ぎて表情を読み取ることができない。
「……アラン?」
希佐が小さく呼びかけると、Yes、と応える声はある。
どこか上の空にも聞こえるその声を頼りに歩み寄っていけば、開け放った扉のその向こう、部屋の前の廊下に立ち尽くし、アランはじっとこちらを見つめていた。
「君は──」アランは酷く重たそうに腕を持ち上げると、指の背で希佐の頬を緩々と撫で上げる。「君はとても綺麗だ」
「ありがとう」
「手が届いたかと思うと、すぐに離れていく」
「どうしてそんなふうに思うの?」
「君がいつも俺を置いていくから」
「あなただって私を置いていったくせに」
「そういう意味じゃない」アランは笑うでも怒るでもなく、無表情のまま静かに首を横に振った。「君は今、才能のその向こう側に足を踏み入れた」
「才能の、向こう側?」
「俺もかつてはその場所にいたのに、自分の足で、その舞台を降りてしまった」
「また自分の足で舞台に上がればいい」
「口で言うほど簡単なことじゃない」
「あなたは難しく考えすぎている」大丈夫、その目の輝きは失われていない──希佐は自らにそう言い聞かせながら、更に踏み込んだ言葉を口にする。「一番大切なのは、アラン自身がどうしたいかなんだと思う。突然天啓が降りてきて、あなたを導いてくれるなんてことは起こらない。大事な決断はいつだって、自分自身の意思に委ねられているんだよ」
目の前が真っ暗になって、進むべき道が見えなくなってしまったとき、人は何かに縋るように、誰かに決断を委ねてしまいたくなることがある。一人で思い悩む時間は、苦痛を伴うものだ。その苦痛から逃れるために決断を急ぐことは、結果的には良くない判断であることの方が多い。
アラン・ジンデルはもう十分すぎるくらい、この苦痛を伴う日々を過ごしてきたはずだ。もう既に心は決まっていて、それでも、最後の一歩を踏み出すことができずにいる。
希佐はいつもその背中を押し、手を引っ張って、どうにかこの人のことを引き摺り上げようとしてきた。だが、何をしても深く根を張った木のように動かないこの人は実際のところ、見上げるほど高い場所にいて、こちら側を覗き込んでいたのだ。
自らが思い描くアラン・ジンデルという人物像と、周囲の人々が信じて疑わない人物像の乖離が、この現状を生み出している。
本来のアラン・ジンデルはまるで子供のように繊細で、純粋で、傷つきやすい。他者との関わりを煩わしく思っていながらも、一匹狼然としたその振る舞いは、信頼のおける仲間が傍にいるからこそ成り立っていた。
『基本的に彼は自分勝手な人間だ』先日、メレディスが話してくれた言葉を思い出す。『平然と日常生活を送っているように見えるだろうけれど、それは彼自身の強い自制心の賜物で、本来は上手く社会に適合することができない』
誰だってそうだと、希佐は思った。
誰だって、自分と周りの考え方の違いや、価値観の相違などと折り合いをつけながら、それでも何とか人間らしい生活を送っている。
『多分、幼少期の環境が原因しているのだと思う。他者との交流を極端に避けてきた結果、心の中にはエデンの園のように美しく豊かな想像の世界が育ち、反面、目に見える世界は歪で色褪せたものになってしまった。自分自身の中に完成された一つの世界を持つ子供が、外の世界に興味を示すと思うかい?』
理想ばかりが大きく膨れ上がってしまった、内側に広がる小さな世界。
自らの中にあるエデンの園を超える世界が存在すると信じたいのに、この世界のどこにも、それを超える世界がなかったとしたら──小さなラファエルは、もうこれ以上失望したくないのだ。この世界にも、自分自身にも。
「Come to where I am, Allan Zindel」希佐はそう言うと、一歩、また一歩と後退りをしながら、アランから距離を取る。「Because if you're next to me, you won't be afraid.」
《Only the person of worth can recognize the worth in others.》
価値のある人間だけが、他者の持つ価値を理解することができる──自分が価値のある人間かどうかは分からない。だが、アラン・ジンデルの持つ価値は、理解しているつもりだと、希佐は思う。きっと、この世界で五本の指に入るくらいには、アラン・ジンデルという人間を理解しているだろう。
アランは僅かに眉を顰めると、困ったように笑いながら前髪を掻き上げた。希佐は部屋の中程で足を止めると、両手を背中に回して、アランを真っ直ぐに見つめる。
「君は、すべての選択は俺自身の手に委ねられていると言っておきながら、そうして救いの手を差し伸べてくれようとする」
「もう手は出さない」でも、と言いながら、希佐は後ろに回した両手を強く握りしめる。「言葉は勇気をくれるんだ。私は、そう信じてる」
ユニヴェール歌劇学校に入学し、卒業してからも、数々の役柄を演じてきた。男役もあれば、女役もある。そのすべてが、立花希佐と共に激しい戦果を乗り越え、生き抜いてきた戦友のように、一生の友として存在し続けているのだ。彼ら、彼女らの口から発せられた言葉、舞台上で掛けられた言葉の数々が、いつだって背中を押してくれている。
『God Only Knows』は、聴覚を失った青年と、視力を失くした少女の物語だった。だが、あの物語の本当の主人公は、アラン・ジンデル自身なのだろうと、希佐は思っている。斜陽の雲も、それ以外の物語も、自分の中にあるエデンの園で創造されてきた、そうありたかった自分自身の姿を描いているのではないかと、そう思うのだ。
そして、そう思えばこそ、作中の二人の会話が、アラン・ジンデル自身の葛藤を色濃く感じさせる。
「……夢を見るだけ無駄なのよ」希佐はがらりと声音を変え、そう言った。「いつになったらそれが分かるの? 一生叶わない夢を見ながら生きていくつもりなの? あなたはもっと現実に目を向けるべきだわ」
これはノアが演じていた盲目の少女の台詞だ。
すると、アランは緑色のランプの灯りに照らされた希佐の顔を見やりながら、そっと目を伏せる。
「どうして、そんなことを……」
「どうして? ずっと思っていたことよ。でも、あなたがかわいそうだから黙っていたの。夢を見るのはその人の自由だって思っていたから」
「俺が、かわいそう?」
「叶いもしない夢に縋って生きている姿は滑稽だわ。もっと大人になって。あなたの夢は叶わない。もっとちゃんと、目の前にあるものを見て生きていくのよ」
何があっても夢を追い続けていたかった自分と、そんな自分を頭ごなしに否定し、現実を突きつけてくる自分──あの場面の二人の会話は、アランの頭の中で幾度も繰り返されてきた、自問自答だったのかもしれない。
「……君は、夢を諦めきれていないんだね」アランの声が、微かに震える。「自分の夢を諦めきれていないから、夢に向かって走っていく俺を見て、そんなふうに怒っているんだ」
「……何を言っているの?」
「君は夢を諦めたふりをしているだけなんだ」
あの舞台を終えたとき、少しはこの人の心を救うことができたのではないかと、そう思っていた。舞台の先にあるものを見せることができたと、そう満足していたのは、自分ただ一人だけだった。
『あのとき子供だった俺が、今も俺の中にいるんだ。もうずっと、十年近くも共存していて、毎日苦痛を吐き出し続けてる。俺はただそれを受け止めてやることしかできない。過去の俺の話を聞いてやれるのは、未来の、今の俺しかいなかった』
アラン・ジンデルの中にいる小さなラファエルがいなくなることはない。希佐の中に、演劇ごっこをしていた頃の小さな自分が息づいているように、幼い頃の自分自身が、アランの創作の糧になっていることは、間違いない。
アランは自分の心を救うために、ありとあらゆる物語を書き綴り、苦痛を吐き出し続けてきた。だが、これから先もそうした生き方を続けていては、今まで必死になって守り続けてきた心が、いずれ限界を迎える日も近いのだろう。
そうなってほしくないと、希佐は強く思う。
「アラン、公演の前に私に話してくれたよね」希佐がそう切り出すと、アランの緑の目が、琥珀色の目を真っ直ぐに捉えた。「もしあのまま舞台に立ち続けていたら、どんな未来が待ち受けていたのか。目を閉じて、耳を塞いででも前に進み続けていたら、自分にはどんな可能性があったんだろうって」
アランは、力強い眼差しをこちらに向けたまま、小さく頷く。
その様子を目の当たりにした希佐は、口元に笑みを浮かべた。
「私はこの三年間、アラン・ジンデルという人の舞台を、一番の特等席で見続けてきた。あなたが舞台の袖から私を見守ってくれるみたいに、私はこの三年間のあなたの人生を、あなたの隣で生きてきた」
「キサ……」
「今がその未来だよ、アラン」希佐はそう言いながら、優しく目を細める。「目が見えなくても、絵は描ける。耳が聞こえなくても、音楽を奏でられるように」
五秒か、十秒か。一分だったかもしれないし、もしかしたら一瞬だったかもしれない。耳鳴りがするような沈黙のあと、アラン・ジンデルは希佐に向かって、半歩だけ足を進めた。希佐はその足元を一瞥してから、アランの顔に視線を戻す。
「俺は君と話し合うためにここまで来たんだ」
「うん」
「それなのに、蓋を開けてみたらこんなことになってて──」アランはもう半歩、足を踏み出した。「だけど、この期に及んで俺の願いは、君の望みを叶えることだった」
一歩目は、勢いでどうとでもなる。だがしかし、二歩目はそうもいかないと言ったメレディスの言葉が、ふと脳裏をよぎった。
「キサ」
一歩分の距離を縮めたあと、アランはその場で足を止めた。希佐は返事をせず、ぱちん、と一つ瞬いて応じる。
すると、アランは次の瞬間、希佐に向かって両腕を広げてみせた。自らのホールドの中に、パートナーを招き入れようとするかのように。
「──Shall we?」
ほんの一瞬だけ、それを気持ち悪いと感じてしまった瞬間のことを思い出すが、希佐はすぐに思考を切り替えた。
何の変化もなかったとしても、構いはしない。そのときは素直に現実を受け止めるだけだ。そして、相手ととことん向き合って、努力をする。お互いを理解し、何かを感じ取れるようになるまで。
大丈夫、たくさんはないが、まだ、時間は残っているのだから。
両腕を広げて希佐を待つアランの表情は、思いのほか穏やかなものだった。むしろ、自分の表情の方が強張っているに違いないと、希佐は思う。
「怖いの」
「ううん」希佐は首を横に振る。「怖くない」
一歩、また、一歩。自ら置いたはずの距離を狭めながら、両手を持ち上げ、ホールドに収まる心の準備をはじめると、アランが口を開いた。
「ステップは忘れて」
「え?」
「ただ身を委ねる」思わず足を止めてしまった希佐に向かって、アランは言う。「それだけでいい」
「う、うん」
希佐は、こちらに向かって伸ばされたアランの手を、徐に掴んだ。先程よりも明らかに冷たい。穏やかな面持ちを浮かべてはいるが、自分と同じように緊張しているのだろうかと、希佐は思う。
右手と左手を重ねると、しっかりとしたホールドは組まず、アランは希佐の肩に右手を乗せた。
「力を抜いて」
「はい」
「目を閉じる」
「え、でも──」
「いいから」
希佐はアランの目を見上げたまま大きく息を吐き出すが、何も言い返すことはせず、言われるがままに瞼を下ろした。薄暗かった視界が、一瞬にして暗闇に飲まれる。繋がっているアランの手を頼りに身を寄せると、腰に手の平が回され、途端に包み込まれるような安心感を覚えた。
あれ、と希佐は内心で首を傾げる。
「……ここからどうすればいいの?」
「なにもしなくていい」
リラックスさせようとしてくれているのか、アランの手の平が希佐の背中をゆるゆると撫でている。だが、これではただ抱き合っているだけだ。それでも、アランが何もしなくていいと言うのなら、その言葉を黙って受け入れるしかない。
そういえば、前にもこんなことが──希佐がそのように思っていると、不意に、やわらかいものが瞼に触れた。親指の腹が、握った手の甲をさわさわと撫でている。腰を支えてくれている手は、相変わらず大きい。
希佐はアランの腕に添えていた左手を滑らせ、胸元に手の平を這わせた。以前は骨と皮しか感じられなかった肉体が、今ではしっかりとした筋肉をまとっている。
「I wait with hold my breath.」希佐がそう口に出して言うと、顔の近くで微かに笑う息遣いを感じた。「I wish I could be enchanted like Piotia.」
悪戯っぽく言う希佐の声を聞きながら、アランは何度かキスの雨を降らせると、こめかみの辺りに頬を押し当てる。そうして吐き出された息が、耳の先端を掠めると、ぞくりと背筋が泡立った。
「……キサ、俺を信じてくれる?」
「いつだって信じてる」
希佐が間髪入れずにそう答えると、アランは腰を引き寄せる手に力を込めた。閉じた目の向こう側では、こちらを真っ直ぐに見つめる緑色の目があって、ほんの少しだけ不安そうな表情を浮かべているに違いない。
希佐はその答え合わせをしたいと思ったが、暗闇の中に留まることを選んだ。まだ、目を開けて良いとは、言われていないから。
「私は大丈夫だよ、アラン」
何があっても、何が起ころうとも、すべてを受け止めると決めた。だから、もう逃げたりはしない。自分からも、この人からも。
「──」
アランの喉の震えを感じたのは、次の瞬間のことだ。
深呼吸をするように大きく息を吸い、吐き出したあと、希佐のこめかみに頬を当てたまま、囁くような声で歌い出す。地声よりも僅かに高い、少し掠れた、優しく甘い歌声だ。その声が耳から、そして触れている頬からも、振動と共に直接伝わってくる。
視界が塞がっているからだろうか、感覚が酷く研ぎ澄まされているのを感じる。歌声はもちろん、アランの指先の動きまで、敏感に感じ取ることができるような気がした。
パートナーが前へ出過ぎてしまったら、ダンスとしては不恰好になってしまう──そうだ、自分はただ、リーダーを信じて身を委ねていればいい。リーダーの思惑を感じ取り、その通りに動けばいい。
どこか辿々しく踏み出された足に合わせて、希佐はそっと足を引いた。次の一歩、また、一歩。はやる気持ちを抑えるように、希佐はアランの歌声に耳を傾け続けた。
本当は、目を開けて確かめたい。目の前のこの人が、どのような顔をして踊っているのか。自分と同じ思いでいるのかどうか。この胸の高鳴りは、自分の独り善がりではないと、そう確信を持ちたい。でも、この目を開けてしまったら魔法が解けてしまうような気がして、そうなるくらいなら、この暗闇の中にいる方がずっといいと、そう思った。
次は右、左、後ろへ下がって──くるりと回された体が、再び腕の中へ──引き戻されたその刹那、ぎゅう、と力強く抱き締められる。時間にすればほんの一、二分の出来事だ。それなのに、アラン・ジンデルの体は、信じられないほど熱くなっていた。
「どうだった?」
とくとくとく、といつもより早い鼓動に身を寄せながら、希佐はくぐもった声でそう訊ねる。答えはいつも通り「悪くなかった」だろうかと思っていると、アランは今にも消え入りそうな声で言った。
「……疲れた」希佐は、予想外の返答に目を丸くする。「でも、何かを掴めたような気がする」
「もう目を開けてもいい?」
「Open slowly.」エクスがピオーティアに言い聞かせるように、アランは言った。「Probably dazzling.」
希佐はアランの胸を押し戻すようにして身を起こすと、ゆっくりと目を開いた。ほんの僅かな間しか目を閉じていなかったというのに、この目はすっかり暗闇に慣れて、緑のランプしか灯っていない薄暗さの中でも、アランの顔をよく見ることができた。
アランは何か憑き物でも落ちたかのような、どこか晴れやかな面持ちを浮かべ、希佐の顔を覗き込んでいた。緑色の目は尚以て輝き、宝石以上の美しさを感じさせる。その眼差しの穏やかさはこれまでにも類を見ないもので、希佐は思わず見惚れてしまった。
きっと、初めてエクスの姿を見たピオーティアも、こんな気持ちだったのだろう──希佐はそう思いながら、アランの頬を両手で包み込む。爪先立ちになった希佐の体を支えるように、アランの両手が腰を掴んだ。
「ねえ、一体どんな魔法を使ったの?」
唇に軽くキスをしてからそう問うと、アランは複雑そうな面持ちを浮かべ、何かを言い淀む。それでも返事を待っていると、なぜかキスで誤魔化そうとしているのを察し、希佐はそれから逃れるように身を引いた。その状態のまま目を細め、アランを睨みつける。
「アラン?」
「……秘密」
「どうして?」
「たいした魔法じゃないから」
「気になる」
「気にならない」むっとしたように口を尖らせる希佐を見て、アランは小さく息を吐いた。「それに、次もこんなふうに上手くいくとはかぎらない」
「そんなことは──」
「話は最後まで聞いて」途中で口を挟もうとした希佐の唇に人差し指を押し当て、アランは続ける。「感覚は掴んだ。でも、もし君が今の俺に完璧を求めるなら、それは恐らく不可能だ。正直な話、なんで踊れたのかも、まだよく分かってない。俺は昔から感覚で踊るから、そこに感情を入れ込むとなると、かなり面倒臭いし、相当疲れる」
希佐がすとんと踵を下ろすと、アランは腰を支えていた手を離した。
「君に本番で大恥をかかせることになるかもしれない」
「え? 待って、それって……」
「言っただろ。この期に及んで、俺の願いは君の望みを叶えることだって」アランはそう言うと、どこか困ったように笑う。「俺みたいな人間は結局のところ、自分のために何かをしようとしても、二の足を踏んで、途中で諦めることになるのが関の山なんだ。どうせ上手くいかない。失敗して恥をかくのが落ちだ。それなら最初から挑戦しない方がいい。今のままでも、十分に満足してる──そうやって自分自身に言い訳することばかりが得意になる。前にも言ったけど、妥協して生きていた方が圧倒的に楽なんだ。それだけならまだしも、あのとき違った選択をしていたらと後悔することもあるんだから、本当に救いようがない」
希佐は反対だ。あのときこうしていればよかったと、後悔することは少ない。そういう意味では、運の良い人生を歩んできているのかもしれないと思う。悪手としか思えない選択の末に、こうして今、この人と共にいるのだ。
「でも今は、遅かれ早かれ後悔する日が来るんだとしても、君の思いを尊重して良かったと、そう思えるようになりたい。俺には大義名分が必要で、それは、君のためや、カオスの連中のためじゃないと、きっと成り立たないんだ。こいつらのことだけは裏切りたくないって、そう思える相手のためじゃないと、俺は前を向いて歩いて行くこともできない」
そんなことはないと、希佐は思った。
アラン・ジンデルはいつだって劇団カオスの仲間たちを引っ張って、先頭を歩いてきたはずだ。そうでなければ、あの我の強すぎる人たちが、黙ってついてくるはずがない。一人、また一人と劇団を去っていたはずだ。でも、そうならなかったのは、全員がアランの人となりを熟知し、信頼し、愛しているからなのだと、そう思う。
劇団カオスの仲間たちは、互いを思いやりながらも、過干渉を避けながらの付き合いを続けている。自身の意見を押し付けることも、強要することもしない。相手を理解し、尊重して、他者の尊厳を守ることは当然のことだと考えるような、人間として完成されている人ばかりが集まっている。
結局のところそれは、アラン・ジンデル自身が、そういう人々を選び、集めたということだ。才能ばかりではなく、人を見る目も、確かだったということなのだろう。
互いに互いを尊敬し合うことができる。そして、この人たちのことだけは裏切りたくないと、そう思える仲間と出会うことができた喜びは、希佐にもよく分かることだ。
「キサ」ああ、また一段、階段を降りてくる。「やってみるよ」
I'll try.──その一言を引き出すのに、どれだけの月日を掛けたことか。
「……うん」
「ただ、問題が一つある」
「なに?」
「角」
「ツノ?」
「あれが俺の頭に入るかどうか」
いやに険しい表情を浮かべているので、一体何を言い出すのだろうと警戒していた希佐だったが、なんだそんなことかと口に出しながら、思わず破顔してしまった。
「レオがサイズを調節できるようにデザインしてもらったって言っていたから、大丈夫だと思うけれど」希佐が笑いながらそう言うと、アランは一瞬眉間に皺を寄せ、天井の方向を睨むように見た。「どうしたの?」
「いや」
希佐には、なんとなくだが、アランの言いたいことが分かるような気がした。
レオナール・ゴダンには通常の人にはない先見の明か、物事を思いのままの方向へと誘導する力か、そうせざるを得ないと思わせる話術があるのだろう。まるで、迷える子羊を導く神様か、もしくは、人の心を惑わそうとする悪魔のようだ。
あの人は、いとも容易く人の心を暴き出し、写真という形式で目に見える形にしてしまう。
「それはそうと」アランの視線を追うように、天井を見上げていた希佐に向かって、そう声が掛けられた。「レオに抱かれたんだろ」
「えっ?」
「どうだった」
「ど、どうだったって、えっ? どういう意味?」
目を白黒とさせる希佐を見て、当初は無表情だったアランの顔に、意地悪そうな笑みが浮かぶ。それからすぐに抱かれるの意味を察した希佐は、下唇を噛むと、恨みがましく思いながらアランを見上げた。
「抱かれたわけじゃない」
「君の裸体を自慢げに見せられた」
「なに、もしかして妬いてるの?」
「そうだと言ったら?」
冗談のつもりで言った言葉に対して、間を置かずにそう言い返され、なぜか希佐の方が絶句してしまう。すると、アランは下唇を噛んでいる希佐の口元に視線を落とし、左手の親指の腹で線を引くようにねっとりとなぞった。
「俺の知らない顔をしてた」
「それはそうだよ」希佐がそう言うと、アランは僅かに眉を顰める。「アランに会いたいって、ずっとそう思ってた。でも、あなたが目の前にいるときは、そんな顔を見せる必要がない」
「なに、それ」
「そんなに魅力的に見えた?」
「……別に」
「私、まだ撮ってもらった写真を見せてもらってないんだ。ロンドンに戻ってからのお楽しみだって」
「そう」
つんとしてしまったアランをどのように宥めようと思いながら、希佐は部屋から持ってきていた『魔物のエクス』の台本を手に取った。ピアノの前の椅子に腰を下ろし、譜面台に台本を立てかける。余っているスペースを軽く叩き、座るように言った。
「ほら、稽古をしないと」希佐がそう言うと、アランは無言のまま隣に腰を下ろした。「Once upon a time, there lived a navel-gazing demon named Ex.」
「I hate people. I don't want to be friends with them.」
「But humans love demons! Hey, hey, demon, be my friend!」ピアノで軽く音を奏でながら、希佐が囁くような声で歌う。「Mr.Demon, would you like to sing with us?」
「I don't wish.」
「Well, well, well, don't say that.」
くすくすと笑いながら歌い続ける希佐の声を聞き、アランは呆れたようにため息を吐いた。
「All right, all right, my bad.」
アランは鍵盤の上を逃げ回る希佐の手を掴むと、楽しげに歌い続ける唇を塞ぐように手の平で覆った。口を塞がれたまま、もごもごと何かを言う希佐の目を覗き込み、アランは言う。
「稽古の前に、構成を見直そう」こくこくと頷くと、アランは口を塞いでいた手の平を下ろした。「ミシェルには──」
「あなたがエクス役を引き受けてくれることになったら、ミシェルさんはナレーションとピアノの伴奏をするっていう話で纏まってる。私は念の為にピオーティアの台詞も覚えておいたから、すぐにでも合わせられるよ。アランもエクスの台詞は全部入っているんでしょう?」
「話が早くて助かるよ」
少し皮肉っぽくそう言ってから、アランは譜面台に立て掛けられている台本を手に取る。
その真剣な横顔を見つめていると、かつてもこうした面持ちで台本を読み込んでいたのだろうかと思い、希佐はなぜか酷く、胸が苦しくなった。
どこか遠くの方から、カメラのシャッターを切るような音が聞こえてきたような気がすると、希佐は思う。
この一週間、その音があまりに日常に溶け込みすぎていたせいで、気にも留めなくなっていたと言った方が、正しいのかもしれない。カメラを意識しないように訓練されていた希佐は、レオナール・ゴダンが求めていた状態に至った、ということなのだろう。
「キサ」シャッター音が止んだかと思えば、自分を呼ぶ声が聞こえ、希佐は小さく唸り声を上げる。「もう七時過ぎてる」
「……七時?」
確か、少し仮眠を取ろうという話になり、サンルームのカウチで寝入ったのは午前五時頃のことだった。アランが一時間後にアラームが鳴るようセットしていたはずだが、恐らく希佐が目を覚ますより早く、寝ぼけ眼で解除した後、二度寝をしてしまったのだろう。
希佐はアランに寄り掛かっていた体を起こすと、その場でぐっと大きく伸びをした。まだしっかりと開かない目を閉じたまま、ふわあ、と欠伸をしていると、くつくつと笑う声が聞こえてくる。
「おはよう、キサ」
「おはようございます……」
じわり、と涙で滲んだ目を手の甲で拭い、希佐は声の聞こえてきた方へと目を向けた。すると、そこには首からカメラを提げたゴダンと、恥ずかしそうに両手で顔を覆い隠しているミシェルの姿があった。ミシェルは指の隙間からちらちらとこちらを見やりながら、声にならない声をあげている。
「うわあ、やだ、朝からこれは……刺激が……」
「おはようございます、ミシェルさん。すみません、すぐに準備を──」
「ミシェル」希佐の言葉を遮り、隣に座っていたアランが声を上げる。突然名指しされたミシェルは、若干裏返った声で「はいっ?」と応じた。「今更で申し訳ないけど、今日は俺がエクスを演じたい。ピオーティアはキサに任せたいんだ。だから君には──」
「わたしはピアノの演奏と、ナレーションに専念すればいいんですね!」
わざとらしさが窺えるほど力強くそう言ったミシェルを見上げ、アランは小さく頷いている。その様子を見守るように、ゴダンはにこにこと笑っていた。
「ああ、よかったぁ。わたし、ずっとそうなればいいのにって思っていたんですよ。もちろん、稽古は真剣に取り組みました。でも、これが最適ではないだろうなって、頭の片隅では思っていたんです。だから、そう言っていただけて、今はとてもほっとしています」
ミシェルはピオーティアの役作りに苦戦している感じがあった。迷いと言った方が正しいのかもしれない。
アランがその場にいないとき、どうしても希佐のピオーティアが脳裏をちらつくのだと言って、困ったような表情を浮かべていたことは、記憶に新しかった。
「ピアノは昨日の稽古で一通り聞かせていただきましたし、譜面もありますから、午前中のうちに仕上げます。ナレーションも任せてください!」
「ありがとう」
「ありがとうだなんて、そんな、わたしはあのアラン・ジンデルと共演できるってだけで、もう本当に、天にも昇る気持ちなので──」
ぽっと頬を赤らめたミシェルを見て、アランは些か複雑そうな面持ちを浮かべていた。過剰な期待をされることが負担なのか、目に見えて分かる好意に戸惑っているのか、その他にも理由があるのかどうかは、希佐には分からない。だが、希佐ばかりではなく、ゴダンもその様子から何かを感じ取ったのか、自然と話題を変えようとする。
「そうそう、立派な角も完成しているよ」
「あっ、わたしが取ってきます!」
そう言ってミシェルが部屋を出て行くと、入れ替わりにベネディクトが入ってきた。エプロンを身に付け、フライ返しを右手に持った格好で、こちらに目を向ける。
「お前ら、朝飯はどうするんだ? レオのを用意するついでに、何か作ってやるぞ」
「俺とキサの分はいらない」
「あ?」
「俺が作る。公演日のルーティンがあるから」
「はいはい、そういうことならご自由にどうぞ」
公演の日の朝はいつも、アランがイギリス風のパンケーキを焼いてくれる。クレープのように薄いが、もっちりとした食感のある、甘くないパンケーキだ。最後に粉糖を振りかけ、レモンの果汁を搾る。劇団カオスの最初の公演からずっと、外部の舞台の初日などにも、アランは欠かさず作ってくれていた。
