ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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嵐の前の静けさ

 初めてイライアスに会った日のことは、今でも鮮明に覚えている。

 透き通るような銀色の髪に、下の血管が透けて見えるような青白い肌。灰色の目はほとんど透明で、頬は薔薇色に上気し、唇は熟れた林檎のような赤色をしていた。イライアスは、産みの親が営んでいた、小さなバレエ教室のスタジオの片隅で、他の生徒の輪から外れ、たった一人で鏡に向かって踊っていた。

 イライアスとの出会いは衝撃的だった。

 当時、自己肯定感の権化だったアイリーンの、自意識の根底をも覆す出来事だった。両親や祖父母、親戚関係者、使用人──要は、目に映るすべての人々から、ちやほやされていたあの頃のアイリーンは確かに、自分がこの世界で一番美しい人間であると信じ、疑うことをしなかった。

 実に子供らしい、酷く馬鹿げた、可愛らしい勘違いだ。

 自分はとても幸せで、恵まれた家庭環境に生まれたことや、何不自由のない暮らしを送らせてもらっていることに対して、何一つ考えを巡らせたことのない、とても能天気な子供だった。

 着たい服を着て、食べたいものを食べ、欲しいものはなんだって買い与えられた。それが普通で、当然のことであると、そう思い込んでいた。

 だから、イライアスとの出会いは、青天の霹靂でもあった。

 同時に、アイリーンは初めて、この世界には自分よりも美しい人間がいるのだと知った。何だかそれが小憎たらしくて、不遜な態度を取ってしまったのだけれど。

 イライアスの母親は、とある貴族の生まれだったが、親の意に反してバレリーナになることを志したことで、半ば勘当された状態にあったそうだ。

 今の時代、たとえ貴族だからといって、すべての家が裕福だとはかぎらない。イライアスの実家はその昔、名の知れた名家ではあったものの、ほとんど没落し、世間一般のイギリス人と何ら変わらない生活を送っていた。

 ただ、イライアスの祖父母に当たる人物が、上昇志向の強い方々だったらしく、一人娘を使い、貴族としての成り上がりを目指していた。富と名声を兼ね備えた貴族に娘を嫁がせれば、自分たちもそれに追随できると、信じていたようだ。

 とあるお茶会で、時代錯誤も甚だしいと大人たちは話していたが、裕福な人間に、そうではない人々の気持ちなど分からないではないかと、当時のアイリーンは思っていた。

 お金はあって困るものではないが、富の独占は人道に反するというのが、母エレノアの考えであり、子供の頃からの教えだった。

 チャリティーのガラパーティーに行った帰り道、ロンドンの路上で生活をする人を見かけたとき、同行していた貴族の女性が、酷く穢らわしいものを見るような眼差しで、彼らを睨んでいた。クリスマスイブのことだ。

 エレノアは、会場に忘れ物をしたと言ってその場を離れると、アイリーンの手を引いて、近くにあったグリルチキンの店に足を踏み入れた。突如として、豪奢なドレスにコートを羽織った親子が入ってきたのを見て、店員が目を丸くしていたのを、今でも覚えている。

 エレノアは焼きたてのグリルチキンのセットをどっさりと購入すると、アイリーンと二人、メリークリスマスと言いながら、それを路上や公園で生活している人々に配って回った。もちろん、その行為に良い顔をする人たちばかりではなかった。偽善者と罵られ、唾を吐きかけてくる者もいた。

 それでも、エレノアはアイリーンにこう言った。

 困っている人を見かけたら、進んで手を差し伸べなさい。路上で声を掛けられたら、それを面倒に思わず、話を聞いて差し上げなさい。飢えや渇きを訴える人がいれば、パンと水を分けて差し上げなさい。泣いている人がいれば、抱きしめてあげなさい。ただし、安易にお金を渡さないこと。お金は使えばすぐになくなります。必要なのは、継続的な支援です。

 その翌日から、エレノアは路上生活者のための基金を立ち上げるために動き出した。その他にも、医療や障害者福祉、児童養護などの支援も、進んで行っていた。

 ノブレス・オブリージュ──エレノアは、社会に貢献することは、貴族としての義務だと考えていた。

 だから、もしかしたら当初は、そういう理由でイライアスを引き取ったのではないかと、アイリーンは邪推していた。

 目の前で泣いている人がいたら抱きしめてあげるのと同じように、目の前に身寄りをなくした子供がいたから、私たちの家においでなさいと、貴族の義務として手を差し伸べたのではないかと。

 施設から引き取られたばかりの頃、イライアスはいつも、肩身が狭そうにしていた。アイリーンに対してもどこかよそよそしく、こちらから話しかけても、そっけなくされることの方が多かった。バレエのレッスンに通っていた頃の方が、口数は多かったように思う。

 あの頃から、イライアスには自分たち家族に、遠慮があった。そして、その遠慮は今も尚、継続中だ。生まれつきの性格だから仕方がないと言われてしまえばそれまでだが、家族なのだから、もっと甘えて欲しいとアイリーンは思う。

 君は少し彼に甘えすぎだよ、とフィアンセにはよく叱られるが、イライアスは周りから必要とされることで、自らの居場所を定めているような気がするのだ。放っておけば、まるでタンポポの綿毛のように、ふわふわとどこかに飛んでいってしまいそうで、目を離すことができない。

 すると、フィアンセはすぐに、彼はもう子供ではないと言って、アイリーンを諭す。もちろん、そんなことは重々分かっているのだ。だが、あのあまりに純粋過ぎる家族を放っておくことなど、できるはずがない。

 どうすれば、自分たち家族が、イライアスを心から愛していると、信じてもらえるのだろうか。過干渉が良くないことは理解している。だが、イライアスを傷つけ、陥れ、引き摺り下ろそうと目論むすべての敵から、守ってあげたいと思うのだ。幸せになってほしい。それは、素敵な恋人を見つけてほしいだとか、条件の良い結婚だとか、安定した収入だとか、そういうものを抜きにして、心の安寧を手に入れてほしいということだった。

 イライアスが希佐を好きなことも知っている。

 イライアスが、希佐のことをアランから奪ってくれたらいいのにと、そんなふうに願ってしまったこともあった。

 だがしかし、イライアスは希佐と同じくらい、もしくはそれ以上に、アランのことも好きなのだ。二人の幸せが僕の幸せだと言ったイライアスの言葉に、嘘偽りはないのだろう。

 一生叶わない恋をしている者同士、お互いの気持ちはよく分かる。

 恋愛対象として見られていない。

 異性として眼中にない。

 もし冷たい仕打ちを受けたなら、きっぱりと諦めることもできただろう。だが、アランと希佐には、相手を思いやる無益な優しさと、相手の気持ちを受け止めた上で、これまで通りの関係を壊さずにいてくれる、無用の寛大さがあった。それが何よりも腹立たしく、無性にやるせない気持ちにさせる。

 いっそのこと、この心がずたずたになるほど執拗に切り刻み、原形を留めないほどに踏みにじってくれれば、もしかしたら嫌いになれたかもしれないのに。

 あの二人の優しさは、アイリーンやイライアスにとってはあまりに残酷で、この上なく甘美な毒だった。近くにいることで、その毒に冒され続けることは理解しているのに、まるで酷い依存症に冒されたかのように、その側を離れることができない。今の、この劇団カオスの良好な関係が壊れてしまうことも、アイリーンにとっては恐ろしいことだった。

「アイリーン?」

 ステージから程よく離れたテーブル席に腰を下ろし、メレディスが手ずから入れてくれた紅茶の湯気をぼんやりと眺めていると、隣に座っていたエレノアが声を掛けてきた。

「どうかしたの?」

「え? どうして?」

「心ここに在らずね」エレノアはティーカップを手に取り、紅茶を一口だけ飲むと、こちらを横目に見た。「しゃんとなさい」

「はい」

 いつもは気をつけているのに、物思いに耽っていると、背筋が少しずつ丸まってしまう。幼い頃からの悪い癖だ。隣に母がいるので、どうしても気が緩んでしまうと、アイリーンは思う。

「イライアスの出番が近いから緊張しているんだろう?」エレノアを挟んで向こう隣に座っているフィアンセのエヴァンが、くつくつと笑いながら言った。「君は昔からそうだよね。イライアスが出演する舞台を観に行くと、いつだって本人よりも緊張しているんだから。こんなふうに、祈るみたいに胸の前で両手を握り締めてさ」

 楽屋まで様子を見に行くと、イライアスはいつも「失敗できない」と言って自らにプレッシャーを与えていた。家族に恥をかかせるわけにはいかないから、と言うのだ。

 実家のお茶会に集まるご婦人たちは確かに、イライアスの舞台には頻繁に足を運んでいるようだった。臆面もなくファンだと公言する人も、わざわざ写真集を持参して、サインを書いてほしいという人もいる。

 エレノアは、イライアスがそういうことを苦手にしていると知っているので、その都度丁重に断っていた。だが、アイリーンがその話をして聞かせれば、イライアスは「次からは受け取っておいて」と言って、快くとはいかないが、実家に帰るたびに、サインにメッセージカードを添えて送り返していた。

 イライアスは、家のためなら、自分の心を押し殺してでも譲歩する。

 以前、自らの意思で受けたオーディションで役を勝ち取り、出演が決定していた舞台を、父カイルの一言で降板したことがあった。脚本の内容が、当家には相応しくない──たったそれだけの理由だ。アイリーンはただのフィクションだと言って説得を試みたが、カイルはまったく聞く耳を持たなかった。

「お父様は今日もいらっしゃらないのね」アイリーンが吐露するようにそう言うと、エレノアとエヴァンはこちらを見る。「先日のコンサートには来てくださったのに」

「お仕事がお忙しいのよ」

「本社からここまで車で数分の距離よ、お母様」

「大事な会議があるのですって」

 カイルはクラシックやバレエを好み、舞台演劇やミュージカル、映画の類にはほとんど興味を示さない。幼い頃、アイリーンをバレエ教室に通わせていたのは、娘をバレリーナにさせたかったからだ。

 だが、アイリーンにはその才能がなかったし、つらい稽古を毎日続けるだけの根気もなかった。飽き性のアイリーンが今日まで続けてこられた唯一のものが、歌うことだった。

 イライアスがまだバレエを続けている頃は、カイルも劇場に足を運ぶことはあったのだ。だが、バレエの世界を離れ、舞台演劇やミュージカルの世界に足を踏み入れた途端、まるで興味を失ったかのように、劇場に足を向けることはぱったりとなくなってしまった。

 もちろん、仕事が忙しいというのは事実だろう。最近は海外への出張も多い。カイルに見られていると余計に緊張をするからと言うが、イライアスのあのあからさまなまでの遠慮の原因の多くは、父のカイルにあるのではないかと、アイリーンは考えている。

 もう十年以上もの月日を家族として過ごしている。アイリーンはエヴァンと結婚をしても跡取りとして家に残るが、年を重ねれば重ねるほど、イライアスはあの家に寄り付かなくなるだろう。今でさえ、アイリーンが首根っこを掴んで引きずっていかないかぎり、自らの意思で帰ることは少なくなっている。

「この脚本を読んだ感じだと──」二人で次の舞台の台本を読み合わせていたときに、話していたことがある。「お父様はまた、脚本の内容が当家には相応しくないと仰るかもしれない」

「そうだね」

「どうするの?」

「僕は構わないよ」イライアスは毅然と言い放った。「家から出て行けと言われても、降りるつもりはないんだ」

 イライアスはもう一人でも生きていくことができる。大人の庇護下でしか生きていくことのできない子供ではない。そう、フィアンセの言う通り、イライアスはもう子供ではないのだ。

 イライアスが自分たちの家族であることは、たとえこの地球が滅びようとも、揺るぎのない事実だ。だが、ただそこに事実があるだけでは、何の意味もないとアイリーンは思う。イライアスという兄の存在に、離れないでいてほしい。

「イライアスはもう諦めているよ」そう言ったフィアンセの言葉が蘇る。「それに、君が二人の関係に口を挟んで、余計に拗れたら事だろう?」

 実は、アイリーンには怖くて聞けないことがあった。事実を確認することが恐ろしくて、ずっと口を噤んでいることがある。

 それは、幼い頃に見た、夢の話だ。

 正確には、あれが夢だったのか、はたまた現実だったのか、今となっては定かではない。

「君は悪い夢を見たんだ」そう言ったのは、確かに、イライアスの声だった。「大丈夫、ただの夢だから」

 形あるものは、いずれ壊れるものだ、というのが定説だ。

 ならば、家族に形はあるのだろうか。

 では、劇団には……?

 形あるものが壊れてしまったとき、それを元通りに修復したら、それらは同じものであると断言できるのか。

 アイリーンは、何かを壊すことにも、壊されることにも、強い嫌悪感を覚える。破壊を目の当たりにするくらいなら、ゆっくりと朽ちていくのを待っていた方がいい。少なくとも、自分が何も知らないふりをしていれば、波風が立たないことはある。

 前へ進むか、後ろに戻るか、現状維持か。

 それが、問題だ。

 希佐の学校の先輩だという白田美ツ騎の歌は、しっかりと声に感情が乗った、聞く者を意識したものだった。何を当然なことを、さも最もらしく言っているのだと思われるかもしれないが、これが非常に難しい。少なくとも、アイリーンが歌に感情を乗せられるようになったのは、二十歳を過ぎた頃のことだ。それまでは、ただ人並み以上に歌の歌える、頭でっかちな素人でしかなかった。

「確かに歌は上手だ」

「……それだけ?」

「それ以上の感想はない」

 イライアスにばかりかまけているアランの元に連日のように通い、アイリーンは歌を聞かせ続けた。だが、一日目こそ最後まで聞いてくれたものの、翌日からは最初のワンフレーズを聞いただけで、まるで不合格を言い渡すように手を振り、歌うことをやめさせた。

「歌は独学?」

「いいえ、子供の頃からレッスンに──」

「そんなところはさっさとやめた方がいい」

「えっ?」

「その先生は君には合わない」

「会ったこともないくせに──」

「会わなくても分かる」

 アイリーンはそんなアランの物言いに腹を立てながらも、自分のバイト代で行ける範囲内のボイストレーナーを探し、サークル活動のない日の放課後にスタジオを訪問した。

 それが、まだトレーナーとしては駆け出しの頃の、ジョシュアだった。

「うん」アイリーンに一曲歌わせた後、ジョシュアはこう言い放った。「歌は上手だね」

 アイリーンはそのとき初めて、それが褒め言葉ではないのだと理解した。

 以前のボイストレーナーのもとへは、カイルに連れていかれるまま、数年通い続けていた。その有名なトレーナーはアイリーンを褒めることしかしなかった。当然だろう。カイルは「気持ちよく歌わせてやってほしい」と言って、相場以上のレッスン料を支払っていたのだ。

 父親や知人主催のパーティーやコンサートで歌う機会も度々あった。その度に周囲の人々はアイリーンを褒め称えた。きっとそれも社交辞令に過ぎなかったのだと知った。要は、忖度されていた、ただそれだけのことだ。だから、勘違いをしてしまっていた。

「まあ、そう悲観することはないよ。世間一般の人に比べたら──」

「……私は」

「うん?」

「プロになりたいの」

「例えば?」

「例えば、って……」

「何の目標もないのにプロになりたいなんておかしな話だと思わない?」

 アイリーンはただ、見返してやりたかった。ずっと憧れてきたあの人を。自分には見向きもしなかったあの人を。歌は上手だと言って人を小馬鹿にしたあの人を。

「コンクールでも何でもいい」最初はそんな、不純な動機だった。「優勝したい」

「ふうん」

 下唇を噛むアイリーンを一瞥すると、ジョシュアはピアノの前から離れ、楽譜がびっしりと詰め込まれている戸棚の方へと向かった。

「コンクールというものはね、本格的に声楽を学んでいる子たちが、未来への登竜門として出場する、由緒正しい、神聖なステージなんだ。君のような温室育ちのお嬢様がエントリーしても、箸にも棒にも引っかからないんじゃないかな」

「やってみなければ分からないわ」

「まあ、僕は規定のレッスン料を払ってもらえれば、君のために何でもしてあげるけど。あ、前もって言っておくと、本気でコンクールの優勝を目指すつもりなら、倍額支払ってもらうよ」

「い、いいわ。もちろん、構わないわよ。バイトを増やせばいいだけだもの」

「バイト?」

「父に歌の先生を変えたいなんて言えないでしょう? だから、ここのレッスン代は自分で働いて稼ぐの。父には父のお付き合いがあるし、何の前触れもなく私がトレーナーを乗り換えたりしたら、父と先生の間に何かあったのではないかと、そう勘繰る人も出てくるかもしれないわ」

「へえ、そう」

 大学では学生の本分である勉学に励み、演劇のサークル活動に顔を出してから、放課後はカフェで働いた。思っていたほど稼ぐことができなかったので、早朝に花屋のアルバイトも行うことにした。それ以外の時間は大学の課題と歌の稽古だ。

 イライアスが、あまりに平然と勉学と仕事を両立させていたので、自分にだって同じことはできるはずだと踏んでいたが、現実はそう甘くはない。

 アイリーンが課題の途中で疲れ果てて眠ってしまうと、翌朝にはイライアスがそれを終わらせ、要点をまとめたメモを残してくれていた。レッスン代が支払えるか不安だと漏らせば、自分が稼いだお金を、黙って差し出してくれたこともある。

「だめ、受け取れないわ」

「僕は貯金をするだけだから」

「将来のための貯金でしょう?」

「いいから、受け取って」

「でも……」

 やっぱり受け取れないと首を横に振ろうとしたアイリーンの手に、イライアスは何枚かの紙幣を握らせた。すぐに顔を上げたが、有無を言わせないその強い眼差しを目の当たりにし、思わず根負けしてしまった。

「ありがとう、イライアス。必ず返すわね」

 当時のイライアスは、美しく着飾ってランウェイを歩き、一日で数千ポンドという大金を稼いでくることもあった。中性的な顔立ちのイライアスは、ユニセックスモデルとして重宝されていたのだ。あの頃はそれを妬ましく思うこともあったが、それはイライアスがこつこつと積み上げてきた、信頼と実績があってこそのものだった。

「声にまったく張りがないんだよね」ある日、くたくたの状態でレッスンに向かうと、歌って聴かせるまでもなく、ジョシュアがそう言い放ったことがあった。「ちゃんと寝てるの?」

「そろそろ試験が近いから」

「食事は?」何も答えようとしないアイリーンを見て、ジョシュアは大きくため息を吐いた。「アルバイトは辞めて、ご両親にレッスン代を出してもらった方がいいんじゃない? 借りるなり何なりしてもいいわけだし」

「それだけは、絶対に嫌よ」

「でも、今のままの生活を続けていたら、いずれ声が出なくなるよ」

「そんなことは──」

「あるんだよね、これが」ジョシュアはそう言うと、ピアノの鍵盤蓋をそっと閉じてしまった。「来週までここには顔を出さないこと。一週間分のレッスン代は返金するよ。何か美味しいものでも食べて、ぐっすり眠って、英気を養ってきて」

「私にはそんな悠長なことをしている時間はないって、あなたなら分かるでしょう? コンクールまでだって、もうそんなに日がないのに──」

「だからだよ」

「えっ?」

「それに、最初に約束をしたはずだ。本気でコンクールの優勝を狙うなら、一から十まで、僕の言う通りにするって」

「それは……」

「喉は極力使わないように。歌も歌ってはだめだ。でも、イメージトレーニングは十分にね。君はフルオーケストラの演奏で、ロイヤルアルバートホールのステージに立って、満員の観客たちを大感動させる」

「そういう妄想でしょう?」

「イメージトレーニングは本当に大事なんだよ」

「……分かったわ、言う通りにするわよ」

「君のそういう素直なところが、僕はすごく好きだよ」

 基本的には厳しく、レッスン中は刺されたくないポイントをちくちくと適切に突いてくる先生だったが、時々こうして飴を差し込んでくる。いつだって問題を投げっぱなしにはしない。どこかの誰かとは大違いだと、アイリーンは感じていた。

 レッスンを受けずに家に帰ってきたアイリーンを迎えたイライアスは、一通りの話を聞き終えると、静かに頷いた。

「今週のバイトは僕が代わりに出るよ」

「えっ? 嘘、冗談でしょう?」

「本気」確かに、イライアスは真剣な面持ちを浮かべていた。「アイリーンはコンクールに備えてゆっくり休んで」

「でも」

「君だって僕が同じ状況下にあったらサポートをしてくれる」

「それはもちろんよ。だけど、カフェのバイトなんて出来るの? 接客業よ? お花屋さんは朝が早いし、それに──」

「僕は覚えが早いし、要領がいいから」

 そうは言ってもアイリーンは心配だった。人とのコミュニケーションを取るのが苦手で、他人ににこりとも出来ないこの人が、カフェで働くなど本当に可能なのかと、そう思ってしまった。

 個人経営のカフェのマスターは、事情を話すと、代わりの子を寄越してくれるなら何の問題もないと言って、一週間の休みを快く承諾してくれた。花屋のバイトも同様だ。朝一番に生花市場に花を買い付けに行くので、むしろ男手があって助かると、喜んでくれた。

 結論から言えば、イライアスはカフェのバイトも、花屋の手伝いも、すべて抜かりなくこなした。特にカフェのバイトが心配で何度か店を覗きに行ったが、愛想は悪いが仕事は丁寧、立っているだけで絵になる美人だと、マスターにもてはやされていた。花屋の手伝いは、文句も言わずに黙々と働いてくれる良い子だという評価を受け、毎日花束をもらって帰ってきていた。

 口数が少なく、無愛想。

 それなのに、イライアスはどこに行っても、大人たちに可愛がられる。

「無駄口を利かないで、黙って体を動かしていれば、周りからは真面目にやっているように見えるんだよ」

 それは金言のようにも聞こえるが、イライアスは幼い頃から、そうして大人たちの社会の中で生きてきたのだ。

 アイリーンは、いつもにこにこと笑い、機嫌良く振る舞うことで、大人たちに可愛がられてきた。子供らしく振る舞うことで自らの安全を確保していた。頭の良い冷めた子供よりも、元気ではつらつとした子供でいる方が、大人たちから愛されることを知っていた。

 自分たちは、何から何まで、正反対だ。

 それなのに、双子の兄妹のように、いつだって寄り添ってきた。

 一週間の休養を終えたアイリーンの声は、いつもの瑞々しさを取り戻していた。それどころか、今までで一番と言えるくらい、喉の調子が良かったのだ。ざらつくような、詰まるようだった喉の感覚もなくなり、まるで風が歌うように、軽やかな声を出すことができた。

「これで休息も大切だって身をもって分かったでしょ?」

 コンクールの本番が間近に迫ると、ジョシュアは自腹を切って、それなりに大きなコンサートホールを、三十分も貸し切ってくれた。

「この数ヶ月間、死に物狂いで努力していたから、そのご褒美も兼ねてね。ま、手の掛かる生徒ほどかわいいっていうし。本番の会場はここよりも少し広いくらいだから、感覚を掴むには丁度良いと思うよ」

 あのコンクールで優勝することができたのは、間違いなく、自分の努力が実を結んだからだと、アイリーンは今でもそう思っている。だが、その努力以上に、ジョシュアとイライアスには助けられた。

 そして、自分はこの先もずっと、歌と一緒に生きていくのだと、そう覚悟を決めることができたのも、ジョシュアとの出会いがあったからだ。ジョシュアは、アイリーンの人生を変えてくれた、恩人の一人だった。

 コンクールの翌月になると、アイリーンは自分の生活を苦しめていたアルバイトを辞めた。借りていたお金をイライアスに返し、手元に残った給料でネクタイとハンカチを購入してから、スタジオに向かう。

 窮屈な階段を上り、入り口の重たい扉を肩で押し開くと、丁度レッスン終わりの女性が出て来ようとしていた。アイリーンが扉を押さえて待っていると、その女性は感謝の言葉を述べながら階段を降りていった。

「君をあのコンクールで優勝させた途端、閑古鳥が鳴いていたこのスタジオに、問い合わせが殺到していてね」

「よかったじゃない」

「スケジュール管理をしてくれるアシスタントでも雇おうかなぁ」

 コンクールで優勝した副賞で、音楽学校に通い、一年間声楽を学べることになったが、アイリーンはジョシュアのレッスンも引き続き、受け続けることにした。以前のボイストレーナーが、カイルに「彼女は自分よりもジョシュアのレッスンを受けるべきだ」と口添えをしてくれたので、ほとんど揉めることはなかった。

 カイルに何の相談もしないままコンクールに出場したことは責められたが、既に結果を出した後だったので、プロを目指すなんて以ての外だとは言えなかったようだ。

 コンクールに出場することも、そのためのレッスンを受けることも、レッスン代のためにアルバイトをはじめたことも知っていたエレノアは、ただ「応援しているわ」と言って、静かに見守ってくれていた。恐らく、自分の知らないところで、カイルを説得してくれていたに違いないと、アイリーンは思っている。

 劇団カオスに所属し、不定期でヘスティアの舞台に立つようになると、次第に芸能関係者から声が掛かるようになっていった。アイリーンの家柄を知ると、取る物も取り敢えず離れていく者もいれば、面白がって仕事をくれる人もいたが、最初はどれも、ステージで一曲か二曲、歌わせてもらえる程度のものだった。

 それでも、楽しかったし、毎日が充実していた。

 徐々に仕事が増え、すべてが軌道に乗りはじめて、こんな日々がずっと続いていけばいいのにと、アイリーンがそう思いはじめた矢先の出来事だ、劇団カオスの前に、立花希佐が現れたのは。

 自分が何年もの月日を掛けて手に入れた居場所に、突如として現れた東洋人は、あっという間に馴染んでしまった。まるで、もう何年も前からここにいるような顔をして、平然と、アラン・ジンデルと一つ屋根の下で暮らしはじめた。

 アイリーンはこれまでに何度、アランに好きだと言ったか知れない。今度こそ上手くいくかもしれないと思い、何度も何度も、あなたを好きだと伝えてきた。だが、結果は火を見るよりも明らかだろう。アラン・ジンデルは、アイリーンの存在に靡くことも、絆されることも、根負けして受け入れてくれることもなかった。それなのに、希佐にはあっという間に恋に落ちて、今ではまったくの骨抜きだ。希佐を見る眼差しは日毎優しくなる。

 一度くらい、あんな目で見つめられてみたかったと、アイリーンは薬指に輝くエンゲージリングを指先で撫でながら思った。

「あら」

 ぼんやりと物思いに耽っていると、白田美ツ騎のステージは既に終わりを迎え、何人かの出演者を通り過ぎて、イライアスの出番が目前にまで迫っていた。エレノアの声に顔を上げれば、軽い足取りで階段を降りてくるイライアスの姿が見える。

 エレノアは僅かに驚いたような面持ちを浮かべ、イライアスの動きを目で追っていた。普段ならば絶対に着ない黒革のジャケットを羽織り、いつもは額を隠している前髪をワックスで撫でつけているという、家族でもほとんど目にすることのない、非常に珍しい姿をしている。

 更に上に目を向ければ、カオスの面々が二階の手すりの前に並び、まるで我が子の発表会でも見守るような面持ちでイライアスを見ていた。アイリーンの視線に気付いたのだろう、希佐はこちらに目を向けると、にこりと笑って手を振ってくる。アイリーンが手を振り返していると、隣に座っているエレノアが同じように手を振るので、希佐は慌てた様子で会釈をしていた。

 ああ、なんだ──イライアスの登場で、無意識のうちに入っていた肩の力が、すうっと抜けていくのを感じた。

 希佐が笑っていれば、何もかもが上手くいくと、そんなふうに思うようになったのは、一体いつからだったろう。

『God Only Knows』の前と後の舞台では、舞台袖に立つときの心持ちがガラリと変わってしまった。以前は確かに感じていた不安は消え去り、本番を前にしても、吐くほど緊張するということは、徐々に少なくなっていった。

「キサに引っ張られて稽古量が増えているからだろ」そのようなことを漏らしたアイリーンに、アランは考えるまでもなくそう言い放った。「適当とまでは言わないけど、前まではそれぞれに稽古をするだけで、全員で合わせるなんて本番前にやるくらいだったし。それを許していた俺にも問題はあるけど」

 希佐は稽古狂いだとアイリーンは思う。自分が血反吐を吐くような努力をしてきたと、そう思っていたことが恥ずかしくなるほど、毎日毎日、何時間も鏡に向かって稽古をしていた。本当に怖いくらいだ。

「稽古時間は人それぞれでいいと思う」希佐とノアが話している声が、耳に入ってきたことがある。「私は稽古をすることが好きだし、何より落ち着くんだ。一つずつ不安や問題を解消していく作業は達成感もあるし、新しい課題が見つかったりすると、嬉しくなるんだよね」

「うへえ、それってちょっと異常だと思うよ、キサ」

「えっ、そうかな」

「新しい課題が目の前に現れたりなんかした日には、僕なんかげんなりしちゃって、そのまま翌日に持ち越しちゃうもん」

「私にだってそういう日はあるよ」

「だからって、僕みたいに本当に翌日に持ち越し、なんてことはしないんでしょ?」

「うーん、一度休憩を挟んだり、シャワーを浴びてリフレッシュをしたり、あとはそうだな、まったく関係ないダンスを踊ったり、即興劇をしたりすると気分転換になって、パッと視界が開けたりするんだ」

「うわあ、無理無理。キサ、もっと頭と体を休めなよ。気付いてないと思うから親切心で教えてあげるけど、君、稽古の気分転換に稽古をするって言ってるんだよ?」

「そんなにおかしいことかなぁ」

「おかしいよ。絶対に変だって」

「でも、イライアスなら分かってくれると思う」

「ああ、まあ、うん」ノアはそう言いながら、酷く呆れた表情を浮かべていた。「ごめん、もういいや。君とかイライアスを基準にして物を考えていたら、人類のほとんどがただの怠け者になるよ」

 だが、確かに、あのコンクールの日だけは、何の不安も緊張もなく、舞台に向かうことができたと、アイリーンは思ったのだ。本来なら、あの日以上に緊張をすることなどあるわけがないのにと、そう不思議に思っていた。

 やるべき準備はすべて整えた、何が起こっても後悔はない、何より失敗などあり得ない──あのコンクールの日だけは、そういう自信に満ち溢れていた。当然。そう胸を張れるだけの努力をしてきたのだから。

 先だってのオーディションだって、同じだけの、いや、それ以上の努力をした。やるべき準備はすべて整え、何が起こっても後悔はしない、絶対に合格をすると、そう信じていた。しかしながら、結果は最終審査、敗退。

 この世界の残酷さを突きつけられた瞬間だった。

 すべての人の夢は叶わない。

 必死の努力が報われないこともある。

 人生には間違いなく、プランBが必要なのだ。夢が破れることは決して悪いことばかりではない。その瞬間はこの世の終わりのような絶望を味わうかもしれないが、人生はその先も続いていく。いつまでもくよくよとしてはいられない。人間は、足を止めているかぎり、決して前へ進むことはできないのだ。下ばかりを向いていては、チャンスを逃す。

 努力は報われないかもしれない。だが、こつこつと積み上げてきた努力の結果は、決して自分を裏切らない。今回は駄目でも、また次がある。次が駄目でも、絶対に諦めはしない。ほしいものに手が届くまで、飽くなき挑戦を続けていく。

 イライアスはステージのすぐ脇で足を止めると、バンドの人たちと何やら言葉を交わしていた。音出しのタイミングなど、最終的な確認を行なっているのだろう。

 アイリーンは急に思い出した喉の渇きを潤すために、テーブルのカップに手を伸ばす。温くなった紅茶をごくりと嚥下したとき、不意に、背後から声を掛けられた。

「こちら、ご一緒しても構わないかしら」振り返らずとも分かる。その艶のある声は、唯一無二のものだ。「どこも席が空いていなくて」

「マダム・ルー」

 目礼をするアイリーンの後ろで、立ち上がろうとしたエヴァンを目の動きだけで制したクロエは、機嫌良く微笑みながらエレノアを見た。

「よろしいかしら」

「ええ、もちろんです。どうぞ、お座りください」

「どうもありがとう」

 確かに、他に空いている席はなかった。だがそれならば、他の出演者と同じように、二階から見ていればいいのではないかと、アイリーンは思ってしまう。

 隣の席に腰を下ろしたクロエは、周囲から向けられている視線など諸共せず、わくわくとした様子でステージがはじまるのを待っていた。

「何かお飲みになりますか?」

「レモネードをいただいたばかりなの。だから、今は何もいらないわ」

 でも、ご親切にありがとう──そう言って、クロエはエヴァンに再度微笑みかけている。それからすぐ、アイリーンの耳元に顔を寄せると、こっそり話しかけてきた。 

「彼があなたのフィアンセ?」どこの誰が口を滑らせたのだと思いながら頷くと、クロエはふふと笑った。「素敵な紳士ね」

「はい、私にはもったいないくらいの」

「そんなふうに卑下するのは良くないわ。どちらの意味であったとしてもね」

 そう言われてはじめて、アイリーンは自らの物言いに、ある種の含みがあったことに気付いた。無意識の言葉だ。思わず唇を引き結ぶと、クロエは無言のまま笑みを深くする。

 貴族社会の中で生きてきたアイリーンは、ある程度なら、相手の腹の内を探ることができる自信があった。だが、この女性は別だ。何を考え、何を思い、どういう意図を持って行動しているのかが、まったく分からない。

「彼、化けるかしら」

「え?」

「私はね、あなたにもそうなってほしいと思っているのよ、レディ」

 音楽が鳴る。

 この人は一体何者なのだろう──女の自分ですら、思わずドキッとしてしまう眼差しを向けられ、アイリーンは咄嗟にステージに視線を逃した。

 この人の目には、なぜか、強い既視感を覚える。

 この透き通るような青い目が、もうずっと前からこの人のことを知っているような、そんな気にさせるのだった。

 

 

 白田美ツ騎の表情は日本にいるときよりも随分穏やかに見えた。心なしか歌声も伸びやかだ。開幕アウェイだった空気感も、アンコールを歌い終える頃には、すっかりホームタウンのような雰囲気に変わってしまっていた。才能というものは目に見えないが、一度それが認められれば、人の見る目はがらりと変わる。

 自分の認めた才能が、海を越え、大陸を超えてやってきたこの異国の地で、大勢に受け入れられている──純粋に凄いなと、更文は思った。

 ここでこうして観ているかぎり、ステージに立って披露される演目の一つ一つのレベルは、驚くほど高い。カウンター席に腰を下ろし、食い入るようにしてステージを見つめていると、一人のバーテンダーが声を掛けてきた。

「こんにちは」その人は更文の空になったグラスを引き取り、氷と水の入った新しいグラスを、コースターの上に置いてくれた。「楽しんでいらっしゃいますか?」

「はい」

「それはよかった」水の代金を支払おうとする更文を手の平で制し、バーテンダーは愛想良く笑う。「お客様のことを気に掛けておくようにと、キサから言いつかっておりまして」

「希佐から?」

「彼女は以前、私の部下としてこのパブで働いていました。今では馴染みのお客様ですが、私個人の認識といたしましては、大切な友人の一人です」バーテンダーは自分を呼びに来た同僚に向かって、すぐに行くと応じてから、こちらに向き直った。「それでは、引き続きお楽しみください」

 ああ、牽制されているのだなと、更文は瞬時に理解した。見定められていると表現した方が正しいのかもしれない。今、目の前にいる人物が、立花希佐に仇をなす存在なのか否かを、確かめようとしている。

 先ほどの、希佐と一緒にタップダンスを踊っていた、バージルという男もそうだ。こちらに値踏みをするような眼差しを向け、どこか警戒をしているような、そんな雰囲気を漂わせていた。

 ステージを終えた白田美ツ騎は、程なくして、更文がいるカウンター席に戻ってきた。隣の席に腰を下ろすなり、ほっと安堵の息を吐き、目の前にいたバーテンダーに常温の水を注文する。

「お疲れ、ミツ」

「気疲れしましたよ、本当に」代金と引き換えに水を受け取った美ツ騎は、相当に喉が渇いていたのか、それを半分ほど飲んでから、先を続けた。「でも、僕に与えられた役割は無事に果たせたと思います」

「代打にしては目立ってたじゃねぇか」

「何を言ってるんですか、フミさんほどじゃありませんよ」

「俺?」

「ステージの上から見てました」

「ああ」美ツ騎が歌っている間に、何人かの女性に声を掛けられたことを言っているのだろうと、更文は思った。「なんだ、妬いてんのか?」

「僕の歌もまだまだだなって思っただけです」

「お前のあの歌声に耳を傾けないような連中は、そもそも歌に興味がないんだよ」

 人を見た目で判断することは間違いだ──と、言い切ることは難しい。

 自らの顔と体が商売道具である以上、常に見栄えには気を使って然るべきだからだ。自分がこれだけのことをやっているからこそ、他者にもある程度の見栄えは要求してしまう。

 だが、ただ美しいだけの人間には、酷く退屈な者が多かった。内面の伴わない美しさは残酷なだけだ。その人の内側から現れ出る、目には見えない美しさに、更文は魅力を感じる。そして、それを見抜く審美眼は、持ち合わせているつもりだった。

 ユニヴェールを卒業し、玉阪座の舞台の他にも仕事を請け負うようになると、更文の顔や体を目当てに近づいてくる者が、如実に増えた。誰もが知る有名ブランドの責任者が、舞台や作品を見もせずに、プロモーションに起用したいと申し出てくることもあった。下心ほど見え透いているものはない。同性から枕に誘われたこともある。

 芸事の世界は、外から見れば華やかで煌びやかだが、まだまだ闇は深い。

 美ツ騎は更文以上に繊細で、周囲から向けられる視線の一つ一つにも、過敏に反応してしまうきらいがある。もちろん、ユニヴェールの学生だった頃に比べれば、上手く折り合いをつけているようだが、完全に無視をできるようになったわけではないようだ。

 今だって、周りから向けられている眼差しを煩わしそうにしながら、軽く眉を顰め、水の入ったグラスを口元に運んでいた。

「あ、高科先輩!」英語が雑多のように聞こえている中、そう自分の名を呼ぶ声は、鮮明に聞こえてきた。「もういらしていたんですね」

「よう、加斎。ダンテも、久しぶりだな」

 新年に、海堂主催の新年会で顔を合わせて以来の再会だが、自分がロンドンにやって来ることは、事前に知らせていた。

「白田先輩も、おはようございます」

「ああ、おはよう」

 加斎中は、小走りで目の前までやって来る。ダンテ軍平は、ゆったりとした足取りでそれを追いかけて来ると、穏やかに微笑みながら王族のように手を振っていた。更にその後ろからは、こちらを興味深そうに見ている青年がついて来る。

「もう立花には会われましたか?」

「ああ、会ったよ」

「そうですか」加斎はそう言って軽く首を掻き、視線を左右へ軽く動かしながら、次の話題を探していた。「海堂先輩から連絡を頂いて、黙っているのもおかしいと思ったので、高科先輩たちがロンドンにいらっしゃることは、俺から伝えておきました」

 加斎はそう言ってから、思い出したように、周囲に視線を走らせる。

「根地先輩はご一緒じゃないんですか?」

「俺だけで先に来たんだよ」なんとなく、黒門の名誉のために、二日酔いだということは伏せておくことにした。「もうそろそろ到着するって連絡は来てるけど」

「じゃあ、もしかしたら間に合うかな」

「間に合う?」

「もう少しで、キサのパートナーがステージに立つ時間なのデスよ」ダンテが腕時計を見下ろしながら言う。「先輩方なら興味を持つはずだと、アタルと話していたところデス」

「パートナーって、バージルって人とは違うのか?」

「あ、バージルとはもう会ったんですね」そう言う加斎はなぜか嬉しそうだ。「彼と立花は同じ劇団の仲間です。あの二人って、兄妹というか、親子というか、家族みたいに仲が良いんですよね。カオス全体の雰囲気がそんな感じなんですけど。タップダンスの師弟でもあるんですよ。個人的には、二人が踊っているところを、高科先輩に是非見てほしいと思っていて」

「それならさっき見たよ。外で踊ってた」

「どうでした?」

 それは、一体どちらのことを訊ねているのだろうと思い、更文は一瞬言葉に詰まる。バージルという男のことならば、自分のような若造がそのダンスについて論評することが酷く差し出がましく思えるほどの、圧倒的な実力者だと感じた。希佐のことを言っているのなら──まだ、気持ちの整理が追いついていない、というのが正直なところだ。

「エンターテイメント性を強く感じた。魅せるダンスって感じだな。刺激を受けたよ」

「俺とダンテと──あ、そうだ、紹介が遅れてすみません。彼はリオです。少し前まで、俺たちと一緒に出演していた商業の舞台の、主役を演じていました。『リオ、この人は、俺たちが日本で通ってた演劇学校の先輩で、高科更文さん。学生時代は立花と組んでいたこともあるんだ』」

『よろしく』

「リオは立花に憧れてタップダンスをはじめたんですよ」爽やかに握手を求められ、それに応じていると、加斎が悪戯っぽく笑いながら言った。「リオは俺と一緒で、元々はブロードウェイで活動しているんですけど、仕事でロンドンに来ていたときに、偶然カオスのチケットを譲り受けたそうです。そこで舞台に立っていたのが、立花だったそうで──」

 そうして話している加斎を、人差し指を立てて黙らせたのは、話題の只中にいたリオという青年だ。そして、思わず口を噤んだ加斎が後ろを振り返るのと、周囲の空気が一変するのは、ほとんど同時のことだった。

 店内のざわめきの中に、若い女性の黄色い声が聞こえてくる。

 多くの視線が向かっているその先には、黒革のジャケットを羽織った一人の青年の姿があった。軽い足取りで階段を降りてきたその青年は、ステージ脇の、生演奏をしてくれているバンドの前で足を止める。

『いやあ、悔しいけど、あいつのあの華々しさには、一生勝てる気がしないんだよなぁ』

『日本には言霊っていうのがあって、言葉には不思議な力が宿ると言われているんだ。自分が口にした言葉はいずれ現実になる。良いことも、悪いこともね。だから、そんなことを言っていると、本当に彼には一生勝てなくなるかもしれないよ』

『オレとあいつでは、そもそものタイプが違う。あいつは清楚な西洋系、オレはセクシーな中東系だろ。ま、ポジション争いが起こらないだけよしとするさ』

 体の線が細く、首が長く伸びて、肩が下がっている。典型的なバレエダンサーの体型だ。義姉の弟が実家に挨拶に来たとき、稽古場を貸してほしいと頼まれて快く了承すると、念入りなウォーミングアップの後で、踊って見せてくれたことがあった。その雰囲気と、どことなく重なる部分がある。

「彼が今の立花のパートナーで、イライアスです」バンドのメンバーと話を終え、ステージに上がる姿に目を向けていると、加斎が言った。「多分、高科先輩たちと同い年くらいだと思いますよ。同世代の中では抜きん出た才能の持ち主で、ウエスト・エンドでは注目の若手だっていう話です」

 彼がパートナーだと知らないまま、そのステージを見ていたとしたら、そこから受ける印象はまったく違ったものになっていたのかもしれない。少なくとも、もっと好意的な目で見ることはできただろう。

『ついさっきまでは調子が悪そうだったのに……』本当なら口にしないはずの言葉を吐露するように、リオがぽつりと漏らす。『えぐ……』

 先程までの印象は確かに、清楚な西洋系のバレエダンサーだった。ほとんど表情のないその横顔は冷めた雰囲気を漂わせ、どこか気取ったふうにも見受けられた。だが、バンドの演奏がはじまった瞬間、その表情が一瞬にして切り替わる。刹那、店内中に響くほどの笛のような音が聞こえ、更文は反射的にそちらを振り仰いだ。

 その音の正体は、先程紹介されたばかりの、バージルという男が鳴らした指笛だった。隣にはパートナーを見守る希佐の姿もある。ステージに視線を戻すと、イライアスという名の青年は、二人の方に目を向けながら歌い出した。いや、恐らくそうではない。あの青年は間違いなく、希佐を見つめながら歌い出したのだ。あの指笛は、こっちを見ろという、合図だったのかもしれない。

 歌それ自体は並以上という程度で、さほど特筆すべき点はないように思えた。この程度ならば歌える役者は五万といるだろう。自分だって引けを取らないと更文は思う。

 だがしかし、サビに合わせて踊り出した途端、リオが思わず吐露した通り、まるで人が変わったかのような変貌ぶりには、思わず目を剥いた。

 振り付けの激しいダンスを踊っているわけではない。一見すると、気怠げに、軽く流して踊っているようにも感じられる。だが、曲調に合わせた音の取り方が独特で、非常に面白い。

