「──いやあ、僕だってせっかくなら、ファーストクラスに乗ってみたかったよねぇ」
ほんの少し前まで、絶対に窓際の席が良いと駄々を捏ねていた根地黒門が、人目も憚らずにそのようなことを言う。それにしたってビジネスクラスだ、リクライニングにすれば足を伸ばして横になれるのだから、高科更文には何の文句もない。
「ロンドンで半年も暮らすつもりなら、節約することを覚えねぇとな、クロ? 俺は別にエコノミーでもよかったんだぞ」
「十時間以上もあんな窮屈な座席でじっとしてるなんて、アタシ絶対に耐えられないわ」
「寝てりゃいいじゃねーか」
「向こうに到着して早々時差ボケなんてことになったら、時間がもったいないからね。僕はこの約十時間のフライトを、執筆の時間に充てると決めているんだ。上手くいけば、前々から頭の中で構想を練っていた脚本を、一本仕上げられるかもしれない」
日本を午前十一時に発った飛行機は、十時間以上のフライトを経て、同日の十五時頃にはイギリスに到着する。この時期はサマータイム制度が導入されているはずなので、もう少し早く到着するのかもしれない。飛行機に搭乗している時間は十数時間だが、到着してみれば数時間しか経過してないというのは、実に不思議な感覚に違いなかった。
白田美ツ騎に、一緒にロンドンへ行かないかと誘ってはみたが、前向きな返答が得られることはなかった。それどころか、一切の音沙汰がなかったので、更文は望み薄だと半ば諦めていたのだ。
だがしかし、ここしばらく動いていなかった美ツ騎のSNSが、今朝になって突然更新された。この目に飛び込んできたのは、帽子を被り、トランクに腰掛けている、熊の写真だった。イギリスのパディントン駅にいる、有名な熊の銅像だ。
それを見てすぐに、美ツ騎の連絡先を画面上に表示させ、呼び出してみたが、そのコール音が途切れることはなかった。日本から八時間巻き戻した世界で生きていることを考えると、単純に眠ってしまっただけなのかもしれないと思い、電話を切る。
更文は、前日から実家に泊まり、現地に同行する東雲や弟子たちと一緒に空港へ行く手筈となっていた。黒門とは空港で落ち合う約束だ。
黒門の寝坊だけが心配だったので、ここを出る前に一度連絡をしておこうと考えながらコーヒーを飲んでいると、テーブルの上に置いていたスマートフォンが着信を告げた。
更文はスマートフォンを手に取り、それを耳に当てた。
「随分な裏切り行為じゃねぇか、ミツ?」
『僕はお二人と一緒に行くとも、絶対にイギリスに行かないとも、言った覚えはありませんよ、フミさん』
「まあ、確かにな」
普段通りと言えば、普段通りのやり取りだった。だが、どこかいつもの美ツ騎とは少し違うように感じられて、更文はそれ以上責めることは言うまいと考える。
「そっちはまだ真夜中だろ?」
『はい』美ツ騎の声が小さく応じた。『フミさんはそろそろ飛行機の時間ですよね。根地さんとはまだ?』
「空港で待ち合わせをしてるんだ。クロがまだ寝てるかもしれねぇから、連絡でも入れとくかって思ってたところでさ」
『タイミングが悪くてすみません』
「いや」
そのとき、更文を呼びにきたらしい東雲が、キッチン前の廊下からこちらを覗き込んでくる。だがしかし、スマートフォンを耳に当て、誰かと話をしている更文を見て、すぐさま察したようだ。酒を飲んで酔うたびに、成人した年の誕生日に二千奥から貰ったのだと自慢をしてくる腕時計を見やってから、更文に向かって、手の平を広げて見せた。
「まだ五分くらいなら話せるけど」
『実は今、立花が住んでる家にいるんです』
「……」一瞬思考が停止し、不自然な間を生んでしまった。「……へえ?」
『こっちに到着して直行で立花に会いに行ったんですけど、昨日の今日で思い立ってすぐに飛行機に飛び乗ってきたので、ホテルの予約もしていなかったんです。行けばなんとかなるだろうと思っていたんですが、金曜の夜だからどこのホテルもいっぱいで。そうしたら、立花がうちに泊まらないかって』
「……希佐は一人で暮らしてるのか?」
『いえ、なんていうか』美ツ騎が微かに言い淀む。『劇団の仲間と一緒に暮らしています。よくしてもらっているみたいです』
「そっか」
更文は椅子から立ち上がると、スマートフォンを頬と肩で挟みながら、空になったマグを流しで洗った。
「じゃあ、明日泊まるホテルはまだ決まってないのか?」
『え、あ、はい。それはまだ』
「だったら、うちで予約を取ってるホテルに泊まればいい。俺の部屋を使っていーよ」
『でも、フミさんはどうするんです?』
「俺、今日はクロの知り合いのところでお世話になるから、ホテルには行かねぇんだわ。東雲さんっていうお弟子さんに話を通しておくから、そうだな──」
ホテルの住所とチェックインの時間を伝え、また連絡をすると言って、更文は通話を切った。キッチンの外へ足を向かわせながら黒門に電話を掛けると、案の定うとうとしていたという。搭乗時間には間に合うように行くよと言った黒門が現れたのは、ゲートが締め切られる数分前だった。
「ごめんごめん、玄関先で天才的な閃きに襲われてメモを取っていたら、いつの間にかこんな時間に──」
タクシーで迎えに行こうかと言った東雲に、間に合わなかったら置いて行くと言っていた更文だったが、何とか搭乗手続きを行うことができた黒門の姿を見て、ほっと安堵の息を吐いていた。
「私は貯まっていたマイルがあるので、ファーストクラスでゆっくりさせていただきますね」
普段から高科二千奥にこき使われ、イギリスではその息子の面倒を見なければならないのだ。せめてこの空の上では、誰にも邪魔をされず、くつろいでほしい──更文がそのようなことを言うと、東雲はVIP待遇を受けながら、嬉しそうに別室に案内されて行った。
散々ファーストクラスを羨んでいた黒門だったが、更文が尻に火をつけてやらなければ、パスポートの取得手続きも間に合わなかったのだ。正直な話、本気でイギリスに行く気があったのかと、疑ってしまう。
だが、それが黒門なりの、迷いの現れだったのかもしれない。自分は本当にイギリスに行くべきなのか、果たしてそれが正解なのかと、内心では自問自答を繰り返していたとしても、更文は驚かない。
自分で行くと決めたからには、その決断に迷いを見せるなと叱咤してやりたい気持ちと、言い知れない不安を抱えたまま、無理を押してまで行く必要はないと言ってやりたい気持ちが、同じだけ混在していた。
だが、根地黒門は自らの意志でやってきた。覚悟は決まった、ということなのだろう。少なくとも更文は、そのように考えている。
ここ数日の更文の心はすっかり凪いで、酷く落ち着き払った状態だった。
そうでなくとも、荒波の海の中を小舟で漕ぎ出し、進行方向すら見失っている友人が隣にいれば、冷静にならざるを得ない。
まあ、そんなに心配せずとも大丈夫だろう──そう楽観視することができないのは、この男の底というものを知らないからだと、更文は思う。
根地黒門は一見すると天真爛漫だが、心根には黒々とした粘着質な感情を纏わりつかせている。実際は、そこまで底抜けに明るいやつなんかではないはずだ。だが、頭が良すぎるが故に、本来の自分を包み隠す術が上手くなりすぎて、人々から《変人》のレッテルを貼られ、誰からも《天才》と称される。
もう何年も、面白おかしい、愉快な自分を演じている。
それは、ユニヴェール歌劇学校の三年間、少年を演じ続けてきた立花希佐と似た境遇なのではないかと、更文は考えることがあった。
もちろん、根地黒門は女ではない。だが、ユニヴェールに在籍していたのは《役者》であると同時に《脚本》を書ける《演出家》としての根地黒門だ。玉阪座もそうした万能さを高く評価し、門戸を潜ることを許した。
根地黒門は目に見える部分を評価され、認められてきた。
脚本家兼演出家の根地黒門はもちろん、役者としての根地黒門の名は、既に広く知れ渡っている。しかしながら、一体どれだけの者が、一人の人間としての根地黒門を知っていると言えるのか。自分や睦実介ですら、根地黒門の心根に触れたことはないと、更文は思うのだ。
共に我死也の舞台に立った田中右宙為ならば或いは、何か思うところがあっても不思議ではないが、そのことについてゆっくり語らってみたいとは、今のところ思わない。
このイギリスの旅で、何らかの気づきがあればいい。もし何かを失ったとしても、別の何かを得られればいい。それは、自分にも、黒門にも言えることだ。
考えてみれば、世界はいつだって、高科更文の味方だった。
大きな試練は与えても、決して見捨てることはなかった。ほんの五年前までは。そうだ。あれはまるで、世界に見捨てられたかのような気分だった。絶望した。それでも、前を向くこと、前へ進むことを選んだ。
もしあの子が、今の自分の姿を見るようなことがあったとき、失望されないために。何の疑いもなく、自分の背中を追いかけ続けてくれていたあの子に、恥じない自分でいるために。
そんなふうに考えはじめた影響は、如実に現れた。
芸の色が変わってしまったのだ。
ついと目を惹くしなやかさや艶やかさ──それが、高科流の色だった。
だが今はどうだ、人々は更文の舞に、処女性を見い出している。高科の舞とは正反対な表現に、お歴々連中はご立腹だ。それでも、当代の高科二千奥や兄は、好きなようにすればいいと、広い目で見てくれている。世界に目を向けろと、背中を押してくれている。
そんな二人に、いつまでも甘えてはいられない。自ら行く道を定めなければいけない。そう遠くない未来に。
このまま玉阪座に残るのか。
高科の家に戻り、己の舞を極めるのか。
父や兄の言うように、世界に目を向けることにするのか。
途中で何度か眠りに落ちた更文とは裏腹に、黒門は当初の宣言通り、雲の上にいる時間のほとんどを、脚本の執筆に当てていた。運ばれてきた機内食は五分と掛からずに平らげ、再びノートパソコンの画面に向き直る。怒涛の勢いでキーボードを叩き、果てしない文字数を積み上げていく。
そういえば、こんなふうにまじまじと、この男が執筆をしている姿を見ていたことは、なかったかもしれない。
「……クロ」
「ん? 何だい?」
外からの声など聞こえていないだろうと思いきや、黒門は更文の呼び声にすぐさま返事をした。その間、キーボードを打つ手が止まることはない。
『頭の中にあるものをアウトプットすること自体は簡単なんだ。なにせ、すべてはこの頭の中で既に完成されているからね。あとはもうそれをひたすら打ち出すだけなんだよ』
大昔に、黒門がそのようなことを言っていたかもしれない──更文はそう思いながら、肘掛けに頬杖をつき、黒門の横顔をじっと見やっていた。
「おまー、こうやって見るとやっぱり、キレーな顔してるよな」
「あら、やだ。なに? 急にどうしたのよ。コクト、ドキッとしちゃうじゃない」黒門は、ふふ、と微かに笑う。「アタシを口説いてるの?」
「いや、お前の頭の中がどうなってんのか、不思議に思ってるだけ」
「パカッと開けられるものなら、是非ともお見せしたい──っていうか、僕自身も見てみたいものだね。同年代、いや、地球人として、その他大勢より脳を酷使していると自負している身としては、アインシュタイン同様、グリア細胞が豊富であることを切に願うよ」
「お前のそういう話、相変わらず訳わかんねーな」
「僕がしている話なんて、所詮はどこかで聞いたことや、本で読んだことを我が物顔で話して聞かせているに過ぎないんだ。実際に経験したことなんてほとんどない。王侯貴族なんて見たこともないし、会社勤めをしたことだってない。ゴーストなんて見たこともなければ、女を売る店に足を運んだこともない。ぜーんぶ創造の産物に過ぎないのさ」
「んじゃ、お前がこれから先、数々の経験を積んでいったら、今よりもっととんでもねー話が書けるようになる、ってことだ」
更文がそう素直な気持ちを口にしたとき、不意に、今まではリズムよくキーボードを打っていた黒門の手が、ぴたりと止まる。
その指先を一瞥し、再び黒門の横顔に視線を戻せば、どこか焦点の定まらない二つの目が、光を抑えたパソコンのディスプレイをぼんやりと見つめていた。
「……父さんが生きていた頃は、僕に色々な経験をさせてくれたよ。僕は目に映るすべてのものを吸収して、自らの糧にしてきた」黒門がゆっくり瞬くと、光を帯びた長い睫毛が、きらりと輝いた。「小さい頃の遊び場は、劇団の稽古場で、遊び相手は劇団員だった。皆さん優しい人たちばかりでね、僕はそこで芝居のイロハを覚えたんだ。僕がチラシの裏に書いた脚本のようなものを面白がって、その場で演じて見せてくれたりもしてね。さすが先生の息子さんだ、なんて言われて喜んでたけど、当時の僕が書いたものはどれも父さんの模倣に過ぎなかった」
「別に悪いことじゃねぇだろ」更文は小さく肩をすくめる。「俺だって、最初は親父の真似をして扇を振ってた。お弟子さんたちに褒められるのが嬉しくてな」
「君はいつ頃それを自覚した?」
「自分が親父の模倣をしてるって?」こちらに目を向け、微かに顎を引く黒門を見て、更文は小さく唸る。「いつ頃だっけなぁ。そういうことは誰も指摘してくれねぇから、自分で気がついたんだろうけど」
舞には答えがない。
もちろん、何百年も前から舞い継がれてきている古典は、形が決まっていて、制限も多い。だが、それを舞う人間の色が濃く現れることで、出来上がりの良し悪しが論じられる。
当代が舞う古典は高く評価されていた。更文も、当代が舞う古典を見るにつけ、自分の舞ではまだまだ遠く及ばないと、そう思わされる。ようやくその足下に辿り着けそうだ、という程度のものだ。模倣は出来ても、未だ独自の色を定められていない更文には、到底辿り着けない境地にいる。
「でも、柱の影からお弟子さんたちの稽古を見学していたときに、ふと感じたことは覚えてるよ。理解っていうか、感覚的に察したんだろうな、何かが違うって。全員が全員、それぞれに自分の色を持っていて、その強みを活かして舞ってるんだって。その中でも、親父の舞は一際輝いて見えた」
「親父殿のことが本当に好きなんだね、フミは」
「お前は違うのか?」
「僕は……僕は、どうなんだろうねぇ」黒門はそう言いながら、頼りなく笑った。「そうだね、父さんのことは大好きだったし、尊敬もしていたよ。そうじゃなかったら、こんな人生を歩んではいなかっただろうしね。でも、思うんだ。父さんに対するこの気持ちや、こうして受け継いだ才能は、もしかしたら、呪いに近いんじゃないかって」
「呪い?」
「父さんのおかげで今の自分がある。役者として、脚本家兼演出家として玉阪座にいられるのは、父さんから受け継いだ才能のおかげだ。素直に感謝しているよ。僕は社会不適合者だからね、現代社会に放り出されたら生きてはいけない。会社員には向かないもの」
根地黒門と意思疎通をすることは難しい。黒門と同じレベルで会話をすることは困難だ。多くが黒門の言っていることを理解できない。だから、黒門は自分を相手に合わせて、言葉を交わす。
君のことを理解してくれる人は、もういないよ──かつて更文に告げた言葉は、黒門自身にも当てはまることだったのかもしれない。
「反対を言えば、僕はそれしか知らないんだ。君だってそうだろう? 僕たちは狭い世界の中で生きてきた。それがこの世界のすべてだって思い込んでね。僕の父さんも、君の親父殿も、舞台というものに取り憑かれていて、僕たちはそんな姿を生まれた時から見せつけられてきた。まるで、こんなに素晴らしい世界は他にないって、洗脳するみたいに」
「洗脳ねぇ」
「そこに自分の意志はあったのかな」
「突然どうしたよ」
「いやなに、君がどう思っているのかを知りたくてね」黒門は時折、こうして神妙な面持ちを浮かべては、周囲の心を掻き乱すようなことを、平気で言うのだ。「自分にはこの道しかなかったと思うかい? それとも、別の生き方もあったと思う?」
それはもう既に、更文の中では終わっている話だった。だが、黒門の中では今まさに、頻繁に議論されている問題なのだろう。
「俺はさ、随分前にも話したことがあるけど、高科の家から離れるために、勝手に家を出て、ユニヴェールへの入学を決めたんだ。家の──親父や兄貴、古い仕来りに縛り付けられているだけの連中のやり方や、凝り固まった考え方なんかが気に入らなくてな。いずれ家を継ぐっていう気持ちはあったけど、それは今じゃねーって思ってたし、一度も外の世界を見ずに親父や兄貴の言いなりになっちまったら、俺自身が駄目になるって思った。だから、ユニヴェールに入学したことが、当時の俺にとっては親の敷いたレールから外れる行為だったんだよ」
「でも結局、君は家族と和解して、家に戻ることを選んだ」
そのことを考えるとき、更文はいつだって思う。
もし立花希佐がいなかったら、自分は今頃、どのような人生を歩んでいたのだろうと。立花希佐が、自分と高科の家の縁を結び直してくれたのだ。
「ユニヴェールの三年間で、自分がいかに家の舞に支えられていたか、何より大事に思っていたかを、俺は再確認することができた。だから家に戻ることを選んだし、家の舞を守るために、こうして外に出て、いろいろなことを勉強させてもらってる」
呪い。
呪い、なのかもしれない。
だが、更文にとっては、高科の家に生まれたことは、間違いなく祝福なのだ。もはやこれ以外の人生など考えられないほどに、自らの生に感謝している。
この家柄も、この才能も、この人生も──今となっては、恵まれているとしか考えられない。
「お前は、自分の人生を父親に決められたとでも思ってんのか?」
「いや、決めたのはもちろん僕自身だよ。ユニヴェールに願書を出したのも僕の意志だ。玉阪座に入門したのもね。でも、もしかしたら、そうせざるを得なかったのかもしれない。他の選択肢を考えられなかったから。まあ、僕としては、これが天職だと思っているから、特に問題があるわけではないのだけれど」
自らに与えられた才能を呪いと捉えるか、祝福と捉えるかは、その者自身の自意識の問題であって、他人がどうこう言えることではない。才能に恵まれていたとしても、それを生かす努力を怠れば、ただの宝の持ち腐れだ。
黒門は自らの才能を生かし、まるで命を削るようにしながら、次から次へと作品を生み出し続けている。自らの命など顧みようとしないその様子は、日常的に病的だと感じていた。
なるほど。
自らの才能を証明し続けなければ、自分自身が己の存在を認められないのだとしたら、それは確かに、呪いという表現が正しいのだろう。周囲がどれだけ根地黒門は根地黒門だと呼称しようと、才能を失った根地黒門は根地黒門足り得ないと、本人はそう考えている。
「クロ、お前はさ……」
自死の道を選んだという父親の引き際の美しさに、実際のところ、惹かれているのではないのか──更文は、消え入りそうなほどに儚い黒門の横顔を見て、口にしかけた言葉を飲み込んだ。
父親と同じ道を歩むことで、当時は理解し得なかった父親の思いを、追体験したいのではないのか。最期には己が才能を失って初めて、海に身を投げたという父親の思いを理解することができると、そう考えているのではないのか。父親が何を思い、何を感じ、海に沈んでいったのか──まるで、その解に至るために、自らの人生を費やしているようだ。
もし自分が、例えば何らかの大病を患い、もしくは、事故で怪我を負ったとして、それでもう二度と舞台には立てない、踊ることができないという診断を受けたとしたら、どうするだろうと更文は考える。
果たして、諦められるのだろうか。いや、諦められはしないだろう。だがきっと、体は思うように動かず、言うことを聞かず、心を病み、身を持ち崩すことになるのかもしれない。何もかもが嫌になり、もう死にたいと、そう思うことだってあるかもしれない。
才能を失った高科更文に価値はあるのだろうか。
ただ一つ確かなのは、しなやかに、艶やかに舞うことのできなくなった更文に、高科二千奥を名乗る資格はないということだ。
そうなったとき、自分は果たして、生きる意味を見い出し続けることができるだろうかと、更文は思った。
踊ること以外に、一体何ができるのだろう。
くるくる、くるくる、と枝葉から落ちた桜の花びらが、風に吹かれ、回転しながら流されていくように、頭の中では行き場のない思考が巡っている。
もしかしたら、何を馬鹿げたことを考えているのだと、愚かに思われるかもしれない。だが、今ある才能が、明日もこの手の中にある保証はないのだ。
例えば、この飛行機が何らかのトラブルで墜落し、二人揃って帰らぬ人となるかもしれない。空港に到着しても、着陸に失敗し、機体が木っ端微塵に砕け散るかもしれない。運よく一命は取り留めたとしても、それこそ大怪我を負って、立ち上がることすらできなくなるかもしれない。
未来は誰にも分からない。だからこそ、今日、命を燃やす。
夜、寝床に入ったとき、今日の後悔を明日に持ち越すことがないように。
更文は、あの日の後悔を、未だ引きずっているのだ。
心のどこか、頭の一部、五年前から凍りついているこの思いが、春の雪解けのように溶け出して、小川を作り、大河に流れ込んで、いずれ大海へと至ってくれたなら、恐らくは救われるような気がする。
空の旅は思っていたほど騒がしいものとはならなかった。ヒースロー空港に到着する二時間ほど前に執筆を終えたらしい黒門は、ふわあ、と大きく欠伸をしたかと思うと、かくん、と頭を前に倒して眠りに落ちる。失神したと表現した方が正しいのだろう。
更文は席から立ち上がると、前のめりになった頭を背もたれに戻してやった。横になって休めるように、そっと椅子を倒す。毛布を肩からすっぽりと覆うように掛けてやっていると、添乗員が通路を通り掛かったので、温かい飲み物をお願いした。
本を膝の上に置いて、何か音楽でも聞きながら読もうかとスマートフォンの操作をしているところに、添乗員が戻ってきた。イヤホンを外し、ありがとうございます、と言ってコーヒーを受け取ったとき、添乗員が更文の膝の上にある本の表紙に目を留めるのが分かった。
「あ、」思わずというふうに声を漏らした添乗員は、失礼いたしました、と言って、恥ずかしげに手の平で口元を覆った。「その、斜陽の雲は私の愛読書なんです」
「ああ、そうなんですね」
「はい、病床の父に勧められて」
「私は兄に勧められました」更文は薄汚れた本を手に取り、苦笑いを浮かべる。「でも、未だにどのように読んだものかと、考えあぐねています」
「私も最初はそうでした」添乗員は床に膝をつき、こちらを見上げながら、小声で先を続けた。「私には何が面白いのか、まったく分からなかったんです。それで暫くの間、読まずに放っておいたのですが、病床に臥していた父が身罷って、ふと本のことを思い出して。夜通しで蝋燭の番をしながら読み耽りました。そうしたら、最後には涙が止まらなくなって」
当時のことを思い出しているのか、添乗員は微笑を浮かべながらも、その目にはうっすらと、涙の膜を作っているように見えた。
「そういえば、子供の頃に、父と二人で夕日を見たことがあったな、綺麗だったなって、自分でも忘れていた父との思い出を呼び起こしてくれたんです。この物語が、父の死で傷ついた私の心を、優しく癒してくれているような、そんな気がして」
そのとき、黒門が「うーん」と唸り声を上げなければ、添乗員はもう少し話し続けていたかもしれない。だが、我に返ったようにハッとした面持ちを浮かべると、折り目正しく両手を揃え、その場で会釈をして見せた。
「大変失礼いたしました」
「いえ、優しいお話を聞かせていただきました」更文もそれに合わせ、僅かに目を伏せた。「お悔やみ申し上げます」
「恐れ入ります。何かございましたら、またお声掛けください」
面白味のない物語だと思った。積極性に欠ける、受動的な主人公が、更文は好きになれなかった。だが、面白味のない物語のはずなのに、繰り返し読んでも飽きが来ない。まるで水を飲むかのように、物語が体の中に浸透していくような感覚さえあった。
少し冷めてしまったコーヒーを一口飲んでから、読みかけの本を開く。
栞にしているのは、五年前に行われたユニヴェール公演のチケットの半券だった。
更文はふと、公演終了後、劇場の外に出てきたクォーツの生徒を捉えたフォロワーに駆け寄られ、サイン攻めに合っていた後輩らの姿を思い出す。機嫌良くサインに応じている希佐を遠くから眺めていたが、ちょっとした悪戯心をくすぐられて、更文は後ろからこう声を掛けた。
「立花さん、もしよかったら、こちらにもサインをお願いできませんか?」
周囲から黄色い声援が上がる。こちらを振り返った希佐は、琥珀色の目を丸くして驚いた顔をしていたが、すぐさまその表情を一変させ、悪戯っぽく微笑んだ。
「いつも応援ありがとうございます」
希佐は、更文が差し出したチケットの半券に、さらさらと自らの名前を記した。そのときに書いてもらった、サインというよりも署名のような丁寧な四文字が、今も色褪せずに残っている。
平然とやり取りをしていたが、このときにはもう既に、立花希佐は自分との別れを確信していたのだ。今となっては、すごいやつだと、そう思う。
到着したイギリスはロンドン、ヒースロー空港の上空は、あいにくの曇天だった。雨が降っていないだけマシという天気で、湿り気を帯びた空気はどこか生温い。夏を間近に控えた、日本の梅雨のような天気だ。
イギリス最大規模を誇る空港は、土曜日の午後ということもあり、酷く混雑していた。入国手続きを終え、手荷物を受け取り、弟子たちと合流した後、ヒースローエクスプレスに乗って終点のパディントン駅まで移動する。
「僕もパディントンと記念撮影がしたいな」
二時間ほど仮眠を取ってすっきりしたのか、黒門は列車の座席に腰を下ろし、スマートフォンを見下ろしながら機嫌良く言った。
「今日は土曜日ですからねぇ、あの辺りは観光客が多いと思うんで、先を急ぐなら記念撮影は次に回した方がいいと思いますよ」一人ファーストクラスで羽を伸ばしていた東雲が、腕時計を見やりながら言う。「根地くんは、パディントン駅までご友人がお迎えに来てくださるんでしたよね?」
「はい」
「若はそれにご同行される、と」別段、責めるような口振りでもなく、隣に座った東雲がこちらを見た。「若、本当に大丈夫ですか? 絶対に根地くんからはぐれたりしないでくださいよ? 若にもしものことがあったら、この東雲、先生や奥様、一助に顔向けができません」
「大丈夫ですよ、東雲さん。俺だって子供じゃないんですから」
「大人も子供も関係ありません。若は箱入りのお坊ちゃんで、世間知らずなところがありますからね」
「じゃあ、はぐれないように僕と手でも繋いでおこうか?」
「お断りだよ」
「なーんだ、残念」
「根地くん、うちの若をくれぐれもよろしくお願いしますね!」
「もちろんですとも、東雲氏!」
向かい合わせのシートに腰を下ろし、手と手を取り合っている二人を呆れたように見て、これ以上は何も言うまいと、更文は口を噤んだ。
そもそも、口で勝てる相手ではない以上、ここは大人しく言いなりになるのが吉だ──そう思いながら、スマートフォンを片手に、美ツ騎にメッセージを送る。
「東雲さん、日本を発つ前に話していた後輩のことなんですけど──」
「はい、白田美ツ騎くんですね。東雲の連絡先は伝えていただけました?」
「ええ」既読がついたかと思うと、ぽこん、とすぐに返事がきた。「ミミズホテルの近くにいるので、連絡をいただければすぐに向かえます──と言ってます」
「では、最寄りの駅に到着したらご連絡差し上げます、とお伝えください」
「分かりました」
「白田くん、ソーホーにいるのかい?」
「そうみたいだな」更文は素早く返事を送ると、そのままスマートフォンをポケットにしまった。「あいつのことだ、事前にホテルの住所を教えておいたから、気を利かせたんだろ」
黒門に美ツ騎と電話で話した内容までは伝えていない。もし仮に、既に美ツ騎と希佐が再会を果たしていると伝えれば、自分も今すぐ会いにいくと言い出しかねないからだ。
今はただ、念願だったロンドンにやってくることができて、気持ちが昂ってしまっている。実際に会いに行くにしても、もう少し落ち着きを取り戻してからの方がいいはずだ。
更文自身には、今すぐ会いたいという気持ちもあれば、生活が落ち着いてきてからという思いもある。どちらが正しい選択なのかは、判断のしようがなかった。
東雲は、定期的に連絡を入れるようにと、面倒臭い恋人のようなことをしつこく言い残し、パディントン駅でタクシーを拾って、他の弟子たちと一緒に、ロンドンの更に中心地に向けて出発した。
「東雲さんは旅慣れてるねぇ」
「親父や兄貴に付き添って世界中回ってるからなぁ」
走り去っていく黒塗りのロンドンタクシーを見送りながら、二人は呑気にそのようなことを口にする。東雲がいなくなった今、海外経験のない二人がぽつんと取り残されている図は、何だか妙に心許無く感じられた。
「クロの知り合いとはどこで待ち合わせしてるんだ?」
「駅の中にあるバーだよ。カウンター席で待ってるって」
「もういらしてるのか?」
「そうみたい」
「だったら、こんなところに突っ立ってないで、さっさと行こうぜ。お待たせするのは申し訳ないだろ」
「うん、そうなんだけど」トランクを引きずって歩き出そうとする更文とは裏腹に、黒門はどこか浮かない表情だ。「なんていうかさ、メールでのやり取りはずっと続けていたんだけど、こうして実際に会うのは、父さんの葬儀以来なんだよ。十数年ぶりかな」
「なんだよ、緊張してんのか?」
「緊張? うーん、緊張か。うん、そうなのかもしれない。緊張ってあんまりした経験がないからよく分からないけど、少しだけ心拍数が上がっているような気もするし」
「その人は、親父さんが亡くなってからも、クロのことをずっと気にかけてくれていたんだろ?」
「うん」
「今回の渡英の話だって喜んでくれたって言ってたじゃねぇか」
「うん」黒門はときどき、普段の様子からは信じられないほどに、こうして弱気になることがある。「……うん、そうだね。僕も彼に会えるのは素直に嬉しいんだ。気負うことなんて何もないよね」
「お前が気負ってるところなんて、俺は一回も見たことがねぇけどな」
「なによう、コクトだって人知れず、失敗をくよくよ嘆くことはあるんだから」
さあ、行こう、行こう──更文のものよりも一回り大きなトランクを軽々と引きずりながら、黒門は踵を返し、歩き出した。
パディントン駅の構内は耳を塞ぎたくなるほどに騒がしかった。構内アナウンスが絶えず鳴り響き、老若男女の話し声が混ざり合って、まるで地響きのように、ごうごうと耳の奥で唸っている。あちこちで交わされている英語のやりとりが、ほとんど呪文のように聞こえ、まったく理解することができない。
『すみません』
前をふらふら歩いていた黒門が、果敢にも近くにいたスーツの男に声をかけ、バーの場所を訊ねている。スーツの男は「It's just around the corner.」と面倒臭そうに答えると、足早に去っていった。
「僕の英語、一応は通じるみたい」どうやら、バーの場所を訊ねるためではなく、自身の英語が通じるのかどうかを確認したかったようだ。「イギリスにいる間に、発音をいくらかでも矯正できるといいな。僕の英語はアメリカ寄りだから」
だが、道行く人に訊ねるまでもなく、そのバーは本当に目と鼻の先にあった。吹き抜けの構内で、赤字の筆記体で描かれた看板が、一つ上の階に見えていたのだ。エスカレーターで上っていくと、そのフロアは下ほど混雑はしておらず、周りを気にせずトランクを引いて歩くことができた。
店の前まで到着すると、黒門は一度足を止め、その場で大きく深呼吸をしてから、自動ドアを潜り抜けていった。更文もその後に続いて、店内に足を踏み入れる。
店の中は、駅構内の喧騒が嘘のように遠退いて、ひっそりとしていた。
出入り口の前に立ち、きょろきょろと辺りを見回している黒門を見て、スタッフの一人が歩み寄ってくる。見るからに観光客という出で立ちの二人に、ゆっくりとした聞き取りやすい英語で声を掛けてきた。
『お席にご案内いたしましょうか?』
『いえ、僕たちは友人と待ち合わせをしていて──』
黒門はそう口にするが、不自然に言葉を切った。その視線は、店に入ってすぐのところにあるカウンター席に向かって、まっすぐに注がれている。
何脚かあるカウンター席には、一人の男の姿しかなかった。男はカウンターの内側にいるバーテンダーと親しげに話をしていたが、不意に視線を感じたのだろう、徐にこちらに目を向けた。
その目は少しの間、黒門だけをじっと見つめていた。しかし、次の瞬間には穏やかに細められる。
『やあ、コクトー』バーテンダーに一声掛けてから立ち上がった男は、そう言いながら近づいてきた。『少し見ない間に、すっかり立派になったね』
『お久しぶりです、レオ』
『堅苦しいのはなしだよ、コクトー。私と君の仲だろう? もう古い付き合いじゃないか』
