土曜日は朝から騒がしかった。
日が昇るより早く目を覚まし、車に乗ってスタジオを出発すると、ヘスティアの前で待ち合わせをしていたカオスの仲間たちを乗せる。後部座席のドアを開け、ぞろぞろと乗り込んできた面々を助手席から振り返った希佐は、モーニン、と明るく声を掛けて出迎えた。
「おはよう、キサ」低血圧で朝に弱いアイリーンが、酷く眠たげな様子で、欠伸を噛み殺しながら言った。「朝から元気がいいわね」
「もう四月だっていうのに、なんでこんなに寒いわけ?」
「ロンドンでこれだ、湖水地方の方はもっと寒いだろうな」
「えええー」ノアは不満そうな声を上げながら、助手席の後ろに腰を下ろした。「この車、暖房効かないの?」
「壊れてる」
「直しといてよ」
「ほら、これでも使ってろ」
バージルはノアの隣に乗り込みながらそう言うと、自らの首に巻いていたタータンチェックのストールを貸してやっていた。それを生暖かいと文句を言いながらも体に巻きつけたノアは、一番後ろの座席に乗り込んだ、もこもこの格好のイライアスを振り返る。
「イライアス、酔い止めの薬は飲んできた?」
「うん」
「僕、余計に持ってきてるから、必要なときは言ってね」
「ありがとう」
ロンドンで生活している若者は、車移動に慣れていないことが多い。タクシーに乗る機会はあっても、それは極々短距離だ。今日のように何時間も車に乗るということは滅多にないのだという。
「バージル」希佐は膝の上に畳んで置いていた厚手のブランケットを手に取った。「これ、後ろの二人に渡してくれる?」
「いいわよ、キサ。私が持ってきたものがあるから、それをイライアスと二人で使うわ」
「じゃあ、これはバージルとノアで一緒に使って」
「お前はいいのか?」
「うん、もう一枚あるから」
「……そろそろ走らせたいんだけど」
座席で膝立ちになって後ろを向いていた希佐に向かって、アランが呆れたように声を掛けてくる。希佐はバージルにブランケットを手渡すと、慌てて座り直し、シートベルトを装着した。希佐が膝の上のブランケットを整え終えたのを確認してから、アランはゆっくりと車を発進させた。
施設に寄贈する何百冊とある本の整理と、ピアノの上げ下ろしに人手が必要なことは分かっていた。
アランが本の選定を依頼したという出版社の編集者は、当日は荷物の運び込みまでは手伝えるものの、急用が入って同行することができなくなったという。ピアノ工房のネイサンは、ベンジャミンに突然の出張が入ってしまったので、エリザベスを同行させても構わないかと、前日の夕暮れ時に連絡を寄越してきた。
さて、どうしたものかと、スタジオの隅の方で翌日のことを相談していると、稽古に現れたバージルが事情を聞くなり、すぐにスマートフォンを手に取ってメッセージアプリを立ち上げた。そして、明日暇なやつは全員参加で! という旨の連絡を、カオスのグループチャットに書き込む。
《なに?》
《ごめん、俺今実家だわ》
《私も週末は実家に帰る用事があるのよ》
《誰か課題手伝って》
ぽこん、ぽこん、ぽこん、と立て続けにメッセージが送られてくる。希佐とアランはバージルの背後に回り込み、一緒になってスマートフォンの画面を覗き込んだ。
《明日、アランと希佐が施設にピアノと本を届けに行くんだと。人手が足りないから手伝ってくれ……と頼もうと思ったんだが、まあ、忙しいなら仕方ねぇな。他を当たるわ。じゃあな》
《場所はどこなの?》
《湖水地方》自分のスマートフォンを取り出したアランが、そう打ち込む。《ウィンダミアの近く》
《まあ!》Oh, my! と言うアイリーンの声が聞こえてきそうだと、希佐は思った。《私、付き合うわ。ついでに実家まで送ってくれない? すぐ近くなの》
《いいけど》
《イライアスも一緒に行くのよ》
《課題が終わらない》
《歌の稽古がしたい》
《そのくらいなら私が実家で見てあげるわ》
《ねえ、課題が終わらないんだってば》
《いいな、湖水地方。実はまだじっくり見て回ったことはないんだ。エディンバラからなら、ロンドンから行くよりも近いし、俺も行ってみるかな》
《えっ? ちょっと待ってよ、みんな行くの?》
《無理に来なくていい》
《やだやだ、僕も行く! 絶対行く!》
《じゃ、決まりだな》
誰かが発言するたびに繰り上げられていく文字列を眺めながら、希佐は思わず笑みをこぼした。その姿は見えず、声も聞こえないというのに、酷く騒がしい。これぞカオスだと思う。
《ヘスティアの前に四時集合で》
《……四時って、まさか》
《午前四時だ》
《ひえええ、今日はもう寝なきゃ起きられないよ》
《オレはもう少しゆっくりできる》
《ずるい!》
スマートフォンを手に持ち、昨日のやりとりを見返しながら、希佐は小さく思い出し笑いをする。それから顔を上げ、ルームミラーを見やれば、車内ではそれぞれが思い思いに過ごしている様子を眺めることができた。
希佐の後ろにいるノアはタブレットを抱え、何かを熱心に読んでいるようだ。バージルは骨伝導のイヤホンを装着し、聞いている音楽に合わせて、組んだ足の爪先を軽く上下させている。更に後ろの座席にいるアイリーンは、揺れる車内で編み物をしているようだ。その隣に座るイライアスは、ニットの帽子の上からヘッドホンを装着し、更にアイマスクをして、窓に寄り掛かるように頭を預けていた。
「イライアスは乗り物全般だめなんだ」希佐がルームミラーをじっと見つめたままでいると、車を運転しながらアランが言った。「電車で行けばとは言ったんだけど、酔い止めを飲めば大丈夫だって言うから」
「到着はお昼過ぎになるかもしれないけれど、休憩は多めに取った方がいいかもね」
「これだけ乗ってると燃費も落ちるから、途中で給油する必要がありそうだ」
「先にガソリンスタンドの場所を調べておくよ」
二人がそうして話していると、背後から微かに笑い声が聞こえ、希佐は後ろを振り返る。すると、こちらを横目に見ていたバージルが、小さく肩をすくめてから、窓の外に目を向けた。
間もなくしてロンドン市内にある出版社の倉庫前に到着すると、そこには既に、ピアノ工房のトラックが到着していた。成人男性二人分の影が見える。どうやら、先立ってトラックに荷物を運び込んでいるらしい。
アランはトラックの後ろにワゴンを止めると、ヘッドライトの明かりを落とし、ジャケットを掴んで運転席を降りていった。
「ノア、お前も早く降りて手伝え」
「ちょっと待って、今切りがいいところまで──はいはい、オッケー。降ります、おりますよー」
希佐は助手席を降り、前に泊まっているトラックの荷台を覗き込む。荷台の手前の方にはいくつかの段ボールが、奥の方には、厳重に布を巻き付けられ、動かないように固定をされたアップライトピアノが積み込まれていた。
ぞろぞろとワゴンを降りてきたカオスの仲間たちが挨拶している声を聞き、希佐も慌ててそちらに向かう。
「おはようございます」
希佐がそのように挨拶をすると、アラン・ジンデルの担当編集者と思しき男性と、ネイサンがこちらを見て、朗らかに挨拶を返してくれた。エリザベスの姿が見えず、希佐が視線を彷徨わせていれば、それに気づいたネイサンが声を掛けてきた。
「リジーならトラックの助手席で寝ていますよ」
「あ、そうですよね」
「大丈夫だとは思うのですが、ずっと目を離しているのも心配なので、あの子の傍にいていただけませんか?」
「いえ、それならネイサンが車に戻っていてください」
「男手ならあるから」ずっしりと重たそうな段ボールを抱えて現れたアランが、目の前を通り過ぎながら言った。「子供から目を離さない方がいい」
そう言われてしまっては、返す言葉もなかったのだろう、ネイサンは少しだけ困ったような顔をしながら「分かったよ」と言って、一度車に戻っていった。
「あーあ、こういうときこそジェレマイアの出番だっていうのにさ」
「ここにいない人を頼りにしてどうするのよ」
「あの人、今だってまだベッドの中でぬくぬくしてるんだよ」
「口ばっかり動かしてないで体を動かしなさい」
「キサ」
ノアとアイリーンが一つの段ボールを二人で運んでいる様子を見ていると、倉庫を入ってすぐのところに積み上げられている段ボールの前に立ったイライアスが、希佐のことを呼んだ。
「手伝って」
「うん」
希佐たちが二人掛かりでようやく運べる段ボールを、アランとバージルは軽々と持ち上げ、雑談を交えながら倉庫とトラックの間を行き来している。ノアとアイリーンは二往復をした辺りから、ふう、ふう、と肩で息をしはじめた。
「おっ、日頃の運動不足が祟ってんな」
「人聞きの悪いことを言わないでくれるかしら。私だって運動くらいしているわよ」
「アイリーン、ピラティスをはじめたって言っていたもんね」
「本当は、キサも一緒にどうかって誘おうと思ったのだけれど、あなた、毎日の稽古でくたくたでしょうから、遠慮したの」
「えっ、誘ってくれたら行ったのに」
「あなたならそう言うと思ったから誘わなかったのよ」
「ピラティスは、戦時中に負傷した兵士のリハビリメニューにもなっていたんだ。骨格を整えたり、体幹を鍛えたりするだけではなくて、身体機能を回復させる効果もあるんだよ」希佐とアイリーンが歩きながら話をしている後ろで、イライアスがそのように言った。「僕、大学のときに勉強をして資格も取ったから、高いレッスン代を払わなくたって教えてあげるのに」
アイリーンは、どこか不満そうな表情を浮かべているように見えるイライアスを振り返ってから、隣を歩く希佐に視線を戻し、きゅっと形の良い眉を顰めた。
「高いレッスン料を払って教えてもらう方が私には性に合っているのよ。イライアスには一生掛かっても分からないでしょうけど、私みたいな人間はね、払ったお金の分だけ頑張ろうって思えるの」
「僕は必要に駆られないかぎり運動なんかしたくないけどね」
「あら、ノア。女の子にモテたいなら、少しは鍛えた方がいいわ。あなたがイライアスに習ったらどう?」
「だってイライアスってスパルタなんだもん」
「ノアは出来るのに出来ないふりをするから」
「ちょっとちょっと、僕はただの一般人だよ。凡人なの。君たちと同じ物差しで測られても困るなぁ」
劇団カオスの仲間たちの中で、今も学業に勤しんでいるのは、ノア一人だけだ。
前に、卒業後はどうするのだという話になったとき、ノアはそのまま研究の道に進むつもりだと言っていた。だが、カオスを脱退するという考えはないようで、また以前のように公演をする機会があれば、舞台に立つという心積りはあるという。アランもそれで構わないと話していた。
「よーし、これで最後だ」
最後の段ボールをバージルが運んでくる。トラックの荷台に乗っていたアランはそれを受け取ると、万が一にもピアノを破壊することがないように、しっかりと積荷を固定していた。一度車内に戻っていたネイサンが外に出てきて、トラックの荷台の戸を閉めてくれる。
「お疲れさまでした」きっちりとしたスーツに身を包んだ編集者が、それぞれの顔を見回しながら言った。「いつもなら私もご同行させてもらうのですが、今日は急遽フリストンまで行かなくてはいけなくなってしまって」
「フリストンって確かセブンシスターズの辺りだったよね。どうしてまたあんな辺鄙なところに」
「ええ」首を傾げるノアに向かって、編集者は些か困ったような面持ちを浮かべ、頷いた。「私が担当している作家先生があの辺りにお住まいで。原稿の締め切りが間近だというのに、こちらからご連絡を差し上げても、何の音沙汰もないんです。元より無精な方ではあるのですが、さすがに心配なので、部長から様子を見てくるようにと言われてしまいまして」
「このまま向かうの?」
「はい」
「気をつけて」
「ジンデルさんたちも、どうぞお気をつけて」編集者はそう言ってから、そうだ、と思い出したように声を上げた。「これ、部長と私から」
そう言って差し出されたのは、大手コーヒーチェーンのプリペイドカードだった。
「たっぷりチャージしておいたので、良かったらみなさんで使ってください」
「ありがとう」
「またご入用の際にはお声がけください。なんでもお手伝いします」
編集者は腕時計に目をやり、自分は出張の準備があるのでと言うと、軽く挨拶をしてから車で走り去っていった。倉庫番に頼んでトイレを貸してもらい、戻ってきた者からワゴンに乗り込んでいく。
最後になった希佐がトイレから戻ってくると、トラックの横では、アランとネイサンがまだ話をしていた。しかし、丁度話し終えたところだったのか、ネイサンは希佐に向かって低く手を挙げて見せてから、トラックの運転席に引き上げていく。
「何の話をしていたの?」
「途中の休憩をどうするか」まるで冬に戻ったかのような寒さの中、アランは口元に寄せた手の平に息を吹きかけた。「休憩が必要になったらお互いに連絡をするっていうことで落ち着いた。でも、あっちは子供がいるし、変な気を使わせないように、様子を見ながらこちらから声を掛けた方がいいと思う」
「そうだね」
カオスを乗せたワゴンが前を走り出し、トラックがその後ろに続く。大切な積荷を載せているので、急発進、急停止は御法度だ。アランは時々バックミラーで後続車の様子を確認しながら運転を続けている。
「キサ、眠くなったら言えよ」タブレットを抱え、アプリで地図を見ている希佐に向かって、バージルがそう声を掛けてきた。「俺が代わってやるから」
「ありがとう。でも、今のところはまだ大丈夫だよ」
バックミラーを見上げれば、つい数分前までは二人で話をしていたイライアスとアイリーンが、寄り添い合いながら眠っている姿を見ることができた。その微笑ましい様子に思わず頬を緩めてから、希佐は座席越しに後ろを振り返る。ノアは相変わらず、タブレットで熱心に何かを読み込んでいた。
「ん、なあに?」
「寒くないかと思って」
「大丈夫、ありがとう」ノアは希佐のことを上目遣いに一瞥してから、にこりと笑い、再びタブレットに視線を落とした。「読まなきゃいけない論文がかなり溜まっていたから、こういう言い方をしたら運転してるアランには申し訳ないけど、暇な時間が出来て助かったよ」
「何の論文を読んでいるの?」
「宇宙工学」
ノアがそう言って見せてくれたタブレットの画面には、文字がぎっしりと並び、何かを表すグラフが添えられていた。背景が暗い色に、文字は明るい色に設定されているので、希佐の目には文字列が奇妙に浮かび上がって見えた。
「うちの両親は揃って大学教授でね──とは言っても、二人とも文系の人間で、父は哲学者、母は心理学者なんだけどさ。それに加えて兄が二人いて、上が英文学を学びながら作家に、真ん中が法学部を卒業後、法廷弁護士になったの。それなのに、どういうわけか僕だけが理系人間だから、小さい頃から、お前は宇宙人だって言われて育ったんだよ」
「えっ、宇宙人?」
「一族には僕以外に理系の人間がいないんだよねぇ。遠縁のおじさんが物理学の研究者だって話だけど、僕は会ったこともないし。僕自身も、自分が宇宙人か、その辺から拾ってこられたんじゃないかと思っているくらいでさ」
「ノアのご家族は立派な方ばかりなんだね」
「立派なんかじゃないよ。頭が良いってだけで、僕以外みんな変人なんだから。口答えをしようものなら、こっちが泣くまで言葉攻めにしてくるんだ。兄さんたちはまだいいけど、両親はね、本当に、話が通じない」
「哲学者と心理学者ってのがなぁ」隣で話を聞いていたバージルが、くつくつと肩を震わせながら笑う。「よくお前みたいなのが育ったな」
「僕、小さい頃はまったく字が読めなくてさ。でも、数字は認識できたから、兄さんの数学の教科書をずっと眺めてたわけ。プライマリー・スクールに入った頃にようやくディスレクシアって診断を受けたんだけど、その頃にはもうカレッジで習うような数式も解けるようになってて」
「お前、失読だったのか」
それは知らなかったというふうに、バージルは目を丸くしている。もちろん、希佐も知らなかったことだ。しかし、ノアは大したことはないというふうな顔で、小さく肩をすくめてみせた。
「改善はしてきてるよ。だけど、今でも紙の文字は読みにくいから、大体はタブレットで読むようにしてるんだ。他の人より時間は掛かるけど、こんなふうに色を変えたりすると、結構読みやすくもなるしね。ディスレクシアだって言うと、大学の教授は大体理解ある対応をしてくれるから、ありがたいよ」
「舞台の台本はどうしてたんだ?」
「サークルに入ってた頃は色眼鏡を掛けたり、マーカーで塗ったりして、どうにかこうにか読んでた。僕が台詞のない変な役をやらされてばかりいたのも、台詞の覚えが悪かったからなんだけど、実際は覚えられないんじゃなくて、読みにくかったってのが一番の理由だろうね。カオスに入ってからは、アランがデータで送ってくれてたから、音声読み上げソフトを使って耳で聞いて覚えることが多かったよ」
「へえ」
「こんな話、人に吹聴して回るようなことではないし、聞いたって面白くもなんともないでしょ」
「俺はお前の新しい一面を知れて嬉しいけどな」
「うへえ、そういうことはキサみたいなかわいい女の子に言ってもらいたいなぁ」
「私も嬉しいよ、ノア」
「ありがとう」わざとらしく不快っぽい表情を浮かべていたノアは、希佐の方を見ると、にっこりと機嫌良く笑った。「キサは今日もかわいいね」
「ノアは今日も素敵だよ」
希佐が邪魔をしてごめんねと言うと、ノアは良い息抜きになったと言って首を横に振り、再び論文を読むことに没頭しはじめた。バージルは後ろを振り返り、イライアスとアイリーンの体からストールが落ちているのを認めると、背もたれから身を乗り出して、それを掛け直してやっている。
外に目を向ければ、東の空が白みはじめていることに気づく。雲の切れ間からは澄んだ空が覗いているので、上手くいけば日の出を見ることができそうだ。
「この先にカフェがあるよ」希佐はアプリの地図を見ながら言う。「七時に開店するって。そこで一度休憩にして、朝ごはんにする?」
「うん」
「後ろのお嬢ちゃん、起きてるみたいだぞ」
「じゃあ、連絡してみるね」
バージルは後ろを走るトラックに向かって手を振っている。しかし、希佐がスマートフォンで電話を掛けようとしているのを横目に見ると、手の平をスマートフォンに見立てて、耳に添えるような仕草をしてみせた。すると、エリザベスはすぐに、その意味を理解したようだ。僅かなコール音のあと、Hello!と元気な声が聞こえてきた。
「おはよう、リジー」
『おはよう、キサ! バージルもおはよう!』
「おはようさん」スピーカーから聞こえてくる元気の良すぎる挨拶に、バージルは少しだけ呆れ顔だ。「こっちにも寝てるやつがいるから、もう少し静かに頼むな」
『あっ、ごめんなさい……』
「そんなことより、腹減ってないか?」
『……お腹、ぺこぺこだよ』
バージルに軽く注意を受けたエリザベスは、まるで内緒話をするような小さな声でそう応じていた。
「ネイサン、この先のカフェで休憩だ。朝食にしよう」
『分かった』
電話口の向こう側から、小さく「やったあ」という声が聞こえてくる。希佐が「あとでね」と告げると、エリザベスは「はーい」と返事をしてから、あっという間に通話を切ってしまった。朝食が楽しみで仕方がないようだ。
開店にはまだ少し時間があったが、希佐たちは車の外に出ると、ほんの一、二時間のドライブで縮こまってしまった体を解しにかかった。バージルに声を掛けられ、のろのろと起き出してきたイライアスは、珍しく猫背で、心なしかぐったりしているように見えた。
「イライアス、大丈夫?」
「うん」希佐が歩み寄りながら問いかけると、イライアスは項垂れていた顔を上げ、頭を軽く振った。「薬の副作用で眠いだけだよ。普段は薬なんてほとんど飲まないから、効きすぎるみたい」
「気分が悪くなったらすぐに言ってね」
「うん」
そうして希佐とイライアスが話をしていると、そこから少し離れたところでは、小さな事件が起こっていた。
ネイサンの手を借りてトラックを降りてきたエリザベスの目が、憧れの人を捉えたのだ。その眼差しは真っ直ぐに、アイリーンに向かって注がれている。
だがしかし、アイリーンはその熱烈な眼差しに気づくことなく、バージルと話しを続けていた。その傍に立っていたアランは、いち早くエリザベスの様子に気づいたようだが、変に口は出さず、黙して見守ることを選んだらしい。
「すっごい見てる」みんなから遅れて車を降りてきたノアが、ドアを閉めながら言った。「アイリーンってどっかで指名手配でもされてるの?」
「エリザベスの憧れの人なんだって」
「ふうん」ふわあ、と欠伸をしたノアは、その場で大きく伸びをする。「早く甘いものとカフェインを摂取したいよ」
「……僕、少しその辺りを走ってくる」
「え? あ、うん、分かった。気をつけて」
その場で硬直したまま動けずにいるエリザベスの背中を押したのは、父親のネイサンだった。娘の手を取って一緒に歩き出したネイサンは、アイリーンの近くまで行くと、あの、と声を掛けた。
「この子の話を聞いていただけませんか?」
「ええ、もちろん」Yes, of course.──微笑を浮かべてそう応じたアイリーンは、目の前にいるエリザベスと視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。「お名前はなんていうの?」
「……エリザベス。みんなは、リジーって」
「そう」アイリーンは更に笑みを深め、右手を差し出しながら口を開いた。「はじめまして、リジー。私はアイリーンよ」
「は、はじめまして──」エリザベスはその小さな手で、アイリーンの手をぎゅっと握りしめる。「わ、わたし、あの、アイリーンのことが大好きで、えと、歌を、いつも聞いてます」
「どうもありがとう」
「わたしも舞台で歌ってて、だから、あの、わたしの夢の一つは、アイリーンと同じ舞台に立って、一緒にお芝居をして、それから、歌を、歌うこと」
「まあ、本当に? とても嬉しいわ」
緊張で青ざめていたエリザベスの顔が、ぽっと朱に染まる。途端に恥ずかしくなってしまったのか、ハッと大きく息を呑むと、慌てた様子でネイサンの後ろに隠れてしまった。その姿を目の当たりにしたアイリーンは、ふふふ、と楽しげに笑う。
「いつか一緒に歌いましょうね」
「う、うん……」
ぎゅう、とネイサンの足にしがみつき、再び動かなくなってしまったエリザベスを見かねたのか、今度はバージルが声を掛けた。
「リジー、前回のレッスンで教えたステップ、踏めるようになったか?」
「……え?」
「次のレッスンのときに、みんなの前で一人ずつ披露してもらうって言ったろ?」
「難しいけど、ちゃんと毎日稽古してるよ」
「おっ、偉いじゃねぇか」
「わたしは、アイリーンみたいに歌えて、キサみたいに踊れる、マミーみたいな舞台女優になるんだもん」
「マミー?」
「この子の母親はジャスト・ロビンで役者をしていたんです」
「え、それってもしかして、ジュリア、ですか……?」
「はい」どこか唖然としているアイリーンを見やり、ネイサンは朗らかに笑った。「この子の歌声は妻と良く似ています。もし機会があったら、聞いてあげてください」
イライアスが一走りから戻って来てすぐ、カフェは開店時間を迎えた。
まだ他に客の姿はなかったので、邪魔になることもないだろうと、それぞれがレジの前に立ち、思い思いの品を注文していく。最後に並んでいた希佐がカフェインレスのコーヒーとチキンサラダを注文すると、アランはメニュー表を眺めるのも面倒だというふうに同じものを注文し、プリペイドカードを出して支払いを済ませていた。
「お飲み物はあちらでお受け取りください。お食事は席までお持ちします」
三十分程で食事と休憩を切り上げた一行は、道中の飲み物と食べ物をテイクアウトで購入し、再び車に乗り込んだ。
ノアは一番大きなサイズのカップに、熱めに注文したコーヒーをたっぷりと淹れてもらい、チョコレートチップの入ったクッキーを三枚も購入していた。バージルはコーヒーを追加で、アイリーンはハイビスカス、希佐はカモミールのお茶を頼んだが、アランとイライアスは水で構わないという。もちろん、カードにチャージされていた金額では支払いきれず、超過した分はバージルが払ってくれていた。
「ありがとう、バージル」
ホットチョコを買ってもらったエリザベスは、嬉しそうにそう言うと、大きく手を振ってトラックに戻っていった。
それから何度か休憩を挟んだが、道路が比較的空いていたこともあり、十一時過ぎにはウィンダミアに到着した。エディンバラからウィンダミアまで、列車でやって来ていたジェレマイアを駅前で拾い、そのまま施設に向かって走り出す。
「ご両親はお元気だった?」
後部座席では狭いだろうと、ジェレマイアに助手席を譲った希佐は、バージルの隣に席を移動していた。ジェレマイアは希佐の代わりに地図を読みながら、そうだな、と口を開く。
「久しぶりに帰るから、二人とも老け込んでるんじゃないかって心配してたけど、病気もなく元気そうだったよ。でも、実家に帰ってゆっくりするどころか、朝から晩まで店を手伝わされてさ」
「お店?」
「ジェレマイアのお家は歴史のある酒屋さんなんだよ」
「そうなんだ」
「次の交差点を右だ」アランに向かってそう言ってから、ジェレマイアは後ろを振り返る。「本家はウイスキーの醸造をしてる。俺のところは昔から本家が作ったウイスキーの販売を担当してたわけ。でも、曾祖父さんが生粋のスコッチ好きでさ。本家だけじゃない、美味しいウイスキーは他にもたくさんあるんだって、各地の醸造所のウイスキーも取り扱うようになって、少しずつ店が大きくなっていったんだよ。今じゃ地元のお客さんよりも、観光客の方がずっと多く来るようになって、毎日大忙しらしい」
カオスの仲間たちとは三年もの付き合いがあるというのに、それぞれの家のことや家族のことについて話をする機会は、ほとんどなかった。話す必要性がなかったということが、一番の要因だったのだろう。希佐自身に、実家の話を避ける傾向があるので、余計に話をする機会がなかったのかもしれない。
アランは、希佐が今でも日本の家に仕送りしていることを知っているが、なぜ仕送りをしているのかまでは知らないはずだ。父や兄のことを詳しく話した覚えもない。
話すべきなのだろうかと、希佐は考える。
アラン・ジンデルは、自分の本当の名前も、クロエ・ルーとは親子関係にあることも、希佐には打ち明けてくれた。だが、だからといって、自分の家族や、家庭のことを打ち明ける必要はあるのだろうか。お金にルーズな父親と、失踪した兄の話など、アランには何の関係もないと、そう思ってしまう。
「あとは道なりにまっすぐ行けば到着だな」
目指している児童養護施設は、ウィンダミアの町から少し離れた、ウィンダミア湖がよく見える小さな村の外れにあった。石造りの建物と、石垣の塀は、希佐にとっては既に見慣れたものだ。辺りはイギリスの人気観光地の一つであるウィンダミアの喧騒とは程遠い、地元の人間しか寄り付かないような、ひっそりとした静けさに覆われている。どこか鬱々としてさえ感じられるのは、このどんよりとした天候のせいだろう。湖水地方の天気は、相変わらず不安定だ。
