ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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Chloë

 月曜日の夜、ロンドンに到着したのは、グラスミアを発ってから約六時間後のことだった。道路はさほど渋滞しておらず、途中で何度か休憩を挟んでも、午後八時前にはスタジオに到着することができた。

 スタジオの電気はまだ点いている。車をロバートの自宅に戻しに行く前に、荷物を後部座席から下ろし、それを抱えてスタジオの中に入っていくと、そこには稽古中のイライアスとルイの姿があった。

「キサ」

 希佐がスタジオに姿を現すと、まるでそれを待ち構えていたかのように、イライアスが声を上げた。課題曲を踊っている最中だったのだろう、事務室のオーディオを通して音楽は流れ続けていたが、当人は構わずに駆け寄ってくる。

「おかえり、キサ」

「ただいま、イライアス」

 駆けてきた勢いのままに抱き締められた希佐は、わっ、と驚いてから、くすくすと笑った。

「一週間も留守にしてごめんね」

「本当だよ」イライアスは希佐をぎゅっと抱き締めてから、すぐに体を離した。「心配した」

 灰色の目にじっと見つめられ、希佐は思わず苦笑いを浮かべてしまう。イライアスがこんなふうに責めるような物言いをするのは、非常に珍しいことだ。それほどまでに、心配をかけてしまったということなのだろう。

「ごめんなさい」リモコンで音楽を止め、スタジオの中程に立ってこちらを見やっているルイにも、希佐は目を向けた。「ルイも、すみませんでした」

『いや、私は何の迷惑も被ってはいないよ。君のおかげで、久しぶりに妻とゆっくりできたしね。むしろ感謝しているくらいだ』

 希佐に続いてアランがスタジオ内に入ってくる。イライアスはそちらに目を向け、おかえりなさい、と声をかけていた。

「ただいま」アランは車から下ろしてきた荷物を足元に置き、グラスミアで買ったヨガマットを希佐に渡しながら言った。「変わりなかった?」

「はい。届いた荷物はキッチンのテーブルに置いてあります」

「ありがとう」

「あっ、そうだ。お土産を買ってきたんです」希佐はアランから受け取ったマットを壁に立て掛けて置くと、車から下ろしてきたばかりの袋を手に取った。「たくさん買ってきたので、お好きなものを選んでください。よろしければ、奥様の分もどうぞ。イライアスも、好きなものを持っていって」

 遊びに行っていたわけではないのだから、気を使う必要はないとアランは言っていたが、多くの人に迷惑と心配を掛けたことには違いない。手ぶらで帰るわけにはいかないと、希佐はグラスミアにあるハーディーショップで大量の羊グッズを買い込み、それを持ち帰っていた。

「キサ」最後に、ジンジャーブレッドの紙袋を希佐に手渡し、アランは後ろを振り返る。「車をロブのところに戻してくる」

「うん。荷物は二階に上げておくね」

「いいよ、放っておいて。あとで俺が持って上がるから」

 アランはそう言ってスタジオを出ていったが、希佐は大して多くもない荷物を抱え、事務室に向かって歩き出した。すると、イライアスが何も言わずに残りの荷物を持ち、後ろを追いかけてくる。

「ありがとう、イライアス」

 荷物をキッチンに置き、イライアスを先に戻らせた希佐は、長いドライブで硬くなっている体をほぐすために、練習着に着替えてからスタジオに降りていった。

『私はこのTシャツをもらうよ、キサ』着ていたTシャツを脱ぎ、羊柄のTシャツを着て、少々浮かれ気味にルイが言う。『妻には色違いのものをいただいていこう』

『是非お揃いで着てください』

 先に戻ってきていたイライアスは、土産物の山の前にしゃがみ込み、いやに真剣な面持ちでどれにしようかと悩んでいる様子だ。希佐は立て掛けておいたヨガマットを取りに行き、それを鏡の前に敷きながら、イライアスに声を掛ける。

「決められない?」

「たくさんの中から選ぶのが苦手なんだ」イライアスは困った顔をして希佐を見た。「キサが決めて」

「いいの?」

「うん」

 希佐はイライアスの隣に座り込むと、うんうんと一緒になって唸りながら、その中の一つを取り上げた。

「これ、私も一足買ったんだ」そう言いながら差し出したのは、羊が描かれたカラフルな靴下だ。「かわいいなと思って」

「じゃあ、僕もそれがいい」

「え、本当? 靴下でいいの?」

「うん」希佐の手から靴下を受け取ったイライアスは、それを両手で大事そうに包み込みながら、穏やかに微笑む。「ありがとう、キサ」

 だが、さすがに靴下だけでは申し訳ないと、希佐はそれと一緒に水筒もプレゼントすることにした。イライアスはいつも飲み物を持ち歩いているので、明日からでも使ってもらえるはずだ。

「こっちのマグはね、カオスのみんなに一つずつ行き渡るように買ってきたんだ。イライアスは何色が良い?」

「僕が先に決めるとあとで喧嘩になるから、みんなで集まったときに決めた方がいいと思う」

 特にノアがうるさい、と面倒臭そうな顔をするイライアスの言葉に従い、マグの色は後日全員が揃ったときに話し合って決めることにした。

 イライアスとルイが稽古を再開し、希佐が二人の邪魔にならないよう隅でストレッチをしていると、アランが鍋を抱えてスタジオに戻ってくる。その姿を不思議に思いながら首を傾げる希佐を見て、アランは蓋を開けて中身を見せてくれた。

「まだ夕飯を食べてないって言ったら、ロブが持っていけって」鍋の中に入っていたのはごろごろとした野菜の入った具沢山のポトフだった。「食べる?」

「うん。ロバートのポトフ、大好きなんだ」

 三年前、教会で出会ったあの日、ご馳走になったのがごろごろ野菜の具沢山ポトフだった。あの熱々のポトフは、希佐の弱り切った身も心もあたためてくれた、特別な料理だ。そのポトフに対する思いをミゲルに吐露したところ、それがロバートに伝えられたのか、度々ポトフを作って届けてくれるのを、希佐はとてもありがたく思っていた。

「置いてくる」

 アランは短くそう言うと、踊っているイライアスの邪魔にならないように、ぐるりと回り込んで事務室へと姿を消した。イライアスが一曲通して踊り終えると、ルイは小さく頷き、リモコンを片手に音楽を止める。

『よし、良いだろう。今日のところは終わりにしようか』

 ほんの一週間という短い期間だったが、グラスミアに滞在している間、レオナール・ゴダンがフランス語の勉強に付き合ってくれていたおかげか、以前よりもルイの言葉が、明確に聞き取れるようになった気がすると、希佐は思う。

 額の汗を拭いながら軽く頷いたイライアスは、ふう、と大きく息を吐き出すと、希佐のところにやって来て、一緒にストレッチをはじめた。ルイはアランと話してくると言って、事務室に入っていく。

「グラスミアはどうだった?」

「素敵なところだったよ。何もかもが本当に美しかった。イライアスは行ったことがあるの?」

「あるよ。アイリーンの実家が近いから」

「そうだったんだ」

「でも、よかった」突然そのように言うので、希佐が首を傾げると、イライアスは続ける。「希佐がまた笑うようになって」

「え?」

「アランとのダンスのことで、思い悩んでいるみたいだったから」

「ああ、うん」希佐は鏡越しにイライアスを見やりながら、苦笑いを浮かべた。「本当にごめんね、心配をかけて」

「僕も無理強いをした」

「そんなことないよ。私が望んだことだった」

 こうした言葉の応酬がはじまってしまうと、埒が明かないことを二人は知っている。二人は鏡越しにしばらく睨み合ったあと、痛み分けということで決着をつけた。

 だが、実際のところイライアスは何も悪くはないのだ。

 希佐自身の覚悟が足りず、現実から逃避し、ロンドンを飛び出してグラスミアへと逃げた。それは五年前の自分と何一つ変わっておらず、希佐は自分自身に酷く幻滅している。

「キサは逃げたわけじゃない」ストレッチを続けながら希佐が話す言葉を拾い上げ、イライアスは静かに言った。「リフレッシュが必要だっただけだよ。僕も時々、朝から晩までベッドでごろごろしながら、映画を観たり、アイスを食べたりすることがある」

「イライアスが?」

「移動が億劫でタクシーを使いたいと思うことはあるし、食事が面倒でジャンクフードを食べてしまうこともある。その直後は自分自身に嫌悪感を覚えるけど、その程度のことならすぐに挽回できるから。こんを詰め続けるより、適度に息抜きをした方が、ストレスが溜まらない」

「うん」

「キサは誰よりも頑張り屋さんで、それがキサの魅力でもあるけど、頑張りすぎる姿を見ていると、やっぱり心配になる」

「……ありがとう、イライアス」

「僕はキサのパートナーだから」

「うん、そうだね」

「これからも力になるよ」

「ありがとう」今度は鏡越しにではなく、イライアスの目をじっと見つめて、希佐は言った。「私もいつかイライアスの力になれるように頑張るね」

「……」

 頑張りすぎるなと釘を刺されたのにもかかわらず、希佐が頑張るという言葉を口にすると、イライアスは驚いた様子で目を丸くした。その呆気に取られた面持ちを見て首を傾げる希佐だったが、イライアスは途端に表情を和らげてくすりと笑いながら、何でもないと言って首を横に振った。

 イライアスとルイが帰って間もなくすると、遠くからバイクのエンジン音が近づいてきて、それがスタジオの前でぴたりと止まった。ストレッチを終え、明日に備えてそろそろ切り上げようかと希佐が思案している間に、バージルがスタジオに入ってくる。

「よう、キサ」

「バージル」希佐がぐるぐると巻いたマットを抱えて立っていると、バージルが歩み寄ってきて、軽くハグをしてくれた。「イライアスとルイなら少し前に帰ったよ。アランは事務室でメールのチェックを──」

「おいおい」バージルは希佐の言葉を遮りながら、こちらの顔を覗き込んでくる。「俺がお前に会いにきたとは思わねぇのか?」

「えっ?」

「俺はお前に会いに来たんだけどな」

 繰り返しそのように言うバージルを見上げ、希佐は思わず唖然とする。だが、考えてみれば、希佐がグラスミアで過ごしていたこの一週間、誰よりも頻繁に連絡をくれていたのは、他ならぬバージルだった。

「何はともあれ、お前が元気そうでよかったよ」

「うん」希佐はバージルをぎゅっと抱き締め返すと、ふふ、と笑う。「忙しいのに、毎日連絡をしてくれてありがとう」

「弟子の面倒を見るのも師匠の役目だからな」

 バージルは各種ダンスの振り付け以外にも、タップダンスを中心に、その他のダンス指導も行うことがある。基本的に、教えた相手のことを教え子と呼んでいるが、希佐のことだけは最初から、弟子と呼んでくれていた。希佐はそれを嬉しく思うと同時に、この人を裏切らないようなダンスを踊り続けようと、日々身を引き締めている。

「今日はもう切り上げるのか?」

「そのつもりだったけれど、どうして?」

「振りの仕上がり具合はどんな感じだろうと思ってな」

「送った映像の通りだと思うけれど」希佐はそう言って首を傾げる。「何か気になることでもあった?」

「いや、しっかり踊れてる。なんなら、イライアスよりも仕上がりは早そうだ」

「イライアス、苦戦しているの?」

 つい先程、通しで踊っているところを見たが、苦戦しているような感じは見受けられなかった。むしろ、もう既に完璧に近い仕上がりのようだったが、どうやらバージルの意見は違うらしい。

「肩に力が入ってるんだよなぁ」

「そんなふうには見えなかったよ」

「ああ、違う違う。なんて言えばいいんだろうな。あいつからは、こう、折り目正しさが抜けきってねぇんだよ。音の取り方が優等生すぎるっていうか。まあ、俺も一度はバレエ畑を通ってきた人間だから、分かると言えば分かるんだが、型にはまってる感じがしてな。そこから抜け出すには、まだもう少し時間が掛かりそうだ」

「イライアスのダンス、綺麗だもんね」

「もっと遊び心を見せろって言ったら、すげぇ睨まれた」

「Is he embarrassed?」

「There's no way he'd be embarrassed.」バージルはそう言って小さく肩をすくめる。「He just doesn't know, that's all.」

 希佐とバージルがスタジオの真ん中で立ち話を続けていると、いつからそうしていたのか、事務室から出てきていたアランが、長椅子に腰を預けながらこちらを眺めていた。

「おっ、盗み聞きか?」バージルがシニカルに笑いながら言う。「悪趣味だな」

「聞かれたくない話は他所でしてくれ」アランはそう言いながら、手元の紙に目を落とす。「イライアスの箍を外してやりたければ、悔しいと思わせればいい」

「悔しい?」

「あいつは自分より上手く踊るやつを見るとイラっとする」手元の紙に鉛筆で何かを書き込みながら、アランは続けた。「夜な夜なダンススクールに通うよりも、常日頃から隣で踊ってるやつのダンスを見せた方が、よほど刺激になると思うけど」

「ああ、そういえば」バージルがアランの方を向きながら口を開く。「キサの初舞台のときもそうだったな。勝手に対抗心を剥き出しにして、後先考えずに初っ端からギアを上げてたっけ」

「イライアスは良くも悪くも他者の言動に感情を左右されない。バージルでさえ眼中にない」

「そりゃ嬉しいね」

「でも、どういうわけか、キサだけがあいつの魂を揺さぶれる」首を傾げる希佐を一瞥し、アランは肩をすくめた。「パートナーとしては理想的な関係性だ」

「……イライアスは私が踊るのを見てイライラしているってこと?」

「嫉妬だよ。君は他者の嫉妬を煽るんだ」無意識に眉を顰める希佐を見て、アランは更に続けた。「技術面では自分の方が明らかに優っているはずなのに、なぜか敵わないと感じさせることがある」

 他者の才能に嫉妬する。その気持ちはよく分かる。どう足掻いても自分には手に入れようのない何かがその人には備わっていて、思わず無い物ねだりをしてしまうような感覚に近い。自分がいくら努力し、励んでも、手に入らないものを持っている誰かに、希佐は嫉妬してしまう。

「キサ」希佐が黙っていると、バージルが声を掛けてきた。「お前、疲れてるか?」

「え、ううん。アランはずっと運転をしていたから疲れていると思うけれど、私は助手席で座っていただけだし、全然──」

 そう話している間にジャケットを脱ぎはじめたバージルを見て、希佐は言わんとしていることを察すると、アランの方に目をくれる。すると、好きにしろとでも言うふうに肩をすくめて見せたアランは、再び事務室の中に姿を消した。

「イライアス、怒らない?」

「怒る?」

「あまり喜ばないと思うけれど」

「それが狙いだろうが」

 だが、イライアスがチャリティーイベントで踊る予定のダンスは、バージルが振り付けたものだ。あまりの格好良さに自分でも踊ってみたいからと、グラスミアで自分の課題曲を稽古していた合間に、息抜きも兼ねてこっそり踊っていたとは言い出せない。しかし、振り入れをしている途中で、バージルから訝しげな眼差しを向けられ、希佐は懺悔せざるを得なくなった。

「じ、実は、振りは全部入ってるんだ」へへ、と誤魔化すように笑いながら、希佐は言う。「バージルの振り付けが格好良くて、イライアスが踊っているのをずっと見ていたら、自然と覚えてしまって」

「そう言ってもらえるのは素直に嬉しいけどな、そういうことは先に言ってくれ」

「ごめんなさい」

「とりあえず、確認も兼ねて最後まで続けるぞ」

「はい」

 バージルが踊る姿はとにかくクールだ。酷く難しいステップを軽々とこなし、そこに遊びを加える余裕すらある。視線の使い方も巧みだ。きっと、バージルは舞台上でも、希佐にそうして見せるように、観客の一人一人の目を見ながら踊っているに違いない。だから、バージルは人の心を掴むのが上手いのだ。本気で口説かれているような錯覚すら覚える。

 同じような戦い方をしても勝ち目はない。似たような人物像を想像して踊ったところでつまらない。そもそも、自分にはバージルのような色気はないのだと、希佐は思う。

 希佐がこの歌から受ける印象は、バージルが仕立て上げた色気たっぷりな主人公像とは違い、それよりも若い青年が、バーで年上の誰かと出会い、恋に落ちるという物語だった。恋愛経験は豊富にあっても、本当の意味で恋に落ちたことのない青年が、友人と共に出会いを求めて立ち寄ったバーで、本気になれる相手と出会う。

 今日はここまでにしておこうと言われ、希佐はバージルの言葉に同意を示した。ポトフの匂いを嗅いでしまってからこちら、空腹とも戦っていたのだ。時刻は午後十時をとうに過ぎてしまっていた。

「バージルはどうする?」

「帰って寝る」

 分かったと頷きながら汗を拭っていた希佐は、ふと思い出して問いかける。

「そういえば、ハンナは? 今も預かってもらっているの?」

「今も郊外で悠々自適な暮らしの真っ最中だ。頻繁に行き来させると、それはそれでストレスになるからな。俺が会いに行ってやればいいだけの話だし」

「私もハンナに会いたいな」

「今度一緒に行ってみるか?」

「いいの?」

「ああ」約束なと言って、バージルは笑う。「それからな、キサ」

「ん?」

「今度のチャリティー、お前が出られる保証はないっていうのは分かってるんだが」

「うん」

「俺と一曲踊ってみねぇか?」

「……え?」

 希佐は唖然とした面持ちでバージルを見上げた。想像だにしていなかった誘いを受け、頭の中が一瞬にして真っ白になる。手に持っていたタオルが足元に落ちると、バージルは腰を屈めてそれを拾ってくれながら、穏やかな口振りで話し出した。

「ああ、いや、キサがアランと踊りたがっているのは重々承知してる。そっちは諦めて、俺と踊ってくれって言ってるわけじゃないんだ。ただ、この機会を逃すと、お前は次の舞台で忙しくなるだろ。カオスの次の公演だって目処は立ってない。それに、今度の舞台が終わったら、お前、日本に帰るって言ったからな」

「バージル……」

「多分、お前があいつと踊りたいって思うのと同じくらい、俺はお前と踊りたいって思ってる」

 どこか神妙な面持ちで、考えておいてくれと言ったバージルは、いつものように希佐の頭を少しだけ乱暴に撫で、スタジオを出て行った。外側から扉が施錠される音のあと、エンジンが掛けられ、それもすぐに遠ざかっていく。

「……あ、お土産、渡すの忘れちゃった」

 希佐はぽつりと呟き、鏡の中に映っている自分の姿に目を向けた。結い上げていた髪が僅かに乱れているのを見て取り、バレッタを外すと何度か手櫛で整えてから、手渡されたタオルを見下ろした。

 言われてみれば、確かに、希佐とバージルが公の舞台で共に踊ったのは、一年以上前の劇団カオスでの公演が最後だった。イライアスと組むことが多くなってからは、直接的な絡みは明らかに減り、初公演のときのようなダンスは、とんと披露できていない。また組んで一緒に踊りたいと口では言っているものの、そのための働きかけはしてこなかった。

 希佐は軽くストレッチをしてから、スタジオにモップを掛け、戸締りの確認をしてから、マットを小脇に抱えて事務室に向かう。パソコンの電源は既に落とされていて、アランの姿も見当たらない。

 二階に向かっていると、シャワーを浴びていたのだろう、髪から水を滴らせながら、階段を降りて来ようとするアランと鉢合わせた。

「呼びに行こうと思ってた」アランは身を引き、希佐が上がってくるのを待っている。「バージルは?」

「帰って寝るって」

「そう」ポトフを温めておいてくれたのか、キッチンスペースには食欲をそそる良い香りが漂っていた。「先にシャワーを浴びてきたら。お湯も張ってある」

「疲れているのに、ありがとう」

「ついでだから」

「ご飯、先に食べてていいよ」

 希佐がそう言いながら爪先立ちになると、アランは無意識にか、僅かに身を屈めて顔を寄せてくれる。希佐は頬にキスをし、アランの脇を通り越して、一度自分の部屋に戻ったその足でバスルームに向かった。

 いつもと変わらない日常を送っているつもりでも、これが最後になるのかもしれないと、そう思うことが増えていたのは事実だった。いろいろなことに対して前のめりになってしまうのも、これが原因だ。

 後悔がないようにしたい。そのためには、自分や誰かに嘘を吐いている暇はない。

 ときどき、考えている時間すら惜しいと感じることがある。今、まさにこの瞬間、考えるよりも先に行動をするべきだと、そう強く感じることがある。立ち止まっている時間すら惜しいのだと。

 生き急いでいる──その自覚は、間違いなくある。

 バージルと踊ることだってそうだ。この機会を逃したら、もう一緒に踊ることはできないのかもしれない。そう思うと、重たい焦燥感に駆られ、落ち着かない気持ちになった。

 あまりバスルームに長居をしていると、アランがまた心配をするので、希佐はマッサージを終えると、すぐにバスタブから上がった。栓を抜き、湯が排出されるのを待つ間に、身ごしらえをする。辺りの水気を拭い、バスタブの中を軽く洗浄してから出ていくと、アランは食事を先に済ませることなく、キッチンで待ってくれていた。

 だが、アランは椅子に座ったままぼんやりと画面を眺めているだけで、手元は何の仕事も行ってはいない。その酷く眠たそうな様子を目の当たりにし、希佐は仕方なさそうに笑う。

「先に食べてよかったのに」ノートパソコンの画面を閉じ、椅子から立ち上がろうとするアランの肩を、希佐はそっと押し戻した。「座ってて。私がするから」

 アランは免許を持ってはいるが、頻繁に車を運転するわけではない。ロバートにどうしても外せない用向きがあるときにミゲルの送迎を代わったり、大きな買い物をするときに運転をする程度だ。基本的には出不精で、ロンドン市街から出ることもないので、移動はもっぱらタクシーに頼り切りだった。

 そんな人が何時間も車を運転し続けるという緊張状態にあったのだから、その疲労感は計り知れない。

「運転、本当にお疲れさま」希佐がそう言うと、アランは小さく頷いた。「何事もなく帰って来られてよかったね」

 スープ皿に取り分けたポトフをテーブルに置く。ナイフとフォークを取り出し、紙ナプキンの上に並べて置くと、冷えた水をグラスに注いで、アランの隣に腰を下ろした。

『いただきます』

 希佐が両手を合わせて日本語でそう口にすると、アランは半分寝ぼけたような様子のまま、黙って同じように両手を合わせていた。

 ポトフはフランス料理だが、アイルランドにも、コードルという似た料理がある。ダブリンの郷土料理で、ベーコンなどの肉や、じゃがいも、玉ねぎ、人参などの野菜を一緒に煮込んだものだ。コードルという名称はフランス語を語源としていて、ゆっくり煮る、などの意味合いがあることを知ったのは、フランス語を勉強しはじめた、つい最近になってからのことだった。

 ダブリンで暮らしているときは、このコードルをよく食べていた。毎日のように足を運んでいたパブの看板料理だったのだ。希佐がお腹を空かせて現れると、店員がこれと一緒にバゲットをサービスしてくれたり、馴染みの常連客が奢ってくれることもあった。

「随分遅かったなぁ、キサ」懇意にしてくれていた常連客の声が、不意に蘇ってきた。「今日はどこの掃除をしてきたんだ?」

 口周りにたっぷりとした髭を蓄えている男が、とりわけ希佐を気にかけてくれていた。別れた妻との間に、希佐よりも若い娘がいて、今はイギリスに移住し、離れて暮らしているという話を何度も聞かされていた。

「今日は地下にある古い小さな劇場でした」希佐がいつもより遅い時間に現れると、その常連客は既に酔いが回った赤ら顔で、カウンターの隅のいつもの席に腰を据えていた。「このパブのすぐ近くですよ」

「ん? ああ、あの薄気味悪い階段がある、見るからに怪しげな感じのところか」アイザックはヒックと大きく吃逆をした。「お前さんみたいな若い子が、ああいう危険そうなところに行くのは、全くもっておすすめしないねぇ」

「演劇サークルの学生さんや若い役者さんたちが、オーナーのご好意で安く借りられる劇場だそうですよ。今日は地元の大学の演劇サークルの公演があったとかで。大盛況だったみたいです」

 ここの劇場へは、それからも何度か清掃に入った。地下へ続いている階段の壁には、劇団員やバンドのメンバーを募集する張り紙などがされていて、希佐はそれを眺めているのが好きだった。清掃に入るたびに、毎回張り紙を興味深そうに眺めている希佐を見て、何度かオーナーから声を掛けられたことがある。

「君は留学生?」首を振る希佐を見て、オーナーは続けた。「よく清掃に来てくれるけど、違法に働いているわけではないよね?」

「ワーキングホリデー制度で滞在しています」

「ああ、いや、すまない」希佐の表情が不服そうに見えたのか、オーナーはすぐに謝罪してくれた。「君の雇い主が──まあ、言うなれば私の友人なんだが、前に就労許可の下りていない若い子を働かせていた前科があってね。お役所にバレるとこちらもとばっちりを受けるものだから。不躾な物言いをしてしまって、申し訳なかった」

「いえ、大丈夫です」

「君はいつもここの張り紙を眺めているね。演劇に興味があるの?」目をじっと見つめ返しはするものの、何も言おうとしない希佐を見て、オーナーは先を続けた。「それとも、バンドの方かな」

「あの、すみません、ただ見ているだけなんです」

「そうなのかい?」

「私は舞台を観るのが好きで」希佐は何と言えばいいのか分からなかった。「ただ、それだけです」

 今ほど上手く英語を話すことができなかった希佐は、ほとんど逃げるようにしてその場を後にしたことを覚えている。それ以降、清掃には入っても、壁の張り紙を眺めることはやめてしまった。

「──キサ?」ポトフを口に運びながら物思いに耽っていると、アランの声で現実に引き戻される。「どうしたの」

「えっ? あ、ごめんなさい、少し昔のことを思い出してしまって」

「昔のこと?」

「ダブリンで暮らしていたときのこと。ほら、アイルランドには、ポトフに似たコードルという料理があるでしょう? よく行っていたパブでご馳走になったなぁって」

「初めて聞いた」

「そうだった?」

「君はあまりダブリンでのことを話さない」

「聞きたかったの?」

「話したくないんじゃないの」

「どうして?」

「分からない」アランはそう言って首を横に振る。「そんな気がしただけ」

 食後、希佐が食器を洗っていると、一度は自分の部屋に引き上げていったアランが戻ってきて、背後からそっと抱きすくめてきた。両腕の中にすっぽりと包み込まれたまま、肩越しに後ろを振り返ると、唇にやわらかいものが触れる。

「嘘だ」

「え?」

「俺が聞かなかっただけで、君が話してくれなかったわけじゃない」希佐はその言葉に目を瞬いてから、小さく笑った。「ごめん」

「どうして謝るの」

「君のせいにした」

「誰のせいでもないよ」

 先にベッドへ行っててと言って唇にキスを贈ると、アランはまるで深呼吸をするかのように大きく息を吐き出してから、希佐の腰に回していた腕を解いた。そして、未だしっとりと濡れている髪に触れ、きちんと乾かすように言い残してから、ゆっくりと踵を返す。

 キッチンの後片付けを終えた希佐は、目紛しく飛躍する思考を頭の中で整頓しながら、洗面台の前で髪を乾かしていた。

「あっ……」

 しかし、グラスミアにいた頃と同じバラの香りに包まれていると、不意に、無事に帰宅したことを、レオナール・ゴダンに連絡し忘れていたことが脳裏をよぎる。

 間違いなくアランが連絡しているとは思ったが、希佐は部屋着のポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、短いメッセージだけでも送っておくことにした。

 しゃこしゃこと歯を磨いていると、ゴダンからすぐに返事があった。

《無事にロンドンまで辿り着いたようで何よりだよ。長旅、お疲れさま。道中どこかに立ち寄ったのかな。どこを切り取っても美しい景色ばかりだっただろう? まあ、君たちが見た朝焼けに勝る美しさとは、出会えなかっただろうとは思うけれどね》

 ゴダンから届いたメッセージの中に、既にアラン・ジンデルから連絡をもらっているよ、などという文言は認められていなかった。そういったところに大人の配慮を感じ取っていると、すぐに次のメッセージが届く。

《きっと、君のことだから、帰宅して早々に稽古をはじめているのだろう。ヘスティアでチャリティーイベントが行われる頃には、撮影も一段落しているはずだ。時間が合えば、是非足を運ばせてもらうよ。僕も君の成果を見届けたいからね。このメッセージへの返信は不要だ。今宵は、美しい男の隣でぐっすりおやすみ》

 返信は不要と言われても、無言のまま画面を閉じるのは何だか憚れるような気がして、希佐はナイトキャップを被った黒猫が枕を抱えているイラストに、nighty-nightとメッセージが添えられているスタンプを送った。

 口を濯ぎ、磨き残しがないかを確認してから、洗面台に置いていたスマートフォンに手を伸ばそうとすると、それがブブブと振動する。すぐさま画面を開いた希佐は、同じスタンプが送り返されてきた事実に、思わず失笑してしまった。

 希佐はバスルームとキッチンの電気を消し、小さく欠伸を漏らしながら、アランの部屋に足を向けた。軽くノックをしてからドアを開けば、アランが仰向けの格好で、ベッドに横たわっている姿が見える。希佐がそちらに歩み寄って行き、スマートフォンを机の上に置いていると、アランの緑の目がこちらに向けられた。

「ダブリンではね、清掃のお仕事をしていたんだ」希佐がそう言うのを、アランは黙って聞いている。「その会社はあまり評判の良いところではなくて、それなのにどういうわけか、仕事が次から次へと舞い込んでくるの。どうしてだと思う?」

「格安で請け負うから」

「そう」希佐はアランが持ち上げてくれた布団の中に体を滑り込ませながら、こくりと頷いた。「就労資格のない留学生とか、不法滞在者とか、違法性のある人たちを雇って働かせたりもしていてね。社長はそれすら人助けだと言ってた。必要としてる人の手元にお金を届けるのが、神様から仰せつかった自分の勤めだって」

「君はなんでそんなところで働いてたの」アランは渋い顔をして尤もなことを言う。「他にいくらでも選び様はあったと思うけど」

「そうだったんだろうね」希佐は横を向いたアランと向き合いながら、苦笑いを浮かべた。「でも、当時の私はまだ今みたいに英語を話せなかったし、選べる仕事が少なかったんだ。外国で生きていくための処世術みたいなものも分からなかった。仕事を斡旋してもらうにしても、語学力が乏しいと雇ってもらえなかったりもして」

 アランの瞼が、重たそうに瞬きをするのを見て、希佐はくすりと笑った。

「寝ていいんだよ」

「聞きたいんだ」

 アランが今日みたいに甘えてくるのは酷く珍しいことだから、希佐も思わず嬉しくなって、つい甘やかしてしまう。

「よく行っていたパブの近くに、小さな地下劇場があってね」希佐はアランの髪を梳いてやりながら続けた。「私を雇ってくれていた清掃会社の社長のお友達が、そこのオーナーさんで、何度か掃除に呼ばれているうちに、少しずつお話をするようになったんだ。私のことをとても気に掛けてくれてね、別の働き口を紹介してくれたの」

「今度は何の仕事?」

「マーケットの棚卸。あと、週末は広場で青空市が行われるんだけど、そこで青果販売のお手伝いとかもしたよ。仕事が終わると、余った野菜とか果物を分けてくれるから、それがとても助かってた。みんな、ちゃんと食べてるかって心配までしてくれてね。牛乳とか、チーズとか、お肉なんかも持たせてくれたりして」

「君はどこにいても人の縁には恵まれてるんだな」

「うん、私もそう思う」でもね、と言いながら、希佐は肩を震わせて笑う。「一番の問題は、私が住んでいたアパートにあって」

「うん」

「ホームページの紹介写真では綺麗なお部屋だったのに、いざ入居してみたら、びっくりするくらいボロボロで、床板が腐ってふかふかになってるようなところだったの。備え付けの家具も結構壊れていて、冷蔵庫はほとんど正常に機能していなかった。せっかく食材を分けてもらっても保存しておけないから、ご近所さんに食べてもらおうと思って配り歩いているうちに、少しずつ仲良くしてもらえるようになったんだ。外国人だから最初は警戒されていたみたい。右隣はお母さんと男の子が二人で暮らしていて、左隣には若い芸術家の男性カップルが住んでた。一人は画家で、もう一人は作曲家。素敵な人たちだったよ」

 アランが言うように、自分は人との縁には恵まれていると、希佐は強く思う。

 海外暮らしの最初の一年を何とか乗り越えることができたのは、こうした素晴らしい人々との出会いがあったからだ。困っていると必ず誰かが救いの手を差し伸べてくれた。生きることだけで精一杯だった希佐を笑う者は誰もいなかった。

「住んで半年くらいのときに、腐った床が抜け落ちて、家主さんから高額の修理代を請求されそうになったんだけど、そのときも劇場のオーナーさんが助けてくれたんだ。彼が必要なら弁護士を立てると言ったら、家主さんはくるっと手のひらを返して、修理代は受け取らないって。でも、大工さんが入るから、一時的にその部屋から出て行くことになった私に、劇場のオーナーさんが自分もアパート管理をしているから、修理が終わるまではそこで暮らしなさいって言ってくださったの。オートロック式の立派なアパートでね、住んでいた部屋と同じ家賃で、丁度二ヶ月お世話になった。ビザが切れるまでここにいたらとも言ってくださったけれど、ご近所さんと離れるのが嫌で、前のアパートに戻ったの」

 その劇場のオーナーとは今でも連絡を取り合っている。希佐が、今度小劇場の舞台に立つと言うと、飛行機に乗り、海を越えて観に来てくれることもあった。きっと、今度の舞台のことを知らせたら、まるで我が子のことのように喜んでくれるだろう。

「あのね、アラン。さっき、バージルが──」

 希佐はそう途中まで言いかけるものの、アランの息遣いが深くなっていることに気づき、思わず口を噤む。

 静かに上半身を起こし、右手を伸ばしてアランの体越しにライトを消すと、ベッドを揺らさないように体を横たえた。毛布の中に潜り込み、アランの胸元に顔を埋めれば、背中に腕が回される。

「……バージルがどうしたって?」

「明日話すよ」

「そう」

 離れているところがないように、ぴたりと身を寄せて足を絡めれば、アランは希佐の頭にキスをしてから、寝惚けているようなぼんやりとした声で、おやすみ、と言った。

 あと何度、どこよりも安心できるこの場所で眠ることができるのだろうと、希佐は考える。あと何度、自分よりも高い体温に包み込まれながら、この心地良さに身を委ね、朝を迎えることができるのだろう。そんなことを考えているうちに、このまま眠るように死んでしまうことが、何物にも代えがたい幸せなのかもしれないと、そう、希佐は思った。

 

 

 

 

 

 毎週末は私書箱宛に届いた荷物を受け取りに行く。ほとんど機能していないインスタグラムのアカウントにも住所を記載しているので、ファンからの手紙や贈り物は、そこへ届けられるようになっていた。

 SNS上では、そのインスタグラムのアカウントも、私書箱の住所も偽物で、イライアスの成りすましだという噂があるらしい。フォロー人数は0、フォロワー数は100人程度だ。この中途半端なフォロワーの人数が、偽物説を濃厚にさせている。

 ノアから半ば強引にアカウントを作成するよう強要され、アイリーンから送られてきたアフタヌーンティーの画像を試しにアップロードした状態のまま、更新は完全に停止していた。コメント欄には《イライアスがアフタヌーンティー? 本当に成りすましたいなら、彼のことをもっと勉強しなさい》や《匂わせはやめて》など、良く分からないことばかりが書き込まれている。

 どういうことだろうと思い、アイリーンに訊ねてみると、彼女は呆れた顔をして、自分のアカウント上にアップロードされた、同じ写真を見せてくれた。

「私と同じ写真をあげているから怪しまれているのよ。昔からそうよね、私とあなたが恋人同士だとか、許嫁だとか、そういう根も葉もない噂ばっかりで本当にうんざりしちゃう。だから、あなたのファンはみんな私のことが大嫌いなのよ」

「この写真、いつ撮ったの?」

「随分前に、ホテルの支配人から試作品を試してほしいと招待を受けたから、キサを誘ってアフタヌーンティーに行ったの。そのときに撮ったものよ。あの子、私よりたくさん食べるのに、どうしてあんなに細いのかしら」

「体質の問題だから仕方ない」イライアスとアイリーンは、食事に気をつけないと、すぐ体型に表れてしまう。「キサは太れないんだよ。ルイから食生活の指導もされてるけど、たくさん食べて毎日のトレーニングを継続しないと、筋肉量がどんどん落ちて、体重が減っていく。あの身長であの体重は痩せすぎだと思う」