男はそう言うと、緊張で瞬きが多くなっている黒門を軽く抱きしめながら、その半歩後ろに立っていた更文を見た。
意図せず目と目が合い、更文は柄にもなく心臓が跳ねるのを感じる。見たこともない虹彩の目が、一瞬、値踏みをするように自分を見たような気がした。
『こちらの麗しい方をご紹介いただけるかな?』
『あ、はい』腕の中から解放された黒門は、頬の熱を逃がそうとするように冷えた両手の平を添えながら、傍に立つ更文を見た。『ユニヴェールからの友人で、今は一緒に玉阪座に在籍している、高科更文くんです』
男は優しげに眦を下げ、更文に向かって右手を差し出してくる。
「フミ、この人がレオナール・ゴダンだよ。写真家、映画監督、アーティスト、様々な肩書きを持つ、僕の憧れの人なんだ。前にも話したと思うけど、元々は僕の父さんの友人でね、父さんが亡くなったあとも、僕によくしてくださっている」
『よろしくお願いします』
『こちらこそ』
齢六十は過ぎているのだろうか。恐らく地毛の鳶色の髪の多くは、白髪となっているが、それが酷く洒落て見える。普段からよく笑う男なのか、目尻と口元には深い笑い皺が見て取れた。すらりと背が高く、背筋が伸び、雰囲気はとても若々しい。年の功なのか、生まれ持ってのものなのか、更文の目から見ても、香るような色気が感じられる男だった。
『向こうで座って話そうか』
更文たちの後ろから他の客が入ってきたのを見て、レオナール・ゴダンと紹介された男は、二人をカウンター席まで誘導した。
何でも好きなものを飲んでいいと言われ、黒門がカプチーノを頼む隣で、更文は眠気覚ましにエスプレッソを注文する。空港で両替したばかりの紙幣を取り出し、自分の支払いをしようとする更文を制して、ゴダンはバーテンダーに自らのカードを差し出した。
『今からこの年寄りの話し相手になってもらうのだから、このくらいは払わせてほしいな』
多分、このようなことを言っているのだろうと考えているうちに、注文したエスプレッソが運ばれてくる。バーテンダーと目が合うと、パチン、と軽いウインクが飛んできた。
イギリスに行くことを決めてからというもの、毎日毎日英語の勉強を続けてはきたが、実際にネイティブたちの声を聞き、話すというのは、考えていた以上に難しいのだということを、更文は実感する。考えながら話していては、会話に置いていかれてしまうのだ。
『ありがとうございます』
『どういたしまして』
ゴダンはそう応えると、ふふ、と何やら嬉しそうに笑った。
黒門は、自分から「通訳しようか」とは言い出さないだろう。更文はそれをありがたく思っていた。習うより慣れよ──舞台も言語も、頭で考えるより、行動に移した方が覚えが早いということを、更文は経験上知っている。
『あれ以降も、年に一度は日本に行くようにしているのだけれど、君はいつも忙しそうにしているから』
『すみません、何度も誘ってくださっていたのに』
『いや、いいんだよ。若者には若者の時間の使い方がある。今しかできないことをすればいい。今回は、その挑戦の手助けをすることができて、私は嬉しいんだ』
『あとどのくらいイギリスに滞在されるんですか?』
『今はロンドンで行う写真展の準備をしているんだよ。だから、そうだね、長くても二、三ヶ月かな。実際は、アメリカと行ったり来たりの生活になると思うから、君を一人にしてしまうこともあるだろうけれど』
『僕に何かあったときは、フミが面倒を見てくれると思うので、大丈夫です』
「おい」
思わず日本語で横槍を入れると、黒門の向こう隣に座っているゴダンが、更文に目を向けた。
『君も役者なのだろう? 確か、女形、というのだったかな?』
『玉阪歌劇では女形のことを比女と呼びます』更文はそう答える。『ほとんどの舞台では比女を演じますが、稀に彦を演じることもあります』
『彦っていうのは、男役のことです』黒門がすかさずフォローを入れた。『彼は高科流という、何百年と続く日本舞踊の家元の生まれなんですよ』
『ほう、それはすごい』
『彼はその高科流の次期当代で、今回はそのお家の仕事で遠路遥々イギリスくんだりまでやって来ました』
『クロはそれに便乗して付いて来たんです』
「おっとそれは言わない約束よ、おフミさん」
黒門は日本語でそう言い、突っ込みを入れるように、更文の肩の辺りを手の甲で軽く叩いた。ゴダンは二人のやり取りをにこにこと笑って聞いていたが、ふと疑問に思ったのだろう、僅かに首を傾げる。
『すまないが、そのクロというのは、コクトーのことかい?』
『ああ、そっか』黒門はそう言うと、ジャケットのポケットから小さなノートと短い鉛筆を取り出した。『僕の名前は、漢字だと《黒門》と書くんです。黒はブラックという意味があって、日本語では《クロ》と発音するので、フミは愛称でそのように呼んでくれています』
『では、フミが彼の愛称なのだね?』理解したというふうに頷いてから、ゴダンは再び更文を見やる。『私もフミと呼んでも構わないかな』
『ええ、もちろん』
『私のこともレオと呼んでくれて構わないよ。堅苦しいのは苦手なんだ』
レオナール・ゴダンには、少しも偉ぶったところがなかった。世界的に有名な映画監督であり、写真家だと聞いていた更文だったが、むしろ庶民的な視点を持っていることには、好感を覚えている。黒門に向けている眼差しも慈愛に満ちたもので、子供の頃から良くしてくれているというのも、事実なのだろう。
だがしかし、ただ一点だけ、更文には気になることがあった。
それは、ほんの一瞬だけ自分に向けられた、あの値踏みをするかのような目だ。
もしかしたら自分の勘違いなのかもしれないが、この男にはどこか、得体の知れない気味の悪さのようなものを感じる──更文は、エスプレッソを口に運びながら、そのようなことを思った。
バーで小一時間ほど休んでから、三人はレオナール・ゴダンの自宅に向けて出発した。東雲と同じ場所でタクシーを拾い、荷物ごと後部座席に乗り込む。行き先が告げられ、車が走り出して間もなくすると、ポケットのスマートフォンが振動し、東雲と美ツ騎が合流したことを知らせてくれた。
「東雲さんとミツ、無事に会えたってさ」
「それはよかった」
メッセージの下に遅れて表示された画像には、上機嫌でピースをしている東雲と、強要されているとしか思えない無愛想な面持ちで、同じようにピースをしている美ツ騎の姿が写っていた。
「その写真、僕にも送ってよ」
「ミツは嫌がるぞ」
「もちろん、ナイショでさ」
黒門は更文の手からスマートフォンを取り上げると、それを取り返される前に、その画像を自らのスマートフォンに転送させた。
黒門のスマートフォンには、ユニヴェール在学中から美ツ騎専用のフォルダがあって、嫌がる本人を尻目に、一枚ずつコレクションの数を増やしていた。
「お前、いつか訴えられるんじゃねーの?」
「そのときは大人しくお縄につくよ」
美ツ騎は黒門を疎ましく思っているような素振りを見せることもあるが、なんだかんだ慕っていることは周知の事実だ。しかしながら、美ツ騎は親しき仲にも礼儀ありという諺を、徹底して貫いている。
本当であれば、このように黒門のスマートフォンを奪ってでも、件のフォルダを削除したいはずだが、他人のスマートフォンの中を勝手に覗き見ることは自身のプライドが許さず、手出しをすることができないようだった。
以前、俺が代わりに消しといてやろうかと言った更文に向かって、美ツ騎は諦めたようにため息を吐いていたことがあった。
「あの人、絶対にバックアップを取ってますから、スマホのフォルダを削除したくらいじゃ、何の意味もありませんよ」
後に、睦実介フォルダも存在すると知ってからは、自分のこと以上に介の心配していたが、コクトは悪用しないという絶対的な信頼の言葉を聞いてからは、強く削除を求めることはしていないようだった。
『写真は人生の財産だよ』写真家の言葉は、どこか重く響く。『たくさん撮っておくといい』
パディントン駅から、イズリントンにあるというゴダンの自宅までの距離は、四マイルほどだった。タクシーに三十分ほど揺られて到着したのは、キングズ・ヘッド・パブという店の前だ。二人を先に下ろし、支払いを済ませてからタクシーを出てきたゴダンは、様々な舞台のポスターが貼ってあるガラス窓を眺めている二人の後ろに立った。
『イギリスでも有名なシアターパブだよ。店の奥に劇場が併設されているんだ。名のある役者たちの中には、ここで経験を積んだ者もいる。興味があるなら、今夜はここでディナーにしようか? 席に空きがあれば、今日の舞台を観劇できるかもしれないよ』
『是非』
『では、荷物を置いてからここに戻ってこよう』
夕暮れと呼ぶにはまだ早い時間帯かと思いきや、時刻は既に午後五時を過ぎている。日の入りは午後七時を過ぎるらしい。
キングズ・ヘッド・パブの道路を挟んだ向かい側には、こぢんまりとした教会があって、そこは住民たちの憩いの場となっているようだ。春の夕暮れ近く、敷地内には散歩を楽しむ者や、ベンチに腰を下ろして話し込んでいる者の姿が見て取れる。
『教会の門が開いている時間帯なら、ここを通り抜けることができるよ。近道なんだ。この門が閉まっている場合は──まあ、それは後々説明しよう』
黒門は、憧れの人が暮らす町を余すことなく記憶しようとしているのか、辺りの景色を熱心に見回していた。ゴダンはその様子を目の当たりにし、よそ見をしていると転んでしまうよ、と注意をしながらも、黒門のことを酷く微笑ましそうに眺めている。
更文は一瞬、自分が酷く場違いな場所に来てしまったような、そんな気がした。ここは自分の居るべき場所ではないと、そう強く感じる。だが、このロンドンの町に希佐が暮らしているのだと思うと、途端に、愛着を持てるような気がしてくるのだ。
町を行き交う人々や、日本とは明らかに違うが、どこか玉阪を思い起こさせるような、古びた町並み──遠くへ来てしまったと思うのに、なぜか帰ってきたと、そう思わせる何かが、ここにはある。
大きく息を吸い込み、吐き出してみれば、強張っていた体が、瞬く間にやわらかく解れていくのが分かった。黙っていても耳に飛び込んでくる英語を聞いていると、周囲の人々がすべて敵のように感じられていたが、そうではないのだ。落ち着いた心で耳を傾ければ、どういうわけか、理解することができる。たおやかな調となって、耳の中に流れ込んでくる。
レオナール・ゴダンの自宅は、教会を通り抜けた先にある、白壁のアパートメントだった。目の前の歩道を行く人に挨拶をしながら、色鮮やかな緑色の扉の前に立ち、ゴダンはポケットから取り出した鍵で施錠を外している。
『ここと、隣の二件が私の持ち家だよ。隣はアトリエだ。あとで合鍵を渡すから、好きに出入りをして構わないからね──さあ、どうぞ入って』
ゴダンはそう言いながら、緑色の玄関扉を大きく開いた。
玄関を入ってすぐの正面の壁には、積み木で遊ぶ子供の様子を描いた絵画が飾られていた。そこに本物の子供がいると錯覚してしまいそうなほどの、写実的な絵だ。
『父の絵だよ。モデルは子供の頃の私だ。私は積み木遊びが好きでね、このときばかりはじっとして動かなかったから、モデルとしては優秀だったそうだ』絵画の前に居座っている更文の隣に立って、ゴダンはこのように話してくれた。『父はご覧の通りの写実主義者で、まるで写真のような絵画を描くんだ。だが、彼の評価すべき点は、リアリズム以上のリアルを描き出すということでね。父の絵には愛情深さが滲み出る。私はこの絵が大好きなんだ』
『レオは絵を描かれないんですか?』
『私かい?』
まさか質問をされるとは思っていなかったという顔で、ゴダンは目を丸くしている。しかし、すぐに人好きのする笑みを浮かべると、指先で頬を掻いた。
『私は生まれつき空間認識能力が異常に優れていてね、歪みが気持ち悪いんだ。ここまで写実的な絵を描く父の仕事にも文句をつけるくらい、歪んだ線が許せなかった。父はそれで随分鍛えられたと笑っていたけれど』
そのとき、奥の玄関を入った左奥に見えているリビングに荷物を置いた黒門が、とことことこちらに戻ってきて、ゴダンの隣に立った。
『写真や映像は、私が見たままのものを表現できる。写実的な絵を描くくらいなら、写真を撮った方が早いと思ったんだよ。その方が、余計なコストも掛からないだろう? 子供の頃の私は、父はどうして歪んだ線のために何ヶ月も無駄な時間を浪費しているのだろうと、本気で思っていたんだ。芸術を理解できなかった。あまりに身近にあり過ぎてね』
自分が何の気なしにした質問に、ゴダンは淀みなく答えを提示する。
ああ、この人はきっと、これまでに何度も、何度も、同じ質問を繰り返されてきたのだろうと、更文は思い、反省した。
『父は画家であると同時に、写真家でもある。私が彼の才能を正しく理解したのは、自分が趣味の域を超えて、本格的に写真を撮りはじめてからのことだった。正直、足元にも及ばないと思ったよ。父はあまりに偉大だった。こちらへおいで、父の写真を見せてあげよう』
ゴダンはそう言うと、黒門の背中に手を添えて、奥のリビングに行くように促した。
歪みが気持ち悪いのだという話を聞いていなければ、何も気にはならなかっただろう。だがしかし、その話を聞いた上でリビングを見渡してみれば、その言葉の意味を確かに理解することができた。
そのリビングには、驚くほど歪みがなかった。まるでモデルハウスかと見紛うほどに無駄がなく、完璧に整理整頓が成され、家具の配置にも強いこだわりを感じさせる内装だ。
更文はすぐに、この家に長く住むのは無理だと、そう思った。
息が詰まるに違いない。
高価そうな革張りのソファに二人を座らせたゴダンは、ディスプレイ化された本棚から、二冊の本を持ち出してきた。それを飴色に染まった一枚板のテーブルの上に置き、自らも向かい側のソファに腰を下ろす。
『こちらが、父が十九歳のときに自費出版した写真集だ。こちらが、私が二十代半ばの頃に出版してもらった写真集──どちらも処女作だよ』
ゴダンはそう言いながら、目の前の本を順番に手に取り、似たアングルの写真を隣に並べる。
『これは父へのオマージュのつもりで撮った写真だった。場所も、時間帯も、アングルもすべて同じだ。この写真の違いが分かるかい?』
そのゴダンの問いかけを聞いた黒門は、学校の授業で積極的に発言したがる生徒のように、うずうずとしていた。だが、今指名されているのは、更文の方だ。黒門はまるで答えを間違えろと言わんばかりの目で、こちらを見ている。
それは、何の変哲もない風景写真だった。手入れの行き届いた庭のようにも見える。目に見えて分かる違いは、そこにある木が大きく成長し、枝葉を伸ばして、葉を茂らせているということくらいだ。だが、ゴダンが求めている答えは、そんな単純な違いではないのだろう。
『……明暗の差、でしょうか』
『そうだね』途端に不満げな顔をする黒門を見て、ゴダンは笑った。『アナログ写真はダイナミックレンジが広いから、デジタルに比べると明暗の幅も広くなる。だから、あまりに安価なカメラを使用して撮影すると、ダイナミックレンジを超えた強い光を写したときに、白飛びをするんだ。大して、ダイナミックレンジに満たない弱い光は、黒つぶれになる』
分かるかな、と確認をされ、更文は小さく頷く。
今のところ、英語にも何とか付いていけていた。すべてを完璧に理解しようとするな、という先生の教えに従い、初めて出会った単語の数々は、頭の中のノートに書き留めておく。
『あの頃はまだデジタルカメラなんてものはなかったから、父の写真も、私の写真も、どちらもアナログで撮影されたものだ。でも、カメラの性能は大分違う。父の時代のカメラは、私が使用していたカメラよりも、このダイナミックレンジの幅が狭いんだよ。それなのに、父の写真は私が撮ったものよりもずっと、明暗の幅が広いんだ。今のカメラに比べたら、まるでおもちゃみたいな性能のカメラで、どんな技術を使えばこんなふうに撮影することができるのか、私には未だに分からない』
ゴダンはゆっくりと二冊の本を閉じ、それらを両腕に抱えると、ソファから立ち上がる。
『フミの質問は、私は絵を描かないのか、だったね』二人に背を向け、本棚に足を向けながら、ゴダンは続けた。『もちろん、絵を描くことはあるよ。必要があればね。でも、仕事として描くことはない。父が学生時代のサークル活動で撮影した作品にすら遠く及ばない写真しか撮れない人間が、父の背中を追って画家を目指すなんておこがましいだろう?』
ゴダンのその言葉は、更文の心に深く突き刺さるものだった。もしかしたら、黒門の心臓にも、ナイフを突き立てているのかもしれない。
『本当は写真もやめるべきだったのかもしれないが、その頃にはもう、次から次へと仕事の話が舞い込むようになってしまっていてね。オファーの切れ目が仕事のやめどきだと思っていたら、いつの間にかこの年だ』
『写真をやめて、その次はどうするつもりだったんです?』
『映像の仕事だよ』黒門の問いに、ゴダンはあっけらかんと答えた。『映像は父の管轄外だから、もしも映像で評価されることがあれば、それを親の七光だと言われることもないと思ってね』
『それで《斜陽の雲》を?』
『ああ、あれはね、予定外のことだったんだよ』
『……予定外?』
それこそ予定外の返答だったのか、黒門は目を丸くし、驚いたような顔をしている。だがしかし、ゴダンにはその話を深く掘り下げるつもりはないようだ。本棚の下の場所に写真集を戻すと、体をこちらに向け、壁に掛けられた時計を見やった。
『そろそろ出ようか』
それは酷く軽い口振りだったが、有無を言わせないような拘束力があった。更文と黒門は顔を見合わせ、席を立つ。
『帰ってきたらゲストルームに案内するよ。アトリエは──明日で構わないかな』ああ、そうだ、とゴダンは思い出したように声を上げた。『明日の予定は空けておくようにお願いしておいたよね?』
『はい』
『友人が主催するチャリティーイベントがソーホーのパブで行われるんだ。是非とも君たちを招待したいと思って、チケットを用意しておいたから、一緒に行こう』
『チャリティーイベントですか?』
『ロンドンで活躍するエンターテイナーたちが集まってショーをするんだよ。シンガーやバンドマン、ダンサー、役者──右を見ても左を見ても一流ばかり。昼間は出入り自由だけど、夜のショーはチケット制なんだ。今年は前評判が上々らしくてね。きっと見ておいて損はない。舞台関係者が多く集まる店だから、人脈も広げられるかもしれないしね』
『それはなんとも楽しそうですね!』
『では、その景気付けも兼ねて、今夜はキングズ・ヘッドで我々の親睦を深めようじゃないか。君たちの話をいろいろと聞かせておくれ。私の話ばかりでは不公平だろう?』
この年代の男性との付き合いは、他の若者に比べて多い方だと、更文は思う。玉阪座のお歴々連中や、高科流の師範代をはじめご贔屓衆などにも、この年代の男性比率が非常に多い。だが、レオナール・ゴダンはその中でも特に、腹の底が読みにくいタイプの人間だと感じる。
一見すると、年齢や人種の垣根を感じさせない、誰に対しても分け隔てなく接する柔軟な人物だが、常にどこか含みがあるのだ。長い間、オンラインで交流を続けてきた黒門には感じられないのかもしれないが、子供の頃から含みのある大人たちに囲まれて生きてきた更文には、なんとなく分かる。
そうと言い切れる理由も、根拠も、確証もないが、感じるのだ。
きっと、この人には、何か裏がある、と。
夢は見るだけ無駄だと、そんなふうに言う大人にだけは、どうしてもなりたくなかった。
バージルは、父親が弁護士、母親が政治家という、酷く硬派な家庭に生まれた。彼らはまるで口癖のように「夢は見るだけ無駄だ」と、幼いバージルに言い続けてきた。夢ではなく、現実を見ろと言った。
放課後や休日に友人と遊ぶことも許されなかった。遊んでいる暇があるのなら、自分の将来のために勉強をしろ──十歳にも満たない子供に向かって、お前も必ずオックスフォード大学に入学しろ、そのためには生活のすべてを犠牲にする覚悟を持て、などということを平気で言う両親だった。
唯一の息抜きは、週に一度通わされていた、バレエのレッスンだった。
当初は、適度な運動は脳を活性化させ、集中力や記憶力を高めるという研究結果に従い、母親が勝手に決めたことだった。だが、この母親の勝手な行動が、バージルの運命を大きく変えた。
週に一度、一回一時間程度のレッスンに、母親は愚かしいほどの月謝を支払っていた。父親はそれが気に入らず、バレエなど男らしくない、フットボールでもやらせておけばいいと言ったが、母親は息子が怪我をしたらどうするのだと言って、頑として首を縦には振らなかった。
どうやら、自分には才能があるらしい──そう気づいたのは、レッスンに通いはじめてから、一ヶ月程が過ぎた頃だ。
きっかけはピルエットだった。
当時、レッスンに通いはじめたばかりのバージルが教わっていたのは、基礎も基礎、体の動かし方や毎日の柔軟方法、ポジションの練習や、バーレッスンが主だ。
同じ年頃の子供たちは何人もいたが、彼らはもっと幼い頃からレッスンに通っていたり、バージルよりも長くバレエを続けている者ばかりだった。
妙に結託していた少年たちは、いつからか先生がいなくなった隙を見計らって、バージルに干渉するようになった。
政治家の息子ということもあり、両親からあることないこと話を聞かされていたのか、酷い言葉を投げつけられたことを覚えている。しまいには、バージルの稽古姿を悪意を持って真似、笑いものにする始末だ。
彼らはにやにやと意地悪く笑いながら、悔しかったらこれをやってみろと言って、順番にピルエットを披露してみせた。片足立ちでくるくると回る、中難易度の回転技だ。普通、初心者は一回転することすら難しい。
だが、バージルには、見よう見真似でそれができた。
当時の自分には、これがどれほど特異なことなのかが分からなかったし、何がすごいのかも理解することができなかった。
目に見た動きをそのままに再現する。
バージルにしてみれば、ただそれだけの、簡単なことだったのだ。
偶然その様子を見ていたのは、既にプロのバレエダンサーとして活躍していた、その教室のオーナーの息子だった。彼は何の前触れもなくふらりと現れては、フロアの隅で一人稽古をして、時々気紛れに踊って見せてくれる、気のいい男だった。
そんなのはただのまぐれだ、調子に乗るなと突き飛ばされたバージルを助け起こすと、男はあっけらかんとした口ぶりでこう言った。
「持たざる者の妬みだ、気にするなよ」
お前には才能がある、もっと本格的なレッスンを受けるべきだと言われたが、バージルに許されているのは、週に一度の初歩的なレッスンを受けることだけだった。
もっと本格的にバレエを学びたいと言ったところで、聞く耳を持ってもらえるはずもない。それどころか、今許されているこの時間すら、取り上げられてしまうかもしれない。
「分かった。じゃあ、こうしよう」バージルが事情を説明すると、それをただ黙って聞いていた男が、熟考の末に口を開いた。「俺が稽古をつけてやるよ。水曜のこの時間帯は、なるべく顔を出すようにする」
それからというもの、男はバージルのレッスンがある水曜日にほぼ毎回現れ、稽古をつけてくれるようになった。一時間という短い時間を使って、考えられないほどの課題を与え、来週の水曜日までに仕上げてくるようにと、無茶苦茶なことを言う。
バージルは学校の宿題と、親から与えられた、同じ年頃の子供たちよりも明らかにレベルの高い課題を片付けると、家政婦の目を盗んでバレエの稽古に勤しんだ。
毎日へとへとになってベッドに倒れ込んだが、こんなにも楽しく、充実した日々を送ることは、幼いバージルにとって初めての経験だった。毎週、水曜日が楽しみで仕方がなかった。
だが、幼いバージルは、夢は見るだけ無駄なのだと、そう思わされることになる。
以前、バージルにちょっかいを掛けてきた子供が、あいつばかりがプロに教わって不公平だと、そう自らの親に告げ口をしたのが、ことの発端だった。母親が政治家だから贔屓にされているのだと、ありもしない噂が広がり、それが両親の耳にまで届いてしまったのだ。
母親は激怒した。父親はバレエなどやらせるのが悪いのだと言って、自らの妻を責めた。誰も悪くなどないのにと思いながら、幼いバージルはその週の水曜日、初めてバレエのレッスンを無断で休んだ。
それからというもの、本当に散々なことばかりが続いた。元々悪かった両親の仲が悪くなり、離婚。親権争いは泥沼化だ。しかもそれは、息子を取り合うものではなく、押し付け合うためのものだった。
アランやイライアスの前では、絶対に口にすることはできない。だが、幼かったバージルは確かに、間違いなく、このように思っていた。施設でもどこでもいい、この親元から離れて暮らせるのなら、たとえ監獄の中でも構わないと。
親権を押し付けられたのは、弁護士である父親の方だった。父親はバージルを寄宿学校に放り込むことを決め、手続きを進めていた。
「まったく、金のかかるガキだ」
自分が生まれたのは体裁のためだと知った。いつまでも独身で居続けるより、結婚をした方が生きやすいコミュニティの中で、両親は生きていた。要は、信用のためだ。本当は子供など欲しくもなかったが、母親は政治家としての印象を良くするため、父親は両親の期待に応えるためだけに、子を儲けた。二人の間に愛情があったのかは知らない。だが少なくとも、バージルはこの二人から、愛情を感じたことはない。
とある水曜日の放課後、バージルは家を抜け出して、バレエ教室まで足を運んだ。もう何週間も前に辞める旨は伝えてあった。だが、無断でレッスンを休んだあの日から、一度も男には会っていない。どうせなら寄宿学校に入れられる前に会いに行って、謝罪しようと、そう考えたのだ。
正直、期待はしていなかった。
だが、その男はいつものように、フロアの隅で、気紛れに踊っていた。
「よう」鏡越しに目が合うと、男はこちらを振り返り、にっと晴れやかに笑った。「稽古は続けてるんだろうな」
「うん」
「そっか」
両親が離婚をすること、父親に引き取られること、自分はそのまま寄宿学校に入れられることを訥々と話す。男はあの日と同じように、最後まで黙って話を聞いていてくれた。そして、バージルが話し終えると、ふうん、と相槌を打って、不満そうに下唇を前に突き出し、その場に立ち上がる。
「お前はどう思ってるんだ? それで納得してるのか?」
「僕にはどうすることもできないよ」バージルは眉を顰め、小さく肩をすくめた。「僕はまだ子供だもの」
「でもお前、バレエが好きなんだろ?」
「分からない」
「分からないなんてことはないだろうが」
「僕にとってバレエは現実逃避をする手段の一つだったんだ。熱中している間だけは、嫌なことを全部忘れられた。バレエを好きかどうかは分からないけど、踊るのは楽しかった」
「現実逃避ねぇ」男は頭を掻きながらそう言ったかと思うと、再びその場にしゃがみ込み、バージルの目をじっと覗き込んでくる。「さてはお前、自分がどれだけ稀有な存在なのか、分かってないな?」
「僕はただの子供だよ」
「お前はただの子供なんかじゃない」男は右手の人差し指を、バージルの胸元にそっと押し当てた。「とんでもない才能がある」
「その才能は僕が生きる手助けをしてはくれない」
「……お前、子供のくせに随分難しいことを言うんだな」
「政治家と弁護士の子供だから」
「なるほど」
「両親は、僕が自分たちの人生を滅茶苦茶にしたって言うんだ。僕が生まれて、何もかも変わってしまったって。それなのに、僕を《自分の子供》という道具として扱うんだよ」
「……」
「父さんは時々僕を職場に連れて行って、クライアントの前で模範的な父親のように振る舞う。母さんは僕をマスコミの前に連れ出して見せ物にするんだ。僕はその度に、自分の心を偽って、両親に愛されている幸せな子供を演じる。そうやって有用性を証明し続けていれば、僕はあの人たちに世話をしてもらえるから」
何不自由のない生活を送らせてもらっていた。食事はきっちり食べられていたし、趣味ではなかったが高価な衣服も買い与えられていた。恵まれた環境だった。誰かの両親と取り替えてもらいたいという願いは、ただのわがままだ──あの頃は、本気でそう思っていた。
だが、今、かつての自分と似た環境、境遇の子供と出会ったら、なんとかしてその場所から救い出してやりたいと思うだろう。両親からの愛情を得られず、都合の良い道具のように扱われ、日常的に蔑まれる──それは、虐待だから。
「夢は見るだけ無駄なんだ。だから、もっと現実を見て生きていかないと」
あの頃から、自分の心はどこかおかしくなっていたのだろうと、バージルは思う。しかしながら、自分ではそれに気づけなかった。大人びてはいても、ただの子供だったのだ。子供なりに、懸命に生きていた。
幸い、寄宿学校に入れば、親元から離れて生活することができる。抑制される日々ともさよならだ──それだけが、救いだった。
「俺はお前に夢を見せてやりたいよ」
どうしようもないことだ。当時は、あの男のことを随分年上の大人だと認識していたが、実際には二十歳そこそこの子供だった。あの男も、目の前で苦しんでいる子供一人救えない自らの不甲斐なさを、悔しく思っていたことだろう。
後日、バージルは父親が選んだ名門の寄宿学校に入学した。
だが、そこでの生活は、そう長くは続かなかった。父親が交通事故に巻き込まれ、帰らぬ人となったのだ。
バージルは自宅と多額の遺産を相続したが、当然のことながら、成人するまでは一ペンスも引き出すことはできない。そもそも、あの父親が、自分を相続人に指定していたこと自体が、バージルにとっては意外なことだった。
当然の如く、母親はバージルの引き取りを拒否した。
父方の祖父母はカナダに移住していたので、国内にいる親類は、父親の弟しか残されていない。バージルは生まれてこの方、父親の弟になど会ったことがなかったし、それどころか、父親に弟がいたことすら聞かされていなかった。
「あいにくと、父と母は飛行機移動に耐えられる体ではなくてね」葬儀を手伝ってくれた叔父が、申し訳なさそうにそう言った。「だから今日は、縁を切られたはずの僕に白羽の矢が立ったのさ」
バージルが病院に到着すると、叔父は既に遺体の身元確認と、葬儀場の手配を行なってくれていた。
病院に到着してすぐ、学校から付き添ってくれていた教師は、父親の事故死の知らせは何かの間違いだったのだと、そう思ったようだ。なにせ、叔父は父親に瓜二つだった。一卵性の双子の兄弟だったのだ。葬儀に参列した父親の仕事の同僚や旧友たちは、叔父のことを酷く気味悪そうに見ていた。
「さて」父親の墓石の前で、叔父は途方に暮れた様子もなく、飄々とした口振りで言った。「これからどうしていこうかね」
母親は元夫の葬儀に姿を現すことはなかった。相変わらず仕事が忙しいのだろう。そうでなければ、息子に会いたくないのだ。ここに現れればどうしたって、息子のこの先について話し合わなければならなくなる。
「学校に戻るか?」黙り込んでいるバージルを見やり、叔父は言った。「学費の心配はいらない。少なくとも卒業までは面倒を見てやるから」
「……叔父さんは、何のお仕事をしているんですか?」
「舞台美術関係のデザイナー」
「それはお金をたくさんもらえるお仕事?」
「ん? んー、まあまあってところかな」
「高い学費を払って僕を寄宿学校に厄介払いするのと、一緒に住んで公立の学校に通わせるの、どちらがマシですか?」バージルがそう言うのを、叔父は驚いた顔で見つめていた。「どちらでも学費は将来働いて返します」
「……あいつら夫婦がお前をどんなふうに育ててきたのか、なんとなくだけど分かったような気がするよ」
はあ、と大きなため息を吐かれ、幼かったバージルは肩を窄めるようにして、身をすくめた。
「俺はどっちだって構わないんだ。お前が好きな方を選べばいい。俺はその気持ちを可能なかぎり尊重してやりたいと考えてる」
「僕、自分の意思で何かを決めたことなんてない」
「別に今すぐ決めろとは言わねぇよ。ゆっくり考えな。仮に学校に戻ってからでも、やっぱり俺と住んでみたいと思ったら、寄宿学校なんて辞めちまえばいい。あいつに遠慮する必要なんかねぇからな」
「あいつ?」
「お前の父親だよ。あいつは死んだ。もうどこにもいない」
叔父は幼い頃から舞台美術に夢中だったらしい。限られた狭い範囲内で、目まぐるしく姿形を変える舞台装置を眺めては、うっとりしていたという。子供の頃に何度も劇場に忍び込んでは、こっぴどく叱られていたそうだ。
アルバイトをして得た給料のほとんどを舞台に注ぎ込んでいたが、かといって舞台を観劇するでもなく、暗い客席で舞台装置のスケッチばかりをしていると、ある日、美術監督から声を掛けられたという話を聞いたことがある。舞台を観るでもなく、客席でスケッチブックを抱えてひたすら絵を描いている若者がいるという話が、その界隈では知れ渡っていたらしい。
