チャリティーイベント、二日前。
「やだやだやだやだやだ……」
「無理、無理無理、絶対無理だって……」
「死ぬ。いや、いっそ俺を殺してくれ、頼む……」
ヘスティアの二階にある劇場の床には、イベントに出演予定の演者たちが死屍累々の屍の如く、ばったばったと倒れ込んでいる。その丁度真ん中で仁王立ちをしている劇団カオスのバージルは、辺りをぐるりと見渡しながら、これでもかというほど盛大にため息を吐いていた。
「おいおい、嘘だろ、こんなんじゃ本番に間に合わねぇぞー」午前中からずっと踊り続けているというのに、バージルは相変わらず息一つ乱していない。「未完成の舞台をお客様にお見せするつもりか?」
全員まとめて面倒を見ると約束したからには、その約束を違えるわけにはいかないと、バージルは持ち前の責任感と面倒見の良さを発揮し、共演希望者たちに手取り足取りダンスを教えてやっていた。だがいかんせん、自分のペースというものを崩さない人なので、周りはそれについていくだけで精一杯という状態だった。
「バージル、休憩」アラン・ジンデルの鶴の一声が静かに告げる。「程々にしておかないと本番で使い物にならなくなる」
鬼だ、悪魔だ、あいつらには人の心がない──等々の悪口を聞き流し、アランはたった今入ってきたばかりの足を、劇場内で立っている数少ない人々の方に向けた。
「四時過ぎにダイアナが来るから、そこで衣装合わせをする」イライアスと並んで立っている希佐の前で足を止め、アランは続けた。「衣装を着て踊れるかどうかのチェックが必要だ」
「ダイアナ、頑張ってくれているんだね」
「サロメとカルメンの衣装はまだ仮縫いの状態らしいけど」
アランはまるで他人事のように、平然とした面持ちでそう言っている。
今や売れっ子デザイナーとなったダイアナを、お針子さんのようにこき使う様は、人の心を持ち合わせていないと非難されても、仕方がないことのように思えた。
不平不満があるなら降りればいい。無理強いはしない。俺たちだけでどうとでもなる──先日、負担が大きすぎると詰め寄る演者たちに、アラン・ジンデルはそう言って退けた。
「舞台の質は落とさない。出来ない人間に合わせてやるなんてこともしない。ついて来られないと思うなら無理をする必要はない」
舞台と真正面から向き合ったときのアラン・ジンデルは、確かにこういう人間だったと、希佐は妙に懐かしく思い出していた。劇団カオスの公演を行わないまま一年以上が過ぎていたから、忘れかけていたのだ。
そもそも、カオスには脚本家兼演出家や、振付師がやれと言ったことに口答えをする者はいない。より良くするための提案はしても、文句を言うような役者は一人もいないのだ。だからこそ、アランの辛辣な言葉は、最近では特に聞くことがない。
夜の部のオープニングを飾る歌とダンスで、観客の心をぐっと鷲掴みにする。トップバッターを任されたバージルは気合い充分だが、バックで踊るダンサーたちはコーラスも兼任のため、余計に負担が大きいようだ。一切妥協をしないバージルの振り付けに、難なくついていけているのは、スペンサー・ロローの舞台で鍛えられていた加斎とダンテ、他数人といったところだった。
「じゃあ、十分休憩な」バージルはスマートフォンでアラームを設定しながら言った。「その間にジプシーの確認するぞ」
「今日はまだカルメンが来ていませんよ」
オープニングからバージルの後ろで踊るアンサンブルとして参加する加斎が、額の汗を拭いながら言う。オーディションではその高いダンス技術が評価され、得票率も高かったようだ。
クローディア・ビアンキが担当するカルメンでは、ハバネラに続き、ジプシーの踊りも披露される。バージルがフラメンコをモチーフに振り付けをしたダンスを、加斎、ダンテ、リオの三人が中心に踊る予定だった。
「クレアは仕事で来られない」アランはそう言うと、劇場の壁に向かって発声練習をしている後ろ姿に声をかける。「アイリーン」
「ようやく私の出番?」
「今日は代わりに彼女が歌う」
「よろしく」
先日、オーケストラとの共演を終えたばかりのアイリーンの喉は、完璧に仕上がっていた。クローディアが演じる、自由奔放で男性を翻弄するようなカルメンとは一味違い、一本芯の通った、すっと背筋の伸びている、凛とした雰囲気を感じさせる歌声だ。
希佐が舞台上に目をやり、思わずその歌声に聞き惚れていると、隣に立っていたイライアスが肩をとんとんと叩いてきた。ハッとして顔を上げれば、イライアスは劇場の入り口の方を指して言う。
「ダイアナが来たよ」
「あ、本当だ」ダイアナはアシスタントを数名引き連れ、大荷物を抱えて現れた。「ごめん、少し外すね」
「うん」
希佐が慌てて駆け寄り、荷物のいくつかを請け負うと、どこか疲れた様子の面持ちに、ダイアナは笑顔を浮かべた。
「ああ、どうもありがとう、キサ」
「大丈夫?」
「そう思いたいわね」
アメリカから帰ってきたと、いの一番に希佐に連絡をくれたのが、運の尽きだったのだろう。お土産話もあるし、一緒にランチにでも行かないかと、上機嫌で誘うダイアナの声を電話越しに聞いていたアランが、希佐のスマートフォンを取り上げたのは、つい数日前のことだ。
暇なら手伝って──そう言うアランの言葉に、別にいいけど、と反射的に応じてしまったことで、ダイアナとそのアシスタントたちは地獄を見ることになる。チャリティーイベントの夜の部で着る相当量の衣装を、数日のうちに作らされることになったのだ。
「本当は今日、デートの約束があったのよ」荷物を舞台の隣にある控え室に運び込みながら、ダイアナは恨みがましげにアランを睨んだ。「帰国前からずっと楽しみにしていたのに」
「それは残念だったな」
「他人事だと思って」
「レオなら理解してくれるだろ」アランはラックに掛けられた衣装の確認をしながら、興味がなさそうに言う。「イベントには顔を出すと言っているし、そのときに会って話せばいい」
「この場にキサがいてくれてよかったわね、アラン・ジンデル。さもなければ、あなたのその綺麗なお顔を引っ叩いているところよ」
ダイアナが怒っているのを横目に見ながら、アランの口角が微笑むように持ち上がった。その顔を目の当たりにして毒気が抜かれてしまったのか、ダイアナは諦めたように大きく息を吐き出し、荷物の中からガーメントバッグを取り上げる。
「それにしても、今回のイベントは物凄い気合いの入りようね。毎年それなりには賑わっているし、盛況な印象があったけれど、私の感覚的に今年はそれ以上って感じ。何か特別なことでもあるの?」
「イベントの内容や出演者は基本的には伏せられているから、外に情報が漏れるなんてことは、まずないはずなんだけど」アランは衣装をラックに並べるのを手伝いながら言った。「どこかで誰かが触れ回っているんだろうな」
「誰かって?」
「さあ」
アランは小さく肩をすくめながら、ラックに並べられた衣装を、一つ一つ手に取って確認している。アシスタントたちは、ダイアナとアランの顔を代わる代わるに見比べながら、戦々恐々としていた。だが、ダイアナの表情からは、微塵の不安も感じられない。
「どう? どれも良い仕上がりでしょう?」
「ああ」
「この子たちを労ってあげてちょうだい。私と一緒に寝ずに仕上げてくれたのよ」
「ありがとう」アランはそう言ってアシスタントたちを振り返った。「良い仕事だ」
すると、アランに言葉を掛けられたアシスタントたちは、男女問わずに頬を赤らめ、顔を見合わせている。その様子を目の当たりにしたダイアナは「罪な人ね」と漏らしてから、パチン、と両手を打ち鳴らした。
「さあさあ、今夜はアラン・ジンデルがご馳走してくれるそうだから」それで構わないということなのだろう、アランは黙っている。「あとのことは私に任せて、みんなは下に降りて楽しんでいらっしゃい。ただし、羽目を外しすぎないようにね。明日は二日酔いでも容赦しないわよ」
いつも舞台衣装を担当しているカオスの寸法は完璧に把握しているが、今回は他の劇団に所属している役者や、個人で活動している者の衣装も手掛けているため、いつも以上にフィッティングに時間が掛かるようだ。
「そっちのラックに掛かっている衣装は、どれも微調整程度の作業しか残っていないから問題ないわ。大変なのはあなたの衣装よ、キサ」アシスタントたちを控え室から送り出し、こちらを振り返ったダイアナが言った。「そういえば、マダム・ルーはいらしていないの?」
「当日まで来ないそうだ」
「任せてくださるのは本当に光栄なことなのだけれど、思い描いている方向性の一端くらいは教えていただきたかったわね。今回は、あなたもデザイン画を描いてはくれなかったし」
「あの女は君の力量を測りたいんだよ」
「それって、失敗したら切られるってことよねぇ」
「とりあえずキサに着せてみて」アランはそう言って、ダイアナの背中を軽く叩き、二人に背を向けた。「俺は外で待ってる」
七つのヴェールの踊りは、その名の通り、七つのヴェールを身にまとい、それを順番に脱ぎ捨てながら踊る。一枚、また一枚と脱いでいき、最後には一糸纏わぬ姿で踊り終えることもあるダンスだ。
「あなた、本当に舞台の上で裸になったのよね?」
「うん」平然と頷く希佐を見て、ダイアナは苦笑いを浮かべていた。「小さな地下劇場で、照明も薄暗かったから、お客さんからはほとんど見えていなかったと思うよ」
「そういう問題なのかしら」
「私はそうすることが必要だと思ったし、納得した上でやったことだから、特に疑問に思ったりはしなかったけれど」
ダイアナに、七つのヴェールの踊りで着る衣装を依頼したのは、他ならぬクロエ・ルーだった。金に糸目はつけない、好きなように作ってくれて構わないと言われ、俄然やる気を出すのかと思いきや、ダイアナの表情は浮かないものだった。期間が長ければ、諸手を挙げ、大喜びで制作に励んだのだろうが、如何せん今回は時間がない。本来なら無理だと断る案件だが、どうしても断ることができなかったのだという。
ダイアナと衣装について話をしていたとき、奇跡的に残っていた当時の画像を見せると、その表情はますます険しくなった。小さな劇団の、小さな舞台だ、衣装にそこまでの金をかけることはできない。七つのヴェールの踊りでは、本当に七枚の布を纏って踊る程度の衣装しか用意されなかった。
「私はあなたを舞台の上で裸にさせるつもりはないわ」ダイアナは未完成な衣装を、バッグの中から取り出しながら言った。「本来の舞台の演出として必要だということは理解してる。でも、私が嫌なのよ。だから、あなたを裸にはしない。私の気持ち、分かってくれるかしら」
「うん」
「良かった」どこか安堵したように息を吐いてから、ダイアナは希佐の肌とほとんど同調する色のアンダーウェアを差し出した。「要は、観ている人が裸だと錯覚すればいい。ネイキッドドレスなら任せて、得意なのよ」
オーディションの最終審査のときにあつらえてくれた白薔薇のドレスも、素肌に薄いレースを纏っているだけに見える、繊細なデザインだった。
「私は後ろを向いているから、まずはこのアンダーウェアを着てくれる?」
「うん、分かった」
言われるがままに、何の躊躇いもなく稽古着を脱いでいく希佐に背を向け、ダイアナは控え室の扉の鍵を閉める。舞台の方からは、今もまだアイリーンの美しい歌声が聞こえてきていた。
希佐はホールド力が補強されたチューブトップのブラジャーを身に付け、同色のショーツを履くと、背を向けているダイアナに声を掛ける。
「着られたよ」
「じゃあ、次はこれ」
こちらを振り返ったダイアナが手にしていたのは、向こう側が完全に透けて見える、非常に薄い布のドレスだった。スパンコールやパールのビーズが手縫いされていて、光を当てると湖の水面のようにキラキラと輝く。
「レッドカーペットのドレス用に準備しておいた生地なのよ。でも、クライアントは気に入らなかったみたいね」
「こんなに綺麗な生地なのに?」
「そうでしょう?」それに、とっても高いの──ダイアナは悪戯っぽくそう言うと、くすりと笑った。「持て余すようなことにならずに済んでよかったわ」
その薄布のドレスを着せてもらった希佐は、控え室の壁に立て掛けてある年代物の姿見の前に立った。なるほど、これは一見すると裸と錯覚してもおかしくはないと、そう思う。
首元のビンテージ風のパールのネックレスとドレスが繋がっていて、首や肩に、ある程度の重みを感じる。全体的にたっぷりと布地が使われているので、踊るとスカート部分の裾が大きく翻り、見栄えも良さそうだ。両脇には深くスリットが入っているので、動きが制限される心配もない。その上から七枚ものヴェールで体を覆い隠すと、素肌はほとんど見えなくなった。
「結構重たいんだね」
「踊るのは無理そう?」
「ううん、多分大丈夫だと思う」
「アランを呼んでくるわ」
これまでもカオスの舞台衣装を手掛けていた経験から、体の可動域をしっかりと考えて作られたドレスだと、希佐は感じた。恐らくは、こう動くことでどのように布が翻り、波打つかということまで、計算し尽くされている。
希佐は姿見の前に立ち、まだ少しだけ長い裾の長さを、どの程度短くしてもらうべきかと考えた。長すぎると本番中に裾を踏んで転んでしまうかもしれないが、短すぎれば見栄えが悪くなる。
こんこんこん、というノックに返事をすると、控え室にダイアナが戻ってきた。アランがそれに続いて入ってくる。
「ギュスターヴ・モローか」
アランは、姿見の前に立っている希佐を見るなり、そう言った。
「ええ。ヴェールを脱いで、最後に現れるドレスには、刺青のサロメの刺青をモチーフにしたビーズ刺繍をあしらってあるわ。あくまでさりげなくね。ゴテゴテ飾りつけても品がないし、ドレス自体が重くなって踊りにくくなるでしょう? あまりベリーダンスの衣装っぽくはしたくなかったのよ」
「キサ、ゆっくり回ってみて」
「あ、うん」
ギュスターヴ・モローはフランス人の画家だ。聖書や神話をモチーフに筆を取った画家で、聖書に登場するサロメも多く描いている。
中でも有名なのはヘロデ王の前で踊るサロメや出現だろう。特に後者の出現は、宙に浮いた洗礼者ヨハネの生首が酷く印象的な作品だ。ギュスターヴ・モローが描く世界は、美しく、幻想的で、どこか背筋が冷えるような冷淡さを感じさせる。
希佐も、サロメを演じるに当たって、聖書や戯曲、絵画には一通り目を通していた。だから、衣装を当てがわれたとき、すぐにモローの絵画がモチーフになっていることは察することができた。
「露骨すぎるかしら?」
「いや、いいと思う」
「本当?」
「アクセサリーは?」
「ブレスレットとアンクレットを付けてもらう予定ではあるけれど」
「見せて」
ダイアナは長い足を折ってバッグの前に膝をつき、ビロードの巾着を取り出した。アランはそれを受け取ると、中身を取り出しながら希佐のところまでやってくる。
「君はどう思う?」
アランはそう言いながらその場に跪き、素足の希佐の足をそっと持ち上げ、ターコイズで飾られたアンクレットを通した。希佐は倒れないように、アランの肩に手を置く。
「私がダイアナに伝えたのは──」うん、と頷きながら立ち上がったアランは、今度は希佐の腕にアンクレットと揃いのブレスレットを付けた。「前にサロメを演じたとき、参考にできたらと思ってたくさんの本を読んだり、映像を見たりしたのだけれど、個人的な解釈として、オスカー・ワイルドやリヒャルト・シュトラウスが描いたサロメは、自分には向いていないと思ったんだ」
「うん」
「だから私は、新約聖書に登場する、ヘロディアの娘を掘り下げることにした。聖書では、ヘロディアの娘は自分で洗礼者ヨハネの首を求めたわけじゃないでしょう? ヘロデ王の前で踊った結果、それが評価されて、なんでも好きなものを与えるという話になった。娘は母親にお伺いを立て、その意思に従って、ヨハネの首を所望した。でも、これだけではサロメは母親に従うだけの、受動的な存在になってしまう」
ヘロディアの娘は少女なのだ。どこか悪戯っぽい、愛嬌のある、生娘。年頃の女の子ならば、多少なりとも異性に興味を持って然るべきだろう。
変わり映えのしない毎日、そこに洗礼者ヨハネ──もとい、ヨカナーンが現れた。城に住む誰とも違う、特別な存在。サロメは話をしたかった。触れてみたかった。名前を呼んでもらいたかった。
最初は、好奇心旺盛な少女ならではの、ただの興味本位だったのかもしれない。だが、日々ヨカナーンを思うあまり、自分でも気付かぬうちに、恋に落ちていたサロメ。しかし、見向きもされない現実に、少しずつ精神を狂わせていく。
「一番しっくりきたのが、ギュスターヴ・モローが思い描いたサロメ像だったんだ。自立したファム・ファタール。不吉な小鳥のように生を送り、あらゆる者を、天才や聖者までをも、その足元に踏みにじっていく──でも、モローはこうも言ってる。私は、神秘的な性格を持った巫女のような、宗教的な魔術師のような人物にしたいと考えたって」
自分のサロメは、万人には受け入れられないのかもしれないと、希佐は思う。だが、自らの思考が行き着いた先には、愛らしく、残酷に笑う、少女サロメの姿があった。
「クローディアさんのサロメ、本当に素敵だった。でも、私が思い描くサロメとは違う。私のサロメは、あまりに真っ直ぐで、自分が見たいと思うものしか視界に入れないような、年頃の女の子。穢れを知らない生娘なのに、なぜか見る者を背徳的な気持ちにさせる──まるで、見てはいけないものを直視しているような、そんな気持ちにさせてしまう子」
「なるほど」アランの声が一瞬だけ、含みを帯びたように感じられた。「このターコイズは良い色だ。キサによく似合っているし、モローへのリスペクトも感じられる。悪くないと思う」
「それじゃあ、このまま仕上げに入るわね」ダイアナはアランの言葉を受けて、ふう、と安堵したように息を吐いた。「キサ、着ていて不安に思うことはない?」
「少しだけ踊って確認してみてもいい? この裾の長さだと、踊っている途中に踏んづけて、衣装を割いてしまうかもしれないから」
「衣装を割く云々より、あなたが転んでしまうことの方が問題だわ」
「でも、裾捌きでなんとかなるかも。このままで綺麗だから、あまりハサミは入れて欲しくない」
「元々、裾の長さは様子を見て調節するつもりだったのよ。だから、大丈夫。このダイアナに任せて」
ダイアナはそう言うと、自らの胸をとんと叩き、自信に満ち溢れた面持ちで希佐を見た。
そのとき、隣の舞台から聞こえていた歌声が止み、バージルの声が聞こえてくる。どうやら、ジプシーの踊りの振り付けの確認が終わったようだ。
控え室の扉を開け、外の様子を見ていたアランが、こちらを振り返った。
「今なら舞台を使える」
「キサ、お願いできる?」
「もちろん」
むしろ、本番前のリハーサルで確認することにならず幸いだったと、希佐は思う。恐らくではあるが、ダイアナは明後日のイベント当日まで、ほとんど一睡もせずに作業を続けるはずだ。
大事なショーの前になると、寝食する時間すらもったいないと感じ、作業部屋に引きこもって、延々と服を縫っているという話を、前に聞いたことがあった。
希佐は一度、姿見の前まで引き返し、結い上げていた髪を解く。たっぷりとした、やわらかい、豊かな髪が重力に従って流れるように落ちて、シャンプーの匂いを香らせた。その髪を手櫛で整えながら、鏡の中にいる自分──いや、自分と同じ姿をした別人、サロメを見つめた。
口付けとは、どんなものかしら。甘い蜜を滴らせる桃に齧り付くようなものかしら──まるで夢見るような愛らしい声が、どこからか聞こえてくるような気がした。
ざわめきと共に、一瞬にして空気感が変わるのを、イライアスは確かに肌で感じ取っていた。
クローディア・ビアンキの代わりにジプシーの踊りを歌い終え、颯爽と舞台を降りてきたアイリーンは、イライアスの隣までやってくると、同様に空気の変化を感じ取ったらしい。自分と入れ替わりに舞台に現れた希佐を見やり、物言いたげに息を吐いていた。
「相変わらず衣装栄えのする子ね」希佐をじっと見つめたまま、口を噤んでいるイライアスを横目に見て、アイリーンは続けた。「ええ、そうね。とても綺麗だわ」
アイリーンに心を見透かされたようなことを言われても、イライアスはただ黙っていた。本当に、本当に美しいと、そう思う。だがしかし、それ以上に感じるのは、普段の希佐とは違う異質な雰囲気だった。
「まだ本番二日前だってのに、妙なスイッチが入ってんな、あいつ」十分の休憩時間では到底再起不可能だったらしい共演者たちを尻目に、バージルが歩み寄ってきた。「何か話したのか?」
「衣装についての相談をしていただけよ」先立って控え室から出てきたダイアナが、バージルの隣に並ぶ。「オーディションの衣装を頼まれたときも思ったのだけれど、あの子の中には、自分が演じる役柄の人物像が明確にあって、それを言語化して伝えるのが上手なのよね。だからこそ、私はそんな彼女の言葉を拾い上げて、あんなにも素敵な衣装を作ることができる」
「自画自賛か?」
「私の服は着る人を美しく見せるけれど、キサは私が作る舞台衣装を、誰よりも美しく見せてくれるわ」
「どうりであいつの衣装には毎度気合いが入ってるわけだ」
「失礼ね、私はどの衣装にも、同じように愛情を織り込んでいるわよ」
この世界で生きていて思い知らされるのは、ただ技術が優れているだけでは、生き残ってはいけないということだ。喋るマネキンと呼ばれていた頃の自分のままでは、淘汰されていたという確信が、イライアスにはあった。
舞台なんてつまらない。所詮は嘘の物語を偽者が演じているだけだと言う者がいる。その言葉はある意味で正しいのだろう。
だが、人々はそうと知った上で、夢を観にやって来るのだ。千のスポットライトを浴びて光り輝く役者と、脚本という筋道を辿るだけの物語を観るために、決して安くないチケット代を払って会いに来る。
舞台人は夢を売るのが仕事だ。
しかし同時に、夢追い人でもある。
何百、何千、何万という人々が、舞台の真ん中を目指している。その夢を叶えられる人間はほんの一握りしかいない。ダンスの技術が抜きん出ている者、幾つもの歌のコンクールで頂点を極め続けた者、子役の頃から神童と持て囃された者──だが時折、なぜこんな役者がここにいるのだと、疑問に感じる者が現れることがあった。ダンスも、歌も、芝居も、一つずつ取ってみれば、まったく大したことはない。より優れている者は大勢いる。
明らかに場違いだと思わざるを得ないその役者はしかし、ある日突然化けるのだ。演出家か、脚本家か、はたまたそれを見つけてきたエージェントなのか、力ある者に見初められた才能は、ある瞬間に開花する。プレビュー公演でマスコミに酷評されていた役者が、千秋楽にはその評価が一変され、絶賛されるなんてことは稀にある話だ。
拙いダンス、ピッチの外れた歌、違和感のある台詞回し──それなのに、なぜか目を逸らすことができない人間は、確かにいる。
『役者に必要なのは人間としての魅力だよ』普段は役者論なんか説くことのないアランが、希佐と出会うずっと前に、話してくれたことがあった。『歌やダンスが上手かろうが、演技力が際立っていようが、その役者自身に何の魅力も感じなければ、その場限りの賞賛しか得られない。要は一発屋ってやつだ。そういう人間はすぐに飽きられる』
イライアスはこのとき、アランが自分のことを言っているように感じられて、少しだけ居た堪れない気持ちでいた。自分はただ踊ることしか取り柄のない、魅力のない人間だと思っていたからだ。
『魅力っていうのは天性のものだ。そういう人間には絶対的な存在感がある。例えば、何もせずに舞台上に突っ立っているだけでも、観客の視線を攫っていく。本人にはその気も、自覚もないまま、主役を喰らって舞台を崩壊させる。その輝きには何者も抗えない。屈服して、平伏すしかなくなるんだ』
その言葉の意味を初めて理解したのは、希佐の演技を目の当たりにしたときだった。これが舞台人に必要な魅力なのだと知った。自分よりも明白に拙いダンス。アイリーンよりも劣る歌唱力。それなのに、それを踏まえてもあまりある魅力と演技力があった。いや、演技力などという生易しいものではない。何者かが希佐の体を乗っ取り、まるで別の人格が宿っているかのような説得力。立花希佐は役を与えられる度に、違う人間を生きていた。
『彼女のサロメは凄まじいですよ』数日前、劇場の隅でストレッチをしていたイライアスのところまでわざわざやって来て、ルロワが言った。『マダムが彼女をお気に召すのも頷けます』
ルロワは何も言おうとしないイライアスに対して、特に気分を害したふうもなく続けた。
『あれから一年、彼女のサロメがどのような進化を遂げているのか、私は楽しみで仕方がないんです』
その半ば挑発するような物言いに、イライアスは奇妙な違和感を覚えていた。出会った頃から腹の読めない人物で、いつだってにこにこと機嫌良く振る舞っている印象だが、ぞっとするほど深く青い目の奥は常に、才能を求めてギラついている。
コンテンポラリーダンスを極めてきたイライアスにとって、フランシス・ルロワの音楽は理解ができるし、表現者としては天才の域に達していると断言することができた。だが、好きかどうかを問われると、即答はできない。
ルロワの演奏を聞いた希佐は、酷く青ざめた顔をしていた。何かに怯えているかのように身を震わせ、自らの体を抱き、それでも目を逸らすことができないというふうに、ピアノを演奏するルロワを見つめていた。
才能は呼応し合う。特に、希佐の場合は誰が相手でも、その形をぴたりと合わせることができる。
イライアスは思うのだ。クロエ・ルーは、希佐の才能とルロワの音楽を掛け合わせて、身の毛がよだつような何かを生み出そうとしているのではないかと。希佐のサロメは、フランシス・ルロワを釣り上げるための、餌なのではないかと。
だが、希佐が舞う七つのヴェールの踊りは、ルロワのみならず、大勢の人間を釣り上げ、突き落とし、蹂躙するのだろうと、たった今、イライアスは確信していた。
「衣装を破きたくないから軽く踊るだけって言ってたんだけど」
瞬きすらせず、呼吸をすることも忘れて舞台を睨んでいると、いつの間にか戻ってきていたアラン・ジンデルが、そう呆れたように言う声を聞いた。途端に詰めていた息を吐き出しても、イライアスは舞台上で舞うサロメから目を逸らすことができない。
「なんか気が散ってるな」
バージルがそう言った次の瞬間、希佐は衣装の裾を踏んで、息を呑む。途端に踊るのをやめてしまい、その場にしゃがみ込むと、自分が踏んだ裾を両手で掬い上げて言った。
「ごめんなさい、ダイアナ。踏んだときに攣れて、破けてしまったみたい」
「大丈夫よ、キサ」今にも泣き出しそうな声を出す希佐に向かって、ダイアナは朗らかに言う。「代わりの布はたっぷりあるから」
「でも」
「やっぱり裾を少しだけ調節しましょ。転んで怪我をしなくてよかったわ」
アランは何も言わずに舞台の袖に向かい、劇場内に流れていた音楽を止めた。ダイアナは舞台から降りてきた希佐を出迎え、衣装の状態を確認している。バージルは長引いた休憩時間を切り上げ、稽古の続きを行いに向かうが、イライアスはその場から動き出すことができない。
魅入られたようにただじっと、いなくなったサロメの面影を探すように、無人となった舞台を見つめている。
「……あの子」イライアスと同様に、その場に立ち尽くしていたアイリーンが、静かな声で言った。「あんなに踊れる子だった?」
アイリーンの目は肥えている。幼い頃からイライアスが踊る姿を見てきたのもあるが、イライアスに付き合って多くのバレエ公演やコンクールなどに出向き、世界最高峰のダンスを目の当たりにしてきたからだ。だからこそ、ここ最近の希佐の上達具合を、如実に感じ取ることができるのだろう。
ルイの指導を受けるようになって、希佐のダンス技術は間違いなく向上している。だが、本当にそれだけなのだろうか。希佐が踊る姿は連日のように見てきたはずだ。それなのに、なぜ、こんなにも精神が揺さぶられているのか。打ちのめされていると感じるのか。
「イライアス……?」
「うん」
