「ようやく来たわね」希佐が控え室を覗き込むと、ダイアナは見るからに泣いていたと分かる顔のまま、衝立の向こう側に来るよう手招いた。「こちらよ」
控え室の中は相変わらず出演者たちでごった返している。隅の方では、既にカルメンの衣装を身に纏ったクローディア・ビアンキが、椅子の上に胡座を掻いてスマートフォンの画面に見入っていた。しかし、希佐が現れたことに気がつくと、こちらに目をくれたあと、ふん、と小さく鼻で笑う。
「今はこんな態度ですが、スィニョリーナ・ビアンキはほんの数秒前まで、あなたのことを大絶賛していたんですよ、キサ」
「やめなさい、ダンテ」
「そうそう、聞き飽きるくらい褒めちぎってたよ」
「こら、アタルまでそんなことを──」
「キサ」クローディアの隣で壁に身を預けて立っていたリオが、神妙な面持ちで歩み寄ってくる。「さっきはすまなかった」
「ううん、気にしないで」
「そんなの無理だ」
「よくあるアクシデントだよ。それに、アランも私も気にしていないし」
「オレとしては、演技でも怒ってもらえた方が気が楽なんだけどな……」
肩を落とし、すっかり意気消沈しているリオを見て、希佐はふふと小さく笑う。
「これから本番でしょ? いつまでもそんな顔をしていたら、私よりもクローディアさんに叱られるよ」
「……あなた、言うようになったじゃないの」
そうして話をしていると、衝立の向こう側から、痺れを切らしたダイアナの呼び声が聞こえてくる。希佐は「はーい」と返事をし、リオの腕を慰めるように叩くと、クローディアに軽く会釈をしてから、急ぎ足でダイアナの元に向かった。
衝立の向こう側には、既に七つのヴェールの踊りの衣装が準備されていた。ダイアナはテーブルの上に置いてあるティッシュを引き抜き、ブー、と音を立てて鼻をかんでいる。
「お待たせ、ダイアナ」ダイアナは鼻をかんだティッシュを屑籠に捨てると、大きく深呼吸をした。「大丈夫?」
「ちょっと感傷的になってしまっただけ。寝不足のせいかしらね」ありがとう、と言って、ダイアナはやわらかく微笑む。「さあ、ここに座ってちょうだい」
希佐は言われるがままに、古びた鏡台の前に腰を下ろした。ダイアナは希佐の化粧をゆっくりと丁寧に落としながら、スマートフォンの画面に映し出されているライブ配信を横目に見ている。
「二人とも本当に素敵だったわ」
「ありがとう」
「アランって、舞台に立っていた当時はまだほんの子供だったから、あんなふうに男と女の絡みを舞台上で演じる機会って、ほとんどなかったと思うのよ」そう言うダイアナは、どこか感慨深そうだ。「大人になったのね」
初めての舞台で、希佐は男女の恋愛を演じた。それ以降の舞台でも、何度も男女の恋愛を演じてきた。だから、今更キスシーンを演じるくらいでは動じないだろう──と、自分では思っていた。だが、相手がアラン・ジンデルだったからだろうか、いざというその瞬間になって、微かな動揺を覚えた。心臓が止まるような衝撃を覚え、指先が痺れて、息が苦しくなったのだ。
あの瞬間、希佐は舞台の上で、素の自分に戻りかけた。
その刹那、希佐は自分の命の終わりを、見たような気がした。
この人は今の今まで、このエネルギーをどのようにして制御していたのだろうと、不思議で堪らなくなった。実際、アラン・ジンデルの才能は計り知れない。昔のアランを知っている人々が、その復帰を心待ちにしていた気持ちを、今になって正しく理解することができたのかもしれないと、希佐は思う。
スタジオで稽古をしていたときとは、明らかに違っていた。まるで天から降りてきた糸に操られる人形のような、無機質な完璧さは影を潜め、人間らしい体温を帯びた情熱を感じていた。
アラン・ジンデルは舞台を楽しんでいた。
それは絶対に、間違いない。
「私ね、思ったんだ」
「何を?」
「今の自分の年齢で舞台から離れたとして、もし三十歳になった頃に復帰をしてほしいと周りから頼まれたら、アランみたいにチャレンジできるのかなって」果たして同じことができるだろうかと考えたとき、即答はできないなと、希佐は思った。「正直、怖くてたまらないと思う。自分一人が失敗するならまだしも、仲間たちに迷惑を掛けるかもしれないと考えたら、そう簡単には頷けない」
希佐はもちろん、カオスの他の仲間たちも、たとえアランが失敗したとして、それを微塵も気には留めなかっただろう。カオスの舞台前、アランはいつだって「失敗してもいい」と声を掛けてくれていた。舞台は生き物。刹那的なものだからと。
だが、もし自分がアラン・ジンデルと同じ立場だったとしたら、怖くてたまらなかっただろうと、希佐は思う。失敗を酷く恐れたはずだ。周囲の期待に応えられず、仲間の顔に泥を塗り、観客を満足させられなかったとしたら──もう二度と、舞台には立てないほどの挫折を味わうことになるのかもしれない。
そうした恐怖の数々を、立花希佐はアラン・ジンデルに強要したのだ。
今回は成功したから良い──などという問題ではない。だが、希佐がこの問題について謝罪をしても、アランはそれを受け入れはしないだろう。これは自分が決めたことだと言い張るに決まっている。
「本当にすごいね、アランは」
「彼には休息が必要だったのよ」湿っぽいその一言を振り払うかのように、次ぐ声は明るかった。「ほら、冬眠していた熊みたいなものじゃないかしら。寒く凍えるような冬を超えて、麗らかな春を迎えるの」
季節は巡る。新人公演、夏、秋、冬、そして、ユニヴェール公演。ユニヴェール歌劇学校での三年間は、常に季節と共にあった。一年生が春、二年生が夏、三年生が秋──きっと、このロンドンでの活動の日々が、立花希佐にとっての長い長い冬だったのだ。だが、長かった冬はもう間もなく、終わりを迎えることになる。
舞台人としての立花希佐に、もう春は訪れない。
それでも、季節は巡る。巡り続ける。
この世界は、刹那的だからこそ、美しいのだろう。
化粧を落とし終え、先に衣装に着替えるよう指示された希佐は、自らの肌と同色のアンダーウェアを身につけ、衣装合わせのときはまだ未完成だったドレスを着せてもらった。やはり少し重たく感じられるものの、裾の調整は完璧で、確認したときのように踏んで破く心配はなさそうだった。
「どうかしら」
「大丈夫そうだよ」
「裾は? あれから少しだけ短くしてみたのだけれど」
「丁度いいと思う。今度は、踏んで破るようなことは──」
「そんな心配はしないのよ、キサ。あなたが転んで怪我をしなければそれでいいの。服は繕えばすぐに直るわ」姿見越しに見るダイアナの目の下には、薄化粧では隠しきれない隈が見て取れる。「ランウェイでプロのモデルが転べば、それは歩行困難な服を作ったデザイナーの責任。それと同じことよ。あなたが舞台上で転んで怪我をしたら、それは踊りにくい衣装をデザインした私の責任」
その言葉を否定すれば、ダイアナのデザイナーとしてのプライドを踏み躙るような気がして、希佐は何も言えずに口を噤んだ。すると、姿見越しに目の合ったダイアナは満足そうに微笑み、希佐を再び椅子に座らせた。
「ヘアとメイクも任せてね」
ダイアナはとても機嫌が良さそうではあったが、疲労感は隠しきれていない。それはそうだろう、アメリカから帰国してすぐにこのチャリティーの依頼が入り、それから休みもなく働いているのだ。報酬は発生すると聞いているが、ダイアナはスタッフに支払う以外は、全額寄付するつもりだと話していた。
「ダイアナ」
「ん、なあに?」
「今度一緒に甘いものでも食べに行かない? 私がご馳走するから」
「あら、デートのお誘い?」うん、と頷く希佐を見て、ダイアナは笑みを深くする。「まあ、嬉しい。実はね、久しぶりにCakes & Bubblesのチーズケーキを食べたいと思っていたところなのよ」
「ダイアナが前に連れて行ってくれたところ?」
「ええ」
「分かった。じゃあ、私が予約をしておくから、後で都合の良い日を教えて?」
「二人でデートなんて久しぶりね」
「レオも誘おうか?」
「やーよ」ダイアナは頭を左右に振り、ふふ、と笑った。「それとこれとは話が別なの。たまには二人だけで楽しみたいじゃない?」
三年前に出会って以降、ダイアナは希佐のことを、数えきれないほど何度もランチに誘い出してくれていた。当時の希佐の行動範囲は非常に狭く、スタジオと目的地を往復する以外は、いつも同じ場所に買い物に出掛けるだけで、特に見聞を広めたいとも思ってはいなかったのだ。だが、実際のところは、見聞を広めたいと思うだけの心身的な余裕がなかったと言った方が正しいのだろう。あの頃の希佐は、自分の身の回りのことをつつがなくこなすだけで、手一杯だった。
「この人、根っからの出不精だから、あなたをどこにも連れて行ってくれないでしょう?」
ダイアナはアランがいる目の前で、嫌味っぽくそう言っては、行ってくるわね、と言って希佐を連れ出してくれていた。
あの頃のアランは確かに出不精で、主にあの事件があって以降、希佐が在宅中は外出をしなくなった。二人でどこにも行かなかったわけではない。買い出しや、コインランドリーまで洗濯に行くことは度々あった。だが最近は、希佐が興味を持った場所や、アラン自身が見せたいと思った場所に連れて行ってくれる機会が増え、食材や日用品以外の買い物にも、よく連れ出してくれる。
お互い、心に余裕を持てるようになったのだと、希佐は思っていた。
「そういえば、今日は日本のお友達も観に来ているのよね?」
「お友達なんて恐れ多いよ。ユニヴェールの先輩方だから」
「だけど、どうして今になって? あなたが今日のことをお知らせしたの?」
「ううん。でも、根地先輩は元々レオのお知り合いだったみたい。亡くなったお父さんがレオのご友人だったって。フミさんはお仕事でいらしたそうだけれど、このイベントに合わせての渡英だったのかどうかは分からないな」
「もう一人来ているでしょ? ほら、線の細い」
「白田先輩は、こういう言い方はあれだけれど──無理に連れて来られたのかもしれない」希佐はそう言いながら、苦笑いを浮かべる。「二人だと気まずいからって」
「気まずい?」
「私は誰にも何も言わずに日本を発って、五年間も音信不通の状態だった。根地先輩とフミさんには──もちろん、他の先輩方にもだけれど、お二人には本当にお世話になったんだ。私のことを可愛がってくれていたんだと思う。だから、五年ぶりに会うとなると……」
「冷静ではいられない?」少なくとも昼間の根地は、希佐が知っていた根地黒門とは違う、冷静さを欠いた様子に思えた。「まあ、その先輩方の気持ちは分からないでもないわね。天塩に掛けて育てた子が、何も言わずに突然仕事をやめてしまって、他のブランドである程度の地位をもらって働いていた、みたいなものでしょ? 私にも経験あるもの」
「ダイアナはその子を恨んでいる?」
「まさか」ダイアナは希佐の問いに声を上げて笑った。「今の職場よりも好条件で働けて、責任ある仕事も与えてもらえる。お給料も増えるのよ。可愛がっていた子が正当な評価をされて、名のあるブランドに引き抜かれていくことは、喜びこそすれ、恨むなんてとんでもない。その子にとっても良い選択だったと思うわ。ただ、相談をして欲しかったとは今でも思ってる。そうすれば、この世界での上手な生き方なんかを教えてあげることができたでしょう? エンターテイメント界隈と同じくらい、こちらの業界もシビアだから。彼女はきっと苦労したでしょうね」
「相談……」
「あなたの先輩方も、一言相談して欲しかったとは思っているんじゃないかしら。あなたを信頼していたのに、その信頼を裏切られたと思ったかもしれない。でも、あなたの気持ちも分かるのよ。申し訳なさとか、迷惑を掛けられないとか、引き留められてしまうんじゃないかとか、色々と考えてしまうと思うもの。そうやって考えているうちに、自分でもどうしたらいいのか分からなくなって、時間に流されるまま、逃げるように去ってしまったのでしょうね」
ダイアナの言葉は優しい。だが、優しければ優しいほど、希佐の胸はちくちくと痛んだ。リオが言っていたように、演技でも怒ってもらえた方が、ずっと気が楽になるのだろう。しかし、希佐は自分の気を楽にすることも、許されることも望んではいない。この心の痛みは、永遠に感じ続けるべきものだからだ。たとえ世界中のすべての人々が許してくれたとしても、立花希佐だけは、立花希佐の罪を許してはいけない。
「あなたの先輩方は、あなたを怒ったり、ましてや恨んだりはしていないと思うの。ただ、ずっと心配はしていたはずよ。五年ぶりにあなたの顔を見た、今この瞬間もね。キサだって大人になったのだから、彼らの気持ちが分かるようになったんじゃないかしら」
「うん」
「よーくお話をなさい。時間は掛かるでしょうけれど、蟠りが解ければ、いつかはお互いに歩み寄れる日が来るわ」
「そうだね」徐々にサロメへと変貌を遂げていく自らの顔から目を伏せ、希佐は小さく息を吐き出した。「ありがとう、ダイアナ」
審判の日は、先延ばしにすればするほど、より恐怖心が強くなる。だから、心の片隅では、今のこの状況に安堵しているのだ。これでようやく、終わりに向かって歩き出すことができると。
劇団カオスと共演者たちとで温めた劇場の空気感はそのままに、舞台は進行していった。最後の出番が刻一刻と迫っている。衣装を身にまとい、化粧を施し、アクセサリーを身につけていくうちに、少しずつ、少しずつ、心がサロメに近づいていく。
このネックレスはつけたままでもいい──? アランから贈られたエメラルドに手を添えながらそう言えば、ダイアナは希佐の髪を整えながら、鏡越しにこくりと頷いた。
「そろそろ出番よ、サロメ」
衝立の向こう側から、クローディアの声が聞こえてくる。ふうと、今度は大きく息を一つ吐き出してから、希佐はゆっくりと立ち上がった。
心臓が、とくん、とくん、と穏やかに鼓動を打っている。アランと舞台上に立っていたときは、大波、小波、ゆらゆらと不安定な船に揺られているような気分だったというのに、今は凪いだ湖の上をたゆたう小舟にでも乗っているかのようだ。窓から見上げる空には、大きな満月がぽっかりと浮かんでいた。
「……」
神社の砂場にある滑り台を砂漠の山に見立て、二人、踊った夜のことを今も鮮明に覚えている。
あの日から、立花希佐の”演劇ごっこ”がはじまったのだ。そして、今もそのごっこ遊びは続いている。つらい現実から逃れるためにはじめたごっこ遊びは、長い年月を経ても尚、希佐の魂を現実から遠ざけるための手段になっていた。
母がいなくなったあの日からずっと、立花希佐は空想の中で生きてきたのだ。今も昔も、現実から逃れようと、必死に足掻き、もがいている。この空想の世界から目覚めてしまったら、きっと、そこには死が待ち構えているのだろう。だからこそ、目が覚めるより早く、愛する人に殺されることを願った。
母を失い、兄も失った。
父と二人きりの生活は無機質なものだった。
本当は、もういつ死んでもいいと思いながら、連綿と生き続けてきたのだ。一つの夜を超えるだけで、千年、万年もの日々を過ごすかのような苦痛を味わってきた。
そんな中で、希佐はユニヴェールという夢を見た。たった三年間の光り輝く、幻のような、勿体無い日々。一日一日が過ぎ去って、卒業の日が近づけば近づくほど、現実という名の絶望が、希佐の細い体を飲み込もうとした。希佐を照らすスポットライトの外側が、暗く、暗く、奈落の底へと落ちていった。
どうしたら自らの罪を償えるのだろうと夜毎考える毎日は、当時の希佐にとって、氷の台座の上で正座をし続ける苦行を受けているかのようだった。だが、そのうちに身も心もすっかり冷え切って、痛みどころか何も感じなくなり、すべてを捨て置いて逃げ出すという、最悪の決断を導き出させた。
今になって思えば、誰かに助けを求めれば良かったのだと、そんなふうに考えることができる。ダイアナが言ったように、誰かに相談すれば良かったのだ。自分一人で背負い込んだところで、絶対に解決など出来るはずのない問題なのに、何を勘違いしていたのだろう。
それでも、自分一人が消えれば、何もかもがなかったことになると、希佐はそう思いたかった。
だって、お母さんがいなくなっても、継希にぃがいなくなっても、この世界は当然のように回り続けるから。それならば、立花希佐という人間がいなくなっても、この世界は何も変わらずに存在し続けるはずだと、そう思いたかったのだ。
でも、自分の心の中にはいつだって、いなくなった母の面影を追い求める幼い希佐の姿がある。忽然と姿を消した兄に会いたいと思う希佐がいる。もうどちらの願いも叶わないと確信をしているのに、少なくとも、兄には会えるのではないかという、微かな希望を抱かずにはいられなかった。
人はそう容易く自らの過去を断ち切ることはできない。一人の人間の存在を、その生きた痕跡を、この世から消し去ることはできない。誰か一人の心の中に、その人の存在が留まり続ける限りは、決して忘れ去られることはない。
「さあ、いってらっしゃい」
そう言って送り出してくれるダイアナに「ありがとう」と言って微笑みかけ、希佐は衝立の外に足を踏み出す。その瞬間、それなりに騒がしかった控え室内が水を打ったようになった。自分の方を見つめる数々の眼差しを物ともせず、希佐はドアの前で待っているクローディアの方へと足を進める。
「ふうん」クローディアはサロメに扮した希佐の姿を、上から下まで舐めるように見遣り、口角を持ち上げた。「いいじゃない。素敵よ、サロメ」
「クローディアさんも。よくお似合いです、カルメン」
「それって褒め言葉なのかしら」
「もちろん」
数々の男性を翻弄し、魅了する女性、カルメン。衣装も豊満な胸元や細い腰を際立たせる仕上がりになっている。官能的ではあるが、強い女性の矜持を感じるのは、クローディアの佇まいが凛としているからだろう。
「じゃあ、お先に失礼」
「はい」
クローディアは緊張している様子など微塵も見せずに控え室を出ていく。出番はこのすぐ後だ。まずは『ハバネラ』を披露し、次いで『ジプシーの歌』へと続く。それが終われば希佐の出番だ。『七つのヴェールの踊り』を舞い、最後はクローディアの歌唱に合わせて第四場を演じ切る。
この構成が、チャリティーイベントの終幕を飾る演目として相応しいのか、という疑問の声はもちろん上がった。だが、クロエ・ルーの言葉には誰も逆らえなかったのだ。アランも後が煩いからと面倒臭そうに言うばかりで、クロエの提案に反論することはなかった。
グラスミアから戻って久しいが、アランとクロエが自分たちのことを話し合った様子はない。意外なことに、アランがそうした雰囲気を作ろうとしても、クロエが率先して逃げ出す素振りを見せるようなのだ。まともに話すこともできないのなら、歩み寄ろうとすること自体が無意味だと、アランは考えているらしい。
どうか、どうか、後悔などありませんように。
自分が父親との関係を断ち切れないように、アランも母親との因縁を断ち切れないというのなら、どうか良い方向へと進みますように。そのためならば、たとえどのようなことにだって力を貸したいと、希佐は思っていた。
クロエ・ルーの言葉に従い、サロメの『七つのヴェールの踊り』を踊るのも、その一環と言っても過言ではない。今度の舞台の成功が、二人の歩み寄りにほんの少しでも繋がるのであれば、それに貢献したいと思う。
だが、それだけが理由ではないのだ。
クロエ・ルーも、人の子の親であることには違いない。おかしな話だろう。希佐はあのクロエ・ルーにすら、母親の面影を見ている。母が生きていれば、丁度クロエと同じくらいの年齢だったはずだ。
男を魅了する歌声が舞台の方から聞こえてくる。小窓から見上げる空は、先ほどまでの雷雨が嘘だったかのように晴れ渡っていた。輪郭のはっきりとした満月が、地上を見下ろしている。
『……継希にぃ』
母と兄を思う喪失感はいつだって、希佐の表現の糧になる。思い出は常に色鮮やかだ。だがしかし、二人を思えば思うほどに、心を覆う闇は深くなる一方だった。
「キサ」一瞬、月が自分に向かって呼びかけてきたように感じて、希佐は思わず目を見開いた。「準備はできたの」
「……うん」七つのヴェールを見に纏い、準備は整った。「どう? 悪くない?」
「綺麗だ」
予想もしていなかった答えに目を丸くした希佐は、天上から地上に視線を戻す。アランは希佐を見下ろし、眩しそうに目を細めていた。
「でも、もう一つ足りない」
「え、足りない?」希佐は自らの体を見下ろして、衣装に手の平を這わせる。「何か忘れてる?」
「これ」
アランがそう言って差し出したのは、銀灰色の装飾具だった。鳥の羽や翼そのものがモチーフになっているようにも見受けられるが、遠目に観察すると竜の鱗のようにも見える。ところどころに、透明な緑の石を施された蓮の花の細工があった。
「モローのペリのデッサン」
ペリというのは、イランの神話に登場する妖精だ。姿は人間だが、背中に鳥のような翼が生えているとされている。モローは自らが描いたペリのデッサンから、花を持つサロメの着想を得たという話だ。
「俺は、実際に踊る君を見て、出現や刺青のサロメよりも、あのペリのデッサンの方が、君の想像するサロメに近いんじゃないかと思った。だから、ダイアナに俺が描いたデザイン画を渡して、それを髪飾りにしてもらった」
すぐに言葉が出てこなかったのは、その指摘が図星を指していたからだった。
希佐はモローが描く水彩や油彩のサロメよりも、モノトーンで描かれたペリの方に、より好感を持った。ペリはペルシアの妖精で、本来サロメとは何の関係もない。だがモローは、ヘロデ王の前で踊るサロメに、自らが描いたペリと似た花を持たせている。フランスの作曲家、ポール・デュカスのバレエ音楽『ラ・ペリ』でも、ペリは不老不死の花と言われる蓮の花を持っていた。エメラルドで飾られた、蓮の花だ。
私は、神秘的な性格を持った巫女のような、宗教的な魔術師のような人物にしたいと考えた──不吉な小鳥のように生を送り、あらゆる者を、天才や聖者までをも、その足元に踏みにじっていく──それが、モローの思い描くサロメの姿。
「気に入らなかった?」
「ううん、そうじゃない」どこか不安そうな面持ちを浮かべ、銀灰色の髪飾りを捧げるようにして持つアランの手の平の上に、希佐はそっと自らの手を重ねた。「この髪飾りはとても素敵だし、アランにはなんでもお見通しなんだなって思ったら、言葉を失くしてしまっただけ」
着けてと言って微笑めば、アランは希佐の髪にそっと触れ、傅く従者のように従順に、髪飾りを留め付けてくれた。それは魔法使いがあつらえた灰かぶり姫のガラスの靴のように、希佐の頭の丸みにぴたりと沿う完璧な仕上がりだった。
「似合う?」アランは小さく頷きながら、乱れた前髪を整えてくれる。「ありがとう」
自分はこれから、この優しい人に散々迷惑をかけることになるのだと、希佐は思った。アランだけではない、この国で出会った立花希佐に関わりのある大勢の人々も、当然迷惑を被ることになる。
五年前は、それが原因でユニヴェールから──日本からも、逃げ出してしまった。
逃げることは至極簡単だった。だがこれ以上、逃げ続けることを許してしまえば、その次の場所でも同じように、逃げる道を選択してしまう。罪は罪として認め、受け入れるべきだ。そして、心からの謝罪をする。そのあとは、自分の可能性を信じ、傍に置いてくれる人々のために、出来得る限りのことをするだけだ。
「あのね、アラン」
「なに」
「私にはね、四つ年の離れた兄がいるんだ」本当なら本番前に話すようなことではないのだろうが、アランは口を挟まず、黙って聞いてくれている。「継希っていうの」
「ツキ」
「そう。日本語では、月と同じ音の名前。兄の名前にはね、引き受けるとか、受け継ぐとか、そういう意味があるんだ。継希の希は、希佐の希と同じ字なんだよ。この漢字には、滅多にないとか、珍しいとか、そういう意味があるんだって」
そうして継希と希佐に、名前に込められた意味を教えてくれたのは、亡くなった母だった。ツキとキサ──至って真面目な顔をして、しりとりみたいだねと言った希佐を見て、二人が微笑ましそうに笑っていたことを覚えている。
「継希にぃもユニヴェール生だった。ユニヴェールの至宝なんて呼ばれていて、卒業後は母体の玉阪座で役者を続けていくはずだったのに、ある日突然いなくなってしまった。家族にも──私にさえ、何も言わずに」
「君と同じだ」
「そうだね」皮肉でもなんでもなく、ただ事実を突きつけられた希佐は、思わず苦笑いを浮かべてしまった。「継希にぃが今どこで何をしているのか、私は知らない。生きているのか、死んでいるのかも分からない」