「悩みって人それぞれね」

 アイリーンは決して太っているわけではない。バストにボリュームがあるので、そのように感じられるだけなのだ。ティーンになり、女性らしい体つきになってきた自分の体を見下ろして、アイリーンは絶望したような顔をしていたことがあった。

「今、誰かがデブって言った」

「アイリーンは太ってない」

「みんながジロジロ見るの」

「僕のことを見てるんだ」

「こんな脂肪の塊いらないのに」

「いらなくないよ」

 成長期、イライアスは体を壊して入院したことがあった。過度な食事制限をしたせいだった。体の成長のために必要な栄養が足りず、ある日、朝になってもベッドから起き上がることができずにいると、そのまま病院に運び込まれてしまった。

「お母様が、イライアスが倒れたのは自分のせいだって、一人で泣いてた」

 救急車で病院に運び込まれ、医者に叱られても、特に何も感じなかった。だが、アイリーンの母親が泣いていると聞かされたときは、酷く胸が痛んだ。

「アイリーンもちゃんとご飯を食べないと、こんなふうになるよ」点滴の管に繋がれたイライアスを見ていたアイリーンの目には、じんわりと涙が浮かんでいた。「アノレクシアの一歩手前だって。体が重たくなると踊りにくくなるから、食べたくなかったんだ」

 幼い頃は体が軽く、何の苦労もせずに、自分の体を自在に動かすことができた。だが、人間の男性として体が成熟しはじめると、身長が伸び、筋肉量が増え、体が重たくなる。イライアスは自分の体との付き合い方が分からなくなった。

「私も一緒にお勉強をします。だから、約束してください」真っ白い壁、真っ白いカーテン、真っ白いベッドのある病室で、アイリーンの母親は言った。「ご飯は毎日一緒に食べましょう」

 強い女性だと思っていた。その人が、血の繋がった子供でもない自分のために、目を真っ赤に泣き腫らし、声を震わせ、両手を握り締めて懇願していた。

 そのときになってようやく、自分はこの人に愛されていたのだと、イライアスは思い知った。そして、もう二度とこの人を悲しませることだけはしまいと、そう心に決めたのだ。

 そんな母親とアイリーンは良く似ている。更にその母親、アイリーンの祖母も、娘や孫娘と、面白いくらいに良く似ていた。まるで姉妹のように仲の良い三人だった。

 貴族同士の結婚は、未だに政略的なものも多く、親が決めた相手と結婚することも珍しくはない。アイリーンもいずれそうなるように、その母親も、その母親の母親も、一族の慣わしに従って、親の決めた相手と結婚をさせられてきた。

「お祖母様はね、お祖父様と初めてお会いしたその瞬間に、恋に落ちたんですって」生涯の伴侶となる相手と初めて会ったのは、自分たちの結婚式の日だったらしい。「お祖父様は、お祖母様の写真をご覧になってすぐに、自分は絶対にこの人を幸せにすると誓われたそうよ」

 政略結婚の中の、酷く珍しい、幸せな家庭の形が、そこにはあったのだという。

 しかし、夫が病に倒れて命を落とすと、妻は悲しみに暮れ、未亡人として喪服に身を包み続けた。娘の結婚式にすら、喪服で参列したという。

 そのアイリーンの祖母が、先日他界した。

 ジョシュアとの歌の稽古を終え、これからダンスの自主稽古をしようとスタジオに向かっている道すがら、スマートフォンがアイリーンからの着信を告げた。

『今、大丈夫?』イライアスが電話に出ると、アイリーンが静かに言った。『ごめんなさい、移動中だった?』

「歌の稽古が終わったところ」

『そう。うん、じゃあ、これからの予定は?』

「今日の?」

『ええ』

「スタジオに行ってダンスの稽古をしようと思ってるけど」

『申し訳ないけれど、それはキャンセルしてもらえない?』電話口の向こう側から、微かに鼻を啜るような音が聞こえてきた。『私と一緒に実家に帰ってほしいの。実は、母から連絡が来てね。ついさっき祖母が亡くなったって』

「……え?」

『びっくりしたでしょう?』私もびっくりしたわとアイリーンは言った。『もうずっとお体を患っていらしたんですって。でも、私たちに心配をかけたくないから、母に口止めをしていらしたそうよ。クリスマスにお会いしたときは、とてもお元気そうだったのにね』

「僕はどこに行けばいい?」

『ユーストン駅で待ち合わせましょう。彼と一緒に向かうわ。直近の列車のチケットを三枚買っておいてくれる?』

「分かった」

『ありがとう』

 アイリーンと婚約者は発車時間ギリギリに現れ、三人は列車の扉が閉められる寸前に、何とか乗車することができた。アイリーンの大きなトランクを抱えていた婚約者は、大変に呼吸を乱しながら、額から大量に吹き出した汗をハンカチで拭っていた。

「ごめんなさい、エヴァン。重たかったでしょう?」

「いや、羽のように軽かったよ」

「無理しなくていいのよ」アイリーンは青ざめた顔に笑みを浮かべ、今度はイライアスに目を向ける。「ありがとう、イライアス。あなたのおかげで助かったわ。チケット代は後で払うわね」

「いいよ、気にしないで」

 少し休みたいと言った婚約者のエヴァンは、発車後間もなくすると、アイリーンの肩に寄り掛かって眠ってしまった。アイリーンは自らの肩に掛けていたストールを外すと、それをエヴァンの膝に掛けてやっていた。

「スタジオに連絡は入れた?」

「アランにメッセージを送っておいた」

「返事は?」

 イライアスはコートのポケットをまさぐって、もう何年も買い替えていないスマートフォンを取り出した。もう随分前に、アラン・ジンデルからの返事は届いていた。

「分かった、だって」

「なんて送ったの?」

「アイリーンのお祖母様がお亡くなりになったから、一緒に実家に戻る」イライアスは小さな傷がたくさんあるスマートフォンの画面をアイリーンに見せた。「お悔やみをって」

 I’m so sorry that your grandmother has passed away.──定形文のように並ぶ文字列を見て、アイリーンは思わずというふうに苦笑いを浮かべていた。

 このとき、アランと希佐が自分たちのダンスのことで悩んでいた時期で、正直なところ、アイリーンの家族の不幸について伝えるべきかどうか、イライアスは少しだけ迷っていた。だが、自分から伝えた方が、アイリーンが傷付かずに済むような気がして、イライアスは事実だけを簡潔に伝えることを選んだのだ。

 アイリーンの祖母は、自らの大きな邸宅を息子に託し、老後はアイリーンの母親が管理している、ライダルの別荘で暮らしていた。保養のためでもあったらしい。

 朝、祖母を起こしに寝室へ向かった使用人が異変に気づき、すぐにお抱えの医者を呼んだが、そのときにはもう息絶えていたそうだ。運び込まれた病院で検死を終えたあとは、実家に連れ帰られた。死因は、老衰だったという。

 実家に戻ってきた三人を出迎えたのは、アイリーンと同じように青ざめた顔をした母親のエレノアだった。だが、誰よりも毅然と振る舞う姿は、イライアスがかつて信じていた、この人の強さを体現していた。

「三人とも、おかえりなさい」エレノアは笑みを浮かべ、静かに言った。「突然のことだったのに、こうして帰って来てくれて、本当にありがとう」

「お母様──」

「あらあら」エレノアの顔を見るなり、堰き止めていた感情が溢れ出してしまったのか、アイリーンは大粒の涙をこぼしながら、その胸の中に飛び込んだ。「泣くなとは言いませんが、時と場所をわきまえなさい、アイリーン」

「……はい」

「荷物は使用人が預かります。イライアス、あなたの荷物はそれだけ?」

「出先からそのまま来たので」イライアスはジャージの上にモッズパーカを羽織り、いつものバックパックを背負っているだけだった。「すみません」

「謝らなくていいのよ。でも、そのままの格好で教会には行けないわね。あなたの昔のお洋服はまだ着られるかしら。あとで見てみるわ」

 アイリーンの祖母は屋敷の三階の東側、彼女自身が気に入っていたコンサバトリーのある部屋に安置されていた。自らの邸宅ではなく、娘の嫁ぎ先に連れ帰られたのは、生前の本人の意向でもあったのだという。

 葬儀は可能な限り質素に、家族だけで執り行いなさい。私の残りの財産はすべて、いつもの団体に寄付すること。ただし、私の所持品で何か欲しいものがあるのなら、一人一つだけ、持ち出すことを許します。

 それが、彼女の短い遺言だった。

 穏やかに、眠るように、微笑んですら見えるような安らかな顔で、アイリーンの祖母は、天蓋付きのベッドに横たわっていた。

 初めて見た人の死に顔は、産みの母親のものだった。目は落ち窪み、頬はげっそりと痩けて、まるで骸骨のようだと、幼い頃のイライアスは思ったものだ。その恐ろしい形相が脳裏に焼き付いていたからこそ、イライアスはこの人の死に顔を、酷く美しく感じたのかもしれない。

 彼女の存在はあまりに鮮烈で、短い会話の一つ一つを思い出せるほどに、言葉の美しい人だった。

 子供の頃、アイリーンの父親が部屋を一つ改装して、娘のためにバレエのレッスン室を作った。でも、アイリーンはバレエに対して真面目ではなく、そのレッスン室が使われることはあまりなかった。

 イライアスがここで暮らすようになってからは、アイリーンに代わってレッスン室を利用するようになり、ロンドンの学校に通うようになるまでは、ほぼ毎日足を運んでいた。その部屋は今もあって、実家に連れて来られるたびに、必要以上に摂取してしまったカロリーを消費すべく、何時間か悪足掻きをする。

 あの日は、目が冴えて眠ることができず、イライアスはレッスン室に足を向けると、特にこれといった当てもなく、ただ戯れに踊って夜を明かそうとしていた。

「こんにちは、坊や」

 この家に引き取られてきたばかりの頃、お城のようなお屋敷の威圧感に圧倒されていたイライアスは、多くの時間を裏庭にあるガラス張りの温室で過ごしていた。そこには見たこともない植物がたくさんあって、季節を問わず、いつでも何らかの花が咲いている。

 この家で雇われていた庭師は、連日温室にやって来るイライアスを当初は不思議に思っていたようだが、そのうちに花の名前や種類、育て方などを教えてくれるようになった。この家のバラの庭園は本当に見事で、庭師は代々そのバラの庭園を守ってきたことに、強い誇りを持っているようだった。

 そんなある日、庭師のところへ行って、花瓶に飾るバラを受け取って来てほしいと頼まれたイライアスは、朝食を終えてすぐに庭遊び用の靴に履き替えると、裏庭に向かって駆けていった。庭師を探して温室に向かうが、そこに彼の姿はない。バラの手入れをしているのだろうかと庭園の方へ足を向けてみれば、そこには、見知らぬ女性が一人、佇んでいた。

「あら、まあ」その女性は、イライアスを振り返り、優しく微笑んだ。「こんにちは、坊や」

「こ、こんにちは……」

「この庭園はいつ来ても本当に美しいけれど、やっぱりバラのシーズンが一番素晴らしいわ」

 それが、アイリーンの祖母だった。名前を、オリヴィアという。そのときも黒いドレスを着ていた。今思えば、あれも喪服だったのだろう。小さな黒い帽子を被り、顔には黒いレースのベールを掛けていたが、なぜか、足元は裸足だった。

「どうして裸足なんですか?」

「この方が気持ちが良いでしょう?」

「……そうなの?」

「坊やも裸足になってごらんなさい」

 イライアスは言われるがまま、靴と靴下を脱ぐと、未だ朝露でしっとりと濡れている芝生の地面にそっと足を下ろした。すると、毛足の短い草の先端が、足の指と指の間に入り込み、こしょこしょとくすぐられるような感覚を覚え、イライアスは襟足の辺りにぞわりとした寒気のようなものを感じて、思わず肩を窄める。

 ぎゅ、と目を閉じたイライアスを見下ろし、オリヴィアはくすりと笑った。

「そう、あなたがイライアスなのね」自ら名乗るまでもなく、彼女はイライアスの存在を認知していた。「私は、アイリーンのお祖母ちゃんよ。オリヴィアというの。どうぞよろしくね」

 次に顔を合わせたのは、それから数年後のことだ。

 夏の休暇中は、毎年ロンドンの住まいではなく、湖水地方の実家に戻ってくる。午前中は庭仕事の手伝いをして、午後からはいつものレッスン室で、バレエの稽古を行うのが、毎日のルーティンだった。特に、お客さまが来る日は、朝から使用人がバタバタと忙しくしているので、イライアスは極力邪魔をしないですむように、レッスン室に籠っているようにしていた。

 だが、実際には籠るというよりも、隠れると表現した方が正しかったのかもしれない。イライアスは、自分が実家に滞在している間に客人がやって来ることを、酷く恐れていた。アイリーンの両親が自分のことを客人に紹介する度に、申し訳ないという思いを募らせていった。

 好奇や哀れみの目を向けられることには慣れている。しかし、アイリーンの家族──特に、エレノアに対して同情的な目が向けられる度に、イライアスの心は窮屈に軋んで、苦痛を覚える。

 英国でも上流貴族とされる家系から、ランクを落とした家系に嫁がされたというのに、旦那の昔の恋人の子供を引き取り、育てさせられている──この国の貴族社会では、それがエレノアに対する認識で、彼女自身がそれを否定することはない。

 自分さえその場にいなければ、その話題がティータイムの余興のように提示されることはないだろうと、イライアスはそう考えていた。だが、アイリーンが言うところによると、当人がいないときの方が、より酷い物言いをされていたという。

「お母様、顔には出さなかったけれど、とても怒っていたわ。あの人たちに対して我が家の門扉が開くことは、もう二度とないでしょうね」イライアスがいるレッスン室に入って来るなり、アイリーンはいつもぷりぷりと怒り出した。「慈善活動は貴族の義務ですものね、ですって。あの人たち、お母様があなたを引き取ったのは、慈善活動の一環だと言ったのよ? 一体何様なの? もう、本当に、信じられない!」

「眉間に皺が寄ってるよ」

「定期的にここへ来るのだって、うちの金庫から多額の寄付金を巻き上げていくためだって、私は知っているのよ。意地汚い、偽善者、許せないわ……」

「そんなふうに言うのは良くない」

「だって──」

「たとえその人たちの行いが見栄や偽善だったとしても、何もしない人よりはずっと立派だと、僕は思う。そういう人たちに救われている人は大勢いるよ。僕も、本当に少しの間だったけど、施設で暮らしていたから分かる」

「イライアス……」

「僕は、君や君のお母様が──ううん、君の家族が、本当の僕を見て、知って、理解してくれていれば、それだけでいいんだ」

 子供ながらに得ていた微々たる収入のすべては、エレノアが管理してくれていた。ずっと自分の養育費に使われているものとばかり思っていたが、エレノアはイライアスが稼いでいたお金には一切触れず、成人を迎えたときに、全額が入金された銀行口座を渡してくれた。母親は息子が稼いだお金を、黙って使い込むものだと思い込んでいたイライアスは、その贈り物に酷く驚いたことを覚えている。

「これはあなたのお金よ、イライアス。好きなようにお使いなさい」

 イライアスはそのお金で、エレノアとアイリーンに色違いのストールを買って、贈った。プレゼントを受け取った二人は顔を見合わせると、仕方なさそうに笑ってから、嬉しそうにありがとうと言ってくれた。

 安い買い物ではなかったはずなのに、口座にはまだまだお金が残っていた。庭師には新しい剪定ばさみを、世話になった使用人たちにはイニシャルを刺繍したハンカチを贈った。それでもまだ、たくさんのお金が残っていた。

 収集癖のある父親には、職人に頼んで作ってもらった、トゥーシューズのモチーフが付いたネクタイピンを贈った。父親は実物を見るなりその表情を引き攣らせたが、形ばかりの感謝の言葉を口にすると、贈り物の箱をテーブルの上に置いた。

 そのネクタイピンは、他のコレクションと一緒に、美しく並べ立てられることはないのだろう。ただ、消し去りたい人生の汚点のように、どこかの引き出しの奥深くに仕舞い込んで、埃に塗れ、忘れられる瞬間を待ち望んでいるに違いない。

 幼い頃のイライアスはこの家で、いつも肩身の狭い思いをしていた。父親のせいだとは言わない。その眼差しに、穢らわしいものでも見るような冷たさを覚えていたのは、ただの被害妄想だったのかもしれないから。

 だが、そうした肩身の狭さを払拭してくれたのは、アイリーンの祖母、オリヴィアに他ならなかった。

 その日も、お客様が来るとだけしか伝えられていなかったイライアスは、来客がある前に必要な荷物を揃え、レッスン室に閉じ籠っていた。小腹が空いたときのためにと、厨房を借りてサンドイッチも作ってあった。

 しかし、七月の来訪者という時点で、イライアスは気付くべきだったのだろう。庭園のバラが一年の中で一番見事に咲き誇るのが、この七月なのだ。

 どれくらいの時間を踊り続けていただろう。窓の外に目をやれば、既に日は西向きに傾きはじめていた。この時期の日没は午後九時過ぎるので、そろそろ七時を迎える頃だろうと推測することができた。

 いつもなら、お客様が帰った頃にアイリーンが呼びに来てくれるのに──イライアスがそう思いながら水分を補給していると、不意に、背後で扉が開いた。

「まあまあ、そんなに汗だくになって」突然の声に驚いたイライアスは、手にしていた水筒を落としそうになってしまった。「そろそろお夕食の時間だから呼びに来たのだけれど、あなたはその前にシャワーを浴びる必要があるわね」

「あ、あの……」

「あら、私のことなんてもうすっかり忘れてしまったかしら」後ろを振り返り、目を丸くしているイライアスを見て、オリヴィアは少女のように笑う。「アイリーンのお祖母ちゃんですよ」

「覚えています」

「まあ、嬉しい」

 そう言いながらレッスン室に足を踏み入れたオリヴィアは、真っ直ぐにイライアスの方へと向かってくる。イライアスは慌てて両腕を前に突き出し、それ以上は近づかない方がいいと忠告をしてから、足元のタオルを拾い上げた。

「わざわざ呼びに来てくださって、ありがとうございます」

「無理を言ってアイリーンに代わってもらったの」

「無理を……?」

「あなたが踊っている姿を見てみたかったのよ」

「僕が踊ること、ご存知だったんですね」

「もちろんですとも」むしろ、なぜ知らないと思ったのだという顔をして、オリヴィアは驚いていた。「エレノアがいつもあなたのことを自慢げに話すの」

「え?」

「私の息子はすごいのよって」

 特に深い意味などなかったのかもしれない。ただ、便宜上そのように呼んでみただけなのだろうと、イライアスはそのように考え、気持ちを落ち着かせた。

「ねえ、イライアス」

「はい」

「何か踊って見せてくれないかしら」

 何か踊って見せてよ──バレエを習っている子供ならば、この言葉に嫌な思いをさせられた者は多いだろう。特に、男子の場合は女々しいだとか、気持ち悪いだとか、そういう言葉を重ねられることもある。

 フットボールやクリケットを習う子供の方がずっと健全らしい。

 そういうことは、自分よりも上手くフットボールやクリケットを出来るようになってから言ってほしいと思っていたが、喧嘩をするのが嫌で、イライアスはいつも黙ってその場をやり過ごしていた。そもそも、イライアスが言い返さずとも、どこからか噂を聞きつけてきたアイリーンが、そういう連中を叱りつけて回っていたのだが。

 それと、これは後から聞いた話だが、イライアスがバレエのことで嫌がらせを受けていると知ったエレノアが、その同級生たちを誘い、イライアスが出演する舞台を観に来たことがあったのだという。感銘を受けたとまでは言わないだろうが、大人たちの中で臆せず踊るイライアスを見て、何か思うところはあったのだろう。以来、嫌がらせを受けることは、少しずつ減っていった。

 少しずつ、少しずつ。

 本当に少しずつではあるが、着実に、以前よりも呼吸することが楽になっていた。

 イライアスがその場で、眠れる森の美女のブルーバードのヴァリエーションを踊って見せると、オリヴィアははしばみ色の目を輝かせ、上品な拍手を贈ってくれた。

「今度舞台に立つときは、お祖母ちゃんにも教えてくださいね」

 自身をお祖母ちゃんなどと呼称するには、あまりに若すぎるように見えるこの人は、まるで眩しいものでも見るように目を細めて、イライアスを認めていた。

「私はもうずっと長いこと独りで暮らしているけれど、ときどきお友達が訪ねてきてくれてね、そうすると、あっという間に家族の自慢大会がはじまってしまうのよ。私はいつも、にこにこ笑ってそのお話を聞いているの」

「あなたは自慢をしないのですか?」

「私が?」

「素晴らしいお嬢さんと、孫娘がいるのに」

「まあ」至極真面目な面持ちで言い切ったイライアスを見て、オリヴィアはくすりと笑う。「ええ、ええ、もちろん自慢しますとも。私には孝行者の娘と、天使のように可愛らしくてお歌の上手な孫娘がいるのよって」

「はい」

「それから、バレエの上手な孫息子もね」

「……え?」

「あら、あなたはエレノアの息子だもの。私にとっても大切な孫息子でしょう? 違う?」そうだとも、違うとも言えずに、黙りこくってしまったイライアスを見て、オリヴィアは優しげに微笑んだ。「血の繋がりはそこまで重要なのかしら」

「……分かりません」

「私はそうは思わない」オリヴィアはイライアスに歩み寄り、視線を合わせるために膝をつく。「娘からの養子縁組を断った自分に罪悪感を覚えているの?」

「……僕は、母さんを嫌いにはなれなくて」だから、捨てられなかった。「僕にバレエを与えてくれたのは、あの人だから」

「ええ、そうね」

「好きじゃなかったけど、嫌いにもなれない」

「ええ、それでいいと思うわ」

「養子に入らないと、家族にはなれませんか?」

「いいえ、そんなことはありません」オリヴィアはそう言いながら、まるで慈しむように、汗で濡れたイライアスの頭を撫でてくれた。「あなたはもう、私たち一族の大切な家族だわ。私はそう思っているし、娘夫婦も、アイリーンだってそう思っているはずよ。でもね、急いで家族になろうとする必要はないの。あなたのタイミングでいいのよ」

 いつまでも待っているわね──その言葉に、どれだけ救われたことだろう。

 だが、いつまでも待っていると言ってくれた人に、自分なりの答えを示すことができなかったことは、あまりに心残りだった。

 イライアスはレッスン室の鏡に向き合い、あのときのように、眠れる森の美女のブルーバードのヴァリエーションを踊る。間違いなく、あの頃よりもずっと上手く踊れるようになった。

 もう一度、あの人に、自分が踊る姿を見てほしかったと、イライアスは思う。

 今度の舞台も観に来てほしかった。去年のクリスマス、オーディションの合間を縫ってアイリーンとランダルの家まで会いに行ったときも、年末、舞台のオーディションに合格したと連絡したときも、とても元気そうだったのだ。

「おめでとう、イライアス」オリヴィアは電話越しでも分かるほどの、弾むような声でそう言ってくれた。「またお友達に自慢できることが一つ増えたわね」

 最初はただの哀れな子供としか見られていなかった。しかし、イライアスがダンスの世界で頭角を現しはじめると、周囲の目は一変した。哀れな子から、才能を買われた子という評価に変わった。施設では、見目が良く、才能のある子供から順番に引き取られていく。残酷だが、それが現実だ。イライアスも、自分がそうした目で見られていることを、子供の頃から自覚していた。

 だが、構わなかった。自分は運良く素晴らしい家族に引き取られ、幸せに暮らしている。人として尊重され、尊厳が守られ、そして何より、愛されていた。他人の声に耳を傾けるより、身内の声だけに、頬を寄せていたかった。

「ああ、イライアス。やっぱりここにいたのね」

 頭の中を空っぽにしたいときは、いつも延々とピルエットの練習をする。思考力と体力の両方が削られて、息切れを起こして倒れる頃には、大抵のことがどうでも良くなってしまうのだ。

 今回もそうした結果、床に倒れて呼吸を整えていると、スーツカバーを抱えたエレノアがレッスン室に入ってきた。床に寝転んだまま逆さまのエレノアを見上げていると、パチン、と部屋の電気が点けられ、イライアスはあまりの眩しさに目を細める。

「実家に帰ってきたときくらいゆっくりしたらどう?」

「眠れなくて」

「ええ、そうなのでしょうね」エレノアはどこか呆れたようにそう呟いてから、こちらに歩み寄ってくる。「あなたの昔のスーツは試してみた?」

「着られなかった」

 大学時代なんてほんの数年前のことだと思っていたが、そのほんの数年間で、イライアスの肉体は大幅に改造されていた。バレエを踊るだけでよかった体から、あらゆるダンスを踊るための均整の取れた肉体へと、この数年で作り替えていたのだ。

「これ、あの人のスーツなのだけれど、着られるかしら」

「シャワーを浴びたら試してみるよ」

「お願いね」

 床に倒れていた体を起こし、その場に立ち上がったイライアスは、エレノアの手からスーツカバーを受け取った。あの人というのはもちろん、アイリーンの父親のことだ。イライアスは未だに、自分の本当の父親とどのように向き合っていくべきなのかが、分からずにいる。

 だが、一つだけ分かるのは、この誰よりも心優しい女性が、自身の夫の前では、決して涙を流さないということだ。心を許した使用人や、アイリーンの前ですら、この人は泣くことがないのだろう。最愛の母親を失った悲しみを一人きりで抱え込み、薄暗い部屋のベッドの中で、人知れず枕を濡らすのかもしれない。

 そんなことは、あってはならないと、イライアスは思うのだ。

「エレノア」

「なにかしら」

 本当に仲が良かった。

 親子というよりも、姉妹のように。親友のように。

 毎年、バラの甘い香りが漂う庭園で、オリヴィアとエレノア、そしてアイリーンがアフタヌーンティーを楽しむ姿を見ているのが、とても好きだった。

「無理をしないで」

「え?」

「僕は誰にも言わないよ」

「まあ、一体誰に物を言っているの?」エレノアは微笑みすら浮かべながら言う。「あなたの目には私が無理をしているように見えるのね」

「うん」

 素直に肯定するイライアスを見上げ、エレノアはオリヴィアと同じ、はしばみ色の目を大きくする。そして、微笑んですらいた顔を少しずつ歪めていき、どこか恨みがましそうにも見える表情で、イライアスを睨んだ。

「酷いじゃないの、イライアス」

「うん」

「私、泣くのは嫌いなのよ」

「知ってるよ」

「この家で私を泣かせるのは、昔からあなたくらいのものだわ」

「うん、ごめんね」

 エレノアは大きく顔を歪めると、その双眸から大粒の涙をぽろぽろと零す。こんなに汗だくでなければ、少なくともシャワーを浴びたあとだったなら、目の前で泣いているこの人を抱き締めてあげられるのにと、イライアスは思う。

 だが、エレノアはそんなことなどお構いなしに、イライアスの胸に顔を埋め、さめざめと涙を流した。

 すべてを賭けたオーディションの最終審査に落ちて、父親との約束通りにエヴァンと婚約したとき、アラン・ジンデルを諦めたくないと泣いたアイリーンも、こうして自分の胸に顔を埋めて泣いていたことを、イライアスは不意に思い出す。

 この親子は泣くことが嫌いで、人前では決して涙を見せないのに、自分の前だけでは泣いてくれる。とても不謹慎だけれど、イライアスはそれがとても嬉しくて、同時に、幸せを覚えるのだ。

 翌朝、午前中の早い時間帯に、近くの街の花屋から、白いバラと百合、そしてかすみ草で飾られた豪奢なリースが届けられた。カードにはお悔やみの言葉と、アラン・ジンデルの名前が記されていた。

「こういうことをさらりと出来てしまうのよね、あの人って」

 他の誰と付き合おうと、他の誰と婚約をしようと、他の誰と結婚をしようとも、自分は生涯あの人を好きだと、アイリーンは言った。嫌いになれるわけがないのだ。あの人は、私の青春そのものだった──今なら、そう言ったアイリーンの気持ちがよく分かる。

 オリヴィアの葬儀は近親者のみで執り行われた。アイリーンが独唱した讃美歌、祖母が好きだったアメイジング・グレイスはまるで、曇天から地上へと伸びる光の梯子のように、小さな教会を明るく照らしてくれていた。イライアスは、アイリーンと一緒に選んだ、詩の朗読をした。

 彼女が残した決して少なくない遺産は、生前献身的に支援していた団体に残さず寄付されることになった。ライダルの別荘は再びエレノアの手に戻ったが、内装には手を加えず、そのままにしておくという話だ。

 イライアスは遺言に従い、オリヴィアの遺品を一つだけ貰い受けることにした。以前、エレノアとアイリーンにも贈った、色違いのストール。イライアスは、オリヴィアもそのストールを大切にしてくれていたことを、知っている。

「それにするの?」

「うん」イライアスはワインレッドのストールを手にしながら頷いた。「アイリーンは?」

「私は口紅をいただくわ。この色、お祖母様によくお似合いだったわね」

 ときどき、無性に寂しくなることがある。

 それは、悲しいとは少し違う。

 仲間たちに囲まれ、耳を塞ぎたくなるような騒がしさの中でも、ふと、寂しさを覚えることがあった。雑多な人混みの中にいて、一層孤独を感じるときの感覚とよく似ている。

 亡くなった人のお墓の前に立って、もう一度会いたいと、そう思うのは初めてのことだった。My lovely grandson.──戯れにそう言って、イライアスの出生も、人となりも、すべて丸ごと愛してくれた、偉大な女性だった。

「そういえば、先週末に出した宿題、考えておいてくれた?」

 水曜日の歌のレッスンを終え、イライアスが足元に置いていた荷物を拾い上げていると、使用した楽譜を片付けながらジョシュアが言った。

「一応」

「どうするの?」

「……僕にアンコールなんて掛からないと思います」

「そんなこと当日になってみないと分からないでしょ」ジョシュアは呆れたようにため息を吐く。「歌でもダンスでも、前もって準備をしておかないと。音を出してもらう都合だってあるんだから」

「はい」

「それで?」何も言おうとしないイライアスを見て、ジョシュアは続ける。「何をするつもりなの?」

「……歌を、歌おうかと、思って」

「へえ」ジョシュアは丸い目を大きく見開き、心底意外だという顔をした。「君ならダンスを選択すると思ってた」

「駄目ですか?」

「駄目なもんか。ぼくは嬉しいよ」

 アンコールについては明日話し合おうと言われ、イライアスは喉元まで出掛かっていた曲名を呑み込むと、小さく頷いた。

 スタジオに向かう道すがら、イライアスはポケットから私書箱宛に届いていた手紙を取り出し、それを読みながら歩く。もう何度読み返したか分からない。

 何年も前から手紙を送ってくれている女性で、近況には、最近母親を亡くしたと書かれていた。病気で入院している母親を看病しながら、自分へのご褒美のためにあなたの舞台を見ることだけが、唯一の楽しみだったと、そう認められている。

 こういう手紙が、ありがたいのか、はたまた迷惑なのか、イライアスにはよく分からなかった。ただ、この世界で誰かの死を悲しみ、悼み、寂しく思っているのは、自分たちばかりではないのだと、そう思うことができたのは幸いだった。

 イライアスは途中、雑貨屋に入ってポストカードと切手を一枚ずつ購入すると、隣接するカフェに入り、ペンを手に取った。あまり長くなりすぎないよう、簡潔にまとめた文章を書き上げ、それをポストに投函する。

 普段、ファンレターに返事は書かない。

 でも、今回だけは特別だった。

 今にも雨が降り出しそうな曇天の空を見上げながら、スタジオまでの残りの道のりを走る。どこからともなく雨の匂いがしはじめたかと思えば、イライアスがスタジオの庇の下に入るのとほぼ同時に、土砂降りの雨が降りはじめた。

「ラッキー……」

 そう小さく呟きながら、バックパックを下ろし、僅かに纏った水滴を払い落とす。軽く前髪を整え、スタジオの扉を押し開くと、途端にその声は聞こえてきた。

「違う!」思わずはっとして、扉を押し開けた格好のまま、イライアスは声の聞こえてきた方に目を向けた。「そうじゃないって」

「……」

 それは毎日のように聞いている声なのに、実際には、聞いたこともない声のように感じられて、イライアスは思わず絶句する。そのまま数秒ほど立ち惚けていると、イライアスの存在に気づいたジェレマイアが、よっ、と軽く挨拶をしながら片手を上げた。

「あの二人、何してるの?」

「リフトの練習」にやりと笑いながら、ジェレマイアは言った。「体格的には丁度良いバランスだと思うんだけどな」

 さすがに無理かーと漏らしながらも、ジェレマイアに二人を止める様子はない。傍にはルイが付いているが、二人の実に歪なリフトを目の前にして、腹を抱えて笑っている。

「上半身に力が入りすぎてるんだ」

「目線が高いから慣れないの。上手く感覚が掴めない」

「もっと支えを信じろ。絶対に落とさないから」

「信じてないわけじゃ、わっ──」

 落ちると思った次の瞬間にはもう、アランが危なげなく希佐の体を抱き留め、足先から床に下ろしてやっている。両足が床に付くと、希佐は安心したように大きく息を吐き出すが、すぐにアランを見上げた。

「振り回さないで」

「振り回してない」

「あなたが私を落とさないことは分かってる。でも、そういう問題じゃない」

「君が無理に回ろうとするから──」

『ほらほら、醜い言い争いはしないんだよ』くつくつと笑いながらも、ルイは二人の間に割って入る。『確かにキサは体に力が入りすぎている。でもこの場合、悪いのはアランだ。キサは怖がっているんだから、彼女のペースに合わせてあげないとね』

 ジェレマイアから、イライアスと声を掛けられ、我に返る。後ろ手に扉を閉め、室内に足を踏み入れてから、コートを脱いだ。ルイがフランス語で教えている声を聞きながら、スタジオの隅まで歩いて行き、いつもの場所に荷物を置く。

 何故だか分からないが、イライアスは酷く動揺していた。

「……リフト?」

 いや、違う。自分の方が上手く持ち上げてあげられるなどと、おこがましいことを思ったわけではない。そうではなく、ただ、あんなふうに、相手に対して自分の感情を真っ直ぐにぶつける希佐の姿を見て、動揺したのだ。

『ジェレマイア』

「ん? オレ?」

『ちょっと手本を見せておやりよ』

「アランがオレを持ち上げるのか?」

「無理に決まってるだろ……」

「冗談だって」げんなりしているアランを見て、ジェレマイアは豪快に笑っている。「よし、じゃあ、キサ」

「うん」

「まずは肩車だ」

「えっ?」

「とりあえず高さに慣れないとな」

 ジェレマイアはそう言って腰を落とすと、ほら、と言って自らの肩をとんとんと叩く。希佐は周りの様子を窺ってから、小さく気合を入れると、ジェレマイアの頭を跨ぐようにして腰を下ろした。

「大丈夫? 重たくない?」

「おう、平気平気。オレ、つい最近までキサの倍以上はある男を抱えて飛び回ってたんだぞ」

 ゆっくりと立ち上がるジェレマイアの体に合わせて、希佐の体がぐらりと揺れる。咄嗟に頭を掴んでしまった希佐は申し訳なさそうに謝るが、ジェレマイアはそのまま掴んでいるように言うと、スタジオ内を悠然と歩き出した。

「あれ?」二メートル以上の高さからこちらを見下ろし、希佐は目を丸くしてから、にこりと笑った。「お疲れさま、イライアス」

「怖くない?」

「今のところは大丈夫そうだよ」

 ああ、いつも通りの希佐だと安堵するが、それと同時に、再びはっとした。

 以前、田中右宙為が、このままでは二人は絶対に上手くいかない、互いを殺し合うだけだと、そう言っていたことを、瞬間的に思い出す。イライアスは今、その言葉の意味を、つぶさに理解していた。

 

 

 

 

 今日は午前中からルイの機嫌が良く、昼休憩の終わり頃、事務室で仕事をしていたアランの隣を通り抜けて行くとき、あとで希佐とのダンスを見てあげるよと、こちらが頼んでもいないことを言い残して、スタジオに戻っていった。

 五分程が過ぎ、キッチンの後片付けを終えて階段を降りてきた希佐は、少し困ったような顔をして、机仕事をしているアランの隣で足を止めた。

「アラン」

「ん」

「ルイがあとでダンスを見てくれるって」

「聞いた」

「いいの?」

「別に、いいんじゃないの」

「本当?」

「ルイは言い出したら聞かない」

「うん」そう言って頷いた希佐の表情は、とても嬉しそうに見える。「じゃあ、あとでね」

 アランの肩に手を置き、頬に唇を押し当ててから、希佐は早足で事務室を出ていった。アランは希佐の唇が触れた辺りに指先を滑らせ、僅かに表情を和らげる。

 月末が締切の原稿のデータを担当編集者に添付して送り、無償で引き受けたフリーペーパーのインタビューに書面で答え、演劇学校から送られてきた講義の依頼に辞退の返事を出した。

