最初から分かっていた。まるで『サロメ』からの呼び声に呼応するように、希佐の影が少しずつ薄くなり、霞み掛かっていくような、そんな感覚があったことは。
生まれながらの舞台人は間違いなく存在する。かつては自分もそういう人間に違いないと、臆面もなく思っていたことがあった。さほど時を置かずして、それが間違いであったと気付けたことは、幸いだったと思う。
もう観ていられないと言って、サロメを演じる希佐から顔を背けたクローディアは、周囲に立ち呆けている出演者たちを押し退け、控え室に駆け込んでいった。自分に任せてくれという顔で小さく頷いたダイアナが、その後ろを追いかけていく。
希佐の演技は甘い毒となって全身に染み渡り、体を痺れさせて、身動きを取れなくさせる。クローディアのように目を逸らしたところで、その毒は脳の映像領域を侵食し、決して逃してはくれない。サロメの姿が脳髄に焦げ付いて、自らの意思に関係なく、その姿を何度も思い起こしてしまう。今夜、ここに集う大勢の人々の中の多くが、良くも悪くも、今宵のサロメを思い出すことだろう。
アランはすべてを見届けてから、控え室に駆け込んだクローディアの様子を見に行った。
クローディアは着替え用に設けた衝立ての向こう側で、ダイアナに背中を摩られながら、前のめりの格好で冷たい床に座り込んでいた。辺りには、ツンと刺すような臭いが漂っている。アランは、その辺に転がっていた未開封のペットボトルを手に取り、蓋を開けてやってから、顔の前に差し出した。
「何なのよ……」
「口、ゆすいで」
鏡の前に置いていた自分の鞄を抱え上げ、その中からタオルを取り出す。青白い顔で口をゆすぎ、大きく息を吐き出したクローディアにタオルを渡し、嘔吐物の入ったゴミ箱の袋の口をきつく結んだ。
「……みっともないって思っているんでしょ」クローディアは衣装のスカートを強く握り締めながら、消え入りそうな声で言った。「情けないって」
「思ってない」
「もう何年も前のことを未だに引きずって、関係のない人に勝手に劣等感を抱いて、嫉妬して、嫌悪してる。何より、そんな自分に幻滅しているの。ほんの数分前の自分の選択を心底後悔しているのよ。何が何でも舞台に向かうべきだった。恐怖に立ち向かうべきだったって。そんなことは分かってる。だけど、足が竦んでしまって動かなかったの。だって、あんな……」
「クレア」顔を覆って泣き出したクローディアの肩を、ダイアナがそっと抱き寄せる。「気持ちは分かる、とは言えないわね。でも、そうやって自分を責めるのは良くないわ。人生に失敗はつきものよ。私なんて一時期はホームレスになりかけたけれど、今じゃ引く手数多のデザイナーなんだから、挽回のチャンスはあるわ」
「これがそのチャンスだったのよ」
そして、そのチャンスがそう度々訪れるものではないと分かっているからこそ、クローディアは酷く後悔しているのだろう。
あのとき、自分の胸にしがみつくクローディアの体を無理やり引き剥がしてでも、希佐の後を追わせ、舞台に押し出すべきだったのだろうかと、アランは思っていた。覚悟の決まっていない者を舞台に追いやり、粗末なものを観せることになれば、観客の期待を裏切り、クローディアのトラウマはより根深いものになっていたはずだ。
立花希佐の演技がどのような仕上がりになるのかは、舞台に立つその瞬間まで、誰にも分からない。だから、劇団カオスの仲間たちは、常に覚悟していた。目の前にどのような怪物が姿を現しても、決して心を乱したりはしないと。それを支えられるだけの度量が、カオスにはある。
『あんなものではないはずなのですが』
クローディアの歌に合わせて、希佐が踊る──その稽古風景を眺めていると、誰の差し金か頻繁に稽古を覗きに来ていたフランシス・ルロワが、知ったような口振りで声を掛けてきたことがあった。進んで話をしたい相手ではなかったが、特別嫌っているわけでもない。
『誰もがあの女性の真価を見誤っている。そうは思われませんか?』
「君の個人的な評価が万人の総意とは限らない」
「流暢なフランス語お話になると聞いていたのですが」
「Si tu veux tellement parler français, retourne chez ta mère.」
アランがそう言ってやると、ルロワは青い目を驚いたように丸くしてから、どこか困ったように笑った。
「あなたと仲違いをしたいわけではありません」
「君の音楽性は嫌いではないけど、親睦を深めたいとは思わない」
「それは残念です。私はあなたの織り成す言葉が好きですよ」
「それはどうも」
「もしかして──」咄嗟に口をついて出そうになったのだろう、ルロワは慌てたようにその言葉を飲み込んだ。「いえ、これは失言になりそうです。やめておきましょう」
それから暫く、二人の間に言葉はなかった。ただ横並びになって、舞台上で歌い、踊る者の姿を、ただじっと眺めていた。
「あなたはあの方のサロメをご覧になりましたか?」
「いや」
「ご覧になっておくべきでしたね」アランが横目を向けると、ルロワは気味の悪いほどねっとりとした眼差しを、舞台に立つ希佐に向けていた。「私はあれ以来、あの方の演じるサロメの姿が、脳にこびりついて離れないのです」
「そう」
「おや、心配にはなりませんか?」
「あの女は曲がったことが嫌いだ。君はあの女から不評を買うようなことはしない。君はあの女を好きで好きでたまらないようだから」
「あなたは違う?」
「嫌いだよ。殺したいくらい」
「愛と憎しみは紙一重と言います」
「あの女を殺すときは、君も一緒に殺してやる」
「恐ろしいことをおっしゃる」ルロワは、ふふ、とあの女そっくりに笑った。「冗談はさておき、あの方はマダムと同等か、それ以上に至る可能性を秘めた舞台人です。あ、これはマダムには内緒でお願いします。気分を害されると思いますので」
「口を滑らせないよう気をつけるよ」
「とにかく、あの方のサロメは凄まじいものでした。マダムが演じたサロメ以上に。再演を切に願う傍ら、もう二度と演じてほしくはないとも思ってしまうのです。とても神聖で、同時に冒涜的な、いかにも人間らしい穢らわしい部分を、何の躊躇いもなく曝け出してしまう。あのサロメは、コ・イ・ヌールのように、特別なときにのみ、人の目に触れるべきものです」
「あの女にとっては特別な日なんだろ」
「あなたはにはマダムのお考えが手に取るように分かるのですね」
「君ほどではない」
とても神聖で、同時に冒涜的な、いかにも人間らしい穢らわしい部分──言い得て妙だと、アランは思う。恋慕や愛情などというものは実に人間らしい感情だが、それが幸せを運んでくるとは限らない。むしろ、人を不幸にするものだと考える者もいる。愛情なんてものは所詮まやかしに過ぎない。一時的な気の迷いなのだと。
愛に溺れた者の末路は悲惨だ。男の言葉を盲信した結果、子供を孕った途端に厄介払いされ、ものの見事に捨てられた。まだ十七歳の子供だった。だからといって許されるわけではないが。
愛は人を狂わせる。ほんの些細なことでも、憎悪に染まる。
それは、恋愛に限ってのことではない。
家族、友人、ほんの少し前までは無害だった、誰か。
『本当に、マダムは酷なことをする』
そう言い残して、フランシス・ルロワは劇場を去っていった。クロエ・ルーの魂胆を理解しているからこそ出た言葉だろう。酷なことと分かっているのに、それをやめさせようとはしない。
あの女は何の前触れもなく、他者に人生の分岐点を提示する。伸るか反るかは自分次第だ。賭けに勝てば間違いなく名声を手に入れられるが、もし負けてしまえば、その後の人生が少しずつ狂った方向へと進んでいくこともある。
立花希佐は賭けに勝ち、クローディア・ビアンキは負けた。
だが、クロエはクローディアを希佐の引き立て役に仕立て上げたわけでも、貶めようとしたわけでもない。その辺りは公平な人間だ、どちらにも同じだけのチャンスを与えた。両者共に成功する可能性もあれば、失敗する可能性もあった。
もし、もしも、クローディアが自らの勇気を奮い立たせ、己を鼓舞し、舞台に向かっていたなら、希佐は全身全霊でその美しい歌声を支えようとしただろう。結果、あの女の期待を裏切ることになっていたとしても。