「あなた、大丈夫? 顔色が悪いわよ」
「大丈夫」
休憩がてら舞台を眺めていた者たちが、口々に希佐のダンスの評価をはじめる。それらの多くが芳しいものではない。いまいち、中途半端、色気が足りない、期待外れ、クローディア・ビアンキの方が良い──等々、誰も彼もが好き勝手なことを言っている。
違う。そうではない。なぜ分からないのか。あの酷く化け物じみた、おどろおどろしい気配のようなものが見えないのか。この東洋の舞台人は一体、何度化ければ、真の姿に辿り着くのだろう。
控え室で稽古着に着替え、足早に戻ってきた希佐は、どこか頼りなく笑っていた。
「さらっと確認するだけのつもりが、みんなが舞台を見ているから、これは本気で踊らなきゃって思ったんだけど──」希佐は頬を掻きながら、あはは、とごまかすように笑う。「衣装を着た途端に、私の中にいるサロメが急に自己主張をはじめてしまって、ダンスに集中できなくなったんだ」
本番までに話し合いをして解決しておかないと──希佐はいとも平然とそのようなことを言ってのけた。
だが、イライアスには分からない。
自分以外の誰かを、自分の中に感じたことがない。舞台に立っても、自分以外の誰かを演じることができない。自分は所詮、自分でしかない。
「……イライアス?」顔を青ざめさせ、黙ったままでいるイライアスのことを覗き込み、希佐が心配そうに眉を顰めた。「どうしたの?」
「なんでもない」
「あ、うん。そっか」少しだけ驚いたような顔をしてから、希佐はどこか申しわけなさそうな表情を浮かべて言った。「ごめんね」
君に僕の気持ちは分からない──そんな言葉を口にしそうになって、寸前のところで唇を引き結んだ。何十回、何百回と聞かされ、いい加減嫌気が差している言葉を、自分自身が口にしようとしていた。その事実にもまた、嫌気が差す。
ダイアナに呼ばれ、希佐がパタパタと走っていった。
「君と彼女は根本から違う」近くに立っていたアランが、ノートのメモを確認しながら口を開いた。「君の気持ちを彼女は理解することができない」
「僕の心の中を勝手に覗かないでください」
「悪かった」そう言って笑うアランを、イライアスは睨んだ。「悪かったよ」
何度も、何度も、壁に衝突する。それは片足で飛び越えられるほど低い壁のときもあれば、見上げるほど高い壁だったこともあった。その中でも、最も高く、分厚かった壁は、遠い異国の地からやって来た、桜色薫る人が手を引いてくれたから、乗り越えることができたのだ。
それなのに、それなのに。
今度は君が、僕の壁として、目の前に立ちはだかるというのか。
空は曇天。
だが、雲間からは時折、太陽が顔を覗かせている。春のロンドンは、日没時間が午後七時過ぎなので、時計の針が午後五時を回っても、辺りはまだ明るかった。
大通りでは車が渋滞し、空気中に排気ガスを吐き出している。鳴り響くクラクション。歩道を行く人々は騒がしい。それなのに妙な解放感があるのは、周囲から向けられる露骨な視線が、日本にいるときほど感じられないからなのだろう。
「……寒いな」
飛行機を降り、手続きを終えて空港の外に出てみると、吐き出した息が白く染まった。その場で足を止め、ロンドンの四月ならばこんなものかと思っていると、周りを行く人々も寒そうに首をすくめ、腕をさすりながら歩いている。どうやら、今日が特別寒いらしい。
くるりと踵を返し、空港内のアパレルで薄手のコートを買った。
ヒースロー空港とロンドン市街を繋ぐ列車に乗り、パディントン駅で降りる。駅構内にあるくまのパディントンの銅像の写真を一枚だけ撮り、そこからはロンドンタクシーに乗って、目的地まで向かった。
自分がロンドンに来ていることは、睦実介しか知らない。先日、電話で相談したときに、何も告げずに行く方がいいと助言をくれたのも、介だった。
「お前が先に行くと言ったら、コクトは予定を少し前倒しにしてでも、ついて行こうとするだろうからな」
白田美ツ騎が先に旅立とうと考えたのには、いくつか理由があった。
一つは、根地黒門と同じ飛行機に乗りたくなかったからだ。直行便でも十四時間以上かかるフライト時間をあの人と一緒に過ごすのは、正直な話、苦痛でしかない。絶対に休ませてはもらえないだろう。
フミさんには申し訳ないけど──美ツ騎はそう思いながら、数年ぶりのロンドンの景色をタクシーの窓から眺めていた。歴史を感じる街並みだからだろうか、足を運ぶたびに、どことなく玉阪の町と同じ空気感を覚える。
もう一つの理由は、あの二人が突然、何の前触れもなく現れる立花希佐の心情が、想像するに余りあるからだった。突然押しかけてきた二人と出し抜けに対面するよりも、自分が一足先に赴き、説明してやった方が、少しは心の平穏を保てるのではないかと、美ツ騎はそのように考えていた。
タクシーが速度を落とし、いかにも伝統的な外観のパブの前で、完全に停車する。チップ込みの代金をカードで支払い、自分でドアを開けて外に出ると、黒塗りのタクシーはゆっくりと発車し、そのまま走り去っていった。
以前、ここまで足を運んでおきながら、寸前のところで怖気付き、引き返してしまったことを、美ツ騎は人知れず後悔していた。
もしかしたら、あの日、この店に立花希佐はおらず、会いにきたところで空振りに終わっていたのかもしれない。だが、自分がここまで会いにきたと知れば、少しは連絡をしてみようという気にはなったはずだ。誰にも何も告げずに姿を消した罪悪感で連絡を出来ずにいるのなら、自分がそのきっかけになれたかもしれない。
当人にしてみれば、大きなお世話なのかもしれないが──美ツ騎はそう思いながら、あの日と同じように、パブの前で立ち尽くしている。
イギリスにいる仕事仲間から聞いた話によると、このパブはロンドンの中でも取り分け古く、有名な店らしい。ソーホーという土地柄もあって、舞台関係者が足繁く通い、舞台人の社交場とも呼ばれているそうだ。二階にある小劇場は常に舞台を回しているわけではないらしく、店主の眼鏡に適った劇団だけが、その舞台上に立つことを許されるのだという。ヘスティアの舞台に立った役者は大成するという噂が、あるとか、ないとか。
少なくとも、立花希佐はこのパブで歌っていた。美ツ騎が見たのは、もう何年も前の動画だが、今も役者を続けているのなら、なんらかの手掛かりは得られるだろう。
美ツ騎はその場で軽く深呼吸をすると、トランクの持ち手を握り直した──そのときだった。
『あれ? ルキオラ?』身に覚えのある名前が聞こえ、踏み出しかけた足がぴたりと止まる。『あっ、やっぱりルキオラだー』
おーい、という呼び掛けが、自分に向けられたものなどと、誰が思うだろう。元々、ルキオラはラテン語で蛍という意味だ。おそらく珍しい名前でもない。美ツ騎はその声を無視し、そのまま店内に足を運ぼうとした。
『あ、ちょっと待って。えーっと、ごめん、君の本名を知らないんだった。なんだっけ、ファン・カルロ? シスター・ゴースト?』
足音が、たったったっ、と駆けてくる。パブの扉を開けようとした格好のまま、唖然とした顔をそちらに向けると、自分と年恰好の変わらない一人の青年が、目の前で足を止めた。
『いやあ、もう四月だっていうのに、雪でも降り出しそうな天気で嫌になっちゃうよねぇ』その青年は、まるで気の置けない友人に話しかけるかのように、美ツ騎に向かって語りかけてくる。『今日寒くない? 寒いよね? ごめんね、急に呼び止めちゃって。とりあえず中に入ろっか』
お前は誰だと問いただす隙すら与えず、その青年はパブのドアを押し開くと、美ツ騎を先に店内に通した。
平日の午後六時だというのに、店内は酷く賑わっている。ボックス席はすべて埋まり、テーブル席もほぼ満席だ。バーカウンターには注文の列ができている。
どうしたものかと思いながら店内を見回していると、後から入ってきた青年が、こっちだよ、と言って美ツ騎のトランクを取り上げ、カウンターに向かって歩いていった。
「あ、ちょっと」思わず日本語が口をついて出るが、青年は意に介さない。『困るんだけど』
『君、キサの友達でしょ?』美ツ騎がトランクを取り返すと、青年は首に巻いていたマフラーを外しながら、当然のことのように言った。『違った?』
『友達っていうか、学校の先輩と後輩で──』
『ユニヴェールだよね』知ってる知ってる、と頷く青年を見て、美ツ騎は微かに目を瞠った。『僕はノア。キサと同じ劇団に所属してるんだ。君は?』
『……白田美ツ騎』
『ミッキー?』
『み、つ、き』
ノアと名乗った青年はたいして興味がなさそうに、ふうん、と言ってからカウンターに向き直った。エールサーバーが並ぶカウンター越しに立つ店員を見上げ、親しげに口を開く。
『メレディス、キサにお客さんが来てるよ』
『おや』メレディスと呼ばれた店員は目を丸くするが、美ツ騎の方を見ると、すぐにやわらかい笑みを浮かべた。『いらっしゃいませ』
『僕は上に行ってキサを呼んでくるから、ミッキーはなんでも好きなものを注文しててよ』
『だから、僕はミッキーじゃ──』
そう言って訂正しようにも、ノアは店員に紙幣を握らせると、こちらを振り返りもせずにカウンターの列を離れていった。一体なんなのだと思いながら眉を顰めていると、後ろに並んでいた客が小さく咳払いをするので、美ツ騎はトランクを引きずってカウンターの前まで進み出た。
『あの』
『はい、ご注文を承ります』
『……何かあたたかい飲み物があれば、それをお願いしたいのですが』
『ノンアルコールがよろしいですか?』
『それでも大丈夫ですか?』
『もちろん』店員は嫌な顔一つせずに頷いた。『紅茶やコーヒーでもお出しできますよ』
『紅茶をお願いします』
『かしこまりました。すぐにお持ちしますので、あちらのカウンター席でお待ちください』
美ツ騎は肩越しに後ろを振り返り、咳払いをした客に軽く会釈をしてから、その場を離れた。紅茶代は後で返そうと思いながら、カウンターの空いている席に腰を下ろす。トランクは邪魔にならないように、足の間に挟み込むようにして置いた。
あれよあれよという間に店内に連れて来られたせいで、頭が現状を理解しきれていない。店の外で、かつて演じた役の名前を列挙され、当然混乱している。
ノアという青年は確か、キサと同じ劇団に所属しているのだと、そう言っていたはずだ。こちらを役名で呼び付けるくらいなので、舞台そのものを見たことがあるに違いない。それならば、立花は今の劇団仲間に、ユニヴェールのことを話して聞かせているということになる。
ユニヴェール歌劇学校の公式サイトには、各公演の参考映像が残されてはいるが、普段の役者の顔と、舞台に立つ役者の顔を一致させるには、情報量が少なすぎるような気がした。しかも、もう五年以上も前の公演だ。
『お待たせいたしました』
趣がある店内をぼんやりと眺めていると、先ほどの店員が、パブとはおよそ不釣り合いなティーポットを掲げて現れた。カウンターテーブルに置かれた小花柄のティーカップに、飴色の液体がとくとくと注がれていく。
『空港からここまでまっすぐにいらしたのですか?』
『え? ああ、はい』外国人がトランクを引きずって現れれば、誰もがそう推測するだろう。『立花はここに勤めているんですか?』
『以前はここのスタッフでした』
その店員はサービスだと言って、色とりどりのドライフルーツが入れられた透明な器を傍に置き、カウンターの中に戻っていった。
美ツ騎は見るからに高価そうなカップの柄を手に取り、立ち上る湯気から香りを堪能する。その爽やかな香りに、多少なりともリラックス効果があることを願いながら、紅茶をゆっくりと飲み下した。
ほとんど勢いと流れでここまで来てしまったが、本当にこれでよかったのかと、そう思ってしまうことは否めなかった。だが、事前に了承を得ようにも、連絡先を知らないのだから、どうすることもできない。もし、高科更文と根地黒門がイギリスに行くなんてことを言い出さなければ、自分がこうして立花に会いにくることはなかったと断言できる。
立花希佐が新しい環境で人間関係を築き、そこで幸せに暮らしているのなら、差し出口を挟むのはお門違いだと考えていた。正直なところ、今もそのように思っている。だが、世間はそれを許してはくれないのだろう。
立花希佐はいずれ、矢面に立たされることになる。
そのときに自分はどのように動くのかを、嵐の前の静けさの中で考えておかなければならないと、美ツ騎は思っていた。
「──白田先輩!」
どこの銘柄の紅茶だろうと、そう思いながら二杯目の紅茶を手ずから注いでいると、英語で溢れ返る喧騒のなか、凛とした声が聞こえてきた。
慌てるな、平常心だ、深呼吸をしろ──自分自身にそう命じながら、美ツ騎はティーポットをテーブルに戻す。そして、ゆっくりと振り返ると、その姿が目に飛び込んできた。
「たち、ばな……?」
あれは本当に立花希佐なのかと、美ツ騎は思った。
いや、確かに立花だ。だがしかし、まったく別人のようにも見える。
立花は混雑している店内を縫うようにして進み、美ツ騎のところまでやって来た。その顔には満面の笑みが浮かぶ。
五年前までは短かった髪が、今では腰に届くほど長く、化粧っ気のなかった顔には軽くメイクを施して、立花希佐は、深いグリーンの女性らしいワンピースドレスを身に纏っていた。踵の高い靴を履いているのか、椅子から立ち上がった美ツ騎よりも視線の位置が高い。
もし、過去に街の雑多の中ですれ違っていたとしても、美ツ騎はそれが立花だとは、絶対に気づくことはなかっただろう。
紛れもなく、女性が、そこにいた。
お前は誰だと、そう問い正したくなるような、失礼極まりない思考が脳裏をよぎる。
「お久しぶりです、白田先輩」
「え、あ、ああ、久しぶりだな、立花」自分の声に困惑が滲んでいるのが分かった。「元気そうで安心した」
「白田先輩もお変わりなく」
「お前と同じだけ歳を取ったよ」
「お会いできて嬉しいです」
そんなふうに言えてしまうのか。屈託のない笑顔を浮かべて。自分はこんなにも動揺しているというのに。
まるで、自分が現れることを以前から予期していたかのようだと、美ツ騎は思う。
だが、そもそもの話、立花希佐には自分たちに対する後ろめたさのような、罪悪感のようなものがあるに違いないというのは、こちらの勝手な妄想に過ぎなかった。良心の呵責に苛まれてユニヴェールを去ったというのは、自分たちの思い込みだ。
なぜユニヴェールの卒業を待たずに煙のように姿を消し、海を越えて外国に旅立ったのか、その本当の理由は、立花希佐にしか分からない。こうであってほしいという自分たちの解釈が正しいとは限らない。
自由に楽しく伸び伸びと──根地が恨み言を漏らす理由が、たった今、美ツ騎にも理解できたような気がした。
「劇団に所属してるんだって?」椅子に腰を下ろしながらそう問うと、立花は隣の椅子に座りながら頷いた。「役者、続けてるんだな」
「はい、いろいろあって」
「いろいろって?」
「本当はもう二度と舞台には立つまいと思っていました。そう思って日本を出たので」立花はそう言うと、どこか困ったように笑う。「でも、巡り巡って辿り着いたこの場所で、最後にもう一度だけと思って舞台に立ったら、引き返せなくなってしまったんです。私はもうここで生きて、死んでいくしかないんだって、そう思ってしまって」
「……そうか」
「はい」
「日本のことは聞かないのか?」美ツ騎が問うと、立花は、え、と小さくこぼした。「お前がいなくなってからの五年間の話とか」
酷なことを訊ねているという自覚はあった。だが、美ツ騎は問わずにはいられなかった。立花希佐の失踪を憂い、一緒にその行方を探し続けた世長や織巻の姿を見てきた。多くを語らず、ただ待ち続けるという姿勢を貫いていた、高科更文の姿を見てきたのだ。
「人が一人いなくなるっていうのは、思っていた以上に人生に歪みを生むものなんだって、お前のおかげでよく分かったよ」
「そうですね」
「……そうですね?」
眉を顰めた美ツ騎を見ても、立花は頼りなく笑うばかりで、何も言おうとはしない。美ツ騎は、それは一体どういう意味だと言って、立花を問い詰めようとした。だが、美ツ騎が口を開くよりも早く、ブロンドの女性が急ぎ足で歩み寄ってくる。
『お話中、失礼します』その女性は、美ツ騎に向かって一言断りを入れてから、立花の腕を掴んだ。『キサ、出番の時間よ』
『え? あっ、本当だ』立花は店の壁掛け時計を見やり、慌てた様子で椅子から立ち上がった。「白田先輩、すみません。私、ちょっと歌いにいかないといけなくて」
「は?」
「日曜日に、ここでチャリティーイベントが行われるのですが、持ち回りでその宣伝をすることになっているんです。今日は私たちの番なので、あの、少しだけお待ちいただけますか?」
「分かった、待ってる」
「本当にすみません」
頭を下げる立花の隣で、白色のワンピースを着たブロンドの女性は、美ツ騎に向かって軽く目礼をする。物腰と話振りは丁寧だが、どこか威圧的だ。その女性は立花の手を取ると、店内を見渡せる位置にあるステージに向かって歩いていった。
その背中を見送りながら、自分は一体何を期待していたのだろうと、美ツ騎は考える。
自分の顔を見て、その表情を絶望の色に染める様子を目の当たりにできれば、それで満足だったのだろうか。そうでなくとも、少しくらいはしおらしくしてくれた方が、こんなふうに屈折した物の考え方をすることもなかったのではないか。罪悪感にまみれている姿を見られれば、ああやっぱり後悔しているのだと、そんなふうに思うこともできた。
『紅茶のお味はいかがですか?』
その声で我に返り、美ツ騎はカウンターを振り返る。人好きのする笑みを浮かべた先ほどの店員が、カウンター越しに立っていた。
『とてもおいしいです』
『お口に合ってよかった』
『どこの銘柄ですか?』
『フォートナム&メイソンです』店員はそう言うとその場を離れるが、すぐに紅茶の缶を手にして戻ってくる。『こちらのクイーンアンをお淹れしました』
まるでワインの銘柄を説明するように差し出された紅茶缶を、スマートフォンで撮影していると、店員が朗らかに言った。
『紅茶がお好きなのですね』
『はい』美ツ騎はスマートフォンを伏せてテーブルの上に置く。『幼い頃、父が喉に良いからと飲ませてくれて』
『そうですか、お父様が』
『もう十年以上会ってもいませんが』
どうして今、日本から遠く離れたイギリスに来てまで、そんな大昔のことを思い出したのか、美ツ騎には理解が及ばなかった。初対面の、よくも知らないバーテンダーを相手に、何を話しているのだろう。だが、この紅茶の味は、妙に懐かしく感じられる。
『それでは、こちらの紅茶はお客さまがお持ちください』
「え?」
『幸い、お客様のためにお開けしたばかりのものです』
『いや、そんな』
『こちらは僕が私用で購入したものですので、どうぞお気になさらず。この紅茶で長旅の疲れを癒してくだされば』
店員はそう言い残すと、自分を呼ぶ他の客のところへ行ってしまった。美ツ騎はテーブルの上に残されたターコイズ色の缶を見つめている。気味が悪いくらいのサービスの良さだ。
以前、このロンドンに仕事でしばらくの間滞在していたときに、付き合いで通っていたパブの店員は、酷く義務的だった。店員と客の間に無駄な会話は不必要だと考えている自分には、似合いの店だったと美ツ騎は思う。
外国の飲食店のサービスなど、どこもこんなものだろうとも思っていたが、どうやらその認識は間違っていたらしい。
店内を見回すと、この店の制服を着た店員たちは、どの客とも親しげに言葉を交わしていた。ごく自然体で、嫌味なところもない。それだけ馴染みの客が多いのだろうとも思うが、自分のような外国人にも気軽に声をかけてくる。
美ツ騎は紅茶をもう一口飲んだ──そのときだった。
『ああ、良かった』美ツ騎の隣の席にやって来た一人の男が、大きく息を吐き出してから、そう独り言を漏らした。『間に合わないかと思ったよ』
『何にする?』
『音痴を治す薬はない?』
『今は生憎と切らしているんだ、申し訳ない』
その男は常連客なのだろう、先ほどの店員が、美ツ騎に対するよりもずっとフランクな態度で接していた。ぐったりとしながらコートを脱いでいる男を見て、機嫌良くジョークで返している。
『じゃあ、エールにする』ロンドンでエールと注文すれば、出てくるのは大抵ロンドンプライドだ。『チャリティーイベントの準備は順調なの?』
『そうだね、概ね順調だよ。夜の部についてはカオスが取り仕切ってくれているから、僕はこの通り、楽をさせてもらっている』店員はグラスに完璧な対比でエールを注ぎ、コースターの上にそれを置いた。『どういうわけか、今年は夜の部のチケットが飛ぶように売れてね』
『そういえば、今年はチケットが買えなかったって、うちの生徒が嘆いていたっけ』
『どこから話が漏れているのかは考えないようにしているよ』
『どう考えてもあのママンの仕業でしょ。なんか裏でこそこそやってるみたいだけど、僕の自慢の生徒たちに迷惑を掛けないでほしいなぁ』
盗み聞きをするつもりはないのだが、聞こえてくるのだから仕方がない。
美ツ騎がそう思いながら冷めた紅茶を口に運んでいると、店内にマイクの電源を入れる、プツン、という音が響いた。隣の男はエールを一気に飲み干すと、椅子ごと後ろを振り返った。
『ご来店のみなさん、こんばんは』ステージの上に立ち、そう挨拶していたのは、立花だった。『あの、メレディス? スピーカーの調子が悪いみたいで、ジェレマイアは配線の不具合じゃないかって言っているのだけれど……』
『明日業者を呼んで見てもらうよ』
『本番前日にやることかよ』
ステージ上と、その真正面に位置するカウンター、美ツ騎の目の前にいるメレディスと呼ばれた店員の間で会話が行われると、店内にどっと笑いが巻き起こった。立花は店内の喧騒が静まるのを待って、再びマイクを持ち上げた。
『改めまして。みなさん、こんばんは。劇団カオスです』
ステージの周辺には数人の男女がいた。ステージの縁に座って下にいる客と話をしている者、未だ後ろの方で配線をいじくり回している者、遅れてステージに上がってくる者、そうした人々を呆れたように見ている者──一見すると、まとまりがある者たちとは思えない。
『例によって主宰がマイクを取りたがらないので、今日は私がお話ししますね』立花は有線のマイクのコードを操りながら言った。『ご存じとは思いますが、明後日の日曜日はチャリティーイベントの当日です。明日はその準備のためにお店がお休みになるので、お間違えのないようにお願いします──というのが、メレディスからの伝言です。それから、今日はギネスをご注文されると、お店側からその半値が慈善団体に寄付されます。ご注文にお困りでしたら、是非』
立花は信じられないほど流暢にイギリス英語を操っていた。日本語を話しているときよりも低く、落ち着いたトーンの声だ。
「白田先輩」マイクを通して聞こえてくる声のやわらかさに気を取られていると、不意に、そう声を掛けられた。「お久しぶりです」
「……お前ら」稽古着のようなラフな格好をして現れたのは、立花と同期の加斎中とダンテ軍平だった。「どうして」
「どうしてここにいるのかという話なら、俺たちも明後日のチャリティーイベントに出演者として参加するから、ですね」二人は顔を見合わせてから、美ツ騎の近くまでやって来る。「俺が立花と再会したのは去年のことです。俺たちが出演していた舞台の演出家と、立花の劇団の主宰が知り合いで」
「年末にヴィルチッタで顔を合わせたときは、そんなこと一言も言ってなかったな」
「心苦しくはありましたけど」加斎は頭を掻きながら苦笑いを浮かべた。「あ、これは立花の名誉のために言っておきますけど、あいつから自分のことは誰にも言うなって口止めをされたことは、一度もありません。俺が、俺の意志で──」
「アタル」後ろを振り返り、ステージを見ていたダンテが加斎の肩を叩き、唇に人差し指を立てた。「その話は後にして、今は彼らのステージを楽しみましょう」
「そうだね、ごめん」
では、また後ほど──礼儀正しく頭を下げた加斎は、その場で踵を返した。ダンテは、美ツ騎に向かってぱちんとウインクをし、軽く手を振ると、ゆったりとした足取りで加斎を追いかける。
きっと、誰も彼もが同じ思いで、立花希佐の尊厳を守ってやりたかったのだ。だが、立花の意志を尊重してやりたいと、当人のやることを見て見ぬふりし続けることが正しい選択だとは言い切れない。説明責任は果たされるべきなのだろうと、美ツ騎は思ってしまう。
『アイリーンもこんな情感たっぷりに歌えるようになったんだねぇ』隣に座っている男が、カウンターの中にいるメレディスと言葉を交わしていた。『キサの影響かな』
『彼女、最近は演技指導のワークショップに通っているそうだよ』
『へえ、意外だな。でもまあ、そうか。ここ数年カオスは公演をしていないし、アイリーンは現状、舞台よりも歌の仕事の方が多いから。この間のコンサートも観に行ったけど、すごく良かったよ。アルバムの配信も好調みたいだし、順風満帆って感じだよね』
今、ステージに立って歌っているのがアイリーンという女性ならば、確かに上手いと、美ツ騎は思った。
日本人よりも、海外の歌手の方が優れているなどと言うつもりは、毛頭ない。だが、この業界で生きていく上での最低ラインは、この国の方がずっと高いのだと思わざるを得なかった。
歌が上手いだけの人間はごまんといる。もちろん、それだけの人間はたちまちのうちに消えていく。一曲でもヒットに恵まれれば御の字だろう。何の評価もされないまま、その存在すら知られることなく、終わりを迎える者の方が多いくらいだ。
時々、夢を夢のまま終わらせてしまった者の方が幸せなのではないかと、そう思うことがある。下手に夢を見せられ、あともう一歩で夢に手が届くという経験をした者の絶望は、計り知れない。
歌は才能だと言われる。
だが、実際は誰もが血の滲むような努力をしている。
このアイリーンという女性の、まるでヴァイオリンのような美しい歌声には、その努力の跡があった。歌を生業としている人間にしてみれば、その努力の跡ほど感じ取られたくはないものだが、同業者としては、酷く好感を覚える。
女性が歌い終えると、大きな拍手が湧き起こった。拍手喝采など慣れた様子で優美に会釈をして見せ、持っていたマイクを隣の男に渡している。
男は拍手が鳴り止むのを待って、話し出した。
『日曜のチャリティーについて伝え忘れていたことがある』どこか気怠げな雰囲気を漂わせた男が、自らの手元を見ながら、更に続けた。『夜の部のチケットは、ありがたいことに完売しているそうだが、この店は通常通りの営業を行っている。夜の部は、そうだなぁ、九時過ぎには終わると思うが、その後、閉店時間の十一時まで、もしかしたらここでサプライズ的な何かがあるかもしれねぇって話だ。まあ、毎年のお約束だし、馴染みのお客は知ってるよな』
今日も相変わらず馴染みのお客しかいねぇみたいだけど──男がそう言うと、馴染みの客のものだろう、囃し立てるようなあたたかい野次が飛んだ。
『当日のプログラムについては、例年通りオフレコのはずなんだが、どういうわけか、ここ数日はこの噂話で持ちきりらしい──うちの恥ずかしがり屋の主宰が、ついに舞台に立つんじゃねぇかってな』男がそう言って後ろを振り返ると、ピアノの前に座っていた別の男が、煙たがるように頭を振った。『当日の夜の部の演出は、うちの主宰が引き受けている、とまでは明言しておく。カオスの過去公演を観に来たことがあるお客様には、一層楽しんでもらえるかもしれねぇな』
『ねえ、カオスの次の公演はいつ?』
店内からそう言う声が聞こえてくると、男は大きく肩をすくめ、こう言った。
「That's what God only knows.」
その瞬間、店内が不思議な雰囲気に包み込まれるのを、美ツ騎は感じ取っていた。方々から聞こえてくるぱらぱらとした拍手を受けて、男は自分の隣にいた立花の肩に手を置き、顔を見合わせている。