到着した施設の門扉は、訪問者を拒むように、固く閉ざされていた。いや、それは訪問者を拒むためではなく、中にいる子供たちを守るためなのかもしれない。
アランは門前に車を止めると、シートベルトを外しながら口を開いた。
「門の鍵を開けてもらってくるから、ここで待ってて」
「一緒に行こうか?」
「いいよ、一人で行く」
アランがそう言って外に出て、運転席のドアを勢いよく閉めれば、ひんやりとした冷たい空気と、湿った土のような匂いの風が、車内に吹き込んできた。ほんの一週間前までは、この空気感の中で日々を過ごしていたというのに、なぜか懐かしいという感覚が脳裏を過ぎる。
少しだけ寒そうに背中を丸め、アランは門に向かって歩いて行った。石垣の塀に埋め込まれているインターホンを鳴らし、一言、二言、話したかと思うと、その場から少しだけ移動する。こちらに戻ってくるのかと思いきや、車に背を向けたままコートのポケットに手を入れ、施設の周辺をぼんやりと眺めはじめた。
「なんというか」助手席からその様子を眺めていたジェレマイアが、小さくため息を吐く。「物憂げだなぁ」
「昔を思い出して物思いにでも耽ってるんだろ」
「昔って、大昔の間違いでしょ? 三、四歳の頃の記憶なんてある?」
「俺はねぇけど、あいつなら覚えてるんじゃないのかね」
程なくすると、奥に見える建物の玄関から、一人の女性が姿を現した。ほとんど駆け足でやって来たかと思うと、アランに声を掛けてから、門の鍵を内側から開けてくれている。だが、錆びた門は酷く重たいようだ。
「オレ、ちょっと手伝ってくるわ」
ジェレマイアはそう言うが早いか、すぐに外へ出ていった。助手席のドアが閉まるより早く駆け出し、風と戦いながら門を開こうとしている女性のところまで走っていくと、代わりに押さえてあげながら、にこやかに握手を交わしている。
「彼は本当に心優しいゴリラだねぇ」ノアはしみじみとそう言いながら、タブレットを革のケースにしまっていた。「あの無自覚の優しさで一体何人のバードたちを泣かせて来たんだか」
「ちょっと、私の前で女性のことをバードなんて呼ばないでくれる?」
「あっ、ごめん」
思い掛けず背後から飛んできたお叱りの言葉に肩をすくめたノアを見て、バージルは自業自得だというふうに苦笑いを浮かべた。
イギリスでは、男性が女性のことをバード──文字通り鳥と呼称することがある。自分の妻や恋人はもちろん、道を歩いている女性のことを指して呼ぶこともあるのだが、女性の多くは、自分たちがバードと呼ばれることを好んではいない。
ノアは、ジェレマイアの愛称として用いているゴリラに合わせて、思わずバードという言葉を使ってしまったのだろう。アイリーンはそもそも、ノアがジェレマイアのことをゴリラと呼ぶことも快く思ってはいないのだが、今では当人がその愛称を気に入ってすらいるので、強くは言えないのだ。
ぷりぷりと怒っているアイリーンの隣では、イライアスがヘッドホンを外し、帽子を脱いで、外に出る準備をはじめている。希佐が自分を見ていることに気づくと、少しだけ不思議そうに首を傾げてから、やわらかく微笑みかけてくれた。
車に戻ってきたアランは、ジェレマイアが門を押さえてくれている間に、塀に囲われた敷地内に車を入れる。ワゴンは駐車スペースに誘導されたが、後ろを走ってきたトラックは、玄関の近くに横付けにされた。
「キサ」
「なに?」
「院長のところに挨拶に行くから、一緒に来て」
「うん、分かった」
「他は職員の指示に従って荷物を施設内に運び込んでおいて。急がないと雨が降ってくるかも」
全員が降りるのを待って、アランは車に鍵をかけると、希佐に視線を投げかけてから歩き出した。窓に映る自分を見て、一つに結い上げた髪の乱れを少しだけ整えてから、希佐はアランの背中を追いかける。
この施設が村から浮いていて、異質なものに感じられるのは、周辺の石造りの建物とは違う建築様式が用いられているからなのだろう。古き良き湖水地方の美しい景観の中、この建物だけが煉瓦造りで、妙に都会的だった。
「元々はウィンダミアの町中にあった施設が、建物の老朽化が原因で、ここに移設されてきたんだ。俺が居た頃はまだ真新しかったけど、さすがに三十年近く経つと、雰囲気も大分変わるな」
「覚えているの?」
「大体は」
見たところは、品のある大きなお屋敷だ。一見するだけでは、児童養護施設だとは誰も思わないだろう。庭は広々としていて、景色と空気が良く、子供たちが駆け回っている姿を容易に想像することができた。
かつて、アラン・ジンデルは──小さなラファエルは、ここで生きていた。
「行くよ」
「うん」
扉を潜り抜けた先には、小ぢんまりとした玄関ホールがあった。左右にはどこかの部屋に続くドアがあって、廊下も左右に分かれている。アランは何の迷いもなく足を進め、正面に見えている階段に足を掛けた。
希佐も遅れないように後を追い掛けるが、改めて不思議に感じながら、控えめに辺りを見回した。子供たちの話し声はおろか、物音一つ聞こえてこない。
「昼食の時間帯だから、子供たちは全員食堂にいると思う」希佐の心を読んだかのように、前を歩きながらアランが言った。「食事中は私語厳禁なんだ」
「そっか」
院長室は二階の東側、この施設内で最も早く朝を迎える場所にあった。院長室のドアの前に立ったアランは、どこか緊張しているような、強張った面持ちを浮かべているように見える。
希佐は自らの右手を伸ばし、アランの左手をそっと握った。すると、アランは希佐のことを見下ろし、微かに口角を持ち上げる。繋いだ右手を口元まで運び、薬指の辺りに優しく唇を押し当ててから、その手を離して、ドアをノックした。
「どうぞ」それは思いの外、朗らかな声だった。「お入りなさい」
アランは大きく深呼吸をしてから、黄金のドアノブに手を触れた。
木の扉を抜けた先に見えたのは、ウィンダミア湖を見渡すことのできる大きな窓と、きっちりと整理整頓のされた大きな執務机だ。そこには一人の老齢の女性が腰を下ろしていて、顔を伏せ、手元の紙にすらすらと何かを書き付けている。
「もう少しだけ待っていてくださいますか?」女性は顔を上げないまま言った。「このお手紙を最後まで書いてしまいたいので」
「構いません」
「では、そちらのソファに掛けてお待ちください」
言われるがままにソファに腰を下ろした希佐は、施設の院長が女性であることを心底以外に思っていた。子供たちの話を聞くかぎりでは、厳格な男性という印象を受けていたからだ。
だが今、希佐の目の前にいるのは、小柄で細身の、毅然とした女性だった。齢にして七十前後だろうか。背筋は真っ直ぐに伸び、時折思案するように手を止めるが、流れるようにペンを走らせる姿は美しい。
この人が、子供の首根っこを掴んで叱りつけている姿など、想像することもできないと希佐は思う。それとも、昔は厳しい人だったが、この約三十年という年月が、この人自身をゆっくりと、丸く、研磨してくれたのだろうか。
ふと隣に目をやれば、アランは眼下に広がる湖を見やり、微動だにしない。
子供の頃も、こうして湖を眺めていたのだろうか──希佐がそのように思っていると、院長は手にしていたペンを置き、すっくと立ち上がった。途端に視線を戻した希佐に対して、アランはまだ窓の外に目を向けていた。
「何かあたたかいものをお飲みになりますか?」
「いえ、お構いなく」
アランが何も答えようとしないので、希佐がそのように応じると、院長はテーブル越しにある向かい側のソファに、ゆっくりと腰を下ろした。
「先日は、当院の子供たちをお招きくださいまして、本当にありがとうございました。本日は寄贈品をお持ちくださると聞き、大変ありがたく思っておりました」
「……アラン」
希佐は、尚も窓の外を見続けているアランの腕に触れる。すると、アランはそのまま何度か瞬いたあと、ようやく室内に視線を戻し、院長に目を向けた。
「約束をしたので」
「約束ですか?」
「エズラという少年と約束をしました」アランは院長のことを真っ直ぐに見据え、先を続けた。「一週間前に少し話をしたとき、図書室の本はぼろぼろ、ピアノは調律が乱れているというので、近いうちに何とかすると。俺は、その約束を果たそうとしているだけです。嘘を吐かない大人もいると知ってほしい」
「まるで私たちが嘘吐きだとでも言いたげな口振りですね」
「あなた方は彼らに現実を教えない」アランは断言するような物言いで言う。「良い子にしていれば家族が迎えに来てくれる、新しい家族に恵まれる、そんなふうに子供たちを言い包めて、大人が扱いやすいように調教しているだけだ。でも、彼らは現実を知っている。大人は嘘吐きだって」
「アラン──」
「あなたは俺に嘘を吐いた」アランは、自らの腕を掴む希佐の手を振り払うこともせず、怒鳴るわけでも、喚くわけでもなく、ただ坦々と言い放った。「あの指輪は、両親から俺に与えられた、愛の証だと」
「ああ、では、やはりあなたは……」
「あなたは今でも子供たちにそんな嘘を吐き続けているんですか」
希佐は、アランの腕を掴んでいた手を、そっと離した。顔を伏せ、両手を膝の上で握り締めて、白く浮く関節をじっと見つめる。自分はこの人の秘密を一つずつ知っていくのに、自分にはまだ話せていないことがたくさんありすぎるような気がして、希佐は急な居心地の悪さと、居た堪れなさに心を抉られていた。
「あの指輪がご両親からの愛ではないと、どのようにして知ったのです?」
「三十年前に俺を施設の前に置き去りにした女と再会しました。彼女は、堕ろすには遅すぎた子供と、自分を孕ませた男から贈られた指輪を捨てて、人生のやり直しを図った」
「お母様はお幸せそうでしたか?」希佐はその問いかけに思わずはっとして、伏せていた顔を上げる。「あなたの目にはどのように映りましたか?」
「あの人は自分の人生を謳歌しているように見えます」
「では、あなたは今、幸せですか?」アランは、院長の問いかけには答えなかった。「親と子は必ずしも傍にある必要はないのだと私は思うのです。共にあることで互いに不幸な道を歩むこともあります。今、そうして再会を果たし、親子揃って生を帯びている。まずはそれを喜ぶべきなのではありませんか?」
「施設で過ごした五年間がどんなものだったか、俺がどんな仕打ちを受けていたのかも、あの人は知らない」
「ですが、あなたもお母様がどのような日々をお過ごしになっていたのかは、知らないのでしょう?」半ば諭すような口振りで院長は言った。「そこにいかなる理由があろうとも、自らの腹を痛めて産んだ子を手放すことに、何の葛藤も抱かない母親はいないと、私は思います」
アランは何かを言いかけるが、その唇から漏れ出たのは、小さな吐息一つだけだった。
この人は、置き去りにされた子供ではなく、置き去りにせざるを得なかった大人の立場から物を語っている。いくら言葉を交わしても、堂々巡りをするばかりで、歩み寄ることはできないのだと分かる。
「神は、人々が心から悔い改めれば、過去の罪をお許しくださいます」
「それは許されたい人間の自分勝手な妄想なのでは?」
「妄想ではなく、信仰です」
「信仰心のある人間が子供を懺悔室に連れ込んで暴行を働きますか?」
「それは──」
「悪魔に取り憑かれていただけだとでも?」
声を荒らげ、怒りを露わにされた方がずっと楽なのだろうと、希佐は思う。一方的に責められ、批難され、罵倒された方が、感情の行き場が明確になる。だが、アランの声は不思議と、優しく、やわらかく、穏やかだった。
「神が許しても、俺は許さない」でも、とアランは続ける。「それはあなたの罪ではないから。もし、今でもまだあの頃のことを思い出して、気に止むことがあるのだとしたら、もう自分を責めるのはやめてほしい。どうか忘れてください」
「ラファエル、あなた……」
「今日は、指輪のことと、それだけは伝えたいと思って来ました」
「……そうですか」
院長は目を伏せ、そのまま口を噤んでしまう。つい先程まではしゃんと伸びていた背筋が急に丸くなって、老け込んでしまったかのような印象を覚えた。
「……私がこの歳になってまでこの仕事を続けているのは、個人的な罪滅ぼしのためなのです」
「罪滅ぼし……?」
希佐が小さく繰り返すと、院長は伏せていた目をこちらに向けた。
「若い頃、私は望まない妊娠をしました。学生の時分でしたし、母は幼い頃に亡くなっておりましたから、誰に相談することもできず、たった一人で婦人科に足を運びました。でも、なんだか恐ろしくて、なかなか病院の中には入れずにいたのです。すると、とあるご夫婦に声を掛けられました。私の様子から察したのでしょう、もしもお腹の子を堕胎するつもりなら、その子供を自分たちに譲ってくれないかと、そのように持ちかけられたのです」
希佐とアランは思わず顔を見合わせたが、口は挟まず、話の続きを待った。
「ご夫婦は、妊娠中の生活費、出産費用、他にも相応の謝礼を支払うと約束してくださいました。当時、大学の学費を払うためにどうしてもお金が必要で、いけないことだと理解はしていても、その誘惑にはどうしても抗えなかった。私は、出産まで大学を休学し、その夫婦の庇護下で、少しずつ大きくなっていくお腹を眺めながら暮らし、元気な男の子を産みました。ですが、その子は十月十日、私のお腹の中にいた子です、私が、命懸けで生んだ子です……」
「でも、あなたは大学に戻った」
「……ええ」アランの言葉に、院長は頷いた。「私の乳房からお乳を飲む我が子を見つめながら、何度この子を抱いて逃げようと考えたか知れません。ああ、私のかわいい子……でも、そうはしませんでした。私にはこの子を養う力はない。ご夫婦の家の子として育った方が、ずっと幸せになれるだろうと、自分自身にそう言い聞かせ、我が子を手放したのです」
後悔していると、院長は言った。
もう五十年近くも前の話だ。それでも、未だに悔やんでいるという。
出産の痛みは忘れても、赤ちゃんを抱いた腕に感じる重みや、唇が乳房に吸い付く感覚や、指先を握り締めてくれた小さな手の温もりが、忘れられないのだと言った。
それなのに、自分はお金のために、自らの腹を痛めて産んだ子を手放した。だから、その罪と向き合い続けるために、この職を選んだのだと、院長は言った。
「あなたのお母様も、あなたを教会の施設の前に置き去りにしてしまったことを、きっと後悔されていると思います。私はあなたのお母様が心底羨ましい。もしもう一度あの子に会えるのなら、私はもう、いつ死んでも構わないとさえ思えるのに」
それから間もなくして、アランは言葉少なに院長室を後にした。
階下で荷物を運び込んでいるカオスの仲間たちと合流しても、その口数は戻らなかった。全員、アランの様子が先程までとは違っていることに気が付きながらも、変に気遣うことはせず、普段通りに振る舞ってくれている。
「……アラン?」
本が詰まっている段ボールをすべて玄関ホールに運び入れ、荷台の一番奥にあったピアノと数本のギターを降ろし終えたとき、食堂から出てきた子供たちの中の一人が、驚いたような声でその名を呼んだ。
「なんで……」
「エズラ」アランはその姿を認めると、挨拶をするように僅かに首を傾けた。「君との約束を果たしにきた」
「約束って──」子供たちが、がやがやと玄関ホールに集まってくる。エズラは壁際に積み上げられている段ボールの山を見やってから、その傍に立っている希佐に目を向け、仰天したような顔をした。「キサ!」
「こんにちは、エズラ。約束通り遊びに来たよ」
呆然と立ち尽くしているエズラの後ろにいた女の子たちが、どこか難しい面持ちで希佐のことを見ていた。しかし、ハッとした表情を浮かべたかと思うと、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「やっぱり、ピオーティアだ!」
「あっ、本当だ! ピオーティア!」
近くにいたイライアスとノアを押し退け、女の子たちが周りに集まってくる。希佐は両手を取られ、腰に抱き付かれながら、ふふ、と笑い声を漏らした。
「みんな、久しぶり」
「えー、久しぶりかなぁ」
「日曜日にお別れしたばっかりだよ」
「エクスは一緒じゃないの?」
「えっ? エクスなら──」
向こうにいると言おうとして、希佐は僅かに言い淀む。アランがエクスだと言ったところで、この子たちは納得するのだろうか。メイクを落としたアランの顔を見ているのは、エズラだけだ。
そう思いながら困った顔をしていると、それを見ていたアランが軽く首を横に振るので、希佐は適当にごまかすことしかできなくなってしまった。
「──エクスは、今日はちょっと用事があって」
「えーっ!」
「ごめんね」
ざわざわと騒がしくしていると、廊下の向こうから姿を現した男性職員が、子供たちに向かって声を上げる。各自部屋に戻って聖書を読むように言いながら、物言いたげな眼差しをこちらに向けてきた。
「ほら、お前たちもさっさとしないか」
「なんで? 今日くらいいいじゃん。せっかくピオーティアが──」
「そんなものはただの劇の登場人物だろう。この人はピオーティアなんかじゃない。いいから早く部屋に戻って聖書を読むんだ」
「あっ……」
腕を掴まれ、引き摺られるようにして連れていかれる女の子を見て、希佐が思わず声を上げると、その男性職員は睨むような目でこちらを振り返った。
「何か?」
「……いえ、すみません」
ふん、と鼻で息を吐いたかと思えば、その職員は立ち尽くしているエズラの肩に故意にぶつかり、大きく咳払いをした。途端によろめいたエズラに向かって手を差し伸べ、支えてやったのはノアだった。
「何あれ、感じ悪い」ノアは眉を顰めながら、職員の背中を睨んだ。「君、大丈夫?」
「う、うん、いつものことだし」
「いつものことなの?」
「慣れっこだよ」
エズラはそう言うと、名残惜しそうに希佐とアランの方を見つめてから、早足で二階へと駆け上がっていった。姿が見えなくなったかと思えば、廊下は走るな、という怒鳴り声が聞こえてくる。
ピアノの傍では、つい先程までにこにこと楽しそうにしていたエリザベスが、ネイサンの体に身を寄せ、その表情を強張らせてしまっていた。
「施設なんてこんなものだよ」イライアスがぽつりと呟く。「僕がいたところは、こんなに綺麗なところじゃなかったけど」
子供たちの食事が終わり、自分の仕事が一段落したのだろう、先日レオナール・ゴダンの邸に子供たちを引率してきた女性職員が、本の整理を手伝いに図書室までやって来てくれた。
「わああ、こんなにたくさんの本──まるで夢みたいです。本当にありがとうございます」職員の女性は子供のように目をキラキラと輝かせ、段ボールの中から本を取り出していく。「子供たちも大喜びすると思います」
図書室にある本は大体がぼろぼろで、エズラの言う通り、読めるような状態のものはほとんど残されていなかった。出版年を見てみると、最近の本は置いている様子がなく、どれも古い本ばかりのようだ。多くの本は透明のテープで補強されているものの、それも黄ばみ、剥がれかけてしまっている。
「新しい本を買い足したりはしないの?」
「そうしてあげたいのはやまやまなんですが、そこまでお金が回らないのが現状で……」女性はそう言うと、とても申し訳なさそうな顔をした。「この施設、子供たちの数が年々増え続けているんですよ。院長、頼まれると断れないみたいで。本当は定員一杯なんですけど、明日にはまた新しい子が入ってくるなんて状況で、実のところ火の車なんです」
「ふうん、大変なんだね」
「お前なぁ」
本当に大変だと思っているのかも分からないような口振りで言うノアに向かって、バージルが大きくため息を吐く。それを見た女性職員は、力なく笑った。
「この辺りはご覧の通り、景観は抜群なんですけど、子供たちにしてみたら退屈な場所なんですよね。美しい景色なんて見飽きていて、何にも感じないんですよ。娯楽なんて何もありませんから。だから、先日は劇にご招待いただけて、子供たちは本当に喜んでいたんです」
「そんなものはどうせ金持ちの自己満足だろうが」
誰がそんなことを言うのだと、希佐が驚いて後ろを振り返ると、開け放たれた図書室のドアの向こう側に、先ほどの男性職員が立っていた。誰も何も言わずにいると、その男性は図書室に入ってきて、傍にある段ボールの山を一瞥する。
「あんたらみたいな連中は、この程度のことで不幸な子供たちを助けた気になって、それで善がって気持ち良くなってるだけの、ただの偽善者じゃねぇかよ」
「ちょ、ちょっと、やめなさいよ、そんな言い方──」
「そいつはありがたい、ありがたいって言ってるけどな、こっちは無駄な仕事を増やされて迷惑してるんだ。生憎、あんたらみたいに暇じゃねぇんだよ」
「ふうん、あっそ」ノアは大層どうでも良さそうにそう応じながら、手元を動かし続けていた。「僕たちは毎日毎日暇を持て余してる連中だからさ、忙しい人の気持ちはよく分からないんだ。お邪魔してごめんね。やることやったらすぐに帰るよ」
「ノア」
「はいはい、口じゃなくて手を動かしまーす」チッ、と舌打ちをしていなくなった男性の気配を振り返り、ノアは、べえ、と舌を覗かせた。「ほんと、感じ悪い」
「す、すみません、あの、彼も悪気があってあんなふうに言ってるわけじゃないと思うんですけど……」
「悪気以外の何物でもないと思うんだけど」
「おいノア、やめろって」ジェレマイアが呆れた様子でノアの頭を小突く。「こちらこそ、すみません。黙らせますんで」
「い、いえ」
ピアノは多目的ホールに運び込んでほしいと頼まれている。ネイサンとエリザベスはそちらで作業を行なっているはずだ。
二人は大丈夫だろうかと思いながら、希佐が手元から顔を上げると、綺麗に掃除をした棚の上の方から、分類ごとに本を並べているアランの後ろ姿が目に入る。何か思うところはあるはずなのに、何も言おうとはしない。だが、アラン・ジンデルとはそういう人だと、希佐は思う。
「……彼も私も、ここで育ったんです」女性がそう言うと、アランは思わずというふうにその手を止めて、肩越しに振り返っていた。「私は一度ロンドンに行って戻ってきた出戻りなんですけど、彼はずっとここにいて、この施設を手伝っているんです」
「だから世間知らずなんだね」
「馬鹿」今度はバージルがノアの頭を小突く番だった。「お前はもう黙ってろ」
「世間知らずっていうのは事実だと思います。彼は、良い意味でも、悪い意味でも純粋なんです。田舎育ちで、外のことなんてほとんど何も知らないから、都会から来た人を敵視しているところがあったりして」
それはそれでおかしな話なんですけどね、と言って、女性は困ったように笑った。
人助けなんていうものは、所詮は自己満足なのだと、アランは言っていた。良かれと思って困っている人に手を差し伸べても、偽善者と罵られ、その手を叩き落とされることだってある。
偽善者という言葉の力は強い。投げつけられた言葉は心に深く突き刺さって、その次の行動を躊躇わせる。この手が再び相手に不快感を与え、傷つけてしまうのではないかと思うと、どうしてもあと一歩が踏み出せなくなってしまう。
確かに、善意の正体は見えづらい。先程の男性が言っていたように、ほんの一時だけの支援で不幸な子供を助けた気になって、それで満足してしまう人もいるのだろう。そんな自分に酔っている人もいるのかもしれない。だが、二の足を踏み、何も行動を起こさないままの人よりも、そうした人々の方が誰かのために何かをしている。
善意は受け取り方次第でどのようにも姿形を変えるものだ。だから、この手が誰かの痒いところに届けばいいと思うくらいが丁度良いのだと、希佐は考えるようになっていた。
「どうでもいい」そう言ったアランの声は、ノアの軽口とは違って、冷ややかに聞こえた。「施設で育つこと自体は不幸じゃない。施設で暮らす子供の不幸は、自分を取り巻く環境と、自分に関わる大人を選べないことだ」
黙々と作業を続けた結果、図書室は三時間程度で見違えるほど綺麗になった。
埃が降り積り、蜘蛛の巣が張っていた室内は、希佐とイライアスが隅々まで掃除をした。がたついていた机や椅子は、施設の工具を借りて、ジェレマイアが直してくれた。残りの全員で、新しい本を棚に並べ、古い本は段ボールに詰め直す。
古い本はロンドンに持ち帰って処分をするという話だ。中には、絶版になっている貴重な本もあったらしい。
「あっ、キサ」
ピアノの調律を行なっていたネイサンの傍で退屈そうにしていたエリザベスは、希佐が多目的ホールに姿を現すと、その表情を明るくさせた。たったったっ、と元気良く駆け寄ってきたはいいが、近くにアイリーンがいるのを見ると、少し恥ずかしそうにしながら、スカートの裾を気にしはじめる。
「どうしたの?」
「さっきジュースをこぼしちゃって」
「大丈夫、分からないよ」
「本当に?」
「うん」
エリザベスは小花柄のふんわりとしたワンピースの上に、白いニットのカーディガンを着ていた。アイリーンに会えると思ってお洒落をしてきたのだと、途中立ち寄ったコンビニで、レジに並んでいるときにこっそり教えてくれたのだ。
アイリーンには二人の会話が聞こえていたのだろう、エリザベスがトラックに戻る間際、その小さな背中を呼び止めると「素敵なドレスね、あなたにぴったり」と褒めてあげていた。
どうやら、アイリーンがお洒落なことは、ファンの間では有名な話らしい。エリザベスは何も知らない希佐を呆れたように見上げたかと思うと、大きなため息を吐いてから「常識だよ」と言って教えてくれた。
「ああ、アラン」古びたピアノを部分的に解体し、内部の様子を確認していたネイサンは、隣にやってきたアランを見上げて言った。「これはロンドンに持ち帰って修理をする必要がある。部品がいくつもいかれているし、弦も全部錆びついている。私の手には負えない」
「修理をすればまだ弾けそう?」
「そう思うよ」
「院長に持って帰っていいか確認する」
「そういえば、ギターは見た?」壁に立て掛けられている五本のアコースティックギターを一瞥し、ネイサンは言った。「君に言われてからすぐに、知り合いに頼んで用意してもらったんだけど」
「なんでもいいんだ、音が鳴りさえすれば」
「ケースの中に中古のチューナーも入ってる。そっちはおまけだと言っていたよ」
「領収書を送って」
アランはそう言いながら、手近なところにあったギターのケースを引き寄せた。その場に座り込み、床に置いたケースの中から徐にギターを取り出して、腕の中にやわらかく抱く。そのまま弦を鳴らし、自分の耳だけでチューニングをしてから、軽くアルペジオを奏ではじめた。
「わああ」そう嬉しそうな声を漏らしたエリザベスは、希佐の手を取ると、ギターを弾いているアランの前まで駆けていく。「いいなあ、ギター」
「ネイサンに教えてもらったら」
「ダディーは弾けないもんね?」娘にそう言われ、父親は苦笑いを浮かべていた。「でも、マミーは弾けたんだよ。よく弾き語りをしてくれたんだ」
「俺はジュリアからギターの弾き方を教わった」
「えっ? マミーから?」
「うん」驚いたように目を丸くしているエリザベスを見て、アランは弦を爪弾いていた手を止めると、ギターを差し出した。「弾いてみるか」
「……いいの?」