「君は失敗したわけじゃない」
「失敗することすら放棄したわ」
「今回は残念だったけど、また次がある。クレアには他の人にはない才能があるから」アランがそう言うと、クローディアは顔を上げ、こちらを見上げた。「こんなふうに言って慰めた方がいいの」
「ちょっと、アラン!」
「死力を尽くして、それでも上手くいかなかった人を慰めることと、舞台にすら上がらずに自分の選択を悔いるだけの人を慰めるのとでは、意味が違う」
「だからって、そんな言い方──」
「誰のせいでもないことはクレアが一番良く分かっているはずだ」ダイアナの鋭い眼差しを受けても尚、アランは口を噤まなかった。「君が自分の意思で舞台に背を向けることを選んだ。その選択は責められるべきじゃない。自分が下した決断だ、自分で責任を負えばいい。少なくとも、俺はずっとそうしてきた」
舞台に背を向け、また前を向き、ここへ戻ってくるまでに、長い時間が必要だった。だが、後悔しているのだと言って、自らの選択を顧みることができるのなら、きっと大丈夫だろう。
「どちらを選んでも地獄なら、後悔しない地獄を選んだ方がいい」
後悔し続けていた日々を振り返ると、自分はなんて無駄な時間を過ごしてきたのだろうと、そんなふうに思ってしまう。無意に過ぎ去った時間はその価値を失い、取り返しのつかない過ちを犯したのだという、罪の意識に苛まれる。もう何もかもが手遅れだ、今更何をしたところで、手放した時間を取り戻すことなど出来はしないのだと。
人生はいくらでもやり直せる、などという言葉は、ただの綺麗事だと思っていた。所詮は絶望の何たるかを知らない成功者が口にする、水で薄めた味のしない酒のような、価値のない言葉だと思っていた。
自分の人生はこれでいいのだと、そう甘んじた瞬間に、人は歩みを止める。幸せの最中か、苦痛の渦中か、それは分からない。だが、今以上を求め、渇望したとき、人は再び歩みを進めることができるのだと、希佐は教えてくれた。立花希佐自身が、それを体現してくれた。
あの日、あの時、あの瞬間──アランは希佐に恋をした。
今はこんなにも、愛している。
この感情が憎悪に取って代わる可能性は皆無ではない。それでも、恋をした瞬間、愛した日々は決して、無駄でも、無意味でもなかったと、そう思えるはずだ。
「お前、このクイックステップが好きだよな」舞台の上で、二人が楽しげに踊る様子をぼんやりと眺めていると、隣に立つバージルが言った。「本当は自分が踊りたかったんじゃねぇのか?」
「なんで」
「なんでって、そりゃお前──」こちらを見上げたバージルは何かを言いかけるが、すぐに口を噤んだ。「いや、なんでもねぇよ」
バージルは、はあ、と大きく息を吐きながら、これみよがしに肩を落とす。それから、舞台上で一歩前に立ち、舞台裏の生演奏に合わせて歌うアイリーンの方を一瞥してから、再びアランを見上げた。
「クローディアはどうしてた?」
「吐いてた」
「まあ、吐きたくなる気持ちも分かるわな」バージルはそう言って小さく肩をすくめる。「まさか、止めの一言をお見舞いしてきたわけじゃねぇだろうな」
「あの状態の人間には何を言っても無駄だよ。好意的な言葉もすべて皮肉に聞こえるから」
「フォローしてやれよ、幼馴染なんだろ」
「俺は上手い慰め方を知らない」
クロエ・ルーの『サロメ』を観劇した後、酷く落ち込んでいたクローディアを前にしても、アランには掛ける言葉が見つからなかった。持たざる者の苦悩が理解できなかったからだ。
こういうとき、何を言えば良いのか、どうするべきなのかが分からないと正直に伝えたアランに向かって、優しく抱いて慰めてほしいと、クローディアは言った。後日、それを知ったダイアナに、頬の内側が切れるほど強烈に殴られたことを、ふと思い出した。
そこには何の感情も、快楽も、劣情もなく、ただただ不快感が満ちていた。
思えば、あの頃からクローディアとは疎遠になり、ダイアナを含めた三人で出掛けていた食事にも、次第に足を運ばなくなっていった。幼馴染で、仲の良い友人だと認識していた。だが、それ以上を求められ、試してみたが、アランの体は彼女を間違いなく拒絶した。
相手が男であろうと、女であろうと、不快なものは不快だった。その不快感を全身で享受しながら、そんな自分の不幸に溺れ、悦に浸っていたのだ。幼い子供の体をもてあそんだ者の快楽はいかほどのものだったのかと、そんなふうなことを考えながら。
「今はダイアナに任せた方がいい」
心地良い体温と、身を委ねられる安心感と、命を感じる心音に安堵したのは、はじめてのことだった。体を重ねていると、生を実感した。生きている。食べることも、眠ることも出来ず、死んでいないだけだった自分が、希佐の隣にいるだけで、程々の人間らしく振る舞える。
手放す準備と覚悟は疾うにできていると思っていた。それなのに、今は、酷く惜しい。希佐が遠くに行くと思うだけで、自らの身が切られるような痛みを覚えた。すべてを捨てて、自分だけを選んでくれたらいいのにと、そんなふうに思ってしまう。どこにも行かないでくれと無様に縋り付いたら、考え直してくれるだろうか。日本に帰らず、ずっとこの国にいてくれるだろうか。そんな、夢物語のようなことを考えては、アランは自らの幼稚さに嫌気が差した。
自分は、いつからこんなにも、諦めが悪くなってしまったのか。何かに執着することを覚えてしまったのか。どうしたら、彼女を手放した後も、彼女のそばにいることができるだろう。物理的な距離を埋めるためには、一体何をしたらいいのだろう。自分の命にすら頓着していなかったというのに、今では、目の前の一分一秒が、名残惜しいと感じている。
音楽が終わる。丁度舞台の目の前まで戻ってきた二人は、互いを讃え合うように軽く包容を交わすと、客席に向かって恭しくお辞儀をして見せた。古い建物は観客たちの拍手と歓声で、ビリビリと震えるように振動している。
「ま、今はこの成功を喜ぶとしようや」
バージルはそう言うと、アランの背中をとんとんと叩いてから、マイクのスイッチを入れた。
自分はまたこの場所に戻ってきたのか──そんなふうに思いながら客席に目をやっていると、不意に視線を感じ、アランはそちらに目を向ける。
そこには、どこか物憂げに笑う、希佐がいた。
言いたいことは分かっている。一見すると、今夜のチャリティーステージは大成功を収めたように感じられるだろう。だが、客席からでは決して見ることのできない舞台裏は、相変わらずどろどろとしていて、底なし沼のように泥濘んでいる。何もかもが綺麗に終わりを迎えられたわけではない。けれど、ここはそういう世界なのだ。誰かが輝けば、誰かが翳る。
君が気に病む必要はないのだと、そう言ったところで、希佐は酷く心を痛めるのだろう。それでも、絶対に歩みを止めないことを、アランは知っている。
「ねえ、どうしてわたしを誘ってくれないの?」劇団カオスを立ち上げたばかりの頃、クローディアは気に入らないという顔をして、そんなふうに言ってきた。「わたしたちが間違いを犯したから?」
「そうじゃない」
「じゃあ、どうしてなのよ」
アランはただ純粋に、昔の劇団関係者と新しい劇団を立ち上げたくなかったのだ。噂を聞いた誰かが、自分も仲間に入れてくれと押しかけてくることは目に見えていたし、元々懇意にしていた連中は、既に役者の道を諦めていたり、大成している者がほとんどだった。
学生時代の伝手を使って劇団を転々としていたクローディアにとって、アランが新しい劇団を立ち上げたという話は、まさに青天の霹靂だったはずだ。なぜ、自分に声が掛からないのだと、不思議に思ったことだろう。
「今に見てなさい、アラン・ジンデル!」劇団カオスに、歌姫は二人もいらない。「そう遠くない未来に、あなたは私の歌声を聴いて、地に平伏すことになるわ!」
自分は存外残酷な人間だという自覚が、アラン・ジンデルにはあった。好意的な思いを寄せている者以外の人間には、ほとほと興味がない。どうでもいいと思っている。こんなことを言ったら、ダイアナはまた自分の顔を思い切り殴るのだろう。だがしかし、大切にすべき人々とそれ以外の間に明確な差を設けなければ、心は擦り減る一方だ。
