ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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乖離

 控え室で着替えを終えた希佐が髪を下ろし、化粧を整えて出ていくと、劇場にはアイリーン以外の劇団カオスの仲間たちが一所に留まり、話をしている姿を伺うことができた。思わず立ち止まっていると、大小様々な楽器を抱えて出てきた楽団の人々が、口々に声を掛けてくる。

「よっ、サロメ」

「おつかれー」

「皆さんもお疲れさまでした」

「お互い朝から晩まで大変だったね」顔馴染みのヴァイオリニストが、肩をぐるぐると回しながら言った。「今夜はよく休んで」

「はい」

「何言ってんだよ、今夜は無礼講だろ!」

「アランの奢りでな」

「よーし、みんな。今日は吐くまで飲むぞー」

 またね、と笑い掛けてくれたヴァイオリニストが、楽団の仲間と連れ立って歩き出す。途中、カオスの前で少しだけ足を止めると、一つ二つ言葉を交わしてから、劇場を出て行った。

 立花先輩に憧れてユニヴェールに入学することを決めました! と、自分を慕ってくれていた後輩がいた。だが、その後輩は、一年次の最終公演を最後にユニヴェールを辞めた。

『俺は立花先輩みたいにはなれないって、夏公演の頃には察していたんです。俺は先輩みたいに舞台に人生のすべてを捧げられません。立花先輩を見ていると、なんだか息苦しくて。肩身が狭くなるというか、窮屈に感じてしまうんですよ。先輩に憧れてユニヴェールに入学したはずなのに、先輩を見ていると苦しくなって、逃げ出したくて堪らなくなるんです。先輩はあまりに完璧すぎて、俺はそんなふうには振る舞えなくて。俺は立花先輩みたいにはなれないんだって思ったら、自分は何を目指して進んでいけばいいのかも、分からなくなってしまいました』

 以降、希佐は自分を慕う後輩と親しくすることをやめた。稽古をつける以外は、接触することを避けた。自分の存在が他者の自尊心を踏み躙り、夢を失わせていた現実は、希佐の気持ちを萎縮させた。良かれと思っていた行動の一つ一つが、知らず知らずのうちに、誰かの心に止めを刺していたのかもしれない──そう思うと、人と接することが怖くなった。

 女性としての体の変化だけが恐ろしかったのではない。後輩が打ち明けてくれた本心を思い出すにつけ、希佐はまるで人間不信のような感情を覚えるようになってしまったのだ。だから、一人になりたいときは大伊達山に逃げ込んだし、それ以外の時間は稽古に没頭した。

 今宵のクローディア・ビアンキの姿を見ていたら、あの頃のことを思い出し、希佐は酷くセンチメンタルな気分になった。今ならば、今日と同様、あの頃の自分も何も悪くはないのだと、そう思うことができる。だがしかし、一つの要因であることは否めないと、そう思ってしまう。

 彼女の気持ちが分からない。

 誰かを、何かを羨むことはあっても、妬んだことはないから。

 誰かに圧倒されることはあっても、諦めたことはないから。

「みんなで集まって何をしていたの?」

「別に」そう応じたバージルは、座席から立ち上がると、天井に向かって大きく伸びをした。「今日は誰の奢りで飲むか話し合ってたところだ」

「今日はアランの奢りでしょう?」

「なんで」

「雷が落ちたから?」立ち止まった場所のすぐ隣に座っているアランを見遣り、希佐は小首を傾げる。「楽団の皆さんが今日はアランの奢りだって喜んでいたけれど」

「そういう取り引きをしたから」

「だったら僕たちもそれに便乗したって良いよね」そう言いながらノアも立ち上がる。「もう喉がからからなんだよ。よく冷えたラガーが飲みたいなー」

 アランは良いとも駄目だとも言わず、ただ仕方なさそうにため息を漏らしている。その様子を肯定と捉えたらしいノアは、にこにこと機嫌よく笑いながら、早く行こうと言って軽い足取りで歩き出した。全員がそれに合わせて立ち上がり、先頭を行くノアを追い掛けていく。

 仲間たちの後ろ姿を眺めながら一番後ろを歩いていると、隣にアランが並んだ。

「疲れた?」

「ううん、私は大丈夫」ルイの稽古に比べれば、この程度は疲労の内にも入らないと、希佐は思った。「アランは?」

「早く帰りたい」

「子供みたいなこと言って」

 冗談でも何でもなく、本気でそう思っていると分かる面持ちで、アランは小さく口にする。少し前までのアラン・ジンデルならば、本当に帰ってしまっていたかもしれない。

 アランは、先に寝ていて良いと言う希佐の言葉を無視し、ここ数日朝方近くまで行っていたダンスの稽古を見ていたので、いつも以上に寝不足のはずだ。元より不眠症気味だとはいえ、疲れも溜まっているに違いない。

「明日の後片付けは何時からだった?」

「午後から」

「じゃあ、明日の朝はゆっくりして、午前中のうちにコインランドリーに行かない? 洗濯物が山みたいに溜まっているし」

「いいけど」

「決まりだね」

 月曜日の午前中はコインランドリーの利用客が少ない。大体の家庭は日曜日に洗濯を済ませてしまうからだ。ごうごうと唸る洗濯機の音を聞きながら、本を読んだり、台本を覚えたりしている時間が、希佐は何となく好きだった。

 パブは一層の賑わいで、人がひしめき合っているという表現は、今この瞬間のためにある言葉なのではないかと思うほど、多くの人が店内に留まっていた。以前、希佐がここで働いていたときも、ここまで賑わっていたことはないかもしれない。

 階段を降り切ったところで、いくつものジョッキを抱えた急ぎ足のフロアスタッフが目の前を通りかかると、後ろにいたアランが希佐の体を引き寄せてくれた。

「あっ、ごめん、キサ」

「ううん、平気だよ」スタッフはそのまま人波を掻き分けていく。希佐は後ろを振り返り、アランを見上げた。「ありがとう」

「ん」アランは小さく返事をすると、腰に回していた手を離す。「メレディスと話してくるから、先に行ってて」

「うん、分かった」

 カウンターの方に向かって行ったアランを見送り、希佐は仲間たちの背中を追いかける。後ろから押されて肩が腕にぶつかると、こちらの存在に気づいたバージルが、他の客から守るように自分の体の前に立たせてくれた。イライアスは一言断りを入れてから、アイリーンや家族のいる席へと歩いていく。