「ああ」
アランはエリザベスをその場に座らせ、小さな体には不釣り合いなほど大きなギターを抱えさせた。自分はその前にしゃがみ、左手をネックに添えさせようとして、唸り声を上げる。
「弦、押さえられないな」
「うん」
「やっぱり子供用の方がよかったか」アランはそう言い、頭を掻きながら立ち上がった。「ちょっと待ってて」
アランはそう言うと、もう一台のギターを持ってきて、エリザベスと向かい合うように腰を下ろした。その場でチューニングをしていると、カオスの仲間たちが周りに集まってくる。
「ラップタッピングって弾き方がある」
「ラップ……?」
「ギターを膝の上に寝かせて弾くんだ。重たければ台を用意して、その上に乗せてもいい」
そう言って、アランは膝の上に寝かせたギターの弦を、指先で軽く叩いて見せた。すると、普通に弾いたときとは違った響きの、どこかやわらかい音色が、ホール内に響き渡る。
「オーガスト・ラッシュだ!」
「そんな映画もあったな」
「何か弾いて見せて」
「ギターは最近弾いてない」
「いいじゃん、別に」ノアはピアノの椅子を抱えてくると、それをアランの傍らに置いた。「弾いてあげなよ」
「君の方が得意だろ」
「僕のはただの趣味だよ。勉強の息抜きに弾いてるだけだってば」
「いいから、ほら」アランはその場に立ち上がり、ギターをノアに押し付けると、エリザベスの隣に胡座を掻いて座った。「チューニングは済んでる」
重たそうにしているエリザベスの膝からギターを回収し、それをケースに仕舞っているアランを恨みがましそうに見ていたノアだったが、仕方なさそうに息を吐き出すと、自分が運んできた椅子に腰を下ろした。
「人前で披露出来るような腕前でもないのに」
「そんなことはない」
「まったくもう」
仲間たちが自分の周りに座るのを待って、ノアは抱えていたギターを膝の上に寝かせ、ふう、と短く息を吐いた。
隣を見やれば、エリザベスが今か今かと待ち構えながら、キラキラと光り輝く目でノアのことを見上げている。その向こう隣にいるアランは、希佐の眼差しに気がつくと、こちらを見て何度か瞬いてから、ノアに視線を戻した。
「ノアと希佐は似ているところがあるのよね」隣に座ったアイリーンが、極々小さな声で言うのを聞き、希佐は思わず首を傾げた。「自分の才能に無頓着なのよ。周りがどれだけ褒め称えようとも、それを真面目には受け取らないの。自己肯定感が低いのは家庭環境のせいなのかしらね」
弦楽器というよりも、まるで打楽器のように、ノアは自由奔放にギターを掻き鳴らす。二本の手、十本の指だけで奏でられているとは思えない、多彩な音、響き、リズム──その音色に耳を傾けていると、ふわりと、心が軽くなってくる。
「アランは面白がって自分に声を掛けてくれただけだ、なんてノアは言っているけれど、そうじゃないのよ。アランは、きちんとノアの才能を認めた上で、カオスに誘っているわ。彼は仲間の才能を愛している。目の前の才能を愛してしまったからこそ、仲間に引き入れたいと思うのでしょうね」
劇団カオスの中でただ一人、アイリーンだけが、アラン・ジンデルによる勧誘を受けていない。何度も、何度も何度も頼み込んで、それでも決して頷いてはもらえず、国際的な歌唱のコンクールに優勝してようやく、自分自身の才能を認めさせた。途轍もない熱意と情熱だと、希佐は思う。
だが、アランはアイリーンの才能をずっと前から認めていて、これから先も歌と共に歩んでいく覚悟を決めてもらいたかったからこそ、カオスへの入団を拒み続けていたのだと、そう話してくれたことがあった。
「ノアの才能は、趣味の外側にはみ出してはいけないものだって、前にアランが言ってた」二人の後ろに座っていたイライアスが、そう小さく言った。「誰かに何かを強制されたり、自分自身でそれを義務だと感じるようになってしまったら、途端に才能は輝きを失う。だから、ノアの才能を守るためには、趣味を趣味のまま尊重してやるのが一番だって」
「愛されてるねぇ」
バージルはそう言って、愉快そうにくつくつと笑った。
アラン・ジンデルはいつだって、その人自身の才能を見つめ、寄り添い、最も良いと思う環境を用意してくれる。出会ったときからずっとそうだ。だが、希佐だけが特別だったのではない。アランは、劇団カオスの仲間たち全員に、自らの愛情を惜しまず注ぎ続けてきたのだろう。
「……彼は、私という人間を愛してはくれなかったけれど」そう言うアイリーンの横顔は、あまりに穏やかで、心を奪われるほどに美しかった。「私の才能は愛してくれたのよね」
今、アランの緑の目は、ギターを掻き鳴らすノアに注がれている。
希佐は、アラン・ジンデルが才能を見つめるときの、キラキラと輝く目が大好きだった。その眼差しが自分だけに向けられていると感じるあの瞬間は、きっと、希佐以外の誰にとっても、特別なものに違いない。
児童養護施設を後にしたのは午後五時過ぎだった。
ノアが弾いていたギターの音色に誘われ、部屋を抜け出してきた子供たちを巻き込み、大音楽会がはじまってしまったからだ。多目的ホールの騒ぎを聞きつけてやって来た男性職員は、子供たちを頭ごなしに叱りつけていたが、女性職員が院長に許可はもらっていると言うと、不服そうにしながらもホールを出ていった。
大音楽会は大いに盛り上がった。誰も止める者がいなければ、そのまま夜通し続いたことだろう。だが、午後五時の夕食の時間は厳守されるべきだと、そう判断したアランが宴の終わりを告げると、子供たちは当然のように批難の声を上げた。
「規則は規則だ」アランはピアノの屋根と鍵盤蓋を閉めながら言った。「今日はもう十分楽しんだだろ」
「前みたいにお芝居を見せてくれないの?」
「芝居の用意はない」
「また見たいなぁ」
「考えておくよ」
真剣に取り合っているとは思えないほど雑な返答をしながら、アランは子供たちを適当にあしらっていた。決して愛想が良いわけではないのに、子供たちはアランの周りに集まって、その場から離れようとしないのだ。子供たちはこの人から、自分たちと似た匂いを感じ取っているのかもしれない。
「わたしのお家はね、ピアノの工房なんだよ」ほんの少し目を離した隙に、エリザベスとエズラがお近づきになっているのを見て、希佐は思わず目を丸くした。「グランパはどんなに傷だらけのピアノでも、ピカピカに直しちゃうんだ」
「ふうん」
「エズラ、ピアノは弾けるの?」
「ううん」
「じゃあ、今度教えてあげるね」
「そんなの無理に決まってる」
「え、どうして?」
「だって、君はロンドンに帰るだろ?」不思議そうな顔をしているエリザベスを見て、エズラは眉を顰めている。「オレたちはもう二度と会えないんだ」
「そんなことない。ダディーがまた連れて来てくれるもん」
「お前、能天気なやつだな」
「どうしてそんなふうに言うの?」エリザベスは頬を丸く膨らませ、じっとりとした目でエズラを睨んだ。「だったらエズラがロンドンまで来れば良いんだよ」
「馬鹿、お前、それこそ無理に決まってるだろ。ここからロンドンまで七十五マイルはあるんだぞ。列車のチケット代だって高いんだ」
「でも、わたしはここまで来られたよ」
「大人に連れてきてもらったんだろ」
そうした二人の会話を聞きながら、ケースに戻したギターをピアノの傍まで運んでいると、壁を背に腰を下ろして靴を履き替えていたバージルが小さく笑う。
「盗み聞きか?」
「え? あ、ううん、少し気になって」タップシューズを持ってきていたバージルは、アランのピアノの演奏に合わせてタップダンスを披露し、子供たちから羨望の眼差しを向けられていた。「子供たちは理不尽な思いをしているのかもしれないなって」
「何か心当たりでもあるのか?」
「子供の頃、仲の良かった幼馴染の男の子がいたんだ。でも、その子はご両親の都合で、遠くに引っ越してしまったんだよね。せっかく仲良くなれたのに、大人の都合で離れ離れになってしまうのは、かわいそうだなと思ってしまって」
「まあ、しょうがないことだわな」
「そうなんだけど」
「一般家庭の子供なら、親同士が連絡先を交換するなり、親のスマホを借りて当人同士で連絡を取り合うなりするんだろうが、一方が施設住まいだと、連絡手段は限られちまうからなぁ」
「お手紙くらいしか手段はないよね」
だが、子供同士の熱心な手紙のやり取りは、そこまで長続きしないものだ。残酷なことだが、子供は遠くに引っ越してしまった友達よりも、今、目の前にいる友達の方が、大切に思えてしまうことがある。
「あのエズラってやつに支援者でも現れれば状況は一変するんだろうけどな」バージルはタップシューズをケースに入れると、ジジジ、とファスナーを閉めた。「どっかの寄宿学校にでも入れてやれば、少なくとも今の窮屈さからは解放されるだろうし、ある程度の年齢になれば外出許可も出る。そうすれば、外の友達とも自由に会える」
「でも、それは……」
「そうだな、生半可な覚悟で手を出しちゃいけねぇことだ。人一人の人生をまるっと預かる覚悟なんて、そう簡単に決めていいもんでもない」
たとえ自分に有り余る富があったとしても、ただかわいそうだからという理由で、手を差し伸べてはいけないのだ。考えれば考えるほど、無責任なことはできない、いい加減なことは言えないという気持ちが強くなる。希佐は、何もしてあげられない自分が、酷く無力に思えて仕方がなかった。
「恵まれてるっていうのは、どういうことなんだろうな」周りに子供の姿がないことを確かめてから、バージルは座った格好のまま、希佐を見上げて言った。「両親がいれば幸せかと言えば、そうじゃねぇだろ? 貧しい暮らしをしていたり、虐待を受けていたり、病気の親の代わりに働かなきゃいけない子供だって、この世にはいるわけだ」
「……うん」
「それに比べたらここで暮らす子供は恵まれてる、なんて考える人間もいるだろうよ。雨風を凌げる暖かい家がある。毎食きちんと用意されて空腹に耐える必要もない。基本、暴力を振るわれることも、働かされることもないだろ。まあ、例外はあるだろうが、施設では衣食住が保障されている」
「……」
「それでも、子供には親が必要だ、何があっても親と一緒にいるべきだ、その方が幸せだ、なんて言うやつもいるんだろうな。俺には、どっちの方が幸せかなんて無責任なことは言えねぇけど、少なくとも、子供には何の心配もなく腹一杯食ってほしいと思うし、夜は暖かいベッドでぐっすり眠ってほしいし、憂うことなくずっと笑っててほしいって、そう思うけどな」
「私もそう思う」
「難しい問題だよ、本当にさ」
バージルは無料で子供たちにダンスを教え続けている。だから、こういう問題について考えることが多いのかもしれない。子供たちはいつも、楽しそうに笑いながらダンスを踊り、お腹一杯食べてから、それぞれの家に帰っていった。でも、帰った先の家で子供たちがどんな顔をしているのかは、バージルも知らない。
何か、子供たちのために出来ることはないのだろうか。自分に出来ることは何なのだろうと、希佐は考える。
後ろを振り返ると、エリザベスとエズラの傍には、アランの姿があった。
アランは、その場にしゃがみ込み、二人の話に静かに耳を傾けている。時折頷きながら話を聞いているその様子は、自分と話をしているときと何も変わらないと、希佐は思った。大人と子供ではない、対等の立場で話を聞き、助言しているのだということが分かる。
「何かを変えたいと思ったとき、その何かを変えられるのは、あいつみたいなやつなんだよな」
「アランのこと?」
希佐が視線を戻して小首を傾げると、バージルは自らの膝に頬杖をつき、子供たちと話しているアランを見やった。
「あいつ、基本は臆病なのに、ここぞというときだけは妙に活動的になるんだよ。機を逃さないんだよな。本当はいろんなことが怖くてたまらねぇはずなのに。俺のことだって、お前のことだってそうだ。あいつが一歩踏み出してくれたからこそ、俺たちは今、ここでこうして話してる。ときどき、そんなふうなことを考えて、ゾッとしてるんだ。もしあのとき、あいつの手を振り払っていたら、まったく違った人生を歩んでたんだろうなってさ」
「私だけじゃないんだね」
「ん?」
「そんなふうに考えることがあるの」バージルが希佐を上目遣いに見る。「私は自分を恵まれた人間だと思う。私と関わりを持ってくれた人はみんな、私という一人の人間を尊重してくれた。性別も人種も関係なく、私という人間を受け入れてくれた。こんなに嬉しいことってないよ」
「他人は自分を映す鏡って言うだろ」
「私もみんなと似てきたってことかな」
「ま、それもあるとは思うけど」バージルはその場にゆっくりと立ち上がる。「俺は、目の前の問題と真正面から向き合って、何でも真剣に考えようとする、お前のそういう姿勢が好きだよ。でもな、この世界には、どうしようもないことだってある。諦めたくねぇことを、諦めなきゃならねぇこともな。理不尽だ、かわいそうだって思っても、何にもしてやれねぇことはままあるんだ」
「うん」
「俺もお前も大人だからな、言葉や行動には責任が伴う。子供が相手だからって適当なことばかり言ってたら、それこそ信用を失う。寄り添うことは大事だが、距離感を間違えると、お前も相手も傷つくことになるだけだ。だからといって、突き離せと言ってるわけじゃねぇぞ」
「分かってる」
「俺たちは、必要なときに、必要なだけのサポートをしてやればいい。自分のキャパ以上の何かをしてやろうなんて思う必要はねぇんだよ」
バージルの言葉はいつも、希佐の心に安心感を与えてくれる。希佐の様子から、何を思い悩んでいるのかを的確に感じ取り、その思いを肯定してくれた上で、道標となる言葉を贈ってくれる。
「施設で暮らす子供の不幸は、自分を取り巻く環境と、自分に関わる大人を選べないこと、か」エズラの頭をぐりぐりと撫でてやっているアランを見やり、バージルは呟くように言った。「きっと、あいつ自身がそうだったんだろうな」
エズラは外の世界との繋がりを強く求めていた。施設という閉鎖的な空間に身を置いていると、まるでこの世界そのものから置いてきぼりにされているような、そんな気がしてくるのかもしれない。だから、施設の外に同年代の友人を作るのはいいことだと、希佐は思う。
それに、たとえ別々の道を歩いていくことになったとしても、その道の先が、再び交わることだってあるのだ。この先、二人が交流を続けていける道を、一緒に模索していきたいとは思うが、もしそれが難しいことだったとしても、これが永遠の別れではない。
最後に、全員が揃って院長室まで挨拶に向かうと、アイリーンとイライアスだけがその場を動かなかった。院長に話があるのだという。
「すぐに済むから、先に行ってて」
施設の壊れたピアノをロンドンに持ち帰り、修理をする許可を得たので、まだ最後の一仕事が残っている。アランはアイリーンとイライアスの二人を横目に一瞥してから、院長に軽く会釈をすると、その場ですぐに踵を返した。
「お久しぶりです、院長」最後に院長室を出た希佐が扉を閉めていると、部屋の中から、そんな言葉が聞こえてきた。「先頃亡くなった祖母の遺言で──」
男性四人がかりで、多目的ホールから壊れたアップライトピアノが運び出されていく。戦力外通告を受けて嬉しそうにしていたノアと、玄関前で話をしていた希佐は、エリザベスと繋いでいる手がぽかぽかと温かくなってきたことに気づき、傍の顔を覗き込んだ。エリザベスは、小さな頭をこくり、こくりと動かし、必死に睡魔と戦っていた。
「ごめんね、リジー。眠いよね」
それはそうだろう、今朝は四時前に起こされ、今の今まで大人たちの都合に付き合わされていたのだ。子供の体力などとうに限界を迎えている。
「僕が背負おうか?」
「ううん、大丈夫」
その場でエリザベスを抱き上げようとする希佐を見て、ノアが自らの背を指し示した。それは大変ありがたい申し出だったが、自分の方が気心が知れているので安心できるだろうと思い、希佐は首を横に振ってエリザベスの体を抱き上げた。
すると、エリザベスは普段から抱かれ慣れているのか、希佐の首にするりと両腕を回し、ぎゅっと体を密着させてくる。
「このまま寝ていいからね」
「ん……」
「これ、使って」
あれだけ寒い寒いと漏らしていたノアが、着ていた上着を脱ぎ、エリザベスの背中から包み込むようにして覆ってくれた。
「ありがとう、ノア」
「いいんだよ。風邪を引いたら大変だからね」
トラックの後方まで運ばれていったピアノは、昇降機の上に載せられ、ゆっくりと持ち上げられていく。希佐たちがその様子を眺めていると、開け放たれたままの玄関扉の向こう側に、階段を降りてくるアイリーンとイライアスの姿が現れた。
「あら、リジーは眠ってしまったの?」アイリーンはそう言いながら、自身の肩にかけていたストールを何も言わずにノアに差し出していた。「早く車に乗せてあげた方がいいわ」
「キサ、代わろうか」
「ありがとう。でも、大丈夫だよ」
ずるりと滑ったエリザベスの体を抱え直していると、イライアスが気づかうように声を掛けてくる。希佐は大丈夫だと首を横に振って、前を歩き出したアイリーンの後を追った。ストールを受け取ったノアは、酷くありがたそうにそれを体に巻き付け、小走りでトラックの方に向かう。
「院長さんとは何のお話をしていたの?」
希佐はそう訊ねてしまってから、聞いていいことなのだろうかと心配になった。しかし、イライアスは何でもないことだというふうに口を開いた。
「寄付の話だよ。この施設は、ウィンダミアから移設してくる資金とか、土地とか建設費用まで、アイリーンのお祖母様と母親が支援しているから、その後の運営にもいろいろと関わっているんだ」
「えっ、それってアランは……」
「知ってると思う」エリザベスを抱えた体は温かいのに、両腕にはなぜか、ぞわぞわと鳥肌が立った。「二人とも、面と向かってそういう話はしないけど、アイリーンの家が慈善活動に熱心なことは有名だし、建設当初から定期的に訪問してるって話だから、もしかしたら面識もあるのかもしれない」
まるで絵に描いたような、運命的な話ではないかと、希佐は思った。そして、かつてはアイリーンも同じように思ったのだろうと、希佐は考える。
これはきっと運命だと。出会うべくして出会ったに違いないのだと。そう思わずにはいられなかったことだろう。
「すみません、キサ」
希佐がエリザベスを抱きかかえてやって来るのを見たネイサンは、荷台の戸をしっかりと閉めてから、慌てた様子で駆けてきた。
「立ったまま眠ってしまいそうだったので」
「ありがとうございます」
「いいえ」ネイサンは希佐の腕の中からエリザベスをそっと取り上げると、とても大切そうに抱き寄せた。「リジーのおかげでとても温かかったです」
希佐はネイサンから上着を受け取ると、それをすぐにノアのところまで返却しに向かった。もういいの? と言いながら上着を着込んだノアは、アイリーンのストールをフードのように頭から被り、赤ずきんちゃんよろしく顔を覗かせている。
この時期の湖水地方は、日の入りが午後八時近い。
辺りはまだ明るい時間帯だというのに、空気はとても冷え冷えとしていた。先程まではどんよりとした重苦しい雨雲が垂れ込め、土砂降りの雨を降らしていたというのに、今では少しずつ青空が覗きはじめている。
「あとはもう帰るだけだよな」手元のスマートフォンを見下ろしながらジェレマイアが言った。「アラン、ウィンダミアの駅まで送ってくれるか?」
「いいけど」
「ちょっと待って」帰りの列車の時刻を調べはじめたジェレマイアに、アイリーンが待ったを掛ける。「もうこんな時間だし、今日はみんなで私の実家に泊まりましょ」
どんなに子供にまとわりつかれようとも、嫌な顔一つしなかったアラン・ジンデルが、今日初めて、不快そうに顔を顰めた。その顔のままアイリーンの方を見ると、形の良い唇を僅かに歪ませる。
「君を実家まで送るとは言ったけど──」
「今からロンドンに帰るとなると、到着は十時近くなるわよ」アイリーンはそう言って、故意にアランの言葉を遮った。「今日はもう全員へとへとでしょう? それに、あなたは良くても、ネイサンはどう? 今からまた何時間も車を運転するなんて酷だわ。万が一、事故でも起こしたらどうするの? エリザベスも一緒なのよ?」
エリザベスをトラックの助手席に寝かせ、こちらに戻ってきたネイサンを見て、アイリーンは同意を求めるように「ねえ?」と声を掛けている。
「ネイサンだってお疲れですよね?」
「ああ、いや、私は元からウィンダミアで宿を取って、明日帰るつもりでいたので……」
「それなら尚更良かったわ。もう実家とは連絡を取り合っているんです。何にもないところですけれど、是非泊まっていってください」
「えっ? あ、いえ、そんな、ご迷惑をお掛けするわけには……」
「迷惑だったら最初から泊まっていけなんて言わないよ」ノアはアイリーンのストールを被ったまま、はいはーい! と手を挙げた。「僕、泊まってみたいな。貴族のお屋敷に泊まるなんて経験、もう二度とできないだろうし」
「そんな大した家じゃないわ」
「ジェレマイアも泊まらせてもらおうよ。一緒に探検しよ」
「まあ、オレは別に構わないけど」
「バージルは?」
「俺は主宰に任せる。帰るって言うなら一緒に帰るよ。お前らは泊まらせてもらえばいい。ロンドンには列車で帰って来ればいいだけの話だしな」
「えー、みんなで泊まろうよ」ノアは不満そうに唇を尖らせ、希佐に目を向ける。「キサは泊まっていくよね?」
「私もアランが帰るって言うなら帰るよ」
「なんでさ。みんなでお泊まり会なんて滅多にできないよ?」
「確かにお泊まり会は楽しそうだけど──」
「絶対に楽しいって」それに、と言いながら、ノアはアランの方を見た。「アランが泊まるって言わなきゃ、ネイサンが困るんじゃない? いくらシーズン外だからって、週末のウィンダミアは旅行客が多いよ。今からホテルの部屋を探すのは至難の業だと思うけど」
「……分かったよ」
ノアの言葉にも一理あると思ったのだろう、アランは渋々──本当に渋々というふうに頷き、自身の頭を少しだけ乱暴に掻きながら、車の運転席に乗り込んでいった。
カオス内で意見が割れたとき、アランは不満に思う気持ちを押し込めて、いつも譲歩してくれる。それは優しさとは違う、一種の諦めのようなものなのだろうと希佐は感じていた。
「怒ったかな」
「そんなふうに思うならあんな言い方するなよ」ジェレマイアはそう言うと、車に乗り込むために歩き出す。「オレはフォローしないからな」
「あっ、ちょっと──」しょんぼりと肩を落としたノアは、近くに立っているネイサンを見上げた。「ごめんね、ネイサン」
「私は大丈夫ですよ」
「お前らは言葉の選択がなってないんだ」くつくつと笑いながら、バージルはジェレマイアの後に続く。「素直に心配だって言えばいいだけだろ」
「バージル」
「へいへい」
アイリーンに横目で睨まれたバージルは、小さく肩をすくめると、そのまま車の中に退散していった。ジェレマイアはフォローしないと言っていたが、あの三人きりの車内でどのような会話がなされているのかは、想像するに容易かった。
「どうかお泊まりいただけますか?」
そう言って、どこか不安そうな眼差しを向けられてしまっては、ネイサンも断ることはできないだろう。
「ええ、では、是非」しかし、トラックに戻る間際に目が合うと、希佐にしか聞こえないような小声で、こう悪戯っぽく漏らしていた。「これで私がホテルに泊まりでもしたら、それこそ彼の機嫌を損ねてしまいますからね」
道案内をするから席を代わってほしいと言われ、助手席をアイリーンに譲った希佐は、イライアスとノアに挟まれる形で二列目のシートに腰を下ろした。後部座席に乗り込んでいた二人の大男は、スマートフォンの小さな画面を一緒になって覗き込んでいる。
「何をしているの?」
「チェスだよ」希佐の問いにジェレマイアが答える。「キサも後でやるか?」
「ルールを知らないから」
「僕が教えてあげるよ」ふっふっふ、と笑いながら、ノアはタブレットを立ち上げている。「何を隠そう、カオスの中で一番チェスが強いのは、この僕だからね」
「そうなの?」
「何ならトランプも教えてあげようか? カジノで一緒に荒稼ぎでもする?」
「やめとけよ、キサ。そいつとカジノに行くと出禁食らうぞ」
「えっ?」
「悪いことなんか何にもしてないのに、いつも黒服のおじさんに別室に連れて行かれて、ボディーチェックとかされるんだよねぇ」
「何が悪いことなんかしてないだよ。お前、カウンティングしてるだろうが」
「……カウンティング?」
「カードゲームで既出のカードを記憶しておくことだよ」首を傾げる希佐を見て、イライアスが教えてくれた。「カジノでは禁止されている行為だから、真似しない方がいい」
「真似もなにも、常人には不可能なことだからな」
「お願いだからキサに悪いことを教えないで」助手席から後部座席を振り返り、アイリーンが言った。「ノアも、カジノに行きたいなら一人で行くか、別の人を誘いなさい。キサに怖い思いをさせたら私が承知しないわよ」
「ちぇ、一攫千金のチャンスなのに」
「一攫千金……」
「あっ、今ちょっと興味持った?」
「やめなさいったら」
「分かってるって。ちょっと悪ノリしただけでしょ。まったく、君には冗談ってものが通じないんだから」
「あなたが言うと冗談に聞こえないのよ」
全員でわいわいと盛り上がっていても、運転席のアランは一人黙りこくっている。ルームミラーを見ていると、一瞬だけ目が合うが、無言のままそらされてしまった。表情らしい表情は見て取れず、何かを深く考え込んでいるようにも見える。
希佐はシートにゆったりと身を預け、そっと目を伏せた。
アランはなぜ、アイリーンの実家に行くことに対して、あそこまで不快感を露わにしたのだろう。いつもなら、どうでもよさそうな顔をして、好きにすればいいと言うはずだ。しかし、アランはあからさまに嫌がるような様子を見せ、行きたくないとでもいうふうな意思表示を見せていた。
そうして目を閉じたまま物思いに耽っていると、希佐が眠ってしまったと思ったのか、左右から囁くような話し声が聞こえ、体に何かが掛けられる。
「キサ、寝たのか?」
「そうみたい」
今更起きてるなどと言い出すこともできず、希佐はそのまま狸寝入りを続けることにした。
「ジェレマイア、そこにブランケットがあるでしょう? それも掛けてあげて」
「うわあ、キサの寝顔超かわいいー」
「おい、じろじろ見るんじゃねぇよ」
「いいじゃん、減るもんじゃないんだから。ねえ、イライアス?」
「見ないで」
「はあ?」
「こら、キサが起きるだろうが」
思わず笑みが溢れそうになるのを何とか堪えた希佐は、僅かに身じろぎをして、ブランケットに顔を埋める。そのとき、後頭部を預けていた背凭れから頭がずるりと滑り落ち、隣に座っていたイライアスの肩にぶつかって止まった。
「あっ、イライアス、耳が赤くなってる」
「うるせぇぞ、ガキ。いいから静かにしてろって」
そのまま狸寝入りを続けるまでもなく、希佐の意識は、ずるずると引きずられるようにして眠りの中に落ちていった。周りの声が少しずつ遠退いて、ゆっくり、ゆっくりと、何も聞こえなくなっていく。
