チャリティーイベントまで、残り十日と差し迫っていた頃、希佐たちは真昼のヘスティアに集まっていた。いつもならば、客の姿もなくひっそりと静まり返っている時間帯だが、今日は違う。イベントに参加する予定の面々が顔合わせをすると同時に、当日のプログラムについて話し合ったり、裏方仕事の役割分担をしたりと、重要な話し合いが行われる大事な日なので、開店時間前なのにもかかわらず、酷く騒がしい。
みんなの貴重なランチタイムを削って来てもらっているのだからと、メレディスは朝から腕を振るい、カウンターにケータリングを用意してくれている。ここで働いていた経験のある希佐が、ヘスティアの黒いギャルソンエプロンを腰に巻き、率先して給仕を手伝っていると、アラン・ジンデルが正午過ぎになって姿を現した。
「また手伝わされてるの」
「私が自分で手伝うと言ったの」エプロン姿を見るなり呆れたような顔をするアランを見て、希佐は首を横に振る。「メレディスが一人で大変そうだったから」
「俺にも何か分けて」
「お腹減ってる?」
「それなりに」
希佐は白い皿の上に、ローストチキンと付け合わせを盛ると、それをアランに差し出した。
「飲み物は向こうにあるから、自分で入れてね」
「分かった」
皿をトレーに乗せ、カウンターの端の方に用意されているドリンクコーナーに向かったアランが、ポットから温かい紅茶を注いでいると、先に来ていたノアがその姿を捉えたようだ。いつものテーブル席に腰を下ろしたまま、高く挙げた手をぶんぶんと振っている。
「アラン、こっちこっち!」
その瞬間、ざわ、と店内が騒めくのを、希佐は感じ取っていた。しかしながら、アラン・ジンデルは我関せずというふうにしれっとした様子で、自分を呼んでいるノアの方へと歩いていく。ノアの隣に座っていたジェレマイアも、アランに向かって軽く手を挙げ、挨拶をしていた。ノアとジェレマイアの二人は、イベントには参加しないが、当日はボランティアで裏方仕事を手伝ってくれる。
「キサ」温かい飲み物が入れられているポットの残量を確認していると、厨房から補充の料理を持って出てきたメレディスが声を掛けてきた。「遅れていたスタッフが到着したから、もう席に戻って構わないよ」
「本当? よかった」
「手伝ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
「特別にこの出来立てのローストチキンをどうぞ」
「わ、ありがとう」
大きく切り分けられたローストチキンと同じ皿に、茹でたブロッコリーや炒めたほうれん草などの野菜を盛り付け、常温の水をグラスに注いで、希佐は仲間たちがいるテーブル席に向かった。アランの隣に腰を下ろし、備え付けのカトラリーケースからナイフとフォークを取ってもらう。
「イライアスとアイリーンは?」
「イライアスは午前の歌の稽古が終わり次第向かうと言っていたから、そろそろ来るんじゃないかな」希佐はアランに、ありがとうと言ってから、ノアの問い掛けに答えた。「アイリーンはお仕事だって」
「バージルは──」
丁度、ジェレマイアがその名前を口にしたとき、希佐の目には窓ガラスの向こう側に滑り込んでくる大型のバイクが見えた。被っていたフルフェイスのヘルメットを外すと、乱れた髪を撫で付けるように掻き上げ、ヘスティアの店内へと目を向ける。ぱち、と目が合うのを感じて希佐が手を振れば、バージルはヘルメットを軽く掲げてみせた。
「悪い、遅くなった」ヘルメットを小脇に抱えたままやって来たバージルは、アランと希佐に詰めるように言うと、その隣に並んで腰を下ろした。「途中で事故があってな、酷い渋滞だった」
「事故?」
「車同士の玉突き事故だと」
「最近多いよね、事故。バージルも気をつけてよ」
「俺はいつだって安全運転だろうが」
「バージルが安全運転を心掛けていたって、周りはそうじゃないかもしれないでしょ。やだよ、僕、事故に遭ったバージルを病院までお見舞いに行くなんて」
「はいはい、気をつけるよ。心配してくれてありがとうな」
確かに事故は心配だ。イライアスは大丈夫だろうかと思っていると、それほど時間を置かずに本人が現れ、希佐は人知れず胸を撫で下ろす。
店内に入ってくる前にジャージの上着を脱いでいたイライアスは、ドリンクコーナーに立ち寄ると、常温の水をグラスに注ぎ、それだけを手にテーブル席までやって来た。
「事故、大丈夫だった?」
開口一番にそう問うと、イライアスはノアの隣に腰を下ろしながら、驚いたように希佐を見た。
「どうして知ってるの?」
「俺が話したんだよ。事故現場のすぐ脇を通りかかったから」
「信号待ちをしていたら、僕の目の前で事故が起きたんだ」
「お前、大丈夫だったのか?」
ノアの頭越しにイライアスを見ながら、ジェレマイアが言う。イライアスはそちらを一瞥してから頷き、ごくごくと水を飲んだ。
「救急と警察を呼んだら、話を聞きたいから待ってるように言われて、それで遅くなった」
「そりゃ大変だったな」
「僕は別に何もなかったから」
事故だ、事件だ、病気だという話を聞くと、希佐は未だに心がざわついてしまう。イライアスは慌てふためくこともなく、至っていつも通りの様子だったが、一歩間違えれば、その事故に巻き込まれていたかもしれないのだ。
食欲をなくし、食事の手を止めてしまった希佐は、まだ料理が半分ほど残っている皿を視界から外した。何か別のことを考えようと思い、視線を店内に逃がそうとしたそのとき、左手が優しく握られる。反射的に左隣を見上げるが、アランは何食わぬ顔をして食事を続けていた。
「なに」
「ううん、なんでもない」
するりと指が絡まると、何だか妙にドキドキして、心が軽くなるのを感じていた。
カオスの仲間たちはいつも通り振る舞っている。しかしながら、イベントに参加する他の人々は、様々な色の目をこちらに向け、しきりに噂話をしているようだ。
ヘスティアをホームにしている劇団は多い。だが、その中でも、劇団カオスは特別なようだ。世界的に有名な脚本家が主宰を務め、ブロードウェイやこのウエスト・エンドで活躍する役者が複数在籍しているから、注目を浴びやすいのだろうと、バージルが言った。
「俺らはもう一年以上公演なんかしてねぇしな」
「面目ない」
「別にジェレマイアが悪いわけじゃないでしょ。みんなそれぞれ忙しくしてたわけだし、仕方ないよ」
「次の本なら書き上がってるけど」
「えっ?」チキンを口に運びながら、何でもないことのように言うアランを見て、真っ先に反応したのはノアだった。「何それ、僕は何も聞いてないんだけど? ちょっとキサ、君は知ってたの?」
「へっ? う、ううん、私も何も聞いてないよ」希佐は慌てて首を横に振り、バージルとイライアス、それからジェレマイアを見た。「聞いていた?」
知らない、聞いてない、オレも──そう言って、全員が首を横に振る。
最後に、全員が揃ってアランの方を見ると、当人はのんびりとチキンを咀嚼し、嚥下してから、やはり何でもないことのように言った。
「今朝方書き上がったばかりだから」
アランは、希佐が眠っている間中、自室の机に向かって何かの原稿を書き続けていた。カチカチカチ、というキーボードのタップ音は、希佐に取って酷く心地の良いものだ。眠りの妨げになるどころか、深い眠りの中へと誘ってくれる。
希佐がいつもの時間帯に自然と目を覚ますと、机に向かっていたアランは天井に向かって大きく伸びをし、特大の欠伸を漏らしていた。希佐はその様子をこっそり眺めていたが、横顔に視線を感じたのだろう、アランはこちらを見ると、優しげに目を細めて口を開いた。
「おはよう、キサ」
寝ぼけ眼のまま両腕を差し伸べれば、大きな体がその中に転がり込んでくる。形の良い額に唇を寄せ、やわらかく押し当ててから「おはよ」と、まだ少し掠れた声で挨拶をし返すと、吐息を漏らすように笑う気配があった。
何やら、今日は朝から機嫌が良さそうだと、希佐はその瞬間に感じ取っていたのだ。劇団カオスのための脚本が完成し、一人、それを喜んでいたのかもしれない。
「でも、時期的に公演は無理だろ。あれはしばらく寝かせておく」
「えー、それ、ちょっと読ませてよ」
「あとで送る」
「やったね!」
そうして話をしているうちに、今日集まれる出演者があらかた揃ったのか、メレディスがタブレットを片手に、希佐たちのテーブルの脇にあるステージまでやって来た。階段を上がり、ピアノの椅子を前の方まで移動させると、そこに腰を下ろす。
「今日はお集まりいただきありがとう。食事はそのまま続けてくれて構わないよ。僕が話をするから、質問や意見がある場合は、適当に声を上げてほしい」
毎回、チャリティーイベントの企画、運営はヘスティアの王様、メレディスが一手に取り仕切っている。当日はヘスティアで働いているスタッフが総動員されるが、それでも追い付かないほど大勢の客が来店する見込みだ。だから、ステージイベントについては、出演者たちが手分けをして、それぞれ助け合いながら舞台に立つというのが、毎年の決まり事だった。
「当日は午後一時から四時までが昼の部、二時間のインターバルを挟んで、夜の部は午後六時から九時──時間の押し具合では、十時くらいまで掛かるかな。分かっているとは思うけれど、夜の部は保護者の同伴があったとしても、未成年の入場は不可だよ。お客様はもちろん、出演者もね。ただし、ネット配信を行う予定ではあるから、これに差し障りのある出演者は、あとで申し出てくれるかな。事務所との契約やら制約がある役者もいるだろうから、その辺りは融通が利くようにしたいと考えている」
空になった皿を脇へと押しやったアランは、希佐のことを横目に見てから繋いだ手を離し、いつもジャケットのポケットに入れて持ち歩いているノートを取り出した。万年筆のキャップを唇で軽く食み、軸の部分をくるくると回してペン先を覗かせる。
珍しいなと思いながら希佐がその様子を眺めていると、隣に座っているバージルも同じように考えたようだ。
「お前がメモを取るなんて珍しいな」
「最近記憶力が──」
アランがそう言いかけたときだった。出入り口の扉が開き、二人分の人影が店内に入ってくる。
メレディスはタブレットから顔を上げると、思わずというふうに口を噤み、何とも形容し難い面持ちを浮かべた。それはアランも似たり寄ったりで、バージルに至っては、いい加減にしろとでも言いたげな呆れ顔だ。
「お邪魔をしてごめんなさいね。私に構わず続けてくださいな」
おい、あれ、クロエ・ルーだろ──誰かが驚愕したような口振りで言った。その傍には、先日このヘスティアでリサイタルを行った、フランシス・ルロワの姿もある。
ルロワは希佐が自分たちの方を見ていることに気づくと、魅力的に微笑み、軽く手を挙げて挨拶をしてくれた。ただ目を逸らすのは不躾と思い、希佐は軽く会釈をする。
「誰があのお嬢さんに声を掛けたんだ?」
「僕だよ」ステージの上にいるメレディスが言った。「もっとも、約束の時間よりお早いご到着なのだけれどね」
「迷惑極まりねぇな」
アラン・ジンデルが現れたときとは比べ物にならないほど、店内は大きくざわめいていた。ここ最近は仕事の都合でロンドンに滞在し、このヘスティアにも頻繁に出没しているので忘れがちだが、クロエ・ルーは滅多なことでは会える人物ではない。その点、アラン・ジンデルはこの近所に住んでいる上に、地元の人間ならば誰もが居住地を特定している。
「静粛に頼むよ」メレディスがそう声を上げると、ざわざわとしていた店内は、少しずつ静けさを取り戻していった。「話を続けよう」
メレディスは一体何のために、クロエ・ルーをこの場に呼んだのだろうと、希佐は思った。クロエには、今度のチャリティーイベントに、並々ならぬ思い入れがあるように感じられる。何か特別なことを画策していることは分かるのだが、その全容が見えてこない。
この人には、その何かが見えているのだろうか──希佐がそう思いながらアランを見やると、意図せず視線がぶつかり、頭の中で静電気のようなものがぱちんと弾ける音がした。
「当日のプログラムに口出しがしたいんだろうな」
「え?」
「より劇的に見えるようにしたいんだ」
アランは興味がなさそうにそう言うと、テーブルに頬杖をつき、ノートにペン先を走らせる。メモを取っているのかと思いきや、希佐には意味の分からない記号を、さらさらと余白の部分に書き込んでいた。
「今年はミュージカルやそれに関連する映画、もしくはオペラの楽曲を用いたステージの申請が多い。これらを上手く構成すれば、一つの大きなステージとしてお客様を楽しませることができるはずだ」
「待って」聞き覚えのある女性の声だ──そう思って店内に視線を巡らせれば、そこにはクローディア・ビアンキの姿があった。「それって、個々で舞台に立つのではなくて、全員が協力して一つのステージを作り上げるってこと?」
「そうしたら面白いのではないかなと、僕が個人的に考えているだけだよ」
「あのね、メレディス。本番まであとたった十日しかないのよ? それに、私たち暇じゃないの」
「あら、そんなにお忙しいのなら、チャリティーイベントになんて出演する必要はないのではなくて?」玲瓏とした声の上に、どこか能天気そうな声が重なる。「ご自身の忙しさを言い訳に使うのは結構ですけれど、それをあたかもここにいる全員の総意であるかのように語ってほしくはないわね」
クローディアは声が聞こえてきた方向を睨み、すぐさま言い返そうとするが、そこにいるのがクロエ・ルーであることに気づくと、思わずというふうに口を噤んだ。
「……あれ?」希佐は小さく声を上げ、再びアランを見上げる。「マダムも出演されるの?」
「知らない」
「でも、そういう口振りだったぞ」
我関せずを決め込むことにしたのか、アランはその顔から表情を消し去り、今度はノートの端っこに落書きをはじめる。バージルは呆れ果てて物も言えないというふうな様子で、大きくため息を吐いていた。
「それ、私にも見せてくださるかしら」
椅子からすっくと立ち上がったクロエは、掛けていたサングラスを外すと、それをジャケットの胸元に引っ掛ける。クロエが一歩足を踏み出すたびに、たっぷりとしたブロンドの髪が、ふわり、ふわり、と揺蕩って、甘い香りを漂わせていた。
クロエがステージの下で足を止め、当然のように細い腕を伸ばせば、メレディスは半ば諦めた様子でタブレットを差し出す。
「カルメンとサロメの共演なんて夢があるじゃない?」
「悪夢の間違いだろうが」
「恋に貪欲な女性はお嫌い?」クロエはタブレットに目を向けたまま、バージルの横槍に返事をする。「私は大好きよ」
「……サロメ?」クローディアが思わずというふうに声を上げる。「誰かサロメを演じるの?」
「彼女がね」クロエはアランと同じように、まるで何でもないことを語るような顔をして、希佐を指差した。「Signorina Bianchi」
稀代の大女優から自らの名を呼ばれ、大きな目を一瞬だけ見開いたクローディアだったが、その次の刹那、まるで敵を見るような眼差しで希佐を睨みつける。
「分をわきまえてほしいものだわね、キサ」
「え?」
「満足に歌えもしないのに、私たちの領分にまで足を踏み入れてこないで」
「でも、あの、私は──」
「お隣の男性が七つのヴェールの踊りを見せてやって欲しいと頼んできたのよ。おかしいと思ったわ。断って正解だった」
クロエ・ルーから、チャリティーで七つのヴェールの踊りを披露するように命じられてすぐに、アランはクローディアに連絡を取ってくれた。音楽学校の卒業公演でサロメを演じたというクローディアの舞を見てみたいと、そう希佐が言ったからだ。だが、クローディアの返答は予想した通り、快いものではなかった。
クローディアは緩く波打っている黒髪をゆっくりと掻き上げ、ふん、と鼻で息を吐くと、希佐から目を逸らした。
「あらあら」その様子を見ていたクロエが、ふふふ、と面白そうに笑う。「喧嘩なんておよしになって。仲良くしてくださいな」
何の気なしに眺めていたタブレットをメレディスに返したクロエは、ありがとうと言って、ルロワが待つテーブルに戻っていった。
メレディスはその背中をどこか仕方がなさそうに見送ってから、再び口を開く。
「知っている人がほとんどだろうとは思うけれど、このチャリティーイベントは祖父や父の代から続けていることなんだ。だから、子供の頃から、それこそ何十年と足を運んでくださっているお客様も多くてね。そうしたお客様方の目はどんな評論家よりも肥えているよ。そんなお客様に、去年のイベント終了後に言われたのが、この先も惰性でチャリティーを続けていくつもりなら、もう少し考え直した方がいいということだった」
メレディスは、手元に戻ってきたタブレットを自らの膝に伏せて置き、店内をゆっくりと見渡した。
「近年、エンターテイメントは形を変えはじめている。実際に劇場や映画館へ足を運ばずとも、安価で娯楽を手にすることができるような時代になった。もちろん、それが悪いとは言わないよ。僕もそうしたサービスを利用しているからね。対して、高いチケット代を払ってまで劇場に足を運ぶ人間は、物好きだと揶揄されることもある。特に、うちのような小さな劇場で行われる公演の多くは、いわゆるフリンジと呼ばれる舞台が主で、大勢の人の目に触れる機会は少ない。君たちがこの劇場を深く愛してくれていることは、この僕が誰よりも理解しているつもりだけれど、最近はどこの小劇場も経営が難しくなってきていて、急速に閉鎖の危機に追い込まれている状況だ」
「えっ、ヘスティアの経営状況ってそんなに危ない感じなの?」
「幸いなことに、今のところは何も困っていないよ」くりっと目を丸くするノアを見て、メレディスは小さく笑う。「僕は、このイベントを惰性で続けているつもりはなかった。でも、お客様がそのように感じられているのなら、これは大問題だ。だから、何か新しい試みを取り入れて、昔ながらのお客様から、ご新規のお客様にまで楽しんでいただけるようなイベントにしたいと思った。当日は、個人アーティストやバンドファンの若い子たちも来てくれるだろうから、結果、そういう子たちがオペラやミュージカル、舞台にも興味を持つようになってくれたら、僕はそれを嬉しく思う」
しん、と静まり返った店内に、はっとしたような息遣いや、互いが顔を見合わせる視線の動き、決意を新たにする瞬間の張り詰めたような空気感が漂うのを感じた。
希佐は右隣にいるバージルと顔を見合わせたあと、揃って左隣にいるアラン・ジンデルに目を向けた。アランは二人の視線を受けて、はあ、と面倒臭そうにため息を吐き、口を開く。
「劇団カオスから一つ提案させてもらいたい」
「どうぞ」
「カオスから出演するのは五人だ。イベントでの一人当たりの持ち時間は最長で十分から十五分──ということは、俺たちの持ち時間は正味五十分はあることになる。カオスは個人としてではなく、一つの劇団としてこの時間を使いたいと考えていた」
「あとで詳しい構想と演出を確認させてもらうよ」
「ああ」
「ちょっと待って」すかさずクローディアが声を上げた。「あなたたち、今の話は一体なんだったの?」
「なにが」
「残り十日しかないけど、出演者全員で良いイベントにしましょうっていう、そういう流れだったんじゃないの?」
「君はうちの役者がサロメを演じることが気に入らないんだろ」
「それは……」
「確かにキサは君のようには歌えない。でも、ダンスの技術は格段に上だ」アランの物言いに、クローディアはその表情をますます険しくさせた。「二人が共演すれば、
何か途轍もないものが生まれるんじゃないかと期待してたけど、君が乗り気じゃないなら仕方がない」
「……え?」
「残念だよ、本当に」
数日前、相談があると言って、メレディスがスタジオを訪ねてきた。
今年のイベントは例年とは違った試みをしてみたいと考えている。しかしながら、漠然とした構想は思い浮かぶものの、それを実行に移すとなると、本番までの期間が短すぎるが故に、決断に踏み切れずにいるのだと。それに対するアランの返答は実に簡潔だった。
「迷っている時間がもったいない」
手伝うよ、とアランは言った。
二人は既にある程度の構想を練っていて、演出についても話し合いを進めていた。だが、もしもメレディスからの提案に否定的な声が上がった場合は、劇団カオスがその構想を引き継ぐということで、話はまとまっていたのだ。
「それって、今からでも手を挙げれば、誰でもカオスと共演できるってこと?」
「クレアの言う通り、イベント当日までは今日を入れて残り十日しかない」一番離れたテーブルに付いていたリオに向かって、アランが淡々と応じている。「可能な範囲で、ということなら」
「うわ、ヤバ」リオは僅かに興奮した様子でそう口にしてから席を立ち、こちらのテーブルまで駆け寄ってくる。「なあ、バージルもステージに立つんだよな?」
「ん? ああ、まあな」
「オレ、バージルと一緒に踊りたい!」まるで子供が父親におもちゃを買ってくれとねだるような様子で、リオは言った。「共演、いいじゃん! アタルとダンテにも声を掛けてみるかな」
「おいおい、この期に及んで俺にまたお前らの面倒を見ろってか?」
「いいだろ、別に減るもんじゃないんだから」
リオは上機嫌でスマートフォンを取り出し、どこかに送るメッセージを打ち込んでいるようだ。バージルは「あーあ」と漏らしながら、手の平で目元を覆って天井を仰いでいる。
「でも、みんなは舞台があるのではないの? 日曜は公演日でしょう?」
希佐が困惑しながらそう問うと、リオは「ああ」と言いながら頭を掻いた。
「オレらみんな、あの舞台から降りることにしたんだよ。スペンサーもいなくなったことだしな。そろそろ次のステップに進もうってことでさ」
「あ、そうだったんだね……」
「だから、オレもアタルも、もうすぐアメリカに帰るんだけど、オレはその前に恩返しをさせてもらおうと思ってさ」
「恩返し?」
「ここはオレにたくさんの出会いをくれた場所だから」リオはそう言うとヘスティアの店内を見回し、最後に希佐を見て、にっと晴れやかに笑う。「それに、ウエスト・エンドの舞台関係者に顔を売っておくのも悪くはないだろ?」
そうだ、自分も恩返しをするために、チャリティーイベントに参加することを決めたのだ──不意に初心を思い出した希佐は、隣で未だ渋っているバージルに顔を向けた。
「せっかくだから一緒に何かやろうよ、バージル」
「はあ? お前な、これ以上自分の負担を増やしてどうするつもりだよ」
「私なら大丈夫だよ。カオスの公演準備をしているときよりもずっと楽だし。ね、イライアス?」
「うん」終始黙って傍観していたイライアスが、希佐の問いに小さく頷いた。「二人で競技ダンスを踊っていた頃に比べたらずっと楽だと思う」
「俺は肉体的なことを言ってるんじゃなくて──」
「本人がやりたいって言ってるんだから、付き合ってやれば?」アランはそう言いながら、半ば挑発的な目をバージルに向けた。「それとも、オジサンの方が肉体的につらいわけ?」
すると、その眼差しと言葉を受け取ったバージルは、一瞬驚いた顔を覗かせ、思わずというふうに絶句する。しかし、すぐにニヤリと不敵に笑って見せると、希佐の肩に腕を回し、ぎゅっと自らの方に引き寄せた。
「わっ」
「いいじゃねぇか、やってやるよ。この俺が全員まとめて面倒見てやる。泣き言吐かしたってやめてやらねぇからな、覚悟しろよ」
「うわあ、やばー……」やったー! と歓喜の声を上げているリオを尻目に、ノアはゾッとしたような表情を浮かべ、自らの二の腕をすりすりと撫でさすっていた。「迂闊に参加するなんて言わないでよかった」
「同感……」
ノアの隣で何度も大きく頷きながら同意を示しているジェレマイアだったが、その面差しはどこか嬉しそうだ。きっと、ここにいる仲間全員が、同じ気持ちでいるのだろうと、希佐は思う。
「おーい、カオスと一緒にステージに立ちたいやつ、今がチャンスだぞ! バージルがまとめて面倒見てくれるってさ!」
「んあ? お、おい、あー……分かった、分かった。よし、乗りかかった船だ。男に二言はねぇ。やってやろうじゃねぇか」
まるで自分を鼓舞するように言うバージルを見上げ、希佐はくすくすと笑った。バージルの背中に自らの腕を回し、ぎゅっとハグをする。
「大丈夫、私もしっかりフォローするから」
「孝行者の弟子がいるってのはいいもんだなぁ」
「イベント当日まで上の劇場を開放するよ」希佐とバージルの仲睦まじい様子を、ステージの上から微笑ましそうに見ていたメレディスが言った。「各自稽古に使ってくれて構わない」
リオの呼び掛けに追随する者は多かった。これにはアランも呆れていたが、バージル同様前言撤回するつもりはないようだ。メレディスに手伝うと約束をしてしまった手前、それを反故にすることはできないと考えてのことだろう。
また数日後に集まって、今度は全体の流れの確認と、リハーサルについて話し合うことがメレディスの口から告げられ、この場はお開きとなった。
ヘスティアはこれから開店の準備に取り掛かる。清掃の邪魔にならないように、場所を変えて話そうとしていると、メレディスはアランに古びた鍵を手渡し、二階の劇場を使うように言ってくれた。
「アタルとダンテ、今から来るってさ」
「アタルはまあいいとしても、ダンテのやつはオーディションに合格したばかりだったろ?」
「一応、オレとアタルで考え直せとは言ったんだけどな。一度日本に帰るとかなんとか言ってたから、その都合かも」
「お前らが抜けて、カンパニーは困ってるんじゃないか?」
「そりゃね」劇場への階段を上りながら、リオが得意そうな顔をする。「主役と準主役が一度に抜けるんだ、もちろん泣き付かれたよ。でもまあ、他の連中のモチベーションは上がったみたいだけど。オレやアタルが見ていた景色を見たがっていたキャストは大勢いたわけだし」
「ま、お前たちの人生だ。好きにすりゃいい」
一つ終われば、また新しい何かが、当然のようにはじまる。