「さすがにいつもの席は埋まってるね」額に手の平を添え、遠くを見渡すようにしながらノアが言った。「どこか空いてる席は、っと」

「空いてる席なんてあるわけないだろ」

「キレーなお姉さんが相席してくれるかも」

「やめてくれよ、面倒なことになるから」

 えー、と不満の声を漏らしているノアの背中を押し、ジェレマイアはカウンター席の方へ歩き出す。テーブル席はもうほとんど空いていないが、カウンター席は詰めてもらえば何とか座ることができそうだ。二人が交渉している間、希佐が黙って立っていると、目の前に現れた手が、ぱちん、と指を鳴らした。

「おい」

「えっ?」

「大丈夫か?」瞬く希佐の顔を覗き込み、バージルが眉を顰める。「お前、自分で思ってる以上に疲れてるぞ」

「そうかな」

「いろいろ重なって精神的にもキテるだろ。無理すんなよ。明日の後片付けは休んだっていい」

「無理は──そうだね、多少はしているかも」無理はしていないと言おうとすると、バージルが鋭く睨むので、希佐は苦笑いを浮かべて言い直した。「本当はね、今日はいろんなことがありすぎて、現実性がないんだ」

「そりゃそうだろうな」

「まだ少しだけ頭がぼーっとしてる」

「今日のところはアルコールは控えろよ。落ち着いたら飲みに連れてってやるから」

「本当?」

「おう」

「えー、ちょっとなに、抜け駆けは許されないんですけどー」二人の会話を小耳に挟んだのだろう、ノアが二人の間に割って入る。「今日は僕がどれだけ頑張ったことか!」

「分かった、分かった。まずは俺が奢ってやるから、好きなもん頼め」

「やったね」ノアはカウンターの内側に立っているスタッフに向かって手を挙げた。「すみません、よく冷えたラガーください。ピルスナーで」

「オレはロンドンブライド」

「私は──」

「俺とこいつはクラブソーダだ」ギネスを注文しようとする希佐の気配を察知したのか、バージルが先回りをしてそのように注文する。「口煩いジジイで悪かったな」

「そんなこと思ってないよ」

「分かってるって」

 全員の飲み物が揃った頃、ほとんど空になったエールのグラスを片手に、アランがカウンター席までやって来た。残っていたエールを一気に飲み干し、空になったグラスをテーブルに置く。丁度目があったバーテンダーに、今度は別のエールを注文していた。

 アランは、希佐とバージルの前に置かれている、氷入りの炭酸水を一瞥して目を丸くする。

「なに、飲まないの」

「バージルがアルコールは控えなさいって」

「ふうん」アランは目の前で注がれるエールを受け取りながら言った。「俺は飲むけど」

「そんなに飲んで大丈夫? 今から──」

「余興は別の連中に変わってもらった」

「えっ?」

「疲れたから」

「ちょっと嘘でしょ?」ノアがぎょっとした顔をして口を挟む。「本当にあの人たちにやらせるつもり?」

「目立ちたがってただろ」

「メレディスがそれを許したのか?」純粋な疑問だというふうにジェレマイアが言うと、アランは小さく頷く。「まあ、それなら良いけど」

「何の話?」

「君ばかりが目立って卑怯だって言う連中がいたから出番を譲った」

 アランは何でもないことのように淡々と言う。だが、実際のところは大問題だ。どこの大女優が情報を漏洩させたか知らないが、夜の部終了後の余興ではアラン・ジンデルが歌うという噂が広まっている。そして何より、希佐がアランの歌を楽しみにしていた。

「なに」

「楽しみにしていたのに」

 思わず残念そうな声を上げてしまった希佐のことを、アランはどこか不思議そうに見下ろしている。しかしすぐに目を細め、希佐の唇の端に引っ掛かっていた髪を、指先でそっと払ってくれた。その眼差しがあまりに優しく、自分だけが享受できる特別なものに思えて、希佐は何も言えなくなる。

「キサが歌えって言うなら歌うけど」

「やるかやらないかを決めるのは自分なんでしょう?」

 希佐がそのように言うと、目を丸くするアランのすぐ隣で、バージルが大きく吹き出した。くくく、と肩を震わせながら、濡れたテーブルを紙ナプキンで拭いている。

「ま、好きにさせてやれよ。この時間帯は毎年酔っ払いの無法地帯みたいなもんで、飛び入り参加なんかもざらにあるしな。歌いたくなりゃ自分の足で歌いに行くだろ」

 たった今、とても重厚感のある舞台を終えたばかりのような感覚とは別に、寸前の出来事が遥か遠い昔の懐かしい記憶のようにも思える。過ぎ去った時間は、ほんの一秒前も、五年前も、扱いは変わらない。頭の中の引き出しにそっと仕舞われて、本当に必要なときに思い出される。

『やあ、みんな』ルイがカウンター席を訪ねてきたのは、それからすぐのことだ。『満足感のある良いステージだったよ』

 その傍らには綺麗な女性がいて、ルイが「妻のディナです」とフランス訛りの英語で紹介してくれる。周囲が何となく騒がしいのは、二人が著名なバレエダンサーで、ロンドンの片隅にあるパブに姿を現すこと自体が、信じられないからなのかもしれない。

 だが、二人は人々の注目を集めても尚、威風堂々と振る舞っている。まるで、その人々の視線こそが、自分たちを一層光輝かせると分かっているようだ。

『当然の如く、言いたいことは多々あるが、今は君たちの成功を讃えよう』

 ルイはそう言い、希佐に向かって右手を差し出してくる。握手をしようということだろう、そう思って希佐がルイの右手を握り締めると、なぜか次の瞬間には体が引き寄せられていた。良く引き締まった筋肉質な体にぎゅうと抱き締められ、希佐は目を白黒させる。

「ル、ルイ?」

『君のサロメは本当に素晴らしかったよ、キサ。よく頑張ったね』

「えっ、あ、はい」希佐は停止しかかっている頭をフル回転させ、フランス語を引っ張り出してくる。「Je suis heureux de l'entendre, merci beaucoup.」

 ルイは希佐の体を解放すると、今度はアランに向かって、同じように右手を差し出した。だがしかし、アランは酷く警戒するような眼差しでルイを睨んでいる。

『君も私に抱き締められたいのでは?』

『遠慮しとく』

『相変わらず照れ屋さんだね』アランの腕を労うように叩きながら、ルイは愉快そうに笑っていた。『教え子の初公演を観るときと同じくらい手に汗握ったよ』

 ルイがダンスを手放しに褒めてくれるのは珍しいことだ。その言葉通り、細々とした指摘は山のようにあるのだろう。もしかしたら、次の稽古のときには、嫌になるほど指摘を受けることになるのかもしれない。だが、もしそうだったとしても、よく頑張ったと認めてくれたことが、希佐はとても嬉しかった。