叔父はそれからすぐ、美術監督に劇場のマネージャーを紹介され、雑用として働かせてもらえることになった。
叔父は更に加速度的な勢いで舞台美術の世界にのめり込んでいったが、両親はそれを快くは思っていなかったという。双子の兄は両親が望む通りに成長していく傍ら、弟は両親の希望など顧みることもせず、自らの世界に没頭し続けた。
叔父が、将来は舞台美術に携わる仕事をしたい、舞台美術を学べる大学に行きたいと告げると、ついに両親の堪忍袋の緒が切れたという。そんな大学に行くための費用は一切出さない。行きたければ自分で稼いで行けばいい。そんな親不孝な息子は勘当だ──叔父は喜んで家を出たと言った。
叔父は、何個も何個もアルバイトを掛け持ちし、学費を稼ぎながら大学に通った。もちろん、劇場の雑用も続けていた。叔父がこっそり寝泊まりしていた劇場の備品倉庫の前には、なぜかいつもウイスキーの空瓶が置かれていて、いつの間にかカンパでいっぱいになっていたそうだ。
「俺は俺の好きなように、自分の思う通りに生きてきた。家族は俺を否定したけど、周りの大人たちが俺を肯定してくれたから、夢を諦めずにいられた。家族に失望されたところで毛ほども胸は痛まなかったけど、俺を助けてくれた人たちに失望されたらと考えるだけで、体が震えた。期待に応えたいと思った。だから、死に物狂いで頑張ったんだ」
両親はいつもバージルに失望していた。
思う通りにならない息子を見て、ため息ばかり吐いていた。でも、両親が思う通りのことをしたところで、可愛げのない子供だと罵られた。だから、バージルは両親に期待することをやめたのだ。
水曜日。
週に一度、一時間だけの、バレエのレッスン。
あの男だけが、バージルと真正面から向き合ってくれた。優しくしてくれた。褒めてくれた。認めてくれた。だから、この人にだけは失望されたくないと、死に物狂いで頑張ったのだ。
「夢ってものは、簡単に手に入るもんじゃない。夢に手が届くまでの過程のすべてには、常に現実がつきまとう。がむしゃらに夢を追いかける姿ってのは、見ようによっては醜くて、泥臭いもんだ。でも、人はそんな姿に魅入られるし、応援してやりたくなるのさ」
いつも、フロアの隅で踊る、あの男の姿を見ていた。初めて話しかけてくれたあの日よりも、ずっと前からだ。周りの人々の無駄話の輪に入ることなく、ただ自分を磨くことだけに没頭していた。その姿が美しくて、格好良くて、自分も努力をすれば、あんなふうになれるのだろうかと、思ったこともあった。
本当は、気にかけてもらえて、才能を認めてもらえて、泣きたいくらいに嬉しかった。だが同時に、虚しくもあった。自分は叶わない夢を見てると分かっていたから。
「もっと大人を頼れ。お前を助けてくれる大人は見返りなんか求めちゃいない。自分がそうしたいから、そうしているだけなんだ。ただの自己満足なんだよ。だからお前は、何かを返さなきゃいけないなんて、そんなふうに思う必要はねぇんだ。でも、お前がいずれ大人になって、かつての自分みたいな子供と出会ったなら、自分がしてもらったように、その子に手を差し伸べてやるんだ。なんの見返りも求めず、助けてやってほしい。そうすれば、その子もいつかまた、俺たちみたいな子供を助けてくれる」
その後、バージルは寄宿学校には戻らなかった。ロンドン市内にある叔父の家で、共同生活を送ることにしたのだ。
十一歳になるまでは、公立のプライマリースクールに通いながら、放課後は毎日、バレエのレッスンに励んだ。そして、十一歳になった年には、ロイヤル・バレエ・スクールに入学し、卒業までスクールの寮に寄宿して、バレエ漬けの生活を送らせてもらった。
結果、バレエは自分の性に合わないと結論付け、バージルは単身、アメリカはブロードウェイに向かうことを決める。タップダンスと出会うのは、もう少しあとのことだ。
両親が離婚して以降、母親とは一度も会っていない。小耳に挟んだ話によれば、何年も前に支持率を下げて政治家を失脚してからは、どこかの田舎で隠遁生活を送っていたそうだ。重い認知症を患っているらしく、施設に入院しているそうだが、今となっては、自分に息子がいたことすら覚えていないという。
「……ったく」ベッドの上で、クソが、と小さく悪態を吐く。「最悪の寝覚めじゃねぇかよ」
カーテンの外はまだ暗い。体感的には午前五時頃だが──枕元に置いているスマートフォンに指先が触れると、目に染みるほどの強い光がバージルの顔を照らし出す。時刻は案の定、午前五時を迎えたばかりだった。
もう三十年ほど前の話だ。
それなのに、こうして未だ、夢に見ることがある。
叔父は今でも現役で舞台美術の仕事を続けている。ロンドンに帰ってきてから携わった舞台のいくつかで、偶然顔を合わせることもあった。劇団カオスの公演には毎回招待している。
「高い金を払ってロイヤル・バレエ・スクールに入れてやったっていうのに、首席で卒業しておきながら、やっぱりバレエは性に合わんと言い出したときは、正直なところ、ぶん殴ってやろうかと思ったがなぁ」たまに飲みに誘ってやると、叔父は酔いに任せて、当時のことを冗談めかして口にする。「まあ、今となっては、お前は俺の自慢の息子だよ」
バージルはベッドから起き上がると、のろのろと着替えを済ませ、軽く体を動かして水分補給をしてから、外に走りに出た。今のところは雲一つない空を見上げ、大きく深呼吸をする。
叔父は、いずれ大人になって、かつての自分のような子供に出会ったのなら、何の見返りも求めず、自分がしてもらったように手を差し伸べ、助けてやってくれと言った。だが、それがまさか、あんなに図体も態度もでかい、年齢もそこそこに重ねた野郎を助けてやることになろうとは、さすがに思ってもみなかった。
それでも、叔父の言葉が正しかったことは、証明されている。
バージルの手をしっかりと掴んだアラン・ジンデルは、その数年後、遠い異国の地からふらふらとやって来た立花希佐に、同じように手を差し伸べてくれたのだから。
人の思いは連鎖する。
善意も、悪意も、同じように。
気の赴くままに走っていると、バージルの足は自然と、二人が暮らすスタジオの方に向かっていた。ちらほらと灯りの点いている部屋が見える住宅街の中を、足音を殺すようにして走る。今は硬く門戸が閉じられている教会の前を走り抜け、目の前の角を曲がれば、すぐにスタジオが見えた。
「おっ」その姿を認め、意外に思って声を上げると、そこに佇んでいた男がこちらを見た。「こんな朝早くにどうしたよ、イライアス」
「……別に」
まるでシャワーを浴びた後のように、ぐっしょりと汗で髪を濡らしているのを見ると、もう随分と走り込んだ後のようだと分かる。
スタジオの灯りは点いている。
誰かが踊っている気配があった。
「入らねぇのか?」
「邪魔をしたくない」
ここ何日か、イライアスの様子がおかしいことには気づいていた。その理由にも察しはついている。
イライアスの視線の先には、いつも希佐の姿があった。見つめるというよりも、睨みつけると言い表した方が正しい眼差しで、ただじっと凝視していた。いや、これも観察や監視と表現した方が適切なのかもしれない。
「お前は誰に遠慮をしてるんだ?」バージルがそう問うと、イライアスはこちらを横目に見た。「いや、お前が誰かに遠慮をしてるのは、今にはじまったことでもねぇか」
イライアスは自分の能力にストッパーを掛けている。自分の才能が、同じ舞台に立つ人間の自尊心を、消し炭にしてしまった経験が尾を引いているからだ。だが本来、それを自分のせいだと気に病む必要はない。その程度で折れる人間は、いずれどこかのタイミングで折れていたはずだ。
イライアスは優しすぎるのだ。誰かを犠牲にするくらいなら、自分が犠牲になると言うのだろう。自分が我慢をすれば、舞台はどこまでも円滑に進むと信じている。だが、それは同時に、同じ舞台に立つ仲間たちを見くびっていることにもなるのだ。
「お前、自分の本当の思いをキサに知られるのが怖いんだろ」バージルが茶化すでもなくそう言うと、イライアスは鋭い眼差しを向けてきた。「あいつにヘタクソって言ってやれよ。自分の方が、お前より上手く踊れるって」
「そんなこと──」
「お前は自分がキサよりも上手く踊れることを知ってる。でも、それを証明しようとはしない。お前はさ、自分はまだ本気を出してないっていう言い訳を担保にして、キサと直接対決するのを避けてるんだ。あいつは三年前より明らかに踊れるようになってる。それは、昨日のリハーサルで思い知っただろ?」
「……」
「あいつは本番で更にギアを上げてくるぞ、イライアス」今度は挑発をするように、片方の口の端を持ち上げて、嫌味っぽく笑ってやった。「それで、お前はどうする? 本当は自分の方が上手く踊れるのにって思いながら、いつまでもキサの陰に隠れてるつもりか? あいつは、お前と踊っているときよりも、アランと踊っているときの方がずっと生き生きしてるよな」
当初はどうなることやらと心配しかしていなかったが、あの二人は間違いなく、良い方向に転がっているのが分かる。互いが考えていることを正確に言語化し、理解しようと努めている。衝突し、文句を言い合い、譲歩しながらも、確実に前へと進んでいる。
「──は、僕だ」
「なんだって?」
「僕が一番だ」
「へえ」
今のところ、あの二人とイライアスとでは、覚悟の質が違う。
舞台に立つ人間ならば、大なり小なり、各々覚悟を背負っていて当然だ。
成功と失敗。名声と醜聞。あの二人にとっては、生か死かの問題も関わってくるのだろう。イライアスには、また次がある。だがあの二人には、もう次がない。当人たちは、そのように考えている。
これが最後になるのならと、全力で挑んだ末に、もし、満たされてしまったとしたら。歩みはそこで止まってしまう。あの二人を、ここで終わらせるわけにはいかないのだ。
「俺はお前より上手く踊るぞ、イライアス」これは、挑発ではない。「俺が一番だ」
バージルにとっては、首席になることも、何かで一等賞に輝くことも、誰よりも上手く踊るということも、どうだってよかった。ただ自分が楽しければ、何かに熱中できてさえいれば、夢中で没頭できるものさえあれば、それだけでよかった。それをしている間だけは、他のことを考えずにいられる。ただそれだけが重要だった。
そもそも、誰よりも上手く踊りたい、一番になりたいなどと願わずとも、最高の結果はいつだって、バージルの手の中にあった。
普段は無表情の仮面を被っているイライアスの表情が、不快そうに歪む。
イライアスは、昔からバージルのことをみくびっている節があった。その認識は、ここ最近で幾分改善したものとばかり思っていたが、イライアスは本気で、自分の方が上手く踊れると考えているらしい。
「試してみるか?」
バレエの世界が自分の性に合わないと思った一番の要因はこれだ。
美しさの競い合い。
醜さの排除。
嫉妬と憎悪にまみれた世界。
それが悪いことだとは言わない。バージルには合わなかった、というだけの話だ。だから、ロイヤルバレエ団からの誘いを蹴り飛ばして、単身ブロードウェイに旅立った。だがしかし、この世界はどこもかしこも、寝ても覚めても、嫉妬に狂っていることに違いはなかった。
「来いよ、イライアス」スタジオの扉に向かって歩き出しながら、バージルは言う。「その鼻持ちならねぇ自信を、完膚なきまでに叩きのめしてやる」
バージルは、自宅の鍵と同じキーホルダーに括り付けてあるスタジオの鍵を手に取るが、それを鍵穴に差し込むよりも先に、内側から施錠が外される音が聞こえてきた。反射的に身を引いたバージルを、少しだけ開いた扉の隙間から見上げたのは、他ならぬ希佐だった。
「ああ、なんだ、バージルか」どこかほっとしたような面持ちを浮かべ、希佐は胸を撫で下ろしている。「外から話し声が聞こえてきたから、誰かいるのかと思って」
「誰かも確認しないで開けるなよ」
「スタジオを使うの?」あ、おはよう──慌てたように挨拶をする希佐の肩に手を乗せ、バージルは後ろを振り返った。「イライアスも来ていたんだね。おはよう」
「……」あからさまに機嫌が悪い。どうやら相当ご立腹のようだ。「……おはよう」
希佐はほんの一瞬だけ気まずそうな表情を滲ませてから、いつものようににこりと笑った。扉を大きく開き、バージルとイライアスを招き入れる。
「二人とも、今日の調整をしに来たの?」
「いや」バージルは首を横に振る。「俺もこいつも朝のランニングの途中でばったり鉢合わせただけだ」
「そうなんだ」
汗だくのイライアスを見かねたのだろう、希佐は自分のタオルを持ってくると、それを差し出してやっている。希佐の好意を無下にするつもりはないようだ。イライアスはタオルを受け取ると、素直に感謝の言葉を口にし、顔の汗を拭っていた。
「Bonjour à tous.」大きく欠伸を漏らしながら事務室からルイが出てくる。「Je ne dors pas bien sur un canapé mort.」
肩と首を回しながら、うんざりとした様子で言うルイを見て、希佐は苦笑いを浮かべていた。しかし、想定外の人物の登場に目を丸くしているバージルを見ると、希佐は言った。
「夜遅くまで稽古をつけてくださっていたの。ベッドを使ってくださいって言ったんだけど、仮眠を取るだけだから事務室のソファでいいって」
「随分面倒見がいいんだな」
「Je suis venu la voir danser. A la demande de la Reine.」
「フランス語は分からねぇって言ってるだろうが」
「アナタたちは何をしに来たのデス?」
「決闘だよ、決闘」
「Duel?」
ルイは半開きの目を何度か瞬かせながら、バージルとイライアスを交互に見た。ぶすっとしている教え子の顔を目の当たりにし、ふうん、と相槌を打つ。
「Kisa, viens ici.」
「あ、はい」
希佐はルイに連れられて、事務室の方に引き上げていく。一度、心配そうに後ろを振り返るが、バージルが大丈夫だというふうに手の平を見せると、小さく頷いて事務室に入っていった。
「なにで決闘をするの」
「おっ、やる気満々じゃねぇか」
バージルはジャージの上着を脱ぎながら、カオスのそれぞれに割り当てられているロッカーの前に立つ。その場でランニングシューズと靴下を脱ぎ、ロッカーの奥に押しやられていたバレーシューズを取り出して、軽く埃を払った。
「俺はなんだって構わねぇけど、まあ、せっかくだからコンテンポラリーにでもしておくか」
「……僕を馬鹿にしてる?」
「まさか」
バージルは至って真面目な面持ちで首を横に振った。
イライアスは、自らのコンテンポラリーダンスに、絶対的な自信を持っている。国際的なコンクールでも高く評価されてきた。だが、それはバージルも同じだ。
「そうだな」バージルは現時刻を確認してから、スマートフォンをロッカーに入れた。「七時になったらはじめよう」
何やら不穏な空気が漂っている。
二人の間に何があったのだろうと思いながら、希佐が事務室の扉の影からスタジオの方を眺めていると、ソファに腰を下ろしたルイが小さく笑った。
『まだ何もはじまりはしないよ、キサ』
『まだ?』
『強硬手段に出たんだね、彼は』
自らの隣を指し示すルイを見て、希佐は張り付いていた扉の前から離れ、ソファに腰を下ろした。それでも二人のことが気になり、肩越しに振り返っていると、ルイが再び口を開く。
『君には人の心配をしていられるほどの余裕があるの?』
『あ、あの、いえ……』
『もっと自分のことに集中するべきだといつも忠告しているよね』
『それはもちろん、分かってはいるのですが』
『私がこれだけ言っても、君は二人のことが気になるのかい?』
『……はい』
イライアスとのパートナー関係はうまくいっていたと思う。互いが互いを尊重し合いながら、大きな衝突をすることもなく、平穏無事にやってきた。だが、本当は分かっていた。自分は、イライアスに我慢をさせているのだと。イライアスが本来の実力を発揮できないのは、希佐自身の実力が遠く及ばないことが原因なのだと。
その実力の差を少しでも埋めるための努力を怠ったことはない。ルイの指導を受けるようになってからも、度々相談はしていた。だが、ルイはいつも呆れたような顔をして「君はもっと自分のことに集中しなさい」と言う。
それはまるで、君が彼のためにできることなど何もないと言われているようで、希佐はそれをどこか寂しく感じていた。
「朝稽古をするんじゃなかったの」
ノートパソコンを抱えて階段を降りてきたアランが、ソファに座っている二人を見て困惑した顔をする。ルイはアランに向かって小さく肩をすくめてみせると、スタジオの方を指差した。アランはソファの後ろを通り過ぎ、スタジオの方をほんの少しだけ覗き込んでから、すぐに踵を返す。
『君がいつまでも放っておくから』
「俺は自分の世話で忙しい」
『イライアスは見捨てられたと思うかもしれないよ』
「フォローはしてる」
『でも彼は置いてけぼりだ』
「あの課題を与えたのはバージルだろ」
『ああ』
「だったらあれはバージルの仕事だ」
英語とフランス語で成り立っている会話を聞いていると、頭がくらくらとしてくる。会話の内容もろくに頭に入ってこない。寝不足のせいだろうかと思いながら、こめかみの辺りを親指の腹で押し込んでいると、ルイが声を掛けてきた。
『寝てないの?』
『寝ました』嘘は言っていないと思いながらも、責めるようなルイの眼差しを受けて、希佐は根負けをする。『一時間くらいですが』
『緊張してる?』
『いいえ』首を横に振る希佐を、ルイは注意深く見つめていた。『どちらかといえば、ワクワクしています』
『そうか』
アランは机に向かって腰を下ろし、パソコンを立ち上げている。イベント本番当日の朝も、いつもと同じように、仕事のメールチェックは欠かさないようだ。ルイはその後ろ姿を一瞥してから、ふう、と小さく息を吐いた。
『あと一歩足りないんだよ』
「え?」
『イライアスが今回の課題を物にするためには、もう一踏ん張りする必要があるんだ。彼の先生としては、もっと丁寧に導いてあげたいものだけど』ルイは肘掛けに頬杖をつき、どこか不満そうに口角を下げた。『バージルはイライアスの自尊心を木っ端微塵に粉砕するつもりなんだろうね』
『……そんなことをして大丈夫なんですか?』
『さあねぇ』
『それなら、やめてもらった方がいいのでは……』
『とはいえ、今のところ他に方法がないというのも事実だし』長く下がった前髪を掻き上げながら、ルイはスタジオの方に視線を投げる。『困ったものだね』
バージルとイライアス、どちらもこの世界では名の知れたトップクラスのダンサーだ。二人の実力は疑いようもない。しかし、得意としているジャンルが違う以上、競い合ったところで勝敗はつけられないのではないかと、希佐は思った。
コンテンポラリーダンスで優劣を競うのであれば、それはもう考えるまでもなく、イライアスに軍配が上がるのではないか。だが、ルイの様子を見ていると、まるでイライアスの敗北を確信しているかのような態度だ。
『バレエ界には、若手の登竜門と言われている、とある国際的なコンクールがあるんだ』私も参加したんだよ、と言ったルイは、一瞬だけ懐かしそうに目を細める。『イライアスは既にプロとしての実績があったから、残念ながらこのコンクールに参加することはできなかったが、実際に参加をしていれば、かなり良い成績を収めることはできただろうね』
時刻は六時半を回っていた。
だが、七時までには、まだ少し時間がある。
『ある年、このコンクールに一人の逸材が現れた。彼は数多くの個性豊かな若いバレエダンサーの中でも、特に抜きん出た才能の持ち主だった。最優秀賞を受賞し、コンクールが開催されて六十年近く経つ中で、十数名程度にしか与えられなかった金メダルを授与され、同時に、コンテンポラリー賞を受賞した。その瞬間、彼の将来は約束された。世界各国のバレエ団が、彼という最高峰のダンサーを欲した』
誰の話をしているのかは分からない。しかし、希佐にはそれが、誰の物語なのかが、分かるような気がした。
『だが、彼は世界から認められ、将来を約束されておきながら、バレエダンサーの道には進まなかった。成功が確約されている世界を捨て、新たな世界へと旅立った。彼は今、自らの名前を捨て、別の名前を名乗って、その人生を謳歌している』
『……それが、バージルってことですか?』
希佐がそう問いかけても、ルイは曖昧に笑うばかりだ。アランはパソコンの前に座ったまま、メールの返信作業を続けている。ルイの言葉に特段驚いた様子はなく、至って平常運転だ。
『かくいう私も金メダルはもらえなかったのだけど』
どこか遠い目をして言うルイの横顔を見やりながら、希佐は不意に思い出していた。ルイがはじめてこのスタジオを訪れた日のことだ。ルイにせがまれて電話をかけたとき、バージルはルイの名前を伝えただけで、パリ・オペラ座バレエ団のエトワールと、そう言い当てていた。
『テアトル・ド・パリの舞台で彼が踊っているのを見たとき、すぐに分かったよ。あのときの少年だって。コンクールの舞台で踊っている姿を見たときから、ずっとファンだったからね』
改めて、この世界はどこで誰に見られているか分からないのだと、希佐は思い知らされる。たとえ名前を変えたところで、一目で正体を見抜く人がいる。もしかしたら自分も随分前から、そういう人の目に晒され、正体を見抜かれていたのかもしれない。
『一度注目を浴びてしまうと、大きな代償を払わなければ、それ以前の生活を取り戻すことはできない。彼はロンドンでの生活に一度区切りをつけ、拠点をブロードウェイに移した。環境と名前を変えてようやく、彼は何者でもない日々を取り戻すことができたんだ。今となってはほとんど別人だよ』
その場にすっくと立ち上がったルイは、ソファをぐるりと回り込んで、事務室の扉の前で足を止める。スタジオでウォームアップをしているバージルの姿に目を留めると、眩しそうに目を細めていた。
『でも、彼の基盤にはバレエがある。聞くところによると、匿名でバレエの振り付けもやっているみたいでね。それは主に、コンテンポラリーだという話だよ』
七時少し前になると、ただ黙ってスタジオの様子を眺めていたルイが、事務室の扉をそっと閉めた。メールのリプライが終わったのか、スプリングを軋ませながら大きく伸びをしたアランが、椅子ごと後ろを振り返る。
『見たいんじゃないの』
『それは野暮というものだろう?』
『そう』アランはそう言って少しだけ笑うと、椅子から立ち上がった。「だったら、食事にしよう」
二階に上がり、アランが焼いてくれたパンケーキを三人で食べていると、程なくしてバージルだけがキッチンに現れた。勝手知ったるというふうに冷蔵庫を開き、よく冷えたペットボトルの水を取り出して、それをごくごくと飲み干していく。
「うまそうだな」
「食べるなら焼くけど」
「食べる食べる」
バージルはそう言うと、一瞬で空になったペットボトルをゴミ箱に放り込み、手を洗ってからルイの隣に腰を下ろした。入れ替わりに席を立ったアランは、冷蔵庫の中から余っていた生地を取り出して、再びフライパンに手を伸ばしている。
「バージル」あっつー、と言いながらTシャツの裾で顔の汗を拭っているバージルに、希佐はバスルームから取ってきたタオルを渡した。「イライアスは?」
「Thanks」そう言ってタオルを受け取ったバージルは、それに顔を埋めながら口を開く。「下で転がってる」
「今日は大事な日なのに、どうして──」
「目障りだったからだよ」
「……え?」
「目障りだったんだ」
バージルの声がくぐもっていたので、希佐は自分の聞き間違いだろうかと思ったが、そうではなかった。タオルから顔を上げたバージルは、同じ言葉をもう一度繰り返し、大きく息を吐く。
「あんな状態で舞台に立たせたら、お客に中途半端なものしか見せられないだろ」
「だからって」
「お前にあいつをどうにかできたか?」
「それは……」
「どうにかできるなら、とっくにどうにかしてたよな」
イギリス式の薄いパンケーキは、あっという間に焼き上がり、すぐに搾りたてのレモン汁と、粉砂糖がふりかけられた。四つ折りにされた二枚のパンケーキは、白い皿に乗せられ、バージルの目の前に置かれる。アランは無言のまま、ナイフとフォークをナプキンに添え、自らの席に戻った。
「本来のあいつはな、それはそれは意地汚い、自己顕示欲の塊のようなやつなんだよ。舞台に立てば自分が一番だと信じて疑わない。実際のところ、あいつは自分より上手く踊るやつを全員舞台から蹴落として、観客の視線を一身に浴びたいと思ってる」
バージルは、悪口とも陰口ともつかない言葉をつらつらと吐き出しながら、ナイフとフォークでパンケーキを切り分け、口元に運ぶ。
「でもな、そんなふうに思う自分を、自分自身が誰よりも軽蔑してるんだ。プライドが許さねぇのさ。あいつは、自分の中にある浅ましさを誰にも見られたくないから、必死になってそれを隠そうとしてる。それが、俗にいうところの、自分の殻を破れないってやつでな。あいつにとっては、何よりも見栄えが大事ってことなんだよ。美しくなかったら意味がねぇってな」
「美しくなければ、意味がない……」
『イライアスはバレエ畑で育った子だからね。あの子にとって、美しさは正義なんだ』何を言ってるのかさっぱり分からん、という顔でパンケーキを食べ進めているバージルを見て、ルイは小さく唸りながら言葉を探している。「私には、彼の気持ち、分かりマス」
「俺だって分からないとは言ってねぇよ」
『あなたは美しいものを美しいと称賛するのではなく、醜さの中にも美しさを見い出すべきだと考えている』
「だから──」
『あなたが旅に出た本当の理由が分かったよ』
そう言ってにこにこと嬉しそうに笑うルイを見て、バージルはうんざりしたようにため息を吐いていた。
朝食の最中、アランが三人の話に口を挟むことはなかった。バージルが家に帰ると言って席を立てば、ルイもイライアスの様子を見てくると言い、遅れて階段を降りていく。
バージルを見送った希佐が、キッチンに立って食事の後片付けをしていると、アランはようやく口を開いた。
「俺がイライアスを焚き付けたんだ」
「焚き付ける?」
「イライアスは、君の七つのヴェールの踊りを目の当たりにして、酷く打ちのめされてた」
「ああ」
思うところがあった希佐は小さく声を漏らすと、アランの話を聞くために蛇口を捻って水をとめる。後ろを振り返れば、テーブルに腰を預けたアランが、大きな背中を丸めてこちらを見下ろしていた。
「怒っているみたいに見えたから、私が何かしてしまったのかなって」
「そうじゃない」アランはそう言いながら冷えた希佐の手を取り、温めるように両手で包み込んだ。「君は悪くない」
いや、必ずしも悪くないとは言い切れないと、希佐は思った。
少なくとも、イライアスと何か話をすることはできたはずだ。しかし、希佐はそうしなかった。今はそっとしておいた方がいいだろうと判断し、あえて距離を置くことを選んだ。もしその選択がイライアスを苦しめていたのだとしたら、謝らなければならない。
「待ってやって」
「え?」
「イライアスなら大丈夫だ」でも、とアランは続ける。「もし助けを求められたら、そのときは──」
「もちろん、助けになるよ」いくらでも、この身を削ってでも、助けになりたいと、希佐は思う。「約束する」
つい今しがた、一度家に帰ると言って階段を降りていったバージルを追いかけ、希佐はその背中に声を掛けていた。階段の上から名前を呼ぶと、バージルは中程で足を止め、肩越しに振り返ってこちらを見上げた。
「本当に目障りだったの?」
「……」希佐の問いに目を丸くしてから、バージルは不敵に笑った。「さあて、どうだろうな」
「何か考えがあってのことなんだよね?」
「俺はあいつの泥臭い一面を見てみたいんだよ」バージルはひらりと手を振り、階段を降りていく。「化けの皮を剥がしてやりてぇのさ」
また後でな、と言ったバージルの声は、いつも通り朗らかだった。
あの人のやることなら、悪いようにはならないはずだと、希佐は思う。そして、イライアスはたとえ転んだとしても、ただでは起きないはずだ。
今日のイベントはきっと、いや、必ずうまくいく。成功する。
何があっても、絶対に。
翌朝、更文は午前八時過ぎに目を覚まし、見知らぬ天井を見上げていた。
昨日の午後、ロンドンに到着したが、それが未だに現実味を帯びない。老舗のパブでオペラを鑑賞したかと思えば、閉店時間まで浴びるようにエールを飲まされ、時差ボケも相まって夢見心地な感覚が続いていた。
観劇したオペラは『トスカ』だった。
日本でも招待を受けて、舞台演劇、ミュージカル、オペラ、バレエなどを観劇に行くことは度々あったが、歴史を感じさせる小劇場の客席から見上げる舞台は、日本では感じることのない熱気に満ちていた。舞台の上に立つ演者と、観客の距離が異様に近く、彼らの息遣いが聞こえ、ともすれば汗までもが飛んでくる。
信じられないほどに目が合うのだ。舞台に立つ役者たちは、観客の反応を見ながら、その日ごとに演じ方を変え、舞台に立っているようだった。
「Buona sera,Leo」
主役のトスカを演じた女優がパブに現れると、大きく空気が動いた。方々から声が掛かり、彼女はにこやかにそれに応じていた。しかし、カウンター席の一角にいるレオナール・ゴダンの姿を見つけると、踊るような軽い足取りでやって来た。
『嬉しいわ、また観に来てくれて』
『君のトスカは相変わらず評判が良いようだね、クローディア』
『でも、近々クローズするのよ』それを残念がるどころか、嬉しそうに女優は言う。『また次の舞台も見にいらしてね』
長身のその女優は、ウェーブの掛かった長い黒髪を掻き上げると、ゴダンの隣に並んで座っている更文と黒門の方を見た。不思議そうに目を丸くしているのを見ると、今の今まで視界の端にも入っていなかったということなのだろう。
『ああ、すまない。紹介するよ』ゴダンは女優に向かって言った。『二人は私の友人でね、コクトーとフミだ。つい先ほど日本から到着したばかりなんだよ。こちらは、今日のオペラでトスカを演じていた女優、クローディア・ビアンキ嬢』
黒門の表情が心なしか引き攣ったように感じられた更文は、自然な振る舞いを心がけながら、女優に向かって右手を差し出した。
「Pleasure to meet you.」
「You too.」
女優はそう応じて更文の手を握ろうとするが、ちょうどそのとき、背後から声を掛けられて後ろを振り返る。
『クレア、タクシーが待ってるよ』
『あっ、そうだった』
女優は僅かに砕けた口振りでそう言うと、こちらに向き直り、大急ぎで更文の手を握った。思いの外強く握り締められた手は、軽く上下に振られ、すぐに離れていく。
『ごめんなさい、今から明日の最終リハーサルがあるのよ』
『本番を終えたばかりだというのに、大忙しだね』
『私もそう思う』女優はゴダンに向かってそう言うと、小さく肩をすくめて見せた。『明日はレオも来るのでしょう?』
『そのつもりだよ。彼らも一緒にね』
『それなら、また明日会いましょ』
Ciao!──と言って投げキスをし、女優は踵を返すと、声を掛けてきたファンに手を振りながら、パブの外に出て行った。
レオナール・ゴダンは、この界隈では有名な存在のようだった。世界的な映画監督としてよりも、一人の人間として地元の人々に愛されているのが分かる。顔見知りにも、それ以外にも、声を掛けてくる者に対して気さくに応じている姿は、あまりに良い人だった。
ゴダンの口から、彼らは日本で役者をしているのだと紹介をされると、外国人を見る好奇の眼差しが、最後には尊敬にも似た眼差しに変わっていくのを、更文は感じ取っていた。
『ねえ、これってあなた?』
名前はすぐに検索され、過去に受けた仕事の画像や映像が、次々と画面上に表示される。真面目に話をしていては際限がないと思い、あまり英語が話せないふりをしていれば、訪問者は少しずつ減っていった。
更文以上にアルコールを摂取していた黒門は、閉店時間にはべろんべろんに酔っ払い、千鳥足で店を出る。へらへらとしている黒門の両脇を、更文とゴダンが抱えて歩いた。ゴダンは黒門以上に酒を呷っていたが、至って平然とした立ち居振る舞いで、帰路に着いていた。
ゲストルームは二階にあった。部屋はそれぞれ個別に与えられ、更文はゴダンと一緒に黒門をベッドに寝かせてから、隣の部屋に案内される。
『この家のものはなんでも自由に使ってくれて構わないよ。ゲストルームの冷蔵庫にも飲み物は入れてある。小腹が空いたらキッチンにあるものを好きに食べていいからね。ここにいたければ、ずっと居てくれても構わないのだし』
『ありがとうございます。でも、私には仕事があるので』
『そうだったね』
『お心遣いに感謝します』
『いつでも遊びに来るといい。この部屋は君のために空けておくよ』