 今月中に現行の舞台の引き継ぎを終えるスペンサー・ロローから、確認しておくようにと言われていた書類に目を通していると、傍に置いていたスマートフォンが振動する。画面を横目に一瞥してから、アランはスマートフォンを耳に当てた。

『原稿ありがとうございます、ジンデルさん』

 相手は懇意にしている出版社の担当編集者だ。

 斜陽の雲が賞を取る以前から良くしてくれていて、あの映画を是非書籍化させて欲しいと、一番最初に唾を付けてきた男でもある。賞を取ってすぐ、いくつもの出版社から書籍化させてくれと声が掛かったが、アランは最初に声を掛けてきてくれたこの男に、すべてを任せることにした。

『こちらが催促するまでもなく、期限内に原稿を上げてくれるので、いつも助かってます。他の人たちにも見習ってほしいですよ、本当に』

「今回送ったので完結だから」

『すぐに読んで感想を送りますね』

「感想はいらないよ」

『もう、そんなこと言わないでください』編集者はくすくすと笑いながら言った。『そうそう、いただいたメールに、頼みがあるから折り返し連絡がほしいと書いてありましたが、頼みというのは?』

「まとまった数の本が欲しいんだ」

『……というと?』

「児童養護施設に寄贈したい。全額こちらが負担するから、五百冊前後で適当に見繕ってほしい」

『もちろん、良いですよ。ジャンルのリクエストはありますか?』

「子供向けの絵本、児童書、多岐にわたる百科事典。書籍のジャンルは問わない。ただ、偏りが出ないようにしてほしい。読まれないかもしれないけど、古典も入れておいて。選択肢は多い方がいいから」

『分かりました。そうだ、身分は明かされます? 今回も匿名希望ですか?』

「いや、今回は施設まで同行する」

『えっ』編集者は驚いたというふうに声を上げる。『初めてですね、同行するなんて』

「迷惑なら──」

『ああ、いえいえ、迷惑だなんて、そんな。ご一緒できて嬉しいです』

「どのくらいで用意できる?」

『そんなに時間は掛かりませんよ。今日、明日中にというのは無理ですが、今週末ならなんとか。倉庫に行けば本は揃ってますから』

「他にも手配したいものがあるから、もう少し待ってて。今日中にまた連絡する。何時上がり?」

『ジンデルさんからのご連絡ならいつでも大歓迎です』

「でも、残業は嫌いだろ?」

『倉庫に行って本を選んでいるので、本当に、何時でも構いません』

 電話を切ったあと、アランは落ちていたパソコンの画面を立ち上げ、ゴミ箱のフォルダを開く。そこに入れておいたデータをデスクトップに移動し、一枚のスクリーンショットを展開させた。

 ベーゼンドルファーの中古のアップライトピアノ。その下に、店舗名と住所、電話番号が記されている。知り合いのピアノ工房のホームページにアップロードされていたもので、反射的にスクリーンショットを撮ってしまった。次の日にはページそのものが削除されていたので、このピアノはもうあの工房にはないのかもしれない。

 このピアノは、今はもう存在していない児童養護施設にあったピアノと酷似していた。細かな傷の数々に見覚えがあったのだ。その中には、アランがナイフで削った、小さなRの文字も見て取れた。

 その施設にいたのは、ほんの一ヶ月程の短い期間だった。元々いた施設が閉鎖になり、次の施設が決まるまでの短期間、既に定員でいっぱいだったその施設が、少しの間だけで構わないならと、アランを預かってくれた。

 アランはそこで一人の男と出会った。

 施設に到着した丁度その日、人里から離れたその施設の門の前に、その男は倒れていた。アランを引き連れてやって来た引率の職員は、慌てて呼び鈴を鳴らし、施設の職員を呼び出すと、男を中に運ばせた。息はしていたし、脈は正常だった。ただ、男は薄汚く、窶れていて、飢えていた。

 男は救急車を拒み、警察への連絡も拒否し、数日間その施設に居座っていた。一宿一飯の恩義というやつか、男は施設の職員を手伝い、よく働いた。気立てが良く、子供たちにも好かれ、何より人に警戒心を抱かせない人物だった。

 アランはこの男からピアノの弾き方を教わった。

 真夜中、トイレに行きたくなってこっそり部屋を抜け出したアランの耳に、ピアノの音色が聞こえてきたのだ。それが、ベートーヴェンの月光だった。第一楽章の冒頭から心惹かれ、気がつくと、プレールームの扉の前で、十五分もの間立ち尽くし、そのピアノの音色だけに耳を傾けていた。

 あの男が何者だったのかは分からない。施設から忽然と姿を消したあと、職員たちが、あの男は犯罪者だとか、殺人犯だとか、そんなふうに話していたことを覚えている。だが、幼いアランはそんなことなどお構いなしに、男から教えられたピアノのメソッドを、毎日毎日繰り返し練習し続けた。その結果、施設を出る頃にはなんとか、一楽章の最初の数小説を弾くことができるようになっていた。

「お前、才能あるよ」小さな手を懸命に動かし、言われた通りに鍵盤を叩くアランに向かって、その男はにっと笑った。「人間は人間を裏切るが、ピアノはな、人間がこいつを裏切らないかぎりは、絶対に裏切ったりしないんだ」

 その男の言葉が、お守りのように、アランの心の中に残り続けていた。

 舞台も同じだ。アランは舞台を裏切った。だから、裏切られたような気持ちになっただけなのだ。

 アランは握り締めたままだったスマートフォンを見下ろし、連絡先を呼び出すと、それを再び耳に当てた。

『Hello』穏やかな声が、電話口の向こうから聞こえてくる。『修理ですか? 買取ですか?』

「ネイサン」

『ああ、アランか』たった一声聞いただけで、ネイサンはいつも相手を言い当てる。『君から連絡をくれるなんて珍しいね。どうしたんだい? 教会のピアノの調律なら、先日ロバートに頼まれて終わらせたばかりだけど、何か問題でもあったかな』

「いや、違う。中古のピアノを譲ってほしいと思って連絡をした」

『君が弾くの?』

「児童養護施設に寄贈したい」ああ、そういうことか、とネイサンは納得したような声をあげた。「すぐに買い取れるものはある?」

『何台かあるよ』

「直接見に行きたいんだけど」

『もちろん、大歓迎だとも』

 明日の午前中に行くという約束を取り付け、アランは電話を切った。

 今日中に片付けるべき仕事を終えたアランは、軽く何かを食べようと、パソコンの画面を落として二階に向かった。ぼんやりと物思いに耽りながらキッチンに足を踏み入れ、冷蔵庫の前に立つと、そこに貼り付けられた一枚のメモが目に入る。

《豆腐とアボカドのサラダがあります。よかったら食べてください》

 アランはボウルに入れられたサラダと、今朝のうちに茹でておいた卵を取り出し、足で冷蔵庫の戸を閉めた。フォークとそれらをテーブルの上に置き、常温の水をグラスに注いでから、椅子に着席した。

 未だに食事をすることは億劫で、食べるという作業をしているという感覚は否めない。だが、隣に座り、なんでも美味しそうに食べる希佐の姿を見ていると、いつも不思議と食が進んだ。隣に並んで同じものを食べ、それが血となり、肉となっているのだと思うと、そんな当然なことすら、何か酷く特別なことのように思えてくる。

 サラダを残さず食べ終え、殻を剥いた茹で卵を口の中に放り込み、アランは席を立った。キッチンを片付け、口を濯いで、部屋に戻り、稽古着に着替える。

 すべてのことが日常に溶け込んでいるが、すべてのことに違和感を覚える。そうした矛盾に日々葛藤している。舞台が心底嫌になって降りることを決めた。その思いは今も変わっていない。それなのに、再びあの舞台に、戻ろうとしている。

 正気の沙汰とは思えなかった。

 だから、もし立花希佐と出会うことがなければ、誰にも吐露することのできない未練や後悔を抱えたまま、舞台の袖からカオスの公演を見守り続けることで、己を納得させていたに違いない。これで満足だと自らに言い聞かせ、その舞台の先にあるものを見ようとすることもなかった。

『God Only Knows』はアラン・ジンデルの運命を大きく変えた。いや、あの公演は劇団カオスの多くを変えた。若い才能が開花する瞬間をこの目に見た。喜ばしくもあり、妬ましくもあった。若さというものが、羨ましかった。

 挑戦することよりも、今更、と思う気持ちの方が強かったのだ。今更戻ったところで何になるというのか。

 そもそも、アラン・ジンデルという役者の知名度は低い。ウエスト・エンドの片隅にあるパブの二階を根城にした、こぢんまりとした劇団の役者だった。しかも、ほんの数年間、小劇場の舞台に立っていただけだ。商業の舞台に立ったことはただの一度もない。舞台人として名が知られていたのは、ウエスト・エンドの特定の界隈と演劇マニアの間だけで、それ以外の場所では、ただの一発屋の脚本家でしかない。

 若いうちから活躍する子役など大抵はそのようなもので、生涯俳優として生計を立てて行ける者は、ほんの一握りだけだろう。いずれ飽きられる。そういう達観した思いが、いつも頭の隅について回る。

 酷い言葉遣いだった。それを矯正するために放り込まれた世界は、アランにとって特別なものとなった。養父を好いたことはないが、この世界に足を踏み入れるきっかけを与えてくれたことに関してだけは、素直に感謝している。

 舞台に立ち、自分ではない誰かを演じている間だけは、現実を忘れられた。現実を忘れるために舞台に立っていた。だが結局は、施設で暮らしていた頃から、劇団時代を経て、それ以降の日々でも、自分はただの見世物でしかなかったのだと思い知らされたとき、アランの中で何かが壊れたのだ。

 この体は穢れている。

 あの焼け付くようなスポットライトの光だけが、その穢れを取り除いてくれると信じていた。足元の影を消すほどの眩い光が、この穢れを焼き殺してくれることを願っていた。だが、舞台上では現実を忘れられても、そこから一歩でも降りてしまえば、そこが人の世であることを思い知らされる。

「それ、普通じゃないよ」

 純粋にただ興味があったのだろう、施設はどんなところだと聞かれたときに、何の気なしに当時のことを話して聞かせたアランに向かって、ダイアナは衝撃を受けたという顔をして、そう言った。

「大人に相談した方がいいと思う」ああ、自分がされてきたことは普通のことではないのだ、そう自覚した瞬間、アランは酷い吐き気を催したことを覚えている。「お家の人は話を聞いてくれないの?」

「俺が口を開くと黙れって怒鳴るんだ」

「メレディスには?」

「迷惑をかけたくない」

 アランはダイアナに口止めをした。今話したことは、誰にも言うなと。ダイアナは分かったと言った。だからきっと、あのときの話は、口外されることはなかったはずだ。もしかしたら、明るみに出ていた方が、ここまで拗らせることもなかったのかもしれないが、当時のアランには、どうすることが正しいのかも分からなかった。

「パトリックって名前、好きじゃないんだ」アランが打ち明けた秘密に相応しい対価を払う必要があると思ったのか、ダイアナは両親にも話したことのない自らの性自認についてを、徐に吐露した。「男の子の名前でしょ」

「名前なんて自分で好きに変えればいい」

「え?」

「俺は変えた」

 学校でも既にアラン・ジンデルで名が通っていた。それは、本当の名前を呼ばれると、施設にいた頃を思い出して精神的苦痛を感じると、御涙頂戴の演技をして校長に直談判をしたからだ。女校長はハンカチで目元を拭いながら、別の名前を使うことを許可してくれた。

「パトリシアって名前はどうかな」

「安直」

「じゃあ、どんな名前がいいと思う?」

「ダイアナ。凛とした感じが、君に似合う」

 当時から、ダイアナは同世代の子供たちよりも、大人びた雰囲気があった。すらりと背が高く、色白で、烏の濡れ羽色のような美しい髪を一つに結え、いつも稽古場の片隅で静かに絵を描いていた。

 ダイアナに多くを打ち明けたことで、アランの秘密は秘密ではなくなった。その事実が、アランの心を軽くしていたことは言うまでもない。ダイアナにはいつも救われている。今も、昔も、それは変わらない。

「髪はいつもキサに切ってもらっていたんでしょう?」あの日、助けてくれと頼んだら、ダイアナはすぐに駆け付けてくれた。「私なんかでいいの?」

「昔は君に切ってもらってた」

「あの子、きっと残念がるわよ。口には出さないでしょうけれど」

 髪を切ったあと、希佐とよく目が合うようになった。希佐は目が合うと、いつもゆっくりと目を細めて、言葉以上の感情を伝えてくる。まるで猫のようだ。

 そういえば、ダイアナも前にこんなことを言っていた。

「出会ったばかりの頃は、常に何かに対して警戒している野良猫みたいだったけれど、今では愛情をたっぷり注がれた艶々の飼い猫みたいよね、キサって」

「毎日ブラッシングしてるから」

「まあ、お惚気。ご馳走様」

 ダイアナは酒に酔うと、良く「あなたには頭が上がらないのよね」と言う。ファッションデザイナーとしての道を諦めようとしていたとき、アランが救いの手を差し伸べた。丁度その頃、劇団カオスの舞台衣装を必要としていたアランは、デザイナーとして最後に受ける仕事だから、無償でも構わないと言ったダイアナに対して、相場以上の報酬を支払い、舞台衣装を作らせたのだ。自らの才能を安売りしようとしていたダイアナを叱咤し、その道を諦める必要はないと説き落とした。

 それだけの才能を持ち合わせておきながら、舞台を降りるなんてどうかしている。考え直せと幾度となく説き落とされ、それでも屈することのなかった自分が、他者の才能が失われることを惜しく思うなど、とんだ笑い話だろう。

 アランは、ダイアナが子供の頃から、ファッションデザイナーを目指していたことを知っていた。稽古場の片隅ではいつも洋服のデザイン画を書き、コツコツと貯めた小遣いでミシンや生地を購入して、自分が着る服を作っていたことを知っていた。

 だから、応援したかった。夢を諦めてほしくなかった。心のどこかで感じていた後悔を、彼女には感じてほしくなかったのだ。夢や目標を喪失したあとほど、絶望に苦しめられる世界はない。そして、それを経験してしまった者の多くは、以前と同じ場所へ戻るまでに、かなりの時間を要することになる。折れてしまった心は、そう簡単には元に戻らないのだ。

 ルイに無理難題を吹っ掛けられることを想定し、アランはキッチンスペースで念入りにウォームアップを済ませると、水分補給をしてからスタジオに降りていった。するとそこには、先程まではいなかったはずのジェレマイアの姿があり、三人で談笑している様子が見て取れる。

 そこへアランが入っていくと、真っ先に気がついたジェレマイアが、よう、と片手を上げて挨拶をした。

「暇だから差し入れ持ってきた」

「実家に帰るって話は?」

「今週末には帰るよ。向こうで一週間くらいゆっくりしたら、今度はこっちで物件探しだ」

「今はノアのところにいるの?」

「ああ」希佐の問いに、ジェレマイアは頷く。「でも、あのアパート、本当はルームシェア禁止なんだよ。今のところは管理人の許可を取って世話になってるけど、長居はできそうにないからな」

「良い部屋が見つかるといいね」

「また下見地獄のはじまりだよ。まあ、今のところは暇だし、全然良いんだけどさ」

 ジェレマイアはどうやら暇を持て余しているらしい。希佐もそれを察したのか、ジェレマイアはチャリティーイベントには参加しないのか、などと声を掛けている。

 その話し声に耳を傾けながら、アランが少し場所を移すと、ルイがこちらに歩み寄ってきた。

『是非とも聞かせてもらいたい』

「なにを」

『彼女がグラスミアで何をしていたのか』

「さあ」アランはルイを一瞥し、小さく肩をすくめる。「俺は彼女を迎えに行っただけだから」

『キサと一緒にお芝居をしたと聞いたよ』ジョシュアから聞いたのだろう。そう言うルイの表情は、にこにこと機嫌が良さそうだ。『子供たちの前で二人芝居をするなんて、なんだかロマンチックだと思ってね』

「……どこが?」

『どういう心境の変化があったんだい?』

「別に、なにも」

『ふうん』バーに足をかけ、膝裏を伸ばしているアランの隣に寄り掛かるようにして立ったルイは、ジェレマイアと楽しげに話している希佐に目を向けた。『彼女の課題曲はほぼほぼ仕上がってる。一週間前はあんなにぼろぼろだったのにね。やっぱり、君と距離を置いたことが、キサにとってはよかったのかな』

『キサには、誰にも邪魔をされずに、一人で静かに考える時間が必要だった。それだけのことだよ』

『それは君も同じだろう?』アランが何も答えずにいると、ルイはふふと小さく笑った。『キサの課題曲はこのままじっくりと本番に向けて仕上げていく。急ぐ必要はなさそうだからね。彼女には教えたいことがまだまだたくさんあるんだ。でも、もし彼女の稽古時間が余ったら、そのときは君たち二人のダンスも見てあげるよ。特別大サービスだ』

『その見返りには何を求めるの』

『そんなものを求めてはいないさ』信じられないという眼差しを向ければ、ルイは大きく肩をすくめて見せる。『本当だよ。キサにはイライアス以外と踊ることにも慣れてもらわなければ困るんだ。なにせ、あの子にはグレアム・メイヒューを満足させられるだけの、技量を身に付けてもらわなければならない』

『俺はただの練習台ってわけか』

『おや、不服かい?』

『光栄だよ』

『君たち、やっぱりグラスミアで何かあっただろう?』

 答える必要のないことだと思い、アランが黙っていると、ルイは不服そうに目を細める。その眼差しすら無視していると、今度は希佐と話をしていたジェレマイアが後ろを振り返り、キラキラと輝く目をこちらに向けた。

「おい、アラン。今度のチャリティー、キサと踊るって本当か?」

「そうと決まったわけじゃない」

「でも、そのつもりで稽古はするんだよな」

 裏表のないジェレマイアの言葉だからこそ、下手に無視をすることもできず、アランは「まあ、うん」と曖昧な返事をした。

「だったらさ、二人でリフト、やってみたら?」

「リフト?」

「キサはまだ何も決まってないって言うし、試しに挑戦してみてもいいだろ? 体格差的にも、アランとキサは相性が良いと思うんだよ」

『キサはリフトの経験はあるの?』

『いいえ』希佐はルイの問いかけに自然とフランス語で応じている。『抱え上げられるくらいならありますが、本格的なリフトの経験はありません』

『では、ちょっとおいで』

 ルイはそう言って希佐を手招くと、十分な距離を置いて、鏡と向かい合うように立たせた。自分はその背後に回り込み、希佐の細い腰に両手を添える。

『アップ』希佐はルイに腰を支えられた格好のまま、爪先立ちになり、自らの体をすっと引き上げた。『コアを意識するんだよ。肩を落として、首を伸ばす。無駄な力は入れない』

『はい』

『今から君を持ち上げる。自分の体は自分で支えるように』

『分かりました』

 希佐は深く息を吸い込み、それをゆっくりと吐き出す。ルイは鏡越しにその様子を見ていたが、二度目に息を吸い切ったタイミングで、希佐の体を両腕の力だけで軽々と抱え上げた。

『下を見ない。視線は前だよ』

『は、はい』

 思わずというふうに下を見ると、途端に体幹がブレて、体がふらふらと覚束ない状態になる。しかし、ルイの指摘をすぐさま聞き入れ、素直に従うと、希佐の体は平静を取り戻した。

『思っていたよりも高く感じたと思うけど』ルイは抱えていた体をそっと下ろすと、ほっと胸を撫で下ろしている希佐の顔を鏡越しに見た。『私の身長は179センチで、比較的小振りな方だ。一方、アランは──』

「188」

『私よりも10センチ近く高い。10センチなんて大して変わらないと思うかもしれないが、これがかなり違う。踵の高い靴を履くと見える世界が変わるだろう?』

『はい』

『ジェレマイア』

「はいよ」次いで手招かれたジェレマイアは、ぐるぐると両方の肩を回しながら、二人に歩み寄っていく。「因みにオレは191センチ」

『私がしたようにキサを抱え上げてみてくれるかい?』

「Compris.」

 アクロバット系のパフォーマンス団体に所属しているジェレマイアは、危なげなく希佐の体を抱え上げた。ルイに比べるとずっしりとした安定感があるからか、希佐自身も安心して身を任せているように見える。

「う、わあ、高い──」

「下ろすぞー」

「うん」

 希佐は床に下ろされると同時に、鉄骨が剥き出しの天井をちらりと見上げ、少しだけ不安そうに眉を寄せる。今は両腕で抱え上げられただけだが、リフトに挑戦するとなると、バレエのパ・ド・ドゥを踊るような流れでリフトを行う場合、抱え上げられた状態のまま演技をすることになるので、その恐怖は倍増する。

 子供の頃、劇団時代に稽古中の戯れで、リフトの練習に付き合わされたことがあった。あのときは、スワロウなどの簡単な動きだけだったが、それでも目は回ったし、子供ながらに多少の恐怖心はあったことを覚えている。

 案の定、はじめてのリフトは上手くいかなかった。

 ファーストコンタクトが良くなかったのか、他の二人のときほど、希佐が身を任せてくれていないと、アランは感じていた。体幹を意識するあまり、必要以上に上半身が力んでいると指摘をしても、そうではないと否定するばかりだ。

 不測の事態に備え、すぐ近くで様子を見守っていたルイは、ああでもないこうでもないと言い合っている二人を目の当たりにし、腹を抱えて笑い出す始末だった。

 頭の中で想定していたように上手くは事が運ばない。だが、それでも不安を覚えないのは、互いに言葉を呑み込まず、言いたいことを言い合えているからなのだろう。互いの感覚を少しずつ擦り合わせていくことで、理想の形に近づいていくこの過程は、これまでに味わったことのない気付きを与えてくれる。

『魔物のエクス』の本番前夜、あの緑色のランプを灯しただけの薄暗い部屋でダンスの稽古をはじめたときから、希佐には遠慮というものがなくなった。

 何が違うのか。何が気に入らないのか。足の運び方から、手の置き場所まで、事細かに言葉で伝え合うことを求めた。何が違うのか分からないときですら、先程のように、何かが違うのだと言って一度足を止め、考える。

 足並みは揃わず、速度は鈍足だが、それでも、着実に前には進んでいる。これが正しい歩み方なのかは分からない。他にもっと良い方法があるのかもしれない。だが、今はこれが最善なのだと、二人は信じている。

 ジェレマイアに肩車をされ、スタジオの中を行脚させられている希佐の姿をため息まじりに眺めていると、ジョシュアのところで歌の稽古を終えて来たイライアスが、アランの元まで歩いてきた。

「グラスミアで何があったんですか」

「ルイからも同じことを聞かれたよ」イライアスの問い掛けに、一瞬目を丸くしてから、アランは小さく息を吐いた。「何もなかったとは言わない。でも一番は、俺も彼女も、無駄に出来る時間はあまり多くないっていうことに気付いたんだ、多分」

 残された時間は限られている。本格的な舞台稽古がはじまってしまったら、もう互いのために取れる時間的な余裕はないはずだ。きっと、今を逃せば、もう求めるものを手にすることはできない。

 本当なら、今度の舞台には、深く関わるつもりはなかった。脚本を書き下ろしたあとは、キャスティングにちょっとした口を挟むだけで、残りの仕事はスペンサー・ロローに任せるつもりでいた。だが、いつの間にかそうも言っていられない状況になり、今に至る。

「これは私の人生を賭けた舞台なのよ、アラン・ジンデル」メレディスのアパートの管理人室に引きこもっているとき、その日も倒れるまで踊り、それでも眠れずに酒を煽っていたアランに向かって、クロエ・ルーが言った。「でもね、これはあなたの舞台でもあるの。お互い過去からは逃れられないのよ」

「逃げたのはあんただ。俺は逃げてない」

「ええ、そうだったわね」

 むかむかとしたものが胃の中をぐるぐると回っている感覚に、酷い吐き気を覚えていた。それなのに嘔吐することもできず、酒を煽るだけのアランの目の前に、クロエはペットボトルの水を置いた。

「ずっと不思議だったのよ」

「……なにが」

「どうして脚本の執筆を引き受けたのか」クロエは席を一つ空けてバーカウンターに腰を下ろすと、はだけたガウンの下で色白の足を組み、頬杖をついてこちらを見た。「スペンス坊やが、あなたは二つ返事で了承したと言っていたけれど」

「そんなの、あんたの人生を滅茶苦茶にしてやりたかったからに決まってるだろ」アランは感情を消し去った声でそう言った。「俺はあんたを殺すためにあの脚本を書いたんだ」

 そうだ、あれは断じて立花希佐を殺すために書いた脚本ではない。それなのに、結果的には、あの脚本で立花希佐を殺すことになるのかもしれないと思うと、より強い吐き気を覚えた。

「私は、私の過去を、洗いざらいあなたにお話ししたわ。一つ残らず、包み隠さずね。だから、あなたはどんなふうにだって脚本を仕立て上げることができたはずなのに、行き着くところが私の死だなんて、陳腐にもほどがあるとは思わない?」

「だったら今すぐ殺してやろうか」

「まあ、怖い」クロエは、ふふふ、と癇に障る声で笑う。「でも、私、覚悟は決めているのよ。もうやり残したことは何もないもの。この舞台が成功すれば、後はもうどうなったっていいの。社会的な死を迎えようが、この生命活動を終えようが、もうなんとも思わない。殺したければそうしたっていいのよ。でも、あの舞台が終わるまでは待ってちょうだいね」

 つまるところ、自分はこの人に見つけてもらうために、舞台に立っていた。

 当初は、それが一番の動機だった。

 はじめてジャスト・ロビンの舞台稽古を見に行ったとき、ある可能性が脳裏を過ったのだ。それこそ陳腐な舞台演出のようだったとアランは思う。舞台に立ち、それでもし脚光を浴びるようなことになれば、自分の両親がそれを目にする機会もあるのではないかと、そう考えた。

 クリスマスの日に、毛布に包まれ、段ボール箱の中に捨てられた、ただの哀れな子供だったなら、妙な希望も抱かずにいられたのだろう。だが、アランには金の指輪があった。それは、内側にエメラルドの石が埋め込まれ、ラファエルという名前が掘られた、特別な指輪だった。

 ただ捨てられたのではない。最後の最後まで情が残されていたからこそ、その指輪を残していったのだと、子供ながらにそう信じていた。

 間もなくするとバージルも現れ、スタジオは一層騒がしくなった。ますます上機嫌になったルイに絡まれ、バージルはうんざり顔だ。ジェレマイアの肩車の高さにも慣れた希佐は、アランに抱え上げられた状態でも、上半身の安定感を保っていられるようになっていた。

「そりゃお前、あいつがお前に甘えてる証拠だろうが」一言、二言の愚痴をこぼしたアランに向かって、バージルがくつくつと笑いながら言った。「キサが他のやつに怖いなんて泣き言を漏らすと思うか?」

「別に泣き言を言われたわけじゃない」

「同じようなもんだろ」

 ばん、とアランの背中を軽く叩いてから、バージルは希佐の名前を呼び、そちらに向かって歩いていく。ルイの話を聞いていた二人の間に割って入り、肩に両腕を回すと、イライアスは酷く煩わしいものを見るような目をバージルに向けていた。

 昨日の朝、いつものように横並びになって食事をしているとき、バージルからチャリティーで一緒に踊らないかと誘われたことを、希佐が教えてくれた。アランが別に良いと思うと応じると、希佐は目を丸くしたあと、嬉しそうに笑っていた。

 こんな日常が、いつまでも続けばいいのにと、そう思うことがある。

 あの頃の、何かにつけて死にたがっていた自分は、どこへ行ってしまったのだろう。今はもう、あの頃のように、脳裏に死がちらつくこともない。

「イライアスの課題曲、私も踊ってみたくて、こっそり稽古していたんだ」

 これで一休みができると思いながら、一度事務室に戻ろうとしたアランの視界の隅に、ジェレマイアの姿が映った。アランは事務室に引き上げるのをやめ、パイプ椅子を引きずっていくと、ジェレマイアの隣に腰を下ろした。

「最後の方は結構形になってたな」

「そう?」

「はじめてにしては上出来だよ、上出来」ジェレマイアは笑いながらそう言うと、イライアスの課題曲に合わせて踊り出した希佐を見ながら、徐に口を開いた。「それに、個人的にはもの凄く新鮮に感じたなぁ」

「なにが」

「ほら、オレはさ、アランが歌ったり踊ったりしている姿を、実際にこの目で見たことがあるわけじゃなかっただろ? あえて見せてほしいと言ったこともないしさ。だから、新鮮に感じたし、嬉しかった」

「キサを抱えて右往左往してただけだよ」

「基礎が身についてないと右往左往すらできないんだよ」ジェレマイアはそう言うと、小さく笑った。「ほんと、あの子が来てから、ここも随分変わったよな」

 昨日も、歌の稽古を終えて急いで帰って来たかと思えば、イライアスのクールダウンに合わせてウォームアップを行っていた希佐は、午後七時過ぎに現れたバージルと一緒に、こそこそとダンスの稽古をしていた。アランが朝食の支度をしているときにも、同じ音楽が聞こえていたので、朝稽古中にも踊っていたのだろう。

 イライアスとルイのダンスには品がある。何を踊らせても同じような品が感じられてしまうのは、バレエ畑で育ってきたダンサーの性と言っても過言ではない。対して、バージルや希佐のダンスには、耳に聞こえてくる予想外の音を瞬時に捉え、体全体で音を奏でるような、自由奔放さがあった。

「チャラチャラしてんなぁ」

 希佐のダンスを見てそう漏らしたジェレマイアは、囃し立てるように指笛を鳴らした。すると、その音に気づいた希佐がこちらに横目を向け、ダンスを踊っている最中に片目を瞑ったかと思うと、ジェレマイアに向かって投げキスをして見せる。

「あ、ヤバ」ジェレマイアはそう言って胸を抑えた。「キュンとした」

 希佐は人の心を掴むのが上手い。男女を問わず、人を誑し込む天性の才能があるに違いないと言ったのは、アイリーンだった。

 存在自体がキラキラと輝いていて、それがあまりに眩しすぎるから目を逸らしたいのに、それとは相反する、片時も目を逸らしたくないという思いが拮抗して、最終的には腹立たしくてたまらなくなるのだと、そんな複雑なことを言っていた。

 恐らく、今のイライアスの心境も、そう言ったアイリーンの心情と酷似しているのかもしれないと、アランは思う。

 バージルの振り付けに独自の遊びと解釈を加え、普段の立花希佐からは想像もできないような雄の部分を感じさせる、ジェレマイアの言葉を借りれば、チャラチャラした男を演じる姿は、今のイライアスにとっては疎ましく感じられるものだろう。

 だが、どうしても目を逸らすことができない。ここにいる全員がそうだ。このチャラついた男に、酷く魅入られている。

「こんな感じなんだけど」踊り終えると同時に大きく息を吐き出し、次の瞬間にはいつもの様子に戻ると、希佐は傍で見ていたイライアスを振り返った。「どうだったかな」

 隣に座っているジェレマイアは、おや、と思ったようだ。少し離れた場所で静観していたルイも、イライアスの表情を探るような目で見ている。にやにやと意地悪く笑っているのは、バージルくらいのものだろう。

 アランが想像していた通り、イライアスは希佐のダンスを見て、何か思うところがあったようだ。何かが違う。何かが気に入らない。何かが癇に障る──そんな感情を、乏しい表情の中に滲ませているのが分かる。

 希佐は、むすっとしているイライアスの顔を見ると、僅かに驚いたような表情を浮かべ、慌てて何かを言おうとした。しかし、それよりも先にイライアスが口を開く。

「……僕より上手く踊らないで」

「えっ? あ、いや、そんなつもりはなくて──」

「分かってる」

 瞬間、イライアスの目の色が変わるのを、アランは見た。

 実際に目にしてみなければ分からないことは多い。イライアスは希佐のことを尊敬しているが、それでも、ダンスの技術では自分の方が優っているという自負があったはずだ。それなのに、今、目の前で圧倒的な表現力の差を見せつけられ、嫉妬心に火がついた。

「楽しそうだな」

 イライアスの表情の変化を目の当たりにし、無意識に口角を持ち上げていたアランを見て、ジェレマイアが言った。

「楽しみなんだよ」

「楽しみ?」

「あいつの化けの皮がいつ剥がれるのか。俺はその瞬間をこの目で見たいんだ」

『God Only Knows』のときに剥がれ落ちた皮は、イライアスという人間を覆う、ほんの表面的なものでしかなかったと、アランは考えている。残りの皮が剥がれ落ちなければ、イライアスは今度の舞台で、立花希佐という舞台人に添えられる、一輪の花にさえなれはしないだろう。

 そうなれば、あの舞台は失敗に終わる。

 あらゆる意味で、あの舞台は失敗することが許されない。

 成功を手にするためには、希佐の輝きの前ですら、決して翳ることのない才能が──覚醒したイライアスの力が、どうしても必要なのだ。

 

 

 

 

 

『本当にごめんね、キサ』

 丁度、朝のルーティンを終えて、シャワーを浴び、アランが準備してくれた朝食の席に着いたときだった。テーブルの上に伏せて置いていたスマートフォンが着信音を鳴らす。希佐が一言断りを入れてからスマートフォンを手に取ると、画面上にはルイの名前が表示されていた。

 電話に出て話を聞いてみると、何やら急な仕事が入り、一度フランスに戻らなければならなくなったのだという。

『週明けには帰って来られるはずだから』

「分かりました。あの、本当にお気になさらないでください」

『ありがとう、キサ。君は優しい子だね』ちゅ、と電話越しにリップ音を鳴らしてから、ルイは続けた。『私がいない間のことは特別講師にお願いしてあるから』

「特別講師、ですか?」

『午後から顔を出すと言っていたよ。誰が来るかはお楽しみだ』

「あ、あの、はい、分かりました」

『じゃあ、私はそろそろ搭乗の時間だから。そうそう、稽古終わりに動画を撮影して送ってくれると助かるよ』

「はい、必ず送ります。どうぞお気をつけて」

『ありがとう』

 当初は、希佐でも聞き取れるようにゆっくり話してくれていたルイも、今ではネイティブの会話と同じスピードで、フランス語を話すようになっていた。リスニングにも慣れてきてはいるが、それが電話となると、急激に難易度は上がる。

 何とか滞ることなく会話を終えた希佐は、スマートフォンを見下ろしながら、ほっと安堵の息を吐いた。すると、隣に腰を下ろしたアランが、グラスに水を注ぎながら口を開いた。

「ルイ?」

「うん」希佐は頷きながらスマートフォンをテーブルの上に伏せて置いた。「急な仕事が入ってフランスに帰るから、稽古を見られないって。それでね、特別講師をお願いしてあると言うのだけれど、アランは何か聞いてる?」

「いや」

「誰だろう」

「さあ」アランは興味がなさそうにそう応じながら、茹で卵をテーブルに打ち付け、殻にひびを入れていく。「俺は食事が終わったら出かけるから」

「どこに行くの?」

「ピアノを見に行く」

「……ピアノの演奏会に行くってこと?」

「違うよ」英語の難しさを改めて実感している希佐を横目に一瞥し、アランは続けた。「施設に届けるピアノを見に行くんだ。知り合いの工房が近くにあるから、中古のピアノを譲ってもらおうと思ってる」

「知り合いの、工房……」

 もしかしたら──いや、もしかしなくても、それはベンジャミンとネイサンの工房のことを言っているのだろうと、希佐は察した。

 さあっと顔から血の気が引いたのは何故なのか。後ろめたいことがあるわけではない。ただ、アランにはまだあのピアノのことを話してはいないのだ。自分の口から話す前に、あの家の人が、何の悪気もなくするっと口を滑らせることがないとは言い切れない。

 いや、そもそも、アランは希佐があの家の人々と繋がりがあることすら、知らないのではないだろうか──希佐はほんの数秒迷ってから、躊躇いがちに口を開いた。

「あの、アラン?」

「ん」

「私が一緒に言っても邪魔にならない?」

「邪魔にはならない、けど」

「一緒に行ってもいい?」

「……なんでそんな言い方をするの」

 アランは一度目を丸くしてから、どこか訝しげな眼差しを希佐に向けた。希佐は口に入れたものを咀嚼する間に、アランの疑念を払拭するための文言を考えていた。

「その工房って、ベンジャミンさんのところでしょう? ネイサンという調律師の方がいる……」

「……」

「前にヘスティアで飲んでいたとき、お嬢さんに声をかけられたことがあったの。カオスのKISAだって。それ以来とても仲良くしてくれていて、工房にも何度か遊びに行ったことがあるんだ」