何が違うのかは分からない。だが、何もかもが違う。誰も彼もに優しさを振り撒けるほどの余裕や寛大さは、持ち合わせていないのだ。だからこそ、今は届く範囲で、大切な人たちの手だけを握り締めていたい。
「アラン」
挨拶が終わり、緞帳が下される。他の出演者たちが散り散りになる中、その場を動かずにいると、舞台袖から出てきたダイアナがいの一番に声を掛けてきた。想像していた通り、険しい面持ちを浮かべている。
「あの子の話を聞いてあげて」
「ダイアナ」
「私たち三人きりの幼馴染みじゃない」
「君は彼女が俺に何を求めたか知ってるはずだ」
「若気の至りよ。あなたにだって経験あるでしょ?」ダイアナはアランの胸ぐらを掴み、ぐっと顔を寄せる。「友達は大事になさい」
「友達?」
「また殴られたいのかしら」
本当にただの友達なら、落ち込んでいる自分を慰めるために抱いてくれなんて、そんなことを言うはずがない。本当の友達なら、一緒に気晴らしに出掛けるなり、美味いものを食べに行くなり、ぐだぐだになるまで飲み歩くなりするはずだ。
同意はした。確かにそうだ。だが、あの瞬間から、既に友情は破綻している。
「仮に彼女の話を聞いてやったとして、それからどうする」ダイアナは寝不足で判断力が鈍っているだけだと思いながら、アランは静かに言った。「俺にはどうしてやることもできない」
「話を聞くだけよ」
「話ならした」
「あなたが一方的にね」
「クレアが何を言いたいのかは想像がつく」
「たとえそうだとしても、友達なら──」ダイアナが発する友達という言葉に、思わず頬が引き攣るように痙攣する。その微かな表情の変化を見逃さなかったダイアナの目は、更に鋭さを増した。「私たち、今でも友達かしら」
「そう思うよ」
「じゃあ、クレアは?」
「幼馴染みだ。君がそう言った」
舞台の真ん中で、今にも殴り合いの喧嘩を始めそうな二人を遠巻きに、周囲が少し騒がしくなる。はいはい、散った散った──バージルが面倒臭そうに出演者たちを舞台袖に追い払い、こちらに軽く目配せをすると、大袈裟に肩をすくめてみせた。
「うちの商品の顔に傷をつけるんじゃねぇぞ」
「私も出来ることなら大事な商売道具で人を殴りたくはないわね」
「俺はここで見てるからな」
二人きりにするのは危険だと感じたのだろう、バージルはそう言い、じっとりとした目をこちらに向けてくる。そうして他人の目が向けられたことで、多少は頭が冷えたのか、ダイアナは掴み掛かっていたアランのシャツから手を離した。
「……急に掴み掛かって悪かったわ」シャツから外れた小さなボタンが床に落ち、ころころと転がる。ダイアナはそれを拾い上げながら、大きく息を吐き出した。「あの子、急に線引きをされたみたいだって、寂しがっていたのよ。あなたは新しい劇団を立ち上げて、気の置けない仲間たちと楽しく過ごしていたのでしょうけれど」
まるで俺だけが悪いかのような口振りだな──寸前のところで、その言葉を飲み込む。言いたいことはあるが、それが火に油を注ぐ行為であることは明らかだ。黙っていれば丸く収まるのであれば、それに越したことはない。
「あの子がどんな思いでいたか、少しでも考えてみたことある?」
「自分から彼女を遠ざけた覚えはない」
「新しい友達とばかり一緒にいたら、それは遠慮だってするでしょ」
「君は遠慮をしたの」
「私はあなた方と接点があったわ。でも、クレアは違う」
ダイアナは情に厚いが、本来は思慮深く、どちらか一方を責め立てるような物言いをする人間ではない。これは、もうずっと前から溜まりに溜まっていた鬱憤が爆発した結果なのだろうと、アランはどこか冷めた頭の隅でそんなことを考えていた。
このまま話を続けたところで埒が明かないと判断したのだろう、ダイアナは小さく頭を振り、この場を切り上げることにしたようだ。
「とにかく、一度で良いからあの子の話を聞いてあげてちょうだい。二人きりが嫌なら、私も同席するから」
頭痛を訴えるようにこめかみを押さえながら、アランの肩にそっと手を置くと、ダイアナはそのまま舞台袖の方へと戻っていった。
ああ、面倒臭い──流れるように、そんなことを思う。苛立ちを振り払うように頭を掻き、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせていると、バージルが腕組みをしながらこちらに歩み寄ってきた。
「まあ、なんだ、交友関係っていうのは、日々変わりゆくものだろ」バージルはそう言うと、まるで子供にそうするように、自分よりも高い位置にあるアランの頭を乱暴に掻き撫でた。「俺はお前に拾われて良かったと思ってるし、感謝もしてる。こうやって面倒を見てやるのも悪い気はしねぇし、それに、これは一生の付き合いになるって確信もしてるんだ」
どうすれば良かったというのか。自分自身の面倒すら見られない状態だったというのに、なぜ他者の面倒まで見なければならないのか。ようやく手に入れた自分の居場所で、新しい一歩を踏み出すことの、何が悪なのか。
間違いなく線引きをした。このままでは搾取される一方だと確信したからだ。
母親の命令に従ってオペラ歌手を目指していたクローディアは、母親から日々与えられる重圧に耐えかね、精神を擦り減らしていた。劇団には、社会勉強のためならと、入団が許されたと聞いている。劇団員だった父親に連れられて来ていたダイアナや、既に舞台に立っていたアランとは年が近かったので、面倒を見てやるように言われていた。
そして、その面倒を見てやる関係が、その後も長く長く続いたのだ。クローディアはアランやダイアナを慕っていたが、それは半ば依存に近く、何でも言うことを聞いてくれる存在として扱われているように感じていた。
一線を引き、適度な距離感での付き合いを続け、互いに新しい人間関係を築いてきた。少しは大人になり、自らの過去を顧みる余裕も出てきたようだと思っていたが、どうやら考えが浅かったらしい。
「お前が優しいやつだってことは知ってる。でもな、その優しさの方向性を間違えると、いずれお前自身が厄介な目に遭うことになる。あの手のタイプの女は──いや、そこまで首を突っ込むのは違うよな。悪い、忘れてくれ」
「俺は少しも優しくなんかない」バージルはアランの頭から手を下ろし、先の言葉を促すように首を傾げた。「本当は心底どうでも良いんだ。俺自身が大切だと思える人以外のことなんて、どうだっていいと思ってる」
アランがそう言うのを聞き、バージルは大きく目を見開いたかと思うと、ぷっ、と吹き出すようにして笑った。ははは、と腹の底から笑う様子を見て、アランは目を丸くする。
「自分だけがそんなふうに考えてるって、本気でそう思ってるのか?」
「え……」
「誰だってそう思ってるに決まってるだろうが。俺はお前やカオスの連中を大切に思ってるし、もしその他大勢とお前たちを天秤に掛けられたら、躊躇なくお前らを選ぶ。今回のイベントだって、お前たちが乗り気だったから協力しただけだ。そうじゃなかったら、他のやつらの面倒なんか見るわけねぇだろ」
仮に、それがアランの気を紛らわすために口にした言葉であったとしても、心は思いの外軽くなった。今宵の顔が希佐ならば、功労者は間違いなくバージルだろう。この準備期間中、諸肌を脱いで指導に従事してくれていた上に、本番は先陣を切って盛り上げてくれた。
「人にはそれぞれ適切な距離感ってもんがあるんだ。触れられたくねぇやつに触れさせる必要はないと思うぞ。どんなに付き合いの長い相手だって、反りが合わないってこともあるだろ」
「まあ、そうかも」
「そもそも、友情なんてもんは砂糖菓子よりも脆かったりするしな。アメリカにいたときの交友関係なんてほとんどぶった斬ってきたし、カオスの連中は家族みたいなもんだから除外するとしても──」バージルはそう言いながら、何かを指折りで数えはじめる。「友達なんて数える程度しかいやしねぇ」
「俺も友達は少ない」
「その頭に思い浮かんだ数少ないやつが、お前が大切にすべき誰かなんだろうよ」そう言ってこちらを見上げるバージルの目が、かつてないほど穏やかに見えた。「どうするかを決めるのはお前自身だけどな、あんまり考え込むんじゃねぇぞ。情に流されて同情したところで、誰のためにもならねぇんだから」
