開場の時間を迎えると、下のパブで時間を潰していた客が次々に席を立ち、階段を上って、劇場に入る列を作っている。今宵のステージのプログラムは一切明かされていない。だからこそ、舞台を愛してやまない人々の目は、まるでクリスマスプレゼントの包装紙を破り捨てる子供のように、期待で光り輝いているように見受けられた。
客入りは上々以上だ。劇場の設営を手伝った後──立花には酷く恐縮されてしまったが──連れと合流するために、階段上から階下を覗き込んでいると、開演時間の少し前に彼らは現れた。
「随分お早いお越しですね」
根地黒門が少しだけ皮肉っぽく言い、階段上から出迎えると、レオナール・ゴダンはにこにこと機嫌良く笑いながら「すまないね」と応じた。その背後には、更文と白田、東雲の姿がある。
ゴダンは、黒門と更文の分のチケットも購入しておいてくれたが、二人は立花が用意してくれたチケットで入場するつもりだ。チケットを持たない白田は、夜の部が終わるのをパブで待っていると話していたが、昼間のようなことがまた起こらないともかぎらない。せっかく日本から来たのだからと言ってゴダンが食い下がれば、残された選択肢は、差し出されたチケットを受け取ることだけだろう。
根地は辺りを見回し、おや、と思う。その様子を目の当たりにしたゴダンは、階段を上り切ったところで足を止めた。
「クロエならここにはいないよ」そう言う声には、少しだけ棘を感じる。「別件があるとかで、ご子息と連れ立ってどこかに行ってしまったんだ。まあ、開演前には戻ってくるだろう」
「ご子息? 息子さんがいらっしゃるんですか?」
「実子ではないよ。彼女が長年支援している子だ。大層可愛がっているようでね」
彼女を待つ必要はないと、どこか冷ややかにも聞こえる声で言い、ゴダンは入場の列に並ぶ。黒門はその斜め後ろに立つと、後ろからやって来る三人に目を向けた。
『やあ、二人とも』更文と白田は、どこか疲れた様子にも見える。『東雲さんも』
『こんばんは、根地くん。うちの若がご迷惑をお掛けしてはいませんか?』
『迷惑掛けられてるのはこっちの方ですよ、東雲さん』更文がうんざりしたような声で言った。『昨日なんて、パブで飲み過ぎて千鳥足になったこいつを、レオと二人で抱えながら帰ったんですから』
『あれは不可抗力というやつだよ、フーミン。そもそも、ご馳走してくれるっていうお酒を無下にお断りするなんて、失礼極まりないじゃないか』
『はいはい、そーだな』議論するだけ無駄だと思ったのだろう、更文は呆れた様子で話を打ち切った。『昨日あれだけ飲んだんだから、今日は控えろよ』
『自信はないなぁ』
そうして日本語で話をしていると、ゴダンが進行方向を向いたまま、微かに笑う気配があった。確認したことはないが、今の会話の流れで笑ったとなれば、日本語を解していると判断する他ない。アラン・ジンデルも日本語を理解している様子だった。日本語なら大丈夫だろうと高を括り、内緒話をするのは避けた方がいいだろうと考えていると、階下の方で、どっとざわめきのような声が上がるのを聞く。
意識したわけではなく、ただ反射的に、黒門は階下の方に目を向けていた。
「おや」
同様に階下へと目をやっていたゴダンは、そう声を上げ、失礼、と言って黒門の肩に手を置き、列を抜けていく。黒門たちは顔を見合わせると、後ろに並んでいた人々に場所を譲り、列の外に出た。
「久しいじゃないか、エステル」二階の手摺りに寄り掛かるようにして立ち、吹き抜けからフロアを見下ろして、ゴダンは軽く手を挙げた。「まさか君までやってくるとは思わなかったよ」
「まあ、レオナール」
その女性は、すぐさま声の聞こえた頭上を振り仰いでいた。そして、ゴダンの姿に目を留め、やわらかく微笑む。
黒門の目には、その女性の周辺だけが、まるで眩い光を放っているように感じられた。あのクロエ・ルーとは違う、だが妙に神々しい、太陽のように暖かい光だ。
「あなたもいらしていたの?」
「今宵のショーには友人が出演するのでね」どこかで見た顔だと思った瞬間、頭が急速に回転し、黒門はその人物が銀幕の女優であったことを思い出した。「今そちらに行くよ」
こちらを振り返ったゴダンは、ジャケットの内ポケットに入れていたチケットを取り出し、それを東雲に差し出した。
「先に入っているといい。入場のときに何か聞かれたら、僕の連れだと言えば通してもらえるよ」
「分かりました」
「コクトーは一緒においで」
「え、僕ですか?」
「アランから渡された名刺の男を紹介するよ」
アラン・ジンデルから渡された名刺は、シャツの胸ポケットに入っている。A to Zのサインが裏書きされた名刺だ。
興味があれば連絡をすればいいという話だったが、自分の書いた我死也の脚本が、プロの目にはどのように映り、どのような評価が下されたのかについては、非常に興味がある。
先に階段を降りていくゴダンの背中を見ていると、立花から受け取ったチケットのうちの一枚を、更文が黒門に向かって差し出していた。
「行ってこいよ」
「そうさせてもらおうかな」
「粗相のねぇようにな」
「それも自信はないのだけれどね」
また後で、と言って手を振り、黒門はゴダンを追いかける。階段を上ってくる客の合間を縫ってどうにか進み、降り切ったところでようやく、ゴダンの背中に追いついた。
上下アイボリーの細身のスーツを着たその女性は、ゆったりとした足取りで階段の方へと歩み寄ってくる。凛とした雰囲気を漂わせているせいか、気安く声を掛けられるような空気感はなく、人々はただ遠巻きにその姿を眺めていることしかできない。
「会えて嬉しいよ、エステル」
「わたしもよ、レオナール」両腕を大きく開いたゴダンに体を寄せ、エステルは背中に両手を添えて、親しげにハグをした。「クロエとはもう会った?」
「青い目の青年と出掛けたきり戻っていない」
「ああ、フランシスね」見るからに親密と分かるその様子を目の当たりにし、黒門は目を白黒とさせていた。「さっきホテルから連絡をしたときは、開演には間に合うようにするって──あら?」
ゴダンの後ろに立っている黒門に目を留め、エステルは僅かに首を傾ける。
その人は、艶やかなブルネットの髪をしていて、肌は陶器のように白く張りがあった。青み掛かった黒い目は、夜を迎えたばかりの群青に似ている。黒門の記憶が確かならば、この女優は既に五十を超えているはずだ。
「紹介するよ」ゴダンは黒門の背中に腕を回し、自分の隣に立たせた。「友人の根地黒門だ。彼は日本の次代を担う脚本家でね、僕の亡くなった友人の子だよ。コクトー、彼女はエステル。女優──兼、実業家かな?」
「はじめまして」
クロエ・ルーをこの目に捉えた瞬間、何かを激しく警告するように、頭の中では大音量で警鐘が鳴り響いていた。だが、この人には何も感じない。脅威だとすら思わない。同じ女性だというのに、何が違うというのだろう──黒門は、青黒い目を真っ直ぐに見つめ返し、差し出された手を握った。
「お会いできて光栄です」
「わたしの息子を紹介しましょう」
黒門の右手を優しく握り返したエステルは、絹糸のような髪をさらりと躍らせ、後ろを振り返る。途端、サンダルウッドの香りが辺りに舞った。
「スペンサー」
「はい、母さん」カウンターの方で店員と話をしていた男が、それを切り上げてやってくる。「やっぱりチケットに余剰はないそうだよ」
「残念だけれど、仕方がないわ」エステルはそう言いながら、男を自分の隣に立たせた。「息子のスペンサー・ロローよ。スペンサー、彼はレオナールの友人で、ネジコクト。日本で脚本家を──」
「ネジコクト!」
エステルの紹介が終わるのを待たず、スペンサー・ロローと紹介された男はそう大きく声を上げた。次の瞬間、黒門の両手を取って激しく上下に振る。
「君があの我死也の脚本家なんだね?」
「え、ええ、そうです」
「随分前にロンドン公演を観たよ。主演のがしゃどくろ、彼は素晴らしい役者だね。あの脚本は彼のために書かれたものなのだろう。あの日本特有の民俗学的要素や、背筋が冷たくなるようなおどろおどろしさの中にも感じられる神々しさが──」
「スペンサー」怒涛のようなマシンガントークを遮るように、エステルが息子の名前を静かに呼ぶ。「おやめなさい」
「あ、ああ、これは申し訳ない。ずっと会ってみたいと思っていたものだから、ついね。先生、お久しぶりです」
「やあ、スペンサー」ゴダンは挨拶をしながら僅かに首を傾けた。「アランが君の名刺をコクトーに預けているのを見てね」
「相変わらず気の利く男ですよ」
「──あらあら、皆さんお揃いで」
ぞぞぞ、と全身に鳥肌が立つ。体がその声を拒絶しているのを感じるのに、頭はその人のことを考え、この両の目は間違いなく、その人の姿を探していた。
その女は危険だ、という海の底から聞こえてくる声を無視し、黒門は店内に入ってきたクロエ・ルーの姿に目を留めた。傍には、見た覚えのない黒人の青年が、従者のように寄り添っていた。
「あなたならいらしてくれるだろうと思っていたわ、エステル」
「最初からそのつもりだったのでしょう?」まったく、と仕方なさそうに漏らしながら、エステルはゴダンのときよりも密接に、クロエと抱擁を交わした。「あなたも大変ね、フランシス。この子のお守りは気苦労が絶えないでしょうに」
「これ以上の名誉はありません」
「すっかり躾けられてしまったわね」
呆れ顔のエステルを見て、フランシスと呼ばれた青年は、にっこりと機嫌良く微笑んでいた。
昼間はあんなにも晴れ渡っていたというのに、外では雨が降りはじめているらしい。二人の髪や肩では、小さな丸い水滴が、星屑のように煌めいていた。
黒門は一瞬、自分はまだベッドの上にいて、夢を見ているのではないかという気持ちになった。自分の存在が、霞が掛かったかのように朧げになって、今にも消えてしまうのではないかと、そんな仕様もないことを考える。
自分自身の才能を誰よりも信じているし、この才能は唯一無二の、決して他に代えの利かない個性であるという確信もある。それなのに、日本を出てからというもの、目に映る景色や文化、価値観の違いを目の当たりにし、自分の中にある何かが急速に衰え、萎んでいくような、奇妙な感覚を覚えていた。まるで自分が取るに足りない存在になってしまったかのような。
「出入り口を塞ぐのはお控えください。他のお客様のご迷惑となります」そう言って階段を降りてきたのは、立花がこの店の王様だと紹介をしてくれた、メレディスという男だ。「間もなく開演時間です。チケットをお持ちであれば、劇場にお急ぎください」
「ああ、メレディス。実は──」
スペンサーは何かを言いかけると、メレディスは小さく咳払いをして、その先の言葉を遮った。目を丸くするスペンサーに対して、心得たようににんまりと笑ったゴダンは、黒門の背中を促しながら歩き出す。
「さあ、行こう。もう何日も今夜のステージを楽しみにしていたんだ。僕は一瞬たりとも見逃したくない」
「他の皆様もお急ぎください」
黒門が肩越しに後ろを振り返れば、煌びやかな世界の住人たちが、楽しげに話をしながら歩いて来るのが見える。見目麗しい集団は見慣れているはずなのに、彼女たちを見ていると、ここではない別の世界の住人を見ているような、そんな錯覚すら覚えるのだ。
「華やかだと思うかい?」ゴダンは黒門を横目に見ながら、小さく肩をすくめる。「彼女たちは──いや、これは完全なる個人的な偏見だが、女優という生き物は基本、男性的な思考の持ち主だと思っている。むしろ、その辺の男の方が女々しいくらいだよ。特にエステルは、本当に男らしくてね」
「そうなのですか?」
「僕は彼女を好きなんだ」
一見するだけでは、クロエとエステルの何が違うのか、黒門には分からない。どちらも美しく、気立てが良さそうで、アジア人に対する偏見もなさそうだ。出演する作品にも偏りはないので、演じる役柄から役者本人の性格を判断することは、まず不可能だろう。
役者としての評価で言うならば、最も有名なアメリカの賞レースで主演女優賞候補止まりのクロエ・ルーに対して、エステルは二度の受賞という栄誉に輝いている。
『私は主演としてよりも、助演として出演する方が好きだし、その方がずっと燃えるのよ』
クロエ・ルーはその発言の通り、助演女優賞を数度受賞していた。
役者のゴシップに興味はないが、以前見かけた記事では、二人は非常に不仲であるという内容とその根拠が仔細に書き記されていたことを、朧げながら覚えている。しかしながら、どうやらそれはガセネタだったらしい。
互いに組むことが少なくなった高科更文と睦実介をつかまえて、二人は仲違いをしている、などという事実無根な記事を書く人間もいるくらいなのだから、記者というものはそもそも信用ならない。その記事を面白がった忍成兄弟が、折り重なるようにしてストレッチをしている二人を盗撮し、#不仲説 #まじウケる #超仲良し というハッシュタグと共に、SNSに投稿したこと思い出した。
階段を上り切ると、もうエントランスには人の姿もまばらで、ほぼすべての観客が会場入りしたのが見て取れた。先頭を歩いていたメレディスは後ろを振り返り、どこか呆れた面差しでスペンサーを見やる。
「チケットをお持ちではない」
「もしかしたら、誰かがチケットを余らせているかもしれないと思ってね」
「手に入らないならそれで構わないのよ、メレディス。私たちは下でお酒を楽しみながら時間をやり過ごすから」
メレディスは言葉にはしなかったものの、それはそれで迷惑だ、という表情を隠さなかった。黒門の隣に立つゴダンは、丁度二枚のチケットを余らせていたが、白田と東雲に譲渡した後だ、余計なことは言うまいと口を噤んでいるのだろう。
「では、こうしましょう」メレディスは小さく息を吐き出してから言った。「お席のご用意はできません。ですが、立ち見でもよろしいのであれば、劇場の後ろからステージをご覧いただけます」
「よろしいの?」
「ご内密にしていただけるのなら」
「では、私のチケットをお譲りします」そう言ったのは黒人の青年だ。取り出したチケットを、うやうやしくエステルに差し出している。「私は立ち見で構いませんので」
「親切なのね。でも、本当にいいの?」
「もちろんです」
「それなら、お言葉に甘えさせていただくわ。どうもありがとう」
「私も、今夜の特別なショーをこの目で見られるのなら、立ち見でも一向に構わないよ。むしろありがたい」
「これで話はまとまったね」ゴダンが腕時計を見る。開演三分前だった。「行こうか、コクトー」
「はい」
チケットの半券を切ってもらって中に入れば、劇場内はまだ明るかった。
満員御礼の客席をぐるりと見回していると、小劇場の独特な空気感を懐かしく思うと同時に、なぜか酷く圧倒される。自分が知っている熱量とはどこか違うと、黒門は感じていた。
また後で話をしよう──スペンサーは黒門に向かってそう言うと、軽くウィンクをしてから、メレディスや黒人の青年と一緒に、劇場の後方、壁際へと向かった。おーい、という日本語が聞こえて、そちらに顔を向ければ、東雲がこちらに向かって手を振っているのが見える。
『席を取っておきましたよ』
『ありがとうございます、東雲さん』
『念のためと言ってはなんですが』こほん、と咳払いをし、東雲は後ろからやって来た女性陣にも声を掛けた。「余分に席を押さえておきました。席がお決まりでなければ、どうぞお座りください」
「あら、ありがとう」
「本当は若が──」何かを言いかける東雲の隣で、更文が軽くその袖を引いた。「ああ、いえ、なんでもありません。ささ、どうぞどうぞ」
あの高科更文のことなので、ゴダンが迎えに行った二人の姿を目に留め、席を余分に取っておいた方がいいと判断したのだろう。
劇場に席番号はなく、入った順番に、前から座席を埋めていく仕様のようだった。更文たちが取っておいてくれた席は、舞台から遠くも近くもなく、全体を見渡すには丁度良いところにあった。劇場の雰囲気も肌で感じることができそうだ。
白田を真ん中に置き、その両隣に更文と東雲が座っている。東雲の隣に座ったゴダンの横に根地が腰を据えた途端、視界の端にやわらかなブロンドの髪が映り込んだ。
一瞬、呼吸を忘れ、息が止まりそうになる。
今更席を変わってくれとも言えず、馬鹿馬鹿しく感じられるほど慎重に呼吸することを思い出していると、間もなく劇場が暗転した。
何を一人でドギマギしているのだと、黒門は自らを叱咤する。他者を個人的な偏見の目で見るのは良くないことだ。この女性は、あの女優ではない。そうと分かっているのに、どうしても強く意識してしまう。
「さあ」隣に座るクロエ・ルーが、わくわくしているような口振りで、囁くように言った。「お手並み拝見といこうじゃないの」
黒門は思わず、無意識に、その人の横顔を見てしまった。
暗がりの中でも輝いていると分かるほど大きく見開かれた目が、期待に満ちた目が、真実を見定めようとするその目が、まだ緞帳も上がっていない舞台をじっと睨んでいる。
このままずっとこちらを見ないでほしいと思うのに、頭の片隅では、その目に映り込みたいなどという、末恐ろしいことを考えていた。これが怖いもの見たさというものなのだろうか。
人間としての自分は言う。この人に近づくべきではないと。だがしかし、舞台人としての、脚本家として、演出家としての根地黒門が言うのだ。これ以上はない、観察対象ではないか、と。こんなにも、自分が頭の中に思い描いてきた女優像に合致する人など、他にはいまい。
やめておいた方がいい、君が不幸になるだけだから──幼い黒門が、後ろから小さな手を伸ばし、必死に引き留めようとしている。それ以上踏み込んではいけないと言う。シャツの裾を掴んで、全体重を掛けて、未来の自分に警告をしている。
大丈夫、ほんの少しだけだから。気が済むまで観察したら、すぐに引き返すよ──小さな手を振り払ってしまったら最後、後戻りをするための道を見失ってしまうことには、気がつきもしない。
あとはもう泥沼に嵌っていくだけだ。
だがしかし、自分にとって女性は鬼門なのだと、黒門がそう思い知らされるまでには、そう時間は掛からなかった。
「……狭い」
いつもは劇団カオスの数人だけで悠々と使用していた控え室が、今日ばかりは自由に身動きが取れないほど狭苦しく、窮屈この上ない空間となっていた。
ダイアナにウィッグを調整してもらっている希佐の隣では、イライアスがうんざりとした顔をしている。普段なら、本番前はギリギリまでストレッチをして体を温めているのだが、今日はヨガマット一枚分の空間の余裕すらないので、少しだけ不機嫌そうだった。
「本番前にそんな顔をしないのよ、イライアス」仮眠を取って大分元気を取り戻したダイアナが、イライアスの方を一瞥しながら言った。「ショーの前だって大体こんな感じじゃないの」
「だからショーは好きじゃない」
「私は本番前のこの空気感が好きよ」できた、と言って希佐の背中を送り出しながら、ダイアナは視線を彷徨わせる。「ちょっと、バージルはどこに行ったの?」
「客入りを見てくるって」
「まったくもう」
調整が必要な子は来てちょうだい、出番が早い順よ──当初は、まるで芸能人を見るかのような目で遠巻きに見られていたダイアナだが、その誰に対しても気さくな人柄が功を奏し、今では出演者たちからも好かれている。
「アランもいないじゃないの」
「ライブ配信の確認に行った」
「はあ? そういうことはもっと余裕を持って──」
ダイアナは呆れて物も言えないというふうに、大きくため息を吐く。衣装が少しだけ窮屈だと助けを求めてきた女性を、すぐ側まで呼び寄せていた。
「酸素が薄い」
絶望したような口振りで言うイライアスの手を引き、希佐は人の間を縫って、控え室の外へと出た。すると、控え室のすぐ脇に設置された長テーブルの前に、カオスの面々が集っているのを見つけ、二人は顔を見合わせてから歩み寄っていく。
「みんなで集まってどうしたの?」
「ああ、キサ」イライアスも、とアイリーンは続ける。「今呼びに行こうとしていたのよ」
そう言ったアイリーンが僅かに身を引くと、その向こう側に、アランが片腕で抱えているノートパソコンの画面が見えた。その画面には、見知った子供たちの顔が映し出されている。グラスミアで出会った施設の子供たちだ。
『あっ、キサとイライアスじゃん!』
『もう、ちょっと、見えないよー』
『おい、そこ退けって。お前ばっかりずるいぞ』
『おーい!』
カメラの前で押し合い圧し合い、次々と入れ代わる顔を見遣りながら、希佐はにっこりと笑って手を振った。
「みんな、こんばんは。久しぶりだね」挨拶の声がスピーカー越しに聞こえてくる。「元気だった?」
口々に答える声が音割れを起こしているくらいなので、元気は有り余っているようだ。希佐は画面の奥の方に映っているエズラの姿を見つけると、そのままやわらかく微笑みかける。あれから施設に足を運んではいないが、もう二度、三度と、手紙のやり取りは行なっていた。もちろん、他の子供たちには内緒だ。
キッチンのテーブルで認めたばかりの手紙に封をしながら、贔屓をしているようで気が引けると漏らした希佐に、アランはこう言った。
「この世界が公平、平等だったことなんて、ただの一度もないだろ」皿洗いを終え、きゅ、と蛇口を閉める音がする。「この世界は、勇気を振り絞って行動を起こした者だけが、人とは違う権利を得られる。エズラは君や俺に助けを求めた。自分から外の世界と繋がりを持とうとした。エズラばかり依怙贔屓していると責められたとしても、最初に声を上げた者としての特権は与えられて然るべきだと、俺は思ってる。全員をどうにかしたいなんて考えるべきじゃない。でももし、あの中の一人だけでも救えるのだとしたら、迷いなくそうするべきだ」
命の重みはすべからく平等なはずなのに、一つ一つに価値をつけられるのは、どうしてなのだろう。施設では見目麗しい子供から順番にもらわれていくのだと、アランとエズラは言っていた。
舞台に立つ役者として、自らの価値を容姿で判断され、表現力、歌唱力、舞踏力などで値踏みされることは、すっかり割り切れているし、当然のこととして受け入れている。なぜなら、それらすべてが、立花希佐という役者の価値を表しているからだ。
だが、それが普通の感覚ではないことも、十二分に理解していた。役者としての価値と、その人自身の人間としての価値は、等しいものではない。
役割としての価値は他者が客観的な目で見つけてくれるだろう。
しかし、人間としての価値を決められる者がいるとするのなら、それは自分自身以外にはいない。見目麗しい人間は確かに、生きていく上で得をすることもあるのだろう。だがそれ以上に、苦労することもあるはずだ。