「ふうん。まあ、いいけど」アランは口に放り込んだ茹で卵を水で流し込んでから、でも、と言った。「ダンスの稽古は? 特別講師ってのが来るんだろ」

「午後からいらっしゃるって」

「そう。なら、好きにしたら」

 アランがそれ以上多くのことを聞いてくることはなかった。

 希佐が沈黙を守っているのは、持ち主に無断でパソコンのゴミ箱の中身を見たことに対する罪悪感と、余計なことをするなと反感を買ってしまうのではないかという恐怖心があるからだ。決して安い買い物ではなかった。アランは、希佐が自分のために大枚を叩いたと知れば、良い顔はしないだろう。

 本当のことを伝えるべきか、このまま黙っているべきか──そう思い悩みながら外出着に着替えていると、部屋のドアが軽く叩かれた。

「キサ、そろそろタクシーが来る」

「すぐ行く」

 白いニットに黒のパンツ、アウターには深い緑のチェスターコートという、思いの外カジュアルだったアランの服装に合わせ、希佐は白のシャツワンピースの上にアイボリーのカーディガンを着て、その上からトレンチコートを羽織った。紺のカラータイツを履いた足にヒールの高い靴を合わせ、革製のリュックを背負って部屋を出ていく。

「お待たせ」

「好きな服を着ればいいのに」

「これも好きな服だよ」希佐が目の前に立つと、アランは絡まっていた髪の毛を手櫛で整えてくれた。「ありがとう」

 外に出てタクシーを待っていると、五分と経たないうちに黒い車体が前の通りに滑り込んできた。アランは希佐を先に乗り込ませ、自らもその後に続き、ドアを閉めてから行き先を告げる。運転手は言葉少なに頷き、静かに車を発進させた。

「あの家の事情については知ってるの」

「え? あ、うん、少しだけ」希佐は窓の外に目を向けているアランの横顔を見上げ、そう答えた。「奥さんがメレディスと一緒に劇団を立ち上げた方だって」

「彼女はキサがあのスタジオに現れるほんの少し前に亡くなった」希佐はその声を聞きながら、アランの横顔がどことなくクロエ・ルーに似ていると、そう思う。「良くしてくれたんだ、こんな俺にも」

「うん」

「だからというわけじゃないけど、ピアノが入り用なときは、いつもあの工房で頼むようにしてる。中古でも正しく調整されているし、手入れも行き届いているから、音の鳴りも良い。調律の腕も確かだ。裏の教会のピアノも、定期的に見てもらってる」

「ジョシュアのスタジオのピアノも、ネイサンに見てもらってるって言ってた。それから、ヘスティアのピアノも」

「腕の良い調律師は貴重だから、重宝される」

 アランは目的地に到着する前に、ここで止めてくれと言って、大通りの路肩にタクシーを停車させた。チップを含めた支払いを済ませると、先に降りて、希佐のためにドアを押さえてくれている。

 位置的には、あとほんの少し歩けば、ジョシュアのスタジオが見えてくる。アランは希佐に向かって左手を差し出すと、それが握り返されるのを待って、歩き出した。

 アランが通りの店の看板を見上げながら歩いているのを見て、希佐は「ああ」と小さく漏らしながら笑った。

「もう少し先にケーキ屋さんがあるんだ」エリザベスが、家族全員そこのケーキが大好きなのだと、前に教えてくれたことがあった。「もう開店してると思うよ」

 開店時間を迎えたばかりの店内に、他の客の姿はなかった。アランから好きなケーキを選んでいいと言われた希佐は、三人が好きそうな味を思い描きながら、全部で六つのケーキを注文する。すると、希佐が以上ですと言う前に、アランがラズベリーのタルトを最後に一つ、追加で注文した。

「待ってて」

 そのケーキ屋の数店舗先にある花屋の前で足を止めたアランは、希佐に向かってそう言うと、ケーキの箱を預けて店の奥に入っていった。

 希佐が店先で待っていると、アランは声を掛けた店員に花を指定し、小さなブーケを作ってもらっている。淡いピンク色のバラに、トルコ桔梗、少しのグリーンとかすみ草を散らした、可愛らしいブーケだった。

「……本当は、彼女の葬儀には出ないつもりだったんだ」ジョシュアのスタジオの前を通り過ぎ、その先にある脇道に入ると、アランは自分の手の中にある花束を見下ろしながら言った。「合わせる顔がなくて」

「どうして?」

「あなたには、舞台人なら誰もが羨む才能がある、将来は必ず成功するって、ずっと言ってくれてた。自分が抜けたあとのジャスト・ロビンを頼むと言われて、そんな気もないのに、軽率に頷いたりして」

「……うん」

「でも結局、俺はジャスト・ロビンを離れた。それなのに、彼女はそんな俺を責めるどころか、新しく立ち上げた劇団カオスの活動を応援してくれていた。喜んでくれたよ。また舞台の世界に戻ってきてくれてよかったって」

「そう」

 葬儀のことは以前バージルから聞いたことがある。ネイサンの奥さんが亡くなり、葬儀が執り行われることになったとき、アランはそこへ行きたがらなかったと話していた。だから、後になって後悔をしても遅いぞと言って、引き摺ってでも連れていったのだと。

 きっと、そのときの葬儀に足を運んでいなければ、その女性のことを穏やかな表情を浮かべて思い出すことも、こうして話して聞かせてくれることもなかったのだろうと、希佐は思う。

 大通りを外れて五分ほど進むと、辺りはまるで、時代を何十年と遡ったかのような景色に包まれる。この眺めが希佐は好きだった。車が走り抜ける音も、けたたましいクラクションも、都会の雑多の喧騒も遠ざかり、別世界に足を踏み入れたかのような錯覚を覚える。建物から突き出した杭には相変わらず、赤茶けた錆に覆われた看板が下げられていた。

 アランは看板のグランドピアノを一瞥してから、赤いドアの前に立ち、コンコンコンコン、と四回ノックをした。すると、来訪を待っていたのか、すぐに返事の声が聞こえ、ドアがゆっくりと開かれる。

「やあ、アラン。待っていたよ」ネイサンはドアの前に立っていたアランを見上げてそう言ったあと、後ろに立っている希佐を見つけて、僅かに目を丸くした。「キサ」

「おはようございます、ネイサン」

 呆気に取られたような顔をしていたネイサンだったが、おはよう、と穏やかに挨拶を返してくれると、二人を招き入れるためにドアを大きく開いてくれた。

「どうぞ、入って」二人が店内に入ると、ドアをそっと閉めたネイサンが、前に回り込んだ。「さて、早速ピアノを試してみるかい?」

「ああ」

「グランドピアノは場所を取るし、施設に寄贈するならアップライトピアノの方がいいかな」

「音を聞いてから決めたい」

「いいね」それほど広くない店内には、相変わらずピアノがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。「ピアノの調律は済ませてあるから、どれでも好きに試し弾きをしてくれて構わないよ」

「ありがとう」それから、と言って、アランは手に持っていた小さなブーケを差し出した。「ジュリアに」

「彼女の好きな花を覚えていてくれたんだね、嬉しいよ」

「こちらは皆さんで召し上がってください」

「ご丁寧に、ありがとうございます」

 ネイサンはケーキの箱とブーケを大切そうに抱えると、上に置いてくると言って、その場で踵を返した。

 アランはそれを見送ることもせず、どれもピカピカに磨き上げられているピアノを見回していたかと思うと、傍にあった椅子を抱え、一台のアップライトピアノの前に腰を下ろした。

 W.HOFFMANNと金色の文字で刻印されたそのピアノは、磨りガラスの向こう側から差し込む陽光を浴びて、色合いの優しい茶色の体をキラキラと輝かせている。

 希佐はアランが弾くベートベンの月光を後ろに立って静かに聞いていたが、その音色に誘い出されるようにして、店の奥から顔を覗かせたベンジャミンの姿を見つけると、その場をそっと離れた。

「おはようございます、ベンジャミンさん」

「お前さんも来てたのか」

「はい」

「あれは誰だったか……」

「劇団カオス主宰の、アラン・ジンデルです」

「カオス……ああ、ロビンのか」

 ベンジャミンはそう言いながら思わせぶりに目を細めたが、その様子を見ていた希佐を横目に一瞥すると、こちらに来るようにと手招きをして奥の作業部屋に戻っていく。カーテンで仕切られたその部屋の中には、修理途中のピアノが何台も並べられていて、その中には希佐のベーゼンドルファーもあった。

「ぼちぼちだが、お前さんのベーゼンドルファーの修繕も進んどる。今、オーストリアから部品を仕入れているところでな」

「先月、オーストリアに行かれていたとリジーから聞きました」

「部品の仕入れのついでに、本社まで行って同型のピアノの音を聞いてきたんだ。大昔に働いていた誼で図面も手に入れてきたからな、まあ、予定よりは早く仕上がるかもしれん」

「急いではいないので、私のピアノは後回しにしてくださって構いません。何年でも待てますから」

「お人好しは美徳とは限らんと思うがね」

 ベートーベンを弾いていたかと思えば、今度はリストの愛の夢を弾きはじめたアランをカーテン越しに振り返ると、ベンジャミンが、ふん、と鼻で息を吐く。

「まあまあだな」

 アランは今でもときどき、スタジオの裏手にある教会に行って、気の向くままにピアノを弾いていることがあった。その姿を、教会の一番後ろの席に座ってこっそり眺めていると、この人は舞台人や脚本家以外の、何者にでもなれた人なのだろうと思うのだ。器用で、不器用な、万能の人。

「あのベーゼンドルファーは、彼への贈り物なんです」

 ころころと移り変わる曲目に耳を傾けながら、希佐がそのように言うと、ベンジャミンは台の上に置いてあった器具を手に取りながら口を開いた。

「そいつは初めて聞く話だ」

「電話でお話ししたことを覚えていますか?」腕組みをし、こちらを睨むように見てくるベンジャミンを見て、希佐は頼りなげに微笑を浮かべた。「彼のパソコンの中のゴミ箱に、あのベーゼンドルファーの画像が残っていました。私は、それを見て、こちらに電話をお掛けしたんです。あのピアノは、アラン・ジンデルにとって、きっとかけがえのない、大切なものなのだと思ったから、無理を承知で修繕のお願いをしました」

「あの若いのは、それを知っとるのか?」

「いえ、まだ」

「そうか。お前さんの魂胆はよぉく分かった」魂胆? と思い、希佐が首を傾げると、ベンジャミンは修繕中のピアノの前に立って言った。「このオレに口止めをしにきたんだろうが」

「そんな、まさか」本当にそんなつもりなどなかった希佐は、慌てて首を横に振った。「ピアノのことは、私の口からきちんと話します。今日は、アランにもあのピアノを見てもらおうと思って来ました。もちろん、びっくりさせたかったっていう気持ちはありますが、いつまでも内緒にしていられることではありませんし、彼が他のピアノを購入してしまったら、元も子もありませんから」

「オレには、あの若いのが素直に喜ぶとは思えんがな」

 私もそう思います、とは言わなかったが、希佐自身もベンジャミンと同じ気持ちだった。

 恐らく、余計なことをするなと言われることはないだろう。だがしかし、あまり良い顔はしないのではないかと、希佐は考えている。

 これ以上ベンジャミンの仕事の邪魔をしないようにと、その場を離れた希佐が、仕切りのカーテンを引いてアランのところに戻ろうとすると、ネイサンが丁度階段から降りてくるところだった。

「リジーは学校ですよね」

「はい」希佐の問い掛けに、ネイサンは苦笑いを浮かべながら頷いた。「あなた方がいらしていたと知ったら、とても残念がると思います」

「私も会えなくて残念です」

 アランは椅子を引き摺りながら、ピアノを転々と渡り歩いている。希佐とネイサンは少し離れた場所から、その様子を見守っていた。ピアノに没頭しているときのアランの横顔は、酷く美しい。

 今は、ショパンの雨だれがしめやかに奏でられている。アランは以前、教会の屋根を雨が打ち付ける中で、この曲を弾いてくれたことがあった。

「……私の妻は最期まで彼のことを気にかけていました」希佐の隣に立ち、ピアノの音色に掻き消されてしまいそうな声で、ネイサンが言った。「彼は、妻が亡くなる前日の夕方に、たった一人で見舞いに来てくれたんですよ。次の公演の脚本が仕上がったんだ。次の舞台は、きっとこれまでとは違う、いい舞台になるはずだから、絶対に観に来てほしいと。でも、妻は回復が見込めないほどに弱っていて、もう声を発することさえ難しい状態だったんです。それなのに、妻は彼の顔を見て、嬉しそうに笑うんですよ。息も絶え絶えになりながら、その頃には体が羽のように軽くなって、この苦痛からも解き放たれているだろうから、必ず観に行くと、そう約束をしていました」

 互いに、それは果たされることのない約束だと理解していたはずだ。それを承知の上で交わされた約束は、酷く残酷で、切なくなると同時に、悲しみを覚えるが、なんて尊いものなのだろうと、希佐は思った。

「この曲を聴いていたら、あの日は雨が降っていて、窓の外では雨だれが滴っていたことを、思い出してしまいました」

 アランは、合わせる顔がないから、葬儀には行くつもりがなかったのだと言った。きっとそれは、バージルや希佐が想像したような理由ではなく、もっと深い思惑があったからなのかもしれない。

「職業柄、多くのピアニストを知っていますが、彼の奏でるピアノの音色は、その中の誰よりも心に訴えかけてくるものがあります。驚くほど鬱々としているのに、一つ一つの音は、星屑のように煌めいている。こうして聴いていると、なぜか心が乱されます」

「ベンジャミンさんは、まあまあだとおっしゃっていました」

「最大の賛辞ですよ。父は滅多に人を褒めません。あなたの歌だって、本当はとても気に入っているのに、それを認めようとはしませんから」

「またリジーと一緒にマイ・フェア・レディを歌ってお聞かせできるように、稽古を頑張りますね」

 そう言って小さく力こぶを作るような仕草を見せる希佐を、ネイサンは微笑ましそうに見やってから、ピアノを弾き続けているアランの背中に目を向けた。

 アランはそれからも、店中のピアノを気が済むまで弾いていたが、最後に腰を下ろしたピアノの前でぼんやりと宙を見つめていたかと思うと、徐に立ち上がり、最初に試し弾きをしたピアノの前まで移動する。

 抱えていた椅子を置き、そこに再び着席すると、ふう、と大きく息を吐き出す。左手の指先でそっと鍵盤を一撫でし、右手をふわりと鍵盤の上に乗せて、ぐっと惹き込まれる和音を奏ではじめた。

 ショパン、ノクターン第二十番、遺作。

 希佐は今、アランが演奏するその曲を聴いて、ネイサンが言っていた言葉の意味を正しく理解できたような気がした。

 アランが奏でる音色は、驚くほど鬱々としているのに、一つ一つの音は、星屑のように煌めいている。重々しいのに、とても軽やかなのだ。華やかでありながら、物悲しい。相容れないはずの感情が交互に訪れては、心を掻き乱していく。

 心臓が、まるで開演を待つ舞台袖に立っているときのように、トクトクと興奮気味に鼓動していた。意識して深く呼吸をしなければ、徐々に浅く、速い呼吸を繰り返してしまいそうになる。

 この人の指先からこぼれ落ちた美しい音を一つずつ拾い集めて、それを透明な糸で繋ぎ合わせたら、それはそれは美しく、幻想的な首飾りが仕立てられるのだろう。

「決めた」最後まで演奏を終えたそのとき、アランが言った。「これにする」

「君ならそれを選ぶと思っていたよ」そう言いながら歩み寄っていくネイサンを、アランが物言いたげに振り返った。「自分で試してみないと納得しないと思ったから」

 ネイサンはポケットからsoldのプレートを取り出すと、フェルトのコースターの上に、それをそっと乗せた。

「お茶の用意をしてあるから、二人とも上にどうぞ」

 階段脇にある戸棚から茶封筒を取り出しながら、ネイサンが言った。時刻はまだ午前十時を過ぎたばかりだ。少しくらいなら構わないだろうと思った希佐が、アランの方を見ると、小さく肩をすくめられる。

「忙しければ無理にとは言わないよ」

「あ、いえ、いただきます」

 希佐はピアノの前に座ったままのアランのところまで行くと、その手を取って立ち上がらせた。どうやら、まだもう少しここに留まって、ピアノを弾いていたかったらしい。だが、あのベーゼンドルファーのピアノの話もしなければならないのだ。その前にお茶を飲んで、このざわざわとした心を落ち着かせたいと、希佐は思った。

 ネイサンに連れられて階段を上がると、二階のキッチンスペースを通り抜けて、奥のリビングに通される。途中、家族の写真が所狭しと飾られている棚の上に、先程買ってきたブーケと、ラズベリーのタルトが供えられているのが目に入った。

「私たちだけでは食べきれないので」

 ネイサンはそう言って、買ってきたばかりのケーキを出してくれる。

 ケーキなんて久しぶりだと目を輝かせている希佐を見たアランは、自分の前に出されたケーキを一瞥し、上に乗っていたマカロンを、希佐のケーキ皿に乗せてくれた。

 紅茶は、濃いめに容れられたアッサムだった。アランはミルクポットを手に取ると、それを紅茶の中に流し入れ、ティースプーンでくるくるとかき混ぜている。

「さっき君が弾いたので調律が少し狂ったと思うから、調整と調律の確認をしてから受け渡しを行うとして──」ネイサンは隣り合わせに座っている二人の正面に座し、茶封筒の中から書類を取り出しながら言った。「支払いはどうする?」

「今日中に口座に振り込んでおく」

「いつも助かるよ」

「ピアノの調整はいつ頃に終わる?」

「一両日中には」

「トラックの手配は──」

「任せてくれて構わない」矢継ぎ早に話すアランを見て、ネイサンは書類を差し出しながら首を傾げた。「急ぎなのかい?」

「近いうちになんとかすると約束したんだ」

「約束は大事だね」

「今、担当の編集者に頼んで、施設に贈る本を用意してもらってる。それが今週末には揃う予定だから、それと合わせてピアノの運搬もしたい」

 アランは手元に引き寄せた書類に目を通すと、差し出されたペンでサインを書き入れた。ネイサンは戻された書類を受け取り、少し考えるように視線を彷徨わせてから、分かった、と言う。

「うちのトラックを出そう。運搬中の振動でもピアノの調律は狂ってしまうからね。私が同行すれば向こうで調律をし直すことができる。それに、その本も一緒に積み込んでしまえば、費用も最小限で済むよ」

「いや、それは──」

「私にも手伝わせてほしい」ネイサンは穏やかな表情を浮かべ、真っ直ぐにアランを見ている。「駄目かな」

「……調律師の仕事を見せてやれるから、子供たちは喜ぶと思う」

「じゃあ、決まりだ」

 希佐がケーキを食べている隣では、今週末の話がみるみるうちにまとまっていく。

 それには自分も連れて行ってもらえるのだろうかと思いながらも、ベーゼンドルファーのピアノのことをどのように切り出せばいいのかと、希佐は考えていた。

 だが、今がそのときでないことだけは分かる。

 希佐は二人の間でそわそわと視線を行き来させながら、そのタイミングが訪れるのを待っていた。

「俺のも食べる?」

 二人の話が終わり、自分のケーキをすっかり食べ終えてしまっていた希佐に向かって、アランがそう声を掛けてくる。希佐が首を横に振ると、アランはフォークを手に取り、ケーキを一口台に切り分けながら黙々と口に運んでいた。

 話をするなら、今なのだろうか。

 このまま先延ばしにしたとしても、きっと良いことなど一つもない。

『オレには、あの若いのが素直に喜ぶとは思えんがな』

 つい先程のベンジャミンの言葉が耳の奥に音として蘇ってくる。その言葉が希佐を尻込みさせようとするが、希佐はゆっくりと深呼吸をすると、アランの膝にそっと手を掛けた。

「あのね、アラン」

「なに」

「大事な話があるんだ」

「……今、ここで?」

「うん」

 アランはどこか理解に苦しむという顔をして希佐を見やっている。二人の正面に腰を下ろしていたネイサンは、希佐を見て不思議そうに目を丸くしていたが、すぐに合点がいったというふうな顔をして、何も言わずにその場を離れていった。

「なに、話って」

 アランはケーキの最後の一切れにフォークを刺そうとするのを躊躇うと、皿の上に置き、代わりにティーカップを手に取った。ミルクティーを嚥下し、紙ナプキンで口元を拭ってから、隣に座っている希佐を見る。

「アラン、前々からピアノを欲しがっていたでしょう?」

「まあ、うん」

「それでね」大舞台を前にしても緊張しない強靭な心臓が、今まさに、その緊張感を味わっているようだと希佐は思った。「少し前に、アランのためにピアノを一台買ったんだ」

「……それで?」

「そ、それで──」希佐は上目遣いにアランの緑の目を見る。「そのピアノがこの下にあるの。もしよかったら、一緒に見に行ってみない?」

 実際にはもっと別の言葉を用意していた。それなのに、自らの頭の中で思い描いた脚本通りにことが運ぶことはなく、上手く台詞も出てこない。

 アランは表情の読み取りにくい顔で、希佐の琥珀色の目を真っ直ぐに見つめ返していた。希佐がそのまま黙っていると、小さく息を吐いたアランは、皿の上に残っていた最後の一切れのケーキを頬張り、テーブルに手をついて立ち上がる。

「アラン」

「見に行くんだろ」

「あ、うん」こちらに向かって差し出された手を取って、希佐も立ち上がった。「見に行く」

 アランは察しがいい。大抵のことは先読み出来てしまう。希佐が考えていることなどいつだってお見通しで、何もかもが透けて見えていて、言葉で説明するまでもないのではないかと、そう思うことばかりだ。

 だがしかし、希佐にはアランの考えていることが、分からないことの方が多い。変に邪推をしてしまい、落ち込むこともあれば、気まずくなったり、怒らせてしまったのではないかと感じることもある。

 でも、よくよく考えてみれば、アランが怒ったことなど一度もないのだ。

 互いの間に距離を感じるときはいつも、途端に口数が減るが、それは怒りや、苛立ちや、腹立たしさのようなもののせいではなく、ただ思考することに専念し、解決策を探っているのだということを、希佐は知っている。

 舞台演出家の一人芝居のあと、希佐が理不尽な怒りをぶつけたときだって、アランはそれを怒ったりはしなかった。

 だから、きっと大丈夫だと、希佐は思った。

 ネイサンに一言告げてから階段を降りて行き、希佐は先に立って、奥にある作業場のカーテンを引いた。

「ベンジャミンさん、またお邪魔しても構いませんか?」希佐がそう言って作業場に顔を覗かせると、こちらを振り返ったベンジャミンは無言のまま頷いた。「ありがとうございます」

 希佐が作業場に足を踏み入れると、それに続いたアランが後ろ手にカーテンを閉める。自分を見ているベンジャミンに向かって軽く会釈をし、希佐を追いかけて作業場の隅までやって来た。

「前に、アランが何週間かスタジオを離れていたときに、パソコンのゴミ箱に入っていたスクリーンショットを見たの。自分勝手なことをして、嫌な思いをさせてしまうかもしれないと思ったけれど、どうしても無視することができなくて」

 アランの方を見ずにそう言った希佐は、ピアノを覆い隠している黒い布に手を掛ける。ふう、と小さく息を吐き出してから、その布をそっと引いた。

 顕になったピアノを目の当たりにしたアランの様子には、ほんの少しの変化もなく、その顔に貼り付けられたような無表情を見上げ、希佐は黙ったまま静かに瞬く。

「正直」その美しい色の目をピアノに向けたまま、アランは小言を漏らすように言った。「ゴミ箱の中まで見られるとは思ってなかった」

「ごめんなさい」

「君にゴミを漁る趣味があったとは知らなかった」ぐ、と唇を噛んだ希佐を横目に一瞥してから、アランはピアノに視線を戻した。「ごめん、今のは冗談」

 イギリス人の冗談は皮肉がきつい。普段、ほとんど冗談を口にしないアランが言うから、尚更だ。どのような恨み言も甘んじて受け入れる覚悟を決めていた希佐は、何も言わず、ピアノを眺めているアランの横顔を見上げていた。

「別に怒ってはいないよ」希佐の表情が不安そうに見えたのか、アランが取ってつけたように言う。「驚いてはいるけど」

 そう言ったアランは、もう一歩ピアノに歩み寄ると、伏せてある鍵盤蓋に手を掛けた。それをゆっくりと押し上げれば、微かに軋む音と共に、黄色みを帯びた鍵盤が顔を覗かせる。だが、アランが見ているのは、その部分ではなかった。

 鍵盤蓋の内側、その右隅に剥がれかけた金色の文字で、ベーゼンドルファーのロゴが記されている。その少し外れた場所に、故意につけられたような小さな傷があった。何か尖ったもので削ったような跡だ。

 膝に手をついて腰を屈めた希佐は、目を凝らし、その傷跡を見た。

「……鏡文字のR?」

「俺が削った」アランがそう言うと、後ろで話を聞いていたらしいベンジャミンが、けしからんとばかりに鼻で息を吐く。「三歳か、四歳くらいのとき」

「分別のないガキめ」

「ごもっともです」アランは自らが傷付けたという痕に指先で触れながら、小さく笑った。「これは極上のピアノだって言ってた」

「誰が?」

「俺にピアノを教えてくれた人」そう言うアランの表情が、少しだけ穏やかになる。「どこかの貴族の家で、使用人用に置かれていたピアノが不要になったから、処分に困って施設に贈られたって話だった。ここまで酷くはなかったけど、俺が居たときからかなりの傷だらけで、高価なピアノには見えなかったよ。子供たちにも乱暴に扱われていたし。でも、その貴族の家に出入りしている調律師が、気が向いたときに訪ねてきて整備をしてくれていたから、奇跡的に音の狂いは少なかったんだ」

 白く長い指先が、そっと黒鍵を押し込むが、やはり音は鳴らない。

 それでも、アランは昔を懐かしむような面持ちを浮かべ、すうっと目を細める。

「ここの工房のホームページに、写真が掲載されているのを見て、間違いないと思った。あのピアノだって。でも、連絡をする前にページが消されていたから、買い手が見つかったんだろうと思って、諦めたんだ」

「そもそも、そのピアノは売るつもりなんてなかったもんだ。それを、あのバカ息子が勝手に売りもんとして紹介するから、こんな厄介なことになっとる」こちらに背を向け、分解したピアノの部品を組み直しながら、ベンジャミンは続けた。「今からでも遅くはない。お若いの、そっちの娘さんに言ってやってくれ。こんなオンボロのピアノに払う金があるなら、新品のピアノを買ってやれってな」

「ベンジャミンさん、そのお話はもう──」

「お前さんが振り込んだ金ならすぐに返金してやる」

「結構です」

 つい先ほどまでは、オーストリアから部品を仕入れているところだと、嬉しそうに話してくれていたのに、酷く意地が悪いことを言う。思わずむっとする希佐を横目に見たベンジャミンは、片方の口角だけを持ち上げてにやりと笑み、先を続けた。

「そのピアノの修理には手間と時間と金が掛かるんだ」どっこいしょ、と言いながら足の短い椅子から立ち上がったベンジャミンが、アランの傍らまでやってくる。「お若いの、お前さんはテセウスの船ってのを知ってるか?」

「ギリシャ神話の哲学問題ですか」

「おお、そうだ」ベンジャミンは手にしていた器具の柄の部分を、アランの鼻先に突き付けて言った。「そのピアノにはテセウスの船と同じことが言える。ピアノの修繕を完璧に行うためには、もしかしたら、すべての部品を新しいものに取り替えなければならないかもしれん。そのとき、お前さんは、そのピアノと修繕後のピアノを同じものだと思えるか?」

 難しい問題だと希佐は思う。

 考えれば考えるほど、深みにはまっていく問題だ。

 今、この形の、音の出ないボロボロの状態のピアノは、アランが幼い頃に身を寄せていた施設のピアノで、まず間違いはないのだろう。だがしかし、元々のパーツがすべて取り外され、新しいものに取り替えられてしまったとしたら、果たしてそれは、かつてのアランが弾いたものと同じピアノだと言えるのだろうか。

「同じだと思えないなら、やめさせることだ。思い出は思い出として大切にすればいい。悪いことは言わねぇから、新しいピアノを買うんだな」

 ピアノそのものを形作る木材も、ピンと張られた弦の一本一本も、弦を押さえるカポダストロも──何もかもが違う部品から構築し直されたピアノは、きっと、鍵盤を弾いたときの感覚も、音色も、響きも違う。

 それでも良しとするかどうかは、アラン自身が決めることだ。だが、たとえどちらに転んだとしても、希佐は自らの前言を撤回するつもりは毛頭なかった。

 この先、あのピアノがアラン・ジンデル以外の何者かの手に渡ることになったとしても、それで構わないと思う。ただ、ここで朽ちて処分されることがなければ──このピアノの歴史が、どこか別の場所で受け継がれていくのであれば、それでいいのだと思える。

 このピアノはアラン・ジンデルという人間に経験を与えた。経験は思い出に、思い出は人生の糧に、人生の糧は、その人自身の豊かさに繋がるものだ。

 だから、少なくとも希佐にとっては、このピアノはただの無機質なものではない。

 このピアノは、アラン・ジンデルの一部であり、音楽の才能の原点でもある。それが目の前で失われようとしているのを、黙って見過ごすことなどできるはずがなかったのだ。

「テセウスの船は、テセウスの船だ」アランは鍵盤を愛おしそうに撫でながら、囁くような声で言った。「舞台にも同じことが言えます。オリジナルキャストが退き、すべての役者が入れ替わっても、演目の価値は何も変わらない」

 アランのことを試すように睨んでいたベンジャミンの眼差しが、少しだけやわらかくなる。突き付けていた器具の柄がゆっくりと下されていくのを見ながら、アランは穏やかに言った。

「たとえすべてのパーツが入れ替えられたとしても、このピアノは、あのときのピアノです」

「そうか」

「はい」

「分かった」

 ベンジャミンはそう言うと、再び作業に戻っていく。よっこらしょ、と言いながら椅子に腰を下ろす後ろ姿を一瞥してから、アランはもう一度ピアノに目を向け、希佐が手にしていた布を受け取って、それで覆いを掛けてやっていた。

「相談してほしかった」大通りに出てタクシーを掴まえ、それに乗ってスタジオに戻るまでの道中、窓の外を眺めながらアランが言った。「まあ、当時の状況を考えれば、話すに話せなかったとは思うけど」

「私は多分、今日みたいなことがなかったら、ずっと話さなかったと思う」

 信号が赤に変わり、タクシーが徐々に減速する。目の前の横断歩道を渡っていく親子連れの姿に目を留めながら、希佐は続けた。

「本当は、あのピアノが元通りの姿を取り戻すまで、黙っているつもりだったから」

「なんで」

「あなたがどんな顔をするのか、想像できなかった」希佐は車内に目を戻すと、隣に座っているアランを見上げた。「それに、怒られるかもしれないって」

「怒りはしないけど」

「……けど?」

「貯えはもっとよく考えてから、自分自身のために使った方がいい。俺のためを思ってしてくれることはなんでも嬉しいけど、これを素直には喜べない」

「あなたに喜んでもらいたいと思ったわけじゃない。私が、あのピアノをあなたに贈りたいと思ったの」

「俺が君に何の前触れもなく車やアパートを買ったとしたら? 俺は別に喜んでほしいわけじゃない。ただ君に贈りたかっただけだと言ったら、君は困惑するだろ?」

「……」

「黙りはずるいな」

「考えてる」

 すっとアランから目を逸らすと、シートに落ちていた希佐の手が、そっと握り締められた。途端に、心臓が窮屈さを覚えて、胸が苦しくなる。

「……私は、何をどう頑張っても、アランの過去には関われないんだって思ってた。それが、少し悔しくて、悲しかった。もし過去に戻れたら、小さなあなたを力一杯に抱き締めて、大丈夫だよって言ってあげられたかも」

 そう言って頼りなく笑う希佐を、アランはただ見つめている。

「でもね、あのピアノと出会ったとき、小さなあなたに出会えたような気持ちになったの。あのピアノがとても愛おしく思えた。あのピアノを助けることで、過去のあなたにも手を差し伸べられるんじゃないかって」そんな、自分勝手な妄想を、心に宿してしまった。「そんなの、ただの自己満足だよね」

「誰かに何かを贈るなんて行為は自己満足以外にないだろ」絞り出すように言った希佐の声を聞いてから、アランはため息まじりにそう言った。「それを受け取るか、投げ捨てるかは、贈られた側の選択次第だ」

「……ピアノ、迷惑だった?」

 上目遣いにそう言う希佐を見て、アランは少しだけ笑う。

 それから首を横に振り、何かを言いかけるが、タクシーがスタジオに到着すると同時に、開きかけた口を閉じてしまった。穏やかに見えていた表情が、瞬時に険しくなるのを目の当たりにして、希佐は眉を顰める。

「目的地です」アランはあらかじめ用意していた紙幣で代金を支払い、釣りを出そうとした運転手を手の平で制した。「いつもありがとうございます」

 アランはいつもと同じように先にタクシーを降りると、ドアを押さえ、希佐に向かって手を差し伸べてくれる。だが、その眼差しはこちらにではなく、別の方へと向けられていた。

「……アラン?」

 アランの手が希佐の体を引き寄せ、タクシーのドアを閉める。すると、タクシーは滑るように発進し、そのまま道の向こうへと消えていった。その間に、希佐はアランの視線を追いかけ、スタジオの扉の方へと目を向ける。そして、アランの様子が一変した理由を、瞬時に理解した。

「まったく」その人は扉に寄り掛かっていた身を起こし、ゆっくりと胸の前で腕を組みながら言った。「遅いじゃないの」

「マダム」

「ごきげんよう、キサ」

「こんにちは」黙ったまま何も言わないアランの代わりに、希佐が挨拶をする。「あ、あの、今日はどのような──」

 希佐は途中まで言いかけて、思わずはっとした。今朝、ルイが特別講師を寄越すと話していたことを思い出したからだ。誰が来るかはお楽しみだと言っていたが、まさか、クロエ・ルーがやって来るとは思わない。

「ふうん」クロエは腕を組んだまま、すうっと細めた目で、希佐とアランの顔を交互に見た。「あのまま別れるのではないかと思っていたけれど、何とか上手くやっているみたいね」

「来るなら来るで連絡くらいするのが礼儀だろ」

「あら、水臭いことを言うじゃない」

「あんたはもっと自分の立場をわきまえた方がいい」

「なあに、それ。もしかして、私の心配をしてくれているのかしら」

 くすくすと楽しそうに笑うクロエを見て、アランは嫌悪するように眉を顰めてから、スタジオに向かって歩いていった。コートのポケットから取り出した鍵を穴に挿し込み、やや乱暴に扉を開けると、さっさと入れとでもいうふうに粗略に手招く。

「昼間からうろうろされると迷惑だ」

「じゃあ、夜ならいいの?」

 この人が、三十年前のクリスマスの日に、アラン・ジンデルを毛布に包み、段ボール箱に入れて施設の前に置いていった張本人なのだ。そう思うと、今目の前に見ているものが、とても不思議な光景に思えてくる。

 希佐の目には、クロエ・ルーが少しも罪悪感を覚えていないように見えるのだ。

 だが、実際のところ、人の親というものはそういうものなのかもしれないと、希佐は思った。自分の父親も、娘からの仕送りを毎月受け取っているが、それをありがたがることも、申し訳なく思うこともしていないようだ。

 仕方なく、子が親を許してしまう。

 あるがままを受け入れてしまう。

 アランも、そんな自分と同じなのだろうか──希佐はそう思いながら、扉を押さえて自分を待ってくれているアランの元へと、早足で歩き出した。

 

 

 

 

 

 大急ぎで稽古着に着替え、スタジオに降りてウォームアップをはじめた希佐のことを、クロエ・ルーはパイプ椅子に腰を下ろし、ただ黙って眺めていた。だが、それは不躾な眼差しではない。粗を探しているふうでもなく、例えるなら、何かを見定めようとしているかのような、真剣な目だ。

 だから、希佐はいつも通りのルーティンを粛々とこなす。毎日、毎日、飽きもせずに同じ動きを繰り返す。その日の調子の良し悪しを判断するためには、必要不可欠な時間だ。希佐はこの時間が好きだし、自分自身を見つめるための、大切なひとときだと考えていた。

 グラスミアから帰ってきて早数日、体の調子はすこぶる良い。非常に身軽で、思うように体が動く。アランとのリフトはなかなか上手くいかなかったが、しっかりとした稽古を続けていけば、何とかものにできるような気はしていた。

 しかしながら、それは希佐自身の所見なので、アランがどのように考えているのかは分からない。だが、少なくとも、希佐の目には嫌々やっているようには見えなかった。

 床に両手をつけたまま、ゆっくりと立ち上がる。そのまま身を起こし、徐に顔を上げると、後方に座っていたクロエと鏡越しに目が合った。クロエは椅子の背もたれに寄り掛かった格好で、長い足を組み、顎に手を添えて、何事かを考え込んでいるようだった。