「持ってきました!」今度はベネディクトと入れ替わりに、ミシェルが戻ってきた。「すごく本格的な角ですよ。前にファンタジー映画の小道具を見せてもらったことがあるんですけど、それと同じくらいクオリティーが高くて、びっくりしちゃいました」
ミシェルはそう言うと、手にしていた角をゴダンに渡そうとするが、軽く目配せをされ、心得たように頷いてアランの手元まで届けにくる。
「頭の大きさに合わせてサイズが変えられるので、調整はご自身でお願いします」
希佐が興味津々で手元を覗き込んでいると、アランは受け取ったばかりのそれを差し出してきた。
「え、いいの?」
「元々は君がつけるはずだったものだ」
その角は、見た目にはずっしりと重たそうに感じられるが、実際手にしてみると、非常に軽い素材で作られている。カチューシャのように装着するタイプではなく、後頭部から耳に引っ掛けて安定させるものらしい。
羊の角に似た形をしたそれは、細かな年輪が刻まれている他にも、まるで血が通っているかのような筋がリアルに浮かび上がっている。神聖さと禍々しさが混在した、何とも奇妙で不気味な仕上がりだった。
「すごい、本物の角みたい」
「こんなものにいくらかけたの」
「いやなに、彼には貸しがあったからね、それを返してもらっただけだよ」
「こんなことに使ってもいい貸しだったわけ」
「貸し借りなんてものは早急に精算しておいた方がいいんだよ」
舞台で使用する衣装や小道具を作るにあたって、金に糸目はつけないアランには言えたことではないだろうと、希佐は思う。競技ダンスを題材とした舞台を行ったとき、本格的な競技ダンス用の衣装代を目の当たりにして、酷くぎょっとしたものだった。
一緒にソファから立ち上がった希佐に向かって、シャワーを浴びてきたらと言うと、アランは少し癖のついている前髪を掻き上げながら、一人でキッチンに入っていった。
隣で見ていても仕方がないと思った希佐は、アランの部屋からボトルを回収してくると、自分の部屋のバスルームで昨夜の汗を洗い流した。
『魔物のエクス』の劇を行う上で必要なものは、アランのメモに従ってゴダンとベネディクトがすべて買い揃えてきてくれたので、寸前になってあれがない、これがないと慌てふためくことはなさそうだ。
本番は午後三時。午前中はミシェルのピアノの練習も兼ねて、最後の稽古を行う予定だ。軽く昼食を取り、本番までの時間を使って衣装を合わせ、メイクも行わなければならない。やることは山積みだが、希佐はふと、あの姉妹は招待に応じてくれるのだろうかと、そう思った。
「昨日の夜、二人の親父さんから連絡をもらった。娘たちに行ってもいいか相談されたって。とめるつもりはないし、そんな権利もないから、伺わせますって話だった」階下に降りてきて不安を吐露する希佐に、ベネディクトが言った。「せっかくだから、お父様もご一緒にいかがですかって声を掛けておいたよ。でかい舞台に立つばかりが演劇じゃないって、分かってもらえるだろうし」
大きな舞台、それもその真ん中に立てる人間は、舞台役者の中でもほんの一握りだ。希佐のように、好んで小劇場の舞台に立ち続ける役者も多い。まだウィキッドしか見たことのない子供たちや、日常的に観劇する習慣のない大人にとっては、可能性や選択肢を広げる機会にもなるのだろうか。
責任重大だなと思いながら、アランが焼いてくれたパンケーキを食べていると、向こうの部屋からピアノの音色が聞こえてくる。既にホテルで食事を済ませてきていたミシェルが、譜読みをはじめたようだ。
希佐がその音に合わせてぶつぶつと台詞を呟いていると、向かい側で一緒に食事をしていたゴダンが「言い忘れていたけれど」と声を上げた。
「他にも何人かお客さんが来るかもしれないよ」
「え?」
思わずそう漏らしながら隣を見上げるが、アランは何も言わずに黙々とパンケーキを口に運び続けている。聞いてはいるようだが、故意に無視をしているようだ。
「あの、そのお客さんっていうのは……」
「観客は多い方がいいだろう?」ゴダンは答えになっていない言葉を口にする。「この辺りは長閑で素晴らしい土地だが、こうしたエンターテイメントに触れられる機会は滅多にないからね。せっかくだからと声をかけて回ったんだが、いけないことをしてしまったかな」
「いえ、私は構わないのですが」
問題はアランだと思いながら、希佐はその顔色を窺うように、ひっそりと横目を向けた。
観客が一人だろうと、百人だろうと、希佐にとっては同じことだ。やるべきことは何も変わらない。自分はただ、その役と真剣に向き合い、舞台の上で生きる──だが、アランはどう思っているのだろう。
「今更怖気付いたりはしないよ」希佐の頭の中を読み取ったかのように、アランがこちらを見ながら呆れ顔を浮かべた。「やると言ったからにはやる。レオが俄然やる気になっているとろくなことが起こらないのは、今にはじまったことじゃない」
「レオは事後承諾の常習犯だからな。俺はその都度、その尻拭いに奔走する羽目になる。まったく、たまったもんじゃない」
「感謝しているよ、本当に」
「感謝より誠意を見せてくださいよ」
この数日、ベネディクトの口からゴダンを非難するような言葉が発せられるのを、こうして度々聞いてきた。だが、その向こう側には確かな信頼関係があって、生半可なことでは揺るがないという確信があるからこそ、互いに思っていることを言い合えるのだろうと、希佐は思う。相手に気を使ってばかりでは、表面的な人間関係は良好であったとしても、本当の意味で互いを理解し合うことは難しいのかもしれない。
日本を飛び出してきてからは、誰に対しても嘘を吐かないように努めてきた。だが、都合の悪いことには口を噤み、その場をやり過ごしてきたことは否めない。しかしながら、本当のことを言わないことは、果たして罪と呼べるのだろうか。
食後、いつも通り後片付けを買って出た希佐は、広いシンクの前にベネディクトと並んで立った。揃って汚れた食器を洗っていると、ベネディクトが徐に口を開く。
「ごめんな」
「何がですか?」
「今日のこととかさ、ミシェルが余計なことを言い出さなかったら、こんなことにはなってなかっただろ? 君だって、本当なら今日にはロンドンに帰る予定だったのに」
周りには聞こえないように配慮しているのか、水の音に掻き消されてしまいそうな声で言うベネディクトを見上げ、希佐はすぐさま首を横に振った。
「謝らないでください。それを言うなら、あんなに熱心に稽古されていたミシェルさんから、ピオーティアを奪ってしまったことの方が、ずっと申し訳ないです」
「ああ、あいつのことなら気にしないで大丈夫だよ。昨日、ホテルに戻ってから少し話したんだけど、自分は身を引いた方がいいってしきりに言ってたんだ。俺は自分で見聞きしたわけではないから何とも言えないけど、君とアランの読み合わせが相当刺さったみたいでさ。二人で演じるのがベストなんだって言い張ってた」
「私は自分が演じるエクスを気に入っています」もこもことした泡に覆われたカップを水で流しながら、希佐は言う。「ミシェルさんのピオーティアも好きです」
「それはミシェルも言ってたよ、君のエクスが好きだって。でも、自分たちの『魔物のエクス』は、小さな子供にも理解できるように肉付けされたもので、ただそれだけの物語のように感じられる。本に描かれている世界の再現をしているだけ。だけど、君たち二人が演じていたエクスとピオーティアは、物語がはじまるより前の二人の人生が透けて見えたんだって言ってた。台詞に重みがあるってさ」
「そう言っていただけるのは素直に嬉しいです」
「俺も台本を読ませてもらったけど、君とアランがあれをどんな感じで演じるのか、かなり興味がある」
「実は、夜のうちに台本を少し書き直したんです」きゅ、と蛇口を閉めながら、希佐はベネディクトを見上げた。「あれは私とミシェルさんが演じるために書かれたものだったので、私とアランが演じるには少し無理があって」
「まあ、確かに。アランが演じるには、エクスは少し幼すぎるかもしれないな。それはそれで面白いのかもしれないけど」
「子供はシビアだってアランが言っていました。大人よりも違和感に固執するって。大人ならこんなものだろうって割り切れることも、子供だと妙なこだわりが強いから、一度引っ掛かりを覚えるとそればかりが気になって、物語に集中することができなくなる」
「あいつ自身がそういう子供だったんだろうなぁ」
「私もどちらかと言えば……」希佐がそのように言うと、ベネディクトは少し意外そうな顔をした。「架空のキャラクターだということは分かっているんです。でも、どうしてそんなことをするんだろうとか、この人は今どんなことを思っているんだろうとか、もし自分だったらどうするんだろうとか、そんな感じのことを常に考えていた覚えがあります」
「その思考回路は役者のそれだよ」
「小さい頃から演劇ごっこをして遊ぶのが好きだったので」
考えてみれば、あの頃から自分は何一つ変わっていないのだということを、希佐は改めて実感する。あの頃の、楽しいの延長線上に、今の立花希佐がいる。
「今日はいろいろ手伝いながらではあるけど、俺らが君たちの演技を見るのは初めてのことだし、純粋に楽しみにしてる。俺だって元々は演劇畑の人間だからさ」
脚本に手を加えたいと言い出したのはアランだ。希佐はすぐに承諾した。
希佐とミシェルが演じることを前提にして書かれた脚本は、希佐とアランが演じるには、些か雰囲気が噛み合わない。脚本には更なる脚色が加えられ、いくつかの台詞が大幅に変更された。
台詞が変わったのはナレーションも同じだ。食事の片付けを終えてから様子を見に行くと、シャワーを浴びた後、髪も乾かさないまま戻って来ていたアランが、ピアノの前に座っているミシェルに変更点を説明しているところだった。
「慌てて台詞を頭に入れる必要はないから。演奏の段取りも覚えないといけないし、楽譜と一緒に台本も譜面台に置いておけばいい」
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、台本はお守りとして持ち込ませてもらいます」新しく刷り直した台本を受け取り、それをはらはらと捲りながらミシェルは続ける。「そもそもの設定から変えられたんですね」
「この外見で気弱な魔物を演じるのには無理があるらしい」
「じゃあ、この設定はキサさんの発案ですか?」
「結構長く舞台には立っていたけど、こんな役を演じたことはない」
「わたしは良いと思いますよ。良いというか、らしい、というか。新しいお伽噺って感じがして、最近の子供たちには受けるんじゃないかな。わたしは好きです」
「そう言ってもらえると励みになるよ」
本当にそう思っているのかと、疑いたくなるような口振りでそう言ったアランは、希佐が部屋の中に入っていくと、こちらを振り返った。
「アラン、髪を──」
「キサ、シャワーを浴びながら考えていたことがあるんだ」
小言を口にしようとした希佐の言葉を遮り、アランが新しい台本を片手に歩み寄ってきた。そのまま何かを話し続けているアランを見上げて目を丸くしていると、間もなくして訝しげな眼差しが向けられる。
「キサ?」
「……え? あ、ごめんなさい。もう一度言ってもらえる?」
「もう少し寝たいならそうしてもいいけど」
「ううん、大丈夫」
どうやら寝不足でぼんやりしていると思われたようだ。希佐は大きく頭を振ると、アランの話に耳を傾けた。
カオスの舞台に立つときの衣装はいつも、アランがデザインしたものを、ダイアナが縫製してくれている。だが、今回は出来合いのものを購入し、衣装として合わせるしかない。
希佐はミシェルが着る予定だった衣装を着れば良いが、希佐のためにゴダンとベネディクトが買ってきてくれた洋服は、アランにが着るにはあまりに小さすぎる。
「手持ちの洋服で何か使えそうなものは?」
「ない」
「それなら、探しに行ってみる?」
確か、商店街の中に衣料品店もあったはずだ。頭の中でグラスミアの村を探索しながら、希佐がそのような提案をすると、アランは考えるまでもないというふうに、こくりと頷いた。
希佐とアランは、店が開店する十時を目処に家を出ると、歩いて衣料品店に向かった。希佐の記憶だけを頼りに辿り着いた店の中を、アランはぐるりと一周する。
開店したばかりの店内に他の客の姿はない。レオナール・ゴダンの連れであるはずの若い女が、見慣れない赤毛の男を引き連れて現れたことに対する好奇の目が向けられる中、アランはさほど時間もかけずに黒いサルエルパンツと、白い大振りのシャツを手に取り、すぐさまレジに向かった。
買い物に掛かった時間は、ほんの数分だった。
「他に必要なものは?」
「ない」
「じゃあ、戻ろうか」
グラスミアの村をアランと並んで歩くのは少し奇妙な感じがする。希佐がそう思いながら隣を見上げると、アランは前方に向けていた顔をこちらに向け、何も言わずに手を差し出してきた。希佐は小さく笑い声を漏らしながらその手を取ると、指を絡めて、少しだけ身を寄せた。
「ジェレマイアが帰ってきたよ」
「本当?」
「アメリカ土産を預かってるから、帰ったら渡す」
「元気だった?」
「相変わらず」アランは石垣の上で眠っている白猫を見やりながら言う。「キサに会いたがってた」
「私も早く会いたいな」
「しばらくは休暇を楽しむって」
「それが良いよ。アメリカではずっとショーに出ていたのだろうし、しっかり体を休めて、労ってあげないと」
「俺も少し休もうかな」
「え?」
自分でも、自分が今どういう感情でいるのか分からないまま絶句し、希佐は隣を歩くアランの横顔を見上げた。しかし、アランは真っ直ぐに前を見据えたまま、再び口を開く。
「今度の舞台が終わったら、脚本家としての仕事からは少し離れたい。レオには申し訳ないと思うけど」
「……そう」
「君もいなくなることだし」
「アラン」
「嫌味を言ってるわけじゃない」繋がっているアランの手に、頼りないくらいの力が込められた。「ただ、口に出して、自分に言い聞かせてる。君はそう遠くない未来に俺の前からいなくなるんだって、忘れないように」
「なんて言ってあげたらいいのか分からない」意地でもこちらを見ようとしない横顔を見上げたまま、希佐は言う。「もう決めたことだから」
「分かってる」
「脚本家のお仕事をお休みして、何か他にやりたいことがあるの?」
「まだ何も考えてない」
「そう」
「カオスの活動は続ける。他の連中は忙しくて劇団の活動になんか顔を出せなくなるかもしれないけど」
「アランが声を掛ければすぐに帰ってきてくれるよ。カオスはみんなの家なんだから」
「待ってるよ」頑なにこちらを見ようとしなかった眼差しが、徐に希佐へと向けられた。「何年先のことになるかは分からないけど、君がまたこの国に帰りたいと思うことがあるかもしれないから、俺はその家で、いつまでも君を待ってる」
「……困るよ」I'm puzzled.──希佐が目を逸らしながらそう囁くように言うと、頭上で微かに笑う気配があった。「すごく困る」
「キサの困ってる顔が好きなんだ」
「deliberately mean」
「Look, your face.」
わざとらしくむすっとした表情を浮かべれば、アランは僅かに腰を屈め、希佐の機嫌を取るように額にそっとキスをくれた。そうされるたびに、間違いなく愛情が深まっていく一方で、罪悪感にも似た感情が、心の中で澱のように降り積もっていく。
自分はなんて罪深いのだろうと思う。だが、許されたいとは思わない。この罪深さに苦しめられるがままに、生きていきたい。決して癒えることのない、膿を吐き出し続ける傷口を抱えたまま。重ねただけの罪を抱え続け、それを片時も手放さず、忘れないことが、自分にとっての罰なのだ。
屋敷に戻ると、すぐに衣装合わせとメイクのチェックが行われた。
ピオーティアの衣装は、シンプルな白色のバレエシューズを履き、所々に透け感のあるレースを用いた、丈の長いワンピースを着る。メイクについてはちょっとした議論になった。
「なあ、ピオーティアのメイクって必要か?」希佐の顔を使って試行錯誤していたミシェルの頭越しに、ベネディクトが言った。「この子、目が見えないんだろ? 誰がメイクするんだよ」
「だからって、ノーメイクってわけにはいかないじゃないですか」
寸前まで「キサさん、肌がお綺麗ですね」と言いながらにこにこしていたミシェルが、外野からの声を煩わしそうにしながら後ろを振り返る。すると、ベネディクトの更に後ろを通り掛かったアランが、スマートフォンを片手に足を止めた。
「キサ、こっち見て」
「ん?」
完成間近の顔の写真を撮影したアランは、すぐさまその写真をどこかへ送信したかと思うと、スマートフォンを耳に当てた。一体どこへに電話を掛けているのだろうと、三人で顔を見合わせていると、長い呼び出し音の末に低い声が漏れ聞こえてきた。
『ちょっとあんた、今何時だと思ってるの……』
「正午」
『こちらはまだ朝の七時よ』数時間前までクライアントの家で飲んでいたのだと言う聞き覚えのある声に、希佐は思わず笑みをこぼした。『もう、なあに? そんなに心配しなくても、そちらの仕事もきちんと進めているわ』
「今回は別件だ。今撮ったキサの写真と、概要をそっちに送った。すぐに見てほしいんだけど」
『パソコンの方かしら』
「そう」
『ちょっと待って』
「ダイアナ?」希佐が問うと、アランは向こうからの返答を待ちながら頷いた。「彼女、まだアメリカでしょう?」
「そう」
「私も話したい」
ミシェルに断りを入れてから席を立った希佐は、足取り軽くアランの隣に向かった。
「ダイアナ、スピーカーに切り替える」
『どうぞ』
微かに聞こえるだけだった声が鮮明になり、それに合わせて何かをごそごそと漁っているような音までもが聞こえるようになる。恐らく、バッグの中からパソコンを引っ張り出そうとしているのだろう。
「おはよう、ダイアナ」
『あら、キサ? 久しぶりね、元気だった?』
「元気だよ。ダイアナは今もハリウッドにいるの?」
『いいえ、今はニューヨークよ。西海岸から東海岸まで一気に移動したの。こちらでお仕事の依頼があって。そうそう、昨日の昼間、クライアントと一緒にMoodに買い物に行ったのだけれど、あなたの目の色が映える素敵な生地を見つけたのよ。飴色と亜麻色と、それから光沢感のある紺色──』
「ダイアナ」
『何よ、空いた時間を有効に使っているだけじゃないの』ごそごそという音が消え、今度はカチカチとキーボードを叩く音が聞こえてくる。『さあ、見たわ』
「どう思う?」
『これって舞台メイク? ああ、待って──ええ、いいわ。概要を読みました。あなたこれ、いくらなんでも適当すぎない? いつもならもっと細かい指示書きを用意してくれるじゃない』
「昨日今日で決まった話なんだ。衣装もあり合わせのものでどうにかしないといけない」
『本番はいつ?』
「今日の午後三時」
ダイアナが電話口の向こう側で絶句するのが分かる。だがしかし、すぐに『分かったわ』と言うと、その場から動き出す気配を感じた。
『ビデオ通話を繋げられるかしら』
「準備する」指示されるまでもなく動き出したベネディクトを横目に見ながら、アランは続ける。「衣装も見てくれるか」
『まったく、相変わらず人使いの荒い人ね。一つ貸しよ』
「舞台衣装とメイクで君以上に信頼できる人間がいないんだ」
『まあ、お上手ですこと』そうは言うものの、ダイアナの声は満更でもなさそうに聞こえた。『一旦切るわ。十分──やっぱり十五分後に呼び出してくれる? シャワーを浴びたいの』
「了解」
『じゃあ、後でね』
ダイアナは、ちゅ、とリップ音を鳴らしてから通話を切った。
わあ、と声を上げるミシェルの方を一瞥しながら、アランはスマートフォンを暗転させる。向かい側にあるソファの裏に回り込むと、背もたれの向こう側から、パソコンを立ち上げているベネディクトに声を掛けていた。
「失礼ですが、今の方は?」
「いつもカオスの舞台衣装とメイクをお願いしているデザイナーです」
「わたしの勘違いだったら申し訳ないんですけど、ダイアナって、もしかして、あの……?」
「多分、そのダイアナで間違いないと思います」ひゅ、と喉を鳴らすような反応を見せたミシェルを見て、希佐は少しだけ笑う。「二月の末にあった映画の祭典に合わせて、ドレスを担当した役者さんたちと一緒に渡米していたんです。祭典が終わった後も、しばらくは向こうで過ごすと言っていました。今の話振りだと、すごく楽しんでいるみたいですね」
「わたし見ました、レッドカーペット。ダイアナの──いえ、ダイアナさんのドレス、どれもすごく評判だったみたいですよ。アメリカの雑誌でいくつも特集を組まれていたはずです。インタビューとかも受けられていて。うわあ、そんな素晴らしい方に舞台衣装とメイクをお願いしているなんて、劇団カオスって本当にすごいんですね……」
「アランとダイアナが子供の頃からの友だちで、その関係もあるみたいですが」
「やっぱり天才は天才を招き寄せるんでしょうか」
「どうなんでしょう」
少なくとも、二人は自分のことを天才とは思っていないだろうと、希佐は思う。天才とは他者から与えられる称号に過ぎない。天才が天才たり得るためには、たゆまぬ努力が必要なのだ。
ビデオ通話が繋がれると、ダイアナはすぐに希佐を呼び付け、カメラの前に立つように言った。黒く長い濡髪をバスローブに垂らし、椅子に座って足を組んだ格好のダイアナは、希佐の姿が画面に映し出されるのを見て、機嫌良く笑った。
『ハーイ、キサ』
「朝早くにごめんね、ダイアナ」
『キサが謝ることはないわ。諸悪の根源はあの朴念仁よ、気にしないで』
その場でゆっくり回るように言われた希佐は、言われるがままにくるりと回ってみせる。ダイアナはその様子をじっくりと眺めてから、うーん、と小さく唸り声を上げた。
『それ、靴は? バレエシューズ?』
「うん」
『ちょっとアランを隣に並べてくれない?』
まるで物のように言うなと思いながら希佐が手招くと、メイク道具を手に取って眺めていたアランがソファから立ち上がった。希佐の隣までやってきて並び立つと、ダイアナは再び唸り声を上げる。
『あなたのそれは衣装なのよね?』
「衣装以外でこんな服着たくない」
『そうでしょうね』ダイアナは面倒臭そうに応じてから、画面に向かって僅かに身を乗り出した。『あえてバレエシューズを履かせた狙いは見えたわ。二人の身長差が映えて悪くないと思う。でも、キサのワンピースはパジャマみたいに見えるのよね。サイズの問題かしら。それも狙いなの?』
「そう」
『それなら、衣装について私から言うことは何もないわね。メイクの話に移りましょう』
ピオーティアは大きなお屋敷の小さな離れで暮らしている。恐らく裕福な家庭の生まれではあるが、生まれつきの盲目が原因で、両親からは疎まれていた。必要なものはすべて買い与えられていたかもしれない。だがしかし、身の回りの世話をしてくれる召使いがいたとしても、数はそう多くないだろう。常に誰かが傍にいれば、魔物であるエクスが頻繁に訪ねてくることを問題視したに違いない。
ピオーティアは、必要なときに召使いを呼び寄せ、それ以外はいつも一人だった。だからこそ誰にも邪魔をされず、魔物のエクスとの密会を続けることができたのだ。
衣服は肌触りが良く、着心地が良い、且つ自分一人でも簡単に着ることのできるものを好んだ。だから、シルクサテンのワンピースを。装飾のレースを指先でなぞりながら、その模様を頭の中に思い描くことで、日々の暇を潰している──こうした役の掘り下げは、アランと散々行ったあとだった。
『キサが演じるのは人間の女の子だから後回しにするとして、問題はそちらの朴念仁よ。登場した瞬間、子供が一目で人間ではない生き物だと分かるような仕上がりじゃないと、あなた自身だって満足しないでしょう?』
「だから君に頼んでる」
「あ、そうだ」希佐はそう言って一度画面外に出ると、テーブルの上に置いてあった角を手に取って戻ってくる。「こういう角があるんだ」
『……ちょっと、どうしてそれをもっと早くに見せないの?』
どうやら、その角がインスピレーションの源になったようだ。ダイアナはベッドの上に置いてあったバッグを手繰り寄せると、その中からいつものスケッチブックと色鉛筆を取り出し、膝の上で何かを描き始めた。
丁度その頃、希佐がアランの頭に角を装着し、髪を整えてあげているところに、外出していたゴダンが帰ってくる。
ビデオ通話が行われていることに気づかず、人数分の昼食を抱えたまま二人のところまでやって来たゴダンは、角を付けられたアランを見て、愉快そうに笑った。
「よく似合っているよ、アラン」
「これ、キサには大きすぎる」
「おや、何の話かな」
『あら、そちらの素敵な方はどなたかしら』
「え?」
ダイアナはゴダンのことを知らないのかと意外に思い、希佐は首を傾げた。てっきりゴダンは有名人で、イギリス人なら知らない人はいないものとばかり思っていたが、どうやらそういうわけでもないようだ。
「ダイアナ、この方は──」
「僕はアラン・ジンデルの友人だよ。数年前に仕事で知り合って以来の仲なんだ。今日は劇の記録係として駆り出されてね」
『人使いの荒い男に好かれると苦労が絶えないでしょう?』
「それはお互い様じゃないかな」
名乗らないのか、と思いながら希佐がダイアナと話している横顔を見ていると、その眼差しに気づいたゴダンがこちらを一瞥し、ぱちん、と軽く片目を瞑る。黙っていてほしいということなのだろうと察した希佐は、余計な口は挟まず、ゴダンの手から荷物を受け取った。
「あっ、キサさん」ソファに腰を下ろし、タブレットにダウンロードしたアプリでピアノの鍵盤を弾いていたミシェルが、慌てたように立ち上がった。「それはわたしが持っていきます」
「ありがとうございます」
「いいえー」
ダイアナは、ゴダンと取り止めのない話をしながらも、スケッチブック上の手を動かし続けている。片手に持った数本の色鉛筆を器用に入れ替えながら、何か模様のようなものを描いているようだ。
二人が話している様子を傍らから見ていたアランは、その表情に呆れを滲ませながら、のろのろと画面外に出ていく。そして、ダイニングから椅子を引きずってくると、そこへ腰を下ろし、酷く退屈そうに足を組んで、自らの膝に頬杖をついた。
「ダイアナはレオを知らないの?」希佐が後ろに立ってこっそり問い掛けると、アランは小さく肩をすくめる。「気づいていないだけ?」
「お互い故意にそうしているだけだと思うけど」
「故意に?」
「タイプだから」
「え?」
「腹の探り合いをしてる」
「言っていることがよく分からない」
「分からなくてもいいよ」
「邪魔はしない方がいいということ?」
「むしろ二人が俺たちの邪魔をしてる」
『失礼ね、邪魔なんかしていないわよ』画面の向こうにも二人の声が届いていたらしい、ダイアナが口を挟んでくる。『言ったでしょう? 私は空いた時間を有効に使っているだけなの』
「分かったから、早くして」
『せっかちな男は嫌われるわよ』そうは言いながらも、ダイアナはスケッチブックをこちらに向け、描いていたものを見せてくれた。『まず、その角をより生々しく見せるために、額やこめかみの辺りに筋肉の影や血管を描き加えるのはどう? それだけ大きな角を支えているのだから、人間にはない筋肉が発達しているでしょうし、血液を通わせることでリアルさが増すと思うの。あなたのそばかす、私は好きだけれど、今はコンシーラーで消した方がいいわね。もっと肌の青みを深くして、ほら、こんなふうに──』
ダイアナは椅子から立ち上がると、カメラのすぐ近くまでやってきて、スケッチブックに描いたデザイン画を見せながら細かく説明してくれた。アランはダイアナの説明を黙って最後まで聞いたあと、しばらく考えてから、何度か小さく頷いた。
「分かった。それ、スキャンしてこっちに送って」
『キサのメイク案もいくつか一緒に送るから、それを参考にするといいわ』
「ありがとう、ダイアナ」
『どういたしまして』ダイアナは希佐に向かって笑いかけてから、再びアランに視線を戻した。『こんな朝早くに叩き起こされたんだから、タダ働きだけはごめんよ』
「それなら、報酬は僕の連絡先なんてどうかな」
今になって、先ほどのアランが言わんとしていたことを理解した希佐は、ああ、と納得したような声を漏らした。
