ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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共犯者

 家を空けがちな父親に、教育熱心な母。

 物心がつく前から、あなたはお父さんのようにはならないでねと、毎日毎日、念を押すように、呪いの言葉を与えられ続けてきた。

 父との会話はほとんどなく、珍しく家にいるかと思えば、書斎から一歩も出て来ずに、朝から晩まで机に向かっている。夜、寝る前にこっそり盗み見た背中と、朝、目が覚めてこっそり盗み見た背中は、まるで同じ形をしていた。

 この世界のすべてが、がらりと色を変えたのは、六歳の誕生日だ。

 春休み前の平日、ランドセルを背負って学校に行こうとした根地黒門の背中を、父は静かに呼び止めた。その日は学校へは行かず、父が演出家として所属していた劇団のこけらおとし公演に連れて行かれ、黒門は新しい世界を知った。

 舞台というものの何と素晴らしいこと。

 じりじりと肌を焦がすような熱を帯びるスポットライトの眩しさと、舞台の隅に転がる闇の凍えるような冷たさとの落差に、大きく胸が高鳴ったことを、昨日のことのように覚えている。

 舞台の真ん中に一人の女優が現れると、客席に座る全員が息を呑み、その人に釘付けになるのが、幼いながらにもよく分かった。煌びやかな衣装に、洗練された所作。この世界に溢れ返る言葉の中から選び抜かれた台詞を語り、玲瓏な声で歌い上げるその姿は、女神そのものだった。

「あら、随分と愛らしいお客様だこと」

 公演が終わり、父に連れられて楽屋に向かうと、その女優が黒門に目を留め、こぼれ落ちるのではないかと思うほど大きな青黒い目を細めて、そう言った。その人が椅子から立ち上がり、すぐ側にまでやってくると、甘いヴァニラの匂いが香った。

「ああ、この子が先生の」女優は酷く意味深な眼差しで父を見やってから、衣装が汚れることも厭わずにその場で膝を折り、黒門と視線を合わせた。「こんにちは」

「こ、こんにちは……」

「お母様似なのかしら。先生とはあまり似ていらっしゃらないのね」

 思わず父の後ろに隠れる黒門を見て、女優は少しだけ驚いて見せたあと、真っ赤な紅を引いた口元を隠しながら、くすくすと笑った。

「本当に愛らしいわ。ねえ、ボク? 私と一緒に舞台に立ってみない?」

「僕が、舞台に……?」

「きっと楽しいわよ」

 女優は一見すると気さくで、気立ても良く、誰に対しても分け隔てのない人物のように見えた。華のある人で、誰からも好かれていたが、どこか人とは違う、ミステリアスなところがあったように思う。

 とりわけ、父を見る目に特別な違和感を覚えていたが、その真の正体に気づいたのは、物心をついたずっと後、父が海に身を投げて命を落とした、その後になってからのことだった。

 あれが色目というものなのだと。女が男を誘う、酷く妖艶で魅力的な、吐き気を催すほど汚らしく穢らわしい、本能の眼差しなのだと。

 あの女優が父の才能の海を干上がらせたのだ。

 あの女優の美しさ、愛らしさ、醜さ、狡賢さ、素直さ、純粋さ──そのすべての素養が、黒門の父を追い詰め、苦しめ、貶めた。

 要は、恋をしてしまったのだ。妻子ある身でありながら、妻とは別の女性に。

 誑かされたと表現すべきなのだろうか。もしかしたら、女優にはそんな気など一切なく、ただ単に、父が勘違いをしていただけなのかもしれない。もしくは、あの女優は当初から、父を踏み台としてしか考えておらず、利用するだけ利用して、ただ走り書きをしただけの用をなさないメモ書きのように、捨て去るつもりだったのかもしれない。

 実際、あの女優が本当に父の愛人だったのかどうか、確かなことは何も分からないのだ。だが、当時の母の苛立ちを思い返してみると、そう考えて然るべきなのだろうとは思っていた。しかしながら、身内や親しい友人、劇団仲間たちだけで行われた小ぢんまりとした父の葬儀に、女優が姿を現すことはついぞなかった。それは、あの女優にとっての父の存在など、ただの足掛かりでしかなかったという証明となった。

 あの女優は今や、舞台のみならず、テレビドラマや銀幕の世界にも進出し、栄華を極めている。自らが手掛ける舞台の主演女優として重用し、自身を今の地位まで押し上げたかつての演出家の存在など、あの女優にとってはもはや過去のことでしかないのだ。ましてや、その息子の存在など、記憶の片隅にも留めていないに違いない。

 だが、根地黒門はあの女優のせいで、女性を恐れるようになった。

 あんなにも才能豊かで、舞台以外は瑣末なことと考えているような父から、あの女優はすべてを奪っていった。物語を思い描く脚本家としての文才も、描いた脚本を舞台上に形成する演出家としての能力も、父は次第に失くしていった。

 黒門は、父親の血と、才能を色濃く受け付いている。だからこそ、同じ道を進まざるを得なかった。それ以外の道を考えることはできなかった。父のような舞台人になりたいと、そう強く思っていた。

 しかし、同時に恐ろしくもあったのだ。

 もし、父のような恋をしてしまったら。一人の女性を心の底から愛してしまったとしたら。自分も父のように、すべてを失ってしまうのではないかと思うと、恐ろしくてたまらない。

 父がそうであったように、自分には舞台しかないのだと、黒門はそう強く思っている。だからこそ、父の気持ちがよく分かるのだ。

 才能の枯渇は黒門に致命傷を与えるだろう。脚本を書くことも、演出をすることもできなくなった根地黒門には、何の価値もないのだ。自暴自棄になり、生きることが苦痛になり、最終的には、自死の道を選ぶ。

 行き着く先は、あの、美しいばかりの海だ。

『立花くん。僕はねぇ、女性が怖いんだ』かつての自分の言葉が、黒門の脳裏に蘇ってくる。『僕にとって女性は、極力避けたい存在なんだ』

 立花希佐を女性だと認識した瞬間、あの海から玉阪に帰る電車の中で口走った言葉を、黒門は思い出していた。

 あの頃は、立花希佐を男性だと認識していたのか、それとも、深層心理の奥底では女性と認識していながらも、気づかないふりをしていたのかは、正直なところ定かではない。だがしかし、あの後輩に心を許していたことは、否定しようのない事実だった。差し入れを持参で作業部屋を訪ねてきては、黒門の体調を気遣い、懐いてきてくれる可愛い後輩に、少しずつでも信頼を寄せていくことは、何ら不思議なことではないはずだ。

 そう何度も、何度も、自らに言い聞かせてきた。そう、決して、不思議なことなどではないのだと。

 だが、校長の口から立花希佐が女性であると告げられたとき、黒門は少しも驚かなかった。それどころか、校長室に集められた知己たちは、全員が真実を知っていたというふうな神妙な面持ちで、互いに顔を見合わせることもせず、ただじっと、口を噤んだまま立ち尽くしていた。

 そうなのだろうという気はしていた。それでも、誰も進んで真実を確かめようとはしなかった。立花希佐は立花希佐であり、それ以上でも以下でもない。自分が口を噤んでいれば良いだけのことだ。周りが気づいていようと、気づいていまいと、それぞれが沈黙を守り続けていれば、互いに知らなかったと言い訳をすることができるのだから。

 ユニヴェールの最終学年、冬公演、オー・ラマ・ハヴェンナ。

 自らが女性であることを隠し、完璧な少年を演じ続けることでユニヴェールに在籍することを許されていた少女に、黒門は、女を演じるように強要した。もし女であることが露見すれば、もうユニヴェールにはいられなくなる。だがしかし、女を演じることができなければ、それが逆に不自然と捉えられ、疑念を持たれてしまうかもしれない。冬公演期間中、その本番直前まで、その葛藤と戦わせ続けていた。

 僕は何も知らなかったんだ──そんなふうに思ったことが、黒門にはあった。

 ユニヴェール歌劇学校は、男性だけの歌劇の世界の、その入り口となる場所だ。女性を恐れる自分にはうってつけの場所だと、黒門は思っていた。女性と出会うことなく、それでも男女の恋愛を描くことができる、最高の環境だと思った。そこに生身の女性は存在していない。それが大前提にあるはずだった。だからこそ、多少の疑念には目を瞑った。気のせいだろうと、そう思うことにした。あの《少年》の存在が、根地黒門には必要だったのだ。

 今でもときどき思い出している。新人公演のときは容易に演じられていた女を、なぜか演じることができなくなった立花希佐に痺れを切らし、即興劇を強いた日のことを。男である自分が《女》である立花希佐をこの腕の中に閉じ込め、怯える様子を尻目に、口付けを迫った日のことを。

 もしかしたら、いや、まさか、そんなはずはない──あの瞬間、疑念は確信へと変わりつつあった。しかしながら、その疑念を取り払うことも、真実を暴く日が訪れることもなかった。

 冬公演を終えるまでは、波風を立てない方がいい。それまでは黙っていよう。でも、冬公演が終わったら、白黒つける必要がある。クリスマスが最後の審判の日だ。

 だが、いつまで待っても、最後の審判の始まりを告げる、天使のラッパが鳴り響くことはなかった。あれだけ足繁く通っていたはずの黒門の作業部屋に、立花希佐はクリスマスを境に、ぱったりと現れなくなったのだ。まるで、自らの危機を察知したかのように、黒門に深く関わろうとはしなくなった。

 元来仲の良かった高科更文の隣は、さぞや居心地が良かったことだろう。

 勘の鋭いあの男は、入試の日から、立花希佐が女性であることに気づいていたという。それでも、黒門のようにその正体を暴こうなどとはせず、最終的には立花希佐のジャックエースとして、アルジャンヌを支え、導き、道を敷いてやっていた。

 本当に先輩の鏡だと思う。自分には出来ない芸当だ。

 女性がユニヴェールに足を踏み入れる。自分が当初からその事実を知り得ていたとしたら、何がなんでも校長を弾圧しただろう。玉阪座や、理事会を利用し、校長を追い詰め、校長共々立花希佐をユニヴェールから追放しようとしていたはずだ。

 それなのに、根地黒門はどういうわけか、あの才能を愛してしまった。

 唯一無二の、透明な光。

 あらゆる光を受けて七色に輝くクオーツ。

 その愛は、76期生が卒業したあとも変わることなく、あの稀有な才能に注がれ続けた。根地黒門は、78期生が最後のユニヴェール公演を迎えるまで、脚本の執筆に協力し続けた。助力や助言を請われれば、喜んでそれに応じた。すべては、立花希佐が舞台上で輝く姿を、間近で見届けるためだった。

 言うまでもなく、玉阪座は立花希佐を欲しがった。そもそも、ユニヴェール歌劇学校は玉阪座への登竜門であると同時に、才能を篩に掛ける場所でもある。多くの者はユニヴェールの先にある玉阪座を目指してやって来るものだ。故に、田中右宙為という好敵手がありながら、自らが在籍していた三年間の公演全てでクオーツをクラス優勝に導き続け、個人賞金賞の席を守り続けた立花希佐という絶対的な華を、玉阪座が欲しないはずがない。

 だが、立花希佐は、玉阪座からの誘いをいとも容易く蹴り飛ばしたという。誘いを受けたその場で、何の躊躇もなく、大変ありがたいお誘いではありますが、お断りいたします、と。玉阪座はすぐさま校長に掛け合ったが、それも無駄な労力に終わった。中座秋吏はどこまでも立花希佐の味方だった。

「当人が行きたくねぇって言ってるんだから、それを無理強いするのもなぁ」

 その点、立花希佐は弁えていたのだろう。十七、八の子供は騙せても、さすがに大人は騙せない。中性的だった体は少しずつ、女性へと変化していく頃合いだ。

 だから、逃げ出したのか。

 あれだけ責任感の強い人間が、たった一人きりで、何もかもを置き去りにして。良心の呵責に耐えかねて。残された人々のことを顧みる余裕すらなく。

 同情の余地はあった。自責の念に苦しめられていたのだろう、かわいそうにと、心を痛めたこともあった。遠い異国の地で、表現の道を諦めることができず、苦しみ、踠き、悶えながらも、舞台に立ち続けていることを、陰ながら応援もしていた。

 父と懇意にしていたフランス人の男性がいる。彼はカメラマンであり、写真家であり、映画監督であり、世界中に名の知れたアーティストだ。若い頃、世界中を旅していた父が、イギリスはロンドンにあるパブで偶然出会い、意気投合したのだという。父が亡くなった今も、息子の黒門を気遣い、非常によくしてくれていた。

 その名を、レオナール・ゴダン。

 斜陽の雲という初映画監督作品で、世界中のありとあらゆる映画賞を総なめにし、その名を世界に知らしめた人物だ。監督賞、脚本賞、作曲賞、作品賞──当時のアメリカ、イギリス、フランスでは、この作品を観に映画館へ出向かない映画愛好家はもぐりだと、そう言われるほどだったという。

 もちろん、根地黒門もこの作品を観に映画館まで出向いた。日本では先の三ヶ国よりも数ヶ月程度遅れての公開で、さほど話題にもならなかった上に、一部のマニアを熱狂させるばかりで、大した評価はされていない。恐らくは、日本人の感性には理解し難いテーマ性が原因で、ヒットには繋がらなかったのだろう。

 だが、黒門はこの映画を観終えたとき、座席から立ち上がることすらできなくなるほどに、酷く圧倒されていた。人目を憚ることなく、大号泣していた。清掃員のおばちゃんに追い出され、地元のこぢんまりとした映画館を出たときに観た夕日を、未だに覚えている。

 そんな映画を作ったレオナールが、何ヶ月か前に、添付ファイル付きのメッセージを送ってきた。

『素敵な映像が撮れたよ。セント・パンクラス駅を通り掛かったときに、偶然居合わせてね。君好みの子じゃないかな』

 その映像に映し出されていたのが、立花希佐だった。

 セント・パンクラス駅にあるストリートピアノの隣に立ち、伴奏に合わせて歌う立花希佐の姿を目の当たりにした瞬間の感情を言い表すとしたら、それは恐らく怒りに近い。その怒りのような感情を覚えることが、果たして正しいことなのかどうかは分からなかった。ただ、奇妙な苛立ちが沸々と湧き上がって、理不尽だという思いばかりが募っていく。他人の人生だ、好きに生きて何が悪いのだと思う傍らで、彼女は過去から解放されるべきではないのだと、そう思ってしまう自分もいることに、黒門は困惑していた。

 ピンポーン、と自宅の呼び鈴が鳴る。

「はいはーい」

 椅子に座り、机に向かってネタをまとめていた黒門は、持っていた鉛筆を手放して立ち上がった。ノートパソコンの刺々しい明かりしか頼りのない、暗がりの部屋の中を進み、玄関まで向かう。施錠し忘れていたドアを開けると、そこには白田美ツ騎が立っていた。

「やあやあ、ミッキー、いらっしゃい」

「いい加減その呼び方やめてくれません?」

「何を言ってるんだい。三十歳になっても四十歳になっても、何ならおじいちゃんになったって、ミッキーはミッキーだよ」

「あー、はいはい」

 玄関先で話し込んでいては近所迷惑になると考えたのか、はたまた、このままでは家に入るまでに無駄な時間を浪費するだけだと思ったのか、美ツ騎は大きくため息を吐くと、手に持っていた紙袋を差し出してきた。

「手土産はいらないと言ったのに」

「どうせ朝から何も食べていないんでしょう?」黒門が体を引いて場所を開けると、美ツ騎はドアに手を添えながら玄関に入ってきた。「買ってきたわけじゃないんで」

「もしかしてミッキーの手作り?」

「どうして僕が根地さんなんかのために夕食を作らなきゃいけないんですか」美ツ騎は僅かに身を屈め、革靴を脱ぎながら続ける。「現場にあったケータリングの残り物を適当に詰めてきただけです」

「ああ、道理で──」草食動物が食べそうなものばかりが入っていると言おうとして、黒門は美ツ騎の鋭い眼差しに気づき、寸前のところで口を噤んだ。「ありがとう、白田くん。とっても助かるよ。君の言う通り、実は朝から何も食べていなくてね」

 鍵は開けたままで構わないよと言って、黒門はその場で踵を返す。廊下の途中にある手狭なキッチンの前で足を止め、紙袋から取り出したプラスチックの容器を、そのまま小さな冷蔵庫の中に入れた。

「何か飲むかい?」

「何があるんです?」

「冷たいお水と、ビールと、あとは缶酎ハイくらいかな。牛乳もあるけど、随分前に賞味期限が切れてる」

「遠慮しておきます」美ツ騎は靴を玄関の隅に揃えて置き、靴下の裏を気にしながら歩いてきた。「世長か織巻が何か買ってくると思うので」

「彼ら、何時頃に来るって?」

「近くのコンビニまで来てるみたいですから、そろそろ来るんじゃないですか」

 まるで頻繁に顔を合わせているかのような口振りだが、こうして76期生、77期生、78期生のクオーツの主要メンバーが一所に集まるのは、本当に久しぶりのことだった。

 黒門は、高科更文や睦実介らと一緒に、年に五回行われるユニヴェールの公演を、ほぼ欠かすことなく観劇していた。だが、自分と直接関わりある後輩が卒業すると同時に、劇場から遠ざかる者は少なくない。ましてや、自分たちの仕事が忙しくなれば、後輩を見舞う時間を捻出することも難しくなる。玉阪座は、ユニヴェールで公演が行われる日、興行も稽古も休みになるので、非常に助かっていた。

「それにしても」廊下を抜けて、部屋の前に立った美ツ騎が、ため息まじりに口を開く。「相変わらず殺風景な部屋ですね」

「ここへは時々寝に帰ってくるだけだからね」

 黒門は十二畳のワンルームに住んでいる。ユニヴェールを卒業して初めて借りたアパートを引き払い、このマンションへ越してきたのは二年ほど前のことだ。

 引っ越しをする際、管理会社の不手際で入居が一週間先延ばしとなったため、山のようにあった荷物を一旦玉阪座の作業部屋に避難させたのだが、その荷物は未だ、あの部屋の中にあった。そもそも、荷物というのはほとんどが書物の類だったので、その方が好都合ではあったのだ。