 とりあえず、課題の曲を披露して見せれば良いのだろうかと思い、希佐がスマートフォンで音楽を流しながら一曲歌い、踊りきったところで、クロエは詰めていた息を大きく吐き出した。

「あなた、お上品にまとまっているのね」クロエは、退屈だと言わんばかりの口振りで言う。「まあ、それがルイの育成方針だというなら、横から口を挟むのは野暮というものなのでしょうけれど」

「お上品、ですか……?」

「あら、自分では分からないものなのかしら。あなた、オーディションの頃の方が、ずっと魅力的だったわよ。今は、あの頃よりも洗練されてはいるけれど、私が最も評価していたものが失われはじめている。私の琴線に触れたはずの凄みが薄れてきているのよ。まさかとは思うけれど、あなた、現状に満足しているなんてことはないわよね?」

「今の自分に満足はしていません」

「それを聞いて安心したわ」クロエはにこりと微笑んでそう言うと、意味深な眼差しで事務室の方を一瞥してから、再び希佐に目を向けた。「私はね、キサ。あなたの死に物狂いなところが大好きなの」

 その言葉を真正面から受け止めてしまった希佐は、一瞬、謗られているような気持ちになった。だが、すぐに違うのだと分かる。クロエは本当に、本心から、そう思っているのだ。透き通るような青い色の目をキラキラと輝かせ、まるで夢を語るような面差しで、希佐を見つめている。

「あのオーディションでは、あなたほど必死になって舞台を追い求め、縋り付こうとしている女の子は他にいなかったわ。でも、それは当然のことよね。だって、あなたには舞台以上に価値のあるものなんて、この世に存在しないのだもの」

「あ、あの……」

「違ったかしら」

 すぐに違うと否定できなかったのは、嘘を吐きたくなかったのと、自分自身でも明確な答えを持ち合わせてはいなかったからだ。確かに、自分には舞台がすべてで、舞台の存在しない世界など想像することもできない。だが、舞台以上に価値のあるものはこの世に存在しないと、そう断言することはできなかった。

 困惑の表情を浮かべている希佐を見据え、クロエは更に続ける。

「あの中には、あなたよりもお歌の上手な子はいたし、優美に踊れる子もいたわ。でも、この世界はそう単純じゃない。分かるでしょう? 大事なのは、恒星のような煌めきを持っているかどうか。歌やダンスなんて、基礎さえ出来ていれば、あとからだってどうとでもなるもの。自らの才能だけで光り輝ける子でなければ、私の──いいえ、私たちの舞台の真ん中には立てないのよ」

 オーディションを勝ち抜き、主演の座を勝ち取ったことで、以前よりは自分に自信を持つことができるようになったと、希佐は思っている。だがしかし、どうしても自分でなければならなかった理由を明確にすることができず、未だに自分でよかったのだろうかと、疑っている部分はあった。

「でも、実際のところ、私やあなたのようなタイプの役者は、とても使い勝手が悪いのよね」クロエはそう言うと、パイプ椅子から立ち上がり、ゆっくりとした足取りで希佐の前まで歩み寄ってくる。「なぜだか分かる?」

 かつ、かつ、かつ、と近づいて来ていた小気味良いヒールの音が、ぴたりと止まる。目と鼻の先まで迫るクロエの顔を見つめ、希佐は、アラン・ジンデルと初めて会った日のことを思い出していた。

「……なぜ、でしょうか」

「目立ちすぎるの。良い意味でも、悪い意味でもね。あなたも少なからず自覚しているはずよ、キサ。あなたが舞台上に姿を現すと、観客の視線が一気にそちらへ集中するでしょう?」

「マダムは、私が出演する舞台を見たことは──」

「ないわ」屈めていた身を起こし、クロエはあっけらかんと言った。「それでも、ヘスティアでのあなたを見ていれば一目瞭然よ。人間の視線の動きって、とても正直なんだから。店内に一歩足を踏み入れた瞬間、すぐに分かるのよ。ああ、今日は、誰か特別な人が来店しているのねって」

 確かに、ヘスティアには多くの舞台関係者が来店する。

 演出家、脚本家、プロデューサー、大手事務所の重役、そして、世界的に名の知れた有名な役者やアーティストたち──あの店で働かせてもらっているときから、ずっと感じていた。

 そういう人々には特別なオーラのようなものがあって、こちらの意識の有無に関わらず、その存在を無視することができない。視線は自然とそちらに向かい、その魅力的な仕草に、目を奪われてしまう。

 そういう人々は総じて、酷く魅力的なのだ。中には傲慢な態度の者もいるが、大抵の場合はとても穏やかで、物腰もやわらかく、誰に対しても優しい。このクロエ・ルーだってそうだ。店内で突然声を掛けられても、嫌な顔一つせず、サインや写真撮影に応じ、一人一人と会話を楽しんでいた。

「あなたはいつだって、その視線の先にいるのよ」

「でも、あのお店には顔馴染みのお客さまが多いので──」

「あのねぇ」クロエは呆れたようにため息を吐く。「あなた、人の視線に鈍感なの? それとも、意識しないようにしているだけ?」

「意識しないようにはしています」

「意識をすると疲れるのよね。ええ、よく分かるわ。だけど、これからは少しずつ意識するようになさい。どこで誰に見られているか分からないのよ。みっともない姿を写真に撮られたくはないでしょう?」

「は、はい、それは、もちろん」

「それに、これからはメディアに露出する機会も増えてくるわ。あなたはより注目を浴びることになるでしょうし、パパラッチの餌食になる可能性だってある。そういう覚悟もしておきなさい」

「分かりました」

 神妙な面持ちで頷く希佐を見て、クロエは少しだけ目を丸くする。そして、本当に分かっているのだろうかとでも言いたげな表情を浮かべ、先を続けた。

「実際、彼らを敵に回しても良いことは一つもないわ。ああいう連中を手懐ける最も手っ取り早い方法を、私が教えて差し上げましょうか?」

「ぜひ、教えていただきたいです」

「至極簡単よ。彼らを自分のファンとして取り込んでしまえばいいの。どんなときでも、笑顔で、礼儀正しく、紳士的に振る舞う。あなた、そういうことが得意なのではなくて?」

「得意かどうかは分かりませんが、そうありたいと努めています」

「では、これから先もそれを続けることね」クロエはそう言い、事務室から出てきたアランの姿を横目に一瞥するが、すぐに希佐に向き直った。「パパラッチだけではなく、マスメディアに対しても同じことが言えるわ。彼らは才能よりも人間性を見ている。蔑ろにされると酷く怒るの。だから、誰からも愛されるように振る舞いなさい。あなたが彼らを愛せば、彼らもあなたを愛してくれる」

 ユニヴェールは日本の演劇界を担う若い才能を発掘し、育てるための育成機関だ。その中でも選りすぐりの才能が、母体の玉阪座に引き抜かれていく。多くの子供たちは玉阪座を目指して日々研鑽を積み続けるが、その夢を実現できる人間は、狭き門と言われているユニヴェールに入学することよりも、明らかに難しい。

 卒業までの三年間、生徒たちは常に自主性を求められ、大抵の自由は認められる仕様になっているが、実際にはユニヴェール歌劇学校という機関に守られながら日々を過ごしていた。更に掻い摘んで言うと、ユニヴェールに在籍している三年間は、玉阪比女彦の名の下に、マスメディアから守られている。

 あの町は、普通の町とは違う。玉阪比女彦を主人とする国のようなところだ。玉阪座やユニヴェールが城だとすれば、玉阪はその城下町といったところだろう。希佐は何度か中座秋吏と玉阪の町を散策する機会に恵まれたが、出会う人々の多くが、中座を慕っているのが一目で分かるほどだった。

 玉阪の町の人々はユニヴェールの生徒たちを大切に思ってくれている。温かい目で見守ってくれている。あの町の人々は、ユニヴェールの生徒や玉阪座の役者を、決してマスコミに売ることはない。

 玉阪は、町ぐるみで役者を守り、育み、生かしている。

 だから、生徒たちは周囲の雑音に囚われることなく、のびのびと歌劇を学ぶことができていた。生徒に対する悪意は極々少数だ。だがそれも、いつの間にか摘み取られていることが多く、忙しない日々の中で忘れ去られていくものだった。

 授業でマスメディアへの対応の仕方などを学ぶ機会もなく、今、ここにいる。

 だが、立花希佐はここでも周囲の人々に守られていた。

 劇団カオスの拠点となっているヘスティアは、その城の王様であるメレディスの統治の下、ほとんど完璧に治世が守られている。時折、荒くれた客が紛れ込んでも、それを大人しくさせ、善良なお客様へと生まれ変わらせることができる。

 来る者は拒まず、去る者は追わない。だが、城に居座るのであれば、王様の命令は絶対だ。誰もがそれを理解している。恐ろしいことに、あのパブでメレディスに逆らえる人間は、誰一人としていない。ウエスト・エンドの外れにあるパブは、玉阪の町のように、舞台関係者を守ってくれていた。

 劇団カオス以外の舞台にもゲスト出演するようになり、環境が変わってからも、希佐の素性は隠され続けた。プロフィールの公開を避け、性別すら明確にはせず、粛々と活動を続けてきた。それが許されていたのは、アラン・ジンデルがマネージメントしているから、という理由に他ならなかったのだろう。

 だがしかし、いつまでも甘えてはいられない。

 もう何一つ隠し通すことはできない。

 きっとそれが、商業の舞台に立つということだ。

 希佐がクロエから受け取った言葉を頭の中で反芻させていると、事務室から出てきたアランは二人の邪魔をするべきではないと考えたのか、スタジオの隅にある長テーブルに腰を預けた。しかし、クロエが希佐に良からぬことを吹き込んでいるのではないかと邪推でもしたのか、その険しい眼差しはブロンドの髪の女性に注がれていた。

「なあに、そんなに怖い顔をして」クロエは呆れたような口振りでそう言い、アランを見つめ返した。「私がこの子をいじめているとでも思った?」

「別に」

「その別にって言うの、おやめなさいな」クロエは、はあ、とため息を吐く。「この子は私の希望と幸運の原石よ。美しく研磨こそすれ、傷をつけるなんてことがあるものですか」

 希望と幸運の原石──以前、何かのインタビューでも自分のことをそのように話していたと、スペンサーが言っていたことを希佐は思い出す。希望と幸運。それは、エメラルドに込められた石言葉でもあった。

 自分は、この人の期待に応えられるのだろうかという疑念が、希佐の脳裏をよぎった。これまでは、自らに向けられる期待値が大きければ大きいほど、その期待以上のパフォーマンスを披露できるようにと、自分自身に人並み以上の努力を課してきた。舞台の成功は立花希佐という舞台人を常に成長させてきたが、その度に大きく膨れ上がっていく期待値は、頼りない肩にプレッシャーを与え続けている。

 舞台に大きいも小さいもない。それは分かりきっていることだ。それでも、考えてしまう。この、今はまだ想像もつかないような大きなプロジェクトの最中、もし自分が躓いてしまったら、周囲はそれに巻き込まれて、まるで雪崩れのように何もかもが押し流され、後には舞台の残骸しか残らないのではないかと。

 恐ろしいと思う。

 そして同時に光栄だとも思った。

 体が震えるほどの恐怖心を覚えるのに、こんな自分を信じ、すべてを預けようとしてくれる人々の思いが、立花希佐という舞台人を奮い立たせてくれる。

 絶対に失敗は許されない。

 希佐はこの人の期待に応えたいと思った。そして、この人のことをもっとよく知りたいと思う。アランはそれを嫌がるかもしれない。だが、このクロエ・ルーという人を深く知ることが、今度の舞台を成功に導くための鍵になると、そう強く思うのだ。

「でもね、キサ」

「……はい」

「ただ美しければ良いというものでもないの。時には泥臭さも必要なのよ。それと、共感を得ることね。持って生まれた才能や美しさで他者を圧倒するだけでは、この先息が続かない。その点、あなたは地に足がついている印象があるから、心配する必要はなさそうだけれど」

 当初、クロエ・ルーには、浮世離れしたところがあるように感じられていた。だが、この人のことを少しずつ知っていくにつれて、その認識が間違っていたことに気付かされる。

 この人は、骨の髄まで、芸能人だ。隙を見せる人間はきっと限られている。それ以外の場所では、大衆が望むクロエ・ルーという女優を、緻密に演じ続けているのだろう。

 そういう生き方を自ら望んだのか、そういう生き方しか選べなかったのか、それは想像するべくもないが、さぞや辛く険しい道のりだったのだろうと察することは容易かった。

 自分を演じ続けることは、それ以外の何かを演じ続けることよりも難しい。本当の自分と、常日頃から演じている自分との間で乖離が起こると、精神がばらばらに引き裂かれ、奈落の底に転落していくような錯覚を覚えるのだ。下手をすれば、精神が崩壊し、一人ではその場所から浮上してくることもできない。

「あなたと一緒にお仕事をする日が今から楽しみだわ」

 この人には、根地黒門が書いた舞台演出家の脚本に登場する女優のような、どこか得体の知れないところがある。この、いくら覗き込んでも底が見えない人の役を、自分は演じなければならないのだ。

 盗ませてもらおう。この人が何を思い、何を考え、何を感じ、何に重きを置いているのか。きっと、この人を心の底から理解し、結果、自分を認めさせることができないかぎり、舞台の成功は見込めない。

 希佐の眼差しにそうした強い決意が滲むのを見たのか、その様子を目の当たりにしたクロエは、猫のような目をゆっくりと細め、蠱惑的な笑みを浮かべてみせる。そして、受けて立つと言わんばかりに鼻先で笑う仕草は、あまりに魅力的だった。

 スタジオにバージルが現れたのは、それから間もなくしてからのことだ。ルイが頼んでおいた特別講師というのは、どうやらバージルのことだったらしい。すっかり勘違いをしていた希佐が咄嗟に詫びると、クロエは悪戯を成功させた少女のような無邪気な笑みを浮かべ、いいのよ、と言って首を横に振った。

「余計なことをするなとルイに叱られるかもしれないけれど、そのときは私が請け負うつもりでいるから、すぐに教えてくださる?」

 バージルがスタジオに現れた途端、パチン、とスイッチを切り替えたかのように、クロエの雰囲気ががらりと変わった。その変化すら見逃すまいとしながら、こくりと頷く希佐を見て、クロエは僅かに口角を持ち上げた。

「随分とお久しぶりだこと」背負っていた荷物をスタジオの隅で下ろし、ジャケットを脱いでいたバージルに向かって、クロエが声を掛けた。「バージル?」

「おかげさまで仕事が忙しくてな」

「いいことじゃない」

「あんたは随分暇そうだ」

「あなたと同じ、自由に使える時間が増えただけよ」

 バージルは以前、クロエ・ルーとはヘスティアで何度か話したことがある程度の関係だと言っていた。だが、今の何気ない話を聞いているかぎりでは、なんだか気のおけない間柄のようにも感じられる。

 希佐が思わず長テーブルの方を見やれば、アランは気のない様子で欠伸を漏らし、凝りを解すように首を仰け反らせているところだった。

「あなたも今度のチャリティーイベントに出演するんですって?」

「ああ」

「何をなさる予定なの?」

「そちらのお嬢さんとタップを踏む予定なんだが」バージルの視線が、ちらり、と希佐に向けられる。「よろしければ、少しの間お借りしても構いませんかね?」

「ええ、もちろん」クロエはにこにこと機嫌が良さそうに応じた。「スタジオの隅で見学させていただいても構わないかしら」

「どうぞご自由に」

 誰に対しても分け隔てなく接するバージルにしては珍しく、クロエに対しては若干の警戒心が窺える。しかし、クロエはその警戒心に気付いている上で、その反応すら楽しんでいる節があった。

「それじゃあ、お勉強させていただくわね」

 クロエはトンっと希佐の肩を軽く叩くと、何の迷いもない足取りで、アランが腰を預けている長テーブルの方へ向かって歩いていった。アランはクロエがやって来ることに気がつくと、見るからに不快そうな表情を浮かべるが、事務所へ引き返そうとする様子は見せない。

 グラスミアでは、ロンドンに戻ったらクロエと話し合う必要があると、アラン自身も自覚している口振りだった。二人の話し合いの邪魔をするつもりは毛頭なく、ただ、その話し合いが少しでも良い方向へ向かってくれれば嬉しいと、希佐は思っていた。

「キサ」

「ん?」

「シューズ」バージルは希佐のロッカーを指しながら言った。「履き替えてくれ」

「あ、うん」

 タップシューズを自分のロッカーから取り出した希佐は、バージルが使っていたパイプ椅子に腰を下ろすと、履いていたダンスシューズを脱いで、そそくさと靴を履き替えた。その傍らに立ち、希佐が靴紐を通し直している様子を見ながら、バージルは口を開いた。

「ルイから話は聞いてるか?」

「特別講師が来るとだけ」希佐はちらりとバージルを一瞥する。「誰が来るのかは教えてもらえなかったんだ。だから、マダムがいらしているのを見て、彼女が特別講師なのかと思ってしまって」

「そりゃ贅沢な講師だな」

「でも、本当に私の歌とダンスを見てくださったの。アドバイスもしてくださったから、てっきりそうなのかと……」

 紐を通し終え、少しきつめに結ぶと、希佐は椅子から立ち上がる。その場で軽くステップを踏み、紐の具合を調節し直してから、隣に立っているバージルを見上げた。

「俺が自分で連絡するべきだった。悪かったな」

「ううん、大丈夫。何の問題もないよ」

「ルイから連絡を受けたとき、イベントで踊るダンスについて、キサと話し合うのに丁度良いと思ったんだ。ルイから許可はもらってる。お前の課題も見てやるっていう条件付きでだけど」

「今日はマダムが見てくださったから、その結果を録画して送るよ。全体の雰囲気が少し変わったから、ルイに見てもらって意見を聞きたいんだ。だから、今日の残りの時間は、バージルが好きに使ってくれていいよ」

「おっ、じゃあ、みっちりやらせていただきますかね」

 バージルが今度のイベントで自分と一緒に踊りたいと言っていることを相談したとき、アランは別段考えるような様子も見せず、いいと思う、と言った。

「自分の課題と、俺と、バージルとで相当稽古時間を食われると思うけど。それに、当日実際に舞台に立てるかどうかも、まだ不確定だ」

「でも、稽古したことは無駄にはならないから」

「張り切りすぎて怪我をしないで」

「はーい」

 かくして共に踊ることになった二人は、スタジオの真ん中でスマートフォンを手にしたまま座り込み、各々が候補にと選んできた楽曲を聴きながら選曲作業を行なっている。いつも通りであれば、バージルが選曲と振り付けを担い、希佐がそれに合わせてきたが、今回はそれぞれで意見を出し合いながら、選曲と振り付けをすると決めていた。

 バージルと出会うことがなければ、タップダンスを踊る機会に恵まれることも、ここまでのめり込むこともなかったのだろうと、希佐は思う。

『まあ、出来てないこともないが、初心者に毛が生えた程度のレベルだな、これは』

 そう言われた日のことを、まるで昨日のことのように覚えている。バージルは絶望的だという顔をして、勘弁してくれとでも言うふうにアランのことを見ていた。それでも、必死で食らいつく希佐を決して見放すことはせず、今でもこうして、面倒を見続けてくれている。

 これが最後になるのかもしれない──そう思っているのは、きっと、希佐だけではないはずだ。バージルも、これが最後になるかもしれないと思っているからこそ、選曲から振り付けまで、一緒にやってみないかと、そう提案してきたに違いない。

 自分は幸運だと、希佐は思う。どこへ行っても、人との出会いに恵まれている。のたれ死んでもおかしくなかった状況下の中ですら、いつだって、誰かが救いの手を差し伸べてくれた。

 後悔をしたくない。恩返しをしたい。

 だから、残り少ない舞台人生、真っ直ぐに前だけを見据えて、走っていこう。

 期待に応え続けよう。

 何でもいいからチャレンジし続けよう。

 決して後ろを振り返らない。

 これから先のロンドンでの日々が、立花希佐にとっての、集大成だ。

 

 

「あの二人、やけに仲が良いのね」

 スタジオの中央を陣取り、そこでダンスの選曲をしている二人を眺めていると、迷惑にもすぐ隣に移動してきたクロエ・ルーが、どこか冷めた口振りでそう言った。その横顔を一瞥すれば、声色通りの冷めた表情が目に入り、アランは呆れる。

「妬けちゃう」

「どっちに」

「バージルよ」クロエはすうっと青い目を細め、二人を睨むように見た。「彼、私がどれだけ口説いても絶対に靡かないの。それなのに、なあに、あんな小娘相手に楽しそうにしちゃって。年下が好みなのかしら」

「そういうふざけた態度が透けて見えるから相手にされないんだ」

「あら、ふざけてなんていないのよ。私、本気で口説いているんだから」

 バージルがまだアメリカのブロードウェイで精力的に活動していた頃、映画のプロモーションでニューヨークを訪れていたクロエが、マスコミから逃れるために飛び込んだ劇場で、バージルが踊っていたのだという。一目でその才能に惚れ込んだクロエは、圧倒的な知名度を誇る自らの顔と名前を使って楽屋に侵入し、こう言ったのだそうだ。

『私なら、あなたのダンスをもっと上手く生かせるし、高みへ連れて行くことだってできるわ』

 当時のバージルが、どのような顔をしてクロエを睨んだのかは、想像するに容易い。もし、クロエが言葉の選択を誤っていなければ、二人はそれなりに良好な関係を築けていたのかもしれない。だがしかし、出会いは最悪だった。

 バージルは舞台の規模やギャラの有無で仕事を決めない。直々にオファーを受けるにせよ、自らの意思でオーディションを受けるにせよ、自分がそれを面白いと思えないかぎりは、舞台に立つことはなかったそうだ。

 その頃、バージルはオフ・ブロードウェイの一角で舞台に立っていた。ブロードウェイの舞台には何度も立つ機会があったが、この一回り規模の小さなオフ・ブロードウェイの舞台に立つ方が、自分には性に合っていたと、前に話してくれたことがある。

『あんたがどこの誰かは知らねぇが』バージルは、相手がクロエ・ルーだと知った上で、そういう物言いをしたという。『俺は高みだとか、低みだとか、そういうものに興味はないんでね。俺は好きなときに、好きな場所で、好きなように踊る。人の指図を受けるなんて真っ平ごめんだ』

 それから程なくして、バージルはオフ・ブロードウェイで当たり役と出会い、後にブロードウェイに進出する。舞台は瞬く間にロングランが決定し、バージルはタップダンス界の新星として、一躍脚光を浴びることとなった。

「私が先に見つけたのよ」クロエは長テーブルに腰掛け、二人を見据えながら言った。「あなたよりもずっと早くにね」

「くだらない」

「私だって舞台に戻りたいの」

 近年、クロエ・ルーは舞台演劇から離れて久しい。映画やテレビドラマに出演するばかりで、舞台に出演する機会が激減していることを、マスコミはそれぞれの媒体で面白おかしく報道していた。美貌、歌声、肉体の劣化が主だった理由だろうと伝えられているが、それは違う。実際は、誰もこの女の隣に立ちたがらないのが、主な原因だった。

 クロエ・ルーという女優の存在感に打ち勝つことのできる役者を、必要な数だけ用意するとなると、莫大な資金が不可欠だった。そうまでしてクロエ・ルーを使わずとも、似たタイプの女優を起用すれば、舞台のバランスを考えて世界中の舞台人たちを招集する必要はない。

 演出家たちが舞台上のアンバランスさを指摘するようになり、徐々に舞台の仕事が減りはじめると、エージェントはその空いた時間を埋めるために、映画やドラマの仕事を取ってくるようになった。すると、クロエ・ルーは世界的な女優として世間から認知されるようになり、ますます舞台からは遠ざかっていくことになる。

「彼はとても華やかで、品があって、見栄えもする。立ち姿のシルエットなんて完璧だわ。こんなに踊れる役者は、世界中を探しても数える程度しかいないわ。だからこそ、つくづくもったいないのよ。まだ四十でしょう? 舞台に立ち続けられるだけの能力があるのに、どうして振付師の仕事や後進の育成に回ってしまうのかしら」

「それがバージルの望みだからだ」アランはそう言うと、クロエを横目に睨みつける。「頼むから余計なことはしないでくれ」

「あなたとスペンサーはグレアムを押していたけれど、私は彼の方が良かった」

「言っただろ、断られたんだ」

「覚えているわよ」

 オーディション期間中の希佐を預かってもらっているときだった。今度の舞台の配役のことで相談があると連絡をしたとき、バージルは最後まで黙って話を聞いてから、開口一番に「断る」と言った。

『お前さ、まあ、気持ちは分かる。前に台本をチラッと読ませてもらったけど、アイリーンが受かるにせよ、キサが受かるにせよ、まったく別の誰かが受かるにせよ、全体的に緊張感のあるストーリーだからな、あの舞台には抜けが必要だ。主演に若手を据えるなら、安定感のあるベテランを添えたい気持ちは、もちろん分かる。でもな、俺向きじゃない。そもそも、イライアスもオーディションを受けてるんだろ? カオスばっかり集めてどうするんだよ』

 はああ、と電話口の向こう側で吐き出される盛大なため息を聞きながら、アランは予想通りの答えに意気消沈することもなく、話の続きを待った。

『お前に脚本を読んでほしいと言われたときから、いつかこんな話を振られるんじゃねぇかとは思ってたけどな。お前が完成前の脚本を人に見せるなんてこと、今までなかったし』チャ、チャ、チャ、と爪で床を引っ掻くような足音が近づいてくると、バージルは、よう、と優しげに挨拶をした。『悪いことは言わねぇから、メイヒューにしておけよ。俺なんかよりよっぽど良い役者だ。その方がキサにとっても良い経験になるだろ。俺は、あいつ、好かねぇけどな』

『キサが合格するとはかぎらない』

『俺はその可能性が高いんじゃねぇかと思ってる』こんなこと、本人には言わねぇけどな、とバージルは言った。『長くこの世界にいると、物事の流れってもんが見えてくるようになるもんだ。あいつは今、その流れに乗っかって、一直線に突き進んでやがる。脇目も振らずにな。ああいう目をしたやつは強いんだ。審査員は絶対に無視できないだろ』

 自らの進むべき道が見えている者は総じて強いものだ。あの頃の希佐には、絶対にオーディションに合格するという、強い気概があった。そして今は、我を通してでも参加することを望んでいるチャリティーイベントという課題に、全力を注いでいる。

『お前のことは好きだけどさ』ハンナ! と呼ぶ希佐の声が、電話越しに聞こえてきた。『あの女のことはどうしても好きになれそうにねぇんだ』

『ああ』

『あんまり根を詰めすぎるなよ。キサが心配してる』

『どうだか』

『強がるな、色男。素直になれ。失ってからじゃ手遅れなんだからな』

 ほんの数ヶ月前だ。あの頃は、今が希佐を手放す良い機会だと、そう思っていた。今のうちに手放さなければ、それこそ手遅れになると思っていた。

 箱の中に閉じ込めて、大切に大切に仕舞い込んで、誰の目にも触れない秘密の場所で、自分だけのものにしてしまいたいという思いは、恐ろしいことに、日に日に強くなっている。

「本当に」希佐を見つめる横顔を揶揄するように見やり、クロエは青い目を三日月の方に細めて笑んだ。「もったいない」

「何が言いたい」

「男ってどうして途中で諦めてしまえるのかしら」クロエはその顔に浮かべていた笑みを消し、アランの横顔を真っ直ぐに見つめる。「過去の栄光を英雄譚のように語る男ほどみっともないものはないわ」

「言うべき相手を間違えてるんじゃないの」

「憎たらしいことを言わないで」

「俺はあんたを捨てた男じゃない」

「ええ、そうね。あなたは私が捨てた子よ」その言葉にアランが不快感を露わにすると、クロエは悪びれもせずに肩をすくめた。「あら、気を悪くさせてしまった? ごめんなさいね」

「よくもそんなことが言えたものだな」

「こんなどうしようもない女だから、簡単に自分の子供を捨てられたのよ」

 ぞっとする。

 自分にもこの女と同じ血が流れているのかと思うと、アランは心底ぞっとした。

 何億光年と先にある、心許ない星の光のような希望を持っていた子供の頃の自分を、酷く愚かしく思う。

 自分が捨てられたことには、どうしても抗うことのできない理由があったのではないかと、そう考えていた時期もあった。若さ故の過ちだったと言われた方が、ずっと救いはあっただろう。ただの望まれない子供でありたかった。

『ますますあの男に似てきたわね』初めて正面から対峙したとき、クロエは煙草の煙を燻らせながら、忌々しそうに言った。『その目なんて、まるで生写しだわ』

 この女は自分が捨てた子供を心配したのではなく、自らの保身のために、捨てた子供の行方を追おうとしたのだろう。

 アラン・ジンデルが施設から牧師の家に引き取られたその年から、クロエ・ルーはあらゆる手段を用いてその行方を突き止め、あの小さな教会に多額の寄付をはじめている。それが、牧師がアランを施設に戻さなかった理由の一つだ。毎日の務めを果たさず、自らが汗水垂らして働かずとも、金が湯水のように湧いてくる。

 当時はまだ、そんなことも知らずに、哀れな少年は舞台の上に立ち続けていた。陳腐な映画の主人公のように、この世界のどこかにいるはずの両親が、自分を見つけてくれるかもしれないと思いながら。

「あなたもバージルも、それにスペンス坊やだって、馬鹿みたいなプライドが邪魔をして、過去の栄光に縋ることでしか生きていけない愚か者みたいに見えるわ。女々しいったらない。プライドなんてものは早々に捨て去ってしまえばいいのよ」

「好きに言えばいい」

「あの子は舞台のためならプライドなんて木端のように吹き飛ばすわよ」

 あの子、と言いながら、クロエは希佐を指差している。指を刺された当人はそんなことなど知る由もなく、スマートフォンから流れてくる音楽に合わせて、タップダンスの振り付けに余念がない。

「ユニヴェール、だったかしら? 歌劇のために性別を偽ってまで男子校に入学した気概と気骨は認めて差し上げましょうか。でも、もし性別を偽っていたことが露見したら、入学の手引きをした校長や、在学中に手助けをしてくれた教師、先輩、同期に迷惑を掛けられないから、国外に逃避したのだったわね? まあ、百歩譲って良しとするわ。誰にでも良心の呵責は起こり得るもの」

 どの口が言うのだという表情がアランの顔に表れていたのか、クロエは「お黙りなさい」とでも言うふうに、鼻先で指を弾いてくる。

「だけどね、あの子は結局のところ、自分自身の欲求に打ち克つことができなかったのよ。日本を離れ、舞台に立つこともなくなれば、彼女の存在は少しずつ忘れ去られていったのでしょうに。でも、どうしても心の声には抗えなかった。そうよね。だって、舞台の真ん中で、千のスポットライトを一身に浴びるなんて快感を覚えてしまったら、もう普通の生活になんて戻れるわけがないのですもの」

「……あんたは何が言いたいんだ?」

「ここであなたと出会ったときから、あの子にはプライドなんてものは微塵もなかったってこと──いえ、そうじゃないわね。誤解を生まない物言いをしなければいけないわ」性悪な微笑が、クロエの美しい顔に浮かんだ。「あなたがあの子のプライドを木端微塵に破壊したのよ、アラン・ジンデル」

「……」

「少なくとも、あの子は日本を出国してからの二年間、自らの意思で舞台に立つことはなかったわ。当然よね。お世話になった方々に迷惑を掛けまいと、決死の覚悟で日本を飛び出してきたのですもの。自分から危険地帯に飛び込むなんて愚行を、彼女自身のプライドが許すものですか」

 この女は自分に強い罪悪感を植え付けようとしているのだと確信する一方、その指摘は正しいと肯定している自分もいると、アランは感じていた。

 嫌がる希佐を無理やり歌劇の世界に引きずり戻したのは、他ならぬアラン・ジンデルだ。希佐はアランの強引すぎる勧誘に根負けをする形で、劇団カオスの一員となった。そこに当人の意思が微塵も投影されていなかったとは言わない。だが、精神的にも、肉体的にも荒みきっていて、判断力が鈍っていたと言われれば、それを否定することはできないだろう。

「勘違いしないで」光を失いかけたアランの目を覗き込み、クロエは続ける。「私はあなたやあの子を責めているわけではないの。私たちのような舞台人には誰だって、遅かれ早かれプライドを捨てるときがやってくる。逆に言えば、プライドを捨てられない人間は、この世界では順番に淘汰されていくわ」

 クロエの言わんとしていることは分かる。邪魔なプライドなど、いっそ一思いに取り除いてしまった方が、楽になれることは理解しているのだ。だが、それは言葉で口にするほど、簡単なことではない。

「邪魔なプライドは才能を殺すのよ」背筋が凍えるような言葉を、クロエはいとも容易く吐き出した。「極端な物言いをすると、キサには自尊心がない。でも、私は彼女のそういうところを高く評価している。舞台上で──大舞台の観客の目前で、平然と自分のすべてをさらけ出せる役者でなければ、私の求める演技はできない。だけど、あの子はオーディションの最終審査で、審査員や目の肥えた観客を無視して、たった一人のために歌えるような子ですもの。このまま自由奔放に突き進んでいってほしいと願っているわ」

 希佐は舞台を成功させるためなら、なんだってしてみせるだろう。舞台上で濡れ場を演じるような演出をされたとしても、それが必要だと思えば、微塵も躊躇わらないはずだ。実際、今度の舞台ではそのようなシーンがある。アラン自身にも、演じさせることに躊躇いはない。

 だが、これが最期だと思いながら演じる舞台が終焉を迎えたそのとき、すべてをさらけ出し、後悔をする余地もないほどにその心が満ち足りてしまったとしたら──

立花希佐のその後の人生は、一体、どうなってしまうのだろう。

 クロエはまた何かを言いかけるが、これ以上は聞きたくないと言うふうにアランが手の平を向けると、小さく肩をすくめながら口を噤んだ。

 叶うことなら、立花希佐にはこれから先も舞台に立ち続けてほしいと、アランは思う。その場所は、自分の隣でなくても構わない。この世界のどこかで、自分が望む最善の形で、舞台に立ち続けていてほしいのだと、常々思っている。

 バージルの隣で幸せそうに笑う希佐の顔を眺めながら、いつか、自分たち以外の誰かの隣でも、そうやって屈託なく笑っていてほしいと、アランは心の底から願っていた。

 

 

 

 

 

「私がご馳走するから、みんなで一緒に飲みに行きましょうよ」

 バージルとの午後の稽古を終え、撮影したばかりの動画をルイ宛に送信していると、こちらへ歩み寄ってきていたクロエ・ルーが、希佐の肩に腕を回しながらそう言った。希佐の傍にいたバージルは、あからさまに嫌な顔をしている。

 どのように答えたものかと、困惑の愛想笑いを浮かべてしまう希佐を見て、バージルはすぐに口を開いた。

「キサ、嫌なら断れよ。無理に付き合う必要はねぇんだからな」

「あら、私と一緒に飲みにいくのはお嫌なの?」目と鼻の先に顔を寄せられ、まるで口説くように囁かれる声を聞き、希佐は思わずドキッとする。「そんなことはないわよね、キサ?」

「あ、あの、はい……」思わずというふうに頷いてしまった希佐を見て、バージルは呆れた様子でため息を吐いている。「明日も稽古があるので、あまり遅くならないのであれば」

「もちろん、十二時までには帰してあげるわ」

 希佐にしてみれば、クロエ・ルーのプライベートを観察できるこの上ない機会だったが、男性陣はそのようには思っていないようだ。シャワーを浴びてくると言って二階に引き上げて行こうとする希佐を、アランは横目で睨むように見ていた。

「……行っては駄目?」

「それは君が決めることだ」

 いつもならば念入りにマッサージをするところを、今は軽くストレッチをするだけに留め、希佐は急いでシャワーを浴びた。しかし、髪を乾かそうと、体にバスタオルを巻いた格好で脱衣所に出ていくと、鏡の前に人影が見えて小さく声を上げる。

「ああ、ごめんなさい」クロエは化粧直しをしながら、胸に手を当てている希佐を鏡越しに見た。「すぐに出ていくわね」

「いえ、大丈夫です。私は先に着替えてくるので」

 そう言って希佐がバスルームを出ていくと、今度は二階まで水分補給にやってきていたバージルと鉢合わせになる。常温のペットボトルの水をグラスに注いでいたバージルは、バスタオルを巻きつけただけの希佐の姿を目の当たりにすると同時に、ゆっくりと背中を向けた。