更文は、リビングルームに置き去りにされていた二人分の荷物を担いで上がり、荷物を届けるついでに、泥のように眠っている黒門の無事を確かめてから、自らにあてがわれた部屋に戻った。
白を基調としたその部屋には、異様なまでの清潔感があった。家具などの調度品も、わざわざ白で統一されている。
白塗りの壁に、大理石の床。飾り気のない部屋だったが、壁には唯一、一枚の写真だけが額に入れて飾られていた。石造りの低い建物が並ぶ、外国の田舎町のような、風景写真だった。
未だアルコールが残っているような感覚を洗い流すために、更文は部屋に備え付けのバスルームに足を向け、熱いシャワーを浴びることにした。ボクサーパンツだけを履いた格好で部屋に戻ってくると、どういうわけか、黒門がうつ伏せでベッドに横たわっている。
「おい」更文が声を掛けると、黒門は呻くような声を上げた。「二日酔いか?」
「認めたくないがどうやらそのようだよ」
「まあ、あれだけ飲みゃあ当然の結果だろうな」
「どうして途中で止めてくれなかったんだい?」
「お前それ、本気で言ってんのか?」
「……ごめん」
役者の卵だという人間を捕まえてはじまった演劇談義に夢中になり、もうやめておけという更文の忠告も聞かず、進められるがままに酒を呷っていたツケだ。
「朝方までに五回は吐いたよ……」
「そんな報告はいらねぇって」
「僕はお酒の飲み方も知らないんだなぁ」
「良い勉強になったじゃねぇか」
玉阪座の兄さん方に遊びに行かないかと声を掛けられたら、大抵の場合は了承するものだ。玉阪座の若い衆は、そうして夜の街の楽しみ方を学び、酒との付き合い方を知る。だがしかし、黒門は玉阪座に入門して一年目の頃から、兄さん方の誘いをことごとく断っていた。
根地黒門が型破りの新人であり、生粋の変人であることを周知していた兄さん方は、特に気を悪くするふうもなく、次第に本人から「ご飯奢ってください!」と誘われるまでは、声を掛けることもしなくなっていった。
ううう、と唸り続ける声を聞きながら、更文は冷蔵庫から冷えた水を取り出す。
「ほら、水分補給しないと脱水状態になるぞ」
「面目ない」
「お前は当分、起きられねーだろうから、俺がレオナールさんのところに行って、何か二日酔いに良さそうなものがないか聞いてきてやるよ」
「恥ずかしいけど自業自得だよね」
一度は身を起こして水を受け取ろうとするものの、視界がぐるぐる回っているのか、眼球を不自然に揺らしたあと、青白い顔をベッドに伏せた。更文はペットボトルの蓋を緩め、それを黒門の手に握らせてから、服を着込んでゲストルームを出る。
まるで額縁のような窓の外に見える空は、青く澄み渡っていた。春の風が木々の葉を揺らしているが、家の中は驚くほど静かで、何の音も聞こえてこない。外界とは隔絶された異空間に連れてこられたような、そんな気分にさせられる。
階段を降りてリビングに顔を覗かせても、そこにレオナール・ゴダンの姿はなかった。奥のキッチンにもその姿は見当たらない。まだ起きていないのだろうかと思いながらリビングに引き返すと、テーブルの上に、一枚のカードが置かれているのを見つけた。スタンドに立て掛けられたカードには、このように書かれていた。
《私は隣のアトリエにいるよ。鍵は開けておくから、遊びにおいで》
更文は、手に取ったカードをスタンドに戻し、玄関先に足を向ける。
玄関を出て、ほんの数段の階段を降りてから、隣にあるもう一方の階段を上がり、今日の空よりも深い青色の扉の前に立った。呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばしかけるが、カードに《鍵は開けておく》と記されていたことを思い出す。恐らくは好きに入って良いということなのだろう。
ブロンズのドアノブは太陽の光を浴びて、まるで血潮が通っているかのように温かかった。更文はそのドアノブをぐるりと回し、扉を押し開く。カードに書かれていた通り、鍵は掛かっていなかった。
玄関を入ってすぐ、正面の壁には、大きく引き伸ばされた白黒の写真が飾られていた。薄布のような衣服を纏った髪の長い女性が、雨粒に濡れた窓の外を眺めている。
「……」
いや、そうではない。その女性の目は、写真の右端で灯るランプが写り込んだ、窓ガラスを見つめていた。デジタル加工が施されているのか、実際のランプではなく、窓に映り込んだランプだけが、翠玉色で表現されている。
更文は扉を開けたその格好のまま、その場に立ち尽くし、その写真を見つめていた。なぜかは分からない。だが、魅入られたように、その写真から目を逸らすことができないのだ。
女性はその横顔が僅かに見えているだけで、この写真からは表情を読み取ることができない。それなのに、胸を締め付けられるような切なさを覚える。華奢な首筋から細い肩にかけての線が扇情的で、思わず目を奪われていた。全身に鳥肌が立つ。
『美しいだろう?』その声にはっとして我に返ると、いつの間にか、傍にはレオナール・ゴダンの姿があった。『私が撮ったものだよ。ここには特にお気に入りの一枚を飾ると決めているんだ。今は彼女が一番のお気に入りでね』
確かに美しいと思った。同時に、何か見てはいけないものを目の当たりにしているような、そんな背徳感があった。じっと見つめていると、この女性の焦がれるようなため息や、少し浅い息遣いや、誰かの名前を呼ぶ声すら聞こえてきそうだと感じる。これ以上は見ていられない、直視できないと感じるのに、どうしても抗えない。
これが被写体自身の魅力なのか、世界的な写真家のなせる技なのかは、聞くだけ野暮だ。
家柄、職業柄もあり、これまで数多くのカメラマンと仕事をし、写真を撮られてきた更文だからこそ、分かることがある。この人は、今までに出会ってきた、どのカメラマンとも違う。
この人の撮る写真は絵画だ。
まるで何時間、何十時間と掛けて描いた絵画に匹敵するほどの熱量が、この一枚の作品からは感じられる。
『その写真を気に入ってもらえたのかな』
『すみません、玄関先で』
『構わないよ』ゴダンは更文を玄関の中程まで進ませると、春風を招き入れながら扉を閉めた。『コクトーは目を覚ました?』
『はい。ですが、酷い二日酔いみたいで』更文がそう言うのを聞いて、ゴダンはおやおやと漏らしながら失笑している。『何か二日酔いに効きそうなものはないかと』
『イギリスではね、二日酔いにはイングリッシュブレックファストを食べるといいと言われているんだよ』
『五回吐いたと言っていたので、今は何も食べられないと思います』
『昨夜は相当飲んでいたからね』ふふふ、とおかしそうに笑ってから、ゴダンは続けた。『ビタミン剤があったはずだ。それと、ハーブティーを淹れて持っていってあげよう。それで少しは気分が良くなるはずだ』
『すみません』
『君が謝ることではないじゃないか』
ゴダンは更文に向かって、好きに見て回っていいと言い残し、一人自宅に引き返していった。
どうしてこんなにも惹かれてしまうのか、その理由も分からないまま、更文は意識的に写真から視線を引き剥がす。そうしなければ、何時間、何十時間でも、その女性を見つめていられるような気がした。
アトリエの間取りは、隣の自宅とすっかり鏡合わせになっているようだ。玄関を入って右側、自宅ではリビングになっていた場所は、広々とした応接室になっていた。白壁には大小様々な写真、パネル、絵画などが所狭しと飾られている。
圧巻だった。
すべてが美しかった。
特に人物写真には目を見張った。これ見よがしにポーズを決めている写真は、ただの一枚もない。その人物の自然な瞬間、日常の一瞬、光り輝く刹那を切り取っている。被写体に対する、撮影者の尊敬の念が感じられる。畏れ、敬い、跪き、首を垂れるようにして、シャッターを切っているのかもしれない。
応接室に飾られている芸術を見て回っていた更文は、テーブルの脇を通り掛かったとき、そこにも数多くの写真が散乱しているのを見つけた。その中にファイリングされたネガティブフィルムを発見し、ここにある写真のほとんどが、アナログで撮影されたものなのだと察する。
『やあ、お待たせしてすまないね』
ソファに腰を下ろし、手を触れずにテーブルの上の写真を眺めていると、ゴダンがアトリエに戻ってきた。ゴダンは、更文がテーブルの上の写真を見ていたことに気づくと、満更でもなさそうな顔をして近づいてきた。
『写真展に出す作品を選んでいたところでね。先だって発表した写真集の中から数点と、過去作品と、未発表のもの──』向かい側のソファに腰を下ろし、ゴダンは更文のために写真を並べ直していく。『何か、これはと思うものはあるかい? 今の若い子たちにも、私の作品に興味を持ってもらいたくてね。是非とも意見を聞かせてもらいたいんだよ』
『玄関のところに飾られている女性の写真は展示されないのですか?』
『ああ、あの写真は特別でね』ゴダンは肩越しに後ろを振り返り、写真がある方向を見ながら言った。『私が直々にお願いして、プライベートで撮影をさせてもらったものなんだ。彼女の写真を展示すること自体はやぶさかではないのだが、彼女自身の契約の都合上、勝手に発表をすることができないんだよ』
『契約、ですか……』
『彼女は舞台女優で、次の舞台を控えている。そのカンパニーとの契約の問題だ。詳しいことは知らないが、いろいろと折り合いが悪いらしくてね。そのせいで、企画そのものが宙に浮いている状態のようだから』
まあ、よくある話だよ、と言う声は軽い。
あの写真の女性は、自分と同年代か、幾らか年上くらいだろうか──更文がそのようなことを考えていると、テーブルいっぱいに広げられていた写真を片付けていたゴダンが、思い出したように口を開いた。
『そうそう、今日のことなのだけれどね』
『はい』
『まだしばらくコクトーの具合は良くならないだろうから、もし君が一人でも大丈夫そうなら、先にイベントが行われるパブに行ってもらっても構わないよ』
『ですが……』
『コクトーも自分のことは気にしないでほしいと言っていた。私も彼の様子を見るために残るが、昼過ぎには良くなるだろう。もちろん、彼の具合が良くなるのをここで待ってもいい。だが、せっかくロンドンまで来たんだ、時間は有意義に使うべきだと、私は思うよ』
確かに、明日からは高科の家の仕事がはじまる。その前に、ロンドンの空気感を把握しておくことも、必要なのかもしれない。
『……後輩もロンドンに来ているので、連絡してみても構いませんか?』
『もちろん、いいとも』
失礼します、と言って席を立った更文は、一人玄関の外に出る。ポケットからスマートフォンを取り出し、履歴から白田美ツ騎の名前をタップすると電話を掛けた。
『すみません、フミさん』電話に出るなりそう言った美ツ騎の後ろが、嫌に騒がしかった。『少し場所を変えるので待ってください』
「一回切るか?」
『いえ、もう大丈夫です』
「お前、今どこにいるんだ?」
『ソーホーです。パブにいます。ちょっと厄介なことになっていて』
「厄介なこと?」
『実は、今日行われるチャリティーイベントに、急遽出演することが決まって、選曲とか音合わせとか、いろいろやっていたところなんですよ』
ああ、そういうことか──更文は首筋の辺りを掻きながら、ふう、と大きく息を吐く。フミさん? と呼び掛けてくる美ツ騎の声に小さく相槌を打ちながら、思わず天を仰いだ。
ソーホーのパブだ。ゴダンもそこでチャリティーイベントが行われると話していた。自分は今日、そこに連れて行かれようとしていたのだ。
「なぁ、ミツ」更文は空にぽっかりと浮かぶ、孤雲を見つめながら言った。「そこに俺が行っても大丈夫か?」
『え?』
「俺がそこに行って不都合なことはないか?」
目を閉じ、耳を塞ぎ、口を噤んできた。
誰の話も聞こうとしなかったから、誰もそのことについて話をしなくなった。まるでそれ自体が忌み言葉であるかのように、誰もその名を口にしなくなった。だから、自分だけが何も知らない。自業自得なのだろう。
『……不都合なんてことはありませんよ』美ツ騎は微かに笑うような気配を窺わせるが、すぐに表情を引き締めるのが分かった。『ただ、心の準備だけはしてきてください』
「心の準備、ね」
『え? ああ、はい』美ツ騎の声が遠退き、すぐに戻ってくる。『あの、すみません、フミさん──』
「戻るか? 準備中だもんな、忙しいときに悪かった」
『いえ、それは大丈夫なんですが。フミさん、今すぐに来られますか?』
「今、イズリントンってところにいるんだ。だから、まずはここからそこまでどうやって行くか調べねぇと」
『イズリントンからソーホーまでなら、地下鉄で来られますよ。タクシーを使えば十五分くらいで着くと思います』
「東雲さんに無駄遣いはするなって釘を刺されてるんだ」
『じゃあ、地下鉄にしましょう』Oi,Noah──美ツ騎がそう言って、誰かを呼んでいる。『What is the nearest station here?』
『Where do you ride from?』
『Islington's ……』
「最寄りはハイベリー&イズリントン駅だったと思うけど」
『Highbury & Islington』
『Wait, where is he now?』声がどんどん近づいてきたかと思えば、ちょっと代わって、と言って電話が奪われたようだ。『Hello』
「……Hi」
『Where in Islington are you?』
「St Mary's Church」
『Then come by bus.』明るい声が朗らかに告げる。『There’s a bus terminal in front of the church, so take it from there and get off at Trocadero / Haymarket.』
「トロカ、デロ……?」
『Right.』
対面で話をするよりも、電話口で会話をする方が、何倍も難易度は高い。聞いたこともない単語が出てくれば尚更だ。しかも、相手はとにかく早口だった。
更文は、言われたことを瞬時に頭の中で整理すると、教会の前からバスに乗り、トロカデロという駅まで行けと言っていることを、なんとか理解することができた。
「Understood. I'll try to go.Thank you.」
『Not at all.』
スマートフォンが持ち主の手に返されると、美ツ騎は困惑している更文に向かって、バスを使っての移動方法を丁寧に説明してくれた。
『僕がバス停まで迎えに行くので、到着したら連絡してください』
「いいのか?」
『本番は午後からなので、大丈夫です』
「悪いな、ミツ」
『気にしないでください。あ、それから、途中で何か分からないことがあったら、すぐに連絡してくださいね』
では、また後ほど──そう言って電話が切られる。
頼りになる後輩を持ったものだと思いながら、更文は踵を返し、ゴダンが待つアトリエに戻った。ゴダンはキッチンで朝食の支度をしてくれていたようだ。香ばしいコーヒーの香りが、更文に空腹を思い出させた。
『朝の散歩帰りに買ってきたもので申し訳ないが』
ゴダンが買ってきてくれたのは、更文の拳よりも大きなシナモンロールだった。白い皿に乗せられたそれと、コーヒーを入れたマグが応接室のテーブルの上に置かれる。
『ありがとうございます』
『後輩くんに連絡はついたの?』
『はい』
更文はシナモンロールを手に取ると、それを真ん中から半分に引き裂いた。何層にも重なった生地が断ち切られ、ゆっくりと繊維が解けていくと、途端に強いニッキの香りが立ち上る。口の奥がじんわりと潤うのを感じた。
『今日のチャリティーイベントに、急遽出演することが決まったと言っていました』
『おや、それは名誉なことだね』
『名誉?』
『ヘスティアの店主は、気に入った人間しか自分の店の舞台に立たせない。その子は、彼のお眼鏡に適ったということだ』
二人きりの軽い朝食を終えてすぐに、後片付けをしようと立ち上がった更文を、ゴダンは静かに制した。
『片付けは私がしておくから、君は自分のために時間を使いなさい。出掛ける準備だってあるだろう?』
この人と話をしていると、相変わらず奇妙な感覚が脳裏をちらつくのだ。常に違和感のようなものを覚えているのに、その実態が掴めない。何か重要なことを見逃し、聞き逃しているような気がする──そんな気がして、仕様がない。
年長者の言葉に甘え、食後の後片付けを任せて自宅の方に引き返してきた更文は、出掛ける準備をはじめる前に、黒門の部屋を覗きに行った。
「クロ、大丈夫そうか?」
「やあ、フーミン」ベッドに倒れた格好のままのろのろと寝返りを打ち、体をこちらに向けた黒門の顔色は、先程よりもずっと良くなっているように見えた。「ありがとう、かなり良くなってきたよ」
「そりゃよかった」
更文は室内に足を踏み入れると、ベッドの側にある出窓に腰を下ろした。黒門は頭を動かさず、視線だけで更文の動きを追いかけてくる。
「さっきミツに連絡をしたんだけどさ」
「うん」
「今日のイベントに出演することになったらしいぞ」
「ふうん……? ん? イベントって、チャリティーのかい?」
「ああ」
「へえ」ぐりぐりと枕に顔を擦り付けながら、黒門は言った。「あのパブでは毎年チャリティーイベントを開催しているらしくてね、結構評判がいいらしいんだ。ロンドンの舞台関係者も多く集まるという話だから、白田くんにとっても良い経験になるのではないかな」
「ちょっと先行って様子見てくるけど、いいよな?」
「それはもちろん。僕はこんな状態だから、もうしばらくは大人しくしているよ。魔法のお薬を飲ませてもらったから、すぐに回復すると思うしね」
気をつけて行っておいで〜、ナンパされてもついて行っちゃダメよ〜、と半ばふざけたような口振りで言う黒門を見遣りながら、更文は小さく息を吐いた。
根地黒門という男は、常におかしなやつではあるが、信頼のおける大人が近くにいるとはいえ、初めてやって来た外国で、無謀としか言いようがない量の酒を浴びるように飲むようなやつではないことを、更文は知っている。
「クロ」
「なんだい?」
「ミツがさ、希佐に会ったって言ってたよ」
「……そうだろうね」
「ロンドンに到着してすぐ会いに行ったんだと。ホテルを予約してないって言ったら、自分の家に泊めてくれたってさ」
「そうするだろうね、立花くんなら」黒門は、感情を感じさせない冷えた物言いで、先を続けた。「白田くんはさ、何年か前に仕事でロンドンに来たときも、立花くんに会いに行こうとしたそうだよ。動画共有サイトに無断で公開されている映像は、ヘスティアというパブで撮影されたものが多いんだ。だから、そこへ行けば何か手掛かりが得られるだろうと思ったのだろうね。でも、結局は店に入らず、引き返してしまった。自分が彼女の前に姿を現せば、今ある彼女の生活を壊してしまうと考えたんだ」
それは以前、更文も美ツ騎から聞かされたことのある話だった。
そして、美ツ騎はこうも言っていた。
フミさんは、立花に会うべきだ、と。
『僕は、ユニヴェールを卒業してからずっと、フミさんが立つ舞台を見てきました。フミさんの隣には、いつも立花がいるみたいだった。それって、どうなんだろうなって、ずっと思っていたんです。それって、本当にフミさんが目指していた舞なのかなって』
高科二千奥の名を継ぐ決意は揺らがない。だが、今のままでは、その名を継いだところで、二千奥の名を穢してしまうことにもなりかねないと、更文は思っていた。
イギリスに来れば、何かが劇的に変化するなどという、都合のいいことは考えていない。だが、何かの足がかりは得られるのではないかという、期待だけはしている。
「フミのことだから察しはついているのだろうけれど、レオと立花くんも繋がっている。件のチャリティーイベントには立花くんも出演するんだろう。レオは何も言わないけれどね」
断片的に与えられた情報を繋ぎ合わせれば、想像することは容易だった。
「僕はね、フミ。正直なことを言うと、立花くんに会うのが怖いんだよ」
「そうなんだろうな」そうでなければ、あんなふうに前後不覚になるほど、酒を飲むわけがないのだ。「まあでも、それはお互い様だろ」
ベッドの上にゆっくりと起き上がった黒門は、その場に胡座を掻き、更文の方を向いた。
「君は怖くないのかい?」
「今のところ怖さはねぇな」外の空気を吸いたいと言われ、更文は言われるがままに出窓を開けてやった。「不安の方が大きいよ」
「それはどんな不安?」
「あいつにとっての俺らが、過去の人間になってるんじゃねぇかって」更文はそう言いながら、手首に巻かれている色褪せた鯉結びに、そっと触れた。「無関心が一番堪えるんだろうなとは思うけど」
「僕たちは一体、彼女に何を望み、何を求めているんだろう」無感情だった声に、微かな切実さが滲む。「彼女が犯した罪の大きさを分からせたいと思うかい? 彼女はユニヴェールという神聖な場所を穢した張本人だ。そのことを自覚し、謝罪する責任が、彼女にはあるはずなんだ。彼女はその責任を果たさず、逃げ出した」
普段の根地黒門であれば、ここまで自らの心根を吐露することはないだろうと、更文は思う。だがしかし、右も左も分からない外国までやって来て、恐怖を打ち消すために飲んだ酒に溺れ、酷く体調を崩しているからこそ、考えていることをそのまま口に出してしまうのか。
「これは大変な冒涜だよ。ユニヴェールの歌劇を根本から否定する行為だ。女の身でありながら、男として振る舞い、大勢の人間を騙して舞台に立ち続けた。あまつさえ、稀代のアルジャンヌの称号を欲しいままにしていたんだ。女性が女性を演じれば、それはもうただの女性じゃないか」
その問題は、ここで議論をしたところで、何一つ解決には繋がらない。
だが、自らの性別を偽ってユニヴェールに入学した者が責められるのだとしたら、それを手引きした者と共に、それを黙認し続けた者も、等しく罰せられるべきだと思う。
「彼女のしたことは許されない。本当にユニヴェール歌劇を愛していたのなら、男性だけで創り上げられる舞台に価値を見出していたのだとしたら、いくら校長からの申し出であったとしても、それを拒絶するべきだったんだ」
高科更文は、立花希佐が女だということを、一目で見抜いていた。入試の段階で、立花希佐が女であることを確信していた。すぐに指摘をすることはできたはずだ。なぜ、男子校のユニヴェールの入試に、女子が紛れ込んでいるのだと。だが、そうはしなかった。面白そうだと、そう思ってしまった。
あのとき、ああしていたら、こうしていればという論争は、あまりに無意味だ。今更、過去は変えられない。目の前にある現実がすべてなのだから。
ユニヴェールは立花希佐を受け入れた。
ならばそこにある罪は、個人としてではなく、社会が担うべきなのではないかと、更文はそう考えるようになっていた。
「それでも」黒門の声音が明らかに変わる。「僕の中にいる立花希佐という存在は、今も変わらず光り輝いているんだ。彼女の存在を全力で否定したいのに、彼との日々がそうさせてはくれないんだよ。事実、彼は他者の追随を許さない圧倒的な才能で、ユニヴェールの舞台に立ち、観客の視線を独り占めにした。僕の視線を奪い続けた。僕は彼の才能に魅入られていた」
性別とはそこまで重要なものなのか──その問いかけは、根地黒門の首を絞めることになりかねない。女性から逃れ、女性が存在しない安住の地を求めてユニヴェールにやってきた黒門にとって、そこに女性がいたという事実は、受け入れ難いものなのだ。
「……そして今も、セント・パンクラス駅で『Defying Gravity』を歌う姿を目の当たりにしてからずっと、僕は、彼女に魅入られているんだ」
「クロ、お前……」
「彼女が男だろうと女だろうと、立花希佐に代わりはない。もちろんそれは分かっているとも。だけどね、これは僕の気持ちの問題なんだ。一度は受け入れたつもりになっていたのに、彼女が何者かの手によって完成されてしまった現実を目の当たりにした瞬間、ふつふつとした怒りにも似た感情が湧き上がってきたんだよ。僕が──君たちが、彼女を思って心を痛めて来た日々を置き去りにして、彼女は一人、重力すら諸共せずに飛び去っていく。狡いじゃないか。卑怯だとは思わないかい? 僕は何も変われずにいるのに、彼が──彼女だけが、変わってしまうなんて」
「希佐の身に何があったかなんて、そんなのは誰にも分からないことだろ」
「フミは何も知らないからそんなことが言えるんだよ」
「俺はこの目で見たものしか信じない」
「相変わらず強いねぇ、君は」黒門はそう言いながら、力なく笑う。「君はたとえどんなことがあっても、最後には必ず自分の足で立ち上がって、前を向いて歩き出すんだから」
「立ち止まることに意味はあっても、そこから自力で動き出さなきゃ、何も生み出せねぇだろ。停滞は悪いことじゃねぇけどさ、その場に留まり続けているとな、水と一緒で、いずれ腐っちまうんだよ。泥沼に足を取られていたとしても、足踏みでもしてもがき続けていれば、いつかは這い出せる」
「もし足を取られた沼が底なしだったら?」
「ま、飲まれてみるのも一つの手だな」
「……その真意は?」
「沈むだけ沈んじまえば、あとはもう這い上がってくるだけだ」
「でもそれは、酷く苦しいだろうし、あまりにつらいよ」
「おまーもそういう経験を一度はしておいた方がいいのかもしれねぇぞ、クロ。なんだかんだ言って、お前は挫折ってものを味わったことがねぇだろうからな」
「あらやだ失礼ね、アタシだって小さな挫折くらい、いくらでも味わってるのよ」
少しずつ、少しずつ、普段の根地黒門が戻ってくるのを感じながら、更文は座っていた出窓から腰を上げた。白壁でチクタクと時を刻んでいる文字盤は、午前十時半を指し示していた。
「行くのかい?」
「ああ」窓は開けたままでいいよ、と黒門が言う。「じゃ、あとでな」
「健闘を祈るよ」
更文は、自らに与えられた部屋に戻り、身支度を整える。
不安はあるが、不思議と清々しい気分だった。心の底でわだかまっているものが解消されたわけではないのに、何かが吹っ切れたような心地がする。まるで、舞台の袖にいるような感覚がすると、更文は思った。
演じる役柄のために伸ばしていた髪を、切ることもなくやって来てしまった。バスルームにある洗面台の前に立った更文は、鏡に映る自分を眺めながら、手の平に薄く伸ばした整髪剤で髪型を整える。
洋服を新しく買い揃えることもしなかった。必要になれば現地調達をすればいいと考え、普段着を数着持ってきただけだ。和服は何着か新調したが、それは東雲に預けてある。
去年の誕生日に美ツ騎から贈られたグラハムバックパックに、最低限の荷物を入れて、それを肩から背負う。履き替えたスニーカーの紐を締め直してから、ベッドの上に放っていたスマートフォンを手に取り、バッテリー残量が充分に残っていることを確認した。
更文は、出発前にアトリエに顔を出し、ゴダンに行ってくると挨拶をしてから、教会前のバス停に向った。五分ほど待つと、ロンドン市内に向かうバスが到着する。座席はすべて埋まり、非常に混み合っていた。耳慣れない英語を聞きながら、吊り革に掴まって窓の外の景色を眺めていると、ようやく外国にやってきたのだという実感が湧いてくる。
《バスには乗れましたか?》
ポケットのスマートフォンが振動したので取り出すと、美ツ騎からのメッセージが届いていた。更文は片手で吊り革に掴まったまま、すぐに返事を打つ。
《今、レッド・ライオン・ストリートってところを通り過ぎた》
《僕はヘイマーケットに到着しました。ターミナルで待ってます》
《分かった》
ロンドンの中心地が近づくにつれて、建物は高くなり、車通りも増えてくる。壁のような建物の狭間で、人々は生活している。閉塞感を覚えることはないのだろうか。見上げる空は、酷く狭い。
車内アナウンスに耳をそばだてていた更文は、無事に、目的地のターミナルで下車することができた。途端に、どこか埃臭さが混じる、排気ガスの臭いが鼻を刺す。車のエンジン、クラクション、人々の話し声が一つの大きな騒音となって、どっと押し寄せてくる。
「フミさん」
次々と迫り来る情報の海で溺れかけていると、不意に、聞き覚えのある声に呼び止められた。後ろを振り返れば、そこにはほっと安堵の息を吐いている、白田美ツ騎の姿があった。
「悪かったな、わざわざ迎えに来てもらって」
「いえ、それは全然──」美ツ騎はそう言いながら、一瞬だけ視線を左右に動かした。「根地さんは一緒じゃないんですね」
「今は俺だけだよ」
ここは根地黒門の名誉のためにも、二日酔いで倒れているとは言わない方がいいのだろう──更文はそのようなことを考えながら、往来する人々の邪魔にならないよう、歩道の端に美ツ騎のことを誘導する。
「このまま店に向かいますか?」美ツ騎はスマートフォンで時間を確認しながら言った。「ステージがはじまるのは午後からなんですけど、店自体は開いてます。それとも、どこかのカフェでゆっくりしますか?」
「出演者がそんな悠長に構えてて大丈夫なのか?」
「僕の役割は中継ぎなので」美ツ騎はそのまま誰かにメッセージを送り、スマートフォンをポケットにしまった。「とはいえ、適当に歌うつもりはありませんけど」
「んじゃ、他に行くあてもねーから、そのパブに連れて行ってもらおうかね」
「分かりました」
こっちです、と言って歩き出した美ツ騎の表情が、酷く強張っている。公演の本番前ですら、いつも平然としていた男が、どういうわけか緊張しているようだ。
「ここからミミズホテルまでは徒歩で五分くらいの距離です」隣を歩く更文を見上げ、美ツ騎が言った。「泊めていただけてとても助かりました」
「俺はもう一日向こうでお世話になる予定だから、今日も泊まっていいぞ」
「ホテルを出るときにフロントで聞いてみたら、別に空き部屋があるそうなので、自分で部屋を取りました。一泊分の宿泊費は、東雲さんに渡してあります」
「俺が使えって言ったんだから、ホテル代なんか気にすることねぇのに」
「僕が気にするんですよ」
「律儀だねぇ」
「そういえば、自分の用事が済んだらパブに顔を出すって、東雲さんが言ってました」
「そのつもりらしいな」
「あの人も高科流の舞手の方なんですよね?」
「そうは見えないって言うんだろ?」無遠慮に頷く美ツ騎を見て、更文は思わず失笑する。「東雲さんは高科流の師範代で、実際、俺や兄貴なんかよりもずっと、親父に近い舞を踊る人なんだ。親父も東雲さんをすげぇ気に入ってて、養子にならないかって誘ってるくらいでさ」
「それって、本気なんですか?」
「親父は冗談を言うタイプの人間じゃないし、本気なんじゃねーかな」
一助の幼馴染である東雲とは、更文自身も付き合いは長い。ほとんど兄弟のように育ったといっても過言ではない人物だ。二千奥が本気で養子に取るつもりなら、それでも構わないと更文は考えている。
「芸事の世界じゃ、そう珍しいことでもねぇしな」
「でもそれは跡取りに恵まれなかったらの話でしょう?」
「俺よりも東雲さんの方が高科二千奥の名に相応しいっていうなら、俺はあの人が高科流を継いだっていいと思ってる。より相応しい人間が跡を継ぐのが、この世界の道理だ。でもまあ、次期当代の名を譲ろうって気は、今のところないけどな」
それでも、現当代が東雲に全幅の信頼を置いていることは間違いない。
今回の渡英に同行させたのは、旅慣れているからというのもあるのだろうが、実際のところは、東雲の背中を見てお前が学べという、当代からの無言の意思表示なのだろうと、更文は思っていた。
「僕はあの人、少し苦手です」
「機会があれば、あの人の舞を見せてもらうといい。見る目が変わるから」
「フミさんがそこまで言うくらいだから、すごい人なんでしょうけど……」
自らのパーソナルスペースを大事にしている美ツ騎にしてみれば、他者との距離感など知ったことかというふうに懐に飛び込んできてしまう東雲は、得体の知れないところがあるのかもしれない。
そうして東雲の話をしていると、強張っていた表情が少しずつ和らいできたのを感じ取っていた更文だったが、通りの角を曲がった瞬間、美ツ騎はその場でぴたりと足を止めてしまった。
「ミツ──」
「フミさん」美ツ騎は更文の声を遮り、正面を見据えたまま言う。「心の準備はできていますか」
「え?」
ゆっくり、ただゆっくりと、美ツ騎の視線の先に、目を向ける。
そこには人だかりができていた。大人たちの中に、子供たちの姿も目立つ。軽快な音楽と、小気味良いタップ音──一組の男女が、酷く楽し気に、タップダンスを踊っているのが見えた。
その女性には見た覚えがあった。
『美しいだろう?』ふと、レオナール・ゴダンの言葉が蘇る。『今は彼女が一番のお気に入りでね』
そこにいたのは、あの写真の女性だった。そして、それは同時に、自分がかつて知っていた人物であったことを、ここへ来て初めて確信する。