 そうした、一種のダンサーとしてのフィルターを外してみれば、どこか官能的で肉感的な、そこはかとなく危険な香りのする、酷くそそられる魅力的なダンスとして映った。

『誰がセクシー担当だと言いました?』

『うるせーぞ、ダンテ』

『それにしても、驚きましたね、アタル?』カウンターを背にして更文の傍に立ち、黙ってステージを見やっていた加斎に向かって、ダンテが声を掛けた。『リオの言う通り、ここ数日はずっと調子が悪かったように見受けられましたが』

『見事に化けたね』ちぇ、と軽く舌を打って、加斎は本気とも冗談ともつかないことを口にした。『最近の彼は立花のパートナーとしての自信をなくしているように見えたから、本気でイギリスを離れて日本に戻るつもりなら、今度こそ俺とアメリカに行こうって誘うつもりだったのにさ』

 残念だよ、と加斎は言う。

 更文に盗み聞きをしているつもりはない。だが、聞き取れてしまったのだから、仕方がない。

「希佐、日本に戻って来るのか?」

「あ、はい。俺は本人から聞いたわけではないので、詳しいことは分かりませんが、スペンサーが──知り合いの演出家の話によると、そのつもりみたいです」

「そうなのか」

「でも、立花は次の舞台が決まってますから、日本に戻るにしても、まだ先のことになるとは思いますよ。一年とか、二年とか」

 詳しいことは本人から聞いてくださいと言い、加斎は再びステージに視線を向ける。

 一曲、三分強のステージは、一瞬にして終わってしまったという印象だった。他の観客たちも同じ気持ちでいるようだ。それぞれに物足りなさを覚えながら、惜しみない拍手で青年を称えている。

 音楽が途絶えると、青年はステージの上で立ちすくみ、店内をゆっくりと見渡していた。静かに呼吸を整えている。この大歓声にはさほどの興味がない様子だ。イライアス、と名前を呼ばれると、やおらそちらに目を向けるものの、さしたる反応は見せない。ただ、ファンと思しき女性たちは、自分たちの呼び声に反応してくれたという現実に、きゃあきゃあと歓喜の声を上げていた。

 青年はステージの上から動かない。徐々に拍手が収束していく。スタッフがステージに上がってきたかと思うと、スタンドマイクを設置し、足早に降りていった。

 どこか慣れない様子でマイクスタンドの前に立った青年は、マイクのスイッチを入れ、表面をこつこつと叩く。その音が店内に響くのを聞き、小さく咳払いをした。

『あの……』青年は落ち着かない様子で頭を掻き、無造作に撫で付けていた前髪を乱雑に下ろした。『今日は家族が来てて、緊張してます』

 店内は驚くほど静まり返っている。人々は互いに顔を見合わせ、何やら不思議そうにしていた。

「彼は人前で話をすることが苦手なんだそうです」ステージを見やったまま、美ツ騎が言う。「ついさっき、どうしたら上手く話せるのかと聞かれました。聞く相手を間違っていると言ったら、他の人の助言は少しも参考にならなかったって」

「ミツはなんて答えてやったんだ?」

「自分の歌を聞いてくれる人には、常に誠実に接しようと心掛けている──僕は、自分を飾り立てることが苦手で、きっとそれは、彼も同じだと思ったんですよ。だから例えば、親しい間柄の誰かに話しかけるように、肩の力を抜いて、自然体でいるのが一番だと答えました。実際、彼のファンが見たいのは、無理に愛想良く振る舞う姿なんかじゃなくて、飾り気のない、普段通りの姿なんじゃないかと思ったので」

 青年はどこか助けを求めるような面差しで二階方向を見上げていた。希佐はその様子を静かに見守っている。すると、青年はマイクが音を拾うことも構わずに、小さく息を吐き出した。

『今の曲の、選曲と振り付けは、同じ劇団のバージルがしてくれて。今回のステージは、僕にとって良い経験になったとは思います』もう二度とやりたくないけど、と冗談には聞こえない口振りで言うと、店内には僅かな笑い声が上がる。『バージルやキサの方がもっと上手く踊るから、あとで見せてもらえばいい』

『お前だって上出来だったぞ』

 バージルが店内に響き渡る声で横槍を入れれば、客たちは一気にどっと沸く。再び起こった拍手に、イライアスは微かに戸惑うような様子を窺わせていたが、どこか満更でもなさそうな、そんな面持ちを浮かべているようにも見えた。

『持ち時間が限られているので、あと一曲だけ。でも、その前に一つ、話しておきたいことが──』イライアスはそう言うと、ジャケットのポケットから、一通の封筒を取り出した。『少し前に、もう何年も前から僕の活動を応援してくれている人から、手紙が届いて。すぐに返事を書いて送ったから、もしかしたら、今日ここにその人が来ているかも。あの、僕は、その人がいると思って、今から話します』

 マイクがかさかさという紙の音を拾い上げる。イライアスは数秒、その手紙を見つめてから、意を決したように話し出した。

『今、あなた自身が、自分の母親に対して、どのような感情を抱いているのかは、僕には分からない。でも、亡くなった母親に縛られ続ける必要はない、とは、思うんだ』

 どこか辿々しい口振りで話しながら、イライアスは店の中にいる人々の顔を、ゆっくりと撫でるようにして眺めていた。

『僕は実の母親を看取らなかった。だけど、あなたは違う。そうするより他ないと考えたのかもしれないけど、きっと、どこかに逃げ道はあったはずなんだ。それでも、あなたは逃げなかった。僕はあなたを強い人だと思う。僕なんかよりもずっと勇敢で、そして、とても優しい人だ。誇りに思うよ。あなたは決して、母親を見離さなかった』

 店内は、水を打ったように静まり返って、しめやかな雰囲気が漂わせていた。不可思議そうに顔を見合わせている客はもういない。誰もがステージを一心に見遣り、イライアスの話に耳を傾けている。

『産みの母親を亡くしてからずっと、僕はよく彼女の夢を見る。それは、実際には見たこともない、死に目に立ち会う夢なんだ。僕は多分、後悔しているのだと思う。もっと、ちゃんと、彼女と向き合うべきだったって。彼女が僕に与え、残してくれたものは、この体と、バレエだけ。でも、今はそれだけで十分だって思える。彼女は、この世界に僕を連れてきてくれた。彼女がいなければ、僕はこうして生きていないし、バレエとも出会わず、こうしてここに立つこともなく、あなたからの手紙を受け取ることもなかった』

 かさかさと紙の鳴る音が、未だに遠くの方から聞こえてくる。

 ああ、そうか、青年の手が震えているのだと、そう気づくまでに、さほどの時間は掛からなかった。その平坦な話し振りからは想像もつかないほどの緊張感が、青年の心臓を締め付けているのかもしれないと、更文は思う。

『今は心をゆっくりと休めて、自分を労ってあげてほしい。きっと、十分に癒えるまでには、たくさんの時間が必要になると思うけど、どうか忘れないで。あなたは幸せになっていいんだ。今はまだ何も考えられないかもしれないけど、いつか、そう遠くない未来に、あなたを幸せにしてくれる、あなた自身が幸せにしたいと、そんなふうに思える、新しい家族に出会えるかもしれない。あなたの努力次第で、素敵な友達や、素晴らしい仲間と出会えるかもしれない』ふう、と、マイク越しに大きなため息が聞こえてきた。『あなたの幸福を祈ってる。何かあったら、また手紙を書いて。あとで声を掛けてくれてもいいけど、これ以上上手く話せる自信はないんだ』

 隣を見やれば、今の話を、美ツ騎は神妙な面持ちを浮かべて聞いていた。母親の話だ、何か思うところがあるのかもしれない。

 親元を離れるためにユニヴェールを利用する子供は少なくない。更文もその中の一人だ。そして、この美ツ騎も、所謂毒親と呼ばれる母親から逃れるために、ユニヴェールにやって来た。本人は縁を切ったつもりでも、母親の方は未だに“所有権”を主張しているらしいが。

「Hello,Mum」イライアスは店内の一点を見遣りながら、どことなく恥ずかしそうに片手を挙げる。「今日一日、どうか楽しんで」

 カウンター近くのテーブル席に、その人は座っていた。優しげな微笑を浮かべたその横顔は間違いなく美しい。更文は、その人の目尻から、一筋の涙がこぼれ落ちるのを、確かに見ていた。

 

 

 

 授業参観で我が子を見守る保護者のような気持ちで、劇団カオスの仲間たちは、二階の手摺りに掴まって横に並び、下のステージに立つイライアスの成果を見つめていた。優しいピアノの音色と心穏やかな歌声に耳を傾けていると、自然と感嘆のため息が漏れる。

「イライアスってあんなに歌えたっけ?」

「ほぼ毎日ジョシュアに扱かれているから」

「人って努力さえすれば何事も上達するもんなんだねぇ」ノアは手摺りに顎を乗せ、アンコールに用意した歌を披露するイライアスを見て、目を細めている。「僕もなんかやりたくなってきちゃったな」

「やりゃいいだろうが」

「僕は勉強で忙しんだよ」

「何言ってんだよ、今までだってそうだっただろ?」

「まあね」ノアは目元にかかった前髪を、ふっ、と息で吹き飛ばす。「やりくりできないこともないんだけどさ」

 自分の右隣で話をしているノアとバージルを見ていた希佐は、ふと思い立って、左隣にいるアランを見上げた。アランは驚くほど優しい眼差しをイライアスに向けていたが、希佐の視線に気がつくと、こちらに目を向けてくる。

「ジョシュアにも聞いてもらいたかったな」

「もう来てる」

「え?」

「入口の辺り──レオもいる」

「……あ、本当だ」

 出入り口付近は常に混み合っていて、人の往来が激しい。

 最初に目に入ったのは、その混雑の中から抜け出し、心なしか心配そうにステージを見やっているジョシュアの姿だった。夕方頃まで仕事があると話していたが、大急ぎでやって来たのだろう、僅かに呼吸を乱しているように見受けられた。

 そこから少し離れた場所、カウンターに並ぶ列の中に、希佐は見知った姿を見つける。それと同時に、希佐は胃の辺りを手の平で掴まれるような、縮まるような感覚を覚えた。ほんの一瞬だけ、息が詰まり、眩暈を覚え、視界が揺らぐ。奥歯を強く噛み締め、鼻から深く呼吸をし、気持ちを落ち着かせようと努めた。

 その姿を視界に捉えた途端、高科更文の存在を目に留めたときよりもずっと、心が動揺していることに、希佐は内心で酷く戸惑っていた。とうに覚悟は決めたはずだと、何十回、何百回と自分の中で繰り返してきた言葉を、ほとんど洗脳のように自らに言い聞かせている。

 ある程度のことはどうとでもなっても、立花希佐が女であるという事実だけは、絶望的にどうしようもないことなのだ。

 そう思いながら、何度目かの深呼吸をしていると、不意に、左手が握り締められた。隣を振り仰げば、アランはステージに目を向けたまま、親指の腹で希佐の手をゆるゆると撫でる。

「自分の居場所は、自分だけが決められる」アランは囁くような声で言った。「君が俺の隣にそれを望むかぎり、俺は君の居場所を護るよ」

 すると、アランの言葉が聞こえていたらしいバージルが、ふん、と小さく鼻で笑った。手摺りに頬杖をつき、希佐越しにアランの顔を覗き込むと、じっとりとした目で睨むように見た。

「その言葉、俺も聞いたからな」

「もちろん、バージルの居場所だって護るつもりだけど」

「はぐらかすなよ」

「分かってる」

「本当にそうかね」

「まあまあ、二人とも」希佐がそう口を挟めば、二人の視線が一気に降り注いだ。「ありがとう。でも、私なら大丈夫だから」

 そう言う希佐に向かっては何も言わず、バージルはいつものように頭をくしゃくしゃに撫でると、手摺りを離れて劇場へと戻っていった。

 イライアスの出番が終わりを迎えると同時に、昼の部も終了し、夜の部がはじまるまでは、何のステージも行われなくなる。

「さあて、続き続き」

 アンコールまで歌い終えたイライアスがステージを降りると、ヘスティアのスタッフがマイクを取り、昼の部の終わりを告げた。バンドも楽器や機材の撤収作業に取り掛かっている。

 希佐も本来ならあのステージに立つ予定だった。だが、話し合いの末、夜の部に集中するべきだということになり、せっかくのイライアスの振り付けを披露する場を失くしてしまったのだ。むくれる希佐を見て、また次の機会があるとイライアスは言ってくれたが、どうしても申し訳なさは感じてしまう。

「ノア」劇場に戻ろうとしている背中にアランが声を掛けると、ノアが後ろを振り返った。「下に行ってくるから、ジェレマイアと二人で先に進めておいて」

「はーい」

「キサは今のうちに何か腹に入れておいた方がいいぞ」心配そうにジェレマイアが言う。「アランにも何か食わせてくれ。二人とも、朝食べたきりなんだろ?」

「うん、ありがとう、ジェレマイア」

 急がなくていいからな──ジェレマイアは軽く手を振りながらそう言い、小走りでノアを追いかけていった。

 その場に取り残された希佐とアランは、顔を見合わせると、どちらともなく繋いでいた手を離し、階段に向かって歩き出す。

「イライアスの歌、すごく良かったね」

「ん」

「私たちも負けていられないね」

「ああ」

 アランの言葉数が少ない。何か考え事をしているのだろう。そう思って口を噤もうとした途端、先を歩いていたアランは階段の途中で足を止め、希佐を振り返った。

「キサ」

「ん?」

「もし助けが必要になったら──」シャンデリアの光を取り込んだ緑色の目が、キラキラと輝いている。「俺の手を握って」

「……手を?」

「君を連れ去る理由ならいくらでもある」

 バージルから何か聞いたのかと問おうとするが、希佐はすぐに考えを改めた。きっと、特別なことは何一つ聞いていないだろう。だが、希佐の態度を見て、察するものがあったに違いない。

「分かった」だから、希佐は多くを言わずに、頷いた。「助けてほしいときはそうする」

 もしかしたら、自分と同じように、アランも不安を抱えているのではないかと、希佐は思う。先輩たちが現れたことで、自分たちの三年間の積み重ねが、一瞬にして崩れ去ってしまうのではないかと。

 絶対に大丈夫だと、どうしたら信じてもらえるだろう。自分にとってのこの三年間は、決して揺るぎのないものであり、かけがえのないもので、何よりも手放しがたいものであると。

 四方八方から視線を感じる。それを物ともせずに進んだ。この大きな背中だけを見て、導かれるようにして歩く。

 ああ、そうだ。自分はこの三年間、こうしてずっと、この背中だけを追いかけてきた。この背中に護られてきた。

 ユニヴェール歌劇学校は三年で終わりを迎える。あの夢を叶え続けていた栄光の日々。では、自分は今、ここでの暮らしの終わりの先を、歩いているのではないかと、希佐は思った。

 イギリスでの幸福な日々の終わりには、この大きな背中がある。

 希佐は無性に、この大きな背中が、愛おしくてたまらなくなった。

「やあ、二人とも」注文カウンターの近くまでやって来ると、丁度エールを受け取ったばかりのレオナール・ゴダンが、こちらに向かって歩いてきた。「キサ」

「Bonjour, Monsieur Leonard.」ゴダンは空いている方の手でアランの腕に触れてから、次は希佐の体を引き寄せて、軽くハグをしてくれた。「おかえりなさい。遠方での撮影、おつかれさまでした」

「今回も素晴らしい旅路だったよ。途中、君たちも合流してくれたから、雨の日も退屈しなかった」

「お力になれて嬉しいです」

「フミにはもう会ったかな」見るからに意地悪そうに言うゴダンを困ったように見上げ、希佐は小さく頷いた。「では、僕の古い友人も紹介するとしよう」

 ゴダンは、その人に向かって「コクトー」と呼びかけた。

 その響きは日本人の名前というよりも、同郷の友人の名を呼ぶような、そんな親しさを感じさせる。カウンターで飲み物を受け取っていたその人は、ゴダンの呼び声に応えてこちらに顔を向けると、一瞬、表情を凍り付かせたように見えた。

「サプライズだよ」

「It’s so lovely.」

 誰が聞いても皮肉と分かる物言いでアランはそう言うと、呆れたような眼差しをゴダンに向けた。それでも、ゴダンはにこにこと機嫌良く笑いながら、少し離れた場所で足を止めている「コクトー」を呼び寄せる。

「ほら、こちらにおいで」ゴダンはそう言うと、中性的な面差しのその人を自らの隣に立たせ、こちらを見た。「この子は、根地黒門。僕の亡くなった友人の子だ」

 大暴れしようとする心臓を何とか落ち着かせ、希佐は根地の顔を真っ直ぐに直視した。根地はゴダンの横顔を見やったあと、軽く目を伏せてから、こちら側に視線を投げかけてきた。

「コクトー、彼がアラン・ジンデルだよ。僕の──いや、違うね。君の好きな斜陽の雲は、彼の作品だ」

 根地は希佐の方を見て、何度か大きく瞬きを繰り返したあと、隣に立つアランのことを見上げた。表情は一つも変わらないが、アランの顔に目を留めた瞬間、瞳孔が大きく開くのが分かる。

「そちらは、今更紹介する必要はないね」

 物凄い速度で、何らかの情報を処理しているのだろうと、希佐には分かった。頭の回転の速さに、感情が追い付いていないのだ。現状、唇は真横に引き結ばれているが、頭の中では数々の自問自答が繰り返されているに違いない。

 本来ならば、その処理が終わるまでそっとしておくべきなのだろうと思いながらも、希佐は、こちらを窺うゴダンの視線を感じながら、口を開いた。

『お久しぶりです、根地先輩』

『あ、ああ……』根地はシーンを切るように一度だけ瞬くと、ゆっくりと希佐にピントを合わせた。『本当に久しぶりだね、立花くん。いやあ、しかし見違えたよ。こうして見る君は、まるで女性みたいじゃないか』

 希佐は思わずぞっとした。顔から血の気が引いていくのを感じていると、根地は突然人が変わったように、パッと笑う。

『ごめんごめん、今のはいくらなんでも笑えない冗談だったかな』

 そうだ、この人には、こういう底の知れないところがあった。人の心を真顔で抉った次の瞬間には、嘘だよと言って無邪気に笑い、これまでのすべてをうやむやにしてしまう。核心に迫る質問をしておきながら、答えを聞くのが怖くなって、脱兎の如く逃げ出していく。

 いつか最大の嘘が暴かれると思っていた。

 そう遠くない未来に。

 だから、距離を置くことにしたのだ。女を恐れる根地と、女であることをひた隠して生きる希佐は、致命的なまでに相容れない二人だった。

 だが今は、希佐が女であることを、根地は理解しているはずだ。

『僕はね、立花くん──』かつての根地の言葉が蘇ってくる。『女性が怖いんだ』

 未だその恐怖症を克服していないのであれば、今の自分は、根地黒門の恐怖の対象でしかない。

『フミとはもう会ったんだね』

『はい。お昼頃に一度お会いしました』希佐はそう言って頷きながら、根地の顔色を窺うように見た。『あの、お体の具合はもう大丈夫ですか?』

『体の具合?』

『フミさんから二日酔いだとお聞きしたので』

「ああ、うん、実はね。昨夜は少し飲み過ぎてしまって。でも、もう大丈夫だよ、ありがとう』

 次の言葉が出てこない──希佐は根地から目を逸らし、隣にいるアランを見上げた。アランはその様子を一瞥すると、ゴダンに声をかける。

「クロエ・ルーが来てる」

「ほう、それはまた」

「頼むから騒ぎは起こさないで」

「それは彼女次第だと思うよ」

「メレディスに摘み出されてもいいなら構わないけど」

「わざわざそれを言うだけのために、下まで降りてきてくれたのかい?」

「ただでさえ面倒なことになってるんだ、これ以上厄介ごとを起こさないでほしい」

 そういえば、先程まで劇場の隅で大人しく本を読んでいたクロエの姿が、いつの間にか見えなくなっていた。ただでさえ神出鬼没な人なので、またひょっこりと戻ってくるのだろうと希佐が考えていると、その瞬間は思っていたよりも早く訪れる。

『あら、先生じゃない』玲瓏とした珠のような艶のある声が、希佐の真後ろから聞こえてきた。『ご無沙汰しております、先生』

『僕はいつから君の先生になったのかな、クロエ』

『私、今から百年くらい前に、コンセルヴァトワールで先生の特別講義を受けましたのよ。だから、先生であることには違いないでしょう?』

 突如として現れたクロエ・ルーを見るレオナール・ゴダンの表情は、どこかうんざりとして見える。ゴダンのそのような顔を見るのははじめてのことだ。希佐が目を丸くし、驚いているのを尻目に、クロエは早口なフランス語で話し続けた。

『また映画を撮られているのですって?』

 二人の間で板挟みとなり、どうしたものかと固まっている希佐を見て、アランが腕を引いてくれる。感謝の気持ちを込めて見上げたその顔は、ゴダンに負けず劣らず、うんざりとした表情を浮かべているように見えた。

『一銭にもならない、出費だけが嵩む、つまらないインディペンデント映画の撮影をしているだけさ』

『ご謙遜だわ。私、先生のアート作品が本当に大好きなの』

 不思議なことに、クロエからゴダンに向けられている感情は、本当に純粋な好意のようだった。何の含みも、下心も、後ろ暗さも感じない。猫が主人の足元に擦り寄り、ゴロゴロと喉を鳴らすように、酷く懐いているように見受けられるのだ。

『褒め言葉はありがたく受け取っておくが、何度も言っているように、君の写真を撮るつもりはないよ、クロエ』

『まあ、今日はまだ何も言っていないわ』

『君が僕と顔を合わせて、写真を撮ってくれと頼まなかったことが、今までに一度だってあったかな』

『いいえ』

 ゴダンとの会話が楽しくて堪らないとでもいうふうに、うふふ、と笑ったクロエは不意に、その傍にいる根地黒門の姿に目を留めた。

 根地はいつからそうしていたのだろう、どこか惚けたような面差しで、それこそ魅入られたかのように、クロエのことを見つめている。

 刹那、希佐の脳裏に過ったのは、件の舞台演出家の脚本だった。あの脚本に登場する女優の得体の知れなさは、どこかクロエ・ルーと似ているところがあると、希佐はずっと思っていた。もし、根地も希佐と同じことを考えているとしたら、クロエ・ルーという存在は、希佐以上に、根地にとって鬼門となり得るのではないか。

 自分を見つめる根地と目を合わせたクロエは、信じられないほど魅力的に微笑み、勿体ぶるようにゆっくりと、唇を震わせた。

「こんにちは」

 それはあまりに完璧すぎる挨拶だった。

 希佐は二人の動向から目を逸らすことができないまま、無意識に、アランの手を握っていた。何も分からない。分からないが、このまま、この二人に話をさせてはいけないという予感が、希佐にはあった。

「今日は綺麗な子をよく見かける日ね」クロエは子供に対してそうするように、僅かに身を屈め、根地の顔を覗き込む。「坊や、お名前は?」

「ぼ、僕は……」

「おい、やめろ」酷く面倒臭そうな声音でそう言ったアランは、クロエの細い二の腕を掴んだ。「怯えてるだろ」

「あら、そんなことはないわよ」

「あんたの目は節穴か」

「先生の新しい内弟子さんかと思って」

「僕は弟子は取らないよ」二人の会話に割って入り、ゴダンは根地の肩に手を回しながら穏やかに言った。「この子は亡くなった友人の子だ。ロンドンには昨日やって来たばかりでね。慣れない土地で少し緊張しているようだから、どうかお手柔らかに頼むよ」

「まあ、そうなの」クロエはそう言って姿勢を正すと、小指に指輪をはめた方の手を、すっと差し出した。「クロエ・ルーよ」

「……根地黒門です」

「コクトー?」一瞬目を丸くしたクロエだったが、すぐに興味深そうに目を細め、ふふ、と笑う。「ジャン・コクトーと同じね」

 思いの外力強い握手をするクロエは、根地の手を掴んで何度か上下に振り、そのままパッと離した。

 クロエの表情はくるくると変わる。どの表情も酷く魅力的で、人間であれば誰しもが、強く心を惹かれてしまうことだろう。

「先生が写真を撮ると言ってくださるまで、私は絶対に諦めませんから」

 少し怒ったような顔も魅力的だ。それなのに、なぜ──希佐は不思議に思いながら、クロエに言い寄られているゴダンを見やる。自分の写真を否が応でも撮りたがったこの人は、なぜ、こんなにも魅力的に思える被写体を前にして、その求めを断固拒否しているのだろう。

「ねえ、あそこにいるのって──」

「ほらほら、声を掛けてみなさいよ」

「ヤバ、えげつない美人じゃん」

 華のある人々は自然と視線を集めてしまう。クロエはもちろんだが、ゴダンも世界的な著名人だ。一人が声を掛けてくれば、あとは次から次へと握手や写真を求める者たちが、押し寄せてくることになる。

 気前の良いゴダンとクロエは、減るものでもなしという顔をして文句も言わず、一人一人と言葉を交わし、写真に応じたり、オートグラフを書いたりと、大忙しだった。

「皆さん、チャリティーへの協力もお願いね。アルコールが苦手な方は、限定のレモネードがおすすめよ。私も先程頂いたのだけれど、とっても美味しかったわ」

 そうした二人の姿を見遣りながら、自分には真似できないとばかりに息を吐いたアランは、こちらに軽く目配せを送ったあと、踵を返してカウンターに向かった。本人たちが快く応じているので、スタッフも止めに入ることはしないようだ。

 希佐もアランを追いかけて行こうとするが、ゴダンの側で所在なげにしている根地の姿が目に入り、咄嗟に声を掛けた。

『根地先輩』そう言って軽く手を挙げれば、視線がこちらに向けられる。『あちらにフミさんと白田先輩がいらっしゃいます』

『すまないね、立花くん』根地はゴダンに何事かを耳打ちしてから、希佐がいるところまでやって来た。『僕たちも日本ではそれなりに有名になったつもりでいたけれど、彼らはまったくの規格外だ』

『お二人とも世界的にご活躍をされている方々ですから』

『あ、』

『どうしました?』

『向こうのテーブルにいる人、ハリウッドで活躍している俳優じゃないかな』

『普段から、エンターテイメント関連のお仕事をされている方々が、よく足を運ばれるパブなんです。今日は店主催のチャリティーデーなので、それに合わせてご来店くださる方も多いみたいですね』

『へえ』

 根地はいつもの調子を取り戻した様子で、今度は店内の至る所に目をやり、興味深そうに観察をしはじめた。そのキラキラと輝く目は、希佐が知っていた頃の根地黒門と、少しも変わらないように思える。

『君があのステージで歌っている動画をいくつか見たよ』

『本当ですか?』

 本人の許可なくアップロードされた動画を見つけては、アイリーンはいつも自分のことのように怒ってくれていた。弁護士に相談した方がいい、知り合いの弁護士を紹介すると言ってくれていたが、お金や時間の問題はもちろん、人前に出る仕事をさせてもらっている以上、仕方のないことだと諦めている。

『画質の荒いものばかりだったと思うので、手元にある舞台映像でよろしければ、あとでお渡しできると思います』

『え、いいのかい?』

『はい』

 アランはカウンター越しにメレディスと話をしている。メレディスはやはり呆れ顔でゴダンとクロエの方を見やってから、アランの後ろに現れた希佐と根地に目を留めた。

「メレディス」希佐は根地に手の平を向ける。「こちら、ユニヴェールの先輩で、根地黒門さん。根地先輩、こちらはヘスティアの王様、メレディスです。このパブは絶対君主制で、治外法権が適用されるので、言動には気をつけてください。王様のご機嫌を損ねると、否応なく店の外に放り出されてしまいます」

「これはこれは、随分と慈悲深い王様だね。かのヘンリー3世は罪人を処刑場まで馬で引きずって行かせた挙げ句、首を吊り、性器を切り落とし、腹を裂き、斬首して、しまいには四つ裂きにして見せしめとしたという話だよ」

「大逆罪は1870年に廃止されました。反逆罪に対する死刑制度は1998年まで存在していましたが」

 メレディスはよく冷えたグラスにエールを注ぐと、それを他のスタッフに託してから、根地に向き直った。

「メレディスと申します」

「根地黒門です」

「あなたのお父様も、この店に足を運んでくださったことがあるのですよ」

「え、父が、ですか……?」

「三十年以上も前のことですが、丁度、あちらのカウンターの隅の方にお座りになっていて、そこで偶然レオナールと出会い、意気投合し、互いの国を行き来するほどの仲になったとお聞きしています。僕は何度かチップを頂いたことが」メレディスはそう言うと、胸に軽く手を当て、目礼をした。「お会いできて光栄です。そして、心からのお悔やみを申し上げます」

「……」根地は目を丸くしてメレディスを見つめていたかと思うと、次の瞬間には、儚げな笑みを浮かべる。「父のことを覚えていてくださって、ありがとうございます。こちらこそ、生前の父を知る方にお会いできて、とても光栄です」

「故人の思い出話を──と言いたいところなのですが、当時は酒の味も知らない若輩者でしたので。ですが、お父様はアイラウイスキーを好んでお飲みのようでした。もしよろしければ、一杯お出しいたします」

 ここで、彼は二日酔いから脱したばかりだと言うのは、野暮というものだろう。希佐は黙ってアランの隣に腰を下ろし、メレディスが大量の酒瓶が並ぶ棚の中から、目当てのウイスキーを選ぶ様を眺めていた。

 根地も、希佐の隣に座り、メレディスの洗練された所作を、じっと食い入るように見つめている。

「ボウモア、レジェンドです」ショットクラスに少量だけ、琥珀色のウイスキーが注がれた。「比較的飲み口の良いウイスキーなので、アイラウイスキーに馴染みのない方でもお飲みいただけると思います」

「父もこれと同じものを?」

「お父様は二十五年の熟成したものをお好みだったそうですが」

「彼はどんな酒でも熟成されたものに価値を見出していたよ」

「もういいの」

「そろそろ勘弁してくれとお願いしたんだ。せっかくのエールもすっかりぬるくなってしまった」

 ゴダンは根地を挟んだ向こう隣の椅子に腰を下ろすと、ぬるくなったエールをまるで水のように一気に飲み干してしまう。それから、手付かずのまま根地の前に置いてあるショットグラスを見て、僅かに首を傾げた。

「これは?」

「ボウモアです」

「ああ」メレディスの答えに、ゴダンは小さく笑う。「君も粋なことをする」

「あなたはラフロイグがお好きでしたね」

「僕にはボウモアでは少し物足りなくてね」

「確か、ボウモアはアイラの女王、ラフロイグはアイラモルトの王って言われているんですよね?」

「よく知っているね、キサ」

「ここで働いているときに、メレディスからいろいろと教わったんです。お酒の味も知っておいた方がいいということで、何種類も試飲をさせてもらったりして。閉店後に利きウイスキーをしたりもしました。楽しかったです」

「その中に君好みの味はあったのかな」

「私は──」

 そう言ってから思わず口を噤み、隣を見やると、アランはフロアスタッフが運んできた二人分のサラダを受け取りながら、なに、と平坦な声で言う。

 目の前に置かれた木製のサラダボウルの中には、以前も食べたメレディスのスペシャリテが、こんもりと盛られていた。

「彼女の好みはアランのシェリーカスクですよ、レオ」

「おや、それはまた実に興味深い選択だ」

「二人とも私をからかって楽しんでいるんですね?」別添えのドレッシングを少量だけ掛け、サラダを頬張りながらメレディスを見やれば、大人の余裕を感じられる笑みを返された。「どうぞ、ご自由に」

 希佐が半ば投げやりにそう言うと、ゴダンとメレディスは顔を見合わせ、穏やかに笑い合っている。目の前のショットグラスから顔を上げ、そうした二人の仕草を目の当たりにした根地は、徐にこちらに目を向けた。

『君にはフミという人がいるのに、その人ともお付き合いをしているの?』

「え?」

『フミはずっと君を待っていたのに?』

 それはほんの純粋な疑問のように、いや、純粋な疑問だからこそ、やわらかな語り口が希佐の胸に届く頃には、鋭利な棘となって突き刺さるようで、ちくりとした痛みを覚える。

『君は五年もフミを傷つけ続けたんだよ、立花くん。それなのに君は──』

「子供なんだな」希佐はアランの手を握ってはいない。それでも、そちらを降り仰げば、一見至極どうでもよさそうな顔をしたアランが、サラダを口に運びながら言った。「それで彼女を追い詰めているつもりなの」

「僕は──」

「周りには分からないように日本語で詰めるのもどうかと思うけど。ああ、俺に気を使ってるならお構いなく。彼女を誑かしたのは俺だから」

「アラン」

「なに」この素晴らしく温厚な人は今、珍しく怒っているようだと、希佐は悟った。「俺が先に君にキスした」

 相手が誰であれ、本番前に動揺を誘うような言葉を口にするのはやめてほしいと思いながら、希佐はそっと息を吐いた。驚くべきことに、こんなときですら、ゴダンはにこにこと楽しげにこちらの様子を見守っている。ほんの軽口のつもりが、妙な地雷を踏んでしまったようだと理解したメレディスの方は、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべているように見えた。

「直接本人から誹りを受ける分には甘んじて受け入れるつもりでいたけど、君から彼女との関係をあれこれ言われる筋合いはない」

 アランは自らの言いたいことを言い切ってしまうと、あとはもう黙々と、目の前のサラダを口に運ぶばかりだ。一体何がアラン・ジンデルの気に障ったというのか──希佐は考えを巡らせながら、その場をどうにか和ませようとする。

『すみません、根地先輩』

「君のイギリスでの生活が充実しているようで僕は嬉しいよ」流暢な英語で根地は言う。「脚本家に気に入られていれば役に困ることもなさそうだ」

 それは希佐に向けられたというよりも、アラン・ジンデルを挑発するために発せられた言葉なのだろう。だが、仕向けられた当人は、そ知らぬ顔でサラダを食べ続けている。

 希佐は助けを求めるようにメレディスを見やるが、イベント主催者としての役割が山積している王様は、いつまでも一所に留まってはいられない。

 メレディスは、希佐に向かって同情するような眼差しを向けてから「失礼」とだけ言い残し、カウンターを離れていってしまった。

「あ、根地先輩──」

 希佐の静止の声も虚しく、根地は目の前のショットグラスを鷲掴みにすると、四十度はあるウイスキーをぐいっと呷った。ほんの少量ではあるが、飲み慣れない者にとっては、それだけで一気に酔いが回り、酩酊してくる。喉が焼けるような感覚と、食道を下っていく熱に、根地は身悶えていた。

 その様子を見ていたアランは、呆れたようにため息を吐き、まだ口を付けていない自分のグラスを、希佐の方へと押しやる。

「酒の飲み方くらい教えてやったら」

「僕の代わりに君が教えてやったらどうだい?」ゴダンはそう言って悪戯っぽく笑う。「僕はあまり酔うという経験をしたことがないからね」

 根地は希佐が差し出したグラスを受け取ると、喉を鳴らしながらその水を飲み干した。抜かりなく追加の水を注文したアランは、何事かを考えるような仕草を見せたあと、シャツの胸ポケットから取り出した一枚の名刺をカウンターに滑らせる。

「そいつが君に会いたがってる」名刺にはスペンサー・ロローの名前があった。「そこそこ有名な演出家だから、名前くらいは聞いたことがあるかもしれないけど」

「あ、そういえば」名刺を取った根地の手元を見やりながら、希佐は続ける。「スペンサーさんは、アンバーの海外公演をご覧になったって」

「アンバーの? 我死也かい?」

「はい、そうおっしゃっていました」

「今日は顔を出すかどうか分からないけど、俺は積極的に紹介したいわけじゃないから、会ってみたかったら自分でその番号に電話をかけて。名前を名乗って、アラン・ジンデルからの紹介だといえば、本人に繋げてもらえる」

 スペンサー・ロローなら、直通で繋がる名刺を渡しても良いと言いそうなものだが、アランは何かに配慮してか、事務所の連絡先が記された名刺を渡したようだ。根地がひっくり返した名刺の裏には、AtoZのサインが記されたいた。

「……本当は、あなたにお会いしたら、お話ししてみたかったことがたくさんあったんですよ、Mr.ジンデル」

「そう」

「でも、今の僕では、あなたと冷静に語り合えそうにないことが、とても残念です」根地は、いつか聞いたことがあるような、普段からは想像もつかないほど低い声で、そう言った。「あなたは違うようですが」

「俺がどんな人間か、レオから何も聞かされてないのか」アランはそう言いながら、二つの小さな頭越しにゴダンを一瞥し、再び根地に目を向けた。「基本的に、身内以外のことはどうでもいいと思ってる。君たちのことは、キサが大事に思っているから、可能なかぎり尊重するつもりではいるけど、俺から何かを直接働きかけることはないよ」

「僕たちのことを、遥々日本くんだりから立花くんを連れ戻しにやって来た、悪の権化だとでも思っているんですか?」

「別に」

 あ、と漏れそうになる声を喉の奥に押し留め、希佐は空になったサラダボウルに、使っていたフォークを置いた。最後のブロッコリーをゆっくりと咀嚼しながら、目下の道筋について脳内で必死に模索している。

 今や、アラン・ジンデルの心はぴたりと閉じて、これ以後はまともに取り合おうともしないはずだ。だが、ここは二人の間を穏便に取り持つことよりも、夜の本番に向けての準備に専念するべきだと、希佐は思った。

「すみません、根地先輩。彼も私も、これから本番の準備があるので、失礼させてください。レオも──」椅子から腰を上げ、そう言った希佐は、思い出したように続けた。「ダイアナとはお会いになりますか? 彼女、徹夜明けの疲れた顔を、レオには見られなくないと言っていて……」

「彼女は今どうしているんだい?」

「疲れて寝てる」

「戦士の休息の邪魔をするのはやめておこう」短く答えたアランに向かって微笑んで見せながら、ゴダンは言った。「また改めてデートに誘うよ」

「ステージ後には回復してるんじゃない」

「どんな君も美しいよと、そう伝えてもらえるかな」

「俺が?」アランはあからさまに嫌そうな顔をする。「まあ、いいけど」

 心のどこかでは、アランと根地は気が合うのではないかと、希佐はそのように考えていた。同じ脚本家兼演出家として、話が合うのではないかと。だが、現実とはそうそう上手くはいかないものだ。むしろ、似た者同士だからこそ、馬が合わないということもある。

 だが、アランのことを誤解してほしくないと思い、希佐がもう一度根地に声を掛けようとしたときだった。アランは希佐の肩に手を触れ、ここで待つように言うと、少し離れた席の方に歩いていってしまう。

 アランの爪先が向いていた場所は、白田と更文が並んで座っている席だった。どういうわけか、つい先程まで大勢のファンに囲まれていたはずのクロエ・ルーの姿が、その傍らにある。

 三人の近くには数人の酔った男性客がいて、しつこく話しかけられているのが見て取れた。反射的に眉を顰めた希佐を見たゴダンは、アランの行方を視線で追いかけながら、丁度近くを通り掛かった体格の良いスタッフを呼び止める。

「君、あちらのお客様方が、たちの悪い酔っ払いに絡まれているようだよ。騒ぎが大きくなる前に対処した方がいいのではないかな」

 希佐も顔見知りのそのスタッフは、両手に抱えていた汚れ物の食器をカウンターに預けると、すぐさま対処をしに向かった。だが、現場は既に、事が大きくなりはじめている。

「こうしたイベント事の日は、普段は足を運ばないような客層の人も、多く出入りをするからね」ゴダンは、ポケットから取り出したスマートフォンをさっさと操作すると、それを耳に当てた。「──ああ、メレディス。緊急事態発生だ、そちらの接待を切り上げて早めに戻ってくれ。私のミューズが不逞な輩に手を上げてしまう前にね」

 絡まれているのが白田と更文だけだったなら、アランが動いたかどうかは分からない。いくら女性的な容姿をしているとはいえ、二人は歴とした男性だ。女役を演じてきた役者として、男性のあしらい方も熟知している。

 もし放っておいたとしても、店のスタッフが間に入り、何とか事を納めてくれたに違いない。それでも、ただ話をしていただけなら、自ら乗り込んでいくことはなかったはずだ。

 酔った男性客の中の一人が、クロエ・ルーの華奢な手首を掴み、何事かを捲し立てている。

『あっ、ちょっと、立花くん──』

 アランからは待つようにと言われたが、居ても立ってもいられず、根地が

制止する声も顧みずに、希佐は足を前に進めた。

「おれらはそっちの二人と話がしてーんだって言ってんだろうが」

「彼らはお断りだとはっきり言ったはずよ」

「うるせーな。年増のババアが、すっこんでろよ」

「まあ」自分よりも明らかに体格の良い男たちを前にしても、クロエは怯えるどころか、微塵も物怖じすることなく、真正面から対峙していた。「あんたたち、自分のママにも同じことが言えるの?」

 あえて男たちに合わせているのだろう、クロエはリスニングが困難なコックニー訛りで、言葉の応酬を繰り返している。クロエの後ろで顔を見合わせている白田と更文は、酷く困惑したような面持ちを浮かべ、どうするべきかを測りかねている様子だ。希佐ですら難解に感じる訛り言葉なので、二人にはほとんど聞き取れてはいないだろう。

 アランは無言のまま二人の傍らに立つと、クロエの手首を掴んでいた男の腕を、無造作に掴んだ。たいして力を入れているようには見えない。それなのに、腕を掴まれた男はクロエの手首を離すと、あまりの痛みに悶絶するような、声にならない声をあげ、途端に顔を顰めた。

 スタッフはそこに割って入ろうとするものの、お客様、と声を掛けたところで、両者からは見向きもされない。

「別に男を口説くのは構わないし、あんたらの趣向をとやかく言うつもりもない」掴んだ腕の骨の軋む音が聞こえてきそうで、希佐はアランのすぐ後ろまでやって来ると、背中に触れて静かに名前を呼んだ。「……俺はただ、あんたらみたいな下卑た思想の連中が、気持ち悪くて仕方ないだけだ」

「っ、おい、離せ──こんの馬鹿力──」

「あっ、おまわりさーん! こっちでーす!」

 Oh, bobby! It's this way.──店内のどこからかそう言う声が聞こえた途端、ぎょっとした面持ちを浮かべた男たちは、アランの手を力づくで振り払い、他の客を押し除けるようにしながら店を飛び出して行った。

 ほっと、安堵の息を吐いたのは、どうやら希佐だけではないらしい。すぐ近くで、成り行きを見守ることしかできなかったフロアスタッフも、殴り合いに発展しなかったことを喜んでいるはずだ。

「なんちゃって」べ、と舌を出して現れたのは、飲み物を片手に現れたジョシュアだった。「嫌だねえ、この店のいいところは、ああいう客の出入りがないことだっていうのに」

 それからすぐ、ゴダンから連絡を受けたメレディスが戻ってくるが、問題の客は店外に逃亡した後だ。だが、クロエの細く白い手首に、くっきりとした赤い手の跡を見て取ると、すぐに氷を取りに向かった。

「お二人とも、大丈夫だった?」クロエがそう言って、白田と更文を振り返る。「変なことされてない?」

「はい」そう言って頷いたのは更文だ。「ありがとうございます」

「いいのよ」

「ですが──」

「私も、あなた方に声を掛けようとしていたところだったの。とんだ邪魔が入ったものだわ」毅然とした態度で口を開こうとしている更文をよそに、クロエは軽い口振りで続けた。「ご一緒にお茶でもいかがかしら」

 さすがの高科更文も、大女優からの突然の誘いには、驚いている様子だ。

 アランは表情の消えた顔でクロエのことを見ていたが、希佐がシャツの裾を掴むと、こちらに目を向ける。

 この人はこの人なりに、自分の母親のことを憎み切ることができず、心のどこかでは心配していて、苦しんでいるのかもしれない。いや、どうなのだろう。今のアランからは、複雑すぎて読み取ることのできない感情が、ひしひしと伝わってくる。

「トラブルが起きたときはお近くのスタッフをお呼びくださいと、前々からお願いしているはずです、マダム」氷嚢を手に戻ってきたメレディスが、半ば叱るような口振りでそう言った。「君もだよ、アラン」

 二人とも、自分が悪いとは少しも思っていないような顔をして、メレディスの視線から逃れようとしている。ああ、親子なのだなと、希佐はそんなふうに思いながら、不意に目が合った白田に声を掛けた。