 作業部屋に必要なものがすべて揃っているのであれば、自宅に帰る必要はない。仮眠ならば、作業部屋に持ち込んだ寝袋で事足りる。だから、この家に帰ってくることは、月に一、二度程度しかなかった。やれ作業部屋を片付けろ、やれ住み着いていないで家に帰れと散々言われているが、帰宅に使う時間が勿体ないからという理由で、耳に蓋をして聞こえないふりを貫いている。

「もう子供じゃないんですから、周りの人に迷惑を掛けるのはよしたらどうです?」

「僕の生活力は普通の人よりも極端に劣っているからねぇ。あれこれ世話を焼いてもらわないと、真っ当には生きていけないのかもしれない」

「根地さんのそういうだらしないところ、さっさと治した方が身のためだと思いますけど。いい加減、自力で生きていけるようにならないと、そのうち痛い目を見ますよ」

「今日の白田くんは妙に手厳しいなぁ」

「実際器用な人なのに、なんで自分のこととなると、途端に不器用になるんだか」

「案外、どうでもいいと思っているのかもしれないよ、自分自身のことなんてさ」

「根地さんは、自分の才能に感謝した方がいいですよ、本当に。普通なら許されないことも、その才能のおかげで目を瞑ってもらってるんだって、ちゃんと分かってるんですか?」

「それはもちろん、肝に銘じているよ。才能をなくした僕なんて、きっと穀潰し以下の存在だろうからね」

「さすがに、そこまでは言いませんけど……」

「ちゃんと考えていることはあるんだ。まあ、そのためには、白田くんが言うところの、自力で生きていくっていうのを、実行に移さなきゃいけないのだけれど」

 黒門は、この後輩の歯に衣着せぬ物言いが好きだった。相手の機嫌や、顔色を窺うことなく、思っていることを正直に、真っ直ぐに伝えてくれる。今も、昔も、それは変わらない。

 再び、ピンポーン、と呼び鈴が鳴った。

 美ツ騎を部屋に残し、黒門が玄関まで出て行ってドアを開けると、まるで真昼の太陽のような笑顔が目に飛び込んでくる。

「根地先輩!」織巻寿々は相変わらずの元気の良さだ。「おはようございます!」

「ちょっと、スズくん。ご近所迷惑になるから、もう少し小さな声で……」その隣に立っている世長創司郎は、静かにしろというふうに、唇に指を立てていた。「お久しぶりです、根地先輩」

「やあ、二人とも。よく来たね、元気だったかい?」

「先日のユニヴェール公演は、ご一緒することが出来なくて、本当にすみませんでした。せっかく誘っていただいたのに」

「いやいや、いいんだよ。二人とも忙しくしているんだろう?」

 こんなところで立ち話もなんだから入ってと言い、二人を家の中に入れたあと、黒門はその後ろに立っていた大男のことを見上げた。

「ほら、カイも中に入って」

「ああ」

「カイさんとはここの下で一緒になったんですよ」

 少し薄汚れたスニーカーを脱ぎながら織巻が言う。美ツ騎と同様、脱いだ靴はきっちりと揃えて端に寄せ、あとが閊えないように廊下の奥へと歩いていった。

「あっ、白田先輩! おはようございま──」

「うるさい、馬鹿」

 そうして一蹴されている声を聞き、世長は苦笑いを浮かべながら、織巻のあとに続いて部屋に入っていく。介は稽古後にシャワーを浴びてからやって来たのか、まだ春先で肌寒いというのに、濡髪のままだ。

「フミはなんて?」

「今日はこのまま実家に帰るから行けないと言っていた」

「おやおや。まさか、あのフミに実家を言い訳にされる日が来るとはね」

「この週末は、前々から甥と姪に稽古をつける約束をしていたらしい」

「へえ」

 高科の一族は、ここ何代かは男性が家督を継いでいる。日本舞踊の家元であるにも関わらず、男性が高科二千奥の名を受け継いできたのは、本家に女性が生まれなかったからだという噂を、黒門は耳にしたことがあった。

 しかしながら、高科の舞は今や、男性であればこその美しさが売りとなっている。他の日本舞踊にはない、男性が舞う女形ならではの艶やかさを評価されている高科家に、念願の女が生まれたのだ。伝統からの革新を経て、再び伝統に戻るべきか否か、本家は揺れに揺れているのかもしれない。

 十二畳の部屋は、一人二人ならば十分な広さに思えるものだが、大の男が五人も集まると、多少手狭に感じられる。とりあえず、美ツ騎と世長をベッドに座らせ、大男たちには収納に押し込まれていたクッションを押し付けて、床に座っていてもらうことにした。

「鳳くんにも声を掛けてはみたんですけど、やっぱりお家の仕事が忙しいみたいで」

「彼も元気にしてるのかい?」

「はい、元気です。年に何回か同期会をするんですけど、文句を言いながらも進んで幹事を引き受けてくれるので、僕もスズくんもすごく助かっていて」

「うんうん、いいよねぇ、同期会」

「76期生も集まったりしてるんですか?」

「もちろんだとも。76期は寮の垣根を超えて集まることがほとんどなんだけど、いつも海堂が幹事をやってくれる上に、ヴィルチッタ絢浜のレストランを貸し切ってくれるものだから、それはもう毎度豪勢なものでね」

「うわあ、すげぇ」

「君たちも次回の同期会の際には海堂に相談してみたらどうかな。格安で請け負ってくれること間違いなしだよ」

「いや、でも、さすがに海堂グループの次期社長にお願いできることでは……それに、海堂先輩の連絡先なんて、僕たちは存じ上げませんし……」世長はそう言って困ったように笑いながら、隣に座っている美ツ騎に声を掛けた。「77期も同期会をされたりするんですか?」

「たまにね」美ツ騎はそう言いながら小さく肩をすくめる。「菅知や御法川とは情報交換を兼ねた食事に行ったりするよ」

「御法川先輩って今は何をされているんですか?」

「子供向けのミュゥスクの講師をしながら、劇団に所属して舞台にも立ってる。今度公演があるって言ってたから、観に行ってやったら喜ぶんじゃない」

 黒門は後輩たちの話に耳を傾けながら、ノートパソコンとテレビ画面とをケーブルで繋ぎ合わせる作業に取り掛かった。今日は何も、それぞれの現状を報告し合うために、こうして集まったわけではない。

 テレビに差し込んだケーブルを、窓際にある机まで引っ張ってくると、黒門はその反対側をパソコンに差し込み、設定を整えていった。

「そうだ」その様子を横目に見ていた織巻が、思い出したように声を上げる。「世長と二人でコンビニに寄って、いろいろと買い込んできたんです。飲み物とか、軽くつまめるものとか」

「お茶はある?」

「白田先輩には無糖の紅茶を買ってきました」ビニール袋から取り出したペットボトルを、織巻は美ツ騎に手渡している。「カイさんは何飲みます?」

「俺の分も買ってきてくれたのか?」

「それはもちろん」

「ありがとう」

 テーブルに並べられた飲み物の中から、介はお茶を手に取った。そして、すぐさまコートのポケットから財布を取り出し、律儀にも飲み物代を支払おうとする。その姿を目の当たりにした二つ下の後輩たちは、慌てた様子で頭を振った。

「だ、大丈夫です、カイさん。学生の頃に散々ご馳走になったんですから、これくらいは僕たちに払わせてください」

「いや、だが──」

「後輩たちも立派に稼げるようになったってことだよ、カイ。ここは素直に喜んで、ご馳走になろうじゃないか」

「……そうか」介は手にしたペットボトルをどこか嬉しそうに見下ろしてから、世長と織巻に目を向けた。「では、お言葉に甘えてご馳走になる」

 厳密に言えば、ユニヴェール生は学生の時分から公演の出演料を得ているが、何でも好きなものを好きなように買えるほどの収入があるわけではない。卒業後すぐに玉阪座に入門した自分たちとは違い、外部に就職をした二人が不自由ない暮らしを送れるようになったのは、恐らくここ数年のことだろう。

「実は──」立花希佐がクオーツの寮室から失踪したその数日後、相談があると連絡を受けて会いに行ってみると、世長は神妙な顔をして口を開いた。「玉阪座から入門のお話が来ているんです」

 それに対する黒門の返事は「まあ、そうだろうね」という、なんとも淡白なものだった。別段驚きはしなかったからだ。むしろ、当然のことだと思っていた。

「君の最終公演での演技は、玉阪座の決定を覆すほどの名演だった、ということじゃないかな」

「でも……」

「立花くんのことを気にしているの? それとも、織巻くんのこと?」

「……両方です」

「そうか」黒門は世長のばつが悪そうな面持ちを眺めながら、小さく頷いた。「まず最初に言っておこう。君が勘違いをしないようにね」

「勘違い、ですか?」

「君は織巻くんより優れているわけではないし、織巻くんが君より劣っているということもない。これは向き不向きの問題だ。君は玉阪座に向いている。玉阪座に入門しても、君は上手くやっていけるだろう。むしろ、よく馴染むと思うよ。でも、織巻くんはそうじゃない。彼は玉阪座には向かないタイプだ。彼の場合はもっと別の、自由度の高い劇団や、そうだね、どこかの芸能事務所にでも所属して、より開かれた場所で活動を続けて行った方が、成功を掴めると思う」

 玉阪座の上の人間も、そう考えたからこそ、織巻くんを玉阪座に誘わなかったのだと思うよ──そう言う黒門を、世長は黙って見つめていた。

「それからね、世長くん。もし自分が立花くんの代わりに、玉阪座のお歴々に選ばれたと思っているのだとしたら──」まあ、百万が一にもそんなことはないと思うけれど、と黒門は続ける。「でももし、君がそう思っているのだとしたら、お門違いにもほどがあるということだけは、言わせてほしい」

「分かっています……」

「そうか、差し出がましいことを言って申し訳なかったね」

「いえ、いいんです」

 今になっても、あのときの世長は自分に何と言ってほしかったのだろうかと、そう考えることが黒門にはあった。君なら絶対に大丈夫だから、僕たちが待っている玉阪座においでと、そう言ってほしかったのだろうか。カイやフミなら、なんて言葉を掛けたのだろう。

 だがしかし、もう十分に言葉は尽くしたはずだと、黒門は思った。

 君なら上手くやっていけるという言葉は、お世辞でもなんでもない。

 本来、玉阪座という劇団は、ユニヴェールでいうところの、アンバーを深く煮詰めたような空気感のある場所だ。あのカクリヨ島で覚醒し、ハヴェンナに誰よりも早く馴染んだ世長創司郎ならば、ある程度の高みにまでなら上り詰められたことだろう。

 結局のところ、世長はこの誘いを蹴った。

 江西録朗は、かつて睦実介相手にもそうしたように説得を試みたらしいが、世長は頑として首を縦には振らなかったそうだ。

 自分の頭で考えて決めたことなら、それに従うべきだと黒門は思う。

 だがもし、黒門の言葉が心を抉り、その道を諦めたのだとしたら、あの程度の言葉で尻込みをする人間は、玉阪座でやってはいけない。

 おそらく、真実がどのようなものであろうと、世長自身がどのように理解していようと、玉阪座の人間も、それ以外の者たちも、同じことを考えるだろう。世長創司郎は、立花希佐の代わりに、玉阪座に入門することを許されたのだと。立花希佐の代わりという重圧に耐えられないと判断し、玉阪座に入門することを辞退したのなら、それはそれで賢明だった。

 今となっては、世長は日本でも屈指の有名な劇団に所属し、若手の中でも有望株としてその名が知られはじめている。織巻は映画やドラマの出演が途切れることなく続いているようだ。白田美ツ騎は何枚目かになるアルバムを鋭意作成中だという。

 それぞれが、それぞれの方法で、前を向いて歩きはじめている。

 きっと、たった一人を除いては。

「今日は、見せたいものがあるから集まってほしいって話でしたけど」テーブルの上に各種スナックの袋を広げながら、織巻が口を開いた。「根地先輩が俺たちに見せたいものって、何なんすか?」

「とある公演映像だよ」

 テレビの電源をつけ、リモコンでチャンネルを合わせれば、すぐにも映像を出すことができる。その段階までセッティングを終えた状態で、黒門は答えた。

「君たちは魔物のエクスって覚えているかい?」

「それって外国の舞台脚本ですよね。一年生の頃に、その脚本を日本語に翻訳する課題をやったことがあります」

「そうそう。ユニヴェールの一年生は、まず手始めに、あの脚本を翻訳させられるんだよね。子供向けの絵本が原作の舞台脚本だから、言葉が易しいし、物語としても面白い。ただ、あの絵本は既に絶版になっているから、手に入れることが難しいんだ。舞台脚本の原本も手に入りにくいから、ユニヴェールでは持ち出し厳禁図書に指定されている」

「その魔物のエクスがどうしたっていうんですか?」

「僕は世界中の脚本家たちが集まるオンラインコミュニティーに参加しているんだけどね」自らの問いに真面目に答えようとしない黒門のことを、美ツ騎は睨むようにして見た。「話はここからだよ、ミッキー。ある日、そのオンラインコミュニティーで外国の脚本家たちと話をしていたら、以前フランス語の手紙を英訳する作業を手伝ってくれた人が、頼みごとがあると書き込んできたんだ。至急、魔物のエクスという脚本の原本がほしい、ってね。そこで僕は、少し時間をくれれば、確実に脚本を用意することができると申し出た。その人が見返りには何がほしいと聞いてきたから、僕は言ったんだ。君たちが魔物のエクスを演じた映像データと交換だって」

「……それを、今から見るんですか?」そう言った世長は、訝しげに眉を顰めていた。「一体なんのために?」

「実を言うと、僕もまだ通しで見てはいないんだけど、きっと楽しいと思うよ。そう長い映像ではないはずだから、これを見終えたら、みんなで積もる話でもしようじゃないか」

「コクト」受け取ったペットボトルの蓋を開けるでもなく、黙って話を聞いていた介が、不審そうな眼差しをこちらに向けていた。「何を考えている?」

「そんなに構えないでくれたまえよ。僕はただ、君たちと一緒にこれを見たいと思っただけなんだ。きっと関心があるだろうからね」

 この場に更文がいないことを、好都合だったと思うべきなのだろう。

 来月になったらイギリスに発つ。その前に、立花希佐の映像を見ておいた方がいいと言う黒門の助言を、更文は一切聞き入れようとはしなかった。更文がこの場にいれば、黒門の様子から何かを察し、気分を害して立ち去っていたかもしれない。

 連日のように、立花希佐が登場する動画を眺めては、ぎりぎりと奥歯を噛み締める自分が正しいのか、それとも、それらの動画を偶像と決めつけ、本物以外を目にするつもりはないと豪語する更文が正しいのか、おそらくは、これではっきりとするはずだ。

 ようやく、この胸の痞えが取れる──黒門はそう思いながら、テレビのリモコンの電源ボタンに、指先を乗せた。

 

 

 

 

 

 そこにいるのは間違いなく立花希佐だ。

 それなのに、まったくの別人に見えた。

『ほら、あれからもう丸五年も経つことだしさ、そろそろみんなで集まって、それぞれの思いの丈をぶち撒ける機会を設けた方がいいのではないかと、そう思ってね。僕たちには必要な時間だと思うよ。あの子は──この歳になって、あの子なんていうのはおかしいのかな。何せ、僕の中にいる立花くんは十八歳のときの姿のままだから、どうしてもね』それは全員がそうだと、白田美ツ騎は思う。『あの子は五年前に姿を消した。まあ、彼女のことだから、どこへ行こうと上手くやっているはずだ、器用な子だからね。でも、僕たちはどうだい? 僕たちの心の中には、大なり小なり、彼女の存在が住み着いている。追い出そうとしても出て行ってはくれない。立花希佐の失踪という事件は、当時の僕たちにはあまりに衝撃的過ぎた。あの事件が、五年後の今も、執念深く尾を引いている』

 根地の言う通り、立花希佐の失踪は当時のクオーツ生のみならず、そのOBたちにも衝撃を与えた。

 だが、今から思えば、立花希佐には常に危うさがあった。ユニヴェールに入学してから、最後のユニヴェール公演を終えるその瞬間まで、彼女の緊張の糸は終始張り詰めたままだったのだろう。

 その理由は、自身が女であることを隠すためだと、当初は思っていた。

 だが実際は、自分の最大の秘密が露見したとき、その周りにいる人々が被るであろう被害の大きさを悟り、その事実に慄いて、たった一人、その恐怖を抱え込んでいたのではないかと、美ツ騎は思い直していた。

 オー・ラマ・ハヴェンナの舞台上でのことは、今でも昨日のことのように思い出すことができる。そこにいるのはチッチですらなかった。ユニヴェールの舞台の上で号泣する、かわいい後輩の姿が、ぽつねんと、そこにあった。

 立花希佐の周りにはいつだって大勢の人間がいて、その人間たちは常に、立花希佐の存在に救われていた。美ツ騎自身もその例に漏れない。

 立花希佐は女である。

 正直な話、それは白田美ツ騎にとって、酷く瑣末な問題だった。

 だからどうしたと一蹴できる問題でないことは理解している。だがしかし、ユニヴェールに女性の入学が適った時点で、それが大いなる権力の手引きによるものだということは、疑いようのない事実なのだ。

 美ツ騎は平穏と自立のために家を出て、ユニヴェールという安寧の地にたどり着いた。そこは美ツ騎にとって居心地の良い場所だった。無駄に互いを詮索し合うことのない、才能で他者を黙らせることのできる、実力主義の世界。自分の才能の確かさを知ると同時に、上には上が存在している現実を思い知らされた。

