2月26日、5年前に行われたユニヴェール公演の翌日に、立花希佐は忽然と姿を消した。
失踪した。
その事実を聞かされたときのことは、正直よく覚えていない。
前日、顔を合わせて話をした。1年の新人公演からクォーツにクラス優勝をもたらし続けた当人は、ほっとしたような顔で、最後のクラス優勝を素直に喜んでいたように見えた。個人賞金賞にはあまり興味がないという顔をしていたが、ご褒美に何でも好きなものを奢ってやると言うと、楽しみです、と言って綺麗に微笑んでいた。
そのまま二度と会えなくなるなんて、誰が思うだろう。
打ち上げに行く背中を見送った。それが最後に見た姿だ。同期に囲まれ、後輩からは憧れの眼差しを向けられて、クォーツというクラスの真ん中で、誰よりも輝きを放っていた。
もしかしたら、その輝きがあまりにも眩しすぎて、足元にある影を見逃していたのかもしれないと、高科更文は思う。
光は強ければ強いほどその影を濃くするものだ。立花継希という人がそうだった。
舞台に立てば誰よりも強い輝きを放つその人は、ふとした瞬間、透明な空気のようになって、存在自体が不明瞭になることがあった。確かに目の前にはいるのに、触れられるのに、静かに笑うその様子が儚くて、このまま消えてしまうのではないかと心配になることがあった。
その妹、立花希佐からも、更文は同じ匂いを感じ取っていた。兄と同じ危うさが常につきまとっていたからだ。オー・ラマ・ハヴェンナ――あの頃は、それが顕著に表れていた。女であることを隠すことが求められている中、全力で女を演じることを要求された。その葛藤は計り知れない。
それでも、更文は立花希佐に、この先もユニヴェールの舞台に立ってほしいと思った。踊り続けてほしかった。だから、演じるように言ったのだ。その結果、もし女であることが露見したとしても、後悔してほしくなかった。舞台に対して誠実であり続ければ、その先の道も開けただろうと、そう思うから。
舞台上で涙を流すチッチは美しかった。とても鋭利なナイフの刃先で柔肌を傷つけられ、痛みを感じないまま血を流すような奇妙な思いを抱きながら、その姿を舞台の袖から見つめていた。
根地黒門は、本当に底が知れない、末恐ろしい男だ。人の才能を瞬時に見抜く能力と、自分でも気づいていない人間の本質を暴く能力に長けている。ハヴェンナのミゲルもそうだ。自分の本心を軽い態度と言葉で隠してお茶を濁している姿は、高科更文そのものだった。
今思えば、あれは一目惚れだったのだろう。その他大勢、有象無象から向けられていた眼差しの中、その視線だけが驚くほどに熱かったことを、今も覚えている。
稀代のアルジャンヌ――そう呼ばれるに相応しい人間だった。
入試の時から既に周囲の視線を集めていたことを、希佐自身は知らないだろう。ただそこに立っているだけで華があった。無視することなどできるはずがない。
なぜ女がここにいるのだという混乱と、こいつは間違いなく本物だという確信が、ダンスの手本を見せている間も脳内を占めていた。舞踏や歌唱、芝居の類は本人の努力次第でどうとでもなるものだ。だが、ついと目を惹く魅力は、ほとんどの場合天性の才能による。それが欲しくても手に入らず、役者を諦めていく者は大勢いるのだ。
更文は立花希佐に心底惚れ込んでいたのだ。異性として、人間として、演者として、心の底から尊敬していた。希佐が姿を消して5年が経った今も、その気持ちは変わらない。
希佐が幸せでいられますようにと願った鯉結び。もしどこかで幸せな人生を送っているのなら、そろそろ切れても良い頃合いだ。だが、鯉結びは未だ切れていなかった。
「……俺は待つのが好きじゃないって、知ってるだろ、希佐」
更文は、稽古で火照った体を冷やすために、縁側に腰を下ろしていた。足を投げ出して座り、白く細い腕に巻かれた鯉結びを眺めている。
実家にある板張りの稽古場は、そのまま縁側に続いていて、手入れの行き届いた庭園を見渡すことができた。渡り廊下の先には、小ぢんまりとした茶室がある。最近はほとんど立ち入ることがない。
「そんな恰好をしているとまた父上に叱られてしまいますよ、フミさん」
廊下の先から足音が近づいてくる。規則的な足音だ。わざわざ確かめずとも、それが一助のものであると、更文にはすぐに分かった。
「俺はそのお父上に会いに来たはずなんだけどな」
「夜には戻るとおっしゃっていました」
話があるから一度帰って来いと言われ、何とかスケジュールをやりくりして顔を出してみれば、肝心の高科流当代は家を留守にしていた。お弟子さんに話を聞いたところ、何やら急用が入ったとかで、慌ただしく出て行ってしまったらしい。
「また見合いの話じゃないだろうな」
「そうではないと思いますよ」
じっとりとした眼差しで睨みつけられた一助は、ふふ、と笑いながら、足を折りたたむようにして更文の傍らに腰を下ろした。