人生は続く。この命が終わりを迎える、そのときまで。
希佐は自分の前を行くアランの隣に並び、階段を上りながら、その顔を覗き込んだ。物思いに耽るような表情を浮かべていたアランだったが、希佐の視線に気がつくと、こちらに目を向けてくる。
「どうかした」
「ううん」希佐は首を横に振りながら、小さく笑った。「ただ、後押ししてくれたことが嬉しくて」
「俺がやめるように言ったところで、君は素直に聞き入れない」だったら、とアランは続ける。「君が無茶をしないように見張る方が簡単だから」
「何でも、これが最後なのかもしれないって思うと、不思議と力が湧いてくる。それに……」
「それに?」
「何一つ逃したくないって思うんだ。目の前にある可能性の一つも、取り逃したくないって。だから、アランが途轍もないものになるって可能性を見出しているのなら、尚更──」
そう言いながら、丁度二階のフロアに足を掛けたそのとき、背後から「待ちなさいよ」という声が聞こえてきた。希佐とアランが反射的に後ろを振り返ると、階段の踊り場に立っていたクローディア・ビアンキが、やはり睨むようにしてこちらを見ていた。
「……わたし、やるわ」
「なにを」全員の視線が集まる中、あれだけ人の目を嫌っていたはずのアラン・ジンデルが、平然とした面持ちで問い返している。「なにをやるの」
「お望み通りのことをよ」
「俺は別に何も望んではいない」アランはクローディアをまっすぐに見つめながら、しれっとした様子でそう言った。「君が望んでいないことをやらせるつもりもない」
「あなたって昔からそうよね」
「昔から何も変わっていないからな」
「……その子と共演してあげると言っているの。カルメンとサロメ、面白いじゃない」
「してあげる」その言い回しが気に入らないとでも言うふうに、アランは多少嫌味っぽく繰り返した。「うちの役者は君と共演したいと言ってる」
その瞬間、クローディアは誰が見ても分かるほど、あからさまに嫌そうな顔をした。その様子を目の当たりにして苦笑いを浮かべる希佐を横目に一瞥し、クローディアは大きく息を吐く。
「ええ、いいわ。認めるわよ。何を隠そう、わたしはKISAの大ファンなの。同じステージの上に立って共演できるなんて、本当に光栄よ。だから、どうかお願い、わたしも一緒にステージに立たせてちょうだい」
それはまるでオペラの一幕のような、悪く言えば決められた台詞を、ただ並べ立てているような物言いだった。だが、アランはそれで満足したようだ。
「まあ、いいんじゃないの」
アランは、温かくも冷たくもない言葉を残し、劇場の方へと歩いて行った。周囲からくすくすと笑う声が聞こえてくると、クローディアは酷い屈辱を受けたとでもいうふうな面持ちで、どかどかと荒々しい足取りで階段を上がってくる。
「あの男、少しは丸くなったと思っていたのに、ああいうところは本当に昔から変わってないわ。意地が悪いったらない」
「そうか? 俺はあいつなりの優しさだと思ったけどな」
「一体どこが?」
しかし、バージルはそれには答えず、小さく肩をすくめるだけだ。アランを追いかけ、先に向かう。カオスの仲間がそれに続くと、他の者たちも続々と、希佐とクローディアを残して劇場へと入っていった。
「……ねえ、どうしてサロメなの?」
「え?」
「他にも選択肢はいくらでもあるはずなのに、どうしてサロメを──」
「私がお願いをしたからよ」
どこか思い詰めたような、切実そうにも聞こえるクローディアの言葉を遮ったのは、ルロワを引き連れて階段を上がってきたクロエだった。
「私が彼女にチャリティーで七つのヴェールの踊りを披露するように言ったの」
「それはなぜですか?」
「今から一年ほど前に、キサさんが──」ルロワからMiss.Kisaと呼ばれ、希佐は思わず、遠い昔のことにも、つい最近のことにも思える、アランとのやり取りを思い出していた。「フリンジの舞台でサロメを演じられたのです。私はその舞台で大変感銘を受け、以来彼女のファンになりました。そのときの舞台のお話をマダムにお聞かせしたところ、是非見てみたいとおっしゃって」
「だったら、個人的に踊ってほしいと頼めばいいだけの話ではないのですか?」
「あら、おかしいわね」クロエはそう言いながら、本当におかしそうに笑った。「あなたは、七つのヴェールの踊りを見せてほしいという、この子やアラン・ジンデルからの個人的な頼みを、お断りになったのでしょう?」
どの口が物を言っているのだと、愛想良く笑みを浮かべているはずのその目元から聞こえてくるようだった。クローディアはうっと言葉に詰まると、何も言い返すことができなくなる。
「あなたも舞台人なら分かるはずよね。舞台は観客がいて初めて完成する。歌姫の歌声は観客がいてこそ評価される。たった一人、風と砂埃が吹き荒れる荒野で歌っていたところで、あなたの美しい歌声は誰の耳にも届かないわ。観客の目に晒され、研磨されて初めて、美しく磨き上げられるの。あなたの歌声も、この子のダンスも、そうして真の輝きを手に入れるのよ」お分かりかしらと言いながら、クロエは階段を上がりきり、蠱惑的な表情で二人を振り返った。「チャリティーはお遊戯会じゃない。出演者の良し悪しで寄付金が増減する。お金集めって簡単じゃないのよ」
クロエ・ルーは慈善活動に熱心だ。だが、きっとそれは、自らの過去に起因しているのだろうと、希佐は思う。生まれたばかりの自らの子を置き去りにしてしまった、己の過去を悔いているからこそ、それぞれの事情を抱えた子供たちを救おうと活動をしているのかもしれない。
だが、例えそうだとしても、その行いがアラン・ジンデルの心を救ってくれることはないのだ。どれだけ献身的に慈善活動に勤しもうとも、クロエが身寄りのない子供たちに心を寄せれば寄せるほど、アランの心は離れていく。
希佐は不意に考えた。
この人は、アラン・ジンデルをどうしたいのだろう。
「さ、私はあの小憎らしいジンジャーヘアの坊やに口を挟みに行かなくちゃ」
二人はどこか通じ合っていると希佐は感じる。互いの考えていることが手に取るように分かるようだ。クロエはその感覚をもてあそび、アランはそれを面倒に、疎ましく思っている。
もし生まれたばかりの自分が母親に捨てられ、施設で育っていたとしたら、今、どのような人生を送っていただろう。演劇ごっこにも、ユニヴェールにも出会うことなく生きていたとしたら──幾重にもあったはずの可能性に思いを馳せると、こうしている今が何よりも貴重で、尊く、手放し難いものに思えてくるのだ。
立花希佐は馬鹿げた選択をしようとしている。
この成功を手放そうとするなんて。
そんなことは、誰に指摘されずとも、自分自身が一番よく分かっていた。
「先日、あなたのトスカを拝見しました。実に素晴らしかった」クロエの後ろを追いかけるようにして階段を上がってきたルロワが、クローディアを見上げ、魅力的に微笑みながら言った。「同校の卒業生として、卒業公演のサロメも」
「ありがとうございます」
「あなたのカルメンも楽しみです」
ルロワはそうとだけ言うと、希佐に思わせぶりな黙礼をしてから、劇場の方へと歩いていく。その背中を見やりながら、クローディアは大きくため息を吐いたかと思うと、自らも足を踏み出した。
「わたしたちも行きましょ」
「あ、はい」
「嫌味な人」
「え?」
「なんでもないわ」
劇場はオーディションを受けたときのように、椅子が壁際に寄せて詰まれ、広い空間が生まれていた。クローディアが窓辺へ向かうのを横目に見ながら、希佐は劇団カオスが集まっている方へと足を向けた。
宣言通りアラン・ジンデルと話し込んでいるクロエから少し距離を置いていた彼らは、希佐がやって来るのを見ると、思い思いの表情を向けてくる。
「あいつ、今度は何を企んでるんだ?」バージルは二人の方を見やりながら、聞こえるほどの声でうんざりしたように言った。「俺はあんなやつに好き勝手されたくねぇんだけどな」
バージルほどの嫌悪感はないにしても、ここに集まっている者の大半は、クロエの存在に疑問や違和感を覚えていることだろう。ノアに至っては、その目をビー玉のようにまん丸にし、ぽかんとした顔で二人のことを見ている。
「ねえ」不思議そうな顔のまま、ノアはこちらに視線を戻した。「あの二人って、どういう関係なの?」
それはただ単なる純粋な疑問だったのだろう。だが、その疑問は希佐の心を大きく動揺させた。その動揺を顔に出さないよう、平然とした自分を演じていると、傍にいたバージルが口を開く。
「今度の舞台の脚本家とプロデューサーだろ」
「どうしてわざわざこんな小規模なチャリティーイベントに口を挟んでくるわけ?」
「さあな」バージルは手近なところにあった椅子を引き寄せ、どっかりと腰を下ろした。「俺の知ったことか」
「……資金繰りじゃないかな」椅子の背もたれを支えに、軽くストレッチをしていたイライアスがそう言うと、バージルが眉間に皺を寄せるのが分かる。「あの人は、キサを使って資金繰りをしたいんだと思う。確証はないけど、その可能性は高い」
「気に入らねぇな」
「プレゼンテーションの代わりってこと?」ノアの言葉に、イライアスは小さく頷いた。「だったらそう言えばいいのに」
言葉が足りないところまで、良く似ている──そんな指摘をしたら、アランはきっと嫌な顔をするのだろう。
「お前はそれでいいのか?」
「えっ、私?」
「今のお前、あの女に言われるがままって感じで、らしくねぇぞ」
「そうかな」希佐がそう言いながら二人の方を見やれば、クロエに向けられていたアランの目がこちらに向けられ、正面から視線がぶつかった。。「私は私で、好き勝手にやらせてもらっていると思うよ。今、すごく楽しいし、いろいろ勉強させてもらっているし」
「……」バージルは希佐の真意を見定めようとするかのような眼差しを向けてから、諦めたように小さく息を吐いた。「頼むから、本当に無理だけはすんなよ。お前、本番が近づくと妙なスイッチが入るからな。さっきの嬢ちゃんも言ってたが、本番まではあと十日しかねぇんだ」
「分かってる。でも、私はこの数ヶ月で前よりもずっと体力がついたし、それに、出来ることも増えたと思うんだ。それを試したい」
「程々にな……なんて言ったって、お前は聞く耳を持たねぇんだろうけどさ」
「それ、さっきアランにも言われた。自分が無茶をしないように見張っている方が、私を説得するよりも簡単だって」
「それをすると労力が倍かかるんだ」
「だけど、全員まとめて面倒を見てくれるんでしょう?」
バージルは本番前になると特に、希佐の体調を心配してくれる。それは『God Only Knows』の公演数日前に無茶をさせ、過呼吸と貧血で倒れさせた経験があるからだ。だが、あの頃と今とでは、いろいろなことが少しずつ違ってきている。
「私、あの頃よりもずっと強くなったよ、バージル」そう言う希佐を、バージルはどこか唖然とした顔で見上げていた。「だから、大丈夫」
もう、初心者に毛が生えたようなタップダンスしか踊れなかった、お嬢ちゃんではない。まだまだ横に並ぶことはできないけれど、師匠から助言を求められるような弟子になれたから。だから、少しは認めてほしいのだと、希佐は思う。
「一丁前に生意気な口を利くようになりやがって」
座ったばかりの椅子からすっくと立ち上がったバージルは、希佐の頭を引き寄せると、腕の中でぐりぐりと頭を撫で回してくる。笑いながらもその腕の中から逃れようともがいていると、話を終えたらしいアランとクロエが、似たような呆れ顔を浮かべながらこちらにやって来た。
「あらあら、仲がおよろしいこと」指先で口元を覆い、青い目を三日月のように細めて、クロエは希佐を見る。「私にもそのくらい懐いて欲しいものだわ」
「えっ?」希佐はどのように応じればいいのか分からず、くしゃくしゃになった髪を整えながら、すっと佇まいを正した。「ぜ、善処します」
「冗談よ」ふふ、と笑ってから、でも、とクロエは言った。「もっと上手な切り返しの仕方を覚えなさい」
「はい、あの、頑張ります……」
ユニヴェールにいた頃の方が、上手くファンサービスをすることができていた。あれは、常に少年を演じていたからこその芸当だったのだろうか──そこまで考えて、希佐は今の自分が、自分以外の誰かを演じてはいないのだということを、不意に自覚する。それはあまりに当然のことで、自分は何者なのだという疑問を抱かずに生きてきた人々にとっては、考えもしないことだろう。だがしかし、希佐にとっては愕然とするような問題だった。
劇団カオスの立花希佐──それが、嘘偽りのない、今の自分自身なのだ。
そんな当たり前のことを、今更になって、受け入れている。
「キサ?」椅子の背もたれに掛けていた足を下ろし、イライアスが希佐の顔を覗き込んでくる。「どうしたの?」
「……ううん、何でもないよ」
人は、すべてが終わる瞬間に、最大の気づきを得るという。
自分も、すべてが終わるそのときに、何かを得ることができるのだろうか。
今はただ、その瞬間を楽しみにしたいと、希佐は思った。
「正直、こんなに希望者が多いとは思わなかった」アランが劇場を見渡しながら言う。「ざっと二十人くらいか」
「アタルとダンテも来るぜ」
手を挙げながら言うリオを見て、アランは分かっているというふうに小さく頷いた。
「じゃあ、そうだな」アランはメレディスから借りてきたタブレットの画面を見下ろしながら、無造作に頭を掻いている。「今からオーディションをして構成を決めようか」
「……オーディション?」
誰かが唖然としたように繰り返す言葉を聞き、アランはタブレットから顔を上げた。
「夜の部に関しては、参加者同士で話し合って、ある程度は好きにしていいと言われてる。それに、別にカオスが真ん中に立つ必要はないんだ。出来る人間を主体にした方が本番も盛り上がるだろ。君たちの士気も上がって一石二鳥だと思うけど」ざわざわとする人々を見回し、アランは軽く手を振ってそれを黙らせた。「あと十日しかないって言葉は聞き飽きた。無理だと思うなら出て行ってくれて構わない。あと十日もあると思える人だけ残ってくれ」
アランは冷たく言い放つが、その言葉を聞いて、不満を漏らしながら劇場を出ていく人間は、誰もいなかった。
「オーディションをするのはいいけどさ、今日来られなかった人はどうするの? 勝手に決めたら怒るんじゃない?」
「今回のミーティングに参加できなかった出演者には、メッセージを一斉送信しておく。本人がメッセージを見逃す可能性もあるから、共演を希望しそうな人には一両日中にオーディションを受けるよう伝えておいて。俺はヘスティアの閉店時間までここにいる。明日も午前中からここに来るつもりだから」
「オーディションって言ったって、厳密には何をしたらいいんだ?」
「何でもいい」どこからか上がる声に向かって、アランが答えた。「歌でも、ダンスでも、芝居でも。今回のイベントで披露する予定のものでも構わないし、それ以外のものでもいい。自分が一番自信のあるもので挑んでくれ。動画の撮影をして、情報は共有する」
「んで、誰が合否を決めるんだ?」
「全員で決める」アランはバージルを横目に見た。「投票制だ。もちろん、自分や仲間に投票しても構わない。結果によってステージの構成ががらりと変わるから、それについては投票後に考えよう」
まるで、そうすることが最初から決まっていたかのように、アランはそれぞれの疑問にするすると答えていく。もしかしたら、クロエと話をして決めたことなのかもしれない。希佐がそちらをやれば、クロエは少しだけ退屈そうに欠伸を漏らしてから、傍にいるルロワと内緒話をするように、耳打ちをしているのが見えた。
「ふうん」アランの説明を聞き終えたバージルは、面白そうににやりと笑い、物言いたげに希佐とイライアスのことを一瞥した。「じゃ、さっさとはじめようぜ」
どうやら、アランはバージルが言うところの、妙なスイッチというものを押してしまったのかもしれない。上等だとでもいうふうな不適な笑みは、絶好調のときのそれと酷似していた。
「シューズを持ってきて正解だったな」そうは言っているが、バージルは自らの商売道具を、ほぼ毎日肌身離さず持ち歩いていることを、希佐は知っている。「お前らはどうするんだ?」
「うーん、どうしようかな」希佐は顎に手を添えて首を傾げながら、イライアスを見た。「イライアスはどうする?」
「コンテンポラリー」イライアスは迷いもせずに言った。「アランが一番自信のあるもので挑むように言ったってことは、そうすることに意味があるんだと思うから」
自分にとって、一番自信があるものはと考えたとき、希佐がすぐに思いついたものは、歌劇だった。歌って、踊って、演じること。そのどれか一つではない。今はそのすべてが、希佐にとっての生きる意味だ。
立花希佐の強みは、この体を形作る女性だけではなく、男性も演じられるということだろう。少年を演じていたあの三年間を、押し潰されそうな罪悪感としてだけではなく、己を生かす強みとして捉えることができるようになるなんて、希佐自身は想像したこともなかった。
このウエスト・エンドで男役を演じていた頃は、それを自ら演じようとしていたわけではない。そうすることを求められていたから、最善を尽くそうと努力してきた。だが、今は違う。男性を演じたい。演じてみたい。
今の自分があの《青年》を演じたら、一体どんなふうに見えるのだろう。
そう思えば思うほど、心臓がドキドキして、心がワクワクして、脳がシュワッと弾けるような感覚を覚える。
希佐は気合を入れるように自らの頬を軽く張ると、短く息を吐いた。
「私、決めた」
「何をするの?」
「初心に帰る」
「……初心?」
立花希佐の歌劇人生は、ユニヴェール歌劇学校に入学し、少年を演じることからはじまった。一度終わりを迎えたかに思えたその人生は、このロンドンに辿り着き、青年を演じることで、こうして息を吹き返したのだ。
だから、初心に帰る。
人は変わることが出来る。
この数年でイライアスはその事実を痛感していた。自分自身もそうだ。この数年で大きく変化したと感じる。
踊るマネキンと呼ばれていた。だが、マネキンはいつしかエナメルの皮膚を脱ぎ捨て、感情を手に入れ、自由に舞うことを覚えた。東洋から来た女の子が、まるで魔法のように、踊るマネキンと言われた男を、呪いから解き放ってくれたからだ。
それでも、イライアスは身に染みて感じている。
自分には、まだ重要な何かが、圧倒的に足りていないのだと。
この女の子を、このロンドンで──このウエスト・エンドで、最も美しく魅せることができるのは、自分自身だと自負している。しかし、どうやらそれだけでは駄目らしいと理解したのは、希佐とアラン・ジンデルが未だ不恰好ながらも、互いの意見をぶつけ合いながら稽古している姿を眺めているときだった。
「ストップ、ストップ」
音楽は続いているのに、希佐は途中で踊るのをやめ、目の前にいるアランを少し怒ったような顔をして見上げていた。
せっかく良い流れだったのに、どうしてやめてしまったのだろうとイライアスが不思議に思っていると、この話し合いは長くなりそうだと判断したのか、二人のダンスを見ていたルイが、こちらに引き上げてくる。
「これはもうずっと言ってることだけど」ルイはヨガマットの上でストレッチをしているイライアスの隣に椅子を引きずってくると、そこに腰を下ろした。「私に遠慮するのはやめて」
「俺は君の体に合わせて踊ってる」
「その必要はないと言っているの」
「俺と君の身長差は二十センチあるんだ」
「たかだか手の平一つ分でしょう?」
「俺がそのたかだか手の平一つ分深く踏み込んだら、君は自力で体を支えられなくなる」
「私はアランより体幹が強いから大丈夫」希佐のその物言いに、アランは微かにむっとしたような面持ちを浮かべていた。「ここは、アランがもっと深く踏み込んで来てくれた方が、ずっと美しく見えるはずなんだ。だから、試しに一度やってみようよ」
二人のやり取りを呆然と眺めていると、隣に座っていたルイが不意に笑った。
『いやあ、若いねぇ』ルイがフランス語で独り言ちた。『彼らを見ていると、妻とのことを思い出すなぁ』
『引退されるそうですね』
『なんだ、もう知っているんだね』
『ロイヤルバレエ団の知り合いから聞きました』
『子供が欲しいと言われたんだ』二人を見守るルイの横顔がほんの少しだけ、寂しさを孕んだように見えた。『もうそのつもりはないのだと思っていたよ。私もそのつもりで生きていこうと思っていたところだった』
『舞台復帰をされるつもりはないんですか』
『もし子供ができたら、その子には悲しい思いをさせたくないからと言っていたよ。彼女のご両親は共にバレエダンサーで、自分の子供のことよりも舞台を優先させる人たちだった。だから、彼女は祖父母に育てられたようなものでね。子供の頃は、舞台に立つ両親が自慢でもあったけど、それでも、もっと一緒に過ごしたかったという思いは、今になっても消えないそうだ』
ほんの一瞬、イライアスの脳裏に、自身の母親の姿がよぎった。
母親がどうして舞台復帰をしなかったのか、その理由を訊ねてみたことはなかった。だが、完璧主義の母親は、きっと許せなかったのだろうとイライアスは思う。
この太りやすい体質は母親譲りのものだ。母親はいくら努力をしても自らの体型が戻らないことに苛立っていた。そのストレスで過食をし、太れば食べることをやめ、更にストレスを溜めるという悪循環に陥っていた。産後の骨盤の歪みが戻らず、思うように踊れなくなっていたことも、原因の一つだったのかもしれない。
バレエを諦めることができていれば、母は幸せになれたのだろうか。
ルイのパートナーのように、子供のためを思うことができていれば、苦しまずにすんだのだろうか。
『……タイプの違うダンサーは、対話でお互いの考えを擦り合わせるしかない』急に黙り込んでしまったイライアスを見て何かを察したのか、ルイは努めて明るい口振りでそう言った。『あの二人はよくやっているよ』
自分にはあの母親と同じ血が流れている。それがときどき酷く恐ろしく感じられることがある。だからこそ、自分は感情を押し殺そうとしていたのではないかと、イライアスは思うのだ。もしたがが外れ、自分の感情をコントロールすることができなくなれば、母親のようになってしまうのではないかと怯えている。
田中右宙為は言った。この先のことを考えたとき、希佐を変えるか、自分が変わるかしなければ、絶対にうまくはいかないと。
イライアスは希佐を変えようとは思わない。だが、今以上に自分を変える術を、イライアスはまだ持ち合わせていない。
音楽が鳴る。くるくると踊る。その最中、希佐の背中に軽く手を添えているだけのアランが、骨盤ごと押しやるように踏み込むと、希佐がその足に合わせて大きく身を引いた。二十センチ──いや、手の平一つ分以上の距離だ。しかしながら、希佐は倒れるどころか、その不安定な状態でぴたりと静止し、鏡を見ている。
「ほら、見て」
「俺が支えてるんだけど」
「そうだよ」希佐は鏡に向けていた顔を、目と鼻の先に迫っているアランに向けた。「私一人では踊れないもの」
そう言って笑う希佐は、あまりに美しかった。自分の腕の中で踊っているときよりもずっと、美しく見えた。その瞬間、イライアスは何とも形容し難い感情が胃を反転させるような、気持ちの悪さを覚える。そして、鏡越しにアラン・ジンデルと目が合った刹那、自覚した。これが、嫉妬なのだと。
だが、それがどうしたというのか。至極当然のことではないか。希佐が最も美しく華やぐのは、いつだってアランの隣にいるときなのだ。憧れている二人が共に踊る姿は、今のイライアスにとって、これ以上ない刺激となっている。
劇団カオスの舞台『God Only Knows』から、イライアスの舞台人生は大きく転換した。舞台人としての評価が一変した。積極的にオーディションを受けるようになり、可能な限りオファーにも応えるようになった。面倒なプロモーションにも、インタビューにも、テレビの番組出演にも応じる機会が増えた。
人は変わる。
人が変われば、それを見る人の目も変わってくる。
まるで若者のアイコンのように扱われるたびに嫌気が差しても、あのスタジオに戻れば、自分はただの劇団カオスのイライアスで、その事実が荒みかけた心をそっと温かく包み込んでくれた。
分かっている。いや、分かったのだ。
二人が踊る姿を見ていて、それがはっきりと。
イライアスは常に、いかにしてこのパートナーを美しく輝かせるかを考えている。自分のことなど二の次にして。希佐はまるで、そうしたイライアスの意図を汲んでいるかのように、多くは語らず、求められるがままに踊ってくれた。美しくあろうとしてくれた。
稀に、舞台の本番前、頭の中で何かが弾けることがある。『God Only Knows』のときがそれだった。
だが、その前にも何度か、この現象に見舞われたことがある。他のことなどどうでもよくなって、ただ、負けたくないという強い思いが先行し、闘争心が剥き出しになる。
以前、それで崩壊しかけた舞台があった。フランシス・ルロワが言っていたのは、その舞台のことだ。主役を食った脇役──あのフリンジの舞台後、主役は自身の才能に自信を持てなくなり、役者を辞めた。以来、連絡を取り合ってもいない。
彼は仲の良い役者だった。アイリーンが珍しいと言うほどに。それなのに、イライアスは才能ある友人の未来を奪ったのだ。
もしかしたら『God Only Knows』の舞台でも同じことが起きていたかもしれないと思うと、心底ぞっとする。だが、そうはならなかった。希佐はイライアスの想像を遥かに超えた舞台人だった。本気の自分に打ち勝ってくれた。
それでもまだ、恐れている。
だからこそ、遠慮をしてしまう。
失いたくないあまりに、本気を出せずにいる。
「準備ができた人から──」
アランが言い終えるよりも早く、希佐が足を一歩前に踏み出した。思わずというふうに口を噤んだアランは、希佐の姿を真正面から捉え、なぜかその表情を和らげる。