 誰の世話にもならず、自分一人の力で生きていくことができるように、自らの能力に慢心せず、美ツ騎は自身の才能を磨き続けていた。

 ユニヴェールに入学して約二ヶ月後に行われた新人公演の結果、クオーツはクラス優勝を逃した。そのときの、二、三年生が見るからに意気消沈している姿は、新入生を萎縮させるには十分過ぎるものだった。そして、新人公演に続き、夏公演でも、秋公演でも、クオーツはクラス優勝を逃し続けていった。

 美ツ騎は、クラス優勝を目指しながらも、不協和音を奏でている先輩たちの姿を眺めていると、奇妙にも居た堪れない気持ちになったことを覚えている。

 去年までは、当然のように独占し続けていたクラス優勝。それを連続で逃し続けたことに対する責任を、たった一人の生徒に押し付けるような空気感が、とにかく異常だと思った。それなのにもかかわらず、再びクラス優勝の栄華に返り咲くためには、その生徒一人に頼らざるを得ないその状況を、どうかしていると、美ツ騎はそう強く思っていたのだ。

 立花継希が抜けたあとの、腑抜けのクオーツ時代。

 長く暗いトンネルの中に入り、見えない出口に向かって歩き続けていると、愚痴の一つや二つ、誰でもこぼしたくはなるだろう。だが、彼らが口にする言葉は、決まって同じだった。

「継希さんがいてくれたら」

 もうここにはいない立花継希が、この腑抜けたクオーツを救ってくれるとでも思っているのだろうか。だとしたら救いようのない本物の馬鹿だと美ツ騎は思う。むしろ幻滅されるとは思わないのか。この現状を恥ずかしいとは思わないのか。悔しさは覚えないのか。

 一人、また一人と、同期たちがユニヴェールを去っていく中、美ツ騎は大した情熱もないまま、前進も、後退もせず、ただその場に留まり続けていた。他に行く当てなど、どこにもなかったからだ。ここにいるより他にない。そして、ここに留まることを選んだからには、自らを磨き続ける義務が生じると、そう考えていた。

 ユニヴェール歌劇学校は、才能も、能力もない人間が、のうのうと居座っていられるほど、お気楽な場所ではないのだから。

「白田美ツ騎くん、よね?」中庭の木陰に腰を下ろし、クオーツのトレゾールとして夏公演で歌唱する歌の稽古をしているとき、不意に声を掛けられたことがあった。「私、忍成司。ロードナイトの二年生よ」

「知っています」美ツ騎は開いていた楽譜を閉じ、ベンチから立ち上がる。「ロードナイトのトレゾールが、こんなところで何をしているんですか」

「もちろん、あなたを探していたの」

 長く伸ばした髪をふんわりと下ろし、穏やかな微笑を浮かべながら、忍成司はこちらに歩み寄ってくる。そして、美ツ騎の体を上から下まで舐めるように見ると、そのままゆっくりと頷いた。その眼差しは一見すると酷く不躾なものだったが、不思議と不快感は覚えなかった。

「やっぱりいいわねぇ、あなた」忍成はそう言うと、美ツ騎の顔を見つめたまま、うっとりと目を細めた。「どうしてあなたみたいに愛らしくて素敵な歌声の子が、ロードナイトではなくてクオーツに連れて行かれてしまったのかしら」

「適性の問題だと思いますけど」

「適性?」

「僕はロードナイトらしくない」

「まあ」忍成は、少しだけ驚いた様子でそう漏らしてから、くすくすと笑った。「確かにそうね、あなたはロードナイトらしくはないのかもしれない。でも、かといって今のクオーツに向いているかといえば、そうとも言えないのではないかしら」

「何が言いたいんですか?」

「あなた、ロードナイトに転科しない?」

「……はい?」

「あなたのそれ、宝の持ち腐れよ? 今のクオーツには勿体無い逸材だわ。ロードナイトに来れば、あなたは自分の才能を十二分に発揮することができる。それどころか、私とダブルトレゾール体制を組めば、クラス優勝、個人賞金賞も夢ではない」

 忍成はこの頃から、美ツ騎をロードナイトに転科させようと、あの手この手を使って説得を試みていた。美ツ騎は、自らが振り分けられたクオーツに特別な愛着があるわけではなかったが、他のクラスに転科するほどの情熱や熱意も、当時から持ち合わせてはいなかった。

「うちの歌姫に手を出すとは、良い度胸じゃねぇか」

 美ツ騎はまさか、自分が他寮の生徒から転科の誘いを受けることになるとは思ってもおらず、柄にもなく言葉を失い、その場に呆然と立ち尽くしてしまっていた。するとそこへ、偶然中庭を通り掛かったらしい高科更文が、不機嫌そうに割って入ってきたのだ。

「あら、フミじゃないの」

「やらねぇぞ、クオーツのトレゾールは」

「どうして?」忍成は更文を真っ直ぐに見つめ、その目を細めた。「あなただって私と同じように思っているはずよ。この子の歌声は、今のクオーツには勿体無いって」

「勿体無い?」

「ええ、勿体無いわ」

「馬鹿言うな」更文はそう言うと、美ツ騎の肩を力強く掴み、自らの方に引き寄せる。「クオーツの歌を任せられるのは、こいつだけだ。俺の舞に見合う歌を歌えるのもな。今年のロードナイトが不作だったからって、他寮の生徒に手ぇ出してるんじゃねぇよ」

「そういえば、あなたはまたパートナーを変えたんですって?」

「だったらなんだ」

「随分と尻軽なアルジャンヌだと思っただけよ」

「ああ?」

「まあ、怖い」

 暴れ馬と呼ばれていた頃の更文は、今とは比べられないほど気性が荒く、口も悪くて、当時の三年生ですら、気安く口を利けるような状態ではなかった。

 それなのに、美ツ騎が練習室や廊下の外れ、屋上や、今のように中庭の木陰で歌唱の自主稽古をしている姿を見かけると、その場で足を止め、聞き入るような様子を見せる。ときどき稽古終わりに声を掛けてくることや、飲み物を差し入れてくれることもあった。

「かわいそうな人」忍成は静かな声でそう言い、更文から美ツ騎に視線を戻した。「いいわ、今日のところは大人しく引き上げてあげる。でも、私はあなたを諦めたわけではないから」

 またね、美ツ騎──そう言って美しく微笑を浮かべた忍成は、最後に更文に向かって挑発するような眼差しを投げかけ、その場から立ち去って行った。

 更文はその後ろ姿を見送りながら、苛立たしそうに頭を掻いていたが、そのむっとした表情をこちらに向けると、物言いたげな眼差しで美ツ騎を睨んだ。

「お前ももっとはっきり断ったらどうなんだ?」

「えっ?」これは完全なる不可抗力であって、睨まれる謂れはないと、美ツ騎は思った。「僕が断る前に高科先輩が横から口を挟んできただけだと思うんですけど」

「は?」

「……すみません」

 理不尽だと思いながらも謝罪の言葉を口にする美ツ騎を見て、更文は頬の筋肉を僅かに引き攣らせたあと、何かを言おうと口を開きかけた。だがしかし、大きくため息を吐いたかと思うと、ゆっくりと頭を振り、その口を噤んでしまう。

「なんですか?」美ツ騎は思わず眉を顰めた。「言いかけた言葉を目の前で飲み込まれると、気分が悪いんですけど」

「ツカサの言い分にも一理あると思っただけだよ」

「高科先輩が尻軽のアルジャンヌって話ですか?」

「お前なぁ」至って真面目な面持ちで言う美ツ騎に、更文は矢で射抜くような鋭い眼差しを向けた。「今のクオーツにお前は勿体無いって話の方だ」

 美ツ騎の目にはこのとき、更文の横顔が、どこか寂しそうに見えていた。

 しかし、だからと言ってこの人の稽古場での傍若無人な振る舞いには、正直なところ嫌気が差していたので、優しい言葉をかけてやろうとは、微塵も思ったりはしなかった。

「そうですね」美ツ騎は当然のように頷いた。「僕の歌は、今のクオーツには分不相応だと思います。正直な話、ロードナイトに転科した方が、自由に伸び伸びと歌わせてもらえるんじゃないかと思いました」

「まあ、お前ならロードナイトの二番手くらいにはなれるだろうな」

「あの人は別格ですから」

「それで、あいつがユニヴェールを卒業したら、今度はお前の時代がやってくる」更文はそう言うと、ふん、と鼻で笑った。「お前はロードナイトを託されて、多分、俺なんかよりもずっと上手く、仲間を引っ張っていけるようになるんだろうよ」

「……高科先輩」

「俺はな、ミツ」更文はそう言うと、美ツ騎が先程まで腰を下ろしていた場所に座り、ちらちらと揺れる木漏れ日の頭上を見上げた。「継希さんからクオーツを任されたんだ」

 美ツ騎はもう、その名前を聞くことに、半ばうんざりしはじめていた。

 稽古場で何か上手くいかないことがあると、継希さん、継希さん、継希さん──他の寮の生徒たちですら、クオーツは立花継希のおかげでクラス優勝を獲得していただけなのだと、嘲笑まじりに話している。

 今のクオーツの面子をかろうじて保ってくれているのは、この、クオーツの雰囲気をどうしようもなく掻き乱している張本人、高科更文その人だ。新人公演は胸を張れるような成績ではなかったが、この人が舞台上に現れたその一瞬だけは間違いなく、クラス優勝級の輝きがあった。

 自分たちが、この人の足を引っ張っているのだという自覚が、当時のクオーツ生には欠落していた。

「よし、やってやるぞって、最初はそんなふうに思ってた。でもさ、新人公演ではクラス優勝を逃しただろ? まあ、あれは、俺たち上級生の責任だから、お前たちが気に止む必要はまったくねーんだけど」

 更文はそう言いながら、自分の隣をつんつんと指先で指し示す。どうやら隣りに座れということらしい。美ツ騎は敢えて逆らうこともないだろうと、黙って隣りに腰を下ろした。

「継希さんがいた頃は、毎日の稽古が楽しくてたまらなかったよ。クラスの雰囲気も良くてさ、苦しいだとか、つらいだとか、そんな弱音を吐くやつは誰一人としていなかった。継希さんの周りには自然と人が集まってきて、何か問題ごとが起きたとしても、あの人を通せば、なんでも円滑に解決されてた」

 立花継希とパートナー関係にあったからだろうか、他の者が呼ぶその名前と、更文が口にするその名前とでは、あまりに響きが違う。まるで、自慢の兄の名を呼ぶかのような、密かな喜びすら感じられた。

「俺はさ、あの人みたいになりたいと思ったことはねぇんだ」枝葉の隙間から差し込む太陽の光が、更文の顔の上で揺れるたびに、その目がキラキラと美しく輝いて見えた。「でも、ほんの少しでもあの人みたいに振る舞えたら、現状のクオーツも、ちったあマシになるのかな、とは思ったりするんだよ」

「それはどうなんでしょうね」

「どうって?」

「今のクオーツは全体的に弛んでいるというか、最も重要な指針を見失っているというか。目指すべき方向性すら定まってはいなくて、全員がてんでバラバラなところに向かって歩いてる感じがします」

 組長が高科更文にビビり倒し、言いたいことも言えず、後輩の顔色を窺いながら采配を行っている今の状態では、方向性なんてものが見えてくるはずもないと、美ツ騎は考えていた。

「あなたは立花継希にクオーツを任された。だからこそ、こんな状態のクオーツを必死になって引っ張っていこうとしているのに、周りがそれに迎合しようとしないから、いつも苛立っているんですね」美ツ騎が思っていることを口にすれば、更文は驚いたというふうに目を丸くする。「周りに目を配るのって大変だろうなって思うんです。それができるのは一つの才能だなって。でも、僕はこの通り、自分のことしか考えられない人間ですし、自分の面倒を見るだけで精一杯なんですよ」

 生まれ変わることを望むように、新しい場所へとやって来た。それだけですべてが劇的に変化し、何もかもが上手くいくようになると、そう思っていたわけではない。だが、足を踏み入れた新天地が、こんなにもごたごたとした場所だとは、想像することすらできなかった。

「だから、少なくとも僕だけは、高科先輩に迷惑を掛けないようにします」

「お前、歌は学年で一番でも、芝居とダンスはからっきしだろ」

「芝居とダンスは高科先輩以外の人に面倒を見てもらっているので、大丈夫です」

「誰に見てもらってるんだ?」

「カイさんですよ。睦実介さん。あなたと同期の」

「ああ、あの背の高い、アンサンブルのやつ」このときはまだ、更文は介のことなど眼中にないというふうな様子だった。「そっか。あいつ、一年の面倒を見てやってるんだな」

 介の面倒見の良さは、美ツ騎ら77期生が入学した時から既に発揮されていた。

 困っている後輩を見かければ、適度な距離感で歩み寄り、必要な助言を与えてくれる。そのうちに、分からないことがあると後輩が自らの足で介の元へと出向くようになり、いろいろと教えを請うようになっていった。

「俺はただ、自分が先輩に教わったことを、お前たちにも教えているだけだ」

 介はいつも控え目で、先輩たちの輪の一番外側に立ち、その真ん中に立っている更文を眩しそうに眺めているような人だった。まるで、自分とは住む世界が違う人を見るような眼差しで。

 だが、後輩たちは誰もが思っていた。介がジャックエースになれば、すべてが解決するのではないかと。それだけの素養が睦実介には備わっていた。

「高科先輩はクオーツのアルジャンヌですし、近寄りがたいところがありますから、一年は稽古をつけてほしいなんてお願いはできませんよ」

「ふうん、そんなもんかね」

 更文が一人で踊っているときの迫力たるや凄まじいものがあり、そのあまりの恐ろしさに、一年生は稽古場にすら足を踏み入れられないことがあった。稽古場の空気がビリビリとしはじめると、一人、また一人と姿が減っていき、最後には更文だけが取り残されている。

「俺だって頼まれりゃ嫌とは言わねぇんだけどなぁ」

 そう言いながら立ち上がった更文は、両腕を高く突き上げ、その場で大きく伸びをしてみせた。そうした姿にすら洗練された美しさを感じるのは、日本舞踊の家元の生まれだからだろうかと、そのようなことを思ったものだ。

「稽古中だったのに、長話に付き合わせて悪かったな」

「いえ」美ツ騎は肩越しに振り返った更文の顔を見ながら、首を横に振った。「助けていただいてありがたかったです」

「別に助けようと思ったわけじゃねぇさ」更文はそう言うと小さく肩をすくめた。「お前がクオーツからいなくなったら、俺が困るんだよ」

「高科先輩が……?」

 言わんとしていることを理解することができず、眉を顰める美ツ騎を見て、更文は少しだけ笑った。

「お前自身がロードナイトに転科したいっていうなら、それを引き止めるわけにはいかねぇけどさ。クオーツの歌を任せられるのは、お前以外にはいないって、俺はそう思ってる。実際頼りにしてるんだ。確かにツカサの歌は上等だけど、俺はお前の歌声の方が好きだよ」

 まさか、自分がクオーツのアルジャンヌから頼りにされているなど、露程も思っていなかった美ツ騎は、その言葉に愕然としてしまっていた。何か言葉を返さなければと思うのに、驚きの方が先行してしまい、考えが上手くまとまらない。

「あ、そうだ。それからな、その高科先輩ってのはやめろ。俺のことは、フミって呼んでいい。先輩ってのもなしだ」

「……フミ、さん」

「ん、上出来」

 その後、夏公演でクオーツはアンバーの『我死也』を前に、惨敗した。ジャックエースは同じ一年の田中右宙為で、二年の根地黒門は、脚本と演出を手掛けた上に、アルジャンヌを演じ切り、更文に次ぐ個人賞銀賞を受賞した。

 吐き気を催すほどの狂気を覚えながらも、誰もがその舞台から、目を逸らすことはできなかった。その演目が終了したあとも、劇場は絶対零度のの空気感の中、拍手の音はおろか、衣擦れの音すら聞こえないまま、ゆっくりと幕が降りていったことを覚えている。その日、焦土と化したユニヴェール劇場に潤いが蘇ることはなかった。

 だがしかし、クオーツに大事件が起こったのは、更にその後のことだ。

 アンバーの二年、夏公演でクオーツ生の自尊心を完膚なきまでに踏み躙った張本人が、そのクオーツに転科してきたのだ。

「やあ、僕は根地黒門。今日から君たちと同じクオーツ生として学ぶことにしたんだ。どうぞよろしく」

 嵐は更なる嵐を呼んだが、それでも、この人の存在がクオーツを救い、クラス優勝へと導いてくれたことは、疑いようのない事実だった。

 そんな、ユニヴェール時代のことが走馬灯のように蘇るほどの衝撃が、白田美ツ騎の脳内を揺さぶっていた。常に受け身だった自分に、つらくても、苦しくても、前に進むことを教えてくれた後輩がいた。

 それが、立花希佐だ。

 自分が女性的であったからこそ、その声の高さや華奢な体つきを、大して気に留めることはなかった。だが、立花希佐が女であることに気づいてからは、進んで気を使うようになった。自分がよりジャンヌらしく振る舞うことで、カムフラージュになると思ったからだ。誰に頼まれるでもなく、美ツ騎自身がこの後輩を気に入り、守ってやりたいと思ったからこそ、影で自らを磨き続けた。

 白田美ツ騎は、立花希佐のことを、他のどの後輩よりも可愛がっていた。実際、誰よりも可愛かった。自分に懐き、慕い、ここまでの信頼を寄せてくれる後輩が現れるとは、思ってもいなかったのだ。だからこそ、その信頼に応えたかったというのもある。

 だから、立花希佐の秘密は、もう何年もずっと守り続けてきた。

 それが、先輩としての義務であり、責務だと信じてきたからだ。

 それをどうしてこの人は──そう思って横目に見た根地黒門の面持ちを目の当たりにして、美ツ騎は内心で更に頭を抱える。根地は、土気色のような顔色の上に、呆然とした面持ちを浮かべ、立花希佐が演じるピオーティアを凝視していた。

 きっと楽しいと思うよ、という言葉に、嘘偽りはなかったはずだ。自分自身がそう思っていたからこそ、かつてのクオーツの仲間たちを集め、鑑賞会をしようなどと言い出したに違いない。だがもし、皆に先立ってこの映像を見ていたとしたら、そんな思いになどは至らなかったはずだ。