「あなたがいくら言っても聞かないので、せっつくのは諦めたようです。私が結婚をして子供も産まれましたから、とりあえずは安心したのでしょう」
「ったく、一助兄貴には結婚しろなんて言わなかったくせに、なんで俺だけ……」
「私は結婚を前提にお付き合いをしている女性がいるとお伝えしていましたし、折を見てご挨拶にも上がりましたからね」
折り目正しい兄と自由奔放な弟。
親の期待に応え続ける兄に、応えられない弟。
家を飛び出してユニヴェールに入学した頃から、いや、もしかしたらそれ以前から、更文は一助に気苦労ばかりかけている。
自分でもそう宣言した通り、更文はいずれ高科二千奥の名を継ぐ決意を固めていた。今はそのための猶予期間を与えられていると考えている。しかしながら、今は家のことを当代の父親と兄に任せきりで、それを心のどこかで申し訳なくも思っていた。
「父上があなたの心配をするのも無理はありませんよ」
「心配って?」
「結婚の心配です。あの人はあなたの年の頃にはもう結婚していましたからね」
「まだ焦るような歳じゃねーと思うけど」
「父上はあなたに女性の影がないことを危惧しておられるのです、フミさん」一助は更文を仕方なさそうに一瞥し、小さく息を吐いた。「心に決めた女性がいるのなら話は別ですが、あなたはそのような様子も、態度も見せない。芸事に没頭するのは構いません。ですが、我々のような家業の者は、そうしたお付き合いの中にも多くの学びがあるものです」
「俺に芸のために女と付き合えって言いたいの?」
「そうは言っていません。ただ――」
「好いてもいない女を抱いて、舞に色を出せって?」
「フミさん」はしたない物言いをする弟を諭すように、兄は厳しい声を出す。「父上はただ、あなたには芸事の道を極めるだけではなく、一人の人間として、幸せな人生を送ってほしいと願っているだけです」
「……なんだよ、それ」
「フミさん、あなたは次代の高科二千奥であると同時に、父上の大事な息子なのですよ。子の幸せを願わない父親がどこにいるというのです?」
一助はそう言うと目を細めた。さすが、子供を授かった父親は言うことが違うな、そう口走りそうになって、寸前のところで踏み止まる。兄弟で口喧嘩をしたいわけではない。
好きな女はいる。そう言えば、父と兄はそれで安心するのだろうか。
その女は恋人であるはずの自分に別れの言葉さえ告げず、何の痕跡も残さずに失踪した。そのまま何の音沙汰もなく5年もの時が過ぎて、今に至っている。どこにいるかのはおろか、生きているのか、死んでいるのかも分からない。
そう包み隠さずに話したら、二人はどんな顔をするのだろうと更文は考える。そんな女はすぐに忘れろと言われることだけは、目に見えていた。
「いるよ」
「え?」
「大切に思っている人」更文はそう言うと、左手の鯉結びに目をやった。「愛してるんだ」
「……フミさん」
「まあ、俺の手の届かないところに行っちまったんだけど」
希佐は更文の勘が異常に鋭いことを知っていた。だからこそ、生半可な芝居ではごまかせないと分かっていたのだろう。ユニヴェールと玉阪座、互いに忙しかったが、息抜きもかねて週に一度、少なくとも二週に一度は会うようにしていた。その間、違和感は覚えなかった。いや、正しくは、違和感を覚えなかったことが、違和感だったのだ。
更文と会っているときの希佐はあまりにフラットだった。感情の浮き沈みがなかったのだ。機嫌が良いわけでも、悪いわけでもない。更文が知っている、普段の希佐、そのままだった。
あれは、芝居だったのだろう。自分の中に押し隠している感情を悟らせないために、どんなときも普段通りの自分を演じていたのだ。悲しいときも、つらいときも、苦しいときも。
それに、恋人らしいことをしたかといえば、そこまでのことはしていない。恋人とは名ばかりの関係だったのではないかと問われてしまえば、そうかもしれないと答えるだろう。
男としてユニヴェールで生活しなければならない希佐を、必要以上に大切に扱いすぎていたのだろうか。不用意に手を出してしまえば、希佐の女の部分が顔を覗かせ、ユニヴェールでの生活に支障をきたすのではないかと心配していた。だから、少なくとも希佐がユニヴェールを卒業するまでは手を出すまいと、心に誓っていたのだ。
だが、今はそれを激しく後悔している。
何度だって愛を囁いて、求めるままに唇を重ねて、抱き潰してしまえばよかった、と。
「すげーいい女だったんだ。多分、今はもっといい女になってるんだろーな」
一生もんの女だと思った。今でも、思っている。愛しているなどという言葉では片付けられない感情が、いつも心の中で渦巻いているのだ。その思いは日に日に募っていく。不思議なことに、それは更文にとって、悪い感情ではなかった。
「だから、俺には結婚を期待しないでくれな、一助兄貴」
更文は、にこりと美しく笑う。その笑顔があまりに晴れやかで一助は心配になるが、大切な人のことを語る弟の切ない横顔が、次ぐ言葉を飲み込ませた。