『白田先輩、大丈夫ですか?』

『あ、ああ、僕たちはなんともない』白田は更文のことを横目に見てから、そう口にした。『あの人たちが何を言っていたのか、僕にはほとんど分からなかったし』

 少し離れた席にいたので、希佐の耳に、ここで交わされた会話が届くことはなかった。だが、アランには聞こえていたようだ。

『さっきの子たちはね、品のない言葉で彼らを誘っていたのよ』クロエはさらりとフランス語で言った。『ああいう子たちがいるから、同性愛者たちに妙な偏見の目が向けられるのよね』

 希佐も、ユニヴェールにいた頃に、少なからず経験したことがある。

 女であることを隠し、男として振る舞っていたが、学校の外を歩いていると、所謂そういう目で見られることが度々あった。酷いときは、下品な言葉が聞こえてくることもある。

 白田は何を言っているのか分からなかったと言ったが、相手から向けられる視線の端々から、その言葉の意味を汲み取っていたことだろう。それは、更文も同じはずだ。

『本当なら引っ叩いているところだけれど』

「マダム』

『私が黙っていられない人間だって、ご存知でしょう?』

 苦言を呈するようなメレディスの呼び掛けにも、クロエは少しも悪びれた様子を見せない。確かに、クロエ・ルーがしたことは、悪いことではないのだろう。正義感に溢れた、正しい行いだ。だがしかし、心配をかけたことは事実だった。

「明日のネットニュースが楽しみだね」ジョシュアは皮肉っぽく言いながら、写真に写り込まないよう鞄で顔を隠し、アランの影まで移動して来る。「あることないこと書かれないといいけど」

 後ろ手に氷嚢を持ち、赤く腫れた手首を冷やしながら、クロエは周囲の客に騒がせたことを謝罪している。

 どうしてその心遣いを、ほんの一瞬でも、誰よりも早く駆け付けた者に向けることができないのかと、希佐は思ってしまった。

 だが、感謝や謝罪は、どんなときでも強要されるべきではない。アラン自身がそれを望んでいない可能性もある。

『フミさんも大丈夫でしたか?』

『ん、ああ』何かを考えているような、どこか神妙そうな面持ちに見えた更文は、一瞬でその表情を消し去った。『随分と積極的な人が多いみたいだな、こっちは』

『すみませんでした。このお店では、こういうことはほとんど起こらないのですが』

『何で希佐が謝るんだよ。お前は何も悪くないだろ?』なぜか、その言葉に心を深く貫かれたような気がして何も答えられずにいると、更文は希佐の隣に立つアランを見上げた。「そちらの方も、不快な連中を追い払ってくださって、ありがとうございます」

「いや、俺は」アランは少し伏し目がちに、更文に目を向ける。「君たち二人が絡まれているのを黙って見てた。あの女が余計な手を出さなかったら、見て見ぬ振りをしてたはずだ」

「高科更文です」

「アラン・ジンデル」

 軽く握手を交わす二人を見て、希佐ははっと我に返る。少なくとも、根地黒門のときのような不穏な雰囲気は漂っていないようだと思いながら、些か呆れ顔の白田と顔を見合わせた。

「失礼」アランは続けて何かを言いかけるが、ポケットのスマートフォンが振動すると、一言断りを入れてから、それを耳に当てた。「なに──ああ、ごめん、それ、今朝方修正を加えたんだ、同期するのを忘れて──あー、悪かったよ、ノア。すぐに戻る」

 電話口の向こうから、何事かを捲し立てる声が聞こえてきたかと思うと、それは何の前触れもなくプツンと途切れる。アランは何事もなかったかのように、スマートフォンをポケットに戻していた。

「ノア?」

「怒鳴られた」

「リハーサル後に言っていた照明のこと?」

「うん」アランは小さく頷いてから、着席したまま根地や店のスタッフと話をしているゴダンを振り返った。「レオ、俺たちは上に戻るけど」

「僕たちも、開場までどこかで時間を潰そうかと話していたところだよ。ここにいても店に迷惑を掛けるだけだから、近場で静かに過ごせそうなところはないかと思ってね」

『ミミズホテルならここから近いですし、感じの良いバーもあったので、開場まで時間を潰すにはいいかもしれませんよ』

『そうだな。そろそろ東雲さんも戻っている頃だろうし、俺らも一度出るか』

 白田が今の会話を英語で伝えると、ゴダンは快くその提案を受け入れた。

「悪いけど、この人も連れてって」アランは、その辺を自由に闊歩する野良猫を指すように、クロエのことを指差した。「邪魔だから」

 邪魔ですって? とアランの言葉を繰り返したクロエは、一見するとむっとした表情を浮かべているようにも見受けられるが、その透き通るような青い目は、なぜか楽しげに爛々としている。

「正直、気は乗らないが、仕方がないね」

 ゴダンは本当に気が乗らないという顔をしながら、メレディスにタクシーの手配を頼んでいる。

 クロエなら断りかねないと希佐は考えていたが、どうやら同行することには乗り気のようだ。根地は大丈夫だろうかと思い、その様子を横目に見やると、僅かに青ざめた顔で静止してしまっている。

「根地先輩はどうされますか?」そう声をかけると、周りの視線が、希佐と根地の間で行き来するのが分かった。「先程強いお酒を飲まれていましたから、タクシーに乗ると車酔いをされるかもしれません。先輩はこちらに残ってはいかがです?」

『おい、立花──』

 思わずというふうに白田が口を開き掛けるものの、隣にいた更文は何かを察した様子で、そっと黙らせている。

「上の劇場には、加斎くんとダンテくんが戻っているはずなので、二人も根地先輩にご挨拶をしたいのではないかと思うのですが」

 根地は希佐からの申し出に、少なからず驚いている様子だった。

「いやでも、そういうわけには──」

『誘われておけよ、クロ』そう言って後押しをしてくれたのは、他ならぬ更文だった。『実際、いい機会だろ? ウエスト・エンドで活躍してる役者の稽古をその目で見られるんだ。そんな贅沢、願ったり叶ったりじゃねぇか』

『とはいえ、本番前だよ? さすがに迷惑になるんじゃないかな』

『皆さんあまり気にされない方々だと思いますし、各々自由にされているので、大丈夫です』

 根地黒門でも、他人の迷惑を考えることがあるのかと、希佐は思わず頬が緩みそうになる。ユニヴェールにいた頃も、玉阪座に入門してからも、自由気ままに振る舞っていると、更文からは聞いていた。

「根地先輩をこちらでお預かりしても構いませんか?」

「コクトーの勉強のためだ、喜んで預けるよ」ゴダンはそう言い、隣の椅子に座っている根地の背中を軽く叩いた。「アラン、面倒を見てやってくれるかい?」

「……ついてきて」

 アランは気乗りしない様子で小さくため息を吐くが、そう言うと全員に背中を向けて歩き出した。

 ぼくもそろそろ、と言ったジョシュアは、空になったグラスをカウンターに置くと、また後で、と言って店内のどこかへと姿を消す。

 希佐は「失礼します」と言って会釈をし、アランを追いかけた。根地は同行者たちと幾つか言葉を交わしてから、二人の後ろを追いかけてくる。

 途中、カウンター席の騒がしさを離れた席から見守っていたらしい、イライアスやアイリーンと行き合った。久しぶりに会う二人の母、エレノアに挨拶をし、アイリーンの婚約者、エヴァンを紹介される。舞台人のような華やかさは感じられないが、とても物腰の柔らかそうな、紳士的な男性だった。

「ユニヴェールの先輩で、根地黒門さんです」

「キサが見せてくれた舞台の脚本を書かれた方?」根地を紹介すると、アイリーンはにこりと微笑み、右手を差し出した。「私はアイリーン、彼はイライアスです。私、不眠王のお話が本当に大好きなの」

「あの舞台をご覧に?」

「ビザを取得するための資料として、校長先生にお願いをして、私が出演した舞台の映像を日本から送ってもらったんです。全部の映像に英語字幕をつける作業があったのですが、不備がないかどうかの最終確認のために、劇団の仲間に観てもらったことがあって」

『へえ』根地は希佐に向かってそう言ってから、差し出されたアイリーンの手を取り、にっこりと笑った。「お気に召していただけて光栄です」

 アイリーンの社交性の高さが効力を発揮しているのか、根地はクロエと対峙していたときよりもずっと、自然に振る舞っているように見える。もう一方では、アランとエレノアが、アイリーンの婚約者を交えて話をしていた。

 希佐がイライアスの方に向き直ると、ステージに立つ前は緊張の面持ちを浮かべていた顔に、今は、達成感と穏やかさを感じさせる表情を浮かべているのが、一目で分かる。

「素敵なステージだったよ、イライアス」

「ありがとう」イライアスはどこか照れくさそうに、頬を掻きながら言った。「キサのおかげだよ。キサの言葉が、いつだって僕の背中を押してくれるから」

「そう言ってもらえるのはすごく嬉しいけれど、あのたくさんの拍手と歓声は、イライアスの努力の成果だよ。それに、バージルの協力もあったから」

 一瞬、イライアスは希佐の言葉に物言いたげな顔をした。しかし、口にしかけた言葉を飲み込むような仕草を見せ、今はもう誰もいなくなった二階の方向を見上げる。

「……僕はただ、その先を見なきゃいけないと思ったんだ」

「その先って?」

「キサがいなくなった、その先」

 キン──と、マイクがハウリングを起こした後のように、ほんの刹那、希佐の耳が聞こえなくなった。だが、次の瞬間にはもう、店内の喧騒が戻っている。

「僕が今、一番楽しいと感じる時間があるとするなら、それは多分、君の隣で踊っているときなんだ」

「イライアス──」

「お願い、最後まで聞いて」もし、耳が目のように動くとしたら、ここにいる全員の耳が、こちらに向いているのが分かったことだろう。「でも、そんなふうに考えていたら、僕の舞台人生はそう遠くない未来に終わる。正直なことを言えば、この先、君以上のパートナーに出会えるとは思えない。だけど、僕はまだこの世界のほんの一部しか知らないし、人と積極的に関わることもしてこなかった。もしかしたら、この世界には、君と同じくらい僕を楽しませてくれる、素晴らしい人が他にもいるのかもしれない」

「……私みたいな人が、他にも?」

「うん」

 他意はないのだろう。悪気もないに違いない。そうと分かっていても、希佐にはその言葉が少しだけ、腹立たしく感じられた。

「ふうん、そんなふうに思うんだ」希佐がそのように言って目を細めると、イライアスは対照的に目を丸くする。「イライアスは苦労するんじゃないかな。だって、私みたいな役者は、世界中どこを探したって、他には見つからないと思うから」

「……キサ、怒った?」

「ううん」そう首を横に振って笑えば、イライアスは安堵した面持ちを浮かべる。「でも、私みたいな誰かを探すのはやめて。イライアスなら、私よりももっと素敵なパートナーを、いつか見つけられるよ」

「それでも、今は僕が君のパートナーだから、君にもっと必要としてもらえるように──」

 イライアスがそんなふうに言ってくれたときだった。何の前触れもなく、頭上から、こらあ、と怒鳴る声が聞こえてくる。

「アラン・ジンデル!」手摺りに身を乗り出し、上から店内をぐるりと見回したノアが、アランの姿を見つけるなり、再び大声を上げた。「そんなところで立ち話なんかしてないで、早く戻って来て!」

 途端に、店内が大きくざわつく。

 この店の常連客の多くは、アラン・ジンデルの存在を認知しているが、イベントに合わせて来店した客のほとんどは、誰が本物のアラン・ジンデルなのかを判別することはできない。

「ねえ、アラン・ジンデルだって!」

「それって、あのアラン・ジンデル?」

「ちょっと待って、どの人?」

 すると、店内の空気が一変したのを感じ取ったのだろう、二階にいるノアは自らの額を派手に叩き、手話で「ごめん」と謝ってから、ひょっこりと頭を引っ込めた。かと思えば、再度姿を現し、同じく手話で「とにかく急いで」と言い残して、今度こそ劇場へと戻って行く。

 どうするのだろうと思い、希佐がそちらを見やれば、アランは面倒臭そうにため息を吐くだけで、特段慌てた様子などは窺わせていない。

「仲間が呼んでいるので」アランはそう言うと、エレノアやエヴァンに向かって、軽く目礼をした。「失礼します」

「皆さんのステージを心から楽しみにしています」

「エヴァン、お母様のことをお願いね」

「ああ、任せて」

 アイリーンとイライアスは、入れ代わりにエレノアの頬にキスをすると、アランを追いかけて歩き出した。希佐がエレノアに向かって会釈をすれば、まるで女王陛下のように上品な会釈が返され、思わず心が躍る。

「イライアスのことをいつも気にかけてくださって、本当にありがとう、キサ」

「いいえ、私の方こそ、イライアスにはいつも助けてもらっています。もちろん、アイリーンにも」

「あなたの存在が、二人の良い刺激になっているみたい」

「それ以上に、イライアスとアイリーンが、私に良い刺激を与えてくれています。同年代の仲間が夢に向かって邁進する姿は、いつだって私を鼓舞してくれるんです。二人を見ていると、私ももっと頑張ろうって、そう思わせてくれます」

「あの二人も同じように話していましたよ」エレノアは、かつての誰かを思い出させるような慈愛に満ちた笑みを浮かべ、このように続けた。「これから先もずっと、あの子たちのお友達でいてくださいね」

 子供の頃、世界はとても広く思えていた。テレビ画面に映し出される外国の映像を見るたびに、そこはどこか遠い、自分には手の届かない異世界のような、そんな感覚で眺めていた。その美しい情景を、いつかこの目で見てみたいと思いながらも、自分には一生無理なことだと、諦めてしまっていた。

 だが、歳を重ねるごとに、世界はどんどん狭くなる。広い世界を求めて旅立ちたくなる。

 世長創司郎が遠くに引っ越してしまったとき、まるで死別した者を見送るように、彼とはもう二度と会うことはないのだろうと、そう思っていた。けれど、ユニヴェールに入学したあの日、数年ぶりの再会を喜んだあの瞬間から、数年来の別離などなかったかのように、一瞬のうちに溝が埋まるのを感じていた。

 友達とは、きっと、そういうものだ。

 たとえ物理的な距離が離れてしまっても、心のどこかで相手のことを思い続けてさえいれば、ずっと友達でいることができると、希佐はそう信じている。

『君は、ここでも大勢の人から愛されているんだね、立花くん』劇場へと伸びる階段を上がっていると、その後ろをついて来ていた根地が、そう声を上げた。『君自身も、ここで出会った人々のことを深く愛しているのが、よく分かるよ。とても大切に思っているんだろうなって』

 希佐は思わず足を止め、後ろを振り返る。すると、同じように足を止めていた根地は、眼下に広がるヘスティアの店内を見渡しながら、ぽつりと呟くように言った。

 ──その愛を、ほんの少しだけでも、日本に向けてくれていたなら、何かが違っていたのかもしれないね──。

 

 

 

 タクシーの車内は異様な空気感に支配されていた。雰囲気が悪いというわけではない。目の前に並んで座っている男女は、終始にこやかにしてはいるものの、更文には聞き取りようのない言語──恐らくはフランス語で、早口に会話を続けている。こちらに聞かれては困るようなことを話しているのだろうが、その様子があまりに堂々としているので、ただ単に世間話をしているようにも見受けられた。

「なんだか、おかしなことになりましたね」今現在、更文にとっての唯一の寄る辺である白田美ツ騎が、二人の様子を窺いながら、囁くような声で言った。「先が思いやられるんですけど」

「頼りにしてるぞ、ミツ」

「やめてくださいよ」美ツ騎は本当に嫌がるような顔をしてから、微かに憤慨した様子で息を吐いた。「ったく、こういうときに頼りになる人が、肝心なときにいないんですから。立花も、一体何を考えているんだか……」

「希佐は気を利かせたんだろうよ」

「気、ですか?」

「クロはこういう女性が特に苦手だからな」

「苦手っていうか、むしろ大歓迎ってタイプにも見えますけど。あの人が書く脚本に出てくるジャンヌ、こういう人が多いでしょ。一緒に来れば、観察し放題じゃないですか」

「んー、どう言えばいいんだろうなぁ」更文が窺うような一瞥を送ると、稀代の大女優は一瞬だけこちらに目を向け、魅力的に微笑んだ。「忌避すべき者への憧憬ってのはあると思うんだよ。忌み嫌っている相手なのに、どうしてもそいつの動向が気になって、無意識に目で追いかけちまう。不用意に近づけば、そこに待ち構えているものは不幸だっていう確信があるのに、傍に寄らずにはいられねぇんだ」

「立花のことを言ってます?」

「希佐のことだけじゃねーよ」更文が希佐の名前を口にすると、二人の意識がほんの微かに、こちらに向けられるのが分かった。「誰にだって怖いもの見たさってのがあるだろ? クロの場合は、それが他の誰よりも如実なんだ。根幹にはいつだって並々ならぬ好奇心があって、目を逸らしたい気持ちよりも、見たいっていう気持ちの方が勝っちまう。致命的だよ。自分でも自殺行為だって分かってるのに、自分で自分の首を絞めるようなことをやってのけるんだから」

 目に映るすべてのもの、耳に聞こえるすべてのことが、黒門にとっては創作と強く結びついている。

 更文自身も話したことを忘れている会話の中から、面白そうな物語の種を拾い上げ、それを土の中に埋めて、じっと芽吹くのを待ち、脚本の中で花開かせていたことが、これまでに幾度となくあった。

 根地黒門が描く世界観は、時に現実味を帯びていないと、そのように評されることがある。世間知らずが描く夢物語であると。

 舞台は人に夢を見せる場所だ。

 脚本家による独り善がりなバッドエンドよりも、どこかで見たような王道のハッピーエンドの方が、大衆受けはする。どちらの方が良いかということではなく、どちらを好ましく思うか、という比較の仕方が正しい。少しばかり物議を醸す作品の方が、強烈な印象を残す場合もある。

 その良い例が、我死也だ。

 根地黒門はもう何年も前から、玉阪座の上層部より、第二の我死也を求められていた。百年後、二百年後にも残るような、新たな古典作品となり得る舞台を、玉阪座は欲している。

 だが、それだけでは飽き足らず、彼らはあの悪夢のような我死也をもう一度、田中右宙為と根地黒門で再演させようと画策していた。

 黒門はのらりくらりと言い逃れをしつつ、宙為が首を縦に振るとは思えませんよ、と言ってへらへらしているが、当の田中右は黒門には微塵もその気がないと理解した上で、自分自身も黒門の瀧姫ではもはや満足できないことを自覚しているはずだと、更文は考えていた。

 更文は以前、玉阪座在籍の演出家から、それとなく瀧姫を演じてみたくはないかと、そう打診を受けたことがある。可能か不可能かの話であれば、もちろん可能ではあるだろう。だがしかし、我死也は根地黒門が田中右宙為のために書いた本だ。がしゃどくろの隣に立つ瀧姫は、田中右の器としての役割を、完璧に果たす必要がある。

 更文が皮肉っぽく「自分には荷が重いですね」と応じると、演出家もそれ以上は言及することなく、以来、二人の間で我死也の話題が上ることは二度となかった。

「こうして求められるのは、とてもありがたいことだよ」ユニヴェールの作業部屋を思い起こさせる仄暗い部屋の中で、ディスプレイの明るさだけを頼りにし、ノートに鉛筆を走らせながら、黒門が話していたことを思い出す。「常々、その期待に応えたいとは思っているんだ。でもね、いかんせん、思いつくすべてのことを書き留めておいても、実際に使えるネタは、その中のほんのごく一部なんだよ。断片同士を繋ぎ合わせてこねくり回してみたりもするけれど、そういうのは大抵駄作に終わる。天啓のように降ってくることなんて稀なんだ。アカシックレコードと繋がる感覚はそうそう味わえるものじゃないのさ」

 根地黒門は、自らの経験を餌にして、物語を構築していくタイプの脚本家だ。ストーリーの中には必ずと言ってもいいほど、自らの体験や、直接見聞きした題材が、多かれ少なかれ織り込まれている。そして、ほとんどすべての作品に、共通するモチーフが登場するのだ。

 物語の舞台は海や水辺に近いことが多く、そうでなくても、船などの水を連想させるものが使われる。他にも、身近な人物の喪失や、恋愛の縺れ、多情、移り気、心変わり──さほど気にもならない、ともすれば、どんな作品にも符合すると言われかねないことだ。

 だが、何年も根地黒門が書いた脚本で演じていたから、分かる。自らの身を削り、心を削り、命を削りながら、根地黒門は物語を綴っている。

 この世に無尽蔵なものは存在しないと、更文は考えていた。命がいずれ尽きるように、才能が終わりを迎える日は、遅かれ早かれ必ず訪れると信じている。それは、黒門だけに限った話ではない。更文自身や、隣に座っている白田美ツ騎や、今頃は玉阪の舞台に立っているはずの睦実介にも、同じことが言えるだろう。

 だが、才能の終焉を憂いながら生き続けることほど、愚かなことはない。誰にも最期の日を予期することはできない。終わりがあるからこそ、人々は今、目の前にある輝きに魅了される。この輝きが可能なかぎり長く続きますようにと祈りながら、日々を舞う。

 たとえ、この才能の灯火が何者かに吹き消されようとも、高科二千奥の名が途絶えぬかぎり、この身を彩る深緋色は、永遠に色褪せることはない。

 一分、一秒も、無駄にはできない。

 それでも、人は時に休息を挟まなければ、体どころか、心までをも壊してしまう。

 根地黒門は、ユニベール在学中、もしかしたらそれ以前から、全力疾走で駆け抜け続けた人生だったに違いない。この辺りで一度、自分の生き方を見直してみるのも、悪くはない選択なのではないかと、更文は思う。

 更文にとってもそうであるように、黒門にとっても、この渡英は自分を見つめ直す良い機会なのだろう。

 きっと、一分、一秒を、無駄にしてこなかった者の姿を目の当たりにしたからこそ、そう思うのだろうか。

 タクシーはミミズホテルの前に到着した。タクシー代を払おうとする更文を制し、レオナール・ゴダンが財布からカードを取り出す。

『すまないね、すっかり彼女との話に夢中になってしまって、君たち二人を置き去りにしてしまった』

『いえ、大丈夫です』更文を先に降ろし、それに続いて降りてきたゴダンは、続く言葉を待つように、こちらの顔を覗き込んでくる。『……堂々と秘密の話をされていたので、こちらも気兼ねなく内緒話をすることができました』

 更文がそう言うのを、ゴダンはにこにこと笑いながら、愉快そうに聞いていた。その笑顔に含みのようなものを覚えながらも、それを問い詰めるだけの語学力がない更文は、口を噤むしかない。

『ここが君たちの滞在するホテルかい?』

『はい』走り去るタクシーに向かって軽く手を挙げてから、ゴダンは目の前のホテルを見た。『俺は初めての滞在ですが、当家の者は、毎年この時期にお世話になっているそうで』

 ソーホーの街並みに溶け込んだ建物は、一見するとホテルのようには見えない。外には、ホテル内で購入したコーヒーや軽食、アルコールを楽しめるテーブルや椅子が設置されているので、ただ目の前を通り過ぎるだけなら、パブかカフェだと思うだろう。隣にはパブがあり、昼間だというのに大賑わいで、店の外にまで客の姿が溢れ返っていた。

『ミミズホテルに、ドッグアンドダックか、いいね』ゴダンはそう口にしながら、ポケットから取り出したスマートフォンで記録を取るように、ホテルとパブの外観を写真に収めていた。『僕の緊急避難所の候補に入れておこう』

『緊急避難所、ですか?』

『職業柄、人に追いかけ回されることが多くてね。今日みたいに余裕があるときは、相手が記者だろうとパパラッチだろうと、誠意を持って接して差し上げるが、僕も人間だから、邪険にしてしまいたくなる日もあるんだよ。そういうときは、自宅には帰らず、格式の高いホテルに逃げ込んで、匿ってもらうことにしているんだ』

 ここなら、落ち着いた頃にホテルを抜け出して、雰囲気の良さそうなパブで美味しいお酒を楽しめるだろう──? ゴダンはそう言いながら、更文に向かって軽く片目を瞑ってみせた。

『失礼』胸元に引っ掛けていたサングラスを掛け、片手にスマートフォンを手にしたクロエ・ルーが、ホテルの前にあるテーブル席に腰を据える。『電話を一本掛けたいの。先に入っていてくださる?』

『一人で平気かい?』

『あら、私を子供扱いしてくださるの? 嬉しいわ』

『何かあったら大声で叫んで知らせてくれ。得意だろう?』

『ええ、もちろん』

 頭の中で正しく翻訳できているのかを心配しながら、更文はレオナール・ゴダンの後に続いて、ミミズホテルに足を踏み入れる。風に乗って微かに聞こえてきた涼やかな声は、再び英語ではない言語を紡いでいた。

『共用ラウンジを使って良いそうです』一人、先にホテルに入り、フロントスタッフと話をしていた美ツ騎が、踵を返してこちらにやって来る。『こちらです』

 そう言って先に立って案内してくれている後輩の背中を見遣りながら、更文は自分の不甲斐なさに、思わず乾いた笑いを漏らしてしまった。瞬間、半歩ほど前を行くゴダンの視線を感じた気がして、更文はすぐに表情を正す。

 思い返してみれば、飛行機で日本を発って以降、自分は何一つ、何事も成してはいない。すべて人任せだ。自分の名義で宿泊するホテルの手配も、チェックインも、仕事の打ち合わせも、何もかも東雲が引き受けてくれている。

「若は初めての海外なんですから、まずはその土地の雰囲気を感じ取って、空気に馴染むのが最優先の課題です。いやあ、今回はご友人が一緒で、東雲は本当に助かりましたよ。諸々の細々とした仕事に加えて、若のお相手までするなんて、時間がいくらあっても足りませんからね」

 全体的にシックな雰囲気のホテル内は、週末の喧騒とは程遠い静けさを孕んでいた。大理石の床からは、ひんやりと冷たい空気が立ち上ってくるような気がする。所々にあたたかな色合いの間接照明が灯り、僅かに薄暗い室内に、ほっとする心地良さを演出していた。共用のラウンジには大きな窓があって、たっぷりとした自然の光が差し込んでいる。

『二人は奥の席にお座り』

 壁際の長椅子に更文と美ツ騎を座らせ、ゴダンはマガジンラックから取り出してきた今日の新聞を手に、一人掛けの椅子に腰を下ろした。長い足を組み、僅かに目を伏せて文面を追いかけるその様子は、まるで映画のワンシーンを切り取ったかのような、絵になる姿だ。

 隣に座っている美ツ騎は、手元のスマートフォンに目を落とし、指先で素早く画面を動かしている。届いていたメッセージの確認をしているようだ。

 そのとき、更文はふと、希佐に連絡先を聞き忘れていたことを思い出した。しかし同時に、自分が彼女に連絡先を聞いても良いものかどうか、分からなくなる。訊ねれば教えてもらえるはずだと、そう当然のように考えるのは間違いだ。自分たちの間には、五年という時間の隔たりがある。あの頃のままの感覚で接することは難しい。

 そうだ。今日出会った立花希佐は、あの頃の立花希佐とは、違っていた。

 あまりに。何もかも。

 人は変わりゆくものだ。この世に不変などありはしない。そんなことは分かっている。だがしかし、思わずにはいられないのだ。立花希佐は、変わってしまったのだと。

 あの折れてしまいそうなほどに細い左の手首から、更文が贈った鯉結びは外されていた。自らの願いが叶ったときに切れる鯉結び──希佐はあの鯉結びに、自分と同じく、相手の幸せを願ったと教えてくれた。

 鯉結びなど迷信だと言われてしまえば、それまでだ。だが、更文は信じている。この鯉結びは、願いが叶ったときに切れるのだと。

 希佐が本当に、更文の幸せを願ってくれていたのなら、あの鯉結びが切れることはなかったはずだ。そして、更文の鯉結びも切れていない以上は、希佐の元にも本当の幸せは訪れていないのだと、そう信じたかった。

 右手の薬指に光り輝く指輪を認めたとき、まるで頭から冷や水を浴びせかけられたかのような心地がした。顔から血の気が引き、膝が折れそうになった。この掴んだ手をもう二度と離したくないと思うのに、振り払われるかもしれないと思うと急に恐ろしくなって、自らの意志で、掴んでいた手を離してしまった。

 臆病風に吹かれてしまったのだ。

 もっと他に言うべき言葉があったはずなのに、口から出てきたのは、誰にでも言えるような陳腐な褒め言葉だけだった。

 綺麗になっていた。

 更文ですら、目を見張るほどに。

 ユニヴェールにいた頃は、男とも女ともつかない、中性的な存在としての美が、確かにあった。性別を超越した、人間としての美しさだ。凛と立つ百合の花のようだった。

 だが、五年もの歳月が過ぎ去り、再び相見えた立花希佐は、甘い香りを漂わせる薔薇の花のような人になっていた。その魅力的な香りに誘われ、次々と蜂が訪れては、羽を休め、蜜を吸い、また飛び去っていく。

『お待たせしてごめんなさい』

 外でどこかに電話を掛けていたクロエ・ルーが、そう言いながらラウンジに現れた。窓の外に向けていた視線を室内に戻し、そちらに顔を向けようとする。だが、それより前に、新聞から顔を上げていたゴダンと真正面から目が合い、更文は思わずぞくりとしたものを背筋に感じた。

 一瞬、心の奥底までをも見透かされているのではないかと、そのようなことを考えてしまう。何色と形容し難い色彩の目は、更文のことをじっと見つめたあと、ラウンジに入ってきたクロエに向けられた。

『お詫びにコーヒーをお持ちしたわ』

 黒い丸型のトレイには、四つのコーヒーカップと、ミルクとシュガーポットが乗せられていた。クロエは給仕人のようにテーブルの脇に膝をつく。『必要な方は、お砂糖とミルクもどうぞ』

『ありがとうございます』

 更文と美ツ騎が口を揃えてそう言うのを聞き、クロエはやわらかく微笑んでみせた。そのままゴダンの隣に座り、自らの方に引き寄せたコーヒーカップの中に、たっぷりのミルクと砂糖を入れ、スプーンでくるくると掻き混ぜている。

 ゴダンは何も言わず、ブラックコーヒーを口元に運びながら、新聞に目を戻していた。美ツ騎は黙って一口飲んでから、微かに眉間に皺を寄せたかと思うと、コーヒーの中にミルクだけを入れている。

『お二人とも、キサと同じ歌劇学校に通っていたのでしょう? 日本の、ユニヴェール歌劇学校だったかしら』

『はい』

『現実的に考えて、本来の性別を押し隠したまま、三年間も男子校に通い続けるなんて芸当は、不可能なことだと思うのよ』カップの底が見えないほど濃く、微かな酸味と、強い苦味のあとで、ほのかな甘さが顔を覗かせるコーヒーを、更文は続け様に二口飲んだ。『あなた方は、彼女が女性であることを、ご存知だったのではなくて?』

 質問の真意が見えない──更文がそう思っているのと同じように、美ツ騎もそう感じているようだ。美ツ騎は更文をちらと横目で見やってから、再びクロエ・ルーに目を向けた。

 二人が何も答えずにいると、ゴダンは大きく息を吐き出しながら、広げていた新聞を膝の上に置いた。

『正式な自己紹介も済んでいないというのに、そういう込み入った質問をするのはどうかと思うよ、クロエ』ゴダンはそう言うと、美ツ騎の方に目を向け、にっこりと人好きのする笑みを浮かべた。『僕はレオナール・ゴダン、コクトーとは古い友人でね』

『白田美ツ騎です、よろしくお願いします』

『こちらこそ、よろしく』テーブル越しに差し出した手を美ツ騎が握り返すと、クロエはその手を大きく一度だけ振った。『クロエ、彼は高科更文くんだ。フミ、彼女はクロエ・ルー』

 世界的に有名な稀代の大女優は、頭を傾けるようにして軽く会釈をする。

 更文もそれに倣って会釈をしようとしたそのとき、クロエは自らの膝に頬杖をつき、驚くほど青い目をゆっくりと細めながら、こう言った。

『あなた、バージルとキサが踊っているのを食い入るように見ていたわね』

 大抵の場合、更文は周囲から自分に向けられる視線を、敏感に察知することができた。舞台上で踊っているときですら、客席から向けられる一人一人の視線を感じることがある。集中すればするほどに感覚が研ぎ澄まされ、ときにはそれを煩わしく思うほどだった。

 だが唯一、自分自身が何かに魅了されているとき、視線や心を奪われているとき、圧倒的な才能を目の当たりにして、思考が停止してしまうその瞬間だけは、まるでスイッチが切れたかのように、何も察知することができなくなる。本来なら、これだけ華のある人が自分を見ていれば、気づかないはずがない。

 しかしながら、この女性は、タップダンスを踊る二人ではなく、それにただ圧倒されていただけの、自分を見ていたということだ──更文は、それを少し奇妙に思った。

『お二人は日本でどのようなお仕事をされているの? 舞台関係?』

『僕はもう舞台には立っていません』更文の方を横目で窺いながら、美ツ騎が言った。『主に歌の仕事をしています』

『聞かせていただける?』

『デジタルアルバムが──』

『買うわ』

 クロエはそう言うや否や、取り出したスマートフォンを素早く操作し、瞬く間に美ツ騎のファーストアルバムを購入していた。骨伝導のイヤホンを装着し、歌に耳を傾けている。

『そのアルバムは、ロンドンのスタジオでレコーディングしました。英詞の楽曲は、こちらに来てから急遽提供していただいたもので』

『彼、知っているわ。あなた、彼好みの声質をしている』

『実際、そのように言っていただきました。またロンドンに来ることがあったら連絡をしてほしいとおっしゃっていたので、メッセージを送ってみたら、たった今返事があって』

『会いましょう、って?』

『はい』

『彼、今は次の舞台音楽の制作で忙しいはずよ。あなた、愛されているのね』

『え?』

『何日か前にアポイントメントを取ろうとしたのだけれど、駄目だったの。今は忙しいの一点張りでね。でも、招待状だけは送らせていただいたから、もしかしたら今夜、ヘスティアに現れるかもしれないわ』

 またあとでじっくり聞かせていただくわね──クロエはそう言って、イヤホンを耳から外す。隣に座っているゴダンは、相変わらずコーヒーを飲みながら、黙って新聞を読んでいた。第一印象では話し好きな人だと感じたが、実際のところは違うのかもしれないと、更文は思った。

『あなたは?』クロエがその青い目を、美ツ騎から更文に向ける。『どんなお仕事を?』

『……ユニヴェール歌劇学校を卒業後は、その母体である玉阪座に在籍して、今も舞台に立つ仕事を続けています』眩しいくらいに輝く二つの目が、更文を真っ直ぐに見つめていた。『実家が日本舞踊を生業としているので、将来的には、父親の跡を継ぎます』

『あなた、ブランドのアンバサダーを勤めていなかった?』

『あ、はい』

『やっぱり、どこかで見た顔だと思っていたのよ。私も同じブランドの広告塔に起用されていたから。事務所を辞めて、その契約も切られてしまったのだけれど』クロエは更文の名前を検索にかけたのだろう、スマートフォンの画面に表示された画像を、ゴダンに見せている。『綺麗な色のルージュね』

『……この写真は誰が?』

『ブランド側が用意したスタジオで、そこにいたカメラマンが──』

『スマートフォンで撮影した』更文の言葉を先回りして、ゴダンがさして興味もなさそうに言う。『過度な加工がされている割には、カメラマンの姿が君の目に映り込んだままだ』

『あら、本当』クロエはヌードカラーのネイルを施した指先で、画面を拡大させている。『女性ね。あなたの熱狂的なファンかしら』

『だが、クロエの言う通り、ルージュの色は実に美しいね。君によく似合っているよ』

 あの日は、カメラマンが持参した一眼レフカメラが故障し、手持ちのスマートフォンで撮影せざるを得ない状況だった。更文のスケジュールが立て込んでいて、別日にもう一度、というわけにはいかなかったのだ。

 正直なことを言えば、あの日の仕事は確かに、ブランド側のプロフェッショナルに欠ける態度を目の当たりにし、幻滅していた。だから、あの写真は気に入らないし、更に言えば嫌いだ。クロエ・ルーの指摘通り、カメラマンの女性は酷く私利私欲の強い人物で、実際、カメラが故障していたことも、事実かどうか分からない。玉阪座の広報を通し、当日の対応に際して抗議をしたところ、陳謝と謝罪の品が送られてきたが、到底受け取る気にはなれず、化粧品の類はすべて、ユニヴェールのジャンヌたちに譲ることにしたのだった。

『災難だったわね』更文の拙い英語を聞き終えたあとで、クロエは同情的に言った。『フランスの本社に友人がいるの。もし良かったら、今度その子を交えて、一緒にお食事でもしましょう。ご紹介して差し上げるわ』

 一瞬、なぜ、と更文は思う。今日出会ったばかりの、何者かも分からない東洋人を相手に、なぜそのようなことを言えるのかと。だが、すぐに思い及んだ。この稀代の大女優は恐らく、高科更文という存在を鑑みる以前に、立花希佐という存在を前提に見ている。彼女の古い知り合いなら、それなりの人物に違いないという、信用の問題だ。

『ありがとうございます』もし本当にそうなのだとしたら、それがどれほど恐れ多い誘いだったとしても、更文に断ることなどできはしない。『是非、ご一緒したいです』

『私、下手な遠慮のない子って好きよ』

 クロエ・ルーの微笑みは、どこまでも魅力的だった。底の見えない、深く深くどこまでも沈み込んでいく湖のような色の目に見つめられると、吸い込まれてしまいそうだと思わずにはいられない。

『イギリスにはご旅行でいらしたの?』

『ミツとクロ──美ツ騎と黒門はそうですが、俺は仕事です』

『お仕事?』

『年に一度、異文化交流のワークショップを行っているんです。これまでは父や兄がこちらまで足を運んでいたのですが、今年はそのお役目が俺に回ってきたので』

『日本舞踊のワークショップを?』

『はい』

『へえ、面白そうね』

『お時間が許すようでしたら、是非遊びにいらしてください』

『まあ、私のことを誘ってくださるの?』

『フミ、彼女は社交辞令を本気にするタイプだよ』胸の前で両手を合わせ、本当に嬉しそうな顔をしているクロエを一瞥し、ゴダンはゆっくりと頭を振っている。『不用意なことは口にしない方がいい』

『着物を何枚か日本から持参したので、着付け体験だけでも』

 そう言って来訪を拒もうとしない更文を見て、ゴダンは何も言わずに、ただ呆れたように肩をすくめていた。自分は忠告をしたぞ、とでも言うふうな様子だった。

 異文化交流の場は、当初ロンドンの劇団と高科の家の交流を目的としたものだったが、今では日本の大使館も一枚噛んでいる。世界的な大女優に参加してもらうことができれば、良いPRにもなるだろうと、更文は思ったのだ。

『それなら、連絡先を交換しておきましょうか?』

『え、俺は、構いませんが……』

『あとでワークショップの予定を送ってくださる? スケジュールの確認をして、折り返しご連絡差し上げるから』

『は、はい、分かりました』

 更文はその場で、クロエ・ルーと、個人的な連絡先を交換した。クロエは美ツ騎とも交換をしようかと持ちかけていたが、必要がないと考えたのだろう、迷うまでもなく首を横に振り、その申し出を失礼のないように、丁重に断っていた。

『実に賢明な判断だと思うよ』

 ゴダンは美ツ騎に向かってそう言いながら、読んでいた新聞を折りたたんでいた。

『私、日本へはまだ一度も行ったことがないの。でも、先生は日本がお好きよね?』

『何度か足を運んでいるよ。仕事とプライベートが半々ってところかな』

『チャンスは何度かあったのよ。だけど、タイミングが合わなくて』

『日本に行ってやりたいことでもあるのかい?』

『花街でお座敷遊びをしてみたいわ』

 ゴダンはそのような返答を予期してはいなかったのだろう、どこか呆気に取られた面持ちを浮かべている。しかし、すぐにその表情を崩すと、眉を顰めてため息を漏らした。

『まったくもって君らしいよ』

『ね、先生。今度連れて行ってくださらない? 私、行きたいところへは、行けるうちに行っておきたいの。ほら、格式あるお座敷は、一見さんをお断りするというお話でしょう?』

『今は昔ほど一見さんをお断りするお座敷は多くありませんし、外国人観光客向けの窓口もあるので、難しいことはないと思います。ユニヴェールや玉阪座のある玉阪の町にも、小規模ですが花街はありますよ』

『ですってよ、先生?』

『玉阪にも行ったことはあるよ。招待を受けて玉阪歌劇を観劇したこともある。もう何十年も前のことだけれどね。でも、花街でお座敷遊びをしたことはないな。せっかくなら、彼らに案内してもらってはどうだい? 地元の子たちだ、僕なんかよりもずっと詳しいだろう?』

 ゴダンがそう言うのを聞いて、美ツ騎は心なしか表情を引き攣らせる。姿勢正しく座った格好のまま、絶対に余計なことを口にはすまいと、頑なに唇を引き結んでいる様を見て、更文は少しだけ頬の緊張が和らぐのを感じた。

『日本の演劇学校にも興味があるのよね』クロエはぬるくなったコーヒーを飲み、続ける。『頼めば見学をさせていただけるかしら』

『見学をしてどうするつもりだい?』

『私も学校を作りたいの。だから、その参考にしたいと思って』

 唇に細長い指先を添え、悪戯っぽい表情を浮かべているクロエを見て、ゴダンは思わずと言うふうに絶句していた。どうやら、学校を作りたいという発言は、ゴダンにとっても初耳だったようだ。

 クロエはその様子をにっこりと満足そうに見たあと、更文と美ツ騎の方に目を向けた。

『ね、興味があるのよ』

 何に──彼女との間に、そう問えるほどの関係性はない。

 自分たちはほんの一時間程前に、初めて顔を合わせたばかりだ。不思議とそう感じないのは、この大女優の前には、誰に対しても壁が存在しないからなのかもしれないと、更文は思った。

 相手が世界的に有名な映画監督でも、自分たちのような出会ったばかりの若者でも、下品な物腰で近寄ってくる下卑た思考のチンピラでも。

『キサって、学生時代からあんな感じだったのかしら』

『あんな感じ、というのは……』

『困ったり、迷ったりしている人を見かけたら、たとえ自分の両手が塞がっていたとしても、その荷物を一度地面に下ろしてでも、手を差し伸べずにはいられない。自分よりも他人を優先するのに、自分のやることにも一切妥協はしない。良く言えば、誰よりも周りが見えている努力家ね。悪く言えば──そう、完璧主義者』

 更文と美ツ騎は思わず顔を見合わせる。そのまま何も言わずにいると、クロエは先を続けた。

『完璧主義が悪いと言っているわけではないのよ。私も同じ気質を持っているから。ただ、あの子の場合は、何事も、ゼロか百か、生か死か、みたいな、極端なところがない? それなのに、他者には決してそれを求めようとはしないでしょう? なんでもかんでも、自分が頑張ればなんとかなるって、すべてを自分で背負い込むタイプ──違うかしら?』

『……僕たちは、この五年間、立花と顔を合わせるどころか、連絡一つ取り合っていませんでした』口を噤んだままでいる更文を横目に見てから、美ツ騎が口火を切った。『だから、今のあいつがどんなふうに舞台と向き合っているのか、僕には分からない。ただ、あなたの仰る通り、彼女にはその気質がありました。でも、同じだけの協調性と、面倒見の良さもありました。足並みが揃わない生徒がいれば、積極的に歩み寄って、手を差し伸べていた。同じ舞台に立つ仲間として。彼女は出遅れた仲間を捨て置くことも、見捨てることもしない』

『私も演劇学校に通っていたから、内情については良く知っているわ。フランスの、コンセルヴァトワールで演劇を学んだの。毎年、三十歳未満、千人以上の受験者たちが、三十の数少ない椅子を奪い合ってる。全員が同じ試験を受け、合否を競い合う。以前、ユニヴェールについて少しだけ調べてみたのだけれど、多分、コンセルヴァトワールを土台に仕組みを確立したのではないかしら。ユニヴェールは元々フランス語だものね』

 確かに、どこかでそのような話を聞いたことがあると思いながら、更文は饒舌に話し続けるクロエのことを、じっと見つめていた。

『演劇学校って、全員が同じ試験を受けて、総合的な点数を踏まえて入学が認められていくものだけれど、あれって不思議よね。入試で好成績だった生徒が、その後の人生でも永続的に活躍し続けるかといえば、そうでもないでしょう? 反対に、本当に最低ラインで合格したはずの生徒が、将来的には舞台から舞台へと飛び回るような、売れっ子役者になることがある。そういう子たちは往々にして、ある日突然、開眼するのよね。私は、幼虫が蛹になって、蛹が羽化し、蝶になる瞬間を見るのが、本当に大好きなのよ』