「向こうのテーブル席でご一緒しない?」

 そう流暢な英語で誘ってくれたのは、ルイの妻のディナだった。少し癖はあるものの、聞き取りやすい英語だ。希佐が意外そうな顔をしているように見えたのか、ルイはディナの肩を引き寄せながら、にんまりと自慢げに笑った。

『私の妻は英語を話せる』

『あなたも少しは勉強なさい』ディナは呆れたようにそう言いながら、ルイの耳を軽く引っ張った。「さあ、こちらよ。いらっしゃい」

 希佐は、妻に腕を掴まれ、そのまま引き摺られていくルイの背中から、傍らに立つアランに視線を移す。すると、アランは飲み切ったエールのグラスと交換でウイスキーグラスを受け取りながら、こちらを横目に見た。

「行ってきたら」

「アランは?」

「俺はいい」アランは希佐が座っていた椅子に腰を下ろしてから、雑多の中を指差した。「イライアスも連れて行ってやって」

 砂糖抜きの炭酸水が入ったグラスを片手に、希佐はアイリーンの家族がいるテーブル席に立ち寄り、イライアスを拾ってから夫妻が待つテーブル席に向かった。そこにはジョシュアの姿もあり、彼は二人の姿に目を留めると、軽く微笑んで手を振ってみせた。ジョシュアは二人が座れるように席を詰めてくれるが、希佐の前を歩いていたイライアスは、向かい側に座っている夫妻の姿を見て、どういうわけか体を硬直させていた。

「……イライアス?」

「キサ」

「なに?」

「僕を抓って」えっ、と声を上げる希佐には目もくれず、イライアスは続けた。「夢を見てるのかも」

 そんなイライアスの様子に、あっはっはと愉快そうに笑うルイは、希佐にとってはダンスを教えてくれる素晴らしい先生だ。だが、イライアスにとってはそれ以前に、心から尊敬する偉大なバレエダンサーに他ならない。

「ほら、座って」希佐は心なしかもじもじしているイライアスをジョシュアの隣に座らせると、自らもその隣に腰を下ろした。「ええと……」

「二人の話は夫からよく聞いているから、初めて会う気がしないのよね」ディナはそれにと言いながら、切れ長の目でイライアスを見やり、テーブルの高さに合わせて手の平を横に滑らせた。「あなたのことはこんな小さな頃から知ってる」

「光栄です」

「あなたなら素晴らしいプリンシパルになるだろうと思っていたのに」ディナはテーブルに身を乗り出し、頬杖をつきながら、イライアスの目をまっすぐに見つめて言った。「今からでも戻る気はない?」

「え?」

「あなたのためならパリに席を用意できるのだけれど」

 希佐の目から見る限り、ディナが冗談を言っているようには感じられない。微かに挑発的ではあるものの、どこまでも真剣な面差しだ。隣を盗み見れば、酷く緊張した面持ちを浮かべているイライアスが、唇を真横に引き結び、微動だにせずディナを見つめ返している。

 思わず向かい側の席を見やると、希佐の視線に気づいたルイが、何やら訳知り顔で口角を持ち上げていた。どうやらこれは急に湧き出した話ではないようだと、希佐でもすぐに察することができた。アランがイライアスを連れて行けと言ったのも、この夫妻から予め頼まれていたことなのかもしれない。

「あ、これ、おいしいよ」

 イライアスを挟んだ向こう側に座っているジョシュアが、能天気にも聞こえる声で、ルイに目の前の料理を進めている。ルイも「どれどれ」と言いながら料理にフォークを突き立て、美味しそうにもぐもぐと頬張りはじめた。

「すぐに断らないということは、まだこちらの世界に未練があるということじゃない?」

「未練は、ありません」

「歯切れの悪い物言いね」

「ディナ」詰め寄るような妻の発言にブレーキをかけたのは、他ならぬルイだった。『イライアスにとってこの提案は青天の霹靂のようなものなんだ、お手柔らかに頼むよ』

『元はと言えば、ルイが言い出した話じゃないの』

『私がしたのは可能性の話だ。この先のキャリアの方向性を考えたとき、彼にとってはそういう選択もあると言っただけで──』

『あなたが彼を手放しで褒めたりするから、うちのバレエ団はもう興味津々なの。あなたは自分の発言が周囲に及ぼす影響について、もっとよく考えるべきね』普段からよくそうしているのだろう、ディナはまたルイの耳を掴み、頭が傾くほどの強さで引っ張っている。『史上二人目のパリ・オペラ座バレエ学校を卒業していないエトワールになれる可能性を秘めた才能だ、なんて言ったのはどの口?』

 ただの夫婦喧嘩と思えば微笑ましいが、隣で言葉を失くしてしまっているイライアスのことを考えると、そうも言ってはいられない。だが、自分が口を挟んで良いような話題でもない──希佐がそう思いながら戸惑っていると、それを察したらしいジョシュアが、イライアス越しに紙幣を差し出してきた。

「ホブゴブリン、お願いできる? あとフィッシュ&チップスも。みんなの飲み物も買ってきていいよ」

「はい、分かりました」希佐はその場に立ち上がりながら、テーブルに着いている面々を見回した。「何を飲まれますか?」

「私は蒸留してあるお酒ならなんでも」

『私は妻と同じものがいいな』

「イライアスは?」希佐が問うと、イライアスは黙って首を横に振る。「お待ちください」

 希佐は空いたグラスと皿を手早くまとめ、それを抱えて席を離れた。ふと、ここで働いていた頃の懐かしい感覚が蘇ってくる。人波の間を縫うようにして進み、先ほどのカウンター席の前まで戻ってくると、抱えていた食器をスタッフに手渡した。

「すみません、ロイヤルロッホナガーをロックで二つと、ホブゴブリンを一つ。あとはフィッシュ&チップスと、それから、ドライフルーツとナッツの盛り合わせを。あ、砂糖抜きのソーダもお願いします」