「立花」誰一人として口を開こうとはせず、ただ黙って食い入るように魅入っていると、織巻が思わずというふうに声を上げた。「すげぇ……」

 その隣にいた世長が、うん、と絞り出すような声で応じている。

 女を演じるとき、立花希佐はいつだってアルジャンヌに徹していた。女が女を演じるのではない。男が演じる女を演じて見せていた。それは、美ツ騎にはおそらくとしか言いようがないが、男が女を演じるよりもずっと難しいことなのだと思う。

 稀代のアルジャンヌ──ついにはそう呼称されるようになった立花希佐の演技にはいつも、どこかこの世のものとは思えない美しさを感じていた。他のクラスが演じるアルジャンヌとは、あまりに次元が違っていたのだ。少女のようなあどけなさと、凛とした美しさと、どこか媚びるような艶やかさが混在している、蠱惑的な演技が評価されていた。

 だが、この『魔物のエクス』のピオーティアは、かつてのアルジャンヌの演技からは想像も出来ないほどの素朴さで、キャラクターが表現されていた。目の見えない人間の少女が、魔物の王に恋をし、愛して、愛される──その過程が、あまりに仔細に演じ分けられていた。

 ピオーティアの表情が、刻一刻と変化していくのだ。

 エクスと出会ったその日は、何に対してもあまり興味がなさそうに、ただぼんやりと宙を眺めているだけのように見えた。だが、物語の中で一日、また一日と経過する時間に合わせて、ピオーティアの表情が少しずつ柔和に、愛らしく、笑顔を浮かべるようになっていく。その表情の一つ一つから、ピオーティアの考えていることがよく分かる。

 もし、立花希佐がユニヴェール歌劇学校に入学することなく、一般的な高校に進学し、そこで普通の女子学生としての学校生活を送っていたとしたら、きっとこういう少女だったのかもしれないと、そんなふうに想像することは容易い──そう思ってしまうほど、ピオーティアは生身の少女だった。

 窓の外から差し込む日の光に照らし出されるその面差しは、鳥肌が立つほどに美しく、恐ろしさを覚えるほどに神々しい。美ツ騎は、終始伏せられていた真珠のような輝きを帯びる瞼が、ゆっくりと開かれたその瞬間、その下から覗いた琥珀色の目に強い衝撃を覚えていた。

 目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだ。

 エクスの癒しの力によって、ピオーティアの目が開かれたその瞬間、立花希佐の目が、酷く愛おしそうに相手役の男の目を見つめる。僅かな驚きのあと、うっとりとするように細められた目の奥には、確かな愛情が見てとれた。演技とは思えないほどの熱のこもった眼差しだった。

 だが、最も特筆するべきなのは、その歌声だと美ツ騎は思う。いや、美ツ騎だからこそ、そう思ったのかもしれない。

 稀代のアルジャンヌと呼ばれた立花希佐も、ついぞトレゾールの称号を与えられることはなかった。立花希佐は、その歌声よりも、演技とダンスが高く評価される役者だったからだ。だからといって、その歌声がロードナイトのジャンヌたちに引けを取っていたかといえば、そうとも言えない。

 立花希佐は常にバランスを重視していた。芝居、歌、ダンス──その三要素をすべて満遍なくこなすことが出来る、稀有な才能の持ち主だったのだ。トレゾールと呼ばれるだけの歌唱力があったとしても、ロードナイト生のように、歌うことだけに重きを置いている生徒とは、やはり扱われ方は違ってくる。

 そもそも、ロードナイト以外の生徒がトレゾールの称号を得ることは、非常に珍しいことなのだ。女性的な容姿に恵まれ、歌唱力が抜きん出ている生徒の多くは、基本的にロードナイトに引き抜かれていく。

 今になって考えてみると、自分がロードナイトではなく、クオーツ生に選ばれたのも、寮同士のバランスを取るためではないかと、美ツ騎は思っていた。才能をどこか一つのクラスに偏らせるべきではないというのが、ユニヴェールの考え方なのかもしれない。

 だが時折、入試のときには見えなかった才能が、後々になって開花するということがある。それが、76、77、78期生が揃った、後に黄金の時代と呼ばれる、クオーツの全盛期に起こった事例だ。当時のアンバーにとっては大誤算だったことだろう。本来、アンバーにクラス分けされて然るべき存在の二人を、クオーツに寄越してしまったのだから。

 立花希佐は、最高の環境で育てられた。アンバーの圧政に敷かれることなく、芝居は根地黒門、舞踏は高科更文、そして歌唱は白田美ツ騎の指導で、じっくりと、一年もの時間をかけて、基礎を築くことに成功した。もちろん、睦実介の存在も欠かせない。介は立花希佐のジャックとしての才能を開花させた人だ。ありとあらゆる可能性を広げてやることができたのは、環境に恵まれていたからだった。

 もしアンバー生として、ユニヴェールでの三年間を過ごしていたとしたらと、そう考えると恐ろしい。もし田中右宙為を支える器としての存在価値しか与えられていなかったとしたら、今、この映像に見る立花希佐は、この世に存在していなかった。

 まさか、これほどまでとは。

 これほどまでに、役者として完成された姿を見せつけられることになるとは、思ってもいなかったと、美ツ騎は感服する。それに、最後のユニヴェール公演で見たその姿よりもずっと、幸せそうだと感じていた。

 上演が終わり、映像が切れるまで、誰も口を開こうとするものはいなかった。それどころか、根地黒門は何も映さなくなった画面を凝視したまま、微動だにしない。

 世長が大きく深呼吸をする。すると、その隣で口をあんぐりと開けていた織巻が、途端に、詰めていた息を一気に吐き出した。

「なんかもうマジで凄かったな」語彙力の乏しい感想を口にしながら、織巻は曖昧に笑う。「最初から最後まで英語だったから、内容的には理解しきれてねぇけど」

「一年生の頃に課題でやったんだから、ストーリーは知ってるはずだよ、スズくん」

「おいおい、何年前の話だと思ってるんだ? 自分で演じた舞台の脚本なら台詞まで全部覚えてるけどよ、さすがに授業で出された課題の脚本の内容なんて、世長じゃあるまいし、事細かに覚えてるわけないだろ?」

「……オリジナルの脚本をそのままに演じたわけではないようだ」

 78期の二人が会話する能天気な声を聞き、どうやら根地も我に返ったらしい。重たそうに椅子から腰を上げると、消していた部屋の電気をつけ、テレビとパソコンを繋いでいたケーブルを片付けはじめた。

「いやあ、しかし驚いたね、本当に」根地は誰に向かって言うでもなく、不自然に浮ついた声で続ける。「立花くん、英語がペラッペラでさ」

「いやいやいや、根地先輩、そこじゃないでしょ……」

「何を言ってるんだい、織巻くん! 立花くんが話していたのは容認発音と言ってね、キングズ・イングリッシュと言われる、所謂イギリスの上流階級の皆さん方がお話になっている言葉なんだよ。国営放送のアナウンサーとか、王侯貴族の方々とかね。彼女はそれを完璧に習得している。それはそれは凄いことなんだ」

「それはそうなのかもしれませんけど、今はそういう話ではなくて──」

「立花がそれだけの努力をしたってことを言いたいんじゃないの、根地さんはさ」

 織巻が余計なことを言い出さないうちに、美ツ騎は横から口を挟む。おそらく、根地は今、自らの気を落ち着かせるために、必死になって頭を回転させているはずだ。こういうときは、変な横槍は入れず、そっとしておくにかぎる。

 美ツ騎は根地の方を一瞥してから、手元の紅茶で喉を潤し、ほんの少しだけ時間稼ぎをした。意図せず世長と目が合ったので、美ツ騎はペットボトルに蓋をしながら口を開く。

「織巻ほどじゃないけど、僕も物語の詳細なストーリーまでは覚えてないんだ。あの話って確か、結末はエクスとピオーティアが泉の畔で幸せに暮らしましたとさ、ってやつだったよな」

「そうだったと思います」世長が美ツ騎の意図を酌んだかのように、根地の方を一瞥してから頷いた。「見えない目を癒す力を持っていながら、自分が魔物であると知られてしまえば、最愛のピオーティアに嫌われてしまうかもしれない。嫌われるくらいなら、彼女の目は一生見えないままの方がいい──そんなふうに思ってしまった自分を恥じて、エクスはピオーティアに会いに行けなくなります。すると、ピオーティアは、エクスが自分の元を訪れなくなったのは、自分がエクスの容姿に言及したからだと気づき、居ても立ってもいられなくなって家を飛び出してしまう」

「あっ、俺も思い出してきた!」テーブルの上のスナックを口に放り込む寸前、織巻がハッとしたような顔をして言う。「エクスがピオーティアの家に行くと、もう何日も前に家を出て行ったまま戻っていないことを知って、探しに行くんだったよな。それで、泉の畔に倒れているピオーティアを見つける」

「そうそう。そこでエクスはピオーティアの目を治してあげるんだ。目が見えるようになったピオーティアは、エクスの姿を見て怯えるのではなく、魔物のエクスを美しい天使だと称する。そして、二人は互いの愛を確かめ合い、泉の畔で幸せに暮らしていくんだよ」

「俺、英語はさっぱりだからよく分からなかったんだけど、どの程度の変更が加えられていたんだ?」

「本来、魔物のエクスはエクスに焦点が当てられた物語だったはずだけど、今回のお話はピオーティアが主軸に立てられていたような感じがあるよね」

「結末も原作とはかなり違うな」美ツ騎がそう言うと、世長が「はい」と返事をする。「まず、魔物のエクスがただの魔物ではなく、癒しの力を持つ魔王という設定に変えられていた。鉱山事故で傷ついた同胞たちを三日三晩看病し続け、自分の命が長くないと思ったのか、その足でピオーティアに会いにいく」

「白田先輩……」

「なんだよ、変な顔して」

「白田先輩って英語が分かるんスね」

「お前、それどういう意味だ?」思わず睨みつけると、織巻はその場で平伏すように謝った。「今どき、英語を話せるなんて珍しくともなんともないだろ」

「いや、いつの間にか世長も英語の勉強はじめてるし、俺もやった方がいいのかなって思ってて」

「語学の勉強は本人のやる気がないと続かないぞ。周りがやってるから、じゃあ自分もはじめてみようか、なんて考えているようなやつは特にな。お前は目的が伴わないと何事も頭に入りにくいんだから」

「は、はい、すみません」

「僕は忠告をしているだけ。謝る必要はない」

「はい」

 美ツ騎は、幼い頃に英会話教室に通わされていたので、元々日常会話程度の英語なら話すことができた。ユニヴェールを卒業後、大手レーベルと契約を交わし、レコーディングや仕事の都合で海外に行くこともあるので、どうせなら通訳を介さずに話ができるようになりたいと思い、再勉強をはじめたのだ。

 世長創司郎が英語の勉強をはじめたのは、二年程前、立花希佐がロンドンにいると判明してからのことだった。

「エクスはピオーティアに、その部屋の外に出て、もっと広い世界で生きていくようにと説き、最後の力を振り絞ってその目を癒してやる。お互いの愛を確認し合うものの、エクスは意識を失い、その肉体は風に連れ去られてしまった」

「それからピオーティアは旅に出て、数年後、町に戻ってくるんだ。もう誰もピオーティアのことは覚えていない。お屋敷の家族も、どこか遠い場所へ引っ越してしまっていた。ピオーティアは自分が暮らしていた離れを懐かしそうに眺めてから、森へ出向き、エクスから話に聞いていた泉を見に行くんだ。そして、そこでエクスとの再会を果たし、共に生きていくことを誓う──そういう終わり方だったよ」

「子供相手に演じていた劇のようだったが」三人が話しているのを、どこかぼんやりとした面持ちで聞いていた介が、ふと口を開く。「その割には、重たい内容だ」

「でも、日本の昔話なんかもそうですけど、海外の──特にイギリスの童話や詩歌なんかは、残酷なものが多かったりしますから、それに比べたら幸福な結末なんじゃないですか」

「コクト」

「ん? なんだい?」

「あの立花の相手役は誰なんだ?」

「さあ」根地は本当に知らないというふうに大きく肩をすくめた。「立花くんが所属している、小さな劇団のお仲間だという話だけど、詳しくは知らないなあ」

「へえ。立花、向こうで劇団に入ってるんだな」織巻がにこにこと嬉しそうに笑いながら言った。しかし、次の瞬間、その表情を一変させる。「あれ? いや、ちょっと待ってくださいよ。この映像って、根地先輩がそのオンラインコミュニティーってところで、偶然やり取りをした人からもらったってことっスよね?」

「そうだよ。僕が『魔物のエクス』の原本を渡すのと引き換えにね」

「じゃ、じゃあ、その相手が立花だったってことですか?」

「うーん、それはどうだろうねぇ。立花くんが英語の他にもドイツ語が堪能なら、もしかしたらその可能性もあるとは思うけれど」

「ドイツ語?」

「世界中の脚本家が集まっているコミュニティーだからね、世界各国の言葉が飛び交っているのさ。自動翻訳にかけたような形跡はなかったし、僕とやり取りをしていたのは、立花くんと近しい間柄の人なんじゃないかな。文面的には女性のような気がする。アザレアというハンドルネームだし」

「根地さんは本名を使っているんですか?」

「うんにゃ、僕はジェニー。可愛い名前だろう?」そう自慢げに言う根地を見て、世長は、ははは、と乾いた声で笑った。「それに、今回のことでは偶然に偶然が重なってね。詳しい話をすると長くなるから割愛するけど、実は、僕の昔ながらの友人が、イギリスで立花くんと劇的な出会いを果たしたんだ」

 根地はいとも容易く、まるでなんでもないことのように、さらさらと衝撃的な言葉を口にする。美ツ騎は介と顔を見合わせると、その先の説明を求めるように、根地の方を見た。

「正確には、イギリスで立花くんの面倒を見てくれている人が、僕の友人と仕事仲間でね。ほら、あの動画、君たちも見ただろう? 立花くんがストリートピアノのところで歌っているやつだよ」

「ああ、あれ……」織巻はどこかばつが悪そうな表情を浮かべ、居心地が悪そうに頭を掻きながら、浮かない口振りで言う。「ユニヴェールフォロワーたちの間でも、結構騒ぎになってましたよね。これは立花じゃないかって」

「希佐ちゃんみたいな人をロンドンで見かけたっていう人もいたりして」

「本人に少しでも隠れる気があるのなら、はなっから人前で歌うなんてことはしないだろうから、ある程度は承知の上なんじゃないかな」

「でも、あんなふうに爆発的に世界中に拡散されるなんて、希佐ちゃんは思っていなかったと思うんです」

「ある種、自業自得だと思うけどね、僕は」

「根地先輩、そんな言い方は──」

「ああ、いやいや、ごめんごめん」僕の悪い癖だと言いながら、根地はヘラヘラと笑った。「その友人も、立花くんがストリートピアノのところで歌っている現場に、偶然居合わせてね。そのときはまだ、立花くんと出会ってはいなかったようだけど、素敵な歌を歌う子がいたからと言って、動画を撮って送ってくれたんだ」

 これだよと言って見せられたパソコンの画面には、映画のワンシーンと見紛うほどの精巧な映像が映し出されていた。よほど性能の良いカメラで撮影されたものなのだろう、美ツ騎が動画投稿サイトやSNSで見たものよりもずっと、音質までクリアに録画されている。

「今回の『魔物のエクス』の映像もね、その人が撮ったものなんだ。まあ、立花くんは、僕と彼が知り合いだということも、僕たちがこうして自分の劇を観ているなんてことも、知る由はないんだけど」

 ぞわり、と、背筋に何か良からぬものた伝うような、そんな心地がした。

「白田くんは、立花くんの歌を聞いてどう思った?」

「……相変わらずだなって」

「というと?」

「相変わらず、歌に感情を乗せるのが上手い」あとは、と美ツ騎は続ける。「まず本人の努力の結果だということが大前提としてありますけど、良い先生に巡り会えたんだろうなと思いました。ユニヴェールにいた頃とは、あまりに違う」

 そうだね、と同意するように頷いた根地の面持ちは、その表情から思考を読み取ることができないほどの、冷え冷えとした無表情だった。

「僕は、渡英してからの立花くんの動画を、度々追い掛けて見ていたけれど、このDefying Gravityは、その中でも極上の仕上がりだと思う。『魔物のエクス』の終盤で披露された歌もね。確かに、立花くんは、良い先生と出会ったのかもしれない。でもこの歌が人々の心に響いたのは、技術的なもの云々というよりも、もっと深い、彼女自身の内面から滲み出る、何らかの強い感情が反映されているからというふうにも感じられるんだ」

「いいことじゃないですか」

「君はそんなふうに言えてしまうんだね」

「立花がいなくなってから、もう五年も経っているんですよ、根地さん」根地黒門の言わんとしていることは分かるが、それに同調することはできないと、美ツ騎は思った。「根地さんが腹を立てている理由は理解できます。でも、それは根地さん自身の感情的な問題であって、立花には何の関係もないことでしょう?」

 こんなふうに、まるで見せしめにでもするみたいに、全員の目に晒していいようなものではなかったような気がすると、美ツ騎は思う。この映像が『魔物のエクス』の原本を渡すことへの見返りだったのなら、それは根地自身が一人で鑑賞して、自らの中に抱え込んでいる感情を詳らかにし、清算するべきだったと、そう思うのだ。

 根地さんは、これを一人で見るのが怖かったんじゃないんですか──そう言おうとして、やめた。その言葉は、ブーメランのようにぐるりと一回りして、自分の心に突き刺さる。

 根地の言う通り、美ツ騎の中にいる立花希佐は、つい一時間ほど前までは、十八歳のときの姿のままだった。SNSや共有サイトで見る動画はどれも鮮明とは言えず、ピントが合っていない写真のようにぼやけていて、真実味を帯びていなかった。