だからこれは、間違いなく夢なのだと、希佐には分かっていた。
立花希佐は、見慣れた景色の中に立っていた。赤い鳥居を潜ったその先、何度も何度も足を運んだことのある、比女彦神社の敷地の中に、ただ立っている。
何の音もしない。
風の音も、虫の声も、自らの心臓の音や息遣いすら、聞こえてはこない。
どこもかしこも真っ暗闇だった。空には雲一つないというのに、月は疎か、星一つ輝いてはいない。真っ暗な空間の中で、神社の赤い色だけが鮮烈な色彩を帯び、視界の中に飛び込んでくる。
「やあ、希佐」
自分の名前を呼ぶ懐かしい声が聞こえ、反射的に後ろを振り返ろうとするものの、そこに存在しない体を動かすことは不可能だった。
「久しぶりだね、元気にしていたかい?」
ああ、まただ──存在しない目蓋を閉じることはできない。希佐はいつも見ていることしかできない。その人はただ一方的に現れ、一方的に話し、一方的に、すべてを終わりにする。
「僕は君に会えなくて本当に寂しかったんだよ」じゃり、じゃり、と玉砂利を踏み締める音が、背後から近づいてくる。「どういうわけか、ここ暫くは君の姿を見ることができなかったんだ。どうしてなのかな。不思議だね」
人の手のようなものが、存在しないはずの肩に触れ、氷のように冷たい指先で、首筋をするりと撫でた。
「ああ、会いたくて会いたくてたまらなかったよ、希佐」懐かしい声が、愛おしそうにその名を呼ぶ。だが、その声の主が、誰なのかは分からなかった。「君がここで舞を納めてから、もう五年も経つね」
微かに、梅が甘く香る。
五年前のあの日もそうだった。草木も眠る丑三つ時、自分以外には誰もいない神社の拝殿前で、賽銭の代わりに舞を奉納したあの日も、梅が香っていた。
「五年だよ、希佐。もう十分じゃないか。君は精一杯頑張った。だから、帰っておいでよ、僕のところにさ」
この人があの人であるはずがないのだ。あの人は、決して自分を傷つけるようなことはしないと、希佐には分かっている。だから、この人はあの人の姿形を借りているだけの、ただそっくりなだけの、別の何かなのだ。
「ずっと、ずっとずっと、待っているんだ。待ち続けているんだ。帰ってきてよ。ねえ、希佐」
火傷をするほど冷たい手の平が、背後から希佐の細い首をぐるりと包み込む。そのあまりの冷たさに、存在しないはずの喉が、ヒュッ、と鳴る。
「こっちの水は甘いよ」
何かが耳元で甘やかに囁きかけてくる。まるで、逢瀬のときに囁かれる、愛の言葉のように。憎しみが滲むほど愛おしそうに。冷えた手が、愛撫するように首筋を上下する──その次の刹那、首の最も脆い場所が絞め付けられ、希佐は息を詰まらせた。
「早く帰っておいで。僕は待ち焦がれているんだ。でも、もうすぐだよね。もうすぐ会えるよね、希佐」
存在しない目蓋を下ろすことはできない。それは、現実から目を逸らすなという暗示なのだろうか。夢の中ではいつも、首を絞められ、息の根を止められて、目を覚ます。起きて暫くは夢のことを覚えているのに、時間の経過とともに記憶が薄れていく。そしてまた、何事もなかったかのように、日常に戻っていくのだ。
「──サ、キサ、起きて」
比女彦神社は波に浚われるようにして消えていった。ゆりかごに揺られるように体を揺すられ、ゆっくりと目を開けば、自分はカオスの仲間たちと共に車の中にいたのだということを思い出す。
「起きた?」希佐が頭をもたげると、ほっとしたような息遣いが頭上から聞こえてきた。「着いたよ」
「着いた……?」
「私の実家に着いたのよ」
「ああ、うん」希佐は寄り掛かっていたイライアスの肩から身を起こすと、未だ霞が掛かっている頭を軽く振った。「ごめん、イライアス。肩を借りてしまって」
「ううん、大丈夫」
不意に視線を感じて顔を上げれば、ルームミラー越しにアランと目が合った。今度は目が逸らされない。希佐が頼りなく笑うと、アランは何か物言いたげに目を細めてから、車を降りていった。
「足元、気をつけて」
「ありがとう」
希佐は、先に降りたイライアスの手を借り、車の外に降り立った。そして、目の前に聳え立つ豪奢な邸宅を目の当たりにし、思わず開いた口が塞がらなくなる。希佐の後から車を降りてきたノアは、わあ、と感嘆の声を漏らしていた。
「これはもう住む世界が違うとしか言いようがないよねぇ」
「うちはただの田舎の貴族よ」
「伯爵家のお嬢様がよく言うよ」
チューダー様式の建築物だと言われても、希佐にはよく分からない話だった。
都市部から離れた、農村などに建設された貴族の邸宅のことを、カントリー・ハウスというらしい。今では管理人を住まわせ、歴史的建造物として管理、保存され、入場料を支払えば見学ができるような施設となっている邸宅が多い中、アイリーンの家族は今でも、ここで普通に生活を送っているそうだ。
二階建て、シンメトリーの邸宅には、屋根裏部屋と地下室があって、ほとんど城のように見える。ロンドン市内にある英国王室のロイヤルファミリーが住むという建物にも見劣りしない素晴らしさだ。
ノアの言う通り、これはまさしく住む世界が違うと、希佐は思った。
「キサ」目を丸くして邸宅を見上げていると、近づいてきたアランが、着ていたジャケットを脱いで希佐の肩に掛けてくれた。「気分は?」
「え、大丈夫だよ」
「顔色が良くない」
「本当?」
どうしてだろうと首を傾げる希佐の首筋に、アランが手の甲を押し当てる。その瞬間、何か悪いものが脳裏を過るのに、その正体が何なのかは分からない。何か大切なものを忘れているような気がするのに、何も思い出せなかった。
「車の中、寒かったから」
「早く家の中に入りましょ」助手席を降り、車をぐるりと回り込んでやって来たアイリーンが、寒そうにジャケットの前裾を掻き合わせている希佐を見て言った。「イライアス、みんなを先に連れていってくれる? 私はネイサンとエリザベスをご案内するから」
「分かった」
十段ほどの階段を上り、平坦に美しく敷き詰められた玉砂利の道を進んでいくと、十分に大きく感じられていた建物が、更に大きく感じられた。だが、じゃり、じゃり、じゃり──その音を聞いていると、なぜか心がざわざわしてくる。
「おかえりなさい、イライアス」立派な樫の木の扉のドアノッカーを鳴らすまでもなく、玄関は内側から開かれた。「皆様も、ようこそお越しくださいました」
そう言って姿を現したのは、一目見ただけでアイリーンの母親と分かるほど似た容姿をした、一人の女性だった。はしばみ色の目を優しげに細め、イライアスの後ろからぞろぞろとやって来る者たちを、順番に玄関ホールに招き入れている。
だが、その女性は軽く会釈をして前を通り過ぎる希佐に品良く目礼したあと、後ろから入って来たアランの姿に目を留めると、その目の瞳孔が微かに開いたのを、希佐は確かに見た。外から差し込む西日の影響かもしれないと思いはするものの、一瞬だけ強張ったように見えた表情が、希佐には少しだけ気掛かりだった。
「アイリーンって本物のお姫様だったんだね……!」
他の多くの者と同じように、自分はなんて場違いなところへ来てしまったのだろうという顔をしているネイサンの隣では、エリザベスは頬を赤く染めて、大興奮しながらぐるぐると辺りを見回していた。
「お母様、こちらがカオスの方々よ。主宰のアラン・ジンデルと、左から、バージル、ノア、ジェレマイア、それから、彼女がキサ。こちらの方々は、ピアノの調律師をしているネイサンと、小さな舞台女優のレディ・エリザベス」
まあ、と漏らしたその女性は、ネイサンの後ろに体を半分ほど隠したエリザベスを見やり、にこりと微笑み掛けていた。
「こちらは母のエレノアよ」
「いつも娘と息子がお世話になっております」
エレノアがそう言った瞬間、イライアスが微かに照れたような仕草を見せたのは、希佐の気のせいではないだろう。人差し指の先で鼻の頭を掻いている様子を見て、アイリーンが嬉しそうにしている。
「彼女の言葉に甘えてしまいました。ご厚意に感謝します」
「そうおっしゃっていただけると心が軽くなりますわ」アランの言葉を受け、エレノアは胸を撫で下ろしている様子だ。「こちらへはお揃いでいらっしゃると聞いておりましたので、私がアイリーンに無理を言って、皆様をお連れするようにお願いしましたの。是非とも一度、皆様にお会いしてみたかったものですから」
「お母様」
「ええ、そうね」アイリーンの呼び掛けに頷き返し、エレノアは全員の顔を見回しながら言った。「お夕食は八時からです。それまではお部屋でお寛ぎください。車はこちらで移動させておきますので、この者に鍵をお預けくださいますか?」
「ですが、古い車なので」
「古い車は扱い慣れております」エレノアのすぐ後ろに控えていた老齢の男性が、にこやかな面差しで言う。「大昔は初代モデルのビートルに乗っておりました。旧車にお乗りとは、お車の趣味が大変よろしいようで」
「友人から譲り受けたものです。メンテナンス代で新車が買える」
「さようにございますね」
アランは希佐を振り返ると、すぐ傍までやって来て、自分が着せたジャケットのポケットから車の鍵を取り出した。アランがそれを差し出せば、老齢の男性はその鍵を恭しく受け取り、玄関から外へ出ていく。
「部屋は四室用意してもらったわ。一部屋は少し狭いからキサ一人に使ってもらって、カオスの男性陣は各々部屋割りをしてね。リジーはネイサンと一緒よ」
「君たちは?」
「ここは私とイライアスの実家なんですから、自分たちの部屋を使います」
「あ、そっか」
アイリーンに案内され、部屋までの道のりを進みながら、男性陣は四人で部屋の割り振りを話し合っている。その後ろを歩いていた希佐は、この酷く現実離れをした建物の中を興味深く思いながら、じっくりと眺めていた。
「キサ、荷物は?」何も持たずに歩いている希佐の隣に並び、イライアスが不思議そうに言った。「車に置いてきたの?」
「家に忘れてきたの」
「全部?」
「これだけはポケットに入れていたからよかったんだけど」希佐はパンツのポケットに押し込んでいたスマートフォンを取り出して見せた。「財布も何もかも全部」
「珍しいね」
「慌てていたわけじゃないんだよ」
だが、カオスのみんなで遠出できることが嬉しくて、楽しみで、ウキウキと落ち着かない気持ちでいたことは確かだ。おそらくはそれが原因なのだろう。出版社の倉庫でトイレを借りたときには気づいていたが、わざわざ取りに戻ってもらうのも申し訳がないと思い、黙っていたのだ。しかし、最初に立ち寄ったカフェで、希佐が財布を忘れたと告白すると、バージルは快く飲み物をご馳走してくれた。
「イライアスとアイリーンは、こんなにすごいお屋敷で育ったんだね」
「僕たちがここに帰ってくるのは長期休暇のときくらいで、ほとんどはロンドンの別邸で暮らしてたんだ」
「そうなの?」
「僕とアイリーンは向こうの学校に通っていたから」
西側の外れまでやって来ると、手前の部屋からネイサンとエリザベス、その隣にノアとジェレマイア、アランとバージルが入室し、希佐は角部屋に通された。
「どうぞ、入って」ネイサンたちのことは使用人に、男性陣のことはイライアスに任せ、アイリーンは希佐の前に立って部屋の中へと入っていく。「ここは他の部屋に比べると少し手狭なのだけれど、私の大好きな部屋なのよ」
アイリーンは手狭だと言ったが、希佐にしてみれば十分に広々とした部屋だった。
裏葉柳色の爽やかな色の壁紙は、西日が差し込んで、ほんのりと薄桃色に染まって見える。家具などの調度品は良く使い込んだ時代を感じさせるものが多く、特に窓辺にある折り畳みの机は、つやつやと飴色に輝いていて、何十年と大切にされてきたのだろうということが一目で分かった。
天蓋付きのベッド、細工の施された木製のクローゼット、ゆったりとした一人掛けのソファ、背の低いテーブル──小さな暖炉には、ぱちぱちと薪が燃えている。
ここは客間というよりも、どこか生活感のある部屋だと希佐が思っていると、暖炉の前に膝をつき、火かき棒で薪の様子を確かめていたアイリーンが口を開いた。
「この角部屋は、母と私のお気に入りなの。窓が多くて明るいから、ここで読書をしたり、手芸を楽しんだり、外を眺めながらお茶をしたりするのよ。ほら、裏庭が素敵でしょう? もう少しあたたかくなるとお花が咲きはじめるわ。七月になれば、向こうに見えるバラ園が満開になって、辺り一帯に甘い香りが漂うの。そのときになったら、また是非いらして欲しいわ」
そう言って説明してくれる口振りからも分かる。アイリーンは自分の家族や、この家や、この土地が愛おしくて堪らないのだろう。
「ああ、そうだ」アイリーンは自分の腕よりも太い薪を暖炉に焚べてから、その場に立ち上がった。「このお部屋のバスルーム、壊れているのよ。だから、お隣のバスルームを借りてくれる? 私の部屋まで来てくれてもいいのだけれど、ここからだと遠いから」
「うん、分かった。お隣のを借りるね」
「着替えも必要よね。私のものでもよければすぐに用意するわ。今着ているものは今夜中にお洗濯をするから、使用人に預けてくれる?」
アイリーンは待っているようにと言い残し、慌ただしく部屋を出ていった。部屋の中に一人取り残された希佐は、ぱち、ぱち、と薪が鳴らす音を聞きながら、肘掛け椅子に腰を下ろす。窓から見える太陽はすっかりと西に傾いて、もう間もなく、日の入りを迎えようとしていた。
ダブリンに住んでいたとき、公園のベンチに腰を下ろして、翳りゆく空をただぼんやりと眺める日々が続いたことがあった。夏は午後九時過ぎまで明るく、冬は午後五時前には日の入りを迎える。日本ではあり得ないことだった。
あの頃と同じ空を見上げているはずなのに、そのときの心持ち一つで、思うことはまったく違う。
子供の頃は沈む夕日を眺めていると、酷くセンチメンタルな気持ちになった。長い夜を越えた先にある朝が待ち遠しくてたまらなかった。
斜陽の空を眺め、今思うことは、子供の頃と大差ないのかもしれない。
あの頃と同じくらい毎日が有意義で、夜を越えた先の朝が楽しみで、明日は昨日や今日よりも良い一日になると信じられる。
そう考えられるようになるまでの道のりは険しく、山あり谷ありで、何度も失意のどん底に叩き落とされてきたが、そうした日々があったからこそ、今があるのだと思うことができる。
アイリーンはすぐに戻ってきたが、自分の部屋から抱えてきた着替えを希佐の腕に押し付け、またすぐに部屋を出ていってしまった。
手渡されたブランドのショップバッグの中には、黒のワンピースとニットガウン、それから新品の下着が入れられていた。自分ではおよそ選ばないような色っぽいレースの下着で、希佐は思わず苦笑いを浮かべてしまう。
洋服はクリーニングに出して、下着は新しいものを買って返そう──希佐はそう思いながら、それらをショップバッグの中に戻した。
汗と埃に塗れたまま食事の席に並ぶのは失礼に当たると考えた希佐は、その足で隣の部屋に向かう。コンコンコン、と素早くノックをすると、ドアはすぐに開かれた。
「おう、キサ。どうした?」
「私がお借りした部屋のバスルームが壊れているから、この部屋のバスルームを使わせてもらうようにって、アイリーンが」
「今はアランが使ってるぞ」
「バージルは?」
「俺はさっさと済ませた」バージルはそう言いながら、押さえていたドアを大きく開く。「中に入って待ってろよ」
「うん、ありがとう」
バージルも誰かの服を借りたのか、普段よりフォーマルな格好をしていて、それが希佐の目には新鮮に映る。本人は乾かしたばかりの髪を煩わしそうに掻き上げながら、自分のことをじっと見つめている希佐に目を向けた。
「随分熱烈に見つめてくるじゃねぇか」
「舞台の衣装以外でバージルがそういう格好をするの、はじめて見るような気がして」
「ん? ああ、これ、イライアスのを借りたんだよ。俺とあいつ、身長も体型もそんなに変わらねぇから。とはいえ、自分より十五も下の野郎の服を着るなんてことになるとは思わなかったけどな」
「似合ってるよ」
「チャップリンでも真似たくなるね」バージルはそう言いながら軽くステップを踏んで見せてくれる。「そうだ。ロンドンに戻ったら、タイプライターの振りを教えてやるよ」
「えっ、本当?」
「少し振り付けを練り直して難易度を上げたんだ。盛り込みに盛り込んだからな、気合い入れとけよ」
「望むところだよ」
チャリティーイベントでバージルと踊る曲に、タイプライターはどうかと提案したのは希佐だった。バージルからは今日まで芳しい返答をもらえていなかったのだが、どうやらずっと新しい振り付けを考えてくれていたらしい。
心の底から嬉しいというふうに、にっこりと笑う希佐を見て、バージルは少しだけ呆れたような面持ちを浮かべていた。
「そういや、お前とアランは何をするか決めたのか?」
「ううん、まだ上手く呼吸を合わせることができなくて」
「ルイはなんて言ってる?」
「中途半端なものを見せるくらいならやめてしまえって」
「まあ、ルイならそう言うだろうな」バージルは希佐に椅子を進め、自分は傍にあったベッドに腰を下ろす。「キサと踊るときのアランは、なんていうか、異常に神経を使ってるっていうか、無駄に集中しすぎてるっていうか。自分の感情を相手に伝えようとするよりも、相手の感情を酌んでやった方が、あいつ的には楽なんだろうが」
「でも、前よりはずっとスムーズに──」
「本番まではもう一ヶ月もないって分かってるよな?」
「……うん」
「仲間内で楽しむだけってなら俺も口うるさく言うつもりはねぇが、お客の前で中途半端なものを見せでもしたら、誰よりも後悔するのはお前ら自身だ。お前らはただでさえ完璧主義だからな。他人の失敗には寛容なのに、自分の失敗は許せねぇんだから、本番で失敗でもしてみろ、せっかく安定した今の関係もガタガタに崩れ去って、今度こそ再起不能になるんじゃねぇか?」
「それは……」
「もし失敗したら、そのときはお互いに自分のせいだって思い込むだろ。それで相手に気を使って、また本音で語り合えなくなる。俺にはそういう未来も見える」
そんなことはないと否定できればいいのだが、そういう未来もあり得るのだろうと同意してしまった時点で、自分が及び腰になっていることを、希佐は自覚する。
「やると決めたからには失敗するな──とは言わない」バージルは希佐の顔を真っ直ぐに見据え、先の言葉を続けた。「ただ、少なくとも自分たちが納得できる形には仕上げるんだ。今からでも最低ラインを決めておけ。そのラインを満たせない場合は当日でも出演をキャンセルしろ。幸い、あのイベントには予定表なんてもんはねぇからな、お前らの穴埋めはどうとでもなる」
ああ、この人は、自分に発破を掛けているのだと、希佐には分かった。
バージルの言葉を受けて及び腰になっている自らの弟子に、最後の覚悟を決めろと言っている。二人が納得できる形など一つしか存在しないと、バージルには分かっているはずだ。最低ラインなど存在しないことも。
「俺だって中途半端なもんは見たくねぇんだよ」
「がっかりさせられたくないんでしょ?」
「言うじゃねぇか」希佐の返事に、バージルは笑う。「ああ、その通りだ」
「私も、自分にがっかりしたくない」
いつだって、立花希佐という役者を信じて与えてもらった役柄を、自分なりの形で演じてきた。だが、すべてがすべて、順風満帆だったかといえば、そうではない。七転八倒し、苦悩の末に、ようやく手に入れられたものの方が、ずっと多いのだ。
「台本を渡されて、配役が発表される。不安はいつだってその瞬間に生まれてくるんだ。私ね、アランと踊るって決めたとき、すごくワクワクした。台本を渡される前の日の夜みたいに。でも、いざ手と手を取り合って踊ってみたら、想像とは全然違っていて、とても不安になった。台本を渡されて、配役を発表されたあとみたいに」
目の前には絶望の谷があった。暗すぎて底の見えない闇があった。希佐が持つ灯りはあまりに頼りなくて、対岸にいるはずのアラン・ジンデルという人を、照らし出すことはできなかった。向こう側にいる人を見るために、必死になって目を凝らす。目を凝らして、目を凝らして、それでも見ることはできなくて、希佐はたった一人、景色の美しい場所へと逃げ出した。ああ、そうだ。また逃げてしまった。どうすればいいのかが分からなくなって。
不安だった。これからどうなってしまうのだろうと思った。
だが、よくよく考えてみると、その不安は舞台に対するものとよく似ていて、正しい答え、正しい道筋が見えてこない、あの絶望感を回帰させるものだった。
「だけどね、今現在抱えている不安は、一人の舞台人として舞台に立ちはじめたときから抱えている不安と、何一つ変わらないってことに気づいたんだ。それに、この不安な気持ちがあるからこそ、私は自分がこれからも成長できるんだって確信できる。だって、私はこの不安な気持ちを消すために、毎日毎日、稽古をしているから。本番前、何の憂いもなく舞台の袖に立つために、最高の舞台を見てもらうために」
希佐に向けていた目を足下に向け、吐息を漏らすようにしてバージルは笑う。
「私は完璧な舞台のためなら努力を惜しまない。たとえ血反吐に塗れたって、本番は舞台の真ん中で誰よりも輝いてみせる」そう断言してしまってから、希佐は思い出したように付け加えた。「もちろん、そのためにはアランにも頑張ってもらわないといけないんだけど」
「だよな」
「え?」
「お前はそういうやつだよ」嬉しそうに、でもどこか悔しそうに、バージルは言った。「キサのそういうところ、素直に尊敬する」
人と人とを比べてはいけないのだと思う。だがしかし、この人はこんなにも、あの人とよく似ている。心持ちや心意気、言葉の選び方や、人との寄り添い方まで。
それでも、もう惑わされたりはしない。心を揺さぶられたりしない。似ているけれど、違う人。バージルは、いつも教え、導いてくれる、たった一人の師匠だ。
それから程なくして、ずぶ濡れの犬のように髪の毛から水を滴らせたアランが、半裸のままバスルームから出てきた。椅子に座っている希佐の前を通り過ぎ、ベッドの上に畳んで置かれているバスローブを羽織ると、そのままバッタリと倒れ込む。
「えっ、大丈夫?」
「……気づいたら寝てた」
「随分なげぇ風呂だと思ってたら」バージルは呆れたように言うと、その場に立ち上がった。「なんか飲むもんもらってくるわ」
「うん、お願い」
希佐は洗面台の脇の棚に入れてあったフェイスタオルを水に濡らすと、それを固く絞り、ベッドに横たわっているアランのところへ向かった。ベッドに身を乗り上げ、額に濡れたタオルを当ててやれば、アランは伏せていた目を半分ほど開く。
「逆上せたの?」
「ん」
「お風呂で寝てしまうくらい疲れていたなら、今日は泊めてもらえてよかったね」
アランの場合は、湯船に浸かりながら深い物思いに耽っているうちに、そのまますとんと意識を手放してしまったという方が、正しいのだろう。
「人のことを言えないよ、アラン」
「そう言われると思ってた」
「お夕食、無理そう?」
「すぐに落ち着く」
バージルは、白い陶器のジャグを抱えて戻ってきた。からん、からん、という水の中で踊る氷の音が聞こえてくる。
「キサ、そんなやつのことは放っておいて、早くシャワー浴びてこいよ。夕食の席に間に合わなくなるぞ」
「うん、分かった」
案の定、バスタブの湯は張りっぱなしで、ゆらゆらと湯気を立ち上らせていた。指先を浸してみると、時間を経ても尚、普段よりも温度が高いように感じられる。希佐には丁度良さそうな温度だということは、アランには熱すぎたということだ。これでは逆上せもするだろう。
希佐は髪を梳いて埃などの汚れを落としてから、よく泡を立てて洗い流し、清め、湯船に浸かって体を温めた。顔色の悪さを指摘されたが、寒気や気分の悪さなどは感じていないので、もう心配はなさそうだ。
風呂から上がり、備え付けのドライアーで髪を乾かしている間にバスタブの湯を抜いておいた希佐は、軽く洗い流してからバスルームを後にする。部屋に戻ると、逆上せから立ち直ったアランも既に着替えを済ませ、ノートパソコンを立ち上げて何かの作業を行なっていた。
「アランもイライアスの服を借りたの?」
「いや」希佐がテーブルに寄っていくと、アランは画面に顔を向けたまま首を横に振った。「衣装部屋にあるものを適当に見繕ってきたって」
その割には、まるで誂えたかのようにサイズがぴったりだ──希佐がそのように思っていると、ドアが控えめに叩かれる。すぐにバージルが開けに向かうと、廊下に立っていた使用人が、夕食の支度が整ったことを知らせてくれた。
夕食はイギリスの伝統料理をアレンジしたコース料理が用意されていた。アイリーンはホストとして、食卓に話題が耐えないよう気を使ってくれているのが分かる。それなのに、希佐の向かいに座っているアランと、隣にいるイライアスは難しい表情を浮かべ、時々相槌を打つ以外は、さして会話に参加してくることはなかった。
「そんなに気にすることか?」食堂を出てから、二人の口数が少なかったのではないかと吐露すると、ジェレマイアが言った。「二人とも普段から口数は少ないだろ」
希佐が二の句を継げずにいると、使用人と話をしていたアイリーンが全員を振り返り、口を開いた。ネイサンとエリザベスは、今日はもう休ませてもらうと言って、部屋に戻ったあとのことだ。
「地下室を改装したバー付きのプレイルームがあるから、そちらに移動しない? 普段はお父様がお客様とお使いになるお部屋なのだけれど、今日は自由に使って構わないって」
「プレイルームって何があるの?」
「ビリヤード台とか、ダーツとか、チェスボードね。カジノテーブルもあるから、カード遊びもできるわよ」
「よーし、キサ、まずは手始めに──」
「キサに悪いことを教えようとしないで」
「チェスのルールを教えてあげようと思っただけだよ」
「それなら構わないけれど」そう言ってから、アイリーンはアランたちの方を見る。「あなた方はどうする?」
「こんな機会は滅多にねぇだろうし、存分に遊ばせてもらいますかね」
「オレも行くよ」
「アランは?」
「俺はいい。疲れたから休む」アランは興味がなさそうに頭を振ると、軽く手を挙げてからこちらに背を向けた。「君たちは気にせず楽しんで」
その背中は、すたすたと廊下を歩き、西側の部屋へと戻っていった。
本当に疲れているのなら早く休んだ方がいいのは明らかで、考える時間が必要なら、それを邪魔するのはよくないことだ。そう考えた希佐は、他の者たちと一緒に、地下にあるというプレイルームに同行することにした。
その部屋は、何本もの太い柱が天井を支えている以外は、何の境目もない、奥行きのあるだだっ広い空間だった。部屋に入ってすぐの場所には、アイリーンが言っていた通りバーカウンターがあって、先ほどアランから車の鍵を預かっていた老齢の男性が、その内側に控えていた。
「旦那様からお嬢様の面倒を見るようにと仰せつかっております」
「まあ、お父様ったら」
「大抵のものはなんでもございますので、何なりとお申し付けください」