「早速使いっ走りか?」先程と同じクラブソーダを飲みながら、バージルが悪戯っぽく声を掛けてくる。「さすが、板についてるな」

「ジョシュアが気を使ってくれたみたい」

「ん? 何の話だ?」

「イライアスが──」軽はずみに口にして良いことなのかが分からず、バージルの隣で静かにウイスキーを飲んでいるアランを見やると、小さく肩をすくめられた。「パリに来ないかって誘われていて」

「ああ、その話か」

「バージルも知ってたの?」

「知ってたっつーか、まあ、想像はしてた。この俺ほどじゃねぇが、あいつもかなりの逸材だ。その辺に転がしておくにはもったいねぇだろ」

「イライアスをその辺の石ころみたいに言って」

「あのな、お前も少しは考えてみろよ」バージルはそう言うと、希佐の両肩をがっちりと掴み、真剣な表情を浮かべて顔を覗き込んでくる。「次の舞台が決まってるからって、先の見通しは少しも立ってないだろ? 実際問題、オーディションが終わってからのこの約四ヶ月、お前らは表立った活動を何一つしてない。役者としての貴重な時間を無駄に浪費してるってことだ。四ヶ月もあったら、何かしらの舞台を、準備から公演まで終わらせられる。イライアスだけじゃなく、お前自身も、その辺に転がってる石ころと何ら変わらないんだからな」

「……バージル、それお酒なの?」

「水だ」バージルはそう言うと、炭酸の弱まった水を、酒を呷るようにして飲み干した。「まあ、あのお嬢さんはそれを危惧していたんだろうよ」

 クロエ・ルーは当初から契約書の内容に難色を示していたという。独占契約は主演の希佐とイライアスのみで、他の出演者の契約書には記述がなかった。この舞台を最後にすると決めていた希佐にとっては瑣末な問題に思えたが、イライアスにとっては不利益を被るものだったに違いない。今回のチャリティーイベントの出演が問題視されるのであれば、最悪の場合、契約は破棄されることになる。顔の広いプロデューサーだと聞くので、何らかの圧力が掛かり、舞台に起用されにくくなる可能性すらあるのだ。

 私に任せておきなさい──不安な顔をしているように見えたのだろう、クロエは余裕綽々という態度を崩さず、希佐に向かってそう言ってくれた。

 クロエを信じると決めたからには、今更狼狽えたところで仕方がないことは分かっている。絶対に大丈夫だという確証はないが、クロエの落ち着き払った様子を見ていると、本当に何とかなるような気がしてくるから不思議だと、希佐は感じていた。

「お前、今度の舞台が駄目になったら、どうするつもりなんだ?」

「あまり悲観的な物の考え方はしていないよ」かといって楽観的にも考えていないと前置きをしてから、希佐は先を続けた。「いずれにしても、自分がやるべきことをするだけだから」

 揚がったばかりの熱々のフィッシュ&チップスに合わせて用意してもらった酒のグラスを受け取り、希佐は「あとでね」と言ってその場を離れた。

「お待たせしました」

「ありがとう、キサ」

 テーブルの上にトレイを置くと、ジョシュアは自らが注文したものを手早く取り上げる。希佐は夫妻の前に紙のコースターを並べてから、その上にウイスキーのグラスを置いた。イライアスは何もいらないと首を横に振っていたが、何も言わずに炭酸水のグラスを差し出すと、ありがとうと言って、そのまま口に運んでくれる。

「今夜のお楽しみはまだ始まらないの?」お釣りを返していると、ジョシュアが言う。「アランが歌うんでしょ?」

「ああ、それが──」かくかくしかじかと事情を話せば、ジョシュアはあからさまに残念そうな顔をした。「でも、気が向いたら歌ってくれるかもしれませんし」

「あのアラン・ジンデルが?」

 アランはこの数日、時間を見つけてはジョシュアのスタジオに足を運び、防音室を借りて歌の稽古をしていた。どうせならこっそり録音しておけばよかったと、大昔からのアラン・ジンデルのファンを公言しているジョシュアは、酷く悔しがっている。

「大丈夫?」

 隣に腰を下ろしながらそう声を掛けると、イライアスはこちらを見やりながら、小さく頷いた。

「名誉なことだとは思うけど、すぐに返事ができるような話ではないから」

「そうだよね」

「うん」

 希佐の脳裏にはなぜか、実家の近所にある神社の前で、お前はユニヴェールに入れと、中座秋吏がそう言った日のことが過っていた。

 あの日、立花希佐は願ってもない提示を受け、そして、それを受け入れた。自分自身の意思に委ねられた最後の選択をした。兄の背を追い、ユニヴェールに入学する。自分以外の多くの人々にとって、それは間違った選択だった。だが、後悔はしていない。今現在の立花希佐を形作り、そして未来の立花希佐を形成する手助けをしてくれるのは、間違いなく、あのユニヴェール歌劇学校での三年間なのだから。

「自分のことだけを考えればいいと思うよ」

「え?」

「大切なのは、自分がどうしたいかだと思う。結局、最後には他の誰でもない、自分自身で決めなければいけないから。自分の選択を他人に委ねてはいけないし、ましてや、他人のせいにしてはいけないんだ」

「……うん」

「あ、今のは偉そうに聞こえたよね、ごめん」

「ううん」イライアスは首を横に振ると、根雪が溶けていくような穏やかさで、優しく微笑んだ。「ありがとう、キサ」

 以降、パリの話題を引きずることはなく、夫妻は希佐が舞った七つのヴェールの踊りについての熱の入った感想と、それ以上に多くの助言を与えてくれた。

『ここ最近になって、君のダンスが少しずつ変化しているように感じられていたけれど、アランと踊るようになってからかな、感情型と感覚型がマーブル状に混じり合って、何というか、気持ちが悪いことになってきているね』

『あの、それは……』

『ああ、気持ち悪いは褒め言葉だよ、もちろん』そんなふうには聞こえないと思いながら、希佐は思わず苦笑いを浮かべる。『実は、前々から思っていたんだ──Vous êtes un pervers.』

「……君は? えっ? イライアス、perversってどういう意味?」

「変態」

「へ、変態……?」

「褒め言葉だよ」

 いやまさか、と驚愕を禁じ得ない面持ちを浮かべている希佐を横目に、ジョシュアもくすくすと肩を震わせて笑っている。

「確かに、君は若干の──いや、かなりかな、変態じみているところはあるよね」

「一体どこがですか?」

「変態でもなければ、そこまで演劇に没頭することなんかできないんじゃない? そういう意味では、劇団カオスの愉快な仲間たちは全員総じて見事に変態だよね。君たちから稽古の話を聞くと、正直ぎょっとするし。休むときはちゃんと休んだほうがいいと思うけどなぁ。神ですら七日に一度は安息日を設けるように言ってるわけだしさ」