 だが、今日目の前に現れたのは、二十三歳の立花希佐だった。織巻や世長が同じだけ年齢を重ねているのだから、それは当然のことなのだが、急に大人びた姿を見せつけられて、ほんの少しだけ動揺してしまう。かつての中性的な容姿は、役柄の影響もあるのだろうが、ほとんど跡形もなく消え去り、明らかに女性と見てとれる姿をしていた。

「……綺麗でしたね、立花」

 マンションの下で織巻と世長の二人と別れ、帰り道が同じ睦実介と並んで歩きながら、ぽつり、と美ツ騎が漏らす。すると、隣を歩いていた介がこちらに横目を向け、ああ、と小さく頷いた。

「表現力にも磨きが掛かっていた。歌については俺が言及するまでもない。ダンスは少し辿々しさがあったようだが、そういう演出だったのかもしれないな」

「あの相手役の男性は……」

「コクトや織巻たちは、立花にしか目が行っていなかったようだが」

 介はそう言うと、一度しか見ていないはずのエクスの演技を真似るように、そっと手を差し出してみせる。すると、そこには存在しないはずのピオーティアの姿が、ふっと浮かび上がったように感じられた。

「相当出来る役者だと思う」

「カイさんと似たところがある人でしたね。まあ、カイさんが日本人離れした体格なので、そう感じるだけなのかもしれませんけど」

「俺は立花に似ていると思った」

「え?」予想もしていなかった言葉に、美ツ騎は思わず素っ頓狂な声を出す。「どこがですか?」

「雰囲気や、間合いの取り方が」

「同じ劇団のお仲間だって話ですから、そういう仔細な部分まで示し合っているんだと思いますけど。立花はそういうところにまでこだわって舞台を作っていましたし」

「だが……」

 介は何かを言いかけるが、すぐに首を横に振ると、何でもないと言って口を噤んでしまう。こういうとき、こちらがいくら食い下がろうとしても、介が決して口を開かないことを、美ツ騎は知っていた。

 大通りまで出ると、バスを使って帰る介はバス停に、電車で帰る美ツ騎は駅に向かう。今度ゆっくり食事でもしようという誘いに、喜んでと返事をして、美ツ騎は歩き出した。

 根地黒門は立花希佐を大層可愛がっていた。いや、立花希佐は自寮の先輩からだけでなく、他の寮の先輩方からも、大変に可愛がられていた。根地は、その中でも特別に、立花希佐に目を掛けていたように思う。

 だからこそ、五年前の失踪が今になっても尾を引いているのだ。立花との距離が、手が届きそうなほどに近くなってしまったことで、如何ともしがたい感情に苛まれ、自分でもどうしたらいいのかが、分からなくなっている。

 美ツ騎はトレンチコートのポケットからスマートフォンを取り出すと、時刻を確認してから、素早い手つきで相手を呼び出した。五コール目、そろそろ切ろうかと思いながら赤信号で足を止めたとき、もしもし、という声が聞こえてくる。

「遅くにすみません、フミさん」少し前にも、こんな会話をした覚えがあった。「お忙しいようでしたら──」

『いや、大丈夫だよ。今、風呂から出てきたところで』

「掛け直した方がよかったら、そうします」

『いいよ、気ぃなんか使うなって。お前ら、今までクロのところにいたんだろ? 悪かったな、俺だけ顔を出せなくてさ』

「カイさんから、フミさんはご実家に戻られていると聞きました」

『ああ。来月ロンドンに行くんで、その打ち合わせと、下準備と、ついでに甥っ子と姪っ子の稽古をつけてやる約束なんだ。あいつら、俺がロンドンに行ったら、もう何年も帰ってこないんじゃねぇかって思い込んでるみたいで』

「向こうへはどのくらい滞在されるんですか?」

『とりあえずは一ヶ月くらいを予定してる』

「とりあえず?」

『玉阪座には三ヶ月間の休暇を申請してあるから、向こうが気に入ったら、もう少し長く滞在することになるかもな』

「根地さんも一緒に行くって聞いたんですけど」

『ん? ああ、どうやらそのつもりらしい。玉阪座のお歴々連中をどうにかこうにか丸め込んでな。あいつは半年休むって話だ』

「えっ、半年もですか? 大丈夫なんですか、それ」

『さあな。まあ、大丈夫なんじゃねぇか、あいつなら。ネット環境さえあれば、どこでも仕事はできるって言ってるし』

 その話を聞いた美ツ騎は、思わずロンドンに住んでいるであろう立花希佐に、思いを馳せた。

 この二人がイギリスに出向く以上、立花希佐に会わないという選択肢は存在しないだろう。加えて、更文は高科家の用向きでイギリスに行くという話だが、根地は遊学という名目だ。もし、その六ヶ月という休暇の期間を目一杯使い、イギリスに滞在するのだとしたら、迷惑を被るのは立花希佐なのではないか。

 今日の様子から察するに、根地は相当に捻くれた感情を、立花希佐に向けている節がある。それは、後輩が築き上げてきたロンドンでの暮らしを、ひっくり返してしまいそうなほどの、歪んだ感情のように思えた。

『ミツ? どうした?』

「……フミさん」

『ん、なんだ?』

「今日、僕たちが根地さんに呼び出された理由って、ご存じでしたか?」

『いや、俺は何も聞いてねぇけど』なんだよ、と更文は言う。『またろくな理由じゃなかったのか?』

「極々最近撮影された、立花の公演映像を観せられたんです」そう言う美ツ騎の言葉を聞いても、更文はただ沈黙を貫いていた。「公演といっても、子供相手の小規模な芝居だったんですけど。芝居自体はとても良いものだったので、機会があったらフミさんにも観てほしいと思いました。もちろん、気持ちの問題もあるでしょうから、無理にとは言いませんが」

『……それで?』

「僕が言いたいのは、その──」なるべく語弊が生まれないような言葉を選ぼうとした結果、美ツ騎の口から発せられたのは、単刀直入な言葉だった。「根地さんって、立花のことをどう思ってるんですか?」

『……は?』

「今日の根地さんを見ていたら、なんていうか、立花に対して私怨のような感情を持っているんじゃないかって、正直不安になったんですよ。あの人、本当にフミさんと一緒にイギリスに行かせて大丈夫なんですか?」

『あいつ自身が行く気満々だから、今更止めたって無駄だろ』

「それはそうなんでしょうけど」

『それに、俺もあいつも、希佐には個人的な怨みがあって然るべきだと思うけどな』

「フミさん、それは……」

『冗談だよ』電話口の向こう側で、更文が小さく笑う。『半分は本気だけど』

「だからって、フミさんは立花の人生をめちゃくちゃにしてやりたいなんて、そんなふうには思わないでしょう? でも、根地さんからは、そういう思いを感じるんです。世長と織巻も、若干不気味がってましたよ」

『カイはなんか言ってたか?』

「何も。ただ、訝しげにはしていました」

『だったら大丈夫なんじゃないのかね』更文は、聞き様によっては、呑気とも思える口振りで言った。『本気でヤバいと思ったら、カイは止めるはずだ』

「まあ、確かに……」

『そんなに心配なら、おまーも一緒に来るか?』

「えっ?」

『ミツにとってもロンドンは縁の地だろ? 俺とクロは海外なんてほとんど初めてのようなものだし、お前が一緒に来てくれたら、それはそれで心強い』

「ちょ、ちょっと待ってください、そんなこと、急に言われたって──」

『クロじゃねぇけど、楽曲作成なら極端な話、どこにいたって出来ると思わねぇか?』本気なのか、冗談なのかを分かりかねる物言いで、更文は続ける。『とりあえず、前向きに考えておいてくれ。クロと二人きりっていうのも、俺としては結構心配なんだよ』

 おそらくは、それが本心なのだろうと、美ツ騎は思った。だが、その心のうちを探ろうとした矢先、スマートフォンの通話が何の前触れもなく途絶える。高架橋の下に入ったので、電波状況が悪くなったのだろうかと思い画面を確認するが、そこに映し出されていたのは、ぼんやりとした明かりに照らされた自分の顔だけだった。どうやら、美ツ騎のスマートフォンの充電が底をついてしまったらしい。

「スタジオを出てくるときは、まだ十分残っていたはずだけど……」

 家に帰ったら謝罪のメッセージを送ろうと思いながら、美ツ騎はスマートフォンをポケットに戻す。代わりに少しだけくたびれた革のカードケースを取り出し、駅の改札を抜けて、ホームに立った。

『クロと二人きりっていうのも、俺としては結構心配なんだよ』

 最初は、更文が一緒なら、根地が旅に同行しても心配はいらないだろうと、そう高を括っていた。だが、今日の根地を見て、その考えが浅はかであったことを、美ツ騎は思い知る。

 高科更文は立花希佐に会うべきだと、ずっとそう思ってきた。今もその思いは変わらない。しかしながら、そこへ今の根地黒門が同行するとなると、話は別に思えてくる。少しも良い予感がしないのだ。むしろ、悪い予感ばかりを覚えてしまい、心がざわざわとして、途端に落ち着かない気持ちになった。

「もう五年も経つっていうのに……」

 遠く聞こえる遮断機の警告音を聞きながら、美ツ騎は大きくため息を吐く。世長や織巻の方が、ずっと割り切った物の考え方をしているぞと呆れ、戸惑いながら、ホームへと滑り込んでくる最終の電車を迎え入れた。

 

 

 

 

 

 早朝、東の空が白んでくる頃合いの、実家の稽古場の雰囲気が、高科更文は好きだった。特に春先の、まだ微かに冬のひんやりとした空気感と、気配が残る今の時期は、何となく他の季節よりも身が引き締まり、感覚が研ぎ澄まされているように感じられた。家の外は風もなく、虫の音も、鳥の囀りも聞こえない。足の運びに合わせて床板が軋む音や、衣擦れや、自分自身の心臓の鼓動がうるさいほどだ。体の芯は燻るような熱を覚えていても、手足の指先は、凍えるほど冷たい。吐き出した息が白に染まるのを見て、今朝の寒さを知った。

 玉阪座の稽古場でも、実家の稽古場でも、更文は常に人の目に晒されている。だからこうして、人の気配を感じずに済む時間帯を見計らっているのだが、どうやら今日は、小さなお客さんが見学に来ているらしい。

「拾」更文は舞の型を解き、後ろを振り返らないまま口を開いた。「またお前だな」

「……ごめんなさい、更文おじさま」

「別に謝ることはねぇよ。怒ってるわけじゃない」更文はそう言うと、すべての雨戸が閉じられた窓側の廊下からこちらを覗いている、小さな影を振り返った。「そんなところでコソコソ見てねぇで、こっちに来いよ」

「母さまが、おじさまのお邪魔をしてはいけませんと言うので」

「俺が一度でもお前に邪魔だなんて言ったことがあったか?」更文がそう問うと、薄暗がりの中で、小さな影が首を横に振る。「ほら、そんなところに突っ立ってたら寒いだろ?」

 そう言って更文が手招いてやると、パジャマ姿の拾が、とぼとぼと稽古場に姿を現す。おそらく、トイレに行こうと寝床を抜け出してきたときに、稽古場に人の気配を感じて、そのままやって来てしまったのだろう。

「トイレは大丈夫か?」

「が、我慢します」

 何も見逃したくはないのだというふうな、その力強い眼差しを目の当たりにして、更文は思わず笑いそうになった。

「一緒に行ってやるよ。それから、部屋まで着替えに戻るぞ。そんな格好で稽古場にいたら体が冷えるからな」

 そう言いながら取った拾の手はひんやりとしていて、子供特有のぽかぽかとした体温からは程遠いものがあった。更文がその気配に気づくかなり前から、稽古の様子を盗み見ていたのかもしれない。

 更文は拾をトイレまで連れて行き、一度子供部屋に立ち寄ると、その場で着替えさせ、クローゼットの中から取り出した小さなダウンコートを羽織らせた。

「何か温かいものでも飲むか」部屋の外に出ると、更文は拾の手を取った。「基には内緒な」

 そう言って唇に人差し指を立てれば、内緒という言葉が嬉しかったのか、拾は控え目に笑う。

 常に注目を集めている基とは違い、拾は少し引っ込み思案なところがあった。いつも何かの後ろに隠れて、場の空気を読み、状況をよく観察してから、自らがするべきことを判断できるような子供だ。

 自分のやることに大人を巻き込む基とは対照的で、常に大人の顔色を窺い、大人が望む行動をする。それはまるで、大人が好む子供を演じているように感じることさえあるほどだった。

「そういえば、俺も昔は稽古場の影から親父の舞を盗み見てたっけ」

 先日改築したばかりのキッチンにやって来た更文は、拾をダイニングテーブルの椅子に座らせる。冷蔵庫の中にあった牛乳をミルクパンに入れて温め、スプーン一杯分の蜂蜜を溶かしながら、思い出したように口を開いた。

「お祖父さまの?」

「ああ」ミルクパンの縁がふつふつとしはじめたの見て火を止め、熱々のホットミルクを拾専用のマグに移し替える。「親父の舞を真似て踊ると、それを見たお弟子さんたちが、感心して褒めてくれるのが嬉しかったんだ。親父は俺が何をしてもまったく褒めてくれなかったからさ」

「お祖父さまは拾と基をよく褒めてくれます」

「あの人はお前たちが可愛くて仕方ないんだよ」

 当然、血の繋がった自分の子供ではあるのだから、可愛いと思う気持ちはあったのだろう。だが、それ以前に、いずれかが高科流の跡取りとなるであろう息子たちを甘やかせるほどの精神的な余裕が、当時のあの人にはなかったのかもしれない。

 今では、自分に駆け寄ってくる初孫たちを見ては目尻を下げ、代わる代わるに抱き上げて、愛おしそうに頬擦りをするほどだ。稽古中は厳しいが、それ以外の時間は誰よりも優しい祖父を、拾と基は大好きだと言っている。

「熱いからな、火傷しないように気をつけろよ」

「はい、気をつけます」更文に差し出されたマグを慎重に受け取りながら、拾は大きく頷いた。「ありがとうございます、おじさま」

 拾は両手で包み込むようにして持ったマグをじっと見つめ、ふう、ふう、と一生懸命に息を吹き掛けている。自分には白湯を用意し、拾の隣に腰を下ろすと、その様子を微笑ましく思いながら眺めていた。

「日舞の稽古は楽しいか?」

「はい、とても」

「バレエのレッスンもあるから大変だろ?」

「どちらも同じだけ楽しいです」

「真面目だねぇ」

 何事にも興味を示し、目移りをしてしまう基とは違い、拾は何か一つのことに没頭できるタイプの人間だ。それどころか、目の前のことに集中するあまり、周囲の様子が目に入らず、声も届かなくなることがある。高科家の血を色濃く受け継いでいるようで、その仕草の一つ一つに、どこか色気のようなものを感じることが度々あった。

「基は私の弟にそっくりで」二人の母親が、どこか困った顔をして、話してくれたことがあった。「弟は子供の頃から本当に落ち着きがなくて、もう自分たちの手には負えないと、父が早いうちから外へ出してしまったんです。彼は私と一緒にバレエを始めたのですが、早い段階からその頭角を現していました。お教室の先生が、日本に留めておくには惜しい才能だと、パリのバレエ学校の入学を進めてくださって、九歳の頃に母と二人でフランスに渡ったんです。今は、オペラ座バレエ団で踊っています」

 この話を聞いたとき、ああ、この人は兄の気持ちが良く分かったのだろうと、更文は思った。そして兄も、この人の気持ちを深く理解することができたのだろう、と。

 自らの才能が不足しているわけではない。それなりの評価は得られるのに、後に生まれた弟の方が、常に高い評価を受ける。悔しかったはずだ。兄弟は同じレールの上に並べられ、当初は先を進んでいたはずなのに、後ろにいたはずの弟は、あっという間に自分を追い抜いていってしまった。

「長男も悪くはないんだがな」

「二番目の方に天賦の才があるのはまず間違いない──が、何かと高科流の伝統に口出しをしたがるらしい。革新がどうのこうのと。当代とは不仲らしいな」

「周りがちやほやしすぎるのも問題だ。今の若者はすぐ良い気になってつけあがる」

「弟に比べれば兄の方がずっと従順だし、教養がある」

「あれに弟ほどの才能があれば良かったんだがなぁ」

 子供の頃からよくしてくれる人は大勢いた。だが、ご贔屓さんの中には、口さがないことを言う者も多く、更文はその陰口のような言葉を聞かされるたびに、首の裏側が冷えるような心地がしていた。

 兄の一助は、早い段階から、自分よりも弟の更文の方が次期当代、高科二千奥の名前を継ぐに相応しい人物であると、そう考えていたようだ。

「あなたが楽しそうに舞う姿を見るたびに、私はそれを嬉しく思いながらも、己の才能の限界を見せつけられているようで、子供ながらに打ちのめされていました。私が修得するまでに何年も掛かった舞を、ふと後ろを振り返ってみれば、あなたは既にに自分のものとしていた。舞うだけで精一杯だった私とは違い、あなたの舞には、あなただけの色があった。美しく、艶やかで、華がある。あなたはそれを、子供の頃から意識せず、自然とやってのけていたのです。私はそのとき、完敗だと思いました。私の完全なる敗北です。そして、これからは、高科二千奥の名前を継ぐであろうあなたとは違った形で、高科の舞を守っていこうと、心に決めたのですよ」

 兄はどこまでも出来た兄だった。この先も、二百年以上続いてきた高科の舞を守っていくために必要だと判断したことならば、自らの心を偽ってでも、決断できる人なのだろうと、更文は思う。

 男性だけで行われる歌舞伎から派生した日本舞踊の世界は、そもそも女性主体の伝統的な日本文化だ。高科家も何代か前までは、女性が当代の高科二千奥を名乗っていた。だが、何かの呪いか、あるときから本家の一族に女児が一切生まれなくなり、養子を取ることを嫌った当時の当主が、自身の息子に高科二千奥の名を引き継いだのが、現在の高科家の体制の始まりとされていた。