画面の向こう側にいる相手を口説こうとしているゴダンを横目に一瞥してから、アランは椅子から立ち上がる。
「報酬は言い値で支払うから、請求書を送って」アランはそう言いながら、椅子を引きずって歩き出した。「あとはご勝手に」
「じゃあ、私ももう行くね、ダイアナ。本当にどうもありがとう」
『もうすぐロンドンに帰るから、また一緒にディナーでも行きましょ』
「うん」
『彼とのお芝居、頑張って』
「ありがとう」
ダイアナは多くを言わない。
だが、希佐に向かって「頑張って」と言ったその顔は、何か酷く感慨深げで、言葉以上の重みを感じさせた。子供の頃、舞台に立っていたアランを誰よりも身近で見てきた人だ、色々と思うところはあるに違いない。それでも、深く詮索することはせず、適切に手を貸してくれる。
『本当は飛んで行きたいのよ』
「分かってる」
『幸運を祈っているわ』
指先にキスをし、手を振ってくれたダイアナに向かって希佐も手を振り返すと、その場にゴダンを残してアランの背中を追いかけた。
ダイニングテーブルには、既に昼食の支度が整っていて、全員が食卓に揃うのを待つだけの状態になっていた。キッチンで手を洗っていたアランは、希佐がやって来るのを見ると、棚の中から布ナプキンを取り出し、それを手渡してくる。
「衣装、汚さないで」
「うん」
「前々から気が合いそうだとは思ってた」アランは、ゴダンとダイアナのことを言っているのだろうと、希佐は察した。「レオが寂しそうだったから、そのうち紹介しようとは思ってたんだけど、その手間が省けたらしい」
「世間が沸き立ちそう」
「君はイギリス人みたいな皮肉を言うようになった」
希佐が手を洗い終えると、自分が使っていたタオルを押し付け、アランはダイニングに向かう。その向こう側に見えているリビングでは、まだゴダンとダイアナが、楽しそうにお喋りを続けていた。
本番前、舞台の袖に立つときはいつも、妙に冷静な気持ちになる。
高揚感はもちろんあった。早くあの場所に行きたい。あのスポットライトの下に行きたい。何百、何千という観客の視線を一身に浴びて、詰めていた息を吐き出したい。何時間も海底を泳ぎ続けてきたクジラが、ようやく海面に顔を覗かせる瞬間のように、大きく息を吸い込みたくてたまらないのだ。
だがそれでも、頭の芯には冷え切っているような感覚がある。
誰かを演じている自分の他に、もう一人の立花希佐がそこにはいて、こちらをじっと見つめている。
希佐はいつも、そちら側を見ないようにしていた。舞台上で現実に引き戻されることを恐れていた。舞台は自分以外の何者にもなれる場所だ。舞台上で自らをさらけ出すことは恐ろしい。
オー・ラマ・ハヴェンナ──ただ女を演じるだけのことが、あんなにも恐ろしかったように、本当の自分の姿を大勢の前で剥き出しにすることは、まるで死刑が施行される刹那のような恐怖心があるのではないかと、そう思うのだ。
でもいつか、自分のすべてをさらけ出してしまう日が訪れるのだろうという予感が、立花希佐にはあった。いつか、舞台上に立つ自分を冷酷とも思える眼差しで睨み付けているもう一人の自分と、真正面から向き合わなければならなくなるのだろう。無視をし続けてきた付けは、いつか払わなければならない。
だが、それは今日ではない。
今日は、違う。
「──レオが声を掛けて回ったと話していたけれど、誰が来ると思う?」
「さあ」アランは希佐の顔にメイクを施してくれながら、気のない返事をした。「じっとして、動かないで」
「はーい」
昼食後、ダイアナから送られてきたいくつかのデザイン画を基に、希佐はピオーティアらしいと思うメイクを、自らの顔に施した。そして、いつものようにアランに確認を求めにいくが、何かが気に入らなかったらしく、たった今手直しを加えられているところだった。
希佐は言われた通りにじっとし、口を噤んで、アランの顔をじっと見つめる。本当に綺麗な顔だ──こんなことを言うと、この人は怒るから、滅多なことでは口にしないようにしていた。時々、あまりに美しすぎて、この世のものではないように感じることがある。例えば、人間よりも、もっと神聖な存在のように。
「何見てるの」アランは表情一つ変えずに言う。「俺の顔は見せ物じゃないんだけど」
「じゃあ、目を閉じてる」
「そうしてほしいと思ってた」
アイホールを化粧筆が優しく撫でる。その感覚が心地良くて思わず吐息を漏らすと、アランの指先が希佐の額を軽く突いた。
「キサ」
「ん?」
「そのネックレス、貸して」
「これ?」希佐が目を開けて自らの胸元に触れると、アランは小さく頷く。「いいけれど、どうするの?」
首の後ろに手を回して留め具を外し、差し出されたアランの手の平の上にネックレスを置く。すると一瞬だけ、指輪を返してくれと、そう言われた瞬間のことが、希佐の脳裏をよぎった。
「メイクは終わり」
「あ、うん。ありがとう」
「これは後で返す」
もう動いていいよ、と言い残し、アランは席を立った。
「それ、どうするの?」
「今日中に返すから」
「そうじゃなくて──」
贈られたその日から、一度も外したことのなかったネックレスがなくなると、何だか妙に落ち着かない。ほとんど重みなどないはずなのに、首が軽くなったように感じられる。寒さすら覚えるようだ。
訳も分からず困惑している希佐を振り返り、アランはどこか驚いたような表情を浮かべていた。
「なんでそんな顔してるの」
「アランが何も教えてくれないから」
「別に取り上げて売り払おうってわけじゃない」アランは手の平にそっと包み込んでいたネックレスを見下ろし、小さく息を吐く。「ピオーティアへの贈り物を作ろうと思っただけ」
「……贈り物?」
「フェロニエール」アランは希佐のところまで戻ってくると、エメラルドを額の中心にあてがった。「君は額の形が綺麗だから」
「最初からそう言ってくれたらいいのに」
「ごめん」
アランは何事かを思案するような面差しを浮かべてから、そのように短く謝罪の言葉を口にし、そのままリビングを出ていってしまった。
アラン・ジンデルは言葉が足りない。これは常々言われてきたことだが、最近は思っていることを口にする方が、口を噤むことよりも多くなってきていることは確かだった。だが、物思いに耽っているときほど自らの思考の海に沈み込んで、こうして誤解を生んでしまいそうにもなる。とはいえ、自分の言葉が足りているかといえば、そうとも言い切れない希佐には、はっきりして欲しいと詰め寄る資格はないのだろう。
時刻は一時を過ぎている。希佐もソファから立ち上がると、ワンピースの皺を伸ばすように軽く払いながら、その足で玄関ホールに向かった。
今日の舞台は玄関ホールだ。この屋敷で最も広く、天井も吹き抜けて、音の響きが良い。頭上にはスワロフスキーの豪奢なシャンデリアがある。希佐がここへ来てからこちら、明かりが入れられたことはなかったが、今日はそれが美しく光り輝く様を見ることができるそうだ。
玄関扉の両脇の窓はステンドグラスになっていて、このグラスミアの村や湖、自然豊かな緑を表しているのだという。光が差し込むと、それが飴色の木の床に映し出され、希佐はそれをぼんやりと眺める時間が好きだった。
「やあ、キサ」今は丁度、その光が差し込む時間帯だ。いつも座っている階段の一段目には、既に別の人の姿があった。「本番前だというのに、浮かない顔をしているね」
「そんなことはありませんが」
「アランも難しい顔をしていた」
「彼は?」
「ビーズカーテンがどうのこうのと言っていたけれど」ゴダンはそう言いながら腰を上げると、階段脇に設置してあるカメラの調整に向かう。「階段を上がっていったよ」
「そうですか」希佐はそう言って階段の上に目を向けるが、そのうち戻って来るだろうと思い、再びゴダンに視線を戻した。「あの、今からここを歩き回ります。構いませんか?」
「Ça ne me dérange pas.」
「Je vous remercie.」
ゴダンの了承を得た希佐は、フローリングの微かな段差や、歪み、へこみなどを確認するように歩いた。玄関ホールの端から端までの歩数、扉から階段までの距離──すべてのことを感覚として体に叩き込んでいく。
小道具は窓辺に置いてある椅子、一脚だけだ。
希佐はその籐のロッキングチェアに腰を下ろすと、辺りをぐるりと見回してから、そっと目を瞑った。そして、玄関ホールの隅々まで、頭の中で思い描く。ここがピオーティアの世界だ。
かつて演じたピオーティアは、純真無垢な少女だった。盲目に生まれた自らの運命を悲観することなく、たとえ悲観することがあったとしても、それを態度や言葉に表すような子ではなかった。明るく、優しい、女の子。
だが、そんな彼女は魔物のエクスと出会い、新たな欲を知る。
あなたの顔を見てみたい──目が見えないからこそ、二人の距離は日に日に縮まっていった。しかし、あなたの顔を見てみたい、目が見えるようになりたいと願った途端に、エクスは離れていってしまった。
無神経な願いを口にした翌日から姿を見せなくなったエクスを探すため、ピオーティアは一人、屋敷の離れを抜け出した。暗闇の中を彷徨い、エクスという光を求めて、歩き続けた。
何日も、何日も、きっと飲まず食わずで放浪し、水の音に導かれてたどり着いた湖。冷たい水に触れ、喉を潤し、思い出すのはエクスのことばかり。
あんなことを言わなければよかった。あなたの顔を見たいだなんて。きっとエクスを傷つけた。謝らなければ。もう一度エクスに会えるのなら、会って謝ることができるのなら、もうそれだけでいい。目が見えるようになりたいだなんて思わない。もし嫌われてしまったのだとしても、ただ一言、会って謝りたい。
結果、エクスは湖に倒れているピオーティアを見つけ出し、その目を癒した。目が見えるようになったピオーティアと、美しく凛々しい男性となったエクスは、その湖の畔で歌い、踊りながら、幸せに暮らしていく。
絵に描いたような美しいお伽噺。
だがしかし、自分とアラン・ジンデルの演じる『魔物のエクス』が、何事もなくハッピーエンドを迎えられるかといえば、そうはならないだろうと、希佐は思っていた。
「……目が見えないのは生まれつきだから、私には世界の広さなんて分からない。私の内側に広がる世界しか知らない。この手の届く範囲だけが、私の世界のすべてなの」孤独を孤独とも思わない。彼女は、孤独以外を知らなかったから。「小さな段差も、絨毯と床の境目も、私が歩こうとするといつだって邪魔をする」
もしピオーティアの目が他の多くの人々と同じく、生まれつき見えていたとしたら、そもそもこの物語ははじまらない。物語はすべて予定調和。だがしかし、後から思えば、現実世界も同じことだ。歩いていれば石に躓く。ただ立ち止まっている者が、石に躓くことはない。
「あなたが教えてくれる外の世界のことは、私にはよく分からないけれど、嫌いではないのよ」
もしかしたら、ピオーティアは目が見えなかったからこそ、美しかったのではないか。自分を離れに閉じ込めておくような両親の顔を見ることも、自分を厄介に思う人々の顔を見ることもなく、孤独だけを友達として生きてきたからこそ、穢れを知らず、純真無垢に生きてこられたのではないか。
意図せず悪意から遠ざけられていたのだ。
それはピオーティアにとっては幸運であり、同時に不運でもあったのだろう。目が見えるようになったピオーティアはこの先、多くの現実を目の当たりにし、その残酷さから目を逸らしたくなることもあるに違いない。目が見えないままの方がよかったと、そう思う日が訪れるのかもしれない。今度は自分の目から光を奪ってほしいと、そうエクスに懇願する日がやってこないとも限らない。
こうして、エクスとピオーティアの物語の、その先にある世界を想像すると、どうしようもなく胸が苦しくなる。
浮世離れした世界で生きてきた少女が、現実の世界へと足を踏み入れる。現実を突きつけられる。ただそれだけでよかったことが、それだけでは足りなくなる。いつまでも現実から目を逸らしてはいられない。
「……ピオーティア」
加斎と図書室で翻訳作業を行なっていたときは、こんなふうに深く思いを巡らせることはなかった。まさか、ピオーティアと自分自身を重ね合わせる日が訪れるとは、想像だにしていなかった。
カシャ、とシャッターを切る音が聞こえ、希佐は現実に引き戻された。
目を開け、あまりの眩しさに眉を顰めながら音の聞こえた方に顔を向けると、ゴダンがこちらにカメラのレンズを向けている姿が見えた。
「すまないね」ゴダンはほんの少しだけ申し訳なさそうに言った。「息を呑むほど美しかったものだから」
「ピオーティアがですか?」
希佐がそのように問うと、ゴダンは僅かに目を瞠ってから、参ったというふうに笑った。
「君の閉じた目蓋がまるで真珠のような輝きを帯びていて、シャッターを切らずにはいられなかったんだ。集中しているところを、申し訳なかったね」
「いいえ」
「もう良いのかい?」すっくと椅子から立ち上がる希佐を見て、ゴダンが言う。「気が散るなら、僕は向こうへ行っているよ」
「確認は終わったので、もう大丈夫です」
希佐は「失礼します」と言ってその場を離れるとリビングまで戻り、テーブルの上に置いていたネイルチップを手に取った。すっかり乾いてはいるものの、もう一度塗り重ねておいた方が良さそうだ。
まだ時間に余裕があることを確かめた希佐は、先を僅かに尖らせたネイルチップに、一本ずつ色を塗り重ねていった。深い緑の上に黒を重ね、更にその上からマットコートで仕上げをする。
表面に手を触れないように気をつけながらスタンドに並べ、それらが乾くのを待ちながら台詞の最終確認を行なっていると、アランがリビングに戻ってきた。背後に回り込み、ソファの背もたれ越しに立ったアランを振り返ろうとするが、片手で頭を固定される。
「長さを調整するから、動かないで」
「もう完成したの?」
「糸にビーズを通すだけだから」
「ビーズなんてあった?」
「引き出しの中を物色してたらクリスタルのビーズカーテンがあった」アランは希佐の頭に何かを載せると、背後から顔を覗き込みながら、額に当たる宝石の位置を調整している。「ホテルだった頃に使ってたやつだと思うけど、レオに聞いたら好きにして良いって言うから」
「そう」
「それ、仕上げてくれたの」
「うん」
「ありがとう」
「どういたしまして」
ああ、今は少し気を使われている──希佐がそう思いながら小さく笑い声を漏らすと、背後の気配が僅かに和らぐのが分かった。
「髪はゆるい三つ編みがいいと思う。肩に流す感じで」
「ピオーティアもそのくらいなら自分で結べそうだね」希佐はそう言いながら、ソファの背もたれを跨ぎ越して隣に座ったアランを見上げた。「そんなことより、アラン、自分のメイクは?」
「俺はすぐ終わるから」
「爪もつけないといけないんだよ」
「分かってる」
「のんびりして、間に合わなかったらどうするの?」
「間に合うよ」
昔、メレディスの舞台に立っていたときも、いつもこんな感じだったのだろうか。希佐はそのように思いながら、アランの手元を覗き込む。するとそこには、ほんの数十分で手作りしたとは思えないような、美しいアクセサリーが握られていた。
一見するとネックレスのような形をしたそれは、よく見るとテグスのような透明な糸でクリスタルを編み込み、幾つかの小さな花を連ねたものになっている。つい先ほどまでは希佐の胸元で輝いていた、プラチナの台座に飾られている雫型のエメラルドは、クリスタルから垂れ下がるようにして、ゆらゆらと揺れていた。
「ピンで留めるから落ちることはないと思う」
「本当に何でもできるんだね」
「メレディスのところでいろいろと手伝っているうちに覚えただけ。アクセサリーの類は高価だから、ほとんど内輪で自作していたんだ。美術館を巡ったり、宝飾品の店を覗いたりして、それっぽいデザインを参考にしてた」
そうした数々の経験の積み重ねが、今現在の衣装やアクセサリーのデザインに生かされているのだろう。今度の舞台では、脚本以外にも、音楽や衣装デザインのたたき台を用意していることは、希佐も知っている。
アランはフェロニエールの長さを調節し、希佐の頭に乗せて問題がないことを確認してから、自らのメイクに取りかかった。自信満々に間に合うと豪語していた通り、ダイアナから送られてきたデザイン画を頼りに、手慣れた様子で自らの顔にメイクを施していく。
希佐が感心しながらその様子を眺めていると、アランがこちらに横目を向けた。
「私よりもずっと上手」
「劇団時代は全部自分でやってたし、ダイアナのショーの手伝いに駆り出されることもあったから」
「そうなの?」
「舞台メイクもファッションショーのメイクも似たようなものだって」
「ファッション誌の撮影現場より、ショーの舞台裏の方が慌ただしそうだよね」
「確かに、普段のダイアナの口からは絶対に聞けないような、聞くに堪えない悪態が出てくるくらいには慌ただしい」
ダイアナはいつだって美しい言葉遣いで話し掛けてくれる。本人もそう心掛けていると、以前話してくれたことがあった。英語に慣れてきてはいたものの、時折言葉に詰まる希佐のことを見て、一層言葉には気をつけようと思ったのだという。
「ほら、言語学習者ってどういうわけか、表現に規制が掛かるような言葉から覚えてしまうものでしょう? 私がそういう言葉を使って、それをあなたが吸収してしまったらと思うと、とても恐ろしくなるわ」
そう言ってくれたダイアナが、アランですら聞くに耐えないと感じるような悪態を吐くのか──希佐は思わず、ふふ、と笑みをこぼした。
「少し興味があるかも」
「俺が話したって言わないで。あとがうるさいから」
本番前、気持ちはいつも通り落ち着いている。頭の芯には、冷え切っているような感覚がある、あの感じだ。高揚感の中に、酷く冷たい、氷の結晶のようなものがある。
今日もまた、もう一人の立花希佐が、誰よりも近い場所から、値踏みをするような眼差しでこちらを見ている。他の誰を満足させられても、彼女を満足させることができない限り、アランが昨夜言っていた、才能の向こう側へは到底辿り着けはしないのだろうと、希佐自身は考えていた。
自分にはまだ、その先、がある。
そう思うと安堵するし、同時に辟易もする。どこまで行けば、その先に到達するのか。その先には、一体何が待ち受けているのだろうか。
アラン・ジンデルの才能に殺されたいと願う気持ちは、今も変わらない。
これら二つの感情はきっと、相反するものではないはずだ。
希佐が口を噤み、物思いに耽っていると、アランが不意に顔を上げ、玄関ホールの方に目を向けた。何か物音でも聞こえたのだろうかと思い、耳を澄ますと、屋敷の前で車のエンジン音が止まった。
ゴダンが言っていたお客さんだろうかと希佐が思っていると、丁度メイクを終えたアランは無言のまま立ち上がり、玄関ホールの方へと歩いていこうとする。
「アラン、まだ爪が──」
引き留める声も聞かずに歩いていくアランの背中に向かって、もう、と声を上げ、希佐もソファから立ち上がると、その背中を追い掛けた。
玄関の外が異常に騒がしい。そこにいるのは一人や二人ではないようだ。廊下を進むアランの横顔が、険しそうに顰められるのを目の当たりにしたその瞬間、扉が開いて、人がどっと雪崩れ込んできた。
「──あっ、こら! みんな静かに! お行儀良くするって約束したでしょう?」
唖然として立ち尽くす希佐の腕を取り、アランは玄関ホールからは死角になっている廊下の窪みに、その体を押し込んだ。アランも玄関ホールの様子を窺いながら、希佐の方へと身を寄せてくる。
「何か企んでるだろうとは思ってたけど──」アランは希佐の頭上で小さく息を吐き出し、困惑したような表情を浮かべていた。「やってくれるね」
「ねえ、あの子たちって……」
すぐ近くまで駆けてきた少年を、そっちは駄目だと言って、ベネディクトが慌てた様子で連れ戻していく。二人が去るのを、なぜか息を止めてやり過ごしてから、希佐はアランを見上げて言った。
「この辺りにある児童養護施設の子どもたちだと思う」
「それじゃあ、レオが声を掛けて回ったっていうのは……」目を丸くする希佐を見て、アランは呆れ果てたというふうな顔で肩をすくめた。「てっきりご近所に声を掛けて回ったのだと思ってた」
「俺もだよ」
用事があるから出掛けてくる、本番までには戻ると言って、行き先を告げずに出て行ったベネディクトだけが、ゴダンの企みを知っていたのだろう。それとも、姉妹の家まで二人を迎えに行っているミシェルも、これを知っていたのだろうか。
広い玄関ホールを走る回る元気な子供もいれば、ピアノをでたらめに弾き出す子供もいる。それを諌める大人の声は、もはや諦め半分だ。
どこの施設も似たようなものなのだなと思いながら、不意にアランを見上げると、その表情がどこか物悲しげに感じられて、希佐はたまらず胸元に手を添えた。
「なに」希佐の前髪を耳に掛け、アランは額にキスをする。「心配?」
「ううん」
「嘘吐き」
「あなたを信じてると言った」
希佐のその言葉に、アランは瞳を揺らす。そして、何かを言いかけたそのとき、玄関ホールから廊下にやって来たベネディクトが、死角に入り込んで密着している二人を見て、ぎょっとしたような顔をした。
「おい、おいおい、こんなところでいちゃつくなよ」
「いちゃついてない」
「説得力ないぞ」じっとりとした目で睨まれ、微かにむっとした顔をして希佐から離れたアランは、すぐさま背を向けてリビングへと戻っていく。「そろそろ二人を連れていくってミシェルから連絡があったから、到着次第あまり時間を置かずに始めたい。ていうか、俺にはあの子供たちを制御しきれない」
「そういうことはレオに言えば? あの人の一存で連れてきたんだろ」
「あの人はいつだってにこにこ笑って見てるだけだよ」
はあ、とため息を吐きながら踵を返そうとするベネディクトを見て、希佐は口を開く。
「あと十五分ほどいただければ」
「焦る必要はないけど、なるべく急いでくれると非常に助かる」
「はい」
施設の子供たちの声を聞いていると、ユニヴェールの近くにある教会で出会った子供たちのことを、強く思い出す。好奇心旺盛で、可愛らしく、他者を慮れる良い子たちだった。日本を出て早数年、中にはユニヴェールを目指し、念願叶って入学を果たした子もいるのかもしれない。
希佐は不意に、ユニヴェールのジャックに憧れていた女の子のことを思い出した。あの子は今、どうしているのだろう。公演を見て手紙をくれた、自分は女の子だからユニヴェールには入学できないと悲しんでいたあの子は、別の夢を見つけられただろうか。
あの頃はユニヴェールがこの世界のすべてのように思えていた。だが、ユニヴェールはこの広い世界を形作るものの、ほんの一局面でしかない。
今の立花希佐があるのは、ユニヴェール歌劇学校での三年間があったからだ。それは間違いない。あの偉大なる学舎で出会った人々、得難い経験、湯水のように浴び続けた、ありとあらゆる才能。それらと出会うことがなければ、このイギリスという国で、今もこうして舞台に立ち続けることはできなかった。
だがそれでも、あえて言おう。
今なら分かる。ユニヴェール歌劇学校が、この世界のすべてではないのだと。もし夢を諦めることなく、芸事の道を志す覚悟があったのなら、別の方法を模索すればいい。そうすれば、いずれ世界は交差する。
立花希佐にとっては、ユニヴェールが諦めなかった先にある未来だった。
すべての人の夢は叶わない。残酷だが、それがこの世界の理だ。だがしかし、本当に夢を諦める必要などあるのだろうか。
『たとえ叶わなくても構わない。それでも僕は、夢を選ぶ』
ずっと、この言葉をお守りにして生きてきた。
そして、これからも、それは変わらない。
夢が終わって、また次の夢を見つけて、その夢が終わってしまったとしても、また次の夢を探して、生きていけばいい。
「キサ」廊下の影から子供たちの賑やかな声に耳を傾けていると、手の届く距離まっで戻ってきたアランが後ろから声を掛けてくる。「ヘアセットするから、こっち来て」
「うん」
かつて加斎中と演じた『魔物のエクス』とは、一風違った物語が、もうすぐはじまろうとしている。少しずつ、立花希佐の心の中に、ピオーティアが流れ込んでくる。
希佐と自らの髪をセットし終えたアランは、すべての指にネイルチップを装着し、本番中に外れることがないよう最終的な確認を行っていた。
隣に座っていた希佐は、スマートフォンの電源を落としてから、ほとんどエクスと化した男を見上げる。
「アラン」
「なに」
「緊張してる?」
そう尋ねる希佐に目を向け、少し考えてから、アランは口を開いた。
「まあ、久しぶりだし、それなりには」
「私も、いつもより少しだけドキドキしてる」希佐は、そう言ってアランの手を取ると、自らの胸元に導いた。「楽しみと、不安が、半分半分」
「不安なのは、俺が失敗するかもしれないから?」
「そうじゃない」でも、と言いながら希佐はアランの手を取り、甲にそっと唇を押し当てた。「もしそうなったとしても、私がいくらでもフォローしてあげるから、安心して」
「頼りにしてる」
そう言ってシニカルに笑う顔を見るに、過剰な心配をする必要はなさそうだと、希佐は思った。
きっと、何か凄いことが起こる、そんな予感があった。それなのに、何かがはじまると同時に終わってしまうような、そんな不安もあるのだ。
これで、同じ舞台に立ちたいという夢が、叶えられる。
隣に立って、演じるということ。
初めてヘスティアのステージに立ち、ピアノを弾いて、一緒に歌ってくれたときは、それがどれだけ稀有なことなのか、希佐には分からなかった。でも、当時のメレディスが言いたかったのは、こういうことだったのだろう。
『あの舞台に立つことを極端に嫌うアラン・ジンデルが、君という人と一緒にステージに立って、ピアノを弾いて歌まで歌った。それは酷く価値があることだと、君自身が自覚できる日が来るといいのだけれどね』
数年越しに、あのときの言葉の意味を、本当の意味で理解できたような気がした。これは酷く価値のあることなのだと、今、立花希佐は強く自覚している。
午後三時少し前、ミシェルに連れられて、件の姉妹とその父親が到着しても、まだ『魔物のエクス』を上演することは出来ずにいた。玄関ホールの階段を客席に見立てたはいいが、観客の中の幾人かが着席しようとせず、未だ玄関ホールを駆け回っている。ベネディクトが何とか座らせようと躍起になっているが、元気いっぱいの子供たちは、初めての場所に興奮した様子で、聞く耳を持とうともしない。
「どこの施設にもいるんだよな」希佐とミシェルが、廊下の影から玄関ホールをこっそり覗き込んでいると、その様子を見もせずに、自らの爪を眺めながらアランが言った。「ああいう連中は」
「だけど、これじゃあいつまで経ってもはじめられませんよ?」
「レオは?」
「いつも通りにこにこ笑って見ているだけです」
施設から一緒にやってきた引率の若い女性も、既に少し疲れた様子で、あちらこちらを駆け回る子供たちに向かって、大きく声を張り上げている。
途中、一人の男の子がカメラを設置してある三脚にぶつかり、あわや大惨事という事態になり掛けていたが、近くに立っていたゴダンが寸前のところでカメラを守り、男の子を支え、事なきを得ていた。
「うーん、どうしましょう……」
「放っておけば」
「そんなこと言わないでください〜」本番前だというのに、まるで他人事のように言うアランを振り返り、ミシェルは半ば泣きそうな顔をする。「なんとかこう、静かにしてもらう手立てはないんでしょうか」
「首根っこ引っ捕まえて怒鳴りつける」
「ええっ?」
「俺がいた施設では大抵そうしてたけど」
「だっ、ダメダメ、ダメです、そんなことをしたら」
「まあ、今はそうだろうな」
昔、ユニヴェールの先輩が言っていた。騒がしい子供は、手持ち無沙汰になっている場合が多い。何か役割を与えてやることで、途端に大人しくなることがある。頭ごなしに叱りつけるよりも、別の方向へ意識を向けるよう誘導してやれば、大人が無駄に怒鳴ることも、子供を叱りつける必要もなくなるのだと。
希佐はその言葉を思い出しながら、その場で大きく深呼吸をする。それを何度か繰り返したあと、困り果てて眉尻をハの字に下げているミシェルの肩に手を置いた。
「ミシェルさん、ここは私に任せていただけませんか?」
「えっ?」
「私に良い考えがあるんです」
「で、でも……」
ミシェルはそう言うと、希佐の頭越しにアランを見上げ、その顔色を窺おうとしている様子が見て取れた。しかしながら、案の定と言うべきか、アランは口を開かない。