 ユニヴェールでは、新人公演の活躍によって、その後の三年間が決定されると言われていた。大抵の場合、新人公演でアルジャンヌやジャックエースに選ばれた生徒は、その後も名前のある役を演じ、舞台の真ん中に立ち続けることになる。だが、何者にも見出されなかった多くの生徒は、ユニヴェールの三年間を、名前のない役──アンサンブルとして終える。

 例えば、睦実介のような事例は、ごく稀なものだ。二年の半ばまで、名前のある役をもらったことのなかった生徒が、突然ジャックエースに抜擢されることなど、ほとんど夢物語に近い。介にとっては夢物語などではなく、悪夢のような日々だったに違いないが、あの悪夢のような日々があったからこそ、今があるのだと、更文と同じように、介も思っているはずだ。

『多少なりとも覚悟と危機感を持って入学をした生徒の方が、現実を見る目を持っているわ。最初から後ろ盾があったり、驕りのある人間ほど、変にふわふわしているから、すぐに足元を掬われる。地に足をつけている人間は強い。でも、もっと強いのは、一度でも地獄を味わったことのある人間だと、私は思うのよ。何の挫折も知らない人間よりも、ずっと奥行きがあるし、度胸や根性だってある』

『君は首席で入学し、首席のまま卒業したと小耳に挟んでいるけれど?』

『何事にも例外は存在するのよ、先生』

 自分にはもう後がない。帰る場所もなければ、頼れる人もいない。今、目の前にあるこのチャンスが、唯一の希望だ──クロエ・ルーの言う通り、そういう人間ほど強いことを、更文も知っている。

 例えば、両親を失い、親戚の家をたらい回しにされた挙げ句、最後には施設に送られて、ある人から救いのような手を差し伸べられた者。家庭が壊れ、生活が一変し、理不尽な片親の下から逃れるために尽力した者。心に重いトラウマを宿したまま、死んだ父親の背中を追いかけ、まるで命を削るように舞台に没頭する者。このままではすべてが駄目になると、家族の反対を押し切って家を飛び出し、独自の華を手に入れようとした者。

 自分自身も含め、更文の周囲には、厄介な問題を抱え込んでいる者が多かった。だが、そういう人間は、間違いなく強い。それは、その通りだ。

 だが、そういう人間ほど──。

『でも、そういう人間ほど、自分でも気づかないうちに、精神をすり減らしている』更文の心を読んだかのように、クロエが言った。『自分で上手に息抜きをできる子ならいいわ。周りの誰かがあれこれと世話を焼いてくれる子も幸せね。だけど、自分自身を敵に仕立て上げ、自分自身と戦っているような子は、いつか唐突な終わりを迎えることになるのかもしれない』

 クロエはそう言うと、不意に、すぐ近くにある窓の外に目をやった。更文も釣られるようにして目を向けるが、そこには目隠しのために植えられた木が見えるだけで、他には何もないように思える。クロエはゆっくりと室内に視線を戻すと、言葉を続けた。

『目標を達成するための努力は必要不可欠よ。高い理想を掲げるのも結構だわ。でもね、この世界は、周りが見えなくなってしまったら、もうそこでおしまいなの。舞台は──いいえ、舞台にかぎらず、エンターテイメントの世界では、どれも同じことよ。高すぎる理想は身を滅ぼす。自分の実力を正しく理解する必要があるの。私が言いたいことの意味が、分かるかしら』

『……それは、あいつの視野が狭まってるって、そういう意味ですか?』

 更文がそのように言っても、クロエは意味深に微笑むばかりで、肝心なことは何も言わない。ただでさえ不慣れな英語を、正確に聞き取るだけで精一杯だというのに、相手の腹を探りながら会話をすることなど不可能に近かった。

 ふう、と小さく息を吐き出した更文は、テーブルの上のカップを取り上げる。コーヒーが飲みたいわけではなかった。ただの時間稼ぎだ。そう考えていることすら、この女性にはお見通しなのではないかと、そのように思ってしまう。

『彼女の問題は──』そう言って口を開いたのは、肘掛けに体重を預け、さほど興味もなさそうに辺りに視線を漂わせていた、レオナール・ゴダンだった。『この期に及んで、自らの才能を過小評価しているところにある』

『え?』

『以前ほど無自覚ではなくなった。ある程度は自分が特別であることを認めてはいる。だが、不思議なことに、彼女の周りには、ありとあらゆる多彩な才能が群がるように集まってくるんだ。彼女はその一つ一つの才能に触れるにつれて、こう思う──自分なんてまだまだだ、とね』

 この人たちは、一体何の話をしているのだろう──そう思ってしまうのは、英語に不慣れだから、ということだけが理由ではない。隣で話を聞いている美ツ騎の眉間には、深い縦皺がすっかり居着いてしまっている。

『私は、この先もあの子には伸びていってほしいと思っているのよ。でも、そのためには、周りの人間にも同じように伸びてもらわなければ困るの。そうしないと、あの子は間違いなく孤立することになる。舞台を一人で回そうとするか、それとも、自分のレベルを下げてでも、周りと合わせようとするか。いずれにしても、彼女が立つ舞台上には、間違いなく不和が生まれる』

 更文には、経験がある。

 だから、クロエ・ルーの言わんとしていることは、なんとなく分かった。

 立花継希卒業後の腑抜けのクォーツ──継希はユニヴェールを卒業すると、そのまま姿を消した。玉阪座に入門すると信じて疑わなかった憧れの人は、跡形もなく消え去り、その行方は杳として知れない。

 日本の法律では、行方不明になってから七年で、失踪宣告が可能になる。立花の家の申し立て次第では、立花継希は、法律上死亡したとみなされることになるのだ。継希に捜索願が出されたという話は聞かない。

 あの人がユニヴェールを卒業した七年後の朝、更文は短いメールを継希宛に送った。

 どうか、生きているのなら、帰ってきてください。

 だが、立花継希からの返信はない。

 立花継希は、戻らない。

 パートナーである継希の存在は、当時の更文にとって、眩しい光のようなものだった。家を飛び出し、何の後ろ盾もなくしたような気持ちでいた更文の、唯一の心の支えとなっていた。あの人は永遠に自分のそばにいて、この先もずっと、玉阪座という場所で踊り続けていくのだと、あの頃は確かに、そう信じていた。大好きな人だった。それは今も変わらない。

 あの人と組んでいるときは、舞台の上で迷うことなど一度もなかった。光の指し示す方向へと進んでいけば、自分は正しい道を選択しているのだと、そう確信することができた。

 だがしかし、あの人を失った瞬間、更文は自らの指針をなくし、暗闇の中に置き去りにされたような、そんな気持ちになっていた。あの頃の更文は、荒れに荒れていた。黒門に暴れ馬と称されていた、あの頃のことだ。

 あの頃の更文にとって、舞台上は孤独な場所だった。いつだって凍えるほどの寒気を覚えていた。暗闇の海原を進む一層の小舟の上で、身を震わせながら、失った光を求めて、一人、航行を続けていた。

『君のことを理解してくれる人は、もういないよ』

 ある日、アンバーからクォーツに転科してきた黒門がそう言った日のことを、更文は鮮明に覚えている。

 黒門は更文に、他者に理解を求めようとするな、理解してもらうための努力をしろ、と言った。難解な言葉は用いず、小学生にでも伝わるような表現を使え、と。今思えば、あの言葉がなければ、高科更文という役者はもうとっくに、消えてなくなっていたかもしれない。

 しかしながら、だからといって、更文の孤独感が拭われることは、決してなかった。この期に及んで、クォーツは自分が一人で背負って立っているのだと、そう思い込んでいたからだ。仲間のことを信じていなかったわけではない。ただ、自分が何とかしなければという、身勝手な焦燥感に駆られていたのだ。

 自分の演技力がもっと秀でていれば、歌唱力を鍛えれば、よりダンスに磨きをかければ──他者に何かを求めるよりも、自分がより高みを目指し続けていれば、きっと、皆はその後ろをついてきてくれるだろうと、そう思っていた。結果、更文の周りには人が寄り付かなくなり、怖い、などと言われる始末だ。

 目の前の嵐など物ともせずに舵を握る黒門と、荒波を切るようにして進む船首に立って風を威嚇する更文に、奇奇怪怪としか言いようのない二人を理解しようと努め、支えてくれていた介と、呆れながらも追随してくれた美ツ騎──だが、それだけでは足りなかった。

 高科更文の孤独を取り払ってくれたのは、立花兄妹だったのだ。

 あの二人は、更文に自由を与えてくれる、大きな翼だった。

 ユニヴェールに入学したとき、そこに立花継希という果てしなく高い壁が存在しなければ、更文はあまりの退屈さに辟易しながら、三年という月日を無駄に過ごしたかもしれない。だが、継希が与えてくれた表現の翼は、翌年にはもう、千切り取られるように、もがれてしまった。

 そして、舞台の真ん中に立つ者として、仲間を勝たせてやりたいという強い思いのまま、更文がたった一人で漕ぎ出した小舟を引き止めてくれたのは、立花希佐だった。あの美しい悪の華が、更文をクォーツという大船に連れ戻し、もがれた翼を針と糸で縫い合わせてくれた。

『あの子にはね、きっと、追いかけるべき背中が必要なのよ』下唇に指先を添え、クロエはゆっくりと口角を持ち上げる。『あの子の周りには、ありとあらゆる才能が群がってくる。まるで、演劇の神様がそのような采配をなされているのではないかと、そう思ってしまうほどにね。彼女が自分よりも優れた才能を追いかけているかぎり、その成長は止まらない。でも、自分自身が先頭を走っているのだと理解したその瞬間、あの子の心は、言い知れぬ孤独感に支配されることになるのかもしれないわ』

 先頭を走り続ける者の重圧は並大抵のものではない。肩に重くのし掛かる責任から逃れることもできず、期待という何枚もの衣を引きずって歩く。体はどんどんその重さを増し、足を前へ、前へと運ぶことすら、少しずつ困難になっていく。

 朝、目が覚めてまず確認をするのは、声が出るかということ。体のどこにも痛みはないかということ。覚えた台詞を呪文のように空で言いながら、昨夜の悩みは解決しておらずとも、今朝の思考は前向きであるかどうかを考える。今日も大丈夫だと確信するためには、随分と時間が掛かるのだ。

 自分の前に誰かがいてくれると、そこにはとてつもない安心感があった。自分が責任を負わなくて済むから、などと思っているわけではない。ただ、自らの声と、体と、覚悟を預けることができる相手がいるというのは、この上なく幸せなことだと思うのだ。

 この人のためなら、この人と一緒なら、どんなことだってできる──立花継希の隣にいたときは、ずっと、そんなふうに思っていたことを、更文は不意に思い出していた。

『まあ、当面の間は大丈夫よ。あの子の小さくて可愛らしい頭がひょっこりと飛び出してきたら、私が上から叩いておいてあげるわ。今は失うには惜しい才能だもの、上には上がいるって、分からせて差し上げないと』

 結局のところ、話の着地点が見えないまま、この話題は終わりのときを迎えた。更文と大して年齢の違わない、青い目をした黒人の青年が、クロエのことを迎えに来たからだ。

 その黒人の青年は、ホテルの従業員に連れられてラウンジまでやって来たかと思うと、真っ先にクロエ・ルーの元に歩み寄り、差し出された手を取って、騎士のように甲に口付けた。普通であれば、気障っぽく見えるはずのその行為が、驚くほど様になっていた。

『お迎えにあがりました、マダム』

『どうもありがとう』

 クロエはそう言って微笑むと、口付けられた手を自らの方に引き、一瞬だけ、小指の指輪に視線を向けたように見えた。しかし、すぐに顔を上げ、ゴダンの方に目を向ける。

『先生にもまだ紹介しておりませんでしたわね。彼は、フランシス・ルロワ。私の──そうね、息子と紹介しても、差し支えはないわ。ピアニストで、作曲家。最近は舞台や映画音楽も手掛けているの。お見知りおきくださいね』

 ゴダンは、フランシス・ルロワと紹介された青年に向かって、気安く「やあ」と声を掛けながら、軽く手の平を見せた。青年は、ゴダンに向かって恭しく目礼をすると、今度はこちらに目を向ける。

『フランシス、彼らはフミと──ねえ、私もそうお呼びして構わないでしょう? それから、ミツキよ。お二人は、キサが日本で通っていた演劇学校の先輩なの』

『そちらの方は前にヘスティアでお見かけしました』美ツ騎に向かって目を伏せて見せてから、ルロワは更文を真っ直ぐに見据えた。『どうぞ、よろしくお願いします』

『こちらこそ』

 その青い目には、不思議と人を惹きつける、特別な魅力があるようだ。クロエの青い目とは明らかに違う、今までに見たこともないその深い青は、脳に強烈な印象を植え付ける。一度目にしたら、もう二度と忘れないだろう。同時に、その色があまりに美しすぎて、恐怖のようなものも覚える。

『それじゃあ、私たちは他にも約束があるから、また夜にお会いしましょ』クロエはルロワが差し出す手に掴まって立ち上がり、更文たちに向かってそう口にしたあと、ゴダンに目をやった。『先生も、また後で。美味しいお酒をご馳走させてくださいな』

『僕は人にご馳走するのは好きだが、ご馳走されるのは嫌いでね。君の奢りで飲む酒は、特別に不味そうだ』

 それは冗談を言うような軽い口振りだったが、これまでの会話の流れを踏まえれば、ゴダンの本心であることが分かる。しかしながら、クロエは傷ついた様子など微塵も見せず、むしろ愉快そうに笑って見せると、三人に投げキスをしてから歩き去っていった。

『失礼します』

 にこやかな面持ちで礼儀正しくそう言ったルロワは、軽やかな足取りでクロエの後を追いかけていく。

「──」

 英語ではない言葉で何かを呟く声が聞こえ、更文がそちらに目をやると、肘掛け椅子に深く身を預けたゴダンが、何か思うところがあると言うふうな顔で、二人の背中を見送っていた。その眼差しが、燃え盛る炎すら一瞬で凍らせるのではないかと思うほど冷ややかに見え、更文は小さく息を呑む。

 だが、一度瞬きをしてみれば、良く知った人好きのする穏やかな表情が、更文と美ツ騎に向けられていた。

『嫌な女だったろう?』

 思わず、えっ、と漏れそうになった唇を、更文は真横に引き結ぶ。本人が目の前にいないとはいえ、素直に肯定することも、気軽に否定することも、正直なところ憚られた。

『僕は、性的嗜好が女性に傾かない人間だが、それでも、魅力的な女性には好意を抱くこともある。一人の人間として、その人間性に惚れ込むというやつだね。多くの人間の脳は彼女を魅力的であると判断するようだが』

 理解に苦しむと言わんばかりのゴダンの顔を見やりながら、更文は口にすべき言葉を探していた。

 当たり障りのない言葉を口にすることは容易いが、自分なりによく考えた言葉を述べなければ、この人からの評価は永遠に、地の底から這い上がってくることはないだろうと感じた。

『俺は、表現の道に熱心な方だと、素直にそう思いました』更文の言葉を聞いて、ゴダンは微かに眉を持ち上げる。『それと、希佐のことを、本当によく考えていらっしゃるのだなと』

『確かに、彼女はあの子のことを痛く気に入っているようだね』

『俺たちが希佐の関係者でなければ、見向きもされなかった』

『ああ、それはどうかな』ゴダンはそう言い、皮肉っぽく笑った。『彼女は美しいものに目がないんだ。君たちは彼女のお眼鏡に適ったのだと思うよ』

『俺たちの商売道具が正しく評価されて嬉しいです』

『僕は嘘吐きが嫌いなんだ』

 まあ、嘘吐きが好きだ、なんていう人間はあまりいないだろうが──ゴダンはそう言うと、ふう、と大きく息を吐き出し、膝の上の新聞を掴んで椅子から立ち上がった。

『場の空気を悪くしてしまったお詫びに、コーヒーのおかわりをご馳走しよう。それとも、何か別の物にするかい?』

『あの、それなら僕が行きます』

『言ったろう? 僕は人にご馳走するのが好きなんだ──』

 ゴダンは更に何かを言いかけるが、誰かがラウンジに入ってくる気配を感じ取り、反射的に口を噤んだようだ。ゆっくりと振り返ったその視線の先には、たった今出先から戻ったところらしい、東雲の姿があった。

「フロントで預けていた鍵を受け取っていたら、ラウンジに待ち人がいると聞かされたので」

「お疲れさまです、東雲さん」

「荷物を置きに戻ってきて正解でしたよ。若がべそを掻いているんじゃないかと心配で、そのままパブに直行しようかどうか迷っていたんですから」

「まあ、べそは掻いていたかも」

「なんです? 早速誰かに虐められたりでもしたんですか?」

「荒手のナンパをされました」

「若、顔だけは良いですからねぇ」

 東雲と入れ違いに、ゴダンは唇に人差し指を立ててから、黙ってラウンジを出て行った。隣にいる美ツ騎は、緊張の糸が切れたような顔をして、肩の力を抜き、ほう、と息を漏らしている。

「え、荒手のナンパって、もしかして今のおじさんが何か関係してます?」

「違いますよ」苦笑いを浮かべる更文を見てから、東雲は後ろに仰け反るようにして廊下を覗き込み、ゴダンの動向を伺っていた。「そんな失礼なことを、本人に面と向かって言わないでくださいよ、東雲さん。あの人が、レオナール・ゴダンです」

「あっ、なんだ、そうなんですね」

 警戒するようにぎゅっと寄っていた眉間の皺を瞬時に解き、東雲は誤魔化すようににっこりと笑った。

 他に人気のないラウンジに入ってきた東雲は、二人がいるテーブルまでやって来ると、つい先程まで稀代の大女優が座っていた椅子に、静かに腰を下ろした。

「白田くん、若のお守りをしてくれて、本当にありがとうございます」

「いえ、なんていうか、フミさんのおかげで、とんでもない経験をさせてもらっているので」

「とんでもない経験、ですか?」

「東雲さんが座っているその席に、ほんの数分前まで、誰が座っていたと思います?」

「誰って──」東雲は僅かに言い淀んでから、至って平然と続けた。「ああ、もしかして、クロエ・ルーですか?」

 ホテルの前に到着したとき、大勢のパパラッチにカメラを向けられているクロエ・ルーの姿を見たのだと、東雲は言った。クロエはにこやかに手を振りながら、黒人の青年と二人でタクシーに乗り込み、走り去ったそうだ。

「ちらっと見ただけですけど、相当な美人でしたね。あ、大丈夫ですよ、若だって負けていません」

「世界的な大女優と競うつもりなんてありませんよ」

「そうですか? まあ、東雲は外見より内面重視の人間なんで、別にどうだっていいんですけどね」

 現当代、高科二千奥が東雲を隣に置きたがる理由の一つが、これだ。東雲は外見というものにまるで左右されない。人の顔色を伺うことに長けているので、相対する者の良し悪しや、生きていれば誰しもが思い描くであろう下心というものを、なんとなく感じ取ることができるらしい。

「そういえば、今日ご挨拶に伺った劇団の座長も、今夜のチャリティーステージを観に行くとお話ししていましたよ。知り合いが出演するとかで」

「今日のうちにお会いできるなら、俺からもご挨拶をしておきたいです」

「もちろん、うちの自慢の若を紹介すると言っておきましたから、そこのところは東雲に任せてください」

 それから程なくすると、ゴダンがトレイを抱えて戻ってきた。トレイに乗せられた四つのカップのうち、二つはコーヒーで、残りの二つは紅茶だ。ゴダンはテーブルの上にトレイを置くと、美ツ騎の前に紅茶のティーカップが移動するように、それをくるりと回転させた。

『好きなものを取って構わないよ。僕は残り物をいただくからね。君もどうぞ』

『ありがとうございます』東雲は何の遠慮もなく、コーヒーカップに手を伸ばした。『いやあ、高名な映画監督からコーヒーをご馳走になるなんて、良い土産話になります』

『レオ、こちらは東雲雅也さん。俺の──家族です』

 どのように紹介したものかと考えあぐねた挙げ句、苦肉の策として更文がそう称すると、東雲は意外にも驚いた顔をしてこちらに目を向けた。だがしかし、すぐににんまりと笑ったかと思うと、その場に立ち上がってゴダンに握手を求めた。

『昨日から、うちの更文が大変お世話になっております。血は繋がっておりませんが、私は彼の兄弟子、東雲雅也です。呼びにくいと思いますので、私のことはマサとお呼びください』

『では、僕のことはレオと』ゴダンは機嫌良く東雲の手を握った。『フミの兄弟子ということは、君も日本舞踊を?』

『下手の横好きというやつですが』いい加減なことを言うなと思いながら、苦笑いを浮かべる更文を横目に一瞥し、東雲は穏やかに続ける。『日本大使館主催の催しで、彼と一緒に日本舞踊を踊る予定もあるので、興味がおありでしたら、是非いらしてください』

『それは面白そうだ。またとない機会だから、スケジュールの中に捩じ込んででも伺うよ。連絡先を交換してもらえるかい?』

『ええ、もちろん』流れるように連絡先の交換に至った二人の姿を眺めながら、更文は思わず微苦笑を浮かべた。『では、大使館には私から話を通しておきますね』

 彼は世界のどこに行っても、どんな人にでも好かれる人間ですから──一助がそのように話していたのを、更文は今更ながらに思い出していた。だからと言って、出会ってほんの数分で、世界的に有名な映画監督の連絡先を手にいれる要領の良さは、一助にとっても想定外に違いない。

『実は、もうすぐ僕の写真を展示する個展を開くんだ。でも、お客さんが来てくれるかどうかが心配でね』

『ロンドンには一ヶ月ほど滞在するので、その期間内でしたらお伺いできると思いますよ。あっ、写真の個展ということは、ポストカードの販売とかもされたりしますか? 先生に旅先からお手紙を書くって約束をしたんですけど、ふらふらーっと立ち寄った雑貨屋にあるポストカードは、どれもありきたりで』

『一枚売りからあるよ。他にも、五枚と、十枚セットがあったかな。良ければ僕からプレゼントするけれど』

『いえいえ、私も良い大人なので、自分が欲しいものは自分のお金で買わせてください』

「……東雲さんって、すごい人ですね」感心しているような、反面呆れているようにも聞こえる口振りで、美ツ騎がそう漏らした。「僕なんて、ここ数日の出来事が現実だって受け入れることだけで精一杯なんですけど」

「俺も似たようなもんだよ」

 この仕事をしていると、愛想笑いばかりが得意になって、時々、本当の笑い方を忘れてしまいそうになる。どんなにつらいときでも、人前に出れば、カメラのレンズを向けられれば、舞台の上に立てば、本当の自分ではない誰かを演じているような、そんな気持ちになることがある。

「若は難しく考えすぎなんですよ」

 ある日、笑顔の仮面を貼り付けたまま実家に帰ってきた更文を、東雲が偶然、玄関先で出迎えたことがあった。東雲は、そんな更文の顔を見て散々笑い転げ、大粒の涙をこぼした末に、こう言った。

「誰彼構わず愛想を振り撒く必要なんて、これっぽっちもないんです。誰かの理想像のために自分自身を殺していたら、命が幾つあっても足りませんからね。若みたいなタイプは、多少冷めた一面を見せてあげた方が、ファンの皆さんも喜ぶってものです。そもそも、若は根が不良なんですから、無理に優等生ぶっていたら、いつかボロが出ちゃいますって」

 家族の誰もが、ユニヴェールの公演を観に来ない中、東雲だけが、一年の新人公演から欠かさず、劇場に足を運んでくれていたことを、更文は知っている。公演後に届けられるガーベラの花束にはいつも、差出人の名前のないメッセージカードが添えられていて、小さな文字でみっちりと、ダメ出しが書き込まれていた。

 自分は、どんなに頑張っても東雲のようにはなれないだろうと、更文は思う。自分は本来、誰かのために何かをしてやれるほど、器用な人間ではないと思うのだ。結果的に助けになっていたということは数あれど、自らを犠牲にしてまで誰かを助けてやろうとしたことは、ほとんどないように思う。

 先頭に立って走り続けていたら、いつの間にか、一緒に走ってくれる仲間が増えた。勝手なことばかりをする自分を許し、受け入れ、認めてくれる人がいるからこそ、舞台に立ち続けることができている。

 誰かのために、何かをする。

 自らの身を粉にしてでも、その誰かのために尽くしたい。

 一生に一度でも、そんなふうに思える日が来るのだろうかと、更文は考える。東雲が父を慕うように、自分にもいつか、この人のためなら自らを犠牲にしても構わないと、そう思える日が来るのだろうか。

「あれはもう相思相愛ですから」

 ご贔屓さんに「お二人は焼き餅など焼かれないのですか?」と冗談混じりに問われたとき、更文の隣に立っていた一助が、穏やかな笑みを浮かべながら、そう言っていたことを覚えている。

 実の息子よりも共に過ごす時間が長く、何事も阿吽の呼吸で乗り切る二人の関係は、酷く特別なものだ。

「それに、私たちは幼い頃から、それこそ三人兄弟のように育てられてきました。まあ、そうですね、正直なところ羨ましいと思うことはありますが──ああ、今の言葉は、ここだけの話に留めておいてくださいますか? どうか、ご内密に」

 今まで、家のことは兄や兄弟子に任せきりだった。今回の渡英の話が丸く収まったのも、実家からの口添えがあったからだろう。両親が安心して更文を送り出せたのも、東雲の存在があるからだ。

「三ヶ月って結構なものよ」私は競争相手が減って嬉しい限りだけれど──忍成司は冗談っぽく言っていた。「あなたが次に戻ってくるときにはもう、ここの景色はまったく違ったものになっているでしょうね」

 それは季節の話であり、空の色であり、舞台や、そこに立つ人間の話でもあるのだろう。イギリスでの仕事を終え、日本に帰ったとき、そこに自分の居場所が残っているかどうかは分からない。

 玉阪座の舞台は毎日回るのだ。

 たとえ、高科更文という役者がおらずとも。

 

 

 

 そこに足を踏み入れた瞬間、根地黒門の脳裏には、幼い頃の記憶が呼び起こされていた。

 そうだ、まだ父が生きていた頃、母には内緒で──内緒とは言っても、十中八九気づいていたのだろうが──連れてきてもらっていた劇場も、丁度こんな感じな場所だった。いや、厳密に言えば、こんなに立派な劇場ではなかったし、こんなに広くもなかったが、そこに漂う雰囲気と空気感が、とても良く似ているように感じられた。

 多種多様な役者たち、台詞を読み上げる声、ステップを確認する足音、どこからか聞こえてくる歌声──何かの確認を求める声に、少し気怠げな声が応じている。

 ああ、そうだ。

 これが、劇団の、本番前の空気感だった。

 裏方さんだけではなく、自分たちの手で本番に向けて作り上げていく舞台は、何物にも変え難いものだと、父は言っていた。大きな劇場では得難い経験と、感動を手にすることができると、そう話していたことを思い出す。

 ウエスト・エンドやブロードウェイで人気を博す作品の中にも、当初はこうした非商業地区で、フリンジの舞台としてはじまったものも多くある。日本ではほとんど考えられない、夢物語だ。

 非常に残念なことではあるが、近年では少しずつ注目を浴びる機会が増えているとはいっても、日本の演劇文化は、そこまで脚光を浴びている世界ではない。

 それでも、玉阪の町に暮らしていると、どうしても錯覚してしまうのだ。日本中の人々が、あの町に住む人々と同様に、舞台に、演劇に、歌劇に理解があり、熱狂してくれているのではないかと。

 だが、実際のところは違う。どれだけ実力のある舞台役者がいようと、演技力が微妙な見目麗しいテレビのタレント俳優の方が、圧倒的に人気があるし、知名度だって高い。

 また、人気というものは、時の運によって得られることもある。

 百年に一人という才能豊かな逸材も、デビューのタイミングを見誤れば、目の前のチャンスを棒に振り、以降二度と日の目を見ることはないという事実は、確かにある。ここはそういう世界だ。

 舞台の真ん中に立ち続けることのできる人間はほんの一握りだけ。新星のように現れた綺羅星のような役者だって、その輝きを失わずにいられるかどうかは、本人の持って生まれた才能以上に、努力を惜しまずに邁進し続けることが出来るかどうかに掛かっている。

 求められ続けること──この世界では、それが何よりも難しい。

 立花希佐は、ユニヴェールで舞台に立ち続けたあの三年間、常に人々から求められ続けていた。公演ごとに精巧な仮面をつけかえ、すべての舞台でまったくの別人を演じ分けてみせた。

 立花希佐といえば──という、代名詞になるような役が、一つもない。それぞれが、ぞれぞれの中に、自分だけの立花希佐の姿を持っていた。ある者は村娘、ある者はシャルル、ある者はシシア──これほどまでに、好きな役が割れる役者は少ない。

 立花希佐という役者に魔法をかけられる人間は自分だけだという自負が、根地黒門にはあった。だから、自身が卒業後も、78期生たちがユニヴェールを卒業するまでは、クォーツの脚本に手を貸し、口を挟み、ときにはかつての学舎に出向いて、演出や演技指導を行うこともあった。自分が卒業をしても後輩は可愛いし、クォーツにはクラス優勝をものにしてほしいと思っていた。そして、立花希佐には、いつまでも輝き続けていてほしいと、そう心から願っていたのだ。ユニヴェールを卒業した、その後も。

「あ、キサ!」劇場の隅の方で、見知らぬ誰かが立花を呼びつけた。「ごめん、ちょっと冒頭のステップの確認に付き合ってくれないか?」

「もちろん、いいですよ」

 傍に立っていたアラン・ジンデルと話をしていた立花は、その腕にそっと、優しく触れてから、自分を呼びつけた者たちの方へと駆けていった。

「アラン」

 先程、二階から大声でアラン・ジンデルの名前を叫んでいた少年──いや、童顔なだけで青年だろうか、その人物が難しい顔をしながら歩み寄ってくる。

「配線、今から全部やり直しだよ」

「なんで」

「どっかのお馬鹿さんが、照明の配線を、端から端まで、ご丁寧にぜーんぶ引っこ抜いてくれたから」

 まったくもう、とため息を吐いている青年の隣には、肩を落として意気消沈している者の姿がある。その青ざめた顔をしている者を見てから、ジンデルは再び青年に目をやった。

「なんで」

「なんでって、僕は本番前に照明の配線を見直す必要があるって、そう言っただけなんだけど」

「ノアは説明不足で、君は確認不足だったってことだろ」ジンデルがそう言うと、ノアと呼ばれた青年は微かにムッとした面持ちを浮かべ、唇の先を尖らせた。「時間はまだあるから、焦らずやって。他の確認作業が済んだら、俺もすぐに行く」

「そうしてもらえると僕としては助かるけど、自分たちのことは? キサなんて他人の手助けばっかりしてるし、君は君で舞台全体を見ないといけないし、自分たちのリハもまともにできてないでしょ」

「キサのことはキサに聞いて。俺は、まあ、今更慌てたところで、もうどうにもならないから」

「お客さんだけじゃなくて、僕たちだって楽しみにしてるんだから、中途半端なものを見せないでよね」

「善処する」

 青年は、ジンデルの胸の辺りに自らの拳を押し当てると、傍らのスタッフを引き連れて、舞台袖の方へと姿を消した。アラン・ジンデルは、自らを呼ぶ声に軽く手を上げて応じて見せてから、徐に黒門を振り返った。

「キサならすぐに戻ると思うけど、邪魔をしない範囲でなら、好きに見て回って構わない。うちの劇団の連中なら比較的暇そうにしてると思うから、何かあったら声をかけて。アタルとダンテなら──向こうにいる」

 ジンデルは黒門が何か言うのも待たず、ゆったりとした足取りで、その場を離れていった。実際、本番前の焦りなど微塵も感じさせない雰囲気で、酷く落ち着き払っているように見えた。次々と確認をしにやって来る人の流れを見ていると、彼が今夜のステージの全責任を担っていることは、すぐに察することができた。

 玉阪座に入門してからは、ほとんどが分業制で、ユニヴェールにいた頃のように、施設内のあちこちをあくせく走り回る、ということはなくなっていた。級長として、脚本家兼演出家として全責任を負っていた黒門は、ほとんど眠る暇もないほどに、ユニヴェールの舞台に没頭していた。

 だが、玉阪座に入ると、脚本や演出だけに集中できる環境を手に入れた。そのように計らってくれている。もちろん、役者として舞台に立つこともあるが、根地黒門に求められているのは、脚本や演出の才であることも自覚していた。舞台の音楽や衣装に口を出すこともあるにはあるが、大抵は外注をするという選択に落ち着く。当然だが、ユニヴェールの外には、男女を問わず、才能豊かな人々が大勢存在していた。

 女性よりも、男性の方が優れていると、そのようには思わない。だが、肉体の構造が違う以上、そこには明確な差が存在するとは思っていた。

 例えば、妊娠するのは女性だけだ。たとえ妊娠できたとしても、男性では出産の痛みに耐えられず、あまりの激痛に絶命するという話をどこかで聞いたことがある。それが事実であるかどうかは分からない。だが、身体的特徴に違いがある以上、それぞれを平等に捉えることは難しいように思う。

 そもそも、男女に何の違いもなく、すべてにおいて平等だというのなら、ユニヴェール歌劇学校が男子校であることや、男性だけで作り上げられる歌劇には、何の意味も、価値もない。男性だけの世界で、男女を演じ分ける歌劇を作り上げる──だからこそ、ユニヴェール歌劇は特別だった。

 だから、これは差別ではない。

 区別なのだと、もう何度、自らに言い聞かせてきたか知れない。

『それが男だろうが女だろうが関係ねぇのさ。目の前に才能ある若者がいたら、手を差し伸べたくなるのが世の常ってもんだろうが』

 ユニヴェール歌劇学校の校長、中座秋吏は、才能ある若者ならば男女を問わず評価されて然るべき、という考えの持ち主だ。もちろん、黒門もその考えに異論はない。

 だがそれは、ユニヴェールの外に限ってのことだ。ユニヴェールに女子生徒を受け入れるという話ならば、猛反対する準備がある。たとえ革新が必要なのだとしても、それが、連綿と築き上げられてきた伝統を、打ち崩して良い理由にはならないと、黒門は思うのだ。

 一人取り残された黒門は、劇場内をゆっくりと見回した。

 目の色、髪の色、肌の色の違う、様々な人種が一同に介すこの空間は、どちらかというと閉鎖的な国で生きてきた黒門の目には、どこか異質に映り込む。だが、ここでは、これが日常だ。声質、身体的特徴、特に見た目の華やかさは、日本人にはないものがある。パッと見るだけで感じるのは、日本で活動している同世代の役者よりも、明らかにレベルが高く、洗練されているということだった。

 もちろん、日本人が彼らに比べて劣っているという意味ではない。だがしかし、ユニヴェールで酷く恵まれた濃密な三年間を過ごし、今も尚、玉阪座で学び続けている自分たちですら、きっと、この才能たちの中では埋もれてしまうのではないかと、黒門はそう思った。

 ゆっくりと歩を進めていれば、舞台の丁度真ん前まで来たところで、加斎中とダンテ軍平に出会った。ダンスの合わせを行なっていたらしい二人は、黒門が目の前を通りかかると、あ、と声を上げる。

『根地先輩!』加斎がそう声を上げると、その正面で椅子の背もたれを前にして座り、ダンスを見ていた男が小さくため息を吐いた。「ごめん、バージル。ユニヴェールの先輩なんだ」

「喋りながら踊れ」

「五分──ああ、いや、三分だけ」

「分かったよ」

 すらりとした体躯の男は、そう言って椅子から立ち上がると、ケータリングのように用意されている飲み物を取りに、壁際のテーブルの方に歩いて行った。一緒に踊っていたもう一人の青年も、それを追いかけていく。

『お久しぶりです、根地先輩』額から滴るような汗を、Tシャツの裾を引っ張り上げて拭いながら、加斎が言った。『お一人ですか?』

『フミと白田くんは一度ホテルに戻ったよ』

『そうなんですね』ふう、と呼吸を整え、加斎はどこか嬉しそうに笑った。『海堂先輩から、根地先輩と高科先輩がロンドンにいらっしゃるとは聞いていたのですが、こうして外国で実際にお会いすると、何だか不思議な感じがしますね。立花にはもう会われたんですか?』

『ああ、彼が──いや、彼女がここに連れて来てくれたんだよ』

 今度ばかりは嫌味でも何でもなく、ただ純粋に言い間違えた黒門を見て、加斎はどこか複雑そうな表情を浮かべている。

 すらりとした体躯の男性は、水の入ったペットボトルを加斎とダンテに向かって放り投げると、再び椅子にどっかりと座り込んだ。ボトルと蓋を捻るようにぐるりと回して開け、酷く美味そうに水を飲む。

『確か、アタルが希佐を一番最初に見つけたのデシタね?』受け取った水をごくりと一口だけ飲んだ後、ダンテが思い出したように言った。『もし僕が彼女の第一発見者だったら、運命の再会と思って、一瞬で恋に落ちていたかもしれません』

『立花を逃亡犯みたいに言うなよ』でも、そうだね──そう言いながら、加斎は少しだけ不敵に笑った。『僕も運命の再会だとは思ったよ。僕がウエスト・エンドに来たのは偶然だったし、あの日だって──』

「申し訳ねぇけどさ、そうやって目の前で日本語ばかり使われると、こっちとしては気分が悪いんだよなぁ」

 それは冗談めかした口振りではあったが、目が笑っていないようにも見受けられる。それを目の当たりにしたダンテは、ふふ、と愉快そうに笑い、加斎は汗に濡れた前髪を掻き上げながら、苦笑いを浮かべた。

「すみません、バージル」それはどこか、宥めるような物言いにも聞こえた。「この方は、ユニヴェールの二期上の先輩で、根地黒門さんです。根地先輩、こちらはバージル。立花が所属している劇団カオスの役者──あ、いや、タップダンサーと紹介した方がいいですか」

「俺はただの数合わせの賑やかしだよ」

「ちょっと、何言ってるんですか。タップダンス界の至宝だとか言われているくせに」

「お前な、一体いつの話をしてるんだ? 五年? 十年前か? そんなもんは昔の話だろ」

 バージルと紹介された男は、すっくと立ち上がり、黒門の前までやってくる。流れるように差し出された右手を、黒門は反射的に握り返していた。そうしようと意識したのではない。気づいたら、その手を取っていた。そのように表現するのが、一番近いと感じた。

「俺はウィークエンドレッスンが好きだったな」

『……え?』

「いや」バージルはそう言って頭を軽く左右に振ってから、にっ、と人懐っこく見える笑顔を見せた。「バージルだ」

「黒門、です。根地、黒門」

「コクトが名前? それって本名か? 親はジャン・コクトーの崇拝者か何か?」

「本人に直接聞く機会には恵まれませんでしたが、可能性は否定できませんね。僕自身は、ジャン・コクトーのファンですし、この名前を気に入っています」

「奇遇だな。俺も自分の名前を気に入ってる」バージルは黒門の右手を大きく二度上下させてから、パッと手を離した。「キサは──っと、向こうの連中に捕まってるのか」

「ステップの確認がしたいって言っていたのに、バージルがそれを後回しにするからですよ。僕たちは僕たちでやるって言ってるのに」

「お前らに任せると仕上げが雑になるから、俺がこうやって見てやってるんだろうが」

「雑だなんて失礼だな。ちょっとした遊びですよ、遊び」

「俺の振り付けで遊ぼうなんて、お前たちには十年早いんだよ」

「なーんだよ、バージル」長髪を高い位置でだんご状に結い直しながら、バージルと一緒に離れて行った青年が戻ってきた。「そんな意地悪言うなって。それ、キサにも同じことが言えるわけ?」

「お前ら、自分たちが俺の愛弟子と肩を並べられるとでも思ってんのか?」

「ホント、バージルは希佐にだけは甘々なんデスから。妬けますねェ」

「んだよ、たかだかタップダンス歴数ヶ月の差だろ?」

「あのな、俺以外の誰かに教わったやつと、この俺にみっちり教わったやつの間には、雲泥の差があるに決まってるだろうが」

 ほら、口を動かしている暇があるなら、体を動かせ──そう言って、バージルはスマートフォンを片手に、三人に頭から踊るようにと命じている。スピーカーからは、カルメンのジプシーの踊りが聞こえていた。

 フラメンコは基本、歌とギターとダンスで成り立っている。ジプシーの踊りの名の通り、スペインのロマが、フラメンコの歴史において重要な役割を担っていると言われているが、その起源は未だに定かではないらしい。

 フラメンコは、情感的な歌と情熱的なダンスで表現される。力強いが、繊細で、見る者の心に直接訴えかけてくるような、感情の機微というものが感じられる踊りだ。人生の喜び、悲しみ、苦しみ──言葉が分からずとも、視覚から伝わってくるものがある。

 このジプシーの踊りの振り付けは、そういった情熱性を帯びたものではなく、見栄えを重視したエンターテイメント性に表現が傾いていた。要は、舞台を彩る飾りのような役割だ。必ずしも必要というわけではないが、演出としては必要不可欠だろう。

 今夜のステージは、オペラが主体となっているのだろうか──そう思いきや、別の場所では、ミュージカルソングに合わせて振りの確認が行われている。

「──よし、いいだろう」バージルのその一言に、三人は顔を見合わせて、ほっと安堵の息を吐いていた。「おい、キサ!」

「はーい!」

「人にばっかりかまけてる場合じゃねぇぞ。お前にだって問題点はまだ山ほどあるんだ」

「分かってる。でも、あと五分待って」

「五分経っても終わらなかったら首根っこ捕まえに行くからな」

「これ、元々はハージルの仕事のはずなんだけど?」

「あ? なんだって? 聞こえねぇなぁ」もうっ、と怒ったように言う立花に向かって笑いかけたかと思うと、バージルはすぐ後ろを振り返った。「イライアスも、そんなところでぼーっとしてねぇで、こっちに来い」

 レオナール・ゴダンに連れられて、このヘスティアにやって来たとき、ステージに立っていたのがイライアスという名の青年だった。

 先程紹介を済ませた後に、立花と話をしている様子を見ていたが、二人は酷く親しい間柄のようだ。僅かに頬を紅潮させ、些か高揚した様子で話をしている姿からは、生き生きとした雰囲気を感じ取ることができた。

 それなのに──と、黒門は思う。

 劇場の隅の方で椅子に腰を下ろし、ぼんやりと宙を眺めている姿からは、先程までの快活な部分が一歳感じられなかった。

「少し待ってあげてくれない?」アイリーンと名乗ったあの女性が、イライアスの傍らに立ち、手にしたハンカチで甲斐甲斐しく風を送ってやりながら言った。「この子、頭が熱暴走を起こしているのよ。処理が追い付いていないみたい。今のうちによく冷やしておかないと、いつも以上に話が通じなくなるわよ──って、あ、ちょっと、イライアス!」

「……僕、顔洗ってくる」

 どこか覚束ないようにも感じられる足取りで、劇場を出て行く背中を見やりながら、バージルは呆れたように「何をやってるんだか」と言って頭を掻いていた。加斎はそれを見て笑うと、再び黒門に目を向けた。

「イライアスは確か、根地先輩方と同い年だったと思いますよ。子供の頃からバレエを習っていて、世界的なコンテンポラリーのコンクールでは、優勝したこともあるそうです」

「優勝したこともある、なんて生温い言い方は正しくないな」そう言ったのは、長髪の青年だった。「イライアスは、ロンドンじゃ同世代の中でも頭一つ抜きん出た存在なんだよ。歌や演技が微妙だって言うやつは多いけど、たとえそれが事実だったとしても、あいつのダンスはそれを差し引いても余りあるレベルの高さだ。とあるミュージカルカンパニーのプロデューサーが、あいつに主役の椅子を蹴り飛ばされた挙げ句、代わりの役者を見つけられなくて、話そのものが頓挫したってさ」

「あれは、オーディションの最終審査まで残った別の役者を引っ張ってきたって、そういう話じゃなかったか?」

「それじゃ納得できなかった」バージルの横槍に、青年は大きく肩をすくめた。「可能ならイライアスのスケジュールが空き次第、もう一度企画をやり直したいって話らしいけど。でもあれだろ? その話を蹴ってまで手に入れた次の舞台の契約が、あまりに酷いって噂でさ」

「酷い契約って?」

「それが──」

「やめとけよ」そこへ加斎が首を突っ込もうとするものの、バージルの声が微かに厳しさを帯びる。「それを承知の上で契約したんだろ」

「でも、あれじゃまるで──」

「リオ」

「……分かった」

 この世界は才能の奪い合いだ。役者は次々とオーディションを受ける。椅子取りゲームのような日々を過ごし、望まれた者から順番に、一人、また一人と姿を消していく。

 自分だけの椅子を手に入れたと喜んでも、実際には、想像と違っていたと思うことはあるものだ。この椅子にぴったりの役者を見つけたと思っても、他のカンパニーに横取りされるなんてことは、よくある話だと聞く。