大人の社交場とでもいうふうな雰囲気に唖然としている希佐を見て、気を利かせたイライアスがバーカウンターの前まで連れていってくれる。他のみんなは慣れた様子でアルコールを頼んでいたが、希佐とイライアスは揃って水をお願いした。男性は変な顔をすることもなく、グラスにミネラルウォーターを注いで出してくれた。
ノアにチェスのルールを教えてもらったあと、何度か対戦をしてみたが、カオスで一番のチェスの名手に勝てるわけもなく、もうその辺にしておいてやれというバージルの一声で解放された希佐は、イライアスが一人腰を下ろしていた奥の休憩スペースへと足を運んだ。
「隣に座ってもいい?」
「どうぞ」
「ありがとう」
客間まで案内してくれたときは普段と変わらない様子だったのに、一時間ほどが過ぎ、夕食の席で顔を合わせて見れば急に口数を減らし、沈んだような顔をしている。だが、その訳を訊ねてみてもよいものかと希佐が考えていると、先にイライアスが口を開いた。
「アイリーンは両親のことが大好きなんだ」
「うん、そうみたいだね」
「今日は二人がこの邸に揃っていて嬉しいんだと思う。旦那様は、普段は仕事の都合で、ロンドンの別邸に住んでいるから」
「別々にお住まいなの?」
「うん。エレノアは──アイリーンのお母様は、ほとんど一人でこの家を守っているんだ。だから、アイリーンはよく実家に帰ってくるようにしてた。最近だと、少し前にお祖母様を亡くされたばかりで、お母様がお寂しいだろうからって」
I'm so sorry.と言う希佐を見て、イライアスは少しだけ笑った。
「アイリーンが幸せそうにしていると、僕は嬉しいんだ」
完全に壁を作られてしまったと、そう感じた希佐は、思い切って話題を変えてみることにした。チャリティーイベントに向けた稽古の進捗具合や、アンコール曲の他にも、当日は出演者たちが会場設営から舞台の準備、音響まですべてを手掛けることになるので、あらかじめ話し合っておく必要のあることは山ほどある。
「イライアスはアンコールに何をするか決めた?」
「僕にアンコールが掛かるとは思えないけど」イライアスは本心からそう思っていると分かる面持ちで言ってから、小さく頷いた。「一応は決めてあるよ。キサは?」
「私、予定では三度舞台に立つことになっているんだ。だから、その都度アンコールに応えるのはどうかと思って。私もアンコールが掛かるかどうかは分からないのだけれど」
「キサなら大丈夫だよ」
「イライアスだって」
「僕は駄目なんだ」イライアスは特に悲観しているような様子を窺わせるわけでもなく、事実を述べるように口を開いた。「ダンスでなら表現できることを、声や表情で表現しようとすると、途端に身体中がこわばってしまう。特に今回の課題は、僕の内側には存在しないものだから。結果的に形としては仕上がっても、中身が伴わなければ、すぐに見透かされる」
「自分にはない要素を演じるのって難しいよね」
「うん」
「でも、まだ時間はあるから」焦りは禁物だと、希佐は思う。「一緒に頑張ろう」
「アランとはどんな感じなの?」
「順調──とは言えないかな。でも、前進はしていると思うよ。最初の頃に比べたらずっと良くなっているし、お互いに言いたいことを言い合えてる。イライアスや、他のみんなも協力してくれるから、心強いし」
「みんなが楽しみにしてるんだ」
「アランが久しぶりに舞台に立つんだもんね」
「そうじゃない」
「え?」
「君たち二人の共演だから楽しみなんだよ」
これは君にとって良い経験になるだろうと、ルイは言っていた。
この世界では、必ずしも相性の良いパートナーに巡り合えるとは限らない。イライアスのように、相手を尊重し、尊敬し、気遣ってくれる人ばかりではない。自分が今何を思い、何を考え、どのように動きたがっているのかを、視線や、感情や、筋肉の微妙な動きから推測し、付いてきてくれる人ばかりではないと、懇々と諭されたことがある。
『彼が恵まれているんじゃない。君が、恵まれているんだ』稽古を終え、息も絶え絶えになりながらスタジオの床で潰れている希佐を見下ろしたルイが、こう言っていたことがあった。『君はまだまだ未熟だが、まあ、人並みに踊れることは認めるよ。だが、私が最も評価している、君が他の誰よりも特出している点は、その飲み込みの速さだ。君が出演しているカオスの公演映像をすべて見せてもらったが、回を重ねるごとに、ダンスの技術が目に見えて向上している。君はバージルを師と仰いでいるようだけど、君のタップダンスやスタンダードダンスが評価されたのは、元を辿ればイライアスの支えが存在したからなんだよ』
イライアスは、希佐に何一つ意識させることなく、ダンスの基礎をその体に叩き込むという、偉業を成し遂げていた。
確かに、この三年間、希佐はほぼ毎日のように、イライアスから教わった稽古前のストレッチ、バーレッスン、基本的なダンスのステップを繰り返し、繰り返し、繰り返し行ってきた。最初は極々簡単なステップを、そこから徐々に難易度を上げて、最終的には、イライアスと一緒に踊れるようにまでなっていた。
『私は君たちに並々ならぬ可能性を見出している。だから、二人にはさまざまな経験をしてもらいたいとも思っているんだ。例えば、困難なパートナー関係や、自分には想像もし得ない感情を要求されるダンスなんかをね。その経験の先で、君はイライアスというパートナーの有り難みを知るのだろうし、イライアスは新たな境地に辿り着くことができるのかもしれない。今回のイベントに参加することで、お互いにステップアップをしてほしいんだよ。だから、二人にはこんなところで躓いてもらっては困るんだ。分かるね?』
ルイに言われるまでもなく、イライアスの素晴らしさは、カオスの外の舞台に立たせてもらう度に思い知らされていた。この人は最高のパートナーなのだと痛感した。イライアスは自らの我欲を押し付けることなく、ただただフラットな指導をして、希佐自身の個性を損なわせることなく、才能を伸ばしてくれていたのだ。
イライアスは、立花希佐を、決して自分色に染めようとはしなかった。
『前にも言った通り、現時点での君のパートナーはイライアスだ。それを忘れてはいけないよ。君たちの関係が損なわれると私が判断したときは、アラン・ジンデルとの共演は取り止めてもらうから、そのつもりでね』
以前はこのように言っていたので、確認のためにバージルから一緒に踊ろうと誘われたという話をすると、ルイは「いいんじゃないかな」と言って、一切反対をしなかった。
『だって、君のタップダンスは既に、バージルの系譜を受け継いでしまっているからね。今更どうこうしようなんて到底無理な話だよ』
他の四人が、明日のコーヒー代を賭けて、ビリヤード、チェス、ダーツの三本勝負を始めてしまったので、希佐とイライアスは一足早く地下のプレイルームを後にすることにした。
「じゃあ、僕はこっちだから」玄関ホールの正面にある階段の前で、イライアスは足を止める。「本当に部屋の前まで送らないで大丈夫?」
「うん、角部屋だから間違えないよ」
「じゃあ、明日の朝稽古は──」
今は、すっかり普段通りのイライアスに戻っている。だがしかし、希佐がその様子に安堵していたのも束の間、それは何の前触れもなく起こった。
正面玄関の突き当たり、二股に分かれた階段の一方から、一人の男性が降りてきたのだ。その姿を目に入れた瞬間、イライアスの表情からやわらかさが消え、思わずというふうに唇を引き結ぶ。
「イライアス」
「……旦那様」
ネクタイを締めてはいなかったが、仕立ての良いスーツを着て、その上から濃紺のコートを羽織った男性は、ゆったりとした足取りで階段を降りてくると、二人の前で足を止めた。
「こちらの方は?」
「同じ劇団に所属している友人で、キサです」イライアスは自分よりも背の高い男性を見上げてそう言うと、次いで希佐に目を向けた。「キサ、この方がアイリーンのお父様で──」
「カイルだ」
「キサと申します」
カイルと名乗ったその人は、握手することを避けたがっているのか、下げた右手で握り拳を作っている。希佐はその様子を一瞥してから目を伏せ、僅かに膝を折って挨拶をした。
「では君が、アイリーンがよく話している東洋のお嬢さんか」
返事を求められているようには感じられず、希佐は黙っている。
赤みの強いブロンドの巻き毛を後頭部に向かって撫でつけ、露わになった美しい形の額の下では、茶の中に緑が滲んだ冷たい印象を覚える目が、イライアスと希佐の間で行き来していた。
「アイリーンはまだプレイルームにいるのか?」
「はい」
「そうか」カイルはそう言いながら腕時計に目を落とし、次いで表情も変えずに希佐の方を見た。「どうぞごゆるりと」
「お出かけですか」
「ああ」
「奥様には──」
「伝えてある」
「……お気をつけて」
失礼、と言ったカイルは、希佐に向かって申し訳程度に首を傾けて見せると、コートの裾を翻して玄関ホールを歩いていく。どこからともなく現れた使用人には、無言のまま手の平を見せてその場で静止させ、たった一人で外へ出て行ってしまった。
「友達に会いにいくんだと思う」イライアスは表情を固くしたまま言った。「僕は部屋に戻るよ。明日の朝、六時に部屋まで迎えにいくから」
「あ、うん、分かった。おやすみなさい、イライアス」
「おやすみ」
イライアスが不自然に沈み込んでいた原因は、おそらくこの人にあるのだろう。足早にこの場を去っていくイライアスの背中を見やりながら、希佐は申し訳ない気持ちになる。あの場で何も話さなかったということは、その事実を、誰にも知られたくなかったに違いない。
イライアスとアイリーンの母、エレノアとの間にはなかったように思われる距離感と、相容れない感情が、二人の間に暗闇の谷となって隔たりを作っていることが、希佐には分かった。
だがそれは、家族という私的で繊細な、不可侵の問題だ。何か思うことがあったとしても、口を挟むべきではない。自分がそうであるように、イライアスもまた、そっとしておいてほしいと思っているはずだ。
たとえ不可抗力であったとしても、申し訳ないことをしたと思いながら、希佐は西側にある角部屋に向かって歩き出した。この大きな邸宅は、今日訪問した児童養護施設よりも広い。人の気配はほとんど感じられず、物音もしないので、どこか寂しい雰囲気だ。
アランはもう眠ってしまっただろうか。ほんの少しだけでも、様子を見に行ってみようか──希佐がそのように考えながら廊下を進んでいくと、その目的の部屋の扉が、中途半端に開いてるのを見て留めた。薄暗い廊下に、光の線が一筋だけ溢れていた。
やはり、様子だけでも見てから部屋に戻ろうとした希佐だったが、扉に手を触れようとしたそのとき、室内から話し声が聞こえてくることに気づいた。
このまま、真っ直ぐに通り過ぎなければと思うのに、体が硬直したように動かなくなり、無意識に耳をそば立ててしまう。
「先日はお花をどうもありがとう」話し声と共に、紅茶の注がれる音が聞こえてくる。「子供たちのことをいつも気にかけてくださって」
「いえ、俺はなにも」
「あの子たちは、この家に帰ってくるといつも、劇団のお話をして聞かせてくれるんですよ。特に、あの日本から来た女の子──キサさん、でしたわね」
「ええ」
「本当に素敵なお嬢さん」かちゃ、という音で、カップとソーサーがテーブルに置かれるのが分かった。「彼女はあなたの恋人なのかしら」
「大切な人です」
「そう」
盗み聞きなんてしてはいけないことだ。希佐は信じられないほど鼓動が激しくなった心臓を服の上から押さえつけると、物音を立てないように、扉の前からゆっくりと身を引いた。ほとんど息を止めて隣の部屋の前まで移動し、開けたドアの隙間から、するりと体を滑り込ませる。詰めていた息を吐き出すと同時に、激しく波打つ心臓が飛び出してくるのではないかと思い、両手で口元を覆った。
なぜこんなにも動揺しているのか、希佐は自分でもよく分からなかった。
立ち聞きをしてしまったという罪悪感は確かに覚えている。だがそれ以上に、二人が以前からの知り合いだったのではないか、それも、それなりに親密な──そんなふうに思ってしまったことで、この心が酷く揺さぶられているのだと、そう感じる。
希佐はドアがしっかり閉まっていることを確かめると、それからしばらくの間、部屋の中を所在なく彷徨い続けた。心臓の鼓動が落ち着いてきた頃、窓の近くで足を止め、大きく深呼吸をする。
すぐに眠ってしまおうかとも思ったが、このままベッドに横になれば、また不毛なことに思考を割いてしまうに違いないと考え、希佐は気休めでも軽くストレッチをしてから休むことにした。
アイリーンから借りた服を脱ぎ、下着姿のまま暖炉の前に移動して、いつものルーティンに沿って体を動かしていく。ぱちぱちと薪がはぜる音に耳を傾け、じんわりと体が暖められていく感覚に意識を集中させていると、混乱していた頭が冷静さを取り戻していくのが分かった。
大丈夫、きっとなんでもない。
それに、近くこの国を去る自分には、何の関係もないことだ。
何も──そうだ、何も聞かなかった。思い返してみれば、聞かれて困るような話題でもなかったはずだ。自分のことを話していたが、それを喜びこそすれど、ショックを受けるような内容ではなかった。
『彼女はあなたの恋人なのかしら』
『大切な人です』
その言葉のやり取りを思い出すと、希佐は急に息が苦しくなって、絨毯の敷かれた床に倒れ込んだ。真っ赤に燃える薪が微かに鳴く。ゆらゆらと揺れる炎の先端を眺めていると、ゆっくりと目蓋が重たくなり、睡魔がやってくるのを感じた。
自分のことを大切だと思ってくれている。それを周囲に公言してくれている。その事実はただ純粋に嬉しい──希佐がそう思いながら、右手の薬指で輝く指輪を眺めていたとき、視界の端に、小さく白い何かが落ちていることに気づいた。
ゴミでも落としてしまったのだろうかと思い、床に伏せた姿勢のまま、絨毯の外側に手を伸ばす。しかし、指先で摘もうとしてようやく、それがゴミなどではなく、絨毯の下に入り込んだ紙だということが分かった。
「……写真?」
その写真は、長いこと絨毯の下にあったのかもしれない。今日、希佐が絨毯の上でストレッチを行った弾みで、下に入り込んでいた写真の角だけが、視界の隅に現れたのだろう。
何の気なしに写真を手に取った希佐は、そこに写っていた少年たちに目を留めた。表面は砂などで擦れて多少掠れていたが、二人の顔はしっかりと見ることができる。
一人の少年は、ラジコンの飛行機を嬉しそうに掲げ、もう一人の少年は、テディベアを大切そうに抱き締めていた。一方は赤毛で緑の目、一方は赤に近いブロンドの髪で、緑味がかった茶色い目をしている。
希佐は眠気でぼんやりとした思考のまま、写真を裏返し、そこに記されている文字を読み上げた。
「カイルと、アレン……」
どこかで聞いた名前と、見たことのある顔のような気がするのに、思考が上手く働かない。思考速度が急激に落ち込んでいく。目蓋が鉛のように重たかった。
朝になって目を覚ますと、希佐はバスローブを着せられ、しっかりとベッドで横になっていた。消し忘れていたスマートフォンのアラームがいつも通り午前五時十五分に鳴り響くが、ほんの数秒鳴ったところで、かろうじて残っていたバッテリーが切れてしまう。
誰かが自分にバスローブを着せ、ベッドまで運んでくれたことは間違いないが、何の痕跡も残されていないので、それが誰なのかは分からない。そもそも、下着姿のまま暖炉の前で倒れていること自体が、恥ずべきことだ。
どうかこのお屋敷の使用人の方ではありませんようにと思いながら、希佐はベッドの上に身を起こす。
「……あれ?」
ぼんやりとした朧げな意識の中、確かにこの手に取り、この目に見たはずの写真がどこにも見当たらなかった。いや、確かに見たと思ったあれは実際にはただの夢で、現実には存在しなかったものなのかもしれない。
だが、頭の中には、カイルとアレンという文字が、焼き印を押されたかのように、しっかりと刻み込まれていた。
希佐は、イライアスとの約束の時間まで、少しだけ体を動かしておくことにした。ぼうっとしていても、時間は同じように過ぎていく。それならば、有効に活用する方が良いに決まっている。
希佐は火かき棒を手に取ると、アイリーンの見様見真似で暖炉の中の灰を掻き出し、じりじりと燻るように燃え残っていた小さな薪の上に、よく乾いている新しい薪を焚べてから、ストレッチをはじめた。
ドアが遠慮気味にノックされたのは、六時を迎える五分前だった。希佐がバスローブ姿のまま出ていくと、イライアスは挨拶もないまま目を丸くし、両腕で抱えていた稽古着を押し付けてくる。
「着替えたら言って」
希佐に返事をする時間も与えず、イライアスはすぐにドアを閉めてしまった。
イライアスの稽古着は大きかったが、問題なく着られそうだ。ただ、気をつけていないとたくし上げた裾が落ちてきてしまうので、激しく踊ることはできそうにない。
「大丈夫そう?」希佐が着替えを済ませて部屋を出ていくと、イライアスが心配そうに声をかけてくる。「アイリーンに借りた方が良いんだろうけど、朝早くに起こすと怒るから」
「全然大丈夫だよ、ありがとう」
「よかった」イライアスはほっとした様子でそう言ってから、思い出したように続けた。「おはよう、キサ」
「おはよう、イライアス」
昔は書斎だった部屋を潰して作り替えたという小さな稽古場は、屋敷の裏庭が見渡せる場所にあった。揃ってストレッチを終えていた二人が、会話しながらバーレッスンを行なっていると、徐々に白んできた空が、緑の裏庭を銀色に染めていく。
「綺麗だね」
「うん」イライアスは窓の外に目を向けたまま頷いた。「僕はここから見る景色が好きなんだ」
そのまま稽古を続け、そろそろ朝食の時間だから終わりにしようとイライアスが告げたのは、朝日も昇り切った七時過ぎだった。
食堂へ向かう前に汗を流したいと考えた希佐は、イライアスと別れて部屋に戻る。夜のうちに洗濯からアイロンまで済ませてもらっていた服を受け取り、隣の部屋までシャワーを借りに行った。
バージルは既に目を覚まし、朝の柔軟運動を終えた後だった。シャワーを浴びたばかりのようで、髪は生乾きのままだった。
「シャワーか?」
「うん。イライアスと朝稽古をしていたんだ。借りてもいい?」
「おう、いいぞ」
希佐は部屋に足を踏み入れると、辺りをぐるりと見回した。一方のベッドは軽く整えられていたが、もう一方のベッドがこんもりとしているのを見て、バージルを振り返る。
「アラン、まだ寝ているの?」
「ああ、昨夜は遅くまで眠れなかったみたいでな」
「そっか」
「ほら、早く浴びてこいよ」
「あ、うん」
いつもの朝と同じようにささっとシャワーを浴び、髪を乾かしてバスルームを出てきても、アランはまだベッドで横になっている。
間もなくすると使用人が現れ、朝食の席が整ったと知らせてくれたので、希佐はバージルと顔を見合わせてから、仕方なくアランを起こすことにした。
「アラン、朝ごはんの時間だって。そろそろ起きて……」
アランが頭から被っていた羽毛の布団を剥いだ希佐は、その異変をすぐさま察知した。普段から青白い顔を更に青ざめさせ、額には玉のような汗を浮かび上がらせている。条件反射で額と首筋に手を這わせると、体が必要以上に熱を帯び、枕カバーやシーツまでもが、じっとりと湿っているのが見て取れた。
「酷い熱……」
そう言って振り返ると、バージルは頭を掻きながら、大きなため息を吐いた。それはアランにではなく、自分に向けたため息であることが、希佐には分かった。
バージルは「待ってろ」と言うと、ほとんど走るようにして部屋を出ていった。
発汗はしているが、寒気を覚えているのか、微かな震えがある。汗で濡れたシャツを着替えさせた方がいい──希佐が頭の中で目まぐるしく思考を巡らせていると、アランがゆっくりと目を開いた。うっすらと覗いた、いつもは色鮮やかな緑色の目が、今は不思議と澱んで見える。
「キサ……」
「アラン」希佐が額に手の平を乗せると、それがひんやりと感じられて気持ちが良かったのか、アランは再び目を伏せた。「気分はどう?」
「あまりよくない」
「汗を掻いているから、そのシャツを脱いで。自分で着替えられる?」
希佐はサイドテーブルに置いてあったシャツを掴み、手繰り寄せた。上半身を起こしたアランは、覚束ない指先で着ているシャツのボタンを外している。
昨夜、バスルームの湯船で寝落ちたと言っていたときにはもう、体調は悪かったのだろう。平然とした顔ですぐに起き上がっていたので、本当に逆上せただけなのだと勘違いをしてしまった。
「なんて顔をしてるの」嗅ぎなれない香りのシャツに着替えながら、アランは言った。「これは俺が自己管理を怠っていただけ」
「でも……」
「そんな顔をされるとキスしたくなる」本気とも冗談ともつかない顔で、アランは続けた。「今はやめておいた方がよさそうだけど」
「いいよ」希佐がそう言うと、アランは潤んだ目でこちらを見つめ返してきた。「それでアランの気持ちが安らぐなら」
「お人好し」そう言って、アランはどこか困ったように笑った。「君が俺を拒絶してくれたら、この気持ちも少しは紛れるのに」
アランはそう言って希佐の頬に手の平を添えると、酷く艶っぽい眼差しを希佐の唇に注いだ。背筋がぞくりと震え、心臓が爆発的に鼓動するのを、どうにか無表情でごまかそうとする。しかし、アランはそれさえも気づいているというふうな面差しで、希佐の口元に唇を寄せた──が、互いの唇が触れ合うことはなかった。
緑の目がふっと閉じられ、意識を失った体が、希佐の方に向かって何の配慮もなく倒れ込んでくる。着替えたばかりの一枚のシャツ越しに感じる体温は、いつもの比ではないほど熱く感じられ、希佐はその体を受け止めながら、人知れず動揺している感情を押し殺していた。
アランの体を何とかベッドに押し戻し、濡らしたタオルで顔や首筋の汗を拭き取ってやっていると、バージルがアイリーンと共に部屋の中に入ってきた。
「お医者様をお呼びしたわ。すぐに来てくださるそうよ」
こんなに早い時間帯から来てくれるのかと、野暮なことは訊ねるべきではないのだろうと、希佐は思う。
「どんな感じなの?」
「自分で少しだけ起き上がって、シャツだけは着替えてもらったのだけれど、またすぐに気絶するように眠ってしまって」
「こいつが倒れるなんて滅多に──ああ、いや、俺の知るかぎりでは一度もねぇな」
「ええ、私もアランが倒れたなんて話、これまでに一度だって聞いたことがないわ」
「そうなの……?」
「この三年間はずっと一緒に暮らしているのだから、あなたの方がよく知っているはずでしょう?」
この三年間を思い返してみると、確かに、アラン・ジンデルが高熱で倒れるという姿を見たことは、ただの一度もない。二日酔いや、精神的に弱り、伏せっていることはあっても、病気で倒れたことはなかった。
「不健康なくせに、体は異常に丈夫なんだよな、こいつ」バージルはベッドのそばに寄ってくることなく、少し離れたところにある椅子に、足を投げ出すようにしてどっかりと腰を下ろした。「もうずっと長いこと無理を押し続けてきたんだ、自分でも気づかないうちに、体が限界を迎えていたんだろうよ」
希佐はアランの左手に自らの右手を重ね、少しだけ力を込めて握り締める。
様子を見るのではなく、指摘した方が良かったのだろうか。いつも以上に上の空だったことや、何かを思い悩んでいる理由や、胸の内に秘めているであろう思いの丈についてを、無理矢理にでも聞き出してしまった方が、この人の心を軽くしてあげられたのだろうか。
きっと、希佐が真正面から訊ねれば、アランは答えてくれただろう。だが、そうと分かっているからこそ、何も言えなくなってしまった。この人の口を否応なしに開かせることも、今の希佐では到底支えきれない重責を背負うことも、避けたいと思ってしまった。今だって受け入れることだけで精一杯なのに、これ以上のことを受け止めてしまったら、心が押しつぶされてしまうのではないかと、そう思ってしまった。
自分は、臆病風に吹かれているのだろうかと、希佐は思う。
もう逃げない、すべてを受け入れるという覚悟を決めても尚、心は揺らいでいるというのか。
十五分程で医者が到着した。想像していたよりも若い医者だ。デニムに薄手のニットという出で立ち現れた男性の医者は、寝癖の立ったボサボサの髪をふわふわと揺らしながら、使用人に案内されて部屋に入ってくる。
「おはようございます、レディ」
「おはよう、レジナルド」私の幼馴染なの、とアイリーンは言った。「彼を診てくださる?」
「おやおや、これは随分とつらそうだね」
朝ご飯がまだなら食べてきてくださいと言われ、希佐たちは全員部屋を追い出されてしまった。どうしても食事をする気にはなれず、部屋で待っていると言うと、何か簡単に食べられそうなものを持って来させるわと言って、アイリーンはバージルを連れて食堂へと向かっていった。
部屋に入り、後ろ手にドアを閉める。一人掛けの肘掛け椅子に腰を下ろすが、落ち着かなくなって、またすぐに立ち上がった。使用人が運んできてくれたスープとパンをそのままに、部屋の中をぐるぐると徘徊していると、ドアが再び叩かれた。
「やあ、えーっと、あなたが彼の同居人かな? 名前は──」
「希佐です」
「キサだね。私はレジナルド。レジーと呼んでくれても構わないよ」差し出された手を握って握手に応じると、レジナルドは隣の部屋についてくるように言う。「彼は極度の過労だね。二、三日安静にしていれば、まあ、今のところは大丈夫だろう」
「過労、ですか?」
「過労を甘く見てはいけないよ、キサ。人は過労でも命を落とすことがある」
「はい」
「まずはよく休ませてあげることだ。でも、彼は今日中に帰ると言って聞かないんだよ。だから、君からも説得してくれないかな。あの状態のまま車を運転させるのは危険だから、もう暫くはここで休ませてもらった方がいいとね」
「あの、はい、分かりました」
「私は少しアイリーンと話をしてから戻ってくるよ」
よろしくね、と言いながら希佐の肩に手を置いたレジナルドは、ぱちん、と片目を瞑って見せてから、ゆったりとした足取りで廊下を歩いていった。
希佐はその場で大きく深呼吸をすると、ノックをしてから、そっとドアを押し開いた。ドアの隙間から室内を覗き込めば、ベッドに横たわったアランが、ぼんやりと天井を眺めている様子が窺える。
「アラン、入るよ」
音を立てないようにドアを閉め、まず最初に何と言葉を掛けるべきかを考えながら歩み寄っていくと、希佐よりも先にアランが口を開いた。
「よく食べ、よく寝て、よく休むこと」そう言う口振りはどこかうんざりとしているように聞こえる。「あなたに必要なものは人間らしい生活だと言われた」
「そう」
「人間らしい生活の仕方なんてもう覚えてない」
「でも、人間らしい生活ってどういうものなんだろうね」希佐はアランが横になっているベッドの縁に腰を下ろし、苦笑いを浮かべた。「難しいよね」
「自分の体を壊れるまで働かせることは一般的じゃない。大切な人を思うのと同じくらい、自分の体を労わり、慈しまないと、いずれその大切な人のことを悲しませることにも繋がる」
「あの先生に言われたの?」
「そう」