「分かってる」
「そうか」
もう既に、舞台裏や控え室にクローディア・ビアンキの姿はなかった。衣装の回収をスタップに任せ、ダイアナが外に連れ出したらしい。控え室には、様々な香水の入り混じった匂いが充満していた。たまらず換気扇を回すと、澱んでいた空気がゆっくりと動き出す。
「キサは?」
アランがそう問うと、舞台袖でノアと一緒に機材の後片付けをしていたジェレマイアが、曲げていた腰を伸ばしながら口を開いた。
「まだ劇場の方にいるんじゃないか。オレが見たときは、グレアム・メイヒューと話をしていたけど」
「あのオッサン、本気でキサにちょっかいかけようとしてるんじゃねぇだろうな」
「キサなら上手くあしらうでしょ。イライアスも一緒にいたし、大丈夫だと思うけど」ああ、でも──と言いながら、ノアは人差し指で鼻の頭を掻く。「まだ冷えるし、風邪を引くといけないから、誰か着るものを持っていってあげてよ」
アランは自分の腕に掛けられている、バージルの衣装の上着を見やる。その様子を目の当たりにしたバージルは、まるで野良犬を追い払うようにアランに向かって手を振ると、控え室に引き上げていった。
舞台裏からは、着替えを終えた出演者たちが、続々と出て行っている。打ち上げをしないことは事前に伝えているので、このままバンケットを楽しむなり、帰宅をするなり、自由に選ぶことが許されていた。劇場の掃除や最終的な後片付けは、明日、有志を募って行われる。
空気は明らかに重たい。互いを労う言葉も、舞台裏を去る足取りも、酷く重々しい。こんなはずではなかったと、誰もが思っていることだろう。
自らの才能を自覚し、終わりを見据えて動き出した希佐の心情は、幾許のものか。
劇場に顔を覗かせると、ジェレマイアが言っていた通り、希佐はグレアム・メイヒューに捕まっていた。興奮気味に早口で捲し立てているのを、にこにこと笑って機嫌良く聞いてやっている。その傍に立つイライアスは、まるで異星人にでも遭遇したかのような怪訝な目で、メイヒューのことを見ていた。
観客のほとんどは劇場を引き上げ、店に降りた後のようだ。しかし、アランは見知った顔がこちらを見やり、手を挙げる様子を目に留め、小さく息を吐く。
「イライアス」その背中に声を掛けると、イライアスはこちらを振り返って近づいてきた。「キサに着せてやって」
「はい」
「彼の話を聞いていたら切りがないから、適当に切り上げさせて」
「分かりました」
ありとあらゆる言葉を用いてその才能を褒めちぎっている様子を見るに、メイヒューは本当に希佐のことを気に入ってしまったようだ。どうにか口説き落とそうとしているのだろうが、ノアの言う通り、希佐は相手の気分を害さずにあしらうのがより上手くなった。
メイヒューの言葉に受け答えしている横顔を眺めていると、希佐が不意にこちらを見る。イライアスが傍らに戻ってジャケットを広げれば、袖に腕を通しながら「ありがとう」と言って、やわらかく微笑んでいた。
「やってくれたな、アラン・ジンデル」
劇場の中程辺りで、レオナール・ゴダンと一緒に、スペンサー・ロローとその母親、エステルが居残っていた。そちらに向かって歩いていくと、弁明する意思があるのなら聞いてやろうという顔でスペンサーが席を立つ。アランは小さく肩をすくめると、目の前で足を止めたスペンサーを見下ろした。契約の都合上、希佐とイライアスを舞台に立たせるなと言われていたのを無視し、送り出したのは事実だ。
「開演前に到着していたなら、無理矢理にでもやめさせられただろ」
「そんなことをしたらマダムに殺されるよ」
「あの女に逆らえないからって俺に期待するのはやめてくれ」
アランとスペンサーがそうして話をしていると、椅子に着席した格好のまま、レオナールがくつくつと愉快そうに笑った。アランはそちらを一瞥してから、その隣に座っているエステルに目を向ける。
「Bonsoir.」
「Vous avez bonne mine.」
この人は、いつも美しく微笑み、自身がいかに無害であるかということを周囲に知らしめようとしているが、その実中身はクロエ・ルーとあまり大差ない、根っからの女優だ。違うところがあるとすれば、クロエのように子供っぽいところがない。無垢な理想を掲げることはせず、現実を見ている。引き際を弁えている人だ。
「実に素晴らしいステージだった」
「上演中の撮影は禁止されてる」アランがそのように指摘をしても、レオナールは悪びれる様子もなくにこにこと笑っている。「メレディスに叱られても知らないから」
「写真の出来栄えを見たら閉口せざるを得なくなるよ」
見せてあげようか、と言って、レオナールはデジタルカメラを掲げる。アランは首を左右に振って応え、再びスペンサーに視線を戻した。
「今夜はやけに見知った顔が多かったようだけど」
「マダムが重役連中に声を掛けて回ったようだね」
「先のことは考えたくない」劇団カオスの公演を終えたときの清々しさとは程遠い、湿度の高い真夏の夜のような、鬱々とした空気感に嫌気が差す。「早く帰って寝たい」
「だが、面倒な問題は可能な限り早いうちに解決しておいた方がいいだろう」
「すべてあの女に任せるよ」
「清々しい気持ちで明日の朝日を拝みたいものだ」そう言うスペンサーの顔には既に、強い諦めの表情が滲んでいる。「では、私たちも下に降りましょうか、先生。将来有望な日本の若者たちが、席を確保してくれているはずですし」
「ああ、そうだね」
レオナールが差し出した手を取り、エステルが百合の花のようにすっくと立ち上がった。そして、意志の強そうな眼差しが、真っ直ぐにアランを見上げてくる。
「あの東洋のお嬢さんのことは、あなたが紹介してくれるのよね?」
「あまり気は進みません」
「それはどうして?」
「あらゆる意味であなたと彼女とでは価値観が違う」
「それでも、あなたはレオナールに彼女を紹介したのでしょう?」
「レオは大切な友人なので」
「レオナールが彼女を撮りたがるだろうとは少しも思わなかった?」アランは、イエスともノーとも答えなかった。「下心がないとは言わない。わたしに限らず、今夜、あのお嬢さんのお芝居を目の当たりにした全員が、興味を持ったに違いないでしょうね。クロエもそのつもりで出演を助長したのだと思う。最悪、契約違反を問われて主役二人が役を下されたとしても、これだけ舞台関係者が揃っていれば、名のある誰かが拾ってくれるかもしれないもの」
「その場合、俺の脚本も取り上げられる」
「クロエのことだから、主役の二人と引き換えに脚本を差し出すくらいのことはするでしょう。あなたがいるのだから、脚本は新しく書き直せばいいのでは? 部外者の意見が多分に反映されている上に、金の臭いが染み付いた脚本になんて、何の魅力もないとは思わない?」
「俺は金のために脚本を書いています」
「本当にそうと言い切れる?」
エステルはそう言うと、にっこりと意味深に笑い、目礼をして踵を返した。スペンサーはアランの肩を軽く叩き、その背中を追いかけていく。仲睦まじそうに話をしながら去っていく二人の後ろ姿を眺めていると、その場に残ったレオナールがアランを見上げて口を開いた。
「大切な友人とは、嬉しいことを言ってくれるね」
「俺の主観だけで物を言った」その言葉の真意を求めるように、レオナールは続く言葉を待っているようだ。「レオは俺の生き方を変えた人だ。生きる意味を与えられた。当時は、あまりに偽善的で、押し付けがましい、延命処置に過ぎないと思ってたけど」
「今はそう思っていない?」
「俺は依存性が高いし、執着心が強い。一つのことに固執して物を考える上に、何かが駄目になると、すぐに死にたくなる。でも、本当に死にたいと思っているわけじゃない。現実逃避の一種だ。そう思考することで、何もかもを放棄して、楽になりたいと願ってる」
「実際、君は上手くやっていると思うよ」
「目に見える上辺の部分だけを上手く取り繕ってるだけだ」定期的にカウンセリングに通うようになって、ますます自己分析が進んでいると、アランは感じていた。「ずっと自分を言いくるめながら生きてきた。何かに依存したところで、すべて奪われる。執着したところで、何かが成就することもない。死にたいと思い続けているのだって、そう思うことで生を実感したいだけなんだ」