桜色のやわらかい髪は腰に届くほどに長く伸び、軽やかなステップを踏むたびに、ふわり、ふわり、と跳ねるように揺れた。深い緑のワンピースドレスの裾が翻るたびに覗く足は、折れそうなほどに細い。女性らしい体の曲線を隠すこともなく、心の底から朗らかに笑う立花希佐が、そこにいた。
二人は、ステージとは名ばかりの、歩道に板を敷いただけの簡易的な舞台上、大勢の野次馬たちに四方を囲われた状態で踊っていた。その隣には、生演奏をする少数の楽団の姿がある。辺りからは、囃し立てる声や、口笛や、歓声などが上がり、その一角だけが異様な盛り上がりを見せていた。
一曲踊り終えると、二人は互いを讃え合うようにお辞儀をし、観客からの拍手と声援に応えている。
知っているはずなのに、知らない誰かが、そこにいた。
それが間違いなく立花希佐であるという確信はあるのに、その女性が立花希佐であるという確証が持てなかった。もしかしたら、他人の空似なのではないかと、そんなふうに思ってしまうのは、自らの意に反して、激しく動揺しているからなのかもしれない。
無意識の内に、半歩、後退りをする。
五年前、ユニヴェールにいた頃の面影を探そうとするが、そんなものはどこにも見当たらなかった。あの頃の、少年を演じていた立花希佐は、もうどこにもいない。
「僕は心底ゾッとしましたよ」美ツ騎は、板の上で腰を屈め、子供たちと親しげに話をしている希佐を見遣りながら、静かに言った。「ここに来てからずっと、立花が稽古する様子を見ていました。ユニヴェールにいた頃からすごいやつだとは思ってましたけど、あいつの才能は、そんな簡単な言葉で片付けられるようなものじゃなかった。自分はなんて狭い世界の中で生きていたんだろうって、この五年間、一体何をしてきたんだろうって、そんなふうに思ってしまったんです。僕だって、人並みに努力はしてきたつもりだったんですけどね」
真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに、立花希佐だけを見つめる。
78期生を決める入試の日、もしかしたら希佐もこんなふうに、自分のことを見つめていたのかもしれないと、更文は思った。
『あら? えーっと、あなたは確か……』どこかで聞いた覚えのある声が、青信号になったばかりの、横断歩道の方から聞こえてきた。『あ、そうそう、フミ、だったわよね?』
すらりとした長身のその女性は、更文の姿を見るなり駆け寄ってくると、大ぶりのサングラスを外して、それを頭に乗せた。その女性は、昨夜ゴダンから紹介を受けた、女優のクローディア・ビアンキだった。
『こんなところで何をしているの?』
まるで数年来の友人のように、親しげに声を掛けてきたクローディアは、美ツ騎に向かっても「ハーイ」と気安く挨拶をしている。
「フミさん、こっちに知り合いなんていたんですね」
「いや、知り合いっつーか──」
お前こそ、この人と知り合いなのか──更文が、そう訊ねようとしたときだった。クローディアはどういうわけか、両手で口元を覆って、小さく悲鳴のような声を上げる。
『やだ、ちょっと待って、どうして希佐が踊ってるの?』
『チャリティーの宣伝と、客の呼び込みをするって言ってましたけど』
『予定の時間よりも随分早いじゃない! 正午過ぎからって聞いていたから、それに間に合うように来たのに!』
『開始時間は子供たち次第ってことでした』
『もういいわ、ほら』クローディアはどこか苛立たしげにそう言ったかと思うと、更文の腕に自らの腕を絡め、半ば引きずるようにして歩き出した。『あなたたちだって、彼女のダンスを見に来たんでしょう? もっと近くで見ないと損よ』
こちらの事情など知る由もないクローディアは、更文の腕を掴んだまま人だかりの中に紛れ、二人のダンスがよく見える位置で足を止めた。それはつまり、向こうからもこちらがよく見えるということだ。
美ツ騎はどこだと後ろを振り返るが、更文にはその姿を見つけることができない。
あいつ、あとで覚えてろよ──更文は小さく息を漏らしながら、頭を正面に戻す。
その刹那、まるで静電気が目と鼻の先で弾けるような、不可思議な感覚が更文を襲った。同時に、この世界の時が止まり、音が消え去り、色が失われる。ただ、天から降り注ぐスポットライトが、彼女の存在だけを照らし出していた。
目と目が合う。
その瞬間、確かに、心臓の鼓動が止まったような気がした。
午前九時過ぎには、劇団カオスの全員がヘスティアに集合していた。パブは既に開店していて、イベントのために早めに訪れた客と、名物のサンデーローストを食すために訪れた客とで、ほとんど満席の状態だった。昼間のうちは、二階のエントランスと劇場を、出演者の控え室として使用することになっている。
「ねえねえ、キサ」自らの出演に備えて体を解していた希佐のところに、そろり、そろり、とノアがやって来た。「あの二人、何かあったの?」
「あの二人って?」
「バージルとイライアスだよ」
「ああ」普段から必要最低限の会話しかしない二人だが、今日は特に距離が遠く、その上、イライアスはピリピリとした空気感を漂わせている。「ちょっとね」
「息が詰まるし、空気が悪いんだよね」
そう言ったノアの声が聞こえていたのか、壁際でストレッチをしていたイライアスはそれを中断し、劇場を横切るようにして歩いていくと、これみよがしに窓を開け放っていた。
「聞こえてるなら聞こえてるって言えばいいのに」
バージルはいつも通り飄々とした様子で、イライアスの苛立ちなど意に介さず、自分がやるべきことを淡々とこなしていた。先程は、このイベントが終わったらある程度は生活が落ち着くので、愛犬のハンナを迎えに行くのだと、嬉しそうに話していたくらいだ。
希佐は、窓の外をぼんやりと眺めているイライアスを見遣りながら、小さく息を吐き出す。アランからは、待ってやってくれと、そう言われている。ならば、今は本当に待つしかないのだろうと思い、あえて声を掛けることはしていなかった。
イライアスは切り替えが早いタイプだ。何かが上手くいかなくても、それをいつまでも引き摺らない。だが、今回だけは違った。まるで泥濘に足を取られ、そこから抜け出せなくなったかのように、停滞を続けている。
「ま、一種のスランプだな、あれは」ストレッチを終え、並んで靴を履き替えているときに、バージルが言った。「今のあいつは、周りにばっかり目を向けているせいで、自分が見えてねぇんだよ」
「そうなのかな」
「他の劇団の連中やら、共演者やらもそうだけど、一番はお前とアランが原因だと思うけどな」
「私とアランが?」
「仮初めの関係ではあるけど、お前たち二人のパートナーとしてのあり方を見て、何か思うところがあるんじゃないのかね」バージルはそう言って立ち上がると、靴紐の締まり具合を確認するように、その場で軽くステップを踏む。「それに、お前はここに来て、いろんなものがぐんと伸びてるからな。パートナーとしての焦りもあったりするんだろ」
パートナーのことを考える前に、まずは自分の問題を解決するべきだと、バージルは言う。そしてそれは、自分の力で乗り越えるしかないのだと。
自分もかつては衝突した問題だからこそ、希佐にはイライアスの気持ちが分かるような気がするのだ。
パートナーが、自分以外の誰かと組んで踊る。その稽古の様子を目の前で見せつけられれば、それは思うところもあるだろう。自分ならば、気が散って、自らの課題に集中できないかもしれないと、希佐は思う。
しかも、イライアスは二人が組んで踊ることを応援してくれていた。普段なら、何の気兼ねもなく悩みを相談できる二人が、課題のダンスに苦戦している姿も目の当たりにしている。もし自分が同じ立場だったら、二人の邪魔をしてはいけないと考え、距離を置こうとするかもしれない──。
希佐は、アランとの共演を成功させたい一心だった。
『君のパートナーはイライアスだよ。それを忘れないようにね』
ことあるごとに、ルイがそう言っていたことを、希佐は思い出していた。
「……もっとイライアスとの時間を作るべきだったのかな」希佐が思わずというふうに吐露するのを聞いて、バージルは呆れたような表情を浮かべ、ため息を吐いた。「そうは思わない?」
「思わねぇな」バージルが差し出してくれた手に掴まり、希佐は引っ張り上げられるようにして、その場に立ち上がった。「あいつには自分を見つめ直す時間が必要だったんだよ。お前だって経験あるだろ?」
「それは、うん……」
「悩むのは悪いことじゃねぇけど、堂々巡りに陥ると、そこから抜け出せなくなる。あいつの場合は、ドツボにハマること自体が珍しいことなんだろうからな。そこからの抜け出し方もよく分かってねぇんだと思うぞ」
「だから荒療治を?」
「それが功を奏するかどうかはあいつ次第だけどな」
失敗したらどうするつもりだと、咎めることはできただろう。だが、希佐は何も言わなかった。
もしかしたら、バージルのやり方は間違っていたのかもしれない。しかし、バージルは他の誰にもできなかったことをしたのだ。それに、バージルの行いを咎めるということは、イライアスを信じていないことに繋がるような、そんな気がしてしまう。
白田美ツ騎は、希佐たちがヘスティアに集まって程なくした頃に、姿を現した。
『……せっかくの機会なので、歌わせてもらおうかと』
イベントに出演しても構わないという返答を受け取ったアランは今、白田を連れて、メレディスのテストを受けに行っている。あれから随分と時間が経っているので、既に出演は決まり、今頃は選曲について話し合っているのかもしれない。
「まあ、とにかく、今は自分のやるべきことに集中しろ。俺は中途半端なことが一番嫌いなんだよ。身の入ってねぇやつなんかと踊ってやるつもりはないからな」
「うん」希佐は大きく頷くと、自らの頬を軽く張った。「大丈夫」
正午頃、自らが無償でダンスを教えている教室の子供たちを、バージルはヘスティアに招いていた。昼の部の開始時間が午後一時なので、その前なら構わないかと王様にお伺いを立てたところ、問題ないと快諾を賜ったようだ。子供たちは、特等席でそのパフォーマンスを楽しんだあと、バージルの奢りでサンデーローストを食べて帰る予定だった。
だがしかし、その予定は、あっという間に狂ってしまった。
「バージル」白田を連れ立って劇場に戻ってきたアランが、希佐とステップの確認をしているバージルに声を掛けた。「下でメレディスが呼んでる」
「何の用だって?」
「子供たちが来てる」
「げ」バージルは希佐の腰に回していた腕を解くと、窓の外を覗きに行く。「ったく、あいつら、一時間も早く来やがって」
希佐はバージルのあとを追いかけ、隣に並んで窓の下を覗き込んだ。そこには確かに、ダンス教室の生徒たち十数人ほどが集まっていた。言葉を交わしている者、そわそわとした様子で辺りを見回している者──その中の一人が店の外観を見上げ、ハッとした表情を浮かべる。
「おーい、バージル! キサ!」
何の悪気もなく、にこにこと笑いながら手を振っている子供を見て、バージルは仕方がなさそうにため息を吐いていた。目の前の窓を開けると、子供たちの声はますます鮮明に聞こえてくる。
「お前らなぁ、なんだってこんなに早く来たんだよ。十二時って約束だっただろ?」
「だって待ちきれなかったんだもん」
「小さい子たちがお腹減ったって言うし」
「まだ何の準備もできてねぇぞ」えーっ、と非難の声を上げる子供たちに向かって、バージルはうるさいと叱咤する。「いいか? そこから一歩も動くなよ。じっとして、大人しく待ってろ」
からからと窓を閉め、バージルはもう一度、はあ、と大きくため息を吐いた。その様子を間近に見ていた希佐は、ふふ、と小さく笑う。
「みんな、楽しみで仕方がなかったんだね」
「先に飯でも食わせておくか?」
既に歩き出しているバージルに「行くぞ」と肩越しに手招かれた希佐は、白田に向かって失礼しますと軽く会釈をしてから、その背中を追いかけた。
階段を降りながら見下ろす店内は、ますます大盛況で、普段よりも熱気を帯びているように感じられる。まるで、中学校の頃に一度だけ経験した、文化祭のような空気感だ。ヘスティアのスタッフとして働いていたときは、朝から晩まで大忙しで、ステージを楽しむ余裕など微塵もなかった。
もし手が空いたらフロアを手伝おう──忙しそうにしている元同僚たちの姿を横目に伺いながら、希佐はバージルに続いて店の外に出る。
するとそこには、野外パフォーマンスのための床板を敷く作業中のスタッフと、子供たちと親しげに話をするメレディスの姿があった。メレディスは二人がやって来たのを認めると、子供たちと視線を合わせるために屈めていた身を起こす。
「悪いな、メレディス」
「謝ることはない」申し訳なさそうに言うバージルを見て、メレディスは首を横に振った。「申請を出したのは十二時からなのだけれど、警察に連絡をしてみたら、多少なら時間を前倒しにしても構わないとのことだよ。すぐに人を何人か寄越してくれると言っていた」
路上でのパフォーマンスをするための許可を得るのはもちろん、イベント同日はトラブル防止のために、毎年地元の警察の協力を仰いでいる。
「キサー!」元気な呼び声が聞こえてきたかと思えば、小さな体がわっと腰に抱きついてきた。「よかった、間に合った!」
「おはよう、リジー」
「おはよ!」ふう、ふう、と呼吸を乱しているのを見るに、ここまで急いでやって来たのだと分かる。「ダディが寝坊しちゃったんだ」
娘の背中を追いかけ、歩道を早足でやって来た調律師のネイサンは、希佐と目が合うと、どこか恥ずかしそうに頭を掻いていた。
「朝ごはんは食べて来たのかい?」
メレディスがそう問うと、エリザベスは元気よく「ううん」と言って頭を横に振っている。今日は酷くご機嫌のようだ。その答えを聞いたメレディスは、非難がましい目をネイサンに向けていたが、すぐに人の良さそうな笑みを浮かべると、子供たちを見回した。
「では、お客様方には、今から店内に入って、お飲み物をご注文いただきます。エリザベスにはサンドイッチを作ってあげよう」
「あっ、僕も食べたい!」
「腹一杯になってサンデーローストが食えなくなっても知らねぇぞ」
「えー、それはやだー」
「だったら飲み物だけで我慢しろ」
はーい、と口々に返事をした子供たちは、先頭に立つメレディスに続いて店内に入っていく。一番後ろに立ってその様子を見送っていたバージルは、最後の一人が店に足を踏み入れたのを見届けてから、タップダンス用の板を張る作業を手伝いに向かった。
「急かしちまって、悪いな」
「い、いえ、あの、全然大丈夫です……!」
「そうか?」
バージルは誰に対しても気さくで、分け隔てがない。その日初めて出会った人とも、まるで十年来の付き合いであるかのように、すぐに打ち解けることができる。当人は、上っ面だけの付き合いなら気兼ねがないからな、と話しているが、気まぐれに声を掛けられた人は決まって、性別を問わず、バージルのことを好きになってしまうようだった。
組み立て型のタップダンス用の床板は、音が響きやすいように、下に僅かな空洞が設けられている。今回はダンスの構成上、ある程度の広さが必要になるため、パズルを組み立てるように、正方形の板のオスとメスをしっかりと噛ませ、ステージを作り上げていかなければならない。
「キサ、手を挟まないように気をつけろよ」
「うん」
子供たちと話をしながらも、スタッフが手こずっている様子を、バージルは横目に見ていたのだろう。次々と床板を繋げてステージを広げていき、それが完成すると、スタッフへの感謝と労いの言葉も忘れなかった。
おかげで気持ち良く踊れそうだ──そう言って、バージルが簡単なタップダンスを踊って見せると、スタッフはその目を輝かせ、頬を赤らめて、酷く嬉しそうにしていた。
こういうところを見習いたいと、希佐は常々思っている。
「なんか、中学の頃の文化祭を思い出すんだよね」
「文化祭?」
「こっちで言うところの、オープンデーみたいなものかな。各クラスごとに出店を出したり、出し物をしたりして、学校外から来る、家族や地元の人たちのおもてなしをするんだ」
「俺んところは学年末に学校公演をするくらいだったな」
「じゃあ、ユニヴェールと似たような感じなんだね」
「そうそう、それから──」バージルはそこまで口にしてから、その顔に不可解そうな表情を滲ませる。「おい、待て」
「ん?」
「まさかお前、ルイのやつから何か聞いたか?」
「何かって?」
「俺が──」
最後まで言わずとも、にこにこと笑っている希佐の顔を見て、バージルはすべてを察したようだ。チッと小さく舌を打ったかと思うと、希佐の肩に腕を回し、がっちりと体を引き寄せられる。
「他言無用だぞ、キサ。絶対に誰にも言うな」
「もちろん、誰にも言わないよ」その脅すような口振りに小さく笑いながら、希佐は間近にあるバージルの顔を見上げた。「でも、どうして?」
「嫌だから」
「……それだけ?」
「その他に理由が必要か?」目を丸くする希佐を見下ろし、バージルはうんざりだという顔をする。「いろんな経験をさせてくれた学校に感謝はしてるけどな、俺の柄じゃなかったんだよ。きらきらしい世界が、俺の性には合わなかった。ただそれだけのことだ」
本当にそれだけが理由なのだろうかと、希佐は思った。だが、本人がそのように言っている以上、しつこく詮索し続けるのは無粋というものだ。過去がどうであれ、希佐は今のバージルが好きで、心から尊敬している。
「イライアスは驚いていた?」
「そりゃもう」
「そうだよね」
どこからか過去映像を発掘してこないよう祈るよ、と言うバージルだったが、その表情はどこか諦め顔だった。イライアスならばやりかねないと、半ば確信している顔のように思えた。
白田がヘスティアを出て行ったのは、楽団の人々が続々と到着しはじめた頃だった。白田は、店の前でバージルと話をしていた希佐に歩み寄ってくると、日本語でこう言った。
『立花、僕はバス停までフミさんを迎えに行ってくる』
そう言った白田は、まるで希佐の心の奥までをも見透かそうとするかのような目で、じっと見つめてきた。こういうとき、希佐はどんな顔をして、何と言えばいいのかが、途端に分からなくなってしまうのだ。
結局は、お気をつけてと言って、送り出すことしかできなかった。
「ついに昔の男のご登場か?」
人混みの中に消えていく白田の背中を見ていた希佐だったが、思いもよらない言葉が頭上から聞こえ、バージルの顔を振り仰ぐ。目を丸くするばかりの希佐の顔を至近距離で目の当たりにしたバージルは、にやりと意地悪く笑った。
「やっぱり、そういうことか」
「……誰かから聞いたの?」
「いや」バージルは首を横に振る。「お前、ここ最近妙に気合いが入ってたからな、見せたい相手でもいるんじゃねぇかと思ってさ」
「来てくださるかもしれないとは思っていたけれど──」
「昔の男っていうのは、否定しないんだな」
「否定して欲しかった?」すかさず問い返す希佐を見て、今度はバージルが目を丸くした。「それに、その昔の男っていう言い方は好きじゃない」
「それは今も気持ちがあるってことか?」
「あるよ」反射的にそう答えると、バージルが本当に驚いたというふうな顔をするので、希佐は堪らずくすくすと笑った。「私の憧れていた人だもの、会えると思うと嬉しい」
「本当にそれだけなのかね」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「興味本意で」
「アランが心配?」
「……まあな」
「大丈夫だよ」ともすれば忘れてしまいそうになるが、この人はいつだってアラン・ジンデルのことを大切に思い、第一に考えているのだということを、希佐は知っている。「アランとはちゃんと話をしているから」
「もういろいろと拗れてやきもきするのはごめんだぞ」
「いつも心配をしてくれてありがとう、バージル」
「少しはこの老体の心労も労ってくれ」
「あとで肩でもお揉みいたしましょうか?」
「せっかくだから、頼もうかね」
天秤はどちらかに傾くものだ。
人は物事に優先順位をつける。
それも、無意識に。
それから程なくすると、もう待ちきれないとばかりに、子供たちが店の外へと出てきてしまった。メレディスやバージル、楽団の人たちと相談し、予定の時間よりも少しだけ早いが、はじめてしまおうということで、話がまとまった。
そもそも、この野外パフォーマンスは当初の予定にはないものだった。イベントを盛り立てるためにと、バージルが何日か前に提案したことだ。ダンスも新たに振り付けることはせず、以前踊ったことのあるレパートリーの中から選ばれた。今回は、往年の映画の中で踊られているタップダンスを、多少アレンジして踊る。
最初は単なる遊びだった。メレディスが参考にと渡してくれた映画を見ているうちに、彼ら、彼女らが踊っているダンスを自分でも踊ってみたくなって、稽古の合間の息抜きに、こつこつと振り入れを行っていたのだ。
覚えたダンスを仲間内で披露して楽しんでいると、それを面白がったバージルが、地方で行われる小さなイベントや、子供たちの集まりや、公園の野外ステージで行われる催し物の話を持ってきては、希佐を引き連れて舞台に立つようになった。
「ダンスは見られてなんぼのものだからな」
同じ舞台に立つたびに、バージルはすごいダンサーなのだと、毎度再認識させられる。隣に立って踊れることは、この上なく幸運なことなのだと思う。この人と出会い、タップダンスを学べたことは、人生の財産だ。
アイルランドからイギリスに渡り、希佐は天使が奏でる音楽に導かれて、神様と出会った。それからというもの、立花希佐の人生は良いこと尽くしだ。めぐり逢う人々、立たせてもらう舞台、歩んできた道──すべてに恵まれていた。
本当に楽しかった。
だからきっと、今日という一日も、素晴らしい思い出となるに違いない。
「キサ!」間もなくパフォーマンスがはじまるという頃、天使の呼び声が聞こえてきた。「教会の手伝いを大急ぎで終わらせてきたよ!」
「見に来てくれてありがとう、ミゲル」
「あれ、アランは?」
「イベントの準備が忙しいから」
「そうなんだ」
よう、とバージルから声をかけられたミゲルは、にこにこと笑いながら手を振ると、他の子供たちと一緒に、ステージの真正面に並んで立った。
「んじゃ、テンポはこのくらいで」バージルは、かつ、かつ、かつ、と靴の踵を鳴らして、曲のテンポを決めている。「あとはまあ、臨機応変に合わせてくれ」
「相変わらずの丸投げだねぇ」
「ダンスと音楽の共通点は、センスとフィーリングだろ?」
「雑な注文は君からの信頼の証として受け取っておくよ」
「おう、頼りにしてんぜ」
「よろしくお願いします」
「もう慣れたものさ、任せて」
この五年間、良いことも悪いことも、同じだけあったように思う。
そうした日々の記録をつけるために、希佐はほぼ毎日、欠かさず日記を書いてきた。夜、ベッドで横になる前に机に向かっていると、どんなときでも心が穏やかになるのは、大切な人に今日一日の出来事を余すことなく聞いてもらえたような、そんな気がしていたからだ。
今夜も、日記を書く。
大切な人に宛てた、手紙を綴るように。
「それじゃ、はじめるぞ、キサ」
「はい」
一曲目は、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースが共演した『Swing Time』という映画からの選曲だ。1930年代に公開された白黒映画だが、音楽とダンスはむしろ、現代よりも洗練された印象を覚える。タップダンスと社交ダンスを融合したような構成が面白い。
軽快で楽しげな音楽に合わせてタップ音を踏み鳴らしていると、バージルの狙い通り、道行く人が足を止め、興味を示しながら、店の前に集まりはじめた。簡易的なステージの周りはあっという間に囲われ、多くの人の目がその中央で踊っている二人に注がれる。スマートフォンのレンズを向けている者もいた。
バージルと踊っていると、他の誰かと踊るときよりも、自由で、清々しい、開放感のようなものを覚える。どこまでも、どこまでも、遠くまで連れて行ってくれそうな頼り甲斐と、安心感があった。それはきっと、バージルが培ってきたこれまでの経験や技術、生まれ持っての気質がそう感じさせてくれるに違いない。今日は、いつもよりずっと上手く踊れていると、そう感じさせてくれるのだ。
一曲目を踊り終えたそのとき、自然と湧き起こった拍手が、希佐とバージルを包み込んだ。互いに拍手を送り合い、楽団を称えるような素振りを見せれば、拍手の音が一際大きくなる。
希佐は、自分たちを見つめ、その目をキラキラと輝かせている子供たちに歩み寄り、腰を屈めた。
「みんな、どうだった?」
そのように問いかけると、子供たちは興奮した様子で、次々に口を開く。
「すごいすごい!」
「めちゃくちゃカッコ良かった!」
「何言ってんだよ、オレたちのセンセーなんだぞ。これくらいヨユーだろ」
希佐がそうして子供たちと話をしている間に、バージルが今日のチャリティーイベントについて、口頭での案内を行ってくれていた。
子供たちが称賛してくれる声に笑みを浮かべながらも、希佐は、踊っている最中に感じていた視線の出どころを探るべく、顔を持ち上げる。
そう、視線を感じたのだ。これだけ大勢の見物人の中に、じりっと、焼け付くような熱い視線を向けてきた者がいる。
「……キサ?」子供たちの中から、僅かに心配そうな声が上がった。「どうしたの?」
その視線を、今は感じない。
もうその誰かは、この場を離れてしまったのかもしれないと思う。だが同時に、あんなにも熱い眼差しを向けてきた者が、この場を立ち去るわけがないとも思った。
もしかしたら──希佐はそう思い、顔を上げる。
丁度、真正面。こちらを見ている、見知った顔があった。クローディア・ビアンキだ。クローディアは希佐と目が合うと、一瞬嫌そうな表情を浮かべ、すぐに顔を逸らした。
違う、この視線ではない。
ならば、どこから──そう思った次の刹那、希佐は、それを見た。
クローディアの隣、しっかりと腕を掴まれている男性は、五年の月日が経過していても見紛うことは決してない、憧れのその人だった。
最後のユニヴェール公演、クラス優勝、個人賞金賞──すべての結果発表を終え、その人は、それがさも当然だという面持ちを浮かべていた、あの頃の面影は確かに残っている。だが、まだどこか少年らしさを残した面差しはすっかり消えて、精悍な青年然とした佇まいが、玲瓏たる雰囲気を纏わせていた。
まさか、日本から遠く離れたこのイギリスの地で、この人の姿を目にする日が来るなんて、想像すらしたことはなかったと、希佐は思う。
それでも、不思議と心乱れることはなかった。
もうずっと前から、覚悟を決めていたからだろう。
目と目が合う。
その瞬間、思わず笑みがこぼれた。
立花希佐は今、何一つ恥じることのない、自分の未来を生きている。
自らの行いを正当化しようとは思わない。憎まれ、恨まれて当然の仕打ちをした自覚はある。だがしかし、自らの手で掴み取ったこの未来は、日本にいては絶対に、経験することのできない日々の連続だった。
過去があり、瞬く間に過ぎていく今の、その一秒先には、未来がある。
あの日、あの神社で、校長先生と出会った。校長先生が差し伸べてくれた手を取り、ユニヴェールの門を叩いた。誰に指図をされたこともない。何もかもすべてを、自分の意志で選択してきた。
与えられたのは、きっかけだけ。
チャンスだけ。
自分の人生は、自分で背負う──その覚悟が、今、本当に決まったような気がした。
「──サ、おい、キサ!」
「えっ?」ぐっと腕を引かれ、希佐はふと我に帰った。「あ、ごめん、バージル」
「なにぼーっとしてんだよ、本番中だろうが」
「憧れの人が見に来ていて」
あはは、とごまかすようにして笑う希佐を見て、バージルはじっとりとした目を向けてきたあと、自分たちを囲う人だかりをぐるりと見渡した。
「どれだ?」
「正面の、クローディアさんの隣にいる人」
「……へえ」バージルはそちらに横目を向けると、ほとんど値踏みをするような眼差しで、高科更文を見た。「ふうん」
「そんな目で見ないで」
「この俺と踊っておきながら、昔の男に目を奪われるなんて、妬けるじゃねぇか」
「バージル」
「冗談だよ」
踊り出すでもなく、顔を寄せ合い、小声で話し続ける二人を見上げ、子供たちは不思議そうに顔を見合わせていた。バージルは、自分たちを見上げるエリザベスの頭を撫でてやってから、希佐の手を引いてステージの真ん中へと戻った。
「だったら、礼儀を欠くわけにもいかねぇし、本気のやつを見せてやらないといけねぇよなぁ」
ああ、目が据わっている──バージルの顔を見上げ、希佐は思わず苦笑いを浮かべてしまった。これは掛け値なしに、間違いなく本気のやつだと、そう確信する。
イライアスの本気は滅多に見られないが、バージルの本気は、その更に上をいくものだ。滅多にどころか、希佐は過去に一、二度しかお目に掛かったことがない。
以前はその迫力に気圧されてしまい、満足に踊ることもできなかったが、今の自分は、あの頃とは違うはずだと、希佐は思った。絶対についていくことができるはずだ。それに、憧れの人を前にして、醜態を晒すわけにはいかない。
その挑戦、受けて立つというふうに表情を引き締める希佐を見て、バージルは痛快そうに笑った。
「──外は大盛り上がりね」
建物の側面にある外階段を登り、人目につかないよう二階の窓から劇場に侵入してきたクロエ・ルーが、晴れやかな口振りでそう言った。窓の鍵を開けてやったアラン・ジンデルは、差し出された手を取ってやりながら、大袈裟なくらい大きくため息を吐いてみせた。
劇場にいた本日の共演者たちは、突然の大女優の登場に度肝を抜かれ、皆一様に言葉を失っていた。
「落ちたらどうするんだ」
「あら、心配をしてくれるの?」指先に引っ掛けていたヒールを放り、床に足を下ろしたクロエは、ふふと笑う。「裏口から入ろうと思ったら、お小遣い稼ぎをしたい男の子たちが、カメラを抱えてうろうろしていたのよ」
自分のことを見ている出演者らに向かって、クロエはにこやかに手を振っている。自らが一流の女優であることは自覚しているが、感覚が庶民に近いので、周りはその距離感に戸惑っているようだ。
「今日はあまり騒ぎを起こさないようにと言われているし、それに──」一見すると、ただのデニムにニットを合わせているだけのシンプルな装いだが、その体が窓の方に向き直ると、背中が大きく露わになっているのが見えた。「ここからの方がよく見えると思ったのだけれど」
二人が踊る様子を、窓際の特等席から眺めていたノアとジェレマイアは、その場所を大人しく明け渡してやっている。クロエは椅子を持ってきたジェレマイアに向かって「Merci」と言うと、機嫌良く腰を下ろした。
「あなたも隣に座ってご覧なさいな」
「俺は忙しい──」
「誰か、もう一脚椅子を持ってきてくださらない?」
「はーい、ただいまー」ノアが面白がって椅子を運んでくる。「どうぞ、お座りください」
細々とした確認作業は自分たちがやっておくと言って、ジェレマイアがタブレットを持っていってしまう。仕方なく隣に並べられた椅子に座ると、クロエはそれを見て満足そうに目を細めてから、窓の外を覗き込むようにして身を乗り出した。
「あの子供たちは?」
「バージルがダンスを教えてる」希佐がその子供たちと話をしている様子を上から眺めながら、アランは続ける。「経済的な問題とか、家庭環境に問題のある子が多いらしい」
「そうなの」
クロエは窓枠に頬杖をつきながら、ほとんど感情のこもらない声で、静かに相槌を打った。
アラン自身、周囲の慈善活動について思うことは、特にない。立派な行いだと称えるつもりもなければ、偽善者だと罵るつもりもない。それぞれが、それぞれに信念を持って、様々な活動をしている。
例えば、アランは世界中の恵まれないと総じて言い表されている子供たちのために、などと思って慈善活動を行ったことは、ただの一度もない。
自分がほんのささやかな寄付金を献上したところで、子供たちは微塵も幸せにはならない。そもそも、現金はその行く先を追うことが難しく、どのように使われたのかを特定することは、非常に困難だ。
だから、アランは慈善団体に寄付金を送付するよりも、特定の施設に直接送金することの方が多いし、それ以外にも、子供たちに対して直接的な物品を贈ると決めている。本や楽器、文具や画材などが主だ。クリスマスには、金額の範囲内で、子供たちが欲しがっているものを贈るように努めていた。
不特定多数の子供たちを支援するアランとは違い、クロエ・ルーはそれとは別に、才能豊かな子供を自分の目で探し出し、大学や専門的な学校を卒業するまでの間、その人生を丸ごと支援するという、特異な慈善活動を行っているという話だった。フランシス・ルロワもその中の一人で、特にお気に入りだという噂を、耳にしたことがある。
「ねえ、あんなところに綺麗な子がいるわよ」