「──いや、うちの役者からはじめよう。他は舞台を横目に見ながら、各々準備を進めて」
アランの前まで進み出た希佐は、落ち着いた様子で何事かを話していた。
「あなたはいつもキサのことを見ているのね」いつの間にかすぐ側にまでやって来ていたクロエ・ルーが、そう声を掛けてくる。「それとも、今見ていたのはアラン・ジンデルの方だったかしら」
「両方です」
イライアスが正直に言うと、クロエは意外そうにこちらを見てから、ふふ、と笑った。
「二人を好きなのね」
「はい」
「だから身を引くの?」
この人は何を考えているのか分からないところがある。本心を隠すのがうまいのだろう。だがしかし、自分は今、間違いなく挑発されているのだということを、イライアスは敏感に感じ取っていた。
「あなたはあの子と良く似ているわ」
「……あの子?」
「赤毛の坊や」クロエは形良く尖った顎をしゃくり、アランを指した。「ポテンシャルで言えば、あなたの方がずっと上じゃない? あなたはまだまだ若いのだし、伸び代だってある。諦めるには早すぎると思うけれど」
「興味がないんです」
「本当に?」
「彼女と恋愛をしたいと思ったことはありません」
「そう」クロエは微笑みを浮かべながらそう言うと、その青い目を希佐とアランの方に向けた。「でも、あなたは興味がないのではなくて、興味を失うのが怖いのね」
イライアスはその言葉の意味を図りかね、思わず眉を顰める。すると、イライアスの顔を横目に一瞥したクロエは、言葉を続けた。
「あなたにとってあの二人は得体の知れない存在なのよ。これはあなたに限らず、大勢の人間が思っていることなのかもしれないわね。人間は得体の知れない──言うなれば、ミステリアスな存在に心惹かれるものだから。あなただってそうよ、氷の王子様。多くの秘密を抱えている者ほど、魅力的な人間はいないもの」
クロエの横顔越しに、バージルと目が合った。その眼差しは厳しく、睨むようで、普段のお気楽な様子からは程遠い。バージルが誰かに対してここまでの嫌悪感を剥き出しにするのは珍しいことだ。少なくともイライアスは見たことがなかった。
「得体が知れないから、目を逸せないの。秘密があるから、その人のことをもっと知りたいと思うのよ。でも、その人の底が知れてしまったら最後、あっという間に関心を失くしてしまう」
「僕がそうだと?」
「分からないわ」クロエの口振りは明るい。「だからこそ、怖いのよ」
希佐のことを好きだと思う。だが、恋人になりたいとも、添い遂げたいとも思わないのだ。この好きだという気持ちも、一般的な恋愛感情とは、根本的に違っているのかもしれない。
「誰かを本気で愛したことのない人間に、舞台上で自らの愛情を表現することができるのかしら」クロエの顔から、す、と表情が消えた。「でも、そんなあなただから、あの役を任せられるような気もするの」
「え?」
「難しい問題よね」
表情が消えたと感じた顔には、次の瞬間、美しい笑みが浮かんでいる。どんな人間でも一瞬で虜になってしまいそいうな、魅力的な微笑なのだろう。だが、イライアスの目が奪われることはない。
この人からは、自分と同じ匂いを感じるのだ。
命を吹き込まれた、マネキン。
感情を与えられ、ようやく、人間以上に人間らしく、魅力的な人間を演じることができるようになった。
「あの女に気に入られても碌なことないぞ」またね、と言って離れていったクロエと立ち替わりに、バージルが歩み寄ってくる。「あの二人はもう手遅れだけど、お前は近寄って来られたら、全力疾走で逃げろ」
「綺麗な人だと思う」でも、と言うイライアスの眼差しは真っ直ぐに、希佐にだけ向けられていた。「僕には、ただそれだけ」
その言葉がブーメランのように返ってきて、自分の心に突き刺さる。
イライアスは自らの外見を客観的に把握していた。この世界の大多数はこの容姿を好ましいものと考えている。美しいと評価している。だが、ただそれだけだ。容姿の美しい人間はごまんといる。
自分やクロエ・ルーのような存在は、自らをプロデュースし、人前に立つ。こうあるべきという理想の泉に身を沈め、体にまとわりつく水を感じながら、もがくように手足を動かすしかない。本当の自分はどこか別の場所にいて、そんな自分のことを滑稽だと思いながら、冷めた眼差しを向けている。
この小劇場の舞台に立つアラン・ジンデルを初めて見たとき、こういう人が本物と呼ばれるのだろうと思った。大人の言葉に従って舞台に立ち、言われるがままに踊っていた自分とはあまりに違う。
もっと大きな舞台、豪奢な装飾、煌びやかな衣装を着て、舞い踊っていた。それなのに、この小劇場の小さな舞台の方が、ずっと魅力的で、心惹かれたのだ。
呆然と舞台を見上げていた。手を伸ばせば演者に触れられるのではないかという距離感が、幼いイライアスの心をドキドキさせた。
そんな最中、不意に、目が合った。
青白い顔の美しい赤毛の少年は、イライアスを見て、にっこりと笑った。
舞台が終わった帰り道、アイリーンはタクシーの中で、アラン・ジンデルが自分に向かって微笑みかけてくれたと言って、大喜びをしていた。イライアスは「よかったね」と言いながら、あの美しい微笑みを思い出していた。
血肉が通っていた。
あの日の少年が、今もまだ、イライアスの心の片隅に住み着いている。
「ノア」話を終えた希佐が舞台の方へ向かうと、アランは隅の方で手持ち無沙汰にしていたノアに声を掛けた。「録画頼めるか」
「オッケー」
アランが差し出す小さなカメラを受け取り、ノアは慣れた様子で設定を行なっている。床に座り込んでいたジェレマイアはその場に立ち上がると、先程までバージルが座っていた椅子を担ぎ、アランが指し示す場所まで運んでいた。
「ジェレマイア」
緞帳が上がっている舞台にのぼり、袖に姿を消した希佐が、困ったような表情を浮かべ、ひょっこりと顔を覗かせた。名指しされたジェレマイアは、不思議そうな顔をして舞台袖を見やった。
「ん? どうした?」
「音出し、手伝ってもらってもいいかな」
「おう、いいぜ」
「ありがとう」
イライアスは、何かを迷うことに時間を割くくらいなら、さっさと思考を切り替えて、代替案を考える方が堅実だと思っていた。その方が大概うまくいく上に、周囲に迷惑を掛けることも少ないからだ。
だから、希佐やアランのように、長い時間を掛けて物事を考え込み、最悪の状態に陥ったまま延々とその場所から抜けられず、周りを巻き込みながら悶々としているのを見て、非生産的だと思うこともあった。
だが、二人は一度覚悟を決めてしまえば、あとはただ、真っ直ぐに前を向いて走り出す。物凄い速さで、周囲の人間を追い抜いていく。十歩も、百歩も、千歩も遅れていた距離を、それこそあっという間に。
うかうかしている時間はない。いつものように二人を追いかけなければ、このまま置いていかれてしまう──イライアスはそう思うのに、あれだけ嫌っていた時間の無駄を、何となく許容してしまっている。
プライドを捨てきれないのだ。
舞台の上で己を曝け出すことができない。
もう一段階、更に変わることができたなら、何かを掴めそうな気がしているのに。
そのとき、どたどたという騒がしい足音と共に、二人の男が劇場内に駆け込んできた。呼吸を乱しているのを見るに、大急ぎで駆けてきたようだ。希佐の日本の友人、加斎中とダンテ軍平だった。
「よかったですね、アタル。間に合ったようですよ」
「あっつー」
「アタル、ダンテ」窓際でストレッチをしていたリオが、二人に向かって手を挙げた。「その様子じゃ、ウォームアップの必要はなさそうだな」
「道が混んでたから、途中でタクシーを降りて、ここまで走って来たんだ」
「ああ、事故があったらしいな」
リオとダンテが話をしている傍では、加斎が何かを探すように、劇場内に視線を巡らせていた。その様子に気づいたリオが、ああ、と声を上げる。
「キサなら袖に入ったぞ」
「何をするって?」
「さあ」
希佐は初心に帰ると言っていた。希佐が言う初心とは、恐らく、日本のユニヴェールのことなのだろう。希佐の歌劇人生の始まりを迎えた場所だ。イギリスのビザを申請するにあたり、必要だった資料映像を見せてもらったが、学生だけで演じているとは思えない、商業レベルの舞台公演だった。年五回の公演を、三年間──希佐はいつだってその舞台の中心にいた。
日本にいる立花希佐に関わりある人々は、彼女の失踪を嘆いたことだろう。悲しみと同時に、困惑や、憤りを覚えたのかもしれない。だが、イライアスは希佐と出会えたことを幸運に思っている。日本にいる人々の不幸の上に、自分たちの幸いがある。
この女の子に出会えてよかった。
日本にいる人々には申し訳なく思うけれど。
ジジジジジジ──。
目覚まし時計のアラームのような音が、スピーカーから溢れ出てくる。イライアスがその大きな音に驚き、肩を震わせた次の瞬間、ばちん、という音と共に舞台の明かりが点けられ、アラームが止まった。
「あーあ、目覚め最悪」大きく欠伸を漏らし、長い髪を乱雑に結えながら、不機嫌そうな希佐が舞台上に現れた。「何日も音沙汰がなかったエージェントから、急に連絡が来たと思ったら、オーディションを受けて来いだってさ。ったく、当日の朝に連絡してくるやつがどこにいるんだよ」
舞台を見る者の目が呆然としていた。イライアスもその例に漏れない。希佐は──その青年は、間違いなく『God Only Knows』の、あの青年だった。
「今日の天気は──っと」
何もないはずの足元に爪先を引っ掛け、希佐は本当に転びそうな演技をした。顔から床に衝突するかと思いきや、寸前のところで体を引き起こし、おっとっと、と漏らしながら、勢い余って数歩前に進む。
希佐の演技によって、ないものが見える。がらんどうとしている舞台上に、見えない小道具が並べられていく。ベッド、テーブル、ソファ、クッション、積み上げられた雑誌の山、窓のブラインド──青年は舞台上を散々探し回った挙句、出窓のところでテレビのリモコンを見つけた。
「朝は雨、昼も雨、夜も雨」青年は天気予報を見て、はあ、とため息を吐く。「よりによって一日中雨か」
今や誰もがただの観客に成り果てていた。準備の手を止め、身動きも取らず、舞台に見入ってしまっている。
希佐はまた少しの間即興劇を続けてから、舞台袖に向かって軽く目配せを送った。すると、聞こえてきたメロディーは“Sparkle”──God Only Knowsで開幕と同時に青年が歌い踊る一曲だった。
あのときの感情が、イライアスの中に、一瞬にして蘇ってくる。血潮がぐつぐつと煮えたぎり、指先がビリビリと痺れるような感覚。心臓の鼓動が速くなって、呼吸が浅くなる。握り締めた手の平にはじわりと汗が滲んでいた。
だからイライアスは、努めてゆっくりと、深呼吸をする。
「……すげー」
誰のものかも分からない感嘆の声聞こえてきた。そうだ、希佐は、本当にすごい。
こんなふうに自分をぞくぞくさせてくれるのは、アランと希佐くらいのものだと、イライアスは思った。
女性だった面影など一切感じさせない青年がそこにいた。だが、あのときの青年とは、何もかもが違う。
「あいつ、うまくなったな」感慨深そうに言うバージルの言葉に、イライアスは小さく頷いた。「ま、そりゃそうか。寝ても覚めても、舞台、稽古、舞台、稽古──当然の結果だろうよ」
イライアスは踊る以外のことを知らなかった。いつの間にか、踊ることと生きることが同義になっていた。だから、寝ても覚めても踊ることばかりで、自分にはそれ以外には何もないのだと、そう思うようになっていった。
自分から踊ることを取り上げたら、もう何も残らない。
ただの抜け殻になってしまう。
きっと、希佐もそのように思っているのだろうと、イライアスは感じている。
立花希佐から舞台を取り上げたら、どうなるのだろう。踊ること、歌うこと、演じることを取り上げてしまったら──そこまで考えて、急に恐ろしくなる。
『あなたは興味がないのではなくて、興味を失うのが怖いのね』
不意に、つい先程聞いたばかりの、クロエ・ルーの言葉がよみがえってきた。
だが、舞台を降りたアラン・ジンデルから興味を失うことがなかったように、希佐に対する興味だって、なくしようがない。そう思うのに、イライアスの心は不安定に揺れ動く。
だって、立花希佐という舞台人は、こんなにもこの目を惹きつけてやまないのだ。
彼女よりもうまく踊れる人はいる。もっと歌える人もいる。それでも、こんなにも命の火を燃やしながら、自分が一番だ、他の誰でもなくただ自分を見てくれと、光り輝く人を他に知らない。
かつてのアラン・ジンデルがそうであったように。
「ほんと」イライアスを横目に一瞥したバージルが、呆れたように笑った。「お前を焚きつけることに関しては、あいつの右に出る者はいねぇんだろうな」
体がうずうずとしている。今、踊りたくてたまらない。自分の方がずっとうまく踊れるのに、あの子の方が観衆の視線を奪っていることが、どうしても許せなかった。
音楽が終わる。当然のように拍手はない。歯軋りが聞こえてきそうな沈黙だ。舞台の真ん中には一人の青年。三年前に見たときよりも、昔の自分によく似ていると、アランは思う。他者になど目もくれず、自分が一番で、舞台の上にいるときだけは、自由を謳歌することができた。目を閉じ、耳を塞ぐ前の、あの頃の自分。今思えば、変に自信家で、生意気なやつだった。
“Sparkle”──キラキラと輝き、火花を散らすような。絶望の一歩手前、最も輝く瞬間の姿。スポットライトに照らし出された影の部分。
三年前、希佐が演じた青年には、まだ荒削りな、若さ故の勢いのようなものがあった。だが、あのときとは違うと、確かに分かる。この三年間の成果が確実に現れている。ダンスには自らでアレンジを加え、歌声はより力強く。
女性が男性を演じているようには見えない。
青年が、そこにいる。
「『God Only Knows』の青年を演じたいのだけれど、いいかな」覚悟の決まった顔をして近づいて来たかと思えば、希佐はアランに向かってそう言った。「初心に帰りたいと思って」
「ユニヴェールは?」
「ロンドンでの原点はあの舞台だから」
「そう」
終わりを目前にした、原点回帰。
そうか──アランは心の中で深呼吸をしてから、のんびりと口を開いた。
「いいんじゃないの。男役は君の真骨頂だ」
「ちゃんと見ててくれる?」
「もちろん」
見てろと言われずとも、片時も目を逸らすことは出来なかったに違いない。
希佐が演じ、歌い、舞う姿には、共に過ごしてきた日々のすべてが感じられた。病めるときも、健やかなるときも、傍にいた。心が離れかけていたときでさえ、いつも近くに感じていた。きっとその感覚は、この先の人生でも、密やかに感じ続けるのだろう。
希佐は、音楽が止んでも、舞台を降りようとはしなかった。ただ一人の男だけを見つめ、青年そのものの顔で、挑発するように片頬を吊り上げて笑っている。
まるで、かかって来いよ、とでも言うふうに。
イライアスは睨むような目で希佐を見やりながら上着を脱ぎ捨てた。履いていた靴を放り投げ、首と肩を回しながら舞台に向かって歩き出す。
「次は君の番だ、バージル」
「お前はどうするんだよ」
「俺はヘスティアの王から直々に出演を依頼されてる」
「不公平だねぇ」
舞台上に立ったイライアスに向かって、青年は握手を求めるように、ゆっくりと手を差し出した。
三年前の舞台上では、イライアスから希佐に向かって、その手が差し出された。そして、ノアとジェレマイアの説得の甲斐もなく、本気のダンスで希佐に向かっていったのだ。あれは、イライアスから希佐への挑戦状だった。だが、今回は、希佐からイライアスに送られた挑戦状だ。
「イライアスは私に遠慮があるんだ」ある日の稽古後、二人でストレッチをしていると、希佐が何の気なしにそう口にしたことがあった。「多分、私も彼に遠慮してる」
「なんでそう思うの」
「前に、スペンサーさんが私とイライアスに、キスをするように求めたことがあったでしょう?」アランが頷くと、希佐は先を続けた。「あのときは照れがあるんだろうなって思ってた。アプローチシーンの経験は、あまりなかったと話していたから。でも、本当はそうじゃない。イライアスは私に対して、まだそこまで本気にはなれていないんだと思う。私の実力がイライアスに追いついていないから、自分のレベルを私に合わせてくれてる。ほら、覚えているでしょう? God Only Knowsの本番で、イライアスは私に本気でぶつかって来てくれた。でも、イライアスが私に本気で向かってきてくれたのは、あれが最初で最後だった」
競技ダンスを題材とした舞台を作り上げたときも、イライアスはいかにして希佐を美しく見せるかに重きを置いていた。競技ダンスの世界ではリーダーが第一だが、舞台の演出上、パートナーである希佐を目立たせる必要があった。
希佐はイライアスに手を差し伸べて、一緒に行こうと誘い出そうとする。だが、イライアスはその度に、両手を後ろ手に隠してしまうのだ。そういうとき、希佐は決して深追いをしない。今までずっと、そうしてイライアスの思いを尊重してきた。
「ルイとイライアスの稽古を見学させてもらっているとね、思うんだ。次元が違うって」
「君と彼らとでは培ってきたものが違う」
「うん」希佐は神妙な顔をして頷いた。「でも、私、自分はもっと出来るはずだって思う。私はもっと頑張れる」
少し前の自分なら、そんなに頑張る必要はないと言って、水を差していただろうとアランは思う。希佐が誰よりも努力し、邁進している姿を、ずっと見てきた。これ以上頑張り続けてしまったら、本当に体を壊すのではないかと、日々心配するほどに。
だが、これが最後だと思い込んでいる君には、何を言っても無駄なのだと、アランは既に悟っている。
「イライアスの本気、引き出してみせるよ」
舞台上の熱は伝染する。次から次へと、人々の体に熱を纏わせ、心をたぎらせることがある。その熱はいずれ客席にも伝わり、会場全体が同じ温度感になったとき、すべての人々が物語の中に溶け込んで、終わりに向かって駆けていく。そうなってしまうと、この歩みはもう誰にも止められない。
劇団カオスで踊るダンスは、主にバージルとイライアスで振り付けていた。初期の頃は、アランもその役目を担っていたが、その必要がなくなり、徐々に口を挟まなくなっていった。
コンテンポラリーはイライアスの得意分野だ。アランは完成した曲を渡し、タイトルだけを告げると、あとは自由に振り付けをさせた。踊りたいように踊らせた。その方が、イライアスの才能を活かすことができたからだ。
イライアスの振り付けは現代アートみたいに難解だと、ノアは言う。自分のような常人には理解できないと言って、座学で説明するように求めたこともあった。だが、耳で聞こえた音を拾い、その音に導かれて踊る人間に、ダンスを口頭で説明するなど到底無理な話だった。
しかしながら、立花希佐は、イライアスの振り付けを瞬時に覚え、瞬く間に理解を深めていった。イライアス本人にすら言語化することのできない感情を言葉にし、一つ一つの動きを、丁寧に真似、自らの中に落とし込んでいった。
イライアスは、ついに理解者を得たと歓喜したに違いない。
二人が『God Only Knows』の劇中のオーデイションで競うように踊った”message”は、カオスでイライアスが振り付けを担うようになって、初めて他人からの意見を聞き入れ、それを受け止めながら仕上げた作品だ。
イライアスは希佐に日本舞踊を舞うように求め、希佐はそれに応じた。その舞に触発されたのだろう、イライアスは自らで考えた振り付けをすべて捨て、明日までに振り付けを考え直してくると、そう言ったのだ。自分を曲げることを知らなかったイライアスが、ほんの少し前に出会ったばかりの人間のために振り付けを変えるなど、当時は考えられないことだった。
再び音楽がはじまる。当時のように競うようにして踊る。互いが互いを意識し合っている。あの頃は付いていくだけで精一杯だった希佐のダンスは、格段に良くなっていた。それは、バージルやイライアスと共に踊ってきたこの三年間の積み重ねと、ここ最近のルイの指導の賜物なのだろう。
イライアスのダンスはルイと同様に重力を感じさせない。
ルイからダンスを学べると知ったとき、その目をキラキラと輝かせ、興奮したように頬を赤らめて、見るからに嬉しそうにしていたことを覚えている。自分と同じダンススタイルを持つ憧れの人に師事できるというのは、彼にとって至上の喜びだったようだ。
「あーあ、もったいねぇよな」その場で屈伸をしながら、バージルがわざとらしい独り言を漏らす。「あれが舞台を辞めるなんて思ってるやつの顔かよ」
「そう思うなら君が引き止めてやれば」
「あいつが俺の言うことを聞くと思うか?」バージルの横目がアランの横顔に突き刺さる。「この俺が手塩にかけて育てたってのに」
「恩着せがましいな」
「そりゃ恩着せがましくもなるってもんだろ」
立花希佐はバージルにとっても手放し難い才能なのだ。出来ることなら、このままイギリスに残り、舞台に立ち続けてほしいと願っている。
きっと、誰もがすべからず、そう願わずにはいられない。彼女を好いている者も、そうではない者も、バージルと同じように、もったいないと口を揃えて然るべき存在なのだ。
希佐が手放そうとしているものは、それほどまでに人々を惹きつけてやまない、稀有なものなのだから。喉から手が出るほどほしがる人間は、それこそ大勢いる。
希佐は少しの間、イライアスと一緒に踊っていたが、すぐに舞台を明け渡した。イライアスは舞台を降りていく希佐に一瞥をくれるが、音楽に身を任せ、そのまま踊り続けている。
「キサ」
「ん?」
「靴、履き替えておけよ」肩で息をしながら、えっ? と言う希佐を横目に、バージルはにやりと笑った。「あの舞台の見せ場はタップダンスだろうが」
希佐は無言のまま呼吸を整えていたが、うん、と笑いながら頷くと、すぐに靴を履き替えに向かった。椅子に座り、リュックの中からタップシューズを取り出しながら、舞台で踊るイライアスを嬉しそうに眺めている。
あと少し。
あともう少しで、この役者は本物になる。
だが、そのためには、舞台上で自分を捨てる覚悟を決めなくてはならない。恥も外聞もかなぐり捨てて、自分自身と向き合わなければならない。
舞台を降りるか、立ち続けるのかを決められるのは、自分一人だけだ。
立ち続けることを選ぶのならば、いくらでもその場所を用意しよう。小高い舞台と千のスポットライト、煌びやかな衣装に、満員の客席──そのために自分がいるのだと、舞台上で踊る弟子の姿を見ながら、アランは思っていた。
「……ああ」
悔しいな──加斎中は、素直にそう思う。
ユニヴェール歌劇学校ではいつもその背中を追いかけていた。今公演こそはと意気込んでみても、立花希佐の名前はいつだって金色の星の下に輝き、加斎中は次点かその下、銅賞が関の山だった。自分がユニヴェールに在籍していた三年間の内に、オニキスがクラス優勝を獲得出来なかったことを思い出すたびに、悔しいような、切ないような感情が呼び起こされる。
いつか、どこかで。
常にそうした思いがあった。何の前触れもなく、78期の卒業式を待たずに姿を消してしまった立花希佐と、またいつか、どこかで再会したい。
再会を果たす頃には、ブロードウェイで主役を張るようになっていて、そこそこ名前も知られ、次々と舞台に立ち、トニー賞を受賞するような役者になっている──そんなふうになっていたら最高だったけれど、現実は厳しい。世界は広く、自分よりも才能ある人は大勢いるのだという現実を、改めて思い知らされていた。
だが、ユニヴェール時代に立花希佐という存在に巡り合っていたことで、才能のおもちゃ箱のようなニューヨークで暮らしていても、挫折に心を折られることはなかった。上には上がいる。自分はまだまだ上を目指せると自らを鼓舞し、日々努力を積み重ねていれば、絶対に報われる日が来ると、加斎は信じていた。
本当は、こんなふうに思いたくない。そんなふうに思ってしまった時点で、負けを認めたことになる。だから、本当は、決して口には出したくないのだ。それでも、この唇をからこぼれ落ちるのは、称賛の言葉で。
「本当にすごいな、立花は」隣にいるダンテが、加斎を見下ろす。「敵わないよ」
ユニヴェールを卒業してからの五年間、日本で活動する同期たちの多くは、それなりの成功を収めている。だが、海外に進出した者の多くは、成功の足掛かりを手にすることができず、ひっそりと表舞台から姿を消していた。
確かに、ユニヴェールには才能の原石が集められていたが、世界中の才能が集結しているブロードウェイでは、まるで自分が道端に転がる石のような、凡庸な存在なのではないかと。日本では突出していたはずの才能が、一歩世界に出てみれば、至って平均的な器量でしかなかったことを、思い知らされる。
それでも、日本でやり直せる者はいい。変なプライドに邪魔をされ、海外での挫折を引きずったまま帰国した者は、表舞台への未練を引きずったまま、舞台から遠く離れた場所で生きていくことを選択せざるを得ない。
自分は運が良い方だと、加斎は思う。
海外で暮らしていた経験が生かされていると感じることは多かった。日本とはまるで違う文化、生活、人との距離感や、言語──結局、言葉の壁に阻まれて、舞台から離れてしまう者がいることも、加斎は知っている。
加斎は最初から、ユニヴェール卒業後の海外進出を見据え、入念な準備を行なっていた。それなりに勉強はしていたし、様々なネットコミュニティーに顔を出し、情報収集も怠らなかった。そこで築いた人間関係が、後々になって加斎を助けてくれたこともある。
住み慣れない海外で、舞台人として生きていくことは、決して楽ではない。特に東洋人にとっては狭き門だ。舞台に起用するだけの価値があると思わせることができなければ、東洋人が選ばれる可能性は極めて低い。英語の発音が悪いだけで、辛口の評論家に「あの役者の台詞は聞き取れない、国に帰れ」などと雑誌に書かれる始末だ。