「大丈夫です、ミシェルさん。私に任せてください」
トンッと、軽く胸を叩き、希佐はミシェルににこりと微笑みかける。すると、ミシェルはもう一度だけアランを見上げるが、何も言ってはくれないと察したのか、すぐさま表情を引き締めて頷いた。
「分かりました。このままでは埒が明かないので、よろしくお願いします」
「アランも、ここは私に任せてくれる?」
「分かった」
「ありがとう。ミシェルさんも、ありがとうございます」
「何のお力にもなれなくて、すみません」
「そんなことをおっしゃらないでください」希佐が更に笑みを深めると、ミシェルは少しだけ眩しそうに目を細めた。「すぐに本番です、最後まで一緒に駆け抜けましょう」
そう言って希佐が差し出した手を、ミシェルはぎゅっと握り締める。頭上にそっと目配せを送れば、アランは仕方がなさそうに息を吐いてから、二人の手に自らの大きな手の平を重ねた。
大きく息を吸い込み、そして、それをゆっくりと吐き出す。
立花希佐は本番を寸前に控えた舞台袖で、いつもそうして呼吸を整えていた。それは、自らが演じる役を空気と共に体の中に取り込み、立花希佐という自我を吐き出す、儀式のようなものなのかもしれない。
「Enjoy.」
「You too.」
いつもの呼び掛けに応えるその声、その表情は、既に立花希佐ではなく、『魔物のエクス』のピオーティアだった。
希佐が目を閉じると、窓から差し込む光と、頭上で輝くシャンデリアの灯りを受けた瞼が、真珠のような美しい光沢を放つ──その様を見たミシェルが、思わずというふうに、ほう、と小さくため息を漏らした。
僅かに顎を持ち上げ、肩を下げて、頼りなく両手を前へと差し出す。
一歩、また一歩、と足を進めていく。そして、玄関ホールに足を踏み入れ、数歩目のところで足を止めると、形の良い丸い頭をゆるりと傾げた。
「……そこに誰かいるの?」
凛とした、鈴を転がすような声が、玄関ホールの隅々まで行き渡る。決して大きな声を出したわけではない。だがしかし、玄関ホールを駆け回っていた子供たちは、時が止まったかのように、その場でぴたりと足を止めた。
「またご近所の子供たち?」希佐は目を瞑ったまま、再び歩きはじめる。その歩みには、微塵の躊躇いもない。「また私を揶揄いに来たのね」
「あんた、誰?」
「ピオーティア」
五歳ほどの少年が、目を閉じたまま歩いている希佐の目と鼻の先までやって来た。しかし、希佐はそれに気づかず、目の前に立ちはだかっている少年に向かって歩き続けている。
すると、まさか自分にぶつかってくるとは思わなかったのだろう、少年は希佐の体が自分に衝突すると、一瞬遅れて、酷く痛がってみせた。
「おいっ、なんだよ! 痛いじゃねぇか!」少年は叫ぶようにそう言うと、希佐の体を突き飛ばす。「こいつ、俺の足を踏みやがった!」
希佐が後ろによろめくのを見たミシェルは、反射的に玄関ホールへ出て行こうとした。だが、アランは後ろから腕を掴み、それを引き止める。
「行かなくていい」
「でも」
「キサが任せてほしいと言った」アランはそう言うと、階段の脇に立って成り行きを見守っているゴダンを一瞥した。「自分で蒔いた種くらい自分で刈り取るだろ」
「それはそうかもしれませんけど……」
体幹の良さが功を奏し、後ろに倒れることなくその場に踏み留まった希佐は、驚いた様子を見せることなく、少年を探すように体の前で両手を彷徨わせた。
「ごめんなさい、そこにいるのが分からなくて」希佐は手探りで少年の体を探り当てると、鳶色の髪の頭にそっと触れた。「でも、あなたの足を踏んではいないわ。それくらいなら分かるのよ。嘘を吐かないで」
「おい、気安く触んなよな!」
少年はそう言って希佐の手を叩き落とす。まるで頬を打つような鋭い音が鳴ると、少年はほんの一瞬だけ、微かに怯えるような表情を浮かべて希佐の顔を見上げた。しかし、自分の周りにわらわらと仲間たちが集まってくると、途端に勝ち気な面持ちを浮かべて、希佐のことを睨みつけた。
「こんにちは、悪い子たち」そう言って希佐が手を伸ばすと、少年たちはその手から逃れるように身を引いた。「今日は何をしに来てくれたの?」
「つまらない芝居を見に来ただけだ」
「お芝居? それはどこでやるの?」
「お前、ただの役者だろ? 白々しいことすんなよ」
「私が役者?」希佐は笑いもせずに続ける。「あなた、面白いことを言うのね」
so lovely──希佐は皮肉っぽくそう言うと、その場から再び歩き出そうとした。だがしかし、少年たちがその行手を阻み、壁のように立ちはだかる。
「芝居なんて馬鹿馬鹿しい。全部嘘の話だろ、何が面白いんだよ」
「嘘は嫌い?」
「嘘を吐かれて嬉しいやつなんているのか?」
「きっと良い嘘もあるわ」
「施設じゃ嘘を吐いたら罰則だ」
「罰則って? どんなことをさせられるの?」
「食後の皿洗いとか、トイレの掃除とか、院長室で何時間も書き取りをさせられる」
「私は嘘を吐きましたって何百回も書かされるんだ」
「そうなの」希佐の声は淡々としていて、あまり感情を感じさせない。「字が書けるなんて羨ましい」
「は?」
「お皿洗いも、トイレのお掃除も、院長室での書き取りも、そんなに大変なことなの?」
「だって全部時間の無駄じゃないか」
「あなたにとっては時間が何よりも大事なものなのね」
「はあ?」
「私はいつも時間を持て余しているの。私の時間をあなたに分けてあげたいくらい」
玄関ホールを暴れ回るだけだった少年たちが、ある者は気味が悪そうに、ある者は呆れたように、またある者は興味深そうに、希佐のことを見ている。だが、希佐は目を閉じたまま、あらぬ方向に顔を向けていた。
「ねえ、誰か私を窓辺にある椅子のところまで連れて行ってくれない?」
「……こいつ、なんで目なんか瞑ってるんだ?」
「目が見えないんじゃないの?」
どこかぼんやりとしたような、聞き覚えのある声が上がる。玄関ホールを覗き込めば、妹と一緒に階段の一番下の段に腰を下ろしていた姉が、希佐たちの方に目を向けていた。
「ねえ、君たちがしてるそれ、凄く格好悪いよ。そうやって人を困らせて、周りの人たちにも迷惑をかけてさ」
「俺たちは来たくて来たわけじゃない」
「そうだ、無理やり連れて来られただけだ」
「ふうん」少年たちの反論を受けても、姉は平然としている。「でも、どんな理由があるにせよ、招待を受けたからには、礼儀正しく振る舞うのが紳士ってもんだと思うけど」
「何言ってんの? 俺たちまだ子供なんだけど」
「見てよ、うちの妹」姉の隣には、その目をキラキラと輝かせながら、行儀良く座っている妹の姿があった。この状況すら、一種の余興のように思っているのかもしれない。「招待状をもらってからずっとこの調子なんだ。私は君たちのところの引率のオネーサンみたいに優しくないからさ、妹の楽しみを奪うやつは、その首根っこを掴んで外に放り出すからね」
父親と妹をその場に残し、姉はすっくと立ち上がる。精悍な佇まいだ。どこかぼんやりとしていた雰囲気が、ぴんと張り詰めた糸のように緊張感を帯びている。
「へえ」アランがそう小さく漏らすと、胸の前で祈るように両手を握りしめながら固唾を飲んで見守っていたミシェルが、こちらを振り返った。「逸材かもな」
「えっ、何がです?」
訳が分からないというふうに声を上げたミシェルに向かって、アランはネイルチップを貼った人差し指を立て、静かにするように促した。すると、あわわわ、と言葉に表せない音を発しながら、ミシェルはコチコチとぎこちない動きで前へ向き直る。
すたすた、と脇目も振らずに歩いてきた姉は、希佐の前に立ちはだかっている少年の服の首根っこを実際に掴み、僅かに後ろへ引っ張った。
「あっ、おい、やめろ! 離せって!」
「この手を離して欲しかったら、他のみんなと同じように行儀良く座って、お芝居が終わるまで大人しくする。それができないなら、君たち全員、今すぐ外に放り出す。そうだ、先に送り届けてもらえばいいよ。でも、院長さんはなんて言うかな。皿洗いやトイレ掃除だけで済むと──」
少年たちの顔色が見る見るうちに青ざめていく。どうやら、施設の院長は相当子供たちに恐れられているようだ。もしかしたら、自分がいた頃の院長が今もまだ、在任中なのかもしれない。
「ああ、もう! 分かった、分かったから!」
「そう?」
「引っ張んな!」
「ほら、君たちも早く席に座んな──」
「待って」希佐がそう声を上げると、少年を引きずって行こうとしていた姉が足を止めた。「誰が私を椅子まで連れて行ってくれるの?」
すると、姉は希佐を一瞥してから、自らが引っ掴んでいる少年に目をくれる。そして、掴んでいた襟ぐりから手を離し、促すようにその背中を軽く押した。
「んだよ」
反抗的に振り返った少年に、姉は毅然と向き合っている。少年は周りを気にするように視線を巡らせてから、チッ、と大きく舌を打ち、希佐が差し伸べている手を乱暴に取った。
「女の子には優しくしなよ」
「うるせーな」
少年は希佐の手を取ったまま、ずんずんと歩き出す。前のめりになりながら歩く希佐は、一瞬驚いたような表情を見せたが、何かがおかしかったのだろう、その次の瞬間には微かに口角を持ち上げて、どこか嬉しそうに微笑を浮かべていた。
「君もそろそろ配置についた方がいいと思うけど」
アランが背後からそのように声を掛けると、ミシェルは途端にはっとした面持ちを浮かべ、お先に失礼しますと言って、忍び足で玄関ホールに出て行った。途中、階段の脇に立っているゴダンの隣で立ち止まり、何事かを話していたようだが、少しも悪びれていない雇い主を相手に、呆れた様子で大きく頭を振っている。
他の子供たちは、姉に追い立てられるようにして、階段の空いている場所に座らされていた。
「どうもありがとう」少年に手を引かれ、窓辺にある椅子までたどり着いた希佐は、手探りで肘掛けや背もたれ、座る位置を確認しながら、そこに腰を下ろす。「あなたのお名前は?」
「……エズラ」
「ねえ、エズラ。お友達はたくさんいる?」
「なんで?」
「お友達がいるってどんな気持ちなのかと思って」
「誰にだって友達の一人や二人くらいいるだろ」
「そうなの?」ふうん、と言いながら、希佐はロッキングチェアの背もたれに寄りかかり、それをゆらゆらと揺らした。「お友達って誰にでもいるものなのね」
「俺は友達になんてなってやらないぞ」
少年はどこか吐き捨てるような口振りでそう言うと、希佐の傍を離れ、施設の他の子供たちが大人しく座っている階段の方へと向かった。少年が階段の空いている場所に着席すれば、玄関ホールは静寂に包まれる。
これでようやく、開演の準備が整った。
昔々、あるところに、魔物という生き物が、人間と同じように暮らしておりました。
魔物は、人里離れた森の、更にその先にある、ごつごつとした岩山に暮らしております。その山は一切の草木が生えず、硬質で黒々とした岩肌が剥き出しになり、絶えず横殴りの大風が吹いて、人間が一歩足を踏み入れようものなら、たちまちに凍えてしまうような場所です。
魔物は数百とおりますが、皆はその山奥で、魔王の加護の下、人間となんら変わらない生活を営んでおりました。
ただ、彼らには魔法の力がありましたから、人間なんかよりもずっと、合理的な暮らしを送っておりました。
例えば、火や水の魔法が得意な魔物は、町の中での暮らしに沿ったお仕事を中心に。地や風の魔法が得意な魔物は、町の外で行われる、主に採掘のお仕事を中心にといったふうに、それぞれが的確に役割を分担して、それはそれは平和に、そして穏やかに、仲良く暮らしておりました。
多くの人々は、魔物を恐ろしいものと決めつけておりますが、とんでもない。本当は、ほんの少し悪戯好きなだけの、無害な生き物なのです。
とはいえ、人間とは違う外見と、人智を超えた力のせいで、魔物は誤解されることが多い生き物でした。
特に、魔王は、人々から大変に恐れられております。
燃えるような真っ赤な髪に、巨大な角。ギラギラと不気味に光る緑色の目、人をも食らう裂けた口に、上下から生える四本の鋭い牙──魔王は度々人間の元を訪れては、若い人間の女を連れ去り、その肉を食べ、血で玉座を染めると噂されておりました。
ですが、果たしてそれは、真実なのでしょうか。
人は誰も、魔王を見たことがありません。
本当のことは、誰も知らないのです。
中には風変わりな魔物もいて、特にこの魔物のエクスは、時々人里に降りてきては、その度に人々を驚かせておりました。本人にそのつもりはなくとも、ほとんどの人間は、エクスの姿を見ると驚きの声を上げ、逃げ去ってしまうのです。
でも、今日はいつもと違っておりました。
暗闇色のヴェールを頭から被り、燃えるような真っ赤な髪と、ぐるりと巻いた大きな角を隠して、森の街道を抜けてきたのです。その道中、狩人たちと出会いましたが、彼らはほんの少しだけ不気味そうに視線をくれるだけで、走って逃げ去ることはありませんでした。
「やあ」狩人の一人が、そう声を掛けてきます。「この辺りでは見ない顔だな。あんた、一体どこからやって来たんだい?」
「この森を抜けた向こうから」
「む、向こうっていうと、あんたまさか、し、死の山から来たって言うのかい?」
「そうだ」
魔物のエクスは嘘を吐くのが得意ではありません。いつだって本当のことを口にしてしまいます。正体を隠すためのヴェールを纏っていても、真正直に「死の山から来た」などと言ってしまえば、自分は魔物であると白状しているようなものでした。
案の定、狩人たちは抱えていた荷物を放り出し、狩ったばかりの動物すら置き去りにして、人里の方へと駆け出していきます。
「わあ、魔物だ! 魔物が出たぞ! 皆、早く逃げろ!」
エクスはその場に立ち尽くします。
森の中には、再び静寂が訪れました。
エクスの足元には、狩人たちが置いていった、一丁の猟銃がありました。
「それほどまでに魔物が恐ろしければ、これで撃てばいいものを……」
この世界に生きている魔物の数はあまりに少なく、人間の数は恐ろしく多いと言われております。彼らは分かり合うことはできても、なぜか共存することができません。
エクスは猟銃を拾い上げると、他の散らばった荷物も寄せ集め、大きな木のうろに隠しておいてあげることにしました。
閉じた瞼の裏側の、暗闇の中で静かに眠る子兎は、泉のそばの景色の美しい場所に、そっと埋めてあげました。
エクスは自分と、その冷たくなった兎を、まるで同じもののように感じておりました。
人間は、すべての魔物が皆同じように、人智を超えた魔法の力を持っていると考えております。でも、エクスは他の魔物が当然のように使う火の魔法も、水の魔法も、地の魔法も、そして風の魔法も、使うことはできません。
人間の前では、エクスはあまりに無力なのです。銃口を向けられ、その引き金が引かれたとき、熱くて冷たい鉛の弾に貫かれてしまえば、瞬く間に死んでしまうでしょう。
仲間たちは、戦う力を持たないエクスに、とても優しくしてくれます。
それでも、エクスはいつも疎外感を覚えておりました。
孤独を、感じておりました。
子兎を埋めた場所のそばにある泉に、自分の姿を映しながら、エクスは思います。もし誰か、一人でもこの心根を打ち明けられる友達がいたのなら、どんなにかいいだろう、と。
人間の世界はエクスの目には酷く美しく、魅力的で、儚げに映ります。足を運ぶ度に色を変え、形を変え、営みを変えて、たくましく暮らす様子を目の当たりにすると、焦がれすら覚えるほどでした。
泉の畔を歩き、間もなく訪れる春の気配を感じながら散歩をしていると、不意に、エクスの耳に歌声が届きます。木の葉が擦れ合う音とも、川のせせらぎとも、小鳥の囀りとも違う、琴線に触れるような、美しい歌声です。
エクスはその歌声を頼りに歩きます。小川を超え、鬱蒼とした森を抜け、初めて足を踏み込んだその場所には、大きなお屋敷がありました。ですが、歌声が聞こえてくるのは、そのお屋敷からではありません。
大きなお屋敷の、大きなお庭──その、隅っこの方に、小さな離れがありました。その美しい歌声は、間違いなく、そこから聞こえておりました。
人間に見つからないように、こっそりと庭に忍び込んだエクスは、外に向かって開いている、離れの窓辺に歩み寄ります。真っ暗な部屋の中からは、まるで月光のように涼やかで、そよ風のように清らかな、女の子の歌声が聞こえてきました。
「……そこにいるのは、誰?」美しい歌声が止み、凛とした声が言います。「またご近所の子供たちなの?」
エクスは慌ててヴェールを被りました。
しかし、そうする必要はなかったのです。不自然に真っ暗な部屋の中を覗き込むと、その少女は窓辺のロッキングチェアに腰を下ろしておりました。その目は、エクスが先ほど泉の畔に埋めてあげた子兎のように、そっと伏せられておりました。
「それとも、新しい庭師さん?」
「……君は?」
「私はピオーティア」少女の顔は、声が聞こえる方へと向けられておりましたが、その目が開かれることはありません。「こんにちは、庭師さん」
「俺は庭師ではない」
「それなら、泥棒さん?」
「違う」
「じゃあ、あなたは一体誰なの?」
「エクス」
「エクス」
ピオーティアと名乗った少女は、エクスの名前を繰り返すと、ふふふ、と小さく笑いました。すると次の瞬間、エクスの心の中に、小さな炎が灯ります。それは、ゆらゆらと頼りなく揺れる、弱々しい炎でしたが、確かなあたたかさを感じるものでした。
「君はどうしてこんな暗い部屋の中にいるんだ?」
「どうして?」ピオーティアは小首を傾げます。「私は家族にとっての厄介者なの。だから、あの人たちの目に触れないために、ここにいるのだと思う」
「なぜ」
「目が見えないから」ピオーティアは平坦な声で言いました。「物心ついた頃から、ずっとここにいる。ある日突然連れて来られて、それ以来外に出たことがないの。ねえ、この部屋って、そんなに暗い? 私、気にしたことがないから、分からなかった」
「……まずは、部屋の覆いをすべて開けてみたらどうだ」
「そうね」ピオーティアは少しだけ考えるような素振りを見せてから、何もない空間に向かって、大きく頷いて見せました。「そうしてみようかな」
それからすぐ、庭に何者かがやって来る気配を感じたエクスは、ピオーティアにさようならも告げずに、その大きな屋敷の、小さな離れを後にしました。
ですが、人間たちが死の山と呼ぶ、魔物たちが住まう都に帰って来ても、エクスの頭の中は、なぜかピオーティアのことでいっぱいです。ピオーティアはエクスにとって、自分を見ても逃げ惑わず、まともに会話をしてくれた、初めての人間でした。
いいえ、エクスにも本当は分かっているのです。ピオーティアが自分と相対しても、叫ばず、逃げず、平然としていられたのは、彼女の目が見えていないからだと。
もしピオーティアの目が見えていたなら、きっと、他の人間と同じように、恐れ慄いた顔をこちらに向けるのだろうと思うと、エクスの心はほんの少しだけ、ちくりと痛みます。
その翌日、エクスは他の魔物たちが寝入る朝方に山を降り、森に咲いていた小さな白い花を根ごと引き抜くと、それを陶器のカップに植え替えてから、ピオーティアのいる離れを訪ねました。
未だ午前の光が差し込む時間帯ではありましたが、ピオーティアは既に目を覚まし、昨日と同じ窓辺のロッキングチェアに深く腰を下ろしておりました。
「おはよう、エクス」窓辺に立って影を作ると、ピオーティアは伏せていた顔を上げました。「見て、あなたが言ってくれた通りに、部屋のカーテンと窓をすべて開けてみたの。部屋の中を素敵な風が通り抜けて、とても気持ちがいい」
確かに、あんなにも暗かった部屋の中は、たっぷりの光で満たされています。青白く、不健康そうに見えたピオーティアの頬にも、ほんのりと薄桃の色が差して、昨日よりも気分が良さそうに見えました。
「これを」
「なあに?」
「贈り物だ」
「まあ、どうもありがとう」
エクスは窓越しにカップを差し出します。ピオーティアは、椅子に腰を下ろしたまま目一杯に両手を伸ばし、それを受け取ろうとしますが、上手くいきません。見兼ねたエクスは、自らの手を伸ばし、ピオーティアの手を捕まえます。そして、陶器のカップをピオーティアの手に握らせました。
「これは……なに? 何の匂い? 雨が降った後に窓を開けると、これとおんなじ匂いがする」
ピオーティアは両手で包み込んだカップを指先で撫で、鼻を寄せると、くんくんと匂いを嗅ぎます。
「土の匂いだ」
「これが土の匂い?」ピオーティアが土の匂いを熱心に嗅いでいると、その鼻先に、小さな白い花が触れました。「今度はなあに? お鼻がくすぐったい」
「ステルラリア・ネモルム」
「ステルラ……?」
「君たちの言葉ではウッドステッチワート。ハコベという花の仲間だ」
「お花は甘い香りがすると聞いたことがあるけれど、これは、そうね、朝の空気と同じ匂いがする」産毛の生えた茎が鼻に触れると、ピオーティアは小さく笑い声をあげ、頭上を仰ぎます。「どんなお花を咲かせているの?」
「子兎の耳のような形をした白い花びらが五枚寄り添っている」
「ウサギ?」
ピオーティアは兎を知りませんでした。
翌日、また同じようにピオーティアの元を訪れたエクスの腕の中には、真っ白な子兎が、優しく抱かれておりました。
「これがウサギなのね」膝の上で大人しくしている子兎を撫でてやりながら、ピオーティアは嬉しそうに言いました。「小さくて、あたたかくて、それに、とってもふわふわしている」
「この動物は耳が長い」
「ステルラリア・ネモルムの花びらとおんなじ」
「そうだ」
ふふふ、とピオーティアは笑います。
エクスは、この笑い声が、その笑顔が、とても好きだと思いました。
翌日も、更にその翌日も、エクスは毎日毎日、ピオーティアの元を訪れました。毎日何か一つ、素敵な贈り物を持ってやって来るエクスの気持ちに、ピオーティアは歌で応えます。
ピオーティアの歌声は、まるで水晶のように透き通っていて、夕暮れ時に降る雨のような穏やかさを覚えます。けれど、エクスには、その歌声がどこか物悲しくも感じられておりました。
「君はこの離れの外に出たいと思うことはないのか?」
ピオーティアの住む離れを、連日訪れるようになって一ヶ月ほどが過ぎた頃、エクスはずっと疑問に思っていたことを尋ねました。
「こんな狭苦しい場所に閉じ込められていて、窮屈だとは思わないのか」
「私、別に閉じ込められているわけではないのよ」ピオーティアは静かに答えます。「私は好きでここにいる。だって、出て行こうと思えば、きっといつでもそうすることができるはずだもの。でも、ここを出て行くとして、それから先は? どうやって生きていけばいいの? 私には分からない」
「……もし君の目が見えていたとしたら?」
「小さい頃は、そんなふうに想像してみたこともあった」ピオーティアはそう言いながら、窓の外から吹き込んでくる風に顔を向け、午後の光に丸い形の額を輝かせた。「私の目が、他の大勢の人たちと同じように見えていたら、どこか遠くまで旅に出てみたいと思ったの。この離れの外の世界は、私が想像する以上に広大で、華やかで、美しいところなんだろうなって、そう思っていた」
子供の頃の夢を語るピオーティアの表情は明るく、希望を感じさせるものでした。ですが、次の瞬間には、持ち上がっていた口角が下がり、唇が真横に引き結ばれます。
「でもね、私には世界の広さなんて分からない。私の内側に広がる世界のことしか知らない。この手の届く範囲だけが、私の世界のすべてなの」エクスはピオーティアの声に、ほんの一瞬だけ、死の山の凍える風のような空気を感じ取りました。「小さな段差も、絨毯と床の境目も、私が歩こうとするといつだって邪魔をする」
ピオーティアはいつも楽しそうに、エクスの話に耳を傾けておりました。自分のことを語るよりも、エクスの話を聞きたがっておりました。エクスには、ピオーティアが今どのような気持ちで話をしているのか、正しく理解することができませんでした。
「あなたが教えてくれる外の世界のことは、私にはよく分からないけれど、嫌いではないのよ。だって、あなたがお話ししてくれる外の世界は、きっと美しいって分かるから」
ピオーティアはもしかしたら、この離れの外の世界に恐れを感じているのではないかと、エクスは思いました。何かを新しく始めるということは、簡単なことではありません。もしそれが自分自身の中にある恐怖と対峙し、それを乗り越えなければならない問題なのだとしたら、克服するのはとても難しいことです。
「……外に出てみないか」
「え?」
「二人で、一緒に」
「あなたと、私で?」
「そうだ」
エクスの突然の申し出に、ピオーティアは驚いています。可愛らしい口をぽかんと開け、言葉をなくしてしまいました。
すると、エクスが言います。
「この屋敷の向こう側に、豊かな森がある。その森の中には、清らかな水を湛えた泉があるんだ。畔にはウッドステッチワートの花が咲いている。一緒に見に行こう」
「……あなたはとても優しいのね、エクス」ピオーティアはそう言うと、閉じたままの目のまなじりを、やわらかく下げました。「あなたが会いに来てくれるようになって、私、毎日が楽しくてたまらないの。こんなふうに明日を待ち遠しく思う日が来るなんて、思ってもみなかった」
「ピオーティア……」
「ああ」ふふふ、と震える声で笑いながら、ピオーティアは涙を流しています。「名前を呼んでもらえるって、こんなに嬉しいことだったかしら」
生まれながらに目の見えないピオーティアは、家族からも、使用人たちからさえ、厄介者扱いをされ続けておりました。優しく名前を呼んでもらえたことなどなかったのです。
「ありがとう、エクス」
そう言って泣きながら微笑むピオーティアを見て、この子はなんて美しいのだろうと、エクスは思います。それと同時に、なんとかしてこの子を救ってあげたいと、強く思いました。
しかしその翌日、エクスはピオーティアの元を訪ねることができませんでした。魔法の力の源である、魔石の採掘を行なっている鉱山で、大きな崩落事故が起こったのです。救出作業は夜通し行われ、太陽が東の空から顔を覗かせても、手を休める者は誰もいません。
怒号、悲鳴、阿鼻叫喚──手足が震えるような環境の中、エクスも一晩中働き続けました。運び出されてくる怪我人の傷を癒すのが、エクスの仕事です。
エクスは、火の魔法も、水の魔法も、地の魔法も、そして風の魔法も、使うことはできません。ですが、どんな傷もたちまちのうちに癒してしまう魔法の力がありました。
大変に貴重な、その癒しの力を持つ魔物を、皆は魔王と呼び、崇めておりました。心優しい『魔物のエクス』は、魔物の王だったのです。
三日三晩、エクスは同胞たちのために、休まず働き続けました。傷付いた仲間たちを癒し続けました。そして、最後の一人の傷を癒やし終えたときにはもう、エクスの意識は朦朧とし、自力では立っていられないほどに、疲れ切ってしまっておりました。残念ながら、疲弊したエクスを癒しげあげられる者は、誰もいません。
これは一大事だとベッドに運び込まれたエクスでしたが、はっきりしない意識の中、それでも思うのは、ピオーティアのことでした。
「ピオーティア……」
ああ、ピオーティアに会いたい。
エクスはベッドから起き上がると、ぐったりとした体を引き摺るように歩きながら、城を抜け出します。凍えるような風の吹き荒ぶ死の山を降り、未だ夜が明ける様子のない鬱蒼とした森を抜けて、ピオーティアがいる大きなお屋敷の、小さな離れを一心に目指します。
お屋敷の柵を乗り越えようとして、そこから転がり落ちても、エクスは足を止めません。ほとんど這うようにして離れに向かっていると、不意に、あの美しい歌声が聞こえてきました。
「ピオーティア……ピオーティ、ア……」
離れの外、いつもの窓辺の下まで這ってきたエクスは、か細い声で呼びかけます。何度も、何度も、ピオーティアの名前を呼びます。
「……誰?」キィ、と軋む音を立てて、いつもの窓が開きました。「エクス? あなたなの?」
「ピオーティア」
「エクス? どこ?」
ピオーティアの白く細い指先が、窓の外に伸ばされます。エクスは自らの腕を持ち上げようとしますが、その腕はなぜか鉛のように重く、ぴくりとも動きません。
「エクス、どこなの? どこにいるの?」
エクスはゆっくりと身を起こし、離れの壁に寄りかかると、大きく息を吐き出しました。呼吸を整え、いつもと変わらない素振りで、口を開きます。