「どこ?」
「ほら、クローディアお嬢さんのお隣の子」クロエは掛けていたサングラスを外し、それを胸元に引っ掛けると、ふうん、と漏らしながら口角を引き上げた。「東洋人ね」
アランは雑多の上を撫でるように、ゆっくりと視線を滑らせた。この女が綺麗だと言って食い付くくらいだ、相当の美人だろうと思いながらクローディアを探し当てると、その隣に視線を移動させる。
「……」
「しゃんとしていて素敵な子じゃない?」クロエは、すっかりエージェントのような目で、その人物のことを見ていた。「骨格から美しいわ。何かやっていそうね」
「キサの知り合いだ」
「あら、そうなの? 紹介してもらおうかしら」
変に引っ掻き回すようなことにならなければいいけど──そう思いながら、アランは希佐に視線を向ける。
既に一曲目を踊り終え、早々に二曲目に取り掛かるのかと思いきや、ステージの上では希佐とバージルが顔を突き合わせ、何やら話し込んでいるようだ。トラブルだろうかと思ったが、そうではないらしい。
ピリッと痺れるような空気感──どうやら、早朝に入ったスイッチは、そのままの状態が維持されているようだった。
不意に人の気配を感じて後ろを振り返れば、壁際で黙々と体を動かしていたはずのイライアスが、こちらに向かって歩いてくる。アランの隣で足を止めると、黙って下の様子に目をやっていた。
「気分は」
「最悪です」
「そう」
笑えば自尊心を傷つけると思ったアランは、口元を引き結び、再び窓の外に視線を戻した。
一言、二言、挨拶が入る。
帽子にチップを投げ入れたくなった人は、店に入って飲み物を一杯、二杯──そんなようなことを話している声が、ここまで聞こえてきた。その間、希佐は何をしているのかといえば、ステージの外側で生演奏を行っている楽団に歩み寄り、何やら頭を下げていた。
「この後は何をするの?」
「さあ」
予定では、タイプライターをやるという話だった。希佐は念願のステップを嬉しそうに教わっていたが、この雰囲気では、二人のタイプライターが観衆を前に披露されるのは、またの機会になりそうだ。
トークで場を繋いでいる間に、楽団との話し合いを終えた希佐が、ステージの真ん中へと戻っていく。希佐から耳打ちをされたバージルは、楽団を振り返ると、感謝の気持ちを伝えるように軽く手を挙げていた。
最近のバージルと希佐は、まるで遊ぶようにして、タップダンスを楽しんでいた。バージルは仕事で散々踊ってきた後、希佐はルイとの厳しい稽古を終えたばかりだというのに、放っておけば何時間でも踊っている。
最初こそ程々にしろと注意をしていたルイだったが、最近は諦めているのか、はたまた呆れて物も言えなくなっているのか、黙って二人の稽古風景を後ろから眺めていることが増えた。
「バージル、この間教えてもらったステップができるようになったよ」
希佐がそんなふうに言って覚えたてのステップを踏んでみせると、バージルはひとしきり誉めてやってから、それよりも少しだけ難易度の高い、新しいステップを教えてやる。
毎回、その繰り返しだ。
バージルは本当に、心の底から、惜しいと思っているはずだ。
実際、希佐のタップダンスはこのウエスト・エンドでもトップレベルの腕前にまで達し、右に出る者はそうそういないと考えられる。彼女の存在が見つかるのも時間の問題だろう。だがしかし、立花希佐が方々からの求めに応じることはないのだ。
「なんとかなんねぇもんかな」ある日の深夜、瓶のエールビールを片手にほろ酔いでスタジオにやって来たバージルが、気まぐれに踊りながら、こう漏らしたことがあった。「俺はお前のためになんにもしてやれなかったが、だからこそ、あいつのためには何かしてやりたいって思うんだ」
立花希佐という舞台人を知る者なら、誰もがこのまま退かせたくないと、そう思うことだろう。この先、何年、何十年と、舞台に立ち続ける姿を見ていたい。年齢を重ねるごとに深みを増していく演技や歌声に酔いしれていたいと。可能なかぎり、軽やかに踊るその姿を見ていたいと、願わずにはいられないはずだ。
この隣にいる女ですら、ガラス玉のような青い目を少女のように輝かせて、二人のダンスに魅入られているのだから。
二人が二曲目に踊り出したのは、やはり予定していたものとは別の、圧巻のタップダンスだった。映画『Broadway Melody of 1940』の終盤で、フレッド・アステアとエレノア・パウエルが踊るダンス『Begin the Beguine』のアレンジだ。
その往年の大スターに引けを取らないタップダンスは、今日、それを目の当たりにした人々の記憶の中に、いつまでも止まり続けるに違いない。それを間近に見た子供たちが、いつか自分も彼らのようなダンサーになりたいと、そう夢に見てしまうような、素晴らしいパフォーマンスだった。
この世界は残酷だ。すべての子供たちの夢を叶えてやることはできない。
それでも、夢を見ることがなければ、この世界は酷く単調で、退屈で、窮屈なものになってしまう。夢は見るだけ無駄だと言う大人と出会ったことがあった。だが、夢は諦めてしまったその瞬間に、未来にある煌めきのような可能性すら、消してしまうのだ。大人は子供の可能性の芽を摘んではならない。いつ夢を諦めるのか、それを決めるのは、自分以外であってはならない。
だから僕は、子供たちや、才能ある若い子たちが自分の夢を追いかけ、その先にある未来を受け入れるそのときまで、手伝ってあげたいと思っているのだよ──まだ自分が子供の頃に、メレディスがそう言っていたことを、アランは何となく思い出していた。
挫折をすることよりも、夢を叶えたその先にある世界の方が怖いと、幼かったアランがそう告げると、メレディスは酷く驚いた顔をして、それから、困ったように笑っていたことを覚えている。
そして、少年の頃のアラン・ジンデルの恐怖は、現実のものとなった。
舞台を降りたその先にあったものは、暗闇すら飲み込むほどの虚無だった。逃げ場所もなく、死にたくなるほどの苦痛を味わい、ただただ殻の中で塞ぎ込んでいた。我ながら、よくもここまで立ち直ったものだと、感心する。
「一つ聞いてもいい?」
「ん?」
「どうして舞台に戻らないの」
沈黙が訪れた。
バージルは手に持っていたエールビールの瓶を一気に呷り、口の端から伝い落ちた液体を服の袖で拭いながら、背後の壁に寄りかかって座っていたアランを鏡越しに見た。
「俺が舞台から離れたのは、舞台に対する情熱が消え失せたから。少なくともあの瞬間はそう感じていた。それどころか、舞台に立って脚光を浴びることにも嫌気が差していたし、うんざりだった」アランは対価を支払うようにそう言葉にしてから、先を続けた。「バージルがイギリスに戻ってきた理由は、前に教えてもらったから知ってる。でも、もう表舞台に戻るつもりはないのか、まだ可能性は残されているのか、聞いておきたい」
「可能性、ね」バージルは軽い口振りでそう言うと、小さく肩をすくめた。「舞台になら立ってるだろ、カオスの舞台にさ」
「俺は小劇場しか知らない役者だったから、商業の大舞台がどんなものかは分からない。俺は小劇場の舞台が好きなんだ。だから、いくらスカウトから声を掛けられても、商業の道には進まなかった。今でもその選択は正しかったと思ってる。だけど、君は今だって商業の舞台に携わってるだろ。近い場所にいる。舞台に立ってスポットライトを浴びる役者を見て、何を思うの」
「羨ましい、とは正直思わねぇな」バージルは靴の裏を鳴らしながら言った。「肉体的、精神的、体力的にも、現役に近い状態をキープできてはいるし、そこらの若い連中に負ける気もしねぇけど、俺はもう求められてないって、そう思うわけ」
「そんなわけが──」
「流行り廃りの問題だ。時代錯誤ってやつ。中身は一級品でも、見た目が好みじゃなけれりゃ、観客からは受け入れられない。今の時代は、お前やイライアスみたいなやつを求めてるんだよ」
「俺は君を求めてる」
「どこにでも物好きってのはいるもんだ」
「俺が君のための脚本を用意したら」大舞台に立つバージルを見たことはない。だが、見てみたいと思ってしまうのだ。「君のための役を書いたら、出てくれるの」
「さあて、どうしたもんかね」
あのとき、芳しい返事はもらえなかった。今度の舞台に出演してほしいと頼んだときも、首を縦には振ってもらえなかった。だが、今こうして、希佐と踊っている姿を見れば見るほど、あの役は、この男に演じてもらいたいと願ってしまう。
「どちらも魅力的なのよねぇ」隣に座るクロエが、二人のタップダンスを食い入るように見つめながら、ぽつりと呟いた。「なら、いっそのこと……」
この世界には古い慣習が蔓延っている。人気のある役者は次々と新たな役を得て、舞台から舞台へと飛び回るが、そこにスポンサーとの癒着がないかといえば、ないと断言することはできない。
商業の舞台は賭け事のようなものだ。成功すれば大儲け、失敗すれば大損──自ずと、ヒットを飛ばすプロデューサーは重宝され、次々に企画が持ち込まれてくる。
だが、そういう考えのもとで仕事をしているプロデューサーの多くが見ているのは、舞台の良し悪しではなく、金になるかどうかだった。
今度の舞台が件のプロデューサーに評価されたのは、金になると判断されたからだ。原案は大女優のクロエ・ルー、脚本は『斜陽の雲』のアラン・ジンデルが担当し、演出はここ最近ブロードウェイを中心に注目されているスペンサー・ロロー──向こうのプロデューサーは、主演には既に多くの人気を集めている女優を起用するようにと、そう圧力を掛けてきていた。それに反発したのはクロエだ。この舞台にはフレッシュさが必要だと言い張り、若手の女優の起用を求めた。
要は、この企画は発足当初から、上手くいってはいなかったのだ。
クロエ・ルーは、この舞台に命を懸ける所存だと話していたが、向こうのプロデューサーはその覚悟を鼻で笑った。
「私は有り金全部を叩いているのよ」企画会議を寸前になってキャンセルしてきた、もう一方のプロデューサーに対する憤りを隠そうともせず、クロエは吐き捨てるように言っていた。「失礼しちゃうわ」
この女を許してやろうとは思わない。だが不思議と、憎んだり、恨んだりする感情は、少しずつ薄れている。それがなぜなのかは、まだ分からない。ただ、自らの人生において、厄介な荷物が増えたとは感じていた。
くるくる、くるくる、くるくる回る。
一糸乱れぬ機関銃のようなタップ音を響かせながら、アラン・ジンデルの人生を変えた二人が、くるくる回る。
「幸せな子ね」感情に乏しい表情で、クロエが囁くように言った。「あの子の周りはすべてが完璧に整っている。それはもう、もったいないくらいに」
「彼女が自分の力で手に入れたものだ」
「本当にそう思う?」拍手喝采を浴びている二人から目を逸らし、クロエはアランの方を向いた。「私は、神様って信用ならないと思っているの」
信用ならないという物言いは、少し奇妙に感じられた。信じていないという言い方よりも曖昧に感じられる。
「でもね、神様に愛される人間は、実際に存在するのよ。その上で、神様は救済する人間を選り好みしている」
「それが気に入らないって?」
「私は神様が大嫌い。だから、天から伸びてきた糸に引っ張られて生きるなんて、絶対にごめんだわ。自分の道は自分で切り開いていく。それが私の生き方よ」そう言ったクロエは、その透き通るような青い目で、アランの目を覗き込んできた。「あなたはどう思っているの?」
「神の采配だろうがなんだろうが、そんなものはどうだっていい。もしこの顔や、身体や、才能が、神によって与えられたものなのだとしたら、俺はそれを受け入れて生きていくしかない」
「あの子との出会いが仕組まれたものだったとしたら?」
「神の爪先に口付けるよ」アランは窓枠に両手をつき、その場に立ち上がった。「毎夜ベッドの脇に跪いて祈りを捧げてやってもいい」
「本気であの子にご執心なのね」
「俺はあんたらとは違う」アランが反射的にそう口にすると、クロエはその目を大きく見開き、不意を突かれたような表情を見せた。「無責任なことはしない」
「なあに、あの子と結婚でもするつもり? 結婚はあの子の可能性を潰すことにもなりかねないわよ」
「へえ」アランはクロエの言い様に、皮肉を返さずにはいられなかった。「あんたはどんなときでも、常に自分の可能性を優先させてきたんだな。慈善活動はその罪滅ぼしのつもりかよ」
「あら、あなたって意外に子供っぽいところがあったのね」
「地獄に堕ちろ」
「おあいにくさま。私、天国へのチケットは三十年前に破り捨てたのよ」
ああ、認めたくはない。認めたくはないが、この女は間違いなく自分の母親なのだと、アランはそう思ってしまった。
全知全能の神ではなく、舞台の神にすべてを捧げ、それ以外の何もかもを捨て去った、哀れな女だ。もしかしたら、自分も同じ末路を辿っていたのかもしれないと思うと、やはり虫唾が走る。
「分かっているとは思うけれど」その場を立ち去ろうとするアランの背中に、クロエの声が掛かった。「あの子も私と同類よ、アラン・ジンデル」
「……だから?」
「精々捨てられないようにお気をつけなさいな」
アランが後ろを振り返ったところで、クロエは既にこちらを見てはいなかった。サングラスを掛け直し、窓の外から吹き込んでくる春風に髪を揺らしながら、外の景色を眺めている。
その口元は、思わず見惚れるほどに美しい、弧を描いていた。
劇団カオスの舞台『God Only Knows』は思い出深い演目だ。
あれは、ブロードウェイを離れ、イギリスに帰国をして初めて、公演後に強い充実感を覚えた舞台だった。
劇団を発足してからの数年間、恐らくは自分自身ですら今後の方向性を模索している最中だったのだろうが、カオスの連中は誰一人として、アラン・ジンデルの思惑というものを、理解できてはいなかったはずだ。
それでも、アラン・ジンデルという男には、奇妙なカリスマ性があった。
最初こそ薄気味の悪い、不気味なやつだと思っていたが、話をすればするほどその引き出しの多さに驚かされ、話の流れで「少しは踊れる」と言って見せられたダンスは、少しどころの話ではなく、専門的に学んだことは一度もないという話が信じられないほどのレベルに達していた。
当時は互いに、互いが舞台に立つ姿を見たことはなかった。
いや、アランの方は、ちょっとした賑やかしのつもりで立ったチャリティーのステージを見ていたようだが、バージルの認識では、あれは舞台にうちには入らない代物だった。言うなれば、リハビリのようなものだ。概ね好評だったのは喜ばしいことだったが、それでも、再び大舞台に立ちたいと思わせるような、情熱を取り戻させるほどのものではなかった。
あなたのダンスに感銘を受けた、魂が打ち震えた、この人生にはまだ生きる価値があるのだと思った──感情が欠落したような無表情で、そのようなことを言われたところで、一体誰が信じるというのか。
あいつをどうにかしてくれと、ヘスティアまで文句を言いに行くと、メレディスは苦笑いを浮かべながら、奢りのエールを提供してくれた。
「悪気はないのだと思うよ」
だから余計に厄介なのではないか──そう言ったことを、バージルは覚えている。
アランがもっと嫌なやつだったら、無理をするなり、無下にするなりできたのだ。だが、向けられる思いはいつだって純真で、無垢で、害のないものに感じられていた。
バージルはいつしか、アランと道端で出会うたびに、少しずつ慣れていく馴染みの野良猫と交流をしているような、そんな気になっていった。
ある雨の日、バージルが住んでいるコンドミニアムの前で、アランがずぶ濡れになって待ち伏せていたことがあった。傘を差し向けてやりながら、気紛れで「部屋に上がっていくか?」と問うと、アランは一瞬戸惑った表情を浮かべてから、微かにはにかみ、小さく頷いてみせた。
きっと、絆されるというのは、こういうことを言うのだろうと思い、バージルはついに、白旗を上げてしまったのだ。
ブロードウェイで活動していた頃にも、懇意にしていた仲間はいた。だが、ここまで距離を詰めた関係性を築いたことは、ただの一度もなかった。
人付き合いが面倒だったわけではない。ただがむしゃらに、芸の道を邁進し続けることの方が、優先順位が高かっただけだ。他者と交流している暇があるのなら、自分の技を磨きたいと思っていた。
そういう物の考え方が、心を病むきっかけの一つとなっていたのだろう。
何人かの異性と交際したが、彼女たちは決まって「私と舞台のどちらが大事なの?」と吐き捨て、バージルの前から去っていった。当時のバージルには、舞台やダンスよりも大事なものなど、ありはしなかったのだ。
その結果、体を壊し、心を壊して、先の見通しも立たなくなり、国に帰る道を選んだ。最後の女は、舞台から逃げ出すような男にはついていけないと言って、一緒にロンドンに行かないかと誘ったバージルを、あっさりと捨てた。
叔父が言うに、お前は女を見る目がない、だそうだ。
帰りの飛行機では、確かにその通りだと思いながら、眼下に広がる雲海をぼんやりと眺めていた。
イギリスに帰ってくると、どこからか帰国の噂を聞きつけてきたエージェントが、何本ものオーディションの話を持ち込んできたが、バージルは詳しい話も聞かずに、すべてを突き返した。今は治療に専念するべきだと思っていたし、そもそも、あの頃はもう舞台に立ちたいとは、微塵も思わなくなっていたからだ。
だがしかし、根本的な部分で、舞台を嫌いになったわけではなかった。
自分は踊ること以外に能がないという考え方は、何一つ変わっていなかった。だから、商業やそれ以外を問わず、ダンス指導や振付師として、舞台には携わり続けていた。それは、また舞台に戻りたいと、そう思うかもしれないときのための、保険でもあった。
この薄れた情熱は一時的なものだろう、次第に舞台に対する情熱を取り戻していくのだろうと、最初のうちは楽観視していた。だが思いの外、裏方や後進の育成、振付師の仕事が性に合っていたのか、それとも、薄れただけと思っていた情熱は既に失われてしまっていたのか、バージルが当初考えていた通りに、事が運ぶことはなかった。
カオスの舞台に立っているときも、かつては滾るような熱を帯びていた心も、どこからか吹き込んできた隙間風に冷やされて、以前のようにがむしゃらには取り組めていなかったように思う。
だが、そんな物の考え方が吹き飛んだのは、一人の東洋人との出会いがきっかけだった。それが、立花希佐だ。彼女との出会いが、バージルに、舞台に立ち、踊ることへの情熱を、少しずつ取り戻させてくれた。
立花希佐は常にがむしゃらで、ひたむきで、目標を定めたら、そこに向かって真っ直ぐに突き進んでいく。いつだって迷いは感じられない。
バージルは、アメリカに渡ったばかりの頃の自分を見ているようだと、そう思った。周りになど目もくれず、陰口なども意に介さず、世界を自分とそれ以外とに区分していた、あの頃の自分と、希佐はよく似ていた。
アメリカはニューヨーク、ブロードウェイ。
到着してすぐに観に行ったのは、とあるジャズミュージカルだった。
実際、初めてブロードウェイの舞台に立ったのも、同ミュージカルのアンサンブルとしてだった。当時、雑用を手伝う代わりに安く使わせてもらっていたスタジオの掲示板には、あらゆるオーディションの情報が貼り出されていて、その中に男性ダンサーの募集が含まれていた。
「これ、俺でもオーディションを受けられるの?」
フロアを磨いていたモップを片手に、張り紙を指差しながらそう問うと、スタジオのオーナーは少しだけ考えるような素振りを見せてから、自分が口利きをしてやると言ってくれた。
そのオーナーの口利きが効いたのか、駄目元でオーディション会場に出向くと、バージルはその場で合格を告げられ、すぐにカンパニーの一員として迎え入れられた。どうやらバレエの経験が生きたらしい。だが、何の苦労も知らない若造がひょっこりと現れれば、それを快く思わない輩は、どこにでもいるものだった。
「随分お上品に躍るもんだな、お嬢ちゃん」
この舞台では、プロの世界でも足の引っ張り合いは起こり得るのだということを、学ばせてもらった。
スタジオに帰り、掃除をしながらぐちぐちと愚痴をこぼすバージルの話を、オーナーはいつも面白そうに聞いていた。
当時のバージルは知らなかったのだ。このスタジオのオーナーが、ブロードウェイでは有名な演出家であることを。その名も、ジョン・スミス。もちろん、偽名だ。本当の名前を知ってからも、バージルはそのオーナーのことを、Mr.スミスと呼び続けた。
「うちに出入りするのは構わないが、お前はもっと、まともなところでレッスンを受けた方がいい」
ジャズを踊ることにも飽きてきた頃、何か別のオーディションでも受けてみようかと、掲示板に貼り出されている紙を眺めていると、Mr.スミスがそう声を掛けてきた。
「お前には才能があるよ」
お前には才能がある──バレエをはじめてからというもの、バージルはその言葉を幾度となく向けられてきた。だからだろう、その言葉に特別な意味を見出せなくなっていたようだ。
試しにこのスタジオに顔を出してみるといいと言って、Mr.スミスは一枚のカードを渡してくれた。
そのスタジオでバージルはタップダンスに出会ったのだ。
スクールでアイリッシュダンスを学んだ経験があったので、見よう見まねで踊れるだろうと思ったのが、そもそもの間違いだった。
「あんた、胴体に棒っきれ四本くっ付けてんの?」
そいつはとにかく口が悪く、性格も、素行も悪い、顔と体とタップダンス以外には、何の取り柄もない女だった。
「あんたのダンスには遊びってもんがないんだ。個性だって欠片も感じられない。型にハマったダンスほど退屈なもんはないよ、誰が踊ったって一緒なんだから」
その女が活躍していたのは、オフ・ブロードウェイやオフ・オフ・ブロードウェイのような、規模の小さな劇場が主だった。いつも切れ目なく舞台に立っていて、ときにはいくつかの役を掛け持ちするほどの役者だった。
「今どきタップダンスなんて流行らねーってさ」
ダンスに流行りも廃りもあるかよ──珍しく付いて来いと誘われ、連れて行かれた先のパブで、その女は散々日頃の愚痴をこぼしていた。
「あんた、見込みがあるよ」
その女の、その言葉は、今でもバージルの支えになっている。お前には才能があると言われるよりもずっと、バージルに大きな自信を与えた言葉だ。
しかしながら、その翌日、いつものようにスタジオに足を運んでも、あの女の姿はなかった。また二日酔いで起き上がれなくなっているのだろうと思い、呆れていたバージルは、女が踊っているのを見ているうちに覚えてしまったステップを踏んで、女が現れるのを待っていた。
「ああ、なんだ、お前か」
そう言ってスタジオに入ってきた男の顔も、名前も、バージルは覚えていない。ただ、酷く青ざめた、まるで幽霊でも見たかのような顔で、こちらを見ていたことは、よく覚えている。
「あいつなら、もう来ない」
「明日は来る?」バージルはそう言って後ろを振り返った。「約束してるんだ」
「バージルは死んだよ」
交通事故だったそうだ。
昨夜、バージルと別れた後のことだ。あの女は、家まで送ると言ったバージルの言葉を鼻で笑い、タクシーで帰るから大丈夫だと、そう言っていた。だから、フラフラしている体を支えてやりながら、タクシーを掴まえ、車に乗せてやったのだ。
すると、あの女はくすくすと面白そうに笑って、ありがとな、と言い、バージルの唇にキスをした。
「明日もスタジオに来るんだろ?」
「……そのつもりだけど」
「んじゃ、また新しいステップを教えてやる。光栄に思えよ」
それが、あの女と──バージルと、最後に交わした会話だった。
タクシーは飲酒運転の車に正面から衝突され、後方から迫っていたトラックのブレーキが間に合わず、後ろからも激突された。車体は見るも無惨な残骸となり、運転手とあの女が救出されたときにはもう、二人の息はなかったという。
運び込まれた病院を教えてもらったが、霊安室に安置されているあの女に会うことは許されなかった。どこに埋葬されているのかも分からない。
彼女の本当の名前を、バージルは知らなかった。
あの女の死をすぐには受け入れられなかった。事故現場に足を運んでみたが、その道はまるで何事もなかったかのように、いつも通り、車が往来していた。バージルはその道の端に落ちていた、窓ガラスの破片のようなものを一つ持ち帰り、それを日当たりの良い家の窓辺に置いて、その辺の道端に咲いていた小さな花を手向けてやった。
あの女は、観客が五十人も入らないほど小さな劇場での公演を控えていたが、主演が事故死し、代わりの役者も見つからないため、中止するという話を、バージルは人伝に聞いていた。
ブロードウェイの舞台であれば当然代役が存在するのだが、規模の小さな舞台の場合は、代役がいないことの方が多い。
あの女はとても楽しそうに、目前に迫っている舞台の話を酒の肴にして、何時間も語り続けていた。本当に舞台が、踊ることが、タップダンスが好きなのだろうなと、その横顔を見つめながら思っていた。
今度の振り付けは過去最高傑作だ。超格好良い。今どきタップダンスは流行らないとか言いやがったあいつに、目に物見せてやる──そのくるくる変わる表情を見ているのが、バージルは好きだった。
数日後、もうこのスタジオに来るのはやめようと思い、ロッカーの荷物をまとめているときだった。見たことのない小太りの男がスタジオに駆け込んで来たかと思うと、辺りをきょろきょろと見回し、バージルを見るなりハッとした表情を浮かべた。
「君! 君だよ、そこの君! ああ、探した! 本当に探したんだ!」
「……なんだよ、あんた、誰?」
「私はバージルのエージェントだよ」バージルのエージェントだと名乗った男は、小太りにしては素早い動きで、目の前まで駆けてくる。「君、バージルの振りを完璧に覚えてるって、本当なのかい?」
「はあ?」
「今度の舞台の振り付けだよ! 私が担当している別の役者が、君が彼女の振りを踊っているところを見たって言うんだ!」
「うるせぇな、声がでかいって」
「ああ、これは失敬」男はそう言うと、ポケットから取り出したハンカチで、顔と首の汗を拭う。「実はね、あの舞台はどうしても上演させたいんだ。某プロデューサーが演出と脚本を偉く気に入ってね、上手くショーアップをすれば、ブロードウェイというよりも、ベガスで稼げるかもしれないと言って乗り気なんだよ」
女の弔いのためだと、嘘でもそう言ってくれたなら、バージルは二つ返事で応じていただろう。だが、結果的には金儲けのために、最高傑作だと断言していた振りを踊ることは、タップダンスに並々ならぬ情熱を注いでいたあの女に対しての、裏切りになるのではないかと、そう感じていた。
しかしながら、そんなものはただ単なるバージルの妄想であって、あの女は自分の振り付けが偉いプロデューサーに評価され、ラスベガスのショーで踊られることを、誇りに思うのかもしれない。
「なっ、いいだろう? 一度だけでいいんだ! 頼む! この通り! ギャラは弾むから! なっ?」
今日の夜、ここに来てくれと言って、小太りの男はバージルにどこかの住所が書かれた紙の切れ端を押し付け、ドタバタと下品な足音を響かせながら、スタジオを出ていった。
少ない荷物をまとめ、お世話になりましたと挨拶をして、そのスタジオを後にする。数ブロック先にある、拠点としていたスタジオに向かって歩き出しながら、自分とあの女の関係について、ぼんやりと考えていた。
「踊ってやればいいじゃないか」酷い顔をして戻ってきたバージルが、先程のことを話してきかせると、Mr.スミスは間髪を入れずにそう言った。「実際、彼女なら自分や仲間のチャンスのためなら、喜んで踊ったと思うけどね」
結果的な話をすると、バージルは呼び出された場所に出向き、プロデューサーの前でタップダンスを踊って見せた。まだまだ拙いダンスだったが、それでもプロデューサーは舞台の構成を気に入り、演出込みで脚本を買い上げるという形で、話はまとまった。
そのショーは今もまだ、煌びやかなラスベガスのどこかの劇場で、観客を楽しませている。
「君」踊るだけ踊ってやり、そのまま帰ろうとしたバージルの背中を、プロデューサーが呼び止めた。「君も一緒にベガスに行かないか?」
「なんで」
「タップダンスの技術はまだまだだが、君には他の人にはない華がある。このまま稽古を積めば、いつかステージの真ん中にだって立てるようになるだろう。それまでの間、私が責任を持って、君の面倒を見てやってもいい」
その誘いに食いつく若者は多いのだろう。だが、誰かに買われ、飼い殺しにされることは、バージルのプライドが許さなかった。
「今日は頼まれて踊っただけだ」バージルは睨むようにしてプロデューサーを見た。「ベガスになんて興味はないし、人の見せ物になるなんて、まっぴらごめんだね」
「ブロードウェイの舞台に立つ役者やダンサーたちだって、大衆の見せ物には違いないじゃないか」
「ここで毎日歯を食いしばってる連中は、有名になりたいだとか、金持ちになりたいだとか、そんな安っぽい信念のために、舞台に立ってるやつらばっかりじゃねぇんだよ、オッサン」
「ほう?」
「俺は花屋に売られているバラよりも、道端に咲いている名もなき花の方が好きだ。仰々しく飾り立てられたステージよりも、掘っ立て小屋みてぇな劇場の舞台に立ちたい。そういう場所で輝いて、見い出されてこそ、本物ってもんだろ」
何年か経って、バージルがブロードウェイの舞台に立ち、力強いスポットライトを浴びるようになった頃、このプロデューサーが終幕後の楽屋に現れたことがあった。君は本物になったんだね、と言った男は、バージルに握手を求め、多くを言わずにその場を去っていった。
バージルという名前は、タップダンスと一緒に、あの女から譲り受けたものだ。それ以前は、本名のクリスティアンという名前を使っていたが、そもそもこの名前が好きではなかったので、あの女の死後、同じ名前を勝手に名乗らせてもらっている。戸籍上の名前も変更済みだ。
人からバージルと呼ばれるたびに、脳裏にはあの女の姿がよぎる。
西日が差し込むスタジオの真ん中で、一人、タップダンスを踊るあの女は、最高に格好良かった。
その後の恋愛が上手くいかなかったのも、きっと、あの女のせいだ。
立花希佐と踊る三分弱のほんの短い時間で、まるで走馬灯のように、当時のことが次々と思い出されていく。『God Only Knows』の舞台で踊っていたときもそうだった。あの女からタップダンスを教わっていた頃の情熱がよみがえってくるようで、酷く心が滾っていた。
損得勘定なく、ただ純粋に踊ることを楽しんでいる人間の隣にいると、心が震えるのだ。だから、バージルはカオスの舞台が好きだった。個性豊かな仲間たちは総じて、ただ表現をするだけのために、あの小劇場の舞台に立っている。劇団カオスは表現者たちの集まりで、観客たちはそれに、魅せられているにすぎない。
楽しい。
楽しくてたまらなかった。
この時間が永遠に続けばいいと、そう願ってしまうほど。
だが、音楽は終わりに向かう。この情熱は再び冷え切ってしまうのだろうか。滾るような思いは影を潜めてしまうのだろうか。
大喝采を浴びながら、隣に立つ希佐を見やる。希佐は満面の笑みを浮かべてこちらを見上げたが、バージルの顔を見た途端、驚いたように琥珀色の目を見開いた。
「バージル、どうしたの?」
視界が滲み、希佐の顔の輪郭が歪んでいた。大きく息を吸い込んで、それを、時間を掛けてゆっくりと吐き出す。額の汗を拭うふりをして、衣装の袖で目元を拭い、にっこりと笑い返してやった。
「なんでもねぇよ」
「本当?」
「ああ」
終わりたくない、終わらせたくないと、そう思った。
希佐の隣で踊っているときだけは、あの頃の自分を取り戻すことができるからだ。だが、こいつはもう間もなく、自らの舞台に、終止符を打つ。
バージルにはそれが、残念でならない。
アンコール代わりにタイプライターを披露した二人は、想定以上に集まってしまった観客に向かって恭しくお辞儀をすると、ステージの終了を告げた。午後一時からは店内で催しが行われるので、是非にと言えば、観客の何人かが店の中へと雪崩れ込んでいく。
口々にダンスの所感を言いたがる子供たちをどうにか落ち着かせ、約束していたサンデーローストを振る舞うために、半ば強引に店の中へと押しやった。いつまでも居座っていては、店頭の撤収作業を行うことができないからだ。
「どちらの譜面も用意しておいて正解だったよ」
Swing TimeかBegin The Beguineのどちらかで迷っていると、そうバージルが話していたことを覚えていたらしく、念のためにどちらの楽譜も用意しておいたのだという。
「何事にもプランBは必要さ」
自分たちは次のステージの準備があるからと言って、楽団の連中も店内に引き上げていった。「最高だったぜ!」と声を掛けてきたコントラバス奏者に、希佐は笑顔で手を振っている。