評判の悪い舞台は一週間も経たないうちにクローズされる。名前も顔も知られておらず、目立った実績もないほぼ新人の東洋人を、ウエスト・エンドの商業の舞台で主役に据える──それがどれほどの冒険で、挑戦で、一か八かの賭けに出ているのか、同じ東洋人としてブロードウェイで活動してきた加斎には、よく分かるのだ。
本当は主演を勝ち取りたくて、死に物狂いでオーディションを受けた。だが、稽古の疲れが抜けないまま向かった最終審査で、呆気なく落ちた。未だかつてないほど重たく感じられる体を、引きずるようにして歩きながら、オーディション会場を後にしようとしたとき、スペンサー・ロローに呼び止められたのだ。
「君にチャンスをあげるよ、アタル」
「……チャンス?」
「準主役が怪我で役を降りたんだ。君の背格好とダンススタイルが彼とよく似ている。彼の代わりでもよければ──」
「やります!」
スペンサーが最後まで言い終えるよりも早く、加斎は即答していた。考えるまでもないことだった。こんなチャンスは、もう二度と巡ってはこないかもしれない。誰かの代わりでも構わない。絶対に認めさせてみせる。それだけの実力と才能が自分にはあるのだと、証明してみせる。
「その役、俺にやらせてください」スペンサーの目を真っ直ぐに見据え、加斎は言い切った。「絶対に後悔はさせません」
「今日中にエージェントから連絡が行くはずだ」スペンサーはそう言いながら加斎に背を向けると、後ろ手をひらりと振って戻っていった。「明日からよろしく頼むよ」
ブロードウェイは甘くない。これまでは、イギリスでいうところのフリンジに当たるオフ・オフ・ブロードウェイや、オフ・ブロードウェイの舞台に立つことが多かった。ブロードウェイの舞台に立つチャンスはあっても、名前や台詞のある役をもらえることはほとんどなかった。
日本で培ってきた才能がずぶずぶと埋もれていく感覚が、恐ろしくてたまらなかった。もしかしたら、自分はこのまま何の成果も得ることができずに、表舞台から去っていくことになるのではないか──そんなのは絶対に嫌だと、自らを奮い立たせる回数にも限度はある。これは、もうこの辺りが潮時かと、そう思いはじめていた矢先の出来事だったのだ。
だから、立花希佐がスペンサー・ロローの次の舞台の主演に決まったと聞いたときは、当然驚いたし、嬉しくもあったし、同時に妬ましくもあった。
ユニヴェールを卒業してからずっと、脇目も振らず、ただ舞台に没頭してきた。それなのになぜ、二年ものブランクがある彼女の方が、自分よりも大勢の人から認められているのだろう。二年間、七三〇日、一七五二〇時間、一〇五一二〇〇分──舞台人にとって、何よりも貴重な時間を、何もせずにいた彼女の方が、自分よりも先に良い役を得る──不公平だと思ってしまうことは、間違っているのか。
だが、分かってしまうのだ。自分にはない才能が、立花希佐にはある。それは彼女自身に備わっているものであったり、人との出会いであったり、様々なタイミングであったり──演劇の神様が、彼女を輝かせるために、頭上から七色の光を注いでいるとしか思えないことがある。
才能ほど不公平なものはない。
いくら努力をしても、圧倒的な才能の前には、無条件に平伏すことしかできないことを、加斎は知っていた。
『アタルらしくないですね』舞台上で、立花とバージルが、本当に楽しげにタップダンスを踊っている。その姿を食い入るように見つめていると、少し呆れた様子でダンテが口を開いた。『ユーはたった一度でも希佐に勝てたことがありましたか?』
『いや、ないよ』
『アタルは希佐に求められるようなジャックになることを目指していたはずです。でも、もしアタル自身が敗北を受け入れてしまったら、胸を張って彼女の隣に並び立つことが、できなくなるのではありませんか?』
『敗北云々っていう以前に、ライバルが多すぎるってことの方が問題だと思うけど』
『何を言ってるんです。この中で希佐と一番付き合いが長いのは、僕とアタルの二人ですよ』
『ユニヴェールにいた頃の立花と今の立花は、まるで別人だろ』
『そうですか? 僕には同じ希佐に見えますよ。あの頃から、可憐で、美しい、百合の花のような子でしたので』
『ダンテはさ、いつ頃から気づいてたの? 立花が女だって』
そう問うと、ダンテは舞台から視線を戻し、にんまりとした笑みを加斎に向ける。ああ、これは真面目に答えるつもりがないときの顔だと加斎が思っていると、ダンテは口を開いた。
『ノンノン、アタルは遅れていますね』
『……何の話?』
『実は僕、女なんです』
『はあ?』
『そういうことですよ』ダンテは小さく笑ってから、唇に人差し指を添えた。『所詮は瑣末な問題、ということです』
誰もがダンテのように思うことができたなら、この問題の解決が、こんなにも先延ばしになることはなかったはずだ。立花希佐は女である。この不動の事実が根底にあるかぎり、平和的な解決は見込めないのだろう。
すべてが丸く収まればいいのにと、加斎は思う。
そんなことは不可能だと分かっていても、願わずにはいられない。祈らずにはいられない。どうか、どうかどうか、この敵わないと思わせてくれる、負けたくないと奮い立たせてくれる稀有な才能が、摘み取られることも、踏み躙られることもない、優しい世界でありますように、と。
「おい、お前ら」二人のすぐ近くで、片時も舞台から目を離さないまま、リオが言う。「ちょっと黙っててくれないか」
「あ、ごめん」
リオはまるで、舞台上の映像をそのまま記憶しておきたいとでもいうふうに、瞬きをすることすら忘れ、二人のタップダンスに見入っていた。
『──オレはさぁ、ロンドンで運命的な出会いをしたんだよ』いつかの舞台稽古の合間、どこか恍惚とした面持ちを浮かべ、リオが言っていた。『スッゲェ格好良かったんだ、その子。タップダンスをはじめてまだ二ヶ月だっていうのに、あのバージルと対等に踊ってるんだぞ。信じられるか?』
加斎は後に、それが立花希佐だったと知った。
「ああ、またこのダンスが見られるなんて、思いもしなかったよ」リオは舞台を見つめ、僅かに涙ぐみながら、独り言ちている。「オレの原点だ」
そのなんてことない一言が、鈍器となって、加斎の頭を強打した。
ああ、そうだ。立花希佐は、どこにいたって、立花希佐なのだ。それを痛感する。思い知らされる。彼女は何も変わってはいない。変わってしまったのは、きっと、自分自身なのだと。
「本当に好きなんですね」
「……そうだよ」
舞台を見つめたまま無意識に答えてしまってから、加斎はハッと我に返る。自分は今、何と言ったのだと自覚するより先に、こちらの顔を覗き込みながら意地悪く笑うダンテと目が合った。
「おやおや、アタル、どうしたんですか? 僕はリオのことを言ったんですよ。リオは希佐の大ファンですからね」
「言ってろよ、もう」
リオに心境の変化が訪れたのは、バージルが自分のために振り付けてくれたタップダンスを、立花がいとも容易く踊ってみせたときだという。
振り入れに三週間を要し、挙げ句、本番当日まで仕上がらなかったダンスを、立花は一日と掛からずに自分のものにしてしまった。加斎もその場に居合わせたから分かる。バージルに唯一、俺の自慢の弟子と言わしめるだけの才能を目の当たりにしたからこそ、今回のリオの決断に同調した。
自らの成長のために、主役の座を降りる──壮絶なオーディションの末にようやく合格し、数百人の中から主演に選ばれ、個人的に思い入れのある役柄から卒業することは、かなりの葛藤を生んだことだろう。
だが、リオは変化を望んだ。
「君が降りるなら、俺も降りるよ」加斎がそう告げると、リオは驚きで目を見開いていた。「最初からそのつもりだったんだ」
オーディションの最中、同じ役を競うライバルたちが相手でも、このリオという青年だけはいつだって朗らかで、誰に対してもリスペクトがあった。振り入れに手こずっている人を見かけると、こっそり近づいていって、一緒に踊ってやっていた。
実際に見られているのは、その人自身の才能や実力だけではないのだと、加斎はこのオーディションで思い知った。カンパニーに相応しい人柄であるかどうかも、重要な判断基準だったのだ。翌日、準主役の代役として戻ってきた加斎を見て、リオはまるでそれを自分のことのように喜び、一緒に頑張ろうなと言って、受け入れてくれた。
「アタルはオレよりもずっと基礎がしっかりしてるから、安定感が違うんだよな」
「リオのタップダンスは躍動感があるよ。それに、すごく楽しそうだ」
「ああ、めちゃくちゃ楽しいよ」タタタタン、というタップ音が、稽古終わりの静まり返ったスタジオ内に響いた。「タップダンスが楽しすぎて、もっと早くに出会えていたらって思うけど、多分そうじゃないんだよな」
「そうじゃない?」
「ほら、前にロンドンで運命的な出会いをしたって言ったろ?」
「ああ、うん」
「運命的な出会いなんて言っても、オレが一方的に公演を見に行って、勝手に憧れてるだけなんだけどさ。あの子のダンスを見たからこそ、タップダンスは楽しいものなんだって、そう思えてるんじゃないかなって」
立花希佐は自らの預かり知らないところで他者に影響を与え続ける。ユニヴェールにいた頃からそうだった。立花希佐に憧れる同期や後輩は大勢いた。憧れの存在に近づくために稽古に励んだ。加斎中もその例に漏れない。
今のカンパニーは居心地が良い。スタッフも、共演者も、最初は代役として与えられ、今では自分の一部となっているあの役も、何から何まで気に入っている。だが、その場で足踏みを続けているだけでは、いつまで経っても追いつくことはできない。
「……何がオーディションよ」先ほどまでアラン・ジンデルに食って掛かっていた女性が、微かに頬を赤らめ、キラキラとした目を舞台に向けたまま、説得力のない憎まれ口を利いていた。「カオスの独壇場じゃないの」
カオスはローカルな劇団だ。世界的に有名な脚本家であるアラン・ジンデルが主宰を務めている割には、ロンドン市内でも有名な劇団というわけではない。マニアックな舞台演劇ファンだけが知っている、知る人ぞ知る劇団──それが、劇団カオスらしい。だが、ロンドンで演劇をかじっている人間ならば、その名を知らない者はいないはずだと、リオは話していた。
「あの劇団は個々のレベルがとにかく高いんだよ。バージルのことは説明するまでもないだろうけど、イライアスはロンドンの若手の中じゃ抜きん出た才能って言われてるし、最近じゃメディアに露出する機会も増えてるから、舞台を見ないような若い女の子たちにも人気がある。まあ、あの顔面だもんな。アイリーンは国際的な歌のコンクールで優勝するような歌手だ。オーケストラコンサートにゲストとして迎え入れられれば、チケットは即完売。ジェレマイアはダイナミックなアクロバットに長けている。最近までショーのためにアメリカの各州を回ってたってさ。ラスベガスでも大評判だったらしいぞ。ノアは、一見目立たないけど、誰よりも器用で、憑依型の役者として評価されてる」
舞台に対する向き合い方を変えてくれたのが劇団カオスであり、立花希佐だと豪語するだけのことはあるようだと、当時の加斎は思っていた。立花だけではなく、劇団そのものを応援しているのが、よく分かった。
「それに、キサだ。彼女はダンスも、芝居も、歌も、何を取ってもバランスがいい。オーディションの一次審査で一緒に演じてみて、それが良く分かった。彼女は天才だよ。天性の舞台人だ。そんな連中を引き連れてるのが、世界的な脚本家のアラン・ジンデルなんだから、舞台関係者が注目するのも頷けるってもんだろ?」
加斎は劇団カオスの公演を観たことがない。だから、リオの言葉が、どこか誇張した、大袈裟なものに聞こえていた。もっと有名で実力者の多い劇団は他にもあるはずだ。どこか贔屓目に見ているところがあるに違いないと。この目で、彼らの表現を目の当たりにするまでは。
だが、今は分かる。なぜ舞台関係者たちがこぞって注目しているのか。予定すらない次の公演を心待ちにしているのか。共演のチャンスを逃すまいと集うのか。同じ舞台畑の人間ですらこの目を奪われ、釘付けになってしまうのか。
楽しそうなのだ。そんなことは当然と思うかもしれない。だが、そうとしか言いようがなかった。ただ純粋に舞台を楽しんでいる。楽しくて堪らないという思いが、舞台の垣根を飛び越えて、客席にまで伝わってくる。
「……」
舞台上でタップダンスを踊る立花希佐は、ユニヴェールの立花希佐だった。あの頃よりもずっと大人っぽくなっているが、見るからに男性の、立花希佐だ。
加斎は不意に、この立花をクオーツの同期や先輩、後輩たちが見たらどう思うのだろうと、そう思った。
『……立花が男だったら良かったのに』
『アタル、それは』
『分かってるよ、そんなふうに思ったらいけないことくらい』
立花は再び舞台を仲間に譲り、軽やかな足取りで段差を降りた。すると、先ほどまでは確かに男性然としていた立ち居振る舞いが影を顰め、ふ、と女性に戻る。
『でも、残酷すぎるだろ、こんなのって』
『他人の人生に首を突っ込みすぎるのはよろしくありませんね』ダンテは同意できないという顔をして、更に続けた。『人生はいつだってやり直せます。希佐は自分の人生をまっすぐに歩いているだけですよ。未練たらたらの女々しい男はまったくスマートじゃありません』
『みんながみんな、ダンテみたいに考えられる人間じゃないんだ』
『女性の幸せを願えないような男にはなりたくありませんからね』
このいかにもフェミニストな男は、当然リアリストでもあり、周りの空気や考えなどには決して左右されず、我が道を貫いている。せっかく受けたオーディションに合格し、カンパニーにも快く受け入れられたというのに、当人は気が済んだとばかりに早々と去っていく。
三人仲良く横並びになり、自分たちも一緒にカンパニーを去ると言ったときのスペンサー・ロローの表情は、何とも言えないものだった。最後には、また私が主役級の役者を引っ張って出て行く悪者にされるね、と言って苦笑いを浮かべていた。
結局のところ、自分はスペンサーに拾われた人間で、リオが隣にいたからこそ、ここまでやってくることができたのだ。だからこそ、このままずるずると続けていくより、二人と同じように、新しい道を歩きはじめたいと思った。
『アタルは、希佐が舞台の世界から遠く離れた場所で、不幸のどん底にいるような暗い顔をしていたら、それで満足だったんですか?』
『そんなふうには思ってない』
『でも、ユーの口が言っているのは、そういうことですよ』
立花希佐が男だったら、こんな思いをすることもなかった──そんなふうに思ってしまう自分自身に、アタルは強い嫌悪感を覚えていた。立花が今も歌劇を続けていると分かったときは、あんなにも嬉しかったのに。パートナーが無理なら、ライバルとして、また共に高みを目指していけるのかもしれないと、喜んでいたはずなのに。
『現状の中で生き続けていくことと、無計画のまま外に飛び出して行くことの、どちらが大変だと思いますか?』後者に決まっていると、加斎は思う。『右も左も分からない国で、ここまでのことをやってのける。アタルにならそれがいかに困難なことかが分かるはずです。僕は素直にユーたちを尊敬します』
この言い表しがたい感情は何なのだろうと加斎は思う。
立花希佐の事情は理解しているのだ。仕方のないことだったのだと分かる。それでも、現状にあるのはただ逃げ続けた先にある仮初の楽園でしかなく、いずれこの魔法が解けて、現実という名の地獄を見ることになるのではないかと、そんな気がしてならない。
こんなの、立花希佐らしくない──だが、自分はその言葉を投げつけられるほど、立花のことを知っていると言えるのか。ユニヴェールの同期、先輩、後輩の誰もが、本当の立花希佐を知らないのではないか。
嘘を吐き続けるのは良くないことだと思う。その嘘から逃げ続けることも、過去に蓋をして未来を生きることも、自分だけが幸せになることも、あってはならないことだと思うのだ。
今の立花を見て、そんなふうに思うのは、間違っているのだろうか。こんなふうに自然に男性を演じられる才能は、ユニヴェールで培われたもののはずだ。それを、忘れてはいないだろうか。いや、忘れているはずがない。ユニヴェールは、立花希佐にとっての、夢そのものだったのだから。
「余計なことしないで」
加斎は最初、その言葉が自分に向けられたものだとは思わなかった。だが、隣にいたダンテに肩を叩かれてそちらに目を向けると、立花と同じ劇団の青年がすぐ近くにまでやってきて、こちらを睨むように見ていた。
「おっ、なんだよ、イライアス。そっちから声掛けてくるなんて珍しいな」
「君に話があるわけじゃない」イライアスはリオを横目に一瞥してから、再び加斎に目を向ける。「彼らに話がある」
「話って何?」
「僕は日本語をほとんど知らないけど」舞台上で踊っていたときの情熱の炎は見る影もなく、その眼差しは氷のように冷え冷えとしていた。「君たちがキサの話をしていたのは分かる」
神妙な面持ちで語られる立花希佐の話に、言葉は分からずとも、何か感じ取れるものがあったのかもしれない。
アメリカで暮らしはじめて間もない頃、現地の英語に慣れるのに時間が必要だった。聞き取れないことも多かったが、自分にとって不都合な話をしている雰囲気だけは、不思議と感じ取ることができた。
加斎は小さく息を吐いてから、イライアスに向き直った。
「それで? 君は俺たちが何か余計なことをするって思ってるの?」
「キサにはキサの考えがあるんだ。だから、彼女の邪魔をしないで」
「別に俺たちは立花の邪魔をするつもりはないよ」
加斎がそう答えると、イライアスは透き通るような灰色の目で真実と嘘を見定めてから、そう、と小さく零した。それから少し何かを考えるように視線を彷徨わせていたが、仲間たちに呼び戻され、こちらに背を向ける。しかし、何歩か進んだところで肩越しに振り返ると、徐に口を開いた。
「ごめん」
「え?」
「突然こんなことを言われて、不愉快だったと思うから」
喧嘩腰で話し掛けてきたかと思えば、悪びれはしないものの、自らの非を認めて去っていく。
『変なの』加斎はダンテと顔を見合わせ、少しだけ笑った。『でも、悪いやつではなさそうだ』
『彼は希佐の友人ですから』
『まあ、友達なら心配して当然のことだよね』
自分がユニヴェールで立花と出会えて良かったと思っているように、あのイライアスという青年もまた、立花希佐に出会えて良かったと、そう思っているのだろう。だが、この国でのそうした出会いのすべては、立花の日本からの失踪が大本にある。
『俺たちは黙っていることを選んだんだ』
『そうですね』
『それって結局のところ、今の彼女の在り方を認めたってことになるんだと思う』加斎はポケットから取り出したスマートフォンに視線を落とすと、先頃届いたばかりの一通のメールを思い出した。『でも、彼女にだけ真実を伝えるというのは、不公平だと思うんだ』
ユニヴェール75期生の海堂岳信からのメールには、こう記されていた。
《お前のロンドン公演を観劇しに行くことが出来ず、本当にすまなかった。仕事が立て込んでいて、どうしても日本を離れることができなかったんだ。だが、最近になってようやく休暇らしい休暇を取れたので、久しぶりに同期会を開いたぞ。そこでフミと根地が長期でロンドンに滞在するという話を聞いた。もう少し早ければ、二人もお前の勇姿をその目に焼き付けることができたのに、残念でならない。フミは実家の仕事のために渡英するそうだが、根地の方は遊学のためだと言っている。アタルはそろそろアメリカに戻るのだろうが、もし時間が合うようなら、是非ともあの素晴らしいロンドン市街や、ウエスト・エンド界隈を案内してやってくれ。頼んだぞ》
このメールを受け取ったとき、加斎は思わずゾッとしてしまった。そして、立花に真実を伝えるべきかどうか悩んだ。こうしている今も、まだ迷っている。
『アタルの好きにしたらいいのでは?』
『ダンテだって他人事じゃないだろ』
『僕は口止めなんてされていませんからね』
だが、クォーツの先輩方がロンドンにやってくると伝えたところで、一体どうなるというのだ。立花希佐にはここでの暮らしがある。先輩方が渡英してくる決定は覆らない。ロンドン市街、ウエスト・エンド、このソーホーで、鉢合わせをしない未来を想像することの方が難しい。
『案外、先輩方は希佐がロンドンにいることを知っているのかもしれませんよ』ダンテはそう言いながら、スマートフォンの画面をこちらに向けてくる。『希佐がイギリスにいるっていう噂は、去年の年末くらいから出回っていましたし』
もし本当にダンテの言う通りだったとして、イギリスに来る二人の先輩が立花の存在を認知しているとしたら、何も知らないのは立花希佐ただ一人ということになる。あれほどまでに立花のことを可愛がっていた二人だ、目と鼻の先にまでやって来て、会わないという選択をするとは思えない。
立花希佐にとって今は大事な時期だ。大きな舞台も控えている。だが、二人の突然の登場によって、公私共に調子が良さそうな今の状態が、一瞬にして壊れてしまうのではないか。そうなるくらいなら、予め忠告してやった方が、心の準備をすることはできるだろうと、加斎は思うのだ。
どちらが正しい選択なのか。
バージルが舞台から降りると、劇場には拍手や口笛の音が鳴り響いた。当人は、それに軽く手を挙げて応じながら、劇団カオスの仲間が集まっている輪の中に戻っていく。仲間たちは親しげにハイファイブを交わし、笑顔を浮かべながら、互いの健闘を讃えあっていた。
加斎は、その真ん中にいる、アラン・ジンデルに目を留める。
『立花ってさ』少し前、ロンドンの街中でばったりと出会い、時間があるならお茶でもしようとカフェに誘ったとき、訊ねてみたことがある。『アラン・ジンデルと付き合ってるの?』
『え、どうして?』
加斎は砂糖抜きのコーヒーを、立花はメニュー表のおすすめの欄に書かれていたダージリンを注文していた。セットで運ばれてきたスコーンを手に取り、それにクロテッドクリームを塗りながら、立花は心底不思議そうに首を傾げていた。
『ほら、すごく仲が良さそうだから』
『そうかな』
『そうだよ』立花はにこにこと笑うばかりで、煮え切らない態度だった。『違うの?』
『うーん、どうなんだろう』
『見るからに親密って感じるときもあるからさ』
『私は彼のことを好きだよ』恥ずかしがるような素振りもなく、立花はそう言い切っていた。『でも、恋人とは違うと思う。彼も、私を恋人だとは思っていないと思う』
『どうして?』
『どうしてなんだろうね』
そう答えたときの立花の顔が、今までに見たこともない大人の女性の表情をしていて、加斎は思わずドキッとしてしまったことを思い出した。
加斎の目には、二人は恋人同士に見えていた。当然、周囲の人々もそのように認識しているだろう。二人の間には、誰にも踏み入ることの出来ない、何か特別な空気感のようなものがある。
日本にいるとき、アラン・ジンデルの斜陽の雲を読んだ。イギリス英語とアメリカ英語で多少の違いはあるものの、英語学習者が読むのに適していると、箍子にすすめられたものだった。
「詩のように美しい文面で、地の文では古典的な表現も多々見受けられますが、登場人物の会話のやり取りが非常に写実的です。この本を読み終えたら、是非映画もご覧になってみてください。そしてもう一度、この本を読んでみましょう。また違った印象を覚えると思いますよ」
さほど分厚い本ではなかったが、すべてを読み終えるまでには、一ヶ月以上の時間が必要だった。最初の正直な感想は、ただただ苦痛、その一言に尽きる。何が面白いのかが分からなかった。日本で評価される純文学の魅力がいまいち分からないように、この物語の本当の価値を、当時十六、七の子供が、そう簡単に理解できるはずもなかったのかもしれない。
箍子に是非とも感想を聞かせてほしいと言われていなければ、映画を見ようとは思わなかっただろう。当時契約していたサブスクリプションの中に目的の映画を見つけた加斎は、寮生たちが稽古に疲れて寝静まった夜更けのラウンジで、ひっそりと上映会をはじめた。
途中、早く寝ろと注意をしにやってきたはずの菅知と、教師の方の長山を巻き込んで、同じ映画を三度見た。気がつけば空は白んでいて、それが眠気から来るものなのか、主人公に感情移入し、同調してしまった結果なのか、三人はしばらくの間惚けたまま、沈黙に身を委ねていた。
「映画が公開されたのは去年の秋みたいやな」ふと我に返った菅知が、スマートフォンを操作しながら言った。「当初は配信のみの予定やったところを、監督の自費で、ロンドンの古い映画館での上映に踏み切ったと書いてある。なんや、最近じゃ珍しいくらいの王道ヒューマンドラマやから、配給会社がよう見つからんかったらしいわ。日本の映画館での公開は──もう少し先みたいや」
後に、ロンドンで秋に公開された映画が、ロサンゼルスでも上映されると、翌年のアメリカで行われた映画の祭典で、脚本賞、撮影賞、音響賞、監督賞、作品賞の五部門を総なめにした。もちろん、イギリスでもそれ以上の部門で受賞歴を持つ。
加斎は、そのまま眠ることなく、大伊達山の登山ルートを駆け上がって、比女彦神社まで走っていった。酷く目が冴えていた。特に理由もなく神前で手を合わせ、同じルートを駆け降りてユニヴェールに戻る。シャワーを浴びてから、借りていた本を片手に、職員室へと向かった。
「おはようございます、箍子先生」机で書類の整理をしていた箍子は、加斎が手にしている本を一瞥すると、僅かに目を細めた。「この本を紹介してくださって、ありがとうございました。先生のおかげで、素晴らしい作品に出会うことができました」
「気に入っていただけましたか?」
「はい」
「それはよかった」
「それで、あの、先生はこの本をどこで購入されたのかをお聞きしたくて──」