人の見た目は、その人自身の一側面でしかない。その人の内面を知るためには、多少なりとも時間が必要だ。自分は常に、人の内側に目を向け続ける人間でありたいと、希佐は思う。これまでだって、そうやって生きてきたのだから。
「今夜はショーを楽しんでね」
施設の子供たちにショーを見せてあげられないかと、そう言い出したのは希佐だった。ライブ配信をするのだから、この地球のどこにいても、ネット環境さえ整っていれば、子供たちにも見てもらえるのではないかと、そう思ったのだ。だが、どうやらあの施設ではネット環境が十分に整ってはいないらしい。その事実を知ったアイリーンは、すぐに院長と連絡を取り合い、その日限りという条件付きではあるものの、実家と連絡を取り合い、大急ぎで環境を整えてくれた。
『玉坂座でも、昔は施設の子供を引き取ってきて、自分のところの役者として育ててたっていう話は前にもしたと思うが──』チャリティーイベントがライブ配信されることを知らせるために、アランのスマートフォンを借りて電話をしたとき、中座秋吏が話していた。『そういうところで育った子供ってのは、外の世界に強い憧れを持っているくせに、それと同じだけの恐怖心を隠し持っていたりもするもんだ。この世の中に絶望してるのに、妙に繊細だったりしてな。ほら、希望ってのは、希な望みって書くだろ? ある子供に言われたことがあってなぁ。希望なんてものは、一握りの人間の元にしか訪れない、残酷な幻想だってさ』
自分の未来について考えるとき、そこには多少なりとも夢が含まれている。夢はその人自身の願望だ。半年、一年、十年後の自分は、一体どのような人生を歩んでいるのか。こうなりたいという理想の自分を追いかけることが、夢を見るということだ。明日、明後日のことでもいい。今日よりも明日、明日よりも明後日、より良い自分になりたいと願うこと──それが、夢を見るということだと、希佐は信じている。
休みなく話し続ける子供たちの様子に終始閉口していたアランだったが、開演時間が目前まで迫ると、そろそろ本番だからと言ってネット通話を容赦なく遮断した。抱えていたノートパソコンを閉じ、長テーブルの上に置く。
「今のところ通信環境は良好そうだよ」インカムを装着し、別のノートパソコンを操作しながらノアが言った。「でも、天気予報で不穏なことを言ってたんだよね。雷を伴った嵐の予報だとかなんとか」
「カオスの公演日も大抵は天気が悪いけれど」
「私が入る前から?」
「ええ」アイリーンは周囲をぐるりと見回しながら続けた。「この中の誰かが嵐を引き連れて来るのよ」
「何言ってんだよ、雨男は間違いなくこいつだろ」バージルはそう言いながら、アランを指した。「こいつと初めて会った日も大雨だったぞ」
「アランが大学の公演を観に来てくれたときも、大体は雨だったよね」
「そういや、オレとアランが出会った日も、嵐みたいな天気だったよな」
「そうだったんだ」
個人的な印象としては、アランを雨男だと感じたことは一度もなかったので、希佐にしてみれば不思議な感覚だ。一緒にどこかへ出掛けるときは、曇りか晴れが多い。
「ただの偶然だ」
「キサの初公演のときは、落雷で停電したでしょ」でも大丈夫、と言いながら、ノアは自らの胸を軽く叩いた。「もしものときの対策はしてあるから」
「対策?」
「今日はモバイルバッテリーを持ち込んでる。だから、メレディスが非常用電源を入れるまでの時間稼ぎくらいはできるよ。あのときは、キサが一人で場を繋いでくれたから助かったけど、今回も都合良く君が舞台上にいるとは限らないからね」
「そう何度も起こるようなことではないと思うけど」
「そりゃそうだけどさ」イライアスの言葉を受けて、ノアは小さく肩をすくめる。「プランBってやつだよ。準備しすぎるに越したことはないからさ」
「まあ、何が起こるか分からねぇのが舞台だからな──」
バージルがそう言ったとき、遠くの方から唸るような、ごろごろという音が聞こえてきた。カオスの仲間たちは思わずというふうに顔を見合わせ、指し示したように、全員でアランの顔を見上げる。
「なに」
「嵐を呼ぶ男め」
「だから、偶然だって」
「非科学的なことを言うなってか?」くくく、と噛み殺すようにして笑いながら、バージルはアランの肩に手を置いた。「だったら、賭けようぜ」
「えっ、賭けるの?」
アランよりもノアの方が、バージルの提案に食いついている。わくわくした様子で大きな目を輝かせ、バージルを見つめていた。
「俺は停電する方に、そうだなぁ、五十ポンド賭ける。負けたら寄付に回すよ。ついでに、今夜のお前らの支払いは全部俺が持ってやる」
「そんな結果の分かりきってる賭けには乗らない」
「じゃあ、お前は停電しない方に何か賭けろよ、アラン」微かに口角を下げ、不満を露わにしているアランを見て、バージルは更に続けた。「俺が勝ったら、一曲歌ってもらう──ってのは今更か。ああ、でも、お前の嫌いな歌を公衆の面前で歌わせるってのは、なかなかに面白いかもしれねぇな」
「面白みなんて感じない」
「なんだよ、つまんねぇやつだな」
「賭けは嫌いだ」
「人生なんてギャンブルみてぇなもんだろうが」
「俺は堅実に生きてきた」
「よく言うよ」
ここにいる全員が、アランの顔がいつもより少しだけ強張っていることに、間違いなく気づいている。だが、誰一人それを指摘する者はいない。それどころか、他愛のない話をして、気を紛らわそうとしているのが分かる。
「あ、そうだ。バージル、ダイアナが呼んでいたよ。衣装のチェックだと思う」
「またかよ」
「すぐ終わるから。アランも一緒に行って、着替えてきて」
「分かった」
まだ賭けの話を続けながら、二人は連れ立って、あの混み合っている控え室へと入っていった。開け放たれた扉の向こうからは、黄色い悲鳴のような声が小さく漏れ聞こえてくる。この数日で、アランとバージルは新しいファンを獲得したようで、連絡先を訊ねられているところを、よく目撃していた。
「あーあー、モテる男はつらいねえ」インカムを装着し直しながら、ノアが舌を覗かせる。「連絡先を聞かれても片っ端から断ってるってさ」
「当然のことじゃないの」
「でも、中には結構可愛い子もいたよ」
「あら、それは私やキサよりも?」アイリーンに鋭く睨みつけられ、さすがのノアも引き攣った面持ちを見せている、「稽古に身を入れるべきときに、色恋にうつつを抜かすような人間に、あの二人が靡くと思う?」
「いいえ、お嬢様」
「分かっているのならいいわ」アイリーンはそのむすっとした顔を、今度は希佐の方に向けた。「あのね、キサ。これは前々から忠告していることだけれど、そうやってのほほんとしていると、そのうち痛い目を見ることになるかもしれないわよ。今回の出演者の中にだって、アランを狙っている子がいるって教えてあげたわよね?」
「そうだった?」
「そうだったって、あなたね」アイリーンは希佐の目と鼻の先で、ぱちん、と指先を弾く。「要するに、あなたはたいしたことのない女だって思われているの。だから他の女たちがアランに色目を使うのよ。どう? 悔しいでしょう?」
「私は別に──」
「私は悔しいわ」
陰口を言われていることは知っていた。だが、敢えて無視をしていた。
何を言われても黙っているのは、言い返している時間が惜しいのもある。何らかの反応を示してしまえば、相手の神経を逆撫でしかねないことも知っている。にこにこと笑ってさえいれば、相手にするだけ無駄だと悟ってもらえる。
ああいう連中には、舞台上で分からせてやりゃいいんだよ──バージルもそう言っていた。
「ついでに言うと、あのクローディアって人も気に入らないのよね」
「え、どうして?」
「何が『私のKISA』よ、馴れ馴れしい」ぷりぷりと怒りながらそのようなことを言い出したアイリーンを見て、希佐は思わず目を丸くしてしまった。「ジプシーの女よりも、ヘロディアの娘の方が優れているって、証明してちょうだい」
「今日は、クローディアさんの歌に合わせて、サロメを演じさせてもらうんだよ、アイリーン」
「あなたが自分で歌えばよかったのよ」
「私にオペラは無理だよ」
クローディアが歌うサロメの歌声に乗せて、希佐が舞い踊る──それを提案したのは、他ならぬクロエ・ルーだ。クロエは、絶対に面白いものになると言い張っていたが、当然アランは良い顔をしなかった。
だが、最後には結局、物事はクロエ・ルーの思う通りになる。誰もあの稀代の大女優には敵わないのではないかと、希佐は思った。
「あの人、本当に何を考えているの?」理解に苦しむというふうに、クローディアは大きく頭を振っていた。「もう何日も時間はないっていうのに」
「私がクローディアさんの歌に合わせて踊ります。歌を吹き込んでいただければ、振り付けは私一人でも考えられますし、後日それをお見せして、ご意見を聞かせていただければ」
歌とダンスを通して合わせたのは数える程度だ。ほとんどぶっつけ本番と言っても過言ではないが、こうして乗りかかった船だ、動き出してしまった以上、遠中で海に飛び込むことは許されない。
「中途半端だけは嫌よ」全員が帰っていった後の、他に誰もいない劇場で二人きり、合わせていたときのことだ。「私には、まあこんなものでしょ、なんて考えはない」
本番前の役者にどのような事情や背景があろうと、それを観る観客には何の関係もない。観客にとっては、その目に観たことがすべてだ。満足に稽古時間が取れなかったとしても、健康管理を怠って高熱に浮かされていたとしても、観客には知ったことではない。彼らが決して安くはないチケットを購入し、生憎の天候の中でも劇場に足を運ぶのは、完璧な舞台を観るためだ。ほんの少しでも期待値を下回れば、裏切られたと感じるだろう。結果がすべての世界では、言い訳など無意味だ。
ゼロか百か──中途半端なものを見せるくらいなら、舞台に立たない方がいい。
希佐はカオスの輪から離れると、舞台袖まで歩いていき、緞帳の隙間から客席を覗き見た。劇場内はまだ電気が付いていて、観客一人一人の顔をはっきりと目視することができる。日本から来た先輩方がどこに着席しているのかを確認しておきたかったが、ここからでは見えないようだ。
「何してるの」
開演時間が迫り、出番が迫る演者たちが、舞台袖に集まってくる。希佐が後ろを振り返ると、衣装に身を包んだアラン・ジンデルが立っていた。あれこれ装飾した衣装を着せたがるダイアナとの戦闘の末、酷くシンプルな格好に落ち着いたアランの姿をとっくりと見つめてから、希佐はやわらかく笑う。
「なに」
「ううん」微かに眉を顰めたアランを見上げ、希佐は首を横に振った。「素敵だよ」
シャツの襟元からはゴールドのチェーンが覗いていた。アランは希佐の視線の先に目を落とすと、自らの胸元に手を触れる。指の先でシャツの下にある琥珀に触れながら、希佐の目を見つめた。
「私がずっとそばにいる」いつも通り、あまり表情の出ない顔をまっすぐに見上げ、希佐は悪戯っぽく笑う。「そう思うと心強いでしょう?」
「自分のために舞台に立つ方が、どれだけ気が楽だったか」
「そうかな」
「君は、今の俺とは比べものにならないほどの責任と、重圧を背負ってきたんだな」
「アランだってそうだったと思うよ」アランはその先の言葉を促すように、希佐の目を見つめたまま何度か瞬いた。「当時はまだ子供だったから、深くは考えなかったのだと思う。でも、私はこの目で見たことはないけれど、アランは確かに舞台の真ん中に立っていて、その懸命な姿を見て、劇団の人たちも心強く感じていたのではないかな。ただそこにいてくれるだけで、舞台上でピンスポットを浴びて、誰よりも輝いている姿を見ているだけで、勇気が湧いてくる。そういう存在だったのだと思うよ」
「その言い方だと、君自身が自画自賛しているように聞こえるけど」
「私は、舞台の真ん中に立ち続けることの意味を知っているから」
舞台の真ん中に立つ。
それは、誰かの夢を打ち砕き、かつて夢と呼ばれていた数多の瓦礫の上に立って、スポットライトを浴びるということだ。瓦礫の上に自らの旗を突き立て、羨望や嫉妬の眼差しを一身に浴び、脚光を浴び続けるということだ。誰かが放つ挫折の暗闇があるからこそ、自分に降り注ぐ光は圧倒的に輝く。
この世界では、与えられたチャンスをモノにできなければ、もう二度とそのチャンスが巡ってこないこともある。たった一度の失敗が、命取りになることもある。
だから、希佐はいつだって、これが最後のチャンスになるかもしれないという覚悟を持って、舞台に立つ。決して後悔することのないように、命を賭して、全力で舞台に向き合う。この瞬間が終わるとき、今死んでも構わないと、そう思えるように、舞台に挑むのだ。
「私は期待してもらえることを誇りに思うし、いつだってその期待に応えたいと思ってる。それに、期待に応えられる自信もあるよ。だって、それだけの努力を惜しまなかったから」
アランだって、そうでしょう──? そのように問う希佐の目を見つめたまま、アランは詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
「だから、あとはもう自由に楽しめばいいんだよ。最後の瞬間まで、音楽に身を委ねればいい。自分たちが楽しめないと、お客さんを楽しませることなんてできないんだから」
「よーし、よく言った」
そう言う声が聞こえてきた次の瞬間、希佐は力強く肩を抱き寄せられる。わっ、と小さく声をあげ、前につんのめりそうになった体を起こすと、上機嫌な顔をしたバージルが隣に立ち、希佐とアランの体に両腕を回していた。
「本番なんて、はじまっちまえば、あっという間に終わるんだ。あれこれ余計なことなんか考えてねぇで、ただ楽しめばいいんだよ。馬鹿みてぇにな」
しっかりと正面を見据えたまま、バージルはにんまりと笑う。その眼差しは、まるで挑発するように、まだ誰もいない舞台上へと向けられていた。
「ま、舞台は俺が温めておいてやるから、心配すんな」
「俺が、じゃなくて、俺たちが、でしょ」
開幕と同時に舞台に立つ出演者たちが、続々と舞台袖に集まってきている。真後ろまでやって来た加斎たちも、真新しい衣装を身に付け、本番前特有の興奮した様子を窺わせていた。
「あー、早く開演時間にならねぇかな」リオがそわそわしながら、落ち着きなく肩を回している。「鼻がむずむずする」
「ティッシュあるよ」
「ん? ああ、いや、違うんだ」希佐が長テーブルの上に置いてあるティッシュの箱を取って差し出すと、リオは慌てた様子で首を横に振った。「本番前はこう、なんていうかさ、顔の真ん中が痒くなるんだよ」
「おかしな体質ですよね」
「うっせー」
くすくすと笑うダンテの腹に、リオは軽くパンチを当てる。ダンテがそれを大袈裟に痛がって見せていると、長テーブルの前でパイプ椅子に腰を下ろし、インカムのマイクに向かって話しかけていたノアが、しー、と唇に人差し指を立てた。
「そろそろ幕が上がるよ。バージル、持ち場について」
「はいよ」
「他のみんなも出遅れないようにね」
上手側の舞台袖にはジェレマイアがいて、常にノアや他のスタッフと連携をとりながら、演者らに指示を出し、開演までの秒読みを行なっている。劇団カオスの公演の際はアランが一手に担っている仕事だが、ノアは大学のサークルでの経験が、ジェレマイアはアメリカでの経験が役立っているようで、リハーサルからの入念な準備もあり、進行は滞りなく行うことができそうだと話していた。
「んじゃ、先に行ってるぞ、弟子」
「はい、師匠」
バージルは希佐とアランの背中をとんと叩くと、肩越しに後ろ手を振りながら、薄暗い舞台に向かって歩みを進めていく。希佐の目には、ピンと伸びたその背中が、鳥肌が立つほど格好良く見えた。
この人のように踊れるようになりたい。
この人を、越えてみたい。
いつからか、そんな烏滸がましいことを考えるようになってしまった。いつも、まるで戦いを挑むように、隣に立って踊っていた。だがしかし、いつまで経っても、その背中に追いつける気がしない。
カオスの仲間たちはいつだって、立花希佐という存在を霞ませるくらいの、強い輝きを放っている。自ら光を放つ恒星のように、それぞれに色を持っている。
『お前は透明な器だ』
あの天賦の才能を持つ孤高の人は、立花希佐が持つ透明な色に、その価値を見出していた。相手の心を映し出すと。そういう自分の在り方が好きだと、希佐は思う。自分以外の誰かに寄り添い、その声や、体の細部までの動きや、心の機微を繊細に感じ取りながら、舞台に立つことが好きだ。
それでもときどき、自己顕示欲がひょっこりと顔を覗かせることがある。観客の視線を独占したいという奇妙な気持ちになるのだ。ここであっと驚くようなことをしたら、みんなはびっくりしてくれるだろうか──舞台上に立っていても、頭の片隅はいつも冷静で、そんなふうなことを考えている。
もし、透明ではなかったとしたら、立花希佐という役者は一体、何色に染まるのだろう。日本を離れて五年という月日が流れた今、ユニヴェールに在学していたあの頃とは、何もかもが違う。それならば、今の自分は透明な器などではなく、自分だけの色を持った、役者になってもいいのではないか。
「何を考えてるの」
劇場の照明が落とされる。それと同時に観客席の喧騒が遠退き、屋根を打ち付ける雨音が、一層大きく聞こえてきた。あの客席のどこかに、ユニヴェールの先輩方が腰を据え、舞台に目を向けている。
「昼間、バージルと一緒にお店の前で踊ったでしょう? それを見たフミさんが、こう仰ったんだ」頭上から降ってきたアランからの問いかけに、希佐は小さな声で応じた。「この五年間、お前がどんなふうに生きて来たのか、なんとなくだけど見えたような気がした、って」
「うん」
「言葉をもらえて嬉しかったけれど、それ以上に悔しかった。あれだけを見て判断されたくないって思った。バージルのことだってそう。私たちは、もっとすごいことができる」
「それを証明すればいい」
大きな手の平が、一回り以上小さな希佐の手を、包み込むようにして握り締めた。希佐がその手を握り返すと、更に強い力で握り返される。いつもなら自分よりもあたたかいはずのアランの手が、氷のように冷たかった。
「もちろん、証明するよ。劇団カオスはすごいんだぞって」
先輩方に、だけではない。
この劇場に集まっているすべての人たちに。
劇団カオスを侮っている出演者たちに。
見せつけてやるのだ。
『夜にはより良いステージをお見せします』
そう言って美しく微笑んだ希佐の顔を目の当たりにした瞬間、自分は今、踏んではならない地雷を踏み抜いてしまったのだろうと、更文は思った。
ユニヴェールにいた頃から、希佐はときどき妙なスイッチが入って、急速なギアの入れ方をすることがあった。口にした者がそのように意図していない言葉でも、希佐の心根を強く刺激し、思いもよらない解釈をすることがある。
恐らく、今回は更文が、そのスイッチを押してしまったのだろう。
だが、立花希佐は、逆境を力に変えることができる役者だ。こういう場合も、大抵は良い方向へと転がることの方が多い。
この立花希佐が、更文の知っている立花希佐のままならば、の話ではあるが。
「はじまるんですね」隣の席に座り、どこか固い声で言った美ツ騎の横顔を見やれば、その表情は酷く強張って見えた。「僕、何だか怖いんですよ」
「怖い?」
「ほら、どういうわけか手が震えているんです」
そう言って顔の前に掲げた手の平は確かに、小刻みに震えているように見える。
「俺が握っといてやろうか?」
「結構です」
こんなときですら、すっぱりと断ってくる美ツ騎の声を聞き、吐息を漏らすようにして笑う。手を握っていてもらいたいのは、案外自分の方なのかもしれない。自分が立つ舞台の本番前でも、こんなふうに気持ちが揺れることはないと、更文は思った。
「あいつらの最後のユニヴェール公演の前も、こうだったんですよ」美ツ騎は震える手でぎゅっと拳を作りながら言った。「本番前に様子を見に行ったら、立花は当たり前みたいな顔で平然としていて、いつもみたいににこにこ笑っていたんです。そんなあいつを見ていたら、僕の方が震えが止まらなくなって」
「本番前のあいつは、どこか近寄りがたい雰囲気があったからな」更文がそのように言うと、美ツ騎はどの口が物を言うのだという顔をして、容赦なく睨みつけてくる。「役によっては入り込みすぎるところがあるだろ。年次が進むに連れてそれが如実になって、スーやソーシも本番前は特に気を使うようになったって言ってたよ」
それは、立花継希も同じだった。
継希は誰よりも面倒見が良く、故に多くの人々から慕われていた。人と人との間に隔たりなどはないのだと、そう本気で信じているような、博愛主義者だった。当初はそれを偽善に感じ、反吐が出るほど気持ちが悪いと、更文は思ったものだ。
アルジャンヌとして新人公演の舞台に立ち、個人賞金賞を受賞した。当然のことだと思った。更文には幼い頃から舞台に立ち続けてきた自負がある。自分の見せ方は心得ているし、入学したばかりの頃は、同期の存在など眼中にもなかった。
立花継希の真の実力を思い知らされたのは、夏公演の準備が始まってからだ。ユニヴェールの至宝という異名は本物なのだと思い知らされた。大勢の才能ある大人を目の当たりにしてきたはずなのに、その誰とも違う、特別なオーラのようなものを持っていた。人は誰も、立花継希という存在を、無視することができない。
本番前、継希はほんの少しの間だけ、忽然と姿を消す。
「継希さんは?」
夏公演の本番前、控え室で準備をしていると、継希の姿がないことに気がついた。それなのに、誰も何も言わない。更文がむすっとしながら声を上げると、上級生たちは顔を見合わせながら笑っていた。
「継希さんならすぐに戻るよ」
「本番前はそっとしておく決まりなんだ」
その五分後、静かな足取りで控え室に現れた継希に向かって、更文はぶっきらぼうに「どこに行ってたんですか」と問いかけた。すると、継希はそんなことは初めて聞かれたという顔で目を丸くしてから、どこか照れたように笑って言った。
「大事な電話を掛けていたんだよ。ごめんね、遅くなってしまって」
本番前、忽然と姿を消していた継希は、ここにはいない誰かと電話で話をしていた。興味本位で盗み見て来た生徒の話によると、いつも以上に穏やかで、優しい口振りだったという。下世話な話が好きな者たちは、相手は継希の恋人に違いないと噂していたが、今思えば、あの電話の相手は妹の希佐だったのだろうと、容易に想像することができた。