『うわー、あれ、絶対上手いこと言ったつもりになってるよ』隣に座っている男はそう言うと、美ツ騎が自分を見ていることに気づいたのか、こちらを見て口を開いた。『三年くらい前にね、God only knowsっていう舞台を、劇団カオスが上演したんだ。ここの二階でね』
『そうなんですか』
『今でもカオスの最高傑作って言われているくらいなんだけど、実際のところは一夜限りの夢でね』
『一夜限りの……?』
『劇団カオスは一つの演目につき一度の公演しか行いません』カウンターの内側でグラスを磨きながらメレディスが言った。『お金儲けには興味がないそうですよ。当人たちはライフワークだと言っていますが』
『当時舞台を見た人たちが、あちこちで酒の肴に自慢するわけだよ。今やカオスの舞台のチケットはプレミアが付くくらいでね。なにしろ、観客動員数はせいぜい百人かそこらだ。ファンは「俺はいつの時代からのファンだ」みたいな、仕様もない話でマウントを取り合う。彼らのステージが終わったら耳を傾けてみなよ、そういう話で溢れかえるだろうから』
『人気のある劇団なんですね』
『まあ、今となってはね』男はそう言うと、ふふ、と小さく笑った。『立ち上げ当初は、何を表現したいのかも分からない、誰からも理解されない、カオスな集団って言われていたんだよ。それなのに、個々の技術はその頃から恐ろしく高くてね。みんな、怖いもの見たさで劇場に足を運んでいたんじゃないかな。自分は今、何か途轍もないものを見せられている。でも、それが面白いのかどうかは、さっぱり分からない。だけど、劇団員が一人、また一人と増えていくにつれて、彼らには少しずつ表現出来ることが増えていった。アイリーンやノアが入った頃からかなぁ、観客に寄り添うような舞台になっていったのは』
ステージに目を向けると、立花希佐はこの国の仲間たちに囲まれて、幸せそうに笑っている。その笑顔を守ってくれる人がいて、受け入れてくれる場所もある。その事実に胸が痛むのは、まるで自分たちが過去に置き去りにされ、そんなはずはないと分かっていても、蔑ろにされていると感じるからなのかもしれない。
立花にとっての自分たちは、ただの過去になってしまったのだろうか。
『じゃあ、最後に』チャリティーに関する注意喚起や仔細な説明、準備期間中の裏話などの雑談を終えると、立花が隣に座っている男の時計を見やる。『もう一曲だけ聞いてください。あ、今回はきちんとカンパニーから許可をいただいているので、お叱りを受けることはないと思います。ウィキッドから──』
立花とアイリーン、そしてピアノの演奏者を残し、他の者たちはステージを降りていく。雑談中はテーブルに向き直り、仲間内で会話を楽しんでいた者たちも、歌がはじまると分かるや否や、それを切り上げてステージに向き直っていた。
立花とアイリーンはお互いに顔を見合わせると、揃ってピアノの前に座っている男を振り返った。ピアノはステージの奥まった場所にあるのて、薄暗くしか照明が届かず、その顔を見ることはできない。
このウエスト・エンドを拠点としている者ならば、誰もが耳馴染みのあるであろう旋律が、繊細に奏でられる。美しく、丁寧に、大切に、一音一音が送り出されていく。
これはただの伴奏などではなく、歴とした音楽だと、美ツ騎は思った。
アイリーンの歌声は、先程よりもやわらかく、穏やかで、優しいものだった。美ツ騎はなにか、この歌には特別な意味があるのだとでもいうふうな、強いメッセージ性を覚えていた。ピアノの音色に後押しされて、そこに自身の気持ちを乗せているような。
隣に立っている立花は、柔和な面持ちで、相手の歌声を受け止めている。
今、美ツ騎の脳裏では、ハヴェンナの記憶が強く呼び起こされていた。ダブルアルジャンヌとして舞台に立ち、二人で歌った《淡色》が耳の奥に蘇ってくる。店に入る前、久しぶりにその名前を呼ばれたせいで、美ツ騎の中にいるルキオラが、ひょっこりと顔を覗かせたのかもしれない。
久しぶりね、チッチ──嬉しそうに声を弾ませ、それこそ踊りながら、ルキオラはチッチに駆け寄りたがっていた。だがしかし、立花が歌い出すと同時に、うきうきと胸を躍らせていたはずのルキオラが、呆然とした面持ちを浮かべて立ち尽くす。
美ツ騎自身も同じ気持ちだった。
お前は誰だ。
知らない、知らない、知らない。
美ツ騎が知る立花と、ルキオラが知るチッチは、もうどこにもいない。
そう、悟った。
「立花、お前……」
立花希佐には抜きん出た芝居の才能があった。器用で努力家な彼女は、歌もダンスも人並み以上の技術を身につけ、二年の夏公演を終えた頃にはもう、先輩や後輩の垣根を超えて誰からも頼られる、クォーツの顔となっていた。だが、オニキスの生徒と比べればダンスの技術は劣っていたように、歌唱力もまた、ロードナイトの生徒よりも優れてはいなかったはずだ。
立花は、総合力の高さが評価され、あの化け物だらけのユニヴェールで、常に個人賞金賞に輝き続けていた。そして、二年のユニヴェール公演で、稀代のアルジャンヌと称されるようになる。同時期に、同期の忍成稀は兄と同じトレゾールの称号を得たが、立花希佐がトレゾールと呼ばれることは、ついぞなかったのだ。
SNSで全世界に拡散された《Defying Gravity》を聞いたとき、立花の歌は確かに上手くなっていると、そう感じた。先日、根地黒門の自宅まで呼び出されて《魔物のエクス》の映像を見せられたときも、その歌声に目を見張った。だが、ここまでとは思ってもみなかったのだ。
実際に、この耳で聞いて、初めて分かる。
こんなにも人は変わってしまうのか。
変われてしまうのか。
この五年の間に、一体何があったというのか。
全身に隈なく鳥肌が立つ。心底、ぞっとする。
自分が日本で過ごしてきた五年と、立花希佐がここで過ごしてきた五年が、同じ密度だとは到底思えなかった。
「uh-oh」隣の男が小さく独り言ちた。『感情に引っ張られすぎるなっていつも言ってるのに』
『彼女の歌が人々の心を惹きつけてやまないのは、歌に彼女自身の感情が乗っているからだろう?』
『でも、もし感情を上手く乗せられなかったら?』男はメレディスの方は見ず、ステージに目を向けたまま、すっと目を細める。『あの歌い方では、長期の公演には耐えられないよ。歌にばらつきが出るからね。カオスの舞台とか、こういう一発勝負の場面では最強なのかもしれないけど。どんなメンタルのときでも、常に同じクオリティで歌えるようになってはじめて、舞台上に送り出せるんだ。このぼくが歌唱指導をしてるんだから、半端は許さない』
『君はキサのことを本当に気に入っているのだね』
『彼女たちが成功してくれれば、ぼくの成功に繋がるんだ。至って健全でビジネスライクな関係さ』
『では、そういうことにしておこう』
メレディスはそう言うと、愉快そうにくすくすと笑った。その様子を横目に一瞥し、男は大きく肩をすくめる。
『イライアスには、そんなキサの爪の垢を煎じて、飲ませてあげたいんだけどね』歌の終わりを待って、隣の男はカウンターに向き直った。『もう一皮剥けたら、彼はもう一段階上の境地に達することができるはずなんだけど、どうしようにもプライドが高くて。彼はどうしても自分を捨てることができないらしい』
『そういうタイプの役者もいるじゃないか』
『そうなんだけど、厄介なことに、彼は今の自分に満足ができていない。自らのありように肯定的なら何の問題もないけれど、キサの隣に立つパートナーとしては、次のステップに進むべきだという自覚がある。彼はきっと、この先も化け続けるよ。ただし、それが明日なのか、一年先なのか、はたまた十年先なのかは、誰にも分からない』
『難しい問題だね』
『子供の頃からこちら側の世界にいる人間は、その辺りの感覚がバグってることの方が多いんだけどなぁ。ほら、アランはそのタイプだったと思うんだよね。むしろ、舞台の上にいるときこそ本性をさらけ出してるっていうか』メレディスは男を見ているが、何も答えない。『キサだってそうだよ。だから、ぼくはてっきり、彼女も子供の頃から舞台に立っていたものとばかり思っていたのに、実際には高校からだろう?』
『彼女は天性の舞台人だからね』
『ルイなんて酔うたびにキサのことで嘆いているよ』男は呆れた様子で続けた。『あと二十年早く出会っていれば、キサは世界的なエトワールにだってなれた──二十年なんて手遅れなんてもんじゃないよ。それに、もしもの話は好きじゃない。彼女は十二分に才能豊かな役者だし、努力家で、しかも良い子だ。成功してほしい』
『僕も同じ思いだ』
『だから、プロデューサー同士のごたごたに巻き込まれて、今後の活動に遺恨を残すようなことには、ならないんでほしいんだけど』
《魔物のエクス》の映像を見せられたあとで、根地に聞かれたことがある。
白田くんは、立花くんの歌を聞いてどう思ったか、と。そのとき、美ツ騎はこう答えた。良い先生に巡り会えたのだろうなと思う──その先生が、この隣に座っている男なのだ。まだ若い。自分よりもいくつか年上というくらいの外見をしている。
チャリティーイベント同日の予定をもう一度簡単に説明したあと、立花は最後にステージを降りた。下にいた仲間たちと何やら話をしていたが、不意にこちらに目を向け、軽く手を挙げる。
『おや』隣に座っていた男が美ツ騎を見た。『お兄さん、キサの知り合い?』
『はい』
『あ、もしかしてあれかな、ユニヴェールの』男は美ツ騎の表情を読み、答えを待たずに続けた。『ぼくは、ジョシュア。彼女のボイストレーナーをしてる──って言わなくても、今の話は全部聞こえていたよね』
暗に、今の話は立花には聞かせてやるなと、そう釘を刺されているのだろうと、美ツ騎は感じ取った。
『白田美ツ騎です』
『ミツキ』ジョシュアは何度かその名を口遊んでから、右手を差し出してきた。『よろしく』
『……こちらこそ』
そう言って軽く握り締めた手の平が、思っていたよりも大きかったことに内心で驚いていると、そこに立花が戻ってきた。自己紹介を終え、握手まで済ませていた二人の姿を目の当たりにすると、目を丸くしている。
『ジョシュア──』
『感情に引っ張られて歌がおろそかになっていたよ』目の前で大きなため息を吐かれた立花は、ばつが悪そうに笑った。『パフォーマンスとしては良かったけれど、君のお歌の先生としては褒めてあげられないな。歌は歌だよ、キサ。感情が歌よりも前に出てきてはいけない』
『はい』
『それから──』
その後もダメ出しは続くかに思われたが、すぐに「まあまあ」と割って入る声があった。その男は立花の背後からぬっと現れたかと思うと、背中から覆い被さるような格好になる。
『せっかく日本からキサの知り合いが来てるってのに、目の前で説教なんて酷なことはしてやるなよ、ジョシュア』
『指導なんだけどね』
『似たようなもんだろ』男はそう言い、立花の隣に立つと、ジョシュアと同じように右手を差し出してきた。『バージルだ』
すらりと背が高く、細身で、手足が長い。年齢は三十代後半くらいだろうか。にっと笑った顔は少年のようでもあって、どこか憎めない感じがした。
『美ツ騎、白田美ツ騎です』
『ミツキか、よろしくな』握手に応じた右手が、力強く握り返される。『おい、イライアス。上に戻る前に挨拶くらいしてけよ』
カウンターの前に立ち、メレディスからペットボトルの水を受け取っていた青年に向かって、バージルがそう声を掛けた。その青年は、こちらには見向きもせず、どこかへ行こうとしていたようだ。
イライアスと呼ばれた青年は、美ツ騎を一瞥すると、軽く会釈をしてその場を去っていった。
『おっ、ミッキー、パブに来てまで紅茶を嗜むなんて、すっかりイギリスを満喫しているね』
後ろに大男を引き連れてきたノアが、テーブルの上にあるティーポットを指して言う。一瞬、お前は酒も飲めないのかという、遠回しな嫌味を言われているのかと思ったが、どうやらそういうわけでもないらしい。
『メレディス、喉がカラカラなの、お水をいただける? 氷はいらないわ。どうもありがとう』
品のある立ち居振る舞いとは裏腹に、その女性は酷く豪快に水を飲む。グラスの半分ほどの水を飲むと、気持ちが良さそうに息を吐いた。
「白田先輩、彼女はアイリーン。彼はジェレマイアで、他のみんなも同じ劇団の仲間です」立花は美ツ騎に向かってそう言うと、今度は仲間たちに目を向ける。『こちらがユニヴェールの先輩で、白田美ツ騎さん』
『よろしく』
アイリーンは礼儀正しく会釈をし、ジェレマイアは気軽げに声を掛けてくる。美ツ騎は二人にも挨拶をし返すが、内心では別のことを考えていた。
たった今、紹介を受けた者の中に、エクスの姿が見当たらないのだ。メイクをしていたので素顔を見たわけではないが、少なくとも紹介を受けた者の中に、立花と二人で魔物のエクスを演じた男がいないことは分かった。
「あとは主宰だけなのですが」立花は困ったように笑う。「すみません、途中でお客さんに声を掛けられたみたいで」
「いいよ。そんなに一気に紹介されても、全員覚えられる自信ないから」
「前に田中右先輩もここにいらして、丁度、白田先輩がお掛けになっていたその席にお座りになっていたんですよ」
「……田中右が?」
「はい。インドから日本に戻られる前に、イギリスに立ち寄られたそうで」
「あいつ、本当にめちゃくちゃやってるんだな」
「田中右先輩は今も日本に?」
「いや、確か今度はドイツに行ったって、根地さんが言ってたと思うけど」
「いろいろな国に行かれているんですね」
立花は美ツ騎の口から根地黒門の名前が出てきても、顔色一つ変えなかった。自分たちの後ろに長く伸びる、五年という途方もない月日などなかったかのような顔で、平然とその名前を受け入れているように見えた。
『キサ』バージルに声を掛けられ、立花は振り返る。『俺たちは先に上に戻ってる。他の連中の稽古を見てやらねぇとな』
『うん、分かった』
『またな、ミツキ』
『じゃあね、ミッキー』
騒がしい劇団員たちは口々に挨拶をすると、ぞろぞろと連れ立って階段の方に歩いていった。途中、バージルがテーブル席の客と話し込んでいる、赤毛の男に声を掛けているのが見える。赤毛の男は小さく頷くと、すぐにテーブル席を離れ、こちらに向かって歩いてきた。
「白田先輩」そうして名前を呼ばれても、なぜか、美ツ騎はその男から視線を逸らすことができなかった。「劇団カオス主宰の、アラン・ジンデルです」
人間の美醜については人それぞれの解釈がある。だからというわけではないが、美ツ騎は人の容姿について、客観的に感じること以外の感想は持たないようにしていた。好奇の目を向けられる者の気持ちが分かるからこそ、自分はそうはなるまいと思ってきた。
だがしかし、これには抗えないと、そう思う。
『アラン、こちらは白田美ツ騎さん』
立花の隣で足を止めたその男には、圧倒的な存在感があった。目元を隠すほどに長い赤毛の影から、緑色の目がじっとこちらを見つめている。だが、不思議と威圧的な感じはしない。
美ツ騎がその目に魅入られ、身動きを取れずにいると、アランと紹介された男はゆっくりと目を逸らし、徐に口を開いた。
『はじめまして』美ツ騎の返事を待たず、アランは続ける。『今夜の宿泊場所は?』
『……え?』
『ホテル』
『ここまで突発的に来たので、まだ決めてないんですけど』
『金曜の夜だからどこのホテルも満室だと思う』アランの視線の先には、カウンターの下に押し込まれている、美ツ騎のトランクがあった。『先に宿泊場所を確保した方がいい。話は後からでも出来るから』
『そうだね。ホテル、私も一緒に探します』立花は英語でそう言ってから、ハッとした顔をして、すぐに日本語で言い直した。「私も一緒に探します。何かご希望とかありますか? 場所とか、料金とか──」
立花はポケットからスマートフォンを取り出し、準備万端という顔をしてこちらを見つめてくる。
「ホステルとかなら空きはありそうですけれど、白田先輩はお嫌でしょうから、除外するとして」
「いや、泊まれるなら別にどこでもいい」
「ロンドンのホステルって騒がしいんですよ。ホテルほど清潔ではありませんし、利用者は海外からの旅行客とか、バックパッカーがほとんどなので、ルールなんてあってないようなものなんです。朝方まで騒がしいこともあるので、連泊するとなると厳しいかもしれません」
「泊まったことあるの?」
「暮らしていました」立花は美ツ騎と話をしながらも、スマートフォンの画面を熱心にスワイプしている。「ロンドンに来たばかりの頃なんですが、なかなかアパートの審査に受からなくて──『あ、これ見て。一応空いているところはあるみたい。でも……』」
『治安が悪い』
『そうだよね』
その場に立ち尽くしていることしかできない美ツ騎は、既にバッテリー切れを起こして使い物にならなくなっている自身のスマートフォンを、ポケットから取り出した。真っ暗な画面には、なんとも言えない面持ちを浮かべた自分の顔が映り込んでいる。
良かれと思って来てみたはいいが、こうして後輩やその友人に迷惑を掛けているのだと思うと、酷く居た堪れない気持ちになった。
『うーん、やっぱりおおよそのホテルは空きがないみたいだね』まるでネイティブのように、立花は傍に立つアランに話しかけている。『うちに泊まってもらう? 頼めば泊めてくれる人はいると思うけれど、初対面の人の家に泊めてもらうのは、白田先輩も抵抗があると思うし』
『彼がそれでいいなら、俺は構わないけど』
『お聞きしてみるね──「白田先輩」』英語を話しているときよりも、自分を呼ぶ声が少しだけ高くなる。「やっぱり今からホテルを予約するのは難しいと思うので、よろしければ、彼の家に泊まりに来ませんか? 私も居候させてもらっているので、安全は保証します」
「迷惑だろ、突然やってきた赤の他人を家に泊めるなんて」
「赤の他人だなんて、そんなこと言わないでください」立花は大きく頭を振った。「アランも構わないと言ってくれているので、是非」
かくして、白田美ツ騎は立花の家に泊めてもらうことになった。同じ寮で暮らしていたこともあり、大した抵抗は覚えない。長年の共同生活が、その辺の感覚を麻痺させているのだろう。
『俺たちはもうしばらく帰らないけど、君はどうする』そうアランが声を掛けてきた。『早く休みたいならキサが家まで送り届けてくれるだろうし、余力があるなら稽古の様子を見学していてもいいけど』
『見学させてください』
『そう』アランはそう言い、立花に軽く目配せをしてから、こちらに背を向けた。『じゃあ、こっち。荷物忘れないで』
このアラン・ジンデルが、魔物のエクスだ。
睦実介はどこか立花に似ていると言っていたが、美ツ騎はやはり、介に雰囲気が似ていると思う。細身だが程よく筋肉質で、背が高く、背中や腰のラインが服の上からでも分かるほど、異常に美しい。
「白田先輩、お荷物お持ちします」
カウンターの下から、トランクを引っ張り出している美ツ騎のところまでやって来て、立花が言った。
「いい、自分で持つ。もうユニヴェールの生徒じゃないんだし、そういう上下関係は不要だと思うけど」美ツ騎がそう言うのを、立花は黙って聞いている。「まあ、突然そんなこと言われたって、友達みたいにはなれないよな。織巻や世長だって、もう先輩はやめろって言ってるのに、未だに白田先輩って呼ぶんだから」
「二人は──皆さんはお元気ですか?」
「そう思うよ」美ツ騎は少し意地が悪いことを言いたくなった。「自分の目で確かめてみれば? 明日になれば、根地さんとフミさんがロンドンに来るんだ」
「私もそう聞いています」
だがしかし、意表を突かれたのは美ツ騎の方だった。トランクを抱える美ツ騎を先導するように歩いていた立花は、至って平然と言ってのけた。
「なんで知ってるの?」
「アランに──いえ、加斎くんが教えてくれたんです。加斎くんは、海堂先輩からお聞きしたみたいです」
「どう思ってるの?」
「何がですか?」
「二人が来る」階段に差し掛かったところでそう問うと、立花は数段上がったところで足を止めた。「立花はどうするんだ?」
「私は私にできることを全うします。自分勝手なことを言っているのは百も承知なのですが、この三年間の集大成をお二人に、もちろん白田先輩にも、見ていただきたいんです」
「……三年?」
「そうだ、加斎くんとダンテくんにはお会いになりましたか?」
「あ、ああ、さっき挨拶に来た」
「二人も上に戻って稽古を続けていると思います。なんかもうてんやわんやで──あれ? てんやわんや? そんな日本語、ありましたよね?」
「大勢の人間が自分勝手に振る舞うことで、周囲が混乱した状況にあるって意味だ。江戸時代から使われている」
「白田先輩、物知りですね」
「前に根地さんがそんなようなことを言ってた。自分がてんやわんやな人間だっていうことは自覚してるって」
美ツ騎が呆れた口振りでそう言うのを聞き、立花は朗らかに笑っていた。
立花と美ツ騎を待っていたのか、アランは歴史を感じさせる両開きの木の扉の前に立っていた。その手前のフロアには鮮やかな赤い絨毯が敷かれ、椅子やテーブルなどが配置されている。
「日曜の昼間は下のお店で催し物をして、夜はこちらの劇場でメインのイベントが行われます。昼の部は誰でも自由に出入りできるのですが、夜の部はチケット制になっていて」
「完売してるんだろ」
「はい。でも、なんとか入れてもらえるかもしれないので、あとでメレディスに相談してみます」赤い絨毯の上を進みながら、立花は続けた。「根地先輩とフミさんの分のチケットは確保しておいたんですけど、白田先輩がいらっしゃることは聞いていなかったので、すみません」
「……お前、すごいな」
「え?」
「本当にすごいよ」
ただ純粋に、その神経が、すごいと思う。
何の前触れもなく仲間たちの前から姿を消しておきながら、五年もの間その消息を絶っておきながら、自らの選択がかつての仲間たちの心に暗い影を落としていることを知っていながら、そのすべてを背負って立つ覚悟を決めている──そういう顔をしている。
自分が妙な気を回さずとも、立花希佐は既に腹を括っていたのだ。
自分には到底出来ない芸当だと、美ツ騎は思った。
「キサ、下にお客さんが来てるよ」たったったっ、と半ば駆け足で劇場に入ってきたノアが、機嫌良く言った。「ねえねえ、誰が来たと思う?」
自分の稽古はスタジオに帰ってからすると言って、希佐は連日、時間が許す限り、他の共演者たちの稽古に付き合ってやっていた。飲み込みの早い希佐は、あっという間に振り付けを覚え、むしろバージルよりも細やかに、共演者たちに丁寧な振り入れを行っていた。
「お客さん?」
「びっくりすると思うよ」
「誰だろう」
ノアはにこにこと嬉しそうにしていた。まるで、街中で贔屓にしている役者を見かけ、それを自慢するかのような顔だ。
「ルキオラだよ、ルキオラ」
その瞬間、アランは希佐から少し離れた場所にいた。本番当日の裏方仕事について、ジェレマイアと話し合っていたのだ。希佐とアイリーンは、下で行うステージのための準備を既に終え、劇場の隅の方で声出しをしているところだった。
「私と同じくらいの身長の、比較的小柄な方だった?」
「うん」希佐が自分の頭よりも少し高い位置に手の平を掲げると、ノアもそれに合わせて、相手の身長の高さを示す。「ルキオラで間違いないよ、キサ。僕、一度覚えた人の顔は絶対に忘れないから」
「じゃあ、すぐにご挨拶に行かないと」
「もうすぐ出番なのだから、長話は駄目よ」
「うん、分かってる」
希佐は平然としているように見えた。毅然と顔を上げて、脇目も振らず、劇場を出ていく。
その背中を見送っていると、ジェレマイアが明るく声を掛けてきた。
「心配か?」
「いや」
「キサなら大丈夫だと思うけどな、オレは」ジェレマイアは穏やかな表情を浮かべ、希佐が出て行ったばかりの扉の方を見る。「ここに来たばかりの頃は、吹けば飛ぶような頼りない感じがあったけど、今のあの子は、自分の足でまっすぐに立ってるだろ」
「ああ」
「過去は過去、今は今、未来は未来。自分の過去にけりをつけられるのは自分だけ。理想の未来のために努力出来るのも、自分だけだ。怪我とリハビリだよ。本気で向き合えば何とかなる場合の方が多い」
アランは、大怪我をし、リハビリを経て、スポットライトの下に戻った者と、やむを得ず裏方仕事を選択した者の、その両方を知っている。
希佐が抱えている問題は、どうしても自分自身の努力だけで解決されるとも、乗り越えられるとも思えない。たとえ仲間に受け入れられたとしても、マスコミや民衆が、それを許すとはかぎらない。
「オレらに出来るのは、あの子をそっと見守ることくらいじゃないかな。もちろん、あの子から助けを求められたら、いくらでも手を差し伸べてやりたい。だって、オレたち仲間だろ?」
「ジェレマイア……」
「おっ、なに、今のでオレに惚れちゃった?」
「俺はずっと前から君に惚れ込んでる」
「おいおい、照れるなぁ」
アラン・ジンデルが二十四歳だった頃は、がたがただった私生活が、少しずつ立て直されはじめていた。
二十三歳の頃に書いた『斜陽の雲』の脚本が、レオナール・ゴダンの手によって映像化され、世界で公開、各国の映画賞を席巻し、一躍脚光を浴びることになった。
撮影期間は短く、三ヶ月程だった。ただ、配給会社との契約が上手くいかず、ゴダンは小さな映画館を借り、最初はそこでひっそりと上映することを選んだ。だが、ゴダンが自らのSNSのアカウントで映画の宣伝を行うと、廃業寸前だった小さな映画館は連日満席となり、映画の噂は瞬く間に口コミで広まって、次の週にはハリウッドでの上映が決まっていた。
正直なところ、あまりにとんとん拍子で進んでいく話に、当時のアランにはすべてのことが現実味を帯びていなかった。夢見心地とは違う、漠然とした不安や、むかむかとした不快感のような、船酔いにも似た感覚がずっと続いていた。自分が望んでいなかった方向へと舵を切られるが、そちらへ行くなと声を上げるほどの情熱もない。
舞台の上ですべてを曝け出して生きてきた。
その結果が、当時の自分だ。ならば今度は、自らの名前以外のすべてを隠して生きていこうと、アランは思った。
レオナール・ゴダンは、その意志を尊重してくれた。アラン・ジンデルの代わりに、最も有名な映画の祭典でも、脚本賞の受賞スピーチを行なってくれた。だが、その姿をテレビの前で眺めていても、どうしても一連のことを我が事とは思えなかった。
ようやく物事が現実味を帯びてきたのは、小説『斜陽の雲』の執筆をはじめた頃だろうか。元々早筆なこともあり、原稿自体は一月と掛からずに書き下ろすことができた。出版社もこの追い風を逃すまいと、大急ぎで本を仕上げ、出版に漕ぎ着けていた。
要するに、映画の評価のすべては、レオナール・ゴダンの威光によるものだと、アランは考えていたのだ。自分が書いた、あの何の変哲もない物語が評価されたのも、それを映像化したゴダンの才能の賜物だと、そう考えていた。卑屈になっていたのではない。それが、アラン自身が抱いていた、自分に対する評価だった。
増版に次ぐ増版から、他国での翻訳本の出版が、次々と決まっていった。
各国から届くファンレターの中から「自死を考えていましたが、あなたの物語に救われました。まだ生きてみようと思います。ありがとう」という文言を見つけて、なぜか自分も救われたような気持ちになったことを、今でも憶えている。
だからというわけではないが、どんなに時間が掛かっても、ファンレターや届いたメールには返事を出すようにしていた。メディアのインタビューはすべて文書で送ってもらい、無償で返答に応じてきた。それが自分に合ったやり方だった。
この界隈の人々は、アラン・ジンデルの名前が世界中で独り歩きをはじめても、何一つ変わることはなかった。ヘスティアに顔を出せば、昔と変わらず気安く声を掛けてくる。それを煙たく思ったこともあるが、どこからかアラン・ジンデルの行き付けだという噂を聞きつけ、店まで押しかけてきたマスコミに向かって「そんなやつは知らねぇ」と守ってくれた姿を目の当たりにしてからは、無下にすることもできなくなってしまった。
過去に囚われているのは自分も同じだ。
この世に生まれ、捨てられて、施設で暮らしてきた五年間が、未だに尾を引いている。養父からも散々な仕打ちを受けていた。