「その本はあなたに差し上げます」
「えっ?」
「実は、あの映画の監督は私の知り合いなのですが、同じ本を何冊も送りつけられて、置き場に困っていたんです。むしろ、もらっていただけると助かります」
「そういうことでしたら」
その後、自らでペーパーバックの本を購入し、ぼろぼろになるまで読み続けた。箍子から譲り受けた上製本は、日本の実家で大切に保管している。
世間は狭い。
本当に、狭い。
あの頃は、斜陽の雲の脚本家であるアラン・ジンデルと自分が出会う未来など、想像することもなかった。箍子と映画監督が知り合いだと聞いても、自分とは関係のない話だと思っていた。さすが、玉阪座の理事会に所属するような人は、交友関係も広いのだなと、その程度の感想しか抱いてはいなかった。
「じゃあ、次──」
どこか気怠そうな、眠たげにも聞こえる声が言う。その声に反応したのは、立花とバージルのタップダンスを見た後の興奮が、未だ冷めやらない様子のリオだった。
「はい、はいはい! 次はオレたちがやる」
「好きにはじめて」
この人があの斜陽の雲を書いたなんて、今もまだ、本当は信じられない。
「斜陽の雲は、あなた方とさほど変わらない年齢の青年が書いたものです」本をもう一度読んでみると伝えて職員室から出て行こうとした加斎に向かって、箍子が言った。「二十三歳だそうですよ」
当時、十六、七歳の加斎には、二十三歳が遠い大人のように感じられていた。だが今、斜陽の雲を書いたアラン・ジンデルと同い年になってみて、初めて分かる。それがいかに特異なことであるかを。
「おーい」ぼんやりとアラン・ジンデルの横顔を眺めていた加斎に、リオが声を掛けてきた。「お前も早く準備をしろよ、アタル」
「あ、うん」
人生の道筋がどのような経路を辿り、いかな結末を迎えるかなど、誰にも分からない。もしかしたら、立花を介さずとも、アラン・ジンデルとはスペンサー・ロローを通じて出会っていたのかもしれない。
だが、立花希佐と出会わなかった世界のアラン・ジンデルは果たして、あの日、あのホールに、姿を現しただろうか。あのスペンサーが、立花が歌ったというアメイジング・グレイスの歌声に心底惚れ込まなければ、加斎があのスタジオに足を運ぶことはなかっただろう。いや、それ以前に、もしリオがロンドンのこの小劇場で、立花希佐が踊るタップダンスを見ていなければ──加斎はそこまで考えて、小さく笑い声を漏らす。
「アタル、どうしたんです?」
「なんでもないよ」
ユニヴェールの三年間、追いかけ続けていた背中だったが、立花の失踪を境に、もう一生会うことはないのだろうと、心のどこかでは思っていた。だが、今になって思えば、二年生の頃、箍子からあの本を手渡されたあの瞬間から、既に未来は決まっていたのかもしれない。
運命なんてクソ喰らえだ。自分の道は、自分の手で切り拓いていくものだと、そう思って生きてきた。しかし、これはまるで何者かに仕組まれた予定調和のようで、考えれば考えるほど、運命というものを信じないわけにはいかなくなる。
自分は、立花希佐を、見つけるべくして見つけたのだと、加斎はそう思わずにはいられなかった。
加斎は、立花たちがその場を離れ、ダンテとリオが話し合っている隙に、アラン・ジンデルに歩み寄った。
「あの、ジンデルさん」背中からMr.ジンデルと呼び掛けると、眉間に僅かな皺を寄せた顔がこちらを振り返った。「お話しておきたいことがあるんです。後で少しだけお時間いただけますか」
「今じゃ駄目なの」
「立花には聞かせたくない話なので」
アラン・ジンデルは、加斎の視線の動きと、背後から近づいてくる足音で、立花がこちらに戻ってくるのを察したのだろう。慌てて振り返ることもなく、加斎に向かって小さく頷きかける。
「分かった、いいよ」
「ありがとうございます」
こちらに戻ってきた立花は、アラン・ジンデルの隣で足を止めると、楽しげに微笑みながら加斎を見た。その表情は、歌劇を心から楽しんでいた、ユニヴェールにいた頃となんら変わらないものだった。
「立花の歌とダンス、すごく良かったよ」
「ありがとう」なんだよ、良かったのはキサだけか? と言うバージルの声が聞こえてくると、加斎と立花は顔を見合わせて笑う。「加斎くんも頑張ってね。また一緒に舞台に立てたら嬉しいな」
「魔物のエクスのときみたいに?」
「そう」そう応じてから、立花は、あっ、と思い出したように声を上げた。「この前ね、アランと一緒に魔物のエクスを演じたんだ」
「えっ、そうなの?」
「加斎くんと演じたエクスとは随分違う感じに仕上がったんだけど、もし良かったら──」
「こら」
このままでは埒があかないと思ったのか、アラン・ジンデルは二人の顔の間にタブレットで壁を作り、強制的に話を遮った。
「後が詰まってる」
「あ、そうだよね」立花は申し訳なさそうに肩を竦める。「じゃあ、向こうでバージルたちと応援してるから」
もし、このロンドンでの再会に何か意味があるのだとしたら、そのチャンスを生かしたいと思う。だが、もし何の意味もなかったのだとしても、このラッキーをものにしたいとも思うのだ。
「──よしっ」
加斎中は、昔から諦めの悪い男だった。
立花のこれからのことは、立花自身が決めればいい。自分が頭を悩ませる必要はないと、加斎は思う。そもそも、助言を求められたわけでもないのに、勝手にあれこれと思案されるのは迷惑な話だ。自分に置き換えてみれば、大きなお世話だと分かる。
誰かのために悩んでいられるような余裕は、今の自分にはないはずだ。
自分はただ、今までと変わらず、立花希佐という憧れの人の背中を追い続け、いずれ越えるその日のために、精進し続ければいい。
ダンテの言う通りだ。立花希佐が男でも、女でも、加斎の心持ちは何一つ変わらない。
運命は、運命として受け入れよう。
立花希佐の未来は、神のみぞ知ることなのだから。
アラン・ジンデルは今居るオーディション希望者の出し物を最後まで見終えると、その場でイベント参加者のグループチャットを用意し、すぐに現時点での投票結果の集計を行なっていた。まだ暫定ではあるものの、投票数を見るにそれが覆ることはないだろうと思われる者たちを、順番にピックアップしていく。
「言ってくれたらちゃちゃっと集計プログラムを組んであげたのに」
「演出が決まったら照明と音響の設定を頼むよ」
続々と届く投票結果をノートにまとめながら、アランはノアの言葉に応じていた。
劇団カオスの舞台では、照明と音響は基本的にコンピューターで制御し、コントロールしている。どうしても手動でしか起動できない機器以外は、ノアが事前に組んでくれたプログラムの管理下で動かしていた。
「アラン」劇場の外に出て電話をしていたイライアスが、スマートフォンを片手に戻ってくる。「もうすぐアイリーンが来ます」
「……彼女、今日から本番だって言ってなかった?」
「本番前に来て、歌ったらすぐに戻るって言ってます」
平然と言ってのけるイライアスを尻目に、アランは呆れ顔だ。しかし、無理もないだろう。アイリーンは今日と明日の二日間、ロンドンの管弦楽団との合同コンサートの仕事が入っている。それを知らなかったノアとジェレマイアは、一瞬顔を見合わせてから、アイリーンらしいと言って笑っていた。
「事故で道路が通行止めになっていて、遠回りをして来たから、もう時間がないの。すぐに戻らなくちゃ」
間もなくして、真っ赤なドレスに黒いストールを羽織って現れたアイリーンは、踵の高いヒールを、カツカツカツ、と鳴らして歩きながら、脇目も振らずに無人の舞台に向かっていった。たまたま舞台のすぐ近くにいたダンテが、階段の段差に躓かないよう反射的に手を差し出すと、アイリーンは自然にその手を取りながら、にこりと微笑んで、ありがとう、と言った。
「音は?」
少し離れた場所からアランが問うと、アイリーンは首を横に振る。
「いらないわ」
アイリーンは、カメラ係のノアが「いつでもいいよ」と言って合図を送るのを待ち、大きく深呼吸をすると、そのままアカペラで歌い出した。
それは、往年の映画の主題歌だった。喉は完璧に仕上がっている。歌と同時に劇場内が一瞬にして静まり返り、舞台に背を向けていた者は、誰もが反射的に後ろを振り返った。
希佐はアイリーンの歌が大好きだ。自分にはない力強さと、繊細さ、ロングトーンの伸びやかさがあって、聞いていてとても気持ちが良い。こんなふうに歌えたら良いのにと思うこともある。聞く者を圧倒する、歌唱力。
以前、希佐が素直に羨ましいと漏らしたら、アイリーンは心底不愉快そうに顔を顰めていた。
「やめてよ。これが私の才能なの。まあ、あなただってそこそこ歌えるのだから、そう嘆くことはないわ。悔しかったら精進なさい」
アイリーンはいつだって自信に満ち溢れている。他者を羨む暇があるくらいなら、自分を磨く努力をする人だ。そういうところが、酷く格好良い。
一曲歌い終えたアイリーンは、歌い始めと同様に深呼吸をしてから、颯爽と舞台を降りてくる。ノアのところまで歩いていき、映像のチェックをすると、五分ほど話をしてからあっという間に劇場を去っていった。
「美しい方ですね」
「残念フィアンセがいるよ」
「Oh……」すぐさま探りを入れるものの、ノアにあっけらかんと言い返されて、ダンテは目頭を押さえて天を仰いでいた。「希佐にもフィアンセが?」
「えっ? どうして?」
突然の問いかけに希佐が目を丸くしていると、ダンテは自らの右手を顔の前に挙げ、薬指を指し示してみせる。希佐は反射的に自分の右手を見下ろし、ああ、と言って笑った。
「これは、大切な人から誕生日プレゼントにもらったんだ」
「いいですねぇ、僕もユーみたいな素敵なフィアンセがほしいものです」
「ダンテくん、本当にそんなふうに思ってる?」
「おや、どうしてですか?」
「前に加斎くんが呆れていたよ、ダンテくんはロンドンに来てから、かわいい子をナンパしてばかりいるって」
「ノンノン、あれはナンパじゃありませんよ、希佐。魅力的な相手に対する僕なりのエチケットです」
「そうなの?」
「今まさに美しい人を目の前にして、ただその人を美しいと褒め称えることに、何か理由が必要ですか?」
「ううん」そのおかしなやりとりに、希佐は思わず、くすくすと肩を震わせて笑ってしまった。「必要ないと思う」
年末のオーディションのときとは打って変わって、チャリティーイベントのオーディションは、和気藹々とした、非常に活気のあるものになった。舞台に立つ演者を邪魔立てする者は誰一人としておらず、むしろ囃し立てるように声を上げ、全員が場の雰囲気を盛り上げようと協力しあっているように見て取れた。こうして全員が全員、全力で真面目に楽しむという経験は、酷く得難いもののように思える。
互いに顔は知っていても、話したことのなかった人と言葉やステップを交わしたり、歌声を重ねたりする体験は、とても貴重なものだ。新しいステップを教わりながら、神妙な面持ちで勉強になると言う希佐を、周りの人々はどういうわけか、不思議そうな顔をして見ていた。
外がすっかり暗くなり、ヘスティアが開店しても、劇場にはまだ随分の人が残っていた。クローディア・ビアンキとその仲間たちは、まだ明るいうちに、これから公演があるからと言って帰っていったが、それが終わったらまた戻ってくるという話だ。
「私が戻ってくるまで帰るんじゃないわよ」
バージルと二人で一曲目のダンスの振り付けを考え直していると、つかつかとやって来たクローディアに、希佐はそのように釘を刺されていた。アランはヘスティアの閉店時間までここにいるというので、一緒に帰るつもりでいた希佐は、クローディアの脅すような迫力に気圧されそうになりながら、何度も小さく頷いて見せた。
クロエ・ルーは店が開くと同時に「ちょっと飲んでくるわね」と言って階下に降りたきり、未だ戻って来ていない。フランシス・ルロワは、他の人々から少し距離を置いて椅子に座り、どこか達観した様子で成り行きを見守っていた。
「カオスの面々が一体誰に投票したのか、興味があるんだけど──」
メレディスが劇場まで届けてくれた夕食の差し入れを、カオスの仲間たちと一緒に食べようとしていると、リオと加斎、ダンテの三人がサンドイッチを手にやって来る。
一緒に食べても良いかと問われ、全員が許諾を求めるように主宰を見やるが、アランは小さく肩をすくめるだけで何も言わない。その様子を見て許されたものと判断したらしいリオは、いの一番に希佐とバージルの間に割り込むようにして腰を下ろすと、そう問い掛けてきた。
「キサは誰に投票したんだ?」
「私はまだ保留中だよ」
「バージルは?」
「自分」
「……は?」
「自分以外の誰に投票するってんだよ」愚問だというふうな口振りで、バージルはそう言い切った。「なんだ、自分に投票しちゃ悪いってのか?」
「いやいやまったくそんなことは」
「自分に投票しても良いって言われてるしね」ぐりぐりと首を横に振るリオを見て、加斎は苦笑いを浮かべている。「俺は立花に票を入れたよ。悔しいけど、俺が見た中では一番だって思ったから」
「ありがとう、加斎くん」
「へえ、この俺を差し置いて、お前はキサに票を投じたわけだな。なるほど、なるほど」
「バージルのタップダンスは確かに凄かったですけど、今日の立花はエンターテイナーとして群を抜いていたと思うので」
「弟子に負けるなんて情けないねぇ、バージル?」サンドイッチをもぐもぐと頬張りながら、ノアは楽しそうに笑った。「かくいう僕もキサに入れたんだけどね、ジェレマイアは違うみたい」
「ジェレマイアは誰に投票したの?」
「クローディア」
「ああ、うん」希佐は真面目な顔をして同意した。「私も迷ってるんだ。アイリーンの歌を聞いてから決めようと思っていたのだけれど、聞いたらますます分からなくなってしまって」
「ジェレマイアは君みたいに高尚な理由で決めたわけじゃないよ、キサ」
「え、どういう意味?」
「ジェレマイアはああいう子がタイプだから」
「馬鹿、お前、そういうこと言うなって」
「だって本当のことじゃんか。スタイル抜群で、美人で、ブルネットの三つ揃いだもんねぇ。無理もない、無理もない」
お前なあ、と呆れたように漏らしながら、ジェレマイアはノアの頭を小突いている。ふふふ、と笑っているノアは今度、その標的をジェレマイアからイライアスに移したようだ。差し入れのサンドイッチには手を出さず、自分で用意してきた夕食を、黙々と口に運んでいるイライアスを見やった。
「イライアスは? 当然、キサに入れたと思うけど──」
「自分」
「……え?」
「自分に入れた」イライアスは、バージルよりもずっと平然とした様子でそう言った。「僕のダンスが一番だった」
その物言いに、加斎やダンテ、リオは唖然としたような表情を浮かべていたが、カオスの面々は「まあ、確かに」という納得顔で頷いている。
希佐は気づいていた。イライアスが舞台に上がり、自分の隣で踊り始めるとすぐに、多くの視線が盗まれていったことを。
イライアスは凄い。もっと、もっと評価されて然るべき役者だ。
多くの人々は未だこの役者の本当の実力を知らない。この数年間、パートナーとして隣で踊ってきた希佐だからこそ知っているイライアスを、より多くの人々に知ってもらいたいと思う。
この誰よりも美しく踊るダンサーは、ただ美しいだけではないのだと、知らしめてやりたい。
この化けの皮を剥ぎ取って、観衆の目に晒したい。
「んで、主宰は誰に投票したんだ?」
サンドイッチには目もくれず、タブレットの画面と睨めっこを続けているアランに向かって、バージルが問い掛ける。すると、アランは僅かに顔を持ち上げ、視線を動かした。
「イライアス」アランはそう言うと、再びタブレットに視線を戻す。「悪くなかった」
希佐は隣にいるイライアスを見上げ、ふふ、と思わず笑みを零した。
イライアスは灰色の目をまん丸にし、色白の頬を微かに赤らめて、体を硬直させていた。ぱち、ぱち、と瞬く音が聞こえてきそうだ。その表情に変化は見られないのに、希佐にはイライアスがとても喜んでいるのが分かる。
希佐は後になって、にこにこと笑いながら黙って話を聞いていたダンテにも、誰に投票したのかを訊ねてみた。
「僕は麗しきアイリーン嬢に」ダンテは内緒話をするように、唇に人差し指を立てて言った。「まさにトレゾールでした」
ユニヴェールでは歌姫のことをトレゾールと呼ぶ。トレゾールはフランス語で宝物という意味だ。まるで宝物のような歌声を持った人──ユニヴェールの生徒に限らず、宝物のような歌声を持った人は、皆そう称されて然るべきだ。
だが、そのとき、希佐の脳裏に、ある日耳にした音が蘇ってきた。
『Ne touchez pas à mon trésor.』
あのときは、その言葉の意味が分からなかったし、大した意味を持たない言葉なのだろうと考えていた。しかし、フランス語を少しだけ解するようになってようやく、アランが口にしていた言葉の意味を理解する。
俺の宝物に触らないで──アランは、そのように言っていたのだ。
話の流れで思い出し、意図せず表情を綻ばせた希佐を見て、ダンテは不思議そうに首を傾げていた。
チャリティーイベント、夜の部の冒頭の流れを決め、そのための振り入れをしていると、クローディア・ビアンキが、自らの公演を終えてヘスティアに戻ってきた。窓辺に腰を下ろしているアランの姿を捉えると、そちらに歩み寄っていき、何事かを話している。
「お二人のことが気になりますか?」
希佐がアランとクローディアの方を見ていると、劇場内を自由に歩き回っていたフランシス・ルロワが、そう声を掛けてきた。ゆっくりと声の聞こえてきた方へ顔を向ければ、機嫌良く細められた目がこちらを見ている。
「恋仲だったそうですよ」
「え?」
「あのお二人です」ルロワは希佐に歩み寄り、隣に並んだ。「学生時代に」
「そうだったんですね」
「あのように語らっているだけなのに絵になります」確かに、と頷く希佐を見て、ルロアは面白そうに笑う。「私は今、あなたに意地悪を言っているつもりなのですが、どうやら響いてはいないようですね」
「あ、意地悪だったんですね。すみません、察しが悪くて」そう言う希佐を見て、ルロワはますます面白そうに笑った。「今日はずっと見学をされていましたが、誰か目に留まった方はいらっしゃいましたか?」
「私の目はあなたに釘付けでしたよ」
ルロワの表情を見るに、これは冗談を言っているわけではないのだと、希佐にはすぐに分かった。だからこそ、一瞬返答に詰まるが、クロエから上手い切り返しの仕方を覚えるようにと苦言を呈されたことを思い出して、すぐにやわらかい笑みを浮かべる。
「嘘だとお思いですか?」
「いいえ」ですが、と希佐は続ける。「私のサロメをお気に召されたのなら、今日のダンスは期待外れだったのではないかと」
「とんでもない。あなたの新たな一面を垣間見ることができて、嬉しく思っていたところです。あなたの才能に平伏すことはあっても、期待外れなどと思う訳がない」ルロワはそう言うと、希佐の耳元に顔を寄せ、囁くようにして続けた。「私の目には、他の二人が霞んで見えるほどには、あなたが光り輝いて見えましたので」
もしかしたら、自分は今まさに口説かれているのではないかと、希佐は思った。イギリスで暮らしはじめて四年、ここまで露骨に口説かれた経験のなかった希佐は、不思議と懐かしいという感覚に見舞われる。
パブで働いていたのだ、もちろん贔屓にしてくれていた客はいた。だが、彼らは至極紳士的で、まるで自分の娘を可愛がるように接してくれていたのだ。ここで女として口説かれたことは、ただの一度もない。
後にも先にも、自分を口説いてくれた人は、あの人だけだった──希佐がそう思いながら目を細めると、それとは対照的に、ルロワの目がゆっくりと見開かれていく。そして、次の瞬間、希佐の両手を強く握り締め、目と鼻の先から顔を覗き込んできた。
「あなたの眼差しは実に雄弁に物事を語る」遠い遠い空のような色をした目は、まるで魅入るように希佐に注がれている。「あなたはいつだって、ここではないどこかを見ている。舞台上で観衆の目を釘付けにしているときも、こうしている今も、ここにはいない誰かを見つめている」
希佐は思わず言葉を失い、ルロワの恐ろしいまでに青い目を見つめ返すことしかできない。
ここにはいない誰かを見つめている──それは一体誰だ? いや、考えるまでもないことなのだろう。すべての過去を受け入れ、今を、そして未来を生きていく覚悟を決めても尚、はじまりの場所からは目を背けることができないのだ。
「ヨカナーンの唇に口付けるサロメの目が、ヨカナーン以外の、別の誰かを見つめているように感じられたのは、やはり私の勘違いではなかったのですね」
洗礼者ヨハネ──新約聖書によれば、イスラエルの領主ヘロデ・アンティパスの結婚を非難したために捕らえられた。その後、とある少女が舞の褒美として領主にその首を求めたため、処刑されたと記されている。
洗礼者ヨハネは預言者ヨカナーン。求めるものを与える代わりに、王から舞を所望された少女が、サロメだ。物語の中で、サロメは自らの意志でヨカナーンの首を求めたが、新約聖書では、少女からお伺いを立てられた母親がヨハネの首を所望している。
「ちょっと、あなた」そのとき、突然背後からそう言う棘のある声が聞こえてきたかと思うと、希佐の体が半ば強引に引き寄せられた。「相手の女性に了承なく触れるなんて失礼にも程があるでしょう?」
後ろを振り返ると、そこにはどこかムッとした面持ちを浮かべるクローディアの姿があった。目を丸くして自分のことを見上げている希佐を一瞥し、眉間に深い皺を寄せる。
「あなたも隙を見せ過ぎなんじゃない?」
「ご、ごめんなさい」
「大層素敵な指輪をされているみたいだけれど、そんなものは虫除けにもならないのだから、もう少し用心なさい」
「私に彼女を傷つける意図はありませんよ、セニョリーナ」
「それはどうかしらね」
行くわよと言って、クローディアが希佐を引きずって行こうとする。希佐は僅かに慌てながら振り返り、にこやかにこちらを見ていたルロワに向かって、小さく会釈をした。
「あの、クローディアさん──」
「あら、お礼なんて必要ないのよ」
離れたところまでやって来ると、クローディアは足を止め、こちらの顔を不満そうに覗き込んでくる。自分に感謝するべきだという口振りに聞こえた希佐だったが、かといって「ありがとう」と言うのもおかしな気がして、笑みを浮かべるだけに留めておくことにした。
「音楽学校時代から、あの男については良い噂を聞かないのよ。他所様の人間関係にとやかく口を挟むのは趣味じゃないのだけれど、一応忠告はしておいてあげる」
「ありがとうございます。ご忠告は胸に留めておきます」
今度は素直に感謝の言葉を口にした希佐を見て、クローディアは呆れ顔だ。これ見よがしに大きくため息を吐きながら、胸の前で両腕を組む。
「わたし、アランに言ったのよ。助けに行かなくていいのかって。そうしたらあの人、キサなら自分で対処できるからって言うの。もちろん、対処くらいできるでしょうよ。でもだからって、他の男に言い寄られている恋人を、遠くから黙って眺めているなんて、どうかしていると思わない?」
「それが、アラン・ジンデルですから」
「へえ、分かったようなことを言うじゃない?」
「それに、私もあなたとアランが話している様子を、遠くから眺めていたんですよ。ぼんやりと届く街灯の明かりの中に、二人のシルエットが浮かび上がって、とても綺麗でした」
希佐よりも身長の高いクローディアが、アランの隣に並ぶと、カップルとしてのバランスが非常に良く見えるのだ。
「まあ、そう見えるでしょうね」クローディアは否定しない。「わたしは身長が高すぎるのよ。舞台上の見栄えってものがあるでしょう? トスカはこの長身のせいで一度落とされそうになったくらいだし」
「えっ、そうなんですか?」
「男性陣に上底の靴を履かせて演出家を黙らせた」バージルを見上げるときの感覚とよく似ているので、自分とクローディアでは、十センチほどの身長差があるのだろうと、希佐は思った。「彼、昔は私よりもずっと小柄だったのよ。でも、いつの間にか追い抜かされていたのよね。あんなにかわいらしかったのに、気づいたときにはもう男になってた」
きっと、フランシス・ルロワの言っていたことは正しいのだろうと、クローディアの横顔を見上げながら思う。先程と同じ場所で、加斎と話しているアランを見るその眼差しは、未だ憎からず思っていることが分かるほど、酷く優しいものだった。
「──って、わたし、なんでこんな話をしてるのかしら」
クローディアは黒髪を振り乱すようにして頭を振ってから、ぱしん、と自らの頬を軽く張った。
「公演が終わったあと、一度自宅に帰って衣装を取ってきたわ」
「衣装、ですか?」
「サロメよ」首を傾げる希佐を見て、クローディアは呆れた顔をしながら、小さく息を吐いた。「七つのヴェールの踊り、見たいんでしょう?」
「踊ってくださるんですか?」
「言っておくけど、満足なものを期待しないでよね。卒業公演なんてもう何年も前のことだし、あの頃みたいに踊るのは無理だから。それに、不特定多数に見せるつもりもない」
みんなが帰った後に踊るわ、と言うと、クローディアは希佐に向かってひらりと手を振り、誰もいない劇場の隅の方に歩いていってしまった。
どういった心境の変化だろうと思うが、恐らくは、クロエ・ルーの言葉がクローディアの何かを突き動かしたのだろう。
クロエの言葉にはいつだって力を感じる。抗えない力強さだ。まるで女王陛下にかしづく従者のように、無条件で従ってしまう。関係性の薄いクローディアの心までをも操ってしまうのだとしたら、自分やアランはもう逃れようがないのではないかと、希佐は思った。
支配とも、絶対服従とも違う、言うなれば、幻滅されたくないとでもいうふうな、焦燥感にも似た感情だ。この人に認められたい──なぜか、そんなふうに思わされる。