分かっている。自分は、関わりのあった親しい間柄の人々に、かつての自分と同じ苦しみを味わせたのだと。だが、逃げ出すことは必ずしも悪なのだろうか。そうは思わないと、希佐は考える。今更言い訳をするつもりもないが、あのときの立花希佐にとっては、あれが最善策だったのだ。継希にも継希なりの理由があって、すべての人の前から姿を消したのだと、希佐は理解している。
「それでも、私にとって継希にぃは、いつだってはじまりの場所にいる大切な人なんだ。継希にぃが、私に演じることを教えてくれたから、私は今、ここにいるんだよ」
当時、演劇ごっこは悲しみから逃れるための手段の一つだった。時間が経過し、過去が薄らぎ、演劇ごっこは純粋に楽しむための遊びになった。本当に、本当に毎日が楽しかった。でも、幼馴染の世長創司郎が引っ越し、継希がユニヴェールに行ってしまうと、希佐の毎日は酷く退屈で、色褪せたものになったのだ。孤独は楽しかった頃の記憶を呼び寄せるが、現実はただ虚しく、空虚なものだった。継希の失踪を聞き、色を失った希佐の世界は、白と黒に染まった。
中座秋吏からユニヴェールに入れと言われ、再度始まった究極のごっこ遊びは、希佐の中にある現実をほんの少しだけ忘れさせたが、終わりの時間が近づくほどに、希佐の中の孤独を、一層色濃くさせていくばかりだった。
母はいない。兄もいない。仲間との信頼関係を築くように言われ、その通りにしてみせたが、それは嘘の上に成り立った偽りの結び付きだった。もう自分には頼れる人など誰もない。遠い異国の地で、たった一人、孤独に生きていかなければならないのだ──どん底の精神状態では、愚かにも、そんなふうにしか考えることができなかった。
だからだろうか、何もない自分に多くのものを与えてくれたアイルランドの人々の優しさが、心底身に染みた。イギリスで出会った人々には、いくら感謝してもし足りない。せめてもの誠意として、もう絶対に嘘は吐くまいと、希佐は心に決めたのだ。
その中でも、特にこの人は──アラン・ジンデルは、遠い異国の地で何者でもなくなり、自分の殻の中で縮こまっていた立花希佐を、舞台人に戻してくれた。自らのアイデンティティーに惑い、生きる意味や価値を見出せずにいた希佐に、救いの手を差し伸べてくれた。掛け値なしに、命の恩人だ。
「君はいつも月を見上げてた」
「うん」窓の外に見える月を見上げて、希佐は微笑む。「継希にぃが言ったの。亡くなった人は月に召されるんだって。そして、お月様の床で踊ったり、流れ星に合わせて歌ったり、毎日楽しく暮らしてるんだよって」
「誰か大切な人を亡くしたの」
「子供の頃にね」アランは、希佐の心根にうっすらと積もった雪に恐々と足跡を残しながら、ゆっくりと近づいてくるようだった。「お母さんが亡くなったの。私は、悲しくて、寂しくて、恋しくて、どうしようもなくつらかった。食べ物は喉を通らないし、夜も眠れない。部屋に閉じこもって、じっとしてた。そうしていれば、いずれお母さんのところに行けると分かってた」
自分は死にたかったのだろうと、希佐は思う。
あの頃から、周りの人々の悲しみや苦しみよりも、自分の感情を優先する人間だったのだ。そして、他者にも自分と同じ感情があることを思い出し、悔い改めようとする。しかし、結局は同じことの繰り返しだった。
自分はこの先も、自分の感情を優先するに違いない。そして、周りの人々を苦しめる。再びそれを悔いることはあっても、最後には、自分自身の心を重んじてしまうのだろう。
「大好きだったんだ。お母さんのことも、継希にぃのことも。でも、きっと継希にぃにも、もう会えないんだね。継希にぃもお母さんのことが大好きだったから、今頃はあの月の床の上で一緒に踊ったり、歌ったりして、毎日楽しく暮らしているのかな」
そう考えると、途端に月の世界が魅力的に思えてくる。もしかしたら、あの日の演劇ごっこのように、継希は月の王として君臨しているのかもしれない。今度は、兄弟の父親を石に変えて宮殿に飾るような暴君ではなく、慈悲深い眼差しで死者たちを見守る賢王でいてほしいと、希佐は思った。
もちろん、そんなおとぎ話を本気で信じているわけではない。ただ、そうであったらいいのにとは、本気で思っている。
「この世界ではときどき、思いもよらないことが起こる」アランは希佐の長い髪を手の平で一房だけ取り上げて、それを指の腹で愛おしそうに撫でた。「君の兄さんが生きていてくれたらいいと思う。でも、絶対に生きてるなんて上辺だけの言葉を掛けたくはない。下手な励ましを、君も望んではいないだろうから」
本当は、何年も前から──ユニヴェールに在学していた頃から、そんなふうに考えていた。継希にぃはもう、この世にはいないのかもしれないと。だが、それを現実として受け止める勇気が持てなかった。だから、継希はこの世界のどこかで生きているはずだという演劇ごっこを、希佐はたった一人きりで続けてきたのだ。
「でも、俺は幸か不幸か、一生会えないと思っていた母親と再会できた。父親が誰かも判明してる。この広い世界で──」
「世界は思っているほど広くはないよ、アラン」希佐がそう言って口を挟めば、アランはどこか困ったように笑い、僅かに首を傾ける。「私はここに至ってそれを強く痛感してる」
ここは日本から一万キロ近くも離れているというのに、五年が過ぎた今もまだ、断ち切ることのできない縁で繋がっている。高科の家はもう何年も前からロンドンの劇団とゆかりがあったし、根地黒門はレオナール・ゴダンと友人だったのだ。
立花希佐のことなど誰も、何も知らない場所に来られたと思っていた。だが、それはただの幻想に過ぎなかった。まるで導かれるようにしてこの地を訪れたのだ。ならばあとはもう、流れに身を任せることしかできない。
きっとそれが、舞台の神様のご意向なのだろうから。
「君が言うように、この世界が思っているほど広くはないのだとしたら、君の兄さんは君が考えているほど、遠くには行っていないのかもしれない」自身を見上げ、黙ったまま瞬くだけの希佐を見て、アランは続けた。「生きていても、亡くなっているのだとしても、その人を近くに感じるか、遠くに追いやるかは、キサの考え方次第だ」
「……そうかもしれないね」
でも、もし生きているのなら、なぜ連絡の一つもくれなかったのだろう──その疑問が思い浮かぶたびに、希佐はいつも暗い気持ちになっていた。連絡がなかったということは、既に死んでいるということなのではないか。そう何度も自問自答を繰り返してきた。だが、どこからも連絡がないということは、それこそ生きているという証明になるのではないか。
希佐の中には、生きていてほしいという純粋な願いと、死んでいるに違いないという、決して認めたくはないが限りなく現実的な思考が、常に同時に存在していた。この二つの思考を同時に存在させているからこそ、自らの頭の中で否定と肯定を繰り返すことで、平静を保っていられたのだ。
「お前ら、本番前に何を話し込んでやがるんだ?」二人で向き合ったまま黙り込んでいると、舞台袖の方からやって来たバージルが、呆れた口振りで言った。「キサ、すぐに出番だ。準備しろ」
「すぐに行く」
「しっかり締め括ってこいよ」
「うん、任せて」
希佐の心は相変わらず、鏡のように凪いだ湖の如く、穏やかに静まり返っていた。目を伏せ、ゆっくりと呼吸をしていると、大きな両手が希佐の頬を包み込む。
「キサ」
「なに?」
「君には舞台の上で輝いていてほしい」そっと目を開けば、誠実さを滲ませたアランの目が、希佐のことをじっと見つめていた。「だけど、君を見せ物にしたいわけじゃない」
「矛盾してるよ」
「……本当は、君を綺麗な箱の中に閉じ込めておきたいんだ」知ってる、と希佐が小さな声で応じると、アランは微かに笑う。「でも、君の才能は、人の目に研磨されてこそ光り輝く。だから、見せつけてやれ。度肝を抜いてこい。君の才能には、それだけの力がある」
不意に、懐かしい感情が蘇ってきた。
それは、三年前のあの事件の後、舞台に立つことが怖くなりかけていた希佐に向かって、アランが掛けてくれた言葉と同じものだった。あのときは電話越しだったが、今は、こんなにも近くにいてくれる。
それなのになぜ、妙な距離感を覚えるのだろう。
まるで、この手が今にも離されてしまいそうな、掛けられた梯子を外されてしまいそうな、そんな危うさを感じる。
「……」
いや、違う。
これは、アランの心が、自分から離れようとしているのではない。自分の心が──自分の中にいるサロメが距離を置きたがっているのだと、希佐は気づいた。月に惹かれるのも、母親のことを思い出すのも、全部が全部、サロメが影響している。
嗚呼、わたしのヨカナーン。
あなたの百合の花よりも白い肌、葡萄の房よりも黒々とした髪、象牙の刃を入れた柘榴の実のよりも赤赤しい唇──わたしは一体、この目で何を見ていたのだろうと、サロメは思った。
うっとりとした眼差しで自分を見上げる希佐を見て、アランは僅かに口角を持ち上げる。両方の頬を包み込む手の平を伝って、その体の身震いのようなものを、微かに感じ取った。
「その輝く瞼の下にある金色の目で、この私を見ないでくれ」
「あなたの声は、わたしの耳には音楽のように聞こえるの」
「私はお前の声を聞かない」アランの──ヨカナーンの親指の腹が、サロメの眦をゆるゆると撫で上げた。「私は、主の声にのみ、耳を傾ける」
「──個人的にこういう言い方は好かねぇが、あれは正真正銘のバケモンだな」
一度その身に衣装を纏えば、希佐は瞬く間に人格を入れ替えてしまう。
ダイアナは、立花希佐から別の誰かに変貌していく様を見るにつけ、ゾクゾクとするような興奮を覚えるのだと話していた。
「職業柄、大勢の女優をこの目で見たけれど、彼女たちとは別の意味で裏表のある子よね」
普段の立花希佐は常にフラットで、感情に大きな波風を立てない。笑うときは控えめに、喜ぶときは密やかに、泣くときは噛み締めて、怒るときはただ静かに怒る。だが、役をその身に下ろすと同時に、まるで人が変わったようにその目付きを変えるのだ。笑うときは腹の底から、喜ぶときは舞い上がって、泣くときは喚くように大声でしゃくりあげ、怒るときは地団駄を踏んで癇癪を起こす──普段の物静かな希佐の様子からは、到底想像もつかない姿に豹変する。
どこかに存在するかもしれない、自分とまったく同じ姿形をしている赤の他人──希佐は、自らに与えられた役をそのように表現した。
「ユニヴェールの先輩からの受け売りなんだけどね」
人はそういう役者を憑依型と呼ぶようだが、立花希佐の場合は、それとも違う。
希佐が演じる人物は、確かに生きている──そう感じる生々しさがあった。
たとえ立花希佐として許容できないことでも、演じる人物がそれを受け入れるのであれば、自らの価値観を変えてでも、舞台上ではそれを重んじることができる役者だ。演じる人物を、一人の人間として尊重している。
だからこそ、カオスの外では演出家と口論することも多かったようだ。役の言動にどうしても納得することができず、脚本家を説き伏せて、本を書き換えてくれないかと交渉したこともあったという。
「面倒臭い役者だよね」
「そう言われたの」
アランがそう聞き返すと、希佐はそうだとも違うとも言わず、曖昧に笑っていた。
与えられた役を掘り下げ、掘り下げ、これ以上は無理というところまで掘り下げた結果、彼女は絶対にこんなことは言わないと、そう思ったのだという。
脚本や演出に口出しをする役者を嫌う者は多い。アドリブもそうだ。一言一句違わずに脚本を読み上げ、一から十まで演出家の指示を忠実に守らなければならない舞台もある。
「根地先輩は──私が初めて出会った演出家兼脚本家は、役者の話に良く耳を傾けてくれる方だったから、それが当たり前というか、普通のことだと思っていたんだ。アランだって、脚本に役者の意見を反映させてくれるでしょう?」
アランは自分が書いた脚本にさほどの頓着がないのだ。書き直せと言われればいくらでも書き直すし、自分の手を離れたあとは、どれだけ改変されても文句はない。
設定や台詞をがちがちに固めてしまえば、演出をする方は楽だろう。だが、役者にもある程度の自由を与えてやった方が、やわらかい演技を見ることができるというのが、アランの考えだった。
しかしながら、自由すぎて困るという役者も中にはいる。むしろ、大半がそのように考えていることだろう。ト書きのない脚本は嫌われる。
『ほら、何かして見せてよ』
実際、こんなふうに言うことが、役者を最も困らせるはずなのだ。だがしかし、立花希佐はそういうときほど力を発揮する、特異な役者だった。何かをしろと言われ、即座に実行することができる。これは、簡単なことのようで、至極難しい。
突然のアクシデントに見舞われ、一人で舞台に向かえと言われたとき、まるで梯子を外されるかのような恐怖を覚えた。数えきれないほど立ってきたはずのあの舞台の床が、不思議と波打って感じられるほどの緊張感を覚えていた。
『ほら、早く』希佐はアランを舞台の方向に押しやりながら、挑発するような口振りで言った。『なに、自信がないの? 歌うとか、踊るとか、できるんでしょ? 時間がないから、早くして』
準備は出来ている。
必要なのは、覚悟だけだった。
一歩、一歩を踏み出す、足が重い。まるで水の底を歩かされているような息苦しさがあった。体の自由が効かないのに、奇妙な浮遊感を後頭部の辺りに感じていた。
大きく息を吸い込み、苦しみの中を這い上がる。そして、眩いほどのスポットライトを浴びたその瞬間、正しく呼吸する方法を思い出した。
先へ、先へと急ぎ足で進みたがるアランの意識を、希佐は後へ、後へと引っ張るようにして押し留めてくれていた。そして、アランに華を持たせようと、控え目に立ち回ろうとしているのが分かった。
「私はまだ出番があるから──」アランの指摘に、希佐は両手を後ろに隠したまま、にへらと笑った。「体力を温存しておかないと」
確かに体力を温存しておく必要はあるのだろうが、気を使われたというのが、本当のところだろう。今の希佐の体力は、バージルやイライアスに引けを取らない。その証拠に、アランが酸欠を起こして貧血で倒れても、連続で舞台に立っている希佐は、ほとんど息を乱してはいなかった。
舞台袖に立つ希佐の後ろ姿を、少し離れたところから見守っている。舞台の煌々とした光を前に立つその姿は、美しい形のシルエットを浮かび上がらせていた。七枚の薄いヴェールに覆われた体の線は酷く華奢で、一見心許なくも感じられるが、アランはこの頼り甲斐しかない背中を追いかけて、ここまでやって来た。
だが、まだもう少し、手が届かない。
希佐が一つ、また一つと秘密を打ち明けてくれる度に、心の距離は縮まっているはずだった。それなのに、こうして後ろからその姿を眺めていると、立花希佐という存在が、少しずつ遠退いていくような、そうした錯覚を覚えるのだ。
例えば今、この目の前に見える背中に向かって名前を呼びかけたところで、希佐は後ろを振り返りはしないだろう。今の彼女は、間違いなくサロメなのだ。
「俺は、自分以外の何かを演じられるタイプの役者じゃねぇからな。あと二十年くらい早くあいつと出会っていたら、今頃はイライアスみたいに嫉妬心を剥き出しにしてただろうよ」
「今は高みの見物?」
「俺も一度は通ってきた道だからなぁ」バージルはそう言って、ほんの少し前にイライアスがこっそり出ていった扉を横目に見やった。「全部を全部上手くやってのけようなんてのは本来間違った物の考え方で、実際問題一つか二つに絞った方が上手くいくなんてのは当然の話だろ。何か一つでも突出したものを持っていれば万々歳で、それ以上を求めるなんざ贅沢ってもんだ。まあ、お前さんやキサみたいに、なんでもかんでも持ってる連中には関係のねぇことなんだろうけど」
この世界には持つ者と持たざる者がいる。これらは相容れない存在で、相互理解を深めることはほぼほぼ不可能だ。分かったつもりになることはできても、本当の意味では理解し合えない。
「今のキサを見てると、昔のクロエを思い出すよ」
「は?」
「あからさまに不愉快そうな面しやがって」くくく、とバージルは低く笑う。「悪い意味じゃねぇ。ただ、危ういなとは思ってる。ここのところずっとな」
「なんで」
「あいつがバケモノじみてるからだよ」僅かに動いた顎の先が、希佐の後ろ姿を指した。「当時のクロエ・ルーはすげぇもんだった。演劇学校を卒業して暫くはフランスで活動していたらしいが、あいつは英語も堪能だからな、イギリスとアメリカにも活動の幅を広げた途端、爆発的な人気を得たんだ。あちこちの劇場を飛び回っていたかと思えば、立て続けに映画の出演も決まったりして、いくら働いても需要に供給が追いつかない状態だった。そりゃ場末の小劇場に逃げ込みもするだろうよ」
クロエはその小劇場で舞台を観劇後、バージルの控え室に押しかけてきて、自分と一緒に舞台に立たないかと、そう持ち掛けてきたという。もちろん、答えは否だったと知ってはいるが、何やら含みのある話振りだと思っていると、バージルはすぐに先を続けた。
「あいつからの誘いを蹴り飛ばしたら、なんて馬鹿なことをするんだって周りの連中は呆れ返ってた。せっかくのチャンスを棒に振る気かってな。まあ、言いたいことは分かる。あの女にほいほい着いていっていれば、今頃は俺もハリウッドスターだったかもしれねぇし」そんなもんに興味はねぇけど、と言って、バージルは小さく肩をすくめた。「クロエはただ探してたんだ」
「探して?」
「自分と同じ舞台に立つだけの値打ちがある役者をな」大きく息を吸い込んだのだろう、前にいる希佐の肩がゆっくりと上下する。「クロエ・ルーが舞台に姿を現せば、観客は全員あの女から目を逸せなくなる。主役そっちのけでな。だから、あいつが出演する舞台は一瞬にして崩壊する。映画だって同じだ。クロエ・ルーの出演作として銘打たれれば、あの女目的の連中がこぞって群がって、ストーリーが正当に評価されない。あいつが助演女優賞を受賞した作品は、作品賞や監督賞は受賞することがあっても、他の役者が俳優賞を受賞したことはねぇんだよ」
「やけに詳しいんだな」
「クロエが出演してる作品は全部観てる。あの女はいけ好かねぇが、役者としては認めざるを得ないからな」
自分も人のことは言えないと、アランは思う。クロエ・ルーがまだウエスト・エンドの舞台に立っていた頃は、牧師に隠れてこっそり溜め込んでいたアルバイト代を使い、劇場に足繁く通っていた。
クロエ・ルーは、役者としては唯一無二の存在だ。
「クロエは、キサも自分と同じ道を辿ることになるんじゃねぇかって、懸念してるんだ。キサがこのまま真っ直ぐに突っ走っていっちまったら、もう誰も追いつけなくなるって思ってるんだろうな。キサを舞台上で好き勝手に駆け回らせるつもりなら、周りもそれなりの面子で固めないと、自分の二の舞を演じることになる。だから、今度の舞台のキャスティングにはあれこれ口を挟むし、イライアスの伸び代にも目をかけてるんじゃねぇかと、俺は踏んでる」
このウエスト・エンドでのKISAの知名度は皆無にも等しい。そもそも劇団カオスはアンダーグラウンドな劇団だ。舞台演劇やミュージカルが好きでウエスト・エンドに足繁く通っているマニアを掴まえ、訊ねてみたところで、知っていると答える者はほとんどいないだろう。
だが、劇団カオスは舞台関係者たちの間では高く評価されている。金儲けのためではなく、主宰の趣味の範囲内で不定期に行われている公演は、上演回数が極端に少なく、人目に触れる機会は年に数度あるかないかという程度だ。その上、チケットの販売を一手に請け負っているメレディスは、客を選り好みしている。ヘスティアを贔屓にしている舞台関係者や、昔ながらの演劇仲間、気心の知れた常連客などを優先してチケットを売り捌いていれば、劇場にやって来るのは毎度馴染みの顔ばかりだった。
大々的な宣伝は何一つ行わない。ポスター一枚刷ったことがない。何か面白いことをしている劇団があるらしいぞ、という口コミの評判だけが、小さなコミュニティーの中で広がっていった。
まだ商業デビューを果たしていないKISAだが、舞台関係者の間でそこそこ知られた存在になっているのは、そのためだ。加えて、SNSでの動画の拡散が拍車をかけ、マスコミ関係者までもがKISAとコンタクトを取りたがっている。
「あの子が世界に見つかるのも、時間の問題でしょうね」
そう言ったクロエ・ルーの声が、今も耳の中にこびりついて離れずにいる。
希佐の才能が正当に評価されることは喜ばしいことだ。だが、アランはそれを手放しで喜ぶことができない。立花希佐のバックグラウンドを思えば尚のこと、そっとしておいてやってくれと、そう願ってしまう。
だが、あの女の言う通りだと、アランは思った。
もう隠してはおけない。彼女は自分の足で前に進む覚悟を決めたのだ。ならば自分はそれを見守り、支え、送り出してやることしかできない。
「だったら尚のこと」
「うん?」
「君があの役を引き受けるべきだと思うけど」
「それとこれとは話が別だろ」バージルは、はあ、と盛大にため息を吐く。「それに、あのグレアム・メイヒューが今更引き下がると思うか? さっきだってキサにちょっかい掛けられて、にっこにこだったじゃねぇか」
「やりようならいくらでもある」
「先に言っておくが、俺は金では動かねぇからな」
「知ってる」
「とはいえ、お前にはストーキングの前科があるからなぁ」
「何か策を練っておくよ」
「ま、健闘くらいは祈っておいてやるよ」
劇場内にはクローディアの光沢のある艶やかで瑞々しい歌声が響き渡っている。
自分と他人を比べる必要などないというのに、クローディアは幼い頃から、他人の粗を見つけては自らを安心させる、嫌な癖があった。いくら認識を改めろと忠告をしても聞く耳を持たず、未だに自分と他人を比べては、気持ちの浮き沈みを繰り返していた。心根の弱い部分を隠すために、虚勢を張り、強い自分を演じているのだ。
しかも、クローディアはその日の気分によって歌い方が少しずつ変わる。緊張しているときほど、ピッチが不安定になる。あの日、久しぶりに観に行った『トスカ』の舞台でも、レオナール・ゴダンが観に来ていると聞いて気分が高揚していたのだろう、高音のピッチが大きく乱れていた。
今日は何もかもが調子良く、上機嫌で歌っているように見える。
だが、希佐のサロメを目の当たりにしたあとも、今の状態を保ったまま歌い続けることができるだろうかと、アランはずっと危惧していた。本番を見据えて何度か合わせてはいたようだが、正直な話、希佐がどのようなサロメを演じて見せるのかは、その瞬間になってみなければ誰にも分からない。
希佐は今、舞台上で歌うカルメンの姿を、ただじっと眺めていた。
片時も目をそらそうとはしない。
あの女は──クロエ・ルーは、客席のどこかで、その瞬間を心から待ち焦がれているのだろう。
クローディアは良い役者だ。ただ、昔からメンタルが弱い。ロイヤルオペラからの誘いを断ったのも、心の弱さが原因だ。それなのにプライドだけは人一倍高いのだから厄介だとアランは思う。
なんとかしてやりたいという気持ちはあった。ただ、クローディアは自分に勝ち目がないと分かるや否や、あっという間に尻尾を巻いて逃げ出してしまうのだ。同じ舞台に立とうともしない。
クロエ・ルーが演じる『サロメ』を観たときだって、そうだった。まるで絶望の淵に立たされているような顔をして、その場所から一歩でも足を踏み外せば、そのまま真っ逆さまに落ちていってしまいそうだった。
人の自信というものは、泡沫の夢のように、一瞬にして消え去るものだ。
圧倒的な才能を目の当たりにしてしまえば、尚のこと。
それなのに、望んでしまう。この劇場にいるすべての人間を、完膚なきまでに打ちのめす姿を想像してしまう。本当は綺麗な箱の中に閉じ込めて、自分だけのものにしておきたいのに、今はそれ以上に、立花希佐の本気を見てみたいと、そう思ってしまうのだ。
『カルメン』は日本でも有名なオペラ作品だ。オペラを観劇する習慣のない日本人にとっても、前奏曲は耳馴染みのある旋律だろう。他にもハバネラ、ジプシーの歌、闘牛士の歌や花の歌など、物語のあらすじを知らない者でも、どこかで聞いたことくらいはあるに違いない。日本でも、歌劇の他、ミュージカルや日本舞踊などに書き換えられ、繰り返し上演されている。
今宵披露された曲目は、その中の『ハバネラ』と『ジプシーの歌』だ。玉阪座の舞台で比女を任される更文にとって、舞台上で高らかに歌う役者のちょっとした仕草や立ち居振る舞いは、非常に勉強になるものだった。なよなよとした妖艶さはなく、男性の助けなど必要としないような、勝ち気な姿が勇ましい。絵に描いたようなカルメンだ。後半のジプシーの歌では、後ろに三人のバックダンサーを従え、自らもフラメンコのステップを踏みながら舞い踊っていた。