「ジョシュアだって毎日歌っているじゃありませんか」

「そりゃあ仕事だからね」

「私も仕事です」

「うちのスタジオは本来月曜休みなんだよ。君たちを預かるようになって休みがなくなったってだけで」

 そんなふうに言われてしまうと、どうにも反論しづらくなってしまう。

 希佐が唇の先を僅かに窄めるのを見て一頻り笑ったジョシュアは、テーブルの真ん中に置かれているバスケットから、チップスを手に取りながら言った。

「自分の仕事が楽しくてたまらないという感覚は理解できるよ。僕たちのような職種の者は、何事も楽しむ気持ちがないと、割に合わないところがあるしね。特に役者なんて仕事は、上に行けば行くほど儲かるように出来てて、下の方をうろちょろしてる人間は割を食うもんでしょ。レッスン費用だって大体は自分持ちだし。その点、君たちはラッキーだよね。歌もダンスも、レッスン費用はマダム・ルーが負担してくれているんだから」

「もちろん、マダムやお二人には、とても感謝しています」

「ふふん、もっと感謝してくれてもいいんだよ」

 実際、贅沢なことだと思っている。本当なら絶対にありえないことなんだよと、イライアスからも口を酸っぱくして言われていた。ルイはただお金を積めば雇える人ではないのだと。

 以前、バージルに会えると聞いてこの仕事を引き受けたと話していたが、恐らくそれだけが理由ではないはずだ。クロエ・ルーの依頼だから、という理由は、多分にあるに違いない。ルイの言葉の端々には、クロエに対する憧れや尊敬の念が滲んでいる。

『フランス語、本当にお上手ね』ルイとフランス語でやりとりしている希佐をじっと見ていたかと思えば、会話の切れ目にディナがそう口にした。『夫の話し方の癖までそっくり』

『えっ、あ、すみません』

『どうして謝るの?』

『お気を悪くされたのではないかと……』

 ただでさえ仲睦まじそうな夫婦だ、夫の話し方を別の女に真似され、気分を害したのかもしれない──そう思った希佐が咄嗟に謝ると、ディナは切れ長の目を大きく見開いてから、あはは、と大口を開けて豪快に笑った。

『私はイタリア語も話すのだけれど、大体はドラマを見て独学で覚えたの。だから、公演でイタリアに行ったとき、あちらの有名な女優の話し方にそっくりだってよく揶揄われた』

『そうなんですね』

『ルイの話し方を真似るのは良いと思う。ゆっくり穏やかに話すでしょ? 興奮すると酷く早口になるけれど』

 その通りだと大きく頷く希佐を見て、ディナは優しく微笑んだ。その話を隣で聞いていたルイは、手に持ったグラスの中の氷をくるくると回しながら、希佐の方を呆れたように見る。

『だから言ったろう? もっと別の人とも話をした方がいいって』

『時間と機会がなくて』

『フランス人を見かけたらフランス語で話しかけてみればいい。大抵のイギリス人よりは愛想が良いし、無視をされたりはしないよ』

 イギリス人とフランス人は不仲で有名だ。お互いを見下し、侮辱し、罵倒することは日常茶飯事だった。もちろん冗談混じりのことの方が多いが、瞬時にひりつく空気に、希佐はいつも居心地の悪さを感じてしまう。だが、彼らにとっては、気にするほどのことではないようだ。

『そもそも、君の周りにはフランス人が多いだろう? 私やマダム、スペンサーと、それに今はあの巨匠もいるじゃないか』

『みなさんお忙しい方々ですから』

『アランは?』

『フランス語で話しかけると英語で返されませんか?』

『確かに』イライアスもフランス語が堪能だが、普段から言葉少ななので、付き合ってもらうのも申し訳ない。『舞台の稽古が始まれば専門の語学指導が入るかもしれないが──まあ、無事に稽古が始められるかどうかは、今のところかなり危うい感じはするけれどね』

 ルイはそう言って軽く肩をすくめたかと思うと、顎をしゃくるようにして向こう側のテーブルを指し示す。ゆっくりとその方向を振り返れば、件のプロデューサーと差しでテーブルに着き、涼しい面持ちで話をしているクロエ・ルーの横顔が見えた。

『大丈夫でしょうか』

『余計な口は挟まない方がいい』ルイははっきりとした物言いをする。『プロデューサー同士で解決するべき問題だ。我々は所詮雇われた人間に過ぎないのだから』

 何も置かれていないテーブル。向かい合う男女。その周りの空気だけが妙に重々しい。誰もその場所に近づこうとしないのは、針の先で肌を刺されるような緊張感を本能で感じ取っているからだろう。不恰好に身を乗り出し、酷く激昂している様子の男とは対照的に、女は凛と立つ花のように背筋をしゃんと伸ばし、口元には微笑みさえ湛えている。

『さすがのケネス・ガルシアも体裁を保てないと見える』

 そう口にするルイはどこか面白そうだ。溶けた氷で薄まったウイスキーを飲み干すと、近くを通り掛かったスタッフを呼び寄せ、グラスを下げるように頼んでいる。

「次は私がご馳走しマスよ」

「じゃあ、今度はギネスにしようかな」

『私はあなたと同じもので』

『君たちは?』

『僕は何も』

『私もご一緒します』

 そう言って立ち上がる希佐を留めることなく、ルイは小さく頷いてから、先に立って歩き出す。希佐は背もたれに立て掛けていたトレイを手に取ると、急ぎ足でルイの背中を追い掛けた。すぐに追いつけるように、ゆったりとした足取りで歩いてくれていたルイは、肩越しに希佐を振り返りながら笑った。

『落ち着かないのかい?』

『……はい、少しだけ』

『大丈夫』励ましの言葉が飛び出すのかと思えば、次ぐ言葉は諦め半分にも聞こえる。『こうなってしまったからには、もうなるようにしかならないよ』

 だが、確かにその通りだ。過ぎ去ってしまった時間を巻き戻すことはできない。口にした言葉を飲み込むことができないように、起こしてしまった行動もなかったことにはできない。

 そう、これは、誰かにやれと強要されたことではない。チャリティーの舞台に立つことを決めたのは、希佐自身の決断だ。どのような結末を迎えたとしても、それを甘んじて受け入れるのが筋というものだろう。