それでも、要所要所で人との出会いに恵まれるのだ。心が折れそうになると、そのときに最もふさわしい誰かが目の前に現れて、救いの手を差し伸べてくれる。まるで、天の采配かのように。
舞台への、演じることへの、渇望を見たのだ。スポットライトに頼らずとも、窶れ切っていた顔にはその瞬間、光が差していた。絶望の淵に立ち、奈落の底に落とされても、地上の太陽は届いていたのだろう。
ここで失うには惜しい才能だと思った。
出会うべくして出会ったのだという確信もあった。
自分になら、この才能を育て上げることができると、そう思ったのだ。周りにいた大人たちが、自分に対してしてくれたように、手を差し伸べられると思った。
だが、結局のところ、救われていたのは、また自分自身の方だった。
手を取ったつもりが、手を取られていた。
引っ張り上げているつもりが、引っ張り上げられていた。
新しい世界を見せてやるつもりが、いつの間にか、新しい世界に連れてこられていた。
過去を改変することはできない。
だが、過去は乗り越えることができるのだと、未来はいかようにも変えられるのだと、立花希佐は教えてくれた。
「俺も見守るよ」今際のときまで、忘れない。「これから先も、ずっと」
日本からやって来たルキオラ──改め、白田美ツ騎は、淡々とした印象の人物だと感じた。久しぶりに会うはずの立花希佐を目の前にしても、冷静さを欠くことなく、相手の目を見つめながら話をしている姿からは、誠実さが窺えた。
二十代半ばでこの中性的な容姿を維持出来ているのは、本人の努力はもちろんだが、おそらくは生まれ持った資質によるものだろう。東洋人の血というのもあるのかもしれない。アランが中性さを維持出来ていたのは、精々ティーンエイジャーまでだ。
劇場内に戻ってくると、ノアとジェレマイアが美ツ騎の相手を買って出てくれた。共演者たちは突然の東洋人の登場にそわそわしていたが、バージルの一喝で、稽古に集中せざるを得なくなっている。
「着替えてくるね」
ステージ用の衣装を身に纏っていた希佐は、そう言うと駆け足で控え室に向かった。エルファバとグリンダに合わせ、緑と白のワンピースドレスを提供してくれたのは、他ならぬダイアナだ。アイリーンは既に着替え終え、帰宅の準備をしている。ホテルのレストランで会食があるのだと話していた。
「舞台の仕事を続ける条件よ。嫌になるわ、本当に。貴族になんて生まれるものじゃないわね」
何が幸せで、何が不幸なのかを決められるのは、自分だけだ。そも、他人の幸せを自分の物差しで計ることは間違っている。少なくとも、今の自分は幸せだと思いながら、アランは控え室から出てきた希佐に目を向けた。
「ダイアナがね、あのワンピースをプレゼントしてくれるって言うんだ」希佐はアランの前で立ち止まると、困惑の表情でこちらを見上げてくる。「似合っているからって」
「もらっておけば」
「ダイアナのお店の新作だよ? すごく、すごく高いんだけど」
Very, very expensive.──真顔でそう言う希佐を見て、自らの頬がひくりと痙攣するのが分かった。笑いそうになるのを堪えるが、希佐がそれを見逃すわけもない。睨むような眼差しを受け止めながら、アランは頭で打開策を練る。
「君がイベントに着て出れば彼女のブランドの宣伝になる」
「……そうかな?」
「実際、似合ってた」口の端に引っ掛かっていた髪の毛を払ってやると、希佐は静かに目を伏せた。「彼女の好意に甘えたら?」
「私はダイアナの好意に甘えすぎだと思う」金が揺らぐ琥珀色の目が、再びアランを見上げた。「ダイアナにかぎらず、だけど」
「他の連中だって君の好意に甘えてるんだから、どこかで帳尻を合わせた方がいい」アランはそう言うと、振り入れが上手くいかず、頭を抱えそうになっているバージルを横目に見た。「ドレスの話はまたあとで」
「あ、うん、そうだね」
カツカツカツカツ、とタップシューズを鳴らしているバージルを見て、希佐は小さく「oh my」と声を上げた。バージルがあれだけの苛立ちを露わにするのは、酷く珍しいことだ。希佐は少しだけ面白そうに笑うと、あとでね、と言って小走りで駆けて行った。
「本番まではまだ時間があるんだし、焦らなくても大丈夫だよ、バージル。皆さん連日の稽古で疲れていると思うから、今日はもう休んでもらおう。その方が、明日の稽古にも身が入ると思うんだ。ほら、午後からはリハーサルだってあるし、ね?」
師匠は弟子に甘い。
そして、弟子は師匠の扱い方を心得ている。
鼻から息を吸い込み、それをゆっくりと口から吐き出したバージルは、くたくたな共演者たちに向かって言った。
「悪かった。キサの言う通り、今日はこれで終わりにしよう。下で一杯引っ掛けてから帰るやつは、俺の名前で付けといてくれ。あとでまとめて払っておく」
だからって飲み過ぎんなよ、お疲れ──バージルはそう言い、共演者たちに背を向けた。希佐はそれをフォローするようにいくつか声をかけてから、バージルの後ろを追いかけていった。
バージルは他者に多くを求めすぎるきらいがある。出来ると思えばやらせるし、出来ないと思えばやらせない。だからと言って、出来ると思った人間に対して、手取り足取り教えてやるなんてことはしないので、教えられる方にとっては厄介な相手だ。食らいついてくる者には面倒見が良いという一面がある一方、少しでもやる気のない素振りを見せようものなら、すぐに切って捨てられる。だからこそ、バージルと希佐は相性が良いのだろう。
「アラン」呼ばれてそちらに目を向ければ、そこにはすっかり帰り支度を済ませたアイリーンが立っていた。「あの子、どうにかしてあげて」
アイリーンは、劇場の隅で黙々と基礎練習を続けているイライアスを一瞥してから、参ったというふうに大きくため息を吐いていた。
「キサの踊っている姿を見てからずっとあんな感じなのよ」
「俺にはどうしてやることもできない」
「だからって、キサに頼むわけにもいかないでしょう? ああなった原因は、彼女にあるようだし」
イライアスにとって、希佐は本来、得体の知れない存在なのだ。変幻自在に色を変え、形を変えて、見る者を魅了する。覗き込んでも底が見えない。そこにあるのは真っ暗闇だ。立花希佐の輝きは、その底知れない暗闇の中から生まれてくる。
イライアスには、立花希佐を理解することはできない。そもそも、理解などする必要がない。だがしかし、イライアスは理解したいのだ。分からないことを、分からないままにしておくことができない。
どうして、身体的な技術、能力において、すべてが優っているはずの自分が、自分よりも技術、能力的に劣る相手を眼前にして、こうも気圧されているのか。その正体を掴もうと伸ばした手は空を掴むばかりで、どんなに目を凝らしても、真相に辿り着くことができない。
立花希佐の才能の根源にあるものは、虚無なのだと、アランは思う。
立花希佐は常に虚空を見つめている。
決して埋まることのない穴を埋めるために、ありとあらゆることを試してきたのだろう。自分とは相容れない思想の役柄を演じれば、人間性はより豊かになり、役者としての蓄えも増えていく。だが、空洞は空洞のまま、冷たい風を通すばかりだ。
「イライアスの気持ちは分かるのよ」アイリーンは希佐が役柄に入り混みすぎる姿を見る度に、ゾッとすると言っていた。「でも、私はキサみたいにはなれないし、なりたくもない」
「随分前にも同じことを言っていたな」
「私は地に足をつけて生きていきたい。舞台の上でしか生きられない人間にはなりたくない。人生の全てを舞台に捧げるなんてこと、私にはできない」
アイリーンは三年前から希佐の正体に気づいている様子だった。
幼い頃から貴族社会の中で生きてきたからこそ、人を見る目が養われているのだろう。物心をつく前から、腹の読めない大人たちの立ち居振る舞いを見てきたのだ、見たくないものが見えてしまうこともあるに違いない。
「このイベントが終わったら、あの二人を適度に休ませてあげなさいよ。次の嵐がやってくる前にね」
おつかれさま──アイリーンはそう言うと、颯爽と劇場を出て行った。
アイリーンは繰り返し、希佐のようにはなりたくないと言う。
だが、アランはアイリーンに希佐と近しいものを感じていた。血の滲むような努力を続ければ、希佐に続くことはできると、そう理解していた。去年の年末、本気でオーディションに挑む直向きな姿を見て、そう感じたのだ。
しかしながら、アイリーンは希佐のようにはならないという確信も、アランにはある。
立花希佐にとっての舞台は、この世界のすべてだ。
アイリーンには、この考えが理解できない。
それでも、アイリーンは劇団カオスでの舞台活動を経て、本格的にミュージカルの世界に足を踏み入れる心積もりのようだった。演技指導を受けたいという相談を受けたので、知り合いのワークショップをいくつか薦めてやると、彼女は早い段階から、それに足を運んでいたようだ。
「さて、どうする」
普段なら、孤立している人物を認めると真っ先に駆け寄っていく希佐が、今のイライアスには目もくれない。
だがしかし、イライアスの方は、アタルとダンテを交え、バージルと四人でタップダンスを踊っている希佐の姿を、じっと睨むように見つめていた。
希佐が与えられた課題を次々と乗り越え、新たな課題に挑んでいくのを横目に見ながら、イライアスはその場での足踏みを続けている。
今のところ、バージルが選曲し、振り付けを行った課題が、まだ完璧には仕上がっていない。それどころか、自らの課題を希佐の方がずっと上手く踊る姿を目の当たりにして、柄にもなく焦りを覚えているようだった。
希佐はバージルのことを師匠と仰いでいるが、実際のところ、技術の底上げを図ったのはイライアスの方だ。無理やり引っ張り上げようとするバージルとは違い、イライアスは酷く堅実で、丁寧に、丹念に、希佐の体にダンスの基礎という基礎を染み込ませてきた。
イライアスの認識では、希佐は尊敬できる相手ではあるものの、ダンスでは自分の方が優れている、という慢心があった。いや、それは慢心などではなく、誰の目から見ても明らかな差ではあるのだが、希佐には表現力が──魅せる力がある。
希佐は全身全霊を込めて、それこそ命を賭して、自らの魂を削ってまで、何かを表現しようとする。命という種火を燃やして輝き、舞台に立つ。
以前までの立花希佐は、誰かのため、何かのために、舞台に立っているように見えた。舞台の真ん中に立っていながらも、周りの役者にも満遍なくスポットライトが届くような、器用な立ち居振る舞いをしていた。ビザの申請をするときに、資料映像で見たユニヴェールの舞台でもそうだった。
例えば、ウィークエンド・レッスン──アンドウの隣にいるカンナは、隣に立つ役者の輝きが強いばかりに、萎縮し、自らの色をくすませ、常にぼやけた印象があった。
翌公演、カンナを演じた役者は、立花希佐の隣で開花した。
夏公演から秋公演の間、この短い期間で何があったのかは、舞台を観劇しに来た者には知る由もない。場合によっては、興味もなければ、関心もないだろう。
配役に問題がある。あの艶やかな役者の隣に、未熟な役者を配置することは、後者の役者としての寿命を縮めることにもなりかねない。成長を促すための配役であったとしても、あの舞台映像を見たかぎりでは、十分な説明があったとは思えなかった。
対して、立花希佐は隣に立つ役者を霞ませることがない。それどころか、まるで互いに引き立て合うかのように、力強く輝く。一年目の新人公演から、三年目のユニヴェール公演まで、それは変わらなかった。
これは優劣の問題ではない。得手不得手の問題だ。
日本中の才能が集うユニヴェール歌劇学校では、自主性を求められるのだという。故に、自己主張の強い者は自然と前へ出られるが、そうでない者はアンサンブルとして舞台を賑やかすだけで、三年という短い年月を終えることになる可能性は高い。
それぞれの才能を認められて入学が果たされた以上、誰もが同じだけの可能性を秘めているはずだ。では、一体どこで差がつくのか。
安易かもしれないが、それは、勇気と度胸なのではないかと、アランは思う。あとは、多少のはったりだろうか。もちろん、個性も大切だが、十五、六の子供にアイデンティティーを問うこと自体が、どうかしているのだ。
だが、ごく稀に、子供ながらにして自己を確立している者はいる。そういう役者は強い。何者かにやらされているのではなく、自身の確固たる意志と決意の下で動いている者は、間違いなく台頭する。そして、そうした役者は大抵の場合、自分にも他人にも厳しい。
この世界では、努力を当然の義務と考えている人間ほど、他者に「努力をしろ」とは言わないものだ。そもそも、人に言われて心を入れ替えられる役者は稀で、多くは腹を立てるか、陰口を叩くか、自分だって努力くらいしていると反論をしてくるが、アランの経験上、そういう連中に碌なやつはいなかった。
実力主義のこの世界では、蹴落とし、蹴落とされるということが、日常的に繰り返されている。オーディションに合格しなければ何もはじまらない。役が欲しければ、自分の手でもぎ取りに行くしかない。ベテランも条件は同じだ。
だが、立花希佐にとっては、役は与えられて然るべきものだった。
ユニヴェール歌劇学校でも、劇団カオスでも、ゲストとして出演してきた劇団でも、是非にと求められてきた。誰かを蹴落としてでも、自分が舞台の真ん中に立つのだと、闘争本能を剥き出しにしたことなど、ほとんどないのだろう。競争心など芽生えるわけがない。立花希佐は望まれて舞台に立ち続けてきたのだ。
「──あの子、二次審査の控え室で一体何を仕出かしたと思う?」
希佐がバージルの家で過ごしていた頃、アランはアイリーンと夕食を共にすることが多かった。どうせ一人だと面倒で何も食べないのだからと、アイリーンが世話を焼いてくれた結果だ。
二次審査を終え、なんとかギリギリのラインで合格することのできたアイリーンは、今日は何も作る気にならないからと、デリカテッセンの紙袋を手に提げて帰ってきた。
二次審査では事前にダンスの課題を与え、当日はそれを一人ずつ、審査員の前で順番に披露させた。二次審査に駒を進めた十人の内、最も評価が高かったのは、言うまでもなく立花希佐だった。
「他の子たちのダンスを見てあげていたのよ?」アイリーンは信じられないという顔で、ローストチキンを切り分けていた。「いくら歌唱が肝になる舞台だと事前説明を受けているからって、ダンスを疎かにするなんて言語道断だわ。でも、人には得て不得手というものがあるものね。かくいう私だって、あなたに振り付けを叩き込んでもらえなかったら、今回のダンス審査で脱落していたでしょうし」
塩気の強いローストチキンをフォークの先で突いているアランを見て、正面に座っていたアイリーンは大きく息を吐いた。
「せっかく買ってきたものを美味しくなさそうに食べないでくれる?」
「審査後でよかったな。前日にこんなものを食べたら顔が浮腫む」
「もう食べなくて結構よ」アイリーンはそう言うと、アランの前にある皿を取り上げた。「あの子、オーディションをなんだと思っているのかしら」
「自分の努力の成果を披露する場所だろ」
「カオスの公演じゃないのよ?」
「キサにとっては同じようなものなんだと思う」アランはそう言うと、グラスの水を一口飲んだ。「多分、彼女は周りの出来に左右されない。ただ傍観するだけなんだ。自分が上手くやりさえすれば合格すると思っているし、仮に不合格だったとしても、すぐに改善し、次に活かす」
「そういう言い方をされると物凄く傲慢な感じに聞こえるわね」
「彼女の一番の敵は、彼女自身なんだよ。常に自分の理想と戦っているんだ」
「だから、敵に塩を送るようなことを平気で出来てしまうのかしら」アイリーンはゆっくりと頭を横に振った。「私には真似できないわ」
自分が最高のコンディションで挑めることを願うように、他の人々も万全な状態で挑めることを祈っている。まるで聖人のような思想だが、立花希佐はその上で、最後には自分が勝つという自負心を持っていた。
いや、実際には、これで駄目なら、もう何をしても駄目だろうという、諦めに近い思いがあるのかもしれない。自分は最大限の努力をした。これで駄目なら悔いはないと、そう思えるくらいの自負心があったと考える方が妥当だ。
そんな希佐自身の認識が反転した日は、明確に記憶している。
件の動画が世界に拡散されたあの日、立花希佐は、生まれ変わった。
オーディションに合格しても尚、その結果に疑問を持っていた希佐が、自分の才能を自覚した日だ。
本来、人々は目的を持って駅へと足を運ぶ。暇を持て余している人間の方が少ないだろう。他者に対する関心など微塵もなく、ただ雑多の往来の中を進む。どこからか聞こえてくる音楽放送すら、駅の中では雑音の一つだ。ストリートピアノの音色など、またどこかの目立ちたがり屋が騒音を生み出していると、そう思いながら脇を素通りしていく。
あの日、立花希佐の歌声は、何人もの人々の足を止めた。
おかげで列車に乗り遅れた、待ち合わせ時間に遅れて恋人にこっ酷く叱られた、取引先との会合に遅刻したけどそれだけの価値があった、あの現場に居合わせた自分は幸運だった──あの日、SNSでは#StPancrasStationというタグがイギリスのトレンド一位だったことを、希佐だけが知らない。
立花希佐は、数々の賞賛の声を受け流してきた。周りの人々がどれだけその素晴らしさを説いても、まともに受け取ろうとはしなかった。他の誰が疑わずとも、希佐自身が自らの才能を疑い続けていた。
それはまるで、自らの才能を自覚してしまったら最後、その成長が止まってしまうのではないかと、そう恐れているようでもあった。
舞台人にとっての才能の停滞は、役者としての死を意味する。
歩むことを止めた者を、スポットライトは待ってくれない。役者の足が泥濘に囚われ、身動きが取れなくなっていても、その光は構わず先に進み、別の役者を煌々と照らすだろう。
心持ちが変わる程度の、ほんの些細な変化だったのかもしれない。
だが、自信に満ち溢れた顔で幸せそうに歌う姿を見て、アランは酷く打ちのめされた。どのような困難が立ちはだかろうと、諦めることなく前に進み続けた者だけが到達できるその場所に、立花希佐は足を踏み入れたのだと知った。
羨ましかった。悔しかった。妬ましかった。情けなかった。
自分にもまだ、こんなにも人間らしい感情が残されていたのだと知り、絶望した。知らない方がよかったと思った。自覚すればするほど、無駄にしてきた月日が浮き彫りとなり、己の首を絞めたくなるから。
だが、そうした自責の念を乗り越えることが出来たのも、立花希佐のおかげだった。打ちのめされると同時に、救われていた。
昔のようには歌えないかもしれない。
あの頃のようには踊れないかもしれない。
だが、今はあの頃よりもずっと、舞台と真摯に向き合っている。
「……」
イライアスは、ぼたぼたと大量の汗を滴らせながら、基礎練習を続けていた。ただでさえ近寄りがたい雰囲気があるのに、どこか鬼気迫る様子を漂わせているせいで、誰もがイライアスを遠巻きにしている。
アイリーンから「どうにかしてあげて」と頼まれてしまった手前、このまま放っておくこともできない。
アランは希佐の了承を得てから、バッグの中のタオルを取り出すと、イライアスに向かってそれを放った。空気を含んだタオルは、ふわりとイライアスの頭の上に落ち、視界を塞ぐ。
「少し休憩したら」
ほら、と傍に置かれていたペットボトルを差し出してやると、イライアスはタオルの影から半分ほど顔を覗かせ、どこか不満そうな表情のままそれを受け取った。ごくごくと喉を鳴らしながら水を飲んだあと、昨日コインランドリーに行って洗濯したばかりのタオルで、顔の汗を拭う。
「……洗濯して返します」
「アイリーンが心配してた」アランは近くにあった椅子を引きずって来ると、背もたれを前にして座った。「キサも気にかけてる」
「僕の問題なので」
「自分の問題だと言いたければ、君が今抱え込んでいる感情を、顔や態度に出すべきじゃない」
「アランは──」イライアスは手にしているタオルを見下ろすと、それを強く握り締めた。「キサが踊る姿を見て、なんとも思わないんですか」
「七つのヴェールの踊り?」
「はい」
「そうだな」アランはそう言いながら、長く伸びてきた前髪を無意識に掻き上げた。「まあ、思うところはある」
『私のサロメは、あまりに真っ直ぐで、自分が見たいと思うものしか視界に入れないような、年頃の女の子。汚れを知らない生娘なのに、なぜか見る者を背徳的な気持ちにさせる──まるで、見てはいけないものを直視しているような、そんな気持ちにさせてしまう子』
希佐の中には明確なサロメ像があるようだった。
希佐がゲスト出演した舞台は、なるべく観に行くようにしていたが、サロメは観劇していない。カオスの仲間たちも、それぞれが仕事や勉強で忙しくしていたので、誰も足を運んではいないはずだ。
だから、あのフランシス・ルロワがなぜそこまで、希佐のサロメに傾倒しているのかは、アランにも分からない。
「でも、あれを最後まで通しで見たことはないし、どう見ても本気で踊ってはいないから、今はまだなんとも言えないな。多分、サロメに焦点を合わせると、他が引きずられて支障をきたすからなんだろうけど」
「焦点を合わせる……」
「さっきも言ったけど」アランは背もたれに片肘を立て、頬杖をついた。「君とキサは根本から違うんだ、イライアス」
「分かっています」
「だったら何を悩む必要がある」
「理屈じゃない」イライアスはほとんど独白するように言う。「キサが僕の視線を奪うから」
ああ、そういえば、大学の頃もあんなふうに俺のことを──アランは大昔のことを思い出し、吐息を漏らすようにして笑った。
「どうして笑うんですか」
「微笑ましいから」
「冷やかしに来たなら──」
「俺は君を心配していない」イライアスの言葉を遮るようにして言うと、冷え冷えとした眼差しを向けられるが、アランは構わず続けた。「いつかはその壁を乗り越えられると確信している。でも、今のキサは、君を待っていてはくれない。どんどん先に進んでいく。君を置き去りにして」
「……」
「キサは俺たちが出会った頃から何一つ変わっていないよ、イライアス」アランは頬杖をついていた体を起こすと、椅子から立ち上がった。「変わる必要があるのは、俺たちの方だ」
「変わるって、どうすれば……」
「君は自分に劇的な変化を求めすぎている」何年ものブランクを乗り越えようとしているからこそ、アラン自身も強く実感していることがある。「人はそう簡単には変われない。昨日と今日の積み重ねが、明日の自分を作る」
「……あなたにそんなことを言われる日が来るとは思いませんでした」
「キサの受け売りだよ」バージルと並んでタップを踏んでいる希佐を横目に見てから、イライアスに視線を戻した。「心のままに従えばいい」
「え……?」
「昔、舞台に立っていた頃の俺は、導かれるままに自分ではない誰かを演じていた」こんな話は何の助けにもならないだろうと思いながらも、アランは続ける。「半ば現実逃避のために舞台に立っていたんだ。自分ではない誰かになれるのが、当時の俺には救いだった。舞台に立っている間だけは、何者にだってなれたし、どこへだって行けた。楽しかったよ、本当に」
踊ることを強要されていた幼年期のイライアスには、踊ることを楽しいと感じることも、舞台に立つことを救いだとも、思うことはなかったのかもしれない。
「君は舞台の上で道化を演じられるか?」
「そういう役に挑戦しろということですか?」
「絶世の美女でもいい。露出狂の殺人鬼でも、駄々を捏ねる子供でも構わない。そういう極端な役柄を演じるように指示されたら、君はどうする」
「僕は……」質問の意図が分からないという顔をして、イライアスはアランから目を逸らす。「僕には、分かりません」
「役柄が固定された役者が迎える末路は緩やかな死だ」
イライアスにとっては耳の痛い話だろう。商業の舞台に立つようになり、若手の中でも注目株と言われる役者ではあるが、演じる役はいつも似たり寄ったりだ。このままではイメージが膠着してしまう。
「視点を変えてみるといい」
「……視点?」
「舞台の上に立つ自分を、客席に座って客観視してみるんだ。舞台上で演じる自分の姿を見て、客としての自分はどう思うのか。舞台人には見栄えも必要だけど、観客はそれ以上に、役者の内側にあるものを見透かそうとする」
何を偉そうなことを、知ったようなことを言っているのだと思う。ほんの少しの期間、子供の頃に小さな劇団で舞台に立っていただけの自分が、何を語っているのだと。だが、あのときの経験が何かの助けになるのなら、喜んでその辱めに耐えようと、アランは思った。
「君が『God Only Knows』の演技で高い評価を得られたのは、役に魂を与え、心を宿らせたからだ。それがたとえ自分本位な演技だったとしても、観客には伝わらない。観客にとっては目に見えるもの、耳に聞こえるもの、肌で感じられるもの、心に迫るものがすべてだから」
歌うこと、踊ること、演じることを専門的に学んだことのない自分が、幼い頃からバレエの英才教育を受け、今となっては商業の世界でプロとして活躍している人間を相手に何を言っても、本来説得力はないのだろう。
だが、小さな劇団でも、それだけでは食べていけなくても、誰もが真剣に舞台と向き合っていた。才能ある人々から多くを学んだ。しかしながら、才能があっても、チャンスに恵まれなければ、日の目を見ることなく舞台を去る人は大勢いるのだと知った。
ただ楽しく劇団を続けていくことなど不可能だと言って、劇団を辞めていった者がいた。アランは今、それが可能だということを証明しているつもりだ。誰に指図されることもなく、スポンサーの意向など気にする必要もなく、自分たちの好きなときに、好きなことをする。
それを許してくれる仲間がいる。
アラン・ジンデルとして生きてきた日々の中で得られた、数少ない価値のあるものだ。自分を犠牲にしてでも、守り抜くと決めている。
「あれこれと御託を並べてきたけど、俺も彼女には引き摺り回されてる。本番、成功する確証もない。キサに恥をかかせるだけかもしれないけど、まあ、やれるだけのことはやってみないとな」
「楽しみです」
掛け値を感じさせないその物言いに、アランは思わず目を丸くする。
イライアスは、本当にただ純粋に、アランが舞台に立つことを楽しみにしているというふうな顔をしていた。まるでクリスマスのプレゼントを開封する前の子供のように、灰色の目を輝かせている。たった今まで、自分が抱えている問題に苦悶の表情を浮かべていた者とは思えない。
期待させてしまうだけ申し訳ないと感じたアランは、話題を変えようと思い、すぐに思考を切り替えた。
「そういえば、アイリーンから聞いたけど──」
だが、その話題を遮ろうとする大声が、劇場の後ろの方から聞こえてくる。ノアが叫んでいるのだ。アランは肩越しに振り返り、少しだけ待つように言ってから、イライアスに向き直った。
「当日は彼女の母親が顔を出すって」
「はい」イライアスは小さく頷きながら、視線を左右に揺らした。「僕が呼んだんです」
「珍しいな」
「エレノアは──彼女は、自分の母親が亡くなってから、ずっとあの屋敷にこもりきりで。ロンドンに出てくれば、少しは気晴らしになるのではないかと」
「そう」ノアの早くという声を無視し、アランは続ける。「いつ来られるんだ?」
「明日の夜です。市内のホテルに宿泊して、当日はアイリーンのフィアンセがエスコートしてくれます」
「そういうことなら、明日は早めに切り上げられるように、君たちのリハーサルの順番をこちらで調整しておくよ」
「いや、それは──」
「もう! アランってば! いつまで待たせるつもり⁉︎」
「分かった、今行く」ノアのプログラミングが前衛的すぎて、またコンピューターがエラーを吐き出したのだろうと思いながら、アランはうんざりと応じた。「彼女を愛しているのなら、親孝行はしておいた方がいい」
「……はい」