休憩を終え、再び稽古に戻った希佐は、そのまま真夜中近くまで振り入れを続けた。当初は、いつまでやるつもりだと文句を言っていた他の劇団の人も、バージルが「疲れたなら帰っていいぞ。お疲れさん」と何気ない一言を口にしただけで、途端に黙り込み、最後まで稽古に付き合ってくれていた。
パブの閉店時間に合わせて、イベントの参加者たちも続々と劇場を後にする。バージルは「各々しっかり稽古しておけよー」と言って、疲れた素振り一つ見せずにその背中を見送っていた。
「立花」タップシューズを脱ぎ、軽く磨いてから乾燥剤を詰めていると、加斎が背後から声を掛けてくる。「メレディスがエールを一杯奢ってくれるって」
「そうなの?」
「よかったら一緒に飲まない?」
「ごめん、加斎くん」希佐は舞台の袖に入っていくクローディアを、横目に一瞥した。「先に行っててくれる?」
「何かあるの?」
「少しね」
「そう、分かった」加斎は何かを察したように、軽い調子で頷いてくれた。「先に行ってるから、終わったら声をかけてよ」
「うん、ありがとう」
「んじゃ、俺らも先に行ってるとするかね」バージルはそう言うと、クローディアの七つのヴェールの踊りを見たがっているイライアスを引きずるようにして、劇場の出入り口に向かう。「そこの作曲家さんも、早いところ外に出てくれ。あの厄介な女を下で待たせてるんだろ」
「おや、厄介な女性はお嫌いですか?」
「俺の好みではないわな」
やれやれとでも言いたげに大きく肩をすくめ、椅子から腰を上げたルロワは、希佐に向かって意味ありげな眼差しを向けてから劇場を出ていく。
「モテる女はつらいねぇ」
バージルはまるで他人事のようにそう口にしながら、後ろ髪を引かれているイライアスを劇場の外に追い出した。自らは開け放たれていた扉に手をかけ、アランに向かって軽く目配せを送ってから、劇場の外側に姿を消した。
「全力で踊る君を見て触発されたそうだ」アランが二人分の椅子を持って、舞台上が最も際立って見える場所までやってくる。「クレアとアイリーン、どちらにするか決めたの」
「ううん」希佐は椅子に腰を下ろしながら、首を横に振った。「これを見させてもらってから決めようと思って」
音楽が鳴る。
二人は口を噤み、ただ舞台を見つめた。
クローディア・ビアンキの『サロメ』は、誰もが理想とするサロメの姿を模しているように見えた。凛として妖艶。踊りの中で、一枚、また一枚とヴェールが脱ぎ捨てられていくたびに、色欲が煽られ、性欲が喚起される。体の芯が熱くなり、火照っていくような感覚だ。クローディアの踊りを見る誰もが、ヘロデとなっている。決して目を逸らすことができない。強欲な眼差しを向け、ただ貪るように、その美しい舞を見ていた。
上半身が顕となった姿で踊り終えたクローディアは、大きく息を乱しながら、舞台上に散らばったヴェールを拾い集めると、それで自らの体を覆い隠す。そして、こちらに感想を求めるでもなく舞台袖にはけてしまえば、劇場は否応なく現実世界に引き戻された。
「ふうん」
後ろからそう言う声が聞こえ、希佐が後ろを振り返ると、いつからそうしていたのか、壁に寄りかかって舞台を眺めるクロエの姿があった。遠くてその表情を読み取ることは難しいが、希佐の視線に気づいたクロエは小さく肩をすくめ、退屈そうに欠伸を漏らしながら劇場を去っていく。
「どうやら、彼女のお眼鏡には適わなかったようね」着替えを終え、袖から出てきたクローディアは、長い髪を掻き上げながら言った。「そりゃ、天下のクロエ・ルーのサロメには遠く及ばないわよ」
「マダムもサロメを?」
「彼女の代表作の一つじゃない?」そんなことも知らないのとでもいうふうに、クローディアの目が大きく見開かれた。「サロメでクロエ・ルーの歌唱力が真に世に認められたとも言われているくらいだし」
希佐が七つのヴェールの踊りの感想を伝えようと口を開こうとすると、クローディアは「私、陳腐な感想を聞くのって好きじゃないの」と言って賛辞の言葉を拒絶した。
「さ、わたしもメレディスに一杯ご馳走になりに行きましょ」
自分とはまったく異なるタイプのダンスだった──希佐はそう思いながら、見送るように振り向いていた体を正面に戻す。
だが、クローディアが踊ったのはオペラ、サロメの七つのヴェールの踊りだ。舞台ミュージカル用に書き換えられたものとは違う。あれが本家本元の七つのヴェールの踊りなのだろう。
「どう思った?」
「え?」
感想を求められるとは思っておらず、希佐は隣を振り仰ぐが、アランは無人となった舞台を見やったままだ。
「トスカを観た後は圧倒されてただろ」
「ああ、うん」不思議と、自分があのときのように打ちのめされてはいないことを、希佐は意外に思っていた。「素晴らしいと思ったよ。妖艶だけど、情熱があって、扇情的だった。でも……」
「でも?」
「クローディアさんには合わないと思った」
自分は酷く烏滸がましいことを言っているのだろうと、希佐は思う。だがしかし、素直にそう感じたのだ。役がハマっていない。トスカとの違いは、恐らくその一言に尽きる。
瞼を下ろした。耳の奥に蘇ってくる音楽に合わせて、脳裏に焼き付いたクローディア・ビアンキが、七つのヴェールの踊りを踊り出す。
すると、じわり、じわりと、人々の中にこびりついた執着に抗おうとするように、自分はあえて、このように踊っているのだという強い意思が透けて見えてくる。それが空回りしているような感覚が、ちらり、ちらりと見え隠れしはじめる。
「もっと自分らしいサロメを踊れるはずなのに、どうして……」
ガチガチに固められた『サロメ』という女性の幻想が形造られて、どうだ、これで満足なのだろうとでもいうふうに、舞を見せつけてくる。
「既存の作品を上演すると、どうしても同じ役を演じていた他の役者と並べられて、否が応でも比較されることになる」アランは舞台からタブレットに視線を落とし、送られてきたメッセージに返事を書きながら言った。「クレアの卒業公演と、クロエ・ルーが演じるサロメのロンドン公演の再演が、時期的に丁度重なっていたんだ」
クローディアはこの劇場に入る前に一言、かろうじて聞こえるような小声で「嫌味な人」と漏らしていた。それはルロワに向けられたものだとばかり思っていたが、実際には、クロエに向けられていた言葉だったのかもしれない。
「クレアのサロメも悪くはなかった。でも、クロエ・ルーのサロメはそれ以上の仕上がりだった。プロと学生なんだから、当然と言えば当然なんだけどな。クレアにとっては無視のできない問題だったらしい」タブレットの電源を落としてようやく、アランは希佐の方を向いた。「クレアは、ロイヤルオペラ歌劇団への入団が決まっていたのに、同じ音楽学院の連中からは、クロエ・ルーと散々に比較されて、評論家には扱き下ろされて、自暴自棄になって入団の話を蹴った。自分にはもっと技術を磨く時間が必要だと言って、今も小さな劇団を転々としている」
遠くイタリアからイギリスへと渡り、狭き門である名門の音楽学校に入学して、オペラの勉強をはじめた。それは、田舎から出てきた立花希佐が玉阪の町に上り、ユニヴェール歌劇学校に入学した、その境遇とよく似ている。
クローディアにとってのロイヤルオペラ歌劇団は、希佐にとっての玉阪座なのだろう。入門の誘いを受けたことが、どれだけ嬉しかったことか。
だが、理由は違えど、その誘いを蹴ってしまった。心して決めたことなのに、なぜか、取り返しのつかないことをしてしまったかのような、絶望感に苛まれるのだ。
「アランもマダムのサロメを観に行ったの?」
「一人では観に行けないから一緒に来てくれと頼まれて、クレアと二人で観に行った」アランはそう言いながら、僅かに目を細め、自らの右手を見下ろした。「千秋楽だったよ。怪演どころの話じゃなかった。ほとんど出突っ張りで、歌って、踊って、それでも息一つ乱してない。後日、なんかのインタビューで、サロメの千秋楽は四十度の高熱を出したまま演じたと話してた。それが嘘か本当かは知らないけど、いずれにせよ、気が触れてるとしか言い様のない仕上がりだった」
希佐は、ただ純粋に、クロエ・ルーが演じるサロメを見てみたいと思った。
クローディアの七つのヴェールの踊りを見て、自らの役作りとは異なる部分が多いと感じたのに対し、クロエと自分の解釈はどのように似通い、どのように違っているのかを、詳細に知りたいと思う。
「クレアは昔年の恨みを果たしたいんだよ」
「え?」
「君にあの女を打ち負かして欲しいんだろうな」
「……私に、マダムを?」
「彼女、君自身のことは嫌ってるけど、君の才能には恋してるから」アランはそう言って、ふ、と笑う。「あの公演後、青年を演じる君を見て恋に落ちたと言ってた。今日もまた見られて嬉しいって」
「喜んでもらえてよかった」
「……何年も前に、たった一度しか上演しなかった作品でも、こんなふうに覚えていてもらえる」椅子から腰を上げ、アランはその場でぐっと伸びをすると、舞台を見据えたまま続けた。「そういうのを嬉しく思う気持ちが俺の中にもあったらしい」
「再演、したくなってきた?」
「どうかな」アランは舞台に向けていた視線を戻すと、希佐を真っ直ぐに見下ろす。「他の連中にも聞いてみないことには、何とも言えないけど」
「もし再演することになったら、アランが青年役を演じて」
「……」
「私はアランの代役として、あの舞台に立った」そう言って手を差し伸べれば、アランはその手を取り、希佐を椅子から立ち上がらせる。「今度は、アラン自身の足で舞台に立って、カオスのみんなを、あの舞台の先まで連れて行ってあげて」
「それで綺麗に丸く収まるとでも思ってるの」
「すべてが振り出しに戻るだけ」
「君がそう望んだとしても、連中は反対する。今となっては、あの役は君のものだ」
「私はアランと比較されたいよ」希佐がそう言うと、アランは僅かに瞠目した。「日本から飛び立つ飛行機の中で、私は自分がみんなの記憶の中から忘れ去られることを強く願った。でも、今はそう思わない。ロンドンの人たちには、忘れられたくないんだ。ずっと覚えていてほしい。KISAという役者のことも、立花希佐という女がいたことも。私が立った舞台、演じた役柄、歌声や踊る姿を、ずっとずっと覚えていてもらいたい」
舞台はあつらえられた世界だ。自分はその世界の中で生かされてきた。この人の生み出す世界が愛おしくてたまらない。出来ることなら、その世界の片隅で、自分のためにあつらえられた役割を演じ続けていたい。
「私の中にアラン・ジンデルが息衝いているみたいに、舞台に足を運んでくれた一人でも多くの人が、舞台上で解き放たれたアラン・ジンデルの中に立花希佐を感じてくれたら、これ以上の喜びはないと思う」
似ているようで、似ていない。似ていないようで、どこか似ている、私の魂の片割れ。出会うべくして出会ったのだと、心の底からそう思える、私の狂おしいほどに愛おしい人──本当は別々の世界の住人なのに、ひょんなことから巡り合ってしまったことを、今は神様に感謝している。
「私、何でもすると決めたの」後悔のないように。残された人生を振り返らずに生きていくために、決して顔を背けたりしない。「残りの舞台人生のすべてを賭けて、私は誰よりも輝きたい。今回のイベントに参加するどの人にも、カオスのみんなにも負けない。もちろん、アランにも」
希佐を見下ろすアランの表情が一瞬だけ、くしゃりと、今にも泣き出しそうに歪んだ。しかし、そっと目を伏せ、大きく息を一つ吐き出したときにはもう、いつもの表情が戻っている。
「アランには、私が誰よりも輝いている姿を、最後の最後まで隣で見守っていてほしいんだ。最後の瞬間までこの手を握って離さないでほしい。あなたが、他の誰よりも私を輝かせてくれるって、私は知っているから」
希佐の小さな手を、大きな手の平で包み込んだアランは、伸びて来た前髪で目元を隠したまま、少しだけ強く握りしめた。
「君はいつだって周りを置き去りにして駆け出していくんだな」囁くような掠れ声で、アランは言う。「俺はもうずっと前から、君の望むままに、最後の最後まで寄り添い続けると決めてる。それがせめてもの手向けだから」
「アランからは私の両腕だけじゃ抱えきれないほどたくさんのものをもらってるよ」
「君の器を俺で満たそうとしてるんだ」
「最初から一杯一杯だったけど、まだ入るかなぁ」
そう言って苦笑いを浮かべていると、アランはそっと腰を引き寄せ、希佐の体を抱き締めた。丸まった背中に両腕を回し、胸元に顔を埋めれば、とくん、とくん、と落ち着き払った心音が聞こえてくる。
「キサ」
「ん?」
「君に伝えるかどうかは俺に任せるという話を、アタルから聞かされた」希佐は胸元から顔を上げようとするものの、アランがそれを許さず、細い肩をすっぽりと包み込んだまま、先を続けた。「どうする」
「どうするって……?」
「聞きたければ今ここで話す」
「何の話?」
アランの胸板に手を置き、押し返すようにして身を引いた希佐は、緑の目を真っ直ぐに見上げた。こちらを見下ろす眼差しは、どこか不安そうにも見受けられる。左の胸から伝わる振動が、僅かに速くなるのを感じていた。
その目元を見たとき、これは彼にとって喜ばしい話ではなかったのだろうと、希佐は思った。アランと加斎が二人で話している様子を遠目から見ていたが、その面持ちがいやに神妙だったことも、気がかりに思っていた。
だから、これはきっとユニヴェールに関係する問題に違いないと察し、希佐はすぐに、心の準備をした。
「いいよ。大丈夫だから、話して」
アランは希佐の額に唇を押し当ててから、琥珀色の目を覗き込み、徐に口を開いた。
「君のユニヴェールの先輩がロンドンに来る」
「……その先輩っていうのは、誰か聞いた?」
「ミゲルとドミナ」まさか役名で告げられるとは思わず、希佐は目を丸くする。直接名前を伝えるよりも、一瞬でも考える時間を与えた方が、冷静でいられるだろうと判断したのかもしれない。「タカシナとネジコクト──合ってる?」
「うん」
「二人がチャリティーイベントより前にロンドンに来るという話だった」
「そうなんだ」これといった反応を見せない希佐の顔を覗き込み、アランは心の中を見透かそうとするように目を細めた。「驚くべきだった?」
「何を考えてるの」
「どうしてお二人でいらっしゃるんだろう、って」
「詳しい話は聞かなかったけど」アランは手持ち無沙汰に希佐の前髪を梳き、耳に掛けた。「一人は仕事で、一人はそれに着いてくるらしい」
希佐は考える。もし根地黒門が仕事の都合でロンドンまでやって来ることになったとして、それに高科更文が同行するとは思えない。ならば、高科の仕事の都合に合わせて、根地が同行すると考える方が自然だ。
「彼らは君がここにいることを知ってる」
「……そうなんだろうね」
「俺が君をどこかに隠そうか」アランの声に冗談を言っているような明るさはない。「逃げ出したいなら、手を貸すけど」
「大丈夫、もう逃げたりしないよ」アランの物言いに、希佐は思わず笑ってしまった。「心配してくれて、ありがとう」
左手の薬指に嵌められたピトーの指輪が目の端できらりと輝くのを見ながら、希佐は頬に添えられた手に自らの手の平を重ね、手首の近くにキスをした。上目遣いに見上げたアランの表情は、いつにも増して読み取りにくい。
「こんな言い方をしたら、強がってるって思われるかもしれないけれど」いつかこんな日が訪れるのだろうと、希佐は思っていた。「お二人には今の私を見てもらいたいって思うんだ。お二人は、いつだって私のはじまりの場所にいる、私の土台を形作ってくれた大切な人たちだから」
「彼らの中に君に対する善意がなかったとしたら?」
「それは承知の上だよ」希佐は当然だろうという顔をする。「私は浅はかだったし、不誠実だった。今更子供だったことを言い訳にするつもりもない」
「当日、もし彼らが目の前に現れても、同じことが言えるの」
「言える」
「彼らが悪意を剥き出しにしても?」
「うん」アランの目を真っ直ぐに見つめ返し、希佐は頷いた。「過去は変えられない。ユニヴェールでの三年間は本当に素晴らしい日々だった。先輩や後輩、同期たちもみんな、私に良くしてくれた。私は自分の身勝手ですべてに背を向けたんだ。だから、犯した過ちが許されるなんていう自分勝手な妄想はしない」
日本を出て、アイルランドのダブリンに滞在しているとき、夜が訪れるたびに、身の竦むような恐怖を感じていた。自分は悪魔と契約したのだと思っていた。三年間の輝かしい栄光のために、残りの人生すべてを賭けた。
「強がりでもなんでもなく、今の私を見てもらいたいの。ユニヴェールの立花希佐が偽物だったわけじゃない。でも、今の私は、何の偽りもなくこの世界に生かされてる」
安いものだと思った。絶対に叶わないはずだった夢を叶えられるのだから。だがしかし、立花希佐は浅慮な子供だった。
燃え尽き、灰となり、風に吹き流されていく夢の残骸を目の当たりにして初めて、残りの人生の長さを思い知らされ、絶望した。死んでしまった方がずっと楽だと思いながら、現実から目を逸らすために、劇場に通っては舞台の真ん中に立つ自分を想像し、生きながらえてきた。
母が死に、心の支えであった兄が失踪し、もうこれ以上のどん底は訪れないだろうと思っていた。そこが奈落の底だと信じていた。だが、違った。奈落の底には、もう一つ大きな穴が開いていて、その下には底がない。
落ちて、落ちて、落ち続ける。
「根地先輩やフミさんがいなかったら、今の私はいないんだよ、アラン。あなたにも出会えなかった。みんな、私の大好きな人たち」だけど、と言いながら、希佐はアランの頬にそっと触れる。「こんなふうに愛しているのは、あなただけ」
踵を持ち上げ、爪先で立つ。そっと押しつけた唇はすぐに離れるが、アランの顔がそれを追いかけ、再びやわらかく塞がれた。
湖水地方から戻ってきて、アランの指先はますます優しく、希佐の体に触れるようになった。体を重ねることがなくなる代わりに、言葉のやり取りが増えた。人の目があっても、キスをしてくれることがある。
嬉しく、悲しく、穏やかで、もどかしい。
首に両腕を回すと、アランは希佐の体を軽々と抱え上げた。希佐はアランの体に自らの両足を絡め、口付けを交わしながら、ふふ、と小さく笑う。
夢を失くした世界は味気ない。それでも、生きているかぎり人生は続いていく。これからは、夢を託し、繋いでいこう。
第二の夢の終わりは、もうすぐそこにまで、迫っている。
同期会の誘いは例の如く突然だった。
ユニヴェール歌劇学校の仲の良い同期で繋がっているLINEのグループが久しぶりに動いたかと思えば、海堂岳信が明日の午後九時にヴィルチッタ絢浜に集合するようにとメッセージを残し、根地黒門が誰よりも速く《了解!》の返信を送っていた。既読のまま見守っていると、忍成司に続いて、睦実介からも参加することが告げられる。
《もちろん、フミも来るだろう?》
《どーすっかな》
《ちょっとおフミさん? 付き合いが悪いのではなくて?》
《おまーは荷造りは終わってんのか、クロ?》
《荷造りなんて七面倒くさいことはしないよ。基本は現地調達さ。荷物は必要最低限! 機内に持ち込める範囲の手荷物で十分だからね》
《なんだ、二人は一緒にどこかへ出掛けるのか?》
《イギリスだよ、イギリス。ロンドンはウエスト・エンド界隈まで芸術三昧の毎日を過ごしに行くんだ!》
《おお! ウエスト・エンドか! それは羨ましいな!》
《海堂も一緒に来るかい?》
《是非とも同行させてくれ、と言いたいところだが、時期的に難しい。実に残念だ》
自分は仕事で行くのだと説明することも面倒で、更文は物凄い速さで流れていくメッセージを目で追いかけながら、テーブルの上のコーヒーに手を伸ばした。玉阪座とは別の芸能関係者に渡英前の挨拶を終えた帰り、場末の喫茶店に立ち寄って、鉄を煮詰めたような苦いコーヒーを飲みながら本を読んでいたところだった。
『──お、何だよ』イギリスに発つ前に、必要な荷物を取りに実家に帰って来た更文が縁側を通りかかると、一助がそこに腰を下ろして本を読んでいた。『一助兄貴が洋書を読むなんて珍しいな』
『失礼ですね、私だって読書くらい嗜みますよ』
『普段は和書ばっかりだろ』
『これはイギリスにいる教え子からいただいた本なんです』
あなたの渡英が近づいているからでしょうか、ついつい読み返してみよう、なんて気になってしまいまして──と、一助は言う。
『フミさんもお読みになってみますか?』
『どんな話なんだ?』
『坦々と過ぎ去っていく日常を丁寧に綴った物語です。広義のジャンルで言うなら、ヒューマンドラマでしょうか。日本的に言えば純文学ですね』
『それ、面白いのか?』
『そうですね。正直なことを言ってしまえば、決して面白くはありません』一助の言い様に、更文は思わず眉を顰める。その言葉とは裏腹に、一助の手の中にある本は、何度も読み返していると分かるほど草臥れていたからだ。『ただ、どうしようもなく魅入られてしまうんですよ。この世界の残酷さを謳っているのに、物語を綴る言葉があまりに美しすぎて、それがまるで麻薬のように、読み手の感覚を陶酔させていくような……』
『名のある作家が書いた話?』
『いいえ』一助は首を横に振った。『私と変わらない歳の青年が、数年前に出版した作品です。元々は映画の脚本として書かれたものですが、後に小説として出版されました。少し前に日本語に翻訳された本も発売されたのですが、この訳文がファンの間では酷く不評で』
『……落日?』
指の間から覗いていた本のタイトルを和訳して読み上げると、一助は「ああ」と漏らしてから、表紙に視線を落とした。
『日本では『斜陽の雲』と訳されています』
『あ、それ、聞いたことあるな。なんか、世界中の映画賞で各賞を総なめにしたとかなんとか、クロが騒いでたっけ』
『映画業界も歴としたエンターテイメントの世界なのですから、しっかりとアンテナを張っておいた方が良いですよ、フミさん』
『俺は生身の舞台の方が好きなんだよ』
『食わず嫌いは勿体無いとは思いませんか?』一助はそう言うと、更文に向かって、手にしていた本を差し出した。『この本を貸して差し上げます。読んでご覧なさい』
『……これ、英語だろ?』
『英語の勉強にもなるでしょう?』ふふふ、と一助は笑う。『現地に赴くなら、会話だけではなく、読み書きも大事ですからね』
イギリスに行くことが決まってから、毎日毎日英語の勉強を続け、日常会話程度ならなんとか意思疎通はできるようになった。誰か英語を教えてくれる人はいないかと白田美ツ騎に相談したところ、イギリス人の知人を紹介してくれたのだ。
『イギリスに行くなら、イギリスの英語を学んだ方がいいです。下手にアメリカの英語を使うと、嫌味が飛んでくるようなお国柄ですから』
彼女が話す英語は、イギリスではエスチュアリーという、河口域英語と呼ばれるものらしい。日本語にも各地に方言があるように、英語にもその土地ごとの訛りが存在する。通りが一本違えば、まったく違う発音になるとも言われるらしく、同じイギリス人でも訛りのきつい英語は聞き取れないことがあるそうだ。
『難しく考える必要はない』画面の向こう側にいるブロンドの女性が、流暢な日本語でそう言った。『日本で言うところの、標準語と関西弁みたいなものだから』
耳で聞く、話す、読む、書くの順番で勉強するようにと言われた更文だったが、最初の頃は読み書きは二の次にして、聞くことと話すことに集中するようにとの指示を受けていた。
『簡単な会話はパターン化できる。こう言われたらこう言い返すっていう、定型文をいくつか用意しておいて。最初は大変かもしれないけど、慣れれば言葉が口をついて出てくるようになる。相手が言った言葉を、頭の中で日本語に訳すのは、間違いなく時間の無駄だから』
Helloと言われて、わざわざ頭の中で「こんにちは」に変換してから挨拶をするかと問われ、更文は画面越しに首を横に振った。
『どのような言語でも、その国の言葉で理解する方が上達は早い。一ヶ月くらいしか時間がないのなら、尚のこと遠回りをしてる暇はないから、そのつもりでね』
最後まで公私混同をしなかった彼女は、自らが住んでいる場所も何も明かさず、ただ毎日同じ時間にオンラインで英語の授業を行ってくれた。授業料は言い値で支払っている。良い小遣い稼ぎになったと言って喜んでいた。
美ツ騎の紹介だったので、人選には最大限の信頼を置いていた。だが、良い人を紹介してくれてありがとうと感謝の気持ちを伝えると、美ツ騎は僅かに訝しげな表情を浮かべ、首を捻っていた。
『どうした?』
『ああ、いえ、なんでも』美ツ騎はテーブルの上にある砂時計の砂が落ち切ったのを一瞥してから、薄い色の紅茶をカップに注いだ。『彼女、日本とイギリスのダブルなんだそうです。語学が堪能なので、向こうのエージェントが通訳につけてくれた人なんですよ』
一緒にロンドンに行かないかと誘ってはみたものの、美ツ騎からは未だ思わしい返答を得られてはいなかった。それとなく訊ねてみても、なんとなくはぐらかされてしまう。無理強いをするのは良くないと口を噤むが、本音を言えば、着いて来て欲しいというのが正直なところだった。
柄にもなく弱気になってるのかね──更文はそう思いながら、必要以上に黒々としたコーヒーを口に運び、小さく息を吐いた。
「コーヒーのお味はどうだい?」この喫茶店のマスターが、カウンターの隅にいる更文に声をかけてきた。「サービスだよ」
更文はスマートフォンの画面から顔を上げ、ありがとうございます、と言って軽く目を伏せる。目の前に置かれた皿の上には、甘ったるいレモンケーキと、さっぱりとした味わいの生クリームが添えられていた。
「相変わらず、目の覚める味です」
「うちのコーヒーはケーキと合わせて食うのが常識なんだ。それだけで飲むもんじゃないのさ。ほら、お抹茶だってそうだろう? 甘味があってこそ引き立つってもんだ」
「ええ」
「次からは是非ともケーキを一緒に注文してほしいね。娘の作るケーキはどれも最高においしいんだから」