『やあ、お二人さん』

 カウンター席で肩を並べ、静かに飲んでいたアランとバージルに、ルイは明るく声を掛ける。揃って振り返った二人は、酒を注文しているルイを一瞥してから、その傍らにいる希佐を見やった。

「あいつはどうするって?」

「そういうことは本人に聞いた方がいいと思うけれど」

「その返事で大体は想像がついたよ、ありがとな」

「もう」

 バージルの意地の悪い物言いにむっとした顔をしていると、ルイが希佐を振り返る。

『むくれ顔のお嬢さん、君は何にするの?』

『いえ、私は──』

『今日はチャリティーナイトだよ、キサ』

 ルイはそう言うと、希佐に向かってぱちんと片目を瞑って見せる。こんな日に遠慮をするなと言っているのだろう。希佐はドリンクメニューのノンアルコールの欄に目を走らせた。

「ノンアルコールのモヒートをお願いします」

「かしこまりました」

 顔馴染みのバーテンダーは貼り付けた笑顔で応じ、手早くカードでの支払いを済ませ、すぐにドリンクの準備に取り掛かる。今日はとにかく目の回る忙しさのようで、いつものように客との会話を楽しむ余裕すらないらしい。向こうのカウンターからは、ドリンクはまだかと急かす声も聞こえている。

「メレディス、大丈夫?」あちこちで起こる小競り合いを解決し、カウンター内に戻っていったメレディスに向かって、希佐は思わず声を掛けた。「何か手伝おうか?」

「いや、その気持ちだけ──」

「あらあ、まさかキサが手伝ってくれるの?」

 何かを言いかけたメレディスの言葉を遮ったのは、希佐が働いていた頃から厨房を任されている、大柄な女性だった。彼女はにんまりとした笑顔で「助かるよ!」と声を上げると、たった今厨房から運び出されてきた料理をカウンターの上に置いた。

「料理を運ぶ手が全然足りてないの。早速だけど、これを十三番のボックス席に持っていってくれる? そうそう、道々で空いてる食器も回収してきてくれると嬉しいわね」

「分かりました、行ってきます」

「キサ、いいんだよ」

「ううん、手伝わせて」女性が差し出すエプロンを身につけ、希佐は両腕でバランスを取りながら、料理を乗せたトレイを抱えた。「ずっと大変そうだなって思いながら見ていたんだ。それに、料理を運びながらなら、お客さんとお話できるでしょう? 今日の舞台がどうだったか、感想も聞いてみたいし」

「……分かった」お願いと言って懇願すれば、メレディスは大きくため息を吐きながらも、渋々承諾してくれる。「もう少しすれば注文は落ち着いてくるはずだから、それまで頼めるかい?」

「もちろん」

「無理はいけないよ」

「はい」意気揚々と歩き出そうとする希佐を、アランはテーブルに頬杖をつき、呆れた顔をして見つめてくる。「なに?」

「お人好し」

「褒めてくれてありがとう」

「俺が代わりに奢られることにしよう」

「ルイにお礼を言ってね」

 行ってきますと言う希佐を、ルイは働き者の蜜蜂さんと言って見送ってくれる。だが、それが以前、自分が薦めたフランス映画に出てくる父親が子供を呼ぶ台詞だったことを思い出し、思わず苦笑いを浮かべてしまった。

 このパブでエプロンを締めると、背筋がまっすぐに伸びて、どっしりと構えるような、そんな気持ちになる。ほんのちょっとしたプライドが芽生え、伝統あるヘスティアのスタッフとしてきちんとしなければと、いつもそんなふうに考えていた。何代にも渡って続いている、地元の人々から愛されるパブだ。当時は、あの事件の前も後も、ここで働かせてもらえることを誇りに思っていた。

 だが、少し先に見える十三番のボックス席を視界に捉え、希佐の歩幅が僅かに狭くなる。

「お料理お待たせいたしました」

 そう言って希佐が姿を現せば、十三番のボックス席に座っていた面々が、各々に驚いた面持ちを浮かべてこちらを見上げていた。

「フィッシュ&チップス──チップスは増量ですよね。それから、ライ麦パンのサンドイッチとブリティッシュパイ、チキンのサンデーローストです。たくさんお召し上がりになるんですね」

「どうもありがとう、お嬢さん」

 レオナール・ゴダンはそう言うと、抱えていたカメラをこちらに向け、かしゃり、とシャッターを切った。

「店内でのスタッフの撮影は固くお断りしております」毅然とした態度で、お手本のようなキングズイングリッシュを操れば、大抵の客は大人しく言うことを聞くと、ヘスティアのスタッフが教えてくれたことを思い出す。「削除願います」

「これは失礼」

 ゴダンは愉快そうに笑いながら、たった今撮影したばかりの写真を、希佐の目の前で削除してくれた。だがしかし、ご協力ありがとうございます、と言った希佐の目に別の写真が映ると、反射的に声を上げてしまう。

「あっ、レオ。その写真も駄目ですよ。チケットにも赤字で撮影禁止って書いてあるのに」

「メレディスにデータを提供することで話はついているよ」

「……メレディスが良いと言うなら、私が口を挟むことではありませんが」

「怒っているの?」

「いいえ」

 トレイの上の料理をテーブルの上に並べ、代わりに空いた食器を回収していく。その手慣れた様子を、どこか唖然とした顔をして見つめていた高科更文と視線がぶつかり、希佐は反射的に微笑みかけていた。その隣では、根地黒門が常に持ち歩いている小さなノートを広げ、一心不乱に何事かを書き付けている。

「君は一体なにをしているんだい?」

 ゴダンの隣に座っているスペンサー・ロローが、その声に微かな苛立ちを滲ませながら言った。いや、苛立ちというよりも、落ち着きのなさを感じさせるのだろうか。スペンサーの視線が定期的に同じ方向へ走るのを見て、希佐はその理由を具に理解した。