「単刀直入に言ってくれると助かるのだけれどね」
「レオには期待したくない」
「僕のことを大切な友人だと言った口がそんなことを言うのかい?」
「君は俺を選ばない」アランがそう言うと、レオナールは本当に驚いたというふうな顔をした。「付き合いの長い方を選ぶ、義理堅い人だと知ってる」
「……もしかして君は今、嫉妬している?」
「そう」
いつも、自分の心の中には別の自分が存在していて、自分自身を否定し続けていた。お前は幸せにはなれないだとか、生まれながらの不運は罰であるとか、不幸を受け入れるべきだとか、そんなふうなことを懇々と言い聞かせてくる。お前には望みなどない、願いは叶わない、幸せなどは訪れないと、日がな一日耳元で囁き続ける。今だってそうだ。その声は消えてなくならない。
だから、アラン・ジンデルの身に降り掛かるすべての事柄は、大抵他人事だった。
ラファエルとアラン・ジンデルは同一人物だが、今となっては人格のほとんどを形成しているのは後者の方で、前者の顔を見せることは、ほんの僅かな時間しかない。
「僕は確かに義理堅いし、約束は守る人間だ。できない約束をするほど愚かでもない。『斜陽の雲』を撮影するとき、僕は君を護ると誓った。君に白羽の矢が立たないようにするとね。僕はその約束を反故にするつもりはない」
「その白羽の矢が立つのも時間の問題だよ」
「今回は君自身がそうなることを望んだようだ」
「望んだわけじゃない」裏方に回り、人の影に隠れている方が楽だと知ってからは、すっかり臆病になってしまった。「ただ、選んだんだ」
自らが選び取った道に後悔はない。自分にはこの道しかなかったのだと、そう思っている。だが、この先に待ち受けているもののことを考えると、まるで世界が狭まっていくかのような、そんな錯覚を覚えるのだ。レオナール・ゴダンが矢面に立ち、白羽の矢から守ってくれたその優しさすら、無駄にしてしまうような。
「僕はあえて過酷な道を選択した君を誇りに思うし、この先も見守り、応援したい。君ならこの先も上手くやれるだろう。これまでと同じように」
「俺は臆病なんだ」
「知っているよ」
「あまりに臆病過ぎるから、絶対に失いたくないもののために、自分自身の安寧を捨てた」
何度でも繰り返すが、自らの選択には、今現在一つも後悔はない。だがしかし、いつかそう遠くない未来に、自らの選択を悔いることはあるのかもしれないと、アランは思っている。
「その場の衝動的な感情で決断を下すより、思い悩みながらも前へ進む努力を惜しまない者の方が、ずっと好感が持てる。君は随分と人間らしくなったよ。僕はそれが素直に嬉しい」
人間らしくなることが、果たして喜ばしいことなのかどうか、アランには分からない。他の人と同じように考えることや、感じることや、思うことに何の意味があるというのか。他人とは違う感性があるからこそ成り立つ仕事をしている。アイデンティティを失ったアラン・ジンデルに商品としての価値はない。
だが、以前はそれでいいと思っていた。冷たいものを冷たく、熱いものを熱く、痛いものを痛く感じられるようになれば、普通の人間に近づける。どうせ顔など知られてはいないのだ、残りの人生は普通の人間として、才能を失った幸福な人間として、退屈な余生を過ごそうと考えていた。言うなれば、それが望みであり、ささやかな願いだった。
「……では、君だけに、僕の秘密を教えてあげようかな」
レオナールはそう言うと、先程まで座っていた椅子に再び腰を下ろし、その隣の椅子の背もたれを軽く叩いた。アランは指先で鼻の脇を掻きながら、言われるがままに座る。
「僕は彼の──コクトーの父親を、心の底から愛していた」この世の秘密を告げるかのような厳かさで、レオナールは言った。「もちろん、今もその気持ちに変わりはない。だが、彼は僕の気持ちなど知りもしなかっただろうし、僕も自分の本当の気持ちを彼に伝えたりはしなかった」
レオナール・ゴダンは基本的に根なし草だ。常に世界中を飛び回り、長く一所に留まることをしない。今回のイギリス滞在も、仕事でなければこれほど長くはなかったはずだ。特定の恋人を作らず、世帯も持たないのは、そういう生活を続けられなくなるからだと、前に話していたことがある。レオナールは多数を同時に愛せる男だが、全員を平等に思う代わりに、誰に対しても本気にならない──そういう印象だった。
「某年、舞台演出家だった彼は、妻子ある身でありながら、とある女優に恋をしてね。寝ても覚めても、その女優のことしか考えられなくなった。彼はよく僕に連絡を寄越したよ。もう何も書けない、何も思い描けない、空想の翼を折られてしまった、彼女の顔すら思い出せないと言ってね。妻や子供にも申し訳ないと。そんな彼のことを、僕は終始励まし続けた。恋煩いは誰もが罹る病だ──まあ、大抵の場合は思春期にそれを経験するわけだが、彼にとっては遅い春の訪れだった。少なくとも、僕はそのように考えていた。焦る気持ちは分かるが、そこまで思い悩む問題ではないと言い聞かせた。だが、芸術家にとってのスランプは死活問題だろう? 自らの才能の翳りは、時に死よりも恐ろしい」
「レオもスランプを恐れているの」
「僕にはスランプよりも恐ろしいものがあるからね。それに、写真なんてものは、気が向いたときにだけ、好きなように撮ればいい。この先もし金に困るようなことがあったとしても、企業案件をいくつか熟せば、老後の生活はどうとでもなる」
「事務所の若い衆が悲しむよ」
「君の口からそんな殊勝な言葉を聞けるとはね」レオナールはくつくつと愉快そうに笑った。「そのときになったら、彼らには今よりも良い環境と待遇の就職先を紹介するよ。優秀な子ばかりだ、受け入れ先もすぐに見つかるだろう」
軽い口振りではあったものの、冗談を言っているようには聞こえない。恐らく、もう既にいくつかの紹介先をピックアップしてはいるのだろう。引退や隠居を考慮するような年齢ではないものの、自らの身にもしものことがあれば、残された事務所のスタッフは路頭に迷うことになる。
自分だって遺言書を弁護士に預けているくらいだ、この男が何もしていないはずはないと、アランは思った。
「それからどのくらい経った頃だったか、彼からの連絡がぱったりと来なくなったんだ。妙だと思ったよ。同時に嫌な予感もした。何度彼の携帯に電話を掛けても繋がらなくてね。僕は仕方なく、彼の家に電話を掛けたんだ。僕はそのときイギリスにいて、丁度朝の七時だったから、日本は夕方くらいかな。まだ子供だったコクトーが出てね、直接会ったことはなかったが、以前にも何度か電話で話をしたことはあったから、そのときと同じ調子で話し掛けたんだ。お父さんはいるかな、とね」
視線の先で、人の動く気配を感じて、アランは思わずそちらに目を向ける。
ようやくグレアム・メイヒューの長話が終わったのか、希佐とイライアスが離れていく背中を見送っているところだった。メイヒューは一度こちらに視線を投げかけるが、軽く目を伏せるようにして礼をすると、そのまま劇場を出て行った。
「……それで?」
「父は何日も前から帰っていない。警察に捜索願いを出した。もしかしたら、あなたのところにいるのではないかと思っていたと、そんなふうに言っていたよ。当時、僕にはどうしてあげることもできなくてね、お父さんが帰ってきたら連絡がほしいと言って、連絡先を教えた。僕の電話が鳴るまでにそう時間は掛からなかったよ。コクトーは酷く冷静な、子供らしくない声で、こう言ったんだ──父は死にました」
考え得る限りの最悪なシナリオと、残酷な台詞。しかしそれは、あまりに悲劇的で、舞台の脚本として考えれば、非常に出来すぎているように感じられる。
「彼の父親は、海で見つかった。それはそれは美しい海だったよ。私が足を運んだときは丁度夕暮れ時でね、空は雲に覆われているのに、世界全体が薄紫に染まっていて、思わず息を呑むほどだった。人が亡くなった海とは思えないほど海面は穏やかに凪いでいて、その海を見つめて、小さく華奢な男の子が立ち竦んでいる」