天井に向けていた目をこちらに向けたアランは、希佐に向かってそっと右手を差し出してくる。希佐はその手を左手で取ると、アランがいつもそうしてくれるように、そっと唇を寄せ、口付けた。
「私は悲しむよ」手元から顔を上げ、上目遣いにそちらを見ると、アランと真っ直ぐに目が合った。「アランの苦しそうな姿を見て胸が苦しくなった」
「俺は君が倒れるたびに、もっと自分を大事にするべきだと思ってた。あの人が言いたかったのはそういうことなんだと思うけど」アランは酷く億劫そうに息を吐き出している。「自分が言われると身につまされる」
ああ、この人は今、酷く弱っていて、その姿を包み隠さず見せてくれているのだと、希佐は思った。もしかしたらこれまでも、希佐の──カオスの仲間たちの前ですら、こうした姿を見せてこなかっただけで、本当は人知れず体調を崩していたこともあったのかもしれない。それこそ、誰にも悟らせず。
「ロンドンに帰る?」希佐がそのように問うと、アランは意外そうな面持ちを浮かべた。「先生にはあなたを説得してほしいと言われた。今の状態で車を運転して帰るなんて危険だから、しばらくはここで休ませてもらいなさいって」
「君はどうした方がいいと思うの」
「私がここに残って休ませてもらった方がいいと言ったとして、あなたはそれで納得する?」希佐は囁くような声で言った。「アランが思うようにしたらいいよ。でも、車の運転は無理だから、帰るなら列車じゃないと。車はここに置かせてもらって、週末取りに戻る」
「……どちらも嫌だな」
「わがまま言わないの。みんなの命を預かっているんだから、当然でしょう?」
アランは結局、何日かはここで大人しくしているという選択を、自らの意思で下した。みんなの命を預かっているという一言が、最終的な決定打となったようだ。
アランが再び眠ってしまったのを確認し、レジナルドと名乗った医者が戻ってくるのと入れ違いに部屋の外に出ていくと、隣の部屋の前に立っていたノアが、軽く手を挙げながら歩み寄ってくる。
「どんな感じ?」
「過労だって。ぐったりしてる」
「珍しいよねぇ」
「うん」
頷きながら後ろを気にする素振りを見せると、ノアはくすりと笑い声を漏らした。
「心配?」
「え?」
「いいなぁ、僕もキサにそんなふうに心配してもらいたいなぁ」
「ノアが風邪を引いたりしたらお見舞いに行くよ」
「僕も体は丈夫なんだよね。多少の無理は効くからさ、アランの気持ちも分かるんだ。本当は自分で自分の限界を知らないといけないんだろうけど、アランも僕も、自分のことは棚に上げちゃうタイプだから」
そう言うノアの表情には、普段と違った大人っぽさが滲んでいて、不思議と希佐の目を釘付けにする。
いつもはにこにこと機嫌良く笑っていることの多いノアだが、その実は誰よりも頭の回転が速く、人一倍周囲に目を配り、あらゆる変化を敏感に感じ取っていることを、希佐は知っていた。ノアの周りはいつだって、太陽のような明るい光に照らされている。
「アランはさ」ノアはくすくすと、まるで少女のように笑いながら言った。「僕の前だと、意外と素の部分を見せてくれることもあるんだよ」
「そうなの?」
「他の人たちと比べて気兼ねがないんじゃないかな。ほら、僕は学者畑の人間で、演劇畑特有の、なんていうのかな、敵対意識というか、嫉妬心? みたいなものが皆無なタイプでしょ? それにほら、僕ってば他人に嫉妬なんかしなくったって、こんなにかわいいし」
「そうだね」希佐は少しだけ肩を振るわせて、ふふ、と笑った。「初めて会ったときから、ノアのことはかわいい子だなって思ってたよ」
「本当? ありがと」
ノアとジェレマイアは、出会った頃から何一つ変わったところがない。アラン・ジンデルに呼び出されて行ったスタジオで、顔を合わせたあの日から今までずっと、何も変わらないのだ。
「僕をカオスに誘ってくれたときも、演劇なんて二の次でいいから、学業を優先してくれって。でも、そんなふうに言われると、逆に頑張ってみようかな、なんて思ったりもしてさ。せっかく誘ってくれたんだし、その期待には応えたいと思うよね」
「その気持ちは私にもよく分かるよ」
「『God Only Knows』?」
「うん」
「あれももう三年前かぁ」ノアはそう言いながら、懐かしそうに目を細めた。「あっという間だったね」
「ノアは大変そうにしてたよね」
「それはそうだよ。僕、女の子のことは好きだけど、女の子になりたいと思ったことはないし、それを突然自然に演じろって言われても、すぐには無理だって」
「でも、ある日突然演じられるようになっていたでしょう? すごく驚いたもの」
「僕は、こう見えて人間観察が好きなんだよ。カフェとかパブに行ってさ、お店の隅っこの方にある席に座って、ただぼーっと人を眺めてるんだ。どんな話をしてるのかなって聞き耳を立てたりしてね。話し方や、仕草や、視線の動きなんかを見ていると、その人がどういう人間なのかが少しずつ分かってくる。勉強、勉強で行き詰まったときは、気晴らしにそういう遊びをして楽しんでいるのさ。当時はいろんな女の子のことを観察したり、ときどきお話しなんかもしたりして、参考にしてたんだ」
「私にとっては人間観察の方が勉強って感じだな」
「じゃあ、今度一緒に人間観察しに行こうよ。ヘスティア──は、ダメか。君、あの店だとすごく目立つからね。僕がよく行く別のパブがあるから、今度連れて行ってあげる」
「いいの?」
「もちろん」嬉しそうに微笑む希佐を見て、ノアはどこか安心したような面持ちを浮かべてみせた。「あっ、でも、僕たちみたいにかわいい二人が並んで座ってたら、変な輩に声掛けられちゃうかも。ボディーガードにゴリラも連れて行こうね」
そうして立ち話を続けていると、廊下の向こう側からやってきたジェレマイアが、呆れた顔をしてノアを見た。
「お前、こんなところで立ち話なんかしてないで、キサを中に入れてやれよ」
「え? ああ、ごめんごめん、気が回らなくて」えへへ、と何かをごまかそうとするように笑ったノアは、自分の背後にあるドアを押し開いた。「どうぞ、入って」
「お邪魔じゃない?」
「何言ってるんだよ、邪魔なもんか」ジェレマイアはむしろ驚いたという顔をして、希佐を部屋の中に促した。「今、イライアスがお茶を淹れに行ってくれてるんだ。一緒にちょっとゆっくりしようぜ」
座り心地の良い椅子に座らせてもらい、三人で談笑していると、十五分ほどが経った頃に、イライアスが姿を現した。
「イライアス様、困ります」まだ若い、希佐とさほど年齢も変わらないと思われる女性の使用人が、慌てた様子でイライアスの後ろから部屋に入ってきた。「それは私が奥様から仰せつかったお仕事で──」
「お茶の支度くらい僕にでも出来る」
「それはもちろん存じ上げております。ですが、どうか私の仕事を取り上げないでください」
「彼らは僕とアイリーンのお客様なんだ。奥様だって自分のお客様には手ずからお茶を淹れられているよ」
「奥様は特別でいらっしゃいます。それに、私はその奥様から、お客様を丁重におもてなしするようにと……」
イライアスの歩幅に合わせ、小走りでついて来たのだろう、その小柄な使用人は僅かに肩で息をしながら、イライアスの前に回り込んで行手を阻んだ。しかし、部屋にいる全員の眼差しが自分に向けられていることに気づくと、途端に頬を赤らめ、こちらを向いて深々とお辞儀をしてみせる。
「た、大変失礼をいたしました」
「あ、いや、オレたちは何も失礼なんかされてないんだけどさ」
「ダメだよ、イライアス。使用人さんに迷惑かけちゃ」
「い、いえ、イライアス様は迷惑だなんて、そんな──」慌てふためく使用人を尻目に、イライアスは廊下を押してきた給仕用のカートをテーブルの脇に留め、慣れた様子でお茶の支度をはじめてしまう。「私は、その、奥様から皆様にお茶をお出しするようにと……ですが、キッチンに行きましたら、イライアス様がすっかりご準備を終えられていて、それで……」
「僕が勝手にしたことだと言えば奥様はお許しくださるよ」
「そういう問題ではございません」
二人がまるで痴話喧嘩のような言い争いをしていると、この騒がしさを聞きつけたらしいアイリーンが「あらあら、なあに?」と口にしながら、部屋に入ってきた。使用人からことの顛末を聞かされたアイリーンは、イライアスに呆れたような目を向けながら小さく息を吐き出し、再び使用人に向き直った。
「分かったわ。ここは私が請け負いますから、あなたはもう下がっていいわよ」
「で、ですが……」
「朝食は済んでいるの?」
「いえ、まだです」
「それなら、ゆっくり食べておいでなさい。後片付けはあなたにお願いするわね」
「……かしこまりました」
「どうもありがとう」
アイリーンはそう言うと、使用人をドアのところまで送り届け、一言フォローを入れるように声をかけてから、ゆっくりと扉を閉めた。そして、今度は大きくため息を吐き、まるで困った弟でも見るかのような眼差しで、まっすぐにイライアスを見た。
「あの子はまだ入ったばかりなのよ、イライアス。少しずつお仕事を覚えていかないといけないの。ようやくお母様から一人でお客様をおもてなしする機会をいただいたのに、それを台無しにするなんてかわいそうじゃないの」
「彼女にはまた次の機会がある」
「それはそうかもしれないけれど、そのお客様が今日みたいに気安い方々ばかりだとはかぎらないわ。使用人の働きぶりを見て、それを評価してあげるのも、私たちの役割なのよ」
「それは君の役割だ」
「まあ、イライアス」むっとしたような顔をするアイリーンを横目に、イライアスは悪びれない顔のまま「ごめん」と言った。「いつまでもそんなことを言って、またお母様を泣かせたりしたら、ただじゃおかないんですからね」
二人の話には口を挟まない方がいいのだろうと判断した三人は、互いに目配せを送り合い、苦笑いを浮かべながら肩をすくめていた。
イライアスが淹れてくれた紅茶はとても美味しかった。紅茶の色味が濃く、程よい渋みとコクが感じられる、至高の一杯だ。セイロンの茶葉は、高地産のものであればあるほど、すっきりとした味わいが楽しめるらしい。
「お腹いっぱい食べたはずなのに、このスコーンが美味しすぎて困るんだけど」
「お祖母様のレシピなのよ」優美に紅茶を飲みながら、アイリーンが嬉しそうに言った。「あとでお土産に包んであげるわ」
「本当? やった、ありがと」
ノアは、もぐもぐもぐ、と焼きたてのスコーンにたっぷりのクロテッドクリームを乗せて、美味しそうに頬張っている。
「ねえ、アイリーン。ネイサンとリジーはどうしている?」
「ああ、あのお二人なら、お庭の散策に出掛けたわよ。運が良ければウサギやリスが見られるかもしれないと言ったら、エリザベスがネイサンの手を引っ張って、大急ぎで出て行ってしまったわ」
もしかしたら、エリザベスには、アランが倒れたということは伏せられているのかもしれない。他のみんなは、これからどうするつもりなのだろうと希佐が考えていると、バージルがスマートフォンを片手に部屋の中に入ってきた。
「ロンドン行きの列車のチケット、何とか三枚だけ手配できたぞ。座席は離れてるが、ガキじゃねぇんだから構わねぇだろ」
「日曜なのによく取れたね」
「運良くキャンセルが出たらしいな」
「ジェレマイアはエディンバラの実家に帰るんでしょ?」
「ん? ああ、あと一週間は実家で過ごして、それからロンドンに戻るよ。部屋探しもしないといけないしな」
「じゃあ、そのチケットはバージルと、僕と──」
「私も戻るわよ。仕事とレッスンがあるもの」
「イライアスはどうするのさ」
座る椅子がないので、ベッドの縁に腰を下ろし、外の長閑な景色をぼんやりと眺めていたイライアスは、その視線をゆっくりと室内に戻す。
「僕は残る。稽古ならここでも出来るから」
「そうね。それなら、アランとキサのことはイライアスに任せて、私たちは先に帰りましょうか。ジェレマイアも駅までは一緒でしょう?」
「ああ」
「トラックに積んだピアノを運ぶ作業が残ってるからな、俺とノアは頃合いを見て、工房まで手伝いに行くぞ」
「了解」
目の前で次々と下されていく決断に口を挟めずにいると、その様子を目の当たりにしたイライアスが、希佐に声を掛けてきた。
「ルイにはさっき連絡をしておいたから」
「あっ、うん、ありがとう。私はジョシュアに伝えておくね」
アイリーンの母親が、列車の中で食べられるようにと用意してくれたランチボックスを抱え、四人は正午前に屋敷を出て行った。昼食は希佐とイライアス、ネイサンとエリザベスの四人で食堂に向かい、ホテルのランチのような食事をご馳走になった。
わあ、と大きな目をキラキラと輝かせ、おいしいね、おいしいね、と言いながら無邪気に食べているエリザベスを正面に見ながら、希佐はその表情に一抹の不安を覗かせていた。
「……私、帰る頃にはすっかり太ってしまっているかも」
「あとで一緒に走りに行こう……」
次々に給仕される料理があまりに美味しく、残すのも申し訳ないと思ってしまい、結果的には食べ過ぎてしまう。午後からは、イライアスと一緒にランニングと、ダンスの稽古をいつも以上に頑張ろうと思いながら、希佐は自分の皿に取り分けられた料理を、最後まで美味しくいただいた。
ネイサンとエリザベスが屋敷を発ったのは、昼食後すぐのことだ。玄関先まで見送りに出て行くと、エリザベスは希佐の腰に両腕を回して抱きつき、首を仰反るようにしてこちらを見上げてきた。
「アラン、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」結局、黙っていることができずに、希佐はアランが倒れたことをエリザベスにも話して聞かせていた。「お医者さんが、少し休めば良くなるって」
「ちゃんとそばにいてあげてね」
「え?」
「ひとりはさみしいから」
「……うん、そうだね」
一緒に見送りに出てきてくれていたエレノアが、ピクニック用の籠バッグを、道中食べてくださいと言いながら手渡している。ネイサンはそれを恐縮した様子で受け取っていた。
「ロンドンに戻ったら連絡をくださいますか? その頃には父と相談をして、施設から持ち帰ったピアノのことでお話しできることもあると思います」
「はい」
「アランには、あまり無理をしないようにと伝えてください。生前、妻もよく心配していました。彼は人一倍の頑張り屋さんで、自分の弱い部分を人に見せたがらないから、弱音を吐くこともない。そういうことを言い合える人が現れれば、少しは違うのかもしれないのにと」ネイサンはそう言ってから、ふふ、と小さく笑った。「今はあなたがいるので、私はあまり心配していないのですが」
少しずつ小さくなっていくトラックを見送りながら、希佐は考える。
かつては愛に飢えていた小さなラファエルは、自らに別の名前を与え、自らで道を切り拓き、途中足を止めることはあっても、ここまでの険しい道のりを懸命に突き進んできた。その道の沿道には大勢の人が立っていて、ある人は遠巻きに傍観するように立ち、ある人は好奇の眼差しを向け、またある人は心ない言葉を投げつけてきたのかもしれない。だが、多くの人々はその姿を優しく見守り、手を振って、声援を送っていたに違いないのだ。
アラン・ジンデル自身の愛情深さと同じくらい、アラン・ジンデル自身が愛されているのだと、本人はもっと自覚するべきなのだろう。そうすれば、もうこれ以上は心配をすることも、思い残すこともないのにと、希佐は思う。
「二人とも、午後のお茶をご一緒にいかがかしら」
ネイサンが運転するトラックはすっかり見えなくなると、隣に立っていたエレノアがそのように声を掛けてきた。希佐が返答に困り、無意識に胃の辺りを押さえてしまうと、その様子を横目に見ていたイライアスが、言葉を選びながらエレノアの誘いを保留にしてくれた。
「僕たち、これから少し走りにいく約束をしているんだ。そのあとはダンスの稽古があるから」
「あら、それが終わる頃には、もうお夕食の時間ね」
「夕食後なら、キサも僕も時間を作れると思う」
「では、そのようにしましょう」
エレノアは満足げにそう言うと、希佐に目を向け、にっこりと優しく微笑んだ。
希佐の脳裏には、昨夜のアランとエレノアの会話がよみがえり、複雑な感情が腹の中をぐるりと掻き回すような、吐き気にも似た感覚を覚えてしまう。
「エレノアは、あんまり痩せている人を見ると体を心配して、たくさん食べさせたがるんだよ」信じられないほど広い邸宅の敷地内を並んで走りながら、イライアスが思い出したように口を開いた。「僕が子供の頃に拒食気味で、病院に入院したことがトラウマになってるんだと思う。ここに帰ってきたときは、なるべく食べるようにはしてるんだけど、僕は太りやすい体質だから、一、二キロは必ず増える」
「私はたまになら大丈夫なのだけれど、毎日こんなに美味しいご飯をいただいていたら、ちょっと困ったことになりそう。ルイにはもう少し増やしてもいいと言われていても、脂肪で体重が増えたなんて知られたら……」
「美しくないって怒られる」
「そんなことにはならないように、一緒に何とか頑張ろう」希佐は自分のペースに合わせて走ってくれているイライアスを見上げて言った。「たくさん食べても、たくさん動けば大丈夫だよ。アランのことを放っておくみたいで申し訳ないけれど、ここでも稽古は続けた方がいいと思うし」
「無理に食べなくてもいいんだよ」
「それはよくないよ」そう言って首を横に振る希佐を見て、イライアスは僅かに首を傾げる。「せっかくイライアスのご家族がおもてなししてくださっているのだから」
希佐には家族というものがよく分からない。いや、分かってはいるのだ。だが、久しく家族というものを近くに感じてこなかったせいで、その存在の大切さというものが、年々薄れていくような気がしていた。
実際、仕送りをし続けている娘に何の音沙汰もない実の父親よりも、頻繁に連絡をくれて、その都度大量の荷物をロンドンに送り届けてくれる中座秋吏の方に、強い父性を感じていることは認めざるを得ない。
自分を大切に思ってくれる存在は貴重だ。誰にも顧みられないことほど、さみしいことはない。イライアスは家族から深く愛されている。希佐にはそれが、酷く羨ましく思えていた。
「僕、キサのそういうところが好きだな」
「え?」
「なんでもない」
希佐はチャリティーイベントの構成を考え直す必要があった。そもそもの課題については、既にルイから及第点をもらっているが、七つのヴェールの踊りを踊るということになると、本来の課題をアンコールに回さなければならない可能性が浮上する。
「キサは無理にあの課題をチャリティーで披露する必要はないんじゃないかな」ランニング後、スタジオで軽くストレッチを行いながら相談していると、イライアスが言った。「七つのヴェールの踊りを完成させることを優先した方がいいと思うけど」
「でも、イライアスが私のために振り付けを考えてくれたのに、もったいないよ」
「君と僕の目的は、君の歌とダンスで、アランを舞台上に連れ戻すことだった」
「うん」
「アランの覚悟はもう決まっているんじゃないかな」
「彼の覚悟は決まっていても、体調が回復しないと、なんとも言えないと思うんだ。本番まではもう一ヶ月もないし──」
「大丈夫」イライアスは確信しているような口振りで言った。「まだ時間はあるよ」
昨夜、自分がイライアスに伝えた言葉が、そっくりそのまま返ってきて、希佐は思わず目を丸くする。しかし、確かにその通りだと思い直すと、そうだね、と言って大きく頷いた。
今日はイライアスの課題を突き詰めることにしようと、二人は景色の良いスタジオに閉じこもり、使用人がもうすぐ夕食の時間だと知らせに来るまで、延々と踊り続けた。窓の外は夕焼け色に染まり、東の空の彼方から少しずつ、群青色に染まっていく様子を見ることができた。
西の角部屋に戻ると、数日分のお着替えです、というメモ書きと一緒に、洋服や下着、化粧品などの一式が机の上に置かれていた。希佐は、それをありがたく思いながら両腕に抱え上げ、シャワーを借りるために隣の部屋に向かった。
「アラン」念の為にノックをすると、思い掛けず返事の声があったので、希佐は思わず眉を顰める。「起きていたの?」
「ノックの音で目が覚めた」
「……ごめんなさい」
「嘘だよ」途端にしおらしくする希佐を見て、アランは少しだけ笑った。「少し前にあの医者が来て、薬を飲むように強要された」
「熱は下がった?」
「分からない」アランはベッドの上で身を起こすと、一定の距離から近寄ってこない希佐を見て、寝癖のついた髪を億劫そうに掻き上げた。「汗だくだな」
「午後はずっとイライアスと一緒に稽古をしていたから」
「そう」
「体を拭く? タオルを濡らしてこようか?」希佐がそう問うと、アランは小さく頷いた。「待ってて」
希佐は、バスルームにある洗面台の排水口を閉じてから、蛇口を捻り、そこにたっぷりの湯を溜めた。棚の中に折り目正しく収められているタオルを手に取って、少し熱めの湯の中にそれを浸すと、固く絞ってから部屋に戻る。
「はい、どうぞ」
「拭いてくれないの」
「拭く? いいよ」
そう言ってまだ温かい濡れタオルを構える希佐を見て、アランは少しだけ呆れてから、手の平の上にあるタオルを受け取った。
「早くシャワーを浴びてきたら」
「拭いてあげるのに」
下唇を噛み、わざとらしく不満そうな表情を浮かべて見せてから、希佐は自分の着替えを抱えてバスルームに戻った。
外観や目に見える内観は、建設当初の状態を色濃く残しているが、こうした水回りは最近リフォームを行ったようで、とても使い勝手がいい。
スタジオのバスルームのシャワーは、ホースの部分に小さな穴が空き、水漏れがしているのだ。元々保温性の低い建物なので、冬場は特に寒い。追い焚き機能がないので、バスタブに湯を溜めてもすぐに冷めてしまい、お湯を溜め直すのが面倒でいつもアランと二人で入っていた。
アランの赤い髪は、濡れると色が濃くなって、ブロンズのような色に染まる。希佐は、自らの胸元に頭を預け、ぼんやりと宙を眺めているアランの濡れた髪を、指先で梳いている時間がとても好きだった。
希佐はシャワーを浴び終えると、ドライヤーで乾かした髪を整え、失礼にならないよう最低限の化粧を施してから、夕食の席に向かった。アランは飲んだ薬が効いているのか、希佐がバスルームから出てくる頃にはもう、穏やかな寝息を立てて眠ってしまっていた。
玄関ホール前の大階段の下で待ち合わせをしていたイライアスと合流し、約束の時間に少しだけ遅れて食堂に到着すると、そこにはこの家のご夫妻の姿があった。
てっきりイライアスと二人だけで食事をするものとばかり思っていた希佐は、一瞬呆然としてしまうが、イライアスにとっても青天の霹靂だったようだ。いつもは空席のままにしてある椅子に腰を据えているカイルの姿を見て、微かに肩を強張らせている。
カイルは、使用人が開けてくれた扉から希佐とイライアスが入ってくるのを見ると、儀礼的に椅子から立ち上がった。
「……お待たせして、すみません」
「構わないのよ、イライアス」エレノアは椅子に腰を下ろしたまま、静かに言った。「さあ、二人ともお座りになって。明日、夫がロンドンに戻るというので、その前にお食事をご一緒したいと思いましたのよ。驚かせてしまったかしら。ごめんなさい」
「いえ、ご一緒できて嬉しいです」
「ありがとう」
終始にこやかなエレノアとは対照的に、カイルは無表情とも仏頂面とも捉えられる面持ちで、こちらを見やっている。茶の中に緑が滲んだ独特な虹彩の目が、真っ直ぐにこちらを見つめているような気がして、希佐は思わず顔を伏せてしまった。しかし、使用人に案内された席は、そのカイルの隣だ。
カイルは、使用人を手の平で制すと、代わりに希佐の椅子を引く。
「ありがとうございます」
「お召し物がよくお似合いですね、キサ」男性たちが席に着くのを待って、エレノアが言った。「キサとお呼びしても構わないかしら」
「もちろんです」
「子供たちが、よくあなたのお話を聞かせてくれるものだから、なんだか他人という気がしないの」
「私も、奥様とアイリーンがよく似ておいでなので、もうずっと以前から存じ上げているような気がしていました」
「まあ」優しいはしばみ色の目を真ん丸にしたあと、エレノアは嬉しそうにやわらかく微笑んだ。「今、あなたがお召しになっているドレスは、夫があなたのために選んだものなのよ。あなたの美しい琥珀色の目によく映えているでしょう?」
「旦那様が?」希佐が驚いて隣を見やれば、カイルは老齢の使用人が手にしているワインの確認をしているところだった。「てっきりアイリーンが……」
「私はロンドンで服飾関係の会社を経営している」
「それは存じ上げませんでした、無知をお許しください」
「いや」そのときはじめて、カイルが希佐に興味を持ったような眼差しを向けた。「君は昔からこの国に縁が?」
「いいえ」
「イギリスにはどのくらい?」
「ロンドンでは四年暮らしています。今年で五年目です。その前は、一年間だけアイルランドに身を寄せていました」
「それ以前はずっと日本に?」
「はい」前菜が目の前に置かれ、それに合わせたワインがグラスに注がれるのを見ながら、希佐は小さく頷いた。「生まれも育ちも日本です」
ああ、これは自分が話す英語の発音について、何か思うところがあるのだろうと、希佐にはすぐに分かった。パブで向けられるような好奇の眼差しとは違う、ただ純粋に感心しているような視線が、希佐の横顔に注がれていた。
「君は私の娘の夢を打ち砕いてくれたそうだが」メインが終わり、デザートに差し掛かろうかという頃、常に表情らしい表情を感じさせなかったカイルの顔に、僅かな変化が現れた。「君の歌が、私の娘の歌よりも優れているとは、到底思えない」
「あなた」
「娘の努力は知っている」苦言を呈するように口を挟んだエレノアの声に聞く耳を持たず、カイルは続ける。「私は、あの年になっても歌に打ち込む娘に良い顔をしてこなかったが、それでも、娘の将来を左右する決断を強いた責任は今でも感じている」
アイリーンの父親は条件を出したと聞いている。
去年の年末のオーディション、もし合格を勝ち取ることができれば、この先も舞台や音楽活動を続けても構わない。しかし、もし不合格となれば、当初から決まっていた相手と結婚をし、すべての活動に終止符を打つように、と。
結果、アイリーンは不合格となった。だが、婚約者が父親を説得し、今でも舞台と音楽を続けている。
この人が言いたいことは、本当にそれだけなのだろうかと、希佐は思った。
アイリーンは、自分には他に愛している人がいるのだと、そう話していたのではないか。自分は今、二つの意味で責められているのではないかと、希佐は感じている。
「……アイリーンと私の歌唱力に優劣をつけるのであれば」そう言う希佐を、向かい側に座っているイライアスが、酷く青ざめた顔で見つめていた。「それは間違いなくアイリーンの方が優れていると断言することができます。私とアイリーンとでは、歌うことに掛けてきた時間と熱量に雲泥の差があることは否めません」