当時の継希と希佐がどのような話をしていたのかは分からない。だが、大事な電話を終えて戻って来た継希はいつだって、覚悟が決まった者の面差しを浮かべていた。一見するといつもと何も変わらない。だがしかし、どこか冷たい印象を覚えるその目の底では、滾るような感情が燃え盛っていた。
かつては希佐も、継希と同じ目をすることがあった。
突然、何の前触れもなく、妙なスイッチが入る。
目を、離せなくなる。
何のアナウンスもなく、開演時間になるのとほぼ同時に、劇場の照明が落ちた。美ツ騎が隣でスマートフォンの電源を切っている。周囲にはまだ話し込んでいる者もいたが、大方静まり返ってきた頃、観客たちの目が暗闇に慣れてくるよりも早く、大勢で呼応するような歌声が劇場内に轟いた。次いで、地鳴りのような足踏みが聞こえてくる。
「あ、これはあの映画の──」
僅かな沈黙の間に、そう嬉しそうに囁く、東雲の声が聞こえてきた。だが、その言葉の続きは、呼応し続ける歌声に掻き消される。
これは、有名なミュージカル映画の一曲だ。
「チャリティーですから、誰でも知っている、有名な曲を選んでいるのかもしれませんね」
暗闇の中から聞こえてくる歌声に合わせ、客席に座っている者の何人かが、同じように声を上げはじめた。リズムに合わせて足を踏み鳴らしている。それが劇場中に広がって、更文の右隣に座っている見知らぬ紳士も、同じように喉を震わせ、足を踏み鳴らし、手拍子をしはじめた。目には見えない熱気が、少しずつ、少しずつ上昇していくのを感じる。気分が高揚していく。足の爪先が、両手の指先が、何故か酷く疼いていた。全身を駆け巡る血潮が、どくどくと波打って、心臓を忙しなく鼓動させている。
そして、劇場の興奮度が最高潮に達した瞬間、眩い光が、舞台上から観客席を照らした。思わず目を細めて見た光の真ん中に、シルクハットを被った、すらりとした男のシルエットが浮かび上がる。
一瞬の沈黙──恐らく、劇場中の視線を一身に浴びていると思われるその男は、斜に構えたその姿勢のまま、ニヤリ、と笑った。いや、実際にその顔が見えたわけではない。逆光でシルエットしか見えないはずなのに、更文は確かに、その男が笑ったように感じられたのだ。
そして、男は歌い出す。伴奏は人々の歌声と、自らで踏むタップ音だけだった。だが、徐々に音楽が厚みを増していく。オーケストラやバンドの姿はどこにも見えないのに、どこからともなく生の演奏が聞こえてくる。
男は良く通る良い声をしていた。まるでストーリーテラーのように、劇場の観客全員を、物語の中に引き込んでいく。誰一人置き去りにしない。観客はただの傍観者などではなく、同じ物語を紡ぐ一人の登場人物なのだ。
「……」
昼間、希佐と踊っていた男だということに、更文は遅れて気づく。
ユニヴェールを卒業し、玉阪座で舞台に立ちながら芸能活動も続けてきた中で、華のある男には大勢出会ってきた。だが、自分自身の華がその華よりも劣っていると、そう感じたことは一度もない。立花継希以外に、更文に対して敗北という劣等感を植え付けた者はいなかったのだ。
しかし今、更文の心の中には、じりじりと焼けるような劣弱意識が芽生えつつあった。あの、この目を惹きつけて止まない色香は、恐らく天賦のものなのだろう。あれが年齢を重ねることで得られるものならば、更文もいずれはあの領域に達することができるかもしれない。人を惹きつける魅力というものは、基本的には持って生まれてくるものだ。付け焼き刃でどうにかなるものではない。
男が被っていたシルクハットを舞台袖へと放るのを合図に、ステージに煌々とした光が降り注ぎ、上手と下手から、多くのダンサーが躍り出てきた。決して広くはない劇場の舞台を目一杯に使い、迫力のあるタップダンスの群舞が披露される。
日本と海外の舞台レベルを比較し、優劣をつけようとは思わない。日本には日本の文化、芸術がある。特に、ミュージカルは海外からもたらされた、比較的新しい舞台表現だ。本場と比較をすれば迫力に欠けると判断されても致し方ないことだろう。だがしかし、日本には能や狂言、歌舞伎、舞踊などが存在する。海外でこれを真似ようとしたところで、本場の表現には遠く及ばない。それぞれの表現を根付かせ、熟達させるためには、それなりの歳月を要するということだ。
それでも、ユニヴェール歌劇学校を卒業した高科更文としては、今の自分と、この目に見たものを比較してしまう。
『更文、お前はもっと世界に目を向けろ。一度この日本を出て、見聞を広めるんだ。様々な文化に触れた分だけ、それはお前の芸の糧となる。お前は目が良いからな』
父親、高科二千奥の言葉が、脳裏を過ぎる。
確かに、自分はこの世界のことを知った気になっていただけで、実際にはその一端しか見ていなかったのかもしれない。
日本には尊敬できる才能を持った人は多くいた。だが、目の前の迫力に圧倒され、言葉を失い、今はまだ叶わないという気持ちにさせられたことは、ほとんどない。周囲の様子を窺いたいのに、どうしてもステージから目を逸らすことができないのだ。
途中、舞台を支配していた男が、その存在感だけを残して、ステージ上から姿を消した。ブルーのドレスを着た女性が、コーラスに支えられながら高らかに歌い上げている。そして、女性が下手の方向にその腕を掲げた瞬間、歌声と共に一人の人物が舞台上に飛び出してきた。
先程の男よりも一回り以上小柄だが、同じタキシードを身に纏い、シルクハットを被った青年だ。体が軽い分、まるで飛ぶように、跳ねるように、心が躍るようなタップを踏む。先程の男──バージルの絶対的な自信、余裕、この俺だけを見ろというふうな圧倒感はない。だが、青年はただそこにいるだけで、輝きを放っているように見えた。自分のことを見る者すべてを──いや、ステージに立つ演者たちのことすら楽しませようとしている、そんな心意気が伝わってくるのだ。
継希に“似ている”と、更文は感じた。
だが、そんなはずはない。
それならば、その正体は──。
「……希佐」
音楽が止み、まるでクライマックスかと思うような大喝采を浴びながら、青年は被っていたシルクハットを脱いだ。確信はしていたというのに、顕になったその顔を目の当たりにした刹那、更文は思わず息を呑む。
そのきりっとした面差しは、似ていると感じた継希とも、かつての立花希佐とも違っていたからだ。喝采を浴び、琥珀色の目を輝かせながら観客席を見渡すその姿からは、並々ならぬ自信が感じられる。
ユニヴェールにいた頃の立花希佐には、いつもどこかに迷いがあった。きっと、女であることを隠し続けている自分に対し、本当にこのままで良いのかと、疑念の気持ちを抱き続けていたのだろう。
だが今は、何も迷う必要などない。
少女であることを隠し、少年を演じ続けていた立花希佐は、もういない。
ここにいるのは、誰に対しても自分自身を偽る必要のない、一人の役者だ。
吹けば飛んでいきそうな危うさを感じさせていた、あの頃の立花希佐は、もういない。あの頃の危うさ、儚さ、切なさが、立花希佐を稀代のアルジャンヌたらしめていたというのに。
鳴り止まない拍手の中、舞台は暗転する。すぐに次の出番が控えていた希佐は、急いで袖に捌けようとした。だが、暗闇の中で誰かに後ろから衝突され、そのまま傾れ込むようにして舞台袖に押し込まれた。
「何やってるの、キサ。早く服脱いで」
「ちょ、ちょっと待って──」
ディスプレイに表示されているカウントダウンを指差しながら、ノアが急かすように言った。だが、急かすのも至極当然だろう。出番までには、もう僅かしか時間が残されていない。本来であればここで早着替えを行い、すぐさま舞台上に復帰するはずだった。
「悪い、キサ」
「ううん」ぶつかった拍子に、後ろにいたリオの衣装のボタンと希佐のウィッグが、運悪く絡まってしまったのだ。「外れそう?」
「暗くてよく見えないんだ」
「退いて」
希佐は横目でディスプレイを見やる。残り十数秒だ。リオに変わってアランが自分の頭に手を掛けようとするのを見て、希佐はその手首を掴んだ。
「行って、アラン」
「なんだって?」
「一人で行って」嘘でしょ、と言ったのは、ノアだろう。「三十秒だけ踏ん張って」
引っ掛かって取れないウィッグなど捨ててしまえと、希佐はそれを頭からすっぽりと外した。リオは長テーブルに置いてある電気スタンドの前に行き、絡まりを解いている。希佐はネットを脱ぎ、団子のようにきつく結い上げていた髪を解いた。
「ほら、早く」希佐はそう言って胸を押すが、アランはこちらを見下ろしたまま、じっとして動かない。「なに、自信がないの?」
「キサ、そんな言い方──」
「歌うとか、踊るとか、できるんでしょ? 時間がないから、早くして」
希佐が一見冷たく聞こえるような口振りで言い放てば、その場の空気が一瞬にして凍てつくのが分かる。だがしかし、アランだけは違った。希佐のことを睨むように見たあと、まるで受けて立つとでもいうふうに口角を持ち上げ、こちらに背を向ける。
「せっかく温めた空気を台無しにしないでよ、アラン・ジンデル。あなたたちの後には、この私が控えているんですからね」
「善処はするけど」腕を組み、舞台袖で次の出番を待つアイリーンに向かって、アランが言った。「念の為に心の準備だけはしておいた方がいい」
三秒前──アランは希佐に背中を向けたまま、残りの時間をたっぷりと使い、大きく吸い込んだ息をゆっくりと吐き出していた。
暗転した舞台。
劇場内のざわめきは止むことを知らない。
観客たちは未だオープニングの興奮を引きずっている。
なぜ自分の体がこんなにも強張り、緊張しているのか、白田美ツ騎にはよく分からなかった。ただ、似たような感覚を味わったことならある。美ツ騎をこんな気持ちにさせるのは、田中右宙為の他には、立花希佐しかいなかった。
あの二人は互いをそのような目で見てはいなかったのだろうが、周りはあの二人を因縁の相手、積年の敵と決めつけ、ことあるごとに競わせたがっていた。立花に近しい者の目から見れば、立花を追いかけ、欲する田中右と、それから全力疾走で逃げる立花といった構図の方が正しいように思う。
田中右は自身最後のユニヴェール公演まで、立花に自分のアルジャンヌにならないかと迫っていた。それはまるで季節の風物詩のようで、最終的にはまだ言っているのかと呆れ半分で見守られていたが、田中右にしてみれば切実な問題だったはずだ。ユニヴェールでの三年間、欲して止まなかった自らの半身とも呼べるパートナーと出会うことなく、心の孤独を埋められないまま、77期の絶対王者として卒業していったのだから。
立花希佐は、田中右とは違い、パートナー問題に事欠くことはなかった。稀代のアルジャンヌとして名を残した立花だが、ジャックやジャックエースを演じる技量も持ち合わせていた分、配役には毎度苦労していた。織巻や世長、鳳、後輩たちがこぞって立花と組みたがった。だが、立花希佐の隣に立つという重圧は、公演を重ねるごとに重くなる。あれだけの役者に見合うだけの役割を果たすためには、並大抵の努力では足りない。
立花はユニヴェールにいた頃から、舞台にすべてを捧げていた。立花にはユニヴェールの舞台しかなかった。それだけの覚悟を背負って、ユニヴェールの門を潜った。
舞台のためなら自分を殺せる人間が、この世界にどれだけいるだろう。多くの役者は、自分にもその覚悟はあると、そう豪語するに違いない。だがそれは、単なる建前だ。
例えば、脚本の末尾に「ここで死ね」と覚書があっても、普通はそれを本気にはしない。だが、立花希佐はそれが舞台にとって本当に必要なことなら、自らの胸にナイフを突き立てることも厭わないだろう。美ツ騎は一度、舞台上で自らを殺そうとした立花希佐の姿を、この目に見ている。どれだけの舞台人が、舞台生命を賭けて、一つ一つの舞台に立てるというのか。
美ツ騎は、あのハヴェンナの舞台を乗り越えた日から、このかわいい後輩のためにできることなら、何だってしてやろうと、そう決めている。立花がユニヴェールから姿を消し、五年の歳月が過ぎ去った今ですら、その思いは変わっていない。
だから、立花が過去のすべてを清算し、ここでやり直すつもりなら、それを応援してやるつもりだ。他の誰が反対をしても、自分だけは、立花の味方でいる──それが白田美ツ騎の覚悟であり、けじめだ。
重なり合うあの歌声を聞いてしまった。
本音でぶつかり合いながら、議論を重ねながら、踊る二人を見てしまった。
あの立花希佐が、自分を押し殺さず、相手に遠慮もせずに、目の前にいる男と対峙していた。見たことのない姿だった。クォーツの仲間を優しく見守り、クラス優勝へと導き続けた結果、半ば神格化されつつあった天才が、地に足をつけて生きる姿を目の当たりにしてしまった。このロンドンでも、多くの人に慕われ、誰かを助け、誰かに助けられながら、懸命に、楽しそうに生きている姿をこの目で見て、応援したいと思ってしまった。
ユニヴェールには、立花希佐の夢があった。
このロンドンには、立花希佐の人生がある。
再会してたった三日しか経っていないが、白田美ツ騎には、それがすべてのように思えていた。
「──」
ああ、暗闇の中から歌声が聞こえてくる。その瞬間、初めてその歌声を聴いたときよりも如実に、鳥肌が立った。無音の中から、声だけが生まれてくる。
ユニヴェールに入学することが決まった日、美ツ騎はこの先の人生を、一人で生きていくと覚悟を決めた。歌と共に歩んでいくと。たとえすべてを手放すことになったとしても、この身とこの声だけは、絶対に連れていくのだと。
舞台が好きなわけではなかった。ただ、親元を離れ、独り立ちをして生きていくための足掛かりとして、ユニヴェールを選んだというだけのことだ。最高峰の歌を学べる上に、舞台に上がれば給料を得られる。衣食住も保証される。美ツ騎にとって、これ以上ない逃げ場所だった。
ユニヴェールで過ごした三年間、多くを学んだ。歌と生きていくという覚悟はより強くなったが、自分は舞台に向いていない、という結論に落ち着いたことは、意外でもなんでもなかった。快楽の街、ハヴェンナで学んだのだ。舞台に対してあれだけの熱量を常に注ぎ込み続けられるほど、自分は強い人間ではないのだと。
弱々しさと、力強さが、ないまぜに。芯はあるのに、まるで水や風のように、明確な形がない。よく通る透明感の先に、ざらつくようなノイズが走る。
あまりに不思議な声だった。
聞けば聞くほど、虜になる。
「……稽古のときと違う」
魅惑の歌声が二小節──そっと演奏が追随してくると同時に、舞台に光が戻る。
何度も、何度も、繰り返し、繰り返し、入念に頭から合わせていたから、良く覚えていた。二人は歌い出しから舞台上に立っているはずだ。それなのに、光に照らされたステージ上に立っているのは、アラン・ジンデル、唯一人だけだった。
あれだけ念入りに確認をしていたのだ、それを変更せざるを得ない状況があるとすれば、立花の身に何かあった、ということなのか。
だが、どのようなハプニングに見舞われようとも、観客にそれを知る術はない。プログラムが事前に発表されていない以上、裏で何が起こったにせよ、観客にとっては今目の前に見ているものが、正規の舞台だ。
『美しい方ですね』
『そうだろう?』
そのような会話が左隣から聞こえてくる。ゴダンの声は心なしか誇らしげだ。
立花は、アラン・ジンデルを劇団カオスの主宰として紹介をした。
ここへ来て耳にした噂話によると、アラン・ジンデルは若い頃、子役として舞台に立っていたらしい。しかしながら、いつの間にか表舞台から姿を消していたのだという。才能ある若者だったのにもったいない。いずれ誰もが知る役者になると思っていたのにと、そんな話をよく聞いた。舞台を離れて十年は経っているそうだ。
今夜のチャリティーステージで復帰をするらしいよ──そう嬉しそうに話していたのは、昼間から下の店でエールを呷り、気持ち良さそうに酔っ払っていた中年の男性だった。昔、同じ劇団に所属していたと自慢げに語っている声が、美ツ騎の耳にも届いていた。
『魔物のエクス』の映像を観ていたとき、エクスを演じている男に、十年ものブランクがあるとは、想像することすらなかった。あの睦実介も、エクスを演じていた役者は相当できる人物だと気にかけていたくらいだ。
何があの人を舞台から遠ざけ、そして何が、あの人を舞台へと連れ戻したのか。
ただただ将来に悩み、自らの進むべき道を見失いかけている自分にとって、アラン・ジンデルの姿は何かのよすがになるのではないかと、美ツ騎は感じている。
装いも新たに舞台袖から現れた立花は、相手との身長差を調整するためだろう、踵の高い靴を履いていた。もしかしたら、寸前までタキシードを着て、シルクハットを被り、軽快にタップダンスを踊っていた者と同一人物だと、気付いていない観客もいるのかもしれない。
黒いスキニーのパンツに、少し光沢のあるゆったりとしたシルエットの白シャツというシンプルな衣装のアランに対し、立花は丈の短い白のシャツワンピースに、赤いハイヒールという際どい出立ちだが、足を上げたタイミングで短いスパッツが覗き、美ツ騎は何やらほっと胸を撫で下ろす。
アラン・ジンデルは歌い続けながら、舞台上に姿を現した立花に目を向けた。立花は自分を見るアランと一定の距離を保ちながら、その周りを回るようにしてステージ上を歩く。アランは、その眼差しだけで立花を追いかけていたが、自らのパートが終わったタイミングで長い腕を差し伸ばすと、立花の腰を力強く引き寄せた。
二人が稽古をする姿を見ていたから分かる。
あのひっそりと静まり返ったスタジオで踊っていたときとは、何かが明らかに違っていた。稽古をしているときは、コンマ一秒の認識のずれすら許されないとばかりに綿密に話し合い、互いの思考を擦り合わせては、繰り返し踊っていた。自分にとって決して譲れないところ、譲歩しても良いところを一つずつ調整し、目の前の問題を解決しようと努めていた。一見すると完璧に思えるのに、常にどこかが噛み合っていない。何かが不自然だと感じていた。だが、今になってようやく、なぜそのように感じたのかを、美ツ騎は理解した。
人形のようだったのだ。
二人はまるで、天から伸びる糸に操られ、完璧に踊らされる人形のようだった。
だが、今はどうだろう。互いの主義主張など知ったことかというふうに、真正面からぶつかり合っている。それなのに、何一つ破綻していないのだ。歌も、ダンスも、表現としても、確かに完成されている。
この結果は、妥協せずに行なってきた、これまでの稽古の賜物なのだろう。互いの動き、思考、癖を理解し合っているからこその、成せる技だ。付け焼き刃では、こうはいかない。
これを見て、更文は何をどう感じているのだろうと、美ツ騎は思った。
自分のことなど二の次で、常にパートナーを尊重し、どこまでも寄り添い、一つのものを作り上げてきた。しかし今、これだけを見れば、そうしたかつての立花希佐は失われてしまったのだと、そんなふうに考えるのではないだろうか。そんなことはないというのに。
アラン・ジンデルの腕が立花の体を抱え上げる。体勢の不安定なリフトを軽々とこなしながら、音程の狂いなく歌い続けている。簡単なことではない。それなのに、まるで簡単なことのように、いとも容易くやってのけている。
音楽は徐々に収束していく。
無音の中、少しだけ上がった息遣いのまま、立花は最後の一節を歌い切った。
先程と同様、割れんばかりの拍手が湧き起こっているというのに、二人は互いに手を取り合ったまま、何も聞こえないとばかりに見つめ合っていた。立花が軽く顔を伏せれば、アラン・ジンデルは背中を丸め、小さな頭に自らの額を預けた。
カシャ、とシャッターを切る音が聞こえてきたような気がして、左の方向に目をやれば、レオナール・ゴダンが構えていた一眼レフを膝の上に置くのが見えた。
確か、チケットには撮影禁止と明確に記されていたはずだ──美ツ騎がそのように思っていると、この訝しげな視線に気づいたのだろう、ゴダンは東雲の頭越しにこちらを見て、ぱちんと片目を瞑った。口元には人差し指が添えられる。内緒だよ、と唇が動いた。
東雲は隣の男が盗撮していることを知ってか知らでか、その目をきらきらと輝かせながら、舞台に向かって熱心に拍手を送っていた。ただ純粋にステージを楽しんでいる姿を見て、美ツ騎は素直に羨ましいと感じる。本来、エンターテイメントとはそうあるべきなのだ。舞台の裏側にある事情に想いを馳せながら観るべきではない。
美ツ騎は、体を強張らせていた力を意識的に抜きながら、詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
今夜はただ純粋に、このステージを楽しませてもらおう。
そう思うと同時に、やはりそうすることが恐ろしくて、美ツ騎は右隣に座っている更文の横顔を、盗み見ることすらできなかった。
希佐はアランをたった一人で舞台上に送り出した。
あのアクシデントに他意はなかったのだろう。リオの尋常じゃない狼狽えぶりを見れば一目瞭然だ。アランに向かって「一人で行け」と言い放った希佐を見て、誰よりも顔を青くさせていたのは、他ならぬリオだった。
「気にすんなよ」リオがボタンに絡みついたウィッグを外せたのは、希佐が遅れて舞台に出て行った後だった。「あいつらはアクシデントに慣れてる」
「せっかくの復帰に水を差した」
「アランを一人で舞台に送り出したのはキサの判断だ。まあ、この期に及んで甘ったれんなってことだろ」舞台の方に目をやりながら、バージルはくつくつと笑う。「あいつにはむしろあれくらいが丁度良かったのかもしれねぇな」
一見すると表情には出ていないが、いつになく緊張している様子のアランを、希佐は酷く気に掛けていた。
開演時間の少し前、バージルがアランを探していると、店の方にいないか見てくると言って駆けていった希佐は、すぐに一人で戻ってきて、もう少しで戻ってくると思う、と曖昧に言った。
「何かあったのか?」
「ううん」希佐は首を横に振ってから、どう言ったものかと悩むように、視線を左右に彷徨わせた。「メレディスに聞いたら、裏で一休みしているって」
「会いに行かなかったのか?」
「誰にも言わずに行ったってことは、一人になりたいってことでしょう?」
「かもな」
アラン・ジンデルは今、人生で初めてと言っても過言ではないほどの、押し潰されそうな緊張感と戦っているのかもしれない。若いねぇ、と心の中で嘯いていると、希佐が神妙な面持ちでバージルを見上げた。