「加斎とダンテ、大分印象が変わったな」
「そうですね」カルメンの後ろで踊る二人を見やりながら更文が漏らすと、美ツ騎が小さく同意した。「二人とも元から華のある生徒ではありましたけど」
外国の血が入っているダンテ軍平に比べ、海外で活躍するには没個性的と言わざるを得ない典型的な日本人体系の加斎中は、海外に出てから今まで、並々ならぬ苦労をしてきたに違いない。
『うちの加斎がブロードウェイで準主役の座を勝ち取ったぞ!』
深夜も深夜、草木も眠る丑三つ時に連絡をしてきたかと思えば、大層興奮した様子の海堂岳信が、そう嬉しそうに報告してきた日のことを鮮明に覚えている。
ユニヴェール卒業後、オニキス生は他の寮の生徒と比較すると、圧倒的に海外を目指す者が多かった。だが、海外での生活は思っていた以上につらいようで、一年や二年で日本に帰って来る者が後を絶たないという。
初から就労ビザを取得できればいいが、そうでなければユニヴェール時代に稼いだ貯金を切り崩したり、日本からの仕送りを受けながら活動をしていかなければならない。そうでなくとも、レッスンに通い、オーディションを受けながら働くのは、精神的、体力的にもつらいものがある。加斎やダンテは、海外で暮らしていた経験がある分、他の者よりも順応性は高いのだろうが、やはりそれでも、何事もなく順風満帆にやってきたということはないはずだった。
だが、苦労しているのは日本人の彼らばかりではない。今宵のステージには、多種多様な人種の舞台人がかわるがわるに現れては、己が才能を遺憾なく発揮していた。
膝の上で拳を握り締め、考える。
自分も負けてはいない。
自分だって同じように戦えるはずだ。
彼らに比べて劣っている部分など、そうありはしない。
更文は自らの闘争本能に火がつくのを感じていた。ここしばらくは感じたことがないほどの情熱を覚えていたのだ。どことなく無気力で、ただ時の流れるまま、自分がやるべきことを坦々とこなしていただけの日々に、恨み言を言いたくてたまらなくなる。時間を無駄に過ごしてきたつもりはない。芸は磨き続けてきた。だが、死に物狂いで目指すべき夢を、この数年は見ることも、追いかけることもしてこなかった。
毎日、毎日が、同じことの連続だった。
もしかしたら、朝から晩まで決まったルーティンを繰り返すだけの日々に、飽き飽きしていたのかもしれない。何年も同じ場所に留まり続け、同じような思考に縛られて、同じ夜を越え、同じ朝を迎える──性に合わないことをしてきた。
『更文、お前はもっと世界に目を向けろ。一度この日本を出て、見聞を広めるんだ。様々な文化に触れた分だけ、それはお前の芸の糧となる。お前は目が良いからな』
そう言った高科二千奥の言葉を思い出し、更文は僅かに口角を持ち上げる。
確かに、今宵の舞台を披露してきたダンサーやアーティストたちのレベルは高い。日本ではそうそうお目に掛かれないものを見せてもらったと思う。だが、どれもこれもが、更文の想像を超えるものではなかった。本場の空気感は異質に感じられはするが、きちんと呼吸をして向き合えば、萎縮するほどのものではない。
希佐とペアで踊っていた赤髪の見目麗しい男だって、技術的には拙い部分が目立った。タップダンスを踊っていたあの男ほど、洗練された印象は受けなかった。歌唱は自分の方が劣っているとしても、ダンスなら、自分の方がもっと上手く踊れると。自分の方がずっと、希佐のポテンシャルを引き出すことができると、更文は思う。
立花希佐は見るからに自らを抑制していた。自らが器となり、相手を引き立たせるために踊っているようにも見えた。タップダンスを踊っていたときほどの開放感は感じられなかった。
「……」
それなのに。
なんて美しいのだろうと、目を奪われると同時に、息をすることを忘れた。
タップダンスを踊っているときの少年のような輝きとは違う、今までに一度だって見たことのない、女性であることの意義や喜びを感じさせる光のようなものが、希佐の体から自信として放たれているように感じられた。
ダンスに必要なものは、技術だけではない。人の視線を奪うにはそれ以上に、人間としての魅力が物を言う。感動というものは必ずしも個々の技術力には付随しないのだ。目に見える真摯さや直向きさが、人の心を動かすこともある。
あのアラン・ジンデルという男と、共に踊る希佐には、不可思議な焦燥感のようなものがあった。それが観る者に刹那的な美しさを感じさせたのかもしれない。
あの男に腕を絡ませ、足を絡ませて踊る立花希佐は、まごうことなき女だった。更文がついぞ目にすることのなかった、女の顔をした立花希佐は、まるでこの世の幸いを見つめるかのような至幸の面差しを浮かべ、ただ一心にその男を見つめていた。
あれから五年が過ぎ去り、希佐はもう二十四歳だ。恋人の一人や二人いたところで、何ら不思議ではない。いつまでも自分のことだけを思い続けているはずだという考えは、ただの思い上がりであり、幻想に過ぎなかったということだ。更文だって、少女のような純朴さを保ったまま、希佐のことを待ち続けていたとは言い難かった。
ジプシーの歌が、最大限の盛り上がりを経て、終わりを迎える。
舞台は観客の拍手が止むのを待たずに暗転した。
そのとき、不意に、更文の脳裏に先程の希佐の様子が蘇ってきた。
「夜にはより良いステージをお見せします」
貼り付けたような笑みを浮かべ、丁寧に会釈をしてから踵を返したその背中は、酷く物言いたげだった。
確かに、いや間違いなく、良いステージだったとは思う。だがしかし、更文の期待をどこまでも凌駕するものであったかといえば、そこまでではなかった。開演前、非常に怯えた様子を窺わせていた美ツ騎の姿から、何かとんでもないことが起こるのではないかと用心していたが、それは杞憂だったのかもしれない。
その、ほんの一瞬生まれた心の油断が、仇となったのだろう。
まだ劇場内に拍手が残る中、カルメンの余韻を打ち消すように流れてきたのは、リヒャルト・シュトラウスが手掛けたオペラ『サロメ』の一曲だった。日本でも度々舞台作品の題材として取り上げられる古典戯曲で、確かこのイギリスでは、物語の背徳性が問題視され、百年ほど前まで上演が禁止されていたはずだ。その中でも、最も有名な楽曲が、この『七つのヴェールの踊り』だった。
冒頭の疾走感から一転、そろり、そろり、と足音もなく忍び寄る影のような旋律に合わせて、薄明かりの中に人影が現れる。その全身は羽衣のようなヴェールに覆われて、顔を見ることは叶わない。
だがしかし、一歩、また一歩と踏み出される足の爪先からは、前も後ろも分からない暗闇の中に足を踏み入れるかのような恐怖心と、まだ見ぬ世界に希望や憧れを抱くかのような高揚感──まるでバレリーナのように洗練された足の運びからは、恐怖や期待、そしてほんの少しの躊躇いが感じられた。そして何より、自らの上半身を覆っている、薄衣を捌くその身のこなしはまるで、東洋の舞の恥じらいを感じさせるものだった。
しゃんしゃん、しゃなり。
しゃなり、しゃなり。
意識の深い深い場所で、しゃんしゃん、と涼やかな鈴の音が鳴っている。
カルメンによって火照りを帯びた劇場内の空気が、サロメの足捌きに浄化され、少しずつ、少しずつ冷やされていく。同時に、更文は自らの肌の産毛が、ピリピリと微かな電気を帯びるような、奇妙な空気感を感じ取っていた。
辺りからは衣擦れの音は愚か、人間の息遣いすら聞こえてこない。水を打ったような静けさとは、このことを指すのだろうと、更文は思った。
主旋律がオーボエの音色からフルートの音色に切り替わった瞬間、はらり、と捨て去られたヴェールが、音もなく足元に落ちる。それでも、まだその素顔を見ることは叶わない。
それは、圧倒的な存在感。人の美醜は、器量の良し悪しでは決まらないのだということを、一瞬で理解させるその身の振る舞い。ほとんど暗闇に近い舞台上、月光のように淡いスポットライトだけを浴びて踊るその姿は、まるで月の女神のようだ。
「……継希、さん」
その名前が、思わず口をついて出た。
更文がユニヴェール歌劇学校に入学した時にはもう既に、立花継希はジャックエースに転向していた。だから、新人公演に向けてジャンヌの指導をしてくれたのは、当時継希のパートナー候補として上がっていた、ジャンヌの三年生だった。
だが、お家柄女性の身のこなしを熟知していた更文に、そのジャンヌが教えられることなど何もない。更文は早々に一対一での稽古を断り、個人稽古に努めていた。中には生意気な新入生に腹を立てる上級生もいたが、そんな時にも間を取り持ってくれたのは、他ならぬ立花継希その人だった。
「君はなんでも自分一人で出来ると思っているのだろうし、実際、自分一人でなんでも出来るのだろうけれど」ある日、夜遅くまで稽古場で踊っていた更文の元を訪れた継希が、そう声を掛けてきたことがあった。「それでも、舞台はクラス全員で力を合わせて作り上げていくものだから、君一人が突出した存在になってしまっては、何もかもが破綻してしまうんだよ」
更文はユニヴェールに馴れ合いに来たわけではなかった。
ユニヴェールは、日本中から同年代の才能に恵まれた子供たちが集められ、切磋琢磨する場所だと聞いていた。生徒を受け持つ教師陣も、日本や世界で活躍する舞台人や舞踏家、玉阪座に在籍していた役者など、超一流が取り揃えられている。だから、ユニヴェールに入学すれば、未だ知らない新しいことを多く学べると思っていた。
それに、ユニヴェールには負かし甲斐のある連中が大勢いて、そういう連中は往々にして、自分よりも劣っているものだと、当時の更文はそう思い込んでいた。長く伸びた鼻っ柱が、ぽっきりと折られることになるとは、思いもしていなかった。
「一年後、もう僕はここにはいない。きっと、君がこのクォーツを引っ張っていく存在になるのだろうね。だから、君には僕の背中をよく見ておいてほしいんだよ、フミ」
クォーツのジャンヌたちから学べることはないと判断した更文は、ロードナイトまで出向き、頭を下げてまで見学を申し入れたが、そこでも自らが思い描くジャンヌ像と出会うことはできなかった。頭の下げ損だったと思い、不貞腐れながらロードナイトの稽古場を後にしようとすると、同期の忍成司に呼び止められた。
「あなた、新人公演でクォーツのアルジャンヌを演じるのでしょう?」
骨格は間違いなく男だが、その立ち居振る舞いは紛れもなく女だった。一目見て、たおやかな人だと、そう思ったことを覚えている。
「わざわざロードナイトまで見学をしに来るなんて、意外と勉強熱心なのね。それとも、今のクォーツにはお手本になるようなジャンヌがいないのかしら」
「ここにも俺の手本になるようなジャンヌはいなかったけどな」
「あらあら、言ってくれるじゃない」司は口元を隠してくすくすと笑いながら、少しずつ距離を詰めてくる。「あなた、ユニヴェールそのものには大して興味がないのではない?」
「は?」
「多くの人は、自分の夢を叶えるために、ユニヴェールの門戸を潜る。まあ、中にはユニヴェールを数多くの選択肢の中の一つだとしか考えていない人もいるようだけれど──」あなたは後者のタイプかしらね、と言いながら、司は嫌味っぽく笑みを深めた。「ジャンヌについて学びたいのなら、ユニヴェールにもっと興味を持って、しっかりお勉強なさい。せっかくのお手本がすぐ目の前にいるのに、もったいないわよ」
何の後ろ盾もなく家を飛び出してきた更文にとっては、学びながら金を稼げて、実力によっては名声をも手に入れられるユニヴェールという環境が、ただただ都合が良かっただけのことだった。
だから、ユニヴェール歌劇についてはそこそこの知識しか持ち合わせていなかった上に、立花継希という絶対的ジャックエースが、過去にアルジャンヌを担っていたことすら、当時の更文は知らなかったのだ。ユニヴェール歌劇に憧れ──もとい、立花継希に憧れてユニヴェールを志してきた生徒にとってはあまりに当然のことすぎて、あえて継希がアルジャンヌであったことを口にする者がいなかったのだろう。
遅ればせながら、継希がアルジャンヌであったことを知った更文は、すぐに過去の公演映像を借り出し、それらを自室にこもって三日三晩鑑賞し続けた。それだけの衝撃が、当時の更文を襲っていた。
女形など見慣れている。何ら珍しいものでもなんでもない。それは更文の日常、体、命、魂に刻み込まれている、至って普通のことに過ぎないはずだった。それどころか、このユニヴェールにいる誰よりも上手く、女を演じられるという自負が、更文にはあった。
そこには、言い知れない敗北感が、冷たく横たわっていた。
物心が付く前から、扇を手に舞っていた。最初は褒められたくて。驚かせたくて。期待に応えたくて。そこにあるのは、純粋な幼心だった。まあるくて、あたたかく、つつけば腐る桃のようにやわらかい、純真無垢な思いだった。
だが、そのやわらかい心はいつしか、酸化した砂糖を纏うように硬化して、何者も寄せ付けなくなった。しかし、若さ故だろう、それはコツコツと軽く叩いただけで、いとも容易く崩れ去る。
立花継希と出会ったことで、高科更文の大伊達山よりも高かった矜持は、瞬く間に地に落ちた。ユニヴェールの裏山から比女彦神社へと続く長い長い階段を転がり落ちるかのように、転落していった。
たった二年。
されど、二年。
だがしかし、面白いと、そのときの更文は思った。敵愾心を剥き出しにして、そんなことは知ったことかと、叛骨根性を露わにすることができた。
立花継希が一年生の時のユニヴェール公演。青い衣装で舞台に立つその姿は、まるで花の精霊のような美しさがあった。まだ女性にはなりきっていない、かといって少女とも言い難い、微妙で美妙な年頃の女──絶対に手の届かない、高嶺の花。
だが同時に、これは自分の手本にはならないとも、更文は思った。この向こう側が透けて見えるような、風が吹けばどこまででも飛んでいきそうな、この世の儚さのすべてを体現するかのような演技は、今の自分には到底不可能だと。
役者にはタイプがある。
向き不向きというものがある。
どんな天才だろうと、絶対に演じられないものは存在する。
更文にとっては、それが、立花継希だった。
立花継希は完璧に高科更文を演じることができるだろう。なぜなら、継希は何者をも凌駕する華であると同時に、更文の器にもなることができたからだ。華を支える器は、華を深く理解していなければ、美しく立ち回ることはできない。
しかしながら、更文はついぞ継希の器になることは叶わなかった。あの人の隣で輝かせてもらうばかりだった。継希を理解したつもりになっていただけだった。
あれはたった一年の、まるで夢のような出来事。
自分はまだ十六歳の子供だったのだ──そんな言い訳は虚しいだけだと分かっていても、つい思ってしまう。もし今、立花継希と相見えることが出来たなら、あの頃とは違った関係を築けるのではないか。継希に寄り掛かるのではなく、今こそ本当の意味で隣に並んで、同じものをこの目に見ることができるのではないか、と。
だが、更文はようやく、あのときの立花継希を理解することができた。
目に焼きついて離れない、あの鮮烈な青。
あれは妹の──立花希佐の、模倣だったのだ。
目線、仕草、表情、どれを取っても、よく似ている。この世の美しさのすべてを掻き集め、その腕に抱きながら優雅に舞う姿は、成熟した女性とも、汚れを知らない少女ともつかないものだった。
しかし、確かに分かるのは、自分には立花継希を演じることが出来なかったように、立花希佐を演じることもまた不可能である、ということだ。
大きく、ゆっくりと、ヴェール越しの胸が深呼吸をするように上下する。
僅かに膝が曲がり、頭が斜に構えられた。
すっと伸びた指先に至るまで、踊り手の意識が宿っている。
息を吐ききり、ぴたり、と静止したその刹那の、美しさたるや。
「若」顔など見ずとも、東雲が唖然とした表情を浮かべているのが分かった。「あれって、高科の……」
西洋の舞の中に東洋の舞が入り混じる、斬新で異国的なダンスは、人々の目には新鮮に映っているはずだ。だが、ユニヴェール時代に更文から日本舞踊の手解きを受けていた希佐にとって、それは別段真新しいものでも何でもなかった。卒業した更文に代わり、公演の振り付けを行うようになった希佐のダンスにはいつも、どちらの要素も組み込まれていたからだ。
「……」
ゾッとする。身の毛がよだつ。心臓の鼓動は速まる一方だ。空気はヒリつき、息が詰まる。
以前から考えていたことがあった。立花継希はなぜ、ユニヴェール在学中に自らの家族のことについて、何も話したがらなかったのか。継希は最初から最後まで秘密主義を貫き通し、妹の存在を仄めかすことすらしなかった。
更文が本人から聞いていたのは、子供の頃に“みんな”で演劇ごっこをして遊んでいた、という程度のことだったと思う。クリスマスに玉阪の町でぬいぐるみを買っていたときも、大切な子に贈るものだと言うだけで、妹に贈るものだとは言わなかった。
なぜそこまで徹底して“妹”の存在を隠していたのか。
まるで、自分の妹がユニヴェールに入学することを予期していたかのようだと、そう思わずにはいられない。
入試で初めて希佐を見たとき、すぐに女だと分かった。介が言っていたように、継希に似ているとも思った。他の同期たちも、新人公演の舞台に立つ希佐の姿を見て、立花継希に似ていると、酷くざわついていたことを覚えている。
だが、誰も確証は持てなかった。
希佐自身は噂を肯定しなかったが、強く否定することもしなかった。対処の仕方としては大正解だったのだろう。疑念は残ったままだとしても、希佐は自らの才能と実力を見せつけ、周囲を黙らせることに成功したのだから。
立花継希の弟だろうが、妹だろうが、立花希佐の価値は何も変わらない──そう、思っていた。
一枚、また一枚と、ヴェールが脱ぎ捨てられていく。その度に、高科更文の知らない立花希佐が、一人、また一人と、姿を現しては、消えていく。
ユニヴェール劇場の客席から舞台に立つ希佐を見つめているとき、やはりどこまでも継希に似ていると、更文はそう思っていた。兄妹なのだから当然のことだろう。だが、そこに認識の齟齬が存在していたとしたら。
立花希佐が立花継希に似ているのではなく。
立花継希が立花希佐に似ていたのだとしたら。
二人に天賦の才があることは間違いない。稀代の天才だ。だが、古今東西の歴史を紐解いてみれば、長子よりも次子の方が才覚に恵まれ、大成することもある。高科の家もそうだ。兄よりも弟の方が優れていると評価された。
今となっては、継希と希佐、どちらの方がより優れているかを確かめる手立てはない。継希は失踪したまま戻らない。記憶の中の継希と、実態を持つ希佐を競わせることには、何の意味もない。
だが、更文の腸は今、ぐつぐつと煮えくり返っている。
それほどまでに、強い怒りにも似た、嫉妬心を覚えている。
あれは、厳密に言えば高科の舞ではない。アレンジが加えられている。しかし、間違いなく更文の舞だ。もう何年も前、しかし色褪せない記憶の中にある。ユニヴェール最後の夏合宿、あの舞殿で舞って見せた、奉納の舞──。
「早くフミさんの背中に追いつきたいです」玉阪座の公演を観に来た希佐を楽屋に通してやると、隅の方できちんと正座をして座り、しかし少しだけ居心地悪そうにしながらも、鏡越しに真っ直ぐ目を合わせて、そう言っていたことを思い出す。「見えたと思ったら、またすぐに見えなくなってしまうから」
あの頃は、自分自身の芸を磨くのと同時に、自分がこの子の道標になることが出来ればと、そんなふうに考えていた。
当然、玉阪座からの誘いは来るだろう。だが、ここはユニヴェールとはあまりにかけ離れている。一切の甘さのない、魔窟のような場所だ。更文のように立花希佐が女であることを一瞬で見破る者は大勢いるだろうし、もう既に女だと気づいている者もいるに違いない。そういう人間が大人しく口を噤んでいるのは、偏に立花希佐の才能を買っていたからなのだ。
更文は本気で、希佐が玉阪座に入門するのも一つの道だと、そう考えていた。
もちろん、玉阪座に入門する以上は、女であることを隠し続ける他ない。だが、玉阪座の理事は、立花希佐が女であるという真実を突きつけられたとしても、それを受け入れたはずだ。立花希佐が、玉阪座の利益になる逸材だと信じている以上、それを手放そうとは考えない。それに、希佐が玉阪座で役者を続けたいと言えば、中座秋吏はその後押しをするに決まっている。その方が、何かと都合がいいからだ。
立花希佐には、たとえどのような形であれ、役者として舞台に立ち続けていてほしかった。生涯女であることを隠し続けてでも、同じ舞台の上で、踊り続けていてほしかった。もしかしたら、そんな狂気の片鱗が、当時の更文からは滲み出ていたのかもしれない。
「……んなよ」
ふざけんなよ──そんな悪態が口を付いて出る。一体誰に対してのものなのか。強く握り締めた拳の内側に爪が食い込み、ちり、と痛んだ。
更文にとって立花継希は絶対的な存在だった。今も変わらず絶対に敵わない役者として君臨し続けている。自らが成長すればするほど、心の中に存在する立花継希はより大きな存在となって、未熟な更文を導いてくれているように感じていた。
だが、そんなものはただの幻想に過ぎない。指摘されるまでもなく、自分自身が誰よりも良く理解している。しかし、更文には心の支えが必要だったのだ。立花継希は本当の意味で人に頼ることを知り、寄り掛かることを覚え、信じることのできた、初めての人だったから。
それなのに、今この瞬間、更文はすべての認識が覆されるような衝撃を覚えていた。天と地が、裏と表が、ひっくり返る。白は黒に、黄は紫に、赤は緑に──当然だったものが、一瞬にして反転する。
サロメが最後の一枚のヴェールを脱ぎ捨てたその刹那、誰かが大きく息を呑んだ。いや、誰かではない。更文自身が、大きく息を呑んだのだ。あのときと同じ感覚──あの鮮烈な青よりも鮮やかな緑が、視界を染め上げる。
まるで裸だと見紛うほどの、月の光で折り上げたかのような薄布を纏い、艶やかに舞うその姿は、この世のものとは思えない、禍々しい美しさがあった。不思議と官能性は感じない。だが、純粋な少女の殻を被ったその内側には、恐ろしい魔物が潜んでいる。微笑むようにやわらかく細められたその目の奥には、ひんやりと冷たい狂気が滲んでいる。
狂気をも殺す狂気。
瞬間、大きく膨れ上がった怒りにも似た嫉妬心が、萎縮するのが分かった。
ゆらゆら、ゆらゆらと、人の心を惑わす妖精のように、サロメは舞う。そのあまりの美しさに、見た者は皆石にされ、指の先すら動かすことができない。喉元を掻きむしりたくなるような息苦しさ。だが、この腕を持ち上げることすらできないのだ。脳が自らに下す命令は、あっという間に書き換えられてしまう。
呼吸を、瞬きをせず、ただじっと舞台で舞う華だけを見つめていれば良い──そうして、息の根が止まるのを待っていれば良い──。
そのとき、ふと、手首の辺りに何かが触るのを感じた。熱に浮かされるような感覚から我に返り、脳に命令を送って静かに腕を持ち上げる。大きく広げた指先のその向こう、この手の平で握り潰せそうなほど小さな体が、音楽の終焉と共に舞を治めた。
痛いくらいの静寂の中、その女性は大きく深呼吸をするように息を吸い、ゆっくりと吐き出している。
「──Brava!」
観客のほとんどが唖然としているなか、舞台が暗転すると同時に、劇場の後ろからそう叫ぶ女性の声が聞こえてきた。すると、最初はまばらだった拍手が徐々に大きくなり、劇場中を唸らせるような振動に変わる。
「……あれが」暗黒のような舞台を見遣りながら、震える声で美ツ騎が呟いた。「あれが立花、なんですね……」
78期最後のユニヴェール公演で、立花希佐はアルジャンヌを演じた。有終の美を飾るに相応しい名演だった。ユニヴェール始まって以来の最高のアルジャンヌ──稀代のアルジャンヌと呼ばれるに相応しい、三年間の集大成が見て取れた。
まるで本物の女性のようだ──それは、立花希佐にしてみれば褒め言葉でも何でもなかったことだろう。事実、立花希佐は女性だった。生まれたときから今この瞬間まで、男性であったことは一度もない。
立花希佐は、何枚ものヴェールでその身を隠したまま、舞台上で演じ続けていた。
ジャック、ジャンヌ、アルジャンヌ──それどころか、一人の生徒としてユニヴェールで暮らしてきた、その一瞬一瞬ですら、ヴェールで素顔を覆い隠していた。
誰も、立花希佐の本当の顔を知らなかった。一番近くにいることを許されていた──そう思っていた高科更文ですら、本当の立花希佐を知らなかった。
『ユニヴェールは私の夢なんです』