「……玄関に飾られていた写真の子か」アランは小さく息を吐いた。「自殺だったの」
「自殺か、事故か。どちらだったのだろうね。僕には分からない。遺書の類はなかったそうだよ。でも、警察は自殺と判断したらしい。彼のスランプは仲間内では周知の事実で、きっとその現実に耐えかねて、自ら死を選んだのだろうと、そう口を揃えたそうだ」
「美しい最期だ」
「彼を羨ましく思うかい?」
「どうかな」こちらに向かって希佐が小さく手を振っている。アランはそれに応え、軽く手を挙げた。「でも、もし死に場所を選べるのなら、セブンシスターズがいいと思ってた。あの崖の上から飛び降りて、そのまま永遠に目覚めない。だから、海で死にたいと思う人の気持ちは、少し分かるような気がする。きっと海の底はとても静かで、地上の光も、雑音一つも届かない。誰にも邪魔されずに眠れるはずだから」
「僕はそこまで死に期待していないんだ。死後の世界は所詮無だからね。無になるくらいなら、絶望を享受していたいと思うよ。自分が死を渇望するほどの絶望の果てに一体何を生み出すのか、とても興味がある」
「もしそうなったらレオは絵を描き出すと思うよ。写真や映画では満足できなくなる」希佐とイライアスは連れ立って、何かを熱心に話しながら、舞台裏に戻って行った。「写真や映画には限界があるから。目に見える美しさやその人の心を表すことはできても、人間一人分の肥大した精神世界を映し出すには適さない」
「考えるだけで気が狂いそうだ」レオナールは皮肉っぽく笑いながら、手の中にあるカメラを愛おしそうに撫でている。「僕はね、アラン。彼の死に罪悪感を覚えているんだ。仕事の忙しさにかまけて、思い悩む彼に会いに行かず、電話で済ませてしまったことを未だ悔やんでいる。コクトーに世話を焼くのは、そのためだよ。彼が愛する人の息子だから。裏を返せば、それだけの理由なんだ。僕は別にコクトーを愛しているわけではない」
自分とこの男は良く似ているのだと、アランは改めてそう感じた。だから惹かれるのだろう。大切な人以外の人間のことなどどうでも良い。だが、その人が大切にしているものなら、同じように大切にしたいと思う。
「愛に重さがあるのなら、君への愛の方がずっと重い」
「そう」
「これで安心したかな?」
「分からない」
「僕にとっての恋愛なんて所詮はごっこ遊びだよ。馴れ合いを楽しんでいるだけなんだ。歳を取ると孤独に堪え兼ねることがあってね。恋愛関係はいずれ壊れるが、友情はそれを守ろうとさえ思えば、限りなく永遠に近いものだから」
「俺には友情がよく分からない」
「どうしてだい?」
「友情だと思っていたものがただの依存だったら?」
「友情というものは、互いが自立してこそ成り立つものだよ。一方が他方に寄り掛かる関係を友情とは呼ばない」
アランは、レオナールと話をしていると、自分が酷く子供のように思えることがあった。いくら甘えても、何を口にしても、醜いところを晒しても許されるような、そんな気を起こしてしまうことがある。それでも、もしかしたら愛想を尽かされるかもしれないと思うと恐ろしくて、肝心なところで口を噤んでしまうのだ。
下唇を噛み、言葉に迷っているアランの様子を横目に見たレオナールは、そっと息を吐き出しながら表情を和らげた。
「誰がなんと言おうと、友人とは呼べない相手のことを無理に友人と位置付ける必要はない。窮屈だと感じる人間関係を我慢してまで続けることは、人生において何の糧にもならないよ、アラン・ジンデル。人と人との間には、適した距離感というものがある。そして、それは人によって異なるものだ。一方の強い思いだけでは友情は上手く成立しない。友情というものは、押し付けられるものであってはならないと、僕は思うよ」
「俺は──」
レオにその思いを押し付けてはいないだろうかと、そう問おうとして、やめた。
自分にもまだ恥ずかしいと思う感情があったのかと考えながら、劇場を出ていくレオナールの後ろ姿を見送る。そのまま椅子に座り込んでぼんやりとしていると、着替えを終えたアイリーンが折り目ただしい足音を立てながら近づいてきた。
「キサがいい子で本当に良かったわね」アランのすぐ近くで足を止めたアイリーンは、胸の前で両腕を組むと、まるで見下すような目をこちらに向けた。「私だったら彼女の頬を引っ叩いていたでしょうね。あなたとは今後一週間は口を聞こうとしなかったと思うわ」
「アイリーン」
「あなたのその中途半端な優しさが人を勘違いさせるの。その気がないなら言葉と態度で示しなさい。そうしてくれたら、私だって望みがあるかも、なんて思いもしなかったわよ」
「ごめん」
「でもまあ、彼女も被害者意識が過ぎると思うわ。無理もないとは思うけれど、あれはどう考えてもキサの責任ではないでしょう?」
「ああ」
「しっかりケアしてあげるのよ。あの子、今は平然としているけれど、公演終わりに寝込むことが多いんだから」
「分かってる」
「それから、あなた自身のことも労ってあげた方がいいわ」アイリーンは照れ臭そうにそう言うと、体を覆うショールをマントのように翻して歩き出した。「まだ夜は続くんだから、しゃきっとしなさいね」
アイリーンの背中は相変わらず格好良い。たとえどんなことがあろうとも、決して下を向くことなく、真っ直ぐに前だけを見据えている。貴族としてそのように育てられただけだと、アイリーンは言うのかもしれない。だがしかし、いついかなるときも毅然とした態度でいるその姿は見習うべきものだと、アランは常々思っていた。
公演を終えたあとはいつも、時間がゆっくりと過ぎているような、そんな錯覚を覚える。誰もいなくなった劇場の客席に腰を下ろし、がらんどうの舞台を見つめながら、その日のことを思い起こす、そんな時間が大切だった。
観客の目から見れば、今宵のステージは充分な満足感を得られる、素晴らしいステージだったことだろう。だが、演者たちが同じ満足感を覚えているかといえば、そうではないはずだ。
役者という生き物は生来目立ちたがり屋で、自分が一番だ、他の誰にも負けないという気概を持った負けず嫌いが多い。しかも、毎年ヘスティアで行われるチャリティーイベントに出演するような者たちは、有力な舞台関係者の目に留まることを期待していた。純粋にチャリティー目的で出演するのは半数程度といったところで、残りの半分には間違いなく下心がある。メレディスはそれを許容しているし、若者のチャンスに繋がるのであればその足掛かりにして構わないと話している。だからこそ、出演者は思う存分自らの才能を発揮し、舞台関係者たちのお眼鏡に叶うよう振る舞うのだ。
しかしながら、今回のチャリティーイベントは、今までとは少し趣向が違う。全員が同じ時間舞台に立てるよう配慮はしたが、実力ある者が多かっただけに、地味な者には目が向かない。特に立花希佐の存在は目の上の瘤だ。希佐が一度舞台上に姿を現せば、本人の意思に関係なく観客の視線を奪い、心を攫っていく。それが気に入らないという出演者は、一人や二人ではないはずだ。
「結局オレらは添え物扱いかよ」舞台裏から出てきた者のこれ見よがしな大声が、静かな劇場内に響く。「引き立て役になるために参加したわけじゃないんだ」
「自分のお気に入り連中ばっかり目立つ演出じゃない」
「こっちは人生が掛かってるんだ。高明な脚本家先生のお遊びに付き合ってる場合じゃねぇってのに」
「控え室で吐いてたって聞いたけど、クローディアはあの東洋人に何を言われたの?」
「卑怯な手を使ってオーディションに合格するような女の言うことなんか知るかよ」
胸糞が悪い、聞くに耐えない暴言の数々が、熱を持った心を一気に冷やし、凍らせていく。
だから嫌なのだ。終末期のジャスト・ロビンもそうだった。目立ちたがり屋の野心家がこぞって集まってきた挙げ句、統率が取れなくなって内部崩壊を起こした。そういう連中は、下町の小さな劇団を、もっと高みへ行くための踏み台としか考えていない。
利用できるものは、何でも利用すればいい。
だが、そこに誠意はあるべきだ。