「バージル」スタッフたちを手伝って板の後片付けに取り掛かろうとすると、そこに希佐が駆け寄ってきた。「本当に大丈夫?」
「何の話だ?」
「何の話って……」
あまりに平然と振る舞っているバージルを見て、希佐は訝しげに眉を顰めていた。続けて、なんだよ、と言って笑ってみせると、今度は自分の気のせいかもしれないと感じはじめたのか、困惑したような面持ちを浮かべて、頬を掻いている。
「そんなことより、キサ、俺なんかに構ってて良いのか?」
「え?」
「昔の男がお前に会いに来てるんだろ?」
そう言って意地悪く笑ってやると、希佐は「もう」と怒ったように口にしてから、少しだけ安心したように表情を和らげた。
「バージルのことを紹介したいから、一緒に来て」
「俺もか? あー、まあ、別に構わねぇけど」
希佐の不安はその手に表れていた。男の姿を探すように周りをきょろきょろと見回しながらも、バージルの腕をしっかりと掴んでいる。
『立花』
背後からの呼び声に二人が揃って振り返ると、そこには白田美ツ騎が立っていた。二人は日本語で何事か言葉を交わしてから、傍に立つバージルを見上げた。
「フミさん、クローディアさんに連れられて、先にお店の中に入っていったって」
「へえ、かわいい後輩に挨拶もなしとはねぇ」
「忙しいと思って気を使ってくださったんじゃないかな」
「お前、先に行ってていいぞ。俺はここの片付けを手伝うから、まだ戻れねぇし」
「あ、ううん。私も手伝うよ」
いいから先に行けと言って、背中を押してやることもできたが、バージルはあえてそうしなかった。なにせ数年ぶりの再会だ、開口一番にどんな言葉を口にするべきか、じっくりと考える時間が必要なのだろう。
「私は今日のダンス、すごくよかったなって思ったのだけれど」バージルと背中合わせに作業をしていた希佐が、不意にそう言った。「バージルはどう思った?」
「上出来だった」
「そう」その相槌の打ち方があまりにアランとよく似ていて、バージルは思わず笑ってしまう。「どうして笑っているの?」
「ああ、いや、何でもないんだ。気を悪くしたなら謝る、すまん」
実際、今のステージは上出来以上の仕上がりだった。
本当なら、言葉を尽くして褒めてやりたいところだが、今は頭の中が酷くとっ散らかっていて、むやみやたらに口を開けば、また視界が滲んでしまうような、そんな気がしていたのだ。
だが、もう大丈夫だろう──バージルはそっと息を吐き、肩越しに後ろを振り返った。
「お前と踊ってたら、大昔のことを思い出したんだ」
「大昔?」
「俺がロンドンからブロードウェイに拠点を移して、少し経ってからのことだよ。タップダンスと出会って間もない、いたいけな頃のな」
「それは、何歳くらいのとき?」
「今の希佐よりもいくらか若いくらい」
バージルがそう答えると、希佐は少しだけ黙ってから、不思議そうな顔をした。
「やっぱり、バージルにも若い頃があったんだよね」
「おい、そりゃどういう意味だよ」
「なんていうか、私にとってのバージルは最初からタップダンスの師匠だから、あなたにも、ほら、棒っきれを振り回しているだけの時代が、当然のようにあったんだなぁって」
「最初から上手く踊れるやつなんていやしねぇだろ」
「それは分かっているんだけどさ」
えへへ、と笑う希佐の頭を、少しだけ乱暴に掻き撫でてから、バージルはその場に立ち上がった。取り外した板を歩道の隅に運んでいると、希佐がその後ろをついてくる。
希佐が自分に見せる顔は、アランの隣にいるときとも、イライアスの隣にいるときとも違うと、バージルは感じていた。
イライアスは、ダンスのことでアランに強く意見する希佐を見て、酷く驚いていたようだ。だが、バージルにしてみれば、それは日常茶飯な事象でしかなく、何ら違和感を覚えるようなことでもない。
立花希佐は、相対した者が不足している形に、ぴたりとハマる役者だ。自分の欠点を映し出す鏡と言っても過言ではない。隣に立てば、自分の欠点を補ってくれるが、言い方を変えれば、自らの欠点が浮き彫りになるということだった。
バージルは他者に指導していても、振り付けを行っていても、自分本位になりがちだ。自分が良かれと思えば、それが最善であるはずだと、そう考えてしまう節がある。最初こそ、それに大人しく従っていた希佐だったが、ある日突然、反旗を翻した。
「私は気にしないけど、バージルのそういうところ、良くないと思う」
あのオリジナルのバージルが、いつだって無理難題を押し付け、明日までに仕上げてこい、さもなければもう二度と教えてやらん、というタイプの人間だったことが、今の自分に影響しているのだろう。
以来、バージルは振り付けの仕事で行き詰まると、希佐に意見を求めるようになった。希佐の意見はいつだって的確で、他者に対するリスペクトと、優しさがある。
お前のおかげで仕事が増えたと告げると、希佐は驚いた顔をしたあと、くすぐったそうに笑って、首を横に振った。
「全部バージル自身の努力の結果だよ」
イライアスの場合は、人との距離感に問題がある。親しい相手にも遠慮をしがちだ。それなのに自信過剰で、常に自分が一番だと思い込んでいる。イライアスとの間に波風を立てないためには、お前が一番だと、そう言ってやることが必要だった。
だが、希佐はイライアスの心の隙間にするりと滑り込み、その感情に揺さぶりをかけた。初めての経験だったに違いない。たったそれだけのことで、まるで初めて見たものを親だと思う雛鳥のように、イライアスは希佐に懐いてしまった。
不思議なのは、アラン・ジンデルとの関係性だった。
当初は、希佐がアランの不足している部分を補っているように見えた。だがしかし、今となっては、互いが互いに似てきていると、そう感じることが増えている。この三年間、一つ屋根の下で暮らしてきたのだからと言われてしまえばそれまでだが、そういうところに危うさを覚えるのは、おかしなことなのだろうか。
きっと、誰も、本当の立花希佐を知らない。
だが、アラン・ジンデルの隣にいる立花希佐が、限りなく本物に近いのではないのかと、バージルは思っている。
さて──店の前に用意したステージをすっかり撤収し、スタッフたちから散々感謝されながら、こっそりと希佐を横目に見た。昔の男を前にして、立花希佐はどのような形に姿を変えるのか、バージルには興味があった。
「なんだよ」ふう、と深呼吸をしている希佐の頬を突き、バージルは言う。「やっぱり不安なのか?」
「ちょっとだけね」希佐は否定しなかったが、すぐに返ってきた言葉はバージルが想像していたものとは、まるで違っていた。「私のダンスを見て、がっかりされなかったかなって」
「お前、この俺が上出来だって言っただろうが」
「バージルとフミさんでは見るところが違うと思うし、それに──」
「あー、はいはい、分かったよ」
五年前、誰にも行き先を告げず、蒸発するように日本を離れたと聞いていた。だから、少なからず罪悪感のようなものは抱いているはずだ。しかし、希佐はそんな様子をおくびにも出さない。先程のステージも、萎縮して固くなるのかと思いきや、手加減のないバージルのダンスにも、いつも通り食らいついてきていた。掛け値なしに、最高のパフォーマンスだったのだ。
昔の男という言葉を否定しなかった以上、たとえそうではなかったとしても、希佐の方には気があったということだろう。わざわざこんな小規模なイベントに合わせてやって来たとは思えないが、五年も音沙汰のなかった学校の後輩を訪ねて来るくらいなのだから、向こうにも未だ気があることは、まず間違いない。
頼むから、五年ぶりの再会で当時の思いが再熱、なんてことになってくれるなよ──バージルはそう思いながら、希佐と並んで店内に戻った。
子供たちは店の奥まったところにあるテーブル席で、比較的行儀良く食事をしている。メレディスが他の客の邪魔になることがないよう、配慮してくれたのだろう。エリザベスを連れてきたネイサンが、子供たちの様子を見てくれているようだ。
クローディアたちは入り口付近にあるカウンター席に腰を下ろしていた。
歴史的なパブということもあり、ヘスティアには日本人観光客も時折やって来る。移民が多く暮らすこのソーホーでは、基本的に悪目立ちをするということはない。だが、そこにいる三人のルックスの問題なのだろう、その一角だけが、周りから浮いて、異常に目立っていた。
希佐に居場所を教えるまでもなく、その眼差しは、バージルと同じ場所に注がれている。
「行こう、バージル」
「へいへい」
舞台の袖に立っても緊張した表情一つ見せない希佐の横顔が、ほんの僅かに、強張っているように見えた。そう見えたような気がしただけなのかもしれない。恐らくは、少しくらいは緊張している姿を見てみたいというバージルの願望が、そのように見せただけなのだろう。
今まさに、足を踏み出す。一時、その背中を見つめてから、バージルはゆっくりと、希佐の後ろを追いかけた。
バージルが隣にいてくれれば、何でも上手くいくという核心のようなものが、希佐の中には存在していた。すべての悪いものを吹き飛ばしてくれるような、そんな心強さと、寄り添ってくれる優しさと、その場を和ませてくれる安心感とが、いつだって希佐の心の支えになっている。
年の功だろうか。
そんなふうに言ったら、バージルは少しだけ嫌な顔をするだろうから、希佐は余計なことは口にせず、黙って足を踏み出した。
歩きながら、大きく深呼吸をする。
視線の流れを縫うようにして進む。
空気が動く。
あと十歩、九歩、八歩──そこへ辿り着くよりも先に、その目が、こちらに向けられた。
『フミさん』思いの外、落ち着いた声が、希佐の喉を震わせた。『お久しぶりです』
『希佐……』自分の名前を呼んでくれるその声が懐かしい。希佐はゆっくりと瞬いてから、はい、と返事をした。『ああ、そうだな。久しぶりだ』
高科更文は、五年前よりも、ぐっと大人びていた。あの頃にはまだ微かに残されていた、少年のような面差しは、すっかり消えてなくなっている。纏う雰囲気はますます洗練され、辺りを漂う空気からは、白檀のような甘い香りが漂ってくるようだと、希佐は思った。
『お前が元気そうで安心したよ』
百合のような凛とした佇まいで椅子に腰を下ろしていた更文は、希佐の正面までやって来ると、やおら右手を差し出してくる。希佐は反射的に自らも手を差し出そうとするが、ステージの撤収作業ですっかり汚れてしまっていることに気づき、はっとした表情を浮かべた。
『すみません、私、手も洗っていなくて──』
そう言って引っ込めようとした手を、更文は構わず握り締める。その力は意表を突かれるほどに強く、まるで、ようやく掴まえたと、そう言っているようだと、希佐は感じた。手の甲を包み込むように添えられた左手の手首には、酷く色褪せた、深緋色の鯉結びが、シャツの袖から僅かに覗いているのが見えた。
更文の目も、希佐と同様、何かを探すように左腕の手首に注がれているのが分かる。だが、その場所に、更文から贈られた鯉結びはない。
「キサ」バージルの声で、希佐は我に返る。「俺を紹介してくれるんじゃなかったのか?」
「あっ、うん、そうだったね」そう言いながら希佐がすっと腕を引くと、更文の手は呆気なく離れていった。「彼は、ユニヴェールの先輩で、高科更文さん──『フミさん、こちらはバージルです。同じ劇団に所属していて、私のタップダンスの師匠でもあります』」
バージルは誰に対してもフレンドリーだ。白田を紹介したときも酷く気さくで、構えたところなど少しも感じさせなかった。だからこそ、希佐は何の心配もしていなかったのだが、バージルの更文を見る目にどことなく違和感を覚え、微かに眉を顰める。
「バージルだ」
「更文です」バージルが求めた握手に、更文が応じる。「フミと呼んでください」
「フミだな、よろしく」一瞬、更文の手を握るバージルの手の関節が白く浮き上がるのを、希佐は確かに見た。「おい、クローディア。お前、そんなもん食ってて大丈夫なのか?」
バージルはすぐさま更文から手を離すと、クローディアの前に運ばれてきた山盛りのサンデーローストを見て、呆れ顔を浮かべている。だが、クローディアはどこ吹く風だ。
「私の出番は夜よ? 今のうちに腹ごしらえをしておかないと、体力が続かないわ」
「昼過ぎに集まってもう一度合わせるって言ってあったよな」
「大丈夫だったら」
まったく、口煩いんだから──クローディアはそう言いながら、付け合わせのじゃがいもを、もぐもぐと頬張っている。
「あなたも今のうちに何か食べておいたら?」
「もうすぐダイアナが来て衣装合わせをするので」
「あら、そう」
相変わらず、役者としてのKISAには興味があっても、人間としての立花希佐には興味がないようだ。
その様子を目の当たりにし、白田が異様なものでも見るような眼差しを、クローディアに向けた。
『あの人、今の今までお前のことを散々褒めちぎってたんだけど』
『彼女は役者としての私を高く評価してくださっていて』
『……ああ、そういうこと』
人としては、物凄く嫌われてしまっているが、だからといって、クローディアの近くにいることを、居心地が悪く感じられることはなかった。むしろ、役者として認められているということが、希佐の自信になっている。
「今日はよろしくお願いします、クローディアさん」
「やめて。気安く、お願いします、なんて言わないで」クローディアは、つん、と希佐から顔を背けた。「危うく、私の中にいる理想のKISA像が崩れ去るところよ」
「こいつにどんな理想を押し付けてるんだよ……」
「舞台上のKISAは常に気高いの。凛々しく、勇ましい、孤高の存在なの。こーんなかわいらしいだけの女の子なんかじゃないのよ、悪いけど」
「お前、拗らせてんな」
「うっさいわね」
希佐から見たクローディアの印象も、この数日で少しずつ変化しつつあった。当初はとても女性らしい、艶のある人だと思っていたが、実際には、どこか少年のようなさっぱりとしたところがある。繊細で、気遣いのできる、優しい人だ。あなたのことは好きになれないと言いながらも、時々、気遣うような言葉をかけてくれる。
二人のやり取りに、ふふ、と笑みをこぼした希佐は、不意に視線を感じて、傍に立つ更文を見上げた。まるで注視するようなその眼差しに驚いて、希佐は無意識に肩を強張らせる。
「あ、あの、えっと」咄嗟に出てきた英語を振り切り、希佐は日本語を絞り出した。『根地先輩もご一緒だとお聞きしたのですが』
『クロなら、昨日の夜に飲みすぎて、二日酔いでぶっ倒れてるよ』
『えっ、大丈夫なんですか?』
『俺が出てくるときには大分マシになってたみたいだから、多分大丈夫だろ。午後には来るって言ってた』
『そうなんですね』希佐はそう言いながら、深いポケットの中に手を入れ、少しだけ皺になっている二枚の紙を取り出した。『実は、お二人がいらしたら、このチケットをお渡ししようと思っていて』
『チケット?』
『今日のイベントの、夜の部の入場チケットです。例年なら当日券を出す座席の余裕があるのですが、今年はチケットの売れ行きが好調で。加斎くんから、お二人がイギリスにいらっしゃると聞いていたので、もしかしたら来てくださるのではないかと思って、確保しておきました』
どうぞ、と差し出した二枚のチケットを、更文は僅かな逡巡のあと、そっと受け取った。
『私も出演するので、もしよろしければ観ていってください』
『……ああ、ありがとう』更文は目を伏せ、そう口にしてから、再び希佐に目を向けた。『クロと一緒にしっかり観させてもらうよ』
『はい』
何か他にも話すべきことはあるはずだと思いながらも、希佐は結局のところ、当たり障りのないことしか口にすることができなかった。自分の方から五年前のことを切り出すのは、どこか違うような気がしたのだ。
何を言っても、言い訳になってしまう。
だから、どうしても、何も言えなかった。
それからすぐに、アシスタントを引き連れたダイアナが、ヘスティアに到着した。先日、ここで英気を養ったアシスタントたちの足取りは、思いの外軽い。対して、ダイアナは珍しくノーメイクで、髪も半乾きの状態だった。目の下にはうっすらと隈を蓄えている。
「キサぁ……」
目敏くも、カウンター席にいる希佐の姿を捉えたダイアナは、ぐったりとした様相のままこちらに歩み寄ってきた。衣装の入ったトランクを抱えたアシスタントたちは、指示を待つまでもなく、先に二階へと上がっていった。
「ダイアナ、大丈夫? 寝てないの?」
「一晩中衣装の手直しをしていたのよ。アランに頼まれて、あなたの追加のヘッドピースまで作ったんだから」希佐は自分に向かって倒れ込んできた体を支えようと、ダイアナの背中に両腕を回した。「お願いだから労って。よく頑張ったって言ってちょうだい」
「頑張ったね、ダイアナ。偉いよ」
「そう言ってくれるのはあなただけよ、キサ」そのまま身を起こしたダイアナは、希佐の頬に軽くキスをしてから、自らの足でまっすぐに立ち、バージルを見やる。「バージル、タキシードは持ってきてくれた?」
「控え室に置いてある」
「あとで調整するわ」
「サイズなら変わってねぇと思うぞ」
「調整するの」
ダイアナは威圧感のある声色でそう言ってから、近くを通りかかった店のスタッフに声を掛け、エスプレッソを注文する。紙幣を取り出すのに手間取っていると、バージルが代わりにカードを出した。
「ありがとう、紳士さん」
「ついでに子供たちの精算も済ませておいてくれ」
「かしこまりました」
「キサ、衣装を合わせたいから、用が済んだら上に来てね」
「うん、分かった」
ダイアナは運ばれてきたエスプレッソを受け取り、失礼、と軽く挨拶をしてから、その場を離れて行った。
『すみません、フミさん。私はもう行かないといけなくて』
『俺が勝手に押しかけて来たんだ、気にすんなよ。このチケットも、ありがとな』
『いいえ』希佐はそう言って首を横に振ってから、白田を見た。『白田先輩はどうされますか?』
『僕はもう少しここにいる』
『分かりました』
「もういいのか?」
話が済んだ雰囲気を感じ取ったのだろう、バージルがそのように問いかけてくる。希佐がこくりと頷けば、バージルは更文に向かって「じゃあな」と声を掛けてから、その後ろにいるクローディアの方を覗き込んだ。
「食い過ぎんなよ、クローディア」
「これを食べ終わったら、すぐに行くわよ」
私のママより口煩いんじゃないの、などと言いながら、クローディアはもぐもぐと食べ続けている。
希佐は、その場で踵を返したバージルに続いて、カウンター席を離れようとした。しかし、背中を向けたところで右手を掴まれ、反射的に後ろを振り返る。
咄嗟に掴んでしまったのだろう、不意に見つめ合った更文の表情は、突然手を掴まれた希佐と同じくらい、驚いているように見えた。
『……あの、フミさん?』
『あ、いや、悪い──』更文は希佐から手を離し、言葉を探すように視線を彷徨わせた。『お前のタップダンス、すげー格好良かった』
『本当ですか? 嬉しいです』
『この五年間、お前がどんなふうに生きて来たのか、なんとなくだけど見えたような気がしたよ』
なぜだろうか、その最後の言葉を素直に嬉しく思う自分と、何も知らないのにと反発したくなる自分がいることに、希佐は気づいた。この五年間を、ほんの数分のダンスを見ただけで判断されたくはないと、そう思ってしまう。
『夜にはより良いステージをお見せします』
にこりと微笑み、折り目正しく会釈をして、希佐は今度こそ踵を返した。階段の手すりに寄りかかり、希佐がやって来るのを待っていたバージルは、その顔を見て眉を持ち上げた。
「なんか言われたのか?」
「ううん」
「そんなふうには見えねぇけどな」
行くぞ──そう言って階段を上がっていくバージルの後ろを追いかける。
後頭部に視線を感じる。
だがしかし、希佐は後ろを振り返らなかった。
どうして自分は、あんなふうに、楽しく踊ることができないのだろう。
踊るということは、使命のように、宿命のように、或いは天命であったかのように、至極当然の如く、生まれたときからイライアスと共にあったものだ。踊ることに楽しさを感じることも、喜びを見出すことも、幸福を覚えることもなかった。
それは、生まれたときから、生活の一部だった。
生きることと同義だった。
生きるためには、踊り続ける必要があった。
いつしか、自分は踊ること以外には能がないのだと、そう思うようになった。踊ることでしか自らの存在価値を証明することができない。だから、必死に稽古をする。自分以外の誰かに、お前は生きていていいのだと、認めてもらうために。
実のところ、アイリーンの家に引き取られ、家族として迎え入れられても尚、その思いはなくなりはしなかった。バレエが自らに付加価値を与えてくれていると信じていた。その才能を証明し続けていれば、見限られることはないという切迫した感情が、常に付き纏っていた。
立花希佐は、イライアスのダンスに、熱を帯びた情熱を感じると言う。
恐らく、希佐が感じている熱というものは、イライアスの中にある生きることへの執着なのだろう。
生きるためには、踊り続けなければならない。
踊り続けていれば、その分、長く生きることができる。
踊ることをやめたとき、目の前に現れるのは、ただそこに横たわる静かな死だと思い込んでいた。
踊ることを心から楽しんだことなどない。希佐と踊るときですら、心のどこかでは、それを戦いのように感じていた。
自分の方が上手く踊れるという驕りがあった。慢心だ。誰よりも美しく踊れるという自負が、イライアスの自尊心を保つ方法だった。いや、誰よりも美しく踊れているという自覚はある。それなのに、この数日、敗北感ばかりが付きまとうのだ。自らが酷く劣った存在に思えてならない。その追い討ちをかけるように、バージルがとどめの一撃を食らわせた。
「この期に及んで何を格好付けてるんだ?」
スタジオの床に倒れ込み、息を荒らげながら、呆然と天井を見上げることしかできないイライアスに向かって、バージルが呆れたように言った。腹立たしいことに、バージルは相当量の運動を行なったはずなのに、息一つ乱してはおらず、至って涼しい顔をしていた。
「お前の中にある、その面倒くせぇごちゃごちゃした感情を曝け出しちまえばいいだけなのに、何を躊躇ってるんだよ」
バージルは、それを簡単なことのように言う。だが、イライアスにとっては至極難しいことなのだ。何かが壁を作り、感情を堰き止めている。丸めたパンが胸に詰まっているかのような、そんな感覚が、常に心に寄り添っている。
「なあ、イライアス」バージルはイライアスの傍らに屈むと、真剣な面持ちで顔を覗き込んできた。「お前、悔しくねぇのか?」
「……」
「キサはお前のパートナーだろ? それなのに、今じゃまるで、あいつがキサのパートナーみたいな顔をしてるじゃねぇか。キサをあそこまで育て上げたのはお前だっていうのに、まったくひでぇ話だよな」
「……」
「お前には見込みがある」そう言われて初めて、自分の顔を覗き込んでいるバージルの目を見た。バージルは、腹が立つほど、にこやかに笑っていた。「他の男に夢中になってるキサのことを、振り向かせてみせろよ、イライアス。ちっとはあいつを悔しがらせてやれ。キサっていう舞台人はな、隣を歩く誰かよりも、自分の前をひた走る誰かを追いかける方が、性に合ってるんだ」
そうやって、いつまでも歩みを止めていたら、本当に置いていかれちまうぞ──バージルはそう言うと、イライアスの鼻をぎゅっと抓んで、その場を立ち去っていった。
歩みを止めていたいわけではないのだ。本当なら、今すぐにでも走り出したい。だが、このままではそれもままならない。
劇場の窓から見下ろしている二人は、いつだって楽しそうに踊る。
自分と踊っているとき、希佐はあんなふうには笑わないと、イライアスは思った。
希佐と踊っているときは、楽しいよりも、嬉しいが勝つ。嬉しくて、笑みが溢れることがある。これまで数多くの舞台に立ってきたが、こんなにも自分が求める形に姿を変え続ける役者は、はじめてだった。
イライアスにとって、希佐は特別な存在だ。
だがしかし、希佐にとってのイライアスは違う。特別でもなんでもない。同じ劇団に所属する仲間だ。それ以上でも、以下でもないのだろう。舞台上のパートナー。朝から晩まで一緒に踊り、誰よりも長い時間を過ごしていても、共に朝を迎えるアランに勝つことはできない。
イライアスがアランと希佐に向けている思いは、どこか似通っている。
その才能を目の当たりにした瞬間、電流が走るような強い衝撃を受け、体が硬直して動かなくなった。今、この瞬間、目にしているこの姿を永遠に忘れまいと、必死になって記憶に刻んでいた。
二人には魅せる力がある。いや、二人だけではない。劇団カオスの仲間たちはそれぞれ、ただそこにいるだけで、天から差し込むスポットライトに照らされている。
だが、自分はどうなのだろう──イライアスは、ガラス窓に映る自分の姿を見つめ、考えた。
自分の容姿が優れている自覚はある。華奢で、細身。プラチナブロンドの髪の手入れは、十年近く前にアイリーンに連れていかれたサロンに任せきりだ。均整の取れた肉体を維持するための努力だけは、怠ったことがない。
だが、だからといって、それに何の意味があるというのか。
人は、何を見て、この仕事をする自分を応援してくれているのだろう。
ただこの見た目が好きだからだろうか。
ただただ美しく踊るからだろうか。
そんなことを考えていると、イライアスはふと、もう何年も前からずっと手紙を送ってくれている、ファンの存在を思い出した。
病気で入院していた母親の看病をしながら、時折自分へのご褒美で舞台を観に行くのだと、手紙に書いて送ってくれた人だ。それが、唯一の楽しみであったと。
イライアスは、観客の反応を意識して、舞台に立たないようにしていた。舞台に立って台詞を口にするとき、踊るとき、歌うとき、いちいち観客の様子になど目を留めない。観客が自分を見てどのように思うのかを、考えないようにしていた。
『イライアスはもっと自分に自信を持っていい。他人の評価なんて気にしないで、自分が思うように演じたらいいんだよ』
希佐が『God Only Knows』の本番前日に言ってくれた言葉が、今も胸に残っていた。あの舞台に立って以降、イライアスは、他者の評価を軽く受け流すことができるようになっていった。あの言葉のおかげで、とても生きやすくなった。それでいいのだと思っていたし、そう信じていた。
だが、もしかしたら、あの言葉に縋っているだけでは、以前のようには前に進めないのかもしれない。他人の評価に耳を傾けず、自己満足のために踊り続けているだけでは、この膠着状態からは解放されないのだ。
でも、一体どうしたら──そうして考え込んでいると、いつの間にか、下の歩道に設置されていたステージが、綺麗さっぱり撤去されてしまっていた。騒がしかった子供たちの姿はどこにも見られない。隣にいたはずのアラン・ジンデルも、いつの間にか姿を消していた。
「ここに来てまだ悩んでいるの、坊や」
春風のように穏やかな声がそう言った。声の方向に目をやれば、そこには濃い色のサングラス越しにこちらを見る、クロエ・ルーの姿があった。
「あなたなら或いはと思ったのだけれど、私の見込み違いだったかしら」
そう言う口元は美しい弧を描いているが、サングラスの向こう側にある目はきっと、笑ってはいないのだろう。イライアスがそう思っていると、牡丹のように座っていたクロエは、芍薬のようにすっくと立ち上がり、百合の花のように毅然と目の前まで歩いてくる。
クロエは踵の高い靴を履いていたので、目線はイライアスよりも高い位置にあった。自然とその美しい顔を見上げれば、イライアスの尖った顎に、軽く指先が添えられた。顔は間近に迫っていると言うのに、色眼鏡の向こうにある目は、やはり見えない。
「私、最初からあなたの起用には反対だったのよ。だって、あなたを取り立てたのは、完全にスポンサー様のご意向だったのだもの。おかげで、脚本も大幅に書き換えなければいけなくなってしまったわ」まあ、書き換えたのはあの赤毛の坊やだけれど──クロエは軽い口振りで言う。「あのね、正直なことを言ってしまうと、あなたとキサでは釣り合いが取れないのよ。実力に偏りがありすぎるの。それに、二人が並んで立つと、あまりにピュアすぎる。悪い意味で毒気がない。舞台上の小さな違和感は、最終的に、大きな歪みになるわ。私はあの舞台を完璧なものに仕上げたいのよ。百年先も上演され続けるような作品にしたいの」
「……僕に役から降りろとおっしゃっているのですか」
「いいえ」クロエはそう言うと、掛けていたサングラスを滑らせ、頭に乗せた。露わになった青い目は、まるで猫を愛でるように、やわらかく細められている。「あなたには期待したいのよ、イライアス」
「……」
「でも、そのためには大化けをしてもらわなければ困るの。しかも、今日中にね」猫の顎を撫でるように、クロエの指先が滑る。「私にここまでのことをさせておいて、顔色一つ変えないあなたのそういうところは大好きだけれど、お芝居でもいいから、頬くらい赤らめてごらんなさい」
困惑するイライアスを見て、クロエは仕方なさそうに眉を下げ、小さく息を吐いた。次の瞬間、徐に視線を逸らしたかと思うと、少し離れたところでタブレットを操作していたノアに目を留めた。
「そこの、とびきりかわいい男の子、ちょっとこっちにいらっしゃいな」
「えっ、かわいいって僕のこと?」名指しをされたわけでもないのに、ノアはパッと顔を上げると、従順な犬のように早歩きでやってくる。「はいはい、何かご用ですか? 実は今、物凄く忙しいんだけど、飲み物くらいならもらってきてあげてもいいよ」
「あら、優しいのね」
「こんな美人に頼まれごとをしたら、嫌だなんて言えないよ」
「そんなに忙しいなら、私が何か飲み物をもらってきてあげるわ。何が飲みたい?」
「えっ、いいの? んー、僕はレモネードに──あっ、ジェレマイア! この美人さんが飲み物をもらってきてくれるって! 何か──」
ノアがそう言って、後ろを通り掛かったジェレマイアを呼び止めようとした、そのときだった。クロエは、振り返ろうとするノアの頬に手を添え、自らの方を向かせる。目をまん丸にしているノアの下唇を、親指の腹でなぶるようにして撫でながら、青い目を悪戯っぽく細めた。
「意地悪ね。私はあなただから飲み物をもらってきてあげると言ったのよ」「うわあ」ノアは驚いたというふうにそう声を漏らしてから、ふふふ、とまるで少女のように笑う。頬どころか、耳の先まで赤く染めていた。「じゃあ、今度デートに連れていってよ。美味しいアフタヌーンティーの楽しめるところがいいな」
「もちろん、是非ご一緒しましょ」
クロエがそう言って頬に添えていた手を下ろすと、ノアは「じゃあね」と言って、仕事に戻っていった。その足取りは心なしか軽いように見える。
「あなたにはこういう遊び心がない」クロエはイライアスに向き直ると、表情を一変させた。「舞台上にも遊びは必要なの。例えば、ただ脚本家が書いた台詞を読み上げ、振付師が用意したダンスを踊り、指導された通りの歌を歌って、演出家の指示通りに演じるだけでは、誰が演じても大差ないわ」
「僕は──」
「自分は違う?」イライアスが言わんとしたことを、クロエは先回りする。「あなた、あのアイリーンという子と一緒に、演技指導のワークショップに足を運んでみてごらんなさい。そうすれば、今までの自分がいかに恵まれていたのか、すぐに理解できるわよ」
クロエはそう言いながら、イライアスの肩を励ますように叩き、そのまま劇場の外へと出ていった。それと入れ替わるようにして、希佐とバージルが劇場内に戻ってくる。二人が姿を現せば、設営を行なっていたスタッフや、各々準備をしていたはずの出演者たちが、自然とそちらに目をやっているのが分かった。
「あ、キサ」ノアは手を挙げ、希佐の注意を引いてから、舞台袖の方を指す。「控え室でダイアナが待ってるよ」
「うん、ありがとう」
希佐はノアやジェレマイアといくつかの言葉を交わしてから、急ぎ足で控え室の方へと姿を消した。窓際に荷物を寄せていたらしいバージルは、イライアスの姿を一瞥してから、すぐ近くにまで歩み寄ってくる。先程までアランが座っていた椅子にどっかりと腰を下ろしたかと思うと、自らの膝に抱え上げた荷物を漁りながら、口を開いた。
「なんつー顔してんだよ」
「僕は……」
そう言い淀むイライアスを目の当たりにしたバージルは、多かれ少なかれ自分にも責任があると考えているのか、今回ばかりはいつものように茶化すようなことは言い出さなかった。
バージルはしばらく黙ったあと、再び徐に口を開いた。
「下にキサの昔の男が来てるぞ」昔の男って言うと怒るんだけどな──バージルはそう言ってから、傍に立つイライアスを見上げた。「あいつ、あれで面食いなところがあるのかもしれねぇな。ありゃかなりの美人だった」