ユニヴェールは希佐に三年間の短い夢を与えたが、その代わりに、自由を奪った。短い夢の代償は、立花希佐の夢そのもの──舞台上で演じ、歌い、踊り続けることを取り上げることなのだろうと、そう思っていた。真実、立花希佐はユニヴェールを離れると同時に、表舞台から跡形もなく姿を消した。その足取りを、消息を追えた者は、誰一人としていなかった。
心の片隅──いや、心の真ん中にはいつも、立花希佐を思う気持ちがあった。それは、自らの舞を変化させるほどの、強い思いだった。だが、今思えばその大部分は、憐れむような気持ちだったのかもしれない。三年間、自分ではどうすることもできない秘密という重荷を背負い、その積荷を下ろすことも許されないまま、逃げ出さずにはいられなかった重責は、いかほどのものだったのだろうかと。
かわいそうに。
そう、ただ純粋に同情した。
あんなにも舞台で演じることが、歌うことが、踊ることが、この世のすべての幸いだと信じて疑わなかったような子が、それを諦めざるを得ない状況下に追いやられたのだと。羽をもがれるどころの話ではない。四肢を引き裂かれるような思いだったに違いないと、そんなふうに思い、心の底から同情していた。
あのまま舞台人としての研鑽を積んでいれば、どんなにか素晴らしい役者になっていたことだろう。共により高みを目指し、どこまでも競い合うことのできる、好敵手となれたかもしれない。いつまでも、いつまでも、自分の背中を追いかけ続けてくれる、自分が走り続けるに足る理由を与えてくれる、最高のパートナーになれたのかもしれない。
だが、目の前にあるこれが現実なのだと、更文は思い知らされる。美ツ騎の言う通り、これが、立花希佐なのだ。黒門が酷く憤っていた意味を、今ならば幾ばくか理解することができるような気がする。
糾弾すればよかった。ユニヴェールの入試会場で、場違いな女の子の姿をこの目で認めたときに。面白そうなどと思わなければよかった。なんで女がこんなところに紛れ込んでいるのだと言って、即刻摘み出していればよかったのだ──そんな、本心とは程遠い思いが、ほんの一瞬でも脳裏を過ってしまうほどには、筆舌に尽くし難い敗北感を味わっていた。
「……俺だって」
遊んでいたつもりは微塵もねーんだけどな──更文は、負け惜しみのような言葉を心の中で吐き出した。
あの子に恥じることもないように。胸を張って再会できるように。そして、再会した暁には、まだまだあなたの背中は遠いようだと、そう言ってもらえるように。
決して、努力を惜しまなかった。
だが、それでも足りなかった。
この五年間、過去の幻影に囚われ、それと共に舞い続けてきた自分と、過去を置き去りにし、その上、美しいものとして昇華することを選んだ希佐との間には、雲泥の差がある。高科の舞を──たった一度、あの舞殿で舞っただけの演舞を、まるで自分のもののようにして舞うその姿は、あまりに、あまりに、屈辱的で。
それを美しいと、心を奪われてしまった自分に、心底、心底、腹が立った。
その女は劇場全体を呑み込む怪物だった。バージルもその餌食となった一人だ。
人に連れられて観劇に行った舞台で、バージルは世にも美しい化け物を目の当たりにした。ほんの一瞬で、今の自分では到底太刀打ちできないことを悟った。
どんな役者も、その女の隣に立つと存在が霞む。
あまりに魅力的すぎる人間は、本人の意思とは関係なく、煌びやかな光を放つものだ。俗に言うオーラというものを消すことができない。生まれながらにして主人公──そういう人間は往々にして、脇役に徹することが難しい。
この業界では、常に舞台の真ん中に立ち続ける役者よりも、脇役として舞台に華を添え続ける役者の方が、基本的には息が長い。永遠に旬な役者で居続けることはほぼ不可能だ。いつも同じ顔ばかりでは、観る方も飽きが早くなる。
だが、稀にいるのだ。何年も何年も第一線に立ち続け、次から次へと舞台を飛び回る、化け物のような役者が。
エンターテイメントの世界に限ったことではないが、元来流行というものは何者かの手によって作られるものだ。売り出したいもの──例えば、舞台、映画、もっと直接的な物言いをすれば、人間だろうが何だろうが、プロモーションに金を掛けさえすれば、いくらでも流行りを作り出すことができる。要は、人の目に触れる機会を増やすことが重要なのだ。今話題の、今人気の、今注目の、などと言った言葉で巧みに心理操作を行う。実際の人気や話題性は問題ではない。本来注目など浴びてはいなくても、公の場で声高に売り出すだけで、民衆は簡単に錯覚を起こし、騙されるのだ。
とは言っても、その後の人気が持続するかしないかは本人の魅力と努力次第で、大抵の場合は、ほんの数年で存在を忘れ去られることになる。
バージルは、そうして搾取される若い役者を大勢見てきた。役者なんて生き物は、大抵の場合、いくらでも替えが利くと思われている。エンターテイメントに対して、湯水のように大枚を叩ける時代は、とうに終焉を迎えているのだ。
さみしいもんだよな、まったく──バージルは、豪奢な衣装を着て舞い踊る希佐の姿を袖から眺めながら、大きく息を吐き出した。
今は誰もが手にしている文明の利器、四角い小さな画面の中で、膨大な量の娯楽が正しく消費されることはなく、ただ無慈悲に浪費され続けている。映画は倍速で再生され、下手をすればエンディングまでシークバーを飛ばされる。
映画は映画館に観に行くものという常識が覆されたこの世界にとって、舞台芸術は古き良き時代の娯楽に過ぎないのかもしれない。舞台を愛する者と、そうでない者の溝は、年々深くなっているように思う。
だが、そんな時代にあっても尚、クロエ・ルーという女優は、舞台に興味のなかった大勢の人々の足を、劇場に向かわせた。
フランスの演劇学校を首席で卒業し、その才能を遺憾なく発揮していた若く美しい女優は、あっという間に世界中の人々の心を鷲掴みにした。まるで往年の大女優のような華々しいオーラを持ちながら、そのどことなく妖艶な容姿とは裏腹に、少女のようなあどけなさすら感じられる神秘性が、人々の心を惹きつけて止まなかった。
若かりし頃のクロエ・ルーは、文字通り、金のなる木だったのだ。
「私はただ、見返してやりたかったのよ」酒の席で偶然隣り合わせたとき、クロエは煙草の煙を燻らせながら、そんなふうに言っていたことがあった。「見返してやりたい男がいたの──まあ、その男は見るも無惨に落ちぶれてしまっていたのだけれど」
悪い大人たちはクロエ・ルーを利用して儲けに儲けた。クロエ・ルーは作られた流行という舞台の上で、歌い、踊り、演じ続けていた。だが、それは彼女自身も承知の上だったのだろう。
「睡眠時間を削って馬車馬のように働いた。お酒を毎日浴びるように飲んで、こうして煙草だって吸っているのに、神様は私を殺してくださらないの」
「何だお前、死にたいのか?」
「ええ、そう」ふふ、と微笑んだその顔には、少女のような無邪気さがあった。「だけど、死ぬのって簡単じゃないのよね」
だが、クロエ・ルーはある日突然、二十年以上所属していた事務所を辞めた。クロエ・ルーを商品化し、使役し続け、骨の髄まで搾取しようとしていた事務所が、金のなる木を伐採したのだ。
ヘスティアのカウンター席で、しっぽりと酒を舐めていたクロエの背中を見つけたバージルは、いつもなら避ける隣の席に腰を下ろし、同じものを注文した。馬鹿高い酒だ。今はもう閉鎖した蒸留所のもので、酷く濃い色のウイスキーだった。
「あら、あなたから擦り寄ってくるなんて珍しいこと」
「お前の奢りな」
「あなたにならいくらでも」
昔からこの女のことが嫌いだった。
ふらふらしている自分とは違い、常に真っ直ぐ芯が通っていて、脇目も振らずに突き進んでいく。一度信じたものは決して疑わず、自分が正しいと確信した道を逸れることなく、ただただ一人で前へ、前へと進んでいく。周りにいる人間のことなど、波止場程度にしか思っていないのだ。ときどきこうして羽を休めたら、再び一人で大海原に漕ぎ出していく。
この女には、あたたかさがない。
人情というものが感じられない。
「事務所、辞めたんだって?」
「ええ」
「どうやって辞めたんだ?」空気を読んだのだろう、メレディスはバージルの前にグラスを置くと、軽く会釈をしてその場を離れていった。「連中が無条件でお前を手放すとは思えねぇからな」
「条件なんてないわ。ただ辞めたのよ。十分に稼がせて差し上げたもの、そろそろ自由にさせてとお願いをしたの。それだけよ」
「ゴシップになんて書かれてるか知ってるか?」
「あなたでもあんな俗っぽいものを読んだりするのね」
二十年前から今日に至るまで、一番の稼ぎ頭だった女優を何の前触れもなく失った事務所は、それが円滑な別れであったことを強調した。クロエ・ルーは自身のSNSで『任期満了』とだけ書き、事務所を離れたことについては多くを語らなかった。
だが、ゴシップ誌やネットのライターは、あることないこと好き勝手に書き散らかすばかりで、事実確認すら行わない。バージルが目を通した記事の多くは、金銭的な問題や色恋沙汰を指摘するものが多かったが、きっとどれも的外れな話なのだろうとは思っていた。
「好きに書けばいいのよ。辞めた理由なんて何だっていいのだもの。私にとって重要なのは、辞められたという事実だけ。おかげさまで、今は自由を満喫しているところよ。一週間くらいお休みしたら、また馬車馬のように働くわ」
「なんだよ、もっと休んだらいいじゃねぇか」
「メレディスと同じことを言うのね」グラスの中で溶けた氷が、からん、と儚い音を立てた。「私から仕事を取り上げたら、一体何が残るというの?」
「俺も昔は同じように思ってたよ」
グラスを口元に運び、ほんの僅かに流し込んだウイスキーは、今までに飲んだどのウイスキーよりも良い香りがした。
「仕事以外にも趣味を見つけねぇとな」
「趣味?」
「何かないのか?」
「よく分からないわ」
「お前、旅行が好きだって言ってただろ」
「旅行は趣味と言えるのかしら」
「趣味じゃなかったら何なんだよ」
「気分転換よ」
「趣味と気分転換は何が違う?」
「私、ぼーっとするのが好きなの」
「へえ、そりゃ意外だ」
「旅行に行ったところで別荘やホテルから外に出ることはないわ」
「贅沢なことで」
「私、仕事のために生きているのね」まるで、たった今その事実を知り、受け入れた者のような顔をしてから、クロエはにっこりと晴れやかに笑った。「それって最高の人生じゃない?」
踊ることがこの世のすべてだった。それ以外には何もいらないと思えるほどに。だがしかし、それを失ってはじめて、自らの無力さを思い知ることになった。踊ること以外に能のなかったバージルは、更なる深淵、深みへとはまっていくことになったのだ。バージル自身が、踊れる自分自身にしか、価値を見出していなかった。
「お前、大病でも患って仕事ができなくなったらどうするんだ?」
「そんなの決まっているじゃないの」何を分かり切ったことを聞くのだという顔をして、クロエはからからと笑った。「死に際は弁えているつもりよ」
それは間違いなくクロエ・ルーの本心だったのだろう。
四十年も生きていれば、人生もそろそろ折り返しだ。若い頃は生きることに精一杯だったが、今はときどき、死ぬ準備について考えを巡らせることがある。
なぜ表舞台に戻らないのか──バージルは、そんなふうなことをよく聞かれる。ありがたいことに、ブロードウェイの知人からは今すぐ戻って来いと声を掛けられているし、このウエスト・エンドでも、新しい仕事の話は次々と舞い込んできていた。
一体何のために舞台に立つというのか。今のバージルには、舞台に立ちたいと思うだけの動機がない。昔はあんなにも燃え滾るような情熱を持っていたというのに、今となっては、そんな情熱はただの消し炭となってしまった。
もちろん、カオスの舞台は別だ。
気の置けない仲間たちと舞台に立つことは何よりも楽しい。収益を得るための舞台ではないからこその楽しみがある。それだけに、他所の舞台に立つならば、同じくらい楽しめなければ意味がないと、そう思ってしまうのだ。バージルは、劇団カオスの舞台と同じ質を、他所の舞台にも求めてしまっている。
金になるだけの仕事に興味はない。
楽しくなければ意味がない。
我ながら青臭いことを言っていると、バージルは思う。だが、それが表舞台に復帰しない、一番の理由だ。
「あなたもまだまだ坊やなのね」
空きっ腹に強い酒を流し込んだのが良くなかったのだろう、酔いに任せてよく喋ってしまったバージルの話を最後まで聞き終えると、クロエは目を細めて笑った。
「そりゃ、あんたに比べれば、俺もまだまだ坊やだろうよ」
「ほんの七歳しか違わないのに?」
「お前が先に言い出したんだろうが……」
店に入ってすぐにその背中を見つけたとき、どこか気分が沈んでいるように見えたクロエだったが、店を出る頃にはすっかり普段の調子を取り戻していた。眉を顰めるバージルを見て愉快そうに笑う様子は、無邪気すぎて、邪気を感じるくらいだった。
「ねえ、今夜は私のお部屋に泊まっていかない?」
自分がタクシーで帰るついでにホテルの前まで送ってやっていると、隣に座ったクロエの腕が、バージルの腕に艶めかしく絡みついてくる。
「今頃になって酔いでも回ってきたのか?」肩口に頬を寄せ、潤んだ目でこちらを見つめてくるクロエを見下ろし、バージルは呆れたように息を吐いた。「悪いけど、家に女を待たせてるんだ」
「……あなた、良い人がいたの?」
「なんだよ、その意外そうな顔は」本当に驚いたという顔をしているクロエの表情を見て、バージルは思わず吹き出してしまった。「犬だよ、犬」
「まあ、それはいけないわね」
だったら早く帰ってあげないと──そう言ったクロエは、絡めていた腕をすんなり解いた。離れていくクロエの髪からは、ほのかに甘みを感じる匂いが香った。
「どんな子なの?」
「ボーダーコリーだよ。かわいい上に気立もいいやつでな、器量良しの美人だ。毎朝俺を叩き起こしてくれるし、ランニングにも付き合ってくれる。俺がシャワーを浴びている間は、バスルームの外で待っていてくれるんだ。そうそう、たまにダンスの振り付けの手伝いもしてくれて、それが結構良い線いってる」
「愛しているのね」
「今のところは俺の唯一の女だよ」
「妬けるわ」
「心にもねぇことを言うな」
「あら、私は気の強い女と心優しい男が大好きなのよ。私の物差しで測れば、あなたは十分過ぎるくらいに優しいわ。いつもなら私の姿を見るなり嫌な顔をして逃げ出すのに、今日は自分から話し掛けてきてくれたじゃない」
「ただの気まぐれだ」
「あなたにとってはただの気まぐれだったとしても、私は嬉しかったのよ」渋滞のせいでなかなか進まないタクシーの中、クロエは疲れた様子で大きく息を吐き出すと、バージルの肩にもたれ掛かってくる。「ホテルまで少し休ませて」
「こういうことはメレディスにしてやれよ。男の心を弄びやがって、本当に嫌な女だな、お前は」
「だって、あの子にはこんな姿を見せられないじゃない」
「俺には見せられるのか」
「あなたは私を嫌いだもの、どんな姿を見せたって恥ずかしくないわ。それに私、本命にはシャイなのよ」
バージルがクロエを気に入らないのは、決して本心を見せようとしないからだ。嘘吐きと言っているのではない。いつだって本当のことしか言わないが、最も重要な真意を軽い言葉で包み込んで、誰にも見せようとしないところが、どうしようもなく気に入らなかった。
「私の気持ちは、あの頃から何一つ変わっていないわ、バージル」ただ、あの夜だけは間違いなく、女優の殻を剥いだ一人の女の本心を聞いたのだと、バージルは信じている。「私はただ、あなたと一緒にお仕事をしてみたかっただけ」
うっかりしたら、何となくその場の雰囲気に絆されて、一夜の過ちを犯していただろう。あのときの二人には、そういう空気感があった。もしハンナをヘレンに預けていたら、そのままホテルに連れて行かれて、男女の仲になっていたのかもしれない。
だが、そんなことにはならなかった。バージルはホテルでクロエを下ろすと、そのまま帰路についた。何事もなく帰宅すれば、ハンナはエレベーターの前で待ち構えていて、いつもより念入りに匂いを嗅ぎ、不愉快そうに鼻で息を吐いてから、そっぽを向いて行ってしまった。
「ごめん。悪かったよ、ハンナ。これには深い事情があってだな──」
ハンナは人間の女に不信感を持っているようで、女性には懐きにくい犬だった。保護施設の職員の話では、昔の飼い主に虐待を受けていて、それが女だったという。今はよく懐いているペットシッターのヘレンが相手でも、当初は警戒心を剥き出しにしていたくらいだ。最初から無条件に受け入れられた女は、希佐がはじめてだった。犬の目から見ても、立花希佐は中性的な存在に感じられたのかもしれない。
アランにも話した通り、立花希佐とクロエ・ルーは良く似ていると、バージルは考えていた。舞台の袖に立ち、観る者によっては情緒を滅茶苦茶に乱されそうな舞を踊る、その姿を目の当たりにしただけで、あの日の夜のことを思い出してしまった。
女を全面的に押し出しているのに、一切の艶めかしさが感じられない。まるで少女のように純朴なのに、毒々しい毒牙を感じる。あの眼差しを正面から受け止めれば、そのまま琥珀色の目の底まで落ちていって、囚われ、抜け出せなくなるのではないか──あの、湖の底を覗き込むような青を見たときと、同じように。
悪意の有無が二人を相反する存在であると証明してくれる。むしろ悪意などない者の方が、実は恐ろしいのかもしれない。
いつの間にか、生温かい肉塊の中に誘われ、揺蕩い、気付けば支配されている。そんなことが無意識のうちに行われている。酷く心地が良いのに、体の芯から凍えていくような感覚があるのだ。それを観る者の立場や精神状態によって、感じ方があまりに違う。舞台上で何かを演じる立花希佐には、そんな恐ろしさがあった。
クロエ・ルーはいつまで経っても夢見がちな少女のままだ。
だが、立花希佐はそうではない。夢見ることを願いながらも、いつだって現実に追われ、真実に脅かされ、ついに、それと向き合う覚悟を決めた。
二人はただ似ているだけで、本質的な部分はまるで違う。
立花希佐は、クロエ・ルーがいくら欲しても持ち得なかったものを、確かに持っている。だからこそ、クロエは希佐を気に入ったのだろう。自らの後継者にしたいと、そう願うほどに。
バージルは今まさに、劇場全体を呑み込む怪物を目の当たりにしている。世にも美しい化け物だ。だが、あれから二十年近くの時が過ぎ、この俺の度肝を抜こうなんざ十年早い、などと内心で嘯けるほどには成長している。
どんな役者も、この女の隣に立つと存在が霞む。そうだとしても、絶対に自分は、この女以上の存在感を発揮できるという自負が、バージルにはある。
「あんなに感情を剥き出しにして踊っていたやつが、感覚で踊ることまで覚えやがって」
環境は人を変える──立花希佐は、それを体現している。
この三年間、イライアスの地道な指導が希佐のダンスの基礎を支え、上達を手助けしてきた。
希佐はバージルをダンスの師と仰いでいるが、それはタップダンスに限ってのことで、基本的にそれ以外には関与していない。競技ダンスの教室を紹介したのはバージルだが、今も通い続けているのは希佐自身の選択だ。元パリ・オペラ座バレエ団のエトワールから教わる機会を得てからは、体つきからして如実に変わってきている。あのルイから、あと二十年早く出会いたかったと言われるほどの才能がどれほどのものか、気にも留めていないのは本人ばかりだ。
だが、最も褒められるべきは、弛まぬ努力を続けてきた希佐自身なのだろう。いくら実力のある指導者が付いたところで、本人に向上心がなければ、ここまでの成長は見込めなかった。あの、他人に大層関心のなかったイライアスが興味を示し、その才能に導かれ、同時に計り知れないほどの嫉妬心を抱かせる──アランがバージルに望み、結果として成し遂げられなかったことを、希佐はやってのけている。
イライアスは知らない。希佐やクロエのような人間は、舞台に立つとき、これが終わった後のことなど、微塵も考えていないことを。この舞台が永遠に続けばいい、終わりなど来なければいいと、そう思っていることを。今この瞬間、この身、この命が果てようとも、構わないと思っていることを。舞台の上で死ぬことを願って止まないということを。それを至上の喜びだと心から信じて疑わないということを。
舞台のためなら、喜んでその命を捧げられる役者に、勝てるわけがないのだ。
何十年と舞台に立ち続けた役者のうち、一体どれほどの人間が、その領域に足を踏み入れることができるのだろう。少なくとも自分は、舞台のために命を賭けることなど絶対にしないと、バージルは断言できる。
イライアスなら、或いは──そう思いながら、不意に隣を見やったバージルは、そこに立つ者の横顔を目の当たりにして、小さく口角を持ち上げた。
「満足そうな顔だな」緑色の目を、星を散らしたように輝かせているアランを見上げて、バージルは笑う。「何を考えてる?」
「似てない」
「何がだ?」
「キサとあの女は似てないよ」
「そうか?」
「そうだ」
当時、アメリカに拠点を置いていたバージルは、イギリスに帰国をしてまで、クロエ・ルーの『サロメ』を観劇した。その上で、サロメの解釈も、その雰囲気も、二人は似ていると言っているのだが、アランは自分とはまったく違った目で、二人のことを見ているのだろうと、バージルは思う。
「確かに似ているところもあるけど」そう言うアランの横顔には、やわらかい表情が浮かんでいるように見えた。「でも、違う」
「俺だって何もかもが似てるって言ってるわけじゃねぇよ」
その横顔が物語っている。愛おしくて堪らないのだと言っている。目の前にいるその女が、この世の幸い、この世のすべて、自らの生きる意味だとでもいうふうに。
もう何を言っても無駄なのだろう。恋は盲目とはよく言ったものだ。初恋を拗らせた人間の末路をよく知っているからこそ、心の底から同情してしまう。この男はこれからずっと、一生癒えることのない喉の渇きを覚えながら、生きていかなければならないのだ。バージル自身がそうであるように。
「まあ、これならあのお嬢さんも──」
大満足だろうと、そうバージルが続けようとしたときだった。視界の端に、何者かがその場に膝をつき、動かなくなる様子を捉えて、思わず口を噤む。
振り返ったその場所には、長いスカートの裾を踏んでしゃがみ込む、クローディア・ビアンキの姿があった。その顔は真っ直ぐに舞台に向けられているが、酷く青ざめ、黒い目は大きく見開かれていた。
「おい、アラン」
バージルは肘で腕を突き、視線だけでクローディアの方を指し示す。舞台から目を逸らしたアランは、冷えた床に座り込むクローディアをその視界の中に捉えるが、さしたる表情の変化は窺わせなかった。
「クレア」アランはクローディアの隣に歩み寄ると、その腕を掴み上げる。「立つんだ」
だが、クローディアはまるで足腰に力が入らない様子で、足元がふらふらと覚束ない。それに、酷く気分が悪そうだった。しかし、その姿を見守るアラン・ジンデルには、ほとんど気遣う様子もなかった。
「……どうして」
「なに」
「どうしてあれを観て平気でいられるの?」あれ、と言いながら、クローディアは舞台を力なく指差した。「あんな、あんなの……」
「あれが彼女のサロメだ」
「そんなの観れば分かるわよ!」クローディアは激昂するように声を荒げた。「あれに合わせて歌えと言うの? リハーサルのときとはまるで違うじゃない!」
「俺は夜毎あれを観てきたけど、キサは一度だって同じようには踊らなかった。振り付けもそのときどきで違う。彼女は今、感覚で踊っているから。君だってその日の気分で歌い方を変えるだろ。それと同じだ」
「あれとわたしが同じ? ふざけないで」
「ふざけてはいない」
「無理に決まっているでしょう?」あなたにだって分かっているくせに──クローディアはそう言いながら、アランの胸元に掴み掛かる。「わたしが台本通りにしか演じられない役者だって、知っているくせに──」
「だからどうした」
「え……」
「舞台はやるか、やらないかだ、クレア」
アランは、自分に掴み掛かる手を払い除けることはせず、クローディアの目を見つめながら、冷ややかにすら聞こえる声で静かに続けた。
「俺はずっとやらない選択をしてきた。自分に対してそれを良しとしてきた。俺にはもう出来ないと思っていたからだ。でも、出来るか出来ないかは問題じゃなかった。ただやれば良かったんだ」
「アラン、何を言って──」
「俺はもう逃げないと決めた」瞬きすら忘れ、自分のシャツを掴んでいるクローディアの手を、アランはその上から握り締める。「君はどうする」