 今となっては、男性の日本舞踊家も珍しい存在ではなくなっているが、高科二千奥の名を男が襲名したときは、相当な騒ぎになったという記録が残されている。

 この男性は、幼い頃から本来の性別を隠され、女性として育てられていたというのだ。この時代の当主は子宝に恵まれず、ようやく授かった子供が男児で、高齢出産と宿痾の関係で、次の子は見込めなかったのだという。

 この高科拾は、高科本家に数十年振りに生まれた女児だ。

 高科の一族は、このまま男系の舞手で高科二千奥の名を繋げていくべきか、はたまた本来の女系に戻すべきなのかを、この時代になってまで言い争っている。

「この子が男の子だったら、こんな争いが生まれることもなかったのだろうにねぇ」

 真正面から、かわいそうにと囁かれ、老齢の師範代の女性に頭を撫でられたときの拾の顔を、更文は今も覚えている。

 間違っても、本人を前にして、そんな言葉を口にしてほしくはなかった。小さな子供相手に言うべき言葉ではなかったはずだ。拾は、いつかこの言葉を思い出して、苦しむことがあるのかもしれない。そう思うと、更文は今から居た堪れない気持ちになる。

「お前が大きくなる頃には、もう少し融通の利く世の中になっていたらいいんだけどな」

「ゆうずう……?」

「多様性──ああ、いや、違うか」上唇を縁取るように付着した牛乳をティッシュで拭ってやると、拾は反射的に目を瞑る。「子供たちが、自分の夢を諦めなくても良くなる世界になっていたらいいなって話だよ」

 どうして父さまは高科の跡取りにはなれないんですか? 以前、拾からそのように問われたことがある。通常、その家の跡を継ぐ人間は、一家の長子であると、どこかで見聞きしてきたのかもしれない。

 だが、改めてどうしてと聞かれてしまうと、更文は答えに困った。父親が決めたことだと言うのは容易いが、それは拾が求めている答えではないだろう。

「どうしてなんだろうな」

 才能は目に見えるものだが、実体はない。だからこそ、優劣を付けることができず、言語化することも難しい。

 例えば、更文と一助が横並びになって同じ舞を踊って見せたとしても、子供たちがそれらの違いを理解するまでには、まだあと数年の月日が必要だ。

「拾も、高科の跡取りにはなれないんですか? 基も?」

「俺がいつか結婚をして、もし子供が生まれたり、養子を取るようなことがあったら、どうなるかは分からないだろうなぁ」今のところその予定はねぇんだけどさ、と言う更文を見上げ、拾は首を傾げる。「まあ、今のところは俺が二千奥の名を継ぐってことにはなってるけど、先のことは誰にも分からねぇからな。もしかしたら、兄貴が継ぐことになるのかもしれねーし、その次は、お前か基のどちらかかもしれねぇぞ」

「基はいつもおじさまを負かしてやるんだと言っています」

「いつのことになるのやら」でも、と更文は笑う。「楽しみだよ」

 女の身であるから、何かを諦めなければいけないということは、酷く理不尽だと思う。そのように考えることが増えたのは、十代の頃に立花希佐と出会っていたからなのだろう。

 校長の手引きがあったとはいえ、たった一人で男子校であるユニヴェール歌劇学校に乗り込んできた挙句、あの伝説的なジャックエースである立花継希と同様に、ユニヴェールに春一番のような旋風を巻き起こして、あっという間に去っていった。

 稀代のアルジャンヌという名誉の称号は、実際には女が演じていたからという理由だけで得られるものではない。あれは立花希佐の努力と、才能と、持って生まれた魅力があってこその結果だ──そうと言い切れるのは、彼女が努力と才能の人であることを、すぐ近くで見てきたからだった。

 この五年間、立花希佐のことを考えなかった日はない。

 脳内を占めていた感情の多くは、恋慕や未練のような思いだけではなく、ただ、彼女の考えを理解したいという探究心に近いものだった。

 希佐が現在ロンドンにいることを知り、自らもロンドンへ赴くことを決めた今、自分の中にいる立花希佐──むしろ、立花兄妹に向けられている思いの本質と向き合うべきなのではないかと思い、常にそのことを考え続けている。自分の中にある感情の答えを見つけ出し、綺麗さっぱり清算してからでなければ、真正面から彼女との再会を果たすことはできないような気がしていた。

 当時は、誰にも何も告げず、自分にすらその秘密を打ち明けずに、ただ静かに蒸発したことを恨み、呪った。だが、そのことについて考えを巡らせるほどに、立花希佐ならやりそうなことだという結論に落ち着くのだ。

 学生の時分から、希佐は何でもかんでも自分の中に溜め込み、人に迷惑をかけまいとする嫌いがあった。その度に、更文は言葉巧みに誘導し、希佐の心根を聞き出してきたが、何度も同じ手が通用する相手ではなかったということだ。希佐は次第に、更文に対して隠し事をするのが上手くなっていった。

 当たり障りのない──例えば、同期や後輩との関係についてや、次の公演についての悩みや不安を打ち明けることで、心のもっと奥深い場所にある悩みに、目を向けさせないようにしていたのだ。

 当時、自分がもっと近くにいられたなら、玉阪座の仕事で手一杯になっていなければ、あのフラットな演技を見抜くだけの目があったなら、何かが違っていたのかもしれないとは思う。

 だが、それでも、希佐の意志を塗り変えられはしなかっただろうとも思うのだ。立花希佐が、自分が一度でもこうすると決めたことを、他人からどうこう言われた程度で変えてしまうような意志の弱い人間ではないことを、更文は知っている。

 もし自分が女で、立花希佐と同じ条件下にあったとしたら、どうしていただろうと考えることもあった。おそらく、ユニヴェールを卒業すると同時に、真実を公のものとして、潔く謝罪するだろう──そう言うことは簡単だ。綺麗事を並べ連ねて、これが正しい判断だったのだと、そう非難することは容易い。

 だが所詮、何をどのように考えたところで、高科更文はその当事者ではない。だからこそ、何とでも言えるのだ。立花希佐の決断が最善だったとは思わない。しかしながら、それを間違った判断だったと非難することはできないと、更文は思った。

 例えば、潔く謝罪をしたとしても、矢面に立つのは自分ではない。そのときは、立花希佐をユニヴェール歌劇学校に引き入れた張本人である校長、中座秋吏が全責任を負うことになるだろう。だがしかし、立花希佐をユニヴェールに入学させた時点で、中座はその覚悟を決めていたはずだ。むしろ、謝罪の機会がないまま五年もの月日が過ぎてしまったことの方が、中座には問題なのかもしれない。

 しかし、中座が謝罪をすればそれで済むのかといえば、そうともいえない。倫理観に厳しいお国柄だ、男子校の中に女子生徒が紛れ込んでいたとなれば、人々の中には不快感を露わにする者もいるだろう。

 周りの生徒は本当に気づいていなかったのか、知った上で黙認していたのか、不純な行為が行われていたのではないか──立花希佐と関わりのある生徒の多くは査問に掛けられ、有る事無い事を根掘り葉掘り訊ねて回られて、名誉を傷つけられるかもしれない。

 真実、生徒のほとんどは、立花希佐が女であることを知らなかった。同じクオーツ生ですら、そのほとんどは、立花希佐が女かもしれないなどとは、露ほども考えたことがないだろう。それだけ、立花希佐は上手く少年を演じていたし、真実を知る限られた人々も、その手助けを怠らなかった。

 責められるのが自分一人だけならば、希佐は失踪などしなかったはずだ。自らの三年間を粛々と認め、真摯に謝罪し、責任を負おうとしただろう。

 立花希佐の失踪は、周りにいた人間にも、少なからず原因はあるように思う。

 本人による説明は当然のことながら必要だが、そこに至るまでの道を共に歩むことはできたはずだ。だが、希佐が気丈に振る舞うあまり、何も心配する必要などないのだと、本人にも何らかの考えがあるのだろうと、そう思ってしまったことは否めない。

 卒業したら一緒に住まないかと言った。

 だが、希佐は「今は秋公演の準備で忙しくて──」や「ユニヴェール公演が終わるまでは、舞台に集中したいんです」などと言って、お茶を濁すばかりだった。耳心地の良い返事を期待して何度か提案をしてみたが、希佐はその都度、今はまだ考えられないというふうな顔をして、申し訳なさそうにしていた。

 だから、最後のユニヴェール公演が終わったら、もう一度提案してみようと思っていたのだ。だが、そういう問題ですらなかったのだろう。希佐は最初から、更文と同棲する気など、微塵もなかった。もうずっと前から、最後のユニヴェール公演を終えた翌日に、玉阪から姿を消すことを決めていたのだろうから。

 要は、袖にされたのだ。いや、実際、付き合っていたのかどうかも、今となっては分からない。ユニヴェールにいた頃から、好きだと言うのは自分ばかりで、それに対する返事はいつも「ありがとうございます、フミさん」だった。

 たった一度でも、あの細い体を抱いていれば、潔く諦めもついたのだろうか。手に入らなかったからこそ、今でも未練のような感情を引きずっていて、忘れることができないままなのだろうか。手に入れたものはいつの間にかその価値を忘れてしまうのに、手に入らなかったものの価値は、年々上がっていくような気がする。

 こうして自分の考えを整理すればするほどに、頭がすうっと冷えていくような、心の中で燃え滾っていた炎がゆっくりと鎮火されていくような、そんな気もするのだ。

 愛は確かにそこにある。

 愛しているのだと思う。

 だが、そんな自分を愚かだとも思っていた。

 既に五年もの月日が過ぎ去っている。日本にはもう戻らないつもりでいるのかもしれない。こんなにも思いを募らせているのは、相も変わらず自分ばかりで、彼女の方はといえば、かつて自分を好いていた男のことなど、思い出すこともないのかもしれない。

 未だ、好いた女の帰りを待ち続け、あの手狭なアパートの一室に住み続けている女々しい男のことなど、ほんの一瞬だけ、忘れてほしいと願った。

 朝食の支度をしに入ってきたお弟子さんと入れ違いに、更文と拾はキッチンを後にした。舞を見せてほしいという姪の注文に応え、再び稽古場に向かった更文は、奥から引っ張り出してきた座布団の上に、拾を座らせる。

「特等席だぞ」

「ありがとうございます、おじさま」

 この幼子が、神様と踊っていることを、更文は知っていた。

 幼い頃の自分がそうであったように、この小さな女の子は夜な夜な一人、人気のない稽古場でひっそりと踊っていることがある。時々、くすくすと楽しげな笑い声を上げながら、見えない誰かと踊っている。以前、それとなく訊ねてみたが、本人にそのときの記憶はないようだった。

「いるらしいですね」一助は特に動揺した様子もなく、平然と言った。「私は会ったことがありませんが」

「女の子だよ。おかっぱ頭で、真っ赤なおべべを着てた。俺も小学校の低学年くらいまでは見えてたけど、いつからかぱったり見なくなったっけな」

「基さんにはその話をしないでやってください」

「羨ましがるからか?」

「いいえ、お化けが苦手なんです」

 当時のことを思い出しながら、稽古場の家紋を背にして座っている小さなお客さんの前で踊っていると、不意に、あっ、という声が上がった。更文から少しだけ視線を外し、驚いたような顔をしたあと、にっこりと笑いながら唇に人差し指を添えた拾を見て、ああ、あの子はまだ一緒に踊ってくれているのだと、そう思う。

 このおかっぱ頭の小さな女の子はいつも、足の運びや、指の置き場、視線の流れ、呼吸をする頃合いまで、こうするんだよとでも言うふうに、更文に教えてくれていた。そういうときは変に逆らわず、天から伸びてきた見えない糸に身を任せ、踊りたいように踊らせてやると決めている。

 膝を曲げ、腰を低く落として、重心を傾けた。指先をちょこんと覗かせた袖で口元を覆い、恥ずかしげに顔を隠して、小首をかしげて見せる。伏し目がちな眼差しを拾に向ければ、ぽっと頬を赤らめた顔が、真っ直ぐにこちらを見つめ返してきた。

 さて、お次はどうする──更文がそう思って次の所作に移ろうとしたそのとき、天から自分を吊り上げていた糸が、ぷつり、と切れるのを感じた。途端に軸がぶれ、前のめりに倒れ込みそうになるのを、踏ん張って堪える。

 拾の残念そうな顔を見てから後ろを振り返ると、そこには一助が立っていた。

「二人とも、朝早くから精が出ますね」

「おはようございます、父さま」

「おはようございます、拾さん」

 座布団から降りて座り直し、両手の指先を揃えて床につくと、拾は恭しくお辞儀をしてみせる。その姿を目の当たりにした一助は、その場で正座をすると、同じように美しいお辞儀で返していた。

「朝食の支度が整っていますよ。お稽古の続きは後にして、先に食事にしましょう」

「はい」

 拾は返事をして立ち上がるが、自らが座っていた座布団に目を向けると、その細腕を使って、よっこらしょと持ち上げようとした。綿がたっぷりと詰められた座布団は意外に重く、それを抱えた拾いの足元は覚束ない。

「これは俺が片付けておくから、お前は先に行きな」

「でも」

「早くしないと基に全部食べられちまうぞ」

「それは困ります」途端に慌てた顔をした拾は、更文に向かってぺこりと頭を下げた。「よろしくお願いします」

「はいよ」

 たったったっ、と駆けていく小さな背中に「転ぶなよー」と声を掛け、更文は座布団を拾い上げた。それを奥の物置に置いて戻ってくると、そこにはまだ一助の姿がある。こちらを見る面差しがどこか物言いたげに感じられて、更文は一助のすぐ隣で足を止めた。

「なんだよ」

「いいえ、なにも」

「兄貴まで俺の舞に難癖つけるつもりか?」

「私はまだ何も言っていませんよ、フミさん」じろりと睨めつけられても尚、一助は飄々としていた。「それに、私は今のあなたの舞も嫌いではありません。それを高科の舞だと断言することはできませんが」

「だろうな」

「幸いなことに、あなたはまだ高科二千奥ではないのです」一助はそう言うと、ふふ、と笑う。「だから、そのときが訪れるまでは、お好きになさい」

 朝食後、二人の元気が有り余っている午前中のうちに、更文は子供たちの稽古を見てやった。

 基の舞は力強く、躍動的だ。元気なのはいいことだが、稽古に飽きてくると動きが雑になり、散漫としてくる。対して、拾の舞は繊細で、ゆったりとした、品の良さがあった。だが、基よりも体力が劣っている分、稽古が終わる頃にはふらふらになってしまう。

 途中、休憩時間を挟むと、基は集中力が途切れ、拾は休むことなく自主稽古を続けてしまうので、一度の稽古時間は三十分から一時間と決めて行っていた。

 昼食後、子供たちは昼寝の時間だ。更文はその間に、約一ヶ月後に迫っているイギリス行きの件について、一助と話し合うことにした。日程はもちろん、連れていくお弟子さんの数や、滞在場所、費用、ワークショップの内容についてなど、確認しておくことは山のようにある。

「父上の名代として足を運ぶようになってから、ずっと一緒に来てもらっていた東雲を同行させるので、向こうに行ってからの手順で分からないことがあれば、彼に訊ねていただければ」

「あの人、今日も親父に同行してるんだろ?」

「彼は父上のお気に入りですからね」

 東雲雅也は高科流の弟子の中でもその実力が抜きん出た存在で、師範代を名乗ることが許された数少ない者の中の一人だ。

 一助の幼馴染で、日本舞踊の稽古通いをしていたが、中学を卒業すると同時に高科流に弟子入りし、高校に通いながら修行を積んでいた。おっとりとした穏やかな人であると同時に、とても気が利くので、高科二千奥が外回りを行うときは、有無も言わせず連れ回されている。

「彼はここにいるよりも、ロンドンへ行った方が楽ができると思いますよ。常日頃から二千奥の世話係としてあくせく働いてくれているのです。これを機に、あちらでは目一杯羽を伸ばしてもらうとしましょう」

「途中、暇を出して観光でもしてもらうかね」

「あなたもですよ、フミさん」

「え?」

「少しくらい羽目を外しても、それを咎められることはありません。せっかく日本を離れてロンドンに行くのですから、多少は遊んでいらしても構わないんですよ」

「遊ぶねぇ……」

 更文は、馴染みのない国で羽目を外して遊び呆けたいとは、とてもではないが思えなかった。第一、今回は高科二千奥の名代として、仕事でイギリスに出向くのだ。下手なことをして、万が一にも高科二千奥の名前に泥を塗るなんてことになれば、どの面を下げて日本に帰ってくればいいのか分からない。

「そうそう、父と私の教え子で、あなたと同い年の青年がいるんです」

「日本人か?」

「いえ、イギリスの方ですよ。寡黙で朴訥とした子ですが、とても良い子です。ワークショップには毎年顔を出してくれるので、今年も来てくれると思います」

「へえ」

「世界的なバレエコンクールのコンテンポラリー部門で一位を取るような子ですから、もしかしたら、フミさんの方にも学ばせてもらえることがあるかもしれませんね」

 イギリス、それもロンドンともなれば、きっと世界中の才能が集まってくるのだろう。世界的なコンクールやコンテストなどで優勝経験のある者など、それこそ掃いて

捨てるほどいるのかもしれない。

 ロンドンのウエスト・エンド・シアターは、アメリカのブロードウェイ・シアターと並ぶ有名な劇場地区だ。玉阪は日本でも有数の演劇の町で、玉阪座に集った数多の才能は間違いなく世界に誇れる存在だが、日本の外側に目を向けてみると、あまりにも規模が違う。

 井の中の蛙大海を知らず。

 そんな言葉が脳裏を過ぎる。自分の才能には確固たる自信があった。高科の舞は世界に出ても通用するという確信がある。だが、日本の舞が果たして万人に受け入れられ、理解出来るものかというと、そうではないのかもしれない。

 そういう意味でも、一人でも多くの人に高科の舞を見てもらうためにも、イギリスに行くことは有益なのだろう。

「そういえば、イギリスへは根地くんも行くというお話しでしたね」更文が物思いに耽っていると、一助が思い出したように言う。「滞在場所はこちらで一緒に手配しましょうか?」