あのオーディションが、ただ単に歌唱力を競うだけのものだったとしたら、希佐の敗北は目に見えていただろう。ユニヴェール時代にトレゾールから直々に仕込まれていたとはいえ、今よりも若い頃からプロのボイストレーナーに学んでいたアイリーンとは、基礎や実力に差があることは当然のことだと受け入れている。
「私はあのオーディションで、自分の演技力が審査員に高く評価されたと自負しています。歌唱力だけが判断基準ではありませんでした。演技力と歌唱力、総合的なものを鑑みて、審査員は最終的な決断を下したのだと考えています」
「では、君は私の娘の演技力が、君の演技力よりも劣っていると、そう考えているわけか」
「これは、言葉で説明することがとても難しいのですが」希佐は、ワイングラスに注がれた水を嚥下する時間を使って、頭の中で言葉を組み立てていく。「実際、私とアイリーンの演技力には、大きな差はないと思うんです。与えられた役を演じるということは、ある程度の経験を積んだ役者にとって、そう難しいことではありません。舞台を担う演出家の傾向を読み、その好みに合った演技をすれば、大抵の場合は及第点を得ることができます。ただ、時には、演出家にすら見えていなかったキャラクターの造形を提示することで、新たな気づきを得られることもあります。固定観念を覆すこと、且つ、その解釈でこうあるべきというキャラクター像を破壊し、大衆を納得させることができるかどうか──私は、ただ歌うだけでは勝ち目がないと分かっていました。だから、オーディションの最終審査で大博打を打ったんです」
「それで君は賭けに勝ち、アイリーンは負けた」
「私はアイリーンのことを尊敬しています。切磋琢磨しながら、同じ役を競えたことは幸運でした。もちろん、イライアスのことも同じように尊敬しています」食事をしている間中、遠慮するように黙りこくっていたイライアスに向かって、希佐はにこりと笑いかけた。「二人を立派にお育てになったご両親と、こうしてお話をすることができて、とても光栄に思っています」
二人に同じだけの愛情を注いできたエレノアとは違い、この人がアイリーンの方にしか目を向けてこなかったことは、ほんの少しの時間を共有するだけで理解することができた。まるで、二人の間に明確な区別をつけることで、自分はお前を愛することはないのだと、無言の意思表示をしているように感じられる。
だが、イライアスがこのカイルという男に愛されたがっているようには見えない。ただただ戸惑っている。どのように接し、どのように話し、どのように対処するべきなのか、それが分からないというふうな戸惑いを、常に感じるのだ。
食事を終え、席を立ったカイルを追い掛けるように腰を上げようとすると、そのままで構わないというふうに手の平で制される。そして、一枚の小さな紙が、テーブルの上にそっと置かれた。
「ロンドンで何か困ったことがあったら連絡をしなさい」
「あ、ありがとうございます」
名刺に記されていたのは、希佐でも知っている世界的に有名なアパレルのブランドの名前と、本社の住所、そして直通の電話番号だった。以前、ダイアナが奮発をして新しいコートを買ったのだと言い、嬉しそうにしていたことを思い出す。希佐も何着か、アイリーンのお下がりをもらったことがあった。
「では、私は明日の準備があるので、失礼」
夕食の食器が下げられ、代わりにお茶の支度が整えられていく。どうやら、ここで約束のお茶会が開かれるらしい。青ざめた顔をしていたイライアスは、ちょっとした雑談を交わすうちに、少しずついつもの調子を取り戻していった。
「あなたはお話上手なのですね、キサ」使用人の手を煩わせることなく、手ずからお茶を入れてくれながら、エレノアが言った。「夫を楽しませてくださって、ありがとうございます」
「いえ、そんな」希佐は慌てて首を横に振る。「差し出がましい口を利いてしまったのではないかと、心配をしていました」
「夫は元々口数の少ない人なの。少し言葉足らずなところもあるので、もしお気を悪くされるような発言があったのなら、私から謝罪させていただきます」
「いいえ、とても楽しいお食事でした」
希佐がそう素直に思ったことを口にすると、イライアスとエレノアは思わずというふうに顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。何かおかしなことを言っただろうかと考えていると、エレノアは軽く頭を振り、お茶をどうぞというふうに手の平を差し向けてきた。
「ご家族は日本におられるの?」
「あ、はい。父は……」
「兄弟はいらっしゃるのかしら」
「兄がいます」
「そのお話は子供たちから聞いたことがなかったわ」
それはそうだろう。希佐は家族のことをほとんど話してはこなかった。周りの人々も、込み入った話を無理に聞き出そうとはしなかった。故郷を離れ、たった一人きりで、誰にも頼らず生きていた希佐を見て、何か人には言えない事情を抱えているのかもしれないと、そう考えていたのかもしれない。
「ご家族は心配されていない?」
「……はい?」
「あなたのようなかわいらしいお嬢さんが、遠い異国の地で暮らしていることを、ご家族は心配されいるのではないかしら」
「ああ、いえ、元より放任主義の家庭なんです。それに、月に一度は必ず連絡をしているので」
連絡ではない。ただの仕送りの振込みを行なっているだけだとは言えなかった。
どういうわけか、ここへ来てからというもの、心のずっと奥深くの方が締め付けられるように苦しくなって、呼吸が浅くなる瞬間がある。希佐はその度に、深く息を吸い込んで、自分の気持ちを落ち着かせる必要があった。
「英語は子供の頃からお勉強されていたの?」
「日本にいた頃は、学校の授業で学ぶ程度で、特別な勉強はしていませんでした。中学を卒業した後は歌劇学校に入学したので、語学の授業はなくて。でも、海外を目指している同期に触発されて、独学で少しだけ」
「先程、アイルランドに一年いたと仰っていたけれど、そこで語学学校に?」
「語学学校には通っていないんです」希佐がそう言うと、エレノアも他の人々と同じように、まあ、と驚いた様子を見せた。「入学金とか、授業料とか、私には高すぎて払えなかったので」
「親御さんは助けてはくださらなかったの?」
「私は自分勝手に日本を飛び出してきました。親に援助を求めるなんて、そんなことはできません」
この人にとっては、家族は愛し、愛され、助け合うのが当然で、それが疑いようのない真実なのだ。その事実が、希佐にとってはあまりに眩しくて、思わず目を逸らしたくなってしまう。
「英語は、ダブリンの街の人とお話をしているうちに、少しずつ覚えました。勉強は今でも続けています。最近はフランス語も学んでいるんです」
「お勉強熱心なのですね」
「学ぶことが好きなんです。私は、ダンスや歌を小さい頃から専門的に習っていたわけではないので、今になって、イライアスやアイリーンから、いろいろなことを学ばせてもらっています」
「二人とも、あなたの稽古量には頭が下がる思いだと話していました」
「私は要領が良くないんです。いつも闇雲に稽古をしてしまうから、よく根を詰めすぎだって叱られます」
「一つのことに集中できるというのも才能だわ。アイリーンは昔から飽き性で、歌以外のことは長続きしなかったの。今になって、子供の頃にもっと真剣に取り組んでいればよかったと、後悔してばかりいるのですよ」
「どんなことでも、遅すぎる選択なんてないと思うんです。日本の諺で、思い立ったが吉日という言葉があります。何かをしようと思ったら、その日が一番の吉日──何かに着手する最良の日だと思って、今すぐはじめるのがいいって」
「ええ」
「私は、アイリーンが毎日頑張っていることを知っています。彼女は、思い立ったが吉日を実行できる人です。過去の後悔を踏み台にして、もっともっと高いところを目指していける、努力の人だと思います」希佐はそこまで口にしてから、あっ、と声を上げた。「でも、こんな言い方をしたら、知ったような口を利かないでと怒られてしまいそうなので、アイリーンには内緒にしてください」
自分のことを話すのは苦手だと希佐は思う。できることなら、のらりくらりと言い逃れをしたい。それでも自らの感情を押し込め、言葉を捻り出し、なんとか嫌味のないように振る舞うのは、相手に対して良い格好をしたいからではなく、自分を友人や仲間として家族に紹介してくれた、イライアスやアイリーンに恥ずかしい思いをしてもらいたくなかったからだ、
ただそれらしい役を演じているような気がする。本当の自分はどんどん深い場所に沈んでいって、まるでハリボテのような立花希佐が浮き彫りになっていくような感覚があった。虚勢の中で溺れかけている。吐ききった息を再び吸い込むこともできず、息苦しさに喉元を掻き毟っている。
外の空気が吸いたい──にこやかに言葉を交わしながらも、頭の片隅ではそのように考えているのだ。今、この頭の中を覗かれてしまったら、きっと、酷く幻滅されてしまうのだろう。
それから一時間程が経った頃、どこか遠くの方から午後九時を告げる鐘の音が聞こえ、エレノアは時間の感覚を取り戻したようだった。手首の内側にある時計の文字盤を見下ろしてから、希佐の方を見る。
「稽古でお疲れのところを、こんな時間までお付き合い頂いてしまって」エレノアが立ち上がるのに合わせて、希佐とイライアスも椅子から腰を上げた。「あなたのおかげで、とても楽しいひとときを過ごすことができました。どうもありがとう」
「こちらこそ、おいしい紅茶をごちそうさまでした」
先に食堂を退出し、少し離れたところまでやって来ると、隣を歩いていたイライアスが、唐突に「ごめんね」と声を掛けてきた。
「どうして謝るの?」
「ずっと質問攻めで、キサが困っていたように見えたから」
「そんなことないよ」実際、困ってはいなかったのだ。「立派なお父様と、素敵なお母様だね」
「うん」イライアスの目が、一瞬だけ伏せられる。「そう、だね」
明日の朝も、今日と同じ時間から稽古をはじめる約束をして、希佐とイライアスは階段の前で、おやすみの挨拶をしてから別れた。希佐は廊下を歩きながら、食事の後で受け取った名刺をポケットから取り出し、それをぼんやりと眺める。
「……カイル、と」
アレン──名前の上を指先でなぞりながら、ふと声に出してみた。
昨夜のあの写真は、一体誰が、どこへ持ち去ってしまったのか。写真に写し出されていた男の子たちの顔は、ぼんやりとしか思い出すことができない。だが、おそらくは、写真の中の男の子たちがカイルとアレンで、一方はアイリーンの父親の幼少期時代の姿だったのだろう。
アランの様子を見てから部屋に戻ろうと考えた希佐は、扉の前で足を止め、ノックをしようと腕を持ち上げた。しかし、今度こそノックの音で起こしてしまうのではないかと思い、ほんの少しだけ開いたドアの隙間から、中の様子を確かめてみる。
「ノックくらいしたら」
アランはベッドの上で身を起こし、背中に挟み込んだ枕に寄り掛かって、膝の上に置いたノートパソコンのキーボードを叩いていた。何かを打ち込みながら、こちらをちらりと見るので、希佐は「ごめんなさい」と言いながら、部屋の中に足を踏み入れる。
「……起きていて大丈夫なの?」
「薬を飲んで寝たら落ち着いた」
「熱は?」
「計ってない」アランはそう言うと、傍に転がっていた体温計を手に取り、それを脇に挟み込んだ。「よく似合ってる」
「え?」
「そのドレス」
「あ、ああ、ありがとう」希佐は咄嗟に表情を作ることができず、ドレスを見下ろすように顔を伏せ、静かに言った。「アイリーンのお父様が見立ててくださったって」
ピピピピ、と体温計が鳴く。希佐が近づいていくと、アランは取り出した体温計の数字を確認することなく、それをこちらに差し出してきた。
「見ないの?」
「自分の体温に興味ない」
「少しは興味を持った方がいいと思うけれど」
受け取った体温計の数字は、三十八度九分で停止している。日本人にしてみればかなりの高熱だが、平熱が三十七度五分程の人種にとっては、微熱程度の感覚なのだろう。ならば、朝に茹だるような熱を帯びていた体は、一体何度あったというのか。
「まだ少し熱があるから、用事が済んだら横になって。何か欲しいものがあるなら、私がもらってきてあげるよ。食べ物とか、飲み物とか、代えの氷枕とか」
「なにもいらないよ」
「……そう」希佐は体温計の電源を切ると、それをサイドテーブルの上に置き、顔を上げる。「じゃあ、私は部屋に戻るから。あまり夜更かしをしないで、しっかり休んで」
それは、本当に久しぶりの感覚だった。
五年前、飛行機に乗り、日本を飛び出してすぐの頃、湿っぽいベッドの中で毎晩のように感じていた、あの寂しさを、今、無性に覚えている。訳もなく涙が溢れそうになり、耳の裏側が窮屈になって、手の指先がじんじんと痺れてくる、あの独特な感覚が、波のように寄せては引いていく。
「またあとで──」
様子を見に来るね、と言おうとした声が不自然に震えて、希佐は咄嗟に口元を覆った。アランは手元に目を向けたまま小さく息を吐き出すと、パソコンの画面を閉じ、それをサイドテーブルに置く。パソコンに押された体温計が、ころころと転がって、絨毯の上にぽとりと落ちた。
「来て」
「でも」
「今部屋に戻って、それからどうするの」アランは両腕を軽く開いたまま、真っ直ぐに希佐を見つめていた。「一人で泣くの」
「それは……」
「俺と一緒のベッドが嫌なら、隣のを使えばいい。とにかく、今の君は一人になるべきじゃない。なんなら睡眠薬でも飲んで寝てしまった方がいい」
「……どうして」
「三年前に出会ったときと同じ顔をしてる」アランは三年前のときのような、表情に乏しい面持ちで言った。「俺も今、余裕がないんだ」
「……うん」
「だから、君を抱き締めて眠るくらいのことしかしてやれない」
アランが今、何を思い、何を考えているのかを、知る術はない。訊ねたところで答えてはくれないのだろう。希佐自身が、この思いを口にしないのと同じように、アラン自身もまた、その思いを外に吐き出すつもりはないのだ。
希佐は自分のためだけに開かれている両腕の中に、ゆっくりと、沈むようにして倒れ込んだ。すると、アランも人肌を求めていたと分かるほど、強く、強く、抱き締めてくれる。普段よりもずっと高い体温は、熱いと感じる以前に、今は命を感じさせる熱を帯びて、生きていることを実感させてくれた。
「アラン」
「ん」
「ドレスが皺になっちゃう」
自分の胸に顔を埋めながら言う希佐を見下ろし、アランは少しだけ笑った。希佐が両手を上に挙げると、アランは背中に回した手でそっとファスナーを下ろし、ドレスを脱がせてくれた。肌触りの良いスリップを手の平で撫でてから、希佐の素肌を隠すように、やわらかい毛布で覆ってくれる。
「おやすみ、キサ」
「おやすみなさい」
翌日、医者のレジナルドは午前中の早い時間帯に往診にやって来て、早くロンドンに帰りたいというアランの言葉をにべもなく一蹴し、もうしばらくは安静にしているようにと言って、帰っていった。
いつも面倒臭いと口癖のように言いながら仕事をしているアランだが、思うように仕事のできない環境に追い込まれると、落ち着かない気持ちになるようだ。ベッドの上にいる分には何をしても構わないと言われたアランは、メールの返信作業を終えると、締切間近だという原稿を一日中書き続けていたらしい。
この様子では、体は少しも休まらないのではないかという希佐の心配をよそに、アランの顔色は、日に日に良くなっていった。更にその翌日には、熱もすっかり下がって、自らベッドを降りて柔軟をはじめるくらいには、回復した様子を見せていた。
今日こそ帰りたいと言うアランに向かって、レジナルドは思案げに唸り声を上げてから、もう一日だけ様子を見ようと言った。
「でも、これでよかったんじゃないかって思うんだ」昨日より少しだけペースを上げても、隣を軽々と走っているイライアスを見上げ、希佐は言った。「もし無理やりにでもロンドンに帰っていたら、アランはこんなに休もうとはしなかっただろうし」
「そうだね」
「イライアスのご家族や使用人の方々には、ご迷惑をかけてしまったけれど」
「誰も迷惑だなんて思ってないよ」イライアスがそう言いながら苦笑いを浮かべるので、希佐はその横顔を見上げながら、小首を傾げた。「女性の使用人たちが、アランの世話係を取り合ってるんだ。代わる代わる食事を運んだり、着替えを運んだり、用向きがないか聞きに行ってみたり」
「そうなの?」
「お客様の前ではしれっとしてるけど、基本的には騒がしい人たちだから」
その話を聞かされたあと、シャワーを借りに隣の部屋を訪れると、昼食を運んできた若い使用人の女性が、果敢にもアラン・ジンデルに話しかけているところに出くわした。アランは着替えを抱えて入ってきた希佐に一瞥をくれるだけで何も言わず、使用人の話に耳を傾けている。使用人は話をすることに夢中で、希佐が入ってきたことにも、気づいていないようだった。
希佐は抜き足、差し足、忍び足で、静かにバスルームへと向かい、静かに扉を閉め、ふう、と息を吐く。
今日は朝のランニングと午前の稽古で終わりにして、午後からは体を休めようと、イライアスと話し合って決めていた。希佐はバスタブにたっぷりの湯を張り、念入りにマッサージをしてから、指先がふやけるまでの間、ぬるま湯の中でひっそりと揺蕩っていた。
「いつまで入ってるつもり?」アランがバスルームに顔を覗かせ、そのように声を掛けてくる。「イライアスが迎えに来てる。昼食の時間だって」
「食べたくない」
「気分でも悪いの」
「ううん」希佐は無機質な天井を見上げたまま、首を横に振った。「食欲がないの」
「……俺が代わりに断っておくから、君はさっさとそこから出て、服を着てくれ。明日は誰が何て言おうとロンドンに帰る。もし君が酷い風邪を引いたとしても、毛布でぐるぐる巻きにして連れて帰る」
「うん、分かった」指先のふやけた薬指を眺めながら、希佐は言った。「お願い」
湯船を出て、体の水気を丹念に拭い、用意された服を着た。髪を乾かしてからバスルームを出ていくと、アランは相変わらずノートパソコンに向き合って、いつものように仕事をこなしていた。
「少し横になってもいい?」
「ん」
「ありがとう」
こんな気持ちのままでは、ロンドンには帰れないと希佐は思った。この、今日の空模様のようなどんよりとした感情は、湖水地方の湖に沈めて帰らなければ、この先の稽古にも身が入らないだろう。
希佐は、バージルが使っていた方のベッドで横になると、重たい瞼を閉じた。
するとなぜか、暗くなった視界の彼方に、朱色の鳥居が見えてくる。玉砂利を踏み締めながら歩く、じゃり、じゃり、という音が、遠くの方から聞こえてくる。そして次の瞬間、冷たい何かが背中にぺたりと張り付き、希佐の背中を強く押した。
天と地が返ったかのように、真っ逆さまに落ちていく。
落ちて、落ちて、どこまでも落ちて──この感覚が永遠に続いていくのだろうかと考えていると、希佐は不意に、微かな温かさを覚えた。やわらかく、穏やかな光が、ふわふわと宙を漂っている。それはしばらくの間、希佐の周りを励ますように浮遊してから、すうっと、胸の中に吸い込まれていった。
あれから四時間ほど眠っていたようだ。
希佐が目を覚ますと、その体は正面から、優しく抱きすくめられていた。何か不思議な夢を見ていたような気がするのに、もう何も覚えていない。
アランを起こしてしまわないように、希佐は広い胸に顔を埋め、そっと頬擦りをした。ぴたりと耳を寄せれば、とくん、とくん、と心臓の鼓動が聞こえてくる。寝息はとても穏やかだ。
そうしてアランの心臓の音を聞いていた希佐だったが、ぶぶぶ、という音と、微かな振動に気づいて、ゆるゆると頭を上げた。枕元に放っていたスマートフォンが着信を告げていた。希佐は腕の中からするりと抜け出し、アランが起きていないことを確認してから、スマートフォンを片手に部屋の外へと出た。
「Hello」
『よう、キサ』後ろ手に扉を閉めていると、電話口の向こう側からバージルの声が聞こえてくる。『今、大丈夫か?』
「うん」
希佐は自分に当てがわれた部屋に戻ると、一人掛けの肘掛け椅子に腰を下ろし、腹の前にクッションを抱え込んだ。
『アランはどんな調子だ?』
「体調はもう大丈夫そうだよ。早くロンドンに帰りたがっているけれど、お医者さんがもう一日だけ様子を見ましょうって。だから、明日には帰れると思う」
『そっか。まあ、良かったよ』
「そちらはどう?」
『こっちか? ああ、まあ、なんていうか……』バージルにしては歯切れの悪い物言いに嫌な予感を覚えていると、それは案の定的中した。『スペンサーが現行の舞台の権利を売って、先月のうちに手放したことは知ってるだろ』
「うん」
『だから、何日か休暇を取って国に帰っていたらしいんだが、昨日の夜の便で帰ってきたそうでな。俺が一人で稽古してるときに、ひょっこりスタジオに現れたんだよ。ここ数日、アランと連絡が取れないんだとさ。試しに俺も電話してみたけど、通じなかった』
「そういえば、ここ何日か電話に触っているところを見ていないかも」十中八九、充電が切れているに違いない。「メールなら毎日チェックしていたはずだけれど」
『今は田舎で療養中だから、しばらくはそっとしておいてやれって言っておいたよ。あの様子だと、何か相談したいことがあったのかもしれねぇな』
「相談?」
『未だに揉めてんだろ、お前んところのプロデューサー。そろそろ解決しねぇことには、次の舞台の準備も進められねぇだろうしさ。クロエ・ルーなんて、フランスの生放送番組で、舞台の宣伝をしまくってたらしいぞ』
「そうなの?」
『ルイが言ってた』バージルはため息まじりに言う。『スペンサーもそれを見てたんだろうな』
「宣伝って言っても、まだそんなに話せることはないと思うんだけど」
『クロエ・ルーが舞台の世界に戻ってくるってだけで、泣いて喜ぶ連中は大勢いるんだよ。銀幕じゃあの女優の魅力は半分も伝わらない。生の舞台じゃないと、あの役者の凄みってやつは感じられねぇんだ』
「……マダムも舞台に立つの?」
『さあな。俺は関係者じゃないから、詳しいことは知らねぇけど。ただ、匂わせてはいたらしい』
そんな話は一度も聞いたことがない──希佐がそのように思っていると、電話口の向こう側から、笛の音のような音が聞こえてくる。
『分かった、分かった。今キサと話してるから、もうちょっとだけ待っててくれな』
「ハンナ?」
『ああ』わふん、とハンナが小さく吠えた。『久しぶりに会いにきたら、べったりくっついて離れねぇんだ』
「寂しかったんだね」
『ホームシックかもな』
「ホームシック……」
『じゃあ、スペンサーのこと、折を見てアランに話しておいてくれるか? 今回はさすがに切羽詰まってそうだったから、気が向いたら連絡してやれって、俺がそう言ってたって伝えてくれ』
「あ、うん、分かった」
『悪いな』
「ううん、全然」
『お前も、切羽詰まってるなら自分の中に溜め込んでないで、素直に吐き出しちまった方がいいぞ』
「え?」
『声が沈んでる』やっぱり、バージルには隠し事ができないと思い、希佐は苦笑いを浮かべた。『話を聞いてやりてぇけど、俺じゃ力不足だろうからな』
「そんなことないよ」
『俺にまで気を使うなよ』
「バージル……」
『大丈夫だ』ふ、と、バージルが優しく笑うような気配がした。『お前はもっと自分の隣にいる男を頼っていい。あいつは案外、頼り甲斐のある男だからな』
「……うん、そうだね」
『じゃ、またな』
バージルの声を聞いて少しだけ元気が出た希佐は、夕食前に、庭の散策に出掛けてみることにした。アイリーンが言っていた通り、この邸宅の庭は本当に見事で、ただ走って通り過ぎるのではなく、もっとじっくり観賞したいと思っていたのだ。
外は薄曇りで、風が冷たくなりはじめていたので、希佐はクローゼットの中の薄手のマントを借りると、部屋を出て玄関ホールに向かって歩き出した。途中、老齢の使用人に声を掛けられたので、裏庭の散策をしても構わないものかと訊ねると、林の奥に素敵な場所があると教えられ、古びた鍵を手渡される。
「鍵はあとでこっそり返してくださいね」
「はい、分かりました」
邸宅の正面に見える庭はどこか都会的で、格式ある印象を覚えたが、裏庭はどこか素朴さを感じさせる、牧歌的な雰囲気があった。あえてそのようにデザインされているのだろう。区画ごとになんとなく仕切りがあって、それぞれに別のテーマが用意され、季節ごとに楽しめるようになっている。
この時期は、敷地内を流れる小川の周辺に咲く、スイセンの花が美しい。グラスミアの町の中を流れる川沿いにも、たくさんのスイセンが咲き誇っていたことを、希佐は不意に思い出していた。
「スイセンの花が咲くと、春の訪れを実感するよ」そう言っていたレオナール・ゴダンの言葉が蘇る。「日本では桜の花が咲く頃かな」
「桜はもう少しあとです。今はきっと、梅の花が咲いている頃だと思います」
イギリスでも梅や桜の木を見かけることはあった。だが、日本ほど梅の花は甘く香らず、桜も花を芽吹かせない。
春の終わり頃、散歩に出かけたロンドンの公園で、寂しげに花を散らしている桜の木を見上げていると、売店で飲み物を買ってきてくれたアランが、それを手渡しながら言ってくれたことがあった。
「ロンドンにも桜の名所はあるよ」
「本当?」
「スイス・コテージの駅前の桜並木が綺麗だった。今年はもう散ってるだろうけど」ふう、と甘いココアに息を吹きかけてから、アランは言ったのだ。「来年の春になったら、見に行ってみるか」
「まだ美術館にも連れて行ってくれないのに?」
「美術館にはいつでも行けるけど、桜は春にしか咲かない」
去年の春、何気なく交わされた言葉に過ぎない。きっと、あのときの会話は、アランの記憶の片隅に追いやられて、思い出されることもないのだろう。互いの忙しさを理由に、近所にある美術館にすら足を運ぶことがないのだ。この先もまた、果たされない約束が、積み重なっていくのかもしれない。
それはいずれ、後悔になるのだろうか。
それとも、儚い思い出になっていくのだろうか。
老齢の使用人は、小川沿いに進んでいけば、目的の場所に辿り着けると言っていた。希佐の視線の先には、落葉樹の樹木林が見えている。近づいてみると、木の枝には無数の花芽が付いていて、それがふっくらと膨らみはじめているのが見て取れた。桜の木と似ているが、これはおそらく、アーモンドの木だ。あと一、二週間ほどで、この辺り一帯は、アーモンドの花で満たされるのだろう。
そのアーモンドの樹木林の木々の合間から、小さな建物が見えた。希佐は握り締めていた手を開き、古びた鍵を見下ろす。素敵な場所とは、あの建物のことなのか。
邸宅を振り返ると、随分遠いところまで歩いて来てしまった気もするが、敷地から外に出たわけではないのだから、問題はないだろう。
希佐は再び歩き出した。アーモンドの木々の間を抜け、ふかふかの土の地面を踏み締めながら、建物を目指す。
「……教会だ」
ウィンダミアやグラスミアでよく見た、古い石造りの建物だった。屋根には十字架が掲げられている。曇天の空から、ぱらぱらと雨が降りはじめていたので、希佐は木の扉の鍵穴に預かった鍵を差し、滑り込むようにして建物の中に足を踏み入れた。