舞台袖では微妙な空気が漂っていることも知らないまま、暗転した舞台から、こちらに戻ってくる足音が聞こえてきた。遅れて、聞き覚えのある「Brava!」の声と、唸るような大喝采が追いかけてくる。
「どうしよう」それは、普段の希佐からは想像もできないほど、明るい声音をしていた。「ヴェールが一枚見当たらないの」
ひゅっ、とどこからか息を呑む音が聞こえてくる。その音を聞いて顔を上げた希佐は、薄暗闇の中で正面に立つアランの姿を認めたあと、手を握り合うようにして立つクローディアのことを不思議そうに見た。
「修羅場ってる〜」
バージルは、明らかに面白がるような口振りで言うノアの頭を軽く小突き、すぐに残りのヴェールを拾わせに向かった。次の出番でヴェールに足を滑らせ、転ぶようなことがあっては事だ──もちろん、次の出番があれば、の話だが。
「……どうしたの?」
誰よりも察しの良いやつだ、瞬時にその場の空気を読み取った希佐は、一番近くに立っていたバージルにそう声を掛けてきた。十分もの間、たった一人で踊り続けていたと言うのに、ほとんど息を乱していない。
バージルは「よかったぞ」と労ってやりながら、希佐の肩をとんとんと叩いてやった。触れた素肌は思いの外熱く、酷く火照っているのが分かった。
「あ、うん、ありがとう」
客席から聞こえてくる地響きのような拍手は鳴り止まない。それなのに、その役者を迎えた舞台の袖は、まるで誰かの葬式会場のように空気が重く、沈んでいる。
「もう時間がないよ」無事に最後の一枚のヴェールを見つけてきたノアが、それを希佐に手渡してから席についた。「早くどうするか決めないと」
数日前、希佐が衣装を合わせたついでに軽く踊って見せたとき、ほとんどの者がこの眠れる脅威に気付かなかった。それどころか、希佐のサロメを今一だと言う声が、目立って聞こえていた。ただ、イライアスをはじめとする極々少数の者たちだけが、その華やかな衣装の下にちらつく狂気を感じ取っていた。
クローディア・ビアンキも後者の中の一人だったはずだが、それでも、立花希佐を見くびっているところがあったのだろう。希佐が相手ならば、自分の方が上手く演じられるという自負が、少なからずあったのかもしれない。
「クレアは良い役者だ。昔から何でも上手く演じる」チャリティーイベントの準備期間中、加斎たちと戯れているクローディアを遠目に見ながら、アランがそう言っていた。「でも、いつもどこかに既視感がある」
「既視感?」
「模倣だよ」アランはクローディアから目を逸らすと、今度は劇場の隅でストレッチをしている希佐に目を向けた。「クレアはキサみたいに模倣を上手く昇華することができない。他人から盗み取ったものを自分の中に落とし込んで、新しいものを生み出すことが極端に苦手だ。例えば、ピアニストの演奏を聞いた通り完璧に弾きこなすことができたとしても、それはただのコピーに過ぎず、決してオリジナルにはなり得ない。でも、あの劇団にいた大人たちは、自分たちの真似をする子供を酷く褒めたんだよ。まあ、最初は誰でも人真似からはじめるものだし、俺も同じように大人のやることを真似て、喜ばせて、小遣いをもらったりしてた」
まだ子供のうちは、技術を磨かせる以前に、何事にも興味を持たせることが重要だ。子供たちはつまらないと感じたものに興味を示さない。そして、一度失われてしまった興味は、滅多なことでは復活しない。だから、指導者は子供の育成に慎重であるべきなのだ。後継者を育てたいのであれば、上手くやる必要があることを、バージルは身をもって実感している。
「俺も真似するのは得意だったけど、あれって早い段階で飽きるだろ。生産性もねぇし」
「動機の違いだよ。稽古が好きで自発的にやる子供と、褒められるためにやってる子供では、伸び方がまるで違う。クレアは昔からプライドが高くて、他人と比べられたときに、自分の方が劣っていると指摘されることをとても嫌ってた。だから人一倍努力をするし、俺なんかよりもずっと勉強熱心だったよ。大人たちはその都度感心してやってた。彼女の演技が、どこかで観た誰かのものと似通っていても、それを指摘しなかった。技術的には素晴らしいものだったから」
「癖を抜くのも一苦労だったろうな」
「今となってはクレアの中には大勢の芸が溶け込んで、何が誰の模倣なのかは分からなくなってる。でも、ふとした瞬間に覚える既視感は拭えない。それは今も同じだ。それに──」
「それに?」
「学生の頃に恩師から、お前は本来多彩な色を持っているはずなのに、その色分けがあまりにも下手すぎて、全部の色が混じり合った黒にしかならないと、そう言われたそうだ。もっと台本を読み込んで、自分と向き合うようにって」
だがしかし、長年の癖を取り除くことは、そう簡単なことではない。バージルもバレエの癖を抜くのにかなりの時間が必要だった。一年や二年どころか、五年、十年と掛かる者もいるし、一生抜けない者もいる。
「あいつの台本はいつも綺麗なままだった。台詞を覚えるのは早いけど、自分が演じる人物の掘り下げが極端に苦手だった。技術はあるのに、演じている人物の魅力がいまいち伝わってこない。前に、彼女のトスカを観たとき、キサは素晴らしかったと感銘を受けていたけど、俺にはいまひとつだった」
「……お前、相変わらず辛辣だな」
「クレアにとってカルメンは得意な役柄だ。でも、サロメにはこの上ないトラウマがある。あの女は、それを分かった上で煽ってるんだよ」
「……うん? おい、待てよ。あいつはキサを自分の思惑に利用するだけじゃ飽き足らず、あのお嬢ちゃんのトラウマまでどうにかしようとしてるってことなのか?」
「そう」
「キサにどんだけのもん背負わせれば気が済むんだよ」
「あんまり良い策だとは思えないけど、言っても聞かないだろ、あの女は」
人間のトラウマは一朝一夕でどうにかなるものではない。適切な治療が必要な場合もあるし、荒療治では更に傷を深くしてしまうこともある。今回の場合は、傷口に塩を塗り込むような、残忍な行為が行われたということだ。
舞台人としてのKISAが、このロンドンで役者として活動をはじめて、今年で四年目だ。劇団カオスの一員としてはもちろん、知り合いの伝手やKISAの噂を聞きつけてきた小さな劇団のゲストとして、小劇場の舞台に立ってきた。バージルが出演依頼を受けたフェスティバルに連れて行き、そこでタップダンスを披露したこともある。
自ら望んでフリンジの舞台に立ち続けてきたKISAの一般的な知名度は皆無に等しいものだ。その一方、ウエスト・エンド界隈の一部の舞台関係者には、活きが良い役者がいると話題になっている。
「──君のところの劇団の、ほら、なんていったかな」
「イライアスか?」
「いや、違う。女の子だ」
「アイリーン?」
「違うよ。ほら、東洋人の」
「……キサのことか?」
「そうそう、そんな名前だった」先日、久しぶりに食事に誘った叔父の口から、希佐の話題が上がったときは驚いたものだ。「仕事仲間の演出家が会いたがっていてね」
「口利きならしねぇからな」
「そう言われると思って、丁重にお断りしておいたよ。でも、あのクロエ・ルーが目をかけているそうだけれど、それは本当なの?」
「ノーコメントだ」
SNSで拡散された動画の影響は確かにあるだろう。だが、誰かが進んで噂を広めているのが、一番の原因のように思える。アランが言うところの、あの女──クロエ・ルーの仕業に違いないことは、火を見るより明らかだった。
「彼女、本当に美しい人だよねぇ。前に何度か、彼女が立つ舞台の美術を担当したことがあるのだけれど、気立の良いお嬢さんだったよ」
「気立の良いねぇ」
「何だい、その含みのある物言いは」
「何でもねぇよ」
クロエ・ルーは希佐のことを高く買っている。それと同時に、クローディア・ビアンキのことも評価し、一目置いている。恐らくは、ただの気まぐれ。同時期に『サロメ』を演じたことで、一方は大絶賛の評価を受け、もう一方は凡庸な評価しか得られなかった。
「あの女のサロメは本来、大衆受けを狙ったものではなかったはずだ。でも、どういうわけか評論家たちから高い評価を受けてしまった。だからこそ、同時期に同じ演目を上演していたクレアの方が、評論家から出端を挫かれたわけだけど」
まさか、一丁前に罪悪感でも覚えているのか? いや、あいつがそんなもんを覚えるわけがねぇ──瞬時に呼び起こされる記憶を読み解きながら、うむ、と唸っているバージルを横目に見上げ、希佐が小首を傾げている。
「……お前、ここで終わりにする選択肢はあるか?」
「どういう意味?」
「今の、七つのヴェールの踊りで終幕にするってことだよ。次はない。拍手喝采、大団円じゃねぇか」
希佐はそう言うバージルを見上げたまま、ぱちり、ぱちり、と瞬きを繰り返している。それから、自分を見ている周囲の人々を見回し、最後にアランとクローディアの姿を捉えると、ああ、と合点がいったような顔をした。
「駄目だよ、バージル」
「駄目って、何がだ?」
「まだ王様からのご褒美をもらっていないし」心の声に耳を傾けようとするように、希佐は自らの胸にそっと触れる。「ヨカナーンに口付けたいって、サロメがそう言ってる」
こいつに出会えてよかったと心から思える者がいるのなら、反対に、こんなやつとは出会いたくなかったと、そう心から思う者もいるのだろう。
圧倒的などという言葉では足りない。まるで心臓を掴まれ、握り潰されるような心地に耐えられる者は、あまり多くはないのかもしれない。若ければ若いほど割り切ることは難しいようだ。少なくとも、立花希佐は今この場で、何人かの若い才能の芽を摘み取り、心臓を握り潰し、奈落へと突き落とすことだろう。
「続けるなら早くしないと」既に、次の出番までのカウントダウンは、ゼロになって久しい。「いつまでもお客さんを放っては置けないでしょ」
今ここで、夜の部の終了を知らせるアナウンスを流したところで、客は何の疑問もなく、満足して劇場を去るだろう。だが、良くない顔をする者もいる。期待を裏切ることを、希佐は良しとはしないはずだ。
希佐の目は、あまりに真っ直ぐに、クローディア・ビアンキに向けられていた。だがしかし、クローディアはその挑むような眼差しから目を逸らし、アランの胸元に顔を伏せる。
「クレア」
「……わたしには無理よ」今にも消え入りそうな震える声が、恐れをなしたようにそう告げた。「歌えない」
ああ、終わったな──バージルはそう思いながら、希佐が抱えていたヴェールを受け取った。希佐は最後に脱ぎ捨てたヴェールを一枚だけ羽織ると、クローディアたちの方を一瞥してから、舞台袖に用意されていた作り物の生首を胸の前に抱え込んだ。
バージルは知っている。それと同じ、光を失った目を何度も見たことがある。その目は、別の誰かを見ていることもあれば、自分に向けられていることもあった。
光の届かない海の底のような暗い色で、まるで呪うかのようにこちらを見る目は、いつだって心をざわつかせる。
「どうするんだ、キサ」
「私なら大丈夫」希佐は作り物の生首を抱きしめ、目の前の黒髪に顔を埋めた。「ヨカナーンが一緒だから」
その持ち上げた顔が、何と不気味で、怪しげだったか。ゆっくりと弧を描くように持ち上がる口角と、三日月のように細められる眼差しが、どれほどの人の背筋を凍り付かせたか。冷や汗が耳の裏側を伝い落ち、体の端々までもが冷え切って、心臓が止まるような心地を覚えたか。
バージルには、その生首を大切そうに抱え、たった一人きりで舞台へと向かう背中を押してやることも、声を掛けてやることも出来なかった。そもそも、そんな必要性すら感じてはいなかった。
「──バージルは、自分よりも凄い人に出会ったことはある?」
いつのことだったかは覚えていない。これといって何の予定もない、ただ何となくスタジオを訪れただけの、何の変哲もない日だったと思う。パイプ椅子に腰を下ろして、その辺に転がっていた雑誌の写真を眺めていると、希佐にそう問いかけられたことがあった。
バージルは顔を上げ、希佐を一瞥してすぐ、雑誌に視線を戻した。
「そんなやつはいくらでもいるだろ」
「そうじゃなくて」稽古後のストレッチをしていたマットを畳みながら、希佐は首を横に振った。「この人には絶対に勝てないって、そんなふうに思ったことはあるかってこと」
「絶対に勝てない、ねぇ」
「思ったことはないの?」
バージルは再び顔を上げる。希佐の顔が思いの外真剣味を帯びているのを見て、読んでもいなかった雑誌を閉じた。
「あるよ」
「そうなんだ」
「誰かとは聞かねぇんだな」
「バージルがそう思うくらいだから、本当に凄い人なのだろうなとは思うけれど、興味があるのはそこではないから」希佐はバージルの前に胡座を掻いて座ると、丸めたマットを膝に置き、こちらを真っ直ぐに見上げてきた。「勝てないって自覚をしたとき、どんなふうに思った?」
「それは、俺の心が折れたかどうかってことか?」希佐はうんともすんとも言わなかったが、片時も目を逸らそうとはしなかった。「まあ、そのときは俺もまだまだ若造だったからな、上には上がいるもんだと思ったよ。心が折れるどころか、何とかしてそいつの技を盗もうと考えて、毎日そいつのいるところに通い詰めた」
「ふうん、そっか」希佐はなぜか、どこか嬉しそうに笑いながら、相槌を打っていた。「おかしなことを聞いてごめんね。答えてくれて、ありがとう」
長い、長い道のりを歩いてきた。山あり谷あり、紆余曲折のある年月だった。大空を舞うような気持ちの良い日もあれば、奈落の底に突き落とされるような鬱々とした日々もあった。後ろを振り返れば、道は幾重にも分岐していて、数えきれない程多くの人々が、挫折の末に離脱していった足跡だけが残る。
才能を妬み、羨み、蔑む声を聞くことが、今でも不快でたまらなかった。称賛とは違う、明らかに嫌味と分かるその物言いを聞くたびに、自らの努力を否定されているような気がしていた。
俺はお前とは違う。
俺はお前みたいにはなれない。
俺は、俺は、俺は──。
仲間だと思っていた連中の多くが、バージルを理由にして、このエンターテイメントの世界から去っていった。お前を見ていると、自分には才能がないことを思い知らされるからと。一緒にいるだけで苦しいのだと。お前さえいなければ、こんな思いをすることもなかったのにと、そんなふうに言い残して。
この程度の言葉で傷つくはずがないと思うのか、酷く残酷な言葉を心臓に突き刺して、どこかすっきりとした顔をしてどこかへ消える。以来、二度と会わなかった者もいる。偶然道端で顔を合わせれば、向こうは吹っ切れた明るい声と表情で、これからも俺たちの分まで頑張れよ、などということを平気で口にするのだ。こっちはまだ、あのときの言葉が、心臓に深く突き刺さったままだというのに。
そういう人間は、遅かれ早かれ脇道に外れ、この世界から姿を消す──今なら、そんなふうに割り切ることができる。だがしかし、今の希佐と同じ年齢の頃は、いちいち心に傷を負っていた。
自分と同じように、希佐も多くの仲間たちを見送ってきたのかもしれない。舞台の世界で生きていくことを諦め、去っていく者の背中を、やるせない気持ちで眺めていたのかもしれない。昨日までは仲間だった相手が、自分を見る目から光を失う、そんな瞬間を、何度も、何度も、目の当たりにしてきたのだろう。
それでも、自分たちは、舞台に向かう。
スポットライトの下に立つ。
これ以外の生き方を知らない人間になってしまった。
『あんた、胴体に棒っきれ四本くっ付けてんの?』不意に、懐かしい記憶が蘇ってくる。『明日もスタジオに来るんだろ?』
一生を賭けても敵わない、絶対に勝てない女がいる。ろくな女ではなかったというのに、死という付加価値を得て、必要以上に美化されている思い出のせいで、今でも化けて出てこいと思うくらいには好きだ。
ときどき、こんなときあの女なら何て言うだろうと、そんなふうに考えることがある。口も、性格も、素行も悪い女だったが、言うことはいつだって的を射ていた。
『ったく、せっかくこのあたしが見込みがあるって褒めてやったってのに、無駄に棒っきれ振り回してるんじゃないよ』
今となってはもう、あの女の顔も、声も、思い出すことができない。
時の流れというものは酷く残酷で、忘れたくないことまで忘れさせる。だが、長い年月は、心の痛みを忘れる恩恵を与えてくれる。
だから、バージルは今も、この道を馬鹿正直に歩き続けているのだ。
「……ったく、しょうがねぇな」
いつもにこにこと上機嫌で、久しぶりに会えば脇目も振らずに駆け寄り、嬉しそうにまとわりついてくる可愛い弟子が、舞台上で孤独に喘ぐ姿など見たくはない。
立花希佐を、孤独な怪物にするつもりも、毛頭ない。
あの頃は、今の自分では到底太刀打ちできないと思った。だが、今ならば、あの輝きにも引けを取らない自信がバージルにはある。それに、あの女なら、こうしてあれこれと思考を巡らす前に、行動に移しているはずだ。
これが、せめてもの花向けになるのなら、そうしよう。
「おい、お前」そこのお前だよ、と言って、バージルはアランの胸にしなだれかかっているクローディア・ビアンキを振り返った。「目ん玉ひん剥いてよく見ておけよ。ああいうやつが、この世界ではチャンスをモノにするんだ」
バージルの経験上、一度逃げると、逃げ癖がつく。いとも容易く怖気付きやすくなる。自らの矜持に傷がつき、途端に自分が価値のない存在に思えてくる。だが、そうではない。逃げたいときには、全速力で逃げればいい。しかしそれは、現実から目を背けても構わないということではない。
「逃がした魚は大きいだろうけどな」
結局、覚悟と度胸のある者が強い、ということだ。
もしここで自らの命が朽ち果てようとも、舞台に上がり、観客の前で演じるからには、この世で最も美しい華を咲かせてみせる──自負と埃を携えた背中が、暗闇の中に、ふっ、と消える。
『──嗚呼、ヨカナーン』
そして、うっとりと陶酔するような、しかしどこか冷たい声音が、劇場内に響いた。
僕は誰かの物語の脇役に過ぎない──イライアスは今までの人生を、そんなふうに思って生きてきた。舞台の上に立ち、誰よりも光り輝いているアラン・ジンデルを客席から見て、こういう人こそが、この世界の主人公に相応しいのだと、そんなふうに思っていた。自分は物語の主人公足り得ない。主人公になるためには、何か大切なものが不足している。それが何なのかは、未だに分からない。
外の非常用のバルコニーを、足音を立てないようにして進み、劇場の一番後ろの窓から室内を覗き込もうとする。だが、暗幕のように分厚いカーテンに仕切られた向こう側は見えず、代わりに、煌々とした月明かりに照らされた窓ガラスに浮かぶ、自分の顔がよく見えた。
月が放つ銀色の光は、イライアスの肌と髪をますます白く見せる。自分でも何を考えているのか分からない無表情の顔が、こちらを睨みつけている。窓に手を掛けてみるが、案の定、そこには鍵が掛けられていた。
当てが外れたけど、まあいいか──そう思いながら来た道を戻ろうとすると、分厚いカーテンがゆらゆらと揺れ、一人の男が姿を現した。メレディスだ。イライアスが目を丸くしていると、メレディスは窓の施錠を外し、バルコニーに顔を覗かせた。
「ノアから窓の鍵を開けてやってと言われてね」
「携帯電話の電源は切っておかなくていいんですか」
「僕だけは特別なのだよ」
何せここの王様だからね、と言ったメレディスは、静かにと言うふうに人差し指を立ててから、イライアスを室内に迎え入れる。音もなく床に降り立ったイライアスを横目に見ると、カラカラと鳴る窓を静かに閉めた。
「後ろから見せてもらっても構いませんか」
「もちろん、いいとも」
満席の客席の更に後ろ、そこには壁を背にして立ち、舞台を見物している先客がいた。体の前で両腕を組み、真っ直ぐに舞台を見据えていたクロエ・ルーは、メレディスと共に隣にやって来たイライアスを一瞥し、すぐに視線を正面へと戻す。向こう隣に立っていたフランシス・ルロワは、イライアスの姿を見るなりにっこりと機嫌よく笑い、軽く手を挙げてみせた。
「さすがですね」不意に口を開いたルロワが、隣に立つクロエに向かって言う。「彼女のカルメンは奔放で、妖艶で、魅力的です」
「彼女のトスカは観た?」
「ええ」
「どちらも悪くはないのよ。でも、まだ自分の殻を破れてはいない。誰かの真似事をしているように見えてしまうの。こうあるべきという形に囚われてしまっている。相変わらずもったいないわよね。せっかくあと一歩のところまで来ているのに」
イライアスはすぐ隣で交わされている会話を聞きながら、その内容を意外に思っていた。何事にも興味がなさそうな──もとい、興味があること以外には一切の興味がなさそうな二人が、今夜の舞台に目を向けながらそれについて語らうなど、想像もつかないことだった。
自分に言えたことではないけれどと、そんなふうに思いながら、イライアスは舞台に目を向ける。一度目を伏せ、よく呼吸を整える。
クローディア・ビアンキは、綺麗な人だ。ジャスト・ロビンの舞台にも立っていた。声楽や舞台を学ぶために、母親と一緒にイタリアからイギリスに渡って来たという。それというのも、クローディアの母親は若い頃にオペラ歌手の道を志したものの、残念ながら芽が出ず、その夢を自らの娘に託したというのだ。
この業界にいる子供たちの多くは、物心が付く前から、親の意向で半ば強制的に芸事をはじめる。大抵の場合、そう簡単にやめることはできない。気が付けば日常はそれ一色に染まっていて、まるで少しずつ毒されていくかのように、感覚が麻痺していく。自分には、これをするしか能はないのだと、これなしには生きてはいけないのだと、そう思うようになっていく。
クローディア・ビアンキがどのように育てられたのかは知らない。もしかしたら、自ら進んでその道を選択したのかもしれない。だが、イライアスは少なからず、そういう気配を感じさせる人間に興味を引かれてしまう。歌が好きで好きで堪らないというアイリーンとは違う、苦しみもがくかのような歌が、仄暗い闇を感じさせる。
自分が好きで続けられるのなら、それに越したことはないと、イライアスは思う。ただただ楽しんでバレエを習っていた子供たちのことを思い出すと、あれが本来のあるべき姿だったのではないかと、そんなふうに感じてしまう。なぜこんなにもつらいことを何年も何年も続けていく必要があるのか。いつになったら、この嫉妬が渦巻く地獄のような環境から、逃げ出すことができるのか。そんなふうなことを考えながら芸事を続けることに、何の意味があるというのか。
クローディア・ビアンキの歌声には、どうしても歌いたいのだという強い意志を感じない。歌声がどれほど美しくとも、心の芯には届かないような気がする。だが、似たような闇を背負う人間にとっては、どういうわけか、抗えない歌声にも聞こえた。
「やっぱり敵わないわね」劇場の隅の方に座り、稽古中のクローディアの歌声を聞いていたアイリーンが、そう言ったことがあった。「子供の頃から専門的に学んでいる人と自分を比べるなんて、どうかしているのでしょうけれど」
「僕はアイリーンの歌の方が好きだよ」
「私が身内だからそんなふうに思うのよ」
アイリーンは分かっていない。
アイリーンだけが、分かっていない。
「彼女の歌は良い」アイリーンがコンクールに出場する少し前、アランがそう言って褒めていたことがある。「とても誠実で喜びに満ちているから。上手く歌おうとする必要なんて少しもないのに」
どうしてそれを本人に言ってやらないのかとイライアスが問うと、アランは酷く面倒臭そうな顔をした。
「調子に乗るだろ」
「でも、アイリーンは喜びます」
「俺は滅多に人を褒めないんだ」
アイリーンの歌には小細工がない。どこまでもどこまでも真っ直ぐ、心に届く。彼女の歌の良いところは、決して人に媚びないところだと、アランは言った。
「万人に好かれる歌手は存在しない。技術を除けば歌は好みだからな。歌唱力よりも声質の方が重要視されることもある。歌なんて練習すればいくらか上手くなる余地はあるけど、声の質は変わらない。その点、アイリーンは恵まれてる。彼女は歌唱力もあるし、声の質も良い」
何かを極めようとしたとき、そこには必ず優劣が生まれる。優れている方と、劣っている方に分けられる。
幼い頃、母親に劣っている者というレッテルを貼られていたイライアスにとって、周りで踊っているダンサーたちも、自分と大差ない劣った存在だった。母親が言っていた、このくらいのことは出来て当然という、当時のイライアスの年齢には難しい技を、二、三歳上の練習生たちも習得してはいなかった。
『私の息子のくせに、こんな簡単なこともできないの?』