「キサは人を見た目で判断したりしない」
「そうか? でも、キレーな顔の男は好きだろ?」
「物の美醜は人それぞれ違う」
「じゃあ、お前も下に行って見てきてみろよ。カウンター席でクローディアに絡まれてるから」
興味ない、と言おうとした口を、思わず閉じる。
実際のところ、興味津々だった。あの希佐が最も多感な時期に心を奪われた相手がどのような人間なのか、この目で見たくないと言えば嘘になる。
こんなときにすらそのように思ってしまう自分は、意外に図太いのかもしれないと、イライアスは思った。
「ま、美人っていっても、アランとは違うタイプの美人だったけど。線が細くて、より女性的。どちらかっていうと、お前と似たタイプだな」
希佐がビザを取得するための資料を用意していたとき、カオスの仲間たちが集まって、学生時代の舞台映像を見せてもらったことがあった。あのときから、希佐はその中にいる一人の役者の影響を強く受けていると、イライアスは感じ取っていた。
過去に、日舞を踊って見せてほしいと頼んだときも、希佐はその役者の癖を引きずっていた。
「キサは……」
「ん?」
「きっと、まだその人のことを好きなんだ」
希佐の体の隅々にまで、日本舞踊の美しさが通っていることは、ルイも常日頃から指摘している。その癖は異国的だが、君の個性で、舞台上では目を引く武器になるから、消さない方がいいだろうと。
『サロメ』の七つのヴェールの踊りのダンスでも、日本舞踊の動きが多用されている。ぞっとするほど、身の毛がよだつほどに、希佐の踊りの中に、別の誰かを感じるのだ。
「アランよりもか?」
「分からないけど」
「それはあり得ねぇだろ」バージルは頭の後ろで腕を組むと、窓の外に向かって身を仰け反らせ、春のはっきりとしない雲を見上げた。「学生時代の理想や憧れが、大きく膨れ上がってる可能性は否定できねぇけどな」
憧れというものは、その人物に対して無条件の敗北や、降伏をしてしまうような、どうしても抗うことのできない、心の抑圧のようなものだと、イライアスは理解していた。
この人には決して勝てないというふうな先入観と同時に、絶対的な信頼のような、身勝手な期待のようなものを寄せてしまう。この人だけは絶対に自分の期待を裏切らないだろうという、自己中心的な物の考え方を押し付けてしまう。
イライアスにも、そうした経験があるからこそ、よく分かるのだ。期待は相手に対する思いと、その思いを抱いた時間の長さだけ、大きくなる。
「日本語で話していたから、俺には二人がどんな話をしていたのかまでは分からねぇが、そいつはキサの反感を買うようなことを口にしたんだろうな。あいつは何も言われてないって言ってたけど、珍しく気に入らねぇって顔してたよ」
希佐は滅多なことでは怒らないし、不満も口にしない。生半可なことでは表情一つ変えず、いつだってにこにこと機嫌が良さそうにしている。
よっぽどのことを言われたのだろうか。それとも、個人的に看過できないようなことを言われたのか。それは、日本語を解さない二人には分かりようのないことだ。
希佐が衣装の確認を終えて控え室から出て来る前に、颯爽とした足取りで劇場を出ていったクロエが戻ってきた。その両手には、飲み物の入ったグラスを乗せたトレイを持っている。
「さあ、レモネードをもらってきたわ。喉が渇いた方、どうぞ」
「えっ、本当にもらって来てくれたの?」ノアは驚いたように声を上げ、慌てて駆け寄っていく。「どうもありがとう」
「いいのよ、私は暇だから」
イライアスは、ノアが「おっとっと」と言いながら、酷く重そうにトレイを受け取っているのを見て、思わず首を傾げた。ジェレマイアが後ろから支えてやり、ようやく安定するほどの重たさがあるというのに、クロエはそれを軽々と両腕に抱えてきたのだ。しかも、階段を上って。
「その昔、ビアホールで働いていたことがあるんだと」あの細腕のどこに、そんな力が──と不思議に思っているイライアスを見て、バージルが言った。「ダンスでリーダーを任されたから、女の子を支える腕力を鍛えるためだったとか、なんとか」
「どうしてそんなことを知ってるの」
「雑誌のインタビュー記事に書いてあった」
「あの人のインタビュー記事なんて読むんだ」
「サロンの待ち時間にちらっとな」
クロエ・ルーはフランスのコンセルヴァトワールの出身だ。だが、それ以前の、生まれや幼少期の頃の話は、ほとんど公表されていない。
日々パパラッチに追いかけ回され、私生活を根掘り葉掘りと嗅ぎ回られて、挙句、取材と称して友人知人を訪ねて回っても、特にこれといった情報は得られなかったそうだ。
過去の恋人は男女を問わず、色恋の絶えない女優としても有名だが、過去の恋人たちは、決して彼女を悪くは言わないという。ハリウッドの有名な俳優は「彼女ほど素晴らしい女性は他にいない。この先、どれほど長く生きたとしても、クロエ・ルー以上の女性とは巡り会えないだろう」とコメントを出したそうだ。その俳優も恋多き男として知られていたが、クロエ・ルーと破局して以降、すっかり浮ついた話を聞かなくなった。
その話が何から何まで真実なのかどうかは分からない。お喋りで噂好きなサロンの担当が、好き勝手に話していたことを、たまたま覚えていただけだからだ。
「この前、市街を歩いていたら、本物のクロエ・ルーを見かけて、そりゃもう度肝を抜かれましたよ。すげー美人で。オレ、思わず声を掛けてしまったんですけど、気取ったところのない、気さくな人で、本当にびっくりしました。一緒にセルフィーも撮ってくれましたし、ほら、スマホケースにサインまでしてくれて。今じゃもうすっかり大ファンですよ」
ファンになったというのなら、ネット上に蔓延るゴシップ記事を漁って回るのではなく、出演作品に目を向けるべきなのではないかと、そう思いながらサロンを後にしたことを、イライアスは未だに覚えている。
あのサロンに足を運ぶたびに、今日こそ静かに仕事をしてほしいと願い出るつもりが、聞きたくもない話を一方的に聞かされるばかりで、口を挟む隙すら与えられずに、いつも終わりの時間を迎える。最終的には気疲れでぐったりとしているので、毎回そのまま退店してしまうのだ。
前にそのことをアイリーンに話したところ、私から伝えておくと言ってくれたのだが、あの担当は「毎度騒がしくて、本当にすみません」と申し訳なさそうに謝罪したあと、驚くべきことに、普段通り話し出した。これはもう一種の病気なのだろうと思い、イライアスは黙らせることを諦め、彼が仕事を終えるのを、ただただ静かに待っている。
イライアスには分からない。
見ず知らずの誰かに突然声を掛けられ、なぜ平然と、にこやかに対応することができるのか。ありがとうなどと言って感謝をしたり、握手をしたり、ときにはハグを強要されたりして、心を削らなければならないのか。まるで媚を売るように、愛想を振り撒かなければならないのか。
「人はどうすれば変われるんだろう」
機嫌良く笑い、スタッフや出演者たちとの会話を楽しんでいるクロエを見やりながら、イライアスがほとんど独白するような口振りでそう言えば、バージルは小さく肩をすくめた。
「どうすれば変われるのかじゃなくて、お前自身がどう変わりたいかじゃねぇか?」
「え?」
「キサや、そこのお嬢さんみたいな人間は、極々稀な存在なんだ。舞台に立てばなんだって演じられる。それこそ、男だろうと女だろうとな。ノアもそのタイプだ。所謂、天才肌ってやつ。そういう人間は、どうすれば変われるのかを突き詰めて考えて、結果それを形にできる。でも、俺みたいな凡人が同じようなことをしたところで、同様の結果にはならない。あいつらは完璧な異性を演じられるが、俺には不可能だ。それはもちろん容姿の問題もあるが、一番はマインドの問題だな。俺は何かを演じるとき、俺以外の誰かにはなれないタイプだから」
「自分以外の誰かには、なれない……」
「今までの人生で、どれだけ多くの人間と触れ合ってきたかっていう、経験値もあるんじゃねぇかな。それも、ただ会って話すだけじゃない。そいつはどんな話し方をして、どんな癖があって、どんな考え方をするのか。あいつらは常に、頭の片隅でそういう細かなことを考えてる。ああやってよく人と話すのは、いろんな人間のマインドを、自分の中にインプットするためなんだろうよ」
希佐やノアも同じだ。仲間たちとヘスティアにやって来ても、他の客と話をしていることが多い。特にノアは、一度席を立つと三十分近く戻ってこないこともある。誰かが探しに行くと、初対面の名前も知らない誰かと、くだらない話で盛り上がっているのだ。
そこで何か興味深い話を聞くことができると、ノアはテーブルに戻ってくるなり、話し相手の特徴を取り入れながら、面白おかしく一人芝居をはじめる。イライアスはそれを、ただ騒がしいだけのものと考えていたが、耳を傾けているうちに、夢中になって聞き入ってしまうこともあった。
「あいつらは無駄に消耗してるわけじゃない。どんな人間からも得る物はあると思ってる。でも、俺にはあんな芸当は無理だ。気に入らねぇやつと話をしたところで時間の無駄だと思うし、そもそも非建設的なことはしたくねぇだろ。そんな暇があるなら、俺は自分の稽古や、仲間との時間に当てたい」
バージルは身内に甘い。自分に対しても、プライドをずたずたに引き裂くような酷い仕打ちをしておきながら、こうしてフォローを忘れない辺りに人の良さを感じると、イライアスは思っていた。
「大体な、連中とは価値観からして違うんだよ。あんなのと自分を競わせたところで、勝ち目がねぇことは分かりきっているし、それこそ無駄な労力ってもんだ。俺には俺にしかできねぇことがある。お前だって同じだ。舞台上には必ず、イライアスっていう役者にしかできねぇ役割ってもんがある。その役割がなんなのかは、お前自身が探していくしかないけどな」
控え室から出てきた希佐が、劇場の中程にある人集りを見て目を丸くしていると、それに気づいたクロエが、名前を呼びながら手招いてみせる。
希佐が軽い足取りで近づいていけば、クロエは何事かを口にしながら、最後の一杯だったレモネードを差し出した。一瞬だけ躊躇う様子を見せた希佐だったが、すぐににっこりと笑って、受け取ったグラスを口元に運ぶ。
視線を感じたのかもしれない。希佐はイライアスたちの方に目を向けると、途端にたおやかに微笑んで、いつものように手を振ってくれた。
自分はこんなにも嫉妬にまみれた感情を剥き出しにしているというのに、希佐は何も変わらない。希佐だけではなく、劇団カオスの仲間たちも、至って普段通りだ。
まるで自分だけが、駄々を捏ねる子供のように思えてきて、イライアスはどこか居た堪れない気持ちになる。
「あいつはお前の敵じゃねぇんだぞ、イライアス」呆れたような口振りで、バージルが言った。「手くらい振り返してやれよ」
それでも、イライアスが思わずというふうに視線を逸らしてしまうと、希佐は途端に表情を曇らせた。
違う。そうじゃない。悲しい顔をさせたいわけではないのだ。
控えめな眼差しを向けながら、軽く手を挙げるイライアスを見て、希佐はすぐに、花が綻ぶように笑ってくれた。
ただ笑いかけてもらえるだけで、いつだって、こんなにも心が震える。
「嬉しいもんだろ?」バージルはそう言いながら、くつくつと笑った。「俺たちが、この程度でって思っているようなことも、お客様にとっては特別な瞬間なんだ。目と目が合った。たったそれだけのことが、一生忘れられない思い出になる。また会いに来たいと思ってもらえる」
ああ、そうだ──初めて、舞台に立つアラン・ジンデルを目の当たりにしたあの日のことを、今でもよく覚えている。
アイリーンと並んで最前列に座っていたイライアスは、舞台上のアランと目が合い、にこりと微笑みかけられただけで、一瞬のうちに心を奪われてしまった。
きっと、その他大勢の観客の中の一人だった自分のことなど、覚えてはいないだろう。それでも、イライアスにとってはそれが、アラン・ジンデルとの出会いであり、一生涯の思い出だった。
いつかは自分も、誰かにとってのアラン・ジンデルになれるのだろうかと、イライアスは思う。
「昨日の今日で変われる人間は多くない。でも、変わろうと努力することは今日からだってできる」
「……うん」
「ま、努力しろなんて言わなくなって、お前はいつだって誰よりも努力してるけどな」
バージルはそう言いながら立ち上がると、イライアスの頭をくしゃりと乱暴に撫でてから、人集りの方へと歩いていった。俺のレモネードはないのかと文句を言ったかと思うと、まだ半分ほど中身が残っている希佐のグラスを取り上げ、それをごくごくと飲み干してしまった。
自分が天才ではないことを、イライアスは知っている。
ここまで努力だけでやって来た。
お前のような持つ者に、持たざる者の気持ちは分からないと、そう言われ続けてきた。だが、イライアス自身も、本来は持たざる者の一人なのだ。努力して、努力して、努力して、血反吐を吐くような努力をしてようやく、ここに立つことを許されている。その努力の結果が、揺るぎのない自信となっていた。
だからこそ、アラン・ジンデルや立花希佐のような存在に、強い憧れを抱くのかもしれない。彼らのような持つ者が、人並み以上の努力をした末に、天才が生まれるのだから。
そうだ。
分かっていたはずだ。
自分は、天才に憧れた、ただの凡人なのだと。
どんなに努力をしたところで、上には上がいる。身近にいた男がそれだ。
いつだってふざけた態度で余計な世話を焼いてきていた男が、時折うがった物言いをすることにも軽い憤りを覚えていたのに、この数年間、見事に隠し果せてきた本当の実力を見せつけられ、より気に入らない存在になった。
いつか絶対に負かす──が、助言は助言として、真摯に受け止めなければならない。
イライアスは自分の見せ方を知らない。そんなことは誰も教えてはくれなかった。だが、きっとそれは、誰かに教えられるようなものではないのだろう。自分の見せ方を知るということは、自分を知るということなのかもしれない。誰かに指図をされ、魅力的に見えるよう振る舞ったとしても、いずれはぼろが出る。
例えば、テレビ番組に出演をすると、事前に台本を渡されて、その通りに進行させられる。イライアスの場合は、自分の言葉で話すのを禁じられることが多い。君は生放送で何を言い出すか知れたものではないからなと、当時のプロデューサーに言われたことがあった。仏頂面の若者が、恐ろしく好意的な言葉を発している姿は、酷く滑稽に映っていたことだろう。
だが、それが、世間のイメージになる。
その印象と、本来の自分との間に大きな隔たりがあるほど、街中で出会い頭に声を掛けられたとき、困ったことになるのだ。
冷たい、感じが悪い、思っていた人と違う。
その点、カオスの他の人たちは本当に凄いと、イライアスは思っていた。普段話している印象と、舞台に立って客席に向かって話している印象が、何も変わらないからだ。何一つ自分を偽っていない。自分の言葉で、自分の思いや考えを、正しく伝えることができる。誰に習ったわけでもないのに。
どうすれば、みんなのように、正しく振る舞えるようになるのだろう。
出番の時間が刻一刻と迫る。
いつも以上に、指先が冷たく、凍えていた。
一度ヘスティアに顔を出してから、エレノアを迎えに行くと言ってホテルに向かったアイリーンが戻ってきたのは、イライアスが一階のステージに立つ少し前のことだった。
日本からやって来た、希佐のユニヴェールの先輩だという人は、出番が近づいていても酷く落ち着き払っていた。既に自らのステージを終えた、他の出演者から借りたギターの調律をしながら、傍らの椅子に座っている希佐と話をしている。
「そんなふうにじっと見ていないで、話に混ぜてもらったらいいじゃない」
出番を前に縮こまっているのではないかと心配をしたのだろう、アイリーンはイライアスの様子を見にやって来たようだ。劇場の隅に座り込んでいるイライアスを見るなり、呆れたようにため息を吐き、一緒になって隣に腰を下ろした。
「ドレスが汚れるよ」
「いいの」
膝を抱えるようにして座ったアイリーンの左手の薬指には、見るからに高価そうな婚約指輪が輝いている。それはいつも身につけているわけではない。婚約者が一緒にいるときだけ、アイリーンの薬指に輝いているものだ。
「お母様、楽しみにしているわよ」
「うん」
「でも、今回はちょっと毛色が違うから、驚かれるかしら」アイリーンはそう言って、優しく笑う。「緊張しているの?」
「うん」
「大丈夫よ。イライアスはいつだって誰よりも頑張っているもの」幼い頃から、まるで双子の兄妹のように、アイリーンはすぐ隣にいてくれた。「私はそれを知っているわ」
「君が結婚してしまったら、僕は誰に励ましてもらえばいいのかな」
「結婚したって私たちは何も変わらないわよ。私と、彼と、あなた。子供の頃からずっと一緒だったじゃない」
「君たち二人は変わったよ」イライアスが希佐の方を見つめたままそう言うと、アイリーンは小さく息を呑んだ。「前に進むことを選んだんだ」
「イライアスだって昔ほど無口じゃなくなった」
「本当は、慣れないことはしたくない」
「ええ」
「平和な世界で生きていたいだけ」それなのに、とイライアスは続ける。「どうして多くを望んでしまうんだろう」
「つらいだけなのにね」
もう嫌だ、踊りたくない、バレエなんか好きじゃない──本当に、本当に小さい頃、アイリーンと出会って少しの時が過ぎた頃、イライアスは大声で泣きじゃくりながら、そう漏らしたことがあった。もっと、もっと小さい頃から溜め込んできていた感情が、一気にどっと溢れ出して、止まらなくなってしまったのだ。
アイリーンは大きな目を更に大きく見開いて、吃驚して見せたあと、まるで心穏やかな母親のように、そっと頭を撫でてくれた。きっと、エレノアがいつもそうしてくれるように、泣きじゃくるイライアスを慰めてくれた。
「それでも、あなたはいつだって、力強く前に進んできたわ」アイリーンはそう言って、隣に座るイライアスの顔を覗き込んでくる。「私はあなたの背中を追いかけて、ここまでやって来たのよ、イライアス」
「え?」
「あなたがいてくれたから、歌を諦めなかった。あなたみたいに努力し続けていれば、きっと夢は叶うんだって、心から信じることができた。イライアスが一つずつ目標を達成していくたびに、私は勇気づけられていたの」
知らなかったでしょう? と言って、アイリーンは少しだけ恥ずかしそうに笑う。
バレエをやめる──イライアスが自らの決意を告げると、アイリーンはあの時と同じように大きく目を見開いてから、少しだけ名残惜しそうな顔をして、よかったね、と言った。
「子供の頃からやめたがっていたものね」
でも、私は、あなたが踊っている姿を見ることが、本当に好きだったのよ──イライアスが今も踊り続けているのは、幼い頃からアイリーンが隣にいて、寄り添い、励ましてくれていたからだ。そうでなければ、とうの昔に、踊ることなどやめてしまっていただろう。小さな箱の中、バレエシューズと一緒に憧れの気持ちも閉じ込めて、蓋をしていたはずだ。
踊ることが、生きる唯一の手立てであると同時に、この上ない苦痛であり、今となっては、生き甲斐の一つだ。
可能なことなら、この先もずっと、舞台の上に立ち続けていたい。自分を受け入れてくれた家族の次に信頼している、劇団の仲間たちと共に。この関係が、生涯続けばいいと、そう思う。
「……下に降りなくていいの?」
白田美ツ騎の出番となり、本人は呼びにきたスタッフと一緒に、劇場を出て行った。同時に、希佐の姿が見えなくなったので、下に降りてステージを鑑賞しているのだろうと思っていたが、劇場の外に出てみると、二階から下のフロアを覗き込んでいる背中が見えた。
イライアスが声をかけると、希佐は後ろを振り返り、嬉しそうに笑う。
「下はもういっぱいだから」
イライアスは、少しだけ間を空けて希佐の隣に並び、同じように下を覗き込んだ。なるほど、確かにもう人でいっぱいだと思いながら、ステージに目を向けた。もう少しで、自分が立つそのステージに、ギターを抱えた白田が現れたところだった。
店内はざわざわと騒がしい。見たこともない東洋人が現れ、困惑と懐疑心が入り混じったような、微妙な空気が漂っている。それでも、希佐はそんなことなど関係ないという安心しきった面持ちで、かつての先輩の姿に見入っていた。
「あ、アラン」イライアスに少し遅れて現れたアランを見上げ、希佐は声を上げる。「よかった、間に合って」
「ん」
アランは希佐を挟んで向こう隣に並んで立ち、イライアスのことを横目に一瞥してから、ステージに立つ東洋人に目を向けた。
「ダイアナは?」
「寝てる」
「じゃあ、衣装の調整は終わったんだね」
「なんとか」
「お疲れさま」
「もうすぐレオが来るって言ったら、会いたくないって」
「え、どうして?」
「くたびれた姿を見られたくないらしい」
「レオは気にしないと思うけれど」
「君からもそう言ってやって」
この二人は、まるで朝一番の瞬きのように、穏やかに言葉を交わす。
出会ったばかりの頃は、互いに互いを牽制し合っているような、どこかぎこちない雰囲気を漂わせていた。二人の間には一定の距離感があって、互いに一線には踏み込まず、踏み込ませず、付かず離れずの関係を築いているように見えた。
だが、いつからだろう。いや、いつからという明確な答えはないのかもしれない。徐々に、少しずつ、ゆったりとした時間をかけて、その距離を縮めていったのだ。
だから、もし仮に昔の誰かに対する思いが残されていたとしても、この二人の関係は決して揺るぎのないものだと、そう信じることができる。
「Hello」
マイクを通して、思いの外ハスキーな声が店内に響く。
それは、たった一言で、ざわついていた観客の心をも掴む、蠱惑的な声色だった。さざめきだっていた人々の不協和音が、一つの音に統一される。多くの視線が、ステージに向けられていた。
だが、ステージに立つ男は自分のペースを崩さない。マイクスタンドの高さを調節し、ギターを抱え直すと、椅子に腰を下ろした。
「学生時代の後輩に会うために、一昨日の夕方、日本からこのロンドンまでやって来ました」マイクテストも兼ねてだろう、白田は取り止めのない世間話をはじめる。「それなのに、仕事の都合で出演できなくなった人の代わりに、ステージに立って歌ってくれないかと頼まれて、今こうしています。人生は何が起こるか分からないものですね」
一見口下手そうに見えて、案外話好きなところがあるのかもしれない。自分はあんなふうに、舞台上で饒舌に話すことはできないだろうと、イライアスは思う。
隣を見やれば、希佐は琥珀色の目をキラキラと輝かせ、ステージをじっと見つめていた。しかし、イライアスが自分を見ていることに気づくと、こちらを見て小首を傾げる。
「嬉しそう」
「うん」希佐は屈託なく笑った。「私、白田先輩の歌が本当に大好きなんだ。久しぶりに先輩の歌声を聞けるんだと思ったら、嬉しくなってしまって」
自分もこんなふうに、ダンスで誰かを喜ばせることができているのだろうか。自分のダンスを見て、こんなにも目を輝かせ、喜んでくれる人はいるのだろうか。
ああ、そうだ、僕は誰かを喜ばせようと思って、踊ったことがない──イライアスは、爪弾かれるギターの音色を聴きながら、そのように思った。
家族が自分の舞台を観に来てくれる、それは嬉しいことだ。
だが、彼女たちを喜ばせるために踊ったことは、ただの一度もない。いつだって、恥をかかせまいという一心で舞台に立ち、間違いを犯さないようにして踊っていた。自分が失敗をすれば、自分を養ってくれた家族に恥をかかせ、その顔に泥を塗ってしまうことになると、そう考えていたのだ。
そして、その思いは、今も変わっていない。
もしかしたら、これがストッパーになってしまっているのだろうかと、イライアスは思う。あの家に恥じないダンスを踊る。はしたないと、品がないと、言われることのないように。そうして心掛けてきたことが、今、裏目に出ている。
白田の歌声は、そのメロディーと共に、歌詞がじんわりと心に染み入ってくるようで、耳心地が良かった。一音一音、まるで音を織り上げ、美しい一枚の布を仕上げるように、音楽を作り上げていくようだ。ギターの音色が風になって、その布をゆらゆらと揺らしている。
その歌声は、あまりに心に迫る、酷く切実な響きを帯びているように感じられた。歌声はまっすぐなのに、何かに惑っているような、迷いのようなものを感じさせる。
当初はにこにことしていた希佐も、何らかの思いを感じ取ったのか、どこか神妙な面持ちを浮かべ、唇を引き結んで、その歌声に聞き入っていた。
「綺麗な声だね」
「うん」声を掛けると、希佐は僅かに口角を上げた。「素敵だね」
その曲を歌い終えたとき、この店内に、白田美ツ騎の敵は一人としていなくなっていた。およそパブには似つかわしくない静寂の中、白田が奏でるギターの音色が途切れた次の刹那、目と耳の肥えたヘスティアの客が、大きな拍手で見慣れぬ東洋人の才能を受け入れる。
「自分にアンコールなんて掛かるわけがないと言っていたけれど……」拍手は鳴り止まない。「白田先輩、何か悩んでいることでもあるのかな」
「また君は──」
「もちろん、余計な詮索はしないよ」
呆れたというふうに息を吐くアランを見上げ、慌てて首を横に振っているが、希佐が見て見ぬ振りをすることができない質だということは、周囲の誰もが知っている。
「ただ、もし本当に悩みがあるのなら、それがいち早く解決すればいいなって、そう思っただけ」
人は多かれ少なかれ悩みを抱えて生きる動物だ。いつも誰かを助けてばかりの希佐自身にも、確かに悩みはあるはずで、日々己の中で自問自答を繰り返しているに違いないのだ。
それでも、希佐は歩みを止めない。
何があっても、前へ、前へと、進み続ける。
「アンコールが掛かったら伴奏をする約束だから」アランはそう言って、希佐のこめかみの辺りに優しくキスをした。「行ってくる」
「うん」
アランは別段急ぐ様子もなく階段を降りていく。ステージ上にいる白田はどこか困惑した様子で、続く拍手の嵐を一身に受け止めていた。
昼間から合法的にアルコールを摂取している客は、声も態度も大きく、時々手に負えない。こういう場所でステージに立ったことのない者にとっては、居心地の悪さや、時には不快感を覚えることもあるだろう。あまりに度が過ぎる客は、ヘスティアの主人に店の外へ摘み出される決まりだ。
軽い足取りでステージの上がったアランを見て、顔馴染みの客が大きく指笛を吹いた。アランは指笛の聞こえてきた方を振り返り、軽く手を挙げて応えている。
「アランのああいうところ」白田に声を掛け、ピアノの前に腰を下ろすアランを見遣りながら、希佐は言った。「すごく様になっていて、格好良いなって思うんだ。私もあんなふうに出来たらなぁ」
「キサだって声を掛けられれば応じてあげてる」
「お話をすること自体は好きだから」アランがこちらを指差すと、白田はその長い指が差す方に目を向けた。希佐が小さく手を振れば、白田は仕方がなさそうに笑う。「でも、私は相手の話を真剣に聞き過ぎてしまうんだよね。アイリーンにそれはやめなさいって言われたの」
「アイリーンに?」
「三年前を忘れたの、って」
三年前──それは、スタジオで起こったあの事件のことを言っているのだろう。あの日、イライアスが電話で事の顛末を伝えると、アイリーンは希佐のために、血相を変えてやってきた。
「女の子を預かるっていうのはね、あなたが考えているほど単純なことじゃないの」当時のアイリーンは、アランに向かって常々そう言い放っていた。「しかも、あの子は外国人なのよ、アラン・ジンデル。あの子の素性だってほとんど何も知らないのでしょう? もしもあの子の身に何かあったら、あなたはどう責任を取るつもり?」
だが、アランはアイリーンの言葉に耳を貸さなかった。いや、話半分で聞いていたと言った方がより正しい。アイリーンがあまりに口煩く言うので、アランは次第に取り合わなくなっていったのだ。イライアスも、アイリーンは心配をし過ぎだと言って、顰蹙を買ってしまったことがある。
あの事件が起きたのは、そんな矢先だった。
「あのときのことを言われると、ぐうの音も出なくて」希佐はそう言いながら、困ったように笑う。「私ね、あの事件の後、舞台に立つことが怖いって、ほんの少しの間だけ、そんなふうに思っていたんだ」
「それは……」
至極当然のことだと、イライアスは思う。あの事件の犯人は、ヘスティアのステージに立って歌う希佐の姿を見て心を奪われたと、そのように供述したという話だ。また同じような輩に目をつけられる可能性は皆無ではない。多くの人の目に触れる機会が増えるほど、その確率は高くなる。
「だから、マクファーソンさんたちにここで歌ってほしいと言われたとき、本当は怖くてたまらなかった」
「……うん」
「アランに電話をしたら、彼は、彼なりの言葉を尽くして、私の背中を押してくれた。私の気持ちを汲んで、背中を押してくれると同時に、逃げ道も用意してくれた」
しとしとと降る雨粒のような美しいピアノの音色が、空気を震わせる。その音色に押し出された歌い出しの声からは、先ほどの歌声とは違い、背筋がひやりとするような冷たさを覚えた。
希佐はステージを見下ろしたまま、囁くように続ける。
「でも、私は思ったの。そこで逃げ出したら、その恐怖はもっと大きく膨れ上がって、もう二度と舞台には立てなくなるんじゃないかって」希佐は柔らかな声でそう言いながら、隣に立つイライアスを見上げた。「私はね、あのとき、あの瞬間に感じていた恐怖よりも、もう二度と舞台に立てなくなるかもしれないって感じたことの方が、ずっと恐ろしかったの。だから、あのとき、自分の中にある恐怖に立ち向かって、あのステージに立った」
丸い琥珀色の目が、強い意志を持って、イライアスを見上げていた。その睨むような眼差しからは、まるで引力に引き寄せられるかのように、何者も目を逸らすことはできない。
「私、イライアスにはあのステージで、思いっきり踊ってほしい」だけど、と希佐は続けた。「あのときの私と、今のイライアスとでは、状況が違うことは分かってる。でも、もしもイライアスの中に、自分のダンスに対する迷いがあるのなら、踊らなくたっていいんだよ」
「え……」
「イライアスが好きに選んでいい。嫌なら踊る必要はない」
ああ、これはきっと、希佐がアランから受け取った言葉を、自分にも分けてくれているのだろうと、イライアスにはすぐに分かった。
本当なら、自分の心の中で、自分だけのものにしておきたい、大切な言葉のはずだ。それを、何の迷いもなく、物惜しみせず差し出してくれる。
「だけど、私はイライアスのダンスが大好き」希佐はそう言って、にっと悪戯っぽく笑った。「これ以上の言葉が必要?」
「……ううん」
心の奥の、自分でも手の届かない深い深い場所で、じりじりと燻っていた火種が、ぽっ、と明るく灯ったような気がした。煙で見通しの悪かった視界が、少しずつ晴れていく。暗闇を照らすその小さな灯火は、ぽかぽかと暖かく、氷かけていた心を溶かしてくれるようだ。
「あのね、イライアス」希佐はイライアスに向き直ると、恐ろしく冷えた手を、そっと取った。「舞台の上に立つ人間は、必ずしも自分を捨てる必要はないのだと思う。無理に自分ではない誰かを演じるのは、違うと思うんだ。それで心が壊れてしまったら、本末転倒だから。きっと、イライアスはそういうタイプの演者には向かないよ。だけど、今のままでは、自分が納得できないんだよね」
「……」
「だったら、あとはもう、思い切って自分を曝け出すしかない。怖いかもしれないし、恥ずかしいかもしれない。でも、あなたの中にあるもやもやは、多分、舞台上でしか晴らすことはできないんだ」
どうして、この人の言葉は、こうも心に響くのだろう。
そうと言葉にしたわけではないのに、あなたの気持ちは分かるよと、強く共感してくれているように感じられる。すっ、と心に染み入ってくる。まだほんの三年しか、付き合いがない人なのに。
黙ったまま、呆然としているイライアスを見上げ、希佐はくしゃりと苦笑いを浮かべた。
「ごめんね」
「どうして謝るの?」
「余計なお節介だったよね」
「そんなことない」気がつくと、イライアスは無意識に希佐の体を引き寄せ、ぎゅっと抱き締めていた。「ありがとう、キサ」
「私でよければいつでも力になるよ、イライアス。あなたが私にしてくれたみたいに」
希佐はイライアスの背中に両腕を回し、まるで子供をあやすように、とんとん、と優しく叩いてくれる。
早く離れなければいけないと思うのに、何だかこの小さく、やわらかく、あたたかい体を、いつまでもこの両腕の中に包み込んでいたいと、イライアスは思った。
だから、あと少しだけ、あと少しだけと、自分自身に言い訳をしながら、バラのように香る豊かな髪に、そっと顔を埋めた。