「ピオーティア」エクスがその名を呼ぶと、ピオーティアは大きく息を呑みました。「すまない、君に会いにくることができなくて」
「ああ、エクス。私、ずっと心配していたの。あなたの身に何かあったのではないかって」
「俺は大丈夫だ、心配はいらない」
「私……私ね……」エクスが促すように相槌を打つと、ピオーティアは時間を掛けて次の言葉を口にします。「私の態度が煮え切らないから、あなたが愛想を尽かしてしまったのかもしれないって、そう思っていたの」
「……何の話だ?」
「エクスは私を外の世界に連れ出してくれようとしたのに、私がいつまでもはっきりしないから──」
「それは違う」エクスの目は酷く霞んで、見上げた満月が、ぼんやりとしか見えないほどでした。「外の世界が怖いのであればそれで構わない。君が抱いている感情は正しいものだ。俺が君に話して聞かせた多くのことは、この世界の残酷で醜いものから目を逸らした、一面的なものでしかない」
「……エク、ス?」
「君は、目が見えないから、その離れの外に出られないのではないはずだ、ピオーティア」エクスは、ぱちり、ぱちり、と瞬きをする度に、視界が狭まっていくような気がしておりました。「外の世界を知らないという恐怖心だけが、君の足を竦ませている。だが、君には他の多くの生物たちと同じように、強い好奇心がある。その好奇心さえあれば、外の世界へ旅立っても、君は前を向いて生きてけるはずだ」
「私、私は……」
「どこか遠くまで旅に出てみたいと、そう言っていただろう?」
「……うん」
「それなら、まずは、その離れの外に出るんだ」エクスは、喉から漏れる息の音を邪魔に思いながら、言葉を続けます。「ここまで、俺のところまで来られたら、君にまた贈り物をあげよう」
「贈り物?」
「ああ」
自分の体は、もう長くは持たないだろうと、エクスには分かっておりました。だから、この意識が失われる前に、ピオーティアに最後の贈り物をしたいと、そう思ったのです。
あまりに甘美な睡魔が、じりじりと足元から迫ってくるのを感じておりましたが、エクスは必死にそれと戦っておりました。ピオーティアがやって来るまでは、絶対に目を閉じることはできません。
「……エクス?」離れの壁に寄り掛かり、ぐったりとしているエクスの耳に、不安そうなか細い声が聞こえてきました。「エクス、どこにいるの?」
その心細そうな声は、いつもの窓辺から聞こえてくるのではありません。確かに、離れの外から聞こえてきます。エクスは最後の力を振り絞り、離れの壁から身を起こすと、その場にゆるゆると立ち上がりました。
「こっちだ、ピオーティア」
「ああ、エクス。私、とても怖い」
「大丈夫」
ピオーティアは壁に両手を這わせながら、地につけた足を震わせています。霞む視界の中、その様子を目の当たりにしたエクスは、今度こそ自らの手を、精一杯に差し伸べました。
「俺を信じて。怖いことなんて、何もない」
エクスは、ピオーティアがすぐそばまでやって来るのを、じっと待ちました。そして、ようやく手の届くところまで、覚束ない足取りでやって来たピオーティアの体を、優しく抱き寄せます。
「まあ、エクス」ピオーティアは驚きの声を上げました。「あなたの体、とても冷たい」
「夜風で冷えたんだ」
「早くあたたまらないと──」
「こうしていれば、あたたかい」
エクスはそう言ってピオーティアを抱き締める腕に、ほんの少しだけ力を込めます。あんまり強く抱き締めてしまうと、この小さく、やわらかく、儚い存在を、ぎゅっと押し潰してしまうような気がしたのです。
エクスが首筋に顔を埋めると、ピオーティアはくすぐったそうに首をすくめ、くすくすと笑いました。エクスはこの笑い声が、本当に大好きだと思いました。
「これがあなたからの贈り物なの?」
ピオーティアの両手がそっと背中に回されると、エクスの心の中は幸福感に満たされます。ですが、エクスからピオーティアへの贈り物は、これだけではありませんでした。
魔物の王には、傷を癒す力があります。エクスには最初から、ピオーティアの目を治す力があったのです。でも、そうすることをしませんでした。
もしピオーティアの目が見えるようになってしまったら、エクスは自分が魔物であるということを知られてしまいます。そうすれば、ピオーティアは他の人間たちと同じように、恐怖に戦慄した表情を、エクスに向けてくることでしょう。ピオーティアは正体を隠していた自分を嫌うだろうと、エクスは思ったのです。
それだけでは飽き足らず、エクスはこうも思っておりました。
他の人間たちにはどう思われようと構わない。いいえ、同胞である魔物からすら疎まれても構わないと、そう思っておりました。でも、ピオーティアにだけは、嫌われたくない──このまま、ピオーティアの目が閉じたままであれば、自分が魔物であることを知られずに済むと。
生まれてから今までずっと、魔王以外の何者でもなかったエクスにとって、ピオーティアは生まれて初めて出来た友達でした。会えば嬉しく、離れれば寂しい。エクスは、夜を迎える度に、朝の訪れを待ち遠しく思っておりました。エクスは次第に、ピオーティアを愛するようになり、その思いは、独占欲へと形を変えはじめていたのです。
ピオーティアの目がこのまま治らなければ、ピオーティアが永遠にこの離れの中に閉じ込められていれば、ピオーティアに近づく人間が他にいなければ、ピオーティアに優しくする者が自分以外にいなければ──そうすれば、きっと、ピオーティアはもっと自分だけを求めてくれるようになるだろうと、エクスは思っておりました。
ピオーティアの目は一生見えないままでいい。
ほんの一瞬でも、そんなふうに思ってしまったことを、エクスは酷く恥じておりました。
三日三晩、傷ついた同胞たちを癒しながら、エクスは考えていたのです。
傷が癒えた同胞たちは皆一様に、感謝の言葉を口にします。でも、だからといって、彼らが自分を愛しているかといえば、そうではないのだと。畏敬の眼差しを向けられる度に、自分と他者との違いを思い知らされ、諦めにも似た気持ちになるのです。
自分を産んだ親だから、愛してくれるわけではない。傷ついた体を癒したから、愛してくれるわけでもない。いくら努力をしても、エクスは誰の一番にもなることはできませんでした。
魔王と呼ばれているから、癒しの能力が唯一無二のものだから、他に変えのきかない存在だから、同胞たちはまるで愛するように、優しくしてくれていたのです。
その思いに嘘偽りはないのでしょう。
でも、エクスはただ純粋に、愛されたかったのです。
だからこそ、エクスは世界の外側に愛を求めました。この広い世界のどこかになら、自分を一番に愛してくれる誰かがいるかもしれないと、そう思ったからです。
けれど、愛というものは非常に厄介なものでした。誰かを深く愛すれば愛するほど、自分を見失うような感覚に見舞われ、エクスを酷く困惑させたのです。
大切だから、守りたい。
ですが、守りたいから閉じ込めるという考え方は、ピオーティアをあの離れに閉じ込めていた家族たちの考え方と、何が違うというのでしょう。
大切だから、愛しているから、心配だけれど、どうか自由になってほしいと、エクスはそう思ったのです。自分が魔物だと知られてしまっても、それによって嫌われようと、疎まれようと、エクスの気持ちは変わりません。
「君に俺の光をあげよう、ピオーティア」
「え?」
「君を愛しているよ」エクスはそう言うと、ピオーティアの閉じた両方の瞼に、代わる代わるキスをしました。「さあ、目を開けて」
「エクス──」
「ほら」
ピオーティアは目の開け方を必死で思い出そうとしていました。長年伏せられていた瞼を押し開くことは、そう簡単なことではありません。月光を浴び、星屑のようにキラキラと輝く睫毛が、小刻みに震えます。
ゆっくりと、時間をかけて、ピオーティアは目を開きました。それでも、満月の月明かりがあまりに眩しく、うっすらとしか開くことができません。
「……エクス?」
浮かび上がる大きな輪郭。燃えるような真っ赤な髪に、大きな角。こちらを愛おしそうに、慈しむように見る優しげな緑色の目に、優しげな微笑みを湛えた唇──ピオーティアの目の前にいたのは、息を呑むほどに美しい、人ならざる者の姿をした、エクスでした。
「……あなたなのね?」
「ピオーティア」
「あなたがエクスなのね」ピオーティアは震える両手で、エクスの頬を包み込みます。「ああ、なんて美しいの」
生まれながらにして目の見えなかったピオーティアが、初めて目にしたものは、魔物の王、エクスでした。
そして、魔物のエクスが最期に目にしたものが、最愛の人、ピオーティア。
魔物のエクスは、三日三晩、献身的に同胞たちの傷を癒した後、最後の力を振り絞って、ピオーティアの目を開かせました。そして、ついには力尽き、その場に倒れ込んでしまいます。
「エクス!」
膝から崩れ落ちる体を支えようとしますが、ピオーティアの体ごと、エクスは土の地面の上に横たわりました。
エクスは苦しそうに呼吸をしながら、それでも微笑んでおります。急いでその場に起き上がったピオーティアは、何かを握り締めているエクスの手に、自らの手の平を重ねました。
「エクス、大丈夫? 気分が悪いの? ああ、私、どうしたら──」
「ピオーティア」夜空の星を映し込んだ緑の目が、ピオーティアの不安そうな顔も映し取っています。「大丈夫だ、すぐに楽になる」
「ここは冷えるから、そう、離れの中に入りましょう。立ち上がれる? いいえ、立ち上がれなくても、私が背負っていってあげる」
「ピオーティア」
「暖炉に火を入れてあたたまれば、じきに──」
「ピオーティア」不安を押し隠すように話し続けようとするピオーティアの言葉を、エクスは半ば強引に遮りました。「これが俺からの最後の贈り物だ」
「……最後の?」
「受け取ってくれるだろう?」
ピオーティアの手の平が添えられていた拳が、そっと開かれます。すると、その中には、エクスの目と同じ色をした宝石と、月明かりを浴びて光り輝くクリスタルのフェロニエールが握られておりました。
「鉱山で見つけた緑玉の欠片で作ったんだ」
「とても綺麗」ピオーティアはフェロニエールの上から、エクスの手を握り締めます。「ありがとう、エクス。大切にする」
「ピオーティア」
「なあに?」
「俺は君に嘘を吐いていた」
「嘘?」
「俺は、魔物なんだ」
「……うん」
「醜い、魔物だ」
「ううん」ピオーティアは大きく首を横に降りました。「あなたより美しいものを、私は他に知らない」
真っ直ぐにピオーティアを見つめていた目が、ゆっくり、ゆっくりと、静かに閉じられていきます。ピオーティアは、その琥珀色の目に溢れんばかりの涙を湛えながら、エクスの手を自らの方に抱き寄せました。
「ピオーティア」
「ここにいるよ」
「ピオーティア、名前を……」
「エクス」そう言って震える声を聞いて、エクスは目を閉じたまま、仕方がなさそうに微笑みました。「エクス、私もあなたが大好きよ……あなたを、あなただけを愛してる」
ですが、ピオーティアの愛の告白に応える声はありません。
すべての力が失われたエクスの手が、ピオーティアの両手から逃れるように、ぱたり、と倒れます。手の平のフェロニエールは、しゃらり、と儚い音を立てて滑り落ち、土の地面で丸くなりました。
「……エクス? エクス、エクス、エクス!」
戸惑い、疑念、確認、そして、悲観。
ピオーティアはエクスの体を揺さぶりますが、いくら待っても返事はありません。なぜこんなことになってしまったのか、ピオーティアには理解することができませんでした。
ピオーティアはエクスの胸に顔を埋め、夜の間中、わんわんと声を上げて泣きました。しかし、泣いて、泣いて、間もなくして空が白んできた頃、ピオーティアは何かに気付き、徐に顔を上げます。
すると、そのとき、どこからともなく冷たい風が吹いてきて、その風が渦となり、二人をぐるりと包み込みました。
『我が王をお返しください』風が静かに言いました。『どうか、どうか』
「誰なの?」
『王をお返しください』
風はピオーティアの体を軽く押し退けると、エクスの体をふわりと浮かび上がらせ、その体を連れ去ろうとします。ピオーティアはその場に立ち上がり、宙に浮かぶエクスに向かって手を伸ばしますが、細い指先は虚しく空を切りました。
「待って、その人を連れて行かないで。お願い」
しかし、風はピオーティアの言葉には一言も応じず、そのまま、エクスの体を連れ去ってしまいました。
ゆっくりと、着実に、空は白んでいきます。もう間もなく、世界は朝を迎えるでしょう。魔物のエクスが連日待ち望んでいた朝日が、顔を覗かせようとしていました。
ピオーティアの足元には、エクスからの最後の贈り物が、きらりと輝いておりました。
静寂の中から、啜り泣く声が聞こえてくる。
演じる者が誰一人いなくなった玄関ホールは、異様な空気に包まれていた。かくいうレオナール・ゴダンも、階段脇にあるカメラの後ろに立ち尽くしたまま、その場所から一歩も動き出せずにいた。
ほんの一時間か、一時間半にも満たない時の経過の中で、ただの空想とは思えない世界を突きつけられ、どっと疲労感が押し寄せてくる。ちょっとした芝居を見ただけのはずが、誰かと誰かの密やかな営みを盗み見たような罪悪感と悲壮感に、心が支配されていた。
「……エクス、死んじゃったの?」ずずず、と鼻を啜りながら、先頭に座っていた姉妹の妹が、声を震わせながら言った。「せっかくピオーティアの目が見えるようになったのに……」
希佐とミシェルが演じる予定だった『魔物のエクス』は、このような結末を迎えるものではなかった。円満な結末を迎える物語だったはずだ。それなのに、希佐とアランが歩ませたエクスとピオーティアの物語は、子供に向けて行われる舞台の演目としては、あまりに悲観的だ。
だが、酷く美しいものを見たと、ゴダンは思う。
そう思いながら劇の余韻に浸っていると、風の役としてシーツを被り、アランを抱き抱えて廊下の向こうへと消えていったはずのベネディクトが、肩をぐるぐると回しながらゴダンのところまでやって来た。
「いやあ、さすがに野郎を抱き抱えるのは体に堪えます」子供たちに聞こえないよう、ベネディクトはこそこそと囁いてから、ゴダンを見て小さく笑った。「へえ、レオでも人並みに感動して泣いたりすることがあるんですね」
「君は僕をなんだと思っているんだい?」
「あなたが好きなのは自然の造形美だけだと思っていました」
「人体もまた自然が作り上げた造形美の一種だよ」
「俺とミシェルが同じものを演じたところで、あなたは涙を流したりはしませんよ、絶対に」
そんなことはないと否定することは容易いが、自分の右腕を相手に取り繕う必要はないだろう。まさしく、ベネディクトの指摘通り、他の誰が同じ演目を演じたとしても、微塵も涙はこぼれないに違いない。
今回はどういうわけか、琴線に触れたのだ。
「ここで結末を迎えるのが、アラン・ジンデルの脚本って感じですよね」ベネディクトは苦笑いを浮かべながら言う。「まあ、今回は、彼女がそれを許さなかったみたいですけど」
「彼女?」
「キサですよ」廊下の方を気にしながら、ベネディクトは続けた。「子供たちを暗い気持ちのまま帰すのは忍びないって。確かに、あいつの『魔物のエクス』では、子供の心に遺恨を残しかねませんからね」
おっ、と小さく声を上げたベネディクトは、低く手を挙げ、廊下の方に向かって小さく頷いた。ベネディクトは今度、ピアノの前に座っているミシェルに向かって、何か合図のようなものを送っている。
ゴダンが廊下の方へ目を向けると、こちら側に顔を覗かせていた希佐と、意図せず視線が合わさった。
ああ、顔つきが違う。
そこにいるのは、立花希佐ではない。
それは紛れもなく、ピオーティアだった。
あれから数年の時が過ぎ去りました。
あの大きなお屋敷の小さな離れに、ピオーティアの姿はありません。
離れの扉には鍵が掛けられています。暗かった室内を光で満たしていた窓も、カーテンも、固く閉ざされたまま、その離れはただ静かに、大きなお屋敷のお庭の隅っこに、今も変わらず佇んでおります。
ある日、片田舎にある小さな町に、見慣れない一人の女性がやって来ました。その女性はにこにこと愛想が良く、気さくで、余所者には厳しい地元の人々すら、すっかり虜にしてしまいました。
「こんな田舎に、あんたみたいな別嬪さんが、一体何をしにやってきたんだい?」町の食堂で食事をしていると、ある狩人の男がそう声を掛けてきました。「ここは魔物の国との境界にある、危険な場所だ。とはいえ、最近は魔物の姿を見ることもなくなったがね」
「魔物はいなくなってしまったんですか?」
「さあ。俺は職業柄良く森に入るが、ここ数年はとんと見かけないな。自分から好んで死の山に入るやつはいないし、連中が今もあそこで暮らしているのかどうかは、誰も知らないんじゃないのかねぇ」
「そうですか」
町から少し外れた場所にある大きなお屋敷は、しばらく前から売りに出されているそうです。もう何年も手付かずのまま放置されているので、外壁には蔦が伝い、所々がぼろぼろになっています。
そこに住んでいた数人の住人は、どこか遠くの土地に越していったという話です。その家に暮らしていた盲目の娘が行方不明になったことで、悪い噂が立ち、ここにはいられなくなったということでした。
女性は、その大きなお屋敷の小さな離れを、懐かしそうに眺めておりましたが、程なくすると、森に向かってゆっくりと足を進めました。途中、街道から獣道に外れましたが、小さな白い花を目印に進んだので、無事に泉まで辿り着くことができました。
泉の周囲には思っていた通り、小さな白い花が一面に咲いております。女性はその場にしゃがみ込むと、嬉しそうに笑い、小さな花を軽く指先で突きました。
「ステルラリア・ネモルム」それはかつて、とある魔物が教えてくれた、呪文のような花の名前です。「本当に兎の耳みたいな形をしている」
町の様子も、そこに住んでいる人々も、少しも変わってはおりません。それなのに、誰一人、この女性がピオーティアであることに気がつきませんでした。きっと、ピオーティアという名前を聞いても、はて、そんな娘はいただろうかと、首を捻るに違いありません。
どこか遠くまで旅に出たいと話していたその言葉通り、ピオーティアはこの数年間で、いろいろな土地を旅して回りました。
美しいもの、醜いもの、思わず目を逸らしたくなってしまうもの──様々なものを目にしてきました。路銀を手に入れるために、あくせく働くこともありました。
新しい生活は楽しいことばかりではありませんでしたが、それでも挫けずにいられたのは、かつてピオーティアの目に光を与えてくれた人が、いつも心の中にいてくれたからです。つらくなったときはいつも、最後の贈り物を胸に抱いて、多くの夜を乗り越えて来ました。
目が見えるようになり、あの小さな離れの外側の世界で生きていくようになりましたが、ピオーティアの心はいつまで経っても、あの離れでの日々に囚われていました。
暗い部屋の中、誰にも見向きもされず、人との交流を絶たれていた日々を思い出すことはありません。ですが、魔物のエクスと出会ってからの日々を思い出さない日はありませんでした。
ピオーティアは、その手に握り締めていたフェロニエールを胸に抱き、泉の畔に立ちました。この場所には、確かにエクスがいたのです。この水面に自らの姿を映し、ぼんやりと物思いに耽ることも、あったのかもしれません。そう思うと、ピオーティアの胸は、酷く締め付けられます。
自分を愛していると言ってくれた、世界で一番優しく、美しい魔物。
あなただけを愛していると言ったピオーティアのその声が、届いていたのかは分かりません。でも、届いていればいいなと、ピオーティアは思うのです。
目を閉じると、自分は今でもあの離れの窓辺で、ロッキングチェアに腰を下ろしているのだと、そう錯覚することがピオーティアにはありました。そして、午前の光の中、エクスが現れるのです。
『ピオーティア』
何度も、何度も自分の名前を呼んでくれたその声が、耳の奥にこびりついて離れません。ほんの一ヶ月だけの秘密の逢瀬は、その後の人生に後遺症を残すほど、ピオーティアの心に深い傷を負わせました。ですが、その傷口から感じられる、甘い疼きのような痛みは、ピオーティアに切なさの他にも、幸福を与えてくれているのです。
どうか、どうかエクスに届きますようにと祈りながら、ピオーティアは泉の畔で歌います。毎日の贈り物のお礼に歌を歌うと、エクスはただ静かに、耳を傾けてくれていたことを思い出します。ピオーティアの閉じた目のまなじりに、じんわりと涙が滲みました。
そして、その涙が雫になり、頬を伝って、ピオーティアの顎から泉に落ちたそのとき、その声は聞こえてきました。
「ピオーティア」
その声に、この名前を呼んでもらえる日を、どれほど待ち望んでいたことでしょう。何日、何ヶ月、何年もの間、ピオーティアは待ち続けておりました。あの日、あの夜、あの夜明け、まだエクスの心臓が弱々しくも鼓動を繰り返していると、そう気づいたあの刹那から、ずっと、ピオーティアは待っていたのです。
「……なあに、エクス」
「約束を忘れたのか?」以前と変わらない声が、どこか不貞腐れたように言います。「一緒に泉を見に行こうと約束をした」
「ええ」ピオーティアは、ふふ、と小さく笑いました。「ええ、そうだった」
ピオーティアは目を閉じたまま、後ろを振り返りました。エクスが近づいてくる足音を聞きながら、両手を差し伸べます。その息遣いが分かるほど、すぐそばまでやって来ると、エクスはピオーティアの手を取りました。
「目を開けて」
初めてのときほど、目を開けるのは、そう難しいことではありません。
ピオーティアは目を開くと、琥珀のような色をした穏やかな眼差しで、目の前にいるエクスの顔を見つめます。
「君なんだね」腰に添えられたエクスの手が、ピオーティアの体を、そっと引き寄せました。「ピオーティア」
「エクス」
本来、人間と魔物は相まみえて生きていくことのできる種族ではありません。生きるのに適した環境が違えば、生き方も、考え方も、何もかもが違います。悠久の時を生きる魔物に比べれば、人間の寿命など、瞬く間に過ぎていってしまいます。それでも、誰かを愛するという感情だけは、どのような生き物にも普遍のものです。
エクスは、ピオーティアが握り締めているフェロニエールに気がつくと、それをそっと取り上げて、自らの目と同じ色をした宝石を、ピオーティアの額に飾ってあげました。
「エクス」愛おしげに細められる眼差しを受け止めながら、ピオーティアは言います。「ずっとあなたに伝えたいことがあったの」
「俺が伝えたかった言葉と同じだろうか」
「そうだといいな」
ピオーティアはエクスの手を取ると、その手を口元に運び、甲に優しく唇を押し当てます。そうしてから、頭上を振り仰ぎ、エクスの美しい緑色の目を、真っ直ぐに見つめ、こう言いました。
「私は、今までも、これからも、あなただけを愛してる」
これから先も、この泉は、二人の逢瀬の場所となるのでしょう。
魔物と人間、決して結ばれることの許されない間柄であったとしても、二人の思いは、永遠に変わらないのです。歌い、踊り、時には共に眠って、夜を迎える度に、朝を待ち遠しく思います。
これが、魔物のエクスと、人間の女の子、ピオーティアの物語です。
小さな公演会が終わりを迎えると、玄関ホールは子供たちのあたたかな拍手に包み込まれた。胸に手を当て、軽くお辞儀をするアランの隣で、希佐は深々とカーテシーをしてみせる。すると、その二人の姿を目の当たりにした引率の若い女性が、その場にすっくと立ち上がり、大号泣をしながら大きな拍手を送ってくれた。その近くに座っていた少年は、その様子を半ば呆れたように見上げていたが、カーテシーから顔を上げた希佐と目が合うと、僅かに頬を赤らめ、すっと目を逸らしてしまう。
「ミシェル」
拍手が続く中、ピアノの前でほっと胸を撫で下ろしていたミシェルに、アランが声を掛けた。滞ることなく『魔物のエクス』を終えることができて、安堵していたのだろう。ミシェルは急に名前を呼ばれて、びくりと肩を震わせていた。
「えっ、はい、なんですか?」
アランが何も言わずに手招くと、ミシェルは辺りをきょろきょろと見回してから、そろそろと二人の元までやってくる。
「ベネディクトさんも」
「俺はいいよ」
「だめです」
希佐がそう言うと、ベネディクトは渋々という様子で前へ出てきた。本日の出演者四人が横並びになると、アランは自分の右隣にいるミシェルに声を掛ける。
「主宰、挨拶」
「えっ? わたしがですか?」ミシェルはとんでもないというふうに、大きく頭を振った。「いえ、ここはジンデルさんが……ほら、主演ですし、脚本も演出も、音楽まで担当されていますし……」
「これは君が言い出したことだろ」
「えええぇ……じゃ、じゃあ、分かりました、一言、二言だけ……」
一歩前に足を踏み出したミシェルが小さく咳払いをすると、玄関ホールには再び静寂が訪れる。全員の視線が自分に集まるのを感じたのだろう、うわあ、と小さく漏らしてから、意を決したように口を開いた。
「ほ、本日は、ええと、ご来場いただき、誠にありがとうございます」
「お前、本番より緊張してるだろ……」
「仕方ないじゃないですか。公演後の挨拶を任されるなんて、生まれて初めてのことなんですから」
「いいから肩の力を抜けよ」
そうしてミシェルとベネディクトが言い争っていると、どこからともなく子供たちのくすくす笑う声が聞こえてくる。ミシェルは一瞬だけ恥ずかしそうに首を竦めるが、子供たちのおかげで緊張がほぐれたのか、その表情は先ほどよりも明らかに和らいでいるようだった。
「今回の公演は当初、こちらの、最前席にいる二人のために計画したものでした。ですが、今日はこれだけたくさんのお客さんの前で公演を成功させることができて、私たちはとても嬉しく思っています。見に来てくださって、本当にありがとうございます」
希佐の隣に立っているベネディクトは、子供相手に固いねぇと、どこか呆れた様子を窺わせていた。
「どうですか? 面白かったですか?」ぱちぱちと鳴る拍手に、ミシェルはにこりと嬉しそうに笑っている。「今はネット環境さえあれば、映画や音楽などのエンターテイメントに困ることはありませんが、実際、こうして生の演劇に触れるためには、多くの場合、劇場に足を運ばなければなりません。より多くの人に見てもらいたいと思っても、演劇は他のエンターテイメントに比べると、ハードルが高いと思われてしまいがちです。まず劇場を調べて、チケットを買って、当日は公演に間に合うように、時間を逆算して家を出る──映画や音楽のように、観たい、聴きたいと思ったときに、すぐに手に入れられるものではないんですよね。でも、直接劇場に足を運んで、自分の目で見て感じる舞台からは、何物にも代え難い感動を得られるものです。ああ、でも、舞台は相性なので、必ずしも好きになる必要はないと思います。だけどもし、今日の『魔物のエクス』を見て、演劇に興味が湧いたり、いつか自分も何かを演じてみたいな、なんて思ってもらえたら、わたしはすごく嬉しいです」
ミシェルは長々とした口上を、どこか興奮気味に、捲し立てるような口振りで言う。しかし、口をぽかんと開き、唖然とした様子で自分を見ている子供たちの様子に気がつくと、あっ、と声を上げ、ごまかすように苦笑いを浮かべた。
「す、すみません、つい、嬉しくなっちゃって」あはは、と困ったように笑いながら、ミシェルは肩越しに希佐を振り返る。「あ、あの、希佐さんは何かお話ししたいこと、ありませんか?」
「私ですか?」
「選手交代、よろしくお願いします」
「えっ、あ、はい」
希佐は隣に立っているアランの顔色を窺ってから、その場から後退したミシェルに代わって、一歩前へと足を踏み出した。自分を見つめる子供たちの眼差しを順番に見渡しながら、口にするべき言葉と、するべきではない言葉を、取捨選択する。
「今日は、魔物のエクスと人間の女の子、ピオーティアの物語を最後まで見届けてくださって、本当にありがとうございました。皆さんが二人の出会いと別れ、再会を目の当たりにして思ったこと、感じたことには、正解も、不正解もありません。ですが、二人の物語が皆さんの心の中に、そっと種を残し、そう遠くない未来に芽吹きを経て、泉の畔に咲くステルラリア・ネモルムのような、綺麗なお花を咲かせてくれることを願っています」