あの頃のイライアスは母親にとって、母親自身の価値を上げるための道具に過ぎなかったのだ。イライアスの見た目や、才能や、実績が、自分の価値やブランド力を高めると信じていたのだろう。
だが、母親を亡くした途端に、イライアスの評価は劣っている者から、優れた者に取って代わった。同年代のどのダンサーよりも踊れるのだと自覚した。自分を認め、褒めてくれる人の存在は、人間を大きく変えることを知った。
アイリーンの周りには、子供の頃から、その歌を貶す者など一人もいなかったのだろう。アイリーンが歌えば、誰もが笑顔で聞き入り、称え、祝福した。アイリーンはその言葉を享受し続け、その歌声が愛されていることを、初めて歌を口にした瞬間から知っていたのだ。アイリーンの歌には愛が溢れ、卑屈なところが少しもない。アイリーンの隣にいると、人に愛されるというのはこういうことなのだと、強制的に思い知らされる。だから、唯一自分のものにならなかった愛を欲しがって、アラン・ジンデルのことを思い続けているのかもしれない。
二人の歌を比べるなど、実際には何の意味もない行為だ。だが、イライアスにとっては、身近な比較対象がそれしか存在しない以上、天秤の片方には常にアイリーンが乗せられてしまう。
きっと、どの歌と比べることになったとしても、一番好きなのはアイリーンの歌なのだろうと、イライアスは思っている。あの大きなお屋敷に引き取られてすぐの頃、寝付けないと言ったイライアスの枕元で歌ってくれた、あの可愛らしい子守唄に勝る歌など、この世にはないのだろうから。
「あの子、ミュージカルには興味ないのかしら」
「母親が許さないようです」
「母親が? どうして?」
「オペラ以外は音楽ではないとか。固執した考えに囚われているようですね。何度か叱責されているところを見掛けたことがあります」
「そう」静かに相槌を打つ様子を見て、イライアスはなぜか、既視感のようなものを覚えた。「ろくでもない母親はどこにでもいるものね」
背筋が冷たくなるような声を聞いても平然としていられるのは、同じような声音で責め立てられた経験が多分にあるからだろう。下手に反応してはいけない。表情を消して黙っていれば、嫌でも時間は過ぎていく。
「本来は、あんな子ではないのでしょうに」
抑圧されている。苦しいと身悶えながら、それでも、こうすることが至上の喜びだとでもいうふうに、舞台上で歌を歌う。自分は、これ以外の生き方を知らないのだとでもいうふうに。その相反する光と影、微かな違和感が、この目を留めさせる。
「あなたはどう思う?」
「……」まさか自分に声が掛かるとは思わず、イライアスは驚きを隠すように、一拍置いてから口を開いた。「よく分かりません」
「でも、彼女はあなたと同じタイプの役者でしょう?」
イライアスは思わず、隣に立っているクロエ・ルーを少しだけ上目遣いに見上げた。踵の高い靴を履いているのだろうが、それでも身長が高い。靴を脱いでも、自分とさして変わらないのだろうと、そんなふうなことを、ぼんやりと考える。
「経験上、あなたたちのようなタイプの役者は、自分自身の力だけでは高い場所を目指すことが難しいことを、私は知っている」失礼なことを言ってごめんなさいね、と謝ってから、クロエは先を続けた。「上から引っ張り上げられるか、下から押し上げられるかしないと、現状に甘んじ続ける。幼い頃からの洗脳ってそう簡単には解けないものよ。彼女は一見高飛車だけれど、実際は周囲の目を気にする繊細なところがあるわ。その上、彼女には私というトラウマがある」
不可抗力とはいえ、かわいそうなことをしたわ──本当のところは分からない。だが、心から同情すると言わんばかりの口振りで、クロエは言った。
「あなたは良い仲間に恵まれてよかったわね」
別に隠しているわけでもない昔の事情は、ファンなら誰もが知っていることで、そうでなくても、少し調べればいくらでも情報は発掘される。自らの過去を事実として受け入れているイライアスは、そのことについて何と言われようと、今更心が揺れ動くこともなかった。
「素敵な歌だったわ」
「え?」
「昼間のお歌よ」クロエは舞台を見据えたまま、口元に笑みを湛える。「あなた自身も自分の歌に感極まったのではなくて?」
図星を突かれて黙っていると、クロエは「ふふ」と小さく笑った。
「その感覚を忘れないようになさい。自らの感情を制御しているようでは、他者の感情を揺さぶることはできない。あなたの歌は間違いなく、あの女性の──あなたのお母様の心を癒したわ」
それは、産みの母親のことを言っているのか、育ての母親のことを言っているのか、イライアスには判断がつかなかった。だが、アイリーンの子守唄が自分の心を癒してくれたように、自分の歌で誰かの心を癒せたのなら、イライアスはそれを少しだけ嬉しく思った。
クローディア・ビアンキのカルメンは大喝采で終わりを迎えた。今夜の催しはこれで終幕だと告げられても、観客は大満足でこの小劇場を後にしたに違いない。だがしかし、まだ終わりではない。あの世にも美しい怪物が、舞台袖に控えているのだ。
「……」
本当は、もうずっと前から分かっていたことがある。それでも、あの得体の知れないものの正体を、どうしても知りたかった。
自分にはないもの。手に入れようとしても、決して手に入らないもの。努力では絶対に補えないもの。眩い光の部屋の中で、ただ唯一の、一点の暗闇。
『いくら才能があったところで、それを見出す者や、それを伸ばす努力や、それを活かす環境がなければ、その他大勢の有象無象と何も変わらない』いつかのルイの言葉がよみがえる。『才能を開花させるためには何よりも出会いが肝心なんだ。人との出会いはもちろん、ダンスとの出会い、歌との出会い、舞台との出会い──とにかく出会わなければ、何も始まりはしないだろう?』
綺麗だった。バレエを踊る母が美しかった。だから、抗えなかった。自分もあんなふうになりたいと、そんなふうに思ってしまった。イライアスにとってはそれが、最初の出会いだったのだろう。
『本当に、返す返すも悔やまれるよ。でもまあ、そう思うことすら、私のエゴに過ぎないのだろうけれどね』
元パリ・オペラ座バレエ団のエトワールは、その全盛期、人気絶頂の最中、突然の退団を発表した。なぜバレエ団を離れることにしたのかは知らない。だが、仲違いをしたわけではなさそうだ。未だに講師として招かれているのがその証拠だろう。
そのルイが、イライアスが最も尊敬し、憧れているバレエダンサーが、立花希佐を高く買っている。
『君も一丁前にバレエ畑の人間なんだね』その事実になぜかモヤモヤとした気持ちを抱えていると、イライアスの思いを察したのだろう、ルイは仕方がなさそうに笑って言った。『憧憬と嫉妬が渦巻く巣窟だよ、あそこは。まるで秘密の花園だ。外から見れば薔薇が咲き誇る美しい世界なのに、その薔薇たちはお互いの棘で傷つけ合っている。私がキサばかりを褒めているから、君はそれが気に入らないんだ』
そんなことはないと否定をすれば、向きになっていると捉えられそうで、イライアスはただ黙っていた。だが、ルイはその沈黙を肯定と捉えてしまったようだ。まるで子供にそうするように、イライアスの頭をくしゃくしゃに撫でる。
『君は実に素晴らしいダンサーだよ、イライアス。私が出会ってきたダンサーの中でもトップクラスに入るくらいセンスが良い』ただね、と続く言葉の先を想像することができて、イライアスはぬか喜びすらすることができなかった。『才能というものは残酷だ。この世界では常に優劣がつけられる。バレエ界では生かされる君の才能が、ここでは邪魔になることだってある。ここは、美しいお人形さんばかりが持て囃される世界じゃない。不思議だね、バレエの園で生きてきた人間ほど、泥水を啜り、血反吐を吐くような努力をし続けているというのに』
稽古は好きだ。それを苦に感じたことはない。毎日、毎日、同じことを繰り返す。その方がずっと楽だと感じる。だから、同じように稽古を苦に感じず、寝食を忘れるほどに没頭する希佐を、自分と同じだと思い込んだ。
『私が今から言うことは、君には残酷に聞こえるかもしれないが──』ルイは言い淀むでもなく、至極当然のことを告げるように言った。『私や君は天才ではない。凡人が血の滲むような努力をした。その結果が、我々なんだ。確かに、ダンスの能力値なら君の方が格段に上だ。だが、彼女のダンスの方が、より多くの人の胸を打つ。キサは間違いなく天才だよ。舞台に立つために生まれてきたような子だ。君がキサに対して抱いている感情は、この先一生ついて回るだろう。君たちは出会ってしまった。私はそれを幸運だったと思っているけれど、君はどうかな』
希佐を好きだ。でも、それと同じくらい、嫌いだと思う瞬間がある。
舞台上、まるでこちらを挑発するかのような眼差しを向けられると、居ても立ってもいられなくなる。自分の方が上手く踊れるのに、どういうわけか、屈辱的な敗北感が襲ってくる。それなのに、希佐には他意など微塵もなく、ただ純粋に、踊ることを楽しんでいる。
踊るのは楽しいことだと、誰かが希佐に教えたのだろう。
舞台に立ち、何かを演じることは、自らの心を解放することであることも。
「あの子は一体、何者なのかしらね」
そんなことは、誰も知らない。ある日突然目の前に現れた、取るに足りない存在かと思いきや、あっという間にイライアスの心臓を鷲掴みにしてしまった、異国からの来訪者──自分は、立花希佐のことを少しも知らないのだという事実を、舞台上で舞う姿を見遣りながら、イライアスは強く自覚した。
イライアスは何も知らない。
希佐が生まれた場所のことも、希佐の家族がどのような人たちなのかも、希佐がこれまでにどのような暮らしを送ってきたのかも──本当に何も、何も知らない。
立花希佐が内包する闇は、一体どこからやってくるものなのか。
ただ演技力が長けているというだけでは、どうしても形容し尽くせない、観る者の心をそこはかとなく不安にさせる、それは。その華やかさの足元で蠢くどろどろとした澱のような、それは。こちらが親しみを覚え、心が打ち解けてきたと感じるときにこそ覚える、それは。
ただ、本能が察知している。
この子は、危険だと。
凝視していると、足元をすくわれ、そのままずるずると引き摺り込まれていくような、そんな薄気味の悪さを覚える。どう足掻いても、目を背けることができない。
少年、少女時代の、あの残酷的なまでの美しさ──今この瞬間が、永遠に続くような気がしていた、あの頃の感覚に良く似ている。こんなにもきらきらしく輝いているのに、それは刹那的なものであるということを、無意識下で理解してしまう。
それは、終わりだ。
明日、もし自らの命が絶たれることを知っていたとしたら。
明日、もし最も大切な誰かが、この世を去るとしたら。
明日、もしこの世界が滅びの日を迎えるとしたら。
立花希佐に感じ続けていた、この名状しがたい感情は、死に対する畏怖と同じなのではないかと、イライアスは思った。
得体の知れないもの。理解の及ばないもの。人によっては恐怖を覚え、戦慄し、絶望するだろう。だが、時には救いにも、やすらぎにも、喜びにもなる。
生と死の狭間、その境目に、立花希佐は立っているのかもしれない。連綿と生き続けるよりも、最高に光り輝けるその日を迎えられたなら、それ以上の生は求めないのかもしれない。
今日、死んでも後悔しないように、刹那を生きている。
ヴェールが一枚、また一枚と、脱ぎ捨てられていく。ひらひらと揺れる衣装の裾にすら、計算された美しさを感じた。ダイアナが言っていたことを、不意に思い出す。
『私の服は着る人を美しく見せるけれど、キサは私が作る舞台衣装を、誰よりも美しく見せてくれるわ』
衣装映えするというアイリーンの言葉に、無言のまま同意した。あまりの美しさに目を奪われた。だが今は、この得体の知れない、酷く化け物じみたものの正体を目の当たりにして、胸が高鳴っている。
自分の方が上手く踊れると理解しているのに、どう足掻いても勝てないと思った。どうやら、拭えない敗北感がべっとりとこびりついて、剥がれそうにもない。
飢えているのだ。常に、喉の渇きを覚えている。
その飢えや渇きは、舞台上でしか癒すことができず、それらの苦痛を紛らわすために、より多くの時間を稽古に当てているのだろう。生活の一つ一つ、自らの身に降り掛かる幸福や災難、何の変哲もない日々の営みのすべてを、舞台の上で生きるための糧にしている。
もしかしたら、希佐にとってはこちら側の世界の方が、まやかしなのかもしれないと、イライアスは思った。
「あの子の踊りはどうかしら」
横顔に視線を感じると同時に、隣に立つクロエが、そう問いかけてきた。イライアスは舞台上で舞う希佐の姿を見遣りながら、ふっと口元に笑みを湛える。
「僕の方が、上手く踊る」
「ええ、そうね」クロエは、ふふ、と愉快そうに笑った。「あなたの方が、ずっと上手く踊るのでしょうね」
相手に競う意思がないというのに、勝手に嫉妬し、敵対心を燃やしても、ただ虚しく、疲れるだけだ。それならば、これまで通りにパートナーとして支え合う方がずっと良い。これは、以前と同じ気持ちで希佐の隣に立つための心の整理として、必要なことだった。
勝てなくても構わない。勝負にならないことは分かっている。
だがしかし、今この国に、舞台上で立花希佐の隣に立てる役者は、自分以外にはいないのだと、イライアスはそう思いたかった。
喝采は止まない。
いつまでも、いつまでも、永遠に続くかのように思える。
それほどまでに素晴らしい舞だった。この目で見てきた、どの立花希佐とも違う、これまでの認識のすべてを覆すかのような、見事な舞だった。
考えてみれば、根地黒門がネットの海に潜り、発掘し続けていたのは、立花希佐の歌のみだった。それ以外のものも、注意深く掘り起こせば、どこかに転がっていたのかもしれない。だが、黒門の目につくものはすべて、立花希佐が歌唱を披露する動画ばかりだった。
ユニヴェール時代、歌唱力に定評はあっても、立花希佐はトレゾールと呼ばれることはなく、主に舞踏力に特化した役者として評価されていた。一つ上の学年に白田美ツ騎がいたことで、稀代のアルジャンヌの称号に加え、トレゾールの称号を得るためには、白田以上の歌唱力が求められたが、当時の立花にはその高い壁を越えることは叶わなかったのだ。
立花希佐のダンスは言わずもがな、高科更文の影響を大きく受けている。
それは、立花希佐が失踪して五年もの歳月が過ぎ去った今も、変わってはいないのだということを、たった今この目にした『七つのヴェールの踊り』を観て、黒門は確信していた。
高科の舞は、科を作る。艶めかしく、どこか媚びるようでもありながら、確かに品が感じられる、そんな舞だ。だがしかし、最近の更文の舞は、高科流の本来の持ち味である艶めかしさよりも、初々しさが目立っていた。まるで生娘のようだと形容されることすらあった。それは、更文の内側にある、立花希佐への憧憬がそうさせるのだろうと、黒門は解釈していた。
立花を思って舞う高科更文は、どこか幼く、儚げで、掴みどころがない。その変わり果ててしまった舞を目の当たりにして、それを高く評価する者と、高科の舞にあるまじき表現だと言って、切って捨てる者がいた。
変革や革新を求めて家を飛び出した過去を持つ更文にとって、その程度のことは聞く耳を持つに値しない批評だったはずだ。元より、他者の言葉に耳を傾け、自らの表現を変えるような男でもない。
だが、黒門は感覚で理解してしまった。
今、たった今、この目に見た立花希佐の舞は、本来であれば高科更文がこうありたいと願っていた、その姿なのではないか。もしかしたら、離れていたこの五年間、立花は片時も更文を忘れたことなどなかったのではないか。あの人なら、こう踊る──立花は自らの中に高科更文を宿らせ、その恐ろしいまでの解像度の高さで、高科の舞を強く香らせる舞を踊って見せたのではないか。自分はこの五年間で、こんなふうにも踊れるようになったのだと。
『先生』黒門の隣に座っているエステルが、体を僅かに前傾させ、フランス語でゴダンに声を掛ける。『素敵なお嬢さんね。まるで、若い頃のクロエを見ているみたい』
『前者は際限なく同意するが、後者は否定しておくとしよう』
『クロエとあの子の何が違うの?』
『キサは誠実で正直、実直で度胸がある』
『クロエだって誠実で正直よ。実直で、それに度胸もあるわ』
『人間性の問題だよ、エステル』
『彼女がもし男性だったら?』
『プロポーズをしていただろうね』
『先生は結局、自分の思い通りにならない人が気に入らないだけなのよ』
『今日は随分と手厳しいな』
『だって本当のことでしょう?』
ふふふ、と花が綻ぶように笑ったエステルは、不意に目が合った黒門に向かって軽く片目を瞑り、すっと姿勢を正した。そして、暗闇に支配された舞台に、挑むような目を向ける。その横顔は、寸前までの人好きのする雰囲気とはまるで違う、言うなれば、戦場に赴く兵士のような、厳しい面持ちに見えた。
「凍えるような空気ね」
「え?」
「この寒さで何人が凍え死ぬのかしら」
エステルが、礼儀ばかりの笑みを口元に称えたその刹那、歌うかのような玲瓏な声が劇場内に響いた。それは張り上げられた声ではなく、むしろ囁き声のようであったというのに、溢れんばかりだった観客席の熱狂を、一瞬にして消し去った。
『──嗚呼、ヨカナーン』
うっとりと、陶酔するような。だが、触れるものを皆凍えさせるような、冷え冷えとすら聞こえる声が、愛おしげにその名を呼ぶ。
その瞬間、黒門の体は氷漬けにされたかのように固まり、身動きを取ることができなくなった。眼球を動かす自由すら奪われ、未だ暗闇の舞台に、ただ釘付けになる。
『ようやく私のものになったのね』
先程と同じ、月光のように淡いスポットライトが、舞台の真ん中にいる立花希佐を──ヘロディアの娘、サロメを照らし出した。その細腕は、生々しくも精巧な作りの生首を捧げるように抱え、それを愛おしげに見つめている。
遠目から見れば、肌が透けるほど薄いヴェールを一枚羽織っている以外は、裸と見紛うようなネイキッドドレスを身に纏っていた。サロメは生首と踊るかのような足取りで、ドレスの裾を美しく翻しながら、舞台上をゆらゆらと揺れている。
『あなたはどうして私に口付けをさせてはくれなかったの?』どこか拗ねるような口振りでサロメは言う。『でも、あなたはもう私のものになったのだもの。私はあなたに口付けをするわ、ヨカナーン。その真っ赤に熟れたイチイの実のような下唇をゆっくりと食んで、やわらかく歯を立てるの──』
極上の夢を見ているようなうっとりとした面差しを浮かべ、サロメの指先が、固く閉じたヨカナーンの唇を愛撫する。口の端から滴る血を指先で掬い取り、まるで溶けたチョコレートを味見するかのように、ペロリと舌先で舐め取った。
『嗚呼、ヨカナーン。あなたはなんて美しいのかしら。あなたの肌はまるで象牙のように白く、艶やかで、瑞々しいわ。この濡れ烏のような青黒い髪も素敵よ。でも、あなたの唇ほど魅力的なものはないわ。ヨカナーン──嗚呼、ヨカナーン。これでようやくあなたに口付けができるのね』
強く、甘い花の香りに引き寄せられる虫のように、劇場中の意識と視線が舞台上に集中しているのが分かった。誰もが息を潜めている。それは、根地黒門も例外ではない。圧倒的な存在感と、絶対的な支配感が、猛烈な勢いで劇場中の空気を凍り付かせていく。
『あなたがその目を開いてくれたらいいのに。怒りと蔑みで冷え切った暗い虚のような目に、この私を映したなら、あなたのその虚な目も星空のように煌めいたに違いないのに。嗚呼、どうしてその目を開いてはくれないのかしら。ああ、分かったわ。あなたはきっと、私が恐ろしいのね、ヨカナーン。このヘロディアの娘、ユダヤの国の王女サロメが、恐ろしくて堪らないのでしょう?』
たまらなく美しく、あまりにおぞましい。
初恋を拗らせた少女特有の純粋さの中に、病質的な狂気がじくじくと膿のように滲み出てくる。自らが信じる正義を貫き通す正しさをひけらかし、楯突いたお前が悪いのだとばかりに、不義を歌い上げる。自分の命令で失われた命に対する罪悪感などは微塵も感じさせない。
それをあの立花希佐が演じている。
どこまでも透明で、あの個性豊かで才能溢れるユニヴェールにあっても尚、何色にも染まることのなかった立花希佐が、今となっては変幻自在に色を変える、本物の領域に達しようとしている。
《彼女はもう華でも器でもない》日本を発つ前、一応イギリスに渡ることは伝えておこうと、ドイツにいるはずの田中右宙為にメッセージを送ると、このような返事があったことを思い出す。《ただ在るべき姿でそこにいる》
また禅問答のようなことを──あのメッセージを受け取ったときは、そんなふうに思っていた。だが、理解してみれば言い得て妙だ。宙為は事実だけを手短に、正しく述べている。
今となってはもう、華や器といった役割を従順に演じる必要性がなくなったのだ。誰かを支えることも、誰かに支えられることもなく、誰かの隣に並び立つことを知った。クォーツを──もしかしたら、ユニヴェール全体を支えていたあの細い肩に伸し掛かる重圧は、もうどこにも存在しない。もはや、自らを稀代のアルジャンヌという枠に嵌め込む必要もない。言うなれば、立花希佐は何の前提も、しがらみも、先入観もなく、田中右宙為の言う通り、ただ在るべき姿でそこにいるだけなのだ。
『あなたが吐く毒の言葉は甘い蜂の蜜よりも甘美だったわ、ヨカナーン。でも、あなたはもう何も言わないのね。あなたの香りたつような声が、ほんの一言だけ、お前が欲しいと、そう言ってくれたなら、私はあなたにすべてを捧げたのに。この身も、心も、魂も──この唇だって、あなただけに捧げたのに』
サロメの指先が、ヨカナーンの頬を、酷く愛おしそうに撫でている。黒よりも黒い髪を、ゆっくり、ゆっくりと、大切そうに梳いている。だがしかし、そこにあるのは身体を失い、恐ろしい生首と化した頭だ。サロメは、ほんの寸前までヨカナーンだったものを抱えながら、涼やかな声で愛と憎しみの言葉を交互に囁いている。
『私はあなたに恋焦がれているのよ、ヨカナーン。初めて人に恋をしたの。恋は目に見えても、決して手は届かないものなのね。嗚呼、あなたがもし、私を見てくれていたなら、あなたは私に恋をしたはずよ、ヨカナーン。私はヘロディアの娘、ユダヤの王女。この世のすべてが私のもので、この世のすべてが私を愛し、尊び、平伏すけれど、そんなことはどうだっていいの。私はただ、あなたに恋しく思われたい──ただ、それだけなのに』
なぜだろうか。一見、サロメは誰の目にも魅力的な少女に見受けられるはずだ。蝶よ花よと持て囃されて育った一国の王女らしい気品があり、凛として美しく、その面差しからは無視することのできない高貴さが窺える。まさに折り目正しい王女の風格があり、高慢で、自信家だ。一国の王女として不自然なところなど何一つない。約束された地位と、富と、美貌がある。
それなのに、狂っている。
ただ、ただ狂っている。
他のすべてのことは正常なのに、その心が、精神だけが、救いようがないくらいに狂っている。自分自身もその狂気に気付かず、恋慕という感情に、盲目的なまでに溺れてしまっている。
『でもね、これであなたは私のものよ』サロメは恍惚とした面持ちでそう言うと、生首を力強くその胸に抱いた。『私はあなたを自由にできる。嗚呼、ヨカナーン。あなたはなんて美しいのかしら。私をこんな気持ちにさせた初めての人よ。恋しい、恋しいわ、ヨカナーン。あなたを思うと、胸がきゅっと苦しくなるの。身体の芯が熱くなる。心の臓が小鳥のように震えるの。心の半分は、あなたをこのまま犬や鳥に喰らわせ、辱めを受けさせたいと思っているのに、もう半分では、あなたが愛おしくて愛おしくて、口付けられることを願って止まないのよ』
サロメはヨカナーンの生首に頬擦りをした。
嗚呼、嗚呼──黒門の心臓は、早鐘を打つように激しく鼓動し、呼吸が荒くなる。体が芯から冷えていくのを感じているのに、顔だけが驚くほどの熱を帯びていた。金縛りにあったかのように、指先一つ動かすことができない。
ただただ、圧倒されていた。
なぜ、動画の中の彼女だけを見て、誰かの手によって既に完成されてしまったのだと、そう思ったのだろう。立花希佐は少しも完成などしていない。今もまだ、進化を続けている。
たった五年。
されど、五年。
この五年の間に、一体何があったというのか。
果てのない空のように、底のない海のように、その先に何が待ち受けているのかは、誰にも分からない。そこに行き着いた者にしか、分からないのだ。
「彼女は次々と新しい姿を見せてくれる」
体が硬直して、顔をそちらに向けることができない。だが、エステルを挟んだ向こう側に座っているスペンサー・ロローが、戦慄しているような震え声で、そう言うのが聞こえた。