「アイリーンにも伝えておいて」
「分かりました」
面倒臭い恋人のようなことを、ぐちぐちと漏らしているノアのところまで歩いていくと、視界の端に白田美ツ騎の姿が映り込んだ。
美ツ騎は窓辺に置いた椅子に腰を下ろし、じっと一点を見つめている。その視線の先を一瞥すれば、休憩がてら、バージルやダンテから熱心にフラメンコを学んでいる希佐の姿を見ることができた。
今日中に終わらせる必要がある仕事が片付いた頃には、時刻は午後九時を回っていた。明日のリハーサルに備えて、共演者のほとんどは既に帰宅の途についている。
控え室で針仕事をしていたダイアナに、そろそろ終わりにするようにと声を掛けてから出て行こうとすると、すぐ近くで帰り支度をしながら話している、希佐とイライアスの声が聞こえてきた。
「イライアスはすぐに帰るの?」
「キサは?」
「これ以上は白田先輩をお待たせできないから」
「ホテルまで送るの?」
「ううん、今日は──というか、二、三日かな? 白田先輩には家に泊まってもらうことにしたんだ」
「え?」イライアスが少し驚いたような声を上げている。「本当に?」
「うん」
「どこで寝てもらうの?」
「私の部屋を使ってもらうよ。私はエアーベッドで寝ればいいし」
「……本当に?」イライアスは怪訝さを隠そうともしていない。「君はもう長くあのスタジオで暮らしているから、今更何とも思わないのかもしれないけど……」
劇団カオスを立ち上げる際に、教会裏で長年放置されていた古い印刷所を買い取って、広々としたスタジオに改装した。元々が居住を目的とした建物ではない上に、断熱も満足にされていないので、冷暖房の効きも良くはない。人が住むような場所ではないと、散々言われてきた家だ。最初はすぐに新しい部屋を探すつもりだったが、何となくそのまま居着いてしまい、今に至っている。
「あれって遠回しに、あなたの家は人の住めるような場所じゃないって言ってなぁい?」出るに出られなくなっているアランの後ろに立ち、ダイアナは口元を隠してくすくすと笑う。「確かに、趣のある建物ではあるけれど」
希佐と暮らすようになってすぐの頃も、特にあの事件後、アイリーンからは、早めに新しい部屋を見つけるべきだと言われていた。何なら自分の一族が所有してる物件を優遇しても構わないと言われたが、それも断っている。
現状に不自由は感じていない。あのスタジオでの暮らしは気に入っている。何より、希佐と暮らした日々の痕跡に、愛着があった。
「じゃあ、今日はみんなで私の家に泊まりにくる?」ダイアナはそう言いながら、アランの体を押しやり、二人に歩み寄っていく。「歓迎するわよ」
「ダイアナのお家は大豪邸だもんね」
「成功者の特権ね」ふふ、と笑ったかと思えば、ダイアナは後ろを振り返って嫌味っぽく言った。「私以上に成功しているはずの、どこかの誰かさんは、かわいい女の子を隙間風が吹くようなお家に住まわせているようだけれど」
「広い家に興味はない」
「あなたはね。でも、キサは違うかもしれないわ」
「え、私?」希佐は目を丸くし、不思議そうにダイアナを見上げた。「あんなに恵まれた環境は滅多にないと思うけれど」
「恵まれた環境ですって?」
「いつでも好きなときに稽古ができるし」これが一番の理由だという顔をしている希佐を見て、ダイアナはどこか呆れ顔だ。「住むところにこだわりはないんだ。広いお家で贅沢な暮らしをしたいわけではないから」
「……百歩譲って、あなた方はそれで構わないのかもしれないけれど」これ以上の対話は無意味と察したのか、ダイアナは大きくため息を吐いてから続ける。「せっかく日本からいらしたお客さまをお泊めするというのは、どうなのかしらね。十時間以上のフライトで疲れているでしょうし、ここで何時間も待ちぼうけよ。ゆっくり休めるのかしら」
入国前にホテルを予約してこなかった本人が悪い、自業自得だ、などと口にすれば、顰蹙を買うことは目に見えている──アランが何も言わずに黙っていると、希佐が口を開いた。
「先輩にお聞きしてくる」
Just a moment──早口にそう言った希佐は、窓辺で外の景色を眺めている美ツ騎のところまで駆けていくと、日本語で声を掛けた。
『白田先輩、あの、ご相談があるのですが』
『なに?』
『白田先輩を私たちの家にお泊めするという話をしたら、友人たちに反対されてしまって』
『なんで?』
『元々人が住むために建てられた家ではなくて、あの、なんていえば良いのかな……』長く日本語を使っていなかった弊害だろうか、希佐は頭をフル回転させながら話をしているようだ。『印刷所を改装した建物なんです。だから、少し隙間風が吹いたり、今の時期はまだ肌寒かったりもして。そんなところで、長距離移動でお疲れの先輩がゆっくり休めるかどうかは、甚だ疑問だと』
『ふうん』美ツ騎はそう言うと、椅子から立ち上がり、服についた埃を軽く払う。『その人たちと直接話してもいい?』
『はい、もちろん。ご紹介します』
自分では必要に迫られて学んでいるだけのつもりだが、バージルに言わせれば、アランは立派な語学オタクなのだという。日本語も日常会話程度なら聞き取れるようになったが、今のところ会話は困難だ。簡単な文字を読むことはできても、書くことは難しい。
「あ、こちらに来るみたいね」
ジャケットに付いていた糸屑を取ってやると、ダイアナは何やら物言いたげな眼差しを向けてきたが、すぐに希佐たちの方に向き直った。
「彼女はダイアナです。ダイアナ、こちらの方は白田美ツ騎さん」
「はじめまして」美ツ騎はダイアナが差し出した手を一瞥してから、自らの手を差し出す。「ミツキと呼んでも構わないかしら」
「どうぞ」
「ありがとう」
他所行きの微笑みを浮かべるダイアナを見て、アランは思わず鼻で笑う。すると、ダイアナは自らの肘でアランの脇腹を力強く小突いた。
「こんな男の家に行くくらいなら、私のお家に泊まりに来ない? 一人では不安でしょうけれど、キサも一緒なら大丈夫でしょう?」
「待って、私は一緒には行けないよ、ダイアナ」希佐は慌てて首を横に振った。「スタジオに戻って稽古の続きをしないといけないんだ」
「うちのヨガスタジオを使えばいいわ」
「でも……」
希佐はそう言いながら、アランのことを上目遣いに見てくる。
この一週間近く、アランと希佐は深夜から朝方にかけての時間帯を使って、二人だけでチャリティーイベントに向けての稽古を行なっていた。稽古終わりに録画した映像をルイに送ると、朝一番で大量のダメ出しが送り返されてくるので、朝食の席で反省会をするのがいつもの流れだった。
「お心遣いはありがたいのですが──」アメリカ訛りのない発音で、美ツ騎が静かに口を開いた。「浅慮な自分を泊めてくれるという後輩の優しさを、無下にはできません。それに、五年ぶりに会う後輩が、ここでどのような暮らしを送ってきたのか、興味があるんです」
ゆっくりと、丁寧に、言葉を選びながら、互いに気分を害することがないようにと、配慮して話しているのが分かる。
希佐もそうだが、日本人というのはみんなこうも礼儀正しいものなのだろうかと、アランは思った。希佐とよく足を運ぶようになったあの料亭の店主も、いつも愛想が良い。
「体よくお断りされてしまったわね」やや残念そうなダイアナに対し、希佐はにこにこと嬉しそうだ。「一体いつになったら泊まりに来てくれるのかしら。あなたに可愛いうちの子たちを紹介したいのに」
「私も早く会いたいよ」おそらくは愛犬の話だろう。ダイアナがアメリカに行っている間は、バージルに紹介されたペットシッターのところに預けられていたらしい。「いろいろ落ち着いたら遊びに行かせてね、ダイアナ」
残っていた者たち全員で床のモップ掛けを終える頃にはもう、時刻は十時を過ぎていた。劇場の鍵を閉めて後ろを振り返ると、元ユニヴェール生たちが長椅子の周りに集まり、何事かを話し合っている。
「気になるの?」
「いや」アランはダイアナが持ち帰るトランクの一つを持ってやると、そのまま歩き出す。「キサの衣装にヘッドピースを追加したい」
「えっ、今から?」
「今日中にデザイン画を描いて送るから、その通りに作って来て」
「あなたって本当に人使いが荒いわね」
「言い値を支払う」
「お金の問題じゃないのよ」
「金銭を支払う以外に感謝の気持ちを伝える方法を知らないんだ」
「あら、そんなの他にいくらでもあるじゃない」ダイアナはそう言うと、空いている方のアランの腕に、自らの腕を絡めてきた。「ねえ、一度私に抱かれてみない?」
「レオは意外に嫉妬深いから、言動には気をつけた方がいい」
「もう、つれない人ね」ダイアナは絡めていた腕を解き、アランの隣に並んで階段を降りる。「それに、こういう誘いは毅然と断るべきよ。あなたってば、誰に対しても思わせぶりなんだから」
「俺が?」
「キサにもよく言っておかないと。あなたの男にいろんな女が色目を使ってるわよって」
「キサは気にしない」
「気をつけなさい、アラン・ジンデル。あなたがそんな態度だと、キサのことをその程度にしか思っていないと、周りからは判断されるの。彼女、モテるのよ。あんな良い女、滅多にいないんだから」
「俺よりも良い男が現れたら喜んで身を引くけど」
「まあ!」先に階段を降りたダイアナは、そう言ってこちらを振り返ると、アランの耳を強く抓った。「なんて生意気な口を利く子なのかしら」
「君になら抱かれてもいいよ」
「残念ね、十年遅かったわ」
一杯奢れと言うダイアナにギネスを買ってやり、彼女のスタッフたちが飲み食いしていった会計をカードで支払っていると、二階から遅れて降りてきた希佐がアランの下に駆け寄ってきた。そして、カウンター越しに立っているメレディスを見上げる。
「メレディス、タクシーを一台呼んでもらえる?」
「かしこまりました」
「ありがとう」
アランにカードを返してからカウンターを離れたメレディスは、ポケットから取り出したスマートフォンでタクシーを呼び出している。他のバーテンダーに何か飲むかと問われた希佐は、首を横に振ると、アランの背中に手を回しながらその場を離れた。
「ごめんね」
「なにが」
「いろいろと」アランは希佐をカウンター席の椅子に座らせ、自らはその傍らに立った。「勝手に決めてしまって」
「もう慣れた」
「加斎くんとダンテくんがね、お知り合いのご好意でアパートメントを安くお借りしてるんだって。何なら白田先輩は自分たちのところに泊まればいいと言ってくれたのだけれど」
「それでもうちに来るって?」
「白田先輩はそうしたいって」
「いいよ、それで」
「エアーベッド、壊れてないかな」
「エアーポンプが壊れてる」
「えっ」
希佐が、自分やカオス、身内とも呼べる仲間内の人々以外と話をする姿を見る機会は、実のところほとんどなかった。元より出不精で、ようやく二人きりで出掛けるようになったのも、ここ最近の出来事だ。
希佐は誰に対しても分け隔てがない。朗らかで、礼儀正しく、誠実だ。
セント・パンクラス駅での動画が拡散されてすぐ、この辺りの界隈では、あれは劇団カオスのKISAであると、瞬く間に特定されていた。
商業の舞台関係者からも、多くの問い合わせがあった。もちろん、マスメディアからもだ。雑誌の記者ならまだしも、パパラッチまでもが、KISAという役者を狙いはじめている。明後日のイベント当日には、あの女が御膳立てをしている工作が、白日の下に晒されるのだろう。
今や、善意、悪意に拘わらず、多くの目が、この舞台人に注がれている。
今回の共演者たちもそうだ。以前からの顔見知りの他は当初、希佐に対して距離を置いていた。そもそも、劇団カオスは身内意識が強いと思われがちで、昔馴染み以外はヘスティアで見かけても大抵の場合、声すら掛けてはこない。それなのに、興味津々という眼差しは向けてくる。
だが、その距離を一瞬にして詰められるのが、立花希佐だった。
あの子のことを嫌いになれる人なんているのかしら──以前、アイリーンがそのように言っていた。嫌いになれたらよかったのにと。
きっと、それが真理なのだろう。
間違いなく、立花希佐のことを疎ましく思う人間はいる。それでも、彼女自身の魅力や才能、弛まぬ努力は認めざるを得ないはずだ。嫌いになりたいのに、嫌うことができない──そう思わせることは、大勢の信奉者を獲得するよりも、難しいに違いない。
共演者たちとの距離を縮めていく希佐の姿を、遠くから眺めていた。その姿が、遥か彼方昔の自分の姿と重なって見えた。アランもかつてはあんなふうに、輪の中心に立って、劇団の仲間たちと歌ったり、踊ったり、演じたりしていたのだ。
「……アラン?」突然黙り込んでしまったアランに向かって、希佐が気遣わしげに声を掛けてくる。「どうしたの?」
きっと、ここから先は怒涛のように、立花希佐を取り巻く環境は変わっていくのだろう。下手をすれば、本人の望み、不満は受け流され、大いなる力にすべてを握られて、支配される。
自らの意思でオーディションを受け、役を勝ち取った結果、その先に待ち受けていたものが強要だったとしたら、希佐は自分と同じ決断をしかねないのではないかと、アランは思った。所詮はこんなものかと絶望し、本来の意志とは違う形で、舞台を降りることを望むのではないか。
時計の針を戻して、過去をやり直すことはできない。
だが、未来は作り変えることができるかもしれない。だからこそ、毎日毎日、リスクを冒せと自分自身に言い聞かせている。
大切な人を守るためには、強くならなければならない。同じ景色を見るためには、隣に並ばなければならない。共に歩きたければ、足をすくませてはいられない。
希佐は、黙りこくっているアランの顔を、じっと見つめていた。しかし、不意に手を差し伸ばしてきたかと思うと、そばかすの散った頬に手の平を滑らせ、そっと目を覗き込んでくる。
「また前髪が伸びてきたね」くるりと巻いた毛先に指を絡め、希佐は穏やかに笑った。「Mr.ジンデル?」
その懐かしい呼び声に意表を突かれ、アランは目を丸くする。呆れと同時に込み上げてきたのは、締め付けられるような恋しさと、その息苦しさが和らぐほどの愛おしさだった。
「……長い方が落ち着くんだ」
「知ってる」希佐はそう応じてから、眦を撫でた指先で、そのまま頬を撫で下ろした。「私は大丈夫だよ、アラン」
「ん」
「心配してくれて、ありがとう」
気を遣っていたつもりが、いつの間にか気を遣われている──そんなことは、よくある話だ。この女性は、そう簡単には甘えてくれない。こちらが気を揉んでいると、いち早くその思いを察し、平然とした顔で笑って、心配をさせまいとする。
実際は、大丈夫なわけがないのだ。
立花希佐は失踪していた──その言葉の重みは、完全には理解することができない。だが、ほんの少しの動揺も、微塵の憂いもなく、五年間の溝を埋めることは不可能だと分かる。
どうしてこの女性にばかり苦難が降り注ぐのだろう。もし肩代わりができるのなら、そうしてやりたいと思う。
今にして思えば、自分の身に降り掛かっていた苦難など、どれも私的なものでしかなかった。自分自身が努力をすれば越えられる壁しか、眼前には存在していなかった。立花希佐が抱えている問題に比べれば、取るに足らないものだった。
「きらきらしてる」
自分の緑色の目を食い入るように見つめ、嬉しそうに笑う声を聞き、アランは思わず堪らない気持ちになった。大急ぎでこの感情をノートに書き留めておかなければと思うのに、そんな感情は捨て置いて、この美しい微笑みをいつまでも見つめていたかった。
アラン・ジンデルは確信していた。
もし、立花希佐という舞台人がすべての才能を失って、ただの一人の女性になったとしても、それでも、自分はこの人を最期まで愛することができるだろうと。この最愛の人が、いつまでもこうして笑っていてくれさえすれば、もう他には何もいらない。
この人の笑顔を守る──ただそれだけのために過ごす一生は、きっと、この上なく幸せに違いない。
心の準備はしていた。
チャリティーイベントの当日に何が起こっても、自分のやるべきこと、目の前の舞台に集中すると、毎日毎日、自分自身に言い聞かせていた。朝起きて鏡を見るたびに、窓ガラスに自分の姿が映り込むたびに、誰かの瞳の中に自分の姿を見るたびに、心の中で呪文のように囁いていた。
私は出来る、私には出来る、私になら出来る──不安を自信に変える呪文だ。
だが、白田美ツ騎の後ろ姿に目を留めたとき、一瞬だけその決意が揺らぎそうになった。大丈夫だ、落ち着け、冷静でいろ、そう自分自身に命じながら、大きく深呼吸をする。動揺を悟られてはいけない。いつも通り、平常心で。あの頃と同じように。
『白田先輩!』
少し離れた場所から元気良く声を掛けた。あの頃と同じだ。だが、希佐の声を聞いて振り返った白田美ツ騎は、あの頃とは違っていた。中性的な容姿はそのままだが、少年っぽさが跡形もなく消え去り、大人になっていた。
自分の姿を目の当たりにし、驚愕に目を見開いている白田を見て、希佐は落ち着きを取り戻す。五年という年月の重みを噛み締め、揺らぎかけた心を引き締めながら、日本とイギリスを隔てる数千キロの距離を詰めていった。
メレディスが呼んでくれたタクシーが店の前に到着すると、希佐たちはまだ残っている仲間たちに挨拶をしてから、ヘスティアを後にした。
『歩いて帰れる距離なのですが、今日はもう遅いので』タクシーには白田を先に乗せ、希佐が続き、最後にアランが乗り込んでくる。『スタジオからヘスティアまでの道は、明日お教えします』
タクシーに乗っている時間は十分にも満たない。その間、会話らしい会話はなかった。希佐の両隣に座っている二人は、それぞれに窓の外に目を向け、何やら物思いに耽っている。この場合、座を取り持つのは自分の役割なのだと理解はしているが、希佐は無理に声を掛けることはせず、黙ってタクシーの揺れに身を任せていた。
タクシーがスタジオの前に到着すると、アランは財布を取り出している希佐を一瞥してから、何も言わずに外へ出ていった。普段なら、タクシー代など絶対に支払わせてくれないが、ここは希佐の面目を立ててくれるようだ。
『僕が出す』
『いえ、ここは私に払わせてください』
我が、我がという攻防戦を繰り広げている二人を、タクシーの運転手はにこにこと微笑ましそうに見ている。希佐は苦笑いを浮かべながら「sorry」と言うと、チップ込みの料金を運転手に支払った。
「Keep the change」
「Lovely」
あっ、おい──希佐が白田のトランクの持ち手を取り、タクシーの外に出て行こうとすると、そう言う声が追い掛けてくる。だが、聞こえなかったふりをして外に出れば、白田もすぐに後部座席を降りてきた。すぐに希佐に向かって何かを言いかけるが、思い出したように後ろを振り返って、タクシーのドアを閉めている。
『先輩の顔を立てたらどうなんだ』
『後輩におもてなしをさせてください』
タクシーが走り去っていく。アランは既に車通りのない道路を横切り、スタジオの扉の前に立って、ポケットから鍵を取り出していた。先程まで降っていた雨の名残りで、街灯に照らされた石畳の地面が、てらてらと銀色に輝いている。どこからか、野良猫の鳴く声が聞こえてきていた。
「どうでもいいけど、近所迷惑だから」不毛な言い争いをしている二人を呆れたように見て、アランが言う。「早く中に入って」
アランは扉を開け、二人がやって来るのを待っていた。白田は荷物くらい自分で持つと言って、トランクを引き摺らずに抱え上げると、目の前の建物を物珍しそうに眺めながら道路を渡っていた。
煉瓦作りの建物の外壁には、枯れて色を失った蔦がびっしりと張り付いている。だが、春になって新しい葉を芽吹かせはじめているので、夏には再び青々と繁るのだろう。秋を迎えれば、その葉は鮮やかな赤に染まる。日本と同様に、イギリスは紅葉が美しいのだ。
「どうぞ」
白田を先に誘導したアランは、希佐がその後に続くのを待って、最後に室内に入ってきた。アランが扉を閉め、施錠をしている間に、希佐がパネルを操作してスタジオの電気を点けた。
白田は突然の強い光に目を細め、不快そうに眉間に皺を寄せているが、自らが足を踏み入れた空間を把握するために、端々に視線を走らせていた。
初めてこの場所を訪れたとき、希佐はまだ二十歳だった。外観からは想像することのできない、広々とした本格的なスタジオに、当時は驚かされたものだ。まさか、それから丸三年以上も、このスタジオで暮らすことになるとは、想像もしていなかった。
『こちらです』
希佐が奥の事務所に向かって歩いていくと、白田は床に傷をつけないように配慮してくれているのか、トランクを抱え上げたままついてくる。
『ここは事務室なのですが』あの事件が起きたとき、犯人の頭を打ちつけて歪んでしまった錆びたドアは、木製のドアに取り替えられた。『物が多いので、足元に気をつけてください』
ドアを開け、壁にあるスイッチを押すと、事務室にも電気が点く。
雑然とした部屋の中には、相変わらず本や雑誌、音楽や映像のディスク、レコード、くしゃくしゃになった紙、楽譜やイラスト、未だに何なのかよく分からないものが積み上がり、転がされ、放置されていた。足の踏み場はほとんどないが、獣道のような細い通路が、奥にある階段の方に向かって蛇行しながら伸びている。
希佐にとっては見慣れた光景だが、白田はそれを見て、遠い日の記憶が呼び起こされたようだ。
『……根地さんの作業部屋みたいだな』
『私も最初に見たときはそう思いました』肩越しに振り返ると、白田は奇妙なものを見るような顔で、ぐるりと室内を見回していた。『ここの奥に階段があるので、そこまで頑張ってください』
どのような頭の作りをしているのかは不明だが、アランはこの雑然として見える部屋の中を、信じられないほど完璧に把握していた。だから、下手に掃除をすることも、整理整頓することもできないのだ。
慣れた足取りで階段まで辿り着いた希佐は、白田を心配して後ろを振り返る。すると、荷物を抱えながら歩くことに手間取っていた白田を見かねたのか、アランが代わりにトランクを持ってくれていた。
急な階段を上り切り、希佐はすぐに電気を点ける。今夜はまるで冬のような肌寒さなので、一緒に暖房の電源も入れた。床に何か落ちてはいないか、テーブルの上は片付いているか──辺りに素早く視線を走らせて確認をしていると、白田が二階に上がってきた。
『今、何か温かい飲み物をご用意しますね』着ていたコートを脱ぎ、それを椅子の背もたれに引っ掛けると、希佐はキッチンに立って手を洗った。『先輩は座っていてください』
『お構いなく』白田は「Thank you」と言って、アランからトランクを受け取っている。『お前も疲れてるだろ』
『私なら大丈夫です』
ケトルに水を入れ、コンロの火に掛ける。戸棚の前に立ち、お茶を選んでいると、手を洗い終えたアランが後ろに立った。
「何にするの」
「もうこんな時間だからハーブティーがいいと思って」
「俺がやっておく」
「本当? ありがとう」
希佐は爪先立ちになると、ついいつもの癖で、アランの頬に触れるだけのキスをした。後ろを振り返ったとき、白田が目を丸くしているのを見て、迂闊なことをしたと思うが、既に後の祭りだ。取り繕っても仕方がない、自然に振る舞おうと決めた希佐は、立ち尽くしている白田を椅子に座らせた。
『お風呂に入られますよね? お湯には浸かりますか? それとも、シャワーで済まされますか?』
『……シャワーだけで十分だ』
『では、準備だけしてきますね』
昨夜のうちにコインランドリーに出向き、洗濯をしておいて良かったと思いながら、希佐はバスルームに足を踏み入れる。洗面台の上に出したままにしていたスキンケア用品などを鏡裏の収納に隠し、ちょっとした汚れを拭き取って、まだ柔軟剤の香りが強いタオルを用意した。自分たちが使っているものとは別の、シャンプーやボディーソープの類を手に取りやすい場所に並べ、シャワーからお湯が出るように設定してからキッチンに戻った。
『タオルは洗面台の上に用意しておきました。使い終わったら、足元にある籐の籠の中に入れておいてください。シャンプーとかも、お手持ちのものがなければ、あるものを使ってくださって大丈夫なので』
『ありがとう』
テーブルには、ティーバッグを入れたマグが三つ並んでいる。アランはコンロの火を止めると、ケトルを手に取って振り返り、マグの中に沸騰したばかりの湯を注いでいった。ゆらゆらと立ち上る湯気からは、カモミールの香りが漂っている。
希佐は、棚に置いてある蜂蜜の瓶を手に取ると、引き出しから銀のスプーンを三本取り出して、いつもの席に腰を下ろした。
『コッツウォルド産の蜂蜜はいかがですか?』
『これ、知ってる。何年か前にロンドンのスタジオでレコーディングをしたとき、喉に良いからってプロデューサーにもらったんだ。日本に帰ってからあちこち探してみたんだけど、向こうでは手に入りにくいみたいだな』
『そうなんですね』
希佐はコッツウォルドハニーと記されたラベルに目を向ける。つい先日、撮影帰りにコッツウォルズ地方に立ち寄ったらしいレオナール・ゴダンが、美味しい蜂蜜をどうぞと言って、たくさん送ってきてくれたのだ。
アランはケトルをコンロに戻すと、希佐の肩にそっと触れてから、奥の物置部屋の方に向かって歩いていった。
『あのさ、立花』
『はい?』
『日本語で話してもらえるのはありがたいけど、英語で話した方がいいんじゃないか?』
『え? ああ、そうですね』ずっと日本語で話をしていると、アランが疎外感を覚えるのではないかと、白田はそう危惧してくれているのかもしれないと、希佐は思う。『でも、彼は日常会話程度なら日本語を聞き取れるので、大丈夫だと思います』
『……だったら、迂闊なことは言えないな』
『迂闊なことですか?』
『こっちの話』白田は軽い口振りでそう言うと、小さく肩をすくめた。『だとしても、英語と日本語を使い分け続けるのは、お前が疲れるだろ。いいよ、英語で。僕もその方が助かる。早く耳を慣らしたいんだ』
『そういうことでしたら』
日本語をほとんど使わない生活が長く続いているせいか、母国語を話しているというのに、酷く頭を使っているという感覚があった。読み書きは問題ないのだが、良く考えて話さないと、言葉が組み立てられないのだ。それなので、白田からの提案は、希佐にとっても喜ばしいことだった。
「これ」物置部屋から戻って来たアランは、手にしていた箱を白田の前に置く。「荷物になるかもしれないけど、食べ切れないくらいあるから、持ち帰ってもらえると助かる。もっと欲しければ、好きなだけ」
「いえ、これだけで」
「そう」
アランは希佐の隣に腰を下ろすと、マグから取り出した出涸らしのティーバッグを小皿に出し、スプーン一杯の蜂蜜をカモミールティーの中に垂らしている。希佐もそれを真似て、カモミールティーに蜂蜜を溶かし込んでいると、白田が徐に口を開いた。
「あの」白田の目はアランに向けられている。「ありがとうございます」
「その蜂蜜のことなら──」
「そうではなくて」
「泊める、泊めないの話?」アランがそう言うと、白田は小さく頷いた。「俺は別に何もしてない」
「危うく、ホテルの空き部屋を探して、一晩中彷徨い続けるところでした」
「キサがここに泊めると言い出さなければ、俺は君を他所にやってたよ。まあ、そのときはアタルとダンテが君のことを引き受けていたと思うし、その方が良い待遇を受けられただろうとは思ってるけど」
「僕は立花希佐に会いにきたので」そう言う白田を、アランはじっと見つめている。「さっきも言いましたが、僕は立花がこの五年間をどうやって過ごしてきたのか、そのことに興味があるんですよ」
「その理由は」
「立花の歌です。彼女の歌声をこの耳で実際に聞いて、知りたくなりました。僕も歌を生業にしていますから、どうしても気になるんです。一体どんな学びを得たら、あんなふうに飛躍的に歌唱力が伸びるのか」
「……そう」
アランの言葉は短かった。白田の言葉に静かに頷くと、残っているカモミールティーをすべて飲み干し、そのまま席を立つ。
「アラン?」
「先に降りてウォームアップをしてる」
「あ、うん。私もすぐに──」