「んじゃ、オレらはダンテがアイリーンを口説こうとしに行く前に、クローディアお嬢様のご機嫌を取りに向かうとしますか」

 今まさに、アイリーンのいる方に爪先を向けようとしていたダンテの肩に腕を回し、ほとんど頭を抱え込むようにして、リオと呼ばれた長髪の青年は反対方向に歩き出す。ああ、と残念そうに声を上げたダンテを見上げて苦笑いを浮かべた加斎は、黒門に向かって丁寧に会釈をしてから、その後ろを追いかけていった。

 うちの劇団の連中なら比較的暇そうにしてる──アラン・ジンデルはそのように言っていたが、少なくとも、このバージルという男や立花は、誰よりも忙しそうにしている。

 どこか他の場所を見て回ろうか──黒門がそのように考えていると、椅子の背もたれを前にし、そこへ身を預けながらこちらを見ていたバージルが、徐に口を開いた。

「あのさ」

「はい」

「あのサラフミってやつ、キサの昔の男なんだろ?」

「……」

「ああ、いや、別に返事は求めてないんだ」バージルは至って軽い口振りだった。「うちの主宰は気難し屋だからな、キサの昔の男が目の前に現れたら、口では大丈夫だって言ってても、そりゃ内心気が気じゃなくなるだろうなって考えてたんだけど、案外平気そうで安心してたんだよ」

 両腕の上に伏せていた体を起こし、ぐっと背中を伸ばしてから、バージルは背もたれに頬杖をついて、黒門を上目遣いに見た。

「でもあいつ、あんたのことは好きじゃなさそうだな」まるで天気の話でもするように、そのようなことを言う。「あんたも本を書いたり、演出したりしてるって話だし、同族嫌悪かと思って見てたけど、アラン・ジンデルとはまるでタイプが違う」

「出会ってまだ──十分程度ですけど、随分明け透けな人なんですね」

「あ、悪い、気を悪くしたか? 俺自身は別にあんたに悪印象があるってわけじゃねぇんだ。でもまあ、偏った物の考え方になるのは許してくれよ。あんただって同じだろ?」

「どうしてそう思うんです?」

「なんだよ、自覚なしか」バージルは拍子抜けしたような顔をして、小さく肩をすくめる。「俺は身内にはすこぶる甘いんだ。あいつは俺の可愛い弟子でもある。あまり虐めてくれるなよってことだ」

「彼女は頼りにされているんですね」黒門が、仲間たちと熱心にステップの確認をしている立花の方を見遣りながら言うのを、バージルは黙って聞いていた。「それに、とても愛されている」

「それが許せねえって顔だな」

 咄嗟に否定の言葉が口をついて出ない辺り、それが事実だと認めているようなものだろうと、我がことながら黒門は思った。

「日本にいた頃だってそうだったんじゃねぇのか?」

「ええ、そうでしたよ」

「人の本質ってもんは、そう簡単には変わらねぇもんだ」

「でも、あれからもう五年もの月日が過ぎ去ったんだ。彼女の思い出は美しく昇華したのかもしれないけれど、僕たちの思い出は、ぐつぐつに煮詰まって、鍋底に焦げ付いてしまっている」

「勝手だな」バージルはそう言いながら鼻で笑った。「なあ、知ってるか? 人には自由に生きる権利ってもんがあるんだ。何かをするのに誰かの許しを得る必要なんかねぇの。好きなときに、好きな場所へ、好きなように行っていい。それを引き止める権利は、自分以外の誰にもねぇんだよ」

「それは立花くんのことを言っているんですか?」今度こそ、咄嗟に、その言葉が口をついて出た。「失礼。ただ、あなたが自分自身のことを語っているように聞こえたもので」

「ふうん」

 一転、そのような相槌を打ちながら、酷く興味深いものを観察するような眼差しで黒門を見ていたバージルだったが、不意に、視線を横に滑らせた。黒門が反射的に後ろを振り返ると、そこには白銀の髪の先から、ぽたぽたと水を滴らせているイライアスの姿がある。

 水も滴るなんとやらとはよく言ったものだが、まるでギリシャ彫刻のように完璧に整った端正な横顔には、思わずぞっとするような美しさがあった。

 イライアスは、黒門の隣に並ぶようにして立つが、こちらには一瞥もくれなかった。

「よかったな、うまくいって」

「そう思う?」

「ああ。今朝のうちにケツを叩いてやった甲斐があったよ」

「僕には難しい課題だった」

「お前は感覚で踊るくせに、ダンス自体は理屈っぽいからなぁ」

「バージルみたいにノリでは踊れない。今回はそれが身に染みて分かった」

「多少なりとも実りある結果を得られて、それでお前が満足してるってなら、俺からはもう何も言うことはない」

「……それ、含みのある言い方だけど」

「そう感じるってことは、お前自身にはもう既に次の課題が見えていて、この先何をするべきかってことも分かりはじめてるんだろ?」

「まあ、うん」

「よかったじゃねぇか」

 バージルはそう言って気持ち良く笑うと、椅子から立ち上がり、イライアスに歩み寄った。水に濡れた頭を少しだけ乱暴に撫でられれば、イライアスはどこまでも面倒臭そうに、その手を払い除けている。

「あっ、バージルに褒めてもらってる」イライアスから拒絶され、それでも面白そうに笑っているバージルを見て、ステップの確認から戻ってきた立花希佐が、羨ましそうにそう言った。「いいな」

「お前のことだって褒めてやっただろうが」

「バージルには何度褒められたって嬉しいんだ」

「こいつは嬉しくねぇみたいだけどな」

「イライアスは照れてるだけだよ」

「照れてない」

「素直じゃねぇなあ」

 ふと、脳裏に過ったのは、ユニヴェール時代のことだ。

 76期から78期が過ごした、あの黄金色に輝いていた、夢のような一年間。高科更文と白田美ツ騎、立花希佐が仲睦まじく戯れ合っていた姿が、まるで昨日のことのように思い出される。

 ここ最近、脳裏を過るのは、ユニヴェール時代のことばかりだ。

 こうして話をするにも、優先すべきは今の仲間たちで、根地黒門の存在は二の次、三の次だ──そう思うと同時に、頭の片隅では、自分は彼女に優遇されたかったのだろうかと、無駄な思考に容量を使っている。

 そういえば、何年か前にも、似たような思考に支配されたことがあったような──黒門が表情のない顔で物思いに耽っていると、一言も口を利かないことに気を使ったのか、立花がこちらに顔を向けた。

『すみません、根地先輩。今日のチャリティーステージは──』

「英語で話して構わないよ、立花くん。その方が君も楽なんだろう?」

 黒門がそのように言えば、立花は僅かに驚いたような表情を見せてから、思わずというふうに苦笑いを浮かべた。その瞬間、今まさに目の当たりにした表情の変移の意味を知りたくて、仕方がなくなる。

「ごめん、待ってくれるかな。今のはどういう表情の変化なんだい?」

「いえ、何でもないんです」何でもないことはないだろう、そう思いながら待っていると、立花は観念して先を続けた。「ただ、やっぱり根地先輩には隠し事はできないなと、そう思ってしまって」

「その隠し事というのは?」

「もしかしたら、加斎くんなんかも同じ気持ちでいるのではないかと思うのですが、長く英語圏での暮らしを送っていると、日本語の難しさを実感するといいますか。普段、頭で考えているときですら英語を使っているので、日本語を引っ張り出してくるのに、少し時間が掛かってしまうんです」

 でも、英語で話しても良いと言っていただけて、安心しました──そう言って笑う立花は確かに、昔の面影を残している。あの、少年と信じていた頃の、無垢な顔だ。

 僕が愛した、唯一の才能が今、目の前で、微笑んでいる。

「……それで、さっきは何を言いかけたの?」

「え? あ、はい、そうでした」立花は小さく咳払いをしてから、続けて言った。「実は、ステージの構成が決まってから今日まで、十日しか時間がなくて。でも、皆さん本当にプロフェッショナルな方々ばかりで、どうにか本番には間に合いそうなのですが──」

「キサは人の手助けばかりしていて、自分のことを後回しにするから、まだ準備が終わってない」イライアスが静かな口振りで言う。「だから言ったのに」

「ううん、大丈夫だよ。帰ってからスタジオでみっちり稽古していたし」

「睡眠不足はケガのもとだっていっつも言ってんだろ」バージルはそう言い、立花の額を軽く小突く。「お前、明日から稽古は最低限にして、何日か休養しろよ。日本から知り合いも来てるんだし、そっちに体を貸してやれ」

 てっきり「うちの愛弟子には金輪際近づくな」などと、父親じみたことを言われるのではないかと、そう思い込んでいた黒門は、その言葉に拍子抜けした。

「せっかく日本から遠路遥々来てくれたんだ、ロンドンを案内して、お前の好きなところに連れてってやれよ」

「それはもちろん、そのつもりだよ。あっ、皆さんの都合がよろしければ、ですが……」

「楽しみにしているよ。もちろん、今夜のステージもね」バージルからではない、イライアスの方から、酷く牽制するような視線を感じながら、黒門はにっこりと笑った。「僕はもう少し見て回らせてもらっても構わないかな。君の準備の邪魔はしない方が良さそうだ」

「邪魔だなんて、そんな。でも、稽古はご自由に見学なさってください」

 何かあればすぐに声を掛けてくださいね──立花はそう言って、自分たちの稽古に取り掛かった。

 稽古とはいっても、本番前の最終的な調整くらいのものだろう。黒門がそう思って離れた場所から遠目に窺っていると、三人が始めたのは、念入りな振り付けの確認作業だった。

 ああでもない、こうでもないと議論をしながら、作品を練り上げている。

「おい、見ろよ。あの三人、まだあんなことやってるぞ」

「でかい口ばっかり利いてるけど、本番までに間に合うのかねぇ」

「劇団カオスだっけ? この辺りじゃ有名な劇団らしいけど、ほとんど活動してないらしいじゃん?」

「聞くところによると、メレディスに甚く気に入られていて、相当可愛がられてるんっだってさ」

「あの劇団で名前が売れてるのなんて、イライアスくらいなもんだろ? あいつ、実力あるのに、なんであんな規模の小さい劇団になんか所属してるんだ? あんな劇団、どうせ有名脚本家の道楽だろ?」

「なあ、お前、斜陽の雲って観たことある? おれ、途中で眠くなってさ」

「あー、分かる。オレも、あの映画の良さが全然分からなくて、途中で観るのやめたわ」

「レオナール・ゴダンだってさ、なんつーか、自然保護だの環境保全だの、現代人の歩みは自分にはあまりに速すぎる、とかなんとか言って、古き良き時代の懐古ばっかりじゃん? 成功者ってのは、なんで未来じゃなくて、過去に目を向けるようになるのかね」

「過去の栄光に縋りたいんじゃねぇの?」

「それ、言えてる」

 ゲラゲラと笑う声は、辺り一体に轟いている。わざとこれ見よがしに陰口を叩き、本人たちに聞こえるよう振る舞っているのだろう。だが、当人たちは至って平然と、素知らぬ顔をして稽古を続けている。

 芸術は万人に理解されるものではない。だからと言って、自分が理解できない芸術を、公衆の面前で貶して良い理由は、どこにもない。自らの品性を貶めている事実に気づけない時点で、彼らの言葉は耳を傾けるに値しない妄言だということだ。

「それにさ、あのKISAって日本人も相当調子に乗ってるよな。ちょっとSNSでバズったくらいで人気者気取りかよ」

「だよなー。お前が有名なんじゃなくて、お前の周りにいる連中が有名なだけだっつーの。いるんだよな、有名人の知り合いがいるからって、自分もその仲間だって勘違いするやつがさ」

 やはり、万人に愛される人間もまた、存在しないということだ。

 だがしかし、知り合いがこうも口汚く罵られているのを聞くというのは、まったくもって気分が良いものではない。ここはさすがに、二、三言い返すべきなのではないか──そう思いながら、黒門がその場を通り過ぎようとした足を、ぴたりと止めたときだった。

「ちょっと、やだ、吐きそうなんだけど」

「あっ、おい、こんなところで吐くなよ」

「だって、最高に気分が悪いんだもの」おえー、と吐くような素振りを見せた美女が、グロテスクなものでも見るような眼差しで、こちら側を──黒門越しに、その向こう側を、睨んだ。「いるのよね、商業の舞台に立っているからって、小劇場で活躍している役者を見下す馬鹿な連中が」

「でも、そうした方々は往々にして大成することはありませんから、放っておけば、そのうち自滅すると思いますよ。分かるんですよね、僕はそういう人を大勢見てきたので」

「ダンテ」余計なことは言うなとでもいうふうに、加斎がダンテの肩を叩く。「言わせておけばいいよ。どうせすぐ自分の間違いに気づくんだから」

「あら、アタルも随分良い子ちゃんなのね。友達があんなふうに扱き下ろされて、腹が立たないわけ?」

「どうして? 腹なんか立たないよ」加斎はあっけらかんとした口振りで言った。「だって、あれってただの負け惜しみだろ?」

「あとは妬みだな」リオがうんうんと頷きながら言う。「人脈を広げるにも才能は必要だ。ま、あんな小物みたいなやつらじゃ、エンタメ業界の重鎮たちには見向きもされないだろうけど」

「それに、才能は正しく理解できる人が理解してくれれば、それでいいんじゃないかな」

 本番前の殺伐とした空気感は、ユニヴェール劇場内でアンバー生と対峙したときのような、妙に気まずい感覚と似通っていた。一方的に向けられる敵意ほど面倒臭いものはない。何しろ最初から眼中になどないのだから。意識はしても、敵とは見做さない。自分の敵はいつだって、自分だけだ。

 睨み合いが続く。

 しかし、まさに一触即発かというその現場に、単身で乗り込んでいった男がいた。この劇場にいる者の中でも、一際長身で体が大きな、酷く人の良さそうな男だった。

「まあまあ、とりあえず今は本番前なんだし、双方穏便に」

「ちょっとあなた、それでもカオスの端くれなの?」

「クローディア、言い方──」

「あのね、あの野郎どもは、私のKISAを人気者気取りだなんて言いやがったのよ?」クローディアと呼ばれた美女は、すっくと椅子から立ち上がり、長身の男の前まで歩いていった。「どう? 許せないでしょう?」

「その程度のことでキサは怒ったりしないよ」

「この私が怒っているのだけれど」

 よく整えられた爪の先で胸を突かれ、男は僅かに目を丸くする。それから少しだけ苦笑いを浮かべ、その手をそっと下ろさせた。

「個人的な意見としては、君が自分の代わりに怒ってくれて、キサは嬉しく思っていると思う。でも、カオスの一員として言わせてもらえば、当人たちが黙っているのだから、君たちも余計な口を挟む必要はない。無視をしてくれていい。本番前に険悪な雰囲気になることは、誰も望んではいないんだ。彼らは本番で真価を発揮するよ。結果で黙らせればいいだけの話だと思うんだけど、オレが言っていること、何か間違ってる?」

 それじゃ、オレは仕事に戻るから──長身の男はそう言うと、大きな荷物を抱えて、舞台の方へと歩いていった。

 クローディアは、それでも納得ができないというふうな顔で、見るからにムッとした面持ちを浮かべていた。だが、もう一度だけ、口汚い言葉を吐き出していた男たちを横目に睨みつけてから、肩越しに後ろを振り返る。

「あなたたち、ついていらっしゃい」

「どこに向かわれるんです? お嬢様」

「下に行って、しゅわしゅわしたお飲み物を頂くの」

「本番前なのに?」

「誰もエールを飲むなんて言ってないでしょ? いいからついていらっしゃい」

「はいはい、分かりましたよ」

「仰せのままに」ダンテとリオがクローディアに続く中、加斎だけが、そこを動かなかった。「アタルは行かないんですか?」

「俺は残るよ、冒頭の振りを確認しておきたいから」

「そう。じゃあ、また後でね、良い子ちゃん」

 クローディアたちが姿を消すと、件の男たちは今度、彼女たちに標的を変え、口々に文句を垂れ流しはじめた。だがしかし、もう誰も、彼らに突っかかろうとする者はいない。呆れられているのか、諦められているのか、彼らのような場を乱す者が同じ舞台に立つのかと思うと、無関係の自分ですら気が滅入ってくると、黒門は思った。

『どこに行ってもこんなものですよ、海外での日本人に対する態度なんて』椅子に座り、タップシューズに履き替えながら、加斎が静かに言った。『でも、アメリカよりもイギリスの方が、差別意識が強いんじゃないかと思います。僕の所感ですが』

 シューズの靴紐を固く締め、椅子から立ち上がった加斎は、具合を確かめるように軽くステップを踏む。しかし、何かが気に入らないのか、もう一度椅子に座り直して、締めたばかりの紐を解いた。

『ご存知だとは思いますけど、オニキスって他の寮よりも海外にアンテナを張っている生徒が多くて、実際、日本以外の国で活動してる卒業生も多くいるんです。海外で活動するOBのコミュニティーがあったりもします。一番大きいものだと、僕も所属している、アメリカのブロードウェイで活動している人たちのコミュニティーですね。オーディションなんかの情報以外にも、アルバイトの募集とか、ルームシェアしたい人がルームメイトの募集をしたりとか、あまり堅苦しくない感じで。こういう横の繋がりがあると、精神的にも安定するんですよ。慣れない海外での生活は、いろいろと擦り減りますから』

 舞台関係のコミュニティーは、無数に存在する。情報交換を目的としたものや、劇団員の募集、エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ──黒門もいくつかのオンラインコミュニティーに参加し、世界中の舞台関係者たちと交流をしているが、大抵は執筆の息抜きに雑談をするくらいだ。

『このウエスト・エンドにもコミュニティーはあります。でも、活動している人はほとんどいない。ここはブロードウェイと同じくらい演劇が盛んなはずなのに、ブロードウェイに比べると、日本人の役者はあまり多くないんです。主役級の役をもらえる役者となると、その数は極端に少なくなります。わざわざ外国人の役者を起用しなくたって、自国に質のいい役者が五万といるんですから、そうなりますよね。この国には良い演劇学校が何校もありますし、名の売れたブロードウェイの役者だって、いくらでも引っ張ってこられます。日本人をカンパニーに加えるメリットなんて、ほとんどないんです。そうだ、知っていますか? 日本人役は、中国人か韓国人が演じることが多いんですよ。欧米人から見たら、東アジア人の見分けなんてつきませんし、母国語のアクセントの問題で、中国人や韓国人の英語の方が、圧倒的に受け入れられやすいんです。下手な英語で舞台に立てば、評論家たちが口を揃えて「演技以前に英語が下手」って扱き下ろしてきます』

 まあ、これは俺の経験談なんですけどね──どこか恥じるように、加斎は笑った。

『コミュニティーの繋がりや、多少のコネがあっても、日本人が役者を続けていくことが難しいこの国で、立花は成功を手に入れたんです。自分の身一つでこの国までやって来て、自分を受け入れてくれる仲間を見つけ、彼らの信頼を得て、多くの人たちからも認められて、今ここに立ってる。並大抵の努力じゃなかったと思いますよ。でも、本人はそんな苦労、微塵も感じさせませんし、絶対に自分の口からは言わないと思うので、僕の口から伝えておきます』

『彼女のことだから、そんな苦労を苦労とも思わないまま、ただの事実として受け入れているかもしれないよ』

『まさか』加斎は、そう言って首を横に振りかけてから、思い直したように続けた。『あ、でも確かに、俺に話してくれたときは、何でもないことみたいに言ってたな』

 今度こそ靴を履き替えた加斎は、スタタン、とステップを踏み、よし、と小さく声を上げる。ステップに合わせて、ふわりと舞う前髪に思わず目を奪われていると、加斎はそんなことにも気づかずに、立花たちの方へと視線を投げかけた。

『ダンテが言ってたじゃないですか』

『何をだい?』

『俺が一番最初に立花を見つけたって』そう言った横顔には、ささやかな罪悪感が窺えた。『彼女、絶望してました。この世の終わりが来たみたいな、そんな顔をしてた』

『へえ』

『最初、俺は立花を許せないと思ったんです。日本では、高科先輩が──もちろん、根地先輩方も、ずっと立花の行方を探したり、心配したりしていたわけじゃないですか。立花だって、それを分かっていたはずなんですよ。それなのに彼女だけは、このロンドンで、何事もなかったかのように、人生を謳歌してるように見えたんです。ユニヴェールの先輩や同期、後輩たちの思いなんてお構いなしに、なんで自分だけが人生をやり直そうとしてるんだって』

 黒門は、ネットの海を徘徊していたその先で、立花希佐と再会した。もう何年も前から、立花の行方も、その安否も、知り得ていた。自分の執筆作業が行き詰まると、彼女の歌をぼんやりと聞きながら、眠れない夜を過ごしたこともあった。

 あの歌からは、確かに、過去への悔恨の念が感じられたのだ。

 だから、責める気にもならなかった。

 自らの決断を悔いているのなら、永遠に、その悔いを抱えたまま生き続ければいいと、そう思っていた。

『頭では理解できているんです。女性であることを隠してユニヴェールに在籍していた。多くの人々を欺いて、嘘を吐き続けてきた。彼女のことだから、そのことに強い罪悪感を覚えているんだろうなって。立花の気持ちが分かるとは言い切れませんけど、もし自分が同じ立場だったとしても、逃げ出したい衝動に駆られたんだろうなと思います。でも、本当に逃げ出したりしては、駄目だったんだと思うんです。それでは何の解決にもならない。もし、卒業と同時に事実を公表していれば……』そこまで口にしたところで、加斎は不意に言い淀む。『……でも、もしそうしていたら、今の立花は存在していないんですよね』

『そうかもしれないね』

『もし事実が白日の下に晒されて、立花が女性であることが公になっていたとしたら、どうなっていたと思いますか?』

『どうなっていたかというのは、立花くんが、ということかい?』

『はい』

『そうだね』

 黒門は軽く目を伏せ、考えているふうなポーズを取った。だが、実際には何も考えてはいなかった。なぜならそれは、もう既に、何十回、何百回と考えてきたことに、他ならなかったからだ。

『彼女のことだから、自分にはもう舞台に立つ資格はないと、そう考えたのではないかな。たとえ中座校長が入学のきっかけを作り、彼女をユニヴェールへと引き入れた張本人であることが広く知れ渡ったとしても、立花くんの罪は立花くんの罪だ。彼女がユニヴェールに入学したいと望まなければ、その罪は生まれなかった。誰が何と言おうと、立花くん自身が、自分の罪を許さなかったのではないかと思うよ。彼女は誰よりもユニヴェールという場所と、その歌劇を、愛していたからね』

『俺もそう思います』黒門はそう言う加斎の横顔から、立花に視線を送る。『だから、立花が舞台に立ち続けるためには、最良の選択をしたんだとも思うんです。もし立花がイギリスに来ていなかったら、この才能が世に埋もれていたんだって考えたら、俺はすごく恐ろしくなりました。人は人生の選択一つで、こんなにも運命が変わってしまうものなんだなって』

 加斎は、まるで癖のように、かつこつ、と靴底を鳴らす。小気味良い音を鳴らしながら、そっと目を伏せ、続く言葉を探しているようだった。

『……リオは、この劇場の舞台でタップダンスを踊る立花の姿を見て、自分もタップダンスをはじめたと言っていました。立花のおかげでブロードウェイのオーディションにも合格したって。人と人は常に影響を与え合っています。それがたとえ、自分とは接点のない相手であったとしても』

 ユニヴェールでは様々なジャンルのダンスを学ぶ。タップダンスも学びはするが、一年生の頃の授業で、基礎的なステップを教わるだけだ。オニキスのように、ダンスに特化した生徒が多く集っていれば、迫力のある群舞を披露できるが、能力にばらつきのあるクォーツでは、実力差が如実に現れてしまう。

 立花が、タップダンスを踊れるという話を、黒門は聞いたことがない。ユニヴェール在学中に、舞台上でタップダンスを踊った経験がないことは、すべての公演を見届けた黒門には断言することができた。

 だがしかし、ほんの少しだけ、ステップの確認に付き合い、軽く踊っている姿は目の当たりにしている。タップダンス界の至宝と称される男の愛弟子という話だが、たったそれだけの材料では、彼女のレベルを正しく評価出来るはずもない。

『……根地先輩』

『何かな』

『根地先輩は、立花が存在しなかったユニヴェールを、想像することができますか?』加斎は、立花に向けていた目を、ゆっくりとこちらに戻した。『先輩自身も、立花希佐という圧倒的な存在に、影響を受けた一人なのではありませんか?』

 ああ、この子は、自分とバージルがしていた話に人知れず耳を傾けていたのだろうと、黒門は直感した。この長々とした話の終着地が見えたような気がすると思いながら、もったいぶるように唇を開く。

『……あの時代のユニヴェールに在籍していて、彼女の影響を受けなかった生徒は、一人もいなかったと思う。あの宙為ですら彼女に執着をしていたんだ。皆、多かれ少なかれ、立花希佐に憧れの気持ちを抱いていた。僕だってそうだ。彼女の才能に魅了されていたよ』

『そんなふうに、この国にも、立花の影響を強く受けた人たちがいるんですよ。立花と出会って考え方を変えた人や、生き方を変えた人、大袈裟じゃなく救われた人だっているのだと思う。そういうふうに考えると、彼女がイギリスにやってきたことは間違いではなかったんだって、俺はそんなふうに思うんです』

『つまり、君が言いたいのは──』

『人には自由に生きる権利がある』

『どこかで聞いたばかりの言葉だ』黒門は思わず、ふふ、と笑みをこぼした。

『君とこんなふうに話すのははじめてだね、加斎くん』

『俺、意外とお喋りなんですよ。あ、日本語に飢えてるっていうのもあります。最近は、ダンテと話すときも英語を使うことが多くて。あいつ、日本語よりも英語を話す方が楽だって言うから』

『加斎くんなら自分の気持ちを理解してくれるだろうって、立花くんが言っていたよ』

『何の話ですか?』

『長く英語圏で暮らしていると、物事を英語で考えるようになるから、日本語を話すのに苦労すると言っていたんだ。日本語を引っ張り出してくるのにも時間がかかるって』

『ああ、いや、そういうことなら、俺と立花を一緒にしない方がいいと思います』加斎はどこか困ったように笑った。『俺は子供の頃に外国で暮らしていた経験がありますし、ユニヴェールを卒業してからはずっとアメリカで生活していますけど、何かを考えるときは普通に日本語です。夢を見るのは──英語と日本語が半々くらいかな。前に舞台仲間と買い物をしていたとき、市街で立花と出会したことがあるんですけど、立花の英語を聞いて、すごく驚いていましたよ。完璧なネイティブのアクセントだって。俺が日本の演劇学校で一緒だった友人だって紹介をしなかったら、イギリス人だと思っただろうって』

 じゃあ、俺もそろそろ稽古に戻ります──加斎はそう言うと、黒門に向かって会釈をし、劇場の後ろの方でダンスを合わせていたグループの元に駆けていった。先程、立花に教えを乞うていた者たちのところだ。

 加斎は懐っこい笑顔を浮かべ、一つ二つの言葉を交わしてから、すっと輪の中に入っていく。

 過去に立ち返り、もしもの話をすることほど、無意味なことはない。たらればの話をしたところで、目の前にある現実は何一つ変わらない。それなのに、人間という動物は、過去を振り返らずにはいられない。

 立花希佐が女性であることには薄々気づいていた。だが、気づかないふりをしていた。認めたくなかった。自分が愛した稀代のアルジャンヌが、ただの女だったなどと。女が女を演じたところで、それはただの女でしかないではないか。そう思うのに、どういうわけか、黒門の目に映る立花希佐の輝きは、少しも衰えていないのだ。そのあまりの眩しさに、思わず目を逸らしたくなってしまうほどに。いつまでも、まばゆく輝いている。

『金賞おめでとう、立花くん』五年前のあの日が、もう遥か昔のことのように思えた。『結局、君もフミと同じように、すべての公演で金賞を独占してしまったね』

『先輩方のご指導があったからです。卒業後も、私たちのことを気にかけてくださって、本当にありがとうございました』

『僕たちが世話を焼くのも今回のユニヴェール公演で最後だ』

『後輩たちは残念がると思います』

『今度は君たちが後輩の世話を焼くんだよ』あのときにはもう既に、立花は翌日の失踪計画について、思考を巡らせていたのかもしれない。『クォーツの78期生からは、一人も玉阪座に入門する子がいないなんて、僕としては心底意外だった。理事も酷く落胆していてね。今からでも君のことを説得してくれないかと頼まれているんだ』

『すみません』

『気は変わらない?』

『はい』何度思い出そうと努めてみても、このときの立花がどのような顔をしていたのか、黒門は思い出すことができない。『大変ありがたいお話ではあるのですが』

『玉阪座からの誘いを蹴ってまで、君には他にやりたいことがあるの?』

『やりたいこと……』

『燃え尽き症候群、というわけではないのだろう?』

『……このユニヴェールが、私のすべてでした』今となっては、この会話が現実として交わされたものなのか、はたまた自分の妄想なのかも、よく思い出せない。『だから、これから先のことは、まだ何も考えられません』

 更文と話をしていたとき、立花は肩の荷が降りて、ほっとしたような面持ちを浮かべていた。クォーツの仲間たちをクラス優勝に導けたことを喜び、にこにこと嬉しそうに微笑んでいた。

 だがしかし、いつだって黒門の脳裏をちらつくのは、まだ何も考えられないと言ったときの、表情のない顔だった。いや、あれは、いつぞやの夢で見たものだったのかもしれない。

 立花希佐の失踪はやむを得ないことだったのだと思いたかった。

 あの栄光の三年間を心の支えにして、これからは慎ましやかに暮らしていくのだろう。新たな伝説を築き上げるのではなく、絶対に変わることのない輝きを自らの胸の中にだけ仕舞い込んで、あの煌めきを帯びた過去を永遠にしてくれるのだろうと、そう信じていた。

 秘密は秘密のままである方が美しい。心に秘められた罪の意識も、その人物を美しく見せる一種のスパイスだ。同時に、闇は人を魅力的に見せる。立花希佐には、絶対に暴かれてはならない秘密があった。その秘密が、彼女をより美しく、より神秘的に見せていたのかもしれない。

 それならば、最後のユニヴェール公演でこの目に見た彼女以上に美しい立花希佐は、もうどこにもいないはずだと、黒門は思った。自らの人生のすべてを擲つ覚悟で立った舞台上以上に、立花希佐を美しく見せる舞台が、どこにあるというのか。

 それなのに──と思いながら、黒門は立花の姿を細めた目で見つめる。そうしなければ、この目に光が焼き付いて、何も見えなくなってしまうのではないかと思ったからだ。そう思ってしまうほどに、今の立花希佐は、あまりに眩しい。憂いが人を美しく見せるはずなのだ。だが、今の立花には、一点の曇りもないように見える。それなのに、あの頃よりも、ずっと美しい。

 セント・パンクラス駅にあるストリートピアノの伴奏に合わせて歌う彼女の動画を見たとき、根地黒門は絶望した。誰かが立花希佐を完成させてしまった事実に、強い憤りを覚えた。完成してしまえば、そこですべてが終わりを迎える。その先には何もない。世界一の標高を誇る山も、登頂してしまえば、あとは下山をするだけだ。

 常に未完成であることが、立花希佐の価値であるとすら、黒門は思っていた。もう二度と、次は何を見せてくれるのだろうという、あの夢のような期待と興奮を味わうことはできないのだと、そう思った。

 だが、自分は間違えていたのかもしれないと、黒門は思い始めている。

「あっ、アラン!」

 いつの間にか床に座り込み、真剣な面持ちで膝を突き合わせていた三人の近くを、舞台袖から出てきたアラン・ジンデルが通り掛かった。その姿にいち早く気づいた立花が、その場で手を挙げて声を掛ける。

「ちょっと意見を聞かせてほしいんだ」

「待って」ジンデルは手にしていたスマートフォンを掲げる。「電話」

「うん、終わってからで大丈夫」

「すぐに戻る」

 ジンデルは軽い口振りで謝罪の言葉を口にすると、立花の頭にそっと触れてから、劇場の外に出ていった。立花はすぐさま話の輪に戻ったが、その口元には、綻ぶような笑みが浮かんでいる。

『あれ……?』

 ちく、と、まるで針の先で心臓を突かれたような、そんな痛みを、胸に感じたような気がして、黒門は人知れず首を傾げていた。

 

 

 

 随分と大人気ない態度で、大人気ないことを言ってしまったものだと、アラン・ジンデルはつい先程の出来事を回顧していた。反省はしていないし、悪いとも思ってはいない。だが、大人気なかったとは思っている。

 子供の頃は、些細なことでついかっとなって、考えるよりも先に口や手を出してしまうことが多かったが、大人になってからは──いや、今の自分を大人であると胸を張って言えるかどうかは甚だ疑問だが、多少は感情を制御することができるようになっているはずだ──そう考えていたのだが、どうやらそれは、ただの勘違いだったようだと、アランは思う。

 アランは、自分は人よりも頭の容量が多分にあり、回転も速い方だと、そのように自負していた。だが、時々回転速度が遅鈍になり、画面上でぐるぐると回り続ける七色の円のように、思考がぐるぐると巡ってしまうことがあった。瞬時に正解を導き出すことができないまま、体や口が勝手に動き出し、不具合を起こすのだ。そういうときは決まって、考えるよりも早く、口と体が動く。そして、正常の速さを取り戻した頭が、五分前の自分を鼻で笑う。

 こう言うと冷酷に聞こえてしまうかもしれないが、立花希佐の過去は、自分には何の関係もないことで、そこに干渉することは間違っていると、アランは考えていた。

 どう足掻いても、立花希佐の過去に触れられないことについては、既に諦めがついている。自分は彼女のはじまりの場所にはいない。それはいい。だが、自分が立花希佐の何らかの特別であることは、今はもう疑っていない。

 希佐はよく寝言を口にする。うなされていることも多い。

『ごめんなさい』

 日本語を学び、理解するようになってから、その言葉の意味を知った。

 まるで許しを乞うように、懺悔をするように、涙をこぼし、声を震わせながら、何度も何度も、ごめんなさい、と呪文のように唱え続ける。だが、目を覚ますと夢のことなど何も覚えていない様子で、にこにこと機嫌良く朝を迎えていた。

 夢の中で、フミさん、と呼ぶ声を、何度聞いたか分からない。スタジオの二階で共同生活を送るようになった頃からずっと、希佐の夢には『フミさん』が良く登場していた。

 そして、あるとき、アランは気づいたのだ。希佐が、夢の中でその名前を呼ぶときだけは絶対に、うなされていないことに。かつて赤い色のミサンガが結ばれていた手首を抱え込むようにして、背中を丸くして眠る姿を見ていると、少しだけ胸が締め付けられた。

 希佐の心の中には『フミさん』が暮らしていて、日本を離れてからもずっと、心の拠り所としていたに違いない。

「日本を離れてから、毎日欠かさず日記をつけているんです」引っ越しの手伝いをしているとき、大量のノートを段ボールに詰め込んでいる様子を見ていると、希佐が少しだけ照れ臭そうに言っていた。「日記というよりも、手紙に近いのですが」

「手紙?」

「日本と外国の文化の違いに戸惑ったり、誰かに親切にしてもらったり、ときには意地悪をされたり、とても綺麗なものをこの目で見たり──そういう些細なことを、聞いてもらいたかった人がいるんです。でも、直接お話しすることはできないので」

「代わりにそのノートに書いてるのか」

「はい」希佐は四隅が擦り切れている古びたノートを手に取り、アランに差し出してきた。「見てもいいですよ」

 特に何も考えず、それを受け取り、開いてみたが、そこに何が書かれているのかは、アランには分からなかった。かろうじて分かるのは英数字で書かれた日付くらいのものだ。それ以外の文字はすべて、丁寧な日本語で書き記されていた。あのとき、希佐が言っていた話を聞いてもらいたかった人というのが、その『フミさん』だったのだろう。

 希佐は今でも、毎日日記を認めている。

『フミさん』宛の手紙を、毎日毎日書き綴っている。

 その事実を知ったとき、あの高科更文という男はどんな顔をするのだろうと、アランは興味が湧いた。希佐は日本を離れてからの五年という決して短くない歳月の中、たった一日として『フミさん』のことを忘れたことなどないのだ。

 だから、思わず言い返してしまった。立花希佐の過去には、口を挟むまいと決めていたのにもかかわらず、黙ってはいられなかった。

『君は五年もフミを傷つけ続けたんだよ、立花くん』

 たとえそれが事実であったとしても、その言葉を口にし、希佐を責める権利を持つ人間がいるとするならば、それは高科更文以外にはいないはずだ。間違っても、他人が口にして良い言葉ではないだろうと、そう思った。

 立花希佐の心にはいつだって悔恨の念がある。

 ユニヴェールの問題の他にも、高科更文のことや、それ以外のことについても、思うところがあるに違いない。特に今は、それらの様々な問題が一挙に押し寄せて来ている状態だ。一見すると落ち着き払っているように見えても、内心では、気が気ではないのかもしれない。

 覚悟は決めたと、最近では口癖のように繰り返すその言葉は、そうとでも自分に言い聞かせていなければ、せっかくの覚悟が揺らいでしまうと、自らを無理やりに奮い立たせているようでもあった。

「よし、これで最後だ」最後の配線を差し終えたノアは、ふう、と息を吐くと、額の汗を拭うふりをした。「これで大丈夫だとは思うけど。あとは、正常に作動するかどうかをチェックして──っと」

 ノアがそう言いながらタブレットを操作すると、舞台の至る所に設置された照明が、代わる代わるに点灯する。どうやら、不備はないらしい。

「少しだけプログラムを書き換える必要はあるけど、まあ、良い感じなんじゃないかな」

「助かった」

「僕、前々から目をつけてるアフタヌーンティーのお店があるんだよねぇ」

「いいよ、連れて行ってやる」

「えっ、本当にいいの? やった!」

 キサたちも誘おうっと──と言いながら、ノアは無線で同期させたキーボードをリズム良く叩き、鼻歌混じりでプログラムを書き換えていた。

 舞台設営を手伝ってくれていたヘスティアのスタッフは、フロアの仕事に戻るようにと連絡が入り、心なしか嬉しそうに姿を消したばかりだ。どうやら、早くノアの傍を離れたいと思っていたらしい。

 ノアは他人に対して厳しいところがあるが、それと同じだけ、自分にも厳しい男だった。与えられた仕事は的確にこなすし、途中で投げ出すことも絶対にない。酷く頭が良く、物事を多角的に捉えることができる上に、いつも客観的な意見を出してくれるので、何かを相談するには最高の相手だ。

「ほら、僕ってこんな容姿でしょ? 自分で言うと角が立つかもしれないけど、そこいらの女の子たちよりもずっと可愛いわけ。だからなのか、馬鹿っぽいって思われがちなんだよね。まあ、馬鹿っぽいって思われるのは別にいいんだけどさ。僕は何も困らないし」

 アランにはノアの気持ちがよく分かるのだ。自分もかつては女のような容姿をしていたし、それを売りにして舞台に立つことも多かった。女のような見た目の男にとって、この世界は酷く生きにくい。自分たちのように舞台に立つ人間は尚更、誤解をされることも多かった。

 女のような見た目をしていても、男は男だ。自らの容姿を売りにして、女役として舞台に立っていても、身も心も男であることに変わりはない。

 だが、一部には勘違いする輩もいるのだ。女役を演じるような男は、女として扱われることを望んでいるのだと。そして、更に最悪なのは、下卑た視線と言葉でそうした者たちを蹂躙し、平然とした顔で傷つける輩が、大勢いるということだった。

「アランは優しいからなぁ」いつだったか、生きづらくはないかと問いかけたアランを見て、ノアはいやに大人っぽく苦笑いを浮かべたことがあった。「僕は、幸いなことに生きづらいと感じたことはないよ。自分の顔は好きだし、この顔で得をすることも多いしね。ほら、アランやイライアスとは違って、愛嬌のある顔立ちでしょ? にこにこ笑ってさえいれば、人からの好感は得やすいんだ。変な人に声をかけられたら、数学とか物理学とか天文学の話をすると、ヤバい人だと思って向こうから逃げていく」

 当初は同情的な眼差しを浮かべて話をしていたノアだったが、話せば話すほど、アランの問題点が浮き彫りになるのか、その丸い目は徐々に冷ややかになっていった。

「アランはさ、少しイライアスを見習った方がいいんじゃない? イライアスはファンから声を掛けられようが、呼び止められようが、完全に無視するもんね。その点、君は一見冷たく見えるけど、相手の話は目を見て聞くし、声を掛けられれば応じてあげてるし──あ、今思い出したけど、前にさ、ヘスティアで「あたし、今日誕生日なんですぅ」って声かけてきた女の子いたじゃん。あんなの放っておけばいいのに、君、飲み物を奢ってあげてたでしょ? ああいうの、本当にやめた方がいいからね。君みたいな人にちょっと優しくされると、勘違いしてコロッといく人間は、この世の中に大勢いるんだから。困ったことになるのは君自身なんだよ?」

「相手は選んでる」

「うわあ、サイアク〜」ノアは嫌悪するような目でアランを見てから、小さな口から赤い舌を覗かせた。「ま、僕も人のことは言えないんだけどね」

 目は口ほどに物を言う。

 好意的な眼差しと、敵意的な眼差しの違いは、舞台に立つ者なら誰しも区別することができるだろう。言葉で言い表すことは難しいが、肌が、確かにそれを感じ取る。分かるのだ。今、何を思って、自分を見ているのかが。

 ヘスティアは比較的治安の良いパブだが、メレディスやスタッフの目が店の隅々にまで行き届かないこんな日には、どこからか紛れ込んだ無礼な珍客が、無作法な振る舞いをすることがある。

 同性愛者か、異性愛者か、などということは、実際どうだっていい。問題なのは、人間と対峙したときに表面化する、その人自身の品性だ。人間が人間に好意を寄せるとき、それが心からの思いなら、相手が男だろうが、女だろうが、そのどちらでもなかろうが、他人には関係のないことだ。

 だが、今回の一件は、そうではない。

 高科更文と白田美ツ騎に言い寄っていた男たちは間違いなく、下品で、卑しい、アラン・ジンデルが何よりも嫌悪している、人間のクズだった。相手の気持ちなど一切顧みようともせず、それどころか、自らの歪んだ性癖を恥ずかしげもなく晒し、それを自慢げにすら語って聞かせる、ただの変態だ。

「なあ、噂通りヤバかったな、あのガキ──」ヘスティアではない劇場で行われていたジャスト・ロビンの公演が終わり、控え室での着替えを終えて薄暗い廊下を歩いていたときに、その声は聞こえてきた。「あれなら俺だって全然抱けるぞ。むしろ、その方が唆るってもんだろ。随分ときれーな声だったが、アレの最中にはどんなふうに鳴くのか、一遍聞いてみたいもんだ」

「俺は是非ともあの青白い肌に吸い付かせてもらいたいねぇ。血管が透けて見えるような薄い肌は、鬱血させると、薔薇の花びらが散ったみたいになるんだよ。さぞ良い眺めだろうな」

「あんな細腕のガキなら、いくらでも拉致れんだろ」

「せっかく施設を抜け出せたってのに、かわいそうになあ」

「あいつを引き取った牧師、教会の改修費やら何やら理由をつけて、信者から寄付って名目で金を巻き上げてるって話だけど、そのほとんどをギャンブルで溶かしてるってさ」

「いやあ、悪いねえ」

「いくらかは聞いてねぇけど、相当負けが込んでるらしいぞ。ま、オレらは金を取り立てる代わりに、あのガキを連れて帰りゃいいだけなんで、今回は楽な仕事だよな」つん、と鼻を刺すような、どこか酸っぱい煙草の煙の臭いがしていたことを、今でも覚えている。「施設で貰ってきたガキなら、金のために喜んで差し出すだろ。まあ、嫌がったら、実の息子の存在をちらつかせりゃ、大人しく従うだろうよ」

 こいつらは自分のことを話しているのだと、アランにはすぐに分かった。施設、教会、牧師──それらの単語が当て嵌まる人物は、ジャスト・ロビンにはアラン以外にいなかった。

 正直、施設から引き取られたとはいえ、当時のアランは、牧師家族に何の恩義も感じてはいなかった。あの家での生活は苦痛そのものだったし、施設での暮らしの方がマシだったと、そう思う日々が続くほどには、最悪な環境だった。毎日あの家に帰っていたのは、施設に戻されたくなかったからだ。外の世界を知ってしまった以上、あの閉鎖的な世界に戻ることなど、アランには考えられなかった。