「次のときは必ず」
ここは、玉阪歌劇を贔屓にしているマスターと、ユニヴェールフォロワーである娘が、親子で営んでいる喫茶店だ。
この喫茶店は、路地裏も路地裏、玉阪の町にこんなところがあったのかと驚くほど寂れた場所にある。看板も出ていないため、一見さんが訪れることはまずあり得ない。まるでヨモギの匂いが香ってきそうないかがわしさのある、異質な雰囲気の飲屋街の中に、この喫茶店はあった。
とはいえ、この辺りの店の多くは、昔から玉阪座の役者たちに贔屓にされている。この喫茶店もその例に漏れない。昔ながらのファンは、この辺りに玉阪座の役者が集まることを知っているが、それ故に、役者の邪魔をしないよう、飲屋街に足を踏み入れないことが暗黙の了解となっているそうだ。
「いらっしゃいませ、高科さん」店の奥から甘い匂いが漂ってきたかと思うと、マスターの娘が焼きたてのアップルパイを手に現れる。「あら? 高科さんが台本以外の読み物をしているなんて、珍しいですね」
「兄に薦められて」
「洋書ですか?」そう問われ、本の表紙が見えるように掲げると、娘は一瞬の後、ああ、と声を上げた。「斜陽の雲ですね」
「ご存知なんですか?」
「本は読んだことありませんけど、映画は観ました」
「どうでしたか?」
「私、あんまり退屈で、途中で寝ちゃったんですよね」あはは、と自らを恥じるように娘は笑う。「でも、一緒に行った彼氏は大号泣してましたよ。普段はあまり感情を表に出さない人なので、すごく驚いたのを覚えてます」
スマートフォンの画面上では、今もまだ目まぐるしくメッセージのやり取りが続いている。更文は一言《今立て込んでるから後でな》とだけ残し、画面を暗転させてテーブルの上に置いた。
「私の彼氏、あの映画を観てからすっかりアラン・ジンデルのファンになってしまって、その人が脚本を書いた映画は片っ端から観てますし、英語なんてからっきしだったくせに、翻訳本が発売されないことを嘆きながら、洋書を買ってきて辞書片手に黙々と読んでるくらいで」
「へえ」
「私にはよく分からないんですけど、響く人には響くみたいですね」
「オレは好きだったけどなぁ、あの映画」
「ええっ、どの辺が?」
「お前みたいなお子様には、あの映画の良さは分からないのさ」
「私もそろそろいい歳なんですけどね」
英語で書かれた本を、日本語で書かれたものを読むように理解することは、今の更文にはまだ難しい。こんなことになると分かっていれば、子供の頃からもっと真面目に勉強していたのにと、もう何度思ったことだろう。
日舞の世界で生きていくことは、日本で生きていくことと同義だと思っていた。外の世界に目を向ける必要はないと考えていた。いや、考えたことすらなかったのだ。日本の外に出ることなど。
「えっ、あれっ? ちょっと待って……」
焼きたてのアップルパイをカウンターの上に置いた娘は、焦点を合わせるように目を細めたかと思うと、次の瞬間、その反動で大きく目を見開いた。その眼差しは、更文の手元に注がれている。
「そ、それって、サインですか?」
「え?」
「ほら、裏表紙のところ、掠れて見えにくいですけど……」
どうして気づかなかったのだろう。気にも留めていなかったのかもしれない。更文は本を持ち直すと、娘が言う裏表紙に視線を落とした。すると、そこには確かに、筆者のサインのようなものが記されていた。
「それって、サイン本ですよね? えっ、高科さん、その本ってどこで手に入れたんですか?」
「兄はイギリスにいる教え子からいただいたものだと話していましたが」
「そっ、その教え子さんって、何者なんですか?」サイン本くらいで何をそんなに狼狽えているのだろうと思っていると、娘は続ける。「彼氏調べによると、その人って授賞式とかの表舞台には一切顔を出していないので、正体不明とも言われていて、年齢も性別も明らかにされていないんですって」
「いや、でも兄は……」
私と変わらない歳の青年が、数年前に出版した作品です──一助はそのように話していた。聞くからに相当なファンであるこの娘の恋人が、正体不明の人物だと言っているのに、どうして兄は、当人を知っているとでもいうふうな物言いをしたのだろう。
「──そりゃあもちろん、君のお兄様は、そのアラン・ジンデルをご存知なのさ」後日、同期会が行われるヴィルチッタ絢浜に向かう電車の中で、根地黒門が言った。「っていうか、僕にどう思うかを聞くんじゃなくて、本人に確認すればいいだけの話なのでは?」
「親父と兄貴は興行に出かけてる。方々への挨拶回りやら最終稽古やらで忙しいだろうからな」
「確認なんてほんの一分かそこらで済む話じゃないか。『アラン・ジンデルと知り合いなの?』って聞いてみるだけだよ。答えは『はい』か『YES』の二択しかない!」
「このサイン本は兄貴がイギリスにいる教え子から貰ったって話だ。その脚本家と直接面識があるとは言ってない」
「でも、その教え子は脚本家と近しい間柄なのかもしれない。脚本家がどのような人物なのかを話して聞かせられるくらいにはね」
「俺より興味ありそうだな」
「そりゃそうよ」
がたん、ごとん、という電車の揺れる音に紛れて、こそこそと囁くような声が聞こえてくる。不躾な視線も一緒だ。黒門も同じ視線を感じていたようで、反射的に目を向けると、何を思ったのか、にこにこと笑いながらそちらに歩み寄っていった。
またはじまった、と思いながら更文が呆れていると、黒門は自分たちの方を見てこそこそと囁き合っていたカップルの前に立ち、代わる代わるに握手を求めている。まるで、気の置けない友人と久しぶりに会ったかのような顔をして、二人と話をしていた。
停車、発車、停車、発車──それを何度か繰り返した後、黒門は窓の外に目を向ける。
「じゃ、僕はここで」何の前触れもなく突拍子もないことをはじめるのは、ユニヴェール時代から変わっていない。「行くわよ、フーミン」
「はいはい」
頬を紅潮させ、やや興奮気味にこちらを見ていたカップルに向かって軽く会釈をして見せ、更文は黒門に続いて電車を降りた。
「何の話をしてたんだ?」
「二人の出会いはいつか、付き合いはじめて何年目なのか、初デートはどこだったのか、結婚願望はあるのか、同棲してるなら家事と生活費の分担はどんな感じにしているのか、等々だよ」
「デリカシーねぇな」
「先にデリカシーのない目を向けてきたのは彼らの方じゃないのよ」黒門は改札口を通り抜けながら、僅かに後ろを振り返り、小さく肩をすくめながら言った。「大丈夫、僕らの株を落とすようなことはしてないから、心配しないでよ。楽しくおしゃべりをしていただけさ」
真正面から声を掛けてくれれば、それ相応の対応をするつもりではいるのだ。だが、視線を感じ、囁き声を聞きつけても、話しかけてくる者はほとんどいない。不躾な眼差しだけでは飽き足らず、隠し撮りをしている者もいるが、好きにさせている更文とは違い、黒門は進んで手を振ったり、ポーズを作ってやったりと、ファンサービスに余念がなかった。
「だって、こっそり撮られた写真の顔がおブスだったらって想像すると、耐えられなくない?」以前、そう言った黒門の言葉に同意したのは、忍成司だった。「やっぱりそう思うわよねぇ」
だが、それが黒門なりの牽制なのだろうと、更文は思っている。
こっそり見ているつもりでも、気づかれないようにレンズを向けているつもりでも、こちら側はすべて分かっているぞという、警告のようなものだ。「次からはちゃんと声を掛けてね」と言って笑っているが、一見すると誰よりも優しく感じられる根地黒門こそ、すべてにうんざりしているのかもしれない。
「二人とも、よく来てくれたな!」集合場所のホテルのフロントに到着すると、名乗る暇も与えられないまま支配人が現れ、二人は最上階に近いスイートルームに通された。「だが、カイはどうした?」
「カイなら少し遅れて来るよ。次の舞台の稽古中でね」
「ハーイ、フミ、コクト」
先日、主役の比女役として立った舞台を終え、オフを満喫していたはずの忍成司は、窓辺の席に腰を下ろして、既にシャンパングラスを傾けている。二人の姿を目に留めると、大きな苺を頬張りながら、にこにこと機嫌が良さそうにグラスを掲げて見せた。
「ハワイは楽しめたか?」
「もちろん、最高だったわよ。絶対に日焼けをするなと釘を刺されていたから、ビーチで遊ぶことはできなかったのだけれど、夜の浜辺をお散歩したり、ナイトプールで遊んだり、あとはショッピングを楽しんだわ。二人にもお土産を買ってきたから、あとで渡すわね」
「マカダミアナッツのチョコレートかな」
「コクトがそれでいいって言うなら」
「ああ、いやいやごめん、冗談、冗談。一体何を買ってきてくれたのかな〜」
おそらく、ハワイ土産はアロハシャツだろうと思いながら、更文は海堂岳信の姿を横目に見た。藍染に白抜きでハイビスカスの花の模様が浮かび上がっている、趣味の良いアロハシャツを、スーツのジャケット代わりに羽織っている。
「しかし、随分な部屋を用意してくれたんだな」司の正面を陣取り、ハワイ旅行の話を根掘り葉掘り聞き出そうとしている黒門を一瞥してから、更文は傍にいる海堂を見上げた。「ヴィルチッタ絢浜のスイートルームなんて、予約が取れないことで有名だろ?」
「レストランの個室を用意しようとも考えたのだが、今夜は久しぶりの同期会だ。今や玉阪座の綺羅星となった君たちは、人目がある場所では落ち着いて話もできないのではないかと思ってな。それに、この部屋から見る朝日は素晴らしいぞ。今夜は是非とも泊まっていってくれ」
「へえ」更文はそう言うと、鏡のように自らを映している窓の方に目を向けた。その先には暗闇がある。「んじゃ、お言葉に甘えさせてもらおうかね」
同期会とは言っても、集まるのはいつも同じ仲間たちだ。所属する寮は違えど、互いに切磋琢磨し合い、個人賞を競い合ってきた。いや、結果的に競い合っていたというだけで、実際のところは、それぞれが自分自身と戦っていたと言った方が正しいのかもしれない。
他者に己との違いを見出すことよりも、ただ真摯に己の技を磨くことの方がずっと、かぎりある時間の過ごし方としては有意義だ。ここに集まっている連中は、全員がそれに近い物の考え方をしている。
それぞれが違う才能を持ち合わせていながらも、似たようなスタンスを備えているからこそ、こうしてユニヴェールを卒業した今でも、気の合う仲間として定期的に連んでいるのだろう。
俺はお前とは違う。
俺はお前のようにはなれない。
お前に俺の気持ちは分からない。
自分自身の口が真実を語り、答えを導き出しているというのに、そう口々に愚痴を漏らす人々の多くは、その事実に気づくことはない。
俺とお前は違うし、俺のようになる必要もないのだ。誰かの気持ちを理解しようとすることも、理解されたいと思うことにも、まるで意味がない。それに気づくことのない人間は、いずれ自らの足で前進し続けることに疲れ、歩みを止めてしまうものだ。
まだここにはいない睦実介以外の四人は、当初から持つ者として脚光を浴びていた。
ユニヴェールに入学して一年以上、舞台の真ん中でスポットライトを浴びたことは愚か、名前のある役すらもらったこともなかった介だが、腐ることなく前へ、前へと進み続けた結果、今や玉阪座では高科更文以上の人気を誇り、不動の地位を確立しつつある。
持つ者には持たざる者の気持ちは分からない。だが、手を差し伸べることは、いくらでもできる。決して歩みを止めず、必死になって食らいついてくる者の手を、振り払おうとは思わない。いや、振り払うことなどできはしない。そういう人間は、たとえ悪意を持って谷底に叩き落としたとしても、己が力で這い上がってくるのだから。
「──でも、いいわねぇ、ロンドンに行くなんて」
介が到着したという知らせを受け、海堂は居ても立っても居られない様子で、自ら出迎えるために部屋を出ていってしまった。更文が一人掛けの肘掛け椅子に腰を下ろし、本を読んでいると、窓辺で話し込んでいた黒門と司の声が、耳に飛び込んでくる。
「本当はロンドンも候補に上げていたのよ。ウエスト・エンドで観劇三昧っていうのも素敵じゃない?」
「そう思うなら行けばよかったのに」
「去年のお休みにはブロードウェイに行ったのだけれど、あのときは変に興奮してしまって、全然心が休まらなかったの。世界最高峰の歌声を聴いてしまったら、自分も歌わずにはいられなくなってしまったのよ。結局、現地のワークショップに飛び入りで参加して、研修旅行みたいになってしまったから」
「君は相変わらず勉強熱心だね」
「あら、コクトだってそうでしょう? 遊学のためにロンドンへ行くと聞いているけれど。しかも、半年も」
「イギリスの観光ビザは六ヶ月以内なら事前に面倒な手続きをする必要がないからね。本当はもっと長く滞在したいくらいなんだけど、お偉方が許してくれなくてさ」
「よく半年もお休みをもらえたわね」
「イギリスにいても仕事はするよ。この世界のどこにいたって脚本は書けるし、ネット環境が整っていれば演出だって可能だ。新たな着想を得るためには旅をしなくちゃ。今や僕の脳みそは膠着化しつつあるんだ。それは玉阪座にとっても大きな損失だろう?」
「そう言って偉い人たちを丸め込んだのね」
「実際、僕の頭はコチコチに凝り固まって、一辺倒な物の考え方しかできなくなっているんだ」黒門はそう言いながら、自らのこめかみの辺りを、人差し指で軽く突いた。「昔はあんなに柔軟だったのにね。ユニヴェールは自主性を重んじる場所だった。ある程度の自由が認められていたから、僕は大空を羽ばたく鳥でいられたんだ。でも、玉阪座に入門してからは、まるで籠の中に囚われた鳥の気分だったよ」
「コクト」
「もちろん、毎日楽しいよ。最高の環境に身を置いている自覚だってある。僕は相当我儘を言っているのだろうし、他の人たちから見れば、十分好き勝手やらせてもらっているはずだ。その上何を望むんだって理事会には呆れられたけど、今は重い足枷をつけられてでも、外の空気を吸いに行きたいって思ったんだ。ブロード・ウェイやウエスト・エンドには、前々から行ってみたいと思っていたしね」
根地黒門は自らの心を建前で塗り固め、本心を覆い隠そうとしている。それらしい言葉を並べ立てて、自らを正当化しようとしている。自分自身を言い包めているのだ。心の奥底で未だ燻っている木屑の火が、これ以上大きくなることのないように。
だがしかし、残念なことに、忍成司は見て見ぬ振りをするような人間ではなかった。すべてを理解した上で、辛辣な言葉を口にすることも厭わない、強い人間だ。
「理由は本当にそれだけかしら」
司が核心に触れようとしているのを察し、更文は読んでいた本から顔を上げる。すると、余計なことは言うなとばかりに、司の視線が窓ガラス越しにこちらに向けられた。
「イギリスには希佐がいるのでしょう?」一瞬、凍りついたような沈黙が辺りを支配したが、司は構わず続けた。「稀がうるさいのよ」
「……うるさいって?」
「希佐が物凄い美人になってるって」その物言いに思わず目を丸くしていると、黒門も同様の反応を見せたあと、珍しく苦笑いを浮かべていた。「あの子にはそれがすべてみたいね。世間の論争になんて興味がないの。人間の性別なんて瑣末な問題なんだわ」
「僕だって人間の性別になんて、こだわるだけ無駄だとは思っているよ」テーブルに乗り出していた上半身を引き、椅子の背もたれに体を預けて、黒門はゆったりと足を組んだ。「ユニヴェール歌劇学校以外の場所ではね」
「ええ、あなたにとっては、そうでしょうね」
更に腕組みをする黒門をまっすぐに見据え、司はシャンパングラスを手に取ると、黄金色の気泡を立ち上らせる液体を呷る。スカーフで隠した喉元がゆっくりと上下するのが分かった。
息の詰まるような沈黙が続くかと思った刹那、スイートルームの両開きの扉が大きく開かれ、二人の大柄の男たちが入ってきた。
ほう、と内心で安堵の息を漏らしていると、見るからに豪奢な内装の室内を、物珍しそうに見回していた睦実介が更文の方を見やった。
「おつかれさん」
「ああ」介は小さく頷いてから、僅かに首を傾ける。「何かあったのか?」
「いや、なにも」
更文は本を閉じ、その場に立ち上がる。介はその様子に目を留めながら、そうか、とだけ言った。
先程までの、どこか不穏なやり取りなど一切なかったかのように、同期会はなごやかな雰囲気の中ではじまった。ダイニングルームに職人が呼び込まれ、和食を中心としたコース料理や、握り寿司などが振る舞われる。料理に合わせた日本酒を飲み交わしていると、普段から口数の多い者はより饒舌になり、愉快な者はより愉快に、騒がしい者は騒がしく、寡黙な者は寡黙なまま、同じテーブルについて言葉を交わし合っていた。
「そういえば、フミと二人でイギリスに行くと言っていたな、根地」
「ん? ああ、そう言ったとも。あと一週間かそこらしたら出発さ。僕はその前に新人用の脚本を一本仕上げなきゃいけないんだけどね!」
ふはははは! と根地は高らかに笑っている。その隣に座っている介は、稽古終わりで相当腹を空かせていたのか、目の前で職人が握っている寿司を黙々と口に運んでいた。
更文は、揚げたての蕗の薹の天ぷらに、漆器の小匙で軽く塩を振り掛け、熱々のまま口に運ぶ。薄い衣を纏った蕗の薹は、歯を立てるとさっくりとした音を立てた。次の瞬間、ほろ苦い味が口の中に広がり、青々しい香りが鼻に抜ける。春の味がした。
「海堂はロンドンが好きよね」司が白ワインのグラスを取り上げながら言った。「去年も行ったと言っていなかった?」
「ロンドンには子供の頃からよく言っていたからな。第二の故郷といったところだ。ウエスト・エンドで観たミュージカルが、俺をユニヴェールへと導いてくれた」
今はもう海堂グループの次期跡取りとしての仕事に従事しているが、舞台に対する情熱はまだ薄れていないと分かる。日々鍛えている介の隣に並んでも見劣りのしない肉体は、ユニヴェールにいた頃よりもしなやかだ。すぐにでも舞台に返り咲けるだけのポテンシャルがある。
「去年は特に気に入っているミュージカル公演をいくつか観たあとは、小さな劇場で上演しているフリンジの舞台を見て回った。若者が中心の実験的で挑戦的な舞台を観ると、良い刺激を受けられる」
「うんうん、やっぱりいいよねぇ、フリンジ」根地はぐびぐびとビールを飲み、ぷはー、と大きく息を吐いた。「僕もロンドンに行ったら小さな劇場で上演している舞台を観て回るつもりでいるんだ。可能なら現地で何人かスカウトして、舞台を回したいと思ってる」
「それは素晴らしい試みだな、是非とも実現させてくれ」
「観に来てくれるかい?」
「もちろんだ、約束しよう」
「ちょっと、そんな簡単に約束をしてしまって大丈夫なの?」司は二人の様子を眺めながら呆れたように言った。「コクト、本気にするわよ」
「懇意にしている友人があのウエスト・エンドで舞台をするんだ、出向かない方が失礼に当たるだろう?」
「海堂の物言いだと、私たちまで行かないといけないみたいよ、カイ」
「いいな」
「え?」
「コクトがロンドンで舞台を作るなら、俺も観に行ってみたい」休みが取れれば、だが──と介は続ける。「それに、俺は立花にも会いたい」
辺りに微かな緊張感が漂うのを更文は感じ取っていたが、平然とした面持ちを浮かべたまま、職人が揚げてくれた筍の天ぷらを口に運ぶ。さっくりとした独特の歯触りと、みずみずしさ、甘みを堪能していると、更文と同じように平然としている海堂が思い出したように口を開いた。
「立花の舞台なら、去年ロンドンに行ったときに観たが──」
海堂が最後まで言い終えるのを待たず、むしろその言葉を遮るように、グラスの割れる繊細な音が辺りに響いた。黒門が手にしていたグラスが滑り落ち、大理石の床に落下し、砕け散ったのだ。バーに控えていたバーテンダーが掃除道具を手に駆け寄ってくると、呆然としていた顔に申し訳なさそうな表情を滲ませた。
「すみません、手が滑ってしまって。ちょっと飲み過ぎたかな」
「お怪我はございませんか?」
「はい、大丈夫です」下手に立ち上がるよりも、その場でじっとしていた方が邪魔にならないと判断したのか、黒門は椅子に座ったままじっとしていた。「お手数をおかけします」
「代わりのお飲み物をお持ちいたしますが」
「あ、じゃあ、お水をください」
「かしこまりました」
バーテンダーは粉々に砕け散ったグラスの破片と、掃除用具を手にダイニングルームを出ていく。しかしすぐに戻ってくると、黒門の傍に水と氷の入ったグラスをそっと置いた。
「ありがとうございます」
一礼をして下がっていくバーテンダーに向かって感謝の言葉を口にしながらも、黒門のその面差しは、何やら奇妙に歪んで見えた。自分が今どういった感情を覚えているのかを、正しく理解できていないように見受けられた。
「おい、クロ。大丈夫か?」
「えっ、何がだい?」
「……いや、飲み過ぎには気をつけろよ。お前、許容範囲を超えると一気に酔いが回るからな」
自分は自分で重症だと思っていたが、イギリスに行くと覚悟を決めてからは、不思議と心の水面は凪いでいる。だが、自らの意思でイギリスに行くと豪語した根地黒門は、その日が刻一刻と近づいてくるにつれて、少しずつ落ち着きをなくしつつあった。しかも、本人にはその自覚がないようなのだ。
黒門から希佐に向けられている思いは、つまるところ恋心なのではないかと、そう美ツ騎は指摘していた。その通りだろうと肯定はしないが、違うと否定することもできない。
根地黒門は女性と積極的に関わることを避けている。女性は恐怖の対象だからだ。
ユニヴェールにいた頃、互いの家の話や家族の話を、介も交えて三人で語り合ったことがあった。そのとき、黒門は言っていたのだ。
自分は女性が怖い。妻以外の女性に恋をし、その女性以外のことを何も考えられなくなった父親が、才能の枯渇の末に自らの意思で命を絶った。自分には、そんな父親と同じ色の血が流れている。あれほどまでに舞台に情熱を注ぎ、才能豊かだった父親が、たった一人の女性に恋をしただけで、何もかもを失ってしまった。自分も女性に恋をしてしまったら、父親と同じようにこの才能を失ってしまうのではないか──父親の死後ずっと、そんな恐怖に怯え続けているのだと。
もし、美ツ騎の指摘が真実であり、黒門が無自覚のまま希佐に恋心を抱いているのだとしたら、イギリスに行くことは自殺行為に他ならないのではないか。だが、その感情を本人に突きつけ、だからイギリスには行くなと説得を試みたことで、黒門自身が恋心を自覚してしまえば、自分の言葉がその首を絞めることになりかねないと思い、更文は尻込みをしてしまっている。
井の中の蛙大海を知らず──それは、更文と黒門、どちらにも当てはまる言葉だ。日本以外の世界を知らない。この十年近く、実家と玉阪の町を往復するばかりで、外の世界に目を向けてはこなかった。
冒険はするべきなのだろう。
だがしかし、二人が行くその先には、立花希佐がいる。
「海堂はロンドンで立花の舞台を観たのか?」一瞬の沈黙のあと、介が臆面もなく口を開いた。「どんな舞台だった?」
「ああ、俺が観たのはサロメだ。オペラ作品をミュージカルの脚本に書き換えた、挑戦的な舞台だったぞ。立花はサロメを演じていたのだが、そのときはまさか彼だとは──いや失礼、彼女と言うべきかな。とにかく、サロメを演じているのが、立花だとは気づかなかった」
「気づかなかった?」
「ホテルに戻って舞台のチラシを眺めていたら、サロメを演じていた役者の名前がKISAだと分かった。そういえば、どこか見覚えがあったような気がしてな、次の日も同じ舞台を観に行ったんだ。サロメをな。そこで俺は確信した。彼女は立花希佐だと」
「どうしてそれを教えてくれなかったの?」司が酷く真剣な面持ちを浮かべて横槍を入れた。「クォーツの人たちがずっと希佐を探していたことは、あなたも知っていたはずでしょう?」
「考えて、考えて、考えて」海堂は睫毛の長い瞼を伏せ、低く言う。「俺は、誰にも言うべきではないと判断した」
「なぜ?」
「彼女は彼女の道を歩んでいると思ったからだ。小さな地下劇場で上演された舞台とはいえ、彼女はウエスト・エンドの地で、役者としての地位を確立している。これは凄まじいことだ」そう言う海堂の目が、情熱を帯びてきらりと輝いた。「昔、立花がまだユニヴェールの一年だった頃に、中庭でウエスト・エンドについて語らったことがある。彼女がそのことを覚えていてくれたのだとしたら、俺はそれを嬉しく思う」
根地黒門の青ざめた顔を見れば、この話は長引かせない方がいいことは明白だった。だが、更文は自身の好奇心を抑えることができなかった。黒門から観るようにと送られてきた動画への誘惑は、瞬時に絶つことができたというのに、希佐がサロメを演じたと聞いたその瞬間から、頭の中にはあの酷く有名な音楽が響き渡っている。
「なあ、海堂」
「なんだ、フミ」
「希佐は踊ったわけだよな」更文は正面に座っている海堂を睨むように見た。「七つのヴェールの踊り」
「ああ」
「オニキス元組長の目には、希佐のダンスはどう映った?」
「美しかった」更文の眼差しを受け止め、海堂はどこか挑発的な表情を浮かべる。「フミなら興味深く思うだろうとも感じた」
「へえ?」
「恐らくは彼女自身が振り付けを行ったのだろう。所々に日本舞踊のような和の雰囲気があった。フリンジの舞台であればこその挑戦だな」
物理的にも、精神的にも、遠くへ行ってしまったと思っていた。だが、立花希佐は、意外と近くにいたのかもしれない。
遠ざけていたのは、自分だったのか──更文はそのように思いながら、切り子細工のお猪口を傾ける。
今もまだ変わらず思ってくれているのだろうか。自分が鯉結びに願ったように。自分の舞が、今でも彼女の中に息づいているのなら、再会は恐ろしくないことのようにも思える。
「海堂、アラン・ジンデルって知ってるか?」