「急がなくていい」アランはそう言うと、身を屈め、いつものように希佐の額にキスをしてから、白田の方を見た。「ごゆっくり」
アランは希佐の過去を積極的には聞こうとしない。聞くことを悪いと思っているのか、はたまた、希佐が進んで話すのを待っているのかは分からないが、いずれにせよ、必要以上に多くを尋ねてくることはなかった。とはいえ、希佐が昔の話をすれば黙って聞いていてくれるので、興味がないわけではないはずだ。
アランは一度部屋に戻ると、着替えを抱え、スタジオに降りていった。
『気分を害すようなことを言ったんだろうな、僕は』
『いいえ』希佐は、マグを両手で包み込みながら、首を横に振る。『自分がいたら、込み入った話をできないと思ったのかもしれません』
『ユニヴェールのことは話しているの?』
『はい』
『そうか』白田は短く相槌を打ってから、手元にある箱に視線を落とした。『これはありがたくもらっておくよ。高価なものだろうから、何かお礼をしないとな』
『お礼は必要ないと思います。彼は人に贈り物をされるのが、あまり好きではないので』
だが、いくら不要だと断っても、アランのところには頻繁に贈り物が届けられる。本人はそれを億劫に感じているようだが、遠く離れたところにいる誰かが、自分の顔を思い浮かべながら贈り物を選んでくれるというのは、とてもありがたいことだと希佐は思う。月に一度、中座秋吏から送られてくる大きな荷物を見るにつけ、そう思うのだ。
『……好い人が出来たんだな』
『え?』
『それ』白田はそう言って、希佐の右手の薬指で輝いている指輪を指した。『あの人も同じものをつけてた』
そんなものは虫除けにもならないと言われることもあるが、やはり見ている人は見ているのだと思いながら、希佐は薬指の指輪を癖のように撫でた。
『僕は心のどこかで、立花は今もフミさんのことを心の支えにして、この国で頑張ってるんじゃないかって思っていたんだ。先輩たちが卒業しても、お前は玉阪座の舞台に立つフミさんの背中を、ずっと直向きに追いかけていただろ。だから、今もそれは変わってないんじゃないかっていう勝手な願望が、僕の中にはあったんだと思う』
その声に失望は感じない。だが、諦めにも似たような響きを孕んでいる。
『まあ、あれから五年も経っているんだから、立花に新しく恋人が出来ていたって、何も不思議ではないよな。お前はもう日本には帰って来ないつもりで海外に出ていったんだろうし、新しい場所で一からやり直したいって思うのは普通のことだ。お前が日本で役者として生きていくためには、解決しなきゃいけない問題が多すぎる』
『……日本には帰るつもりでいるんです』
『そうなのか?』
『次の舞台が決まっているので、それが終わったら。校長先生にはもうお話ししています』
『話って』
『性別を公表しようと思っていて』希佐が平然と言ってのけるのを、白田は驚いたように見た。『去年、加斎くんと偶然再会して、言われたんです。今のままじゃダメだと思うって』
『加斎が?』
『私ばかりが前に進んでも、日本にいる仲間たちはこうしている今も、立花希佐のことを忘れられずにいる。彼らの中の立花希佐は、最後のユニヴェール公演のときの姿のまま、今も時間を止めているんだよ──そんなふうに言われて、諭されたんです』
『それは……』
『もちろん、当然の指摘だと思います。私は黙ってユニヴェールから逃げ出してきました。出発を事前に知っていたのは、校長先生と江西先生だけです。周りの人たちには──特に、創ちゃんやスズくん、それによくお会いしていたフミさんには、絶対に悟られないように気をつけていました。みんな、察しの良い人たちですから』
男性を演じるということが自然と体に馴染んでいったように、感情の浮き沈みをなくし、常に平常心でいることを心掛けているうちに、いつしかそれが普通になっていった。
演じることが上手くなるにつれて、嘘を吐くのも上手くなったが、それが苦にならなくなったわけではない。一つの嘘を吐けば、その嘘を守るために、また次の嘘を吐く。嘘を嘘で塗り固めることで、ユニヴェール歌劇学校の立花希佐という少年は成り立っていた。
『加斎くんの言っていることは絶対的に正しい。でも、私は加斎くんの言葉が猛烈に腹立たしかった。私の人生は私のものなのに、私は自分の苦しみを抱えるだけで精一杯なのに、その上どうして他の人の苦しみまで背負わなければいけないんだって』
白田は何も言わず、どこか怒っているような怖い表情を浮かべて、睨むようにこちらを見ていた。希佐は気圧されそうになるが、言葉を続けた。
『だから、私のことを知る、日本のすべての人の記憶の中から、立花希佐という存在を消し去ってほしいと思ったんです。でも、そう思ってすぐに、同じだけ後悔しました。立花希佐を消し去るということは、過去の自分だけではなく、今の自分も、未来の可能性も否定することになる。それだけじゃない、ユニヴェールで過ごした夢のような三年間も、そこで出会った先生や先輩方、同期、後輩たち、すべてを否定することになる。私の人生がなかったことになってしまう』
『残念だけど、お前のことを忘れられる人間なんて、僕の知るかぎり誰一人いないよ。そんな話、聞いてるだけで馬鹿馬鹿しくなってくる』
その歯に衣着せぬ物言いに、希佐は思わず苦笑いを浮かべた。すると、その顔を見た白田は、これ見よがしに大きなため息を吐く。
『あのな、お前の人生はお前のものだ。どう生きていくかは、お前自身が決めていいんだよ。周りの人間が何を言おうと、その考えに左右される必要はないんだ』
白田は冷めてしまったハーブティーを少しだけ飲んで、心を落ち着かせるように、ふう、と小さく深呼吸をした。
『立花もよく知ってると思うけど、僕は家から自立するためにユニヴェールに入学した。母親を捨てて、完全に縁を切った。でも、縁を切ったと思ってるのは僕の方だけで、あの女は未だに僕の周りをうろついて、僕の母親ヅラをしてる。まあ、実際あの人が僕を産んだんだから、間違ったことは言ってないんだけど』
『大丈夫なんですか?』
『こんな話をしてるときまで人の心配?』白田は呆れたように言う。『お前は優しい。優しすぎるんだよ。もっと非情になったっていいんだ。自分は被害者だって、そんなふうに言える立場だってことは、分かってるんだろ?』
『……私は、残りの人生すべてを担保にして、ユニヴェールでの三年間を手に入れたんです』
『どんな悪魔との契約だよ、それは』
『日本を出ればその契約から逃れられると思いました。でも、違った。契約は今も続いているんです。債務不履行のまま、担保を握られて、説明責任と弁済を迫られている。過去を清算しないかぎり、私の人生はおしまいなんです』
『お前の過去が明るみに出たとしても、誰も命まで取りはしないだろ』
『私は舞台の上でしか生きられないんです、白田先輩』いっそ命を取られた方が簡単に解決できると、口にすることが憚れることを希佐は考える。『舞台の上にいなければ、正しく呼吸をすることもままなりません。私から舞台を取り上げたら、後には何も残らないんです』
取り返しのつかない過ちを犯した。自らの夢を優先するあまり、多くの人の夢や希望を踏み躙った。その償いをするためには、自分の命よりも大切なものを捧げなければ、釣り合いが取れない。
『……日本を出てからの最初の二年は、自分はもう二度と舞台には立たないのだろうなと思いながら、毎週末毎に劇場に通って、客席から煌びやかな世界を見上げていました。最初の一年間は、アイルランドのダブリンで暮らしていたんです。ダブリンも演劇が盛んな街なんですよ』
『知ってる』白田はカモミールティーをもう一口飲んだ。『それで?』
『アイルランドのビザが切れたので、次にイギリスのビザを取得して、ロンドンで暮らしはじめました。でも、ロンドンでの生活は、ダブリンでの生活ほど上手くはいかなくて……』
『ロンドンは物価が高いからな』
『日本食レストランで働いていたのですが、そこのレストランで賄いがもらえたので、食事はなんとか。どうしても劇場通いだけはやめられなくて、生活費を切り詰めてでも、ウエスト・エンドに足繁く通っていました。そんな生活を長く続けていると、日本を出て二年と少しが過ぎた頃に、心身ともにぼろぼろになってしまって……』
『うん』
『ある日、夜のロンドンをふらふらと彷徨っていたら、小さな教会から辿々しいピアノの音色が聞こえてきたんです。幼い男の子が、アメイジング・グレイスを弾いていました。その音色が、荒み切っていた私の心を、優しく癒してくれたんです』
『まさに讃美歌だな』
『私はそのピアノの音色に導かれて、今、ここにいます』
『……どういう意味?』
『このスタジオの裏側に、その教会があります。ピアノを弾いていた男の子の名前は、ミゲル。父親はその教会の牧師で、ロバート』我が事ながら、まるで映画のあらすじを語って聞かせているようだと、希佐は思う。『ロバートはアラン・ジンデルの義兄です』
『……』
『私が日本で歌劇学校に通っていたこと、週末毎に舞台を観に行っていることをお話したら、ある日、ロバートがアランを紹介してくれました。初対面で早々に何かして見せろと言うので、根地先輩の脚本をお借りして、一人芝居をして見せたんです。少しもそんなつもりはなかったのですが、今になって思えば、あれが人生初のオーディションだったんですね。それがきっかけで、私はアラン・ジンデルが立ち上げた、劇団カオスに所属することになりました』
今の今までいったいどこで何をしてたの──なんて理不尽なことを言う人なのだろうと、そう思ったものだ。だが、今となっては、その言葉以外にはなかったのだと思える。
『アランは私の命の恩人なんです。彼と出会えなければ、私は今もまだこの世界のどこかを、あてもなく放浪していたと思います。そうでなければ、それこそどこかで野垂れ死んでいたかもしれません。アラン・ジンデルは、私にとってかけがえのない、大切な人なんです』
『……あの人のことを本当に好きなんだな』
自分の顔を真っ直ぐに見据え、恥ずかしげもなく自らの想いを吐露する希佐を見て、白田は茶化すでもなく静かに言った。
『でも、フミさんのことは?』
『……え?』
『二人は付き合ってたんだろ?』白田は確信を持った口振りで言った。『なのにお前は、あの人にすら何も告げずに、玉阪から忽然と姿を消したんだ。お前が別の誰かを好きになったって何の問題もないよ。それだけ劇的な出会い方をしたのなら、尚更恋に落ちたって仕方がないと思う。でも、お前には付き合っていた人がいて、その人が今もお前のことを忘れられずにいるのだとしたら、どう落とし前をつけるつもりなんだ?』
『フミさんが、今も……?』
『僕の目にはそう見えるし、他の連中の目からも、間違いなくそう見えているだろうな』驚きを隠せずにいる希佐を見て、白田はやるせないような顔をした。『本人は何も言わないけど、フミさんはこの五年間、ずっとお前の帰りを待ち続けてる。あの狭いアパートの部屋から引っ越しもしないのは、お前のためなんだと思うよ』
こんなとき、一体どんな顔をして、どんな言葉を口にすればいいのか、希佐には分からなかった。驚きと同時に、唖然としてしまっている自らの心情を自覚しながらも、気持ちの着地点を見い出すことができない。
『立花にとっては五年前に完結してる物語なのかもしれないけど、フミさんの物語はそのあともずっと続いてる。加斎はお前に、僕たちの時間は五年前から止まったままだって言ったみたいだけど、違うよ。僕たちもお前と同じだけの時間を過ごしてきた。それに、必ずしも後ろ向きだったわけじゃない。ただ、立花希佐の失踪という喪失体験が、それぞれの人生に多かれ少なかれ、影響を及ぼしてるってだけのことだ』
希佐にとっては、加斎の言葉よりも、白田の言葉の方がずっと、すんなりと受け入れることができた。だが、受け入れると同時に、とても重たい鉛のようなものが胸の辺りに生成されて、息が苦しくなってくる。
『世長は大きな劇団に所属して精力的に活動しているし、織巻は芸能事務所に所属して、ひっきりなしに映画やドラマに出演してる。鳳は役者の道には進まなかった。今は家業の手伝いをしてる』
世界は回る。
歯車を失っても。
くるくる回る。
『玉阪座に行った先輩方は皆大成してるよ。特にカイさんは凄い。玉阪座の舞台が楽しくて仕方がないみたいだ。根地さんは相変わらず、自分の足で舞台に立つより、脚本を書いたり、演出をすることの方が多い。フミさんは玉阪座の舞台に立ったり、芸能界の仕事をしたり、実家のことでも忙しそうにしてる』
加斎は言った。彼らの中の立花希佐は、最後のユニヴェール公演のときの姿のまま、今も時間を止めているんだよ、と。だが、立花希佐の認識の中にいる彼ら──クォーツの仲間たちこそ、五年前の姿のまま、その時を止めてしまっている。こうして、五年の年月を経た白田美ツ騎の姿を目の当たりにしても、他の者たちの五年後の姿を想像することは難しい。自分のことだけで精一杯だった希佐には、日本で生きる人々の歳を重ねた姿を想像する心の余裕など、ありはしなかったのだ。
『お前、SNSは?』
『やってないです』希佐は首を横に振る。『白田先輩はアカウントをお持ちなんですか?』
『まあ、一応ね』白田はそう言いながら、ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。『何か書くものある?』
『あ、はい』
希佐は自分のバッグの中からノートとペンを取り出し、白紙のページを開いた。それを目の前に差し出せば、ペンを取った白田が、すらすらと何事かを書き込んでいく。
『僕のアカウントと、ついでに電話番号も書いておくから』
『それなら、私の番号も──』
『お前の連絡先を聞き出すつもりはないよ』白田はペンをノートの上に置くと、それを希佐の方へと押し戻した。『僕が教えたから、自分も教えなきゃいけないなんて思う必要はない』
『ですが』
『お前が僕の連絡先を知っているだけでいい』白田は頑なだった。『いつでも出られるわけじゃないけど、時差とか気にしなくていいから、何かあったら電話して』
今日はもう休みたいと言う白田をバスルームに案内し、一通りの説明を終えた希佐は、自分の部屋に戻ってベッドのシーツを取り替えた。ここ数日は忙しくしていたので、隅々まで掃除が行き届かず申し訳ないが、せめてベッド周りだけは綺麗にしておきたい。
『立花、ドライヤーを借りてもいいか?』
布団と枕のカバーを取り替え、起き抜けの状態のままだったベッドを整えているところに、白田がひょっこりと顔を覗かせた。
『はい』希佐は抱えていた枕を定位置に戻すと、すぐに踵を返した。『用意しておけばよかったですね。すみません、うっかりしていて』
希佐は洗面台の下の戸棚を開け、そこからドライヤーを取り出した。几帳面にまとめられたコードを外し、コンセントを差し込む。
『使い終わったら、コンセントだけ抜いておいてください』
『分かった、ありがとう』
『いえ』
部屋の扉を開けたままにしながら机の上を片付けていると、ドライヤーの音が遠くの方から聞こえてくる。その音が聞こえている間に、希佐は自分の下着や着替えなどの必要なものをバッグに詰めて、白田が戻ってくるのを待った。
「あ、そうだ。お水」
希佐は荷物を抱えて部屋を出る。それをキッチンの椅子の上に置き、冷蔵庫の中から冷えた水を一本と、常温の水を手に取った。
『本当にそのままでいいのか?』
『はい、またすぐに使うので』バスルームから出てきた白田を振り返り、希佐は両手に持ったペットボトルを差し出した。『常温のお水でいいですか? 冷えたものもありますが』
『こっちをもらうよ』
『はい、どうぞ』
白田が選んだのは想像通り常温の水だった。希佐は冷えた水を冷蔵庫に戻し、白田を自分の部屋へと案内する。
『ご滞在の間は、この部屋をご自由にお使いください。最近忙しくて満足に掃除もできていないのですが、シーツとカバーは清潔なものに取り替えておきました。窓は開けていただいて構いませんが、ロンドンは天気が変わりやすいので、部屋を出るときは閉めるようにしていただけると助かります』
『ここが立花の部屋?』
『はい』
白田は頷く希佐を見てから、無意識にだろう、至って平凡な室内をぐるりと見回していた。あるのは本棚と机、クローゼット、ベッドだけだ。何の面白みもない部屋かもしれないが、希佐にとっては三年分の思い出がぎっしりと詰まっている。
『なあ、お前はどこで──』だがしかし、白田はそこまで口にしたところで、不意に言い淀んだ。不思議そうに首を傾げる希佐を見て、小さく頭を振る。『いや、ありがとう。使わせてもらうよ』
『何かご不便があったらすぐに仰ってくださいね』
『分かった』
『では、私はこれで』白田を部屋に残し、希佐は外に出る。『おやすみなさい、白田先輩』
『ああ、おやすみ』
自分の部屋のドアを閉め、希佐は静かに息を吐き出した。
気にかけてもらえるということは、酷くありがたく、嬉しいことだ。忘れてほしいと願うことはあっても、それを迷惑だと思うことはない。だが、希佐はどういうわけか、白田の話に耳を傾けているうちに、何とも居た堪れないような気持ちになっていた。
この五年間、高科更文という憧れを忘れた日は、一日としてない。
高科更文は立花希佐の憧れだった。あの人が牽引してきたクォーツの看板を引き継げることは最高の誉れだった。アルジャンヌとしての技術を磨くために、無理矢理にでも時間を作っては、玉阪座の公演に通い、最高の比女の演技を吸収しようと努めていた。
あの人は、私を好きだと言ってくれた──希佐はドアの前から離れ、のろのろとした足取りで階下に向かう。ぼんやりしていると階段を転がり落ちてしまうので、慎重に、ゆっくりと、足を進めた。
でも、私は、あの人を好きだと言葉にして伝えたことは、なかったように思う──最後の一段を踏み外しそうになり、希佐は、背筋にひやりとしたものを覚えた。だが、寸前のところで手摺りを握りしめ、事なきを得る。
確かな憧憬と、羨望、そして、嫉妬。
高科更文は、立花希佐にはないものを、すべて持っている人だった。
本人にそう告げれば、間違いなく、そんなことはないと否定するのだろう。実際、そうなのかもしれない。
それでも、あの人は──高科更文には、家族がいた。両親に、兄弟に、お弟子さんやご贔屓さんたちに、心から愛されていた。それをすべてと言えなければ、他に何と言い表せるのか、希佐には分からない。
帰る家がある。その家で待つ家族がいる。自分を思い、心を砕き、愛してくれる人がいる。そんな一見平凡とも思えることが、どれほど贅沢で、決して当たり前などではなく、かけがえのないものであるということを、更文は正しく理解していなかった。
他者の家庭環境に口を挟むことは間違っている。だがしかし、口を挟まずにはいられなかった。気づきを得ても、失ってからでは遅い。名前を呼んでもらいたくても、呼びかけに応える声はない。抱きしめたくても、抱きしめられたくても、もうそこにその人はいない。冷たい、とても冷たい抜け殻の中には、もう誰もいない。そんなふうになってから後悔しても、もう遅い。
だから、背中を押した。
後悔をしないように。させないように。
自分のような人が、これ以上増えないように。
果たして、あの人の好きと、自分の好きは同一の感情だったのだろうか。好きだと言われるたびに、心の片隅では、疑問に思っていた。
あの人は家族を大事に思っている。大切にしている。愛している。それはあまりに美しく、尊く、眩しい感情だ。真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに、何の疑いもなく向けられる。
だが、果たして、自分がこの胸に抱く感情は、その思いに応えられるだけの度量があるのか。このどろどろとした、仄暗い、誰にも見せることのできない心の深部にあるものが、果たして理解されるのか。
それでも、あの人はその仄暗い場所から、連れ出してくれようとしただろう。この手を取って、明るい場所へと。どろどろとした粘着質の地面に足を取られても、何がなんでも、太陽の下へと。
自分がそれを望んでいたのか、希佐にもよく分からない。でも、どうしようもなく、月の光に惹かれてしまうのだ。漠然と、そう思う。
この恋心は本物で、あの人と一緒にいられた三年間は、とても充実した、楽しい毎日だった。幸せだった。それなのに、苦しかった。その楽しい、幸せな日々も、嘘を下地にして成り立っているものだったから。
立花希佐のはじまりの場所にはいつだってユニヴェールがある。クォーツがある。大切な人たちがいる。その事実は決して揺るがない。
だが、立花希佐は今、ここで生きている。
その事実も、決して揺らぐことはない。
事務室の扉は開け放たれたままになっていた。そこから入り込んでくる光を頼りに、何度か転びそうになりながら、スタジオを目指して窓のない事務室を進んだ。唐突に開ける世界。目が眩む。思わず目を細め、狭まった視界のその先に、大きな背中が見えた。
こちらに背中を向けたその人は、肩で呼吸をしながら、鏡越しにこちらを見ていた。Tシャツの裾をたくし上げ、顔の汗を拭っている。
「話は済んだの」
「うん」
「そう」
希佐はアラン・ジンデルに歩み寄ると、その腰に両腕を回し、広い背中に顔を埋めた。体が酷く熱い。Tシャツは汗でじっとりと湿っていたが、構わなかった。アランも無理やり引き剥がすようなことはせず、希佐の手の甲に自らの手の平を重ね、右手の薬指を優しく撫でている。
過去を否定しなければ、今を肯定することはできないのだろうか。
いや、そのようなことはないはずだ。
記憶と思い出は違う。希佐の中にあるユニヴェールは、思い出というよりも、記憶に近い。夢のような日々。今はまだ、美しい思い出にすることはできない。
この人は、過去を肯定した上で、今の立花希佐を受け入れてくれた。
このどろどろとした、仄暗い、誰にも見せることのできない心の深部にあるものを、理解してくれた。無理に連れ出すことをせず、ただその場所が少しでも明るくなるようにと、スポットライトを当てていてくれる。
「キサ」そう声を掛けられ、体を離して顔を上げれば、アランはこちらを振り返った。「俺にどうしてほしい?」
どんなに虚勢を張ったところで、この人に嘘を吐くことはできない。どんな些細な変化も、見透かしてしまうから。
だがしかし、ユニヴェールの問題を解決するためのカードは、まだ手元には出揃っていない。あの人たちと真正面から向き合うためには、今の自分がやるべきことと一途に向き合い、真摯に取り組む姿を見せる必要がる。
「practice」希佐がそう口にすると、アランは微かに口角を持ち上げ、緑の目を輝かせた。「Let's practice together」
『──大切にした方がいい。それは君の大事な思い出で、間違いなく、君の一部になっているものだから』
アランはそう言って、希佐の手の中にある鯉結びごと、過去のすべてを大きな両手で包み込んでくれた。忘れる必要はないと言ってくれた。家族のように寄り添い、尊重し、そして、愛してくれる。
今は、この人が、立花希佐のすべてなのかもしれない。
立花希佐が部屋を出ていくのを見届け、白田美ツ騎は大きく息を吐き出した。余計な口を挟みたくないと思ってはいたが、立花の話に耳を傾けていると、口を噤んではいられなくなってしまった。
他人の色恋ほど面倒臭く、興味を持てない話はないと、美ツ騎は思う。
だが、情報番組や週刊誌では、そうした下世話な話を取り上げるほど、数字が伸びるという。自分ですら記者に尾行されることがあるのだから、玉阪座の売れっ子である睦実介や高科更文などは、更に手酷く付き纏われているはずだ。だが、二人はこれまでに、一度として交際報道が抜かれたことはない。相当注意深く密会しているか、もしくは、芸事に熱心すぎて色恋に興味がないか、のどちらかだろう。
いくら仲の良い先輩と後輩であったとしても、恋人はいるのか、などと聞くことはしたくないし、自分だって聞かれたくはない。
しかしながら、高科更文と立花希佐のことだけは、話が別だ。ユニヴェール在学中から見守ってきた二人なのだから、多少は首を突っ込んでも許されるだろうというのが、美ツ騎の考えだった。
更文が卒業後、立花が二年に進級したあとも、二人が玉阪の町で頻繁に会っていたことを、美ツ騎は知っている。美ツ騎だけではない、大勢の人々が、その様子を目撃していた。
立花希佐は女である──その前提がない人々にしてみれば、二人は仲の良い先輩と後輩として、その目に映っていたことだろう。後輩を可愛がる先輩と、そんな先輩を慕う後輩。あの二人が人前で襤褸を出すわけがない以上、誰も疑いはしなかったはずだ。本当は恋仲であることなど。
実際には、一部の過激な高科更文のファンが、更文から可愛がられている立花を妬み、立花希佐の女説を提唱していたが、そんな説は美ツ騎や忍成兄弟にも言われていたことで、多くのユニヴェールフォロワーには見向きもされていなかった。
立花希佐の失踪後、更文は感情の浮き沈みが激しかったという。まるでユニヴェールの暴れ馬時代に戻ったかのようだったと、根地黒門は愉快そうに語っていた。人の心が分からない天才には、何を言っても無駄だと分かっていても、人でなしと罵らずにはいられなかった。
美ツ騎の目には、何の疑いようもなく、二人が相思相愛に見えていた。だからこそ、なぜ、という思いが強かったのかもしれない。
更文は立花の秘密のすべてを知っていたはずだ。それならば、他の誰にも言えないことでも、更文だけには告げられたのではないか。何も言わずに立ち去るにしても、手紙でも、メモの一つでも、残すことはできたのではないか。
立花希佐は自らの性別を偽り、ユニヴェールに在籍していた。嘘を吐いていた。だがしかし、誰よりも誠実な人間だったはずだ。それなのに、最後はあまりに不誠実に姿を消した。
相当に追い詰められていたのだろう。だから、そうせざるを得なかったのは分かる。分かっているのに、どういうわけか、憤りを覚えているのだ。
その理由が、今、分かった。
立花には、悪びれた様子がない。いや、しおらしくしろと言っているのではない。ただ、立花希佐の中では既に、すべてが割り切れているのだろうと思うと、なぜか置き去りにされたような気持ちになる。
立花は自ら進んで日本のことを訊ねてこようとしない。一度だけ「二人は──皆さんはお元気ですか?」と、そう訊ねてきただけだ。
「人が一人いなくなるっていうのは、思っていた以上に人生に歪みを生むものなんだって、お前のおかげでよく分かったよ」
そう嫌味のように言った美ツ騎に、立花はただ一言「そうですね」と答えただけだった。無頓着でも、無関心でもないと信じたいが、そう捉えられても仕方のない態度だと思う。
美ツ騎は抱えてきたトランクをベッドの脇に置くと、腕に掛けていたジャケットを椅子の背もたれに預け、ポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。時刻は深夜十二時を回っていた。
「日本とイギリスの時差は──」
イギリスは三月の下旬からサマータイムがはじまるので、本来は九時間の時差が、十月の下旬までは八時間になる。日本は今、午後四時だ。
先にイギリスに来ていることを伝えるべきなのだろう──美ツ騎はそう思いながら、ベッドに腰を下ろす。不意にスマートフォンから顔を上げれば、妙に殺風景な室内が視界に飛び込んできた。個人的には好感が持てるが、驚くほど飾り気のない部屋に思えた。
とはいえ、女性が暮らす部屋に足を踏み入れた経験など数える程度しかなく、比較対象がいるとすれば、あの面倒な母親くらいのものだ。
鏡が汚れたドレッサー、化粧品、その不快な臭い、おぞましいほど高価なブランド物の洋服やバッグ、アクセサリー──そうした類のものが、この部屋にはほとんど見当たらない。あるのは大きな本棚、机と椅子、クローゼットにベッドくらいだ。