「バージルは緊張したりする?」
「滅多にしない」
「私も」
バージルと希佐は似たタイプだ。少なからず緊張はするが、多少の震えは武者震いだと考えるし、いつもより速い鼓動は緊張感ではなく、本番が楽しみでわくわくしていると思うようにしている。要は、考え方の違いなのだ。自分たちは緊張感をポジティブに捉えるが、アランはネガティブに捉えるタイプだったのだろう。
「誰が何を言ったって、最後の最後には自分で覚悟を決めなきゃなんねぇんだから、もう放っておいてやれよ。本当にどうしようもなくなったら、向こうから助けを求めてくるだろ」
もちろん、突発的なアクシデントが起こらなければ、希佐はアランと一緒に舞台へ向かっていただろう。よもや非情とも思える口振りで、一人で行け、などと言うこともなかったはずだ。
「あれ、初めて会ったときに、アランから言われたことなんだ」
「あれって?」
「歌うとか、踊るとか、できるんでしょって」ダイアナに髪を結い直してもらいながらも、希佐の目は真っ直ぐ、舞台にいるアランに注がれていた。「正直、腹が立った。この人は私に微塵の興味もないんだって分かったから。でも、だからこそ、力が湧いた。見返してやろうって思った」
「だからってこのタイミングで仕返しするか?」バージルは笑いを堪えながら言った。「あいつも身につまされてるだろうよ」
希佐は緊張を和らげてやるわけでも、気休めの声を掛けてやるわけでもなく、景気付けに発破を掛けてやったのだ。自分にやれと言ったことを、お前自身もやって見せろと。ほんの十秒足らずで、アランが抱え込んでいたネガティブを、ポジティブに変えてしまった。
「あいつのこと、頼んだぞ、お嬢ちゃん」バージルはそう言って、頼り甲斐しかない希佐の背中を送り出した。「楽しんでこい」
enjoy──いつもは、アランが希佐に掛けてやっている言葉だ。
その言葉の通り、希佐は舞台を楽しんでいた。アラン・ジンデルの隣で舞台に立つという夢を、今まさに叶えている。希佐はずっと、アラン・ジンデルを舞台の上に引っ張り上げたいのだと、スポットライトの下に連れ出したいのだと、そう言っていた。
この三年でアランは信じられないほど変わった。希佐がアランを変えたのだ。いつも後ろ向きだった男に前を向かせ、そっと手を引き、根気強く導いてきた。誰もが諦めてしまっていたことを、この女はやってのけたのだ。
希佐にとってこの三年間は長かったのだろうか。それとも、短かったのだろうか。バージルにとっては、あまりにあっという間すぎて、希佐と初めて出会った日のことが、昨日のことのように思い出せるくらいだ。
「ほら」
「ありがと」ダイアナは針刺しを手首に巻いた手で、バージルが差し出したティッシュの箱を、鼻を啜りながら受け取った。「歳を取ると涙脆くなるって、本当だったのね」
「俺に比べりゃお前もアランもまだまだ若いだろうが」
バージルは嗚咽を飲み込むダイアナの背中を軽く叩いてやりながら、仲良く横並びになって舞台を睨んでいる、イライアスとアイリーンに目を向けた。二人は瞬きすらせず、言葉も交わさずに、食い入るような目でアランと希佐を見ていた。
アイリーンは、婚約は前々から決まっていたことだと話していた。親が決めた許嫁がいて、将来はその男と結婚する。だから、恋愛をしたことはないのだと。それなのに、あの甲斐性なしに恋をしてしまったばかりに、本来であれば負う必要のない心の傷を負うことになってしまった。
もし、アランが自分とは何の関わりもない、よく知りもしない女と付き合うことになったのなら、アイリーンもそこまで荒れはしなかったはずだ。だが、アランがあっという間に恋に落ちたのは、自分よりも後に現れた、どこの馬の骨とも知れない外国人の女だった。アイリーンのことだ、横取りをされたと、そう思ったに違いない。別の男と婚約をした今でも、アイリーンがアランを見る眼差しは、時々切なさを帯びている。
イライアスもイライアスで、報われもしない恋をしているようだ。異性どころか、大抵の人間には興味を持てない男が惚れた女が、希佐だった。当初は希佐という存在に目もくれなかったというのに、その才能の片鱗を見せつけられた途端、ころっとやられてしまったらしい。アランといい感じになったところで、二人の幸せが僕の幸せだ、などと達観したことを言っている。
「難儀なことだよ、まったく」
アランと希佐は、友人にするには申し分のない人間だ。だがしかし、どちらも恋人にするには向かない。あの二人が奇跡的に意気投合し、何となく理解し合い、同じ思いを寄せ合って、一緒にいるというだけのことだ。恋愛体質でもないくせに、無自覚な共依存が、相手に対する執着を生んでしまっている。
二人はいずれ別れるのだろう。もちろん、バージルはそうならない未来を望んでいるが、それが難しいことも分かっている。
例えば、アラン・ジンデルが言葉の限りを尽くすような男だったなら、話は違っていたのかもしれない。口数は増えても、肝心な言葉は飲み込んでしまうから、本当の思いが伝わらないのだ。希佐ならば察しはするだろうが、わざわざ飲み込んだ言葉を掘り返すようなことをする女でもない。この馬鹿馬鹿しい行き違いが改善されないかぎり、二人の関係はいずれ終わりを迎えることになる。
「もったいねぇな」
二人の成功は、この割れんばかりの拍手が証明していた。
だが、舞台上の二人にとって、この歓声は雑音でしかないのかもしれない。まるで二人だけの世界に浸るように、身を寄せ合い、じっとしたまま動かない。
何かを一つ成し遂げていくたびに、互いの首を絞めあっているようだ。刻一刻と、最後の審判の日は近づいている。
「……どうするよ、色男」
今、お前の目の前にいるその女を、このまま手放しちまったら、それこそ後悔することになる。もう二度と、それ以上に愛せる相手と出会えないまま生きる覚悟を決めるのは、自分一人だけで構わないと、バージルは思った。
希佐が日本に戻ることを望むのであれば、快く送り出す準備はできていると言うが、そんなものはただの強がりだ。実際は、どんな手を使ってでも行かせたくないに決まっている。だが、そのように思っているのは、何もアランだけではない。それでも、この国で唯一、希佐を繋ぎ止める言葉を口にできるのは、アラン・ジンデル以外にはいないのだ。
拍手は未だ鳴り止まない。
しかし、その声は、静寂を待たずして歌い出した。目の前にある小さな頭に自らの額を預けたまま、とろけるような甘い声で、囁きかけるように。
「……心の準備をしておけって、こういうこと?」酷い男、とアイリーンが消え入りそうな声で漏らした。「大嫌いな曲のくせに」
それは予定にない曲だった。アイリーンからアンコールを用意しておけと再三言われていたが、アランは本番までに考えておくと応えるばかりで、何を歌うかは誰も知らされていなかった。
「キサの顔」イライアスがぽつりと言う。「吃驚してる」
あのアラン・ジンデルが、反吐が出るようなラブソングを歌っていた。
なんだよ、必死なんじゃねぇか──バージルが噛み殺すようにして、くく、と笑えば、アイリーンが鋭くこちらを睨みつけた。
一年以上前のことだ。アイリーンが、知り合いに『オペラ座の怪人』のチケットを貰ったから、みんなで観に行こうと誘ってきたことがあった。希佐は嬉しそうに行くと応じていたが、アランはうんざりとした表情を隠そうともしていなかった。
「アランも一緒に行くよね?」
「仕事がなければ」
「嫌なら無理には誘わないわよ」
あれは、丁度『オペラ座の怪人』のキャストが変更されたタイミングだった。ヘスティアでアランと飲んでいると、カンパニー関係者が店を訪れて、メレディスに何枚かの招待券を手渡していた。その男が帰ったあと、メレディスはバージルにだけ、その招待券の一枚を譲り渡した。
「お前はいいの?」
「いらない」
何でも子供の頃、メレディスに何度も劇場へと連れて行かれて見飽きている上に、ラウルとクリスティーヌの恋路を見ていると無性に腹が立つのだと、アランは酔いに任せて吐き出していた。特に『All I Ask Of You』を聞くと虫唾が走ると言って、苦虫を噛み潰したような顔をしていたことを覚えている。
アラン・ジンデルにとっての恋愛は、人生の多くを占めるほどの重要性がなかったのだろう。だから、純愛を歌う二人を理解できず、理解の及ばない感情、気持ちが悪い情報として、脳が処理をしていたに違いない。だが、今になって、あのパトロンの気持ちを理解することができるようになった。生まれて初めて恋に落ち、愛するということを知って、歌が唇に乗ったのだ。
アカペラで歌い出したアランの声に寄り添うように、ヴァイオリンの音が聞こえてくる。ヴィオラ、チェロ──弦の音色が、甘い歌声に合わせて歌い出す。よくもまあ、突発的なアンコールに合わせて即興で演奏できるものだと、バージルは思った。
しかしながら、それ以上に肝が据わっているのは、他ならぬ希佐だ。
予めアンコールの選曲を聞かされていたのなら、イライアスの言う通り、舞台上であんなにも驚いた表情を見せなかっただろう。それなのに、希佐はそのデュエットソングを、平然と歌い上げていた。有名な一曲だ、何度も聞いているうちに自然と覚えてしまったのかもしれないが、それを即席で披露できる胆力は、やはり並大抵ではない。
「お前の出番に合わせた選曲だろ」
「本当にそうかしら」
元々、アイリーンが『オペラ座の怪人』から一曲を歌う予定だった。だから、前後の繋がりも考えての選曲だといえば、そうなのかもしれない。
まあ、昔のアランならば死んでも歌いたがらなかっただろうが──ああ、そうか。あの賭けは、最初から賭けになどなってはいなかったのだ。既に、アランにはその心積りが出来ていたのだから。
人間の、何かを嫌う、という感情は実に面白いものだ。嫌いという感情は、好きという感情よりも、ずっと奥が深いとバージルは思っている。何かを好きになった理由を人は忘れてしまうが、嫌った瞬間のことは絶対に覚えているものだ。生理的に受け付けないという理由の中にも、実際には様々な原因が隠れている。
アラン・ジンデルの場合、この歌を嫌う理由や原因よりも、希佐に向ける思いの方がずっと強く、大切で、自らの感情を殺してでも、今、伝えるべきだと思ったに違いない。舞台の上だからこそ、素直になれることもある。
壮大な間奏の最中、舞台上で恥ずかしげもなく口付けを交わす二人から、イライアスとアイリーンは決して目を逸らさなかった。だが、観客席のどこかにいる、あの男たちはどうだろうか。この二人のように、真正面から現実を受け止め、目を逸らさずにいるのだろうか。
「二人とも綺麗だね、アイリーン」
「お黙りなさい」思ったことを素直に口にするイライアスの頬を、アイリーンが抓っている。「あの男はこの私に何度失恋をさせれば気が済むのかしら」
「誰かを好きでい続けることは自由だよ」
「……ええ、そうね」
私を愛してほしい。
私の望みは、ただそれだけ。
その思いが一生涯続くのであれば、その苦しみを植え付けられた心臓を吐き出して、ナイフを突き立てたくなる日が訪れるのかもしれない。だが、この二人であれば、その苦しみすら自らの糧にして、舞台のために生きていくのだろう。
スペンサー・ロローが知っているアラン・ジンデルは、世界的に著名な脚本家であり、ベストセラー作家であり、小さな劇団の主宰をしている男である、ということだけだった。過去にはメレディスが主宰の劇団に所属し、舞台に立っていたことは、もちろん知識として知り得てはいる。だが、実際に舞台に立ち、スポットライトを浴びる姿をこの目に見たことは、ただの一度もない。
「……」
馬鹿なことをしたものだと、スペンサーは思った。これだけの才能を、何年も腐らせたままにしておいたなんて、どうかしているとしか言い様がない。
なぜ、表舞台を離れ、裏方に回ろうなどと考えてしまったのか。
なぜ、愚かな選択をしようとしているこの男を、誰も引き止めなかったのか。
なぜ、なぜ、なぜ──。
スペンサーの頭の中では、様々な疑問が浮かび上がっては、宇宙を漂うように浮遊し続けていた。答えがほしい。説明を求めたい。だが、今はあの友人がどこか遠い存在に思えて、ステージに向かって手を伸ばすことすら憚れる。
『あなた、本当は彼を嫌いでしょう?』
不意にクロエ・ルーの言葉が蘇ってきた。
今ならば、あのときの問いに即答することができる。
スペンサー・ロローは、アラン・ジンデルのことを、大嫌いだと。
両親の存在があまりに大きすぎると、自身が何の取り柄もない、平々凡々とした存在に思えてくることがある。才能も容姿も凡庸、何をするにも人並み以上の努力が必要で、特出したところのないスペンサーを、周囲は扱いに困っていた。人々を率いる人徳も、カリスマ性もない。それでも、偉大な両親の顔に泥を塗ることだけはないようにと、成果を残すために、必死になって足掻いてきた。
その結果が、今の自分だ。
大きな挫折を経験し、今もその挫折という足枷を引きずりながら、人生というものを模索し続けている。
アラン・ジンデルは、自分もお前と同じだというふうな顔をして、スペンサーの話に耳を傾けていた。
自らの過去に強い憤りを覚えている。だからと言って、未来に強い希望を抱いているわけでもない。今の仕事を続けているのは、手っ取り早く金を稼ぐことができるからだ。人は自らの才能を選べない。だが、自らの才能に出会えないまま死んでいくより、望みとは違う才能でも、それを生かせる仕事に出会えただけ、幸せなのかもしれない──ヘスティアのカウンターで、そのような話をしたこともある。
「彼が憎らしい?」ぎり、と歯軋りをするスペンサーの隣で、メレディスが舞台を見つめたまま言った。「分かるよ。僕もそうだった」
「……それはどういう意味だ?」
「僕は、アラン・ジンデルの才能が羨ましかった。それと同時に、酷く妬ましかった。歌も、ダンスも、芝居も、所詮天性のものには敵わないのだと、まだ十にも満たない子供に思い知らされた──僕の才能はね、アラン・ジンデルに殺されたのだよ」
その言い様とは裏腹に、ふふふ、と笑う表情には、むしろ晴々とした思いが感じられた。
「僕は彼と出会って舞台に立つことをやめた。すっかり心が折れてしまってね。だから、そこから先の人生は、才能ある若者たちのために尽くそうと決めたんだ」
「それが君の望みだったわけではあるまい」
「もちろん、すぐには折り合いをつけられなかった」メレディスはそう言いながら、舞台を見つめる目を細めた。「舞台に未練はあったよ。でも、折れた心が元通りになることはなかった。今のアランのように、折れた心を金で継いでくれる人が現れていたら、話は違っていたのかもしれないけれどね」
立花希佐──女の身でありながら、性別を偽って男子校であるユニヴェール歌劇学校に入学し、稀代のアルジャンヌという称号を得て卒業した。
スペンサーは、何度かやり取りをしている間に、校長の中座秋吏に訊ねてみたことがある。なぜ、性別を偽らせてまで、立花希佐をユニヴェール歌劇学校に招き入れたのか、と。すると、中座は少し時間を空けてから、このような返答を寄越した。
新たな希望の光が必要だった。
そのために彼女を利用してしまったことは、申し訳なく思っている。
満足な返答ではなかったものの、何らかの事情があって、校長の中座が立花希佐を利用したことだけは明らかになった。だが、学校の伝統や格式を蔑ろにし、自らの社会的地位を危険に晒してまで入学させた理由は、まだ聞き出せていない。
立花希佐は、ユニヴェール歌劇が自分の夢だったのだと、そう話していた。その夢を叶えるためなら──ユニヴェール劇場の舞台に立ち、歌劇を演じられるのなら、その後の人生のすべてを賭けても構わないとさえ思っていたと。
だが、そんなものは所詮、子供の妄言でしかない。たった三年間の短い夢を叶えるために、その後の人生のすべてを棒に振るなど、どうかしているとしか言いようがないと、スペンサーは思った。
目の前に人参をぶら下げられた馬ががむしゃらに駆けるように、喉から手が出るほど欲していた夢を餌にされれば、それに飛びつかない子供はいない。
「あの校長はどうして君をユニヴェールに迎え入れたのだろうね?」
何の気なしにそう問いかけたスペンサーに向かって、希佐は静かに答えた。
「校長先生は、才能がある人間には男も女もないと、そうおっしゃっていました。水は流れなければ腐ってしまうから、ユニヴェールに新しい水流を作りたいのだと」
「では、君がその新しい水流に?」
「そうなれたかどうかは分かりませんが」
だが果たして、中座が言う新しい水流のために、男子校に女子生徒を忍び込ませることは、正しい選択だったのだろうか。
「君はどう思う?」
スペンサーがそのように問えば、希佐は僅かに目を伏せ、神妙な面持ちを浮かべたまま黙り込んだ。それから、どのくらいの時間沈黙していただろう。希佐は伏せていた目を上げてスペンサーを見ると、徐に口を開いた。
「今思えば、正しい選択だったとは言えません。どのような理由があったにせよ、女性であることを隠し、男性だと偽って関係者や応援してくださる方々を騙していた以上、それは間違った選択だったのだと思います」
「悪いのは君? それとも、校長先生?」
「確かに、校長先生は私にユニヴェールに入らないかとお声がけくださいました。ですが、入学の決断をしたのは私自身です」
「では、悪いのは君かな」
「そう思います」
この話をしているとき、スペンサーはあまりに自己犠牲が過ぎると、呆れ返った。中座秋吏も、その部分の映像は絶対に切り捨てるようにと、そう言っていた。立花希佐は誠実に事実だけを述べてはいたが、最終的なヘイトは中座やユニヴェールにではなく、自分一人だけに集まるよう仕向けていた。
本当はもう二度と舞台には戻らないつもりだった。その覚悟で日本を飛び出したのだと、希佐は言った。だが、数年後にはこのロンドンにやってきて、アラン・ジンデルに出会う。
この二人の運命は、その日からすっかり変わってしまったのだろう。
立花希佐は、アラン・ジンデルと出会わなければ、再び舞台に立つことはなかった。
アラン・ジンデルは、立花希佐と出会わなければ、再び舞台に立つことはなかった。
メレディスの言う通り、アランの折れた心を金で継いでみせたのは、間違いなく希佐に違いない。だが、スペンサーは思ってしまう。所詮は、たった一人の女と出会った程度で立ち直れる程度の、瑣末な挫折だったのではないかと。
スペンサーは運命を信じていない。自らの人生の選択を、運命などというご都合主義な言葉で片付けられたくはない。不自由な足になり、自らの夢を諦め、望んでもいない仕事をやる羽目になった。いつからか狂っていったこの人生が運命だったなど、そんなことは絶対に認めない。
何という無慈悲で残酷な世界なのだろう。
自分に残された手札は、父親譲りの演出能力だけだ。だが、作品の評価以上に、スペンサー・ロローという男の悪評ばかりが先立ち、人望もなければ、人徳もない。金儲けが上手くなった分だけ、夢からは遠ざかっていく。
「ブランクという考え方がまずよろしくない」スペンサーの左隣に立っていたフランシス・ルロワが、蠱惑的な青い目で舞台を見つめながら口を開いた。「子供の頃からただ役者をやらされていた人間と、多くの人生経験を積んできた人間のどちらに、人はより多くの魅力を感じると思います?」
片や両親の元で育った幸せな子供と、施設で育った不幸な子供、この二人が一卵性の双子だったと仮定しよう。例えば、二十年後に再会したとして、果たして二人は同じ顔をしているだろうか。幸せな子供は目尻に優しい皺を寄せるが、不幸な子供は眉間に怪訝そうな皺を寄せるだろう。常に微笑みを湛えた幸せな子供は口角を持ち上げているが、常に不愉快そうな顔をしている子供は、いつも口角が下がっている。
人間は生き方によって、内面のみならず、外面も大きく左右される。
だが、だからどうしたというのだと、スペンサーは思った。
「どんなに素晴らしい肩書きのある役者でも、演技では補填しきれない部分があると思うのです。それは、声の出し方や、体の動かし方、ほんの微かな表情の変化や細やかな仕草、視線の動かし方などの、人間の無意識下による動作──そうしたものは、人生経験が豊かであるほど、引き出しが多い。子供のおままごとを想像してみてください。子供たちは目に見たものをそのまま真似るだけだ。だから、心がない」
「随分と知ったような口を利くね」
「本物と偽物を見抜く目は持ち合わせているつもりです。その点は、マダム・ルーも評価してくださっています」
「君自身は自分を本物だと認識しているのかな」
「残念ながら」思わずその横顔に目をやると、ルロワは舞台を見つめたまま、思わせぶりに笑っていた。「私は偽物ですよ。あなたもそう思われているから、そのような質問をされるのでしょう?」
「それは……」
「お気遣いは結構です、Mr.ロロー。私は所詮、彼の身代わりでしかないのですから」
彼──と言いながら、ルロワは舞台上に立つ男を指差した。
人当たりの良さそうな表情を浮かべたまま、酷く恐ろしいことを口にするルロワを見て、スペンサーとメレディスは目配せを送り合う。すると、ルロワは唇に指を添えながら、笑って続けた。
「マダムの秘密を言いふらしたりはしませんので、ご安心ください」
クロエ・ルーが天塩にかけて育ててきたこの男が偽物だと言うのなら、子供の頃から可愛がられてきた自分もまた、クロエにとっては偽物だということだ。アラン・ジンデルを紹介してからというもの、向こうからの連絡の回数は明らかに減っている。
「彼はほんの少しの間、舞台から離れていただけです。広い海を越えようとする渡り鳥が、流れ木で羽を休めるように」ルロワの目は、ただ真っ直ぐに、舞台に注がれていた。「その間にも彼は活動の幅を広げていた。今や世界的な脚本家だ。それは、ここにいる誰もがご存知のことでしょう。アラン・ジンデルは、ただ在るべき場所に戻ってきた。それだけのことです」
「君は昔の彼を知っているのかい?」
「いいえ」ルロワはゆっくりと首を横に振った。「お会いしたこともありません」
あの子はキサにご執心なのよ、一目惚れなんですって──まるで女学生が恋の話をするかのように、至極楽しげにクロエが語っていたことを、不意に思い出す。今、舞台を見つめるその青い目に映っているのは、一体どちらの人物なのか。