その教会は、スタジオの裏側にある教会と同じくらいの広さがあった。正面の壁には真っ白な十字架が見える。中央の通路を挟んで、左右に五列ほど並んでいる長椅子には、白い布が掛けられていた。埃から家具を保護するためだと考えられるが、塵一つ落ちていないので、使用人が定期的に掃除に入っているのかもしれない。
こう言っては申し訳ないが、そこは他の教会となんら代わり映えのない、よくある素朴な教会という印象だった。老齢の使用人は素敵な場所だと言っていたが、一見するだけではそうとは思えない。造り自体は、グラスミアにあったセントオズワルド教会によく似ている。白壁と、剥き出しになった柱や、天井の梁。晴れていれば、多くの窓からたくさんの光が取り込まれ、眩しいくらいに明るくなるのだろうが、今日は生憎の曇り空だ。雨足もどんどん強くなってきている。
だが、こうしてせっかく訪れたのだ。それに、この雨足が弱まるまで、雨宿りをさせてもらう必要もある。
希佐は中央の通路を進み、真正面に見えている、白いレースが掛けられた祭壇の方へと向かった。だが、その前で跪き、両手を組み合わせてお祈りをしようとしたその瞬間、頭上の光景に目を奪われた。
半円状の天井には、まるで万華鏡のような、極彩色のステンドグラスがあった。
それは、緻密な宗教画のような、異様な迫力を感じさせる。光の差し具合によっては、十字架が掲げられた白い壁や、祭壇などにステンドグラスの模様が投影され、代わり映えのしない教会が、一瞬にして彩られるのだろう。
ただただ、圧倒的なまでに、美しかった。
もしかしたら、アイリーンの一族は、代々ここで結婚式を挙げているのかもしれない。純白のドレスやヴェールに、このステンドグラスの光が映し込まれたら、どんなにか美しいだろう。或いは、命が尽きたその後に、このステンドグラスから差し込む光を浴びて、愛する人々に見送られるのだとしたら、この上なく美しい最期を迎えられるような気がした。
すっかり日が暮れてしまっても、雨は、一向に止みそうもなかった。
それでも希佐は、マントに包まりながら、祭壇の裏側に腰を下ろし、薄ぼんやりとしか見えなくなってしまった、ステンドグラスを見上げている。
今日はもうここで夜を明かしてしまおうか──希佐がそのように思っていると、なんの前触れもなく教会の扉がそろりと開いて、何者かが入ってくる気配を感じた。
あの老齢の使用人が、いつまで経っても戻ってこない希佐の身を案じて、傘を持ってきてくれたのかもしれない。そうでなくても、いくらイギリス人とはいえ、この雨の中を傘も差さずにやってくる者はいないはずだ。
その場に立ち上がった希佐は、この暗闇の中から突然出て行って驚かせることのないように、excuse me、と声を上げた。
「裏庭のお散歩をしていたら雨が降ってきてしまって、雨足が弱まるまでここで雨宿りをさせてもらうつもりが、この通り──」
祭壇をぐるりと回り込み、中央の通路まで出て行った希佐は、扉の前にうっすらと浮かび上がっている影に目を留めた。その影は微動だにせず、ただその場に立ち尽くしている。希佐も思わず足を止め、口を噤むと、再び沈黙が訪れ、雨音以外には何も聞こえなくなった。
「……え?」
希佐と同じようなマントを羽織り、フードを被った誰かが、一歩、また一歩と、こちらに歩み寄ってくる。それと同時に、どこからか入ってくる凍えるような冷気が、足の爪先から、じわり、じわり、と体温を奪い、咄嗟には動くことができないほど、体を強張らせようとしていた。
「希佐」ぞっとするほど優しい声が、希佐の名を呼んだ。「一緒に帰ろうよ、希佐」
その手でゆっくりとフードが下される。暗闇の中から顔を覗かせたのは、この十年近く何の音沙汰もない、今もまだ生きているのか、もう死んでいるのかも分からない状態の、立花継希その人だった。最後のユニヴェール公演で見た、まだ僅かに少年らしさを残す、あの頃の姿のまま、希佐の目の前に立っている。
「継希、にぃ……?」
「君の目にはいつも、僕の姿が立花継希に見えているんだね」継希はにこりと優しげに笑いながら、希佐との距離を詰めてくる。「希佐、僕のことが恋しいの?」
「継希にぃは、今どこにいるの?」
「僕はずっと君の傍にいたじゃないか」
「え?」
「人間は結局のところ、最後の最後には僕たちに縋って生きていくんだよ。君だってそうだ。いつだって最後には僕たちに助けられる」
「……あなたは、誰?」
「何を言ってるんだい、希佐。僕は君のお兄ちゃんじゃないか」
立花継希と同じ顔に、ぞっとするような笑みを浮かべ、それはじりじりと歩み寄ってくる。希佐は、一歩、また一歩と後退りをするが、背後を祭壇に阻まれ、身動きを取ることができなくなってしまった。
「ねえ、希佐。また僕のために舞っておくれよ。あの荒削りだけど極上の舞が、今も忘れられないんだ」こちらに向かって、二本の腕が差し伸ばされる。青白い指先が首を這い、ゆるゆると喉を締め付けてくる。「僕はずっと君の傍にいるよ、希佐。君は僕のものだ。それを忘れないで」
この人は立花継希ではない。そのことはもうずっと前から分かっている。日本を離れ、しばらくしてから見るようになった夢──夢を見ている間は何もかもを覚えているのに、目を覚ました途端に、すべてを忘れてしまう。
この夢も、この人のことも、目が覚めれば忘れてしまうのだ。
ならばいっそのこと、すべてを受け入れてしまおうかと、希佐は思う。そうすることで、この苦しみから解放されるというのなら、そうする価値はあるのではないか。
人にはそれぞれ帰る場所がある。だが、自分には帰る場所などないと、希佐はそう思っていた。希佐の帰りを待ち望んでいる家族はいない。生きているかぎり、根無し草のように、転々と彷徨うことしかできないのだと。
しかし、この得体の知れない何かは、立花希佐の帰りを待ち望んでくれている。帰っておいでと言ってくれる。一緒に帰ろうと手を差し伸べてくれる。
希佐はそっと目を伏せた。
氷のように冷たい手の甲に、自らの手の平を重ねる。
その刹那、希佐は自分の手首を強く握られ、引き剥がされるような感覚を覚えた。反射的に目を開けて確認するが、希佐の手首を握り締める手など、どこにも見当たらない。ただ、両方の手首だけが、不思議と熱を覚えている。
ちっ、という舌打ちの音を聞き、立花継希がついぞ浮かべたことのないような、険しい表情を目の当たりにしたのを最後に、希佐の意識は一瞬にして落ちていった。いや、急浮上したと表現した方が正しいのかもしれない。
震える瞼をゆっくりと持ち上げると、ぼんやりとした視界の中に、鮮烈な赤が浮かび上がった。何度が瞬きを繰り返しているうちに、徐々に視界が鮮明になり、見慣れた顔が浮かび上がってくる。
「……アラ、ン?」
アラン・ジンデルは安堵したように大きく息を吐くと、拘束するように掴んでいた希佐の手首を離した。祭壇の後ろに入り込み、そこでうたた寝をしていたらしい希佐を見て、アランは半ば責めるような眼差しを向けてくる。
「こんなところで居眠りをするなんてどうかしてる」
「……雨が、降ってきて」
「雨?」
「雨足が弱まるまで、ここで雨宿りをさせてもらおうと思っていたのだけれど……」
「雨なんて降ってない」希佐の言い訳を聞いて、アランは眉を顰めた。「寝惚けてるの」
「……」
確かに雨は降っていたはずだと、希佐はそう思いながら身を起こそうとした。その場に立ちあがろうとしてふらつく体を、アランが腰に腕を回して支えてくれる。
「外が、明るい……」
中央通路の先に見える扉は大きく開け放たれたままになっていた。そこから橙色の夕陽が差し込んで、光の道を作っている。窓からも同じように明かりが入り、白い壁を夕焼け色に染めていた。降り仰いだ頭上には、西日を浴びたステンドグラスが、キラキラと煌めいている。
何かがおかしい。とても奇妙なことが起こったようだ。それなのに、自らの身に降り掛かったこの現象を、どうしても言語化することができない。
「屋敷に戻って体を温めた方がいい」
ぼんやりとしている希佐の手を取り、アランは教会の外に出た。先程までの曇天が嘘だったかのように、空には雲一つない。薄水色の空の一点には、昼間の月がぽっかりと浮かんでいた。
玄関には向かわず、客間の窓から部屋に戻ったアランは、希佐を暖炉の前に座らせると、すぐに温かい飲み物をもらって来てくれた。自分も希佐の隣に腰を下ろし、同じココアを啜りながら、暖炉の炎を眺めていた。
希佐は、あの使用人に鍵を返さなければと思い、ポケットの中をまさぐるが、そこに入れておいたはずのものがなくなっていることに気づく。どこかに落としてきてしまったのだろうかと慌てていると、アランが希佐の肩に手を置いた。
「俺が事情を話してくるから、ここで待ってて」
空になったマグを返しに行くついでに、アランが老齢の使用人と話をしてきてくれるという。まだどことなく頭がぼうっとしていた希佐は、その申し出を受け入れ、暖炉の前で大人しく待っていることにした。
だがしかし、間もなくして部屋に戻ってきたアランは、どこか煮え切らない様子で希佐の隣に座り込んだ。
「鍵のこと、話してきてくれた?」
希佐がそう問いかけても、アランは曖昧な返事をするばかりで、明確には答えてくれない。それでも、希佐が食い下がって訊ねると、アランは歯切れ悪く答えた。
「君に鍵を渡した覚えはないと言ってた」
「……え?」
「念の為に確認してきてもらったけど、鍵が持ち出された形跡もないらしい。教会の戸締りも念入りに確認したはずだけど、もしかしたら、鍵を掛け忘れたのかもしれないって」
「……どういうこと?」
「たまに出るらしい」
何が、とは聞かなかった。
アランも一緒に行くと言うので、二人で夕食のために食堂へ向かうと、既に事情を聞いていたらしいイライアスが、気遣わしげに声を掛けてきてくれた。
「大丈夫だった?」
「うん」
「でも……」イライアスは申し訳なさそうに、ごめんね、と謝ってくる。「何十年も前から住み着いてるみたいなんだけど、悪さをしたことはないと聞いていたから」
「悪さはされていないよ。多分だけど、私に教会のステンドグラスを見せてくれようとしたんじゃないかな。素敵な場所だって言っていたから」
夕食の席に、あの老齢の使用人は姿を見せなかった。希佐を気遣ってのことなのかもしれない。それから、食事が終わった頃にエレノアが現れて、我が家の使用人が失礼を致しましたと、非礼を詫びていった。こういうことは、頻繁にあるわけではないが、よくあることなのだという。特に、気に入ったお客様に悪戯をすることが多いらしい。きつく言い聞かせておくと言ったその表情は、冗談を口にしているようには見えなかった。
「そういえば」一緒に風呂に入らないかと誘われ、断る理由もないと頷いた希佐は、向かい合って湯に浸かっているアランを見て言った。「アランはどうして私が教会にいると分かったの?」
「目が覚めて、窓の外を見てみたら、君がふらふら歩いてた。いつまで経っても戻ってこないから、様子を見に行っただけ」
「ありがとう」
「なにが」
「様子を見に来てくれて」アランは希佐の言葉に首を横に振って答える。「私ね、ここに来てから、毎日胸が苦しかったんだ」
希佐はそう言いながら、自らの胸元で輝く、小さなエメラルドに優しく触れた。
「アランに三年前と同じ顔をしてるって指摘されて、漸く分かった。私は寂しかったんだなって。みんなが羨ましいんだって。みんなには帰る家があって、帰りを待ち望んでいる家族もいる。でも、私にはそういう家も、帰りを待ってくれている人もいないんだと思ったら、どうしようもなくつらくなった」
「俺も君と同じだよ」アランは濡れた髪を掻き上げながら言った。「帰る場所も、帰りを待つ人もいない」
自分とアランは同じではないのだと、希佐は思う。では、一体何が違うというのか。それを言葉で説明することは難しい。ただ漠然と、違うのだと感じる。
例えば、立花希佐とアラン・ジンデルを不条理な天秤にかけるとしよう。だが、常に傾く先は決まっている。立花希佐のような役者は存在しても、アラン・ジンデルの創造性を持ち合わせた脚本家は、他に存在しない。ようやく見つけた劇団カオスという居場所もそうだ。二人を天秤にかければ、全員がアラン・ジンデルが乗せられている方へと身を寄せ、常に一定方向へと傾き続ける。
それでも、自分は卑屈になりすぎているのかもしれないと、希佐は思った。
「そうだ」ベッドに入る前に、アイリーンが置いていってくれた充電器でスマートフォンを充電しようとコンセントに差し込んでいると、希佐は不意に思い出した。「昼間、バージルから電話があったんだ。アランからスペンサーさんに連絡してあげてほしいって言ってた」
「なんで」
「詳しいことは分からないけれど、なんだか切羽詰まっているみたいだったからって」
「どうせまたプロデューサーとの揉め事だろ」
「連絡しない?」
「ロンドンに帰ったら連絡する」アランは、部屋を空けている間にきちんと整えられていたベッドの上のクッションを、邪魔そうに隣のベッドに放り投げながら言った。「電話で話すより直接話をした方がいいだろうから」
「アラン、そっちのベッド、今日は私が使うんだけど」
「こっちで寝ればいい」
「どうして?」
「俺がそうしたいから」
アランは軽い物言いでそう言うと、ベッドサイドの小さなライトを残して、部屋の明かりを消してしまった。イライアスに借りた充電器をスマートフォンに繋いでいるが、電源を入れるつもりはないようだ。
希佐は椅子から立ち上がると、既にアランが横になっているベッドの方へと歩みを進め、ゆっくりとその上に身を乗り上げた。横にはならず、胡座を掻いて座っていれば、アランがこちらに目を向けてくる。
「もう体は大丈夫なの?」
「休みすぎて具合が悪い」その言い草に、希佐は苦笑いを浮かべる。「ごめん、貴重な時間を無駄に浪費した」
「無駄なんかじゃないよ。アランには必要な時間だったんだから」
「埋め合わせはするよ」
「埋め合わせ?」
「スイス・コテージ」アランの口から出てきた地名に、希佐は思わず目を見開いた。「駅前の桜はもう咲きはじめてる」
「……覚えていたの?」
「忘れてない」アランは横たわっていた身を起こすと、希佐と向かい合うようにして座り、窓の外に目を向けた。「ここから、一人で庭を歩く君の姿を眺めていたら、ふと思ったんだ。君と過ごす春は、これが最後なのかもしれないって」
「……」
「正直、そのうちって思ってたよ。今行かなくたって、そのうち行けばいいって。でも、そんなふうに思っていたら、そのうち君がいなくなると思った」アランは希佐の右手を掬うように取り上げ、親指の腹でそっと指輪を撫でた。「キサと見たかった桜よりも、キサと見た桜の方が、美しいだろうから」
「アラン……」
「……俺は」アランはそう言うと、希佐の肩に自らの頭を預け、小さく息を吐いた。「あの女から父親のことを聞かされて、そうはなりたくないと思っていたのに、思い返してみれば、俺は、君にまったく同じことをしていたんだ」
「同じこと?」
「君を囲った」アランは酷く掠れた声で言った。「住む場所と食事を与え、懐柔し、肉体関係を持った」
「それは……」
「俺は君を自分のいる世界に引きずり込んで、他の可能性を潰した」
「そうじゃない。そうじゃないよ。アランは私の命の──」
「『私の命の恩人だもの』」
まるで、希佐が飛ばした台詞を教えてやるように、アランはぽつりと呟いた。
「命の恩人なら、何をしても構わないのか?」アランは寄り掛かっていた肩から身を起こし、希佐の目を見つめながら言った。「俺は君に望まない妊娠をさせたかもしれない」
「避妊はしてた」
「それも絶対じゃない」
「私が妊娠を望んでいないなんて、どうして分かるの?」そう言う希佐を、アランは驚いたように見ている。「可能性は承知の上だった」
「……」アランは希佐の琥珀色の目を見つめたまま、ただ愕然としていた。「ああ、そうか、俺は……」
「え?」
「すまない、キサ……」アランの震える手が、ほとんど縋るように、希佐の背中に回される。「俺は、君を妊娠させることよりも、俺自身が、自分の父親のように、君と子供を捨ててしまうかもしれないと、そう思って……」
そんなことにはならない──そう言い切ることはできないと、希佐は思った。
あの舞台の脚本が、どこまで現実に基づいているのかは分からない。だがしかし、あの脚本を読むかぎりでは、幸せだった時間はそう長くは続かなかった。
少女は一人の青年と出会い、二人は恋に落ちて、少しの間だけ共に暮らした。青年は少女に住む場所と、食べ物と、衣服を与えた。まるで囲い込むようにして暮らし、肉体関係を持ち続けたが、青年は少女の妊娠を知ると──。
確かに、境遇は似ているのかもしれない。
「もしも──」希佐はアランの背中に腕を回すと、その熱い体に身を寄せたまま、囁くようにして言った。「もしも、私があなたの子供を妊娠していたとして、それであなたが私と子供を置いてどこかに行ってしまったとしても、私は絶対に、私とあなたの子供を見捨てたりはしない」
自分たちの物語の結末に、ハッピーエンドは存在しないのだと、この瞬間、希佐は人知れず悟っていた。
「この先の人生すべてを投げ打ってでも、私は私の命を懸けて、私とあなたの子供を護り抜くから」この愛だけを胸に仕舞い込み、この恋は、ロンドンに置いていくべきなのだろう。「決して、あなたを憎んだり、恨んだりしない」
生涯、忘れることのできない、大恋愛をした。
こんなふうに人を思い、自分を見失ってしまうほどに、誰かを愛することができるのだと知った。だが、この人の隣にいるといつも、あたたかさを感じると同時に、どこか言い知れぬ寂しさも覚えていた。常に心細さがついて回っていた。
このままずっと一緒にいても、自分も、この人も、一生幸せにはなれない。
どのくらいの時間、そうしていただろう。アランは希佐を抱き締めたまま大きく息を吐くと、意を決したように体を離し、サイドテーブルに手を伸ばした。そこに置いてあった一冊の本を手元に引き寄せ、間に挟み込まれていた写真を、希佐に差し出してくる。
「ちゃんと服を着て、ベッドで寝た方がいい」
やはり、希佐にバスローブを着せ、ベッドまで運んでくれたのは、このアラン・ジンデルだったのだ──希佐はそう思いながら、二人の男の子が写っている写真を受け取った。
「こっちの、飛行機を持っている方がカイルで、アイリーンの父親だ」
「うん」
「このテディベアを抱えている方が……」言葉を詰まらせたアランを見上げると、その顔には、呆れのような、諦めのような表情が浮かんでいた。「俺の父親だよ」
「でも、ここにはアレンって」
「ラファエルはミドルネームだ」
アランはそう言いながら、今度は別の写真を差し出してくる。それを受け取った希佐は、そこに写っている人物を目の当たりにした瞬間、琥珀色の双眸を驚きのあまり大きく見開いていた。
「これは……」
希佐は一瞬、アランが今よりも若い頃の自分の写真を見せているのだと、そう思った。だが、それは違う。これは別人だ。おそらくこの邸宅の庭で撮影したと思われるその写真には、アランよりも僅かに鋭さのある顔をした青年が写っている。
だが、もしこれが十年前の自分の姿だとアランが言ったなら、希佐はそれを信じただろう。そのくらい瓜二つの男が、写真の中に佇んでいた。
「似てるだろ」
「……うん」
「さすがの俺でも、こんなに悲惨な脚本は書けない」アランは希佐の手から写真を回収すると、再び本の間に挟み込んだ。「おかげで人生で初めて熱を出して寝込んだ」
「えっ、でも、ちょっと待って」サイドテーブルに本を戻しているアランの腕を取り、希佐は言う。「それなら、アランとアイリーンは──」
「従兄妹だな」
「アイリーンはそれを知っているの?」
「知る必要のないことだ。彼女の母親にも言うなと口止めされてる」
「そんな……」
希佐が意図せず立ち聞きをしてしまったあの日、アランとエレノアはこのことを話していたのか。ここへ来ることを嫌がっていたのも、前々からこの事実を知り得ていたからなのか。エレノアが劇団カオスをこの屋敷に招くようアイリーンに言ったのは、アラン・ジンデルと話をするためだったのか。
考えても仕方のない疑問が、次々と湧き上がっては泡のように弾け、消えていく。
そして、希佐は自分の中に唯一残された疑問を、恐る恐る口にした。
「アレンは──あなたのお父さんは、今はどこに?」
「死んだらしい」
アランがあまりに何でもないことのように言うので、希佐は一瞬、どのような顔をすればいいのかが分からなくなった。咄嗟に口をついて出た「I’m so sorry」という言葉に、アランは皮肉っぽく笑った。
「幸い、アイリーンはアレンと面識がない。彼女の父親は娘の仕事に興味がないし、俺の顔も知らないから、今のところは何とかなりそうだ。先のことは分からないけど」
「……アイリーンのお母様は、前からアランのことを?」
「アイリーンやイライアスと一緒に俺の舞台を観に来てたって。そのときから気にはなっていたと話してた。二人から俺の生い立ちを聞くうちに、疑念が確信に変わったらしい」
イライアスを受け入れてくれたエレノアなら、アランのことも受け入れてくれるのではないかと、そう希佐が思っていることを見透かしているかのような面差しで、アランは首を横に振った。
「貴族の古臭い仕来りに飽き飽きしていた弟のアレンは、これからは自分の力で生きていくんだと言って、ロンドンの街で一人暮らしをはじめた。激怒した父親からは絶縁を言い渡されていたそうだが、兄のカイルは、そんな弟を心配して、毎月それなりの仕送りをしてやっていた。アレンは大学で言語学を学んでいたそうだ。だが、兄の耳に良からぬ話が飛び込んできた。弟が未成年の少女と暮らしているという噂話だ。兄が事情を聞きにいくと、弟は友達の妹が遊びにきているだけだと答えた。兄はそれを信じたが、しばらくして、弟は兄に泣きついてきた。女を孕ませてしまったと」
紙の上の絵空事ではないのだと、希佐は思った。ただの悲劇的な物語ではない。アラン・ジンデルが書いた脚本の向こう側には、生きた人間が存在しているのだ。
「女の腹は既に大きくなっていた。堕胎をすることもできなかった。兄は弟を屋敷に連れ戻し、誠心誠意、父に謝るよう言い聞かせた。弟は兄の言葉に従い、父に自らの過ちを懺悔した。アレンはとにかく魅力的な男で、人を誑し込む天才的な才能があったそうだ。父は弟の誠実で直向きな態度に感銘を受け、息子のすべてを許し、再び家族として迎え入れることに決めた」
「……」
「ただ、弟は、自分が未成年を孕ませたことだけは、父親に話さなかった。兄は再三真実を告げろと説得を試みたが、弟は聞く耳を持たなかった。兄は弟の口座に仕送りを続けた。外国人で、ビザを持たない不法滞在者だった女は、病院に行くこともできず、弟と住んでいたアパートでたった一人、子供を産んだ」
「……それから、どうなったの?」
「兄は使用人に多額の手切れ金を持たせ、女がいるアパートに向かわせた。使用人は主人が命じた通りのことをした。女に金を渡し、すべてを忘れるように言って、その場を離れた。その後、女と子供がどうなったのかを、兄は知らない」
舞台を観に来た人々は、これを一つのフィクションとして評価するのだろう。誰も現実に起きたことだとは思わない。そして、この悲劇的な物語が評価されればされるほど、当事者たちの心は抉られて、更に深い傷を負うことになるのではないか。
「兄は父親が死ぬまでの間、これまで通りに振る舞い続けた。弟を許したふりをしていたんだ。でも、父が病に倒れ、この世を去ると、家督を継いだ兄は、弟を一族から追放した。今度は一切の慈悲を与えなかった。結果、弟は路頭に迷い、世を儚んで、自害したそうだ」
希佐はとうに言葉を失っていた。言葉の代わりにさめざめと泣く希佐を見て、頬を伝う涙を手の平で拭ってくれながら、アランは言った。
「これが俺のすべてだよ」自らの胸に飛び込んできた希佐を、アランはしっかりと抱き止める。「この話が少しは君の演技の足しになればいいけど」
「お願いだから、そんなふうに言わないで」
「ごめん」
アランは相変わらず、他人事のように自分のことを話す。まるで、誰かが書いた脚本のあらすじを語って聞かせるように。今回もそれは同じだった。
「君を愛してる」だからこそ、とアランは言う。「こんな面倒臭い俺の人生に、これ以上君を巻き込むべきじゃないと思うんだ」
二人にはそれぞれ、普通の人にはついぞ思いも寄らないような、厄介な事情があった。だが、多くの人々は、そんなものは瑣末な問題だと、そう言うのかもしれない。お前たちはより複雑に物事を捉えているだけだ、もっと単純に考えろ、と。
アランは、声を押し殺して泣く希佐の背中を、あやすように撫でている。
「君は誰のために泣いているの」
「分からない」
「俺は真実を知った。あとはもうそれを乗り越えていくだけだ」
その言葉の通り、アラン・ジンデルはすべての問題を乗り越えて、この狭い大陸から、広い広い大海原に向かって、飛び立っていくのだろう。傷ついていた翼がようやく癒える。それを引き留めることは、誰にもできない。あんなにも後ろ向きだったアラン・ジンデルはもう、前だけを向いて歩いていけるのだ。
希佐にはそれがとても嬉しく、やはり同時に、寂しくもあった。これは、劇団カオスという家から巣立っていく仲間たちを見送ってきた、アランと同じ気持ちなのかもしれない。
「キサ」促すように名前を呼ばれ、顔を上げれば、一番星のような輝きを帯びた緑色の目に射止められる。「俺は限りある君との時間を無駄にしたくない」
「アラン」
「約束通り、君を殺すよ」
これが、終わりのはじまりなのだと、希佐には分かった。
人は呼吸をしている限り、息の根が止まるその瞬間まで、はじまりと終わりを幾度となく繰り返す。
希佐はここへ来て、エレノアに母の面影を見た。母親の愛情というものを身近に感じ、幼き日の記憶が呼び起こされた。
いや、本当はもう朧げにしか、母のことを覚えてはいないのだ。自分のことを呼ぶ声すら、思い出すことはできない。だがしかし、その母の死がきっかけとなって、継希との演劇ごっこがはじまったことは、今でも鮮明に覚えている。
ああ、また、あんなふうに──希佐は、涙で潤んだ目を細め、アランの頬に指先を滑らせた。その瞬間、アランの頬の産毛が立ち上がり、喉がゆっくりと上下する。
少女が少年を演じ続けた、あのユニヴェールでの三年間は、演劇ごっこの延長線上にあったものだ。入試からはじまり、最後のユニヴェール公演で終わりを迎えた、究極の演劇ごっこ。
この人は、何も演じなくていいと言ってくれた。ありのままの君が美しいのだと、そう言ってくれた。でも、この人との演劇ごっこは、驚くほど刺激的に違いないと、希佐は思う。
この、自分を射止めるような眼差しで見つめてくる男は、一体誰なのだろう。その眼差しを一身に受け止め、潤んだ目を儚げに細めて、眼前の美しい男の頬を慈しむように撫でる女は、一体誰なのか。
さあ、終わりを目指して、ごっこ遊びをはじめよう。