 それに、施設に戻れば、別の問題がアラン・ジンデルを苦しめることになる。まだ誰にも話したことはない。この先も、誰にも話して聞かせることはないだろう。施設を転々とし、関わる大人の顔は変わっても、アランを見る目はいつだって、ねっとりとした穢らわしさを孕んでいた。そういう大人が必ず一人はいた。頭の狂ったペドフィリアはどこにでも潜んでいる。

 大抵の人々は、被害者に対して「なぜ抵抗しなかったのか」と、責めるような口振りで問う。まるで、抵抗することが当然で、反抗をしない方が悪いとでもいうふうな、愚かしい風潮のようなもが、確かに存在する。

 普通に考えて、体の小さな子供が、自分の何倍も大きな大人に体を抑え付けられて、抵抗など出来るはずがないのだ。か細い首は、大人の男の手の平の中にすっぽりと収まり、ほんの少し力を加えるだけで、ぽっきりと折れてしまう。息の根などあっという間に止められる。

 そうすると、今度は「どうして周りに助けを求めなかったのか」と責められるのだ。きっと誰かが助けてくれたはずだと、無責任なことを口にする。

 声を上げられる人間ならば、そうするだろう。アランだって最初は声を上げた。嫌だ、やめてくれと、歯向かってみせた。だが、無駄だった。だから今度は、周りの大人に助けを求めた。大人は「あなたが悪い子だからよ」と言って、助けてはくれなかった。

 アランは、夕食のときに食用のナイフを一本くすね、施設の職員に連れ出されたその夜、事に及ぶ前に、その男をナイフで刺した。三歳か、四歳の頃だ。男は子供に刺されたとヒステリックに騒ぎ立て、警察を呼び、結果、逮捕されることになった。警察は、自らの被害を詳細に語る子供の言葉を、全面的に信用してくれた。

 しかしながら、自分の身は自分で守ったアランが勇敢だったと褒められることはなく、むしろ暴力的な子供という扱いを受け、すぐにより規律の厳しい施設に移されることになった。だが、その場所でも、同じことが繰り返された。次の場所でも、その次の場所でも、同じことが起こった。

 こうも同じことが繰り返されれば、抵抗することにも疲れ、すべてを諦めるようになる。今になって考えれば酷なことだが、子供の方が臨機応変だ。いつしかそれを普通だと感じるようになり、自らの被害に対して何も思うところがなくなる。どんなに幼くても、そうやって、自分の脳みそが勝手に、自分の心を守ろうとする。それでも心はどんどんすり減って、許容範囲が狭まり、徐々に脳みそが機能しなくなっていく。

 そうすると、次はどうなるのかといえば、消えてしまいたくなるのだ。死というものの概念を朧げにしか理解できていない子供は、死んで楽になりたいと願うよりも前に、消えてなくなりたいと思う。

 少なくとも、アランの場合は、そうだった。

 健全だった施設は、ほんの僅かだ。それなのに、子供だったアラン・ジンデルは不思議なことに、その日まで、自らが受けた虐待の本当の意味を、理解してはいなかった。忘れていたわけではない。ただ、日常の中に常態化していた日々は、思考を麻痺させ、正常な判断を下せなくさせる。

 途端に激しい吐き気と目眩を覚えたアランは、覚束ない足取りで、その場から引き返した。控え室にはメレディスと、このときはまだ退団していなかったジュリアの姿があって、青ざめた顔をして戻ってきたアランを見るなり、揃って心配そうな面持ちを浮かべていた。

「外に変な男たちがいる」

「変な男?」

「俺を、拉致るとか、なんとかって」

 アランがそう口にすると、二人は神妙な面持ちで顔を見合わせた。メレディスはゆっくりとアランに歩み寄り、姿勢を低くして視線を合わせてきた。

「詳しく聞かせて」

「牧師が信者から金を巻き上げてるとか、その金をギャンブルで溶かしてるとか、金を取り立てる代わりに、俺を連れていく楽な仕事だとか、そんな話をしてた」

「男たちは君の姿を見た?」

「ううん、見つかる前に引き返してきたから」

「そうか。よく戻ってきてくれたね、アラン。ありがとう」

 メレディスはアランを安心させるように微笑んで見せると、肩にそっと手を置いてから、その場に立ち上がった。

 二人は、劇場の支配人と相談をして、すぐ警察に通報した。劇場に怪しげな男たちがいると言うと、警察は驚くほど早く駆けつけたが、警察の臭いを嗅ぎ取ったらしい男たちは、煙のように姿を消してしまった。

 メレディスが警察と話をしている隣に立ちながら、アランが考えていたことは、養父が何らかの犯罪に加担しているのだとしたら、自分はまた、施設に戻ることになるのか、ということだった。

 だが、次の瞬間、警察の男が口にした言葉を聞いて、アランは愕然とする。

「まあ、これだけ綺麗な顔の男の子なら納得ですよ。ほら、金髪に碧眼の子供は高値で売れるって言うでしょう? この子は赤毛の翠眼ですが、これだけの美人なら、希少価値も高いでしょうからね。舞台に立って、日々注目を浴びるような生活を送っているんですから、本人は満更でもないんじゃないですか?」

「……それはどういう意味ですか?」

 そう言って警察に食ってかかったのは、ジュリアだった。話をしていたメレディスの体を押しやり、自分が前に出ていくと、警察を厳しい面差しで睨み付けた。

「今回の問題と彼の容姿に何の関係があるんです? あなた方警察の仕事内容は、被害者の美醜によって左右されるんですか? ことの重大さを理解しています? 一人の人間が、たった今、誘拐されかかったんですよ?」

「ジュリア──」

「彼を一時的に保護するとか、自宅の周辺をパトロールするとか、そういう提案はないんですか? そもそも、あなたは彼に対して、気遣う言葉一つかけませんでしたよね? それどころか、あなたは──」

「ジュリア」あまりの顔の近さと、その迫力に押されてぎょっとしている警察から、メレディスがジュリアを引き離す。「君の気持ちは分かるけれど、少し冷静に。感情的になっても良いことは何もないよ。あとは僕が話をするから、アランを連れて向こうで待っていてくれるかな」

 そう言われても、その場から動こうとせず、興奮した様子で息を荒らげているジュリアの手を取り、アランはその場を離れた。劇場のロビーにある壁際の長椅子まで連れて行き、近くの自動販売機で買ったミネラルウォーターを、そっと差し出す。

「ありがとう」

 ジュリアはペットボトルの蓋を開け、ごくごくと水を飲んでいた。はあ、と大きく息を吐く様子を横目に見ながら、アランは隣に腰を下ろした。

「ごめんなさい、あんなふうに取り乱してしまって」

「落ち着いた?」

「あなたはちょっと落ち着きすぎよ」

「俺は──」アランは言いかけた言葉を飲み込み、首を横に振る。「なんでもない」

 警察とメレディスのやり取りは、そこまで長くは掛からなかった。警察がそこまで親身になって話を聞いてはくれなかったからだ。

 まず、劇場の廊下には監視カメラがなく、容疑者を特定する証拠が何一つ残ってはいないこと。証言者が子供一人であること──養父との関係性を加味し、アランが嘘を吐いている可能性があることや、遠回しに孤児であることが引き合いに出されたという。施設で育った子供の犯罪率は非常に高いそうだ。そもそも、実際に起こってもいない犯罪を取り締まることなどできないと言って、警察は何もせずに引き上げていった。

「心配だし、暫くは私かメレディスの家で預かりましょうか?」

「いや、それはどうだろう」迂闊に外に出ることもできず、劇場のロビーの隅で膝を突き合わせながら、メレディスとジュリアは、これからのことについて話していた。「あの牧師は、アランを家に帰さなかったら、また騒ぎ立てるのではないかな。アランに暴力を振るわれるようなことは避けたい」

「でも、本当に牧師さまの借金が原因なら、その男たちは自宅まで取り立てに行くんじゃない? そのままこの子が拐われでもしたらどうするの? 誰も守ってなんかくれないでしょう?」

「だからといって──」

 アラン・ジンデルの頭の中には、いつも天秤がある。大抵の場合は、その天秤が重く傾く方向に価値を見出し、その決断に従ってきた。物事の良し悪しよりも、どちらの方がよりマシか──あのときは、目の前の問題を、そんなふうに考えていた。

 二人に迷惑をかけるくらいなら、この問題は養父に押し付ければいいと思った。性的な虐待を受けるくらいなら、殴る蹴るの暴行を受けた方が、ずっとマシだとも思った。

 だがしかし、この二つの問題が秤の上に載せられると、それはどちらかに傾くことなく、いつまでもゆらゆらと均等に揺れていた。

 これより前に、自分が過去に施設で受けた仕打ちを、ダイアナに打ち明けたことがある。大人に相談をした方が良いと言われたが、アランはそうしなかった。あのときも、自分は普通とは違うのだと思い、胃が捩れるような気持ち悪さを覚えたが、このときのそれは、その比ではなかった。

 いや、違う。

 自分は普通の人間だ。正常な人間だ。

 おかしいのは、自分以外の人間だったのだ。

 この日を境に、アラン・ジンデルは、人から向けられる視線を気持ち悪く感じるようになった。舞台に立っているときも、そうでないときもだ。それは、近しい間柄の人間も、例外ではなかった。

 結局、その日は養父の家に帰った。警察から連絡があったらしく、非常に苛立っていた養父は、人目につかない教会の備品室で、アランのことを酷く痛めつけた。

 その後、実際に男たちが、取り立てに来たかどうかは知らない。だが、それから程なくすると、火の車だった教会の経営が、どういうわけか急に安定しはじめたことは知っている。毎月毎月、多額の寄付がされるようになったのだ。恐らくではあるが、借金は全額返済され、事態は収束に向かったのだろう。

 だがそれでも、あの男たちの言葉を聞く前の世界には戻れない。事実、あの言葉が引き金となり、アラン・ジンデルは少しずつ、舞台から離れていくことになった。

 自分は普通の人間なのに、それ以外の多くは酷く穢れていて、その人間に触れられた自分もまた、穢されてしまったのだと思った。

 そこからはもう崖から転がり落ちるように、何もかもが駄目になっていった。人生が滅茶苦茶になった。いや、アランの人生が滅茶苦茶でなかったことなど、ただの一度だってなかったのだ。

 それでも、舞台の上にいるときだけは、あの神聖な場所だけはどこよりも安全だと信じていたのに、現実は違っていた。舞台に立つことで、自分は穢れた人間の穢れた視線に晒され、同じように穢されていたのだと思った。舞台に立ち、大勢の視線が自分に向けられるのを感じるたびに、溢れんばかりの不快感が、アラン・ジンデルの空っぽの器を、どろどろとした感情で満たしていった。

 今にして思うと、ダイアナの言う通り、きちんと大人に相談するべきだったのだと分かる。子供の心の中に押し留めておくには、あまりに重たすぎる問題だった。あの頃にセラピーやカウンセリングを受けていれば、十年近くも、長い暗闇のトンネルを歩き続けることもなかったのだろう。

 しかし、今思う最良の決断と、あの頃に下した自らの決断の、どちらが正解だったのかは、きっと一生分からない。多分、正解はないのだ。

 暗く、長い道のりを、ただひたすらに歩き続けてきた。途中で何度も死にたくなった。死のうと思った。結局、死ぬことはできなかった。

 どういうわけか、進むべき道の先にはずっと、眩い光が見えていた。それは砂塵のように小さな光の粒だったけれど、こちらを急かすでも、手招くでもなく、いつだってただそこにあって、アランのことを静観していた。

 今、その光は、すぐ目の前にある。

 あんなに小さい、砂塵の一粒ほどだった光は、今や太陽のように明るく、アラン・ジンデルを燦々と照らしている。心のどん底は、あんなにも冷たく、寒々しい場所だったというのに、長い旅路の果てに辿り着こうとしている場所は、あまりに眩しく、暑いくらいだ。

 劇団カオスの勧誘条件は、至極独断的だった。

 アラン・ジンデルが見ているのは、その人の才能、人柄、将来性──だが、一番に見ているのは、目だ。こちらを見る目を見れば、その人自身の人間性が透けて見える。

 初対面のとき、バージルは酷く奇怪そうな目で、アランのことを見た。長い前髪で顔の半分を隠した、見るからに不健康そうな人間を窺う、真っ当な眼差しだと思った。

 イライアスとアイリーンのことは、二人が大学に入学してくる以前から見知っていた。舞台の上に立つ役者は、観客が思っている以上に、客席に目を向けている。よく公演を観にくる客の顔は大抵覚えているし、それが自分よりも年齢の若い男女ともなれば、物珍しさで自然と視線が引き寄せられた。二人はいつだって、キラキラと輝く目で、舞台に立つアランの姿を追いかけてくれていた。

 ジェレマイアの目は、誰に対しても偏見を持たない。良き者も、悪しき者も、この男の前では皆平等で、常に公平であろうとする。ヘスティアで偶然にも隣同士の席に座り、どちらともなく話し出したあの日の出会いは、アランにとって幸運としか言いようがなかった。ジェレマイアは良い奴だ。

 ノアは誰に対しても明け透けなところが良い。目上の相手だろうが、目下の相手だろうが、極端な話、動物が相手でも何も変わらない。顔はにこにこと機嫌良く笑っていても、そのアーモンド型の目は少しも笑っていないことが良くある。初めて対面したとき、たったったっ、と軽い足取りでやって来たかと思うと、ノアはアランの方をちらと見ることもせず、目の前を素通りして、イライアスとアイリーンに駆け寄っていった。アランは、それが堪らなく嬉しかったのだ。

 不思議なことに、あれだけ人に見られることを疎んでいたアランが、この仲間たちにだけは、その目を向けられても不快感を覚えなかった。

 もちろん、希佐も同じだ。初めて会ったあの日、舞台演出家の一人芝居を演じていた希佐の、どこまでも真っ直ぐな眼差しに、アラン・ジンデルはいとも容易く射抜かれてしまった。今は、あの琥珀色の目に見つめられることを、日毎強く望んでいる。

 人間の上っ面しか見ない者の眼差しは、よく目の当たりにしてきた。ときには気まぐれで、そういう女の相手をすることもあった。誘われるがままに着いていき、求められるがままに応じて、その何日か後に、思っていたような人ではなかった、と言って放り出される。

「女性に対して不誠実なことばかりしていると、いつかそのツケを払わされることになるよ」いつだったか、メレディスにそう嗜められたことがあった。「君自身にその気がないのなら、もうついていくのはやめなさい」

 当時は何も考えていなかった。体を持て余しているからと、暇潰し程度の感覚でいた。もし子供が出来てしまったら、などと考えることもなかった。確かに、自分は女性に対して不誠実だったと、今ならば思う。

 この三年で、アラン・ジンデルの価値観は、あまりに変わってしまった。生き方も、考え方も、何もかもが変わってしまった。たった一人の人間との出会いが、こうも自らの人生に影響を与えるとは、思いもよらなかった。

 心に負った傷は、それがどれだけ過去の出来事であったとしても、完全に癒えることはない。傷口を覆う瘡蓋が剥がれ落ちても、傷痕は残る。絶対に、すべてがなかったことにはならない。

 もう一度、舞台に立ってみようと思った。その決断は、もしかしたら一時の気の迷いなのかもしれない。カオスの仲間たちと出会い、希佐と出会い、少しずつ他者から向けられる目に不快感を覚えなくなっていても、舞台に立てば、すべての進歩が無に帰す可能性だってある。

 怖くないと言えば、嘘になる。子供の頃は緊張などしたこともなかったのに、今は情けないくらいに不安でたまらない。もしも失敗をしてしまったら、仲間たちはどんな顔をするだろう。希佐は幻滅するだろうか──何度も同じことを考えては、内心で大きく頭を振っていた。

 人にはいつも、失敗をしても構わないなどと、格好をつけたようなことを言っておきながら、自分の失敗を許せる気がしないのは、根っからの高慢さが原因なのか。一度くらい、舞台上での失敗を経験しておけば、少しは心持ちも違っていたのかもしれない。

 だがもし、何もかもが成功を収め、またあの頃のように舞台に立つことができるようになったのなら。自分を見る人の目に不快感を覚えることなく、あの頃のように歌い、踊り、演じることができたのなら。自分もカオスの仲間たちと共に、同じ舞台に立つ夢が叶うのだろうかと、アランは考えた。

 アランは不意に、頬に触れる希佐の指先を思い出して、小さく笑みをこぼした。その様子を目の当たりにしたノアは、不思議そうに小首を傾げる。

「どうしたの?」

「いや」アランは自らの頬に触れながら、首を横に振った。「なんでもない」

「変なの」

 ノアはそう言うと、床に座り込んでいた腰を上げ、その場で大きく伸びをした。本番前に充電をしておかなきゃと言って、電源を求めて歩いていく。

『あなたのそばかすが大好き』琥珀色の目をやわらかく細め、まるで慈しむようにそばかすの肌を撫でる指先の秘密は、自分だけが知っていればいい。『でも、あなたの目はもっと好き』

『知ってる』

『アランも私の目を好きなくせに』

 目は口ほどに物を言うから。

 言葉足らずなところがあるのはお互い様だけれど、それでも、言葉がいらないこともある。希佐が自分を見る眼差しには愛情を感じるし、おそらくそれと同じものを、希佐も感じ取ってくれていると、アランは信じている。

 カオスの仲間たちを連れ立って、ヘスティアからスタジオまで戻る道すがら、斜陽の光に照らされた希佐の背中がどこか物悲しそうで、力一杯抱きしめたい衝動に駆られた。寄り添ってくれようとする心遣いが嬉しくて、愛おしくて。このときが永遠に終わらなければいいのにと、そう思っていた。

 もしかしたら、今この瞬間、希佐も同じように感じているのではないか、そんなふうにも思った。だから、決して忘れられない日にしたくて、いつかこの日を思い出してもらえるようにと、キスで呪ったのだ。

 毎日毎日、日記とは形ばかりの手紙を綴る行為もまた、過去を忘れない、罪悪感から逃げないための、自らに課した呪いなのだろう。

 人間の記憶は、思い出すという行為によって、深く定着するものだ。忘れたいことがあるのなら、それを思い出さなければいい。だが、忘れたい記憶ほど頻繁に思い起こしては、深く刻み込まれていく。

「アラン」再び物思いに耽っていると、プラグに充電器を差し込みながら、ノアが言った。「電話じゃない?」

 さっきからずっと鳴ってるみたいだよ──そう指摘をされて我に返れば、確かにポケットの中のスマートフォンが振動している。しかし、アランがポケットに手を掛けると、その振動は止まってしまった。

 念の為に履歴を確認したアランは、画面上に表示されている名前を見て、思わずため息を吐いてしまった。

「誰からだったの?」

「スペンサー」

「ああ、あの演出家先生」ノアとスペンサー・ロローは、互いに顔を見知っている、という程度の繋がりしかない。「今はフランスにいるって話じゃなかった?」

「そう認識してるけど」

「あ、ここはもう大丈夫だよ。手伝ってくれてありがとう」

 折り返してみたら? と言われ、小さく頷いたアランは、スマートフォンを片手にその場を離れる。舞台上で機材の確認をしていたジェレマイアに「よっ」と声を掛けられ、それに片手を挙げて応じた。

 すると今度は、この視線の先に、何やら仲間内で額を合わせているバージルたちの姿が目に入り、思わず笑ってしまう。真剣な様子なので声を掛けずに通り過ぎようとすると、あっ、と声を上げた希佐に呼び止められた。

「ちょっと意見を聞かせてほしいんだ」

「待って」アランはそう言い、手にしているスマートフォンを掲げた。「電話」

「うん、終わってからで大丈夫」

「すぐに戻る」

 sorry. と言って小さな頭にそっと手を乗せれば、希佐は僅かに首をすくめて、照れくさそうに笑った。

 劇場の出入り口に向かいながら、アランはスマートフォンを操作し、着信履歴からスペンサーの番号を呼び出した。あまり良い予感はしていなかったが、無視をするわけにもいかない。

 呼び出し音が、一コール、二コール、三コール──背もたれのない長椅子に腰を下ろし、六コール目を数えようとしたとき、その音はぷつりと途絶えた。

『すぐに出られなくてすまない。今、入国審査を受けているところなんだ』

「イギリスに戻ってきたの」

『ああ、マダムから戻ってくるように言われてね』Thank you. と言う不機嫌そうな声に、スペンサーはAnytime.と、機嫌良く応じていた。『私はいつも入国審査に時間が掛かる』

「自動化ゲートを使えばいい」

『荷物が多いせいかな、いつも審査官に呼び止められるんだ。あと、飛行機に乗ると、どういうわけだか古傷が強張ってね。足を引きずって歩いていても呼び止められる。最近は義足の運び屋が多いらしいよ。生身の足を見せたら、申し訳なさそうにしていたが』

 アランはスペンサーと話をしながら、右手首に巻いた腕時計に視線を落とした。本番は迫っているが、まだ時間に余裕はある。クロエ・ルー自身が戻ってこいと言ったのなら、今夜のステージはスペンサーにも見せるべきだと、そう判断したのだろう。

「どこの空港にいるの」

『ガトウィックだよ。ここから特急電車を使えば、ヴィクトリア駅までは三十分くらいかな。そこからはタクシーに乗って──一時間もすればヘスティアに到着するだろうけど、一度ホテルに寄ってこの荷物を預けたいから、君に会えるのはもう少し後になる』

「チャリティーのチケットは?」

『あいにく持っていないんだ。君、余らせてない?』

「俺は持ってないけど」

『マダムもチケットの用意はないらしいんだ。観たければ自分で調達するようにと言われている』

「もしかしたら、レオがチケットを余らせているかもしれない」

『おやおや、今日は巨匠までおいでなのか。騒がしくなりそうだね』

「もう一騒ぎ起きた後だよ」

『そこそこ名の売れた舞台関係者も何人か足を運ぶと聞いているし──そうそう、私の言うことをちっとも聞こうとしない、うちの主演たちも出演するとかしないとか』半ば諦めているかのような口振りで言い、スペンサーはため息を漏らす。『それから、君も出演するんだって?』

「まあ、成り行きで」

『本当は頭を抱えたい気持ちなんだが、そこだけは楽しみなんだ。私は君が舞台人だった頃のことを知らないから』

「そう」

『声が沈んで聞こえるが』

「緊張してる」

『またまた』スペンサーは茶化すように笑うが、アランが黙ったままでいると、あからさまに驚いたような声を上げた。『おいおい、嘘だろう?』

「もう何年も舞台には立ってない」

『前にヘスティアのステージで歌ったそうじゃないか』私は観られなかったがね、という声は、どこか恨みがましくも聞こえる。『舞台の広さなんてさしたる問題じゃないよ』

「俺はたいした役者でも、ダンサーでも、シンガーでもなかった。その上、途中で自分の人生に挫折をした。そんな人間がまた舞台に立とうとしてる』

『いつになく弱気──ああ、いや、君はいつだって弱気だったか』電話口の向こう側で、スマートフォンを持ち替えるような沈黙があった。『挫折した人生のその先で、君は脚本家として大成しているし、文筆業でも成功を収めている。それに、君にはスターを発掘する才能だってある。まあ、アラン・ジンデルという役者は、舞台こそ我が人生の糧だ、くらいには思っていたのだろうから、その程度のことでは何の励みにもならないのかもしれないが。それだけのことをできる人間なら、今夜のステージで思うような成果を得られなくても、いくらでも別の生き方を選べるのではないかな』

「君がそこまで真剣に励ましてくれるとは思わなかった」

『大人になってから出来た友人は大切にした方がいいと、そう母に言われたばかりでね』友人ね、と漏らすアランの声を聞き、スペンサーは、そういうことにしておいてくれ、と言って軽く笑った。『いずれにせよ、君には自由に動く手足がある。私にはそれが羨ましくてたまらないよ、アラン・ジンデル』

 スペンサーは電車の時間が近づいていると言って電話を切った。

 アランは、思いもよらず吐露した自らの内心に多少の困惑を覚えながら、徐に立ち上がる。劇場に戻ると、三人はまだ膝を突き合わせていて、そこから少し離れた場所では、椅子に腰を下ろしてその様子をぼんやりと眺めている、根地黒門の姿が見えた。

 もしかしたらとは思っていたが、先日の『魔物のエクス』の一件で確信していた。Jenni Cocteauは、間違いなく根地黒門だ。脚本家のオンラインコミュニティーでは、それ以前にも、何度か接触をしたことがあった。

 アランが気紛れに覗きにいくと、いつもその名前があって、Jenniの周りには大勢のユーザーが群がっている。実際に話している声は聞こえないが、うるさいやつら、というのが、Jenniとその取り巻きに対する印象だった。

 根地黒門が、画面の向こう側にいるアランを認識していたかどうかは知らないし、興味もない。

「電話はもういいの?」

「うん」背後から近づいていくと、それに気づいた希佐が場所を開けてくれたので、アランは三人と同じように床に胡座を掻いて座った。「今夜はスペンサーも観に来るそうだ」

「最悪じゃねぇか」

「あの女が直々に呼び戻したらしい」

「おい、最悪じゃねぇか」バージルが一言一句違わぬ言葉を繰り返すと、希佐はイライアスと顔を見合わせてから、小さく苦笑いを浮かべた。「酷い嵐にならねぇことを祈るよ」

「あの女にも何か考えがあるんだろ。それに、スペンサーも半ば諦めてるみたいだった」

「僕たちは自分の仕事をするだけ」

「そうだね」希佐はイライアスの言葉に頷いている。「今日のために頑張ってきたんだから。怒られるときは、みんなで一緒に怒られよう」

「おい、俺を巻き込むなよ」

「バージルも同罪だと思う」

「俺の何が同罪だって?」

「僕を誑かしたでしょ」

「誑かすってなんだよ、人聞きの悪い」

「僕はバージルのダンスに魅了された」イライアスの真っ直ぐな言葉に、バージルは目を丸くし、思わずというふうに絶句していた。「負けっぱなしは性に合わない」

「……お前なぁ」驚いたような顔から一変、ニヤリと不敵に笑んだかと思うと、バージルは隣に座るイライアスの額を軽く小突く。「誰も彼も好き勝手なことを言いやがって。俺に勝とうなんて十年は早いんだよ」

「十年経ったらバージルはおじいちゃんだけど」

「あ?」途端、じっとりと据わった目で、バージルはイライアスを睨んだ。「十年も経てばお前も立派なおっさんだろうが」

「今のバージルよりは若い」

「十年経ったってな、お前は五十のジジイに勝てなくて、また泣きベソをかく羽目になるんだよ」

「また?」

「今朝だって地べたに倒れ込んでメソメソ泣いてただろうが」

「泣いてない」

「いいや、泣いてたね」

 普段なら真っ先に止めに入りそうな希佐が、二人のやりとりを見やりながら、あはは、と声を上げて笑っている。

 ここに来たばかりの頃は、まるで生きるのにも疲れたような顔で、ぼんやりと宙を見つめていることが多かった。こんなふうに声を上げて笑うこともなかった。この美しい人が、偶然訪れたこの国で、生きる意味を取り戻すことができたのなら、その手助けをできたことを、アランは誇りに思う。

「アラン?」横顔に視線を感じたのだろう、希佐がこちらを振り仰ぎ、不思議そうに首を傾げた。「どうしたの?」

 人目も憚らず、君にキスをしたいと思った──そんなふうに言ったら、希佐はどんな顔をするのだろうと考えながら、アランは首を横に振る。

 それなのに、希佐は何も言わないアランの目をじっと見つめていたかと思うと、す、と穏やかに目を細めた。こんなふうに誰かを思ったことはない、そう言ってくれたときの声が、鮮明に蘇ってくる。

 どんなに多くの視線が向けられていても、その中に、この直向きな眼差しがあると思うだけで、己を奮い立たせることができた。不思議と勇気が湧いてくるのだ。ざわざわと落ち着きのなかった心が、穏やかさを取り戻していく。

 過去は消えてはなくならない。忘れたいと思えば思うほどに、その記憶は色濃くなっていく。それでも、過去のすべてが、ここに至るまでに踏まなければならない道筋だったというのなら、現在に至るまでの過去のすべてに意味があったというのなら、余すことなく受け入れようと、アランは思った。

 許したわけではない。許されたいわけでもない。

 ただ、粛々と受け入れる。

 アランは、ある明け方近く、どうしても眠れないのだと言って、希佐がベッドに潜り込んできた夜のことを思い出した。その日は、久しぶりに手話教室に顔を出してきたのだと、そう話してくれていた。

 突然懐にまとわりついてきたぬくもりのせいで、急激な眠気に誘われていたアランが、その誘惑に抗っていると、希佐がその様子を見て優しく笑った。眠っていいよ、と言うやわらかい声を聞きながら、アランはゆっくりと瞼を下す。最後に何度か瞬いたとき、視界にあった希佐の手の形の意味を理解したのは、少し後になってのことだ。

 希佐は、今もまだ手話の勉強を続けていて、その様子を見ているカオスの仲間たちも、自然と手話が身につきはじめている。特にノアは飲み込みが早く、大学で出会った聴覚障害を持つ子と、少しだけ話が出来たと言って喜んでいた。

 ある日、ふとあの夜のことを思い出して、その場で手の形を作って見せると、ノアがその意味を教えてくれた。

「それは、愛してるって意味だよ。手話って国ごとに全然違うんだけど、アイラブユーだけは世界共通なんだ」へえ、と感心したように相槌を打つアランを見て、ノアは更に続けた。「それでね、この立てた人差し指に、こうやって中指を絡めると──」

 アランは自らの手元に視線を落とすと、ノアに教わった通り、親指と小指を立て、薬指を曲げて、人差し指と中指を絡ませた。それを胸元に掲げて希佐の目を覗き込めば、きょとんとした眼差しが、アランの手元に注がれた。

「それで」その反応に満足をしたアランは、意地悪く目を細める。「意見を聞かせてほしいって話は?」

「えっ? あ、ああ、うん」微かに赤らんだ頬に手の甲を添え、希佐は未だ低レベルな口論を続けている二人を見やった。「ほら、二人とも──」

 反対の手では、まるで恥ずかしがるようにアランの手の上から自らの手の平を重ね、指先で紡がれる言葉を周りからは見えないようにする。だがしかし、ぎゅっと握り締めるように力を込められた手からは、確かに返事が聞こえてくるようだった。

 今ばかりは、素晴らしき神の恵みを享受しよう。全能なる神の導きにより、引き寄せ合うようにして巡り合った事実を、認めざるを得ない。

 アラン・ジンデルは、今まさに、神に感謝したいと、そう思っていた。

 

 

 

 フランスに帰京中だった。数年振りの実家で羽を伸ばしていると、その人は本当に、何の前触れもなく現れた。

 女優業を休業し、最近は庭造りに凝っている母のエステルは、その人物の突然の来訪にも動じることなく、平然とした態度で迎え入れていた。

「あなたって本当になんでもできるのねえ」

 庭の一角に小屋を建て、小川を引き、木々を植えて、草花を咲かせる。その、まるで天地創造を行った神のような所業をぐるりと見回し、その人は呆気にとられた様子で目を丸くしていた。

 何年か前には、ワインを作りたいのだと連絡してきたかと思えば、その一週間後には潰れかけたワイナリーに出資し、瞬く間にオーナーとなって、今ではかなりの収益を得ているという話だ。

 父が亡くなったときはどうなることかと心配したものだが、やはり女性は逞しい生き物だと、スペンサー・ロローは思う。

 父は映画監督だった。カメラのレンズ越しに見た、当時はまだ未成年だった母のあまりの美しさに心を奪われた。成人後、猛プッシュの末に射止めたのだと、酒に酔うたびに話していた。当時は、またいつもの話かとうんざりして聞き流していたが、今になって思えば、もっとちゃんと聞いておけばよかったと、心底後悔している。

「ハーブティーはいかが?」

 ガゼボの下でガーデンテーブルに腰を下ろしていると、ティーセットを抱えたエステルが屋敷から戻ってきた。ひらひらと風にたなびく純白のワンピースを着て現れたクロエ・ルーは、同色の鍔の広い帽子を脱ぎながら、エステルを見上げた。

「ええ、いただくわ。どうもありがとう」

「相変わらず、お忙しいそうですね、マダム」

「私は忙しくしているのが好きなの」クロエはそう言うと、隣の椅子に帽子を置く代わりに、白い箱を取り上げた。「みんなで食べようと思ってケーキを買ってきたのよ」

「またモンブランですか?」

「そうよ。アンジェリーナのモンブラン。私、ここのモンブランが大好きだから」

「馬鹿の一つ覚えみたいに……」

「なんですって?」

「なんでもありませんよ、マダム」

「そう、ならいいのだけれど」

 子供の頃から変わらない。クロエが手土産に持ってくるのはいつだって、アンジェリーナのモンブランだった。恐れ多いことに、スペンサーはクロエのことを「モンブランのおばさん」と呼んでいた。我が家では滅多に食べないモンブランは、最初こそ幼いスペンス坊やを喜ばせたが、それが何年も続くとさすがに飽きてしまい、徐々に遠慮するようになっていった。

「私はもう一生分のモンブランを食べたような気がしますよ」

「いらないならいいのよ。あなたの分は私が食べて差し上げますから」

「喜んでいただきます」

 箱を受け取ったエステルは、ケーキ皿にモンブランを取り分け、それをクロエの前に差し出す。にっこりと上機嫌に笑ったクロエは、両手で嬉しそうにケーキ皿を受け取ると、まるで少女のようにそわそわとしながらお茶の準備が整うのを待っていた。

「それで」自分の隣に座ったエステルを横目に見てから、スペンサーが問いかけた。「今日はどのようなご用向きでいらしたんです?」

「特別な用件なんてないわよ。ふと思い立ったから、仕事帰りに親友を訪ねてみただけ」

「二人とも、そうやってお喋りばかりしていると、せっかくのお茶が冷めてしまうわ」

 そう言って花柄のカップに手を伸ばしたエステルに倣い、スペンサーとクロエもハーブティーを口に運ぶ。紅茶は紅茶、コーヒーはコーヒー、銘柄や原産地などには微塵のこだわりもないので、これがどのようなハーブを用いられたお茶なのかは、まったく分からなかった。

「今度の舞台のこと、何か進展はあったの?」エステルが穏やかに問う。「二人とも、そのことについてはあまり話してくれないから」

「順調よ。少なくとも、私の方はね」

「随分と含みのある言い方」

「残念ながら、私とその子は今、対立する立場にあるの」

「対立なんてしていませんよ」

「あら、本当? 個人的には、あなたは私の敵、という認識なのだけれど」

 本気とも冗談ともつかない口振りでそう言ったクロエは、フォークで掬い取ったモンブランを大口で頬張った。幸せそうに、ふふ、と笑みを漏らす。

 人によっては、お高くとまった女優という印象を強く持つクロエ・ルーだが、実際のところは少し違う。普段は、大衆がイメージする女優という自分を演じ、わざと華やかに振る舞っているのだ。だから、幼い頃からこの家に出入りするクロエを見てきたスペンサーには、世間との認識に微妙な食い違いがあった。

 多くの人々は、クロエ・ルーという人間のことを誤解している。

 この人は、実際には世間で理解されているような妖艶なところなど少しもない、少女然とした人物なのだ。素直で、純粋。故に、残酷な一面も持ち合わせている。自己中心的で、自分勝手。若いが故の、傍若無人な振る舞いはそのままに、大人になってしまった。人とはまったく違う感性を具有しているので、相互理解も難しい。

「彼女はただ、愛されたいだけなの」いつだったか、エステルがそのように言ったことがあった。「愛してほしいだけなのよ。ただ、それだけなの」

 その口振りは、まるでクロエ・ルーのことを憐んでいるようでもあって、スペンサーは咄嗟に、聞かなければよかったと、そう思ったものだ。

 あれだけ自由奔放に、好き勝手に生きているようにしか見えない人間の根幹にある思いが、ただ愛されたいだけという至極真っ当で、人間らしく、驚くほど凡庸な感情だということが、当時のスペンサーを落胆させた。

 このどこか得体の知れない女性は、周りの誰とも違う感性の中で生きていて、他の誰にも見ることのできない世界を観測し続けながら、自分には想像もし得ない物語を紡いでいくのだろうと、そう思っていたからだ。

 幼い頃、密かに憧れの気持ちを抱いていた。

 こんなにも美しい人が、この世に存在するのだと思い、驚愕した。エステルは、子供の金銭感覚を養うために、家の手伝いをしなければ息子に小遣いを与えなかった。毎日コツコツと働き、ようやく貯めた小遣いでバラのブーケを買って、クロエに贈ったことがある。

「私にこれをくださるの?」クロエは澄み切った青空の上澄みを掬い取ったかのような目を大きく見開いたあと、同じくらいゆっくりと、その目を細めた。「嬉しいわ、どうもありがとう」

 あのときの舞い上がる気持ちといったら、大袈裟ではなく、天にも昇る思いだったことを覚えている。この人の美しい微笑みは今、自分一人だけが独占しているのだと思うと、嬉しくてたまらなかった。ませた子供だったのだ。

 それから一ヶ月ほどが経過した頃、クロエはいくつもの贈り物を携えて、再びこの屋敷を訪ねてきた。そのすべてがスペンサーへの贈り物だった。両親から無条件にプレゼントを貰えるのは誕生日とクリスマスだけ、欲しい物があるのなら、自分で働いて自分の稼いだ金で買えというのが、母の教えだった。だから、いくつものプレゼントを抱えて現れたクロエを見て、エステルはあまり良い顔をしていなかったが、スペンサーは大喜びで、それらすべてを享受した。

 自分はクロエ・ルーにとって特別な子供なのだと、スペンサーは思っていた。誕生日は必ず祝いに来てくれたし、物心をついた頃から、クリスマスの夜は一緒に過ごしていた。家族も同然の付き合いをしてきた。両親が映画の撮影で長期間屋敷を留守にするときは、一緒に過ごしてくれたことや、海外旅行に連れ出してくれたこともあった。

 両親の仕事の都合上、幼い頃は映画の撮影に同行することが多かったスペンサーは、十六歳まで学校に通った経験がなかった。家庭教師を雇い、ホーム・スクーリングで勉学に励んでいた。友達は一人もおらず、大人たちに囲まれながらの生活は、とても居心地が良かった反面、幼いスペンサーに痛々しい勘違いをさせた。

 十五歳になる頃には、自分はもう立派な大人で、同じ年頃の子供を見るにつけ、そのいかにも子供っぽい様子に嫌悪感すら覚えていた。自分は他の奴らとは違う、もっと大人になれと、そんなふうに思っていた。そうした物の考え方をしている時点で、自分が誰よりも子供であることに、気づいてさえいなかったのだ。

 だがしかし、あれは十六歳になる少し前のことだ、スペンサーは現実を突きつけられることになる。

 あの日は特に寒く、積雪がニュースになる程の大雪が降っていた。その日も、何の前触れもなくクロエが屋敷を訪ねてきたが、両親共に不在で、屋敷にはスペンサーと家庭教師、週に何度か手伝いに来てくれる家政婦の三人がいるだけだった。

 クロエは随分酒に酔っている様子で、家の中に入るなりリビングに向かったかと思うと、そのままの勢いでばったりとソファーに倒れ込み、すやすやと寝入ってしまった。

 クロエは酒を好んで飲んでいたが、足元が覚束なくなるほど酔った姿など、ほとんど見たことがない。どうしたものかと困惑している家政婦のために、エステルに連絡をしてみるが、そのまま転がしておくようにと言われ、すぐに電話を切られてしまった。

 念のために、家政婦はクロエの分の夕食も用意してくれたが、スペンサーと家庭教師が食事を終えても、案の定、目を覚さない。それから程なくして、水くらい飲ませた方がいいだろうと考えたスペンサーは、氷水を入れたグラスを片手に、リビングに足を踏み入れた。

「……」

 クロエ・ルーは、目を覚ましていた。いつからそうしているのか、ソファーの上に身を起こし、暖炉で爆ぜる薪の音に耳を傾けながら、窓の外で降り続いている雪を、ぼんやりと眺めていた。

「あの、水……」

 その横顔が、その眼差しが、その雰囲気が、今までに感じたこともないほど冷ややかに見えて、スペンサーはそれ以上の言葉を口にすることができなかった。

「……私、雪って好きじゃないのよね」その声は、氷水よりも、雪よりも、外の空気よりも、ずっと冷え切っているように感じられた。「あの日を嫌でも思い出してしまうから」

「あの日……?」

「私ね、あなたと同じ年頃の息子がいるの」思わず目を丸くするスペンサーを横目で一瞥し、窓の外に視線を戻した。「でも、捨ててきてしまった。雪の降る、クリスマスの夜に」

「え……」

「内緒にしてね」

 詳しい話は聞かなかった。いや、聞けなかった。

 その後、ボーディングスクールに通い始めたスペンサーは、親元を離れて寮に入り、クロエ・ルーとも会うことは少なくなった。それでも、クロエは誕生日とクリスマスにが必ず、プレゼントを送ってくれたが。

 寮生活は、スペンサーにとって窮屈なものだったが、良い経験にはなった。学校に通ったことがなく、集団行動には慣れていなかったが、新しい友人たちの助けもあり、何とか卒業することもできた。子供の頃から習っていたダンスが、友人たちとの距離を縮める手助けをしてくれたと言っても、過言ではない。

 だが、ふと思うことがあった。

 生まれてからの十数年間、自分は箱庭の中で、大切に、大切に育てられてきた。外の世界のいざこざのことなど何一つ知らず、平和な世界で生きてきた。酷く恵まれた環境の中にいた。放任主義だとばかり思っていた両親は、息子の自意識が育ち切るまで、物事の分別がつけられるようになるまで、責任を持って育ててくれていたのだ。

 映画監督の父と、有名女優の母との間に生まれた息子は、否が応でも注目を浴びることになる。謂われない中傷を受けることや、理不尽な妬みや嫉みに晒されることがあったかもしれない。

 有名人の子供というだけで、無条件に向けられる視線の雨を避けるために、ずっと、傘を差し掛けてくれていた。

 両親と同じようにとは言わないが、クロエ・ルーも少なからず、自分に愛情を向けてくれているはずだと、恐れ多くもスペンサーはそのように思っていたことがあった。自分は世界から愛されていると信じているような、純真で、生意気な子供だったのだ。それくらい、悪意からは程遠い生活を送っていた。

 それでも、あの雪の日、自分の考えは間違っていたのだと、そうスペンサーは確信した。幼い頃からの記憶が、ゾートロープのようにくるくると蘇っては、虚しく消えていった。

 クロエ・ルーは、スペンサーと同じ年頃の子供がいるの、と言った。子供がいた、とは言わなかった。捨ててきた、とは言わなかった。捨ててきてしまった、と言った。

 言葉の端々には後悔の色が滲んでいた。

 少なくとも、スペンサーにはそのように感じられた。

 帰する所、クロエがスペンサーにしてくれたことのすべては、捨ててきてしまったという息子にしてあげたかったことの数々なのだろうと、そう思った。

 誕生日とクリスマスに贈られる山ほどのプレゼントも、デートだと言って手を引いて歩いてくれた町でのショッピングも、逃避行のような突然の海外旅行も、何もかもすべて。

 そうでなくても、クロエ・ルーは国内外の大勢の子供たちに対して、一人の人間が一生涯掛けても出来ないようなことをしてきた。言うなれば、身を粉にして働き、自らの人生をかけて子供達のために尽くしてきた。

 だから許されるだろう、とは絶対に思わない。

 いかなる理由があったにせよ、子供を捨てるという行為を許容することはできないと、スペンサーは思う。

 だが、愛され、護られ、苦しみを知らず、温室の中で育つバラの花のように育てられてきたスペンサーには、想像もし得ないことだ。自分の腹を痛めて産んだ子供を捨てる親の気持ちも、親に捨てられた子供の気持ちも、到底理解できない。

 クロエ・ルーとアラン・ジンデルが血縁関係にあることも、最初から知っていたわけではない。

 何年か前に、脚本家のアラン・ジンデルとお近づきになったこと、機会があったら一緒に仕事をしてみたいことを、お茶の席で話したときに、意外にもクロエが食いついてきたのだ。私もその話に一枚噛ませてほしい、是非とも紹介をしてほしいと食い下がられ、断ることができなかったし、断る理由もなかった。だがもし、二人が生き別れた実の親子だと知っていたら、間に立ったかどうかは分からない。