スペンサーは口を閉じ、舞台上に視線を戻した。光り輝くような二人の姿を見ていると、心がどろどろとした膿を吐き出し、その周辺から爛れるように焼ける痛みを覚える。妬ましいし、恨めしかった。自分はもう終わっていると宣っていた男が、ピンスポットを浴び、脚光を浴びている事実が、どうしても許せない。
この男は、こんなにも凄まじい熱情を秘めたまま、自らの才能を隠し続けていたというのか。歌も、ダンスも、現役に引けを取らない出来栄えだ。いつの間に──いや、十年近く何もしてこなかった人間が、ここまでの動きを見せられるわけがないのだ。
「彼は舞台に立つことが嫌になっただけで、歌うことも踊ることも、演じることだって、やめたかったわけではないのだと思うよ」誰よりも近くで、ただただ見守り続けることしかできなかった男が、少しだけ震える声で続けた。「本当にすべてを断ち切りたかったのなら、隠れて稽古を続けるなんてことはしないはずだから」
人生は何度だってやり直しが効くのだからと、多くの人々は簡単に言ってのける。
これまでにない挫折を経験し、もう二度と立ち上がれないと嘆く誰かがいたら、自分だって同じことを言うだろうと、スペンサーは思った。だが、そんな言葉を簡単に口にする人ほど、他人の人生に興味を持てない、無責任な人間だとも思う。
挫折から立ち上がるための努力は並大抵のものではない。それは、経験した者にしか分からないことだ。挫折から立ち直った者は以前よりも強くなって戻ってくる──そんな言葉は、真っ赤な嘘だと断言できる。いくら努力をしたところで、それが報われるとはかぎらない。一度でも挫折を経験した者は、もう二度と、以前までの自分には戻れない。
選ばれた者だけが、自らの望む形で、やり直すことを許される。
ここは、そういう世界だ。
心臓が信じられないほど速く鼓動していた。意識をして呼吸しなければ、途端に息苦しくなって、目の前が真っ暗になってしまいそうだった。瞬く間に耳が遠くなり、すべての音がくぐもって、何か大きな音が轟々という雑音となって聞こえてくる。
「アラン」目と鼻の先にある希佐の顔が、心配そうな表情を浮かべて、こちらを見上げていた。「大丈夫?」
口の動きを見て、そう言っているのが分かる。しかし、瞬いた刹那、世界が音だけを残し、一瞬にして暗闇に染まった。腰を抜かして動けないと言ったら、希佐はどんな顔をするだろうかと、悠長にもそんなことを考える。
動け、と自らの足に命じるが、まるで頭と体が乖離したかのように、言うことを聞かない。さて、どうしたものかと思っていると、微かにヴァイオリンの音色が聞こえてきた。次の瞬間、何者かが背後からアランの体を抱え上げ、上手側の袖まで引き上げていく。そのままずるずると引きずられ、壁際まで連れて行かれると、その場に転がされた。
「キサ、あとは任せていい?」
「うん」一回り以上小さな手が、アランの手を握りながら言った。「ありがとう、ジェレマイア」
「酸欠だと思うから、水飲ませてやって」
無様なものだと思いながら、そっと目を伏せる。美しいヴァイオリンの調べに合わせて歌う声に耳を傾けていると、頬に冷えたペットボトルが押し当てられた。
「水、飲める?」
「ん」
「驚いたよ、急に顔が真っ青になるから」その場に身を起こし、壁に背中を寄り掛からせた格好で、アランは希佐の手からペットボトルを受け取った。「平気そう?」
冷えた水を何口かに分けて嚥下する。カラカラに渇いていた喉を下り、食道を通り抜けて、胃に落ちていく感覚が手に取るように分かった。何度か深呼吸を繰り返すと、水が詰まったかのように聞こえづらかった音が、少しずつ鮮明になっていく。
「よく覚えてない」
「え?」
「舞台に立ってる間のこと」アランがそう言えば、希佐はきょとんと目を丸くして見せたあと、ふふ、と小さく笑った。「気付いたら終わってた」
「そうだね、本当にあっという間だった」
何もかもが朧げで、努めて思い出そうとしても、断片的にしか思い起こすことができない。自分は何か大きなへまをしなかったか。希佐に恥をかかせなかったか。子供たちをがっかりさせるような仕上がりではなかったか。
だが、アランはふと思い出す。
かつて舞台に立っていたときも、このような感覚に見舞われることがよくあったことを。気付いたときにはすべてが終わっていて、観客の大喝采を浴びていたことを。そういう日は決まって、よく褒めてもらえていたことを。
「アイリーンが歌ってる」
オペラ座の怪人より『Wishing You Were Somehow Here Again』──いつもより情感たっぷりに歌い上げるアイリーンの歌声を聞きながら、アランは希佐の横顔を見つめた。希佐はアランの手を握りしめたまま、舞台を振り返ってアイリーンの後ろ姿を見守っている。
「彼女、怒ってるだろうな」
「そうだろうね」希佐は眉を顰めるようにして笑った。「私が歌えなかったらどうするつもりだったの?」
「歌えるって分かってた」
「どうして?」
「ジョシュアにデュエットのリストをもらったから」
次の舞台ではデュエットを歌うことになるからと、ジョシュアが目ぼしいミュージカルソングをリストアップし、端から歌わせているという話は聞いていた。今回選んだ歌は、その中の一曲だ。最も嫌いな歌だったはずなのに、今となっては、何をそこまで嫌っていたのかも、よく思い出せない。そもそも、自分がラウルに共感する日が訪れるとは、ついぞ思ってはいなかった。
「顔色は戻ってきたみたい」
小さく息を吐き出しながら仕方がなさそうな顔をした希佐が、アランの頬にそっと触れる。アランが自らその手の平に頬擦りをすれば、希佐は親指の腹を頬に滑らせてから、耳たぶを軽く抓った。
「私は次の出番があるから」
「キサ」その場に立ち上がり、去っていこうとする背中に声を掛ける。「楽しんでおいで」
「もちろん」
足音を立てないように履いていたヒールを脱ぎ、それを両手に持ちながら、希佐は舞台の裏側に向かった。そちらには、アラン・ジンデルの突然の暴挙に合わせ、即興で演奏し得るだけの才能を持つ楽団が控えている。
この劇場にオーケストラピットはないが、設計者が生演奏にこだわった結果、舞台の裏側にある程度の空間を設けた。舞台そのものがスピーカーの役割を果たすように設計されているので、音が真っ直ぐ前に飛ぶのだ。だから、室内楽程度の小編成であれば、楽団を招くこともできる。
開演前のぎりぎりの時間帯にやってきて、アンコールには『All I Ask Of You』を歌いたいと言ったアランを見て、数少ない友人の一人であるヴァイオリニストは、心底呆れ果てた表情を浮かべていた。無理だと断られなかったのは、演奏家としてのプライドと、アランからの無茶振りにはすっかり慣れてしまっていたからなのだろう。
「オーケストラのスコアは手元にあるからね、なんとかするよ」
曲目を希佐に伝えなかったのは、アラン自身の好奇心が勝ってしまったからだ。悪戯を仕掛ける子供のように、何も伝えずに歌い出したら希佐はどんな顔をするのだろうと、そう思って柄にもなく胸を躍らせる程度の余裕はあったはずだった。
上手くいったのだとは思う。だがしかし、その確信はなかった。
「みっともないったらないわね、アラン・ジンデル」小さくてもよく通る声が聞こえ、アランが伏せていた目を開けると、目の前にはクローディア・ビアンキが立っていた。「あの程度でへたり込むなんて恥ずかしくないの?」
「ほとんど十年ぶりの舞台なんだ、大目に見てくれないか」
肉体的な問題と精神的な問題がないまぜになって、大きな重圧が脳天から伸し掛かり、舞台上では体が酷く重たく感じられた。希佐は、稽古を十分にしていれば、本番は自由にのびのびと演じられると言っている。時間を掛けて稽古をしてきたつもりでいたが、まだまだ不十分だったということなのだろう。
「でもまあ、悪くはなかったわよ」
「君のKISAに恥をかかせずに済んで何よりだ」
「あなただって──」クローディアは何かを言いかけるが、頭を横に振りながら、一度口を噤んだ。「いいえ、なんでもない。じゃあ、私は行くわ。あなたがへとへとに疲れて床に這いつくばっている姿を見物しに来ただけだから」
「無様な姿を晒して申し訳ない」
「そう思うならもっと体力をつけなさいよね」
クローディアは後ろ手を振りながら仲間たちの元へと歩いていく。ふう、と大きく息を吐いたアランは、壁に手を掛けながらその場に立ち上がると、舞台袖でノアと連絡を取り合いながら場を仕切っているジェレマイアの隣に向かった。
「お、もう大丈夫なのか?」
「ん」ステージ上で二曲目の『Over The Rainbow』をしっとりと歌い上げているアイリーンを見遣りながら、小さく頷いた。「悪かった、運ばせて」
「あれくらいお安い御用だよ」
一曲目とは相反して、虹の彼方へと歌うアイリーンの歌声は、とても穏やかなものだった。ライブ配信で今夜のステージを見ている子供たちが退屈しないよう、耳馴染みのある歌が良いだろうと選曲をしていた。前半はなるべく年代を問わず楽しめるように、後半から終盤に掛けては、大人に向けた厚みを出している。
特に、終盤は刺激が強く、最悪の場合は悪夢を見かねないので、チビ共には見せないようにしろと、開演前に行った施設の子供たちとの通話で、バージルが再三釘を刺していた。
希佐が以前世話になった劇団から、サロメの舞台で使用したヨカナーンの生首を借り受けたのだが、それが妙にリアルで生々しく、出演者たちですらぎょっとするほどなのだ。生首に接吻をする希佐の姿など、子供たちには見せるべきではないというのが、バージルとアイリーンの考えだった。
「この三年でアイリーンも随分変わったよなぁ」舞台を見遣りながら、ジェレマイアが感慨深そうに言う。「オレはカオスを一年近く留守にしてたからさ、余計に感じるんだよ。雰囲気がやわらかくなったとか、歌い方が優しくなったとか。前までは、自分の歌を聞かせることに必死だったけど、今じゃアイリーンが歌えば誰だって耳を傾けてくれる。自分を認めさせるための歌っていうのは、結局のところどんなに上手くたって自分本位でしかなくて、人の心には届きにくいもんな」
アイリーンは歌い終えると、自らに贈られる拍手を体全体で受け止めながら、客席に向かって優美にカーテシーをして見せた。自身の母親や婚約者を探すように視線を巡らせ、認めた姿に優しく微笑みかけている。
「もっと真剣に歌と向き合えるようになれば、彼女は間違いなく本物になる──誰の言葉だと思う?」
「さあ、誰だったかな」
そう言って肩をすくめるアランを横目に見て、ジェレマイアは優しく笑った。
アイリーンと入れ替わりに舞台に現れたのは、タキシードのジャケットを脱ぎ、両腕の袖を捲り上げた格好で、右手にステッキを持ったバージルだ。ジーン・ケリーの『雨に唄えば』を流しながら、軽快にタップダンスを踊る。
バージルはよく、自分は歌手ではないので、なるべくなら歌いたくはないと話していた。だが、バージルは掛け値なしに、歌って踊れる舞台人だ。しかし、歌いながら踊ると自らの本分であるダンスが疎かになり、最高のパフォーマンスを披露できないという。確かに、歌いながら踊ることで体の動きが制限され、頭で思い描いた通りに踊れないことはあった。かといって、口パクはプライドが許さないらしい。
「バージル、楽しそうだ」
「そうだな」
「アランも楽しそうだった」
「え」
「稽古のときは少し苦しそうに見えることもあったけど」ジェレマイアは隣に立つアランを見やり、いつものように晴れやかに笑った。「アランは夢をなくしそうになって、腐りかけてたオレを、何の見返りもなく救ってくれたろ? だから、オレはアランに心底感謝しているし、アランにも報われてほしいって、ずっと思ってた。オレがそんなふうに思うなんて、おこがましいことなのかもしれないけどさ」
「俺はもう十分に救われているし、報われてる」
大学時代、何も考えずにイライアスと二人だけで踊る時間に、救われていた。
大学を卒業後、劇団を離れて腐り切っていたアランに救いの手を差し伸べてくれたのは、レオナール・ゴダンだ。斜陽の雲の脚本を手掛けることがなければ、今頃はテムズ川を下り、海の藻屑となっていたことだろう。
バージルが見切り発車なアランの手を取ってくれたことで、決して順風満帆とは言えないが、事態は好転していった。善き人々との出会いが、アラン・ジンデルの人生を少しずつ、本当に少しずつだが、良い方向へと導いてくれている。
「夢のない人生よりも、夢のある人生を、オレは生きたい」舞台を見つめるジェレマイアの目が、照明の光を吸収して輝いていた。「キサが言ってた『たとえ叶わなくても構わない。それでも僕は、夢を選ぶ』っていう台詞は、きっとそういう意味なんだろうな」
多くの舞台を観劇していると、時々、深く深く心に突き刺さって、一生抜けない台詞と出会うことがある。それは特別な言い回しや、ごてごてに飾り立てられた言葉というわけではない。頭で考えた言葉ではなく、心が吐露した、より感覚的な言葉であることが多い。役者はそういう言葉をお守りのように胸に抱いて、舞台に立つ。
『夢なんて言葉は大嫌いだ』舞台の上でそんな台詞を叫んだことがあった。『大人はいつだって無責任に「坊や、お前の夢はなあに?」なんて聞いてくる。じゃあ反対に聞かせてもらうけど、ねえ、おじさん、おじさんの夢は何だったの? その夢は叶った? 小さな町工場で汗水垂らして働くことが、おじさんの夢だったの? 仕事終わりにパブでエールを飲めれば、それで満足? 夢なんて言葉で未来を語るから良くないんだ。夢なんて叶うわけがないんだから』
本当にクズみたいな男だったが、いつだって心に残る台詞を書く、才能ある脚本家だった。不意に、あの男は今どこで何をしているのだろうかと、アランは思う。借りた金は倍にして返すと言って走り去った日から、まったくもって音沙汰がない。メレディスは呆れた顔をしながら「あいつは死んだことにしよう」と言っていたが、学生の頃からの付き合いだ、心配はしているに違いなかった。
『大切なのは、目標を見つけることさ。目標のために計画を立てること、それが大切なんだ。女王陛下の寝台で眠ろうが、スラム街のゴミ溜めで眠ろうが、見る夢はみんな同じだろ? どんなに良い夢を見ていたって、目が覚めちまえばそれで終わりじゃないか。夢を見るだけで何にもしない人間は、結局何にも手に入れられない。手を伸ばさなきゃ、何も掴めない。俺は、夢を叶えられなかった大人にはなりたくない』
この世界に生きる大人の大半は、子供の頃の夢を叶えられなかった先の人生を歩いている。こんなはずではなかったと、そんなふうに思う者もいれば、今の人生に十分満足している者もいるだろう。
どちらが良くて、どちらが悪いということではない。自分がどのように生きていくかは、自分にしか決められない。成功も失敗もない。満足か、不満足か。それは、この世界を旅立つときに判明する。
「人には目標と達成感、おまけにご褒美ってもんが必要なんだよ」脚本を書き上げたあと、あの男は決まってヘスティアに赴き、これ以上に美味いもんはないという顔をして、よく冷えたエールを呷っていた。「お前も大人になりゃこのエールの美味さが分かるさ」
あの男は、夢を目標という言葉に、叶えるという願いを、達成感に置き換えた。
人々は夢を叶えることに必死になって、夢を叶えた先にある世界を見ようとしない。たとえ夢を叶えたとしても、人生はその先も続いていく。
夢の先に更なる夢を見つけ、邁進し続けられる者はいい。
だがもし、どうしようもなく疲れてしまったら、途中で投げ出してしまいたくなったら、何もかもが嫌になってしまったら、すべてを失ったような気持ちになり、もう全部おしまいだと、そう感じることもあるだろう。かつてのアラン・ジンデルが、そうだったように。
自分のような人間は、遥か彼方にある夢を見るのではなく、手の届く範囲で目標を定めることが、正しい対処法だったのだ。
希佐を見て嫉妬に狂うのは終わりにしたいと、アランは思った。決して枯れることのない、湧水のように清らかな才能を羨むのは、もう終わりにしたかった。
あれは、そのための決意表明のようなものだった。度胸試しでもあった。この程度のことができないのであれば、立花希佐の隣に立つ資格などあるわけがないと、そう思った。だから、覚悟を決め、たった一人でヘスティアのステージに立ったのだ。
歌は、アラン・ジンデルの味方をしてくれた。
最初の目標、挑戦が成功し、少なからず達成感はあった。だが、次の目標は、どうしても達成することが困難に思えた。誰かと踊ることなんてもう一生涯ないだろうと考えていたアランにとっては、たとえ相手が気心の知れた人物であったとしても、心を通わせながら踊らなければならないという時点で、ハードルが高かったからだ。
『お互いの体の癖を分かっていれば、どのように動こうとしているのか、動きたいのかが瞬時に理解出来るようになってくる。まずはそこからだよ。一緒に気持ち良く踊ろうなんていう贅沢は、君たちには十年早い』
希佐の稽古を見てやる片手間でダンスを見てくれていたルイは、二人が四苦八苦している様子を少し離れた場所から眺めながら、よく腹を抱えて笑っていた。希佐が二階まで水を取りに行ったタイミングで、近くまで歩み寄ってきたルイを睨みつけてやると、弁明するように両手の平を見せて言った。
『笑ってすまなかったよ』
「何がそんなに面白いの」
『何もかもすべてさ』ルイはそう言いながら、思い出し笑いをした。『いや、君たちのダンスを笑ったわけではないんだよ。ただね、妻と出会ったばかりの頃のことを思い出していただけなんだ。君たち二人が、あまりにも私たちの状態とよく似ているから』
「似てる?」
『私と妻は本当にそりが合わなくてね。私は割とこんな感じで、大雑把な性格をしているから、気持ちのすれ違いは自分の技術力で補えばいいと考えるタイプだった。君だってそうだろう? パートナーが変わるたびに、相手の顔色や機嫌を窺いながら踊るなんて、面倒臭いにも程がある。でも、妻は違った。気持ちのすれ違いは、いくらお互いの技術力で補い合ったとしても、観ているお客様には伝わってしまうものだと言ってね。妻は本当に面倒臭い女だったよ。ああでもない、こうでもないと言って、自分の意見を曲げようとしない上に、何を言っても正論で返してくる。最後にはもう私が折れるしかなくなって、あとはもうずっと彼女の言いなりだ。結婚してくれと言われたら、頷くしかなかったよ』
「惚気話ならキサの方が真面目に聞いてくれる」
『私に言わせれば、君たち二人の稽古だって、大分お惚気ているように見えるけれどね』アランが先程よりも鋭く睨みつけてやれば、ルイは「oh là là」と言って戯けて見せた。『こう見えても、君たち二人のことは、心の底から応援しているんだよ、アラン。だから、焦らず、一歩一歩、堅実に進んでいってほしい。ダンスに近道なんてものはないんだ。でも、君が手を伸ばせば、キサは必ず、その手を握り返してくれる』
パリ・オペラ座バレエ団のエトワールにまで登り詰めたこの男は、人気絶頂の最中、突然の引退を宣言した。引退の理由は公にはされず、未だに謎のままだ。引退から数年が経った今も、その肉体は衰えるどころか、現役ダンサーですら舌を巻くレベルだと、イライアスが話していた。
今宵もこの劇場の客席のどこかで、二人のダンスを見て、腹を抱えて笑っていたのかもしれない。今日は妻を連れていくからね、というメッセージが届いていたが、返事はしていなかった。顔を合わせれば、いつものように、怒涛の駄目出しを食らうのだろう。
「──」
袖に立ってバージルが踊る姿を眺めていると、アランはふと、視線を感じた。下手側の舞台袖で、同じようにバージルのダンスを見ていたであろう希佐が、真正面にいるアランの存在に気付いたようだ。こちらに向かって手を振っている。
「アラン」隣にいるジェレマイアがインカムを外し、アランに向かって差し出した。「キサが話したいって」
向こう側を見れば、希佐もノアからインカムを受け取っていた。それを装着する姿を眺めながら、アランもインカムを耳に近づける。
『アラン、聞こえる?』
「聞こえてる」
『もう具合は大丈夫なの?』
「もうなんともない」
『そう』よかった、と言う声には、ほっとしたような安堵感が滲んでいた。『それと、さっき言いそびれていたことがあって』
「なに」
『アランは舞台に立っている間のことをよく覚えてないって言ったけど、私は全部覚えてるよ』本気で覚えてないとか言ったわけ? 信じられないんだけど──と言う不満そうなノアの声が聞こえ、マイクの向こう側で希佐が小さく笑う。『実は私も、年末の最終審査のことをよく思い出せない。でも、アランが凄く良かったって褒めてくれたし、自分でも映像を確認してみて、こう思ったんだ。過去最高の出来だったのかもしれないって。これは個人的な経験の話だけれど、記憶を失うくらい熱の入った舞台ほど、周りからの評価が高かったりするものだから』
希佐は早口で捲し立てるようにそう言ってから、ふう、と大きく息を吐き、今度は落ち着いた口振りで先を続けた。
『空いた時間はすべて稽古に当てて、散々ぶつかり合って、これでもかっていうほど言い合いをしてきた。私はそのすべての努力を、舞台上で昇華しきれたと思ってる。まだ心は通じ合えないままかもしれないけれど、今出来る最高の形を、舞台上で表現できたって信じてる。それでも、私はこれを最後にはしたくないと思うし、アランにも、これで最後だなんて思ってほしくない』
もしも、踊る相手がイライアスやバージルだったら、希佐がこんなにも苦労することはなかったに違いないと、アランは思う。普通なら、一日や二日で仕上がることに何日も掛け、それでも思うようにはいかず、心ともなく苛立ちを覚えることだってあっただろう。
それなのに──。
『もし許されるのなら、私はまだもう少しだけ、アランと一緒に夢を追いかけていたいんだ』
ただ呆然とするばかりのアランの肘を、ジェレマイアが突く。囁くような声で「何か言ってやれよ」と急かすようなことを言われるが、唇がどうしても言葉を紡ごうとしない。
バージルの『雨に唄えば』が終わりに近づく。アランはインカムを外してジェレマイアに押し付けると、その場を離れて、舞台の後ろに回り込もうとした。しかしその瞬間、いつかも聞いたような轟音が劇場を襲い、舞台裏をうっすらと照らしていたライトが、チカチカと明滅する。
「冗談だろ」
まさか、本当に落雷が原因で、停電が起こったとでもいうのか。そんな偶然が、一度ならず二度までも、以前と似たような状況下で引き起こされるというのか。