美ツ騎は、腰を下ろしていたベッドから立ち上がり、本棚の前まで移動した。所々に小物なども置かれてはいるが、それ以外は本やノートがぎっしりと詰め込まれている。棚に入り切らず、足元にもかなりの冊数の本が積み上げられていた。
「……全部洋書だな」
日本語の本は一冊も見当たらない。机の上に置かれているのも、英英辞典だ。その傍らには、真新しい英仏辞典が置かれていた。普段は日本語を使う機会もないのだろう、美ツ騎と話をしているときも、どこか考えながら言葉を繰り出している印象が強かった。
聞く、話す、読む、書く──第二言語を取得するに当たって、重要なのは聞く耳を持つことだと、白田は思う。聞いて、話す、聞いて、話す、その繰り返しだ。読み書きは二の次でいい。
立花の英語能力はネイティブと言っても何ら遜色のないものだった。ユニヴェール在籍中に、英詩の歌詞に苦労していた者とは到底思えない。努力や苦労の跡などを一切感じさせない、生まれも育ちもこのロンドンだと言わんばかりの、ほぼ完璧なキングズイングリッシュに聞こえる。
美ツ騎は立花希佐が相当な努力家であることを知っている。だから、分かるのだ。ここに至るまでの間、立花は想像もつかないほどの努力を積み重ねてきているのだろうと。言語はもちろん、それ以外のことでも。
美ツ騎は、パブの二階にある劇場の隅に座り、ずっと立花のことを見ていた。一階のステージで歌を聴き、二階の劇場で踊る姿を見て、レベルの違いを思い知らされた。
ユニヴェールにいた頃から、立花希佐は周りの才能ある人々からありとあらゆるものを吸収し、それを自らの中に落とし込んでいた。ただ模倣するのではない。それらを美しく昇華し、舞台上で華を咲かせてきた。
日本の役者たちが、諸外国の役者たちに劣っているとは思わない。だが、歴然とした差があるのは事実だ。それはなぜなのか。おそらく、本物に触れる機会が極端に少ないことが問題なのだろう。
歌劇というものは、海外から日本に渡来したものだ。古来、日本には能や狂言、歌舞伎、日本舞踊などの伝統芸能が存在している。玉阪歌劇もその流れを踏襲しているが、ユニヴェール歌劇学校で学ぶのはそうした古典ではなく、公演の脚本にもよるが、ミュージカルやオペラのような、海外由来のものがほとんどだ。
時折、高科更文や田中右宙為のような、日本の伝統芸能をバックボーンに持つ者が現れるが、これらは特に稀有な存在で、生まれも育ちも、そもそも目指す終着点が異なる以上、二人はこの例から除外して然るべきだろう。
そも、ユニヴェールに入学を志願する者は、幼少期から英才教育を受けている場合が多い。歌、演技、ダンス等の才能だけではなく、ついと目を引く魅力のある者が、ユニヴェール生として選抜される。
だが、ごく稀に、何の経験もないまま数千倍という倍率の入試に合格し、彗星の如く現れて、舞台を席巻していく者がいるのだ。
入学当初は、歌もダンスも酷いものだったが、持ち前の努力と根性で上級生たちに食らいついていき、最後にはユニヴェールの歴史に名を残すような役者となった──それが、立花希佐だ。
立花希佐はあらゆる意味で天才肌だった。特に目と耳が良い。目で見たもの、耳で聞いたことを、瞬時に記憶し、再現する才能に長けていた。一度自分の中に落とし込んでしまえば、あとは自分色に染めていくだけだ。
高科更文のダンス、睦実介の役者としての在り方、そして、白田美ツ騎の歌唱力──他にも、根地黒門の突拍子のないところまで、立花にはしっかりと受け継がれていた。田中右宙為の奇怪な演技すら参考にしていたほどだ。
ユニヴェールの三年になると、立花は毎週末のように外出するようになったという。織巻と世長が話を聞いたところ、玉阪座や、その他の劇場で行われている舞台を観劇して回っているのだと言っていたそうだ。要するに、もはやユニヴェールには、立花希佐を満たすことのできる才能がなかった、ということだろう。
『立花希佐は他者の才能を食い物にして成長する怪物だ』
以前、田中右が立花のことをそのように称していたことを、白田は思い出す。
『立花くん、三年になってから、なんとなーく雰囲気が変わったよねぇ』
卒業後、ユニヴェールから借りていた資料を返却に行った帰り道、玉阪の町でばったりと根地に会ったことがあった。夕飯をご馳走すると言われ、もちろん断ったが、あの根地が聞く耳を持つわけがない。そのときに連れてこられた居酒屋で、酒も飲んでいないのに酔っ払ったような様子の根地が、このように話していた。
『なんていうのかな、より洗練された感じ? うーん、でも──』根地は手にしていたジョッキを傾け、ぐびぐびと烏龍茶を煽る。『秋公演の脚本を手伝ってあげたついでに、たまに稽古を覗きに行ってるんだけど、孤立してる感じがするんだよね』
『あの立花がですか?』
『ああ、ごめん、咄嗟に良い表現が思いつかなくて。そうだね、孤立とは違うかな。彼は相変わらずクォーツの真ん中でどっしりと構えていたよ。ただ、後輩たちからは、なんとなく近寄りがたく思われているような気がするんだ。まるで、宙為を慕っていたアンバー生のようにね』
『フミさんだって一部の後輩から遠巻きにされていましたよ』
『あれはただ単にフミのことを怖がっていただけさ』根地は面白そうに笑ったあと、すぐにその表情を消した。『後輩だけじゃない、同期とも距離を置いているような気がするんだ』
『江西先生は何か言ってないんですか?』
『録朗氏は何の心配もしてないってさ』
『だったら大丈夫なんじゃないですか』
『実際そうなんだろうけどね。クラスの雰囲気はこの上なくよかったよ。織巻くんがいてくれれば、悪くなりようもないのだろうけど』
立花は、年齢を重ねるに連れて自らの体が女性らしい丸みを帯びていくことを、周囲に悟られまいとしていた可能性がある。このとき、立花が女性であることを知っているか否かを判断できなかったので、白田は根地に対して迂闊なことを口にする訳にはいかなかった。
だが、田中右と根地が言いたかったのは、そういう外面の変化ではないのだろう。立花希佐は、田中右宙為の卒業で好敵手を失い、何か強大なものに挑むことで満たされていた感覚が、失われてしまったのかもしれない。
78期には優秀な生徒が揃っていたし、彼らが最終学年となった年の各公演は、どのクラスの舞台も非常に評判がよかった。だが、クォーツはその中でも、ずば抜けて評価されていたのだ。それはもちろん、立花だけが評価されていたのではない。織巻、世長、鳳──その誰もが、舞台の真ん中に立つことができるほどの実力を備えていた。ただ、立花希佐という存在が、規格外だったというだけのことで。
根地黒門が立花希佐に洗練されたものを感じ取っていたのだとしたら、それは立花自身が、ユニヴェールの外に才能と刺激を求め、週末毎に旅をして歩いていたからなのだろう。その習慣は日本を離れても変わらなかった。
立花希佐の真価が密かに発揮されていたのだと、美ツ騎には分かる。
立花はダブリンで、そしてこのロンドンで、本場の才能を一身に浴び続けた。一流の才能と同じ空気を吸いながらも、舞台上に立つことを渇望することしかできない自分自身に、強い憤りを覚えていたはずだ。だが、それは立花にとって、必ずしも悪い感情ではなかったに違いない。強い憤りはエネルギーに変換される。そして、そのエネルギーが、舞台上で大爆発を起こしたことは想像するに容易い。
そして今、立花希佐はこのロンドンでカオスという劇団の中に留まり、役者としての活動を続けている。それは即ち、立花を取り囲む才能が、彼女自身の渇きを満たすだけの実力を持ち合わせているということに他ならない。
『立花希佐は他者の才能を食い物にして成長する怪物だ』
田中右宙為の言葉は、言い得て妙だ。
立花希佐は次々と才能という食べ物を欲する。いつだって空腹だ。その空腹を満たしてやり、常に食べ物という才能を供給し続けるだけの実力が、劇団カオスにはあるのかもしれない。
根地の家に呼び出され、立花と関係の深い仲間たちと共に見た《魔物のエクス》──ピオーティアを演じていた立花は、あまりに美しかった。いや、物語の中の時間が経過していくにつれて、徐々に美しくなっていったと表現した方が正しい。
人から愛されることを知らなかったピオーティアが、魔物の王であるエクスと出会い、愛し、愛されることを知っていく。ピオーティアを見つめるエクスの眼差しも、エクスを見つめるピオーティアの眼差しも、互いに演じているとは思えないほどの説得力があった。
『アランは私の命の恩人なんです』そう言う立花は切実な面持ちを浮かべていた。『アラン・ジンデルは、私にとってかけがえのない、大切な人なんです』
それじゃあ、お前にとってのフミさんは何だったのだ──美ツ騎は、瞬間的にそう思ってしまった。大切な人ではなかったのか。かけがえのない人ではなかったのか。恋をしていたのではないのか。
だが、人の気持ちは簡単に移り行くものだということを、美ツ騎は知っている。互いに永遠の愛を誓い合い、共に歩まんと結婚したはずの両親は、いつしか気持ちがすれ違うようになり、呆気なく離婚してしまった。
仕方のないことだ。人の心を鎖で繋ぎ止めておくことはできない。
物語の続きを生きる者と、物語を終わらせた者──この二人の間には、どうしようもない隔たりがある。
誰が悪いのでもない。それなのに、どちらかに偏った物の考え方をしてしまう自分を、美ツ騎は不快に思った。一体どの口が、お前の人生はお前のものだ、などと言ったのだろう。どう生きていくのかは、お前自身が決めて良いだなどと。
立花が幸せそうに生きている。それは喜ばしいことのはずなのに、なぜ、こんなにもやる方ない気持ちになるのか。
すべてを真正面から受け入れてやりたかったのだ。
あのときのように、許すと、言ってやりたかったのに。
「……ああ、そうか」
立花は、許しを得ようとも、許しを乞おうとも思っていないのだ。おそらくは、もう既に覚悟を決めている。その上で尚、平然と振る舞っているのだろう。覚悟を決めた立花は強い。だが、自分本位なところもあった。過剰な自己犠牲は、いずれ己を殺すことにもなりかねない。
もし、本気で日本に帰ってくるつもりがあるのなら、手助けをしてやりたいとは思うのだ。しかし、今の自分は果たして、立花の空腹を満たしてやれるだけの才能があるのかどうか、美ツ騎には自信がなかった。
自らが選んだ道に迷いを覚えている今の自分では、到底助けになどなれるはずがない──美ツ騎はベッドに戻り、スマートフォンを拾い上げる。
先程、パディントン駅で撮影した旅する熊の画像を、無言でSNSにアップロードした。勘の良い二人なら、これだけで美ツ騎の居所を瞬く間に特定するだろう。本来であれば、こちらから連絡をするのが筋なのだろうが、出発前で忙しくしているはずの二人の邪魔をするのは忍びない。言いたいことがあれば、あちらから連絡を寄越すはずだ。
自分からもう休みたいと言い出した手前、ベッドで横になって眠りたいところだが、美ツ騎は妙に目が冴えてしまっていた。飛行機の中で中途半端に仮眠をとってしまったのも、よくなかったのかもしれない。
美ツ騎はベッドに身を乗り上げると、カーテンを引き、からからと窓を開けてみた。どうやら霧が立ち込めてきているようだ。少し離れたところで点灯している、街灯の明かりに照らされた石畳の地面が、湿り気を帯びて銀色に輝いて見えた。
この辺りもまだソーホーなのだろうか──そんなふうなことを思いながら、四月にしてはひんやりとした空気を頬に感じていると、不意に、微かな音楽が聞こえてくることに気づく。ヘッドフォンから音漏れしている程度の大きさだ。おそらく、下のスタジオで流している音が、外に漏れ出しているのだろう。
『二人で秘密の特訓をしてるんだって』劇場で親しげに話をしている二人を横目に見てから、ノアが不満そうに言っていたのを、美ツ騎は思い出していた。『僕たちは本番までお預けなんだ』
『秘密の特訓?』
『アランがね、久しぶりに舞台に立つんだよ』そうして話している間も、ノアは機械のような正確さでキーボードを叩き続けていた。『なんだかんだで完璧主義なところがあるから、中途半端なものは見せたくないのかもしれないけどさ』
『え、でも、魔物のエクスで……』
『ああ、ミッキーも見せてもらったの? あれ、すごくよかったよね』
『実は、ノアもオレも、アランがあんなふうに演じている姿を見るのは、魔物のエクスがはじめてなんだ』壁を背にして座り、膝に乗せた方眼ノートに何事かを書きつけながら、ジェレマイアが言う。『オレたちと出会う頃にはもう舞台を降りて、脚本家として成功していたし』
『あの人、つい最近までは、オールド・イングリッシュ・シープドックみたいな外見だったんだよ。こう、髪がもっさりしててさ、野暮ったいというか、むさ苦しいというか。あんなAPP最大値って顔をしてるのに、服装も信じられないくらいダサくてね』
『APP……?』
『TRPGって知らない? 面白いよ。今度一緒に遊ぼう』
美ツ騎が、こいつは何を言っているのだという表情を浮かべていると、ジェレマイアが顔を上げ、苦笑いを浮かべながら口を開いた。
『長らく裏方仕事に従事してたけど、また表舞台に戻ってくる気になったそうだ。だから、みんなが楽しみにしてる。期待が大きい分、プレッシャーもあるだろうけど』
『あの人はどのくらい表舞台から離れていたんですか?』
『確か、十年になるか、ならないかくらいじゃなかったかな』
『十年も?』
『そうは見えなかったよね』ノアはパソコンの画面に目を向けたまま、小さく肩をすくめていた。『僕たちなんかよりもイライアスやアイリーンの方が詳しいよ。まあ、あの二人は何を聞いても話してはくれないだろうけど』
《魔物のエクス》を見せられた日の帰り道、睦実介と少しだけそのことについて話をした。舞台の世界から離れて久しい美ツ騎よりもずっと、介の目は正しく人の才能を見極めることができるはずだ。
その介が言っていた。
エクスを演じていた男──アラン・ジンデルを指して、相当に出来る役者である、と。ノアとジェレマイアに年齢を問うてみたところ、今年で三十一歳になるという話だ。年齢的には僅かに上だが、ほぼほぼ同世代だと言っても過言ではない。
アラン・ジンデルの名前は、もちろん美ツ騎も知っていた。
斜陽の雲をはじめ、彼が脚本を手掛けた映画は、何本か見ているはずだ。だが、自分にはあまり刺さらなかったのか、はたまた他のことに気が削がれていたのか、内容はほとんど覚えていない。
だが、それ以前に、美ツ騎は頭の中がごちゃごちゃとしていて、酷く混乱していた。
根地黒門が言うには、根地の友人が、立花希佐と劇的な出会いを果たしたということだった。そしてその友人が、立花とアラン・ジンデルが行った二人芝居の撮影をした。
しかしながら、そもそも根地は、脚本家のオンラインコミュニティーで、外国の脚本家から魔物のエクスの原本が欲しいと言われ、用意してやったのだ。その見返りとして、あの映像を手に入れている。
それならば、根地が女性だと思うと言っていたアザレアという人物は、アラン・ジンデル自身なのではないか。だが、エクスを演じている役者のことは、立花と同じ劇団に所属している誰かという認識しかないようだった。
そして、根地はこうも話していた。
『イギリスで立花くんの面倒を見てくれている人が、僕の友人の仕事仲間でね──』
根地の話を聞くだけでは要領を得なかったことが、ここに来てようやく一本の線で繋がりそうだと、美ツ騎は思った。根地が複雑に捉えすぎているだけで、現実は驚くほどに単純なのかもしれない。
一連の話の登場人物は、根地の友人と立花希佐、そして、アラン・ジンデルの三人だけだ。だが、根地の中では、オンラインコミュニティーでやり取りをした相手と、エクスを演じた男と、立花が世話になっている人物が、全員別人という認識なのだろう。
なぜ、あの根地黒門が事態を正しく理解することなく、複雑な物の考え方をしているのかは謎だが、その認識も近々正されるのかもしれない。
「……何事もなきゃいいけど」
美ツ騎はただ漠然と嫌な予感を覚えていた。
そもそも、あの人が飛行機に乗り、海を越えてやってくるというだけで、トラブルの匂いがぷんぷんと漂ってくる。
高科更文のことは人として信頼しているが、同じだけの信頼を根地にも寄せているかと問われれば、返答に困った。もちろん、人としては好きだ。そうでなければ、ユニヴェールを卒業すると同時に縁を切っている。だがしかし、学生時代から現在に至るまで、散々振り回されてきているのだ、全幅の信頼を置いているとは言えないのが、正直なところだった。
それに、なぜそのように感じるのか、明確な理由を説明することは難しいのだが、あの人はアラン・ジンデルと出会わない方がいいのではないかと、美ツ騎は思う。
現実と向き合う必要がある以上、更文は否が応でも顔を合わせるべきだが、根地の場合はまだ日本にいるというのにあの様子のおかしさだ、実際に何をしでかすか分かったものではない。
ここには立花希佐の暮らしがある。それは何年も掛けて立花自身が築き上げてきたものなのだ。美ツ騎をはじめ、根地や更文も、ほんのひととき滞在するだけの客人にすぎないのなら、立花が築き上げてきたものを、たった一つだって壊してはならない。
気がつくと、時刻は真夜中の二時を迎えようとしているところだった。
窓から下を覗き込めば、スタジオの電気が煌々と点っているのが見える。だが、いつの間にか音楽は聞こえなくなっていた。
やはり、もう少しだけでも立花と話しておく必要があるのかもしれない──そう思った美ツ騎は、窓を閉めると、脱いだ靴を履き直して部屋の外に出た。もうこんな時間だ、いくらなんでも、稽古を切り上げる頃合いだろう。
だがしかし、美ツ騎の予想に反して、二人が稽古を切り上げ、二階に上がってくることはなかった。
今日は午前中からずっと他の人の稽古に付き合っていたと聞いている。途中、休憩を挟んでいたとしても、常識的に考えて体は既に疲労困憊のはずだ。
キッチンの椅子に腰を下ろし、立花が上がってくるのを待っていた美ツ騎だったが、時計の針が二時半を過ぎたのを見て、徐に立ち上がった。今日はリハーサル、明日は本番だ。ここはユニヴェールではない。だから、口を挟むべきではないのだ。それでも、今日はもう休めと、あの頃のように言ってやらなければならない。
「あいつ、ユニヴェールにいた頃と何も変わってないんだな……」
三年生が卒業し、二年に進級して、立花は言い知れぬ不安のようなものを感じているようだった。更文から受け取った華を枯らさないように、毎日夜遅くまで稽古をして、水を与え続けていた。
「おい」深夜も深夜、夜更けも夜更け、非常口の緑の光だけが灯るクォーツの稽古場で、毎夜のように立花は踊っていた。「もうその辺にしておけよ」
「白田先輩……」
大きく息を乱し、大量の汗を流しながら、立花は美ツ騎を振り返った。
暗闇がそのように見せていたのだろうか。はたまた、窓から差し込む月光の悪戯だろうか。その頃にはもう、稀代のアルジャンヌの片鱗があった。立花希佐は、満月の夜に咲く月下美人のように、美しかった。
「稽古熱心なのはいいことだ。でも、水の与えすぎで華が枯れることだってある。根腐れを起こすぞ。少しは休め。お前はクォーツの顔だけど、僕たちだってただのお飾りってわけじゃない。もっと頼ってくれていいんだ」
あの頃、不安な気持ちを抱えていたのは、自分も同じだった。
だから、立花の気持ちは痛いほど理解しているつもりだった。それは文字通り、つもりでしかなかったのだろうが。
急な階段を降り、僅かな動線しかない事務室に足を踏み入れると、開け放たれたドアの向こう側から、鋭い光が差し込んでいるのが見えた。音楽は聞こえないが、靴の底が木の床で擦れる音と、話し声が聞こえてくる。
『今のところ、もう一回やってみよう』
美ツ騎は辺りのものを踏み散らかさないように気をつけながら、事務室の中を進み、影の中からスタジオの方を覗き込んだ。
二人はカウントを取りながらペアダンスを踊っていた。それも、筋肉の震えが出るほどの、非常にゆっくりとしたテンポだ。何度も何度も、同じ振り付けを試みては、対話を繰り返している。
『ここ』アランがそう口にすると、二人は動きをぴたりと止め、鏡に目を向けた。『もう少し踏み込みたい』
『どのくらい?』
『あと十センチ──いや、十五センチ』
『分かった』立花はそう応じると、自分の背中に回されている腕を、腰の方に誘導する。『手の位置をあと三センチ下げて──そう、そこ』
二人は、ほんの数秒程度の振りを、何分も掛けて事細かに確認し合っていた。今日の昼にはリハーサル、明後日には本番──これは、現段階で行うべきことではないはずだ。
『じゃあ、もう一度最初から』
ある程度確認し終えると、二人は呼吸を整え、また最初から踊りはじめる。ゆっくり、ゆっくりと、一つ一つの動きを、細か過ぎるほどに確かめ合いながら。
このとき、二人は曖昧な表現を一切使用しなかった。歩数、歩幅、角度などをすべて数値化し、互いに正しく記憶していた。一度目よりも二度目、二度目よりも三度目に踊っているときの方が、明らかに美しく見える。
「──表現力にも磨きが掛かっていた。歌については俺が言及するまでもない。ダンスは少し辿々しさがあったようだが、そういう演出だったのかもしれないな」
二人が演じた《魔物のエクス》を見て、介はそのように評していた。ダンスには辿々しさがあると。美ツ騎もあれは演出なのだろうと考えていたが、現に二人が踊る姿を見て、どうやら違うようだと確信する。
個々のダンスの技術は文句のつけようがない。それなのに、どこか妙に不自然なのだ。何かが噛み合っていないと感じる。
しかし、二人が言葉を交わし、議論を重ねるたびに、それが一つずつ改善されていく。ばらばらだったパズルのピースが正しい位置に収まるように、完成形へと近づいていく。それぞれが思い描く理想の形が分からずとも、それぞれの言葉で伝え合い、唯一のものを作り上げようとしている。
『今のはいい感じだったね』
『ん』アラン・ジンデルは、床に落ちているタオルを拾い上げ、それで顔と首元の汗を拭いながら、壁の時計に目を向けていた。『そろそろルイに送る動画を撮って終わりにしよう。時間的にも限界だ』
『そうだね。今送れば、ルイからの返事が届くまで──あと三時間くらいはある。一旦寝て、残りのことは目が覚めてから考えようか』
立花はそう言いながら、鏡張りになっている壁の前にパイプ椅子を広げ、そこにスマートフォンを設置していた。アランはそこに歩み寄っていくと、立花の後ろにしゃがみ込み、細い肩に自らの頭を預ける。
『……ごめん』
『え?』
『こんな面倒臭いことに付き合わせて』
『私は一度だって面倒臭いなんて思ったことはないよ、アラン』立花はそう言うと、汗で雨に濡れたようになっているアランの髪を、くしゃくしゃと撫でた。『毎日が楽しくて仕方ないんだ』
『そう』
『うん』
美ツ騎は見てはならないものを目にしているような気がして、咄嗟に視線を逸らした。自分は盗み見をするためにここまで降りてきたのではない。引き換えそう。部屋に戻って早く休もう。立花はユニヴェールの後輩だが、もう自分の助言も、手助けも、許しも、必要とはしていないのだ。
ああ、自分はきっと、寂しいのだ──そう美ツ騎は思った。
自分を慕ってくれていた、あの可愛い後輩は、もうどこにもいない。もう少し自分を頼ってくれるだろうと想像していたのに、その予想はあっという間に挫かれてしまった。
自分は一体、何を期待していたのだろう──そう思いながら踵を返したとき、耳に飛び込んできた歌声を聞き、美ツ騎は引力に引っ張られるようにして、後ろを振り返ってしまった。
途端に、ぶわり、と全身に鳥肌が駆け抜ける。
心拍数が一瞬のうちに上昇し、頬が興奮で上気した。
何十人、何百人、下手をすれば何千人という人間の歌声を聞いてきた。この人には絶対に敵わないという敗北感を覚えることは度々ある。だが、そこには確かな悔しさがあって、美ツ騎はいつだってそれを糧にして、足を前に進めてきた。
自分には歌がある。
歌さえあれば。
歌がなければ。
自分から歌を取り上げたら、後には何も残らない。
これがなければ、生きる意味もない。
歌があったからこそ、こうして生きてこられた。
歌と共に歩んできた人生だった。自分は歌に愛されている自信があった。だって、自分は歌をこんなにも愛しているのだから。
「……」
絶句した。言葉もない。完敗だ。嫉妬することすらおこがましい。
その歌声は、自分が理想とする歌声の、その先にあるものだと、美ツ騎は思った。
再び、事務室の影の中から、恐る恐るスタジオに目を向ける。
音楽はない。アカペラの歌声と、靴の裏が床を擦る音、そして二人の息遣いだけが、そこにあった。
稽古は連日連夜行われていた。
何年か前までは鈍足で進んでいたはずの時間が、ここ数年になって、瞬く間に過ぎ去っていくのを、アラン・ジンデルは確かに感じ取っている。
夜毎の稽古を納得して終えたことはない。常に時間に追われている。いや、時間はとうに自分を追い抜き、置き去りにして、遥か彼方遠くまで行ってしまっているのだろう。時間が足りないのだ。
希佐と稽古をするにあたって、ルイに言われたことがある。
『いいかい? 君もよく知っていることだとは思うけれど、彼女は絶対に自分からは稽古を切り上げない。夜に稽古をするのは構わないよ。でも、最悪三時までだ。三時になったら、必ず君の口から、稽古を切り上げると言ってくれ。納得がいかない状態でも、絶対に終わらせること』
『もし楽しくなってきたら?』
『まさか』ルイはそう言うと、嘲笑するように鼻で笑った。『今の君たちでは、まだその域に達することはない』
確かに楽しくはない。むしろ苦痛だ。よくこんなことに根気よく付き合ってくれるものだと、アランは感心している。
現段階でダンス中に意思の疎通を図ることは困難だと判断した二人は、全員を帰らせたあと、がらんどうとしたスタジオの真ん中に顔を突き合わせて腰を下ろし、ルイを交えてすぐに打開策を練った。
『そう暗くなる必要はないよ。感覚で踊る人間と感情で踊る人間の間では、それこそ良くあることだ。何も珍しいことじゃない』ルイは小腹が空いたと言って、プロテインバーの袋を破きながら続けた。『キサとイライアスが現状うまくいっているのは、イライアスが我を抑えているからだ。言い換えれば、彼は君に遠慮している。それはキサ自身も感じ取っているよね』
『はい』
『パートナー間に歴然とした実力の差がある場合、実力ある者が、未熟な者に合わせるしかない。多くの場合、これによってフラストレーションが溜まるものだ。でも、君たちの間には、互いに対するリスペクトがある。互いに相手を尊重し合うことで、今の素晴らしい関係が成り立っている』
ルイはプロテインバーを一口頬張ると、もぐもぐと時間を掛けて咀嚼していた。まるで勿体ぶっているようなその様子を見ていた希佐とアランは、一度顔を見合わせてから、再びルイに視線を戻した。
『キサは感情のまま、自由気ままに踊りすぎる。今まではイライアスがそれに合わせてくれていたけれど、アラン相手にはあまりに無謀だ。アランはアランで自分を曲げようとしないからね。この場合、二人の気持ちが衝突し合う以上に、別々の方向を向いてしまっていることの方が大問題だ。今必要なのは、二人が同じ方向を向くことと、互いの思考を細部に渡るまで擦り合わせ、理解し合うこと』
今度はペットボトルの蓋を開け、残りの水をごくごくと飲んでから、ルイは先を続けた。
『疑問や違和感を覚えたら、とにかく意見の交換をしなさい。このとき、絶対に感情的になってはいけない。曖昧な表現を使うのもよくないよ。時間は有限だ、痴話喧嘩をしている余裕はない。それを忘れないように』
実際、ルイの助言は非常に役立っていた。
当初は、各々が無理に我を通そうとしたり、それに失敗して相手に寄り添おうとしてみたりと、一向に方針が定まらなかった。だが、互いの感情論を並べ立てているだけでは、この問題は解決しない。
「肝心なのは、私たちが何を思って演じるかじゃない」額に珠のような汗を浮かばせながら、酷く真剣な面持ちで希佐が言った。「これを見るお客様が、どう思うかだよ」