アランが、クソ、と小さく悪態を吐きながら立ち上がろうとしたそのとき、憤懣遣る方無い様子の若者たちの後を追って、バージルが姿を現した。腰を上げかけていたアランの方を一瞥したバージルは、余計なことは言うなとでもいうふうな視線を投げかけてきたかと思うと、その若者たちの背後に歩み寄っていく。
「前々から黙って聞いてりゃ、ごちゃごちゃごちゃごちゃうるせぇなぁ、クソガキどもがよ」バージルは一番後ろを歩いていた男の服の襟首を掴むと、体ごと自らの方に引き寄せた。「言いたいことがあるなら陰口叩いてねぇで直接言ってくれませんかねぇ」
「はあ? んだよ、ジジイ──」
「お前らに比べりゃ確かにジジイだけどな、耳が遠くなるほど衰えてはいねぇのよ」バージルは掴み掛かった男の顔を至近距離から睨みつけながら、底冷えのするような低い声で言う。「撤回しろよ。ありもしねぇ話を吹聴するんじゃねぇ、クズが」
「ちょっと、離しなさいよ」駆け戻ってきた女に腕を掴まれ、バージルは穢らわしげにそれを払い除けると、男からも手を離した。「オーディションの最終審査に残った友達が言ってたの、あの子は審査員と寝たに違いないって」
「時代錯誤も甚だしいな。そんな古臭い手段で役を取りに行く役者がいるって、本気で思ってんのか?」
「だったらなんであんな東洋人がオーディションに合格するの?」
「実力に決まって──」
「もっと実力も才能もキャリアもある人はいたって話しだけど」
「お前の目は節穴か? それとも、あいつの『サロメ』を観ていなかったのか?」その問い掛けに答える声はない。バージルは呆れたように息を吐くと、苛立たしげに頭を掻いた。「まあ、お前らは観なくて正解だったのかもしれねぇな」
「どういう意味だよ」
「他の連中に聞いてみたらどうだ?」あれを見ずに済んだのなら、それはそれで幸運なのかもしれないと、ほんの少しだけ思う。「俺はお前らがどこの誰なのかも知らねぇし、どんな経歴の持ち主なのかも、どんな舞台に立ってきたのかも知らねぇ。でもな、この一週間、お前らがどんなふうに舞台と向き合っていたかは、じっくり勉強させてもらってたよ」
希佐は、自分は慣れているからと言って、大抵の嫌なことにはそのまま目を瞑ってしまう。波風を立てるより、自分が我慢する方を選んでしまうのだ。ここでは、東洋人というだけで差別的な扱いを受けることもある。慣れているというのは、頻繁にそうした扱いを受けてきたということだ。バージルは良く希佐に向かって「結果を出して黙らせろ」と言っていた。相当な馬鹿でもないかぎりは、それで大人しくなると。だが、希佐は元より心得ている様子だった。才能と努力の結果は、どんな言葉よりも雄弁だ。
「たいした稽古もしてなかったよな。自分たちの振り入れが終わった途端、ピーチクパーチク囀るのに忙しくしてたろ。こんな規模の小さいチャリティーだし、自分くらいの才能があれば、簡単に舞台の真ん中を狙えるって考えてたんだよな? それが出鼻挫かれて、脇に回されたのが気にいらねぇってわけだ」
たとえ用意された舞台がどんなに小さくても、ベニヤ板が敷かれただけの簡素な場所であったとしても、最善は尽くされるべきだ。たとえ人の目に留まりにくい役割を与えられ、アンサンブルとして主役を彩る脇役として舞台に立つのだとしても、自らの最善を尽くすべきだ。
人は、強い輝きを放つ者のことを、決して無視することができない。たった一言の台詞、ほんの一瞬姿を現すだけの端役だろうが、輝くものを握り締めてさえいれば、誰かが自分を見つけてくれるかもしれない。その可能性を見失った瞬間、人はその可能性に見放される。
「自分らには人生が掛かってる? あちらさんからお声が掛かるのを待ってるってか? こういう現場に入って、努力もしない、協調性もない、共演者の陰口は叩く──一体誰がそんなやつと一緒に仕事をしたいと思う? どんなに実力や才能があったって、性格がクソなら二度と仕事には呼ばれなくなるぞ。お偉方の前ではいい子ぶってたって、周りの連中は全員、そういうお前らを見てるんだ。この先も舞台に立ち続けたかったら、早々に心を入れ替えるんだな」
アランは今度こそ席から立ち上がると、言葉もなく立ち尽くすだけの共演者たちの脇を通り過ぎ、バージルの前で足を止めた。バージルは目を丸くしながら、こちらを見上げていた。
「……なんだよ」
「何でもない」そんな優しい言葉を掛けてやる必要はないと言おうとしたが、これで本当に心を入れ替えられるのなら、それはそれで喜ばしいことだ。「着替えてくる」
「お、おう」
添え物でも、引き立て役でも、その一人一人が存在しなければ、舞台は成り立たない。ときには脇役が輝くこともある。与えられた役に本気で向き合えば、得られるものは確かにあるのだ。
脚本家にとってありがたいのは、主役を演じる役者よりも、主役を支える脇役の存在だった。彼らは物語に厚みを与え、主役を鮮やかに彩ってくれる。脚本家ですら意図していなかった主役の新たな一面を見つけ出すのも、それを魅力的に昇華するのも、脇役の役どころなのだから。
「バージルは優しすぎると思うんだよね」アランが舞台裏に戻ってくると、機材の後片付けをしながら外での話に耳を傾けていたらしいノアが、呆れたようにそう言った。「もっと直接的な言い方をしないと、ああいう輩には伝わらないんだよ」
「どう言えば良かったの」
「お前らには才能なんてないんだから、さっさと役者の道は諦めろ、とか?」
「彼らにも才能はあるよ。そうじゃなかったら、メレディスが舞台に立つことを許したはずがない」
「アランの目にはどう映ったのさ」
「全員の技量を鑑みた結果が今夜の舞台だ。演出するに当たって全員の経歴は調べたし、得意な分野を活かせる構成にした。偏ったプログラムだったことは否定しない。不満が出ることは予期してた」
「それ、答えになってないよ」
「……ここは才能と人気さえあればどうとでもなる世界だ。多少性格に難があっても、金になる役者は重宝される。現にそういう役者は大勢いるし、彼らが特別性根が腐っているというわけでもない」
「君があの連中を性根の腐ったやつらだと認識してることはよく分かった」ノアは神妙な面持ちで大きく頷くと、今度は小さく肩をすくめてみせる。「僕も大学のサークルじゃ似たような扱いをされていたからね。ああいう連中はさ、絶対に面と向かっては言ってこないんだよ。反論されるのが怖いんだろうね。本気で自分の方が優れてるって自信があるなら、わざわざ負け犬の遠吠えみたいにキャンキャン吠えるわけないし。所詮は凡人の妬み嫉みでしょ、耳を傾けてやる価値もないよ。正々堂々とやり合えば負けるって自分でも分かってるんだから」
この青年の自己肯定感の高さには本当に感服すると、アランはいつも思っていた。ノアは頭が良く、誰に対しても誠実で、常に公平だ。自分の頭に忠実に従い、善悪の判断に迷いがない。相手の腹を探るようなことはせず、いつだって単刀直入に物を言う。
『うわあ、やば、すっごい美人じゃん』初対面、ノアがこちらの顔をまじまじと見つめ、そう言ったときのことを、アランは不意に思い出していた。『まあ、僕の方がずっと可愛いけど』
無表情を崩し、唖然とした顔をしているアランを見上げ、ノアは少女のような愛らしさでくすくすと笑っていた。アランはこのとき、僕も君と同じだと、ノアが暗にそう言っているのを感じ取っていた。
『兄弟はみんな背が高いのにさ、僕だけこんなチビで、変声期らしい変声期だってなかったんだよ。ほら見て、喉仏だってほとんど出てないんだ。僕が自分より可愛いからって女の子は隣に並びたがらないし、野郎どもは本気で気持ち悪い──これはまあいいや』
ノアがクンフーを嗜んでいることは、カオスの仲間たちしか知らない。例えば、ジェレマイアと取っ組み合いの喧嘩をしたとしても、勝つのは間違いなくノアだ。以前、暴漢に襲われそうになったとき、返り討ちにして警察に突き出したことがあると言っていたことがあった。
『さすがに母親が心配したみたいでさ。女の子が欲しい欲しいとは思ってたけど、まさか女の子みたいに可愛い男が生まれるなんて思ってなかったって。こういう容姿だと何があるか分からないから、いざというとき自分の身は自分で守れるようにって、近所のクンフー教室に押し込まれたんだ。ほら、僕ってばなんでも器用に熟すから、師匠にも気に入られちゃって』