にわかには信じ難いことだが、今はあれこれと考えるよりも、舞台を止めることなく、回し続けることを最優先に考えるべきだと、アランは思った。停電を免れたにせよ、そうではないにせよ、どうやら電源は生きている。もしかしたら、ノアが用意していたモバイルバッテリーが、首尾良く作動したのかもしれない。
「いやあ、師匠〜」だが、アランが行動に移すよりも早く、何食わぬ顔をして動き出した者がいた。「今の、凄い雷でしたね!」
電源の切り替えが原因だったのか、舞台照明の明滅と共に音楽が途切れてしまうと、バージルの『雨に唄えば』は強制的に終わりを迎えてしまった。観客席のどよめきは未だ止みそうにもないが、希佐は構うことなく、落ち着いた足取りで舞台へと足を踏み出していく。
「あれ、どうしたんです? ヘッドライトに照らされた鹿みたいな顔をして」希佐はそう言いながらバージルの傍まで歩み寄ると、大袈裟なくらい近くから顔を覗き込んだ。「あっ、まさかあの程度の雷で吃驚してるんですか? まったく、師匠ってば意外と肝っ玉が小さいんだから。大丈夫ですよ、あんな雷くらい。雨だって直に止むでしょうしね」
「……誰の肝っ玉が小さいって?」
「えっ、違いました? 僕はてっきり、雷の音に吃驚して直立不動になっているものとばかり──」希佐はわざとらしく頭を掻きながら、悪びれもせずに言う。「すみません、師匠」
「お前こそ、耳の具合はどうなんだよ。大きな音には気をつけろつて、主治医から言われてるんだろ?」
「突然の雷は不可抗力ってやつです。それに、耳の調子はすこぶる良好ですから、お気になさらず」師匠に気遣われることがくすぐったいとばかりに、希佐は小さく肩を震わせながら笑った。「片方だけですけど、聴力が戻ったおかげで活動の幅も広がりましたしね」
客席の喧騒はいつの間にか掻き消え、劇場はひっそりと静まり返っている。屋根を打ち付ける雨音も、心なしか弱くなったように感じられた。雷の音も少しずつ遠のいていく。
舞台はまた、希佐の機転によって救われたようだ。
「さ、師匠! 今日はどんなことを教えてくれるんです?」
「まあ待てよ。今日はあいつも呼んでるんだ」バージルはそう言うと、希佐の頭越しに舞台袖を見遣り、右手を挙げた。「おい、いつまでそんなところに突っ立ってるつもりだ? まさか、今の雷にビビって動けなくなっちまったのか?」
「あんたじゃあるまいし」
ツン、とした表情を浮かべ、イライアスが舞台へと出ていく。客席からは、若いファンの黄色い声が聞こえたが、イライアス自身は意に介していない。
「言われた通りにタップシューズを履いてきたけど」イライアスはそう言いながら踵を鳴らす。「僕、タップダンスは専門外だよ」
実際、イライアスにとってタップダンスは専門外だ。希佐とバージルがスタジオの真ん中で遊ぶように踊っていても、イライアスはその様子を、ただぼんやりと眺めているだけだった。
「基本のステップくらいなら分かるだろ?」
「まあ、一応は」
舞台袖には、何がはじまったのだという顔をして、出演者たちが続々と集まってくる。ステージの構成は前半、中継ぎ、後半の三部構成だ。次から次へと休みなく出し物が続くと、観客は疲弊をするか、胸焼けを起こす。予め、骨休めや口直しを用意しておく方が賢明だ。その間、舞台裏では後半に出演する役者たちが、自らの支度を押し進めることができる。
アランはその場をジェレマイアに任せると、集まってきた出演者の間を縫うように進み、楽団が控えている舞台裏を通り抜けて、舞台の上手側に向かった。ノートパソコンの前で、刺すようなブルーライトを浴びているノアの後ろに立ち、その細い肩に手を乗せた。
「ああ、アラン」
「どうなってる?」
「落雷で一瞬だけ電源が落ちたみたいだね。舞台照明が二回点滅したのを見た? 多分、一度はモバイルバッテリーに切り替わったけど、すぐに主電源が復旧したんだと思うよ。前回は店に直撃したけど、今回は近場に落ちたんじゃないかな。アランが嵐を呼ぶ男だっていうのは、案外的外れでもないのかも」
「ただの偶然に決まってるだろ」
「僕は科学者の端くれだけど、非科学的な現象がこの世に存在しないとは思わない」
「俺は息をするように嘘ばかり書く作家だけど、超自然的な現象の類は信じてない」
「嫌な予感っていうのも超自然的現象の一つじゃない? 胸騒ぎがする、みたいな」
「あれは経験に基づく勘が働いてるだけだ」
「それなら、アランが嵐を呼ぶ男だって言ったバージルは、経験に基づいた発言をしたに過ぎないよね? だって、君が舞台に関わるといつも天候が悪くなるっていうのは、僕たちの経験則なんだからさ」何一つ言い返すことのできなくなったアランを見上げて、ノアはにんまりと得意そうに笑う。「だからといって、この雷が君のせいだなんて、誰も思ってはいないよ。僕個人的には、面白い現象だなとは思ってるけど」
おっと、こんな話をしてる場合じゃなかったと言って、ノアはパソコンのディスプレイに視線を戻す。そこには複数のカメラの映像が映し出されていて、ノアはステージの進行を担いながら、劇場内で不正行為が行われていないかを逐一監視していた。
「あの人だけが特別なら今から言うことは無視してほしいんだけど、レオナールおじさんが上演中にアランとキサの写真を撮っていたみたいだから、あとでデータの確認をさせてもらった方がいいかもよ。他にも何人か盗撮してる人がいたから、スタッフに警告をしに行ってもらったけど──」ノアは、あらら、と面倒臭そうに口にしながら、素早くインカムを切り替える。「あ、何度もごめんね。さっきの人、こちらの言うことを聞けないみたいだから、劇場から摘み出しちゃってくれる? 映像か写真かは知らないけど、データは目の前で消してもらってね。クラウドでデータを同期してるだろうから、そっちの確認もよろしく」
これ以上の邪魔はするまいと、アランは一声掛けてからその場を離れ、一人で舞台を眺めているアイリーンの隣に向かった。アイリーンは横目でアランを一瞥するものの、すぐに舞台へと視線を戻す。
「バージルとの賭けに負けたわね」
「素よりあの賭けは成立してない」
「そうかしら」
『God Only Knows』の青年と師匠、それから、男。
それらを演じた三人から、彼らのその後の物語を教えてほしいと頼まれたのは、つい先程の話だ。彼らが何をしようとしているのかを具に察したアランは、どうかしていると思わずにはいられなかったが、抗うことなく話してやった。
当然だが、物語は完結する。
終わらない物語など、存在しない。
彼らはいついつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。そんなふうに終わりを迎えた、物語のその先を知ることができるのは、作者自身しかいない。
青年は片方の耳だけ聴覚を取り戻した。少女の目は完全には治らなかったが、光や色、物の輪郭などを捉えられる程度には回復し、絵を描いて暮らしている。青年と師匠の付き合いは生涯続き、男とは今や友人同士だ。少女との恋は、今も続いている。
彼らは真っ当に生き、等身大の幸せを手に入れ、ゆっくりと時間を掛けて年老いていく。そして最期には幸福な死を迎えるだろう。彼らには、そんなふうに生きてほしいと、心の底から思うのだ。
「へえ」バージルが顎に手を添えながら、意外そうに言った。「お前の物語にしては、なんていうかこう、いかにも普通だな」
目を閉じ、耳を塞いで、口を噤んだ。
舞台を離れてからはずっと、そんなふうな生き方を選択してきた。
青年と少女は、アラン・ジンデルのかつての写し身でもある。だから、彼らには最期まで幸せに生きて、世界の終わりを迎えてほしいと願った。あの二人はもう、アランの写し身などではない。希佐とノアが演じてくれた瞬間から、二人は彼らの一部となり、別の人生を歩きはじめた。二人はもう、自由に歩いていける。
施設にいた頃からよく本を読んでいた。挿絵のない小難しそうな分厚い本を読むのが好きだった。子供向けの本はほとんどがボロボロにされていて、読めるような状態ではなかったが、共用の本棚の隅の方で埃を被っている挿絵のない本は、いつだって無傷のままアランを待ってくれていた。
今考えれば、あれはただの現実逃避だったのだろう。それでも、ページを捲る瞬間は胸が高鳴ったし、残りのページ数が少なくなると、酷く物悲しい気持ちになった。
だから、眠れない夜はいつだって、本で読んだ物語の続きの世界を想像してばかりいた。湿気て冷たい、一度寝返りを打つだけで落ちてしまう小さなベッドが、ふかふかで暖かい天蓋付きのベッドになって、小さなラファエルを包み込んでくれた。
あの頃から、自分は何一つ変わっていない。
アラン・ジンデルを創作に駆り立てるのは、施設にいた頃からこの胸に巣食っている物悲しさなのだ。その物悲しさを埋めるために、この頭は物語を紡ぎ続けている。
アランの心を──小さなラファエルの心を蝕んでいた物悲しさは、年々小さくなっている。才能の原動力が失われようとしている。この心が満たされたとき、アラン・ジンデルは持て余すような才能を失うことになるのだろう。
だが、何か一つでも手元に残ればいいと、アランは思う。もし選べるのなら文筆の才能がいい。その他のすべてを失ったとしても、本を書き続けていれば、もう隣にはいない大切な誰かの傍らに置いてもらえるかもしれないから。
「誰にとは言わないけれど」ただ黙り込んだまま、舞台上で楽しげに舞う希佐を見つめていると、アイリーンが静かに言った。「私もそんな目で見つめられてみたかったわ」
「君の婚約者と少しだけ話をした」
「どう思った?」
「君のことを心から愛してる」アランがそう口にした途端、アイリーンは弾かれたようにこちらを見上げた。「俺なんかよりもずっと」
「……ええ、そうなの」
「君は幸せになるよ、アイリーン」
「本当にそう思う?」
「君は愛されてる」
アイリーンを女性として愛することはなかった。だがしかし、人としては好意的に思っている。この複雑な感情をどのように言い表せば良いのかが、アランにはずっと分からなかったのだ。アイリーンの母親、エレノアからすべての秘密を打ち明けられるまでは。
「君の幸せを心から願ってる」
「女性を振る常套句ね。そんなふうに言われて喜ぶ女がいると思う? 女だけを傷つける、嫌な言葉だわ」アイリーンは顔を少しだけ上向かせると、奥歯を強く噛み締めていた。「あなたなんか大っ嫌い。私にしておかなかったことを、後になって後悔すればいいのよ」
人間の感情とは実に厄介なものだ。大嫌いだと口に出してみても、本当に嫌いになれるわけではない。アラン自身も、希佐を手放す準備は出来ているなどと嘯いてはいるものの、本当の意味では、心の準備など整ってはいないのだ。
「……どうするの?」
「なにが」
「キサのことよ」分かっているくせにと言わんばかりに、涙目のアイリーンがアランを睨んだ。「日本から来てくださった方々の中に、キサの昔の恋人がいるのでしょう? 心配ではないの?」
「何の心配をする必要があるのか分からない」
「連れて帰られてしまうかもしれないのよ?」
「彼らに関係なくキサは日本に帰る」アランがそう言うと、アイリーンは呆れたように息を吐いた。「元々そういう話だった」
「私はキサのことをどうこう言っているわけではないの。あなたはそれでいいのかってこと。あなたがこうして舞台に立って、不慣れなペアダンスまで踊って、あんな歌まで歌ってみせたのは、すべてキサのためで──」
「違う」
「……違うって、何がよ」
「俺が自分自身のためにやったことだ」自分以外の誰かのためでも、強要されたわけでもない。「キサはそのきっかけを作ってくれただけだよ」
日本に帰ることを決めてからというもの、希佐は何かにつけて恩返しをしたいと口にするようになった。今回のチャリティーも、復帰のために尽力してくれたのも、その恩返しの一環なのだろうと、アランは思っている。希佐には本当に、助けてもらってばかりだ。
だが、希佐はいずれいなくなる。アランはそれを前提に生きている。そのことを常に考えておくべきなのか、考えないようにするべきなのか。ただ、彼女に縋って困らせるようなことだけはしたくないと、そう思っていた。
冒頭から観客をも巻き込んで、劇場全体をステージにするという目論見は功を奏したようで、演者と観客の間には大きな隔たりもなく、全体に良い雰囲気が立ち込めているのを、アランは感じ取っていた。
バージルの爆発的なエネルギーは今もなお健在で、希佐のすべての人を楽しませたいというもてなしの精神は、観る者の心を惹きつけて止まない。
イライアスは昼間のステージを経て、何かが大きく変わったように見受けられる。自らの一言に、観客からどっと大きな笑いが沸き起これば、誰よりも自分自身がその事実を信じられないという顔をして、大きな目を瞬かせていた。
人は、自らの努力次第で変わることができる。だが、ただ何かを待っているだけの人間には、決して変化は訪れない。何事も、最初の一歩を踏み出す勇気が如何ほどのものかは、計り知れないものだ。誰だって、未知の世界に足を踏み入れることは、怖くてたまらない。それなのに、この胸が高鳴るのは、その先の世界に少なからず希望を抱いているからなのだろう。
希佐は、舞台の先にあるものを見せてくれると、そう約束をしてくれた。
これが、その舞台の先にあるものなのだ。一歩踏み出した先にある場所。恐怖を克服し、勇気を示した者にだけ、見ることの出来る世界。たった一歩の違いでも、世界はこんなにも変わるのだということを、今更になって思い知らされる。
夢は必ずしも叶わないのかもしれない。
だが、たとえ夢が叶わなくとも、これまでの努力が否定されるべきではない。
もし、いつか彼女の夢が叶わずに、心が折れてしまいそうになったとしたら、そのときは、凍えるほど寒い心根の一番近くにいたいと、アランは思った。
そして、今度は自分が彼女の手を引いて、光のある、暖かい場所へと導いてやりたい。たとえ、目を閉じ、耳を塞ぎ、口を噤んでしまったとしても、その心に寄り添っていたい。最後に彼女が望むなら、才能のすべてを捧げてでも、君が生き返らせたこの命で、その息の根を止めてみせるから。
だから、その日まではどうか健やかに、幸せに、心穏やかに生きてほしい。
舞台。スポットライト。よく磨かれたタップシューズ。明朗な台詞回し。軽快なリズム。役者の息遣い。観客の胸を打つ一瞬の静寂。拍手、歓声。
「どうぞ後半もお楽しみください」
バージルとイライアスが舞台袖へと引き上げてきた。最後まで舞台上に残っていた希佐は、青年の役柄そのままに、胸に手を添え、客席に向かって一礼している。
舞台は再び、暗転した。
お疲れ様と言って、バージルやイライアスを労っているアイリーンの声を聞きながら、アランは何と言って希佐を迎えようかと考えていた。半ば駆け足で戻ってきた希佐は、少し離れた場所に立つアランを見つけると、僅かに首を傾けて見せる。
『もし許されるのなら、私はまだもう少しだけ、アランと一緒に夢を追いかけていたいんだ』
私はこれを最後にはしたくないと思うし、アランにも、これで最後だなんて思ってほしくない──インカム越しに聞いた言葉を思い出しながら、アランは希佐がやって来るのを待つ。壁を背にして立つアランの前で、ぴたりと足を止めた希佐は、どこか挑戦的な眼差しでこちらを見上げた。
「So」胸の前で腕を組み、答えを促すように顎を持ち上げてみせる。「What do you think?」
「Angry?」
「Nope」希佐は、なぜそのようなことを聞くのだという顔をして、やわらかい声で否定した。「But it was a little bit heartbreaking.」
「Why?」
「I thought Allan might think differently to me.」
「I never dream.」アランがそう口にした途端、希佐は琥珀色の目を大きく見開いた。アランは誤解のないように矢継ぎ早に続ける。「Let's both decide what we want to do next.」
すると、驚きに見開かれていた目がゆっくりと瞬き、次の瞬間には、不安げだった希佐の表情が一変した。下唇を隠し、はにかむようにして笑った顔が、どういうわけか扇情的に映る。アランは無意識に、その頬に触れたいと手を伸ばすが、滑らかな肌に指先が触れたところで、ふと我に返った。近くで二人の様子を見ていたノアが、ニヤニヤと笑っている。
「いやいや、どうぞ。続けてよ」
「ノア」
「僕のことなんか気にしなくていいのに」
ノアはくすくすと笑いながらパソコンのディスプレイに向き直る。アランと希佐が顔を見合わせていると、控え室から出てきたイライアスが、希佐にペットボトルの水を差し出した。
「ダイアナが呼んでるよ」
「分かった。ありがとう、イライアス」希佐は受け取ったペットボトルの水を半分ほど飲むと、残りをアランに手渡してから歩き出した。「またあとで」
小走りで走り去る希佐の背中を見ていたイライアスは、タオルで額の汗を拭いながら、傍らに立って残りの水を飲んでいるアランを見上げた。
「サロメ」ぽつり、と漏らすように、イライアスは言った。「客席から観たいんです」
「それは構わないけど、追っかけ連中には見つからないようにな」
「気をつけます」
今夜は嫌に熱狂的なファンが観に来ているようで、イライアスが舞台に姿を現すたびに、黄色い声を張り上げている。周りの客にとっては迷惑極まりない連中だが、注意事項に違反していない以上、無断撮影者のように摘み出すこともできない。
「キサのサロメがそんなに気になるの」
「気になるというか──」イライアスは言い淀み、言葉を探すように視線を彷徨わせた。「あの得体の知れないものの正体を突き止めたくて」
「得体の知れない?」
「一昨日、七つのヴェールの踊りを踊るキサを見たとき、酷く化け物じみた、おどろおどろしさのようなものを感じたんです。周りで見ていた他の人たちは、そんなふうには思わなかったみたいですけど」
毎夜、電気を消したスタジオの真ん中で、鏡に向かって踊る希佐を見ていた。街灯の明かりが窓から差し込むスタジオで、希佐は自らの影と踊っていた。
昼間は他の出演者たちを手伝い、スタジオに戻ればアランとの根比べのような稽古が待っている。希佐はそのすべてが終わったあと、自らの稽古を行なっていた。連日の重労働で体は疲弊しているはずだが、希佐はそれを少しも感じさせない。特に、サロメを演じているときは、それが如実だった。希佐は、アランが強制的に稽古をやめさせるまで踊り続け、その後は、泥のように眠る。
「できれば、二人のダンスも客席から見たかったです」
「ん?」
「とても美しかった」その言葉とは裏腹に、イライアスの表情はどこかむすっとしている。「妬いてしまうくらい」
「君のパートナーを何日も借りてしまって悪かったと思ってるよ」
「本当に」でも、とイライアスは続けた。「僕も勉強させてもらいました」
「勉強?」
「パートナーとの在り方、とか」イライアスは自らの手を見下ろし、拳を握っては開き、握っては開きと繰り返しながら、言葉を選びつつ話し出した。「僕のダンスは独善的なものだったんです。より良いダンスを踊るためには、自分のレベルを下げてでも、キサに合わせるのが上手いやり方だと思っていました。でも、二人が意見を戦わせながら稽古をする姿を見ていたら、キサが求めていたのは、こういうことだったんじゃないかって」
「彼女と俺にとっては、あれが唯一無二の方法だったんだ。それが君とキサに向いているかどうかは分からない」
「そうだとしても、多分僕は、もっとキサの話に耳を傾けた方がいい。今の彼女にはダンスを教えてくれる素晴らしい先生がいます。教えることはもう僕の役割ではないから、今度はもっと違う方法で、キサをサポートしたい」
才能と才能を掛け合わせれば、目に見えて素晴らしいパフォーマンスを生み出すことはできるだろう。だがしかし、才能よりも重要なのは、相手に対する信頼や尊敬の気持ちと、互いに努力し合える関係性なのだろうと、アランは今回の一件で思い知らされた。それぞれが別々の方向に努力をしたところで、時間の無駄にしかならない。独り善がりの努力は空回りをするだけだ。
「キサとよく話し合うといい」
「はい」
そうは言ったものの、アランは希佐とイライアスのパートナー関係について、心配したことは一度もなかった。二人は最初から上手くやっている。これからは、より良い方向へと進んでいけるのだろう。
劇場から大きな拍手が沸き起こる。
舞台はまだ、続いている。
雷はすっかり遠のいたようだ。窓の外に目をやれば、雨上がりの少し肌寒い、澄み切った空気の中で、満月がうっすらとしたおぼろ雲をまとっていた。
別に、そこまで海外に出る必要性はないと考えていた。
今の世の中、有限の時間を浪費してまで海外まで足を伸ばさずとも、通信回線を介して世界中の人々と交流することは可能だし、ありとあらゆる情報だって手に入る。本場の舞台を見たければ、いくらでもオンラインで視聴することが出来るのに、十何時間もかけて海外に出向くなどという行為は、愚か者のすることだ──とまでは言わないが、非常に効率性の悪いことだとは思っていた。
いや、違うか──と、根地黒門は首を横に振る。
実際は、玉阪の町の居心地が良すぎて、その外に出たくなかっただけなのかもしれない。本当は、外の世界に興味津々だった。だから、オンラインコミュニティーを通じて、外の世界と繋がりを持とうとした。友人、知人を増やそうとした。世界中のオンライン公演、メジャーな作品だろうがマイナーな作品だろうが、そんなことはお構いなしに、数えきれない程の舞台を観劇してきた。
自分もいつか、外の世界へ。
数々の可能性が脳裏を過った。考える程に胸が躍った。
アンバーに海外公演の打診が来ていると耳にしたとき、心の片隅ではほんの一瞬だけ、惜しいことをしたと思った。せっかく、ユニヴェールの庇護の下、国外に出られるチャンスだったのにと。
だが、そんなやっかみが無効化されるほど、黒門は夢中になれるものと出会ったのだ。
黒門は、多様性を重んじているはずのユニヴェールが、田中右宙為を得たアンバーの一強になることを恐れていた。他クラスからも尊敬の念を集めていた立花継希とは違い、田中右宙為が集めていたものは、畏敬の念だ。
誰もが宙為の才能を認めていた。だがしかし、誰もが田中右宙為のようになりたいとは思わなかった。かつてのアンバー生が向けていた羨望の眼差しは、まるで神を崇めるようなもので、純粋な憧れとは程遠いものだった。