「悪い」

「ごめんなさい、こんな格好でうろうろして」希佐はバージルが背中を向けてくれている間に、そそくさと自室に向かう。「アランにはいつも叱られてるんだけど」

「だろうな」

「内緒にしてね」

 部屋に足を踏み入れ、肩越しに振り返りながらそう言った希佐は、後ろ手にドアを閉めた。バスタオルを外し、まだ濡れている長い髪をまとめ上げ、クローゼットの前に立つ。洋服はいつも隣に並ぶ相手に重きを置いて選んでいるが、今日は非常に難易度が高い。

 今日のクロエは、淡いミントグリーンのエレガントなパンツスーツ姿だった。ジャケットのウエストを帯ベルトできゅっと締め、ゆったりとしたシルエットのパンツを合わせて、足元は相変わらず、踵が折れそうなピンヒールを履いていた。

 希佐は七分丈の黒のパンツに黒のシャツを合わせ、更に上から黒のジャケットを着た。結局のところ、黒が最も邪魔をしない色だと判断した結果だ。上からはグレーのニットコートを羽織ることにする。

「あっ、そうだ」

 そのまま部屋を出て行こうとした体を反転させ、希佐はもう一度クローゼットの前に立つと、そこからまだ一度も袖を通したことのないキャメルのコクーンコートを取り出した。秋冬のコレクションのサンプル品だと言って、ダイアナが置いていったものだが、着る機会にはとんと恵まれなかった。

「マダム」今度こそ部屋を出ていくと、クロエはキッチンの椅子に腰を下ろし、傍に立っているバージルと話しているところだった。「お話中のところをすみません。外はまだ冷えるので、もしよろしければ、これをお召しになってください」

「まあ、優しいのね。どうもありがとう」クロエは椅子から立ち上がると、希佐の手からコートを受け取り、その場で袖を通してみせる。「どうかしら」

「良くお似合いです」

「着心地が良いわ。どこのコート?」

「ダイアナのコートです」

「ああ、あの子の」そう言った途端、クロエの表情が明るくなる。「実は、ロンドンプレミア用のドレスを新調したいと思っていたのよ。彼女、今どうしているの?」

「今はアメリカに行っていて、近々ロンドンに帰ってくるという話でした」

「そうなの。連絡先を交換しておけば良かったわね」

「ご迷惑でなければ、私が中継ぎをいたしますが」

「あら、いいの?」

「はい」

 希佐とクロエがそうして話していると、アランが階段を上がってくる。希佐が未だ髪も乾かさずにいるのを呆れたように見てから、クロエに目を向けた。

「タクシーを呼んでおいた」

「近くなのだから歩いて行けばいいじゃない」

「靴が傷むだろ」アランは投げやりな口振りでそう言い、希佐に視線を戻す。「髪を乾かして」

「うん」

「俺も一緒に行く」

「えっ」

「こんな女と二人きりにさせられない」

「失礼ね」クロエは自室に戻っていくアランの背中を見ながら言った。「取って食ったりしないわよ」

「どうだろうな」

 それからすぐ、希佐が鏡の前で髪を乾かしていると、化粧道具を手にして現れたクロエが、向かい合うように洗面台に腰を下ろした。驚いてドライヤーを止めると、クロエは「続けて」と言いながら、抱えていたものを洗面台の上に並べていく。

 グラスミアから持ち帰ってきた荷物の一部を、片付けもせずにキッチンの隅に置いたままにしていたので、その中から引っ張り出してきたのだろう。

「グラスミアは楽しかった?」

「えっ? あ、はい、とても素敵なところでした……」

「そう」ジョシュアやルイは黙っていてくれるという話だったので、アランかバージルが話したのかもしれない──そう思っていると、クロエは希佐の顔に化粧を施しながら、更に続ける。「私の故郷はフランスのバルフルールという港町なのだけれど、町の雰囲気がウィンダミアやグラスミアとよく似ているのよ」

「そうなのですね」

「人口は少ないのに、国内でも人気の観光地だから、いつも人で溢れ返っていてね。機会があれば行ってみるといいわ。お魚料理が美味しいのよ」

「せっかく言葉の勉強をしているので、フランスにはいつか行ってみたいと思っていました」

「プロモーションで行くことにはなるでしょうね。残念ながら、観光する余裕はないでしょうけれど。空き時間にパリの街を散策するくらいのことなら可能かしら」

「楽しみです」

「ロンドンでの公演が成功すれば、次はフランス公演が待っているわよ」

 髪を乾かし終えて間もなくすると、クロエは手にしていた化粧ブラシを台の上に置いた。自身の髪に手を滑らせて、手の平に軽くワックスを移し取り、乾かしたまま櫛も通していない希佐の髪に指を通していく。

「櫛を貸してくれる?」希佐は洗面台の下から取り出した櫛を手渡した。「ありがとう」

「……あの、すみません」

「なあに?」

「こんなことまでしていただいて」

「いいのよ」申し訳なさそうにしている希佐の顔を見て、クロエは髪を整えながら笑った。「私、昔からヘアもメイクも全部自分でやっているの。スタイリストをつけたこともないわ」

「大変ではありませんか?」

「そうね。もちろん、面倒に思うことはあるけれど、結局のところ、自分のその日の肌質や、髪のことや、体型のことを一番に理解しているのは自分自身でしょう? 誰かに任せるよりも、自分でやってしまった方が早いのよ」

 さあ、おしまい──クロエはそう言うと、希佐と鏡を隔てるようにして立っていた体を避け、化粧道具をまとめはじめる。急に鏡が見えるようになった希佐は、普段とはがらりと雰囲気の変わった自分の顔を見て、思わず目を丸くしてしまった。

「たまには気分が変わって楽しいでしょう?」

「はい」

「私、メイクとファッションの本を出しているから、後でプレゼントするわね」

「えっ? あ、いえ、自分で──」

「サインも書いちゃうわよ」

「……ありがとうございます」

 拒み続けるのも無粋だろうと思った希佐が、その好意を素直に受け取ることにすると、クロエは満足そうに笑う。

 そのとき、開け放たれたままの扉の前にアランが現れ、コンコンコン、と壁を叩いた。

「タクシーが来てる」

「行くわ」

 使った化粧道具を洗面台の端に寄せ、クロエは先に外へと出ていく。希佐は扉のところで待っているアランを見上げ、足を止めた。

「What do you think?」

「Lovely」

「You too」

 そうした二人の短いやり取りを聞いていたバージルは、クロエが降りていった階段を一瞥してから、テーブルに預けていた腰を上げた。

「シャワー借りるぞ」

「ああ」

「バージルは来ない?」

「ん? あー、気が向いたらな」

 財布とスマートフォンだけをポケットに押し込んで、急いでスタジオの外まで出ていくと、くろえは既にタクシーに乗り込んでいた。

「遅くなってすみません」

「素敵な運転手さんがお話し相手になってくださったので、大丈夫よ」

「いやあ、こんな有名な方を自分のタクシーにお乗せできるなんて、夢のようです」

「くれぐれも内緒になさってね」

「家族には話しても構いませんか? 姉があなたの大ファンなんです」

 クロエは運転手にそう問われても、曖昧に笑うばかりだ。アランがタクシーに乗り込み、ドアを閉めて行き先を告げると、その話題は曖昧にされたまま車は発進する。

 今日はイライアスが歌の稽古後に顔を出さなかったと思い、スマートフォンでメッセージを送ってみるが、タクシーがヘスティアの前に到着しても、それに対する返信は送られてこなかった。

 アランがタクシー代を支払い、希佐はその背中を追いかけて下車する。すると、最後に残ったクロエは何を思ったのか、小さなクラッチバッグの中から徐に白いハンカチと小さな香水瓶を取り出し、それに香りを移し取っていた。

「これをお姉さまにお渡しになって」

「えっ?」

「私に会ったという証明になるでしょう?」

「あ、ありがとうございます……!」

 何度も頭を下げている運転手と、それに手を振っているクロエの姿を呆れたように眺めていたアランだったが、すぐに見るに耐えないとでも言いたげな表情を浮かべると、ヘスティアに向かって歩いていく。

「せっかちなんだから」タクシーから足先を下ろしたクロエに向かって、希佐は反射的に手を差し伸べた。「ありがとう」

「良い香りですね」

「好きな香り?」

 クロエは後ろを振り返り、自らの手でドアを閉める。少し離れたところで走り出したタクシーに向かって軽く手を上げ、希佐に目を向けた。

「ディオールのオーソバージュよ。男性用の香水なのだけれど、まあ、今は男性だとか女性だとか、どうでもいいことよね」

「香水はほとんど付けたことがなくて」

「香りは記憶と紐付けられやすいの。だから、上手く使えばビジネスシーンでも効果を発揮するのよ。強すぎる香りは禁物だけれど」クロエはそう言うと、かつ、こつ、とヒールの踵を鳴らしながら歩き出した。「あのタクシーの運転手はこの香りと出会うたびに、私のことを思い出すかもしれないわね」

「でも、以前はもっと甘い香りの香水をされていたような……」

「仕事とプライベートで使い分けているのよ。仕事用はクロエのアブソリュ ドゥ パルファム──洒落が効いているでしょう? あなたと会うときはいつも仕事終わりだったから、ラストノートでバニラが強く香っていたのね」

「勉強になります」

「今度一緒に香水を選びにいきましょうか?」

「えっ?」

「この前、私のところへいらしたときにシャンパンを贈ってくださったから、そのお礼も兼ねて」

 この提案も良い顔はしないだろうと踏んでいると、案の定、店の入り口近くに立って二人の話を聞いていたらしいアラン・ジンデルは、顰め面を浮かべている。苦笑いを浮かべる希佐に対して、クロエは満面の笑顔を見せながら、アランの前で足を止めた。

「束縛は良くないわね、アラン・ジンデル」

「そんなものは──」

「女に顔色を窺われる時点で答えは出ているのよ」

 クロエはそう言ってアランの頬に軽く触れると、自らの手で店のドアを開け、店内へと入っていった。アランは大きくため息を吐き、希佐のためにドアを開けてくれながら口を開いた。

「君ならあの女を好きになると思ってた」

「アラン──」

「それが悪いことだとは言ってない」どうしたらいいのだという顔をしている希佐を見て、アランはどこか仕方なさそうな面持ちを浮かべてみせた。「俺の個人的な感情が妨げになっているだけで、あの人自身は誰からも好かれる人だ。それに、君の目に俺のフィルターを掛けるのは良くない」

「アラン、私は」

 希佐は口を開き掛けるが、目の前で開いたドアからヘスティアの客が出てくると、思わず口を噤んでしまった。劇団カオスを知ってくれているのか、驚いたように目を丸くしている客を一瞥したアランは、閉じかかったドアに手を伸ばし、先に入るよう目配せを送ってくる。

「sorry──Thank you」

 客に謝罪の気持ちを伝えてから、アランに向かって感謝の言葉を口にし、希佐はヘスティアに足を踏み入れた。

 外の静けさとは対照的に、店内は不自然に騒がしい。早速、クロエ・ルーが現れたことが店中に知れ渡ってしまったのかと懸念したが、どうやら違うようだ。入ってすぐのところに立っていた看板には、本日のステージの案内が書き記されていた。間もなくピアノのリサイタルがはじまるらしい。

 クロエは既に、いつもカウンター席に腰を下ろし、メレディスと話をしていた。

「何を飲む?」

「アランモルト」注文の列に並びながら希佐が訊ねると、アランは希佐の手に紙幣を握らせながら言った。「シェリーカスク、ダブルをストレートで」

「好きじゃないくせに」

「正気を保つためだよ」

 自分の順番が回ってくると、希佐は同じものを二つ注文した。すると、顔馴染みのバーテンダーはメレディスの方を一瞥してから、席で待つように声をかけてくる。希佐は手にしていた紙幣を差し出すが、バーテンダーはもう受け取っていると言って、差し出されたものを丁重に拒んだ。

 しかし、その様子を見ていたアランは、握っていた紙幣を取り上げ、有無も言わせずにカウンターの上に置くと、希佐の手を引いてそのまま席の方へと歩いて行く。

「おい、アラン、困るって──」

「俺は困らない」

 肩越しに振り返ってみると、バーテンダーは大きくため息を吐きながら紙幣を手に取り、胸のポケットに仕舞った。それからすぐ、気を取り直して人好きのする笑顔を浮かべると、次の客の注文を取りはじめる。

 アランは、何らかの下心を感じる相手からは、酒を奢られることを避けていた。それは防衛本能に近いもののようで、希佐の目には、自身の立場が不利になることを、極端に嫌っているふうに見える。

「今夜の代金ならもう十分過ぎるほどいただいているのだけれどね」

「俺は自分の金で飲みに来た」

 アランはそう言いながら、クロエとの間に空席を一つ設けて、カウンターの椅子に腰を下ろした。メレディスはその様子を少しだけ困ったように見てから、諦めたように息を漏らす。

「分かったよ。では、君の分の代金は別途いただくことにしよう」

 以前、チャリティーイベントの話を持ちかけたときに、アランの機嫌を損ねてしまったことを気にしているのか、メレディスはすぐに引き下がる。その代わりに、空いた席を埋めるようにして座った希佐に目を向けると、珍しく目を丸くした。

「やあ、キサ」

「こんばんは、メレディス」

「今日はいつもと雰囲気が違うね」

「マダムがヘアとメイクをしてくださって」

「Lovely」

 つい先程、アランの口から発せられた同じ言葉とは、察することのできる感情が対照的なまでに異なっているのを感じ取り、希佐は思わず笑みを漏らしてしまう。不思議そうに頭を傾けるメレディスに向かって何でもないと首を横に振り、カウンターの向こう側から差し出されたウイスキーグラスを受け取った。

「この子に何か食べ物を出してあげてくださる? 朝に食べたきり、ほとんど何も口にしていないのですって」

「では、この前と同じサラダで構わないかな」

「いいの?」

「お安い御用だよ」

 お待ちください、と言うと、メレディスはクロエに向かって目礼をしてから、店の奥へと姿を消した。

「私に恥を搔かせないでほしいわね」

「この程度の恥なんて大したことないだろ」

「坊やの前でくらい格好付けたいのよ」

「あんたの化けの皮なんてとうに剥がれてると思うけどな」

 自らの頭上を飛び交うとげとげとした言葉を聞きながら、希佐は口元に運んだウイスキーで唇を濡らした。今日は酔わずにいるべきなのか、はたまた記憶を失うくらい酔っ払ってしまった方がいいのか──そうした不毛なことに考えを巡らすことしかできない。

「おやおや」特製サラダを作って戻ってきたメレディスは、二人の間ですっかり萎縮してしまっている希佐の姿を見ると、ふっ、と吹き出すようにして笑った。「席を移動しても構わないのだよ、キサ」

「二人きりにしておく方が怖いような気がして」

 希佐がカウンターに身を乗り出し、内緒話をするようにこそこそと漏らすと、クロエは怒るでもなく「聞こえているわよ」と言う。

「リサイタルは何時からはじまるの?」

「八時からです」

「じゃあ、まだ一時間近くあるのね」クロエは時刻を確認してから、スマートフォンの電源を切った。「他のお客様のお相手をしてきてくださって結構よ、メレディス。幸い、今日は話し相手に事欠かないの」

「キサ、もう無理だと思ったらすぐに助けを呼んで」

 メレディスは冗談を言うようにそう言い残し、カウンター席を離れていく。クロエは失礼しちゃうわねと言ったその口に、香りの強いブランデーを流し込んだ。

 希佐は、メレディスが作ってくれたサラダにドレッシングをかけ、それをゆっくり、時間を掛けて咀嚼する。食事をしている間は、黙っていても許されるような気がするからだ。

 不意に、アランは今どんな顔をしているのだろうと思い、右隣を見上げてみると、何か物思いに耽るような、真剣な眼差しが目に入り、希佐は声を掛けることを躊躇ってしまった。

『放っておきなさいな』クロエはカウンターに頬杖をつき、アランの横顔を見やりながらフランス語で言う。『相手が誰であれ、人の顔色を窺いながらご機嫌取りをする必要なんてないのよ。私を含めてね』

『そんなつもりはないのですが……』

『それとも、日本の方って、どなたでもそういう性分なのかしら』答えを求めてはいないと感じた希佐が黙っていると、ほら、とクロエは言った。『そういうところよ。あなた、妙に察しが良すぎるのよね。前に私と踊ったときもそうだった』

『何かお気付きのことがあったのなら、教えていただきたいです』

 希佐がそのように食い下がると、クロエはアランに向けていた視線を手前に動かし、昼間よりも濃く感じられる、吸い込まれそうな青い目で、琥珀色の目をじっと見つめてくる。

『あなたの死に物狂いなところは好きだと言ったし、熱心なのはいいことよ。でも、あなたはあまりに一生懸命すぎて、気味が悪いくらい』

「……」

『この子、明日にでも死ぬのかしらって思ったわ。自分にはもう僅かな時間しか残されていないから、手に掴めるものは何でも手当たり次第に手繰り寄せようとしている感じ。焦っているように見えるの』クロエはそう言いながら、希佐の頬に人差し指の先を滑らせる。『もっと肩の力をお抜きなさい。人間いつ死ぬかなんて分からないものだけれど、だからこそ、人生の一分、一秒まで、楽しんで生きるのよ』

「人生を、楽しむ……」

『前にここで会ったとき、私はあなたにこう言ったわ。舞台は閉じられた芸術で、映画は開かれた娯楽。舞台には舞台の、映画には映画の良さがある。舞台は生き物だと言われるけれど、映画は彫刻だって』

『はい』

『私はどちらの世界も好きだと言った。その言葉に嘘はないわ。でも、私は舞台の方がより好きなのよ。人間という愛憎にまみれた生き物が好きなの。その人間が作り上げる生きた舞台が、何よりも愛おしかった』

 自分のヒアリング能力の問題なのか、頭の中で文法を理解しきれていないからなのか、クロエ・ルーが本来伝えようとしている思いを、正しく汲み取ることができているのか、希佐には自信がなかった。だが、それでも、クロエの声の端々から滲み出ている、後悔にも似た思念のようなものが、なぜだかチクチクと突き刺さってくる。

『……マダムはもう、舞台には立たれないのですか?』

『そうね』希佐の頬に触れていた手を引き、クロエは手元のグラスを握る。『完璧な舞台にはバランスが必要なの。主役から端役に至るまで、すべての人間に平等な熱意と能力が要求される。言うなれば、全員が主役足り得る存在である必要があるということよ。私が言っていること、理解できてる?』

『はい、分かります』

『若い頃の私はね、舞台上では自分が一番に輝いていたかったの。客席に座っている人間全員の目を独り占めにしたかった。それが愛されるということだと思っていたから』クロエの声が、ハスキーに掠れる。英語を話しているときよりも、フランス語を話しているときの方が、声が半音ほど低くなるのだ。『エトワールになるためなら何でもしたわ。舞台以外のすべてを犠牲にして稽古に励んだ。その成れの果てに生まれたのが、舞台上の怪物よ』

『怪物?』

『昼間にもお話ししたでしょう? 私とあなたはタイプが似ているって。主演として舞台に立つからには、牽引力は必要不可欠だけれど、あんまり一心不乱に走り続けていると、誰もあなたについて行くことができなくなる。必死になって先頭を走っていたつもりが、一周回って置いてきぼりを食うなんてことにもなりかねない』

「……前に、スペンサーがキサのことを、世にも美しい怪物だと言ってた」ぼんやりと宙を眺めていたアランが、唐突に二人の会話に割って入ってくる。「あいつがどんな意図でそんなふうに言ったのかは知らない。でも、キサをサラ・ベルナールの再来だと言う辺り、あんたとよく似たタイプの役者が目の前に現れて、内心大興奮してるんだろうなとは思ってた」

「一次審査でのこの子の演技を目の当たりにして、興奮しなかった審査員がいたかしら」

「少なくとも俺はしてない」

「あなたにしてみれば、この子にならあの程度のこと、出来て当然だとお思いだったのでしょうね」

「それに、キサはあんたとは違う」

「あらあら」クロエはまるで挑発をするような口振りで、希佐越しにアランを見やった。「それじゃあ、一体何がどのように違うのか、私にも分かるように易しく教えてくださるかしら」

 この二人が恐ろしいのは、側から見れば、酷く穏やかに会話を交わしているとしか思えないことだった。

 一次審査を終えたあと、このまったく同じ場所で、二人が話している様子を遠くから眺めていたことを、希佐は唐突に思い出していた。もしかしたらあのときも、今と同じように、周囲には殺伐とした雰囲気が立ち込めていたのかもしれない。

「キサは地に足をつけた役者だ。この数年間、小劇場での公演を堅実にこなしてきた。舞台は仲間と共に作り上げていくものだということも熟知してる。あんたみたいに、自分の才能に自惚れたりしない」

「キサのことなら何でも知っていると言いたげね」

「美しく装飾された言葉に着飾らせたところで、あんたの過去は変わらない。自分の過去を、美談のようにして語るのはやめてくれ。聞いているだけで不快な気持ちになる」

「アラン」希佐は手の甲でアランの足に触れる。「それは言い過ぎだと思う」

 この二人が、互いに対してどのような感情を抱いているのかは、希佐には分からない。

 だがしかし、グラスミアで話をしたとき、アランからは少なからず、歩み寄りたいという思いが透けて見えていたような気がした。クロエも、アランを憎からず思っているところがあるからこそ、プライベートにまで足を踏み込んできているのではないかと、そう思うのだ。

 胸の内に秘めているのが、いかなる感情でも、二人は互いを思い合っている。

 希佐にはそれが、無関心であることよりも、ずっと良いように思えた。

 希佐が父親に抱く感情はもはや、ただ金を仕送らなければならないという、義務感しか残されていない。日本とイギリスを隔てる距離の分だけ、心が離れてしまったのだろうか。情は日々薄れゆき、顔も、声も、今となっては思い出すことが難しい。

 だが、今、二人の間にあるのは、希佐の体一つ分の距離だけだ。それはもしかしたら、日本とイギリスとの間にある物理的な距離よりも遠く感じられるかもしれないが、いつかは、目に見えるだけの距離まで縮まることはあるのかもしれない。

「私の話があなたをご不快にさせてしまったのなら謝るわ」

「マダム──」

「反面教師って言うでしょう? この子には間違っても私のようにはなってほしくないのよ。そのための教訓を伝授して差し上げようと思っていたのだけれど、余計なお世話だったようね」

 しかしながら、自分が抱いているこの願望は、決して叶うことのない夢物語なのかもしれないとも、希佐は思う。いかなる理由があったにせよ、子を手放した親と、親に捨てられた子の間には、計り知れないほどの溝があるに違いないのだ。

「次の一杯はいかがなさいますか?」

 この空間から漂う異様な雰囲気を察知したのだろう、他の客を相手にしていたメレディスが、気を利かせて戻ってきてくれる。アランが残っていた酒を大きく呷り、空になったグラスを差し出すのを見て、呆れたような表情を浮かべていた。本来ならグラスを取り替えるところだが、メレディスはアランが差し出しているグラスに、先ほどと同じウイスキーを注いでやっていた。

「マダム」

「私はまだいいわ」

「かしこまりました」コルク栓で瓶に蓋をしながら、メレディスは希佐に目を向けた。「ドレッシングの味はいかがでしたか、ミス」

「大変美味しかったです」

「それはよかった」

 メレディスの穏やかな笑顔は、重く沈みかけていた心を軽くしてくれた。しかし、スタッフに呼ばれて行ってしまうのと同時に、言い知れぬ不安感が再びにじり寄ってくる。だが、希佐が降参だと両手を挙げ、尻尾を巻いて逃げ出したい衝動に駆られていると、心底うんざりしているというふうな声が、何の前触れもなく聞こえてきた。

「あーあ」反射的に後ろを振り返ると、ほとんど中身の残っていないグラスを手に持ったバージルが、そこに立っていた。「やっぱり来るんじゃなかったな」

「バージル」

「情けねぇ声出すなよ」バージルは半ば呆れたように笑いながらそう言うと、ジャケットのポケットに手を入れ、そこから取り出した金を希佐に手渡した。「エールとつまみ、適当に買ってきてくれるか?」

「え? あ、うん、いいよ」

「お前の分も買ってきていいぞ」

「ありがとう」

 そのまま席を離れ、注文カウンターへと足を進める。そのとき不意に、クロエから指摘されたことを思い出した希佐は、周囲の視線の流れに意識を向けてみることにした。自分を見る目は確かにある。囁き声も聞こえてくる。だがそれ以上に、あのカウンター席の一角に多くの視線が集中しているのを、希佐は目の当たりにしていた。

「目立つもんなぁ……」

 再度注文の列に並びながら、自分の順番が回ってくるのを待っていると、ポケットのスマートフォンが振動する。反射的に取り出し、画面を一瞥して相手を確認してから、希佐はそれを耳に当てた。

「イライアス」

『ごめんね、今日は電源を切ってて』電話口の向こう側からは、外を歩いているような、雑多の喧騒が聞こえてきていた。『何かあった?』

「ううん。今日はスタジオに顔を見せなかったから、どうしたのかと思って」

『歌のレッスンが長引いたんだ。スタジオには今から行こうと思ってるけど──キサ、今どこにいるの?』

「ヘスティアまでみんなで飲みに来ていて」

『みんな?』

「アランとバージル、私と、それから、マダム・ルーも一緒なんだ」

『……どうして?』

「そうだよね」イライアスの困惑を隠しきれない声を聞いて、希佐は思わず苦笑いを浮かべる。「ルイが突然の仕事で、フランスに帰国してしまうことになったから、代わりにバージルが教えに来てくれたんだ。マダムも稽古の様子を見に来てくださって、その流れのまま」

『何か言っていた?』

「え?」

『チャリティーイベントのこと、クロエ・ルーは』

「ううん、イベントのことについてはなにも」

『そうなんだ』

 イライアスはそう言ったきり、暫くの間黙り込んでしまう。何事かを考えているのだろうと思い、希佐はそのまま待っていたが、自分の順番が回ってくると、列を抜け出して後ろの人に場所を譲った。

『……僕も行っていい?』

「えっ? ごめんなさい、聞こえなかった」

『僕もそこに行くよ』

「本気?」

 Are you serious? ──希佐が間髪入れずにそう問うと、イライアスは一瞬の間を置いたあと、くすりと笑いながら、seriouslyと応じた。

『一度家に帰って着替えてから行くから』

「あっ、うん、分かった。でも──」

『じゃあ、あとで』

 イライアスは基本的に酒の席を嫌っている。仲間内で飲むときや、カオスの打ち上げなどには参加するが、自ら進んでアルコールを口にすることはない。アルコール臭を嗅ぐだけでも酔いが回るほど酒に弱いのだ。

 そんなイライアスが、自分からヘスティアに行くなどと言い出すなんて、どういう風の吹き回しだろう──そのようなことを考えながら、希佐は注文の列に並び直し、バージルがいつも好んで飲んでいるエールと、自分が飲むギネスを注文した。

 カウンター脇で販売している小さなチップスとナッツの袋をポケットに入れ、ようやくカウンター席に戻ると、先ほどまで希佐が座っていた場所に腰を下ろしたバージルが、こちらを振り返った。

「おっ、サンキュ」

「遅くなってごめんね」希佐はエールのグラスを渡し、次いでポケットから取り出したスナックの袋を差し出した。「イライアスから電話があって」

「ああ」

「イライアスもここに来るって言ってた」

「なんだ、珍しいこともあるもんだな」

「チャリティーイベントのことを気にしていたみたいだけれど」

「真面目だねぇ、あいつも」

 分かっている。バージルは咄嗟に気を利かせて、希佐にエールを買いに行くという役割を与え、席を離れる口実を与えてくれたのだ。おかげで頭は随分冷えた。しかし、次いで希佐の頭を悩ませたのは、自分はどこに座るべきかという問題だった。きっと、どちらの隣に座っても、角が立つに違いない。

 アランの隣か、クロエの隣か──希佐は、一瞬逡巡した後、クロエの隣に座ることを選んだ。

「あら、構わないの?」クロエは掛け値なしに意外そうな顔をした。「あの子の機嫌を損ねるのではなくて?」

「マダムは顔色を窺う必要はないとおっしゃいました」

「ええ」希佐の切り返しを受けて、クロエは参ったと言うふうに笑う。「その通りよ」

 何を話しているのかまでは分からないが、クロエの向こう側では、まあまあ、とバージルがアランを宥めているような声が聞こえてきた。怒ってはいないのだろうが、気を悪くはしているようだ。

 あとでよく謝っておこう──そう思いながらギネスの泡に唇を寄せていると、その隣では、クロエがスナックの袋に手を伸ばし、バージルに何の断りもなく封を切ろうとしていた。希佐が、あっ、と声を漏らすまでもなく、その所業に目を留めたバージルは、目の前で開封されたナッツの袋を、クロエの手元から素早く取り上げる。

「手癖が悪いな、お嬢さん」バージルはそう言うと、塩辛いナッツを口の中に放り込んだ。「随分と可愛げのないことをするじゃねぇか」

「まあ、お嬢さんなんて言われたのは千年ぶりよ」

「欲しけりゃ欲しいって言えばいいだろうが」

 ナッツの袋をカサカサと鳴らしながら、バージルはクロエの眼前で、それを左右に振ってみせる。なんて怖いもの知らずなのだろうと思う一方、自分はなぜ、この人を怖いと思い込み、恐れているのだろうと、希佐は不思議に感じた。

「私にもそのナッツを分けてくださる?」

「ほらよ」

「ありがとう」

 クロエは受け取ったナッツをかりかりと音を立てて食べている。

 一見すると、自らが口にする食材には強いこだわりがありそうなものだが、実際のところはどうなのだろう。メレディスに頼めば、食塩不使用のナッツを出してくれるのに、わざわざこの塩辛い味付けのナッツを口にする意味が、この人にはあるのだろうか。

「あなたも食べる?」

 希佐の顔が物欲しそうに見えたのか、クロエは指についた塩分を紙ナプキンで拭いながら、そう声を掛けてきた。

「いえ、私は結構です」

「こういう、いかにも体に悪そうなものが、ときどきどうしようもなく食べたくなってしまうのよ」

「マダムでもそんなふうに思われることがあるんですね」

「あまり不健康なものばかり食べていると怒られるから、気をつけてはいるのだけれど」

「怒られるんですか?」

「口煩いのがいるの」

 結局のところ、自分も他の人々と同じように、このクロエ・ルーという大女優のことを色眼鏡で見てしまっていたのだろうと、希佐は思った。まるで絵に描いたような大女優。大女優とはかくあるべきだという定義に当てはめて、この人自身の本質から目を背けていたのかもしれない。

 だがもし、クロエ・ルー自身の意志で、人々から求められている女優像を演じているのだとしたら。何か譲れないもののために、強い女性を演じているのだとしたら、そのときは、その選択を尊重するべきなのだろうとも思った。

 イライアスがヘスティアに到着したのは、リサイタルがはじまるほんの少し前だった。足元はスニーカー、黒のスキニーに白いアラン編みのニットを合わせ、その上からカーキのMA-1を羽織るという、珍しい格好で現れた。

「ご注文は?」丁度、クロエの次の酒を注いでいたメレディスにそう問われ、イライアスは僅かに乱れた呼吸を整えながら、氷抜きの水を頼んだ。「かしこまりました」

 こういうとき、メレディスは嫌な顔一つしない。清潔なグラスと、瓶のミネラルウォーターをカウンターの上に置き、サービスでカットしたレモンを添えていく。イライアスが代金を支払おうとすると、いいよ、と言ってその場を離れていった。

「そのジャケット格好良いね」

 希佐がそう言うと、ごくごくと水を飲んでいたイライアスは、自らの格好を見下ろして、少しだけ表情を綻ばせた。

「今年の誕生日にアイリーンがくれたんだ」

「よく似合ってる」

「そうかな」グラスを握っているのとは反対の手で、イライアスは鼻の頭を掻く。「今日のキサは──いつもと雰囲気が違う」

 そう指摘して良いのかどうか躊躇うように口を開いてから、イライアスは続けた。

「素敵だよ」

「どう素敵なの?」

 そう言う声を聞き、イライアスは灰色の目を大きく見開いた。もちろん、希佐は一言も声を発してはいない。隣に座っていたクロエが、希佐の声音を真似て言ったのだ。イライアスの立ち位置からは、希佐の影になっていて、クロエの顔が見えていなかったのだろう。

「どう素敵なのか、教えてくれる?」

 声の質も、イントネーションも、語尾の収束まで、驚くほどに希佐の声と酷似している。思わず黙り込んでしまった二人を見て、クロエはくすくすと笑った。

「ごめんなさいね。お二人があまりに初々しいものだから、ついからかってみたくなったの」

「吃驚しました……」

「声帯模写が得意なのよ。さすがに低くて野太い男性の声を出すことは難しいけれど。現場で披露すると受けがいいのよね」

 午後八時丁度、リサイタルの開演時間になると、ステージ近くの客席に座っていた黒人の青年が徐に腰を上げた。モデルのようにすらりとした細身の体型で、見るからに華のある、人目を惹く人物だ。希佐もその例に漏れず、その青年の動向に気を取られていると、隣に座っていたクロエが口を開いた。

「綺麗な子でしょう?」

「お知り合いなのですか?」

「私がメレディスに紹介して、ここでリサイタルをさせて欲しいとお願いしたのよ。彼は王立音楽院を卒業していて、現在はこのウエスト・エンドで作曲家として活動しているわ。主に舞台音楽やミュージカルの楽曲を手掛けているから、どこかで彼の音楽を耳にしたことがあるかもしれないわね」

「僕、知ってる」イライアスが希佐に向かって言う。「フランシス・ルロワ。前に僕が出演した舞台音楽を担当してた」

「どんな人?」

「ダンサーの感覚を理解してくれる。僕のダンスに合わせて、その場で譜面を書き換えることもあった」そうして話しているイライアスの横顔を、クロエがちらりと一瞥した。「台詞が存在しない、ダンスだけで物語を表現する前衛的で実験的な試みの舞台だったんだ。フリンジでの上演だったし、パブやバーにポスターを貼らせてもらう程度の宣伝しかしなかったのに、とにかく音楽が良いって評判になって、雑誌で特集を組まれてた。限定盤のレコードを持ってるから、貸してあげるよ」

「その子は、そのときの舞台で世間から注目されるようになったのよ」ステージに上がる黒人の青年に目を向けたまま、クロエは静かに言った。「主役を食った脇役としてね」

「食った……?」

「この世界ではままあることよ」

 黒人の青年──フランシス・ルロワはステージに上がり、用意されていたマイクを手に取って、電源を入れる。指先でとんとんとマイクを叩き、電源が入っていることを確認してから、落ち着いた口振りで話し出した。

「今夜は見知った顔のお客さまが目立つようで」耳に心地良いバリトンの声がそう言うと、店内に笑い声が広がる。「常日頃からご贔屓を賜り、感謝申し上げます」

 酷く丁寧なその物言いは、聞き様によっては無礼に思う者もいそうなものだが、ルロワからは微塵の嫌味も感じられない。

「今夜は、我が祖国を代表する偉大な女優にして、私の尊敬する女性であり、友人でもあるクロエ・ルーのお口添えがあり、この歴史あるヘスティアでピアノのリサイタルを開催させていただける運びとなりました。この場を設けてくださったヘスティアの王と、マダム・ルーに、最大限の敬意と感謝の気持ちを伝えさせてください」

 店内からは、ざわざわというざわめきと共に、拍手が沸き起こる。ルロワはステージ上からカウンター席に目をやり、クロエやメレディスに向かって、敬意を払うように頭を斜めに傾けていた。

 希佐は、にこりと愛想良く微笑み、軽く手を振るクロエを横目に見てからステージに視線を戻すが、なぜかルロワと目が合っている様な気がして、思わず隣にいるイライアスの方に顔を向ける。

「彼、イライアスを見ていた?」

「キサのことを見ていたような気がしたけど」

「……どうして?」

「分からない」

 希佐の困惑を他所に、ルロワは話を続けた。

「今日は、私の曲を幾つかお聞かせする予定ですが、いかんせん陰気な旋律ばかりですので、楽しいお酒の席を通夜のような雰囲気に終始させたくはありません。テーブルにはあらかじめ紙とペンをご用意してありますので、もしお好みの曲があればリクエストしていただけると、プログラムの都合上大変助かります。ボックスを抱えたスタッフが皆様のテーブルまで回収に向かいますので、ご協力お願いします」

 ルロワのピアノの音色は、希佐が今までに聞いたことのあるピアノのどの音色よりも、重たく、陰鬱で、心を落ち着かない気持ちにさせるものだった。その音を聞いていると、足がぬかるんだ沼に取られ、深く深く沈み込んで、身動きを取ることができなくなるような錯覚を覚える。首を絞められ、息が出来ず、もがき苦しむような窮屈さを感じる。