希佐はゆっくりと、落ち着いた口振りでそう言ってから、アランのことを軽く振り返る。アランは希佐と目を合わせると、小さく首を横に振った。どうやら、なにがなんでも自分で挨拶をするつもりはないようだ。
正面に向き直った希佐は、キラキラとした眼差しで自分とアランを見比べるように見ている姉妹の妹に微笑みかけてから、先を続けた。
「エクスはこう見えても恥ずかしがり屋の口下手なので、ミシェルさんと私が、代わりにご挨拶をさせていただきました。どうか、今日という一日が、皆さんの良き思い出になりますように。そして、また機会がありましたら、どこかでお会いできることを楽しみにしています」
お芝居なんて全部嘘の話だと誰かが言った。
確かに、多くはフィクションとして創作されたものにすぎないのかもしれない。だがしかし、お芝居を見て思ったこと、感じた気持ちは間違いなく本物で、それによって揺り動かされた感情は、多かれ少なかれその人の一部になると希佐は信じている。
『たとえ叶わなくても構わない。それでも僕は、夢を選ぶ』
舞台人、立花継希が舞台上で口にしたこの台詞が、立花希佐の心にそっと種を植え付けていった。そして、その種はユニヴェール歌劇学校で確かに芽吹き、花を咲かせ、こうしている今、過渡期を迎えようとしている。
レオナール・ゴダンの計らいで、姉妹と施設の子供たちには、食事が振る舞われる運びとなった。先日、希佐とゴダンが夕食を共にしたレストランを貸し切りにしたらしい。それを聞いた子供たちは大喜びだ。大勢がゴダンの周りに集まって、早く早く、と急かすようなことを言っている。
「俺はもう横になりたい」
アランは大口を開けてあくびを漏らしながらそう言うと、その場で踵を返そうとした。しかし、リビングに引き返そうとした足が、くい、と後ろに引かれ、アランは表情もなく後ろを振り返る。
「……エクス?」そこにいたのは、姉妹の妹だった。「もう大丈夫なの?」
一瞬、アランはどうしたものかという表情を浮かべたが、僅かに顔を逸らしてから小さく息を吐き出したかと思うと、妹の前に跪いた。正面から視線を合わせると、妹は酷く心配そうな顔をして、アランの緑の目を覗き込む。
「……大丈夫?」
「ああ」アランはそう言って頷くと、妹が差し出していた手を取った。「大丈夫だ、心配はいらない」
「エクスとピオーティア、これからはずっと一緒にいられる?」
「……君はどう思う?」
「分かんない」妹はそう答えつつも、少し考えてから、再び口を開いた。「分かんないけど、でも、この先もずっと二人が幸せだったらいいなって思った」
アラン・ジンデルが描こうとした物語の結末を変えてしまったのは希佐だ。大衆向けに演じられる舞台であれば、死が二人を別つ物語であっても構わないと思った。だがしかし、今回の観客は子供たちだ。姉妹の妹が幸福な気持ちで、笑って帰ることのできる内容でなければ、今日の催しを計画した意味がない。いつか自分も演じる側に──その夢を持ち続けてもらうためには、妙なトラウマを植えつけるわけにはいかないと、希佐はそう思った。
だから、初めて口を挟んだのだ。
この三年間、一度としてアラン・ジンデルが創造した世界に口出しをして来なかった、あれほどまでに従順だった希佐が初めて、反旗を翻した。
アランが選んだ結末の方が美しいのかもしれない。だが、子供たちには、月明かりのような絶望よりも、太陽のような希望の光を浴びてほしいと、強く思う。少なくとも、今はまだ。
「君が幸せであってほしいと願うなら、二人は永遠の幸せを生きられる」
「……どういうこと?」
「君はシンデレラや白雪姫の物語を知っているか?」
「うん、知ってる」妹はアランの言葉に真剣に耳を傾けていた。「最後は二人とも王子様と結婚して、幸せに暮らすんだよ」
「そうだ」
「エクスとピオーティアも結婚する? エクスは魔物の王様なんでしょ?」
「シンデレラや白雪姫は王子と結婚したあと、どんな暮らしを送っていると思う?」
「知らない」
「そう、物語のその後の話は、誰も知らない」アランは妹の手をやわらかく握ったまま、普段通りの口振りで続けた。「だから、自由に想像して構わないんだ。泉での再会を果たしたエクスとピオーティアが、これから先、どのような暮らしを送るのかは、君自身が決められる」
「でも」もじもじとしながら何かを言い淀んだあと、妹は希佐をちらりと見上げてから、再びアランの目を見つめた。「エクスはピオーティアとこれからもずっと一緒にいたいって思うよね?」
「……ああ、そうだな」
アランが思いの外子供好きだということを希佐は知っている。ミゲルとの関係性を見ていれば、それは明らかだ。どこかぶっきらぼうに思えても、基本的には相手の意見を尊重し、人間同士、対等な付き合い方を心掛けているように見受けられる。相手が子供だからと蔑ろにすることもなく、同じ目線に立ち、同じ世界を見ようとする。
希佐は、アランのそういうところが、大好きだった。
「なんか、ごめん」少し離れたところからアランたちを見守っていると、姉がどこか申し訳なさそうに声を掛けてきた。「妹の話に付き合ってもらってるみたいで」
「ううん、大丈夫」希佐はそう言って首を横に振ってから、姉に向き直った。「さっきはどうもありがとう」
「え?」
「あなたのおかげで劇を始めることができたから」
「ああ、なんだ、そんなこと」姉は少し照れた様子で頭を掻きながら、希佐から目を逸らした。「気にしないでよ、大したことじゃないから。ああいう悪ガキの相手は慣れてるんだ。子供が調子に乗って悪ぶるのはさ、周りの大人に注目されたいからなんだよ。自分だけを見て欲しくて甘ったれてんの。まあ、気持ちは分からないでもないけど」
「そうだね、私も気持ちは分かる」
「あたしもちょっと言い過ぎたし、ちゃんと謝っておかないとな」
ピオーティアを窓辺の椅子までエスコートしてくれた、エズラという名の少年は、その乱暴な言動に反して、希佐の手をとても優しく握ってくれた。まるで、壊れ物を扱うかのように。無理に強がって見せるのは、自らの意に反して成長し続ける心に抗うための、苦肉の策なのかもしれない。
『何言ってんの? 俺たちまだ子供なんだけど』
日本の、ユニヴェールの近くにある教会で出会った子供たちの中には、酷く大人びている子もいた。彼らは子供であると同時に、大人のような一面も持ち合わせている。わざと子供っぽく振る舞うことで、帳尻を合わせているように見えることが、度々あった。
それは、希佐自身にも、身に覚えがあることだ。
「そういえば、今日はお父さんも一緒にいらしていたんだね」
「あ、うん。ベネディクトとミシェルが是非にって言うから。今はレオナール・ゴダンと話してる。でもあの人、相手が世界的な写真家だって知らないかも。映画とかも全然興味ないみたいだし」
早く、早くとゴダンを急き立てることに飽きてきた子供たちが、次に照準を定めたのは、姉妹と話をしている希佐とアランだった。
わらわらと集まってくる子供たちに、ミシェルは「わあ」と吃驚したような声を上げる。既に玄関ホールの後片付けに取り掛かっていたベネディクトは、こちらに一瞥をくれるが、表情を和ませながら小さく肩をすくめるだけだ。
「うわあ、この角、マジで本物みたい」
「ねえ、オニーサンの目って本当にその色?」
「赤毛の人って世界に一、二パーセントくらいしかいないんだって」
「緑色の目をした怪物って知ってる?」
とりわけ男の子たちに集られていたアランが、跪いていた状態から腰を上げると、その身長の差に驚きの声が上がった。アランは、男の子たちに取り囲まれて困っている妹のために道を開けさせると、背中をそっと促して姉の元に戻らせていた。
「ピオーティア、目が見えるようになって本当によかったね」
「お歌上手だったよ!」
「ダンス素敵だった〜」
「その額のお飾り、見せて見せて!」
たったっと急ぎ足で戻ってきた妹を尻目に、施設から来た女の子たちは希佐の周りに集まってくる。興味津々で額の飾りに手を伸ばした女の子は、髪に留め付けていたピンごと、フェロニエールを持っていってしまった。
「あ、待って、それは──」
「ちょっと見せてもらうだけだってば」
女の子はそう言うと、窓ガラスに自分の姿を映し、小さな頭にフェロニエールを載せようとする。だが、希佐の頭の大きさに合わせて作られたそれは、そのまま小さな頭を通り抜け、首飾りのように胸元を飾った。
女の子はそれが気に入らないらしく、どこかむっとした面持ちで、ガラスに映る自分の姿を見ている。
希佐は周りの女の子たちに「ありがとう」とお礼を言ってから、胸元でエメラルドを輝かせている子の元へと歩いて行った。女の子はフェロニエールを取り上げられると思ったのだろう、絶対に渡さないと言わんばかりにぎゅっと握り締め、希佐を睨んだ。
「それを頭に載せてみたかったの?」希佐は腰を屈め、女の子の顔を覗き込む。「長さを少し調節したら上手く載せられるかもしれないよ」
希佐はそう言いながら、自らの手の平を差し出し、そこにフェロニエールが載せられるのを待った。少女は難しい顔をしていたが、自らの首からフェロニエールを外し、それを希佐の手に渡してくれる。
「後ろを向いてくれる?」
希佐は女の子に向かってそう言うと、万が一にも失くされてしまっては困ると思いながら、ヘアピンを引っ掛け、エメラルドの部分のテグスを切った。クリスタルが抜け落ちてこないようにテグスを結び直し、それを女の子の頭に載せると、自分の頭に残っていたピンも使い、髪に留めつけてやる。
「わあ、ありがとう」
「他の子と順番でね」
「はーい」
キラキラと輝くクリスタルを頭上で輝かせながら、女の子は嬉しそうに飛び上がっていた。希佐は手の平の中にエメラルドの存在を感じながら、子供たちと話をしているアランの様子を横目に窺う。
アランが、エクス、エクスと声を掛けられている様子を見て、希佐は加斎中と共に『魔物のエクス』を演じた日のことを思い出していた。
あの日も、飛び入りで『魔物のエクス』を演じたあと、エクスを演じた加斎は、周りを子供たちに取り囲まれて、まるでヒーローを見るような眼差しを向けられていた。
加斎中が演じたエクスと、アラン・ジンデルが演じたエクスは対照的とも言える演技だったが、どちらも同じくらい魅力的だったと、希佐は思う。
だが、加斎と演じたあとには感じられなかった、演技後の余韻とも何か違う、引きずられるような感覚が、アランとの間にはあった。一瞬でも気を抜けば、相手に飲み込まれてしまうのではないかという恐怖感と、常に隣り合わせだった。それは青白く灯る、凍るように冷たい炎か何かのようにゆらゆらとゆらめいて、美しく、蠱惑的でありながら、畏敬の念を感じさせるものだった。
希佐が「わたしも、わたしも!」と入れ替わり立ち替わりにやってくる子供たちの頭に、フェロニエールを載せてあげていると、その様子を見ていたゴダンがすぐさまやって来て、ポラロイドカメラで一人一人の写真を撮ってくれた。
写真を撮ってもらうために、我も我もと長蛇の列を作った子供たちを捌き終え、最後の男の子の頭にフェロニエールを載せていると、ゴダンのスマートフォンが着信音を鳴らす。
「──ああ、分かった。どうもありがとう、すぐに向かうよ」ゴダンはそう言って通話を切ると、子供たちに向かってにこりと笑いかけた。「さあ、子供たち、お待ちかねのディナーの準備が整ったそうだよ」
わあ、わあ、と子供たちから歓声が上がる。ゴダンはスマートフォンをポケットにしまいながら、ベネディクトの方に軽く目配せをした。
「では、騒がず、急がず、仲良く、順番に、外のバスに乗り込んでくれるかな」
「じゃあ、お兄さんについてきてくださーい」
「はーい、オジサンについていきまーす」
「おっ、誰がオジサンだって? 喧嘩売ってんのか?」
「なんだよ、現実を受け入れろよ、オッサン」
「そうそう、生きてりゃそのうち誰でもオッサンになるんだからさぁ」
「お前ら、あいつのことはお兄さんって呼んでただろうが」
ベネディクトがそう言ってアランの方を指差すと、子供たちは指された方向を皆一様に振り返る。小さく肩をすくめるアランと、ベネディクトを見比べた子供たちは、これ見よがしに大きなため息を吐いてみせた。
「そりゃ、エクスはなぁ」
「あの人はオニーサンだし」
「そういうところだよ、オッサン」
まあまあ、気を落とすなって──ベネディクトはそう子供たちに励まされながら玄関を出ていく。笑っていいのかどうかも分からず、苦笑いを浮かべながらその背中を見送っていると、傍に立っていた男の子が希佐の手を引いた。
「ねえ」
「あ、ごめんね、先に写真を撮ってもらおうか」
「あのさ」希佐はすぐに、その声に聞き覚えがあると感じた。「その、写真……」
「うん?」
「……一緒に、撮りたいんだけど」
「私と?」ばつが悪そうにしながら、それでも上目遣いにこちらを見上げてくる少年を見て、希佐は笑みを深めた。「もちろん、喜んで」
ゴダンは何も言わずに二人が並んだ写真を撮影すると、カメラが吐き出したフィルムを男の子に差し出した。男の子は、ありがとうと言いながら、まだ表面が真っ黒なフィルムを受け取る。
「彼女と話をしたいのなら、もう少しここに残るかい?」もじもじとしている男の子を見て、何かを察したようにゴダンは言った。「ここの後片付けをしなければならないから、それが終わってからでよければ、僕がレストランまで連れて行ってあげるよ。歩いて五分ほどの距離だ」
どうするかと問われ、男の子は僅かに逡巡するような様子を見せてから、何度か小さく頷いた。ゴダンは男の子の意思を尊重するように頷き返すと、引率の女性のところまで事情を説明しに向かう。
「キサ」
「なに?」
差し出された手の平の意味をすぐに理解し、希佐は握り締めていたエメラルドを手渡した。アランはポケットからチェーンを取り出すと、その場でエメラルドを通し、希佐の後ろに回り込んで首に掛け直してくれた。
「ありがとう、アラン」
「ん」
メイクを落としてくると言って、アランは男の子を一瞥してから、今度こそリビングの方に引き上げていった。希佐が男の子の方に向き直ると、外から戻ってきたゴダンが、こちらに向かって声を掛けてくる。
「君から目を離したと知れたら、自分は院長からこっ酷く叱られると言って怯えていたよ」ゴダンは面白そうに笑いながら先を続けた。「だから、彼女は何も聞かなかったし、見なかったことにするそうだ。君は今、あのバスに乗り込んで、他の皆と一緒にレストランに向かっている」
「それって……」
「ご馳走がなくなってしまう前に、僕が責任を持って君をレストランまで送り届けるから、心配はいらないよ。それまではここでゆっくりするといい。今のうちに写真と映像のチェックもしておきたいから、一時間は掛かると思うけれど、それでも構わないかな?」
「うん」
「では、そうするとしようか」
ゴダンはそれ以上何を言うでもなく、ベネディクトが片付けきれなかった機材の後片付けに取り掛かった。本来なら手伝いを買って出るべきなのだろうが、ゴダンがこちらに向かってこっそりと片目を瞑るのを見て、希佐は男の子と視線を合わせる。
「それじゃあ、向こうで座ってお話をしようか──エズラ」希佐がそう呼びかけると、男の子は少し驚いたような顔をしてこちらを見上げた。「そう呼んでも構わない?」
「……いいけど」
「ありがとう」
希佐が先立って歩き出すと、エズラは黙ってその後ろをついてくる。何か飲み物でも用意しようとキッチンに足を踏み入れると、そこにはメイクを落としてくると言っていたはずの、アランの姿があった。
「あれ、どうしたの?」
「喉が乾いたから」それなら水があるのに、という言葉を飲み込み、希佐はエクスの姿をしたまま紅茶の用意をしてくれていたアランを見て、小さく笑う。「座ったら」
アランは希佐の後ろに立っているエズラに向かってそう言ってから、砂時計の砂が落ちきるまで蒸らした紅茶を、ポットからカップに注いだ。希佐が肩越しに後ろを振り返ると、エズラは難しい顔をして、アランのことを観察していた。
「エズラ、どうぞ座って」
「うん」
希佐はミルクジャグとシュガーポットをテーブルに並べ、戸棚の中にある缶から取り出したクッキーを一枚だけエズラのソーサーに乗せて、向かい側の椅子に腰を下ろした。アランは紅茶を入れるだけ入れると、何も言わずにダイニングから出ていった。
「お芝居は楽しめた?」琥珀色の液体の中に、砂糖とミルクを入れているエズラにそう声を掛けると、小さな頷きが返ってくる。「そう、よかった」
「……でも、変な感じがした」
「変な感じ?」
「自分も物語の中にいるみたいな。作り物の話なのに、本当の話みたいに感じた」
「それは、あなたもあの物語の一員だったからじゃないかな」希佐はカップの柄を掴み、紅茶を一口だけ飲んだ。「エズラのエスコートはとても優しくてスマートだったよ」
「……芝居は、年に一回劇団がやってきて、人形劇を見させられる」
「そうなんだ」
「その人形劇が、毎回聖母マリアの子供で、正直みんな飽き飽きしてたんだ。でも、院長はせっかくの好意に文句を言うなって」
「人形劇は専用の人形や小道具を作るのにお金が掛かるから、頻繁に新しいレパートリーを増やすのは難しいんじゃないのかな」
「オレが施設に来る何年も前からいるやつも、聖母マリアの子供以外の人形劇は観たことがないって言ってたから、そういうことなんだと思うけど」
移動式の人形劇用の舞台は高額だ。最近では文化が廃れつつあると聞く。昔ながらの人形劇の劇場では、その文化を継承していくために、新たな人形師や繰り手の育成を行なっているそうだ。
だが、今の若い子供たちから見れば、人形劇など退屈極まりないものなのかもしれない。
「俺がいた頃も、聖母マリアの子供の人形劇だったな」
メイクをすっかり落とし、隠していたそばかすを露わにして、アランはダイニングに入ってくる。顔を洗いにキッチンに向かう間際、そう言い残していったアランの言葉に、エズラは「えっ?」と小さく声を上げた。
「彼も子供の頃に、あなたたちと同じ施設にいたことがあるんだって」
「そうなの?」
「大昔の話だけど」アランはじゃぶじゃぶと顔を洗い、肩に引っ掛けていたタオルで水気を拭っている。「確か一年もいなかったと思う。君よりもずっと幼い頃だ。でも、聖母マリアの子供の人形劇のことは、よく覚えてる」
「そんなに印象的だったの?」
「いや、恐ろしくて」
「……恐ろしい?」
「今はどうか知らないけど、俺が見た人形劇では年代ものの人形が使われていて、それがあまりにリアルだったから、煤けた小さな人間が糸に吊られて歌って踊らされてるって、半ば本気で思ってた」
「分かる。あれ、初めて見たときはかなり怖かった。怖すぎて泣き出すやつもいるし」
「へえ」
人形劇といえば、子供の頃に教育テレビで見たことがある程度だった希佐にとっては、あまりピンとこない話だ。だが、二人揃って恐ろしいというくらいなのだから、相当なインパクトがあるのだろう。
まるで意気投合したかのように、訥々とでも話し続けている二人の様子を眺めていると、エズラが不意に質問を投げかけた。
「人形劇の劇団はアマチュアって話だけど、二人とか、他の人たちはプロの役者なの?」
「プロの定義にもよる」子供相手に何を言っているのだと思いながら、希佐は隣に座っているアランの腕を肘で小突いた。「役者として稼いでいて、それで生活ができているのはキサだけだ。俺はもう何年も前に役者としては終わってる。ピアノを弾いていた彼女と、もう一人の男は、元々は舞台志望だったけど、今は主に映画関係の仕事をしてるそうだ。プライベートでは舞台に立ったり、ワークショップを開いたりしてるらしいけど」
「エクスは──」
「アラン」
「……アランはなんの仕事をしてるの?」
「今はとりあえず脚本家を名乗ってる」
「なにそれ」
「劇団を率いてるから、脚本の他にも舞台演出を手掛けたり、作詞作曲や衣装デザインをすることもある。小説も何冊か書いた」
エズラは真剣な面持ちでアランの話に耳を傾け続けている。そして、少しの間黙り込んでから、再び口を開いた。
「アランは施設で育ったんだろ? どのくらいまで施設にいたの?」
「生まれた日に捨てられて、それから五年間」
何でもないことのように話すアランと、そんなことは大して珍しくもないという顔で話を聞いているエズラを見て、希佐はただ、このまま黙っていることだけが正解のような気がしていた。
「五歳で引き取られた?」
「俺の場合は」エズラの表情が僅かに曇ったのを、アランは見逃さなかったようだ。「年齢を気にしてるのか」
「オレは育ちすぎてる」
「ある程度の年齢を重ねた子供を望む大人もいる」
「あんたはオレみたいなクソガキを引き取りたいと思うわけ?」エズラはアランの顔をじっと見つめ、その表情に微かな不快感を滲ませた。「あんたが五歳で引き取られたのは、見た目が良かったからだろ」
「否定はしない」
「この年齢になっても引き取られていくのは、女か見目の良い男だけだって言われてる。オレは成人するまでずっと、あの施設の中に閉じ込められて生きていくんだ」
「引き取り手が現れたとしても、その先で幸せになれるとはかぎらない」
「あと十年近くもあんなところに縛り付けられているよりマシだ」
「気持ちは分かるよ」アランはあくまでも淡々とした口振りで続けた。「俺は、施設に送り戻されるくらいなら、どんな仕打ちも耐えられるって思ってた」
「嫌な家に引き取られたの?」
「教会だよ、牧師の家。その牧師はろくでもない男だったけど、あいつが俺を施設の外に連れ出してくれた」
「それって皮肉?」
「その家の中に救いはなかった。外の人間との出会いが俺には救いだったんだ。更に皮肉なことに、俺とその外の人間とを引き合わせたのも、この牧師だった」
「神の思し召しってやつじゃん」どこか大人びた口調でそう言うエズラを見て、アランは小さく肩をすくめている。「でもさ、そういう人との出会いってやつは、施設の外に出ないと巡り会えないんだ」
「ここは施設の外だろ」
「え?」
「君がどんな出会いを求めているのかは知らない。自分を引き取ってくれる人間との出会いだけを求めているのなら、俺は君の力にはなってやれない。でも、外との繋がりを求めているのなら、多少は力になれる可能性がある」
「……力になれるって、どんな?」
「それは俺が決めることじゃない」アランはそう言うと、着信音を鳴らしているスマートフォンをポケットから取り出した。「失礼、少し外す」
アランはどこか面倒そうに小さく息を吐き出してからそう言うと、椅子から立ち上がり、後は任せるとでも言うふうに希佐の肩に手を置いてから、ダイニングを出ていった。
エズラの視線は、ダイニングを出ていくアランの背中に向けられている。
レオナール・ゴダンが何のために施設の子供たちを招いたのか、希佐にはその真意が掴みきれずにいた。当初は希佐とミシェルが『魔物のエクス』を演じるはずだったが、ゴダンの目にはその時から、別の未来が見えていたのかもしれない。もしかしたら、アランの感性を刺激するための策だったのではないかと邪推もしたが、多分、そうではないのだ。
恐らくは、施設の子供たちのために、彼らをこの小さな公演会に招いたのだろう。アラン・ジンデルの姿を見せるために。
「エズラは施設の外に出られれば、他に望むことはないの?」
「……オレは早く外の世界に行きたい」
「それだけ?」そう繰り返し問う希佐を、エズラは少し煩わしそうに見た。「これは私個人の考えだけれど、施設の外に出たいという気持ちだけでは、あまり上手くはいかないと思う。あなたのそれは、外に出ることだけが目的になってしまっているから。たとえ施設の外に出られたとしても、こんなはずじゃなかったって、そう思うことになるかもしれない」
「だったら、どうしろっていうの?」
「簡単なこと──ではないのかも。多分、あなたにとっては」思いの外早く戻ってきたアランは、電源を切ったらしいスマートフォンをテーブルの上に置きながら、同じ場所に腰を下ろした。「例えば、別の目的を見つける。施設の外に出て、何をしたいのか。いずれにしても、あなたは成人を迎えれば施設を出られる。遅かれ早かれ、あなたの目的は果たされる。でも、その先は? 学校へ行きたいとか、もっと別のことをしてみたいとか、イギリスの外の世界を見てみたいとか。学ぶにしても、働くにしても、あなたの意思が定まらないと、力を貸すことは難しいのかもしれない」
「そんなこと、急に言われたって……」
「そうだよね、ごめん」
希佐は何の目的もないままユニヴェールから逃げ出し、飛行機に飛び乗って、アイルランドのダブリンに降り立った。いや、違う。実際はユニヴェールから逃げ出すことが目的だったのだ。だからこそ、貴重な時間を無駄に浪費してしまった。今、この手の中にあの二年間を取り戻すことができるのなら、やりたかったことはたくさんある。
「……アランは施設にいた頃から今の仕事をしたいと思ってた?」
「いや」
「夢は?」
「なかった」アランはそう言いながら、左の方向に目線を動かした。「でも、音楽には漠然とした興味があった。施設でベートーベンの月光を聞いてピアノを弾きはじめたし、支援者からの招待で出向いたホールで讃美歌を聞いて、自分でも歌うようになった。音楽を仕事にしようとは思ってなかったけど、その経験は今でも生きてると思う」
子供たちが施設で暮らしている理由は様々だ。アランのように生まれたときから暮らしている子もいれば、イライアスのように家庭の事情で預けられる子、両親を亡くし、親戚を頼れずに連れてこられる子もいる。目の前の子供を相手に、なぜ施設で暮らしているのかと問うことは酷だ。だがしかし、彼らが施設で暮らす理由の多くは大人にある。
子供たちにとっては大きなお世話なのかもしれないが、それでも、そこへ救いの手を差し伸べるのもまた、大人の役割なのではないかと希佐は思っていた。
エズラは、一度も手をつけないまますっかり冷めてしまった紅茶の水面を見下ろし、何か物思いに耽っている。希佐とアランは顔を見合わせるが、互いに口を噤んだまま、エズラが口を開くのを静かに待った。
「……すごいって思ったんだ」五分ほど黙りこくっていたエズラが、ぽつりと言った。「だって、そこには何もないはずなのに、花も、兎も、確かに二人の手の中にあるように見えて……それが不思議で……」
「私たちのお芝居を真剣に見てくれたんだね」
ありがとう、と言う希佐をちらりと見やり、エズラは鼻の頭を掻いた。
「人形劇を見たときは、芝居なんかつまらないって思った。でも、今日の芝居は、何かが違うって感じたんだ。もっと観たい、もっと知りたいって。自分がその芝居の一部になってるような感じが、こう、わくわくするみたいな……」
「実際の劇場であんなことをしたら、本当につまみ出されてただろうけどな」
「……ごめんなさい」
「俺にも身に覚えのあることだから、あまり強くは言えないけど」アランはテーブルに頬杖をつき、エズラをじっと見つめる。「芝居に興味を持つのは良い。挑戦してみるのも悪くはない。でも、それだけに固執するのは考えものだ」
「さっきは目的を持てって言ったくせに」
「時期尚早なんだ。今は君の思考のすべてが施設の外に出るという目的に向かって直結してる。ある程度の時間が過ぎて、それでも朝から晩まで芝居のことしか考えられないようなら、そのときは目的だって言えるかもな」
「ある程度の時間ってどのくらい?」
「さあ。一週間か、一ヶ月か、一年か──」
「あんた意地が悪いな」
「良く言われるよ」じっとりとした目に睨みつけられても、アランはあっけらかんとしていた。「プロを目指すにせよ、趣味の範囲内で活動するにせよ、生半可な気持ちで足を踏み入れられては困る世界だ。それは大人だろうと、子供だろうと変わらない」
「……じゃあ、どうしろっていうの?」
「芝居には引き出しが必要だ。生活のすべてが芝居の糧になる。施設で暮らした経験のある子供なんてそういないから、それが君の強みになるかもしれない」ぎゅ、と顔を顰め、途端に不快そうな表情を浮かべたエズラを見て、アランはシニカルに笑った。「君が今日観たものは芝居の最も儚く美しい表面的な部分でしかない。その裏側のどろどろとした部分を目にしないで済むのなら、それに越したことはないよ。ただ純粋に舞台を楽しみたいなら、こちら側には来ない方がいい」
「それはやめとけってこと? それとも、オレを煽ってる?」
「煽ったつもりはないけど」
「けど?」
「もしそう聞こえたのだとしたら、君自身に何か思うところがあるということじゃないか」