宙為には敵が必要だったのだ。あの才能を完膚なきまでに、とは言えないまでも、その珠のような肌にかすり傷を負わせるくらいの屈辱を味わわせることができる、稀有な才能が必要だった。
当初、高科更文にならばそれが可能かもしれないと、黒門は考えた。名実ともに認められたクォーツのアルジャンヌにして、76期の絶対的エース。だが、彼には人間性に多少の問題があった。
立花継希を失い、自寮が腑抜けのクォーツと称されるようになると、高科更文は荒れに荒れた。だが、クォーツの頭上を飾っていた王冠をアンバーに奪われても、自らの頭上を戴くティアラだけは、絶対に手放さなかった。
それに、クォーツにはダイヤの原石が揃っていた。
いつも舞台の隅の方で踊っていた睦実介は明らかに悪目立ちをしていたので、もっと真ん中に寄せた役柄を与えるべきだと思っていたし、白田美ツ騎には歌だけではなく、もっと表立った役割を与えるべきだと思っていた。
パッと閃いてからは、早かった。
手土産に脚本を一本仕上げ、箍子数弥と江西録朗に転科話を持ちかけて、早急に校長からの許可をもぎ取った。
箍子には、田中右宙為を更に成長させるためには、大いなる敵の存在が必要だと説明した。江西には、自分が腑抜けのクォーツを救ってみせると豪語した。そして校長には、なんだか面白そうだから、と戯けてみせた。
一つも嘘は吐いていない。
そのどれもが、根地黒門の本心だった。
宙為とようやく戦える準備が整ったと思ったのは、78期生が入学してからのことだ。新人公演を終え、クラス優勝という余韻に浸りながら、黒門は確信していた。今ならばやれると。
だが、夏公演はアンバーが不在、秋公演は様子見、冬公演は宙為が不参加──決戦はユニヴェール公演を残すのみとなった。
アンバーは満を持しての『我死也』でクォーツを完膚なきまでに叩きのめすつもりだったのだろう。だがしかし、彼らは間違いなく気を逸していた。本気でクォーツを再起不能の状態にまで陥れるつもりだったのなら、早くに手を打っておくべきだったのだ。
それこそ、拐かしてでも、立花希佐を手篭めにするべきだった。
一年間、四つの公演を経て、立花希佐は着々と実力を伸ばしていった。才能を開花させていった。他の追随を許さないほどに。
まあ、個人的なことを言わせてもらえば、宙為演じるがしゃどくろと、立花くん演じる瀧姫の『我死也』なら、観てみたいっていう気持ちの方が大きいけど──当時も今も、黒門が考えていることは変わらない。
三年間、立花希佐は舞台毎にころころとその姿を変え、形を変え、色を変えた。ユニヴェールフォロワーはそんな彼に魅了され続け、そして、玉阪座でもその姿を引き続き拝めるに違いないと、そう信じて疑わなかった。
玉阪座のお歴々連中も同じ思いだったことだろう。彼のような逸材を発掘し、育て上げ、玉阪座に招き入れるために、ユニヴェールが存在するとさえ思っているような者たちだ。先に玉阪座所属となった田中右宙為を彦、立花希佐を比女に据えた舞台を行えば、連日の大入りは間違いなしだ。
だがしかし、立花希佐は玉阪座からの勧誘を即刻蹴り飛ばし、78期最後のユニヴェール公演の翌日に、忽然と姿を消した。玉阪座の理事にしてみれば青天の霹靂、まさに大誤算だったに違いない。一年早く玉阪座に入門した宙為も、好き勝手に海外を飛び回るばかりで、年に数回しか日本には戻らない始末だ。前回の舞台には約束通り立ってくれたが、千秋楽の翌日には、今度はドイツに旅立ってしまった。
海の向こう側とは、かくも魅力的な世界なのか。
だが、立花の姿を見るにつけ、海外での暮らしは彼女に大きな生き甲斐を与えているようだと、黒門は思う。少女でありながら少年を演じ続け、それがいつ露見するかも知れない環境で、三年間も生き続けてきた。それは恐らく、想像を絶する息苦しさだったことだろう。
しかしながら、立花希佐はすべてをやり遂げてみせた。
女であることを隠し通すこと。
他の生徒たちと信頼関係を築くこと。
ユニヴェール公演で主役になること。
これら三つの約束の内、一つでも違えることがあれば、容赦無く退学処分を言い渡され、立花はユニヴェールを去ることになっていた。
『お前のような勘の良いやつが立花の正体に気づけなかったんだ、あいつは上手くやったってことなんだろうよ』校長は煙管の煙をふっと吐き出し、一拍置いてから続けた。『まあ、あいつにチッチなんて役を与えるくらいだ、潜在的には気づいていたんだろうがな。お前自身の女性に対する恐怖心が、自分の心を守るために、真実から目を背けさせていたのかもしれねぇ』
まさかまさかと思い続け、そんなことはあるわけがないと否定し、目を閉じて、耳を塞いできた。彼以上に女性らしい生徒は大勢いたのだ。白田美ツ騎などその筆頭だろう。だから、口も噤んだ。冗談でも真実を言葉にしてしまったら、取り返しのつかないことになるような気がして、恐ろしかった。
今思えば、立花希佐の正体を暴いてしまった方が、彼女のためにはなったのかもしれない。何事もないまま卒業させてしまったからこそ、彼女は今も真実を偽ったまま、日本に帰ってくることもできず、遠い異国の地で舞台活動を続けている。良心の呵責に苛まれたまま、あの舞台に立ち続けている。
……いや、今の立花の姿からは、良心の呵責など一切感じられはしない。だが、あの立花が何の憂いも覚えないまま、あの舞台に立ち続けることができるのだろうか。常に周りを気遣い、自分よりも他人を優先し、舞台のためなら自分をも殺す──嗚呼、と思わず溢れそうになった声を、黒門は喉元に押し留める。
当初は、開き直りなのかとも考えた。
世界中で拡散されたあの『Defying Gravity』を歌う立花希佐の姿は、その歌詞の通り、重力すら物ともせず、すべての重圧から解き放たれ、自由に空を飛び回るかのようだった。自らの過去と決別し、自分は自由になるのだと、そう歌っているかのようだった。まるで気づきを得たかの如く、もっと早くにこうするべきだったと歌うその顔は、あまりに眩しく、輝いていた。
もしも彼女が疾うに覚悟を決めているのだとしたら。
開き直りとも、諦めとも違う。自らの過去のすべてを受け入れた上で、世間からどのような責苦を受けることになろうとも、前に進む覚悟を決めているのだとしたら。
たった一人、立花希佐であるという責任を負う覚悟を、決めているのだとしたら。
彼女は確かに嘘を吐いた。それは許されない嘘なのかもしれない。だが、この世に生まれ落ちた者の中に、一度も嘘を吐いたことのない者は存在するのか。
イエスは言われた。
あなたたちの中で、罪を犯したことのない者だけが、この女に最初の石を投げなさい──ヨハネによる福音書の一説だ。
人の罪を責めることは容易い。一人が口火を切れば、次から次へと、鋭利なナイフのような言葉が振り下ろされる。皆、自分のことなど棚に上げて、周りもそうしているのだから構わないだろうという、安易な気持ちで心無い言葉を口にする。
自分だって同じだ──黒門は自らの発言を顧みて、そんなふうに思った。
誰にも他人の頭の中を覗き見ることはできない。他者の言葉を代弁することなど無意味だ。何を思い、何を考え、何を望み、何を祈り、何を願うのか。大切な思いほど、人は心の中に押し込めて、口にしたがらない。
自分は再会の仕方を間違えたのだ。
掛けるべき最初の一言を間違えてしまった。
もう一度やり直したくても、取り返しはつかない。
舞台に立つ姿を見れば、立花のこの五年間に、一日たりとも無駄な時間はなかったのだろうと分かる。日々の研鑽が見えるようだと黒門は思った。画面に映し出される映像を見るだけでは到底理解が及ばない。声の端々、視線の行く末、頭の天辺から爪先に至るまで。魂は細部に宿るとはよく言ったものだ。
「あっ、そうだ、師匠」
ユニヴェールの学生だった頃、立花はジャックを演じていた。だが、舞台上に立つ青年はどこか違う。それは演じているというよりも、生身の青年がそこにいて、その人生を体現しているかのようだと、黒門は感じていた。
78期生を迎えたばかりの新人公演、まだ右も左も分からない立花が、拙いながらも持てる力のすべてを掛けて演じた『不眠王』の娘役を思い出す。あれは演じているというよりも、生身の娘が立花希佐の体に宿っていた。
「今度、彼と施設まで出向いていって、子供たち相手にダンスのワークショップを開こうと思うんですけど、ご一緒しませんか?」
先程の落雷のことなど、もう誰も気にしてはいない。劇場中の目は舞台上に立つ三人の役者たちに向けられ、彼らの軽妙な台詞のやり取りを楽しんでいる。前半は怒涛のような勢いで、目まぐるしく舞台が転換し続けていたので、骨休めも兼ねているのだろう。
「施設?」
「はい。場所は湖水地方の、ウィンダミアの辺りなんですけど──」舞台上の青年がそう言うと、黒門の隣に座っているレオナール・ゴダンが、ふふ、と何故か微笑ましそうに笑った。「ね、一緒に行きましょうよ」
「そりゃ構わねぇが、いつ行くんだ?」
「来週末です」
「随分急な話だな」
「他に何か予定あります?」
「こう見えても俺は売れっ子の振付師だからなぁ」師匠はそう言いながら、実際にポケットからスマートフォンを取り出している。どうやら本物のようだ。「来週末だって……? あー、んー、まあ、預けてる犬を引き取りに行く予定はあるが……行けねぇこともねぇな」
「それじゃあ、犬も一緒に連れて行きましょう! ね、君もそれでいいだろ?」
「僕、動物アレルギーなんだけど」
「俺の犬は清潔だぞ」不潔なものを見るような目で見られた師匠は、男をじっとりとした目で睨み返した。「その上、お前なんかよりもずっとお利口だ」
「どう利口なの?」
「俺の犬は毎朝俺を起こしてくれるし、風呂も沸かしてくれる。ランニングにだって付き合ってくれるしな。ああ、それから、ダンスも踊れる。うまいもんだぞ」
「だったらここに連れて来ればよかったのに」
「あ?」
「君より余程寄付金を集められたと思うよ」
「……お前な」
師匠と平然と毒を吐く男の応酬ににこにこと笑いながら、青年は師匠が手にしていたスマートフォンを取り上げる。何やら実際に操作をしているようだ。今にも取っ組み合いの喧嘩をはじめるのではないかと思われた他の二人も、青年の様子を見て顔を見合わせている。
「おーい! みんな観てるー?」青年は画面に向かって手を振った。「あ、ちょっと待ってて」
他の二人と、劇場の観客に向かって気安くそう言ったかと思うと、青年はスマートフォンを片手に舞台袖へと消えていった。お、おい、と呼び止めようとした師匠だったが、はあ、と大きくため息を吐きながら、客席の方に目を向ける。
「あいつはいつだってこうなんだ。みんな、あの愛らしい顔に騙されるんじゃねぇぞ? 自分勝手で周りの迷惑を考えない傍若無人なやつなんだから」
「師匠、聞こえてますよ」
「そんなことよりお前、俺のモバイルでどこに電話してんだ?」
「もうちょっと待ってくださいよ」うん、そう。お願い──そう言う声が聞こえた数秒後、青年はタブレットに向かって話しかけながら戻ってきた。「ああ、これでみんなの顔がよく見えるようになった」
にっこりと笑いながら、タブレットに向かって手を振っている青年の後ろに立った師匠と男は、驚いた表情で画面を凝視している。タブレットからは、カラカラと笑う子供の声が聞こえていた。
『来週末、遊びに来てくれるって本当?』
「もちろん、本当だよ。師匠も一緒に来てくれるって。やったね」
『ダンスを教えてくれるの?』
「師匠は厳しいけど、大丈夫?」
『全然へっちゃらだよ』
「じゃあ、楽しみにしてて」青年はそう言うと顔を上げ、タブレットの画面を客席の方に向けた。「今日は嫌にたくさんの人の視線を感じるんだ。みんなの目には何が見える?」
『人! いっぱい!』
『お客さん!』
「人? お客さん?」青年は怪訝そうに繰り返し、わざとらしく身震いをして見せた。「こっちからは何にも見えないんだけどなぁ。はっ、もしかして、ゴースト?」
青年はタブレットを抱えたまま客席に降りてきたかと思うと、一番前の席に座っている客の前に立ち、その顔を覗き込む。その顔の前でひらひらと手を振ってから、不思議そうに小首を傾げた。タブレットの向こう側からも、劇場からも、くすくすと小さな笑い声が上がっている。
「おかしい……誰もいないのに……」
青年はそう言うとすぐさま背中を向けて舞台に戻ろうとするが、次の瞬間勢いよく後ろを振り返り、わっと大きく声を上げた。周辺に座っていた客は、皆一様に驚いた様子で、中には驚きに声を上げる者もいたが、青年には何も聴こえていない様子だ。
「お前、そんなとこで大声出して、何やってんだよ……」
「だって、師匠〜」頭を抱えて呆れている師匠を見遣り、青年はどこか情けない口振りで言う。「子供たちが言うには、こっち側に人がいっぱい見えるって」
「ロンドナーがゴーストなんかにビビってんじゃねぇぞ」
「ねえ、そこの人、手を出して君に握手を求めてるみたいに見えるけど」
「えっ? あっ、本当だ」男が指差した先を、青年は薄目を凝らして見ている。「こんばんは、美しいゴーストさん。おっと、これはこれは、マクファーソン家のご兄弟にそっくりなゴーストさんまで、いつもご贔屓にありがとうございます」
不思議だなあ、こうしてみると人がたくさん見えてくる──青年は頭上にタブレットを掲げ、薄目のまま劇場の客席をぐるりと見渡した。
「ほら、みんな、ゴーストさんたちにご挨拶をして」
『こんばんはー!』
「ほらほら、ゴーストさんたちも、子供たちにご挨拶してください」
「ごきげんよう」
深くてよく通る男性の声がそう言うのを聞き、あら、とクロエ・ルーが声を上げた。
「メイヒューが来ているのね」
「グレアム?」向こう隣にいるエステルが、どこか意外そうに言う。「あとでご挨拶に行かなくては」
マクファーソン兄弟の名も、グレアム・メイヒューという役者のことも、ウエスト・エンドの舞台に立つことを志している者ならば、まず知らない者はいないはずだ。イギリス人とオンラインコミュニティで話をしていると、その名前が話題に上がることもある。黒門だって、マクファーソン兄弟の作品ならオンラインで何本か観劇しているし、その作品に出演していたグレアム・メイヒューのことも知っていた。酷く華のある、伊達男とでもいうふうな雰囲気の人物だ。
「Mr.メイヒューも来週末、ご一緒にいかがですか?」
「生憎だが、来週末は先約があってね」
「それは残念です」
「だが、今宵は非常に楽しませてもらっている。私は是非とも君の顔を立てたい」メイヒューはそう言うや否や、懐から取り出した何かを青年に向かって差し出した。「好きな金額を書き込んでいただいて結構だ。それで子供たちのために何かをしておやり」
「Mr.メイヒュー」恐らくは小切手だろう。青年はそれを受け取ると、恭しくお辞儀をして見せた。「ありがとうございます」
「お安い御用さ」
『ありがとう、山高帽子のおじさん!』
『お髭のおじさん、ありがとう』
「ゴーストからの心ばかりの贈り物だよ」
ゴシップの記事を鵜呑みにするつもりはないものの、グレアム・メイヒューの人となりといえば、傍若無人で自由奔放、ついぞチャリティーになど興味がなさそうなことで知れている。だが、ゴシップはただのゴシップでしかない。
「彼、キサに気に入られようと必死なのよ」
「え」
「彼女は今や引く手数多の役者だから。当の本人は、そんなこと知りもしないのでしょうけれど」クロエはまるで値踏みをするかのような目を向けながら、立花のことを凝視していた。「私が調べたところによると、小劇場を渡り歩く良い役者がいるって、結構前から評判になっていたみたいよ。商業の方からもオーディションを受けないかってお誘いが幾つもあったそうだけれど、全部お断りしていたみたい。袖にされたって腹を立てる人もいたとかいないとか」
「あの子、昔のあなたによく似ている」
「そう思うでしょう?」
エステルの言葉がよほど嬉しいのか、クロエはその声に微笑みを滲ませ、ほう、とうっとりしたようにため息を吐いた。だがしかし、ゴダンはそれが聞き捨てならないというふうに、小さく鼻で笑っていた。
「なあに、先生? 気に入らないことがあるならおっしゃって」
「僕は嘘吐きが嫌いでね」
「あえて真実を言わないことは嘘にはならないの?」
「君は揚げ足取りが上手だ」
自分の頭越しに交わされる会話にただただ苦笑いを浮かべながら、黒門は舞台上に戻っていく青年の姿に目を向ける。あれは間違いなく立花希佐だと認識はしているのだ。それなのに、その立ち居振る舞いを見ていると、やはり女性であるということを忘れてしまいそうになる。
自分とは異なる姓を演じるということ。
ユニヴェール歌劇学校において、それは特別な意味を持つ。男性だけで演じられる歌劇の舞台──男性が女性をも演じることが、ユニヴェールや玉阪歌劇の魅力の一つだ。だが、そこから一歩外に出てしまえば、男性が女性を演じることに何の意味があるのか。その逆も然り、女性が男性を演じる意味など、あるのだろうか。
何の制限もない世界なら、男性が男性を演じれば良い。
女性が女性を演じれば良い。
それでも異なる性を演じるのなら、何より説得力が必要だ。男性以上に男性を、女性以上に女性を理解し、真摯に向き合い、確固たる信念を持たなければならない。男性が女性を、女性が男性を演じる理由を説明できなければ、そこにいるのはただの張りぼてでしかないのだから。
「あの子たちをお金儲けの道具になんてさせやしないわ」
「よく言うわね」エステルは呆れたように肩をすくめている。「あなただって最初はそのつもりだったでしょうに」
「私は最初からお金なんかに興味はないのよ。あの舞台を成功させられれば、その他のことはどうでも良かったの。今はただ、あの子たちが惜しい」
「そういえば、ヴェニスの別荘を売りに出すんですって?」
「ええ」二人の話にこっそり聞き耳を立てているのか、ゴダンの横目が密やかに動いている。「必要ならニースの別荘だって売るわ」
「もったいない」
「あら、じゃあ、あなたが買ってくれる? 私のニースの別荘、あなたのお気に入りでしょう?」
「考えておく」
何て脈略のない会話なのだろう──黒門はそのように考えるが、まあ、自分も大概だと思い、頭を軽く左右に振った。左右を取り囲む大人たちの間にいる自分が、あまりに子供のように感じられて、途端に居心地が悪くなる。
立花希佐は、普通なら萎縮してしまいかねないこの場所で、毅然と頭を上げて生きてきたのか。
片や、照明の落ちた劇場の客席を一席埋めているだけの僕と、舞台上でスポットライトを浴びて光り輝く君。肩を窄めるようにして席に座る僕と、舞台上で縦横無尽に舞い踊る君。あわよくば罪を暴いてやろうと目論みながら海を超えてきた僕と、すべての覚悟を背負いながらそれでも舞台に立つ君。未完成だからこその美しさを求めた僕と、完成されたその先を目指す君。
──ジェニー、どうしてキミは世界を目指さないんだい? キミほどの才能があれば、世界でも十分に名を残せるはずだよ。それとも、本当のところは既に名のある作家で、ここではその素性を隠して戯れを楽しんでいるのかい?
世界なんてどうでもよかった。
興味もなかった。
黒門は、自分が表現したいものを表現できれば、それでよかった。それを受け入れてくれる土壌が、ユニヴェールや玉阪座には完成されていたのだ。だから、あえて外の世界を求める必要がなかった。
それに、なぜわざわざ日本から世界を目指さなければならないのか、という捻くれた思いも、少なからずあったことは否定しない。日本の舞台表現がマイノリティーで、世界の舞台表現がマジョリティーなどと、一体誰が決めたというのか。
今の時代、海外で出来ることは、日本にいても出来るのだ。
──世界に出ていってどうするの? 世界で成功する人間なんて極々少数なのに、今ある成功と安定を捨ててまで、外に目を向ける必要がある? 自国で少しばかり評価されているからって調子に乗って、迂闊に世界を目指した人間を大勢見てきた。でも、どれも末路は同じ。心を折られて出戻って来た挙げ句、国にあったはずの自分の居場所まで失って、夢を諦めざるを得なくなった。世界を目指すなんて愚か者のすることだ。
──現状に満足している人間はその場で足踏みをし続けていればいい。自分の足が掘った穴から抜け出せなくなってからでは遅いんだ。井の中の蛙大海を知らず、という東洋の諺がある。狭苦しい井戸の中に住む蛙は、大きな海を知らない。だが、井戸を飛び出し、大海を目指した蛙は、他の蛙よりも間違いなく勇敢だ。心が折れる? 挫折を味わう? いいじゃないか。それは世界という大海を目指した者にしか得られない特権だ。現状に甘んじている人間には、決して獲得できない感情だ。
あの日は特に、多くの不毛な文言が次から次へと画面上に現れては、上へ上へと流れて消えていった。これから世界を目指そうとしている者、既に世界を思い知らされ挫折した者、たった今世界の荒波に揉まれている者──その掲示板には、成功者など誰一人いなかった。それはそうだろう。今まさに成功している者が、挫折を味わった者に目を向け、興味を示すわけがない。成功者は下を見ない。自分が進むべき未来だけを見据えているものだ。
そういう人間の中には、成功者は大した努力もなく、ただ運だけでその地位に成り上がったのだと考える者もいる。彼らには、自分にはない才能があるから、と。
才能だけで成功を手に入れられるのなら、そんなに楽なことはないと黒門は思う。
努力は面倒臭い作業の積み重ねだ。その努力のできない人間は、いくら才能があっても成功はしない。運良く表舞台に立つ機会を与えられたとしても、その輝きは一時的なもので、瞬く間に失われていく。所謂、一発屋というやつだ。
何らかの外因的な要因が働き、一時的に爆発的な人気を博したとしても、それは長続きしない。このとき、決して驕らず、己の現状と真摯に向き合い、努力を怠らなかった者だけが、その先の世界を目にすることができると、黒門は信じている。
結局のところ、自国に留まろうが、世界を目指そうが、やるべきことは変わらないのだ。ただただ真っ直ぐに、時には回り道をしながらも、夢に向かって突き進んでいける者だけが、成功を手に入れられる。
あの日、目の前で繰り広げられる舌戦が煩わしくなった黒門は、パソコンのディスプレイを落とそうとした。だが、その刹那、ほんの短い言葉が投稿された。
──Wake up quickly, you couch potatoes.