「お店のお手伝いをしています」

「今夜の顔が?」

「チャリティーの売り上げに貢献できるかと」希佐はスペンサーの前にある空いたグラスを下げながら、にこりと笑う。「お飲み物を代わりに受け取ってきましょうか?」

「いや、そうじゃなくて──」

「あら、お願いできる?」その更に奥で、美しい女性がレースの手袋を外しながら口を開いた。「前に来たときはマーテルがあったと思うのだけれど」

「コニャックですね。確認します」

「私はいつもと同じものをいただこうかな」

「ラフロイグですか?」希佐がそう確認をすると、ゴダンは嬉しそうにしながら頷く。「分かりました。他の方々は?」

「……私はエールを、適当に」

「はい」スペンサーは大きくため息を吐いたかと思うと、背もたれに身を預け、髪をくしゃりと掻き上げていた。『先輩方は何をお飲みになりますか? ここは自家製のジンジャーエールがとても美味しいので、ドライ・ジンをレモンジュースとジンジャーエールで割るロンドン・バックがおすすめです。ノンアルコールカクテルやソフトドリンクもありますよ』

『あ、じゃあ、自分はそのロンドン・バックで』

 そう言って手を挙げたのは、更文の隣に座っている日本人の男だ。見たことのない人だが、纏う雰囲気がなんとなく更文に似ていると、希佐は感じる。

『かしこまりました。他は──』

『僕が一緒に行って、適当に頼んできますよ。立花、手伝う』

『ありがとうございます』

 希佐はスペンサーの隣に座っている女性から四つ折りにされた、ピンと張りのある紙幣を受け取ると、白田美ツ騎と一緒にボックス席を離れた。カウンターまでの道すがら、厨房係の女性から頼まれていた通り、空いた食器を回収していく。その様子を後ろに立って眺めていた白田が、それをカウンター前で他のスタッフに受け渡す希佐を見て、静かに口を開いた。

『頑張りすぎているんじゃないか?』

『そんなことはありませんよ』

『お前の言うことは昔から当てにならないからな』注文の列に並びながら、白田は呆れたように言う。『本当にすごいやつだよ、お前はさ』

『何がです?』

『いろいろと』白田はどこか感慨深そうに希佐の方を見やってから、少しだけ寂しそうに笑った。『久しぶりに会ったからなのか、あんなすごいものを見せられたからなのか、ますます立花を遠く感じる。何も言わないけど、根地さんやフミさんも同じように感じているんじゃないかな。お前は確かにお前のままだって分かるのに、まるで別人みたいに感じられてしまうんだ』

 困惑を滲ませる希佐の顔を見て、ごめん、困らせたいわけじゃない、と白田は言った。

『分かっています』

『これが、今のお前の日常なんだよな』

 五年という歳月の隔たりは、互いに顔を合わせ、言葉を交わしてみれば、そこまで取り返しの効かない時間ではないようにも思える。だが、そこには間違いなく、互いにとっての空白の五年間が、圧倒的な存在感で鎮座ましましているのだ。彼らには、彼らの知らない五年分の立花希佐がいて、立花希佐には、立花希佐の知らない五年分の彼らがいる。

『根地さんたちの飲み物、選ぶのを任せてもいいか?』自分たちの順番が回ってきたところで、白田はメニュー表を覗き込みながら困ったように言った。『僕にはさっぱりだ』

『お運びしたお料理に合わせるならビールがいいと思うのですが、イギリスのエールは常温でもったりとしているものが多いので、冷えた辛口のビールに慣れている日本の方には癖が強いかもしれません。あとはビールとレモネードを半分ずつで割って飲むシャンディというものもありますよ。ここはレモネードも美味しいのでよく出るドリンクです』

『じゃあ、僕はそのシャンディっていうのにするよ。根地さんとフミさんの分はお前が選んでくれるか?』

『任せてください』

 とりあえず、ロンドンに来たからには、その名前を冠するエールを飲んでもらいたいと考えた希佐は、二人にはロンドンプライドを注文した。全員分のドリンクをトレイに並べ、それを片腕に乗せて運ぶ。勘は鈍っていないようだと思いながら、後ろをやってくる白田に意識を向けた。昼間とは客層が違うので大丈夫だろうが、また酔っ払いに絡まれてはいけない。

「お飲み物をお持ちいたしました」

 無事にボックス席まで戻ってくると、希佐は飲み物の乗ったトレイをテーブルの上に置く。紙ナプキンに包んだお釣りを返そうとすると、女性はそのまま納めておくように言った。

「ありがとうございます、責任を持って募金箱に入れておきます」

「あなた、そのお手伝いはあとどのくらいの時間で終わるの?」

「メレディスからは注文が落ち着くまでと言われています」

「なら、それが終わってからで構わないから、わたしと少しお話をしない?」

「あの、失礼ですが……」

「私の母だよ」グリーンキングの注がれたグラスを口元に運びながら、スペンサーが言う。「エステルだ」

 その名前には聞き覚えがあると希佐が思っていると、スペンサーの母エステルは、座った格好のままこちらに向かって手を差し伸べてくる。希佐は自らの手をエプロンで拭ってから、そのすらりとした手を柔らかく握った。

「劇団カオスの希佐です」

「わたしの愚息がいつも迷惑を掛けているのでしょう?」

「いえ、大変良くして頂いています」

「本当に?」酷く疑わしそうに顔を覗き込まれ、希佐が返答に困っているのを見ると、エステルは穏やかに笑う。「あまり引き留めてもいけないから、時間に余裕が出来たら戻ってきて」

「は、はい」

 希佐はエステルから視線を逸らすと、預かった金をポケットに入れながら、彼女らとボックス席で対面している先輩方に目を向けた。先輩方がここに存在していること自体が、未だ現実味を帯びていないと感じながら、希佐は口を開く。

『根地先輩とフミさんのお手元にあるのは、ロンドンプライドといって、ロンドンのパブではとてもポピュラーなエールです。喉越しが良くて苦味も少ないので飲みやすいと思います』

『キサもよく飲むのか?』

『私はスタウトを飲む機会の方が多いですね』自然な様子で声を掛けてくれた更文に、希佐も自然な口振りで応じる。『ダブリンにいた頃からギネスをよく飲んでいたので。日本でいう黒ビールです。ここのギネスは充填したその日の内にアイルランドから届くので、とても美味しいんですよ。日本で飲むのとは一味も二味も違うと思います』

『それじゃあ、次はそれを飲んでみることにするよ』

『はい、是非』

 更文の隣にいる根地は未だノートにペンを走らせ続けている。経験上、こういうときは声を掛けない方が良いと判断した希佐は、その場で佇まいを正した。

「それでは、他にも何かありましたら、近くのスタッフにお声掛けください」

 失礼しますと言って、希佐はその場を後にする。

 あとはもう淡々と仕事をこなすだけだった。各テーブルに料理を運び、空になった食器を回収しながら、今日一日の感想を聞いて回る。多くは希佐がサロメを演じた役者であることに気づかず、常連客が自慢げに紹介するのを聞いて、酷く驚いた様子を隠そうともしない。顔見知りの舞台関係者たちは、一緒に舞台談義に花を咲かせようとしきりに誘ってくれたが、店の手伝いを口実に逃げ切ることができたのは有り難かった。