すべての準備が整っている希佐に対して、アランは未だ、現実を前にしてまごついている。
イベント当日が近づくにつれて、少しずつ体が硬くなっているような気がするのだ。アランがそう口にすると、希佐は驚いたように目を丸くした後、やわらかく、穏やかな表情を浮かべて、こう言った。
「大丈夫、私が隣にいる。手を握っていてあげるから」
どうやらこれが緊張というものらしい。
日に日に体が硬くなると言ったアランを見て、バージルは腹を抱え、大笑いをしていた。
「お前、そりゃただの緊張だろ。体が強張ってるんだ。本番までによーく解しておくことだな」
「……キサは笑わなかった」
「さぞかし優しい言葉をかけてくれたんだろうよ」
そうして、はじめこそにやにやと笑っていたバージルだったが、自らの軽口に少しも言い返してこないアランを見て哀れに思ったのか、悪かった、と謝ってから言葉を続けた。
「お前、前に舞台に立っていたときは、緊張したりしなかったのか?」
「緊張する理由がなかった」
「ほう?」
「いつもすべてが完璧な状態で舞台に立ってた」
「そうか」バージルは神妙な面持ちを浮かべて相槌を打ったかと思うと、近くから椅子を引きずってきて、アランの隣に腰を下ろした。「お前は今、自分がまだ完璧な状態ではない、完璧とは程遠い場所にいると、そう思っているわけだな?」
「多分」
「不安か?」アランは三秒ほど思案してから、首を横に振る。「じゃあ、お前はキサと一緒に、あの舞台の上に立っている自分の姿を、想像できているか?」
今の自分が舞台上に立つ姿など、微塵も想像することができない。頭の中に浮かぶ舞台上の自分はいつだって、子供の頃の姿をしている。
返事をしないアランを見て、バージルはすべてを察したようだ。小さく唸り声を上げ、頭を掻きながら、加斎たちと昼食を共にしている希佐の方を見やる。
「あいつは本当にすごいやつだよ」心の底からそう思っていると分かる声音で、バージルが言った。「あのアラン・ジンデルを、こんなところまで連れて来ちまったんだから」
「俺だって、今更誰かの背中を必死になって追いかけることになるとは、正直思ってなかったよ」
「誰かの背中を追いかける、ねえ」バージルはそう言うと、希佐に向けていた視線をこちらに戻した。「キサはお前の前を歩いてるなんて、これっぽっちも思ってねぇだろうけどな。まあ、お前が舞台に立っていたのは、もう何年も前の話だ。今の自分が大勢の客の前で、飛んだり跳ねたりする姿を想像しろと言われたって、そりゃ難しいことなんだろうよ」
「俺一人が失敗するなら構わないんだ」
「自分が失敗してキサに恥を掻かせるのが怖いってか?」ふん、とバージルは鼻で笑う。「あいつがそんなことを気にするかよ」
「彼女に幻滅されることの方が恐ろしい」
「それこそ杞憂だろ」
「殺してくれと言われた」
「は?」
「あなたの才能で、私を殺して」アランは自らの首を指先で触れながら、静かに言う。「俺は彼女を殺さなければいけない」
「……お前ら、大丈夫か?」
「俺もどうかと思うけど」
ぎょっとしたような顔をしているバージルを見て、それが当然の反応なのだろうと、アランは思った。改めて口に出してみると、酷く物騒な話だ。この感覚は、万人には理解されない。
「キサはこの国ですべてを終わらせたがってる」
「お前があいつを終わらせてやるってか?」
「彼女はそれを望んでる」
「十中八九、無理だろうな」バージルは長い足を体の方に引き寄せ、タップシューズについた埃を払いながら言った。「少なくとも、今のお前にゃ、あいつの息の根は止められねぇよ」
「分かってる」
「そもそも、お前の才能は、あいつを殺すためじゃなく、生かすために注がれてきたはずだ。枯れそうだった花に水を与え続けてきたのはお前だろ。お前の生み出す世界があいつを救った。だったら、今までと同じ方法じゃ、あいつを殺すことは不可能だってことも、もちろん分かるよな?」
「うん」
「あいつの望みはなんだと思う?」
俺なんかよりも、お前の方がよく分かってるだろ──バージルはそう言いながら立ち上がり、アランの肩を軽く叩いてから、希佐たちがいる方へと歩いていった。アランがそちらに目をやれば、バージルの背中越しに希佐と目が合い、にこりと微笑みかけられる。
自分は、この最愛の人を殺し、同時に、生き残る可能性を見せてやらなければならない。どんなに強く願ったところで、最期の選択はいつだって、本人の意思に委ねられている。
もし、自分が手掛けてきたものの中で、これだけは誇れるものだと胸を張れる作品があるとすれば、斜陽の雲だけだと、そう思っていた。
だが今は、あの耳の聞こえない青年と、目の見えない少女の物語が、心の中にある重く冷たい、鉄の扉の向こう側から、激しくノックをしているのを感じるのだ。早く、この暗い場所から、外に出してくれと。
稽古終わりに撮影した映像を確認し、ルイ宛に送信すると、二人はいつものように順番に風呂に入る。今日は希佐を先に入れさせ、アランがキッチン周りの後片付けをしているとき、テーブルの上に置いていたスマートフォンが振動した。
画面に表示された名前を一瞥して小さく息を漏らしてから、アランは濡れた小指の先で、通話とスピーカーのボタンを押す。
「今何時だと思ってるの」
『君こそ、本番前日だというのに、夜更かしをしていて構わないのかい?』
「こんな非常識な時間に電話をかけてくる酔っ払いには言われたくない」
『おや、分かるかい? 実はスタッフをアメリカに帰したんだ。まだまだ膨大な量の編集作業が残されているけれど、撮影は大方終わったからね』
「例のシーンは?」
『あれについては考えないようにしているよ。女優は切った』
「そう」
『僕としては、あの役をキサにお願いしたいと思っているのだけれどね』
「無理だ。彼女は役者として不利な契約に縛られている」
『彼女にとって不利になると分かっていたのに、そんな契約を結ばせたのかい?』
「契約に伴うリスクの話はした。それでも、死に物狂いで獲得した役を人質に取られてしまったら、役者は了承するしかない。特に彼女は無名の役者だから、安く買い叩かれることになるのかも」
『何事も交渉次第だと思うけれどね。僕ならキサに五十万ポンドは出せる』
「レオが言うと冗談に聞こえない」
『もちろん、冗談ではないよ』
「プロデューサーを紹介しようか? あなたの嫌いなクロエ・ルーでよければ、今すぐにでも」
『誤解をしてほしくないな、アラン・ジンデル。僕は彼女を嫌いなわけではないんだ。僕好みではないというだけのことだよ』
レオナール・ゴダンは、アラン・ジンデルとクロエ・ルーの関係性を知らないはずだ。少なくとも、アランの口から話して聞かせたことはない。二人の間にはちょっとした因縁があるらしく、ゴダンはクロエの名前が話題に上ると、いつも「彼女を嫌いなわけではない」と言い訳をする。
そのまま酔っ払いの話に付き合ってやっていると、希佐が濡れ髪のままバスルームを出てきた。すぐにアランが電話で誰かと話しているのを察し、物音を立てないようにしながら、キッチンまで水を飲みにやってくる。
「レオだよ」
「えっ?」希佐は冷蔵庫の脇に置いてある水のペットボトルを手に取り、こちらを振り返った。「こんな時間に?」
『やあ、キサ』
「こんばんは、レオ」美ツ騎のことを気にしているのだろう、希佐は小さな声でそう応じている。「こんな時間にどうされたんです?」
『スタッフがみんなアメリカに帰ってしまってね』
「ミシェルさんからお聞きしました。寂しくなりますよね」希佐はアランの隣に腰を下ろし、眉尻を下げながらスマートフォンに向かって話しかけていた。「イベントにも是非お越しいただきたかったのですが」
『とても残念がっていたよ』
どの口がいけしゃあしゃあと言ってのけるのだ──アランはテーブルに頬杖をつき、心底呆れながら、小さくため息を吐いた。
彼女らは帰ったのではない、帰されたのだ。寂しくなるどころか、ワインの量に文句をつける口煩い助監督がいなくなり、内心では喜んでいるに違いない。
『今、個展に展示する写真を選んでいたところなんだ』
「会場が決まったんですか?」
『ホワイトチャペル・ギャラリーを借りられることになったよ』
「ロンドン塔がある東の方のギャラリーですよね?」
『行ったことがあるのかい?』
「中に入ったことはありませんが、目の前を通りかかったことなら」
『近所に美味しいトルコ料理の店があるんだ。今度一緒にどうかな』
「はい、是非」あ、でも──希佐はそう言いながら、軽く口元を押さえた。「ダイアナに怒られませんか?」
『では、彼女も一緒に』
どうやらゴダンは、希佐にとって誠実で気の良い人間のままでいたいらしい。絶対に嘘は言わない誠実さと、都合の悪いことには口を噤む狡猾さを兼ね備えているこの人物のずる賢さなど、希佐は間違いなく見抜いているはずだが、あの一週間の共同生活を経たことで、見て見ぬ振りをすることを学習したのかもしれない。
『そうそう、君の写真の現像も終わっているから、時間があるときに見においで』
「はい、アランと一緒に伺います」
このままでは朝日が昇るまで話し込みそうだと判断したアランは、もう寝る時間だと言ってスピーカーを切り、スマートフォンを自らの手に取り上げて、耳元にあてがった。
『チャリティーイベントを楽しみにしているよ、アラン』
「当日は誰も構えないと思うけど」
『いいんだ、友人と一緒に行くからね』
「そう」
『その友人というのは誰だ、とは聞かないのだね』
「レオを信じてるから」
『おや、随分嬉しいことを言ってくれる』電話口の向こう側で、ゴダンは本当に嬉しそうに笑っていた。『その信頼を裏切らないように気をつけよう』
通話を終わらせてすぐ、アランはその足をバスルームに向けると、ぬるくなった湯に身を浸しながら念入りにマッサージを行った。湯船の外に出るのも億劫で、バスタブの中で髪を洗い、湯の中に潜って泡を洗い流す。
長いブランクのせいなのか、ただ単に年齢的な問題なのか、なかなか昔のような体力が戻らない。故に無理を重ねてしまうのだが、体は疲れているのに、相変わらず眠りが浅いのも、疲労を溜め込む理由の一つなのだろう。
主治医から睡眠薬を処方されてはいるものの、極力服用しない旨は伝えてある。あれを飲むと、決まって悪夢を見るのだ。だが、悪夢を見るからと服用を避け続けていれば、いずれ体にはガタが来る。
バスタブの湯を抜き、タオルで水気を拭った体に服を着せてやると、アランは体を引きずるようにしてバスルームを出た。片っ端から電気を消してまわり、よく冷えたペットボトルの水を冷蔵庫から取り出して、部屋に向かう。
ドアを開けると、椅子に座り、机に向かって何かを書いている希佐の背中が見えた。肩越しに振り返った希佐は、髪から水滴をしたたらせているアランを見て、椅子から立ち上がる。
「髪を乾かしてあげるから、ここに座って」
そう言ってアランをベッドに座らせた希佐の髪は、すっかり乾いていた。乾いたばかりの髪をふわふわと揺らしながらベッドに上がり、アランの背後で膝立ちになって、ドライヤーのスイッチを入れる。
温風が髪を乱すのに合わせて、希佐の手の平、そして指先が、頭を撫で、髪を梳く。毛繕いされる猫はいつもこんな気持ちなのかもしれない。ぼんやりとした意識の中、あまりの心地良さに目を閉じていると、時間は瞬く間に過ぎ去ってしまった。
「はい、おしまい」
「ありがとう」
「どういたしまして」
Anytime──希佐はそう言うと、アランの後ろ頭に軽くキスをしてから、ベッドを降りた。そのまま横に倒れ込むアランを見て笑い、再び机に向かって腰を下ろした。
「これを書いてしまいたいから、先に寝てていいよ」
希佐は日本を出たその日から、毎日毎日、日記を書き続けているという。まるで誰かに宛てた手紙を綴るように。五年分の記録を記したノートは、希佐の部屋の本棚にびっしりと収められている。
今日は書くことが多いのか、ペンを走らせる手はほとんど止まらない。
希佐は、見るからに眠たそうに、ゆっくりとまぶたを上下させていた。ときどき眠気に負けて、うつらうつらと船を漕いでいる。
「キサ」
「うん」
「おいで」
「んー、もうちょっと……」
ぼんやりとした声でそう言い、また何行かの文章を書き連ねてから、希佐は握り締めていたペンを置いた。ふう、と一息吐きながらノートを閉じ、椅子から立ち上がる。
アランが布団を持ち上げてやると、希佐はすぐに、ベッドの中に転がり込んできた。既に半分寝ぼけたような状態で、アランの胸元に顔を埋めたかと思うと、冷えた足を絡めてくる。
アランはたまらなくなって、希佐の体を腕の中にすっぽりと包み込み、そのままそっと抱きすくめた。
「……一緒に寝るの、久しぶりだね」
「ん」
「明日の朝、起きられるかな」
「俺が起こすよ」
「アランもちゃんと眠って」
シーツの上に広がる髪を手の平に掬い上げ、それを指先に絡めて遊ばせていると、希佐が胸元に埋めていた顔を上げた。こちらを見上げてくる眼差しに応えれば、頬に手の平を添えられる。
「無理をしてない?」
「してる」苦笑いを浮かべる希佐を見て、アランは続けた。「今はそれが心地良いんだ」
終わりに向かって歩いている。もしかしたらこの道は、断頭台に続いているのかもしれない。そんな恐怖は常に感じているが、それでも、この女性と一緒なら、何も恐ろしくないと思えた。
バージルにも話した通り、大勢の観客の前でしくじることよりも、この女性に幻滅されることの方が、ずっと恐ろしいのだ。
最善を尽くすだけでは足りない。
この琥珀色の双眸を一際輝かせ、自らの死の向こう側にある希望を見せてやるためには、充分に頑張ったなと褒められる程度の評価では足りない。だが、奇跡よ起きろと、他人任せにするつもりも、毛頭ない。
死力を尽くす。
それは、誰に言われたからでもない。
アラン・ジンデル自身が、そうしたいと望んでいる。
何の疑いもなく向けられる眼差しに引き寄せられるようにして、アランはただ静かに、希佐の唇に自らの唇を寄せた。
あと何度、こうして唇を重ね合うことができるのだろう。同じベッドで朝を迎えることができるのだろう。たわいない話をしながら、冗談を言い合ったり、笑い合うことができるのだろう。
手放す覚悟は決めている。
だが、その準備は未だ、整っていない。
僅かに開いた唇の隙間に舌を這わせると、希佐はアランの首に両腕を回してきた。希佐の浮いた背中をベッドに押し付け、自分を見上げる眼差しを、アランは真上からまっすぐに覗き込む。
「I love you,Rafa」掠れた囁き声が言った。「I will always love you.」
切なそうに愛を囁かれ、その名前を呼ばれるたびに、酷い眩暈を覚え、くらくらとしていることを、希佐は知らない。衝動に任せて抱き潰してしまいたいと思うが、頭の隅に居座る冷え冷えとした理性が、それを許さなかった。
希佐の優しさにいつまでも甘え続け、自分の我儘に付き合わせてしまえば、間違いなく不幸になる。
自分は違うと否定しても、この体には、あの女の血が流れているのだ。絶対に同じ過ちは犯さないと、そう言い切ったとしても、自らの選択に自信を持てないのであれば、リスクを犯すべきではない。
たとえ誰が相手でも、その考えは変わらないだろう。
アランは希佐の額にキスをすると、その体を強く抱き寄せる。首元に顔を埋め、普段よりも高い体温を包み込み、震える呼吸をゆっくりと吐き出した。
「俺も」しがみつくような希佐の両腕を感じながら、アランは言った。「この先もずっと、君を愛してる」
翌朝、いつもより一時間遅く目を覚ませば、アランの腕の中にはまだ希佐の姿があった。いつもなら朝のルーティンをこなしているはずの時間帯だ。久しぶりにすとんと寝落ちてしまい、起こしてやることができなかった。
「キサ」アランは希佐の肩に手を置き、声を掛ける。「ごめん、寝坊した」
「……ん、何時?」
「七時五分前」
希佐に慌てる様子はなかった。もしかしたら自らの意思で、朝のルーティンよりも、ここのところ不足している睡眠時間を優先したのかもしれない。
希佐はゆっくりとその場に起き上がり、ぐっと大きく伸びをしてから、アランに向かって穏やかに微笑みかけてくる。
「おはよう、アラン」
まだ横になっているアランの方に身を傾け、希佐はそばかすの散った頬に、そっと触れるだけのキスをした。
「あ、そうだ。白田先輩の朝ごはん、どうしよう……」ふわ、と欠伸を漏らしながら、希佐は長い髪を適当に結い上げている。「アランもお味噌汁を飲む?」
「うん」
「校長先生が送ってくださったお魚の干物がまだあったはずだから、あとはパックのご飯をレンジで温めて、卵は、えーっと」
まだ寝惚けて見えるその様子を目の当たりにして、アランは思わず口角を持ち上げた。ふ、と微かに声を漏らし、目元を擦ろうとしている希佐の手を軽く握る。
「俺がやっておくから、君はもう少し寝ていてもいいけど」
「先輩が来てくださっているのに?」
それは良くないよ──そう言った希佐は、素足のままベッドを降りると、ショート丈のパンツに、元々はアランのものだったトレーナーを着たそのままの格好で、部屋を出て行ってしまった。
一見すると、あからさまに情事後の朝を連想させる姿だが、きっと今は、そこまで頭が回っていないに違いない。
希佐に続いて起き上がったアランは、そのまま軽くストレッチをしてから、ベッドを整えて部屋を出ていく。中途半端に眠ったせいで、今のところは思考が鈍足に回っているが、不思議と体は軽かった。
部屋のドアを開けると、正面にあるキッチンに立った希佐が、忙しく朝食の支度をしている後ろ姿が見えた。ワンピースのようにも見えるトレーナーからは、よく引き締まった足がまっすぐに伸びている。右へ、左へと動くたびに、無造作に結い上げた髪の後毛が、ふわふわと揺れていた。
アランはドアに寄り掛かって希佐の後ろ姿を堪能していたが、そろそろ指摘してやった方がいいだろうと思い始めた頃、希佐の部屋の扉が内側から開かれる。
希佐の部屋の中から、既に身支度を整えて出てきた白田美ツ騎は、不意に聞こえてくる鼻歌の方向に目を向けた。そこには、機嫌良く朝食の支度をしている希佐の姿がある。美ツ騎は途端に眉を顰めるが、すぐに仕方がなさそうな面持ちを浮かべると、こちらに目を向けてきた。
アランはその眼差しに向かって僅かに頭を傾けてから、希佐の背中に向かって声を掛けた。
「キサ」
「なに?」
「ミツキが起きたよ」
「えっ、本当?」希佐は専用の網で焼いている魚の具合を確かめてから、自分の部屋の方に目をやった。『おはようございます、白田先輩』
『……おはよ』
『朝食の支度をしているので、もう少し待っていていただけますか?』
『僕、朝ごはんはほとんど食べないんだけど』希佐の格好には口を噤むことにしたのか、美ツ騎はそう言いながらキッチンに足を向ける。『……魚?』
『校長先生が日本から送ってくださったアカムツの干物です。お麩のお味噌汁もありますよ』
『こっちに来てまで日本食を口にするとは思わなかった』
『お米はパックご飯しかなくて申し訳ないのですが』
希佐は料理の手際がいい。ほとんど自炊などしてこなかったアランが真面目にキッチンに立つようになったのは、ここ最近のことだ。希佐と出会う前は、寝食には特に関心がなく、起きて呼吸をするのに必要な、最低限のカロリーを摂取するだけの食生活を送っていた。
世話になっていた義兄の家を離れ、このスタジオで暮らすようになって、ますますまともな食生活からは遠のいていたが、周りが体の心配をして、あれこれと差し入れてくれていた。
食べることは、生きることに直結している。眠ることもそうだ。
生きることに辟易していたアランにとって、食事はただの面倒な作業でしかなかった。だが今は、希佐と一緒に食事をすることを、心から楽しく感じている。
「午後からのリハーサルには間に合うと思うけど」希佐を手伝って食事の支度をしながら、アランは言った。「今日は十一時からカウンセリングがあるから」
「大丈夫、ちゃんと覚えてるよ」
「そう」
「午前中はどうするの?」
「ヘスティアに顔を出してから行く」
レンジで温めたパックの白米を取り出し、それを器に取り分けていると、アランは不意に、首筋の辺りに視線を感じた。湯気の立ち上る器をテーブルに置くついでにそちらを見遣れば、姿勢良く椅子に腰を下ろしている美ツ騎と目が合った。
「なに」
「あの、いえ」美ツ騎が反射的に視線を逸らすので、アランもすぐに背中を向ける。「あの、Mr.ジンデル──」
「アランでいい」アランがそう言うと、マグに味噌汁を取り分けていた希佐が、くすりと笑った。「どうかしたの」
「……明日のイベントでは、あなたもステージに立つんですか?」
「その予定だけど」
「そうですか」質問の意図が分からず、アランが内心で眉を顰めていれば、美ツ騎は続けた。「昨夜、少しだけ二人の稽古の様子を盗み見てしまいました。すみません」
「えっ、そうだったんですか?」
驚いたという顔をして希佐が言う。この様子では、どうやら本当に、美ツ騎の視線には気づいていなかったようだ。
「稽古の見学ならいつでもどうぞ」
「だけど、ノアは二人が秘密の特訓をしているって」
「あいつらがいるとうるさくて集中できないから、そう言っておいただけ。別に秘密でもなんでもない」
テーブルの上に食事が揃う。希佐は先に座っていたアランの隣の席に着くと、美ツ騎に向かって「どうぞ、召し上がってください」と言ってから、いつものように『いただきます』と両手を合わせていた。
「食べきれなければ、残していただいて構いませんので」
いつもなら、この時間を使ってルイから届いているダメ出しを確認し、自分たちのダンスを精査するのだが、今日のところは後回しにせざるを得ない。
「あの」
味噌汁を啜っている希佐と、アカムツの骨を外しているアランを交互に見てから、美ツ騎は再び声を上げた。
「今日も一日、見学をさせてもらってもいいでしょうか」
「いいけど」アランは希佐と顔を見合わせてから、美ツ騎を見る。「実は、人手が足りないんだ。だから、手伝ってもらうことになるかも」
「僕にできることなら」
「じゃあ、当日ステージに立ってみる?」
「……え?」
「昼の部なんだけど、仕事の都合で来られなくなった出演者が何人かいて、夜の部の出演者から何人か穴埋めを用意してほしいと言われてる」
「いや、でも、僕は……」
「昨日の今日で頼むのは自分でもどうかしてると思うけど」
「アランは白田先輩の歌声が大好きなんですよ」希佐は、ふふふ、と笑いながら嬉しそうに言った。「ビザを取得する都合で、ユニヴェールから私の資料や、出演した舞台映像を送っていただいたのですが、それを見てからというもの、アランは白田先輩の歌声にご執心で」
「キサ」
「時々、鼻歌で淡色を歌っています」テーブルの下で軽く足を蹴ってやると、希佐はますます機嫌良く笑う。「私も、白田先輩の歌をお聞きできたら嬉しいです」
美ツ騎は形の良い目を見開き、心底驚いているというふうな表情で、アランのことを見ていた。
確かに、舞台映像でオー・ラマ・ハヴェンナを初めて観たときからずっと、泡色が好きだった。あの美しくて、優しい、穏やかで、しんしんと降り積もる淡雪のような儚い歌声が、一音節ずつ折り重なっていくあの感覚が、何より心地良かった。二人の声質と、日本語の歌詞のやわらかさが、存分に生かされた楽曲だと感じた。
あの歌が耳に心地良く聞こえるのは、おそらく濁った音が必要最低限に留められているからなのだろう。作詞家が意図して行ったことに違いない。まるで和歌のように洗練された美しさがある。
「返事は当日の朝まで待つよ」
「僕が断った場合はどうするんです?」
「他の誰かがチャンスを得るだけだ」
「チャンス……?」
「ヘスティアのステージに立ちたがっている人間は大勢いる」
食事を終えてようやく、希佐は自身の格好を顧みたらしい。トレーナーの裾からすらりと伸びた両足を見下ろして、あはは、とごまかすように笑うと、着替えてくると言って小走りで部屋に駆け込んでいった。
朝食の後片付けを申し出た美ツ騎は、白いシャツの袖を捲り上げ、黙々と食器を洗っていた。アランはその隣に立つと、洗い終えた食器を清潔なタオルで拭い、食器棚に戻していく。
「こっちにはどのくらい滞在するの」
「一週間くらいを予定してました」
「そう」アランは手を出し、洗い終わったばかりのマグを受け取る。「ホテルの予約は取れた?」
「フミさ──ユニヴェールの先輩が今日ロンドンに来るのですが、事情を話したら、予約してある部屋の一つを使っていいと言われました」
「どこのホテル?」
「確か、ミミズホテルって」
「ああ、ここから近いな。ソーホー劇場の近所だ。あのホテルがあるフリス・ストリート沿いには、ロニー・スコットっていうジャズクラブがあるから、気が向いたら行ってみるといい。質の良い生演奏が聴ける」
「行ってみます」
「ロンドンにいて何か困ったことになったら、ヘスティアのメレディスを頼れば、大抵のことはなんとかなるよ。俺がそう言っていたと言えば、無下にはされないはずだ。ここを訪ねてきてもいいけど、いつでもいるとはかぎらないから」
「優しいんですね」カトラリーを引き出しの中に戻しているアランを見て、美ツ騎はどこか皮肉っぽく言う。「全部、立花のためですか?」
「どうかな」アランはそう言って肩をすくめると、食器棚の引き出しを閉めた。「人に言わせると、俺は意外と世話焼きらしい」
「今日、日本から来る二人は、立花にとっては特別な二人なんです。もちろん、僕にとっても」
「知ってる」
「一人は立花の恋人です」美ツ騎は勢いに任せてそう口にしてから、少しだけ後悔するような表情を見せた。「すみません。でも、僕は今でもそう思ってます。自然消滅なんて出来っこない二人ですから」
「それも知ってる」平然と言うアランを見て、美ツ騎はあからさまに訝しんでいた。「彼女と出会ったあの日から今日までずっと、俺は彼女の過去から目を背けたことはないし、それは明日になっても変わらない」
来るべき日が来たのだと、そう感じているはずの希佐と同じように、アランもすべてを受け入れるつもりだ。夜、夢の中で、希佐が「フミさん」と呼ぶ声を何度も聞いた。それを許せないと思ったことはない。過去の延長線上に今がある。ただ、それだけのことだ。
「誰かが彼女を日本に連れ戻そうとしたときに、彼女がそれを受け入れるのなら、俺は喜んで彼女を見送る。彼女が、君が言うところの恋人の隣に帰ることを望むなら、俺はそれで構わない。それに、キサと俺は、君が考えているような関係じゃない」
「それはどういう意味ですか?」
「彼女は俺にとって誰よりも大切な人だ。でも、お互いに恋人と定義する関係でありたいと望んだことはない」
「……なんですか、それ」美ツ騎は半ば絶望したような声を出した。「そんなの、あんまりじゃないですか」
確かに、あんまりだと思う。
こうして一緒に暮らしているのに、寝食を共にしているのに、数え切れないほどの愛を囁き合っているのに、この身も心も相手のものだと言葉にしているのに、恋人などではないと言う。
だが、美ツ騎があんまりだと言っているのは、おそらくそういう意味ではないのだ。
「そんなの、割って入る隙はないって言ってるようなものですよ」
自分と希佐との関係を言い表すとき、必ずしも恋人同士が適切ではないと、アランは早い段階から考えていた。
そもそも、自分は恋人を必要としてはいなかった上に、希佐をその定義内に収めるためには、あまりに歪な感情を抱いてしまっていたのだ。最初から、いずれ手放す存在であるという前提があったが故に、ただ立花希佐の寄る辺であることを望んでしまっていた。
その人を愛し合っていることと、恋人や伴侶であることは、イコールではない。愛し合っているからといって、互いを恋人として自認する必要もない。恋人であることよりも、友人や仲間として居続けることの方が、より永遠に近づけることを無意識に理解していた。
はじまりがなければ、終わりは来ない。
それは即ち、未来永劫と同義だ。