「本当に、本当に恐ろしいよ」
「そう? わたしは危うく感じる」危うい? と問う息子の声に、エステルは小さく頷いた。「人の命も才能も、それが終わるときにこそ、最も光り輝くものよ。わたしはあの子に死を感じる。それが肉体的な死なのか、才能の寿命なのかは、まだ分からないけれど」
「君は相変わらず鋭いね、エステル」
「あら先生、何かご存知なの?」
エステルは目を丸くしてそう訊ねているが、ゴダンはただ穏やかに微笑むばかりで、何も答えようとはしない。エステルも食い下がるようなことはせず、呆れたようなため息を溢すと、再び舞台に目を向けていた。
頭上を飛び交う会話の内容が、頭に入ってこない。理解することができない。どうやら思考を放棄しているようだ。
今はただ、この全身に駆け巡る甘美の衝撃を、すべてあますことなく享受したいと思った。考えることならば、あとでいくらでもできるはずだと、このときの黒門はまだ、そのように思っていた。
果たして、これをサロメと呼べるのかどうか、という疑問が脳裏を過っていた。
クロエ・ルーが同役を演じたときも、メレディスは同じように思っていたのだ。自分がこれまでに観劇してきたオペラ、ミュージカル、演劇の『サロメ』とは殆掛け離れた表現に、思わず面食らってしまった。だが、今は亡き辛口で有名だった年老いた評論家が、クロエの演技を手放しで絶賛していた記事を読んだことがある。古き伝統に風穴を空け、新風を吹かせた圧巻の才能──確か、そんな文言だった。
自分は元来、古典表現に固執し、それを強く好ましく思う性質があることを、メレディスは知っている。古き良きなんとか、が好きなのだ。新しいものを受け入れようとすると同時に、古いものを切り捨てたくないとも思ってしまう。古き伝統も、新しい風も、どちらも否定されることがあってはならないものだ。新しく感じた風も、いずれは遠くへ吹き去るか、古き伝統へと還るのだから。
立花希佐の表現には、独特なものを感じる。往年の女優たちに負けず劣らずの古典的な表現を用いることもあれば、今回のサロメのように、誰も見たことがないような独自の解釈を、センセーショナルに開放することがあった。
「昨日は舞台を観に来てくれてありがとう、メレディス」
劇団カオスが休眠している間、希佐は外部の劇団でゲスト出演という形を取って、役者としての活動を続けていた。精力的に舞台に立っていた希佐はその都度、律儀にも公演チケットを届けに来てくれていたが、メレディスは自分で購入して観に行くからと、丁重に断っていた。
メレディスは一度だって予告することなく、実際唐突に劇場に足を運び、希佐が出演する舞台を観劇した。決まった席に座っているわけではない。それなのに、希佐は絶対に、観客席にいるメレディスを見つけ、店まで礼を言いにやって来る。
立花希佐は舞台の隅々までどころか、劇場の隅々にまで目を行き届かせることのできる、稀有な役者だ。その日の客の具合を見ながら、その日その日で、微妙に演じ方を変える。それ自体は、なんら珍しいことではない。だが、古い演劇仲間が希佐をゲストに招いたとき、こう舌を巻いていたことがあった。
「あの子はとにかく引き出しが多い。まだ若いのに、たいしたもんだよ」
引き出しの多さは、役者の幅と比例する。立花希佐は、何をやらせても、まるで生まれたそのときからそうであったかのように、そのものを演じるのだ。
「覚えているわよ」イライアスの頭越しにこちらを一瞥したクロエ・ルーが、口元に笑みを浮かべながら言う。「あなたは私がサロメを演じたときも、そんなふうに唇を窄めていた」
メレディスは瞬間的に自らの表情を取り繕おうとしたが、すぐに無駄な足掻きだと悟り、少しだけ困った顔をして笑った。
「本来、サロメは少女であるべきなのよ。七つのヴェールの踊りだって、ワイルドの脚本には〈サロメ、七つのヴェールの踊りを踊る〉としか書かれていないのに、エロティックな表現ばかりが期待されている。女優の生身の裸体を合法的に見物できるなんて揶揄されたこともあったわね」
三下のライターがSNSに投稿し、大炎上を起こした記事の話をしているのだろう。
当時、クロエはその記事を面白そうに読んでいたかと思うと、印刷をして劇場の掲示板に貼り出し、短いメッセージとサインを添えて反論したという。
【プロモーションのお手伝いをしてくださって、どうもありがとう。もちろん、チケット代をお支払いいただければ、女優の裸体は誰でも見放題よ】
åメンテナンスに大枚を叩いているのだから、その分儲けなければ損だと、クロエは言っていた。だが、気分が良いものではなかったはずだ。いくら演出だとはいえ、舞台上で脱ぐという行為は非常にセンセーショナルで、それを純粋に舞台芸術と捉える者の方が稀だったことだろう。下心を持って劇場に足を運んだ者も少なくはなかった。
「あの子、その必要があれば裸でも構わない、なんて言うのよ」カウンターのいつもの席で、気怠げに頬杖をつきながら、ダイアナは大きなため息を吐いていた。「クライアントの中にも一定数いるのよね、羞恥心をママンのお腹の中に忘れてきてしまったような人が」
「これがマダムから預かっている映像データだよ」
「ありがと」まるで何かの密売人のように、無記名の封筒をテーブルの上に滑らせると、ダイアナはそれをジャケットの裏ポケットにしまった。「あまり参考にはならないでしょうけれど」
「今日はマダムの奢りだからね」
「まあ、嬉しい」声音も変えずにそう言ったダイアナは、次も同じ酒を注文した。「私、苦手なのよ」
「何がだい?」
「演出上仕方がないということは理解しているのよ。でもね、必要とあればいくらでも脱ぎます、なんて、まるで人としての尊厳を無視しているようで、やるせなくなるの。私の考え方、間違っているかしら」
「ビジネスライクに答えた方がいいかな?」
「あなた個人の意見を聞かせて」
「私は舞台人に人としての尊厳を説くこと自体が無意味だと思っている」ダイアナは反論しなかったが、理解しかねるという顔をしていた。「彼らは──いや、僕もか。舞台人に一般人の常識や尊厳なんてありはしないよ、ダイアナ。僕たちは人間の皮を被っているだけの、社会不適合者なのだから」
「その割には世渡り上手じゃない?」
「舞台人は演じるのが上手いからね」
「まるで宇宙人ね」
「言い得て妙だ」
「私は真面目な話をしているのよ、メレディス」ダイアナはそう言うと、じっとりとした目でメレディスを睨んだ。「私はあの子にちゃんとしたお洋服を着せてあげたいの。素肌を晒すなとは言えない。だけど、あの子にはこれ以上、自分の身を削って欲しくないと思ってしまうのよ」
立花希佐が初めて目の前に現れた日のことを、メレディスは昨日のことのように覚えている。
その目には、今のような光はなく、絶望の色を滲ませていた。酷く痩せこけ、吹けば飛び、転べば折れてしまいそうな、弱々しさがあった。だが、どこか今よりも大人びて見えた。メレディスから見れば二十歳を過ぎたばかりの子供だったが、たくさんの人の善悪をその目に見てきたのだろうと感じる、達観したところがあった。
「猫を拾ったみたい」元居た場所に返してきなさい、と戯れに言ってやると、アランは少しだけ悪戯っぽく笑って言った。「勝手に入ってきたんだ」
まさに、希佐は気まぐれな猫のようだった。
一人でいることが好きなのかと思いきや、ふと目をやれば、人の輪の中で昔からの馴染みであるかのように、親しげに話をしていた。すりすりと足元に擦り寄りように懐いてきたかと思えば、すっ、と身を引いてどこかへ行ってしまう。付かず離れずの距離感が絶妙で、他者に不快感を与えない。むしろ、ついついこちらが構いたくなってしまう。
「随分と毛艶が良くなってきたね」
フロアで働く希佐を眺めながら、グラスの縁を撫でていたアランにそう声を掛けると、今度はどこか憂いを帯びたような眼差しが返ってきた。もう冗談でも、元居た場所に返してきなさい、とは言えない雰囲気だった。
立花希佐は、人の心にあるほんの僅かな隙間にするりと入り込んで、その場所を暖かく満たしてくれる。誰に対してもそうだ。メレディス自身も、希佐と話をしていると、心が優しく満たされるような心地になることがあった。悪意のない人間は存在しないという確信があるのに、この子だけは清廉潔白なのではないかと、そう信じたくなってしまう。
「誰も本当のキサを知らない」以前、アランが身を持ち崩しかけたとき、消え入りそうな声でそんなふうに口走ったことがあった。「俺は、彼女の好きなもの一つ知らない」
この三年もの間、立花希佐の最も近くに存在し、生活を支え続けてきたのは、間違いなくアラン・ジンデルだ。一つ屋根の下、互いの心が行き違うことはあっても、最終的には共にいることを選択した。
アランにとって、希佐は特別だ。
そして恐らくは、希佐にとっても。
「虚しいよ」
叶わない夢を見ることと、叶わない恋をすることは、よく似ている。
どちらも心を虚しくさせるものだ。だが、その虚しいという気持ちを知らず、理解のできない人生よりも、痛いくらいに思い知らされた人生の方がずっと豊かだと、メレディスは思う。
「君はあの子とどうなりたいのかな」メレディスは多くを望まず、坊やと呼ばれ続けることを選んだ。「彼女を繋ぎ止めておきたいのなら、プロポーズでもすればいい」
考えたことはあるはずだ。だが、それを実行に移さないのには、彼らなりの事情や理由がある。他人が口を挟むようなことではない。それでも、あの二人が互いに与え合っている影響には、計り知れないものがあると言わざるを得なかった。
二人は出会うべくして出会い、暮らすべくして暮らし、そして──。
『嗚呼、ヨカナーン』
そう言ってサロメが恭しく掲げた生首が、メレディスの目には、アラン・ジンデルに見えた。
本人には似ても似つかない、まるで本物の生きていた人間の生首を用意したかのように、生々しい生首だ。切断された傷口からは今にも鮮血が滴り落ち、サロメの美しいドレスを汚して、床に血溜まりを作るのではないかと思うほど、あまりに精巧に作られている。
いや、実際のところは、どこの劇団の倉庫にも眠っているような、マネキンの生首でしかないのだろう。希佐がそれを、たった今まで生きていた、預言者ヨカナーンに見せている。ただの小道具でしかないそれを、こうも生々しく、恐ろしげに見せている。
サロメを演じる希佐にとって、それはただの小道具の生首などではない。愛おしくて愛おしくて、口付けをしたくて堪らない、恋焦がれる相手の生首なのだ。
「私も大概だと自覚しているけれど、あの子も人並み以上に歪んでる」
そう漏らしたクロエの方を横目に見やれば、満足そうな顔が、舞台上を舞うように立ち居振るまう、美しい王女に向けられていた。
あのように演じている今も、希佐の目は劇場にいる観客の様子を窺っているに違いない。観客が演者を値踏みする以上に、演者が、観客を掌握している。劇場の隅から隅にまで目を配り、すべての視線を絡め取って、自らの体に釘付けにしている。
サロメはヨカナーンの生首に頬を擦り寄せ、抱き寄せ、愛と憎しみを囁き続ける。
脚本通りなのか、演出家の指示なのか、本来の『サロメ』とは掛け離れた、改変された新しい『サロメ』は、古典というよりも現代的だ。
「でも、彼女は負けてしまったのね」残念だわ、とクロエは言う。「手助けをして差し上げたかったのに」
「マダムの手助けは少し荒療治すぎたかと」
「あれが何年前のことだと思っているの? これくらいのことでもしないと、彼女は一生このままよ。成功や失敗のお話以前の問題だわ。前へ進むことを恐れる者に、上を目指せるわけがない」
「マダムは、ご自身を言い訳の理由にされているのが気に入らないのでは?」フランシス・ルロワの問いかけに、答える声はない。「いずれにせよ、クローディア・ビアンキがあのスポットライトの下で歌いさえすれば、彼女は完璧に舞って見せてくれたことでしょう」
稀に人は、降って湧いたようなチャンスに恵まれることがある。だが、そのチャンスを掴めるかどうかは、本人の選択次第だ。そもそも、転がり込んできた好機に気付くことなく、願ってもないチャンスを棒に振る者もいる。
「覚悟と度胸のない者に、舞台の神様は微笑んでくれないのよ」
この世界で生き残っていくためには、ほんの微かな好機も見逃さず、ものにする必要がある。常にアンテナを張り巡らし、些細な好機も見逃さない。
「ある程度のキャリアを積むと、そういうものが分かるようになってくるものなの」いつだったか、クロエが話していた。「いつか必ず、誰の元にも、絶対に逃してはならないチャンスが舞い込んでくる。それは大きなチャンスかもしれないし、ほんの一瞬の、奇跡のようなチャンスかもしれない。私たちはそのときに感じる確かなサインを、決して見逃してはいけないのよ。もしかしたら、それが自分にとっての、最後のチャンスになるかもしれないのだから」
それを選び取るも、見送るも、すべては自らの選択次第。だが、その選択一つで、その人の未来は大きく変わる可能性を秘めている。
「クローディア・ビアンキは大きなチャンスを逃しましたね」
次があれば良いのですが──そう言うルロワの声は酷く大らかに聞こえるが、所詮は他人事だというふうな響きを帯びていた。
ヘスティアでは、多くの若い才能を抱え、面倒を見ている。それは祖父や父の代から続けていることだ。エンターテイメント界隈に限らず、芸術家を目指す若者の手助けをすることもある。
だが、どの業界でも、ただ才能があるだけでは、何事も上手くはいかない。すべての若者たちの夢が叶えば良いと思う。それぞれが懸命に努力を重ね、夢に向かって邁進している姿を見守っているからこそ、そのように願ってしまう。
舞台や芸術の世界に明確な終わりはない。いつまででも、本人が望む限り、その夢を追い続けることは可能だからだ。一生趣味の延長線上で楽しんでいられる者は幸せだろう。上を目指せば目指すほど、楽しむことから遠ざかっていく者もいる。
「普段はあんなに無害ですって顔をしているのに──」クロエは、くすくすと、愉快そうに笑った。「無自覚って恐ろしいわね」
前々から、ずっと考えていたことが今、確信に変わる。
アランと希佐が、相容れない二人に思えてならなかった違和感の理由に、気付いてしまった。
立花希佐は奪う側の人間だ。クロエの言う通り、無自覚に、人の心から大切な何かを奪っていく。焦土と化した心に潤いが戻る者は強い。その悔しさを糧に這い上がれる者は良いだろう。だが、そうでない者は、希望という名の草木を枯らし、砂漠のように干上がった大地を、延々と彷徨い続けることになる。
メレディスは、希佐のことをずっと、献身的に周囲を支える、心根の優しい女の子だと思っていた。もちろん、その認識は間違ってはいないはずだ。しかしながら、彼女は分け与えもするが、それ以上に、人の心を大きく削り取る。
飢えや渇きを潤すために血肉を喰らう化け物のように、人の魂を喰らわねば生きてはゆけぬ死神のように、人の心を喰らうのだ。
対して、アラン・ジンデルは常に、与える側の人間だった。奪われる側の人間と言った方が正しいのかもしれない。子供の頃から、湯水の如く湧き上がる才能の泉を解放し、人々の心の渇きを潤してきた。心を固く閉ざしていたときも、自らの内側に存在する、才能の泉を枯らすことはなかった。
アラン・ジンデルは物語を生み出し続ける。
そして、立花希佐はその物語を消費し続ける。
『嗚呼、ヨカナーン──』抱え込んだ生首に口付けるその姿は、あまりに神々しい。『私はあなたに口付けたわ。ふふ。とうとうあなたに口付けたのよ、ヨカナーン』
きっと、あの二人は別々の神に愛されているのだろうと、メレディスは思った。
『口付けとはこんなにも苦いものだったのね。それとも、あなたの唇が特別苦いのかしら。でも、これが恋の味なのね。嗚呼、ヨカナーン。私はとうとう、あなたに口付けたのよ』
誰の目から見ても、互いを大切に思い合っている二人が、共に歩む道を選択しないということは、二人は感覚で理解し合っているのだろう。このままでは、互いが互いを殺し合うだけだということを。
もしかしたら、どちらかが才能を捨て去ってしまえば、解決する問題なのかもしれない。だがしかし、互いがそれを良しとはしないに違いない。相手の才能が失われるくらいなら、今この瞬間の思い出を一生の糧にして、別々に生きる道を選択するのだろう。
「あれがあなたのパートナーの本質よ」耳が痛くなる程の静寂の中、クロエがイライアスの耳元で囁きかける声が聞こえてくる。「あなたの手に負えるのかしら」
「僕以上に相応しい誰かがいると思うなら、ここに連れて来てください」
「連れて来て、どうするの?」
「その誰かを蹴散らして、僕の方が相応しいことを証明する。舞台の上でキサの隣に立てるのは、この僕しかいないから」
そう言うイライアスの面差しには、どこか挑むような、普段とは違った勇ましさのようなものを感じる。その舞台を睨む横顔を満足そうに見やったクロエは、吐息を漏らすようにして小さく笑った。
「頼もしいこと」
暗転した舞台。観客席の全員が息絶えたのではないかと思うほどの静寂。人間の息遣いは愚か、衣擦れの音も聞こえてこない。七つのヴェールの踊りを舞い終えた後との温度差に、背筋が冷たくなる。これを余韻と呼ぶには、あまりに静かすぎた。
「先に外へ出ていましょうか、フランシス」
「はい、マダム」
こちらに一瞥もくれることなく出口に向かって歩き出したクロエに対し、青い目の青年はイライアスに向かって意味深な眼差しを向けてから、メレディスを見てにこりと微笑んだ。
「以前の公演のときよりも格別に美しいサロメでしたね」
それでは、また後ほど──そう言って、礼儀正しく目礼をして去っていく背中に目を向けていると、隣に立っていたイライアスがこちらを振り仰いだ。
「メレディスもサロメの舞台を観に行ったんですか?」
「行ったよ」メレディスはイライアスを横目に見てから、そう応じた。「キサが出演した舞台はすべて観ているからね」
「そうですか」
「何か気になることでもあるのかい?」
「いえ、別に」
「僕がサロメを観劇した日、丁度彼も舞台を観に来ていたんだ」
ルロワと同じ日に観劇したのは、間違いなく偶然だ。観客が多ければ、雑多に紛れて互いに気付かなかったのかもしれないが、あの日の劇場は空席の方が目立っていた。
あれは、メレディスが紹介をした仕事だった。知り合いの劇団の主宰が困り果てていたので、暫くはオフだと聞いていた希佐に事情を話し、引き受けてもらったのだ。一ヶ月という短い準備期間、たった一週間の公演。無理を言って頼んだ手前、メレディスは多忙の合間を縫って、サロメの舞台を観に行った。
前衛的で挑戦的な舞台だった。希佐の演技も、歌もダンスも、ほんの短い期間で仕上げたとは思えない程の出来だった。前にフランシス・ルロワが行っていた通りの、まさに怪演だった。かつてこの目に観た、クロエ・ルーの『サロメ』と似ているようで、まるで違う、新しい形の『サロメ』。
「あのサロメは私なの」閉店後、がらんどうとした店内、いつものカウンター席で酒を飲みながら、クロエが言っていた。「何も知らなかった少女が恋を患って、それに溺れ、自滅する──あれは、若い頃の私自身を投影した姿に過ぎないのよ」
二人が演じたサロメは、共に少女だった。しかしながら、体の中心に打ち込まれた鉄の柱に刻まれる文言は、まるで違うようだ。クロエはサロメに自らを落とし込み、少女のように演じた。だが希佐は、身も心も魂も、まるで生まれたときからそうであるかのように、確かにサロメだった。
「私はね、本物を演じることは得意なのよ」でもね、と言って微笑んだ顔があまりに悲しげで、きつく抱き締めたくなったことを覚えている。だが、意気地のないこの心が、それを許すことはなかった。「決して本物にはなれないの」
クロエは本物を探しているのだと言っていた。舞台の上にしか存在しない、所詮は偽物と軽んじられる物語を、本物にしてくれる才能を。
この小劇場を使ったオーディションの一次審査を終え、一階のカウンターの内側で後片付けをしていたメレディスのところまでやって来たクロエの目は、あからさまに輝いていた。そして、息を弾ませながら、こう言ったのだ。
「ついに本物を見つけたかもしれないわ」
本物はいつだってすぐ目の前に存在しているというのに、なぜ、舞台の上でまで本物を追い求めようとするのだろうか。舞台を楽しむ人々の多くは、日常を忘れ、非日常を味わうために、劇場へと足を運ぶ。
ただ舞台人だけが、表現に命を賭け、身を削り、より本物らしさを追及する。まるで、彼らにとっては日常が非日常で、非日常が日常であるかのように。
『くじらの潜水時間ってどのくらいか知ってる?』いつかの公演後、アパートの管理人室で売上げの計算をしていたとき、自らの膝を枕にして眠るアランの頭を撫でてやりながら、ジュリアが言った。『アカボウクジラは四時間近く海に潜っていられるんだって』
どうして今、そんな話をする必要があるのだ──そう言いたげな表情を浮かべていたのだろう。アランが起きてしまうからと言って、少しも雑用を手伝おうとしなかったジュリアは、まあまあ、とメレディスを宥めてから続けた。
『ねえ、アランってくじらみたいだと思わない?』
『……言いたいことがよく分からないな』
『くじらは哺乳類だから、ときどき水面から顔を出して、呼吸をしないといけないでしょう?』作業の手を止め、頷くメレディスを見てから、ジュリアはアランに視線を落とした。『この子を見てると、普段はずっと海の中に潜っているみたいだなって思うんだ。時々息が苦しそうで。でも、舞台に立っているときは、胸いっぱいに息を吸い込んで、とても生き生きしてる。舞台に立っているときに息継ぎをして、後はずっと海の中に潜っているみたい』
なぜ今更になって、そんな昔のことを思い出しているのだろうと思いながら、メレディスは自虐的に笑った。
もうこの世にはいない人のことを思い出すと、まるで心が抉られるように痛む。特に、ジュリアのことを思い出すときは、罪悪感にも似た感情に苛まれた。彼女のために、もっと何か、してあげられることがあったのではないかと、分不相応なことを考えてしまう。
『だけど、くじらにとっては海だけが自分の居場所で、悠々と泳ぐ姿がとても魅力的なのよ。海は大陸よりもずっと広くて深いのだから、この子には、もっと上手い息継ぎの仕方を教えてあげなくちゃ』
自分は井の中の蛙だとアランは言っていた。だが、ジュリアはずっと昔から、アランは大海を知るくじらだと話していた。心の美しい、優しい子だと。他の誰よりもアラン・ジンデルを可愛がり、最期の最期まで、その身と心を案じていた。
『女はね、愛するよりも、愛されて結婚した方が幸せになれるんだって』メレディスも愛していた。だが、ジュリアを恋しいと思ったことは、一度もなかった。『私は愛されたい。だから、私だけを愛してくれる人と結婚をするの』
どうか、幸せに。
でも、その幸せも、そう長くは続かなかった。
ねことくじらは生きる世界が違う。ねこは片時、くじらの背を借り、大海原を旅しているに過ぎない。ねこはいずれ、くじら自身によって大陸に送り届けられ、そこで暮らしていくことになる。それが、この先もずっと続いていく。それが、舞台人としての、脚本家としての、幸せのあり方だと思う。
どちらか一方の幸せを選べと言われたら、メレディスは迷うことなく、アラン・ジンデルの幸せを願うだろう。自分は父親でも、兄でも、親類でもない。だが、家族だと思っている。
「……その子と一緒にいても幸せにはなれないよ、アラン」
照明が灯されたステージ上に、舞台袖から続々と演者たちが現れる。客席からまばらな拍手が起こり、それは徐々に、大きなうねりへと変わっていった。舞台の真ん中に立っているのは、派手に開幕を飾ったバージルだ。アランと希佐の姿はどこにも見当たらない。
「それはアランが決めることです」メレディスが独り言ちた言葉を拾ったらしいイライアスが、眩い舞台に目を細めながら言った。「その人が何を幸せに思うかは、他の誰にも分からない」
失礼します──そう言って、軽く会釈をしたイライアスは、毅然とした足取りで舞台に向かって歩き出す。中央で挨拶をしていたバージルは、イライアスがやって来ることに気づくと、その場で手招いて舞台に上がらせていた。
立花希佐は間違いなく本物だ。
だが、どこかで何かが欠けている。
その欠けている部分が、現在の立花希佐を立花希佐足らしめているのだとしたら、他の何かで補うべきではない。少なくとも、舞台人として生きたいと願い続けるかぎりは、欠陥品でいるべきだ。その欠けた部分が補われ、満たされた瞬間、今現在の立花希佐は、跡形もなく消え去るだろう。立花希佐の舞台に対する原動力は、底知れぬ飢えと、満たされない心なのだから。