「……もっと具体的に言ってくれないと、大人の言うことは良く分からない」
怒っているような、いじけているような、悔しがっているような口振りでぶつぶつと言うエズラを見て、笑ってはいけないと分かっていても、希佐は思わず笑みをこぼしてしまった。ムッとして唇を尖らせる顔を見て、希佐は「ごめんね」と謝る。
「お芝居の世界は楽しいところだよ。もちろん、アランが話したことも間違いではないのだけれど、最初は難しく考える必要はないと思う。せっかく興味を持ってくれたんだから、やれることからはじめてみたらどうかな」
「やれることって?」
「私はね、あなたくらいの年の頃に、演劇ごっこっていう遊びをしていたんだ。お兄ちゃんと、幼馴染の友達と私の三人で、日が暮れるまでずっと」
「演劇ごっこ……?」
「私とアランが今日演じてみせた『魔物のエクス』みたいに、それぞれが役割分担をして、その役になりきって即興劇をするの。即興劇が難しかったら、読んだことのある本や、観たことのある映画の登場人物になりきって、演技をしてみるのも良いと思う。施設の子たちの中で、お芝居に興味を持ってくれた子を集めて、一緒に試してみると楽しいかもしれないよ」
「……うん」
「本を読め」アランの具体的な提案は実に簡潔だった。「歌を歌って、運動をしろ。勉強を面倒くさがるな」
「それ、施設で毎日やってることだけど」
「もっと真剣に」アランは頬杖をついていた格好から佇まいを正し、一拍置いてから先を続けた。「施設の中で暮らしていても、本を読むことで世界は広げられる。歌は歌えて損をすることはない。運動は健やかな身体作りに欠かせないものだ」
「勉強は?」
「本を読んでそれを理解するためには知識が必要だろ。楽譜を読むことができれば、練習次第では楽器を自由に弾くこともできるようになる。君のところの施設にはピアノがあったはずだ、それを弾かせてもらうといい」
「でもあのピアノ、気持ち悪い音がする」
エズラがそう言うと、アランは一瞬沈黙してから、小さく頷いた。
「近いうちになんとかする」アランは、はあ、とゆっくり息を吐き出した。「施設の図書室、今はどうなってる?」
「ぼろぼろの本ばっかりだよ」
「分かった」
がしがしと頭を掻いたかと思うと、アランは椅子から立ち上がった。「こっち、来て」僅かに頭を傾け、アランはエズラについて来るように促した。「キサも」
「あ、うん」
さっさと先に行ってしまうアランの背中を見ていたエズラは、複雑そうな顔をして隣に立っている希佐を見上げた。
「あの人、優しいのか意地が悪いのか、よく分からない」
「そうだね」
「でも」苦笑いを浮かべる希佐から、玄関ホールに向かう背中に視線を戻し、エズラはその目を僅かに細める。「あんたを見るときは、エクスがピオーティアを見るときみたいな、優しい目をするよ」
アランはピアノの前に腰を下ろすと、指先を鍵盤の上で走らせた。その音色を聞いたエズラは、目をきらきらと輝かせ、たたっとピアノに駆け寄っていく。
「やっぱり気持ち悪くない!」
アランはエズラに対して、君には絶対音感があるとは、決して言わなかった。ただ、一音ずつ丁寧に音階を教え込みながら、腹式呼吸や喉の開き方などの指導を、本当に軽くだが、合わせて行なっている。
過去、ミゲルにピアノを教えていた経験が生きているのか、もしくは、自分自身が劇団時代に教えられたことを、同じように教えてやっているのか。いずれにせよ、その教え方はジョシュアと比べても、何ら遜色がないように感じられた。
エズラはまるで、初めて自分の理解者を得られたかのような、初めて気の合う仲間を得たかのような顔で、アランの横顔を見やっていた。
「君の一番好きな歌は?」
「好きな歌?」
窓の外からは、もう間もなく日の入りを迎えようとしている太陽の光が室内に差し込んでいる。あたたかくて、やわらかい、世界を包み込むような優しさを感じさせる、穏やかな光だ。
「讃美歌なら、アメイジング・グレイスが一番好きだけど」
刹那、時が止まったかのような沈黙のあと、アランの目が希佐に向けられた。希佐は琥珀色の目を見開き、確信に近い思いを抱きながら、少しだけ泣きたいような気持ちになる。
一度目は、三年前の雨の日の教会で。
二度目は、ミゲルが弾くパイプオルガンの音色に乗せて、誰もいない広いホールのステージで。
そして、これが三度目だ。
イギリスにやって来て、アメイジング・グレイスを歌う度に、人生の転機を迎えているような気がすると、希佐は思う。
アラン・ジンデルと『魔物のエクス』を演じ、息を吐く暇もないまま、今、こうしている。自らの考えも、気持ちも、何一つ整理できてはいない。ただこうしているだけで、時間は過ぎていく。刻一刻と、その瞬間に抱いた煌めきが失われていくように感じながら、それでも、目の前の少年を無視することはできなかった。
希佐はなぜだか、このエズラという少年に、小さなラファエルを見ているような、そんな気持ちにさせられていた。意味のないことだと分かっていても、この少年が救われることで、アランの心の中にいる小さなラファエルも救われるのではないかと、そんな気がしている。
だが、そうすることはただの自己満足なのではないか──ふと、希佐の脳裏にそのような思いが過り、ほんの一瞬、思考が停止した。これはただの偽善でしかないのか。
そうではないと、希佐は内心で首を横に振る。
もう既に答えは出ているはずだ。
立花希佐はこの国にやってきて、多くの人たちに助けられてきた。救われてきた。手を差し伸べられてきた。果たしてそれは偽善だったのか。いや、間違いなく違うだろう。
だから、自分が与えられてきたすべてのことを、他の誰かへと受け渡したい。これは、偽善でも、慈善でもない。希佐なりの恩返しなのだ。
「私もアメイジング・グレイスが好きなんだ」
こんなに思い入れのある歌は他にない──希佐がそう思いながら口を開くと、アランの方を向いていたエズラが後ろを振り返った。
「一緒に歌ってくれる?」
「……いいの?」
「もちろん」
一度目は、この上ない絶望の果てで。
二度目は、史上の幸福のさなか。
三度目は、いずれ迎える終演に思いを馳せながら。
肉体と心が滅び、この命が尽きたとしても、私には次の世で得るものがある──きっと、すべてが悪いことばかりではない。
種を蒔けば、恵みの雨が降り注ぎ、花は咲くだろう。花は枯れても、清らかな風が吹けば、遠い地まで新たな実りを運んできてくれる。
教会へ足を運ぶたびに祈るのは、どうか、大切な人たちがこれからも幸せでありますように。健やかでありますように。笑顔でいられますように──今思えば、自分のことを思って祈ったことがないような気がすると、希佐は思った。
日が暮れた頃、玄関ホールの後片付けを終え、とうに写真と映像のチェックも済ませていたはずのレオナール・ゴダンは、二人がアラン・ジンデルの伴奏でアメイジング・グレイスを歌い終えると、そろそろ時間だよと、エズラに声を掛けてきた。
「もう?」
エズラは眉を顰め、希佐とアランの顔を代わる代わるに見上げるが、もう少しここに居てもいいよ、などと無責任なことを言えるわけもない。
希佐は、エズラの頭に載せたままだったフェロニエールを外してやると、クリスタルの粒を一つだけ取り外し、それを手の平に握らせた。
「ピオーティアはあなたとお友達になりたがってた」クリスタルを握り締めている小さな拳に、希佐は自らの手の平をそっと重ねる。「私も、エズラとお友達になりたいんだ。私とお友達になってくれる?」
「子供と大人が友達になれるの?」
「友達に年齢は関係ないよ、エズラ」そう言ったのは、少し離れた場所から二人の様子を見守っていたゴダンだった。「君から見れば僕はおじいさんだろうが、これでもアランやキサとは友人だ。少なくとも、僕はそう信じている」
希佐はそう断言してくれたゴダンを見て目を丸くしたあと、にこりと笑い、大きく頷いてみせた。
「はい、レオと私はお友達です」
「ありがとう、キサ」
にこにこと笑う二人をどこか呆れたように見ていたアランも、わざわざ友情を否定するような言葉は口にしない。ただ、答えを促すような眼差しを、エズラに向けている。
エズラは少しの間視線を巡らせていたが、最後には希佐の目をじっと見つめると、自らの拳に添えられた手の平の上に、もう一方の手を重ねてくれた。
「……別に、良いよ。友達になってあげても」
「じゃあ、すぐにお手紙書くね」
「え?」
「今度施設まで遊びに行ってもいい?」
「あ、ああ、うん、いいと思う。面会とか、あるし……手続きをすれば、外出とか、外泊とか、できるみたいだし……」
恥ずかしそうに肩をもじもじとさせながら言ったエズラの顔と耳が、みるみるうちに赤く染まっていくのが分かる。そのかわいらしい仕草に希佐がくすりと笑うと、エズラは唇を尖らせ、上目遣いにこちらを睨んだ。
「Pinky swear.」希佐がそう言って右手の小指を差し出すと、エズラは少しだけ躊躇ってから、意を決したように自らの小指を絡めた。「I give you my word.」
「I'll keep waiting.」
いつか、同じ年頃のミゲルやエリザベスに合わせてあげたい。きっと、気が合うと思うから──希佐がそのように思っていると、隣に立っていたアランが、エズラの眼前に一枚の紙を差し出した。
「俺からはこれを」
「なに、これ」
「俺の名刺」希佐から手を離したエズラは、目を丸くしたまま、名刺を受け取っていた。「裏に電話番号を書いておいた。何かあっても、何もなくても、連絡してきていいから」
「……うん」名刺を覗き込むように顔を伏せたエズラの頭を、アランは少しだけ乱暴に撫でている。「ありがと」
それからすぐ、エズラはゴダンに連れられて屋敷を出て行った。
一人だけ特別扱いをして、周囲から非難されないだろうかと希佐が心配そうに漏らすと、アランは肩をすくめながら踵を返す。
「あいつはクリスタルのビーズを一粒と、紙切れを一枚押し付けられただけだよ。それでも見つかったらうるさいだろうから、上手く隠すはずだ。レオだって言い訳くらい用意してやってるだろ」
希佐とアランは、子供たちの後を追って、レストランに向かうことはしなかった。『魔物のエクス』を観劇したあとの余韻に浸っているかもしれない子供たちの前に、その役を演じた二人が姿を現せば、物語の結末に水を差してしまうだろうと考えたからだ。
二人はそれぞれの部屋でシャワーを浴びたあと、キッチンに集合して、冷蔵庫にあるもので夕食を作った。その間、互いの口から『魔物のエクス』の話題が出ることはなかった。
「明日、何時頃に帰る?」
希佐が思い出したようにそう問うと、アランは咀嚼していた鶏のハムを飲み込んでから口を開いた。
「何か用事があるの」
「ううん、なにも。ジョシュアにはさっき連絡をして、もう一日だけお休みをもらったから」
「彼、なにか言ってた?」
「面白いことをしてるねって」希佐はそう言ってから、あ、と小さく声を上げる。「朝日はどうする? 見に行ってみる?」
「天気予報を見てない」
「一応晴れにはなってるよね」スマートフォンの画面を覗き込んでいると、不意に、アランが席を立ったときのことを、希佐は思い出した。「そういえば、さっきの電話は誰からだったの?」
「スペンサー」
「え?」
「君の家出はバレてない」途端に顔を強張らせた希佐を見て、アランは言った。「あの人が裏で画策してるのを察して、別口のプロデューサーからいろいろと探りを入れられているらしい。そろそろ胃に穴が開くんじゃないかな、あいつ」
「ここに来たこと、後からでも話しておいた方がいいと思う?」
「必要ないよ」
「でも」
「君はこれまで通りに稽古を続けている。あいつの注文通りに事が運んでいれば、文句はないはずだ」
「それはそうかもしれないけれど」
「君はあいつに対して恐怖心があるの」
「恐怖心というか」希佐は常温の水で喉を潤してから続けた。「あの人を怒らせたくないなとは思ってる」
「それは恐怖と同義だ」
違うと言い切れないのは、セント・パンクラス駅での映像が拡散された日のことと、チャリティーイベントの件を一蹴された日のことを思い出すたびに、きゅ、と胃が縮こまるような思いがするからだ。
何をするにもまずは許可をと、スペンサーは言っていた。だが、希佐が少しの間だけでもロンドンを離れたいのだと言ったら、スペンサーはそれを許しただろうかと、考えてしまう。
「あまり感情的になるなと、改めて釘を刺しておくよ」隣に座っていたアランは希佐の顔を覗き込むと、唇の端に引っ掛かっていた髪の毛を払いながら言った。「君は文句も言わずによくやってる。でも、次からは不満を溜め込まないで、その都度吐き出してくれると助かるんだけど」
「不満があったわけじゃない」
「ルイに誑かされた」ああ、この人はルイからすべての話を聞いているのだと思い、希佐はそっと頭を振る。「君も俺も、必要なときに言葉を呑み込むことがある。その悪い癖が度々問題を引き起こしてきた。だから、俺はこれからも思ったことを口にするように努力するし、君も我慢する必要はない」
「私は我慢なんてしたことないよ」
「それでも君は察するだろ」
それはアランだって同じだという言葉を、希佐は直前のところで呑み込んでしまう。これが悪い癖かと、そう思っていることが顔に出ていたのか、その表情の変化を見逃さなかったアランの目が、物言いたげに細められた。
今までは、相手のことを思うばかりに、口を噤むことを選んできた。だがこれからは、相手のことを思うからこそ、本心から思っていることを伝えるべきなのかもしれない。
「分かった」そう言って、希佐は小さく息を吐いた。「私も努力する」
以前までは、アランの心のどの部分までなら踏み込んでも良いのか、希佐には分からなかった。何か間違ったことを口にしてしまえば、この人の心の最も柔らかい場所を傷つけてしまうかもしれないと思い、自らの言葉が鋭利な刃物に成り代わることを恐れていた。瘡蓋で覆われているだけの傷口を抉るような残酷な言葉が、どこに転がっているかも分からなかった。
自分の心の傷のことを、まるで他人事のように、何でもないことのように話す人だからこそ、いつだって判断が難しかった。下手を打つくらいなら、口を噤んでいた方がよかったのだ。
今、何を思い、何を感じているのか。
こちらを見る眼差しから、肌に触れる指先からも、そうしたものを感じ取ることができる。だが、本当の意味で理解するには及ばない。自らの真意は言葉にしてはじめて、相手の心根に届く。そう、改めて強く思い知らされている。
ゴダンが屋敷に帰ってきたのは、午後八時少し前のことだった。ミシェルとベネディクトは、ゴダンに遅れること数十分、アルコールと割引された惣菜を閉店間際のマーケットで買い込んで戻ってきた。
「打ち上げしようぜ、打ち上げ」
アルコールが詰め込まれた紙袋を抱えながら言うベネディクトを見て、アランは殊更不快そうな面持ちを浮かべると、食事の片付けを終えたばかりのキッチンを出て行こうとした。
「俺はもう寝る」
「はあ?」
ベネディクトは信じられないという顔をし、キッチンの出入り口に立ちはだかって、その場でアランの足止めをした。後ろからキッチンに入ってこようとしていたミシェルが、突然歩みを止めたベネディクトの背中に顔面を衝突させ、痛そうに鼻をさすっている。
「おいおい、待てよ、オニーサン。そりゃねぇだろ、付き合い悪いぞ」
「疲れた」
「疲れてるのは知ってる。お疲れさん。でも、お前たち明日にはロンドンに帰るんだろ? 俺らはまだもう少し撮影を続けるし、休暇の最後の夜くらい、ちょっとくらい羽目を外してもいいだろうが」
「寝る」
「へえ、ふうん、そうかい。分かったよ」それならさっさと寝ちまえよと言ってから、ベネディクトはキッチンの中を覗き込み、希佐の姿を探した。「キサは付き合うだろ?」
「はい、喜んで」
「じゃあ、キサは借りるからな」
明るく元気に「おやすみ」と言い放ったベネディクトは、アランの体を押し退けるようにしてキッチンに入ってくる。ミシェルはどうしたものかと狼狽えていたが、軽く会釈をすると、黙ってベネディクトの後を追いかけた。
「ラフロイグがなかったんで、代わりにラガヴーリンを買ってきましたよ、レオ」merciと言う声が、リビングの方から聞こえてきた。「そうだ、キサはウイスキー飲める? 一応エールも買ってきたんだけど、悪酔いしそうなら無糖のサイダーもあるし、好きなように飲んでくれていいから」
「癖の強いウイスキーがお好きなんですか?」
「レオがね」抱えていた紙袋の中から数本の瓶を取り出し、ベネディクトは僅かに小首を傾げて見せる。「なんだ、意外に詳しいの?」
「パブで働いていたことがあるので」
「ああ、そっか。ヘスティアで働いていたんだっけ。あそこはスコッチの品揃えも豊富だからなぁ」
「わたし、グレンモーレンジィのラサンタが好きなんです」
「女性のお客様がよくお飲みになっていました」
希佐は、酒に弱くもないが、強くもない。ある程度付き合ったら、あとは水を飲んでお茶を濁そうと考えていると、本当にキッチンを出ていくアランの背中が、ふと目に入る。アランは人目も憚らずに大欠伸をしていたが、希佐の視線に気がつくと、ひらひらと手を振ってからその場を後にした。
「彼には車の運転があるからね」リビングの方からやって来たゴダンが、フォローするようにそう言った。「早めに休んでおきたいのだと思うよ」
「それにしたって早すぎますよ」
「ここへ来てから、ほとんど寝ずに今日の準備をしていたので、本当に疲れているのだと思います。すみません」
「いやいや、キサが謝るようなことじゃないだろ。ま、寂しくなったらそのうち戻ってくるだろうし、気にせずはじめよう」
体には心地の良い疲労感があった。だが、今ベッドで横になったとしても、そのまま眠れるとは到底思えない。白い天井を見上げながら、どうしようもないことを考えているよりも、ここでお喋りをしていた方がずっと楽しいはずだと、希佐は思った。
「それにしても」ダイニングに四人が揃って腰を下ろし、思い思いの酒を嗜んでいると、不意にベネディクトが声を上げた。「なんていうか、この週末は本当にあっという間に過ぎていったよなぁ」
「はい」既にほろ酔いといったふうのミシェルが、にこにこと笑いながら相槌を打つ。「こう、具沢山のスープって感じでした」
「……それはどういう意味だ?」
「すごく贅沢だったってことですよ」分からないかなぁと零しながら、ミシェルは豪快に袋を破いたままテーブルの上に置かれているナッツを、親指と人差し指の先で摘み取った。「あのアラン・ジンデルの脚本、演出、音楽でお芝居をすることができたなんて、天にも昇る思いです」
「そんなもんかね」
「その上、この目で演技をしている姿まで見られるなんて、至高の瞬間でした──とはいうものの、実は本番のことはよく覚えてないんですよね、わたし、緊張のし過ぎで……」
「ミシェルさんのナレーション、耳心地が良くて、とても素敵でした」しょんぼりしているミシェルに向かって、希佐は穏やかに声を掛ける。「ピアノの演奏も、こちらの動きにばっちり合わせてくれていて、私は演じやすかったです」
「本当ですか?」
「はい。今回の『魔物のエクス』は、舞台の進行をナレーションに頼っている部分が大きかったので、ミシェルさんにばかり負担をおかけしてしまって、本当に申し訳ないなと思っていたのですが……」
「いえいえ、そんな! わたしはもう、お二人の足を引っ張らないように、どうにかこうにか食い下がっていただけなので。ああ、でも、そう言っていただけると心が救われます。必死になって頑張った甲斐がありました!」
「しかし、あいつは本当に、演技をするのは久しぶりだったのか?」からん、からん、とグラスの中で氷を踊らせながら、ベネディクトが不思議そうに言った。「少なくとも俺の目には、まったくそんなふうには見えなかったけど」
「私の知るかぎりではありますが、この三年間、アランが舞台に立ったり、どこかで何かを演じたという話は、聞いたことがありません」
希佐の目が届かない場所では、細々とでも踊り続けていたのだ、陰で稽古をしていたとしても、今更驚きはしない。むしろ、演技の稽古を続けていたと考える方が自然なのではないかと、ベネディクトの言葉を聞いて、希佐は思う。
「君は前に何度かアランの舞台を見たことがあると言っていたね」
「演劇学校の同期に引きずられて」希佐の隣でストレートのウイスキーを呷っているゴダンに向かって、程々にしておいてくださいよと言ってから、ベネディクトは先を続けた。「すごかったですよ、正直な話。俺やミシェルが通っていた演劇学校も、それなりの才能が集まってきていたはずですけど、それが霞んでしまうくらい。その証拠に、俺をジャスト・ロビンの公演に連れていった役者志望の同期は、その何日か後に自主退学しましたし」
「えっ?」
「アラン・ジンデルの姿が頭から離れなかったんだとさ」思わずというふうに声を上げたミシェルに目をやり、ベネディクトは小さく肩をすくめる。「ほんの二時間弱の舞台を観終えてふと隣に目をやってみたら、やれ天才だの、やれ百年に一人の逸材だのと持て囃されていたようなやつが、膝をがくがく震わせて、顔面蒼白の状態で立ってたんだ。気分が悪いって言うから寮の部屋まで送ってやったけど、それ以降、学校内でそいつの姿を見ることはなかった」
「学校、辞めちゃったんですか?」
「一週間か、二週間後くらいかな。他の連中が授業を受けてる最中に、荷物をまとめて出ていった。しばらくして、そいつから手紙が届いたよ。なんて書いてあったと思う?」
「田舎に帰るとかですか?」
「不正解」ミシェルの返答にそう応じてから、希佐とゴダンに目を向ける。「お二人は?」
「さあ、僕には分からないな」
「レオはどうせ考える気もないんでしょ」ベネディクトは呆れたようにそう言ってから、うーん、と唸っている希佐の方を見た。「キサは?」
「学校以外の場所で演技を学ぶ、とか……?」
「おっ、すごい」希佐の答えを聞いて、ベネディクトは嬉しそうに笑った。「そいつ、ジャスト・ロビンに入ったって手紙を寄越したんだ」
「えええー!」
「アランはそのことを知っているのかい?」
「どうなんでしょうね。それから徐々に疎遠になって、卒業する頃にはもう連絡を取り合うこともなくなっていましたし、俺はアメリカに拠点を移したので、詳しい話は聞けずじまいです。時々舞い込んでくる風の噂では、小劇場の舞台で役者を続けてるっていう話だったので、同じ舞台に立つこともあったんじゃないですか」
夢を追い求めて入学した。それなのに、夢半ばで自らの歩んできた道を絶ち、別の方向へ舵を切るという行為が、どれほど難しいことか。
中には愚か者と罵る者もいただろう。勿体無いと困惑する者もいたはずだ。だが、自らの進むべき道を自らの意志で選択するという行為自体は、誰からも責められる謂れはない。芝居を諦めるのではなく、これまでとは別のアプローチで、前へ進もうとする行為自体は、賞賛に値するものだ。
それなのに、なぜか心がざわざわすると、希佐は思った。
その後、ミシェルとベネディクトは酒を片手にリビングへと移動し、映像チェックと称して『魔物のエクス』の鑑賞会をはじめた。希佐も一緒にどうかと誘われたが、アランと一緒に観たいからと言うと、二人は食い下がることはせずに潔く身を引いてくれた。
希佐は、ミシェルが好きだと言ったグレンモーレンジィのラサンタを舐めるようにして飲んでいた。リビングのソファに座り、横並びになってノートパソコンの画面を覗き込んでいる二人の後ろ姿を、ぼんやりと眺めている。
そうした希佐の姿を、スマートフォンを使って撮影していたゴダンが、くすりと笑った。
「J'aime votre apparence d’ennui.」
「Ne me taquine pas.」リビングに向けていた視線を引き戻し、隣に座っているゴダンを見やれば、再びシャッターが切られる。「今日の映像、私にも送っていただけますか?」
「もちろん、いいとも」ゴダンは機嫌良く頷いた。「写真も何枚か撮ってあるから、そちらはアルバムにして送るよ」
「ご趣味ですものね」
「Je suis d’accord.」
「ああ、それから、ダイアナにも──」
「彼女にはもう送ってあるよ。アランに頼まれてね」
「そうだったんですね、ありがとうございます」あのとき、画面越しに二人で何を話していたのだろうという興味はあったが、そこへ足を踏み入れるのは無粋というものだろう。「あとは、エクスの脚本を提供してくれた、オンラインコミュニティーの方にもお送りしないといけなくて」
「律儀だね」
「お約束なので」
希佐はそう言って薄く微笑み、伏し目がちに手元のウイスキーグラスに視線を落とす。肩からさらりと一房の髪が流れ落ちるその一瞬のチャンスを、ゴダンが逃すはずもなかった。
「近いうちに君の写真集を作りたいな」
「……本気ですか?」
「不思議なことに、気がつくと本のタイトルを考えてしまっているんだ」テーブルに頬杖をつき、真剣な面持ちで希佐の顔を覗き込みながら、ゴダンは言う。「『雨』はどうかな? この一週間、晴れ渡っている時間よりも、雨が降っている時間の方が長かっただろう?」
「私には分かりません」
「君の本だよ」
「あなたの本です」
「心配しなくても、公に販売したりはしない。きちんとした形にして、僕の家の本棚に飾っておきたいんだ」自分から目を逸らそうとする希佐の視界に入りながら、ゴダンはその顔色を窺うように首を傾げる。「Êtes-vous en colère ?」
「Non.」
「Je peux prendre une photo de ce visage ?」
「Leo」
「I'm so sorry,Kisa.」
くつくつと楽しそうに笑い、悪びれた素振りなど見せないまま謝罪の言葉を口にするゴダンを、どうしても怒る気になどなれない。本当に掴みどころのない人だと希佐が思っていると、ゴダンはゆっくりと立ち上がり、キッチンから新しいウイスキーグラスを取ってきた。希佐と向かい合う席に座り直し、ラサンタの瓶を手に取る。
「とても良かったよ」
「写真ですか?」
「いや」見当違いなことを言ったらしい希佐を見て、ゴダンは思わずというふうに失笑を漏らした。「『魔物のエクス』だよ。美しい物語だった」
「あっ、すみません。ありがとうございます」
希佐は口元を押さえ、申し訳なさそうに首をすくめた。ゴダンは頭を横に振ると、甘く香るウイスキーを口に含み、時間を掛けて嚥下していた。
「本来であれば相容れない者同士の純愛の物語とは、実にアラン・ジンデルらしからぬ、王道のラブストーリーだと思ってね」
「彼が手掛けたのは最後の幕間に入る前までなんです」希佐はそう言いながら、まだウイスキーの残っているグラスを、くるりと揺らした。「でも、それ以降の展開はレオのお気に召さなかったのでは?」
「どうしてそう思うんだい?」
「あなたの好みではなかったような気がして」
「この一週間で僕の好みを把握したとでも?」
「エクスを失ったあとの、世界の外側に旅立ったピオーティアと、どこかでばったり出会うことがあったら、あなたは写真を撮らせて欲しいとお願いするでしょう?」
希佐の言葉に珍しく驚いたような顔をして見せたゴダンは、次の瞬間、両の目を蠱惑的に細め、ウイスキーで濡れた唇の端を微かに吊り上げて見せる。希佐の問いに対して明確な答えが返ってくることはなかったが、どうやらその指摘は的を射ていたようだと、察することは容易かった。
「本当なら口を出すべきではなかったのだと思います」
「アラン・ジンデルが書いた結末に?」
「はい」役者は脚本家が描いた世界の中で生きている。脚本家は神様だ。ただの人間は、神様のやりように口を挟むことはできない。「ルール違反です」
「本当に譲れないのであれば、君がなんて言おうと、彼は自分の脚本に触れさせなかったのではないかな」
「相当渋い顔をしていました」
「でも、結局は君が思い描いた結末を共に演じることにした。尊重してもらえているということだ」
「妥協してもらったような気もしています」
「アランはむず痒がっているだけだよ」ゴダンはそう言って穏やかに笑う。「幸せに不慣れな子だからね」
希佐は『魔物のエクス』の物語の結末に想像の余地を残した。
これから先も、この泉は、二人の逢瀬の場所となるのでしょう。魔物と人間、決して結ばれることの許されない間柄であったとしても、二人の思いは、永遠に変わらないのです──希佐は、二人が結ばれるとは書かなかった。