食事が終わり、ダイニングルームが元通りに片付けられた。司は内風呂に入ってくると言って奥の部屋に姿を消し、黒門は脚本を書くからと書斎に引きこもっている。介はふらりと姿を消したが、いつものことなので心配はしていない。
更文は一人、リビングルームで本を読んでいたが、濡髪にバスローブ姿で現れた海堂を見て、そう声を掛けた。
「もちろん、知っているぞ」バーの冷蔵庫から通り出した水をグラスに注ぎ、それを手に戻ってきた海堂は、更文の向かい側のソファに腰を下ろした。「斜陽の雲を書いた脚本家だろう?」
「映画は観た?」
「ああ」海堂は大きく頷いてから、ごくごくと喉を鳴らして水を飲む。「世界的な写真家が監督ということもあって、圧倒的な映像美の映画として知られているな。彼が指揮を取っていなければ、数多の映画賞の受賞はなかっただろうと言われていたが、脚本家自身が筆を取った小説が出版され、その評価が覆った」
「どう覆ったんだ?」
「当初は、台詞が少なく、単調な映画だという意見が多かったんだ。上演時間は一時間四十五分だが、役者はその間あまり多くを語らない。観ている者の感性に委ねられる場面が多々出てくる。エンターテイメントとして見るにはあまり優しくない内容だろうな。だから、一部では過大評価されているという意見もあった。実際、ただ退屈なだけの映画だと。だが、小説が出版されると、主人公の心情がありありと伝わってくる心理描写の細やかさや、背景描写の美しさに、辛口の評論家たちが舌を巻いた」
思いの外熱く語られる内容に、更文は思わず目を丸くしてしまった。
「お前、詳しいのな」
「加斎がアラン・ジンデルのファンで、俺はその影響を受けただけなのだが」
「加斎が?」
「あいつは一年の頃から海外での活動を見据えていたから、ずっと語学の勉強を頑張っていた。それを知った箍子先生に、読んでみるように薦められたのが、斜陽の雲なのだそうだ。ああ、そういえば、箍子先生は斜陽の雲の監督とお知り合いだそうだぞ。確か、レオナール・ゴダンだったか」
レオナール・ゴダンという名前に、更文は聞き覚えがあった。世界的に有名な映画監督だから、どこかで聞いたことがあるというふうな話ではない。つい最近、親しい間柄の人間の口から、その名前が紡がれるのを聞いている。
「おんやあ?」書斎をこっそりと抜け出し、盗人よろしく忍び足でバーの飲み物を拝借しにきたらしい黒門が、二人の話に興味を示した。「今、僕の知ってる名前が聞こえてきたような気がしたけど」
ぷしゅ、と炭酸水の蓋を開けながら近づいてきた黒門は、すとんと更文の隣に腰を下ろした。まるでただの水を飲むように、ごくごくと炭酸水を飲んでいる。
「フミと二人で斜陽の雲について語らっていたところだ」
「ああ、それでレオの話を」
「レオ?」
海堂がそう言って首を傾げると、根地はにんまりと笑った。
「レオナール・ゴダンは僕の父の親友でね。父が身罷ってからも、僕のことをいろいろと気にかけてくれている。普段はアメリカに拠点を置いているんだけど、今は映画の撮影でイギリスに滞在しているんだ。僕がロンドンに行くと連絡をしたら、イズリントンにある自分のアトリエで寝泊まりをすればいいと言ってくれて」
「根地にそんな著名な知り合いがいたとは、知らなかったぞ」
「あえて触れ回るようなことでもないだろう?」
「では、脚本家のアラン・ジンデルのことも何か知っているんじゃないか?」
「いや、残念ながら」本当に残念だという顔をして、黒門は首を横に振った。「アラン・ジンデルのことについては何一つ教えてくれないんだよ。本人が嫌がるからって」
「嫌がる?」
「社交的な人ではないみたいなんだよね」黒門はうーんと唸りながら、胸の前で腕を組んだ。「斜陽の雲が上映されるまではまったくの無名だった人間が、いかにして世界的に活躍している写真家と出会って、各国の映画賞を席巻する脚本を書くことになったのか。もうそこにはドラマしかないとおもわない?」
立花希佐の名前が出てこない分には、そこにいるのは普段通りの根地黒門だった。顔色は元通りになり、挙動が不審に感じられることもない。
「そういえば、君が持ってる本には本人のものと思しきサインがあるんだっけ?」黒門が思い出したように言う。「どれどれ、アタシに見せてご覧なさいよ」
更文は一度逡巡するが、手に持っていた本を黒門に差し出した。
黒門は更文の手から本を取り上げると、くるりとひっくり返し、ポケットから虫眼鏡を取り出すような仕草を見せる。裏表紙にこれでもかというほど顔を寄せ、目を凝らした。
「A to Zと書いてあるようだね」
「俺にもそう見える」
「自分のイニシャルに掛けてるんだろうけど、見方によっては酷く傲慢とも取れるじゃないか」
AからZまで──それはつまり、日本語で言うところの、一から十までと同じような意味になる。最初から最後まで。何から何まで。転じて、何もかもすべてと訳すこともできた。
「あとは、なんだっけ? 君のお兄さんは、アラン・ジンデルは自分と歳の変わらない青年だ、とも言っていたんだっけ?」
「ああ」
「因みに君のお兄さんは何歳?」
「二十九だ」
「ほうほう」黒門は顎に手を添えながら、膝に置いた本のページをはらはらと捲っている。「斜陽の雲を退屈だと吐き捨てる人は多いけど、僕はあの映画を観たとき、そのあまりの密度の濃さに息苦しさを覚えたんだ。次から次へと情報が雪崩れ込んできて、処理が追いつかないほどだったよ。レオは、自分の映画はただ脚本に忠実に作られたものに過ぎないと言っていた。だから僕は、もし可能なら、斜陽の雲の脚本をこの目で見てみたいんだよね。そうすれば、脚本家の意図するところが理解できると思うから」
「それにしても、たった四歳差か」そう口にしながら、海堂は小さく頭を振る。「同世代の人間が世界で活躍しているという話を耳にすると、何とも言えない気持ちにさせられるものだな」
「舞台を降りてもそんな気持ちになるのかい?」
「今のところ未練はないが、かつてユニヴェールで切磋琢磨していた学友たちが表舞台で活躍している姿を見ると、素直に羨ましいとは思う」
「君は今や海堂グループの責任ある立場の人間で、次期跡取りっていう立派なお役目もある。君は納得してその道を選んだ、もしくは選ばざるを得なかったわけだけど、叶うことなら舞台に立ち続けたいとは思っていただろう?」
黒門はそう問いかけるが、海堂は何も答えない。否定をしない時点で肯定したようなものだと更文は思うが、黒門は最初から返答を求めてはいないようだった。
「どれほどの偉業を達成すれば、人は自分に満足ができるのだろうねぇ」ソファの背もたれに預けた体をずるずると沈め、天井のファンを眺めながら黒門は続けた。「それこそ件の斜陽の雲の脚本家みたいに、世界中の映画賞で権威ある賞を受賞してさ、その界隈では自分の名前を知らない人がいないくらい有名になって、一生食うに困らない富と名声を手に入れられれば、僕も満足できるのかな」
「そいつは無理だろ」
「やっぱりそうだよねぇ」更文が否定してやると、黒門は「あはは」と笑う。「舞台は僕の人生なんだ。死ぬ瞬間までペンを握っていたいよ。だけど、最期の最期まで未練たらたらなんだと思う。もし、巨万の富と誉を手に入れていたとしても、自分の人生を振り返ったところで、少しも満足したりはしないんだ。もっとあんなことをしたい、こんなことをしたいって思いながら、惨めに死んでいくんだろうね」
「死の間際まで舞台に齧り付いていられるなら、それはそれで幸せなんじゃねぇかと思うけどな、俺は」更文が思ったことを口にすると、黒門は横目にこちらを見た。「こっちは足腰立たなくなったら終わりなわけだし」
「二人とも耄碌したジジイになってさ、自分の思う通りに頭が働かなくなったり、体が動かなくなったりしたら、お互いに引導を渡し合おうね、フーミン。僕、死に物狂いになるのは好きだけど、人様に迷惑をかけてまで生きたいとは思わないからさ。ほらほら、佳人薄命って言うじゃない? 人生何があるかわからないものね」
「そうやって言うやつほど長生きするって相場が決まってるんだよ」
「でもね、アタシ、そろそろぽっくり逝くんじゃないかって心配してるの。だってほら、ユニヴェール時代は本当に忙しすぎて、ほとんと食べもしなけりゃ寝てもいなかったわけじゃない? 卒業式の日にね、録朗氏から「このままの生活を続けていると、十年後にぽっくり死んじまうぞ」って脅されたのよ。それが本当になったらどうします?」
黒門は恩師である江西録朗の声真似を交え、わざとらしくはぐらかしながら、本質に向かって進んでいた自らの思考を、方向転換するのが分かった。それならばと、更文も深追いをすることはせず、黒門の後ろに続いて歩き出す。
根地黒門が恐れているのは、肉体の死ではなく、才能の死なのだ。
「あなたたちって本当に仲が良いのね」長風呂を終えたのだろう、艶々の長い髪を無造作に下ろした司が、呆れたように言いながらリビングルームに入ってくる。「まあ! ちょっと海堂、髪はちゃんと乾かさないとダメじゃないの」
「ん? ああ、すっかり話に夢中になってしまってな」
「呼び止めて悪かったな、海堂」
「いや、悪いことなど何もない。おかげで有意義な時間を過ごすことができた」
だが、司の責めるような眼差しには耐えかねたのだろう、失礼と一言詫びてから、髪を乾かすために席を立った。
「まったくもう」言うことを聞かない子供を叱るようにそう言ってから、司は辺りを見回した。「そういえば、カイはいないの?」
「露天風呂にでも行ってんじゃねーかな」
更文の予想通り、介はほかほかと頬を上気させ、スイートルームまで戻ってきた。露天風呂に行っていたと話す介に向かって、一声掛けてくれれば一緒に行ったのにと、司は恨み言を漏らしている。黒門は脚本の続きを書くと言って書斎に戻っていった。
「んじゃ、どうせなら俺も露天風呂に入ってこようかね」
一緒に行くかと誘ってみるが、司は少しだけむっとしながら、明日の朝一番に入るからと言って、更文と入れ違いにソファに腰を下ろす。
「どうぞごゆっくり入っていらして」
ヴィルチッタ絢浜の露天風呂に足を運ぶ度に思い出すのは、ユニヴェールの夏合宿だった。生徒たちは寮生活を送っているので、毎日が合宿のようなものではあったが、一流ホテルでの夏合宿は連日の稽古で根を詰めている生徒たちへの、学校側からのご褒美だったのだろう。
新人公演と夏公演、二つの公演を終えて、一年生はユニヴェールでの生活にも慣れてきた頃合いだ。三年生は否が応でも、残りたった三回となった公演と向き合うことになる。間に挟まれた二年生は、三年生と過ごすことのできる残り少ない時間と、一年生と共に駆け抜けていくこれからの日々の狭間で、複雑な心境を抱えていたことだろう。
着衣を脱ぎ、ロッカーの鍵を手首に巻き付けて、露天風呂に足を向ける。
遅い時間帯というのもあって、他に入浴している者の姿はないはずだった。だが、横開きの戸をからからと開いたその先、立ち煙るような湯気の向こう側にほんの一瞬だけ、かつての人影が浮かび上がったような気がして、更文は思わず足を止めた。
「……まさかな」
そんなわけがないと頭を振れば、見えたと思った影は消えている。更文は自嘲するように笑いながら、あの日と同じ場所に身を浸し、大きく息を吐き出しながら天を仰いだ。
後にも先にも、あんなに仰天したことはないと、更文は思う。
思春期だったのだ。好意を寄せている相手が、一糸纏わぬ姿でいるのを目の当たりにして、子供ながらによく耐えたものだと、当時の自分を褒めてやりたくなった。
「俺以外のやつが入ってきたら、どうするつもりだったんだろうねぇ、本当にさ」
当時、同じことを聞いたときは、笑ってごまかされた記憶がある。
更文は入学以前から立花希佐が女であることを知っていた。幼馴染の世長なら話は別だろうが、他の生徒だったら、ごまかしきることは難しかっただろう。だが、最初こそ僅かに動揺した様子を窺わせていたが、すぐに落ち着きを取り戻し、至って平然としていたことを思い出した。
もしかしたら、自分以外の誰が入ってきていたとしても、上手く切り抜けていたのかもしれない。
「肝が据わっているからなァ、あいつは」
カクリヨ島でも、ハヴェンナの町でも、国境公演でも、あの細い肩の少女は、人々の度肝を抜き続けた。そうした姿を見せつけられる度に、立花希佐という役者に急激に魅入られていたことを、当人は知る由もないのだろう。
人間としての在り方や仲間との向き合い方、稽古に向かう姿勢、本番を目前にしたときの覚悟──年下だが、その真摯な姿を心から尊敬していた。
ときどき、希佐が兄の継希と重なって見えることもあった。兄妹なのだから、当然と言えば当然なのだろう。だが、目を離した一瞬の隙に、消えてしまいそうな儚さが二人にはあって、更文はそれをずっと不安に思っていた。
そして、それは現実になる。
高科更文にとって何者にも変え難い存在となっていた二人の人間が、何の前触れもなく目の前から消え去った。その事実が、更文に恐ろしいまでの喪失感を与えたことは、言うまでもない。
自分はそういう星のもとに生まれたのだと考え、すべてを諦めようとしたことは間違いなくある。だがしかし、忘れようとしたところで、忘れられるはずがなかったのだ。あの兄妹のおかげで、今の高科更文がいるのだから。
「一体どんな女になってんのかね」
再会には一抹の恐怖が伴うものの、今となっては楽しみでもあるのだ。自らの素性を隠し、性別を偽ることでしか存在することのできなかったユニヴェールとは違い、イギリスでは自らを偽る必要がない。
きっと、本当の立花希佐として、舞台の上で輝いている。
この世界のどこかで生きていてくれればいいと、そう願っていた。イギリスで元気に暮らしていると聞いて、心のどこかでは安堵していた。今もまだ舞台に立ち続けていると知り、密かに喜びを覚えていた。
自分が突然目の前に現れたら、希佐はどんな顔をするのだろうと、何度も何度も考えている。だが、どれだけ思い描いてみても、立花希佐は最後のユニヴェール公演を終えた後の、ほっと安心したような笑顔を浮かべた、十八歳のときの姿のままだった。更文にはどうしても、五年後の姿を想像することができなかったのだ。
露天風呂から上がり、最上階に程近いスイートルームに戻ると、リビングには睦実介の姿だけがあった。司がバーに飲みに行くと言うので、海堂もそれに付き添っていったのだという。黒門は相変わらず書斎にこもっているそうだ。
「お前、それ読めるのか?」
更文がテーブルの上に置いていった本を手に取り、いやにじっくりと眺めている姿を見てそう声を掛けると、介はゆっくりと顔を上げた。
「いや、英語はあまり得意ではない」介は首を横に振ると、本をテーブルの上に戻した。「勝手にすまない」
「別に構わねぇよ」
バーの冷蔵庫から冷えた水を取り出し、乾いた喉を潤しながらリビングに入っていくと、介がソファに腰を下ろしたまま更文を振り仰ぐ。
「コクトのこと、よろしく頼む」
「……は?」まるで自身の息子を委ねる父親のような発言に、更文は呆気に取られたような声を出した。「何の話だ?」
「本当はロンドンには行かない方がいいと思っている」
内心ではおやおやと思いながら、更文は介の隣に腰を下ろす。介が何も言わないのであれば、そのまま連れて行ってやっても問題はないだろうと考えていたが、どうやら思うところがあるらしい。
「でも、まあ、だよな。俺もどうしたもんかと思ってた」
「最近のコクトは、立花のこととなると何かにつけてフミを引き合いに出すが、俺にはあれが自分への言い訳に聞こえるんだ」
「クロ自身には言い訳をしてるつもりなんて微塵もないんだろうけどな」
「向こうにいる立花のことも心配だ。コクトはときどき平気で無神経な言葉を口にする。本人に悪気はなくても、立花はそれで傷つくことがあるかもしれない」
「希佐のことは心配してないんじゃなかったのか?」
「もちろん、立花自身のことは何の心配もしていない」立花希佐が姿を消したと知らされても、介はどこか落ち着き払っていた。「あいつなら、どこへ行っても上手くやれると思っていた」
事件や事故に巻き込まれたのではなく、自らの意志で皆の前から姿を消したのであれば、事実を事実としてただ受け入れるだけだと、介は言った。捜されることも、追いかけて来られることも、当人は望んでいないだろうと。
更文も、介の言い分には一理あると、そう思ってしまった。
見つけてほしい、追い掛けてきてほしいと、ほんの少しでも心のどこかで願っていたのだとしたら、故意に痕跡を残していくのではないだろうか。だが、希佐は何の痕跡も残さず、自分をユニヴェールに導いた校長にすら行き先を告げずに、煙のように姿を消した。
それが、答えのように思えた。
それでも、待ちたいと思ってしまった。
いつか、三年間の思い出が漂う玉阪の町に戻ってきて、あの透明な声で、自分の名前を呼んでくれる日が訪れるかもしれない。同じ部屋に住み続けていれば、ふらっと帰ってくることだってあるかもしれない。舞台に立ち続けていれば、気まぐれに戻ってきた希佐が、あの熱い眼差しで自分を見つめてくれるかもしれない──五年間、飽きもせずに同じ幻想を抱き続けてきた。
更文は、探すことよりも、待つことを選んだのだ。
いつ帰ってくるかも分からない、ともすれば二度と帰ってこないかもしれない女を待って、待って、待ち続けて、そのまま朽ち果てるのも、一興だと思った。
「実は、フミのこともあまり心配はしていなかった」
「よく言うよ」
「フミなら、どれだけ時間が掛かっても、自分の力で立ち上がれると信じていたからな」
この男は、思わず赤面してしまいそうになる言葉も、平然と口にしてしまう。更文は目を丸くしたあと、少しだけ照れ臭くなって、頬を掻きながら目を逸らした。
「だが、多分コクトにはそれが難しいのだと思う。他人のことは客観視できても、それが我が事になった途端、思考が内へ内へと向かうんだ」
「だから、無意識に俺を言い訳にしてるわけか。自意識に目を向けないように」
自意識から目を逸らすことで、自分の中に芽生えた感情を見ないようにしているのか。だが、それはもはや自らの思いを、半ば自覚しかけているということに他ならないのではないか。
「ミツが言ってたんだけどさ」更文はゆっくりとした動きで水を飲み、小さく息を吐き出すと、足を組みながら肘掛けに頬杖をついた。「クロは希佐に恋してるんじゃねぇかって」
お前はどう思う? そう訊ねようと、更文が隣に座っている大男を振り仰げば、心底不思議がっているような眼差しが、こちらに向けられていた。
「何だよ」
「コクトは三年の頃から立花のことを好きだった」さも当然のことのように介は言った。「俺はそう思っていたんだが、違うのか?」
「まあ、今になって考えてみると、そうだな」介が言うのだ、それで正しいのだろうと、更文は思う。「俺は才能への執着だと思ってたけど」
「コクトは立花に憧れているんだ」
「憧れて?」
「立花はコクトの理想そのものだったんだろう。コクトの中には、今でも理想の立花が存在している。だが、画面越しに見た立花の姿が、自分が思い描いていた理想の姿とはあまりにかけ離れていて、困惑しているのかもしれない」
「……お前、すげーな」
「何がだ?」
「さすがの俺もそこまでのことは考えなかったわ」
「お前はお前自身のことで精一杯だったんだ、仕方がない」
昔から、この睦実介という男は視野が広く、困っている人を見掛けると、自分のことは二の次、三の次にしてでも、手を差し伸べずにはいられない人間だった。その性質は今も変わっていない。自らを優先すべきところは優先し、余裕があれば、時にはなくとも、手助けする労力を惜しまない。
そりゃ、玉阪座の兄さんたちに好かれるわけだ──更文は、いつもどこかぼうっとしている相棒を横顔を見上げ、内心で完敗を認めた。
「今更行くなと言ったところで、コクトは聞く耳を持たないだろう」
「だろうな」
「だから、よろしく頼む」
「俺は遊びに行くんじゃねーんだけど」はあ、と脱力するように、大きくため息を吐く。「遅すぎるだろ、思春期」
根地黒門は、舞台のこととなると寝食を忘れ、それだけに没頭し、のめり込んでしまうような男だ。もしかしたら、恋を自覚したその瞬間から、それ以外のことを考えられなくなるのかもしれない。だが、それが才能の喪失に繋がるとは、更文には思えなかった。
「立花にもよろしく伝えてくれ」介の眼差しが、穏やかに細められる。「会いに行けなくて残念だ」
「希佐が俺たちとの再会を喜んでくれるとは限らないけど」
「大丈夫だろう。立花は強いやつだからな」
その自信は一体どこから湧いてくるのだろうと思いながらも、介が言うのであれば、大丈夫なのかもしれないと思える。
五年前のあの日、立花希佐が失踪したと知らされたあの日から、更文の時計の秒針は停滞し続けていた。その間も、立花希佐の時計の針は、止まることなく進み続けていたのだろう。今、二人の間には、五年分の距離がある。
思えば、たった一人、遠い異国の地で生きていくというのは、決して楽なことではなかったはずだ。右も左も分からない土地で、自分の夢を追いかけ、それを見事に実現させている。介の言う通り、立花希佐は強いやつだ。
この五年は、あっという間に過ぎ去っていったような気もするが、甥と姪の成長を間近に見ていると、その月日の長さを思い知らされる。更文は玉阪の町と実家を往復するばかりの生活を送ってきた。芸能界の仕事を請け負う機会も増えていたが、生活の基盤はいつだって玉阪にあった。
芸事の世界は厳しい。常に人の目に晒されて、心が休まる暇もない。
それでも、母国を離れ、海を越えて異国の地に降り立ち、すべてをゼロからはじめることの方が、殊のほか困難に違いないと、更文は思った。
「すまない、電話だ」更文が物思いに耽っていると、隣に座っていた介がそう言って腰を上げた。その手にはスマートフォンが握られている。「少し出てくる」
「ん、ああ、分かった」
介は足早にリビングを出ていく。玄関ホールの方から微かに「もしもし」と言う声が聞こえ、すぐに扉の開閉する音が続いた。
ソファに深く腰を下ろし、目を閉じると、何の気なしに息を止めてみる。自らの心臓の音以外には何も聞こえない。
刹那、ふ、と意識が遠のいた。
パタパタと、どこかを駆ける軽い足音が聞こえてくる。ここはユニヴェールの廊下だ。その足音の主は、反対側から歩いてきた自分の姿を見て、晴れやかに微笑みながら「おはようございます、フミさん」と言った。
当然、自分の下へ駆けてきてくれたのだろうと、更文は思った。だがしかし、その笑顔の主は、廊下の途中にある何の変哲もない部屋の扉に手を掛ける。小さな手で決められた数だけノックし、返事を待って、吸い込まれるようにして消えた。それは、ユニヴェール在学中に、更文が何度も目の当たりにした光景だった。
瞼の裏側に、ちかちかとした光のようなものが明滅し、苦しくなって息を吐き出す。ソファの背もたれに預けていた頭をもたげると同時に、ふとした疑問が脳裏をよぎるが、バタンッと乱暴に閉められた扉の音で、更文は我に返った。
「随分静かだと思ったら、ここにいるのはフミだけ? 他のみんなは?」
「海堂とツカサはバーに飲みにいったよ」長い髪を高い位置で無造作に結え、額にタオルを巻きつけた姿で現れた黒門を、更文は振り返る。「カイは電話だってさ」
「まあ、こんな時間にお電話ですって? 女? 女なの?」
「さあな」
「ちょっとフーミン、ノリが悪いわよ!」黒門はじっとりとした目で更文を睨むが、すぐにその表情を崩す。「って、そうじゃないんだった。ねえ、何か食べ物持ってない?」
「食べ物ってお前、さっきたらふく食べただろ? まだ食う気か?」
「甘いものでもいいんだ。こう、あっという間にエネルギーに変換されそうな食べ物を、僕の脳みそが欲してるんだよ。飴とか、チョコレートとか、何なら角砂糖でも──」
黒門はそう口にしてから、思い立った様子でバーに向かう。
部屋に備え付けのバーには酒類の他にも、エスプレッソマシンやコーヒーメーカー、各種お茶の葉など、ホットドリンクの用意が整えられていた。黒門はその中からシュガーポットを見つけ出すと、中から取り出した角砂糖を口の中に放り込んでいる。
「んー、このジャリジャリとした歯触り、癖になりそう!」
「おい、それはさすがにやめとけよ」更文はソファから立ち上がり、バーの前に立っている黒門のところまで歩いていくと、服の首根っこを掴んだ。「ルームサービスを頼めばいいだろ」
「あっ、そっか」
黒門はそう言うと、バーに置いてあったルームサービスのメニュー表に手を伸ばす。本当にエネルギー切れを起こしていたのか、上手く頭が働いていなかったようだ。
「すみません、スイートルームの──あ、はい、そうです──」
更文は、甘いものを次々と注文していく黒門を隣で見守りながら、思わず呆れた面持ちを浮かべた。到底一人では食べきれないだろう。注文を終え、満足気に受話器を置いた黒門は、にこにこと上機嫌だ。
「よぉし、今夜はスイーツパーティーと洒落込もうじゃないか」
「俺は食わねーぞ」
「なによ、いけずなこと言っちゃって。たまになんだからいいじゃないの」
黒門はバーに戻る。今度は、紅茶を飲むか、コーヒーを飲むかで迷っているらしい。うちの双子よりもたちが悪いと思いながらリビングに戻った更文は、本を手に取り、ソファに腰を下ろした。
「脚本はもう仕上がったのか?」
「今は野暮なことを聞かないでちょうだいよ」
「俺はお前の仕事が終わらなくても、飛行機を遅らせたりしねーからな」
「大丈夫、大丈夫。その頃にはちゃんと書き終わっているさ」
本人がそう言っているのだ、これ以上は何も言うまいと、更文は口を噤む。視線をゆっくりと手元に戻し、挟んでおいた栞を頼りにページを開いた。残りのページを確認しながら、この本を読み終えるには、まだ随分と時間が掛かりそうだと思う。多くの人々がこれを読み、深く感銘を受け、魅了されている理由は、まだ分かりそうにない。