自らの出番を終え、そのまま舞台袖に転がり込んだ希佐は、吐き気を催すほどの、酷い喉の渇きを覚えていた。玉のような汗が、額に、首に、腕に、全身に湧き上がり、滝のように流れ落ちていく。全身が燃えるように熱かった。それなのに、心は酷く冷え切っている。
「ノア──」掠れた声でそう呼べば、皆まで言わずとも、舞台袖に控えていたノアが蓋を開けた状態のペットボトルを差し出してくれた。「ありがとう」
ごくごくと喉を鳴らしながら、渇きを潤すために水を飲む。ペットボトルの表面がべこべこと音を立てて歪む。生ぬるい水を一滴残らず飲み干したとき、全身からどっと力が抜け落ちて、糸を切られた操り人形のように、その場に崩れ落ちた。
「キサ」ああ、そうだ、私は立花希佐だ──そう思いながら顔を上げると、バージルが目の前で膝をついている。「大丈夫か?」
「うん」
胸に抱えていたヨカナーンの生首が取り上げられた。一瞬、自らの半身がもぎ取られたような感覚に見舞われるが、それはまだ希佐の中にいるサロメの残滓に過ぎない。
希佐は床に座り込んだまま大きく深呼吸をしてから、その場にゆっくりと立ち上がった。よたり、と倒れそうになった体を、隣から伸びてきたバージルの腕が支えてくれる。
「キサ、ここに座りなよ」ノアは自分が座っていた椅子を空け渡すと、その場に立ったまま腰を屈めてディスプレイを覗き込んだ。「君の一人芝居のときと同じだね。みんなすっかり大人しくなっちゃって」
「……」
「キサ?」
「え? あ、ごめん」ディスプレイには客席の様子が映し出されている。誰も微動だにしない、まるで通夜か何かのような雰囲気に、少しだけ気分が沈んだ。「なんでもないよ」
呼吸を整える。自分の心臓の音が落ち着きはじめると、周囲が必要以上に静まり返っていることに気付いた。誰も彼もが息を潜めている。体の端々にこちらを窺うような、ちくちくと刺さるような視線を感じる。
いつもなら舞台袖で一番に出迎えてくれるアランの姿が、どこにもない──希佐がそのように思っていると、表情を見て察したのか、バージルが希佐の肩にとんとんと触れながら言った。
「あいつなら、ちゃんと最初から最後まで見てたよ。今はちょっとな」
「何かあったの?」
「いや、ああ、いや、まあ、気にするな」
バージルにしては珍しく歯切れの悪い物言いに、希佐は思わず首を傾げる。しかし、詳しい話を聞こうと食い下がるより早く、バージルは他の出演者たちに向かって声を上げた。
「どうやらアンコールはないようだし、残るは最後の挨拶だ。おい、そこのしけた顔してるお前ら、プロなら笑えよ。お客様はそんな顔を見に来てるわけじゃねぇんだからな」
「挨拶なら、私も──」
「ふらついてるだろうが」立ち上がろうとする希佐を椅子に押し戻し、バージルは着ていたジャケットを脱いで、肩に掛けてくれる。「お前はよくやったよ」
挨拶は任せておけと言って、バージルは出演者たちを従え、舞台上へと出ていった。ノアはそれに合わせて照明を調節している。ぱらぱらとまばらに起こった拍手はすぐに、大きく波打つような渦となり、劇場中に反響していた。
「アランが今日のご褒美に美味しいアフタヌーンティーに連れていってくれるって」隣に立っているノアがモニターを眺めながら、何の脈略もなく言った。「キサも一緒に行こうよ」
「それはノアのご褒美でしょ?」
「いいの、いいの。今日の一番の功労者はキサなんだから」
希佐も一緒に舞台上を映しているモニターを覗き込んでいると、バージルに手招きをされ、イライアスが姿を現した。お前も挨拶をしろとマイクを向けられたイライアスだったが、面倒臭そうに眉を顰めるその様子を見て、バージルは角が立たないように会話を繋いでいく。
バージルの挨拶はいつも通り、気安く、楽しげで、ユーモラスだ。まるで親しい友人と話をするかのように、客席に向かって言葉を投げ掛けている。
「ああ、キサ」バージルたちと一緒に舞台に向かったものと思っていたアイリーンが、どこか戸惑った様子で控え室から出てきた。「おつかれさま」
「アイリーンもおつかれさま」
「あなた、ご挨拶は? 行かなくて構わないの?」
「私も行くとは言ったのだけれど……」
「キサってばふらふらなんだもん」ノアが苦い表情を浮かべながら言う。「だから、バージルが座ってろって言ったんだよ。無理することないって」
「私たちはそれで構わなくても、お客様方はどう思うかしら。私がもしお客様なら、最後にもう一度今夜の顔を見たいと思うでしょうし、演者としても、劇場まで足を運んでくださったお客様に、ご挨拶をして終わらせたいと思うわ」
最後の出番を終えても、希佐の意思はサロメの心に押しやられ、ぼんやりとした霧の向こう側にいるような心地がしていた。せっかく手に入れた肉体をサロメが手放したがらず、心を繋ぎ止めようと足掻いているような、心が乖離したままのような違和感が続いている。
ふう、と息を吐き、気持ちを整える。
私は立花希佐だと確信しながら、裸足の両足でしっかりと床を掴み、ゆっくりと立ち上がる。広げた手の平を見下ろし、その一本一本を自らの意思で動かしながら、これは自分の体であることを言い聞かせていく。
「よし」希佐は両頬を軽く叩き、意識を覚醒させた。「やっぱり私も行ってくるよ」
「靴は?」
「このままで──」
平気だと、そう言い掛けた希佐の視界に、鮮やかな赤毛が映り込む。反射的にそちらに目を向けると、希佐のダンスシューズを手にしたアランが控え室から出てくるところだった。アランは何も言わずに希佐の前に跪き、右足を手に取って、そっと靴を履かせてくれた。希佐はアランの肩に手を置いてバランスを取りながら、何も言わずに形の良いつむじを眺めていた。
靴を履かせ終え、すっと立ち上がったアランの胸元から、クローディアの香水が香る。その瞬間、心の奥底に沈もうとしていたサロメの意識が急に浮上し、このように思った。
──私にこの人の首をくださいな。
嫉妬したのだろうか。いつものように送り出してくれなかったことに対して、憤りを覚えていたのかもしれない。楽しんでという、そのたった一言をもらえなかっただけで、恐ろしくやる気に火がついたのだ。有無を言わせず、自分の方を向かせてやりたいと思った。
この美しい人が自分だけを見つめ、身も心も魂も捧げてくれたなら、満足することができたのだろうか。いや、満足することなど、到底出来はしなかっただろう。
今度の役は、なかなか抜けない。
立花希佐を返してくれない。
自分自身の意思なのだろうか。それとも、サロメがそうさせているのだろうか。希佐は右腕をそっと持ち上げた。指先は喉仏に触れ、肌を撫で下ろし、シャツの内側にあるはずの琥珀で止まる。魅惑の、暗躍する、アンバー。
「俺の首が欲しいの」希佐の心を読み取ったかのように、アランは言う。「俺の身も、この心も、魂も、すべて君のものだよ、キサ」
「嘘吐き」
「嘘じゃない」Liar.と小さく囁けば、アランは優しく笑う。「君を好きだ」
「私は──」
「愛してる」なぜ今、そんなことを言うのだろうと、戸惑っているのは希佐の心だ。「他の誰かをこんなふうに思ったことはない」
なぜだろう。頬が、耳が熱い。心が徐々に熱を帯びる。
まるで興醒めしたとばかりに、希佐の中に存在したサロメの残滓が、泡沫のように消えていくのが分かった。冷たい両手を頬に押し当て、目を瞬かせていると、アランはどこか安堵した様子で息を吐いた。
「ほら、挨拶に行くなら早くしなさいよ」
「う、うん」アイリーンは呆れ顔で促し、ノアは良いものを見たとばかりににこにこと機嫌良く笑っている。「そ、それじゃあ、行ってくるね」
希佐は初めてサロメを演じたときにも感じていた。
彼女を演じていると、他の人格に体を乗っ取られ、自由を奪われるような感覚に見舞われる。演じている最中の何もかも、すべてを覚えているのに、それが自分ではなかったような気持ちになる。今回も、同じだった。少しずつ、少しずつ、自分ではなくなっていく感覚。今までにもなかったわけではない。だがしかし、今回はその感覚が、今まで以上に強いように感じられていた。
でも、もう大丈夫だ。アランの言葉は、いつだって希佐の心にまっすぐ届く。希佐が贈った言葉を大切にしてくれていることが分かる。あなたも私と同じ気持ちなのだと、そう信じられる。
カツン、コツン、カツン、コツン、カツン──希佐は、歩みを進めていた足を、ぴたりと止めた。見据えた向こうの舞台は明るい。舞台の袖は、世界の狭間だ。向こう側とこちら側では、空気、温度、目に見える何もかもが違う。
「アラン」連れ出そう。こちら側から、向こう側へ。もう、大丈夫だから。「一緒に行こう」
肩越しに振り返った視線の先で、アラン・ジンデルは緑色の目を大きく見開いていた。それ以上は何も言わずに、ただそっと右手を差し伸べる。
あと十秒──いや、五秒だけ待とう。
もうあまり猶予はないから。
希佐は笑った。あそこにはもう何の不安もないというふうに。舞台の上の私は誰よりも強いから。絶対に誰にも負けないから。私があなたを、護るから。
「……そうだな」ゆっくりと細められていく目を見ていた。その眼差しは、不安や恐怖などではなく、心からの安堵を物語っていた。「君と一緒なら」
しっかりと、力強く握り締められた手を握り返し、希佐は再び歩き出す。今度は、大切な人と一緒に。立花希佐の命を救ってくれた、素晴らしい仲間と引き合わせ、舞台の世界に連れ戻してくれた、新しい生き方を教えてくれた、最愛の人と一緒に。
二人が揃って舞台に出ていくと、軽妙な語り口で話をしていたバージルが、思わずというふうに沈黙した。唖然とした様子で目を大きくしている。しかし、すぐに破顔すると、こちらに向けて腕を持ち上げた。
「随分遅かったじゃねぇかよ。もう挨拶も最後の締めに入ろうかってところだってのに」にやにやと笑いながら言うバージルを、アランは面倒臭そうに見やっている。「今夜のステージを総括したのは、こちらのアラン・ジンデルだ」
静まり返っていた劇場内に、ざわざわとした喧騒が戻る。バージルが手招くと、アランは希佐の手を握ったまま、そちらに向かって歩き出した。
「お隣は、今夜の花形だな。KISAだ。俺の弟子」
これみよがしに付け足される「俺の弟子」という言葉に、希佐は思わず笑みを溢す。客席に向かってカーテシーをすると、途端に大きな拍手が湧き起こった。目の前に差し出された有線のマイクを反射的に受け取ってしまった希佐だったが、促すようなバージルの視線を受けて、小さく頷いた。
「こうしてたくさんの方々に足をお運びいただいたこと、そして、私たちのステージを最後までご覧いただけたことを、大変ありがたく、何より幸せに感じています。このあと、例年通りバンケットが行われます。お時間に余裕があるようでしたら、引き続きお楽しみください」
「相変わらずお前の挨拶は堅っ苦しいなぁ」
「だってバージル、ちゃんと告知もしておかないと、ヘスティアの王様にあとで何を言われるか──」半ばおどけた口振りで言い、バージルのジャケットを羽織ったままの体を抱いて身震いをすれば、客席から笑いが起こる。「ご存知の通り、今回の公演の売り上げ全額と、飲食代の一部が寄付金として賄われます。無理のない範囲で、ご協力をお願いします」
希佐は軽い挨拶を終えると、他の出演者にマイクを譲ろうとする。しかし、もうほとんどの人に回ったあとなのか、そのマイクを受け取ろうとする者はいない。思わず、隣に立つアランを見上げれば、小さく首を横に振るのが分かった。
ここまで出てきてくれたのだ、これ以上は酷だろうと思い、希佐はバージルにマイクを返す。
「何か一言ないのか?」
「ない」
そのはっきりとした言い様に、希佐は思わず笑ってしまった。こんなところに立っていても、いつものアラン・ジンデルであることが、希佐にとっては頼もしく、嬉しいことだった。
「ったく」がしがしと頭を掻きながらも、バージルの口元は緩んでいる。「んじゃ、今回はこの辺りで──」
そう言って、バージルが挨拶を切り上げようとしたときだった。客席のどこからか、Bis! と叫ぶ声が聞こえてくる。聞き覚えのある声だ。希佐がそのように思っていると、音の方向から推測するように、アランが客席に視線を走らせている。
「ルイだ」いつの間にか後ろにやって来ていたイライアスが、希佐の耳元でそう言った。「キサが出てきたからじゃないかな」
「えっ、私?」
「バージルのおかげでなんとかなったけど、あまり良い雰囲気ではなかったから」目を丸くする希佐を見て、イライアスは矢継ぎ早に続けた。「キサのダンスとお芝居は素晴らしかったよ。でも、なんていうか──」
「実際に人が死ぬのを見たような空気感だった」振り返った先には、真剣味を帯びた表情を浮かべた加斎中の姿があった。「ユニヴェール時代を思い出したよ。初めて田中右宙為の我死也を観たときと良く似ている、懐かしい感覚だったな。途轍もないものを見せてくれたね、立花」
「加斎くん……」
「勘違いしないで、悪い意味じゃないよ。純粋にすごいと思ったんだ。相変わらず君はすごいだなんて、俺はあの頃と同じ言葉を言うことしかできないわけだけど」
Bis! の声にmore! と言う声が続く。同じ方向から、別人の声だが、こちらも聞き覚えのあるものだ。恐らくはジョシュアだろう。希佐はイライアスと顔を見合わせた後、隣に立つアランを見上げた。続々と上がり始めるアンコールの声に、アランは何かを思案している様子だ。
「何かやれる?」希佐は思案顔のアラン越しに見える、バージルに声をかけた。「私は控えていた方がいいだろうから──」
「いや」言葉を遮るように声を上げたアランは、希佐とイライアスを順番に見る。「君たちが二人で踊れば、喜ぶ連中が大勢いる」
「どういう意味で……」
「そういう意味だよ」
何かを察したイライアスに向かって、やや面倒臭そうに笑って見せたアランは、再び希佐を見下ろした。その目はキラキラと輝いて、もう、人前に立つことを恐れてはいないように見受けられた。
「まだ踊れる?」
「え、あ、うん、踊れるけれど」
「イライアスは?」
「有り余ってます」
「待ってて」
アランはそう言うと舞台袖に引っ込んでいく。そこで見守っていたアイリーンに何事か声を掛けたかと思うと、今度はノアから受け取ったインカムで何かを話しているようだ。
「別の人の方がいいんじゃないかな」
「どうして?」
「私はもう十分やりたいようにやらせてもらえたし」
「君のあの演技を見たあとで何かをやりたがる人はいないと思う」その言葉の真意を探るような目を向ければ、イライアスは少し困ったような顔をした。「ごめん、キサ。どう言葉にして伝えるのが適切なのか、僕にはまだ分からないんだ。でも、僕はこれから先も、君のパートナーで居続けたいと思った。あの舞台に立つ君が僕のパートナーなんだって思ったら、やっぱり悔しかったけど、同じくらい誇らしかった」
「イライアス」
「僕は君に憧れているんだよ、キサ。君と巡り会えて本当に良かったと思ってる」
それはこちらの台詞だと、そう希佐は思う。ルイからは常々、イライアスにはもっと感謝しなさいと、耳にタコができるほど言われていた。たくさんの人が舞台の真ん中に立つことを志すこのウエスト・エンドで、遠い異国の東洋からやって来た女が何とか戦い続けてこられたのは、この国でも通用するようにと、きちんとした基礎を叩き込んでくれる人が、すぐそばにいたからなのだ。
ユニヴェールにいた頃から、立花希佐の根幹には、ダンスへの情熱がある。その情熱は今も途切れることなく、更なる高みを目指したがっている。劇団カオスに所属してからの三年、イライアスはずっと、パートナーとして隣にいてくれた。この手を取り、導くようにして、踊ってくれていた。
「キサ」イライアスは名前を呼び、まるで騎士がそうするように、希佐の前に手の平を差し出した。「僕と踊ってくれる?」
今夜、心の奥底には常に、動揺と葛藤があった。
だが、何かに思い悩むのは、やるべきことを完全に、そして完璧に終えてからだと自らに言い聞かせ、心を奮い立たせていた。スタジオに帰ったら、バスルームで熱い湯に浸かりながら、一人で反省会をするのだと。もっと他に、何か方法があったはずだと、そう思いながら。
それなのに、仲間の言葉はこんなにも、希佐の心を軽くしてくれる。まるで、この肩に伸し掛かる多くの問題を共に支えてくれるような、そんな心強さを感じる。自分は決して一人ではないのだと、そう思うことができる。
自らの恵まれた環境に心からの感謝をしたい。きっと、ここにいる限り、自分は孤独な怪物になることはないと、そう思える。加斎が言うような、田中右宙為が演じた『我死也』のがしゃどくろなどには成り得ない。劇団カオスという居場所が、立花希佐を守ってくれている。
希佐はイライアスの手を取った。トークで場を繋いでくれていたバージルは、アランが袖から戻ると、一度マイクのスイッチを切る。
「んで、結局どうするんだ?」
「楽団に一曲頼んできた」アランはそう言うと、希佐の体を覆っていたバージルのジャケットを手に取った。「カオスの公演で踊ったクイックステップが良いと思う。前にルイの前で踊ったときも一番出来がよかった」
「公演のときと同じように踊るんですか?」
「そう」
「分かりました」
名前を呼び、イライアスは希佐の手を引いて舞台を降りた。舞台の目の前、手を伸ばせば触れられるほど、客席が近い。いつの間にか舞台上に可動式のスポットライトが二台運び出され、それらが希佐とイライアスの姿を捉えて照射してくる。
バージルが客席のアンコールに応じている間に、イライアスはその場で軽くストレッチをしてから、希佐と向き合うようにして立った。
「あのね、キサ」
「うん?」
「僕、決めたんだ」有名なミュージカル映画の、オープニングで使用された曲のイントロが流れはじめる。「もう君に遠慮はしない」
イライアスは肩を落とし、首を真っ直ぐに伸ばして、希佐を迎え入れるように両腕を開いた。こちらを見つめる眼差しは今まで以上に挑戦的で、挑発的で、情熱的だ。希佐は大きく深呼吸をしてから、イライアスとの距離を詰めた。右手を握る力も、背中を引き寄せる手も、明らかに力強かった。だから希佐も、その思いに応えるように、左肩に添える手にそっと力を込めた。
音楽に合わせて歌い出したアイリーンの声を聞いて、イライアスは嬉しそうに微笑んでいる。
足を引く、そのタイミングにぴたりと合わせて、希佐は大きく足を踏み出し、イライアスの太腿を奥へと押しやった。希佐の手を掴んでいる左手が瞬時に反応し、ぴくりと神経質そうに痙攣するのが分かる。
遠慮をしていたのは自分の方だと、希佐は思った。
いつだってイライアスに甘えていたのだ。何も言わずとも、希佐が踊りやすいように気遣い、配慮し、補ってくれていた。当然のことながら、イライアスよりも劣っていることを言い訳にして、その方がイライアスにとってもやりやすいはずだと、自らに言い聞かせていた。希佐もずっと思っていたことを口にすればよかったのだ。もっとイライアスのやりたいようにやってくれていいのだと。だが、希佐には、やりたいようにやるイライアスについていける自信がなかった。レベルが違いすぎると諦めていた。
『イライアスは本来ならもっと別のパートナーと組ませるべきなんだよ』個人レッスンを受けている最中に、へとへとになって床に座り込む希佐に向かって、ルイがそう言ったことがある。『彼はレベルが高すぎるし、君は至って中途半端だ』
『中途半端……?』
『君は踊れる部類の役者だよ。このウエスト・エンドでも間違いなく上位に入る。でも、イライアスやバージルは生粋のダンサーだ。対して、君は役者だろう。彼らと肩を並べて踊るには、更なる努力が必要になる。君と踊るときの二人は、もちろん実力を出し切ってはいないからね』
そんなことは改めて指摘されずとも分かっていた。稽古の後、情けなくも床に倒れ込む希佐を尻目に、二人はいつも何でもない顔をして自分の稽古を続ける。基礎体力、実力、才能──すべてにおいて自分に勝ち目などないことは、重々承知していた。ダンスに掛けてきた時間も、情熱も、桁が違うのだから。
『卑屈になることはない。君が努力家なことは知っている』一瞬、ルイはこちらを挑発するような笑みを浮かべた。『彼らを言い込めたければ、もっと努力するんだ、キサ』
努力は決して裏切らないことを、希佐は知っている。たとえ求めた結果が得られずとも、努力の成果は残るからだ。イライアスやバージルに勝ちたいなどという分不相応なことは考えていない。ただ、少しでも近づきたいと思う。こんなものだろう、ではなく、本当の意味で認めてもらえるように。
もっと、もっと高みへと。
観客席の空いているスペースを、イライアスのリードに従って駆け抜ける。軽やかに、飛んで、跳ねて、幾度となく繰り返してきたステップを踏む。イライアスは希佐のフォローを待たず、自らのペースを崩さずに先へ、先へと行ってしまおうとする。
必死に食らいつくだけでは駄目だ。気を抜けば引きずられてしまう。
落ち着いて、呼吸を合わせる。
このイベントの稽古期間中、ルイに言われて、アランとワルツの練習をしていた。互いの呼吸とリズムを理解するための稽古だと話していた。
『二人とも、両手を自分の背中に回して、後ろで組んで』一向に合わない呼吸を見兼ねたルイが、些かうんざりした様子で言った。『そのままの状態でボディを離さずに踊るんだ』
もちろん、出来るはずがなかった。ホールドを解いた瞬間、今までの努力が水の泡になるかの如く、すべてがガラガラと音を立てて崩れ落ちた。希佐は何度も転んで、体中に痣を作る羽目になり、アランはあまりの居た堪れなさにボディコンタクトが疎かになった。
『アランはキサをホールドの中に閉じ込めて、自分の力だけで振り回そうとしない。キサはアランに体重を預けすぎないで。基本の姿勢を意識するんだ。相手と呼吸を合わせて、触れている場所から、リズムを感じる』
足形は完璧に覚えている。ルイの言っていることも、やらせようとしていることも、その意味もすべて理解出来ている。それなのに、意思の疎通ができない。二人に出来ることはただ、同じことを何度も何度も繰り返し、反復練習を行うことだけだった。
だが、人間というのは不思議なもので、同じことを何度も繰り返していると、頭で思考し、理解するよりも早く、体が反応するようになる。出来なかったことが、何の前触れもなく、ある瞬間からすんなりと出来るようになる。
『ああ、思っていたよりも早かったね』スタジオの隅でパイプ椅子に座り、本を読んでいたルイが欠伸交じりに言った。『では、以前のようにホールドを組んで踊ってごらん』
以前とは比べ物にならないほど踊りやすくなっていたことは言うまでもない。腹が僅かに接触しているだけの状態で踊り続けたことで、いつも以上に感覚が研ぎ澄まされ、相手の呼吸やリズムはもちろん、癖の一つ一つを知れたことが大きかった。そして今まで以上に、自分の足で立つということの重要さを学んだのだ。
希佐とイライアスとの間には、これまでに積み上げてきた信頼関係がある。だから、どんなことが起きても大丈夫だと、そう確信している。希佐が何をしても、イライアスなら、すべてを受け止めてくれるだろう。
ほんの少し、前とは違う。
努力は決して、無駄にはならない。
希佐は自らの意思を伝えるように、左手でイライアスの右肩をそっと押した。その反応はすぐに右手に返ってくる。背中をしならせた姿勢のまま見やったイライアスの顔を見た希佐は、思わず満面の笑みを浮かべてしまった。イライアスも同じように、あまりに楽しそうに笑っている。
音楽に身を委ねるとは、こういうことを言うのだろうと、希佐は思った。抑圧されていたものから解放されて、自由になるような感覚。驚くほど体が軽く、いつまででも踊っていられるのではないかと、そんなふうに思う。
劇場内を一周し、二周目に差し掛かる。一周目のときとは違って、周囲の景色を眺める余裕が出てきた。観客にとっては一瞬の光景でも、踊っている方からは、向こうの顔がよく見えるのだ。歓声を上げ、席から立ち上がって、両手を打ち鳴らす者の姿も少なくない。残像のように通り過ぎていく人の中に、見知った人の顔だけがはっきりと浮かび上がる。
丁度、出入り口付近に差し掛かったときだった。扉が開いているのか、ロビーからの光が差し込んでいるのが見え、希佐は不思議に思って目を留める。人影があった。それがクロエ・ルーだと理解した瞬間、イライアスは挨拶をするように目の前で旋回してから、希佐を連れて舞台の方向へと駆け出していく。
ふふ、と肩を震わせて笑いながら手を振るクロエの姿を、希佐は視界の端に捉えていた。