 そうだ。これは、はじめて田中右宙為の演技を目の当たりにしたときの感覚に酷似しているのだと、希佐は思った。

「キサ?」無意識に自分自身の腕を強く握り締めていた希佐に気づき、イライアスが声を掛けてくる。「大丈夫?」

「うん、平気」

 これが才能というものだ。ピアノの一音一音に、怨念とも呼べそうな魂が込められているのを感じる。恨みつらみのような思いが、心の中に雪崩れ込んでくる。顔から血の気が引いていく。背筋に氷が伝い落ちるような、ゾクゾクとしたものを覚える。

 それなのに、自分以外の他の誰も、この音の正体に気づくことなく、その才能に酔いしれている現実が、希佐には信じられなかった。

「向こう側を見たことがない人間には、この音色がとても神秘的で、美しいものに感じられるのですって」椅子を半分だけ回転させ、カウンターテーブルに肩肘をついて寄り掛かるような格好をしながら、クロエは妙に冷ややかな声で言う。「私はこの鬱々とした彼の曲と演奏が本当に大好き。これこそルロワの真骨頂だわ。だからこそ、絶対に欲しいのよ」

「え……?」

「こちらの話よ、気にしないで」

 転調と可変拍子が繰り返される楽曲にくらくらとした目眩を覚えた希佐は、イライアスの耳元に顔を寄せると、外の空気に当たってくると伝えた。すると、イライアスはすぐさま自分も椅子から立ち上がろうとするが、希佐はそれを手の平で制し、他の客の迷惑にならないようにこっそりと、店の外に出て行く。

 ピアノというものは本当にすごい。同一のピアノを弾いているのにもかかわらず、それを弾く人間が変われば、まったく違った音色に変化してしまう。スタインウェイのピアノは歌うような音色を奏でると称されているが、あのピアノはまるで、ルロワ本人が歌っているかのように感情が豊かだった。

 クロエは、絶対に欲しいと、間違いなくそう言っていた。それはきっと、今度の舞台音楽を手掛ける作曲家として、フランシス・ルロワをカンパニーに招き入れたいということなのかもしれない。

 もしあの楽曲に相応しい詩が寄り添ったなら、一体どれだけのパワーが、一曲の中に閉じ込められてしまうのだろう。もしそれを自分が歌うということになったなら、正気を保っていられるだろうか。

 一年生の頃、田中右宙為の手を取り、導かれるようにして踊ったことで、自分が女であることを暴かれたあの瞬間と同じくらい、心臓の動悸が激しかった。正体も、得体も知れない何かと対峙している、あの感覚──。

 ヘスティアを出入りする客の邪魔にならないよう、出入り口から少し離れたところでしゃがみ込んだ希佐は、軽い車酔いをした後のようになっている頭をすっきりさせるために、大きく深呼吸をした。

 今度の舞台の楽曲については、既にアランやジョシュアが仮歌の制作を行っているという話だったが、最近はそういう話をとんと聞かなくなっていた。希佐とイライアスは、舞台のために稽古漬けの日々を送ってはいるものの、肝心の舞台についての詳しい話は何も聞かされていない。確定情報も、不確定情報も、誰も説明してはくれなかった。

 本当に、あの舞台は無事に初日を迎えられるのだろうか──希佐がそう思いながら項垂れていると、ヘスティアを出てきた誰かが、キサ、と声を掛けてきた。顔を上げずともすぐに分かる。どこか不服そうにも聞こえるその声の主は、希佐の隣にしゃがみ込んだ。

「ほら」アランはそう言いながら、希佐の顔の前に水を差し出してくる。「メレディスから」

「ありがとう」

「顔色が悪い」

「うん」希佐は既に緩くなっている蓋を開け、ペットボトルの水を一口だけ飲む。「少し酔ったみたいで」

「ピアノに?」

「そう」よく冷えているペットボトルを頬に押し当て、ほう、と息を吐いた。「マダムは私たちにあの人の演奏を聞かせたかったのかな」

「そうだろうな」

「途中で離席するなんて失礼なことを──」

「気にする必要ない」アランは希佐の横顔に手を触れると、顔を隠している髪を耳にかけた。思わず隣を見上げれば、何の脈絡もなくアランの唇が額に触れる。「頬にいくらか赤みが差してきた」

 アランなりの気遣いに希佐が表情を綻ばせると、心なしか安堵したような眼差しがこちらに向けられた。

「人の話を親身になって聞くのは君のいいところだ」でも、と言いながら、アランは指先で希佐の鼻筋をなぞる。「少しは聞き流すことも覚えないと、自分のことよりも他人のことで頭の中がいっぱいになる」

「うん」

「まだ俺の声に耳を傾けられる余裕があるみたいで良かった」

「アランは私の顔色を窺うことがある?」

「君は?」

「私は──」美しい緑色の目を見つめていると、漣立っていた心が徐々に落ち着きを取り戻していくのを、希佐は感じ取っていた。「アランに限らず、周りの人の様子はいつも気にしてるよ。顔色を窺うというより、今日の調子はどうかなとか、具合が悪そうではないかなとか、無理してないかな、とか」

「君は、俺とあの女の関係性を知ってしまったから、俺があの女の言動に一々目くじらを立てて、場の雰囲気が険悪になることを恐れてる。あの女にはそれが、君が俺の顔色を窺っているように見えているだけだ」

「アランは──」

 クロエ・ルーのことを、自身の産みの母親のことを、今はどのように思っているのかと訊ねようとした唇が、磁石のように引き結ばれて、希佐は何も話せなくなってしまった。その答えを聞いたところで、自分に出来ることは何もないのだと思うと、途端に何も言えなくなる。もう既に、希佐とアランが思い描くクロエ・ルーの心象は、あまりに違うものになっているはずだ。

「俺は君のように寛容にはなれない。でも、これは俺自身の中にある固定観念にすぎないんだ。俺以外の多くの人間にとって、あの女は愛想や気立てが良い、好感の持てる人間なんだと思う。だから、君自身があの女から何か学べることがあると思うなら、彼女を支持すればいい。あの人は才能の塊だから、盗めるものは多いよ。彼女自身もそれを強く望んでる」

「もし私が、身も心もマダムみたいになってしまったら、嫌いになる?」

 その問いかけに目を丸くしたアランは、その次の瞬間、どこか困ったように笑った。まるでキスをするように、唇に親指の腹を滑らせながら、希佐の目をじっと見つめてくる。

「テセウスの船は、テセウスの船だと言った」ピアノ工房でアランとベンジャミンが話していたことだ。「三年前の君も、今の君も、三年後の君も、俺にとっては同じタチバナキサだ」

 希佐自身もそう思う。たとえすべての部品が取り替えられたとしても、テセウスの船と名付けられた船は、永遠にテセウスの船なのだと。

「それに」

「ん?」

「俺は君の好ましくないところも好きだから」

「……あなたって時々そういうことを言う」自らの頬に手を触れ、微かに帯びた熱を感じながら、希佐は緑の目から視線を逸らした。「酔いが覚めたみたい」

 そう言って希佐が立ち上がったとき、ヘスティアの店内から、どっとした震動が伝わってきた。微かな歓声も聞こえるので、ステージに一区切りついたところなのかもしれない。

「アランはあの人を知っている?」

「フランシス・ルロワ」希佐が手を差し出すと、アランはそれに掴まりながら立ち上がった。「作曲家のオンラインコミュニティーで何度か話したことがある。彼が立てるスレッドはいつも賑わってた」

「作曲家のコミュニティーにも参加しているの?」

「常駐しているのは脚本家のコミュニティーだけど、必要に応じて転々としてる。俺は本名を使ってないから、誰からも認識されてない」

「私、あの人と前にどこかで会ったことがあるのかな」

「なんで」

「演奏が始まる前の挨拶のときに、じっと見られていたような気がして」

 ふうん、と相槌を打ち、アランはその場で踵を返す。

「体が冷えてきた、そろそろ戻ろう」

「うん」

 またあの音を聞くことになるのかと内心怯えていた希佐だったが、店内に戻ってみると、そこには思いの外和やかな雰囲気が漂っていた。ピアノは耳馴染みがある曲のジャズアレンジを奏で、人々はその音色に耳を傾けながらお酒を嗜んでいる。

「もう気分はいいの?」

「はい」希佐が席に戻ると、こちらを見ないまま、クロエが声を掛けてきた。「大丈夫です。すみません、途中で席を立ってしまって」

「いいのよ。私もそろそろ一服したくなってきたわ」

 リサイタルが始まった当初は、あんなにも熱心に聞き入っていたクロエが、今はどこか退屈そうにしていることを、希佐は感じ取っていた。ルロワ自身が手掛けた楽曲以外には興味がないということが、目に見えて分かる。

 テーブルの上に置いていた小さなバッグを手に取ったクロエは、椅子から立ち上がり、隣に座っているバージルを振り返った。

「バージル、外へ煙草を吸いに行きましょうよ」

「俺が吸うと思うか?」

「アメリカにいた頃は吸っていたでしょう? 髪から煙草の匂いがしていましたもの」

「あれは俺じゃない」

「あら、野暮なことを言ったかしら」

「やめろよ、煙草。肺潰すぞ」

「まあ、心配してくださるなんて、お優しいのね」

「俺は忠告してやってるだけだ」

 クロエは外へ煙草を吸いに行くことはやめたのか、もう一度椅子に座り直すと、膝の上に置いたバッグの中から細長いシガレットケースを取り出した。その中から、細く巻かれた紙巻き煙草を一本抜き取り、口の端に咥える。

「おい」

「吸うわけじゃないわ」チップペーパーにほんのりと色移りした口紅の跡が、妙に艶っぽかった。「煙草は小道具としても優秀なのよ、キサ」

「え、私ですか?」

「興味があるのではなくて? 前に、外で煙草を吸っている私を、熱心に観察していたでしょう?」気付かれていた事実に多少の恥ずかしさを覚えながら、希佐は思わず苦々しい表情を浮かべた。「脚本に煙草を吸う件があったはずよ」

「はい」

「実際には小道具を使う予定だけれど、一度本物の味を試してみるのも悪くは──いやね、冗談よ、冗談」じろり、と睨みつけてくるバージルを尻目に、クロエは続ける。「鏡を見て仕草の練習をしておくといいわ。これ、差し上げるわね」

「あっ、はい、ありがとうございます」

 ダブリンでは、足繁く通っていたパブが禁煙ではなかったということもあって、煙草を吸っている人の姿をよく見かけた。住んでいたアパートの隣人も、大きく窓を開き、煙草の煙を燻らせていたことを覚えている。だが、イギリスに来てからは、煙草を吸う人をあまり見なくなった。愛煙家の知り合いは、クロエ・ルーが初めてだ。

 希佐は受け取った煙草を紙ナプキンでふんわりと包み込み、そっとポケットにしまい込んだ。今度の舞台が千秋楽を迎えるまで、大切に持っていようと思う。

 席を二つ挟んだ向こう側では、アランがカウンターの中にいるメレディスに、新しい酒を注文していた。メレディスは新しいグラスに丸く削られた大きな氷を入れると、そこへウイスキーをほんの少しだけ注ぎ入れる。

 口の動きを追っていると、飲み過ぎだよ、と忠告しているのが分かった。アランは不満そうな顔をしていたが、何も言い返さず、目の前に置かれたグラスを黙って受け入れていた。

 その間も音楽は鳴り止まない。他の客たちも、音楽に耳を傾けながら、それぞれのテーブルで会話を楽しんでいる。

 希佐やアランがステージに立ったときも、似たようなものだった。誰も彼もがステージに注目していたわけではない。一階で行われるステージの楽しみ方は、人それぞれだ。この場にいる全員の視線を奪い去ることは、至難の業なのだろう。

 演奏が終わると、店内からはそれを讃える拍手が起こった。ルロワは椅子から立ち上がり、丁寧なお辞儀をしてから、譜面台に置いていたマイクを取り上げる。

「では、次で最後の演奏といたしましょう」足元にある箱を抱え上げ、ルロワはその中に手を入れながら言った。「私も早く皆さんと一緒にエールを呷りたいので」

 ごそごそという紙の音をマイクが拾い上げる。ルロワは箱の中から、二つに折り畳まれた一枚の紙を取り出した。箱を足元に戻し、左手の指先で紙を開いたその瞬間、マイクが息を呑む音を拾った。

「リクエストはLa vie en rose」手元の小さな紙から顔をあげ、ルロワはカウンター席に目を向けた。「マダム・ルーとの共演を是非とも所望する」

「……oh là là」

 クロエは目を丸くし、思わずというふうに声を漏らした。隣に座っているバージルがその様子を面白そうに眺めている。アランは横目を向けているだけで、手元のグラスを持ち上げると、それを口元に運んでいた。希佐はイライアスと顔を見合わせてから、そろり、そろり、とクロエを見やる。

 店内は水を打ったように静まり返っていた。クロエは自身に視線が集中していることに気づいていながらも、表情一つ変えず、落ち着いた様子で何事かを考えている。

「キサ」衣擦れの音ほどに小さな声で、クロエが希佐の名を呼んだ。「よく見ていなさい」

「……はい」

「いい子ね」

 この場にいる全員の視線を奪い去ることは至難の業だ。

 それなのに、この女性は、それを容易にやってのける。

 組んでいた足をゆっくりと解いて椅子から立ち上がると、高いヒールの踵を鳴らしながら、各テーブルの合間を縫うようにして、クロエはステージに向かって歩き出した。人々はその姿に釘付けになって、ただゆっくりと、クロエ・ルーの動きに合わせて頭を動かしている。

 人間の視線の動きって、とても正直なんだから──その通りだと、希佐は思った。

「お前もお前で意地が悪いな、アラン」空席の向こう側で、バージルが言った。「お前だろ、あれ入れたの」

「選ばれるとはかぎらなかった」

「よく言うよ」

 ステージに背を向け、カウンターに肘を乗せて、ぼんやりと宙を眺めているアランは、一体何を考えているのか。クロエを大勢の目の前で見せしめにしたいのか、陥れたいのか、それとも、その姿を見せたい相手がいるのか。後者だとすれば、その相手は十中八九、希佐なのだろう。

「素敵なリクエストね」ルロワの手を借りてステージに上がったクロエの声を、マイクが拾い上げる。「みなさん、こんばんは」

 驚愕と困惑の入り混じったどよめきが起こっていた。だが、当人はそんなことなどお構いなしに、ルロワから受け取ったマイクを手に持って話し出した。

「私、歌手ではありませんのよ。でも、前に一度だけ、チャリティーのためにレコードを発表したことがあります。敬愛するエディット・ピアフの楽曲を集めたアルバムでした。お持ちの方はいらっしゃるかしら」一人、二人と手が上がるのを見て、クロエは嬉しそうに微笑した。「まあ、嬉しい。ありがとうございます。あのレコードは一枚でも多くファンのみなさんにお届けしたくて、私の手元にも残っていないの」

 ステージの上に立って、ただ話をしているだけだ。それなのに、誰も彼もがクロエ・ルーという女優から目を逸らすことができず、その唇が紡ぐ話に耳を傾け続けている。甘く、やわらかい、淑やかな声音が、酷く耳に心地良い。

「人前で歌うのは久しぶりだけれど、今夜は愛するフランシス・ルロワの晴れ舞台ですもの、是非とも最後のリクエストにお応えしたいわ」

「光栄です、マダム」

 きっと、これは最初からそういう演出だったのだと、そう考えた者は多かったに違いない。それくらい、完璧に完成されたステージが、眼前で披露された。

 圧巻の三分間だった。

 シャンソンに耳馴染みがない人でも、エディット・ピアフのLa vie en rose──バラ色の人生なら、一度は耳にしたことがあるだろう。あの人とわたしの、狂おしいまでの恋心を歌っている。1940年代から現代に至るまで、多くの人々に歌い継がれている、世界中で愛されている一曲だ。

 もとより若々しく、年相応に見られることがないであろうその顔が、ピアノの音色と共に若返っていくようだった。まるで恋する少女のような面差しを浮かべ、青色の目をキラキラと輝かせて、幸せな日々の恋心を歌い出す。

「あっ……」

 希佐が小さくそう声を漏らすと、隣に座っていたイライラすが、ちらりとこちらに目を向けた。だが、希佐はクロエから片時も目を逸らさず、ただ、頭の中でとある情景を思い描いていた。

 オーディションの一次審査、そして、舞台の脚本にも描かれている、少女と青年の出会い。もしあの出会いが真実なら。少女時代のクロエと、アランの父親との出会いを、そのままに描かれているのだとしたら。

 どっ、と、血潮を吹き出したのではないかと疑ってしまうほど、心臓が大きく一度だけ波打った。クロエ・ルーは、一体どんな思いで、この歌を歌っているのだろう。そして、アラン・ジンデルは、一体どんな思いで、この歌を聞いているのか。

 考えたくない。

 だが、考えなくてはいけない。

 どちらの気持ちも余すことなく享受し、噛み砕き、飲み込むことができなければ、何一つものにできないことは理解している。しかし今は、もう何も考えられないと、希佐は思った。

 リサイタルが終わり、店内には元通りの喧騒が戻ってきても、希佐は心ここに在らずという様子のまま、呆然とカウンター席に腰を下ろしていた。鳥肌が未だに治まっていないのだ。頭の中も、耳の奥も、ヒリつきを感じていた肌も、まだあの最後のリクエストの余韻を引きずっている。

 あの三分間、クロエ・ルーは間違いなく、この店内にいる誰からも愛されていた。きっとそれは、アラン・ジンデルですら例外ではなく。

「ああ、人様の前で歌わせていただくのが久しぶりすぎて、どうなることかと思ったわ」希佐が声の聞こえた方を振り返ると、少しだけ興奮した様子で頬を紅潮させたクロエが、席に戻ってくるところだった。「メレディス、辛口のエールをお願い」

「お待ちください」

「もう喉がからからよ」メレディスは、よく冷やしたグラスに、サーバーのエールを注ぐ。クロエはそれを受け取ると、その半分ほどを一気に呷り、豪快に息を吐いた。「très bien!」

 こういうところが、この人の愛される所以なのだろうと、希佐は思う。高嶺の花のような近寄りがたい外見とは裏腹に、内に秘めたる本質的な部分は、きっと少女のままなのだ。

「美味そうに飲むねぇ」

「あなたもお飲みなさいな。今日は私がご馳走して差し上げると言ったでしょう? それなのに、誰も飲んでくださらないのだから」

「じゃあ、せっかくだからお言葉に甘えますかね」

 バージルはそう言うと、どこか微笑ましそうにクロエのことを見つめていたメレディスに向かって、人数分のエールを注文した。しかし、途中で思い出したように一杯分の注文を、ジンジャーエールに変えてもらう。

「ほら、お前らも遠慮しないで飲めよ」

「余計なお世話って言葉知ってる?」

「知らねぇな」

 いいから飲めよ、と押し付けられるグラスを、アランはやはり不服そうに受け取っていた。イライアスはスマートフォンの画面を覗き込み、今現在の時間を確認しながら、険しい顔をして目の前のジンジャーエールを睨んでいる。

「いただきます」

 希佐はそう言うと、飲み慣れないエールを、ぐびぐびと呷るようにして飲んだ。普段から好んで飲んでいるギネスとは違い、発泡性が強く、苦味も強烈で、切れ味の鋭い味がする。だが、乾いた喉には心地良く、不思議と嫌な感じはしなかった。

「素晴らしい飲みっぷりですね」

 くすりと笑う声が聞こえ、希佐は肩越しにそちらを振り返る。するとそこには、今の今までステージの上でリサイタルを行っていたその人、フランシス・ルロワが立っていた。未だジンジャーエールと睨めっこをしていたイライアスは、顔を上げてそちらを一瞥すると、申し訳程度に会釈をしてみせる。

「やあ、イライアス」

「フランシス」

 挨拶はそれだけだった。ルロワはイライアスから視線を外し、立ったままエールを飲み切ったクロエに目を向けると、静かに口を開いた。

「マダム」

「ええ」クロエは空になったグラスをテーブルの上に置き、希佐を見やった。「キサ、フランシス・ルロワよ」

「あ、はい」希佐は慌てて椅子から立ち上がると、思いの外背の高いルロワを見上げ、差し出された手をそっと握った。「はじめまして、ルロワさん」

「どうか、フランシスと呼んでください」

「この子、あなたの大ファンなのですって」

 ルロワは希佐が握った手を自らの方へと引き寄せ、そのまま身を屈ませると、手の甲に口付けるような素振りを見せた。上目遣いにこちらを見上げた眼差しを目の当たりにして、思わずドキリとする。海の底のように青黒い碧眼が、射抜くような目で希佐を見ていた。

「この私に女性を紹介させるなんて良い度胸だと思わないこと?」

 返答に困って曖昧に笑っていると、ルロワは希佐の手を取ったまま、そっと身を起こした。

「一年ほど前にサロメを観劇しました」

「本当ですか?」希佐は大きく驚いてから、慌てて付け加える。「ありがとうございます」

 サロメは本来、新約聖書を元にした戯曲やオペラとして知られているが、希佐が演じたのは、それを舞台ミュージカル用に書き直したものだった。

 元々サロメを演じるはずだった役者が病気で入院することになってしまい、公演までの残り一ヶ月と少しの間に、芝居、歌、ダンスのすべてを叩き込める女優はいないかと泣きついてきた座長に、メレディスが丁度オフだった希佐を紹介したことが、ことの始まりだった。

 だが、あの舞台は、定員が五十人以下の小さな劇場で行われたもので、希佐がこれまでに立ってきた劇場の中では、最も小さな部類に入る。上演期間も一週間と短く、毎日が満員御礼というわけではなかったので、あの舞台を目にした者は、全体で三百人にも満たないだろう。丁度、カオスの面々がそれぞれの仕事で忙しかったということもあり、あの舞台は誰一人観に来ておらず、映像も残されてはいない。

「あなたのサロメは本当に素晴らしかった。まさに、怪演でした」

 公演後、劇団の座長には酷く感謝された。座長とは今でも連絡を取り合い、情報交換をしたり、お互いが出演する舞台を見に行ったりする仲が続いている。元々サロメを演じる予定だった役者は、あの公演から数ヶ月後、病気で亡くなったそうだ。

「劇団のどなたかとお知り合いだったのですか? あの公演は、その、あまり人目に触れる機会がなかったので」

「ああ、いえ、私はフリンジの実験的な舞台を観て回るのが好きなのです。それがインスピレーションの元になることも多い。先ほど演奏した私の楽曲の中にも、あなたが踊った七つのヴェールの踊りにインスピレーションを受けて作曲したものがあったのですが、聞いていただけましたか?」

 間違いなく、あの転調と可変拍子を繰り返していた曲のことを言っているのだろうと察し、希佐は思わず返答に困ってしまった。途中でピアノの音色に酔い、席を立ったなどと言えるような雰囲気ではなかった。

 すると、希佐から困惑の匂いを察知したのか、黙って二人の話を聞いていたクロエが、不意に口を開いた。

「そうだわ、フランシス。あなた、飲み物は? エールを飲みたいと話していたでしょう?」

「先にご挨拶をと思いまして」

「先に飲み物を注文していらっしゃい。お代は払ってあるから」

「ありがとうございます」

 ルロワは「失礼します」と言って軽く会釈をし、クロエの言葉に従って、カウンターの注文列に向かって歩き出した。途中、ルロワのファンと思われる女性から声を掛けられると、愛想良く握手に応じている姿が見えた。

「あなたはファンへの対応の仕方も学んだ方が良さそうね」

「すみません」

 希佐は寸前まで握られていた自らの手を見下ろし、小さく息を吐き出した。

 クロエはルロワの演奏を聞かせるために、希佐たちをヘスティアに連れてきたのではない。その反対だ。自らがプロデュースする舞台の作曲家としてルロワを招くために、希佐が餌として必要だったのだろう。それを希佐が察しているということは、周りの仲間たちも同様に、その事実を察しているに違いなかった。

「前にもこんなことがあったな」こちらを見ずに、アランが漏らす。「うんざりする」

「何がいけないの? 舞台のためなら利用できるものはなんだって利用するわ」

「あんたもスペンサーと同じだ。外にばかり良い顔をして、身内であるはずの役者に対する敬意が足りない。裏で何を画策しているのかは知らないけど、うちの若手を巻き込むのだけはやめてくれ」

「すべては私の舞台を成功させるためにやっていることよ」

 いつだって、どこかの歯車が上手く回りはじめると、今度は別の歯車が上手く噛み合わなくなる。全員が全員、同じように舞台の成功を望んでいるはずなのに、目指している方向がてんでバラバラなのだ。

「キサ」クロエが言おうとしていることが、希佐には手に取るように分かった。「あなたは今度のチャリティーイベントで、七つのヴェールの踊りを踊りなさい」

「ですが、私には──」

「あの歌とダンスではインパクトに欠けるわ。言ったでしょう? ただ美しいだけでは駄目なのだと」

「……はい」

「おい、これ以上そいつに負担を掛けてどうするんだ?」

「それなら、あなたがその負担を軽くして差し上げたらいかがかしら」クロエは口を挟んできたバージルを横目に見る。「タップダンスをやめればいい」

「やめません」再び口を開こうとしたバージルよりも先に、希佐はそう言い切った。「七つのヴェールの踊りを踊ることが舞台の成功に繋がるのなら、私は喜んで踊ります」

「キサ」

「大丈夫」心配そうに声を上げるイライアスに向かって、希佐は微笑み掛けた。「もっと大変な舞台はたくさんあった。だから、大丈夫だよ」

 絶対に悔いを残さない。

 そう決めたのだ。

「いいわ」強い意志を窺わせる希佐の眼差しを真正面から受け止め、クロエ・ルーは青い目を細め、挑発的に笑った。「それでは、私は私のすべてを、あなたに賭けましょう」

 公演までの準備期間が約一ヶ月と短く、台詞、歌、ダンスと、自分の中に落とし込まなければならない問題が山積みだったサロメの舞台は、これまでに経験したことのない過酷さだったことを、希佐はまるで昨日のことのように覚えていた。しかも、台本と楽譜はすぐに用意されたが、ダンスの振り付けは誰にも教えることができないからと、十分弱の振り付けを一から自分で考えなければならなかったのだ。

「本当に申し訳ない。うちの劇団のダンスは全部あいつが見てくれていたから……」

 いつもならバージルやイライアスに相談しているところだが、二人はそれぞれが仕事で忙しくしていて、当時はアランに相談するなどという選択肢を持ち合わせていなかった希佐は、歌や台詞を覚える傍ら、舞台全体の流れを見ながら、ほとんど寝ずに一週間で振り付けを完成させた。あとはもう、舞台稽古以外の時間はすべて、ただ踊り込むことに専念するだけだった。

「あのイベントは一人ずつの持ち時間がある程度定められている」ウイスキーグラスを手に持ち、からからと氷を鳴らしながらアランが言った。「他にも大勢が参加するイベントで、キサだけに時間を多く割り振るわけにはいかないと思うけど」

「王様のご意見を伺いましょ」

 クロエはそう言うと、何かを期待するような目で、カウンターの向こう側に立つメレディスをじっと見つめた。このイベントの主催者はメレディスだ。参加者たちを総括し、当日の采配を担う。王様の言葉は絶対だ。だがしかし、王様だからこそ、勝手なことはできない。

「そうだね」メレディスは方々から向けられる眼差しを一身に受け止め、落ち着いた口振りで先を続けた。「個々人に与えられる持ち時間は、基本的には十分前後だよ。長くても十五分くらいかな。七つのヴェールの踊りの楽曲は十分弱──だったね? これ一曲なら十分に事足りる時間配分ではあると思うよ」

「彼女には、それ以外にも自分の歌とダンスがある。それに加えて、俺やバージルとも出演すると言ってる」

「君たちの持ち時間内にキサが出演するのであれば何ら問題はないよ。小道具の持ち込みは自由だ」

「責任者がこう仰っているのだから、問題は解決したのではなくて?」

「……七つのヴェールの踊りが、既存のオペラを踏襲したダンスなら、僕が振り付けたキサのダンスとは、あまりに雰囲気がかけ離れすぎてる」イライアスは誰に話しかけるでもなくそう言った。「それを見せられる観客は困惑すると思う」

「私は引かないわよ」クロエはイライアスを横目に見ながら言う。「この子だって引かないでしょうね」

「そもそも、どうして素直に頭を下げられないのか、僕には理解できない」

「イライアス」

「少なくとも僕は、そういうやり方が好きではないし、頼みごとがあるのなら、まずは相談をするべきだと思う。相手が断れないような状況にまで追い詰めて、それでも選択を強いるような物言いをするのは、強要することと何も変わらない」

「こりゃお前にとっても耳の痛ぇ話だな」

 バージルはその言葉をクロエに対してではなく、なぜかアランに向かって口にしている。肩をとんとんと叩かれているアランは、身に覚えがありそうな顔をして、グラスのウイスキーを口に運んでいた。

「数日前に、ケネス・ガルシアに会いました」希佐は一瞬考えてから、それがもう一方のプロデューサーの名前であることを思い出した。「あなたが自分の預かり知らないところで、何かよからぬことを企てているのではないかと、とても心配していました」

「それを私に教えてしまって構わないのかしら」

「口止めはされなかったので」

「それはね、彼があなたの出方を窺っているからよ。自分の味方なのか、このいけ好かない女の味方なのかをね」

「ガルシアからは、あなたについて行ってもいいことはないと言われました。この先も役者を続けていきたいのなら、これから先の身の振り方を考えるようにと」

「相変わらず楽しい人」クロエは皮肉っぽくそう言うと、残っていたエールを一気に飲み干す。「私はあなたにどう思われようと構わないわ、イライアス。私のやり方に賛同できないのなら、ケネスのところへ行きなさい。彼は業界に顔が利く人間よ。大波に煽られて今にも沈んでしまいそうな私の小舟よりも、彼が所有する大船に乗っていた方が、この先の旅路は安泰だわ」

 そう言うクロエを、イライアスは黙ったまま見つめ続けている。

「今の私にはスポンサーもいないし、大手事務所という後ろ盾もない。裸一貫でここに立っている。だからこそ、もう後には引けないの。計画は既に動きはじめている。でも、その計画の全責任を負うのは私自身よ。この計画を知っているのは私だけでいい。成功すれば万々歳、失敗したら、私がすべてを失うだけ。それでも舞台は滞りなく行われるでしょう。おそらく、私が理想としていたものとは、まったく別の形でね。脚本は書き換えられ、今以上の脚色が加えられて、大衆受けのする演出をされた、最低最悪の舞台になるわ」

 クロエがそうして話している間にも、店内の喧騒は強まり、密度が増していく。不自然なほどに続々と人が雪崩れ込んでくるのを見て、アランが小さく舌を打った。

「お嬢さん」そう言ってバージルが掲げたスマートフォンの画面には、クロエ・ルーが歌う映像が映し出されていた。「ったく、やることが早いったらねぇな」

「申し訳ありません」

「あら、あなたが謝ることないわ」咄嗟に謝罪の言葉を口にするメレディスに向かって、クロエはにっこりと微笑み掛けた。「こちらこそ、お店を騒がせてしまってごめんなさいね」

 クロエは椅子の背もたれに掛けてきたコートを羽織り、テーブルの上に置いていたシガレットケースをバッグの中に仕舞う。その弾みでころりと転がり落ちた香水瓶を、椅子から立ち上がったバージルが拾い上げた。

「タクシー、掴まえてきてやるよ。呼ぶより早いだろ」

「ご親切にありがとう」

「待ってな」

 バージルはそう言うと、小さな香水瓶をクロエに手渡し、早足でヘスティアを出て行った。だが、店内には本物のクロエ・ルーを一目でも見ようと、拡散された動画を見てやって来た集団が、目と鼻の先にまで迫っていた。

「しばらくはこの店にも来られそうにないわね」

 クロエは若い頃からこの店に通っているという。ヘスティアの常連客たちは、その事実を知っていながらも、いつだって見て見ぬふりをして、この大女優のお気に入りの場所を奪うまいとしていた。このパブに足を運ぶ客の多くは、酒を愛し、料理を愛し、芸術と舞台、そしてエンターテイメントを愛する、洗練された者がほとんどだ。だからこそ、その場を汚す騒がしい客を嫌う。

 とはいえ、ここにいる客全員のスマートフォンを取り上げ、犯人探しをするわけにもいかない。

「お話の途中だったのに、ごめんなさい」

「いえ」イライアスは首を横に振った。「あなたの考えを知れて良かったです」

「そう?」

 クロエはそう嬉しそうに言ったかと思うと、何かを手に取ろうとするように、自らの胸元に指先を向ける。しかし、すぐに思い出したような顔をし、その表情を消した。

「マダム」メレディスの呼び声に、クロエは振り返る。「こちらでよろしければ、お使いください」

「……」

「またどこかで失くされたのではないかと思いまして」

 立体的で見るからに高価そうなケースから覗くサングラスは、以前クロエが掛けていたものとまったく同じ形のものだった。

 あのサングラスはメレディスがクロエに贈ったものだったのか──バラバラに砕け散ったサングラスを見る眼差しは、今思い返してみても、冷ややかなものだったことを、希佐は覚えている。

「どうぞ」

「……ありがとう、坊や」クロエはケースの中から取り出したサングラスで、素早く顔を隠した。「ケースはいらないわ」

 サングラスの向こう側に見える目の冷たさに、思わずぞっとする希佐だったが、くるりと後ろを振り返った途端に切り替わる表情を見て、それをただの錯覚だったのではないかと感じる。ファンに声を掛けられ、にこりと微笑み掛けるその表情は、あまりに自然だ。

「ごめんなさい、今日はもう帰らなければならないの。明日の便でフランスに戻らなければいけないから」

「この店にはよく来るんですか?」

「ええ、大昔から来ているのよ。サンドイッチが絶品なの、是非食べていって」

「あのう、一緒に写真を撮ってくれません?」

「写真はまた今度にしてくださる? 私一人を撮る分には構わないわ。がっかりさせてしまって、ごめんなさいね」

 クロエの周りにはあっという間に人集りができた。ヘスティアのスタッフが何人か集まってきて、何とか対処しようと努めているが、彼らの声が野次馬に届くことはない。

 これが有名になるということなのか──希佐がそのような漠然としたことを考えていると、不意に背後から名前を呼ばれた。反射的に振り返れば、アランの大きな手の平が希佐の後ろ頭を包み込み、自分の方へと引き寄せる。それとほぼ同時に、眩い光が何度か素早く明滅し、写真を撮られたのだと理解した。

「ここも民度が落ちてきたな、メレディス」

「面目ないよ、本当に」

「君はここに座って、後ろを振り返らないように」

「でも──」

「バージルから連絡が来たから、あの女は俺がタクシーに押し込んでくる」

 アランはそう言うと、イライアスに軽く目配せをしてから、傍を離れていった。

 希佐は言われた通り椅子に腰を下ろすが、後方の動向を知りたいがためにポケットからスマートフォンを取り出し、インカメラに設定して画面越しに様子を見やる。

 アランは人をかき分けるようにして進み、クロエの肩に手を回すと、有無も言わせずに人垣の中から連れ去っていった。

「マダム・ルー、その男性は?」

「新しい恋人ですか?」

「例の女性とはもう別れたんですか?」

「みんな、私の素敵なお友達よ」

 扉を出ていく間際、クロエは右手を軽く振るように挙げながら、明るい口振りでそう言った。パパラッチたちは、店を出て行った二人を駆け足で追い掛けていこうとするが、一体どういうわけか、途中で将棋倒しのようにばったばったと倒れていく。

「くそっ、誰だよ、足引っ掛けたやつ──」

 だが、犯人が素直に名乗り出るわけもない。パパラッチたちが店を出ていく頃にはもう、クロエを乗せたタクシーはロンドンの町中へと走り去っていた。アランとバージルは何事かの言葉を交わしながら店内に戻って来ようとしているが、そこへもパパラッチはカメラを向けている。

「何をやっているのだか」

 店の外に目を向けていたメレディスが、呆れた様子でそう言った。

 バージルはパパラッチから逃げるどころか、アランと肩を組み、満面の笑みをカメラに向けている。アランは面倒臭そうにしながらも、その場から逃げ出そうとする素振り一つ見せない。それから、二、三の言葉を交わしていたかと思うと、アランとバージルだけが店内に戻り、パパラッチは大人しくその場から引き上げていった。

「ったく」カウンター席に戻ってきたバージルが、ため息まじりに言った。「俺らの写真を撮ったら良い値で売れるって言ってやってんのに、あいつら信じねぇんだよ」

「どうして良い値で売れるの?」

「こいつ、この辺りじゃ顔が知れてるけど、業界じゃ正体不明って言われてるんだ。実在するかも怪しいってな」バージルは言いながらくつくつと笑っている。「顔を出さないのは、実は醜男だからなんじゃねぇかとか、実際は女なんじゃねぇかとか、いろいろと愉快な噂があるんだよ。そんなやつのご尊顔を撮ったとなれば、そりゃ高値で売れるだろうが」