最後の最後まで、そこはかとなくアラン・ジンデルの色が残っていたのは、観る者が観れば、ああ、二人はこの先も別々の世界を生きていくのだと、そう察することができるからだ。
ピオーティアは、かつて自分が閉じ込められていたお屋敷を買い取るのかもしれない。だが、大きなお屋敷には目もくれず、小さな離れで細々と暮らしながら、午前の光と共に現れるエクスを、いつも心待ちにしている。そして、手を繋ぎながら、あのステルラリア・ネモルムが咲く泉まで、散歩に出掛けていくのだろう。しかし、エクスは夕日と共に去っていって、また、一人寂しい夜を迎えるのだ。
二人はいついつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。
そういう物語には、もう興味を示さなくなっているのではないかという思いが、希佐の中にはあった。
「エクスとピオーティアは、まるで──」希佐が物思いに耽っていると、ゴダンがそう口を開く。希佐が伏せていた視線を徐に上げてその顔を見やると、ゴダンは開きかけてきた口を噤み、微笑を浮かべながら首を横に振った。「いや、やめておこう」
「え?」
「僕は答え合わせをしたいわけではないから」
長距離運転をする人の隣で居眠りをするわけにはいかないと思い、希佐は午後十一時を迎える前に、ダイニングの席を立った。
リビングで鑑賞会をしていた二人に挨拶をしてから部屋に戻ろうとするが、二人は暗転したノートパソコンを前にして、静かに寝息を立てている。ゴダンは唇の前で人差し指を立てると、寄り掛かり合うようにして眠っている二人に歩み寄り、そっと毛布を掛けてやっていた。足元に転がっている空のグラスと、ウイスキーのボトルを拾い上げ、その足でキッチンに向かう。
「十二時になっても目を覚さなかったら、僕が起こしてホテルに帰らせるよ。このまま寝かせておいてあげたいけれど、明日の準備もあるからね」
「まだこの村での撮影を続けるんですか?」
「いや、そろそろ移動するよ。次はケズィックに行くつもりだ。そこでこの旅は終わりかな。僕はロンドンに戻って個展の準備をしなければいけないし、スタッフたちはアメリカに帰る」
「なんだか寂しいです」
「永遠の別れというわけではないのだから、またすぐに会えるよ。連絡先は交換したんだろう?」
「はい」
「今度は君がアメリカに行ってみるといい。ニューヨークにはロンドンとは違った活気がある。ブロードウェイに興味がないとは言わせないよ」
「いつか足を運んでみたいとは思っています」
「僕たちはいつでも大歓迎だ」
シンクの前に立って歯を磨きながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた希佐は、空に浮かぶ月を見て、ダイニングでメールのチェックをしているゴダンを振り返った。
「あの、レオ」
「ん?」
「明日の朝は晴れそうですか?」
「そうだねぇ」ゴダンは手元のスマートフォンに視線を落としたまま、笑みを滲ませた声色で言った。「明日はとびきり素晴らしい朝焼けを見られるような気がするな」
「……それは、晴れるっていうことですか?」
「いいや」ゴダンは首を横に振る。「未明は気温が急激に下がるそうだから、朝霧が出るのではないかと思う。そこまで濃くなることはないと思うけれど、グラスミア湖まで行くつもりなら、道に迷わないようにね。丘に登るときは、足元に気をつけて」
「分かりました」
「玄関にライトを置いておくから、それを持っていくといい」
「はい、ありがとうございます」
ぐるぐると口を濯ぎ、初日、これを使っていいよと渡されたマグに、まだ少しだけ水滴の残った歯ブラシを立てる。明日、このグラスミアを発つのだと理解はしていても、希佐にはどういうわけか実感が湧かなかった。
しっかりと締められていなかった蛇口から、ぽちゃん、と雫が落ちる。
「レオ」
「なんだい?」
「ありがとうございました」後ろを振り返り、希佐が声を低くしてそう言うと、ゴダンはスマートフォンに向けていた視線をこちらに向けた。「一週間もの間、何も言わずに私をここに置いてくださって。本当に感謝しています」
「いいんだよ、キサ」
ゴダンの眼差しは、相変わらず穏やかで、優しい。
以前、アトリエを訪ねたときに見た、ゴダンがアランのことを愛おしそうに眺めていたその目で、自分を同じように見てくれていると、希佐はそう感じていた。
「それに、最初から交換条件ということで、話はまとまっていたはずだ。君は一週間ここに滞在する。僕はその間、自由に君の写真を撮らせてもらう。条件としては、君の方が不利だったはずだよ。何しろ、僕は四六時中、君に向かってカメラを構えていたと自覚しているからね。途中で逃げ出されても仕方がないと思っていた」
「非現実的な感じが、楽しかったです」
「僕にとっても、君と暮らしたこの一週間は、とても楽しく、忘れ難いものとなったよ。こちらこそ、どうもありがとう」
昼間、『魔物のエクス』を演じた玄関ホールを通り過ぎ、子供たちが目を輝かせながら座っていた階段を上って、一階から二階へ、二階から三階へと足を進める。希佐はそのまま自分の部屋に入ろうとしたが、ふと視線を向けた隣の扉の隙間から、光が漏れ出ているのが見えて、ノブに触れていた手を引いた。
扉の前に立ち、こんこんこん、と軽くノックをする。
返事の声はない。
「アラン?」そう呼びかけながら、ノブをぐるりと回した。「起きてる?」
案の定、アランは部屋の電気を点けたまま、ベッドで横になって眠っていた。部屋に入り、電気を点け、そのままばったりと倒れ込んだのが分かる。
「アラン、風邪を引くよ」
扉を開けたまま部屋の中に足を踏み入れた希佐は、真っ直ぐにベッドへ向かうと、アランの下敷きになっている布団を引っ張り出し、それを体に掛けてやった。一向に目を覚まさない様子を見て取ると、蓄積していた疲労がどっと押し寄せ、泥のように眠っているのだということが分かった。
「おやすみなさい」
ベッドに両手を付き、金色のイヤーカフスが輝く耳元でそう囁きかけてから、希佐は頬にそっとキスをした。その場を離れ、電気を消すと、静かに部屋を後にする。
自分の部屋に戻ってきた希佐は、電気も点けずにベッドまで向かい、着ていた服を脱ぎ捨て、そのまま布団の中に潜り込んだ。ほんの一瞬だけ、ひんやりとしたシーツの冷たさに息が止まるが、すぐに体温が溶け込んで、心地の良いぬくもりに包み込まれた。
枕元に伏せてあるスマートフォンには既に、明日の日の出に間に合うよう、午前四時半にアラームが設定されていた。
翌日、まだ夜と呼ぶ方が相応しい暗闇の中を、希佐とアランはグラスミア湖を目指して、ゴダンの屋敷を出発した。
この一週間で、最も冷え込んでいる朝だ。アランはまだ半分眠っているような、ぼんやりとした面持ちで、のろのろと歩みを進めている。
希佐の体感では、目を閉じた次の瞬間にはもう、セットしていたアラームが鳴っている感覚だった。ベッドに深く潜り込んでいた希佐は、息継ぎをする鯨のように布団の外に顔を出し、スマートフォンに手を伸ばした。
アラームを消し、一、二、三──と、十まで数えると、意を決してベッドから抜け出し、素早く身支度を整える。窓の外を見やると、昨夜ゴダンが言っていた通り、辺りには霧が立ち込めていた。一瞬、中止にした方がいいだろうかとも考えるが、ゴダンは素晴らしい朝焼けを見られるような気がすると、そう言っていたはずだ。
「アラン」五分で自らの準備を終えた希佐は、すぐに隣の部屋を訪ね、扉を叩いて朝を知らせる。「入るよ」
しかし、アランは昨夜見たときと寸分違わぬ姿形のまま、ベッドで寝息を立てていた。枕に顔を埋めた格好のまま微動だにしないその姿を見て、思わず呼吸の心配をするが、体はゆっくりと、規則的に上下を繰り返している。
「アラン、朝だよ。起きて」
「……まだ暗い」希佐が体を揺さぶって間もなくすると、アランはうっすらと目を開き、そう言った。「夜だ」
「朝日を見に行くなら、暗いうちから出掛けないと間に合わないよ」
「朝日……?」
「レオが、今日は素晴らしい朝焼けが見られるかもって」
「朝焼け……」
「ほら、アラン」
希佐はそう言いながら、アランの腕を力一杯に引っ張った。まるで操り人形のように身を起こしたアランは、ベッドの上に乗り上げている希佐の体の上に、そのまま倒れ込んでくる。
「う、わっ」両腕を背中に回してそれを支えた希佐だったが、耳元でくつくつと笑う声を聞くと、こら、と叱るような声を上げた。「起きているなら、急いで準備をして。朝日は待ってくれないんだから」
「分かった」
希佐が先に下に降りて待っていると、五分ほどが経ってから、アランが玄関ホールに現れた。ゴダンが用意してくれていた懐中電灯を手に持ち、かち、かち、と点灯と消灯を繰り返す姿を見て、アランは小さく「ごめん」と言う。
「ここ最近まともに寝てなかったから」
「体調が良くない?」
「そういうわけじゃない」
「中止にしてもいいよ。村からでも朝日は見られるし」
「行くよ」さすがに大口を開けることは避けたのだろう、アランは欠伸を堪えながら言った。「君と同じ景色を見たい」
時間にはたっぷりの余裕があった。半分寝惚けた状態のアランを連れていくのだ、いつも通りの時間に出発すれば、絶対に間に合わないことは目に見えている。
普段は一人で走っていく道のりを、先日映画の撮影班と移動したときと同様、ライトで照らしながら注意深く歩いていた。
「遭難しそうだな」霧の中を歩きながら、平然とした口振りでアランが言う。「本当に素晴らしい朝焼けなんて見られるの」
「レオはそう言っていたけれど」
「俺が持つ」
アランはそう言うと、希佐が手にしていた懐中電灯を取り上げた。確かに、少しでも高い位置から照らしてもらった方が、遠くの方まで見渡すことができる。
ひんやりとした空気に晒され、随分と目が覚めてきた様子のアランは、霧のせいでほとんど何も見えない周辺を、どこか注意深く見回しているように感じられた。くるりと後ろを振り返り、何かを警戒しているような顔を見せたとき、希佐は思わず口を開く。
「道なら私がちゃんと覚えているから大丈夫だよ」
「ああ」
「アラン?」
「……なんでもない」
先日は十人ほどの撮影班が連なって移動していたこともあり、ざくざくという足音だけでも騒がしかったが、今はひっそりと静かなものだった。周囲の音のすべては朝霧が飲み込んでしまったかのように、辺りは静寂に包まれている。
前に向き直ったアランは、スマートフォンを手に取ったが、時刻を確認しただけなのか、すぐにポケットに戻していた。
「打ち上げはどうだったの」
「楽しかったよ」希佐が短く答えると、アランはこちらに横目を向ける。「ミシェルさんが、今回のお芝居は、具沢山のスープみたいに贅沢だったって」
「彼女、よかったな」アランは前方に視線を戻し、足元を照らしながら言った。「良い声をしてる」
「本人に直接言ってあげたら? ミシェルさん、すごく喜ぶと思う」
「あとでメールを書くよ」
「ああ、うん、その方がいいかもね」
あのアラン・ジンデルに真正面から誉められるようなことがあったら、同脚本家を崇拝していると言っても過言ではないミシェルは、感激のあまりそのまま卒倒してしまうかもしれない。それに、メールならばこれを消去しないかぎり、何度だって読み返すことができる。言葉という音のメッセージは大きく印象に残るが、しかし一方では、記憶として薄れやすいという難点があった。
「ベネディクトとミシェルの二人は、王立演劇アカデミーを出てるんだ」
「えっ」
アランの唐突な言葉に、希佐は思わず驚きの声を上げた。
王立演劇アカデミーとは、ユニヴェール歌劇学校と同様、役者を養成する演劇学校の一つだ。ユニヴェールと違う点は、演出家や舞台技術、舞台美術などを専門的に学ぶコースが、別に用意されていることだろう。
ユニヴェールでは毎年、前年度の公演の出来次第で、受験生の数が増減する。少なくても二千人、多ければ四千人ほどの中から、百人前後の合格者が出る。王立演劇アカデミーも同数程度の受験生がいると、希佐はイライアスから聞いたことがあった。
『アイリーンに申し込んでみたらって言われたけど、やめたんだ』
『どうして?』
『僕は自分のペースでやりたいから』
役者の養成コースは三年間、とにかく詰め込みに詰め込まれると聞く。そもそも、ユニヴェールの入試にあたる期間が八ヶ月と長く、何度かの段階を踏んでオーディションのように試験が行われるというのだから、ぞっとする話だ。
「あのアカデミーを卒業した生徒のほとんどは、現役の役者として活動していく。だから本来、彼女みたいな経歴の卒業生の方が稀なんだ。自分は役者に向いてない、みたいな言い方をしてるけど、数千人の中の三十人程度に選ばれる時点で、ミシェルには人並み以上の才能があるはずだ」
「それなら、どうして」
「極度のあがり症が原因なんだろうな。もしくは、舞台上にトラウマがあるのか」
「トラウマ?」
「失敗できない場面で失敗をしたとか、そういう悲惨な場面を目撃したことがあるとか──まあ、これは本人にしか分からないことだけど。あがり症に加えて、常に失敗への恐怖心が頭をちらついていれば、最高のパフォーマンスは望めない。ガチガチに緊張した状態では、体は硬くなるし、喉が締まって声も出にくくなる」
希佐にとって、あのハヴェンナの舞台が、最もトラウマに近い感覚なのだろう。あの舞台のことを思い出すと、今でも背筋が凍るような思いがする。それでも、あの舞台上ですべてを許すと言ってくれた人がいたから、今でもこうして、舞台に立ち続けることができていた。
「トラウマを抱えたままでも、成功体験を積み上げていけば、それが揺るぎない自信にはなるはずだ。彼女は間違いなく役者向きの人間だよ。だからこそ、とても惜しいと思う」
「……そうだね」
「今回の経験が、彼女の自信の一つになってくれたら、俺は嬉しい」
この人は、自分も同じように思われているということに、きっと気づいてはいないのだろうと、希佐は思った。いや、気づいていても、気づかないふりをしているのかもしれない。
トラウマを抱えたままでも、成功体験を積み上げていけば、それが揺るぎない自信になるはずだ──自分の胸に手を当ててみるまでもなく、その言葉は、時間差で自らの心臓を深く突き刺すことになるのだろう。
緩やかに、長く続く傾斜のでこぼこ道を、無言のまま進んでいく。ここを上ってくる人々によって踏みしめられてきた、石を積み上げただけの階段を上っていると、東の空の方が、うっすらと白んできているのが見えた。
「丘をもう一つ越えたら、その先が頂上だよ」
「こんなところを毎日走ってたの」
「丘の上まで行くのは、これで二回目。いつもはグラスミア湖を一周するコースを走っていたんだ」
「これでも体力は結構戻ってきたと思ってたんだけど」アランは一度足を止め、大きく深呼吸をする。「ただの思い違いだったか」
「疲れが溜まっているせいもあるんじゃないかな」
先に立って歩いていた希佐は、肩で息をしているアランに向かって、自らの右手を差し出した。アランは差し出された手を見て、少しだけ頼りなく笑うが、希佐の手を握り締めると、再び足を前へ、前へと動かしはじめる。
「ほら、あと少し」希佐は僅かにだけ急になった坂を登りながら、後ろに向かって声を掛けた。「村に戻ったらアイスをご馳走してあげるから、頑張って」
はあ、と吐き出した息が、白に染まり、朝霧の中に溶け込んでいく。
頂上に到着しても、辺りは真っ白で、何も見えないような状況だった。アランは膝に手をつき、前のめりに項垂れながら、ゆっくりと呼吸を整えている。額からは、ぽたり、ぽたりと汗が滴り落ちていた。
「おつかれさま」
「アイス」
「はいはい」
丘の上に柵などはない。不注意で足を滑らせれば、傾斜を下に向かって転がり落ちていくことになる。だが、丘の頂上はまるで雲の中にでもあるかのように、ただただ白い。
「このまま待っていれば霧は晴れると思うけれど」そう言いながら、希佐は隣を見上げた。「朝日を見るのは難しそうだね」
「日の出までは──あと十五分弱か」
アランは腕時計で時刻を確認してから、手にしていた懐中電灯を足下に置いた。
「とりあえず、時間まで待ってみよう」
「うん」
アランは薄手のコートを脱ぐと、それを平場の地面に敷き、その上に腰を下ろした。隣をとんとんと叩くので、希佐はその隣に膝を抱えて座る。
「昨日はありがとう」
「なんのこと」
「私と『魔物のエクス』を演じてくれて」
「あれは、俺がそうしてみたいと思ったから」でも、と言いながら、アランは希佐の目をじっと見つめる。「君の隣だから、そうしたいと思えた」
「私の望みは叶えられたと思う?」
「分からない」
アランは、本当に分からないという顔をして、分からないと口にする。こういうときのアランの表情は酷く幼く見えて、まるで小さなラファエルが顔を覗かせているような、そんな錯覚を覚えるのだ。
「正直、ちょっと物足りなかったんだ」希佐がそう言うのを、アランは神妙な面持ちで聞いていた。「このまま終わらせたくない。もっと、あなたとずっと演じていたいって、そう思った」
「キサ……」
「だって、あまりに時間が足りなかったから」もっと時間があれば──この週末、そう何度思ったことだろうと、希佐は思う。「結果には満足してる。でも、もっと突き詰められれば、もっといいものに仕上げられた。あなたと演じることのできる、最初で最後の機会だったのかもしれない。やりきったはずなのに、そう思ってしまう自分が、なんだか不甲斐なくて」
そう言って顔を伏せた希佐の頭を、アランは自身の腕で自らの方に引き寄せ、こめかみに優しく唇を押し当てた。猫のように擦り寄る希佐の背中に腕を回し、耳元でもう一度、名前を呼ぶ。
「君がカオスでの初めての公演を終えたとき、俺がなんて言ったか覚えてるか?」
「……舞台は生き物」
「そう」アランの声が、安らかに肯定する。「幕が上がると同時に生まれて、下りると同時に死ぬ。刹那的だからこそ美しい。人の一生と同じだ。俺は、昨日の芝居に納得してる。上手くいこうと、いくまいと、それが彼らの生き様だったと思うんだ。だから、俺は今、酷く満たされている」
「もうこれで舞台はやめてもいいと思えるくらい?」
「眠りに落ちるまでは、そう思ってた」顔を上げると、アランは希佐の目を真っ直ぐに覗き込んだ。「あのときと一緒だよ。目が覚めると同時に、欲が湧いてくるんだ。演じることを楽しいと感じる日がくるなんて、もうないと思っていたのに」
「楽しかったんだね」
「うん」
「そっか」希佐はアランの首に両腕を回し、力一杯に抱き締める。「よかった」
もう一度、よかったねと言いながら、希佐はアランの首筋に顔を埋めた。ふわりとやわらかい赤毛からは自分と同じ匂いがするのに、着ているニットからはロンドンのスタジオの匂いがして、妙に懐かしい気持ちになる。
「キサ」
「うん?」
「君に話しておきたいことが──」
そう言われ、閉じた目を開いた希佐は、反射的に「あっ」と声を上げてしまった。とんとんとアランの背中を軽く叩き、真っ直ぐに空を指差す。
「上の方、霧が晴れてきてる」アランの肩に手を置いて立ち上がり、希佐は東の空に目を向けた。「すごい……」
希佐は、つい先程までは確かに立ち込めていた朝霧が、太陽のあたたかさに押しつぶされるようにして、すうっと下へ降りていく瞬間を見た。遥か彼方に見える、丘の向こうの空が明るくなりはじめると、世界は想像していたような朱色ではなく、やわらかな薄桃色に染まる。
「ねえ、アラン、見て!」
「見てるよ」
空をうっすらと覆う白い雲も、地上に立ち込める朝霧も、すべてが薄桃色の朝焼けに染まっていた。だが、太陽が顔を覗かせると、空はすぐに薄桃色から、橙へと移り変わっていく。
黎明の空から、旭日が昇る。
「キサ」
希佐が魅入られたように東の空を眺めていると、アランが再び声を掛けてきた。隣を見上げれば、いやに神妙な面持ちを浮かべたアランが、こちらを見下ろしていた。
「君に話しておきたいことがあるんだ」
「なに?」
「前に、全部話すからもう少しだけ待ってほしいと言ったこと、覚えてる?」
「うん」
クロエ・ルーから、ヘスティアで行われるチャリティーイベントのことで相談があると電話が掛かってきたときに、アランが口にした言葉だ。
二人の関係について、訊ねたいことはたくさんあった。でも、訊ねてはいけないことなのだと思い、何も聞かないまま、もやもやとした気持ちを抱え続けている。
「一度は君に贈った指輪を、俺は取り上げて、あの人に渡した」
「うん、知ってる」
「俺が君から指輪を取り返したのは、君の指に、あの指輪が平然と輝いていることが許せなかったからだ。虫唾が走るくらい不快だった。でも、君はあの指輪をとても大切にしてくれていたから、どうしても返してくれとは言えなかった」
アランは、かつてその指輪が嵌められていた希佐の手を取り、小指の辺りをそっと撫でた。
「君を傷つけたくはないのに、結果的には、いつも君を傷つける。ごめん、器用じゃないんだ、俺は……」
「それも知ってるよ」
希佐は口角を持ち上げて微笑むと、アランと向き合うようにして立ち、俯く頬に手を伸ばした。アランは自らの頬に触れる手の平の上に、自分の手を重ね、唇を寄せる。朝日の色を透かした髪は、朝露をまとい、あまりに美しく輝いていた。
「キサ」
「なあに」
「あの人は、俺の──」
アランが再び何かを言い掛けたとき、二人の鼻先に、金色の一雫が落ちた。示し合わせたように頭上を見上げて、思わず目を見張る。
薄桃から橙へと色を変えていた空が、今度は、眩いほどの黄金色に染められていたのだ。その息を呑むような美しさに言葉を失っていると、細い金糸のような雨が、続々と地上に降り注いでくる。
「きれい」
「ああ」
三度も話の腰を折られても、アラン・ジンデルは苛立つような素振り一つ見せず、自然が見せる芸術に目を向けていた。
希佐はその横顔を見つめてから、小さく息を吐き出し、口を開いた。
「アラン」希佐の呼び掛けに、アランは視線だけで応じた。「あの人はあなたの、なに?」
希佐がそのように問うと、アランは東の空に顔を向けたまま、そっと目を伏せた。それから、徐に希佐の方へ向き直り、心なしか強張った面持ちで、唇を震わせた。
「母親だ」
「……そう」
ずっとそんな気はしていた。オーディションの日、初めてその姿を間近に見たときから、不思議と既視感のようなものを覚えていた。この人とは前に、どこかで会ったことがあるような、そうした錯覚を覚えていたのだ。そして、立花希佐がクロエ・ルーという女優に酷く惹かれている事実も、認めなくてはならない。
その一挙一動から、片時も目を逸らしたくないと思ってしまうほど、希佐はあの女性に強い魅力を感じていた。きっと、自分だけではない。他の誰もが、目の前にいるあの美しい女性から、目を逸らすことはできないのだ。
あの人と、この人は、酷く似ている。
「あの脚本が、アランとあの人のすべてなんだね」希佐がそう言うのを、アランは黙って聞いている。「あなたは、私に自分の母親の役を演じさせたくなかった。だから、オーディションを受けることを反対したの?」
「そうだ」
「でも、アランは私になら、あの人の役を完璧に演じられると思った」
「ああ」アランは眉根を寄せ、少しだけ苦しそうな表情を浮かべた。「あの人なら君を気に入るだろうと思っていた。それに、君も、あの人の才能には抗えないだろうと思った。俺とあの人が似ているように、君とあの人も似ているから」
「似てる? 私とマダム・ルーが?」
「舞台のためなら自分の命だって捧げられる」断言するように、アランは言う。「口で言うのは簡単なことだ。でも、君やあの人は実際に、それだけのために生きる道を選択してきたことを、俺は知ってる。俺たちは、それ以外の世界を知らない」
この人からは地獄の苦しみを感じるというのに、この世界は、金色の優しい雨を降らす。何かを祝福しているのだろうか。それとも、この雨は、この人の傷ついた心を癒す、恵みの雨なのだろうか。
「あの人は最近所属していた事務所を辞めた。事務所はスキャンダルを嫌うから」
「スキャンダルって?」
「俺との親子関係が露見することだよ」アランは、希佐の額に張り付くつ髪の毛を、その大きな手の平で拭ってくれた。「君が舞台の主役を演じることになれば、自ずとそのスキャンダルに巻き込まれることになる。三十年前のクリスマス、産んだばかりの子供を捨てた女優の役を、君が演じるんだ。その脚本を手掛けたのは、その三十年前のクリスマスに捨てられた、女優の息子」
アラン・ジンデルの苦しみは、アラン・ジンデル自身にしか分からないことだ。気持ちは分かるよなどという言葉を、軽々しく口にすることは、誰にもできない。その気持ちを推し量ってみたところで、所詮は分かったような気持ちになった自分に満足をするばかりで、この人の苦しみを取り除いてやることは、たとえ実の母親であったとしても不可能なのだ。
それなのに、この人は自らがどうしようもない苦しみの中にあってまで、自分のことを気づかってくれていたのだと、希佐は思う。金色の雨が、まるで涙のようにアランの目尻から流れ落ちるのを見つめながら、実際には何も言えず、首を横に振ることしかできなかった。
「君を巻き込みたくなかった。もう十分に苦しんでいる君を、これ以上苦しませたくなかった。俺と、あのどうしようもない母親のために、君の人生を滅茶苦茶にしたくない。世界中の目がこちらに向けられれば、もう、君を隠してはおけない」
「アラン──」
「君を俺の才能で殺すと言った」希佐が口を開くと、それを遮るようにして、矢継ぎ早にアランは続けた。「だけど、今の俺では、君の喉元にナイフを突きつけることも敵わない。俺が君を殺す前に、マスコミや心無い人々の言葉が、君の心を殺すことになるかもしれない」
「……私は、大丈夫」脳が笑えと命じているから、希佐は大きく口角を持ち上げて、琥珀色の目を三日月のように細めた。「大丈夫だよ、アラン」
自分ばかりが救われてフェアではないと、アランはよく口にしている。君のために何かしてやりたいのだと。だが、もはやそんなものは必要ない。立花希佐は、アラン・ジンデルに命を救われている。その時点でもう既に、希佐はアランに返しきれない借りを作っているのだ。
「私が人の評価に耳を貸さないこと、アランなら知っているでしょう?」良い評価は話半分に、悪い評価は、それを覆すくらいの稽古を重ねて、常に逆境に打ち勝ってきた。「私は、私の強さを知っている。与えられた役割は完璧にこなす。それが、舞台人である立花希佐の、唯一の矜持なんだ」
冷えた両頬に手の平を這わせ、自らの方に引き寄せようとすると、アランは僅かに背中を丸めて、希佐の額に自らの額をぴたりと合わせた。
「ありがとう、あなたの秘密を打ち明けてくれて」
「遅かれ早かれ、誰もが知ることになる。でも、君には俺の口から伝えたかった」
「そう」アランは目を閉じている。希佐は爪先立ちになると、唇にやわらかくキスをした。「アランこそ、大丈夫?」
希佐が閉じた瞼に触れると、アランは促されるようにして目を開いた。その緑は絶えず尊く、多彩で、力強い。希佐の細腰に両腕を回し、アランは言う。
「まだ大丈夫だと言い聞かせてる」頼りなげな言い回しとは裏腹に、その表情はどこか晴れやかにも見えた。「ロンドンに戻ったら、チャリティーについて話し合おう」
「マダムとも?」
「ああ」
「分かった」
ほんの三十分ほどで、朝霧は晴れ、空を覆っていた雲は流れ行き、金色の細雨は止んでいた。後に残されたのは、冷たい空気と、見渡す緑の大自然、そして、眼下に広がるグラスミアの湖だ。細波一つ立っていない鏡のような水面には、青一色の空が映り込んでいる。
きっと、エクスとピオーティアが自分たちの姿を映し、歌い、踊った湖も、このグラスミア湖と同じくらいに美しいのだろう。
そう思いながら眼下を見下ろしていると、アランの両腕が希佐の体を引き寄せる。わっと驚きの声を上げる希佐を抱きすくめ、アランは耳元に唇を寄せた。
「ずっと君に伝えたいことがあったんだ」
「……私があなたに伝えたい言葉と一緒かしら」
「それなら僕は世界一の幸せ者だ」希佐はアランの背中に両手を回すと、雨に濡れたニットを力強く握り締めた。「愛してるよ、キサ」
こうして、脚本家と舞台女優は、湖を眼下に見渡す丘の上で、改めて互いの愛を確かめ合いましたとさ──そんな皮肉なナレーションが、希佐の頭の中では読み上げられていた。