「所詮、私は自分のことしか考えられない人間なのよ」クロエは軽い口振りで自身を卑下することがある。「社会に適合できないの。それなのに、人間の営みという輪から外れて生きていく自信も、覚悟もない。人一倍承認欲求が強くて、人の目に見つめられて初めて、自分という存在を認められる。厄介よね」

 ただ愛されたいだけのこの人は、人を正しく愛することができないのかもしれない。いや、正しい愛情の伝え方を知らないのだ。この三十年間、自分が息子のことをどんなふうに思っていたかなど、話して聞かせたこともないのだろう。

 だがしかし、あなたの代わりに、世界中にいる大勢の不遇な子供たちのために尽してきたと告白したところで、アラン・ジンデルはその事実に、微塵の興味も示さないに違いない。そもそも、クロエ・ルーを自身の母親として見ているかどうかすら怪しいものだ。

 クロエは間違いなく、アランに対して歪んだ愛情を抱いている。本人がそれを自覚しているかどうかは分からない。しかしながら、アランの方は、自らに向けられる異常な愛情を、確かに感じ取っているようだった。そうでなければ、あのような脚本を書くことはできない。

「だから言ったのよ、共同プロデュースはやめておきなさいって」

「私だって嫌だったわ」エステルの言葉を受けて、クロエは不満そうに言った。「でも、スペンス坊やが、スポンサーが付いていれば金銭面で楽ができるし、宣伝だって多角的に行えるからって」

「わたしの息子に責任があるような言い方だけれど、最終的な決断を下したのはあなた自身でしょう? そうやってぐずぐず言わないの」

「正直、今まではすべて人に任せきりだったから、独立してからは分からないことだらけ。最近になってようやく要領をつかんできたところなの。何事も常に頭を低くしておかなくちゃ駄目ね。プライドなんて捨ててからが勝負よ」

「あなた、最初からプライドなんて立派なものは、持ち合わせがないでしょう?」

「ええ、そう」

 エステルの指摘を否定することなく、クロエはあっけらかんとした様子で肯定しながら、モンブランの大きな一切れを口に運んだ。

「あれは私の舞台なのだから──」

「口に物を入れて話さないで」

 エステルは呆れたというふうな眼差しをクロエに向けながら、細長い指先でカップの柄を摘み上げた。クロエは途端に黙り込んだが、とはいえ急ぐ様子もなく、ケーキをゆっくりと堪能するように咀嚼している。

 パリの都から少し外れたところにあるこの屋敷の周辺には、閑静な住宅街が広がっている。そこに住む大多数が裕福層だ。都の喧騒からは離れ、静かに暮らしたがっているセレブばかりなので、騒がしさからは程遠い。四月はまだ肌寒い季節だが、この日は気候が良く、少し暖かく感じられていた。

「──あの舞台の権利は私が持っているのよ」ケーキをすっかり食べ終え、ハーブティーを飲み干してから、クロエは先程の話の続きからはじめた。「横から偉そうに口出しをしないでほしいわ」

「原案は著作物として認められない、というのが先方の考えです。作品の著作権はアラン・ジンデルが有しているとかなんとか」

「原案でも、具体性や明確性のあるアイデアの場合は、著作物として認められるそうじゃない。私、ちゃんとお勉強をしたのよ」

「初稿はほぼ原案通りの仕上がりでしたけど、今ではその原案に多分な脚色を加えた脚本に仕上がっていますから、正直なところどうなんでしょうね」

「私は初稿が一番好き」

 それには激しく同感だったが、迂闊に同意することもできない。スペンサーはハーブティーを口に運んでお茶を濁し、明言を避けた。

「舞台はお金儲けの道具じゃない」

「たとえそうであったとしても、先立つものがなければ何もはじまりませんよ」

「私はスポンサーなんかに自分の舞台を穢されたくはない。彼らが私になんて言ったと思う? 悲劇的な結末はもう流行らない。歌って、踊って、ハッピーエンドなストーリーに書き換えた方が、若者には受けると言ったのよ? 私は若者向けの舞台を作りたいわけじゃない。それでも、彼らの意向を汲んで、若者受けのする役者を起用した。脚本を書き換えさせてまでね。私は嫌だと言ったのに」

 初稿から何度脚本が書き換えられたか分からない。それ自体は、なんら珍しいことでもない。だがしかし、スペンサーは、プロデューサーから脚本の修正を指示されると、いつも気が重くなった。それをアランに伝えるのは自分の仕事だったからだ。

 アラン・ジンデルが、血反吐を吐くような思いで書き下ろした脚本は、今や見る影もない。それでも、アランは修正を指示されると、ただ「分かった」とだけ言って、淡々と本を書き換えていた。

 思うところはないのかと問うと、アランは「これは俺の物語じゃないから」と言って話を終わらせてしまう。

「個人的に、イライアスの起用は英断だったと思いますけどね。あのレベルで踊れるダンサーは貴重ですし──」

「それよ」クロエはスペンサーの話を遮ってまで続ける。「彼はダンサーなの。役者じゃない」

「アラン・ジンデルの一押しですよ」

「身内のよしみじゃないの?」

「彼は無闇に身内贔屓をしたりはしません」

「なによ、あの子の肩なんか持って」

「イライアスはここ数年で飛躍的に伸びています。それに、まだまだ伸び代もある。育て方次第では化けますよ、彼は」

「私は今すぐに化けてもらいたいのよ」

 クロエは以前から、イライアスの成長を急かすようなことを口にしていた。イライアスの役どころは、本来予定していた役割よりも大幅に出番が増えている。

 本当は、もっと安定感のある役者を起用したかったというのが、正直なところだった。

 確かに、イライアスは人気がある。だが、不安定なところがあるのは、否定できない。彼が立つ舞台を、何度か観たことがあるからこそ言えるのは、その日の気分の浮き沈みで、パフォーマンスの質が上下することがあるということだ。舞台を壊すほどの才能を発揮することもあれば、批評家にこき下ろされるようなこともある。

 彼のファンはそれすらも楽しむのだろうが、観客の多くは違和感を抱くに違いない。幕を上げた舞台は、一種の商品であり、そのパフォーマンスは一定の状態を保たれると同時に、品質は保証されて然るべきものだ。斑があるのはよくない。昨日と今日でまったく同じように演じて見せろとは言わないが、昨日よりも今日、より良いものを見せるくらいの気概はほしい。

 これは、真面目さや不真面目さの問題というよりも、当人の気質の問題なのだろう。イライアス自身は、誰よりも生真面目で神経質だが、何より繊細だ。だからこそ、現場の雰囲気や、その時々のパートナーの状態によって、仕上がりが左右される。

 幸いなことに、希佐とイライアスのパートナーとしてのバランスは良い。最近は歌とダンスの個々のレベルの向上を図っているが、そろそろ芝居のレベルアップも行うべきだ──とは、スペンサーも考えていたところだった。

「ねえ」

「なんです?」

「本当に私に寝返るつもりはないの?」テーブルに頬杖をつき、目を三日月のように細めてにんまりと笑いながら、クロエはスペンサーを見ていた。「今なら変わらず演出家としてのポストを用意してあげられるのだけれど」

「何やら不穏なお誘いですね。何を企んでいるんです?」

「乙女の秘密よ。野暮なことを聞かないでくださいな」

「私以上にあなたの我儘を聞ける演出家はこの世に存在しないと自負していたのですが」

「それが一人だけいるのよね、脚本家兼演出家が」クロエは、ふふふ、と含みのある笑いを漏らしながら、まるで挑発でもするかのような眼差しを向けてくる。「あなた、本当は彼を嫌いでしょう?」

「彼?」

「アラン・ジンデル」

 そんなことはありませんよ──と、即答することができなかった。いや、頭の中では即答していたのだ。だが、その言葉が口をついて出ることはなかった。しまった、と思ったときにはもう、既に遅い。

 クロエはどういうわけか、それが嬉しくて堪らないとでもいうふうな笑顔を浮かべた。それから、スペンサーが一度も手をつけていないモンブランを自らの手元に引き寄せると、舌舐めずりをしながらフォークを構える。

「いただいても構わないでしょう?」

「駄目だと言っても食べるんでしょう?」

「口止め料よ」刺したフォークの先が、サクッ、と音を立ててメレンゲを砕いた。「あの子は、あなたにはないものを持っているものね」

「口の端にクリームがついているわよ」

「ありがとう」二人が話しているのを、ただ黙って聞いていたエステルが差し出したナプキンを受け取り、クロエは口元を拭った。「あなたは自分のために他人を犠牲にする。だけど、あの子は、他人のために自分を犠牲にする」

「そういう物の考え方は改めろと言われましたよ。そうしないと一緒に仕事はしないって。私も改善できるように心掛けてはいます」

「私は無理だと思うわ。人の本質はそう簡単には変えられないのよ、スペンサー。あなたたちのそれは、子供の頃からたっぷりの愛情を注がれてきた人間と、そうではない人間の差ね」

 エステルが、どの口が物を言うのだ、という顔をしている。だが、クロエはその表情を目の当たりにしても、痛くも痒くもないようだった。

「あなたは唯我独尊タイプだもの。あの子は諸行無常」

「仏教のことはよく知りません」

「あなたは昔から自惚れ屋の坊やだったってこと。あなたが望めば、人はなんだってしてくれたでしょう? ご両親の威光が、あなたを光り輝かせていた。あなたは間違いなく良い子ちゃんだったけれど、それ以上に、計算高い子供だったのよ」

「身に覚えがないのですが」

「あなたは大人を手玉に取っていたの。自覚はなかったのでしょうけれど。控えめなようで積極的。思いやりがあるようで独善的。それを無自覚にやっているのだから、したたかよね」

 若い頃は自己肯定感の高さを皮肉まじりに指摘されることがよくあった。

 思い返してみても、幼い頃から自らの人格や選択を否定された経験がなく、家庭内のルールを守ってさえいれば、むしろ肯定的に意見を受け入れてもらえた。幼いスペンサーが“お願い”をすれば、大抵の大人はすぐに言いなりになった。

「スペンサー・ロローの言葉には、人を従わせる力がある。この人の言う通りにしなければという気持ちにさせられる。あなたは一見すると物腰が柔らかそうで、朗らかな印象を覚えるけれど、その実は詐欺師みたいなの」

「……マダム、今日は母親の前なので、どうかお手柔らかに」

「あら、私はこれでも言葉を選んでいるのだけれど」クロエはそう言って大きな目を丸くし、エステルを見た。「あなたの息子さんを貶しているわけではないのよ」

「大丈夫よ、クロエ」エステルはフォークの先でほんの少しだけモンブランを掬い取り、口元に運びながら続けた。「その意見にはわたしも概ね同意するわ」

「母さん」

「親子って似なくてもいいところばかり似てしまうみたい。あの人みたいにだけはなってほしくなかったのに。でも、やっぱり血は争えないのね」

「エンターテイメントの世界で財を成すような人間は、誰だってどこかのネジが数本外れているものよ」

「わたしたちもね」

 ふふ、うふふ、とにこやかに笑い合いながら、二人はこんもりとしたモンブランを削り取っていく。一見和やかな雰囲気だが、雲で日が翳ったせいか、体感温度がぐっと下がったように感じられた。

「あなたもヘスティアのチャリティーを観にいらっしゃいな。チケットは完売しているそうだけれど、誰かが余らせているかもしれないし」二個目のモンブランもぺろりと食べてしまったあと、クロエが言う。「きっと面白いことになるわよ」

「それはマダムにとって、ということですよね?」

「さあ、どうかしら」

 この人はときどき、こうして恐ろしく冷めた目をして、ここではないどこかを見つめることがある。感情の一切が消え失せたかのような眼差しは見る者をゾッとさせるが、同時に、その色の美しさに心を奪われるのだ。

「あなたが私に付くか、向こうに付くのか、イベントが終わった後にもう一度聞かせていただくわ」クロエはそう言ったかと思うと、古い腕時計に目をやり、腰を上げた。「そうそう、あの子たちの出演は私が許可したの。だから、あまり口煩く叱らないであげて」

「契約があるんですよ、マダム」

「才能を独占して何のメリットがあるというの?」

「その才能を守るためです」

「物は言いようね」クロエは同意しかねるという不満そうな表情を浮かべてから、少しだけ悪戯っぽい顔をした。「あなたのだーいすきなアラン・ジンデルもステージに立つそうだけれど?」

「アランが……?」

「ええ、そうよ」

 じゃあ、また遊びに来るわ──クロエはそう言ってテーブルを回り込んでくると、エステルの唇に軽くキスをしてから、白い鍔広の帽子を頭に乗せて颯爽と去っていった。

「ほんと、神出鬼没だこと」

 テーブルの上を片付けながらそう言ったエステルの表情は、どこか満更でもなさそうだ。互いに独り身である以上、二人の関係に口を挟むのはお門違いだと思いながらも、母親とその親友のキスシーンを見せられる息子としては、複雑な気持ちだった。

「なあに?」エステルはクロエそっくりに目を細めた。「羨ましいの?」

「やめてくれよ、母さん」

「クロエはあなたの初恋の人だものねぇ」

「あれはただ密かに憧れていただけで──」

「子供の頃からクロエに恋をするような子ですもの、恋人を紹介してもらえるのは、まだまだ先になりそうね」

 この歳になっても、スペンサーが母親に恋人を紹介したことは、ただの一度もなかった。初めて恋人ができたのは、アメリカの大学に入学してからのことだった上に、そもそも、紹介したいと思えるような女でもなかった。恋人がいないことをとやかく言われることが面倒で、惰性で付き合っていただけだった。結婚を考えていた女も、この足が原因で別れてしまった。

「母さんはね、あなたが選んだ人なら誰だって構わないのよ。男性だろうと、女性だろうと、みんな同じ人間なんだから」

「今は仕事が忙しいんだ」

「実家で何日もだらだらしているのに?」

「多少の息抜きは許されて然るべきじゃないかな」

「まあ、そうね。わたしもお仕事、おやすみしているし」

 エステルは、夫が病死してからずっと、女優業を休業している。恐らく、このまま女優業に復帰することはないのだろう。頻繁に映画の出演オファーが来ているそうだが、すべて断っているらしい。

「そういえば、あの子、名前はなんと言ったかしら」スペンサーがエステルの前にある食べかけのモンブランに手を伸ばしていると、そう問いかけられる。「ほら、セント・パンクラス駅の」

「ああ、キサのこと」

「そうそう、キサ」

 まだほとんど原型を保っているモンブランにフォークを刺し、もったりとした栗のペーストと、意外にさっぱりとしている生クリームを掬い取る。それを口に入れてから、底のメレンゲを砕いて口の中に放り込んだ。

「前にね、クロエが素敵な子を見つけたって話してくれたときから、ずっと気になっているの。どんな子なのかしらって。クロエが誰かを手放しに褒めるなんて、とても珍しいでしょう?」

「間違いなく良い子ではあるけど」

「けど?」

「我が強い」

「舞台人なんてみんなそんなものじゃないの」

「演出家の指示を聞かないタイプの役者だ。こうしてくれと指示を出したところで、それは違うと反論してくるタイプ。役の掘り下げが得意なんだろうね。私とは解釈が食い違うことが度々あるんだ」

「それって悪いこと?」

「え?」

「従順な役者ほどつまらないものはないわよ。扱いやすくはあるのでしょうけれど。言われた通りのことしかできない子に、その先はない」

 彼女が自分の言いなりになると思っているのなら、それは大きな間違いだ。あのじゃじゃ馬は誰の言うことも聞かない。毎日、今日が人生最後の日だと思って生きてるような人間に、何を言っても無駄だよ──これは、アランがスペンサーに向かって言い放った言葉だ。

 スペンサー・ロローは今、立花希佐という役者を殺しかねない、極秘の映像を所持している。アラン・ジンデルが姿をくらましている間に撮影した、立花希佐が女性であることを、自分自身で告発している動画だ。日本語のものと、英語のもの、二本用意してある。

『勝手を言うようですまねぇが』希佐に通訳を頼み、ユニヴェール歌劇学校の校長である中座秋吏と話をした。『四月の入試が終わるまでは、動画の公開は控えてほしい。子供たちの将来が掛かった入試の日に、大勢のマスコミが校門前に押し掛けてきた日にゃあ、動揺してそれどころじゃなくなっちまうだろうからな』

 ユニヴェールの入試は無事に終わった。動画は好きに公開してくれて構わない──中座秋吏からは、そのように連絡をもらっている。だがしかし、あの動画はまだ公開していない。

『校長先生とスペンサーさんのお好きなタイミングで公開してくださって結構です』

『怖くはないのかい?』

『いつかは向き合わなければならない問題ですし、それに、怖いというよりも、周りの方々にご迷惑をおかけすることが分かっているので、それを申し訳なく思います』

 公開のタイミングも、するもしないも、あなたが決めてくれと、中座秋吏は言っていた。最終的な判断は一任すると。

『最後の審判って日は、いつ来るかなんて知らねぇ方がいいに決まってるからなあ』

 それはまるで冗談でも言うかのような口振りだった。

 自分が女であることが露見したら──その現実に怯え続けていたという希佐との温度差に、スペンサーは少しだけ戸惑っていた。もしかしたら、希佐が悲観的に捉えすぎてしまっているのではないかと、そう思ったほどだ。

 むしろ、そうであれば良かったのだろう。

『今後、その映像が世に公開された結果、立花希佐の身にどのような災いが降り掛かったとしても、俺が最後まで責任を持って面倒を見るつもりだ。そんくらいの覚悟はある』これはメールでのやり取りの一文だ。『あいつをユニヴェールに引き入れたときから、覚悟は決まっていたのさ』

 この一件について、件のプロデューサーにも話をしてみたが、彼は「絶対に公開するな」と言って、二人の決意と覚悟を真っ向から否定した。

 未だ詳しい情報開示はなされていないものの、既にスペンサー・ロローとアラン・ジンデルがタッグを組み、新作の舞台を行うという話は業界内では有名だ。しかも、原案者であるクロエ・ルー自身が、待ちきれないとばかりに情報を小出しにしてマスコミの目を惹きつけているので、いやでも注目を集めてしまっている。

 先だってのセント・パンクラス駅での一件も、プロデューサーは相当にお冠だった。勝手なことをしやがってと口汚く罵っていたが、先方のカンパニーからむしろ感謝のメッセージが届くと、くるりと手の平を返していたものだ。図々しくも、家族親戚分のチケットを融通してもらい、特等席で舞台を観劇したという。

 稽古が忙しく、劇場に足を運ぶことが出来ないと判断したらしい希佐は、知人親子にチケットを譲ったという話は、アランから聞いていた。

「正直、あの日本人女優のどこが主演に相応しいのか、私は理解に苦しむが、マクファーソン兄弟があの子を買っているという話を小耳に挟んでね」

 あのプロデューサーは最終審査の希佐を捕まえて、すこぶる地味だ、などと言い放った人間だ。舞台、芸術、才能とは何たるかというものを、少しも理解してはいない。

 それでも、羽振だけはいい。理想の舞台を作り上げるためにはそれなりの資金が必要で、そのためには、友人にはなれないタイプの人間とも、仲良くやらなければならないこともある。

「それに、あれだけSNSで評判を呼んだんだ、金のなる木だってことは間違いあるまいよ。上手く利用すれば、莫大な利益を生む金の卵になってくれるはずだ」

 ほんの少し前なら、スペンサーはこのプロデューサーの言葉に、大方同意していたのかもしれない。

 例えるなら、舞台はチェス盤、演出家はプレーヤーで、役者はその駒だ。

 役者は演出家の指示通りに動き、チェス盤の上で踊っていればいい──ただ平然と、そのように考えていた。母の言う通り、自分は父の嫌なところを余すことなく受け継いでしまっていると、スペンサーは思う。

 善人のような顔をして現場を支配することは、恐らく、推奨されるべきことではない。それはきっと独裁者と変わらない。だが、いくら改めようと努力をしても、昔からの癖はそう簡単には抜けなかった。その現場において、自分が最も正しいのだという錯覚が、身に染み付いている。

「あのね、スペンス坊や」

 酒に酔って若干の弱音を吐露したスペンサーに向かって、クロエが心底呆れたというふうな目を向けたことがあった。そして、自分たちから少し離れた席でウイスキーを舐めていたアランをグラスで差し、口を開く。

「どの舞台でも総じて正しいのは脚本家よ。彼らが物語の神様なの。演出家なんてね、人様の物語を自分勝手に捏ねくり回して、美しく着飾らせるだけの、謂わば雇われ店長みたいなものなのよ」

「だったら脚本家が演出家も兼ねればいいじゃないですか」

「そんなことをしてみなさいな、どんどんコストが嵩んで、公演前に破産するのが目に見えているわ。決められた資金の中で最高の舞台を演出するのが、演出家のお仕事でしょう? 違う?」

「そうやって言うのは簡単ですよ」

「演出家はね、脚本があって、役者がいて、初めて成立するお仕事なの。脚本家は船、演出家は航海士、役者やスタッフはその乗組員」

「船長は誰なんです?」

「私よ」クロエは、ふふん、と機嫌良く笑う。「船がなければ海に漕ぎ出すことはできない。たとえ船があったとしても、航海士一人だけでは、その船を動かすこともできない。大勢の乗組員がいたとしても、圧制を敷いているようでは、いずれ暴動が起こる。さあ、そこでこの私の登場よ」

「船長席で踏ん反り返ってあれこれ指図するんですね」

「必要に応じてクルーのお尻を蹴っ飛ばして回るの」

 かつては、親の七光りと言われることを嫌い、映画の道には進まず、最初はダンサーとしてブロードウェイの舞台に立っていた。素性は隠して活動を続けていたが、隠しておきたいことほど、あっという間に人々の知るところとなる。

 その頃には、徐々に実力が認められはじめ、名前のある役をもらえるようになっていたが、数々のヒット作品に出演している母親ほどの才能には恵まれなかったようだと、扱き下ろされることが多かった。そんなときでも、クロエは「言いたい人には言わせておきなさい」と言って、大層美味しそうにエールを呷り、スペンサーの卑屈っぷりを鼻で笑ってくれた。

 こんな足になって、見るからに腐っていたスペンサーに、バージルが出演するステージのチケットを送ってくれたのも、他ならぬクロエだ。

 あの日の夜、あの男の魂の鼓動に触れてようやく、前を向くことができるようになった。一切動かなかった足の爪先が、タップダンスのリズムを取るように動いたような気がして、リハビリをはじめた。

 そうした数々の気遣いは、本来であれば自分ではなく、アラン・ジンデルが受けるべきだったのだろう。自分はただの親友の息子で、アラン・ジンデルの身代わりでしかない。それでも、クロエが自分に向けてくれた思いが、偽りであったことなど一度もないと信じているし、他の大多数の人間よりも可愛がられている自覚はある。

 子を捨てた親の気持ちも、親に捨てられた子の気持ちも、スペンサーには分からない。かといって、理解しようとも思わない。そういう人間がすぐ近くにいる。ただそれだけのことだ。もし関係を修復したいと思うのなら、当事者同士が向き合う努力をすればいい。

 ただ、アラン・ジンデルは一生涯産みの親を許しはしないだろうし、クロエ・ルーもまた、捨てた子に許されたいと思うことはないのだろう。

「わたしも一緒にイギリスへ行こうかしら」

「……え?」不意に聞こえた声で、スペンサーは我に返る。「何か言った?」

「わたしも一緒にイギリスへ行こうかしら、と言ったのよ」

「もちろん、母さんがそうしたいなら構わないけど……」

「久しぶりにメレディスにも会いたいし」それに、と言って、エステルは目を細める。「あのクロエが自慢げに話す女の子を、この目で見てみたいの」

 クロエ・ルーには、いつか恩返しをしなければと思っていた。だから、アラン・ジンデルを紹介してくれと頼まれたときも、今度の舞台で演出家を務めてほしいと言われたときも、二つ返事で了承した。

 より良い舞台のため、クロエ・ルーが理想とする完璧な舞台を実現させるための資金繰りにも奔走したが、その努力は良い結果を生みそうにはない。

「マダムがおっしゃっていた通り、チケットは完売しているだろうから、ステージを観られるとはかぎらないよ。一応、知人を当たってはみるけど」

「そのときは大人しくカウンターでお酒でも飲んで待てばいいじゃない」

「それじゃあ、母さんの分の飛行機のチケットも取っておくよ。ホテルはいつもの場所で良い?」

「ええ、ありがとう」

 そうと決まれば、こうしてはいられないわ──エステルは、胸の前で両手を合わせてそう言うと、テーブルの上を急いで片付けようと腰を上げた。片付けは請け負うと言えば、エステルは嬉しそうに微笑んで、スペンサーの頭にキスをしてから、軽やかな足取りで屋敷へと戻っていく。

 昨夜、最近白髪と目尻の皺が目立つようになってきたと嘆いていたので、出発までにエステやサロンに足を運ぶつもりなのだろう。母のことだ、旅行を理由に、洋服や化粧品、ネイルなども新調するに違いない──というスペンサーの予想は、見事に的中する。

 エステルは数日もすると、普段から庭仕事に勤しんでいるとは到底思えないほど、キラキラした女優の姿を取り戻していた。我が母親ながら、その美貌には驚愕を禁じ得ない。もう少し母親に似たところでもあれば、違った人生を送れただろうと思うと、スペンサーは妙に虚しい気持ちになった。

「お待たせ、母さん」

 普段から荷物は多い方だが、今日は更にエステルの荷物も引き受けていたので、入国審査に余計な時間が掛かってしまった。審査官に了承を得てから電話に出て、話をしながらその場を離れたスペンサーは、先に入国審査を終えていたエステルの側まで向かう。

 クロエ・ルーと同様、エステルには変装をしようという意思が、少しもない。きらきらしいオーラを振り撒きながら空港に立つその姿は、恐ろしく目立ってしまっている。

「アランとは連絡がついたの?」

「ああ」

「わたしのことは──」

「大丈夫、言ってないよ」

 突然登場して吃驚させたいからと、エステルからは、自分が行くことは絶対に誰にも言うなと、飛行機の中で何度も釘を刺されていた。早くクロエの驚く顔が見たいわぁ、と朗らかに笑うその顔を見て、もう既に大勢の人間が驚いているなどとは思いもしないのだろう。

 おい、あれってエステルだろ──雑多の中からそのような声が聞こえ、スペンサーは小さくため息を吐く。

「どうかした?」

「もうすぐ電車の時間なんだ」スペンサーは首を横に振ると、大きなトランクを引きずりながら歩き出した。「少し急いだ方がいいかもしれない」

「ねえ、一度ホテルに寄るでしょう? シャワーを浴びたいの」

「はいはい」

「あっ、その返事の仕方、ほんとあの人にそっくり。やめてよね、もう。嫌なところばっかり似てくるんだから」

「そりゃ父さんの子だからね」

 母から演技の才能を受け継ぐことはできなかった。だが、父から演出の才能を受け継いだ。

 映画監督として働く父は、少しも仕事が楽しそうではなく、ただただ苦痛そうに、しかめ面ばかり浮かべていたことを良く覚えている。あの頃は、どうしてそんなに嫌な仕事を、苦痛を抱えながらやり続ける必要があるのだろうと、そう思っていた。でも、今ならその理由が分かる。

 父にとって、映画監督は天職だった。父の特性を余すことなく生かせる、最上の仕事だった。ただそれが、父が本来求めていた仕事ではなかった、というだけのことだ。

 だから、今となっては、父の気持ちがよく分かる。

 スペンサーにとって舞台演出家は天職だ。

 だがしかし、この仕事を一生涯続けていきたいとは、到底思えない。今だってまだ、ダンサーという職業に、未練を覚えているのだから。

 

 

 

「……もう舞台には立ちたくないんだ」

 薄々感じ取ってはいたのだ。

 アラン・ジンデルの心が、舞台の上から遠ざかっていることには。

 それなのに、自分では何も気づかないふりをして、アランを舞台の真ん中に立たせ続けていた。劇団を離れれば、アランは唯一の居場所を失うことになる。教会の手伝いを強いられ、今以上に、肩身の狭い思いをすることになるのかもしれない。養父からの暴力が、エスカレートする可能性だってあった。

 だから、せめて成人するまでは、劇団を辞めさせるわけにはいかなかったのだ。

「あの子には申し訳ないことをしてしまったと思うわ」結婚を機に劇団を離れたジュリアとは、定期的に顔を合わせていた。「私があんなことを言ってしまったから、責任を感じてしまったのよね」

 ジャスト・ロビンの看板だったジュリアは、後は君に任せたと、アランにすべてを託して劇団を去っていった。責任感の強いアランは、ジュリアとの約束を守り、比較的遅くにやってきた変声期の頃までは舞台に立ち続け、劇団の顔として仲間たちを牽引してくれていた。

 だが、その変声期を理由にアラン・ジンデルが舞台を離れると、チケットの売れ行きが少しずつ悪くなる。すると、劇団には無理を押してでもアランを舞台に上げるべきだと、そう主張する者たちが現れた。

 この頃にはもう、劇団を立ち上げた頃のオリジナルメンバーは、そのほとんどが退団し、数人を残すだけとなっていた。アランの家庭の事情を知る者も、ほとんどいない。むしろ、昔から舞台を観にきてくれているファンの方が、事情に明るいくらいだった。

 当時のジャスト・ロビンに所属する者の中には、役者──所謂、商業の舞台に立つ役者を目指している者も多くいた。対してメレディスは、幼い頃から小劇場の舞台を観て育ち、それ自体に強い興味を持っていたので、商業の舞台にはさほどの関心がなかった。

 劇団の舞台に立ちながらオーディションを受ける者もいたし、オーディションに合格をして商業の舞台に転向した者もいれば、何年経っても役者としての芽が出ず、劇団を去っていく者もいた。

 公演には、父や祖父の友人でもある舞台関係者が足を運んでくれることもあったので、そういう人間からのスカウトを狙っている者もいただろう。それは、才能さえあれば手っ取り早い手段ではあるのだろうが、そうした者たちには大抵、役者に必要なものがどこか欠けている。

 劇団の中で、方向性の違い、というものが目立つようになってきていた。メレディスは主宰として、劇団員全員の方向性というものを、一つにまとめ上げることができなくなっていたのだ。

 立ち上げ当初は、劇団員のための劇団であることを心掛けていた。

 才能はあっても、家庭や学校、地域に馴染めず、問題を抱えている人々もいた。だから、そうした人々の、拠り所になりたいとも思っていた。

 自分のような者が、役者になりたいなどと、烏滸がましいことは言わない。だが、誰かの手助けくらいならできるだろうと、メレディスは考えていた。

 一芸に秀でた者は思いの外大勢いるもので、そういう人々を無条件に受け入れ続けた結果、ジャスト・ロビンはいつの間にか、この界隈では知る人ぞ知る劇団に成長していった。個々の得意分野を生かし、舞台を作り上げていくことで、完成度の高い公演を行うことができていた。

 かつての劇団員の中には、今でもウエスト・エンドの舞台で活躍している者や、ブロードウェイに渡った者、国内外で映画やドラマに出演している者もいる。仲間たちのそうした活躍を見聞きすると、とても嬉しく、誇らしい気持ちになった。

 だが、その他大勢の者たちは、メレディスのようにロンドンの雑多に塗れながら、何食わぬ顔をして日常を送っている。心の片隅では、あの輝かしい日々を懐かしく、どこか妬ましくも思いながら、今を生きている。もうあの頃には戻れないと十分理解はしているのに、時々思い返しては、あの眩しい日々に目を細めたりしている。

 ジャスト・ロビンの在り方が変わってしまったのは、いつからだったか。

 身内のための劇団はいつからか、商業を目指すための足掛かりのような場所になっていった。将来に強い希望を抱く若い才能が集まってくるようになり、個々の主張が強くなるにつれて、舞台の質は明らかに落ちていった。

「あいつのこと、いつまで休ませておくつもりなんスか?」

 劇団の稽古場に顔を出してはいても、何の稽古をするわけでもなく、日がなぼんやりとしているだけのアランを見て、苛立つ者は多かった。

 実際のところ、何の用もなくても、稽古場には頻繁に顔を見せるようにと言っていたのはメレディスで、アランは仕方なくその言葉に従っていただけだ。そうでも言わなければ、アランはぱったりと姿を見せなくなり、そのままどこかに消えてしまうのではないかと、不安だった。

「次の公演のことだって、有耶無耶にされたままじゃないスか」

 その半年程前、設立当初から劇団の脚本を書いていた男が、平謝りをしながら辞めていったばかりだった。何やら相当額の借金をしていたらしく、首が回らなくなったとかで、夜逃げをしたらしい──という話をアランにしたところ、同時期に自分の前にも現れたと、そう話していた。

「金を貸してほしいって」

「貸したのかい?」

「うん」アランは呆れ果てているメレディスを一瞥するが、すぐに手元の本に視線を戻していた。「別にたいした金額でもなかったし。それに、その金が返ってくるとも思ってない」

「だからって──」

「あの人には世話になったから」

 アランは十六歳になる前から新聞配達を、それ以降は、書店や大型倉庫の作業員など、あまり人と関わらずに済むアルバイトを選んで、金を稼いでいた。早く一人暮らしをしたいと言って貯金をしていたが、大学を卒業してから引きこもっている間に、それも底をついてしまったと聞いている。

 それ故、ジャスト・ロビンは脚本家のいない劇団となり、この先の見通しも立っていなかった。知り合いの脚本家にも当たってみたが、すぐに用意することはできないと断られる始末だ。仕方なしに、昔の脚本を引っ張り出してきて、何か良い演目はないかと眺めていると、ふと思い立つ。

「アラン」

 アランはその日も、劇場の窓辺に椅子を引っ張っていって腰を下ろし、膝の上に置いた分厚い本を読んでいた。

「なに」

「今度の公演の脚本を書いてくれないかな」

 本人的には戯れで書いたつもりだったのだろうが、前に何本か読ませてもらった短い戯曲は、それなりの完成度だった。

 何より、ただ無下に稽古場に顔を出させるのではなく、何らかの役割を与えてやった方が、アラン自身にも、そして劇団員たちにも、精神衛生上良いのではないかと、そう思ったのだ。

「別に、いいけど」

 本から顔を上げ、メレディスのことをじっと見つめていたかと思うと、アランは小さな声でそう答えた。

 しかも、アランが数日で仕上げてきた脚本は、思いの外好評だった。

 脚本の書き方を前任者から学んでいたことは知っていたし、日常のちょっとした小話を切り取ったかのような、十分から十五分程度の脚本なら難なく書けるのだろうと思っていたが、アランが僅か一週間程度で書き上げてきたのは、一時間半の大作だった。

 登場人物は五人だけ。複雑な人間関係が絡み合った群像劇で、最終的には誰一人として幸せにはならない、後のアラン・ジンデルを彷彿とさせる物語だ。これが観客にも好評で、これまでのジャスト・ロビンとは一味違う演目だと話題を呼び、新しい客を呼び込むことにも繋がった。

 大学に入学してからも、演劇サークルに所属していたことを考えると、アランは舞台を嫌ってはいなかったのだと思う。舞台の上には立たずとも、舞台に関わり続けることで、自らの居場所を守りたかったのだ。

「なあに、辛気臭いお顔をして」咳が止まらない父に代わって、カウンターに入っていたメレディスの前に立ち、クロエ・ルーが言った。「お父様にお叱りを受けるのではなくて?」

「マダム」

「お酒をいただけるかしら」

「はい、ただいま」

 この頃、父の病気はまだ発覚しておらず、病院に行けというメレディスの言葉は、ものの見事に聞き流されてしまっていた。この数日後、無理やり引きずっていった私立病院で、余命宣告を受けることになる。

「あの子は元気?」

「マダム」

「元気なの?」

 この世界には八十億人以上の人間がいる。

 イギリスの人口は七千万人近い。一人の人間が一生である程度の接点を持てる人間の数は約三万人。学校や職場で出会う人間が約三千人といわれている。当たり障りのない知人は約三百人、友人ならば約三十人、親友ともなれば、ほんの三人程度。統計上の話だ。

 世界は広く、あまりに膨大な数の人間で溢れ返っていて、考えれば考えるほど息が詰まる。毎日毎日、知った顔や、知らない顔が店を訪れる。道端で声を掛けられても、名前どころか、顔も覚えていない人間は大勢いた。

 人は出会う。

 出会うべくして出会う人々がいる。

 本当は、出会うべきではない人々が、まるで導かれるようにして、出会うこともある。

「……元気ではあると思います。少なくとも、肉体的には」

「そう」

 クロエ・ルーは、父の代からヘスティアに通っていた。

 父はとにかくクロエのことを気に入っていて、実際、本当の娘のように可愛がっていた。母が若くして病死し、以降再婚もしなかったが、どうせなら娘が欲しかったと、いつも話していた。本人に悪気はなかったのだろうが、父が娘が欲しかったと口にするたびに、自分は必要のない子供だったのではないかと思い、小さなメレディスは心を痛めていた。

「今月も、お願いできる?」

「もうそろそろ手を引かれてはいかがですか?」メレディスは瓶のコルク栓を抜き、新しいグラスにウイスキーを注ぎながら言った。「あなたは、もう十分に──」

「目的を果たしたと思う?」無地のコースターをカウンターに置き、その上に音もなくグラスを乗せると、クロエは感謝の言葉を口にしてから、軽く目を伏せた。「お兄様は、幼い頃から本当に手先が器用でいらして、家具職人になるのが夢だったのですって。でも、お父様がそれをお許しにならなかったそうよ」

「それは──」

「だから牧師になったって」クロエの指先が、低いグラスの縁をゆっくりとなぞる。「牧師になったからと言って、家具職人の夢を諦める必要はないと思うの。第一、このご時世、教会運営で食べていくことなんて不可能でしょう? あの辺りは移民街で、自分たちの生活で精一杯の方々も多いようだから、きっと献金なんて微々たるものだわ。それなら、手に職をつけた方がお兄様のためにもなると思わない?」

 金で愛を買うことはできない。

 クロエ・ルーは誰よりもそのことを痛感しているはずなのに、それ以外の解決方法を知らなければ、考えてみることもしないのだ。

 自分の愛を、金で買われた経験が、過去にあるからだろうか。

「支援は続ける」

 教会の牧師は、アランが大学に入学する少し前に、精神を病んで施設に入居した。教会は息子のロバートが引き継ぎ、以後運営を続けている。それ以外にも、街の小さな工房を借りて、家具職人としての手腕を振るっていた。

 あの教会と、家族には、毎月匿名の献金がある。

 毎月、同じ日に、同じ金額が、口座に振り込まれる。

 あれは、二十年程前のことだ。クロエがジャスト・ロビンの舞台を観に来てくれたことがあった。その頃にはもう、アラン・ジンデルは舞台の真ん中に立っていて、自らの才能を遺憾なく発揮し、観衆の視線を一身に集めていた。

 舞台を台無しにしたくないからと、開演時間の少し前にやって来たクロエは、劇場後方の壁際に立ち、舞台をじっと見つめていた。

「帰るわ」

 舞台が終わると、クロエは感想一つ言わず、真っ先に劇場を出ていった。

 その日の公演は、マザーグースの『Who Killed Cock Robin?』をモチーフにした作品だった。義賊ロビン・フッドの物語で、子供向けの脚本と演出ではあったが、大人も十分に楽しめる舞台だ。丁度、あの日の公演には、近所の児童養護施設の子供たちも招いていた。

 クロエが再び姿を見せたのは、それから一ヶ月が経過した頃だった。

 早朝、今から会えないかと連絡があったのだ。大丈夫です、と返事をしたは良いが、一体どういうことだと、頭の中が真っ白になっていたことを、よく覚えている。

 クロエはアパートの前まで車で迎えにくると、助手席にメレディスを乗せて、まだ車通りの少ない道路を走り出した。針の先で刺されるような、痛々しい沈黙が続く。車内は暖房も掛けられてはおらず、二月の冷たい空気がそのまま閉じ込められて、吐き出す息を白く染めていた。

 無言のまま二時間程走り続けて辿り着いた場所は、ロンドンから南に下った先にある、シーフォードとイーストボーンの中間にある土地だった。この辺りには、イギリス海峡に面したセブン・シスターズという有名な白亜の崖があり、映画のロケ地になることも多く、観光客がひっきりなしに訪れる。

 がらんどうとした駐車場に停車すると、クロエは後部座席に積んでいたストールをメレディスに押し付けてから、車を降りて行った。メレディスはその真っ赤なストールを掴み、クロエを追って車の外に出た。

 二月のセブン・シスターズはさすがにシーズン外のようで、地元民が散歩をする姿すら見られない。海から吹く風は強く、冷たく、身体が凍てつくようだった。メレディスは肩をすくませながら、先を行くクロエを早足で追いかけ、手に持っていたストールを寒々しい首に巻きつけてやろうとした。

「私はいいの」

「ですが──」

「いいのよ」

 クロエは自らの首に掛けられたストールを手に取り、それをメレディスの首に巻きつけると、軽く頬に触れてから歩き出した。

 セブン・シスターズに足を運ぶのは初めてのことだった。一緒に来ている相手が他の誰かであれば、もう少し景色を楽しむ余裕もあったのだろう。だがしかし、無言のドライブを経ていたメレディスの精神は、恐ろしく疲弊してしまっていた。ここに置き去りにされないかぎりは、帰りも同じだけの時間を耐えなければならないのだと思い、酷く憂鬱な気持ちになっていた。

「先日は、ごめんなさいね。急足で帰ってしまって、申し訳なかったわ」

「いいえ」

「私、あなたに甘えているのよ」え、と漏らすメレディスを一瞥するが、クロエの横顔に表情はない。「あなた、私を好きでしょう?」

 はい、とも、いいえ、とも言えなかった。

 当時のメレディスは──いや、今のメレディスでも、クロエにとっては、ただの坊やでしかない。

 メレディスは確かに恋をしている。だが、その恋が実るとは思っていないし、実らせたいとも思ってはいないのだ。その思いは、二十年近くが過ぎた今も、変わっていない。 

 セブン・シスターズの崖の上には、手摺りなどは一切なく、白亜の壁が、ずっと先まで続いていた。チョーク層の崖は、年間数十センチずつ削り取られており、いずれ失われるのではないかと言われている。

 その日は、よく晴れているとは、お世辞にも言い難い天候だった。あいにくの曇天が空を覆い隠していた。

 目の前にある崖からは、飛び降りようと思えば、今すぐにでも飛び降りることができた。突き落とすことだって簡単だ──どこまでも広がる、鈍色の海原を眺めながらそんなふうに考える自分を、メレディスは恐ろしく感じた。

「バルフルール」

「え?」

「バルフルールよ。私の生まれ故郷」クロエはそう言いながら、メレディスが見ていた方向を指した。「私は、この海を挟んだ向こう側にある、フランスの小さな港町で生まれた。町というよりも、村かしら。側から見れば、美しくて良いところなのでしょうけれど、私にしてみれば酷く退屈なだけの場所だったわ。早くこんなところから逃げ出してやるんだって、ずっとそう思ってた」

 バルフルールはフランスの最も美しい村の一つに選ばれているコミューンだ。人口は六百人程の小さな村だが、人気の観光地だということは知っていた。

「父は漁師でね、無骨で、朴訥とした人よ。多分今も生きているのではないかしら。父とはあまりお話をしたことがないの。だから、母親のことは何も知らない。物心ついた頃にはもう、あの家には父と私しかいなかった」

 クロエ・ルーは明け透けで、正直で、変に真面目なところがある。誰からの質問にも真摯に向き合い、いつも丁寧な返答を心がけているように見受けられた。

 だが唯一、自らの過去についてだけは、何も答えない。のらりくらりと言い逃れをする。だから、クロエ・ルーの家族や、故郷や、幼少期のことなどは、誰も知らない。コンセルヴァトワール以前のクロエ・ルーを知る者は、誰もいなかったのだ。

「誰が私を産んだかなんて、興味はないの。だって、誰が産もうと、私は私だから。産んでくれてありがとう、なんて気持ちは微塵もない。そもそも、母親が今もまだ生きているのか、死んでいるのかすら、私は知らない」

 次々と打ち明けられていく秘密を聞いていると、メレディスは急に恐ろしくなる。

 自分は一体、どのような見返りを求められるというのだろう。途端に、耳を塞いでしまいたい衝動に駆られるが、メレディスはどうしてもクロエの横顔から目を逸らすことができなかった。

「だけど、もし生きているのなら、母は父に愛想を尽かしたのだと思うわ。それとも、気味が悪くなったのかしら。何を考えているのか分からない人間ほど、恐ろしく感じられるものよね。私は、父の笑った顔も、怒った顔も、見たことがないの。母は父のどこを愛したのかしら。それとも、そこに愛などはなくて、ただの一時の気の迷いが、私を産んだのかしら」