「言ってろ」

 アランはそう言いながら希佐の隣に腰を下ろし、僅かに頭を項垂れると、横目でこちらに視線を投げかけてきた。すっと目を細めるその表情を見て、希佐はアランの不機嫌具合を察する。

「そろそろ帰ろうか?」

「ん」肯定の声を上げながらアランが顔を上げれば、正面に立っていたメレディスが心得たように頷いた。「イライアスのことはバージルに預かってもらう」

「……どうしてですか?」

「連中、今度は君を狙ってる。自宅まで追いかけて来られるぞ」

「バージルは大丈夫なの?」

「問題ねぇよ。少し遠回りをして、走って帰れば途中で振り切れるだろうしな」確かに、バージルとイライアスのスタミナについて来られる者など、そう多くはないだろう。「イライアスもそれで構わないか?」

「家までついて来られると面倒だから」

「よし、じゃあ、決まりだな」

 クロエ・ルーが去ったことで、野次馬の多くは店内から引き上げて行ったようだ。いくらか残った人々は注文カウンターに並び、思い思いのドリンクを購入して、ここで楽しんでいくことに決めたらしい。メレディスもそうした人々を無理に追い出そうとはしなかった。

「事故の影響で道路が渋滞している。タクシーが到着するまで少し掛かるそうだよ」

「分かった」アランはそう言うと、バージルとイライアスの方を見る。「俺たちはタクシーを待つから、二人は先に帰っていいよ」

「俺はいつでも行けるぞ」

「僕も大丈夫」

 イライアスは椅子から立ち上がると、その場で軽く屈伸をした。希佐が腰を上げて見送ろうとすると、イライアスはそれを押し止めるように手の平を向ける。

「せっかく来てくれたのに、あまりお話もできなくて、ごめんね」

「ううん」イライアスは首を横に振る。「今日は聞きたいことを聞けたから」

「マダムに?」

「うん」

 二人とも気をつけて帰れよと言って、バージルはイライアスを引き連れ、ヘスティアを出て行った。バージルの家とは反対方向に二人が走り出すと、首からカメラを提げた数人の男が、全力疾走で追い掛けていく。

「パパラッチって本当にいるんだね」

 希佐が呑気にもそう漏らすと、氷を入れたグラスに水を注いでくれながら、メレディスは困った顔をして、苦笑いを浮かべた。

「前にうちのスタッフがパパラッチのカメラを壊してしまったことがあってね。カメラ代は弁償させてもらった上で、店内の迷惑行為を注意したら、今度は店を訴えると言い出す始末だ。弁護士を呼ぶと言うから、その前に警察に来てもらうと警告をしたら出て行ってはくれたけれど、そのパパラッチが度々店に姿を表すようになって、実のところ困っているのだよ」

 希佐が働いていた頃は、店に飲みに来た客が、有名人を見かけてこっそり写真を撮るという迷惑行為が良くあった。見かける度に削除を求め、目の前で写真を消してもらっていたが、この店内でパパラッチと出会ったことはなかった。

「父の代までは店内での写真撮影は一切禁止にしていたのだけれどね」希佐とアランの前にグラスを並べ、メレディスは続ける。「この店には昔から業界人が多く足を運んでくださるし、そうした方々に人目を気にせずゆったりとした時間をお過ごしいただくためには、必要不可欠な約束事だったんだ。でも、今となっては時代錯誤にも程があるだろう? だから、その禁止事項は、私の代から取り払うことにした。昔ながらのお客様や、この店の伝統を守ってくださるお客様は、今もそのルールを守ってくださっているけれど、半数以上はそんなルールが存在していたことすら知らないのではないかな」

「写真撮影に応じてくださる役者の方もいらっしゃるから、難しい問題だよね」

 あちらを立てればこちらが立たぬという状況が、悪い意味での黙認を招いている。結局のところ、すべてを取り締まることができない以上、最終的には人の善意に委ねるしかない。

「行動があまりにエスカレートするようなら、弁護士に相談して対象者を出入り禁止にすることも可能だから、何かあったらすぐに教えてくれるかい?」

「え、私も?」

「実害がないからといって、これから先もそうとはかぎらないよ」

「う、うん、分かった」

 希佐は今日という日まで、自分は劇団カオスのKISAとして認識されているものとばかり思っていた。だが、そうではないのだということを、今になってようやく自覚する。見ている人は、見ているのだ。それがどんなに小さな舞台でも。

「マダムが無事に帰られたようで、何よりでした」タクシーを待っている間、アランととりとめのない話をしていると、先程までイライアスが座っていた場所に、再びフランシス・ルロワがやってきた。「それはもう見事にすっ転んで」

 ああ、この人が足を引っ掛けたのかと察したが、希佐は何も言わなかった。

「イライアスは帰ってしまわれたのですね」

「はい」希佐はアランの方に向けていた体を正面に戻した。「以前、イライアスと一緒にお仕事をされたことがあると聞きました。ダンサーの感覚を理解してくださる方だと」

「彼のような才能豊かなダンサーにそう言っていただけると、作曲家冥利に尽きるというものです。当時は、小さな劇場での公演でしたので、少しくらいマニアックにこだわってみても、許されるだろうと思いまして。結果、思っていた以上に注目を浴びる、私の代表作とも呼べる作品として育ってくれたのですが」

「イライアスがその舞台のレコードを貸してくれると言っていたので、近いうちに聞かせていただきます」

「彼から借りる必要なんてありませんよ。私が持っているものを差し上げます」

「いえ、そんな──」

「レーベルからサンプルにいただいたものが手元に残っているんです。丁度処分に困っていたところだったので、受け取っていただけると助かるのですが」

「そういうことでしたら、あの、はい……」

「連絡先を教えていただければ、私が直接お送りしますよ」

「あっ、連絡先──」

 希佐がそう言い、近くにいた馴染みのバーテンダーに向かって、ペンを貸してほしいと声を掛けようとしたとき、隣に座っていたアランが一枚の紙を差し出してきた。それはアラン・ジンデル個人の名刺ではなく、仕事用の名刺で、事務所として登録されているスタジオの住所とメールアドレスだけが記載されている、簡易的なものだ。

 希佐は黙ってそれを受け取ると、にこにこと機嫌良く微笑んでいるルロワに向かって、その名刺を差し出した。

「こちらの住所に送っていただけますか?」

「劇団カオス」

「はい」名刺を見下ろしているルロワを見やりながら、希佐は頷いた。「私が所属している劇団です。ここの二階にある劇場で度々公演をしています」

「へえ、そうなのですね」

「イライアスは劇団の先輩なんです。それから、こちらが──」希佐はそう言うと、終始黙りこくっているアランを横目に見る。「主宰のアラン・ジンデルです」

「アラン・ジンデル……」透き通るような色をした目を何度か瞬かせたあと、ルロワは思い出したように声を上げた。「ああ、あの斜陽の雲の脚本を書かれたという」

 ルロワは掛け値なしに驚いた様子で、希佐の頭越しにアランのことを見ている。

「あの作品は映画館で拝見しました。いや、まさかあなたが、かの有名なアラン・ジンデルだったとは。ご挨拶もせずに、失礼いたしました」

「いや」

「あの映画は音楽もまた素晴らしかった。とても叙情的で、口数の少ない主人公の心を雄弁に物語っていた。どこか鬱々としているのに、ぞっとするほど美しい。私が目指すものとどこか似通っています。ああ、でも、あの作曲家の方は、確か……」

「映画が公開される前に亡くなった。お年を召した方で、元々重い病気を患っていたから」

「お会いしてみたかったです。映画音楽を手がけるのは私の目標の一つなので、是非ともお話を聞かせていただきたかった」

「君ならいくらでもチャンスはある」

「そうだと良いのですが」

「ご歓談中のところを申し訳ないけれど」カウンターの内側を忙しそうに行ったり来たりしていたメレディスが、目の前を通り過ぎながら声を掛けていく。「タクシーが到着したよ。他のお客様もご入用だから、まだ話を続けるようならそちらに回すけれど、どうする?」

「すぐに行く」

「分かった。二人とも、気をつけて帰るのだよ」

「ありがとう、メレディス」

「またおいで」

 希佐とアランが椅子から立ち上がると、それに合わせてルロワも立ち上がった。

「では、一両日中にレコードをお送りします」

「ありがとうございます」

「そういえば、来月のチャリティーイベントには参加されるのですか?」

「その予定です」

「私も参加予定なので、またそのときにお会いできますね」そう言ってルロワが差し出した手に握手で応じると、ルロワは希佐以上の力で、右手を握り締めてきた。「私はもう一度、あなたの七つのヴェールの踊りを拝見したいです」

「……まだどうなるかは分かりませんが、前向きに検討してみます」

「楽しみにしています」

 名前を呼んで促された希佐は、小さく頷くと、ルロワに別れの挨拶をしてから、アランの背中を追いかけた。アランは肩越しに振り返り、希佐がついて来ているかどうかを確認してから、ヘスティアの外へと出て行く。正面の路肩に停まっていたタクシーに歩み寄ったアランは、後部座席のドアを開け、いつもと同じように希佐を先に乗り込ませた。

 だがしかし、その後に続く言葉は、いつもと違っていた。

「カフェロイヤルまで」

「はいよ」

 思わず驚いて言葉を失う希佐を尻目に、アランは後部座席のシートに身を預け、窓の外に視線を向けている。タクシーが後方確認後に発進すると、ようやく車内に視線を戻した。

「今日は帰らないでホテルに泊まる」

「そこまでする必要が──」

「あるんだ」

 アランは多くを語らなかった。ピカデリー・サーカスの正面に建つ、絢爛豪華な五つ星ホテルのロータリーに流れ着き、やたらと多すぎるチップ込みの料金を支払って、タクシーから下車する間も、口を開かなかった。

「こんな格好で入っても大丈夫かな……」

「ジャケットを着用していれば大丈夫だよ」

 荷物もなく、着の身着のまま現れた若いカップル然とした二人を、ドアマンは黙って見送る。アランは軽く感謝の言葉を告げ、開かれたドアを抜けて広々としたホテルのロビーに足を踏み入れた。希佐は比べる材料をヴィルチッタ綾浜以外に知らないが、このホテルはどうやら、あのホテルよりも格式が上らしい。

「こんばんは」受付のフロントクラークがにこやかに口を開く。「ご予約のお名前をお願いします」

「予約はしていないのですが、宿泊は可能でしょうか」

「お待ちください」フロントクラークは手元の端末を素早く操作した。「ジュニアスイートでしたら、すぐにお部屋へご案内することができますが……」

「お願いします」

「かしこまりました。お連れ様もご一緒ですね」

「はい」

 自分は酷く場違いなところへ連れて来られたような気がすると感じながらロビーを振り返ると、ドアマンに呼び止められている宿泊客の姿が目に入った。だが、その人物は宿泊客でもなんでもなく、首からカメラを提げた、先程までヘスティアにいたはずのパパラッチの男だということに気づいた。

「キサ」アランに呼ばれて視線を戻すと、既に案内役のページ・ボーイが傍に控えていた。「行くよ」

「うん」

 よそ見をしている間にチェックインの手続きを済ませていたアランは、今まさにホテルから追い出されようとしている男を一瞥してから、ページ・ボーイに続いて歩き出した。希佐は慌ててその隣に並び、ふう、と小さく息を吐き出す。

 客室に到着してすぐ、物腰の柔らかなページ・ボーイから最低限の説明を聞き終えると、アランは四つ折りにしたチップを手渡した。希佐を先に室内へ通し、廊下の様子を窺うように視線を走らせてから、遅れて入ってくる。

「追い掛けられていたの?」

「そうみたいだな」

「でも、どうして……」

「あの女は自分のSNSで君の存在を仄めかしているし、俺は俺であの女の新しい男かもしれないと疑われているし、まあ、どちらかが狙われているんだろ。あの女、ロンドンに来るたびに、同じパパラッチに追い掛け回されてるって言ってたから、多分あいつのことだ」

 平然とした面持ちでそう言ったアランは、ドアの施錠を確認してから、部屋の奥へと歩いて行く。

「ここはロイヤルファミリーが利用することもあるホテルだから、ホテル側もある程度は客を選んでる。カジュアルでもジャケットを着用していれば許容範囲内なのは、レオに連れて来られたことがあるから知ってた。ここは連日のように各国の著名人が出入りするホテルで、パパラッチを入れるなんてことは絶対に許されないから、いざというときの避難所として使えって」 

 部屋に入ってすぐ右手にはクローゼットがあり、その隣には飲み物を淹れられる小さなキッチンカウンターがあった。左手に見えるのは、大理石のバスルームだ。奥は広々としたベッドルームになっている。

「何か飲む?」ベッドルームに入ったところで足を止めている希佐の背後から、アランがそう声を掛けてきた。「紅茶とコーヒーと、あとはハーブティーが何種類か」

「アランは何を飲むの?」

「コーヒー」

「じゃあ、私も同じものを」

 希佐はそう答えながら一人掛けのソファに腰を下ろし、ポケットから取り出したスマートフォンで、ホテルのサイトを開いた。アランがやってくる前に料金の確認をしようとページを進めていくと、驚愕の値段が視界に飛び込んでくる。自分が以前住んでいたアパートの一ヶ月分の家賃よりも高い事実に、頭が真っ白になっていると、背後から呆れ果てたというふうなため息が降ってきた。

「なに野暮なことしてるの」

「えっ? あ、いや、あの、これは……」じっとりとした目に見られ、希佐は思わず苦笑いを浮かべた。「半分、出すね」

「いらないよ」

「でも」

「これは俺が勝手にしていることだから」アランはそう言いながら、コーヒーを淹れに戻っていく。瞬間湯沸かし器が、沸騰を知らせる音を鳴らしていた。「君のピアノと同じ」

「それとこれとは別の問題で──」

「同じことだよ」アランは希佐の言葉を遮って言った。「君がどうしてもホテル代を払いたいって言うなら、俺もピアノ代を半分払う」

「アラン」

「君の中では解決した問題なのかもしれないけど、俺は納得してないから」

 アランはマグにセットしたドリップコーヒーに僅かな湯を流し込み、簡易キッチンに備え付けられているアナログ時計を見て、蒸らし時間を数えている。

 そんなふうに言われたら、もう何も言い返すことなどできないではないかと、そう希佐が思っていると、両手にマグを持ったアランが部屋に入ってきた。一方のマグを希佐に手渡すと、隣り合ったソファに腰を下ろす。

「君は将来が不安だから貯金をしてると言ったんだ」

「お金は貯めようと思えばいつでも貯められるけれど」ブラックコーヒーから立ち上る香りが、希佐に穏やかな心を思い出させようとしていた。「お金よりも大切なものはあると思うから」

「君に有り余る富があるなら、俺だって無粋なことは言わない。でも、現実はそうじゃないだろ。俺は君の将来の安寧を脅かしたくはない」

「私はただ……」

「ただ?」

 自分勝手な思いばかりが脳内をぐるぐると駆け巡っているのだ。

 今度の舞台が終演を迎えたら、希佐は日本に帰ると決めた。アランは決して引き止めないと分かっている。だがもし、たった一度でも行かないでくれと口にしてくれたなら、この決心はあっという間に揺らいでしまうのではないかと思うほど、この人のことを愛おしく思っていた。

 本当に日本に帰りたいのか、はたまたイギリスに引き留めて欲しいのか、希佐は自分でもよく分からなくなっていた。もちろん、自らが下した決断には従うつもりでいる。それでも、頭で考えて決めたことに、心を従わせることは酷く難しいのだということを、日々実感していた。

 自分のことなど忘れてほしい。幸せになってほしい。そう願えば願うほど、それとは相反する思いが強くなっていく。自分のことを忘れてほしくない。他の誰かの隣にいることを選んだとしても、その心の片隅にはいつだって、自分の幻想を抱いていてほしい。美しく残酷な夢を、見続けていてほしい。

 互いに呪いを掛け合っているのだ。

 きっとこの呪いは、遠く離れたときにこそ、その効力を発揮する。

「……私がいなくなったあとも、私のことを思い出してほしいから」

「君は俺をとことんまで苦しめたいんだな」アランは何もかもを諦めているような物言いをした。「君が日本に帰ったら、俺はきっと、君のことを忘れさせてくれと毎夜神に懇願するよ」

 顔を伏せ、手元のマグから立ち上る湯気を眺めている希佐の耳に、感情に乏しい声がゆっくりと流れ込んできていた。しかし、次の瞬間、アランは小さく鼻で笑う。

「皮肉だよな。忘れたいと願った分だけ、俺は君との日々を思い出すんだ。忘れたいと願うほどに、君との思い出が記憶の中に根強く植え付けられていく。俺の人生はただでさえ後ろ向きなのに、こうして前を向いていられるのは、君と過ごす最後の一年だけなんだ」

「そんなことない」希佐がそう言って顔を上げると、物悲しそうなアランの目が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。「あなたは変わった。三年前のあなたと、今のあなたは、全然違う。たとえ私がいなくなっても、前を向いて歩いていける。だって、あなたの側には、いつだってカオスのみんながいるんだから」

「カオスの誰にも、君の形に空いた穴は埋められない」

 この人は、酷く弱ったような顔をして、弱気な言葉を口にするのに、行かないでくれとは、やはり絶対に言わないのだ。

「アランは私にどうしてほしいの?」

 希佐の静かな問いかけに、アランはゆっくりと瞬いてから、そっと視線を逸らした。

「俺の気持ちは変わらない。君が──キサが思うように生きてほしい。この世界の、どこにいても」

 この思いをなんと言う。もはやただの愛情などではないのだろう。もっと深く潜った場所の、その更に先にある、言語化不可能な感情だ。愛憎、執着、妄執、悔恨──どんよりとした鈍色の空のような、今にも押し潰されそうな重苦しさを感じていた。それでも、希佐は知っているのだ。この人は嘘を吐くとき、絶対に目を見て話さないということを。

 だが、自分も相当に意気地がないと、希佐は思う。この先もずっと、あなたの隣にいたいと、そう口にすることができないのだから。

 希佐はまだコーヒーが半分ほど残っているマグをテーブルの上に置き、黙ったままソファから立ち上がった。着ていたニットコートとジャケットを脱いで背もたれに掛け、バスルームに足を向ける。気持ちは沈み込んでいるというのに、体は日々のルーティンを怠るなと言って、日課のストレッチとマッサージを促すのだ。

 試行錯誤しながらバスタブに湯を張りはじめることに成功した希佐は、その場で七分丈のパンツと靴を脱ぐと、バスタオルを敷いた大理石の上に座り込んだ。傍に置いたスマートフォンのカウントアップ表示を見ながら、不自然に凝り固まった全身の筋肉を解していく。

「……駄目だ」

 悶々と考えを巡らせていた希佐だったが、十五分ほどが経った頃、一人で思い悩んでいたところで埒が明かないと思い直した。バスタブの中を覗き込むと、今にも溢れそうになっているのを認め、慌てて湯を止める。

「アラン」

「なに」

 希佐が普段と同じ声の調子で呼び掛けると、いつもと変わらない声のトーンで返事があった。互いに頭が冷えたようだと判断した希佐は、バスルームから上半身だけを廊下に覗かせ、ベッドルームに向かって声を掛ける。

「お風呂に入らない?」

 相変わらず一人掛け用のソファに腰を下ろしていたアランは、待って、と言いながら、スマートフォンの操作をしていた。希佐はその間に、バスタブから湯が溢れないように栓を抜いて調節をし、バラの香りのする入浴剤をとろりと流し入れておく。

「バラの香りの入浴剤だって」希佐は近づいてくる足音に向かって言う。「いい香りだね」

「ん」

「浸かるなら先にどうぞ。私は奥のシャワーで汗を流してくるから」

「キサ」

「なあに?」

「……ごめん」アランは一瞬目を伏せるが、希佐の目を見てそう言った。「終わった話を蒸し返すような真似をして」

「ううん。私の方こそ、ごめんなさい」

 すると、アランは君は悪くないとでも言うふうに頭を振ってから、自らのジャケットに手を掛けた。やたらとボタンの多いシャツは、ダイアナのブランドのものだ。それを見て希佐が笑うと、アランは微かに強張っていた表情をやわらげた。

 シャワーで汗を流し、先客がいるバスタブに身を沈めた希佐は、アランに向かって両腕を伸ばしてみせた。濡れた髪を後頭部に向かって撫でつけていたアランは、差し向けられている腕に指先を滑らせながら、希佐の首筋に顔を埋める。うなじから手の平をゆっくりと差し入れ、頭ごと胸に抱き寄せると、アランは希佐の腰にするりと片腕を回した。

「わ、」

 ぐるりと体勢を反転させたアランは、希佐を自らの体の上に乗せ、バスタブの縁に頭を預ける。希佐が大雑把に結い上げただけの髪の束から落ちた後れ毛を、指の甲で耳に掛けてから、その胸元で揺れる緑の宝石を手の平に掬い取った。

「あまり無理をしない方がいい」希佐にはすぐに、アランが来月のイベントのことを言っているのだろうと分かった。「君はただでさえ根を詰めすぎる上に、本番後に体調を崩すことが多いから」

「無理はしてない。平気だよ」

「キサの平気と大丈夫は当てにならないんだ」

「本当に大丈夫。バージルとは月曜と火曜に歌のレッスンが終わったら稽古をする約束をしたし、アランとの稽古はルイに見てもらえるでしょう? 稽古後の時間と、週末を使えば、自分のダンスの稽古だって問題なくできるし」

「いつ休むの」

「イベントが終わったら少しだけゆっくりする」希佐の答えに、アランはどこか不服そうな表情を浮かべた。「私には、マダムが何をお考えになっているのか、まだよく分からない部分の方が多い。でも、来月のチャリティーイベントで、何かを掴み取ろうとしているんだと思うんだ」

「何かって?」

「それも今は分からないけれど、イベントが終わったあとに、彼女の考えが見えてくるんじゃないかな」

「君もすっかりあの女の毒牙にかかってしまったんだな」

 クロエの存在を無視することができない以上、アランも自分と同じようにあの人の毒牙にかかっているのだとは言えるはずもなく、希佐は曖昧な笑みを見せながら、アランの肩口に頭を預けた。温かい湯に身を浸したまま、大きく息を吐いて、そのまま全身を委ねる。

「七つのヴェールの踊り」アランは希佐の手を取り、指を絡めた。「本当に踊るの」

「興味があるの」

「興味?」

「今の私なら一年前の私よりもずっと上手く踊れる」その確信が、希佐にはあった。「今の私が七つのヴェールの踊りを舞ったらどうなるのか、すごく興味がある」

 当時の自分には、バージルやイライアスは別として、積極的に師事するダンスの先生がいるわけではなかった。競技ダンスの教室に顔を出し、アドバイスを受けることはあっても、そこに師弟関係はない。

 希佐にとって、ユニヴェールを卒業して以降、純粋に先生と呼べる存在は、ルイが初めての人だった。

 バージルは間違いなく希佐の師匠だが、何でも手取り足取り教えてくれるわけではない。まずは自分が踊る姿を見せ、あとは目で見て盗めとでもいうふうな、職人気質なところがある。

 対するイライアスは、言葉は少ないが、人に物を教えるのが上手かった。鋭い目を持っていて、人の欠点をつぶさに見つけ出し、指摘してくれる。悪いところを一つ一つ取り去っていき、完璧に近い形へと導いてくれるのだ。だが、イライアスは優しすぎるきらいがあって、相手を尊重するあまり、口を噤んでしまうことがある。

 だがしかし、ルイは本当に学校の先生のように、希佐に指導をしてくれていた。もしかしたら、自主性を重んじるユニヴェールの先生以上に、先生をしてくれているのかもしれない。稽古中は弱音を吐きたくなるほど厳しいこともあるが、それ以外の時間は誰よりも穏やかで、優しく、良き相談相手にもなってくれる。

 ルイのおかげで、以前よりもいろいろなことができるようにもなった。それが希佐自身の自信にも繋がっている。今の自分は、一年前の自分よりも確実に強い。それならば、一年前には出来なかったことが、今ならば出来るのではないか──そう思うと、早く試してみたくてたまらなくなる。

「振りを一から見直そうと思っているんだ。それから、当時はカラヤンの音源を使ったのだけれど、今回はいろいろと聞き比べてから決めようと思っていて──」

 そうして話している間も、アランは一切口を開かず、希佐の指の付け根あたりを、自らの親指の腹で執拗なまでに撫でさすっていた。

「アラン?」

「続けて」

「……何か怒ってる?」

「怒ってない」希佐は寄り掛かっていた体から身を起こすと、アランの顔をじっと見つめた。「不機嫌でもないよ」

「アランはサロメを見たことがある?」

「クレアの──クローディア・ビアンキ、覚えてる?」

「もちろん」

「彼女の卒業公演の演目が、ドイツ語のサロメだった」

「七つのヴェールの踊りも踊った?」

「そうだったはずだけど」

「頼んだら踊ってもらえるかな」

「どうだろうな」

「連絡先、聞いておけばよかった」希佐はそう言ってから、ふと思い直す。「聞いても教えてくれなかったかもしれないけれど」

「俺から連絡してみるよ」

「いいの?」

「良い返事は期待しない方がいい」

「分かってる」希佐はそう言うと、アランの鼻先にキスをした。「ありがとう、アラン」

 そのまま何十分と話し込んでいると、のぼせるより早く湯がぬるくなり、希佐は先に浴槽から体を引き上げた。全身の水気をぬぐい、備え付けのバスローブを羽織って髪を乾かしていると、アランが奥のシャワールームに移動していく。

 冷蔵庫を開き、中からよく冷えた水を取り出してグラスに注ごうとしたとき、希佐は自らの指先を見て思わず目を丸くした。赤毛から水滴を滴らせながらバスルームから出てきたアランは、自らの手をじっと見下ろしている希佐の隣に立ち、不思議そうに首を傾げる。

「どうしたの」

「ほら、見て」希佐は自分の手の平をアランに向けた。「お湯でふやけてしわしわになってる」

 こんなことは子供の頃以来だと思っていると、アランが不意に自分の手の平を見下ろして、希佐と同じように目を丸くした。そして、希佐に向けて一回り以上大きな手の平を差し向けてくる。

「俺も」

「本当だ」

 希佐とアランは顔を見合わせたのち、どちらともなくくすくすと笑い出した。

 備え付けのアナログ時計に目をやれば、風呂に入ってから既に二時間近くが経過していたことを知る。二つのグラスを並べ、そこへ水を注ぎ入れると、二人は喉を鳴らしながら、それらを一気に飲み干した。

 希佐はときどき、椅子に座らせたアランの髪を乾かしながら、こんな何気ないひとときが永遠に続けばいいのにと、そんなふうに思うことがあった。今だってそうだ。癖のある赤毛に指を通しながら、何も映し出していないテレビ画面に映り込む、目を伏せたアランの様子を眺め、そんなふうに思う。

「はい、終わったよ」

 かち、とドライヤーの電源を切り、希佐はコンセントからプラグを引き抜いた。その足でバスルームまでドライヤーを戻しに行こうとすると、後ろから伸びてきた手が希佐の腕を掴む。振り返るよりも先に引き寄せられ、アランの膝の上に座った体を、すっぽりと包み込むように抱きすくめられた。

 途端に、希佐は自分が酷く愚かしく思えた。

 なぜ、ようやく見つけた自分だけの居場所から、いつまでもこうしていたいという幸せを感じられる場所から、立ち去らなければならないと思ってしまうのだろう。

 最後のユニヴェール公演が迫る日々の中、徐々に膨れ上がるようにして大きくなっていったのと同じ焦燥感を、今、強く感じている。

 その日の夜、二人は言葉少なに、互いの熱に身を寄せ合いながら眠りに落ちた。

 いつもより遅い時間にベッドから起き出し、シャワーを浴びて、ルームサービスで頼んだ朝食をゆっくりと味わってから、ホテルを後にする。

 当然だが、昨夜のパパラッチの姿は、もうどこにも見当たらなかった。アランは希佐の手を取ると、人々が行き交う雑多の中に紛れて、歩道を歩き出した。

「少し寄りたいところがあるんだけど」

「うん、いいよ」

 その店は、ホテルカフェロイヤルから、さほど慣れてはいない場所にあった。ピークストリートとリージェントストリートが交わるところにある、小さなジュエリーショップだ。まだ開店したばかりのようで、店内に客の姿はない。

「これはこれは、アラン・ジンデル」顔見知りらしい店員が、店内に入ってきたアランの顔を見るなり、親しげに声を掛けてきた。「午前の光の中で君にお目に掛かれる日が来るとはね」

「嫌味?」

「いやいや」

 アランから不満そうな声を向けられても、店員は朗らかな笑みを浮かべている。それからすぐに、アランの隣にいる希佐にも目を向け、礼儀正しくお辞儀をしてくれた。

「いらっしゃいませ、ようこそおいでくださいました」

「おはようございます……」

 その男性はこの店のオーナーで、ジュエリー作家を生業としているらしい。ピシッとアイロンが掛けられた清潔感のある白いシャツに、色落ちのしたデニムを履いているが、足元には高価そうな革靴を履いていた。年齢はメレディスと同じくらいだろうか。とても若々しい印象だ。

 決して広いとは言えない店内には、大小様々なガラスのショーケースが並び、美しいジュエリーが品よく展示されている。

「それで、今日はどのようなご用命かな」

「指輪が欲しいんだ」

「またオーダーメイドかい?」

「いや、指輪ならなんでもいい」アランはそう言うと、たった今まで繋いでいた手を離し、希佐を見下ろしてきた。「キサ、サイズは?」

「えっ?」

「指輪のサイズ」

「分からない」希佐は目を白黒とさせながら首を横に振った。「日本のサイズなら、五号か六号くらいだと思うけれど、イギリスのサイズは知らないから……」

「日本でそのサイズなら、こちらではGかG-Hくらいかな」

 オーナーはシャツの胸ポケットから赤い糸を取り出すと、僅かに逡巡したあと、アランの方を横目に確認してから、希佐の右手を取った。薬指に赤い糸を巻きつけ、円周の長さを測り、確信したように頷く。

「Gだね」

「え、いや、あの──」

 希佐は自分が置かれている状況を上手く理解することができず、頭を混乱させながら、隣に立っているアランを見上げた。自分はまだ、あの豪華絢爛なホテルのベッドの上にいて、夢を見ているだけなのかもしれない。そう思って手の甲を抓ってみるものの、痛みは確かに感じるし、心臓は不自然にドキドキしていた。

「アラン」

「なに」

「突然すぎて、その、私には状況が……」

「もうすぐ君の誕生日だから」アランはまるで取ってつけたように言う。「誕生日プレゼントだよ」

「で、でも、指輪なんて──」

「嫌だった?」

「そういうことではなくて」

 平然としているアランとは対照的に、どこか慌てた様子の希佐を目の当たりにして、店のオーナーは少しだけ驚いて見せたあと、ふふ、と面白そうに笑った。

「君があのエメラルドのネックレスを贈られた相手なんだね」そう言われ、希佐は思わず自らの胸元に手を置いた。「私はクリスマスの贈り物なら絶対に指輪にするべきだと言ったのに、彼がどうしても頷いてくれなくてね。私に言われて指輪を贈るのは癪だとかなんとか」

 去年のクリスマスにプレゼントを贈り合ったとき、アランがそのような話をしていたことを、希佐は覚えていた。

「あのネックレスに合う指輪をいくつか見繕ってきてあげよう」

 待っておいで、と言ったオーナーは、希佐に向かってぱちんとウインクをすると、カウンターの奥にある扉の先に姿を消してしまう。絶句している希佐を尻目に、アランは店内に飾られているジュエリーに視線を向けていた。

「アラン」先程よりも僅かに語気を強めて呼びかけると、アランは無言のまま希佐を振り返った。「あなたの気持ちは嬉しいけれど──」

「嬉しいと思ってくれるなら受け取って」

「どうして今になって」

「今を逃したらもう手遅れになると思ったから」アランが声の調子を低くするときは、それが不安の表れであるということを、希佐は知っている。「俺にとっての指輪というものは、多分、世の中の人が考える指輪の意味合いとは、まるで違う感覚なんだ。ただのアクセサリーじゃない。指輪は俺の生きる希望だった。自分は間違いなく愛されていたのだという証明だった。特別だったんだよ、真実を知るまでは」

 アラン・ジンデルが施設で暮らしていた五年間、それ以降の日々でも、あの指輪は傍にあり続けた。自分と、自分を手放した親との、唯一の繋がりだと信じて。その指輪は一時、希佐の傍でもキラキラと輝いていた。だが今は、本物の持ち主の小指で、本来の輝きを取り戻している。

「一度は指輪を贈っておいて、あんなふうに取り返しておきながら、また別の指輪を贈るなんて、おこがましいことだとも思った。でも、昨日キサが、自分がいなくなったあとも、自分のことを思い出してほしいと言ったのを聞いて、あのピアノと同じだけの重さがあるものはなんだろうと考えたとき、これ以外に思いつかなかったんだ」

 アランがそうして話していると、カウンターの奥にある扉からオーナーが戻ってきた。ビロード張りのトレイを手に持ち、その上に幾つかの指輪を乗せて、二人のすぐ隣までやってくる。

「君はたくさんの意味あるものを俺に残していこうとする。でも、そんなことをしなくても、俺は君を忘れたりしない。忘れられるはずがない。後にも先にも、君を思うように愛せる人はいないだろうから」

 どうして、こんなふうに真っ直ぐな言葉を何の恥ずかしげもなく、何の臆面もなく口にできる人なのに、ほんの些細なあの一言だけは、口にすることができないのだろう。三年前よりもずっと饒舌に、雄弁にものを語るようになったその唇は、いつだって、最も聞きたい言葉を囁いてはくれない。

「せめて、君が俺の隣にいてくれる間だけは、俺を君のものだと思わせてほしい」この人の、この縋るような目に、希佐は弱かった。「君が帰りたい場所に帰ったあとも、俺が君から贈られたピアノの音色を奏で続けるかぎり、君にも俺のことを覚えていてほしい」

 この身に降りかかった呪いは、どうすれば解くことができるのだろう。

 この幸せな時間が長く続くことはないのだと、誰かが耳元で囁いているような気がする。長く一所に留まっていると、何者かが手招き、背中を押す。次の場所へ向かえというふうに。いつも誰かに呼ばれているような気がするのだ。こちらへ来いと。

「キサ」

「……うん」

 これできっとお相子だ。

 お互いに納得が出来ずとも、お互いを受け入れることはできるから。

 大きく息を吐き出したあと、希佐は自らの右手をそっと差し出した。すると、アランは濃紺のビロードの上に転がる指輪の一つを、何の迷いもなく取り上げる。壊れ物を扱うように優しく触れられた右手の薬指に、至ってシンプルな銀色の指輪が、ぴったりと収まった。

「結婚の誓いに、死が二人を分つまでという文言があるけれど」すべてを見届けていたオーナーが、どこか悲しそうに微笑みながら言った。「君たちはまるで、その後の約束を交わしているようだね。死が二人を分つとき、ようやく結ばれるのかな。道ならぬ恋でもしているの? 他に結婚を誓った相手でもいるとか?」

「差し出口だ」

「ごめん、ごめん」オーナーは冗談っぽく笑いながらそう言うと、希佐の手を取り、手の平の上に何かを乗せた。「その指輪は、見た目はシンブルだけれど、プラチナとゴールドを掛け合わせた、ピトーと呼ばれる素材で作られているんだ」

「あ、あの……」

「お金の心配ならいらないよ。彼が自分で払うのだからね」オーナーはそう言いながら、希佐に向かってにっこりと笑いかけた。「私が作るジュエリーはすべて対になっているんだ。お客様には必ず揃いで購入してもらう決まりでね。例外はない」

 見た目よりも重たく感じられる指輪を手に取り、希佐はそれを一度、自らの親指に通した。それでもまだ少し余裕がある。

「Mr.ジンデル」

 希佐がそう呼びかけながら顔を上げると、アランは言葉には言い表し難い表情を浮かべながら、すっと左手を差し出してきた。それを見て、希佐は小さく笑う。

「酷い人」

「なんとでも言えばいい」でも、とアランは続ける。「君ほどじゃない」

 昨日の夜からずっと考えている。遅かれ早かれ訪れるであろうあなたとの別れのとき、最後にどのような言葉を贈ろうか──そんなことを言ったら、この人は一体どういう顔をするのだろうと、希佐は思った。

 右手と、左手の薬指。

 互いの聞き手を封じるように手を結べば、ぴたりと寄り添い合うピトーの指輪は、二人の不器用さを象徴するもののようにも思えた。

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