「ああ、いや、あいつはいいんだ。知り合いのところの部屋を借りるって言ってた。ミツも一緒に行くことになるかもしれねぇんだけど、あいつは人との共同生活なんて無理だろうから、自分でホテルを取るって言うと思うわ」

「分かりました。まだ何日か余裕はありますから、何かあれば言ってください」

「悪いな、兄貴。何もかも任せっぱなしで」

「いいんですよ。私はこういう細々としたことが得意ですし、何より好きなんです。それに、フミさんには他にもお仕事があるでしょう? 英語のレッスンも大変でしょうしね」

「あんなもんはただの悪あがきだよ。詰め込み教育にもほどがある」

「日常会話が困らない程度には話せた方がいいですからね、頑張ってください」

 根地黒門からは、自分が通訳をしてやると売り込まれたが、それにはほとんど期待していなかった。あの男がイギリスまで行って、一所に大人しく留まっていられるとも思えない。

 だから更文は、少なくとも、ワークショップに来てくれた人たちと会話できるだけの英語力を習得したいと思い、イギリスへ行くことを決めてすぐの頃から、週に五日の英語の個人レッスンを行っていた。

 だが、自分の英語以上に心配なことが一つあると、更文は思う。

 それは、根地黒門の存在だ。当人は面白がっているつもりなのだろうが、黒門がイギリスへ行くことは得策ではないと、更文は思っていた。ここ最近の様子がおかしいのは、向こう数ヶ月分の仕事を詰め込みに詰め込み、何日も寝ずに作業をしているからというだけではないだろう。

 自分から立花希佐に向けられているあらゆる感情の原因を、高科更文への哀れみに変換しているが、実際にはそうではないはずだ。

《根地さんから立花に向けられている感情って、本当のところは──》

 昨夜、通話が何の前触れもなく途絶えてから一時間ほどが経った頃、白田美ツ騎から謝罪のメッセージが届いた。それは、スマートフォンの充電が切れたみたいで、話の途中だったのに、すみませんでした、という何の変哲もない文面だった。

 だが、その最後の一行には、こう記されていた。

《──立花のことが好きだっていう、恋心なんじゃないでしょうか》

 

 

 

 

 

「いや、だからその件に関しては、ユニヴェールの入試が終わってからともう何度も──ああ、ああ、そうだ、手筈は既に整っている。あとは時期を見計らって──」

 江西録朗が呼び出しに応じて校長室にやって来ると、およそ校長室とは思えないほど雅な和の室内から、そう言う苛立たしげな声が聞こえてきた。どうやらまた、玉阪座のお偉方から嫌味の電話が掛かってきているようだ。

 江西が眉の辺りを掻きながら姿を現すと、中座秋吏は待っていたと言わんばかりの顔をして、スマートフォンを耳から遠ざける。

「悪いが、切らせてもらうぞ。客が来たんだ」少しも悪いと思っていない顔で、中座は続ける。「それと最後に、現時点で俺の口から言えることはもう何もない。また連絡してきても同じことしか言えねぇからな。それに、話があるときは電話なんかじゃなくて、手土産持ってこっちから会いに行ってやるから、それまで大人しくしててくれや」

 ぎゃあぎゃあと喚くような声が微かに聞こえていたが、中座はそんなことなどお構いなしに、スマートフォンの電源を落としたようだ。卓上の書類の上にスマートフォンを伏せて置き、額に手を当てながら、大きく息を吐き出している。

「また立花のことですか」

「ああ」中座はうんざりした様子で頷いた。「本当、しつこいもんだよ、ったく」

「俺としては、よくもまあここまで隠し続けることができたなと、感心しているくらいなのですが」

「あいつの事情を知る親しい仲間連中が、それだけ必死になって守ってたってことなんだろうよ。多少の情報の漏洩はあっても、今の今まで、それが悪意ある者の目に触れなかったっていうだけでも、相当奇跡的だ。俺としちゃあ、あいつにはもう少し長く、自由と安寧を満喫してほしかったんだけどな」

 それは自分も同じ気持ちだと、江西は思う。

 立花希佐は、以前よりも頻繁に連絡をくれるようになり、その電話口の声からは、ユニヴェールにいた頃と同じような、生き生きとした元気の良さを感じさせていた。

 何の前触れもなくユニヴェールから失踪し、多くの人を傷つけ、裏切ってしまった自分と、真正面から向き合いたいのだと。そのためには、自分にできることからはじめたいのだと、そう言った言葉に、きっと嘘偽りはないのだろう。

 かれこれ一ヶ月以上前には既に、立花希佐は日本に向けた謝罪のための動画を撮影し、それを中座秋吏に送って寄越していた。同じような内容の英語の動画も送られてきていたが、そちらは日本語の謝罪動画よりも、かなり穏やかな雰囲気に仕上げられていた。

『今度出演する舞台の演出家の方が動画撮影を手伝ってくださったんです』日本語と英語で、動画の雰囲気が異なっているのも、その演出家の指示に従った結果なのだろう。『公開の時期は校長先生の判断にお任せします。私はいつでも構いません』

 立花希佐は吹っ切れた様子だった。いや、何があってもすべてを受け止める覚悟を決めていると、そう表現した方が正しいのかもしれない。

「立花のこと、玉阪座のお歴々方はなんと言っているんですか?」

「早く出頭させろとさ」

「出頭、ですか」

「悪い芽は早いうちに摘んでしまいてぇんだろうがな。今はまだ、そこまででかい事態にはなってねぇが、それも時間の問題だ。何せ、あいつの動画は世界中で拡散されて、賞賛を浴びちまったわけだし。あれがこの五年間、その行方が杳として知れなかったユニヴェールの立花希佐じゃねぇかって話は、そりゃあっという間に広がるだろうよ」

「そうですね」

「ましてや、今の立花は見るからに女だ。まあ、稀代のアルジャンヌと呼ばれていた役者だからな、さして違和感はないのかもしれねぇが、ユニヴェール在学中のあいつは、ロードナイトのジャンヌみたいに女性らしさを売りにしていたわけじゃねぇ。SNS上であれこれと推測しはじめる連中もちらほら出始めているらしいぞ。あいつは在学中から女疑惑が浮上してたからなぁ。一部のアンチに付け狙われていただろ」

「それは立花にかぎったことではありませんよ」

 ユニヴェールの学生、特に女性的な容姿に恵まれた生徒は、定期的に女なのではないかという疑惑をかけられ、所謂アンチに目をつけられることがある。クオーツOBの白田美ツ騎や、ロードナイトOBの忍成稀やその兄の司がそれだった。

 一見すると女性よりも女性らしく、美しい外見の彼らは、女性から妬みのような感情を向けられることがある。当人たちは気にも留めていなかったが、そうした彼らの存在が、本物の女である立花希佐を隠すためのカムフラージュにもなっていた。

「あいつが女だってことはもはや隠し通せない。男だとか、女だとか、もうそんな時代でもねぇってのにな。だが、だからこそ男だけで構成されるユニヴェールや玉阪歌劇が評価されるなんて言う年寄り連中もいる。多様性の時代に置いていかれた者の末路だねぇ。俺ぁこうはなりたくねぇなぁ」

「あなたが立花希佐をユニヴェールに入学させなければ、こんなことにはなっていなかったんですよ」

「いやあ、まったくもってその通り。耳が痛いねぇ」ちゃらけた様子でそう言うのを黙って見ていると、中座は呆れたようにため息を吐いた。「当時のユニヴェールには、立花継希のような圧倒的な光が必要だったのさ。アンバーの闇と互角に張り合える、いや、その闇に打ち勝てるだけの光がな。田中右宙為の才能は本物だし、あいつ自身が悪いことなんか一つもねぇんだが、俺のユニヴェールがアンバー一強になることだけは、何が何でも避けたかったんだよ」

「立花継希がいた時代のクオーツがそれでした。同じことだったのでは?」

「立花継希は周りに良い影響を与える男だったろ。みんながあの男に憧れていた。あの高科更文ですらその背中を必死になって追いかけていた。次は自分が立花継希のようなジャックエースになるんだと、多くの生徒たちが息巻いていた」

「……でも、田中右宙為のようになりたいと思う生徒は多くない」

「少なくとも、アンバー以外でそんな奇特な物の考え方をする生徒を、俺は知らねぇな。だが、立花継希を目指すアンバー生はいたはずだ。そこが、立花継希と田中右宙為の格の違いだよ。田中右宙為は人の夢や希望を黒く塗りつぶすが、立花継希は──いや、立花兄妹は、惜しみなくそれらを分け与えてやれる稀有な存在だったんだ」

 生粋のエンターテイナーたちと、生まれながらにしてのアーティスト。昔、田中右と立花希佐のことを、太極図のようだと表現した者がいた。彼らはまるでタイプの違う役者だが、存在していた世界は不思議と似通っていたのではないかと、江西は思っている。

 だが、背中合わせに立っているので、決して同じ景色を見ることはない。

 田中右は自分のために、立花は人のために、同じ舞台の上に立つ。

「それに、当時はどうにかこうにか説得に成功したから良かったものの、クオーツをこの先も存続させるためには、どんな手を使ってでも玉阪座の理事会を言い包める必要があったことが、立花希佐をユニヴェールに勧誘した最も大きな要因だ」

 この中座秋吏という男は、最後の最後まで、立花希佐にその真実を伝えることはなかった。立花は、自らの預かり知らぬ場所で、その細い両肩に大きな責任を背負わされていたのだ。ただ、立花継希の妹である、というだけの理由で。

 もしかしたら、彼女がユニヴェールを卒業したあと、実はこんなことがあってな、と笑い話のように話して聞かせるつもりだったのかもしれないが。

「あの頃、立花継希を失ったクオーツは徐々に成績を落としていき、翌年の秋公演には最下位にまで順位を落とした。舞台の完成度も、他のクラスと比べると見るからに劣っていた。あの頃、理事会は各クラスのレベルの底上げを画策していたからな。根地黒門の転科は失敗だったと言われていたし、白田美ツ騎はロードナイトに、高科更文はオニキスに転科させた方が、あいつらの長所を伸ばしてやれるだろうとも言われていた。そもそも、理事会は本来、根地をクオーツにはやりたくなかったのさ。根地と田中右には『我死也』以上のものを期待していたんだろうが……」

 中座はそこまで言うと、何かを思い出したような顔をして、小さく笑う。それを見た江西が思わず眉を顰めると、中座は「実はな」と話を続けた。

「根地は俺にこう言ったんだよ。自分は、田中右宙為に舞台のその先にあるものを見せるために、転科をしたいんだってな。もちろん、クオーツに希望を見出したっていうのも理由の一つではあるが、一番は、田中右宙為を育てるためだ、とね。おそらく根地は、立花継希率いるクオーツの一強時代をよく思ってはいなかったんだろうよ。だからこそ、田中右宙為率いるアンバーの一強時代を良しとしなかった。根地は、田中右宙為に対抗し得る才能を育てることで、田中右宙為の成長を促そうとしたんだ。根地の行動は、結果的にクオーツを再生に導き、立花希佐による一強時代を助長させてしまったわけなんだが」

 根地黒門は才能を無視することができない性分だ。目の前にある才能が正しく生かされていないと感じれば、その秘めたる才能が自らを満足させるに足り得るものなのか、それを確かめなければ気が済まない。

「あの背の高い彼!」

「……睦実のことか? 睦実介だ」

「そう! その睦実介くん!」

 当時、後のジャックエースとなる睦実介は、主役を引き立てるアンサンブルの、その更に後ろの方にいるような生徒の一人だった。ジャック、ジャンヌ以前に、台詞や名前のある役を与えられたことは、ただの一度もない。そのくせ背が高く、雰囲気が凛としていて、立っているだけでも目を引く存在感があったので、根地以外にも、同期でオニキスの海堂岳信は、その才能に早い段階から目をつけていたようだ。

 あの頃の睦実に足りなかったものは、自己主張、それに尽きる。

「秋公演のジャックエースは彼ですよ、録朗氏!」

 そんな、クオーツの同期や当時の三年たちから見向きもされていなかった睦実を、夏休み前まではアンバーの生徒だった根地黒門が、秋公演のジャックエースに抜擢すると言い出したときは、それはそれは相当な騒ぎになった。江西の下には何人もの生徒が抗議に現れ、思い思いに不平不満を漏らしていったが、演出と脚本を一手に引き受けていた根地は一切聞く耳を持たず、結果、秋公演は最下位だ。

 だが、彼らの表情は意外にも晴れやかなもので、再び荒れはじめるのではと懸念していた江西の心配は、幸いにも杞憂に終わった。かくして根地黒門はクオーツに受け入れられ、なくてはならない存在となっていった。

「あいつは立花継希と直接的な関わりがなかったからな、他のクオーツ生たちが継希さん継希さんって言うのを理解できなかったのかもしれねぇが、その妹である立花希佐と出会って、他の連中の気持ちがちったぁ理解できたんじゃないのかね」

「根地は他のどの後輩たちよりも立花のことを可愛がっていましたから」

「可愛がるねぇ」

 中座はそう言いながら、机の上の専用の台に立て掛けられていた煙管を手に取った。ちらりと向けられた上目遣いに小さく頷けば、中座は小箱の中から取り出した刻み煙草を、慣れた手つきで火皿に詰めていく。

「俺ぁあいつが真っ先に気づくだろうと思っていたよ」

「立花の性別にですか?」

「ああ」イギリスにいる立花からの贈り物だと、嬉しそうに自慢していた真鍮のケースからマッチを取り出し、中座はそれで煙草に火を付けた。「あれで鋭い男だからな。要は、あいつらは互いに危機管理能力に長けてたってことなんだろうさ。立花は冬公演以降、不必要に根地に近寄らなくなった。それはそうだろう、女だってことがバレれば、もうユニヴェールにはいられなくなる。まあ、理由はそれだけってわけでもなさそうだったが」

 生徒の個人的な問題にまで口を出すのは野暮ってもんだろ、と言いながら、中座は江西から申し訳程度に顔を逸らすと、大層旨そうに煙を吐き出した。

「根地は根地でそんな立花を追い掛けようとはせず、先輩後輩の健全な距離感を貫き通した。あの冬公演を見るに、深層心理では立花が女だってことに気づいていたんだろうが、ここはユニヴェールだ、そんなはずはないと自分自身の直感を否定し続けていたんだろうよ」

 お前が受け持つクオーツの生徒の中に女がいる、と知らされたのは、入学式の数日前になってからのことだった。行事前の最も忙しい時期に突然呼び出され、校長室にやって来てみれば、中座は酷く平然とした顔でこのように言ってのけた。

「クオーツにクラス分けされた立花希佐だけどな、最初に言っておくが、あいつは女だよ」呆然と立ち尽くすことしかできない江西を見ながら、中座は続けた。「このことを知っているのは俺とお前、それから立花の幼馴染だったらしい、同じクオーツ一年の世長創司郎だけだ。だから、立花が何か困っていそうなときは、それとなく声をかけて、いろいろと配慮してやってくれ」

「……理事会は──」

「もちろん、連中は何も知らねぇよ」やっとのことで絞り出した声を、中座は一刀両断した。「ついでに言っておくと、あれは立花継希の妹だ。同じ苗字で、あれだけ雰囲気が似ていれば、ちょっとした騒ぎにはなるかもしれねぇが、二人の関係を断言することは避けてくれ。否定も肯定もしなくていい」

 あっけらかんと、嘘は良くねぇからなと言う中座を見て、江西はどの口が言っているのだと、そう思った。女を男と偽ってユニヴェールに入学させようとしている時点で、この男は救いようのないペテン師だと思う。だがしかし、それに盾突くほどの熱意も持ち合わせていなかった江西は、自分をユニヴェールの教員にと推してくれた恩人である中座に従い、共犯者となる道を選んだのだ。

 立花希佐は上手くやっていた。中座や江西の前では、地の女の部分が出てしまうこともあったが、それ以外の場所では、常に少年らしく振る舞っているように見えた。

 だが、確か、78期の二年の終わり頃のことだ。真夜中過ぎに寮内の見回りを行なっていると、クオーツ寮の真っ暗な稽古場で、ぽつんと立ち尽くしている立花希佐の姿を見かけたことがあった。いつもなら見て見ぬ振りをして通り過ぎるのだが、その日はなぜか、普段と様子が違っているように感じられ、気がつくと声を掛けていた。

「どうした」

「……江西先生」ぞっとするほど生気を感じさせない声で、立花は江西を呼んだ。「今日の稽古がどうしても上手くいかなくて」

 懐中電灯を片手に近づいていくと、立花は床に向けられた光の反射光ですら分かるほど、顔面を蒼白にさせていた。眼前でよろめく立花に向かって、反射的に腕を伸ばすと、その細い腰に腕を回して、咄嗟に体を支えてやった。

「すみません」

「いや」

「今月は月のものが異常に重たくて」立花は江西の体をそっと押しやりながら、衣擦れのような小さな声でそう言った。「だから、体が思うように動かなかったんだと思います」

 普通、年頃の女性ならば多少は恥じらいを見せる話題なのだろうが、あのときの立花からは、そういった感情が一切感じられなかった。ただそれが必要なことだから、義務的に事実を述べているだけのように見受けられていた。

「大丈夫なのか?」

「多分、ユニヴェール公演が無事に終わって安心したのと、三年生の先輩方がご卒業されてしまうので、自分が思っている以上に、体がストレスを感じているのかもしれません」

 全公演でクオーツはクラス優勝、立花希佐は個人賞金賞を受賞し、これで77期の先輩方を華々しく送り出すことができると、後輩たちは大いに喜んでいた。だが、立花はこの通り、不安顔だ。

 それはそうだろう。立花が女だと気づいておきながら、その事実には一切触れることなく、付かず離れずの距離感で気遣っていた白田美ツ騎が、来年度からはいなくなるのだ。白田が、立花の女性特有の体の不調をつぶさに察知し、陰ながらフォローしていたことを、江西は知っている。