劇団カオスの仲間たちには、それぞれに別々の強さがあって、アランはそれを心の底から尊敬している。彼らを仲間と呼べることに、最も大きな喜びを噛み締めているのは、他ならぬアラン・ジンデル自身なのだ。
彼らを導いて来たのではなく、彼らに導かれて、ここまでやって来られた。心地の良い居場所と、心を許せる仲間を、自分の力で手に入れることができた。彼らはいずれ大空を羽ばたく翼を手に入れて、自分の元を巣立っていくのだろうと、アランはずっと考えていた。自分はそれを見送る立場で、最後は一人取り残され、再び孤独の中に落ちていくのだろうと。
だが、それは違うのかもしれないと、今になって思う。
自分と違って、彼らは大人だ。自らの生き方を見定め、正しく判断することができる。心地の良い距離感というものは、互いに無関心なのではなく、必要なときに手を差し伸べられる、適切な距離を保つということだ。必要以上の馴れ合いは人間関係を駄目にする。
「そんなに目立ちたがってるなら、バンケットの余興を譲ってあげたらいいんじゃない?」
アランはその一言で、物思いから我に返る。ノアは片付けていた機材を隅の方に纏め、いてて、と漏らしながら、曲げていた腰を伸ばしていた。
「……そうだな」
「え?」
「バンケットの余興なんて面倒だと思ってたんだ」
「え、あ、ちょっと待って、僕は冗談のつもりで言ったんだけど」
「誰がやっても大差ない」えー、と唇を尖らせているノアを尻目に、アランは控え室に向かって歩き出す。「相手はただの酔っ払いだし」
「ねえ、知ってる? 酔っ払いって素面の人間よりもずっと質が悪いんだよ?」
「審査員と寝てオーディションに合格するより、自分の実力で仕事を勝ち取った方がずっと健全だろ?」
「その冗談、僕は嫌いだなぁ」
あからさまにむすっとした声を出すノアに向かって、労うように後ろ手を振り、アランは控え室の前に立った。軽くノックをすると、すぐに返事が聞こえてくる。
「入っていい?」
「どうぞ」
答える声を聞いてから扉を開けると、すぐ脇に着替えを済ませたイライアスの姿があった。スマートフォンを手に持ち、壁に寄り掛かっている。随分型の古いスマートフォンの画面には、保護シートは貼られておらず、カバーもない。
キサは──と視線だけで問うと、イライアスも視線の動きだけで、のんびりとそれに応じた。
劇場の方で行われていた会話は、どうやら希佐の耳には入らなかったようだと、何となく胸を撫で下ろす。自分は大丈夫、慣れている、気にしないとは言うだろうが、あんな話を耳に入れずに済むのなら、それに越したことはない。そもそも聞かせたい話ではない。
「先に出てます」
「ん」
控え室に二人以外の姿はなかった。他の者たちは全員出て行った後のようだ。もしかしたら、あの共演者たちはここでも同じように陰口を叩いていたのではないかと、そんなことが一瞬だけ脳裏をよぎる。だが、もしそうならイライアスが黙ってはいなかっただろう。
自分はただ、黙って聞いているだけだった──アランはそう思いながら、控え室の隅に転がしていた荷物を取り上げる。衣装のシャツを脱ぎ、ポロネックのニットに腕を通した。衣装はクリーニングに出すために、回収のかごの中に入れておく。
「あの、アラン?」
「なに」
「お願いがあるんだけど」目隠しになっている衝立ての向こうで、希佐が言った。「背中を拭いてくれないかな」
自らの着替えを終えてから向かうと、衝立ての向こうでは、希佐がこちらに背を向けて立っていた。肌と同色の下着だけを身にまとい、胸元をタオルで隠している。鏡越しに目が合うと、少し困ったように笑った。
「衣装を一人で脱ぐのが難しくて少し破いてしまったから、あとでダイアナに謝らないと」
「もう着る機会もないから」
「そういう問題じゃないよ」
舞台以外の場所では決して着ることのできない薄布の衣装は、きちんと丁寧に畳まれ、傍らに置かれている。アランは使い捨ての濡れタオルを受け取ると、言われるがままに希佐の背中を拭いてやった。
「クローディアさんの様子はどう?」
キサが気にするようなことじゃない──そう言ったところで、希佐の心が少しも軽くならないことは、火を見るよりも明らかだった。
「ダイアナがついてるから」
「アランは?」
「え?」
「一緒にいてあげなくていいの?」視線を感じて顔を上げると、再び鏡越しに目が合った。「もし私のことを気にしてくれているのなら──」
「違う」自らの言葉を遮ったアランを振り返り、希佐はじっと目を見つめてくる。「今の俺にとって大切なのは、君や、カオスのみんなだ。クレアは幼馴染みで、そういう意味では無視のできない存在だけど、君たちを差し置いて寄り添いに行くような関係じゃない」
「……そう」そっか、と続けた希佐は、どこか複雑そうな面持ちを浮かべていた。「アランがそう言うなら」
「俺に言いたいことがあるならはっきり言って」
「ううん、言いたいことは何もないよ。ただ、アランがそんなふうに思ってくれているのが、嬉しいと思ってしまっただけ。だから、私って嫌なやつだなって、そう思ったんだ」
アランはほんの一瞬でも考えてしまった。自分も希佐からそのように思われたいと。今の自分にとって大切なのは、アランや、カオスの仲間たちであると。だが、もし希佐がそのようなことを口にすれば、自分も罪悪感に駆られるのだろうと、アランは思った。
「キサは嫌なやつなんかじゃない」
アランは僅かに背中を丸め、希佐の背中に唇を押し当てた。微かに息を呑む音が聞こえてくる。首筋にキスをしながら髪留めを外し、そっと身を離した。
「外で待ってる」
「う、うん。ありがとう」
自分は嫉妬なんかしないと思っていた。手放すべきときに手放せると高を括っていた。
だが、結局はこの体たらくだ。内心では独占欲を誇示したくて堪らない。聞き分けの良いふりをしていても、実際には醜い執着心がどす黒く蠢いて、その細い体を抱き締めて離したくないと思っている。自分の方が嫌なやつだと、アランは思っていた。
控え室の外にイライアスの姿はなく、そのまま劇場の方まで出て行くと、先程までアランが座っていた場所に、四人の仲間たちが横並びに座っているのが見えた。
「こんなところで何してるんだ?」
「オレはメレディスに戸締りを頼まれてる」
「他は」
「日本から来たお客さんについて話してた」指先にキーホルダーを引っ掛け、劇場の鍵をくるくると回すジェレマイアの手元を見ながら、ノアが言った。「キサを連れ戻しに来たのかな」
「さあ」
「そうじゃなくてもあいつは自分の意思で帰国するって話だろ?」
「だとしても今すぐじゃない」イライアスが隣に座るバージルを睨みつける。「僕たちの舞台が控えてる」
「お前らの契約違反で頓挫するかもしれねぇ舞台な」
「契約書を隅々まで読み返したけど無償の舞台ついては記述がなかった」
「プロデューサーは、ただ単に気に入らないっていうくだらない理由だけで役者を下ろせるんだよ」バージルはそう言うと、イライアスの頭を軽く小突いた。「そもそもの話、あいつはオーディションに落ちたら日本に帰るって言ってたんだろ? 次の舞台の話がなくなったら、そりゃ日本に帰るだろうな」
「キサは一度こうと決めたら頑ななところがあるからなぁ」
「どうしても日本に帰りたいっていうなら引き止められないけどさ」
希佐のこれからについて気にかけているのは何も自分だけではないのだと、そんな当然のことを改めて思い知り、アランの心は少しだけ軽くなる。ここにアイリーンがいたら、なんて女々しいのだと言って全員の尻を蹴り飛ばすくらいのことをするのだろうが、幸いなことにここには居合わせない。
アランは四人の前列の席に腰を下ろすと、ふう、と大きくため息を吐いた。
「アランはどう思ってるんだ?」
「俺は──」ジェレマイアの問いに、アランは明確な返事をすることができなかった。「どうするのが一番良いのか、ずっと悩んでる」
どうしても手放したくないと思うのと同時に、快く送り出してやりたいとも思っている。この相反する気持ちに、どう蹴りをつければいいのか、その答えはまだ見つかりそうにない。