ぴたり、と他の投稿が止まり、文字通り沈黙が訪れた。
──There's no mummy anywhere to pat you on the back and encourage you.
発言者の名前は“Azalea”だった。その人物はすぐさま掲示板を退出すると、コミュニティーからもログアウトしてしまった。何度かダイレクトメールでやり取りをしたこともあるが、その人物は他の者たちほど交流を求めてはいないようだった。
黒門はその人物のことをずっと彼女と呼んでいたし、十中八九女性だろうと確信していたが、どうやらそれは誤りだったらしい。大勢の敗北者たちが不満をぶち撒けていた掃き溜めのようなあの場所で、正論とも言える皮肉を吐き出して去っていったその人が、他ならぬアラン・ジンデルだったのだ。
脚本家の集まるコミュニティーで、アラン・ジンデルはよくone-hit wonderと揶揄されていた。『斜陽の雲』が上映され、各国の映画賞でありとあらゆる賞を席巻したというのに、脚本家本人は表舞台には一切姿を現さない。それ以降に手がけた脚本でも映画賞を受賞してはいるものの、どれもこれも似たような作品ばかりで、処女作を水で薄めたり、麺棒で引き伸ばしたり、写真のように焼き増しされたようなものばかりだと、そのように評価されている。
もちろん、それらは敗北者たちの妬みだ。耳を傾けるに値しない言葉なのだろう。
《排気ガスで薄汚れたコウリンタンポポが、歩道の片隅で重い頭を左右に揺らしていた。東の空には明けの明星が輝き、世界が憂鬱に目覚めようとしている。
あなたはアパートの外に出ると、そのコウリンタンポポを手折り、散らかった室内にとぼとぼと戻っていった。玄関のドアを開け放したまま台所に向かう。いつも使っていた琺瑯のコップを水道水で満たし、そこへ花を挿すと、リビングで倒れている女の傍らに手向けてやっていた。
白く濁るようにくすんだ窓から、白んでいく空を見上げている。徐々にパトカーのサイレンが近づいてくる。間もなくしてやって来た二人の警官は、挨拶もなく室内に足を踏み入れると、あなたが置いた琺瑯のコップを蹴り倒し、埃っぽい花を踏み躙って、倒れた女に緩慢とした足取りで歩み寄っていった。女の傍らに膝をつき、手を触れると、あなたには分からない言葉で話しかけてくる──》
映画のレビューを見ると、この物語はあまりに淡々としていて、退屈で、重度の不眠症をも治す作品──そんな批評が横行していた。星五の次に多いのが、星一の評価で、各映画賞の結果を疑問視する声も目立つ。
何を考えているのか分からない、口数の少ない主人公。主人公は物語の中で異質な存在であるかのように映る。まるで別世界から来た、宇宙人のようだ。間違いなくそこにいるのに、空気のように透明で、つかみどころがない。
その理由は、小説を読んで初めて理解することができた。
映画『斜陽の雲』の映像は、視点の切り口が独特だ。新鮮さと違和感が混在し、観る者に不可思議な感覚を味わせる。だがそれも、最初のうちだけだ。次第に慣れてくれば、そんな些細な違和感は気にならなくなった。時折、どこを切り取っても完璧に美しい映像美が、ピントがぼやけるように霞み、色彩がより誇張されて表現される瞬間がある。だがそれは、インディペンデント作品によくある芸術性を加味した演出なのだろうと、そう考えるだけだった。
そう、あの映画は元々、インディペンデント作品なのだ。メジャーなスタジオを介さずに、自主映画として制作された『斜陽の雲』は当初、潰れかけの古びた映画館で試験的に上映された。それが徐々に話題を呼び、最終的には世界中で上映されるという、至極稀な現象が起きた。
「人生何が起こるか分からないものだね」
レオナール・ゴダンはまるで他人事のように、その現象を喜ぶでもなく、ただ事実として受け入れているだけのように見受けられた。この『斜陽の雲』が、ここまで多くの人に支持され、評価をされ、自らの代名詞のような作品になるとは、想像だにしていなかったのだろう。
「実のところ、こんなに大事になるとは思ってもみなかったんだ」
なぜかは分からない。
だが、この作品は大勢の人々の琴線に触れた。
言葉数の少ない主人公が、様々な地域を転々とし、人々と出会い、触れ合っていく過程を観ていると、酷く心が癒された。だが、そこには何一つ、主人公の主観は含まれていない。主人公はただ、そこにいるだけだ。当たり前に呼吸をし、皆の話に耳を傾け、頷くでもなく、ただそこに佇んでいる。
小説『斜陽の雲』は二人称視点で書かれていた。物語は常に【あなた】を中心にして進行していく。映画を観ていたとき、主人公だと思い込んでいた人物は【あなた】という役割を与えられた、ただの傍観者に過ぎなかった。【あなた】はどこから来たのかも分からない。年齢も不詳。おそらく異国の生まれで、言葉が不自由だった。冒頭は幼児として登場するが、次の章では少年として生きている。章が進むにつれて年齢を重ね、最後は青年として物語の最後を迎えた。
何が特別なのか分からない。
だが、別格な何かを感じる。
確かにハリウッドで評価されるような派手さはない。映像作品にエンターテイメント性を求めている人間には響かない代物だろう。片方にはポップコーン、もう片方には甘ったるい炭酸飲料を持って楽しむような映画ではない。
『斜陽の雲』は、眠れぬ夜を過ごした翌朝、白んでいく空を見上げながら、不意に思い出される作品だ。橙色に燃え上がる夕日が、北から流されてきた雲の淵を黄金色に染める度に、人々の心に蘇る。自分自身が【あなた】となり、同じ人生を歩んできたのだと錯覚を起こす──脳裏にこびりついて離れない、呪いのような作品だ。
黒門の隣に座り、好奇心には逆らえない少年のような目で舞台を見つめているレオナール・ゴダンは、どのように訊ねても、アラン・ジンデルのことを一つも教えてはくれなかった。
「彼は人に噂されることが好きではないんだよ」それに、とゴダンは続けた。「僕は彼との友情を失いたくないんだ」
アラン・ジンデルは、数々の映画の脚本を手がけ、何冊もの本を出版している。映画が上映されれば高額な興行収入を叩き出し、本を出版すればそのどれもがベストセラーになった。本人がメディアに露出したことはない。年齢、性別は共に不詳。だがしかし、子供の頃は役者として舞台に立ち、将来を有望視されていたという。それなのに、当人は徐々に表舞台から姿を消し、裏方にまわる道を選択した。
ユニヴェールの入学式──いや、それよりも更に前、入試の日だ。ダンスの試験を受けに行った先で、初めて立花継希の姿を目の当たりにしたとき、黒門はその暴力的なまでの華やかさに圧倒された。他の受験生たちも同じ思いだったのだろう。手本を踊る立花継希の姿を、まるで舞台上で舞う役者を見るような目で、呆けたように眺めていた。すっかり魅了されていた受験生たちは振り入れどころではなかったが、彼は嫌な顔一つせず、むしろ楽しそうにしながら、もう一度同じように手本を踊って見せてくれた。
誰もが華やかさを取得することはできる。
だが、生まれ持っての華やかさに勝るものはない。
根地黒門は、自分も少なからず華のある人間で、人並み以上の美貌と、美声と、万能の才能を持っていると自負していた。だが、入試の日、自分以上に華のある人間の存在を知り、美貌も、美声も、自分が一番ではないのだと自覚をしてからは、生きるのが酷く楽になった。ユニヴェールは分業制だ。歌唱、舞踏、演技──得意な分野で頂点を目指せばいい。そのすべてに加えて、自分には脚本と演出の才能まであるのだから、向かう所敵なしだ、とは思っていた。
父親の職業柄、幼い頃から才能ある多くの人々をこの目に見てきた。だから、人の才能の有無を見る目は、他の人々よりも養われているつもりだ。舞台脚本を書き、演出も手掛けるとなれば、短い時間で役者の特性を見抜き、作品を仕上げていく必要がある。この役者には何が出来て、何が出来ないのか。未だ表面には現れていないだけで、何か秘められた才能があるのではないか。魅力を引き出すためには、何をしてやればいいのか。その才能をどのように生かせば、より良い舞台に繋がっていくのか。
感情を動かされているその裏側では、あくまで冷静に物事を考えている。なんて素晴らしい才能なんだと歓喜すると同時に、どのような駒として配置すれば舞台上で上手く動かせるだろうかと。
しかしながら、自らの想像を遥かに超える才能と出会ったときばかりは、そうはいかない。すべての思考が停止し、息をすることも忘れ、目の前の才能に魅入られることもある。
例えば、田中右宙為に出会ったとき、自分にはもう役者としての役割を与える必要はないだろうと、黒門はそう強く感じた。舞台上にこの少年が一人いれば、他にはもう何もいらないと思った。田中右宙為は、唯一人で完璧な存在だったからだ。何かを添えれば添えるほど、完璧からは遠ざかっていく。だが悲しいかな、ユニヴェールの舞台はクラス全員で作り上げていくものだ。アンバーという檻がある以上、田中右宙為は決して自由にはなれない。手枷、足枷を付けられて、クラス全員を引き摺りながら、もがき苦しむしかない運命にあった。
『我死也』は、そんな田中右宙為のために書いた脚本だ。他に適任者がいないからと黒門自身が滝姫を引き受けたが、当然のことながら、それで宙為が満足するはずもない。田中右宙為が求めていたのは、黒門のような色物ではなく、立花希佐のような透明な器だったのだから。
今、あのときにも似た衝撃を覚えている。
間違いなく神に愛されているとしか思えない天才を目の当たりにしている。
いや、自分もその類の人間だという自覚はあるのだ。他の者にはない多くの才能を持ち、その能力を駆使して生きてきた。だが、黒門の人生は取捨選択だった。より必要なものに手を伸ばし、不必要なものは手放してきた。
ユニヴェール時代は、忙しさにかまけて稽古を怠るたびに、周りの人間──特に白田からは、強く叱咤されていた。それでも、人並み以上に優れたこの体は、それを許してくれていた。歌も、ダンスも、芝居も。
「もっと本気で向き合ったらどうなんですか、根地さん」組長の仕事は多い。それに加えて、脚本家兼演出家の仕事もあった。「いつかつけが回ってきますよ」
確かに生き急いでいる。
そうしなければならない理由がある。
いつか、この才能が跡形もなく失われて、生きる意味を失くす日が訪れるかもしれない。だから、その日の前に、やれることはすべてやっておきたいのだ。自分の足で舞台に立つこと以上に、数多くの作品を世に残したいと思う。それが、自分の生きた証になると信じているから。
それなのに。
そう、思っていたのに。
レオナール・ゴダンが撮影した『魔物のエクス』を観た。かつての仲間たちを呼び寄せ、全員で鑑賞会をしたその後も、一人きりになった部屋の中で何度もそれを見返した。アラン・ジンデルの演技は、その昔小さな劇団で子役をやっていたと説明を受けるだけでは、到底納得できないレベルのものだった。『魔物のエクス』では拙いように感じられたダンスだって、今日は桁違いのものを見せられた。歌に至っては間違いなく本物だ。
心底、ゾッとした。
舞台の上に立っても、その裏側でも、アラン・ジンデルは一級品の仕事をしている。
この男は一体、神とどのような取引をして、何を代償にして、この計り知れない才能を手に入れたのだろうか。百人いればその百人全員が無視することのできない容貌は、時代が違えば国をも傾けていたかもしれない。聞く者の耳に溶け込む声も、しなやかで長い手足も、舞台の神様が土塊から丹精込めて作り上げた賜物のようだ。
あの立花くんが、霞んで見えた──黒門は愕然としながら思う。
荒唐無稽な才能とは、かくも恐ろしいものなのか。
「どうぞ後半もお楽しみください」
そう言って恭しくお辞儀をする立花の姿に、ユニヴェール劇場で来客に歓迎の言葉を告げていた立花継希の姿が重なる。ユニヴェールの至宝。黒門は何度か話したことがある程度だが、本当に穏やかで、心根の優しい人だと感じた。だが、その目の奥には強い意志と、熱い情熱を秘めている。そして同時に、物悲しさも。
「そういえば、彼女のお兄さん──」何かの会話の流れで、中座秋吏にこのようなことを訊ねてみたことがあった。「立花継希は、今どこにいるんです?」
「さあな」
「さあなって、知らないんですか?」
「どうして俺が知ってると思うんだ?」
「そもそも、立花継希はユニヴェールを卒業したら玉阪座に入門するはずだった。それなのに、忽然と姿を消してしまった。以後、彼の消息を知る者は誰もいません。でも、そんなのっておかしいでしょう? あれだけの人が消息を絶ったというのに、あなたや家族は捜索願いも出さなかったのですか? もしかしたら、誘拐された可能性だってあったかもしれないのに」
高科更文は今でも、折を見ては立花継希にメッセージを送っているという。一切の音沙汰はないものの、エラーメッセージが返ってこないということは、彼のアドレスは今も生きているということだ。
「だから、校長先生だけは、彼の居所を知っているのではないかと、そう思っただけです」
中座は黒門の質問に明確な答えは示さなかった。
まあ、継希さんのことだから、この世界のどこかでのほほんと生きてるんだろうと思うけどさ──更文はそう言って笑っている。まるで、何も知らない方が、むしろ希望を感じられるとでもいうふうに。
立花希佐のことを積極的に探そうとしなかったのも、彼女自身の意思で帰ってくるのを待ちたかったのもあるのだろうが、それ以上に、年々強くなる最悪の思考を直視したくなかったからに違いない。
生きているのか、死んでいるのか、どちらか分からない状態のまま、宙ぶらりんでいる時間が一番辛いのだ。いっそ、死んだものと思って生きていく方が、精神的にも救われる。信じて待ち続けた結果、最悪の現実を目の前に突きつけられたとしたら、心はバラバラに砕け散って、もう二度と元通りにはならなかったことだろう。
だから、立花希佐と生きて再会できたことは、高科更文にとっては良いことだったのだ──その他のことは、アラン・ジンデルが苦言を呈していた通り、自分が口を挟むべきことではなかったのだと、黒門は考えを改めようと思った。
「──どこへ行くの?」
立花が舞台袖に引き上げ、暗転したタイミングで、黒門の隣に座っていたクロエ・ルーが立ち上がる。クロエは手にしていた小さなバッグをエステルに預けると、その細い肩を支えにしながらその前を通り過ぎた。
「後ろに移動するのよ」
「せっかくのお席がもったいないじゃない」
「スペンス坊やを寄越すわ」
クロエはそう言うとエステルの眦にキスをする。不意に目の合った黒門に向かって軽く片目を瞑り、軽やかな足取りで劇場の後方に向かって歩いて行った。
まったく──エステルは仕方がなさそうにそう言いながら、再び正面に向き直っていた。程なくしてやって来たスペンサー・ロローは、自らの母親を先程までクロエが座っていた席に詰めさせると、一番端の椅子に腰を下ろす。
「失礼」
「いいえ」
ゴダンが言っていた。女優という生き物は基本、男性的な思考を持ち合わせているものだと。このエステルという女性に対して恐怖心を覚えないのは恐らく、クロエ・ルーのような艶やかな色香を感じないからなのかもしれない。どちらかといえば、男性のような凛々しさを覚える。
「彼女、とても良い役者さんね」
「……はい?」まさか声を掛けてくるとは思わず、黒門の声が僅かに裏返る。「ああ、はい。立花くんは学生の頃からとても優秀な生徒でした」
「スペンサー──私の息子とクロエが、良く彼女の話をして聞かせてくれるの。だから、どんな子なのだろうとずっと興味があったのです」
「僕たちも、彼女が舞台に立つ姿を見るのは実に五年ぶりのことなので、とても新鮮な気持ちです」
「確かに、五年もあれば人は大きく変わるわね。彼女、今おいくつ?」
「二十三──いえ、二十四歳になったばかりだと思います」
「そう」エステルはそう言うと、こぼれ落ちそうなほど大きな目をゆっくりと細めた。「更に五年後が楽しみな役者ではないかしら、レオナール?」
「僕もそう思うよ」
「事務所はどこに? エージェントは付けているの?」
「彼女はアランのところの個人事務所に所属しているよ。エージェントはいない。昔から大きな仕事は片っ端から断って、規模の小さな小劇場の舞台にばかり立ってる。ああ、でも、三年くらい前にマクファーソン兄弟の舞台に出演したそうだ。アンサンブルとしてだけれどね」
「グレアムとはどこで?」
「以前ここで行った彼女の一人舞台で──そうだ、あの脚本は君が書いたものだと聞いているよ、コクトー」
「え?」
「前に、キサがこの劇場で一人舞台を行ったんだ。舞台演出家の話をね」瞬時に、がらんどうとしたユニヴェール劇場の客席に座り、キラキラと輝く目で自分を見上げていた立花のことを思い出した。「彼女はその脚本を、日本からこっそり持ち出してきた数少ない思い出の一つだと話していた。大切なお守りのようなものだと」
「……彼女が、あの脚本を?」
「映像データが残っているはずだから、アランに頼んで見せてもらうといい」スペンサーは背中を丸めて前のめりになり、小さな声で話し続けた。「とにかく、その一人舞台を見て、メイヒューは彼女を痛く気に入った様子だった。共演の確約も取り付けている」
「あれだけ歌って踊れる女の子は貴重だものね」
「キサは歌って踊れるだけではないよ、母さん」
「はいはい」エステルは呆れたように返事をしながら、前のめりになっている息子の額を指先で押し返していた。「あの子の話はまた後で聞かせてちょうだい」
あの舞台演出家の脚本は、個人的に書き下ろしただけの作品だ。ユニヴェールの公演に使おうとも、どこかに売り払おうとも思ってはいなかった。あの作品を執筆することは、自分の中にある憤りやわだかまり、様々な感情を整理するために必要な作業だった。実際に舞台に立って演じたのも、立花希佐に観てもらったあの一度きりだ。
作品としてのデータは残っている。しかしながら、脚本として世に現存しているのはあの一冊だけ。のちのユニヴェール生があの脚本を掘り起こし、稽古の教本として使ってくれるかもしれないと思い、寄贈するつもりで母校に置いていったのだ。
だから、それが立花の手に渡っていたことに対しては、特に思うところはない。だがしかし、あれを日本から持ち出し、大切なお守りのように思っていたことに対しては、少なからず動揺を覚えていた。
ユニヴェール公演の翌日、立花希佐は何の前触れもなく、忽然と姿を消したと聞いている。部屋はすっかり片付けられ、もぬけの殻だったと。江西の話によれば、荷物は小振りなボストンバッグ一つだけだったらしい。立花は、本当に必要な、最低限の荷物だけを持って日本を出て行ったはずだ。その荷物の中に、自分の書いた脚本が忍ばせられていた。
一体なぜ──黒門は、そう疑問に思わずにはいられなかった。
他にいくらでも思い出深い脚本はあったはずだ。それなのになぜ、あの舞台演出家の脚本を持っていったのか。
日本を離れ、イギリスに足を運んでみれば、この心のモヤモヤとした霧のようなものが、少しは晴れるのではないかと期待していた。だが、どうやら期待通りにはいかないようだ。息抜きどころか、息苦しさすら覚えそうで、途端にこの先の道行きが不安に思えてくる。
まさか、イギリスにやって来てたったの二日で、観光気分を味わうこともなく、自らの内面と向き合うことになるとは思っても見なかったと、黒門は内心で苦笑いを浮かべた。今のこの気持ちを書き留めておきたいと思い、ジャケットの胸ポケットに忍ばせていた、手の平サイズのノートと万年筆を取り出した。亡くなった父が最期まで使っていた、形見の万年筆だ。コンバーターには深海色のインクを含ませている。
黒門は、まだ何も書かれていない下したてのノートの隅に、自分だけが分かる記号で、思考のメモを残した。これで、後からその記号を見直したとき、今この瞬間の気持ちを余すことなく思い出せるだろう。
「良い万年筆だね」
レオナール・ゴダンが、黒門の手元に目をやりながら、囁き声でそう言った。
黒門は万年筆を顔の高さまで掲げてみる。日本製の高価な万年筆は、長年使い込んだ代償として小さな傷を無数に負っていたが、その細かな傷が舞台の光を受けて、キラキラと輝いて見えた。しかし、もっと美しく輝いているのは、キャップに埋め込まれている宝石、アクアマリンだ。透き通る海のようなその色は、無心になって見つめていると、黒門の耳にざざん、ざざんという波の音を思い起こさせた。鼻腔は香るはずのない磯の匂いを感じ取る。
「父の形見なんです。毎日、肌身離さず持ち歩いていました。とても大切なものだったみたいで」
「そうなんだね」
父親の遺品整理はまだ済んでいない。だが、父親と一緒に海から引き上げられてきたこの万年筆だけは、警察から返却されてすぐ修理に出し、以来今度は自分が肌身離さず持ち歩いている。普段は鉛筆を好んで使うが、旅先では不便もあるだろうと考えて、ついにインクを吸い上げさせることにした。金のペン先にはまだ父親の癖が残っていて、黒門が文字を書くことを少しだけ邪魔する。だが、次第にその癖にも慣れていくのだろう。同じように、イギリスでの暮らしにも、少しずつ慣れていくはずだ。
若い頃、父親もこのパブに足を運んだことがあるのだ。
もしかしたら、この劇場にも足を踏み入れ、今の自分と同じように、何らかの舞台を観劇したことがあるのかもしれない。他にもまだ、父親が生きていた痕跡が、この国には残されているのだろうか。
ここは、いかにも父さんが気に入りそうな劇場だな──黒門はそう思いながら、手の中には形見の万年筆を握りしめ、煌々と光り輝く舞台に視線を戻した。