 立花にとって白田の存在は、精神的な支えとなっていたに違いない。そんな白田がいなくなる。そのストレスが体に不調として現れていたのだと思う。

「無理はするなよ、立花。体調が悪いときは気にせず休んでいい」

「ありがとうございます、江西先生」ほんの少しでも、溜め込んでいた思いを吐露することが出来てほっとしたのか、立花の表情が幾分やわらかくなっていた。「校外の友人が付き合ってくれるというので、明日、絢浜の婦人科に行ってきます。来年度からは大変なことも多いと思いますし、その度に月に一度不調を起こしていたら、きっと不審に思う人も出てくるでしょうから」

「ああ」それ以上の慰めの言葉を、江西は口にすることが出来なかった。「気をつけてな」

 立花はそれ以降、誰に対しても体の不調を訴えることはなかった。もしかしたら、人知れず気分が悪くなることもあったのかもしれないが、それを噯にも出さず、最後のユニヴェール公演まで立派にやり遂げていた。

 立花は可能なかぎり、最善を尽くして、自身の性別を隠し続けていた。

 立花は自分の夢を叶える代わりに、大勢の人々を騙し、嘘を吐き続けていた。

 すべてのことは、たった一つの嘘から始まっている。

 立花希佐は、女である。

 今では、そのどうしようもない問題が、まるで彼女自身の罪であるかのように語られはじめてしまった。

 立花希佐の前では、男か女かなどという問題は、とても瑣末なものに思えた。だがしかし、多くの人々が目の当たりにしてきたのは、彼女の煌びやかな一側面でしかない。舞台上で千のスポットライトを浴び、誰よりも光り輝くあの役者が、誰よりも泥臭く、誰よりも努力家で、人一倍の頑張り屋だということを、多くの者は知り得ない。だが、その事実を説いたところで、人々はだからどうしたと罵るのだろう。そもそも、女であるはずの立花希佐を、玉阪座理事会の許しもなく、ユニヴェール歌劇学校校長の身勝手な裁量で入学させること自体が、過ちであったのだと。

 それは確かにその通りだ。

 しかし、歌劇に憧れ、兄に憧れ、ユニヴェールという舞台に魅了されていた、当時十五歳だった少女が、その誘いの手を振り払うことが出来ただろうか。到底無理だったことだろう。実家は常に火の車、頼りの兄は姿を消し、自分が働かなければ路頭に迷うかもしれないという状況下、絶望の中で、そんな光り輝く提案をされてしまったとしたら。きっと、誰しもが、その手を取らずにはいられないはずだ。

 ならば、当時少女だった立花が責められる言われはないのか。

 いや、それは違うと江西は思う。確かに謝罪の機会を設ける必要はあっただろう。だが、矢面に立たされるべきは校長の中座秋吏であって、彼女自身ではない──そう、ユニヴェール78期生として卒業したばかりの頃なら、それで済んでいたはずだ。

 だが、立花希佐は失踪した。

 そして、それを知る数少ない大人たちは、それを良しとしてしまった。

 立花希佐という役者が、入学当初に想定していたものよりもずっと、大きな存在になってしまったことが、何よりも問題だった。あの田中右ですら、立花希佐率いるクオーツの前では、一度としてクラス優勝を奪還することは叶わなかったのだ。その事実が、田中右宙為と並び、立花希佐という存在を、ユニヴェールの生徒たちの中で神格化する要因となっていた。

 もし、次の圧倒的な才能が現れていたとしたら、話は違っていたのかもしれない。

 あの五年──74期の立花継希からはじまり、78期の立花希佐に至るまでのあの五年間に現れた綺羅星に次ぐ才能は、未だ現れてはいなかった。だからこそ、ユニヴェールフォロワーたちは、彼らのことをいつまで経っても忘れることが出来ないのだろう。

 今が悪いのではない。ただ、あの頃が特別だったというだけのことだ。

 立花希佐は成人し、今は遠くイギリスはロンドンの地で役者を続けている。江西はそれを誇らしく思っている。自分の教え子の成功ほど喜ばしいことはない。

 立花希佐が、男だったなら。

 もしそうならば、何の憂いもなく、教え子の活躍を遠くから見守っていられたのにと、江西は思った。彼女が男でも女でもその才能は変わらない。だが、世間はそのようには見てくれない。だがもし、男だったならと、そう思わずにはいられないほど、彼女が不憫で仕方がなかった。

「……高科と根地がロンドンに行くことは極秘事項のはずなのですが」長い時間物思いに耽っていたような気がするが、時計の針は五秒と進んでいなかった。「どういうわけかマスコミにリークされているようで」

「どうせ玉阪座の年寄り連中がやったことだろ」

 中座がそう言って煙管を吸うと、火皿の中の刻み煙草が、一瞬にして真っ赤に燃え盛った。間もなくしてただの灰になったそれは、カンカン、と灰皿の中に叩き落とされる。

「二人がロンドンに行って羽目を外しすぎないように監視をつけたいのさ」

「あの二人のことですから、その辺りのことは上手くやると思いますが……」

「問題は立花だっていうんだろ?」

「はい」

「二人は間違いなくロンドンにいる立花希佐と接触するはずだ。日本から金魚の糞よろしくついていったマスコミを引き連れてな」

「構わないんですか?」

「俺にあいつらの行動を制限する権限はねぇし、こちとらマスコミ様々のお陰様で食ってるような人間だぞ。連中のやることに口出しできる立場にはねぇんだよ。マスコミは報道の自由だの、視聴者には知る権利があるだのと大義名分を掲げて、ありとあらゆるところに土足で踏み込んできやがるが、俺が守ってやれるのはユニヴェールに在学中の生徒たちだけだ。卒業生たちのことも気持ち的には守ってやりたいがな。成人した連中のことまで面倒を見るってのは、ちったぁ過保護がすぎるってもんだろうが」

「それは、立花のこともですか?」

「あいつのことは、まあ……」中座は居心地が悪そうに煙管の吸口でこめかみの辺りを掻きながら、小さく息を吐く。「場合によっちゃあ、俺が死ぬまで面倒を見るさ。とうにその覚悟は出来てるよ」

「それを聞いて安心しました」

「俺は子供がいねぇからなぁ」

「……まさか、立花を娶るつもりだなんて言いませんよね」

「それも悪かなさそうだがな」中座はころころとその表情を変える。ばつが悪そうな顔は影を顰め、ほんの少しだけ楽しげに笑った。「あいつを養子に取るのも一つの手だとは思ってんだ。女のあいつを跡取りに据えることは出来ねぇが、中座の名前であいつを守ってやれるかもしれねぇからな」

 この人はまた突拍子もないことを──江西はそう思うと同時に、果たしてそこまで突拍子もないことなのだろうかと、正反対のことを考える。

 この問題は、昼間のワイドショーを騒がせるネタとして、暫くは世間を騒がせることになるのだろう。ユニヴェール歌劇学校の門前には多くのマスコミが詰め寄り、出入りする者を呼び止めては、この一件について思うところはないのかと、執拗にマイクを向けてくる。

 日本各地に散っている、かつてのユニヴェール生のところへ次々と赴き、あなたは彼女が女性であったことをご存知だったのではありませんか、などと問い正して回るのかもしれない。

 それだけでは飽き足らず、玉阪座はもちろん、玉阪の町に下りて、そこに住む人々や、立花が学生時代によく通っていた店にずかずかと土足で入り込み、当時はどのような生徒でしたか、彼女を女性だと感じたことはなかったのですか、などとカメラを構え、尋ねて回る。

 そして、テレビ画面にはモザイクを掛けられたユニヴェールフォロワーが現れ、あることないこと騒ぎ立てるのだろう。本当のことなど、誰一人、何一つ知りもしないというのに。

 この問題の結末がどちらに転ぶかは、ユニヴェール歌劇学校の母体である玉阪座の判断によって決まる。玉阪座が立花希佐を擁護すれば、そこまで大事にはならないのかもしれない。だがもし、その場で梯子を外されようものなら、立花希佐はすべての罪を背負い、この先も生きていかなければならなくなる。

 立花希佐は確かに女だ。

 だが、その事実に目を瞑ったとき、立花希佐が残してきた多くの功績は、ただ燦然とそこに存在している。たった一つの嘘は、多くの人を騙し、裏切り、失望させるのかもしれない。しかしそれでも、彼女が歩んできた道筋が消えてなくなることはないのだ。ユニヴェールの舞台に立っていたあの役者は、徐々に短くなっていく蝋燭のように、自らに与えられた残り少ない夢の時間を削り取り、命を燃やし続けていた。

 そう遠くない未来、最後の審判が下される。天使のラッパが鳴り響き、罪状が高らかに叫ばれる。おそらく、自分は証人としてその場に立たされるのだろう。そのときは、自分の罪もつまびらかにしなければならない。それでも、自慢の教え子を孤独の中に置き去りにしたりはしない。彼女に嘘を吐かせた者の共犯者として、共に裁かれるつもりだ。

「そうでした」朱に染まっていた空が、群青色に変わりはじめているのを横目に見て、江西は本来の目的を思い出す。「頼まれていたものです」

「おう、そうだったな、悪い悪い」

 迫る入学試験の受験者記録を持ってくるように言われていた江西が、ポケットに忍ばせていたUSBメモリを差し出すと、中座はそれを受け取り、早速自らのパソコンに情報を取り込みはじめた。中座は毎年入学試験を受ける全員の情報に目を通し、才能を取りこぼすことがないように、注意を払っていた。

「俺はそろそろ戻ります。生徒から稽古を見てほしいと頼まれているので」

「ああ、長話に付き合わせちまって悪かったな」

「いえ」

「今度ゆっくり美味い飯でも食いに行こうぜ。奢ってやる」

「考えておきます」

 一礼をして校長室を後にし、人気のない回廊を歩きながら、再びぼんやりと物思いに耽る。人と話をするよりも、こうして一人で何かを考えているときの方が、ずっと考えがまとまりやすい。

 実のところ、江西は立花のことをあまり心配してはいなかった。

 自らの意思を決して曲げようとはせず、中座や江西の度重なる説得にも応じずに日本を飛び出し、アイルランドを経てイギリスの地へと渡った今、その場所で、役者として成功している。

 間違っても容易な道のりではなかったはずだ。未だかつてないほどの努力を必要としたことだろう。それでも、立花は自らの力で、自分自身の居場所を見つけ、それを手に入れた。頼れる人など誰もいない、言葉も文化も土地柄も分からない場所で一から始めることは、簡単なことではなかったはずだ。

 だが、立花希佐はそれをたった一人でやってのけた。もし自分が同じ立場だったとしたら、そんなことは到底不可能だろうと、江西は思う。早々に日本へと帰国し、人里離れた山奥で、ひっそりと暮らす道を選んでいるかもしれない。

 正直な話、高科更文のことも、さほど心配していないのだ。

 先日、校長の使いで玉阪の呉服屋に羽織りを受け取りに行ったとき、偶然その場に現れた高科と、少しだけ話をすることができた。袖口がほつれたので、その直しに出していたという羽織りの確認をさせられていると、ガラガラと音を立てて背後の引き戸が開いた。

「これは、高科様」萌葱色の薄物の羽織りは見るからに高価そうで、素手で触れることも憚れると思っていると、その羽織りを和紙の包みに仕舞い込んでいた店主が、入口の方を見てにこやかに微笑した。「いらっしゃいませ」

「すみません、この前注文した──ん、あれ? 江西サンじゃねぇか」

「高科」

「なんだ、奇遇だなぁ」高科はどこか嬉しそうにそう言うと、小上がりに腰を下ろしている江西の近くまでやって来た。「おお、良い羽織り。それ、江西サンの?」

「まさか」咄嗟に否定する江西を見て、呉服屋の店主が笑う。「校長に使いを頼まれて、代わりに引き取りにきたんだ」

「そんな小間使いみたいなことまでやらされてんですか?」

「いつもってわけじゃない。ついでの用事があったから引き受けた」

「あんまり甘やかすと味を占めるんだから、良くないよ、江西サン。老後の足腰のためにも、自分で取りに来させないと」

「お前の口からそう伝えてくれ」

 高科はイギリスへ行く前に着物を三着と、浴衣を数着新調したのだという。帯などの小物も一揃い注文したそうで、店主はお陰で懐が温まると言って、ほくほくとした顔をしていた。その日は更に、出来合いの浴衣を何着か、追加で注文しにきたのだという。

「高科様のご実家のお近くにもご贔屓にされている呉服屋がおありでしょうに」

「俺はここの和裁の仕立てが好きなんです」高科はそう言ってから、少しだけ悪戯っぽく笑った。「今のは内緒でお願いします」

 すっかり気を良くした店主は、お茶の用意をしてくるので待つように言い残し、こちらの返事も聞かずに店の奥へと姿を消してしまった。ふふ、とやわらかく笑う高科の横顔を見ていると、視線がふとこちらに向けられた。

「なんです?」

「いや」江西はそう言って誤魔化そうとするが、この察しの良すぎる男を前にして言葉を濁すのも無意味だと思い、先の言葉を続けた。「もっと神経質になってるんじゃないかと思っていた」

 すると、高科は「ああ」とどこか曖昧に笑って見せてから、小さく肩をすくめた。

「神経質にはなってますよ。でも、準備は少しずつでも進めておかないといけないし、こうして忙しくしている間は、余計なことを考えずに済むじゃないですか」

「俺の目には落ち着き払っているように見えるよ」

「俺は芝居が上手いから」挑発的な表情を浮かべる高科を見て、今度は江西が肩をすくめる。「旅の支度と一緒に心の準備も進めてるんで、大丈夫ですよ」

 それは強がりでもなんでもなく、本当に少しずつ、一日一日の時の流れの中で、心の準備を進めているからこその余裕の表情だったのだろうと、江西は思っている。

 その後、店主が用意してくれたお茶と金鍔をご馳走になってから別れた後も、江西の胸には、どこか清々しい風が吹いているように感じられていた。

 予想外と言うべきか、予想通りと言うべきか、おそらく最も危ういのは根地黒門だろうと、江西は考えている。

『自分の意志で日本を出て行ったからには、それなりの覚悟があったんでしょうよ。でも、最終的に頼る相手が、不義理を働いたユニヴェールの校長というのが、何とも納得がいかない部分もあるという話です』

 根地は何かが酷く気に入らないのだという口振りだった。だが、一体何が気に入らないのかは、自分自身にすら分かっていない様子だったように思う。

 だが、ほんの少しでも人の心に寄り添うことができたなら、たとえそのように思っていたとしても、口に出すことはしなかっただろう。根地はその点、ユニヴェール時代から、若干の配慮に欠けていた。

『僕の目には、遠い異国の地で自由に楽しく、のびのびとやっているように見えましたけどね』

 まるで拗ねた子供のようにそう言ったときは、考えるよりも先に、思わず反論してしまったほどだ。

 自由に、楽しく、のびのびと──確かに、あの映像を一見する限りでは、誰の目を通してみても、立花希佐の姿はそのように見えていたことだろう。しかしながら、そこに至るまでの過程は、何一つ映し出されていない。

 あの動画が拡散されたのは、何も一人の女性が自由に楽しくのびのびと歌う姿に、世の中が感銘を受けたからではないのだ。とある駅の一角にある、誰にでも弾くことのできるストリートピアノの伴奏で歌う度胸と、存在感と、圧倒的な歌唱力が、世界中の人の身動きを止めさせた。

 根地黒門はすべての物事を自分の物差しで考える節がある。あの男の前では、自分がこうあるべきだと思えば、世の中はそうあるべきなのだ。自分の当然を世間の当然のように認識し、振る舞うからこそ、変人のレッテルを貼られてしまう。天才故の苦悩というやつを日々体現しているような男だった。

 あの男にとって努力はして当然のことなのだろう。努力をした人間に向かって、偉いね、凄いね、頑張ったね、などという労いの言葉を掛けることはほとんどない。

 当人はまるで生き急ぐように、それこそ馬車馬のように働き続けている。だが、それを褒めてくれとは言わない。才能のある人間は、その才能に見合うだけの努力をするものだという考えが、根地の中には当然の義務として存在しているからだ。

 人の才能を見る目を持つ根地は、ユニヴェール時代から、脚本、演出の段階から無理難題を吹っ掛けることが度々あった。だが、根地は出来ると思うから、それをやらせようとする。その間の努力の過程など知ったことではない。あの男の目には、それが完成された姿が既に見えているからこそ、出来るはずだよ、と脅すようなことを平気で口にするのだ。

 根地黒門は、ユニヴェール時代の立花希佐が、自分の想像を超えた演技を見せてくれるたびに、両手を叩いて大喜びをしてきた。自分がこの役者の新たな才能を引き出してやるのだと、引き出しているのだという自負すらあったことだろう。

『いやあ、立花くんのアルジャンヌ、実に素晴らしかったですねぇ』78期最後のユニヴェール公演が終わった後、根地はどこか恍惚とした面持ちで、江西に向かってこう言っていた。『あの、ある種未完成なところが、たまらなく良いんですよね』

『未完成なところ?』

『だって、完成してしまったらつまらないでしょ? そこで打ち止めなんて残念にも程がある。立花くんにはまだまだ伸び代があるってことですよ。それって、物凄い才能だと思いません?』

 根地黒門はおそらくあの動画に立花希佐の完成形を見たのだろう。だからこそ、それが許せなかった。認められなかった。腹立たしかった。自分以外の誰かが、立花希佐を完成させ、才能の終着地点まで連れて行ってしまったから。

 自分の気持ちと向き合うこともせず、高科更文を理由にして立花希佐を批難していることも不気味だが、ロンドンに同行し、立花希佐と五年越しの再会を果たして、根地は一体何をしようというのか。

 完成された才能の行く末を見届けるだけなら何の問題もない。

 だがしかし、人の心というものは、酷くあっさりと壊れてしまうものだ。きっとそれは、高く高く積み上げたトランプタワーを指で突いて崩すのと同じくらい、この上なく簡単なことなのだろう。

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