「マダム……」

「勘違いしないでちょうだいね。私は同情してほしいわけでも、自分の生まれを悲観しているわけでもないのよ」

 困惑を隠しきれないメレディスの顔を見て、クロエは場違いなほどにこやかに微笑んだ。その笑顔を浮かべるために、無理をしているようには見えなかった。だが、その笑みは焼き増しをした仮面を貼り付けているようで、薄気味が悪くも感じられた。

「私は十五歳で家を出た。船にこっそり忍び込んでね、イギリスに渡ってきたの。後にも先にも、あんなにドキドキしたことはなかったわ」

「あの、それは──」

 密航ということか──そう口にしようとしたメレディスの唇に、クロエは人差し指の先を押し当てた。

「楽しかったのは最初だけ。貯金はすぐに底をついて、私は路頭に迷った。信じられる? 私は食うに困って、残飯をあさっていたのよ。パブの裏口に回ると、大抵ゴミ箱があるでしょう? 私は夜になると物陰に隠れて、ゴミ箱に食べ残しが投げ込まれるのを、いつも心待ちにしていたの」

 メレディスにはよく分からなかった。冗談を言っているような口振りではなかったが、本当のことを言っているようにも聞こえない。それが事実であるのだとしても、なぜ自分に語って聞かせるのか、理解が及ばなかった。

「いろいろなパブを転々とした。その度に、野良犬のように追い払われたわ。当然よね。警察を呼ばれて、必死で逃げ回ったこともある。不法入国がバレてしまったら、強制送還されて、罰せられてしまうもの。それだけはどうしても避けたかった。私にとっては、田舎での退屈な暮らしよりも、どんなにひもじい思いをしたって、惨めだって、法を侵していたって、このキラキラした国で、ぼんやりと夢を見ている方が、ずっと良いと思えたから」

 それはまるで、舞台の主人公が、客席に向かって自らの半生を語っているようで、やはり現実味を帯びない。

「でもね、あなたのお祖父様だけは、私に優しくしてくださったのよ」目を丸くするメレディスを見て、クロエは青い目をやわらかく細めた。「店の裏で残飯をあさっていた私を見て、お祖父様はとても驚いた顔をしていらしてね。でも、次の瞬間にはとても優しく笑われて、こうおっしゃったの。お嬢さん、もし良かったら、僕が試作しているサンドイッチを食べて、感想を聞かせてくれないかな。うちは男ばかりだから、是非とも若い女性の意見を聞かせてほしくてね、って」

 祖母も母と同様、病に斃れ、亡くなっている。メレディスは一度も会ったことはなかったが、写真で見た祖母は、とても美しい人だった。若い頃は女優をしていたと聞いている。

「彼女はいつも、あなたは優しいだけが取り柄だと言って、笑っていたよ」

 そう祖母のことを語る祖父の面差しは、本当に優しかった。当時のクロエを見ていた眼差しも、あのときのように優しかったのかもしれない。

「私はとても申し訳ない気持ちになった。それと同時に、とても恥ずかしくなった。残飯をあさることは恥ずべきことだと分かっていたけれど、生きていくためには仕方のないことなんだって、自分に言い訳をしていたのよ」

「……サンドイッチは食べられたのですか?」

「お断りしたわ」クロエは困ったように笑いながら言った。「そうしたら、お祖父様は少しだけ待つように言って、サンドイッチを包んで持ってきてくださった。食べ終わった後に気づいたの。袋の底には、五十ポンドが折りたたんで入れられていて──」

 クロエは不意に、そこで口を噤んだ。盗み見た横顔には案の定、表情らしい表情は見受けられなかった。

「袋にお礼のお手紙を書いて、五十ポンドはお返ししたわ」本当は、喉から手が出るほどほしかったのよ、とクロエは言った。「だけど、あのときの私には、お祖父様の優しさが針の先で刺されるように痛かった。心が折れてしまったの。途端に、丈夫なだけが取り柄だった私は体を壊して、どうにもこうにもいかなくなってしまった。フランスに帰ろうにも、そのためのお金も手段もなかったわ。でも、このまま死んでしまおうかと思っていた私を、拾ってくれた女性がいたのよ」

 その女性は、路地裏で行き倒れていたクロエを自分の家に連れ帰り、世話をしてくれたのだという。体調が回復するまでの看病、それ以降の住む家、着る服、食べる物──最初は、女性の手伝いをして、その家に置いてもらっていたそうだ。

 だが、次第に雲行きが怪しくなっていく。

「ある日、彼女が一人の男を連れて帰って来た。私は彼女の恋人なのだろうと思ったわ。でも、そうではなかった。男は彼女に五十ポンドを渡して、私の身体を良いように弄んだ」

 淡々、淡々と、物語が語られていく。

 だが、それはやはり現実味を帯びず、事実としては到底受け入れ難い。

 この物語の最後に、意地の悪い笑みを浮かべて、いつものように「どう? 驚いた? 全部冗談よ」と言ってもらえることを望んでいたが、事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったものだった。

「でもまあ、世の中そう上手くはいかないものよね。私が彼女に命を救われたのは本当だもの。それに、当時の私には、お礼として返せるものなんて何も持ち合わせがなかった。だから、家の手伝いをして、少しでも恩を返せればと思ったのよ。それでも、自分の身体を売ればいくらかでも稼げると知って、安堵したわ。これで恩を返せると思ったから。私はどうしようもなく子供で、浅はかだったのよ」

 そんな生活が数ヶ月間続いた。

 その女性は、女郎屋の女主人のように、クロエに男を当てがい続けた。他に行く当てのなかったクロエは当初、それを受け入れる他なかったという。

 だが、ふと思ったそうだ。一体、いつまでこんなことを続けていくのか。いや、いつまでも続けていられるわけがない。どうにかして、この生活から抜け出さなくては──そう、決意をした。

「だけど、働き口なんてほとんどないのよね。ほら、私、不法入国者だったから」クロエはそう言って、悪戯っぽく笑う。「新聞配達とベビーシッターはすぐにバレて、お給料は取り上げられた。日雇いの清掃員とか、早朝の生花市場なんかが、時間的には狙い目だったわ。稼いだお金は持って帰ると例によって取り上げられるから、外に隠しておいた」

 クロエは、メレディスが自分の話に真剣に耳を傾けているかどうかなど、少しも気にしてはいない様子だった。青ざめた顔をし、口を真横に引き結んだまま、うんともすんとも言わないメレディスを横目に見てすぐ、クロエは語り部のように話の続きを語りはじめた。

「生花市場でお手伝いをしていると、まだ売り物になりそうな立派な切り花が、道端に落ちているのを頻繁に見かけるのよ。運搬中にどうしても落ちてしまうの。この落ちている花はどうするんですかって聞いたら、拾って捨てるだけだって。そんなのってかわいそうだと思うでしょう? だから、偉い方の許可をもらって、拾い集めたお花でブーケを作ることにしたの。それを観光地で売り歩くのが、一番お金になったわね」

 なぜそんな話を自分にして聞かせるのか──メレディスは現実とは思えない景色を眺めながら、現実味のない話を聞き、内心では大きく頭を振っていた。必死になって平常心を保とうとしていた。

「本当はね、お金を貯めて、フランスに帰るつもりだったのよ。密航を手助けしてくれる人の心当たりもあったの。お金だって、本当にあと少しで、目標金額に到達しそうだった。それなのに、彼と出会って、私の計画は破綻してしまったの」

「彼……?」

「私の初恋」初恋を語るには、あまりに不相応な面差しで、クロエは言った。「お互いに一目惚れだったわ。彼は本当に美しい人だった。その彼が、私を悪夢のような毎日から救い出してくれたのよ」

 苦痛の滲む表情を見れば、その初恋には、何らかの問題があったことは分かる。

「彼とは一年くらい一緒に暮らした。彼は大学生で、実家を離れてロンドンで一人暮らしをしていたから、そこで一緒に住まわせてもらっていたの。長いようで短かった日々の中で、私は彼から英語と教養を学んだわ。そして、私は生まれて初めて愛した男の腕に抱かれて、愛した男の子供を孕った」

 それ以降のことは、正直よく覚えていない。気がつくと車に乗っていて、店の前まで送り届けられ、走り去る車を見送っていた。

 その日の夜、ベッドで横になり、見上げた天井には当然暗闇があって、それが体の上に重くのしかかってくるような感覚があった。

 目を瞑れば、途端にセブン・シスターズの情景が蘇ってくる。刺すように尖った冷たい風や、どうしても好きになれない鼻に付く潮の香りなどが、一瞬にして思い出された。

「私はまだ十六歳だった」メレディスは自分が十六歳だった頃を思い出そうとしたが、どうしても上手くいかなかった。「妊娠に気がついたときにはもう、後戻りできない状態だった。でも、彼なら受け入れてくれるだろうと思ったの。だって、夜毎私を抱くたびに、星の数ほど愛の言葉を囁いてくれていたのだもの。そんな、彼の陳腐な言葉を真に受けてしまうくらい、私はどうしようもなく子供だったのよ」

 十六歳の頃のクロエ・ルーは、さぞかし愛らしかったことだろうと、メレディスは思った。

 自分がもし、その頃のクロエに出会っていたとしたら、何かが違っていただろうかと、意味のないことを考えてみたこともあった。だが、どんなに記憶を思い起こしてみても、祖父の口からクロエが語ってくれたような話を聞いた覚えはない。それでも、もしも、と考えずにはいられなかったのだ。

「その頃から、彼はほどんど家に帰らなくなった。大学の勉強で忙しいからと言っていたけれど、実際は私の妊娠が原因だったのでしょうね。自由に使っていいと渡されていた口座に、毎月お金が振り込まれ続けていたことだけが、唯一の救いだった。幸か不幸か、私はお腹が目立つほど大きくはならなかったから、外を歩いていても特異な目で見られることもなかったし。ロンドンでは、それなりの身形をして、クイーンズイングリッシュを話してさえいれば、誰も身分証の提示を求めたりしない。残飯をあさっていた頃に、私を追いかけ回していた警官を見かけたから、声をかけてみたことがあるのよ。でも、向こうが私に気がつきもしないで、気をつけてお帰りを、なんて言うの。私をどこぞの貴族のお嬢様だとでも勘違いしたみたい」

 まるで他人事のように自分のことを話すクロエの唇を、強引にも塞いでしまえたらと、何度思ったことだろう。だが、当時のメレディスは、女性を慰めるような洒落た言葉を、何一つ知らなかった。細い身体を抱き寄せる度胸もなく、ただ、一歩下がった場所から、その横顔を見つめていることしかできなかった。

 いつまで経っても、坊やのままだ。

「結局、私はたった一人で子供を産んだ。臍の緒も自分で切ったのよ」そう言うクロエは、どこか誇らしげだった。「産まれたばかりの子は少しも可愛いとは思えなかったわ。でもね、自分でも驚くほど、あの子を愛おしく感じたの。授乳をして、体を拭って、肌着を着せてあげた。病院には行けないから、本を読んでお勉強をしておいたのよ。肌着はガーゼを縫って自分で作ったの。赤ちゃんは、大人しくて、よく寝る、とても良い子だった」

 つい三十分程前、車の助手席に座り、こっそりと盗み見ていたその横顔はまだ、一人の美しい女優だった。だがこのときは、どういうわけか、どこか憂いを帯び、疲れ切った、一人の女性に見えていた。

「あの子と一緒に過ごした時間は、たった三日だけだった──四日目の夕暮れ時に、彼の実家の使用人が現れて、私に向かってこう言ったわ。『あのお方はもうあなた様のところへはお戻りになりません』。そして、こう続けたの。『すべてをお忘れください』って」

 使用人が持参したアタッシュケースの中には、映画やドラマでしか見ることのなかった金額の紙幣が、たっぷり入れられていたという。要は、手切金というわけだ。その金を受け取る代わりに、今までのことはすべて忘れ、なかったことにするように、と。

 既に子供は産まれているというのに、二人を見舞うことも、認知することもせず、別れの言葉すらないまま、守護すべき二人の人間を、いとも容易く捨て去った。

「その使用人は、こうも言ったのよ」ぞっとするほど冷めた眼差しで海を見据え、クロエは言った。「『あなたはまだほんの子供で、この世界のことを何も知らない。この世界はあまりに残酷で、自分のような大人ですら、道を見失いそうになることがある。人生は長い。あなたはまだやり直せる。大丈夫、産まれたばかりの赤ん坊なら、里親はすぐに見つかる。たとえ、目の醒めるような赤毛であったとしても、あなた以外の誰かが、この子を心から愛してくれる──』」

 クロエ・ルーには夢があった。だが、それは一生果たすことの出来ない夢だと、諦めていた。自分は所詮、都会に、煌びやかな世界に憧れ、叶わない夢を見ているだけの、田舎娘に過ぎなかったのだと自覚していた。

 一目で恋に落ち、愛を育み、子供が産まれた。

 これが十年先の未来の出来事だったなら良かったのかもしれないと、クロエは話していた。たとえ、子供共々捨てられることになったとしても、二人きりで逞しく生きていけたのかもしれない。

『私はどうしようもなく子供だったのよ』

 そう言ったクロエの言葉が、メレディスの心に重くのしかかっていた。

「結局、私は自分の心の声に抗えなかった。親の愛情というものを知らずに育った私が子供を育てるより、赤ちゃんの訪れを心から望んでいる家族に迎え入れられた方が、ずっと幸せだって、自分に言い聞かせた。私には、母親になる覚悟もなければ、自信もなかった。だから、捨てたの」

 メレディスは物語の結末を聞くのが怖かった。長々と続いてきた前置きの行き着く先を想像することはあまりに容易で、なぜこの秘密を自分と共有しようと考えたのか、その決断をしたクロエを、メレディスは何度も呪いたくなった。

「雪の降る、美しいクリスマスの夜だった。私はあの子を毛布に包んで、段ボール箱に入れたの。そして、アパートの近くにあった教会の入り口に置いた。通りに面しているのに、まったく人気がなかったのだけれど、教会からは讃美歌が聞こえていたから、すぐに気づいてもらえるだろうと思ったわ。それでも、私は不安でね。物陰に隠れて、あの子を見つけてもらえるのを、息を顰めて待っていたのよ」

 礼拝が終わり、教会の扉が開くと、最初に出てきた男の爪先が段ボール箱を蹴った。階段を転がり落ちそうになった箱を、小さな女の子が寸前のところで支えてくれたという。彼女は天使だったに違いないと、クロエは言っていた。

「その女の子は箱を開けると、大きく声を上げたわ。すぐに何人かの大人が駆け寄って来たかと思うと、子供を抱き上げて、教会の中に戻っていった」

 私は、これでよかったのだと思うことにした──そう口にしたクロエの横顔には、暗い影が差しているように見えた。

「分かっているの。自分勝手なことをして、自分の責任から逃げ出したことくらい。最低な人間なのよ。分かってる。あんなにも父のことを軽蔑していた私が、父以下の存在になった瞬間だった。父は私を愛してはいなかったのでしょうけれど、親としての責任は果たしていたもの。だけど、私はあの子を愛しているのに──それなのに、母親としての責任も果たさずに、逃げ出したのよ」

 すべてが今更なのだと、メレディスは思っていた。

 今更後悔したところで、何もかもが手遅れだ。きっと、跪いて懺悔したとしても、許されることではない。母親云々の問題以前に、人間として、誤った選択をした。

「……あの子」真っ直ぐに海だけを見据えていたクロエが、久しぶりに、メレディスの方を向いた。「ロビン・フッドを演じていた子よ」

「マダム、彼は──」

「あの子、あの男にそっくりなの」クロエはメレディスの言葉を遮り、更に続けた。「だから、弁護士に徹底的に調べさせたのよ。あなたから孤児だと聞いていたから、もしかしたらと思ってね。結果、私の第六感は正しかった。国中の施設を転々としていたようだから、調べ上げるのに時間が掛かってしまったの。昨夜、弁護士から調査書を受け取った。実子だという確証を得たければ、親子鑑定を受けろとすすめられたわ」

 名乗りを上げるつもりなのかとメレディスが問うと、クロエは、まさか、と言って首を横に振った。

「私は母親面をしたいわけではない。母親としての責任を全うしようだなんて微塵も思ってはいない。ただ、不自由があるならそれを取り除いてあげたいとは思うし、お金が必要なら支援したい。それに、今更私があなたのお母さんよ、なんて出てこられたって、迷惑なだけでしょう?」

 アラン・ジンデルは快活な子供だった。

 劇場の仲間たちの中にも、そのように思っていた者は多かった。だが、メレディスは知っている。アランは子供の頃から、本質的なところは何も変化していない。

 アランは、あえて明るい子供を演じていた。人々から愛される子供というものを完璧に理解し、そのように振る舞っていた。ただの良い子ではない。大人の目を引くための悪戯や、ちょっとした悪巧みにも余念がなかった。多少手の掛かる子供の方が、大人から好かれるということを、子供ながらに熟知していたようだった。

 ある嵐のような雨が降る日、真夜中のことだ。店のシャッターを閉めようと外に出ていくと、店の前に立ち尽くしているアランの姿があった。全身びしょ濡れで、青白い顔をしていたが、片方の頬だけが真っ赤に腫れ上がっていた。

 メレディスは急いで店仕舞いを済ませると、アランを自宅に連れ帰った。通報した方がいいに決まっているが、アランがそれを強く拒否する以上、下唇を噛んで、行き場のない憤りを鎮めるしかなかった。

「家の人は君が飛び出して来たことを知っているの?」

「知ってる」

「そう」

 帰宅すると同時にアランをバスルームに押し込んだメレディスは、すぐに牧師に連絡をした。

 あなたの“息子さん”を保護しています。この週末は、僕の家で預かります──牧師は、その申し出は承諾しかねると渋っていたが、腫れた頬のことを指摘してやると、大人しく口を噤んだ。

 無造作に伸びた髪の先から水を滴らせ、バスルームから出てきたアランをつかまえ、メレディスはタオルでその水気を拭ってやった。

 雨に濡れた服を洗濯している間、アランにはメレディスのTシャツを着せていたが、痩せ細った体にはあまりにぶかぶかで、襟ぐりが肩からずり落ちてしまっている。露わになった細い首元には、繊細なシルバーのチェーンが見えた。

「ふわふわだ」

 Fluffy──思わずというふうにそう呟き、タオルに顔を埋めた姿を見て、メレディスは何とも言えない気持ちになったことを、鮮明に覚えている。

 アランは基本的に物静かで、思慮深く、視野の広い子供だった。メレディスやジュリアと一緒にいるときは、決まって口数が少なく、ぼんやりとしていることが多かった。心を許されているのだと理解したときは、この思いを裏切りたくないと、強く思ったものだ。

「買い物に行っていないから、この程度のものしか作れないけれど……」

 お腹が空いていると言うのでパンケーキを焼いてやると、アランは焼いたそばから、それらを平らげていった。温めたミルクにメイプルシロップを入れて差し出すと、マグを両手で包み込み、ふうふう、と息を吹きかける。

「明日、一緒に買い物に行くかい?」

「でも」

「君がシャワーを浴びている間に、牧師さんに連絡をして、外泊の許可をもらっておいたよ。週末はここにいればいい。日曜の夕食後に、僕が家まで送ってあげるから」

 自分のしていることが本当に良いことなのか、当時も、今となっても、自信が持てずにいる。ただの自己満足だったのではないかとも思うし、身近にいた大人として当然のことをしたのだ、という自負もあった。

 就寝前、少しだけ切れていた唇の端を消毒してやり、メレディスはアランにベッドで眠るように言うと、バスルームに向かった。

 回っていた換気扇を止めて中に入れば、出掛ける前にシャワーを浴びて、そのままにしていたはずのボトルが、端から綺麗に並べられているのが目に入る。壁や床の水気は丁寧に拭き取られていた。

 そんなことはしなくていいんだと、メレディスは言ってやりたかった。

 本当なら、施設を出て、良識ある家庭に引き取られ、何不自由なく暮らせる未来だってあったはずだ。それなのにどうして、世界はこんなにも、この小さな子に試練を与えるのだろう。

 シャワーを浴びて身支度を済ませ、リビングのソファで横になる前に部屋を覗きに行くと、アランはカーテンの内側に潜り込んで、窓の外を眺めていた。外では、先程よりかは弱まっているものの、雨はまだ降り続いていた。

「眠れないのかい?」

「こんなベッドで寝たことがないから」

「試しに横になってみたらどうかな」

「俺がソファで寝るよ」

「僕が客人をソファで寝かせるような男だと思うのかい?」

「気にしないで」カーテンがゆらゆらと揺れる。「俺、あまり眠れないんだ」

「眠れない?」

「施設にいるときからだよ。不眠症なんだって」

 もう慣れたけど──そう言う口振りは確かに、不眠症のことを重要視していないような、そんな響きがあった。

 カーテンを捲ると、通りの街灯の光が部屋の中に差し込んだ。アランは肩越しに後ろを振り返り、僅かに体を強張らせる。メレディスは肩に触れようとした手を引き、ベッドの方を指し示した。

「横になるだけでも違う。君が眠れるまで傍にいるよ」

 アランは何かを言いかけるが、開きかけた唇を閉じると、示されるがままにベッドに足を向ける。ベッドサイドに置いている、月を模したナイトライトを灯すと、アランの横顔がやわらかい光に照らし出された。

「これ、いいね」

「子供の頃にお小遣いを貯めて買ったんだ」

「ふうん」

 冷えたシーツの海に身を沈めたアランは、そう相槌を打つと、淡く光る月に目をやった。宝石のような緑色の目に月が宿り、それを美しく思ったことを、今も覚えている。

 メレディスは、Tシャツの襟ぐりからこぼれ落ちたチェーンの先に目を留めると、思わず訊ねていた。

「それは?」

「それ?」アランは指された胸元に触れ、ああ、と小さく声を上げた。「俺は、生まれてすぐに親に捨てられたんだ。雪の降るクリスマスの夜に、段ボール箱に入れられて、教会の前に置き去りにされてたって聞いた。その段ボール箱の中に、俺と一緒にこの指輪が入っていたんだって。本当なら売り払って、献金として受け取るらしいんだけど、その教会の牧師が、売らずに持たせておいてくれた。いつか、俺を捨てた両親を見つける手掛かりになるかもしれないから、大事に持っていなさいっていうメモがあったんだ」

 アランは、なんでもないことのように、平然とした口振りで物事を語る。クロエと同じだ。まるで、大して感銘を受けなかった舞台の物語を語って聞かせるように、酷くつまらなそうに。

「指輪の内側に、大天使の名前が刻印されてる。あと、緑の石が埋め込まれてて、多分エメラルドだろうって。俺はただの色ガラスだと思ってるけど」

 チェーンを引っ張り、見るかと訊ねてくるアランに向かって、メレディスは首を横に振った。

「君は自分を──置き去りにしたご両親に会いたいと思う?」

「ときどき」Sometimes.と答えた声には、これといった感情を感じなかった。「俺は自分が何者かを知りたいって思うんだ。別に一緒に暮らしたいとか、家族になりたいとか、そんなふうには思わない。両親がどんな人間なのかを知らないまま生きていくこともできるけど、でも、それは本当の自分を知らないまま生きているようで、とても気持ちが悪いんだ。自分を捨てた親に会いたがるなんて、おかしいと思う?」

「そんなふうには思わないよ」

「舞台に立って、有名になれば、俺を見つけてくれるかな」

 本当に、つくづく数奇な人生だと思う。

 自分とは何の関係も、繋がりもない相手の話ならば、酒の肴にして楽しめたのかもしれない。そんな人生もあるのかと、他人事として聞き流し、時間の経過と共にその記憶も風化していく。

 だがしかし、二人の物語を無視できるほど、メレディスは無感情ではいられなかった。自分が二人の物語の中の重要な登場人物であることを、理解せざるを得なかった。

 この歪み切った二人の人間を、心の底から愛してしまったから。

「私はね、メレディス」クロエは自らを嘲笑するように、少しだけ笑った。「ずっと後悔しているのよ。どうしてあの使用人の口車に乗せられて、あの子を手放してしまったのだろうって。でも、すべては私の心の弱さが招いたことなのよね。夢を見てしまった、私が悪かったのよ」

 何も知らなかった頃に戻れたらと思う。真実なんて知りたくはなかったのだ。それによって生じる責任を負いたくなかった。しかしながら、そう思うと同時に、知らなかったことを後悔するくらいなら、知った上での苦悩を抱えて生きることの方が、自分にとっては幸せなのかもしれないとも思った。

 ここ最近は、こうして、よく昔のことを思い出す。夢に見ることもある。

 過去を懐古しているわけではない。ただ、あの頃の自分には、他にも何かできることがあったのではないかと、意味のないことを考えているだけだ。

「なに」裏口から外に出て、煙草を燻らせながら青空を仰いでいると、聞き覚えのありすぎる声が呆れたように言った。「サボってるの」

「五分だけだよ」

「やめたものだとばかり思ってたけど」

「僕もやめたつもりだったのだけれどね」アラン・ジンデルはメレディスの風上に立ち、手にしていた水のペットボトルの蓋を開けた。「アランこそ、サボりかい?」

「息抜きだよ」

 アランはそう言いながら、メレディスに向かって手を伸ばしてきた。指の間に挟んでいた煙草を奪っていったかと思うと、それを自らの口元まで運び、深呼吸をするように大きく吸い上げる。じじ、と葉の燃える音が微かに聞こえ、次いですぐに、激しく咳き込む音が続いた。

「無茶をする」

「こんなものの何が美味いのか」げほん、ごほん、と咳をしながら、アランは言う。「俺にはまるで分からない」

「それは君が健康だという証拠だよ」

「匂いが付く」

「キサが嫌がるね」

 涙目になっているアランを横目に見ながら、深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出せば、緑の目が面倒臭そうにこちらを睨む。メレディスはそれを見て、ふふ、と笑い、携帯灰皿の中に吸い殻を捨てた。

「首尾はどうだい?」

「まあまあ」口の中のえぐみを押し流すように、アランは水を飲んだ。「悪くはないと思う」

「マダムは悪巧みを企てているようだし、キサのご学友も次々と現れるし、今夜は程よい緊張感のあるステージを見られそうで、僕は嬉しいよ」

「観に来るの? 店は?」

「僕がいなくても店は回るからね」

「メレディスが目当ての客もいると思うけど」

「今夜のステージだけは見逃したくないのだよ」

 メレディスがそう言うと、アランは「ふうん」と気のない相槌を打った。

 アラン・ジンデルが再び舞台に立つ──その現実に、最も胸を躍らせているのは、他ならぬ自分なのではないかと、メレディスは思っていた。

 当初は半ば強引にではあったが、最終的には自身の意思で舞台に戻ることを決め、そのために邁進している。再び、あの小劇場の舞台に立つ姿を見られるのだと思うと、メレディスは素直に嬉しかった。

 かつて、自らが産んだ生後間もない赤ん坊を置き去りにした母親は、本国に帰って演劇学校に通い、瞬く間にその才能を開花させた。対して、段ボール箱に入れられ、教会の前に置き去りにされた赤ん坊は、母親が何者なのかも知らないまま、自らも同じ道に進み、今は脚本家として大成している。

 こんなにも、血は争えないという言葉を体現している親子を、メレディスは他に知らない。才能は血で決まるのだということを、痛いほど思い知らされる。

 クロエ・ルーとアラン・ジンデルは、驚くほどよく似ている。容姿の話ではない。物の考え方や、生き様や、死生観に至るまで、似た者同士だ。

 だからこそ、相容れない。

 この二人の間で踊らされるであろう者のことを思うと、メレディスは同情を禁じ得なかった。

「今夜は、キサの夜になるよ」メレディスが丁度思い浮かべた者の名前を口にし、アランは僅かに口角を持ち上げた。「自分がどれだけ成長しているのか、分からせてやるつもりらしい」

「緊張は──あの子のことだから、していないのだろうね」

「わくわくするって」

「僕は常々、あの子には小劇場の舞台は狭すぎると思っていたよ。君にとってもね、アラン」

「それはもう昔の話だろ」

「今でもそう思っていると言ったら?」

 アランはその言葉で口を噤み、目を丸くした。ばつが悪そうに頬を掻いたかと思うと、つい、と視線を逸らした。

「緊張しているの?」

「……」

 そうと認めるのが嫌なのか、無言のまま明後日の方を向いているアランを見て、メレディスはそれを微笑ましく思ってしまう。良い歳の成人男性に向けるべき感情ではないのだろう。だが、子供の頃に、自分が一番だという顔をして舞台に立っていたことを思い出すと、酷く感慨深いものがあった。

 人は大人に至る道のりの中、段階を経て、様々な感情を学習する。

 舞台に立ち、観客の視線に晒されることを恐れるようになったアランにしてみれば、その場所へ戻ることに対して、強烈な恐怖を覚えるはずだ。

『……もう舞台には立ちたくないんだ』

 まるで罪を懺悔するような口振りでそう告白されたとき、メレディスはそれを引き留めようとは思わなかった。大勢の仲間たちが舞台を諦めていったが、誰一人、引き留めてはこなかった。いずれ情熱は失われるものだと、メレディス自身が知っていたからだ。

 だが、アラン・ジンデルの願いは、舞台の上に立つことから逃れたい、というものだった。その心はずっと舞台に寄り添い続けていた。舞台の上に立たずとも、舞台には携わっていたかったのだろう。劇団カオスが、その揺るがぬ証拠だった。

 この世には生に執着のない人間がいる。クロエ・ルーや、アラン・ジンデル──きっと、立花希佐もそうだ。

 彼女たちの周りには、いつも同じ、冷たい空気が漂っている。舞台上で最高の瞬間を作り出すためなら、今、死んでも構わないと、そう本気で思うような者たちだ。いつだって、死の匂いを感じさせるくらい、真剣に舞台と向き合っている。

『God Only Knows』の公演後、数日が過ぎて、劇団カオスの噂話が聞こえなくなってきた頃、アランが一人でヘスティアにやって来たことがあった。いつものようにカウンター席に腰を下ろし、ウイスキーをストレートで飲みながら、ぼんやりとランプの形をした照明を見つめていた。

「カーテンコールで大喝采を浴びるたびに、いつも思ってた」サービスで二杯目のウイスキーを提供してやると、アランはグラスの縁を指先で撫でながら、こう言ったのだ。「今、死にたいって」

「この前の公演でも同じように思ったのかい?」

「あのときは──」その眼差しが憂いを帯びた瞬間、メレディスの脳裏には、いつかのセブン・シスターズで見た、クロエ・ルーの横顔を思い出された。「生きるのも悪くないって思えたような気がする」

 人生は、そうなるべくしてなる。

 個々人の、各々の選択の末に、今がある。

 過去の選択に折り合いをつけるために、心の整理が必要になることはあるだろう。そのためには時間が必要だと、そう思うこともある。だがしかし、時計の秒針を逆回転させたところで、時間は前にしか進まない。自らが下した決断を肯定しようが、否定しようが、その行為には何の意味もない。

 それが、自分にとっての、唯一無二の道だったからだ。

 その道の先にある今が、それぞれの人生にとって、最も尊い瞬間であってほしいと、メレディスはいつも強く願っている。

「大丈夫だよ、アラン・ジンデル」メレディスは無責任にも、そんなことを言ってみた。「今の君には、頼りになる仲間がいるだろう?」

「それが一番厄介なんだ」

「そうだろうね」

 ふふ、とメレディスは笑みをこぼす。腕時計に視線を落として時刻を確かめ、そろそろ店に戻ろうと、壁に預けていた体を起こして姿勢を正した。

「僕はもう行くけれど」

「どうぞ、お構いなく」

「君がもし、このまま逃げ出したとしても、僕は黙っていてあげるよ」

「生憎、そんな選択肢はないんだ」

 恐らく、アラン・ジンデルは自分自身の過去の選択は過ちであったと、そう悔いたことがあるはずだ。もし、自らに向けられる好奇の眼差しを退け、舞台の真ん中に立ち続けていたとしたら、今とは違う人生を歩んでいたはずだと、そのように考えたことがあるに違いない。

 だがいつか、自らの選択を認められる日が、やって来るはずだ。

 もしかしたら、既に理解しているのかもしれない。これまでに選択し続けてきた過去の決断の一つ一つが、今の自分を形作るのだということを。一つでも選択を誤っていれば、今の自分はいないのだということを。

 一生を順風満帆に過ごす者もいる。

 だが、そうした人生が恵まれたものだとはかぎらない。たった一度きりの人生を価値あるものにするためには、自らが正しいと思う選択をし続け、決して後ろを振り向いてはいけない。何度失敗をしても、取り返しがつかないと思っても、すべてを諦めなければ、いつかチャンスが巡ってくるかもしれない。

「たとえ叶わなくても構わない。それでも僕は、夢を選ぶよ──」さっきの話には続きがある。「あれは俺が書いた台詞じゃない」

「そうなのかい?」

「キサのアドリブだ」

「いかにも君が書きそうな台詞だなとは思っていたけれど」そう皮肉っぽく言ってやると、アランはメレディスのことを軽く睨みつけた。「叶わない夢を見続けるのは、愚か者のすることだと?」

「俺は夢が叶わずに諦めていった連中をこの目で大勢見てきた」

「それは僕も同じだよ。どちらかと言えば、僕も夢破れた側の人間だ」

「俺は、夢らしい夢すら見たことがない」アランはグラスを手に取り、残っていたウイスキーを、一気に喉へ流し込んでいた。「あの台詞は、夢を叶えたことのある人間だけが口にできる、残酷な言葉だと思う」

 叶わなかった夢は、その人の心の中に遺恨として残り、人知れず墓場まで持っていくことになる。この世を去るより前に、懐かしいと目を細めながら思い出せるようになれば、苦しみは昇華され、美しい思い出として記憶を飾ってくれるのだろう。

「でも、彼女も僕たちと同じように、夢を諦めざるを得なかった人々を、その目で見て来たのだろうし、言うなれば、彼女自身が、一度は夢を諦めた側の人間だからこそ、あの台詞には重みがあるのではないかな」

「……」

「日本を出てから、君に出会うまでの二年間は、彼女にとって、相当堪えるものだったのだと思うよ。まあ、僕がこんなふうに指摘しなくても、君の方が彼女のことを理解しているだろうと思うけれどね」

 あの日、紹介したい子がいると言ってアランが連れてきた女の子からは、なぜか、生気が感じられなかった。表情が固く、笑顔は取って付けたようで、自分に自信がないように見えた。アラン・ジンデルが、面倒を見てやってほしいと願い出るような人物だとは、到底思えなかった。

 その不当な評価は、その日のうちに覆されることとなったが、希佐の面倒を見る──雇用するにあたって、何よりも心配だったのは健康面だった。顔は青白く、見るからに痩せ細り、不健康そうな見た目をしていたからだ。

 アランに寝食の管理をさせることが難しいことは、最初から分かりきっていた。希佐は、朝から夕方までスタジオで稽古をしてから、仕事に出掛けていたという。その間、食事を摂らないこともあったらしい。

 だから、開店前の掃除を手伝ってほしいという名目で、希佐には早めに店に入ってもらい、毎日賄いを食べさせていた。閉店後も同じだ。掃除を終えた後、他のスタッフたちを誘い、一緒に賄いを食べさせてから、家に帰していた。

 幸いにも、希佐は日に日に、ほんの少しずつ、心と体の健康を取り戻しているように見受けられた。舞台の稽古と同じくらい、パブでの仕事も、楽しんでくれているように見えた。

 不謹慎な物言いになるが、事態が大きく好転したのは、あの事件が起こったからだと、メレディスは考えている。あの事件がなければ、希佐とアランの距離が縮まることはなかったはずだ。

 もちろん、犯人の行為を肯定するつもりは一切ない。あの後、犯人から直接謝罪をしたいと申し入れがあったが、メレディスはそれを丁重に断っていた。再度彼女に接近した場合は、即座に通報すると伝えてある。

 アランと希佐にとって、あの事件はトラウマのようだ。アランは希佐を一人きりにはしたがらないし、希佐は突然の大きな物音に体を強張らせるようになったという。だがそれでも、二人にとって大きな転機となったことは、間違いない。

 舞台が立花希佐を生かしている。『God Only Knows』の舞台に立つ希佐の姿を見て、メレディスはそう確信した。まるで海を泳ぐ魚のように、舞台に立つ立花希佐は生き生きとしていた。

 その姿は、かつてのアラン・ジンデルを彷彿とさせるものだった。

 そう、二人は本当に、よく似ている。

 アラン・ジンデルが施設でどのような暮らしを送っていたのかは、誰も知らない。同様に、立花希佐が日本を出たあと、このロンドンにたどり着くまでの暮らしを知る者も、ここには誰もいないのだ。

 人生の深みは、演技の深みにもなる。

 史上の喜びを味わったことのない人間は、至極薄っぺらい喜びを表現することしかできないだろう。本物の絶望を知らない者の演技よりも、絶望を知る者の演技の方が、観る者の心を鋭く抉るはずだ。

 二人には、まだ誰も知らない、壮絶な経験があるのかもしれない。

 一足先に裏口から屋内に戻ったメレディスは、念入りに手を洗い、よくうがいをした。関係者以外立ち入り禁止の扉から店内に戻ると、辺りをきょろきょろと見回している、希佐の姿が視界に入る。

「あ、メレディス」希佐は扉から出てきたばかりのメレディスに目を留めると、カウンターの手前まで駆け寄って来た。「アランを見なかった? バージルが探してるのだけれど、スマホも通じなくて」

「アランなら裏で一休みしているよ」メレディスがカウンターの内側からそのように答えると、希佐は思わずというふうに苦笑いを浮かべた。「どうかしたのかい?」

「みんながアランに頼りっきりだから、疲れているんだろうなって」

「疲れているわけではなさそうだったけれど」

「本当?」

「様子を見に行ってみたらどうだい?」

「でも、休んでいるのなら、そっとしておいた方がいいんじゃないかな。バージルも、そこまで急ぎではないように見えたし──」

 そう言って遠慮しようとしている希佐を見て、メレディスは密かに笑う。アランの言う通り、緊張など少しもしていない様子だ。

 希佐は、アランに頼りきりだと心配しているようだが、希佐自身も他の出演者から非常に頼りにされているという話を、メレディスはアイリーンから聞いていた。

「あの子、ただでさえ他の人よりも出番が多いのに、他人の手助けばかりしているのよ。あなたは大丈夫なのって聞いたら、自分の稽古は帰ってからするから大丈夫だって。私が言いたいのは、そういうことではないのに」

「素直に心配だと言ってあげたらいい」

「べ、別に、心配をしているわけではないわ。あの子にはアランがついているわけだし……ま、まあ、今はアランも無理を押してるだろうから、他の誰かが忠告をしてあげる必要があるでしょう?」

 アイリーンは変わった。イライアスだってそうだ。立花希佐と出会って人生が変わったのは、何もアラン・ジンデルだけではない。彼ら以外にも、立花希佐に影響を受けた人間は、このロンドンにも、遠く離れた日本の地にも、大勢いるのだろう。

 急に黙り込んでしまったメレディスを見上げ、希佐は不思議そうにしている。にっこりと笑ったメレディスが軽く手招きをすると、希佐は何一つ疑うこともせず、カウンター越しに身を乗り出した。

「ここだけの話だよ」

「え? う、うん」

「実はね」メレディスはそう言うと、希佐の耳元に唇を寄せた。「あのアラン・ジンデルが、一人前に緊張しているようなんだ」

「ええっ」

 そう驚いて見せたのも束の間、希佐はカウンターから身を引き、ふふ、と優しく笑った。

「その様子では気づいていたのかな」

「忙しさで紛らわせているのだろうなって。でも、自分の緊張と向き合う時間も大事だと思うから、やっぱり今はそっとしておくよ」

 アランが戻ったら、バージルが探してたって伝えておいてね──希佐はそう言うと、その場で踵を返し、少し早足でフロアを抜けて行こうとする。だが、時折顔馴染みに声を掛けられ、それに応じながら進んでいるので、階段に行き着くまでにはもう少し時間が掛かりそうだ。

「メレディス」

「ん? ああ、すまない」

 常日頃から、共同経営者にならないかと声を掛けているバーテンダーの呼び声で、ふと我に返る。共同経営者に相応しい働きをしているからこそ声を掛けているのだが、この男には微塵もそのつもりがないらしく、自分はただの社員として雇ってもらえればそれで十分だと言って、何年も振られ続けていた。

「約束の時間まではしっかり働いてもらわないと困りますよ」無くなりかけていたコースターを補充しながら、バーテンダーは大きく眉を顰めた。「あの、煙草吸いました?」

「やっぱり分かるかい?」

「俺のロッカーにマウススプレーが入っているので、それを使ってください。客商売なんだから臭いには気を使うようにって、先代から散々言われたでしょ?」

「たまに無性に吸いたくなるんだよ」

「たまに?」バーテンダーが横目にこちらを一瞥した。「メレディスが煙草を吸いたがるのは、昔から気を沈めようとしてるときですよ」

 そう言われてはじめて、肩に力が入り、体が強張っていることに気づく。

 ジャスト・ロビンの公演前も、こんなふうに落ち着かない気持ちで、煙草を吹かしていたことを思い出した。

「本当に気に入っているんですね、キサのこと」

 まあ、俺も好きですけど──無意識に、未だフロアで客と話し込んでいる希佐の姿を目で追っていると、バーテンダーが笑いながら言った。

「自分の夢が叶わなかったからこそ、夢の階段を駆け上っていく役者を見ていると、眩しくて目を逸らしたくなったり、妬ましく思ったりもするんですけど、不思議と彼女にはそんなふうに思ったりしないんですよね」

「そうなのかい?」

「ええ」厨房から戻ってきたばかりの、まだ生温かいグラスを磨きながら、バーテンダーは苦笑いを浮かべる。「才能は裏切らないって思ってました。自分には他の連中よりも才能があるって分かっていましたし、そんな自分に驕っていた。才能の上に胡座を掻いていた。ほら、運も実力の内って言うじゃないですか。俺の芽が出なかったのは、運がなかったからだって思っていたんです。そんなふうに腐っていた俺を、親父さんが拾ってくれて」

 このバーテンダーはメレディスよりも二、三歳年下で、ある日突然、父親が今日からうちのスタッフだと、連れてきた男だった。確かに、ここにやってきた当初は不真面目で、タチの悪い酔っ払い客と喧嘩をしては、父親から懇々と叱られていた。

「舞台とは何たるか、みたいな講釈を聞かされるたびに、うんざりしていたんですけど、親父さんと一緒に、上の劇場の舞台に立つ役者を見ていて、ある日思ったんですよ。ああ、自分には努力が足りなかったんだなって。舞台に対する努力だけじゃなくて、生きる上での努力が足りていなかったんだって。運を引き寄せる役者っていうのは実際に存在していて、そういう役者は得てして、人間が完成されているんです。どんなことに対しても努力を惜しまないし、常に直向きで、人間的に魅力がある」

「百パーセント同意するよ」

「キサを見ていると、今日も頑張ってるな、応援したいなって思うでしょ? こんなに努力しているんだから、絶対に報われるべきだって。その上、才能だってあるんですから、もう無敵ですよ」

 このバーテンダーは、希佐がここで働いていたときも、それ以降も、何かと気に掛けてやっている様子だった。希佐が店に顔を出せば、飲み物や軽食をこっそりサービスしたり、隠し撮りをしている客を人知れず嗜めたりもしていた。

「今夜のステージも、上手くいくといいですね」

「ああ、そうだね」

 本番まで残り一時間弱──ヘスティアの店内は、いつも以上に賑わっている。夜の部のチケットを手に入れられず、余らせている者がいないかと、あちこちに掛け合っている者もいた。

 自ら購入したチケットを知人に譲るのは構わないが、転売は厳禁であると通達はしてある。チャリティーイベントという名目である以上、転売行為を認めてしまっては本末転倒だ。

『今夜は、キサの夜になるよ』

 あの日、あの夜、二人が歌声を重ねた瞬間のことを、時々思い出してみることがある。あれはまさに魔法だった。音楽の魔法で店内が満たされ、人々は二人の歌声に心を奪われていた。あなたのことを知らないけれど、それでも、あなたが欲しい──そんな歌詞ではじまる歌に、心底酔いしれていた。

 あの夜と同じ胸の高鳴りを感じていることは間違いない。それなのに、心は一抹の不安を覚えている。何かよからぬことが起こるのではないかという嫌な予感が、もうずっと、ついて回っているのだ。

「本当に──」

 何事もないまま、今夜のステージが滞りなく行われ、幸福な終わりが迎えられますようにと、信じてもいない神に祈りながら、メレディスは階段を駆け上がっていく希佐の後ろ姿を、そっと見送っていた。

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