 あれはきっと明日の朝まで続く──希佐がそのように思いながらその場を離れようとすると、今度は別の方向から、やあ、と声を掛けられた。

「久しぶりだね、キサちゃん」

 日本人以外で自分のことをKisa-chanと呼ぶ人を、希佐は他に知らない。慌てて後ろを振り返ると、そこにいる人物を見つけて、思わず口元を覆った。

「オーナーさん!」わあ、と声を上げた希佐は、空いている方の手を伸ばして、その人物の体を抱き締めた。「忙しいとおっしゃっていたのに」

「君が送ってくれたチケットを無駄にしたくなくてね」

「来てくださって嬉しいです」

 ありがとうございますと言って笑う希佐を、アイルランド訛りのあるその人は、とても穏やかな表情で見下ろしている。癖の強い黒髪の長髪を後頭部で無造作にまとめ、見るからによれよれのコートを着ているその姿が、とても懐かしい。

 この人は、希佐がダブリンで暮らしていたときに、何度も何度も救いの手を差し伸べてくれた救世主だ。今までにも、希佐が立つ舞台を観劇するために、ロンドンまで足を運んでくれたことがある。今回も、もし時間があったら是非観に来て欲しいと、チャリティーチケットを送付していた。

「もうこの言葉はうんざりするほど聞かされたと思うけど、他に言葉が見つからないから、あえて言うよ。君のサロメはあまりに圧倒的だった。君が、あの地下劇場へ続く階段に佇んで、寂しそうに貼り紙を眺めていた女の子だったなんて、きっと誰も信じないだろうね」

 本当に見違えるようだよ──そう言ってくれたこの人は、ロンドンで知り合った人たちは誰一人として知らない、アイルランドでの希佐の多くを知っている。

 異国の慣れない文化や生活。酷使されるばかりの労働。上手く英語を話せないが故の差別的な扱い。しかし、ダブリンでの暮らしにも慣れ、行きつけのパブで英語を教えてくれる人々に出会い、新しい仕事を紹介してもらうと、生活が徐々に改善されていった。あの清掃会社で働いていなければ、このオーナーにも出会っていないのだと思うと、やはり、この世界には無駄なことなど何一つないのだと思い知らされる。

「オーナーさんに是非紹介したい人がいるんです。会ってもらえますか?」

「え、ああ、もちろん構わないが」

「よかった。こちらです」

 希佐はその人の腕を掴むと、先に立って人波の中を縫うようにして進んだ。

 ドリンクを注文する客の列は少しずつ短くなっている。つい先程までは引き攣った笑顔のような表情を顔に貼り付け、忙しなく接客していたスタッフも余裕を取り戻した様子で、いつものように客との会話を楽しみながらフロアを行き来する姿が見られるようになっている。

 ステージではアランが譲った余興を行っている出演者と、急遽駆り出されたバンドが演奏を行なっていた。溢れる音楽と人々の喧騒が合わさって、今宵はより一層、ロンドンのパブらしい様相を呈しているように感じられる。

「アラン」

 息急き切ってやって来た希佐が後ろから声を掛けると、アラン・ジンデルはウイスキーグラスを片手に持ったまま、後ろを振り返った。他の仲間たちは席を外しているのか、カウンター席にはアランしかいない。

「バージルたちは?」

「どこかに行った」

 なんだかんだ顔の広い人たちなので、挨拶回りにでも向かったのだろう──希佐はそのように思いながら、腕を掴んでまで連れてきた人を振り返った。

「オーナーさん、こちらは私が所属している劇団の主宰で、アラン・ジンデルです」カウンターに頬杖をつき、どこか気怠そうに酒を飲んでいたアランを見て、その人は目を丸くしている。「アラン、こちらは前に話をした、ダブリンにいた頃にお世話になった、地下劇場のオーナーさん。今日のためにアイルランドからいらしてくださったんだ」

 アランは持っていたグラスを置き、ゆったりとした動きで椅子から立ち上がったかと思うと、徐に右手を差し出した。

「初めまして、アラン・ジンデルです」

「え、ええ、初めまして」オーナーは自らの手の平をシャツの裾で拭ってから、どこか緊張した面持ちで握手に応じている。「私はマシューといいます。マシュー・コーヘン」

「こちらに座って何か飲みませんか。ご馳走します」

「えっ、あ、では、お言葉に甘えて……」

 酷くたじたじとした様子で、進められるがままに椅子に腰を下ろすオーナー──マシューを見て希佐がにこにこと笑っていると、丁度カウンター越しに目の前を通り掛かったメレディスが、こちらに目を留めて口を開いた。

「ああ、キサ、ありがとう。君のおかげでかなり助かったよ。もう大丈夫だから、あとはゆっくりしているといい」

「うん」

「すぐにモヒートを作り直すからね」

「ノンアルコールでお願い」

「分かっているよ」

「オーナーさんは何を飲みます?」

「私は、そうだな、ギネスを一杯」

「かしこまりました」

 マシューはつい先程までバージルが座っていた場所に腰を下ろし、カウンターの向こう側から差し出されたギネスのグラスを受け取った。希佐は、氷と砂糖抜きの炭酸水を注いだ背の高いグラスに、ミントの葉を沈め、香りの良いライムをたっぷりと絞った、甘さ控えめのノンアルコールモヒートを受け取る。

「ありがとう、メレディス」

「どういたしまして」

 メレディスは手ずから作ってくれたノンアルコールのモヒートを希佐に差し出すと、ごゆっくりと言い残して、再び仕事に戻っていった。

 希佐はアランの隣に座り、ストローの先で少しだけミントの葉を潰してから、一気に飲み干す勢いでモヒートを吸い上げた。弾けるような炭酸の刺激が乾いた喉を潤してくれる。ぷはー、と息を吐く希佐を横目に見ていたアランは、手元にあるメニュー表を指先で叩きながら言った。

「何か食べたら」

「アランも食べる?」希佐は小さく頷くアランを見てから、今度は少し前のめりになってマシューの方を覗き込んだ。「オーナーさんも何か食べませんか?」

「君が何か頼んでくれたら、私はそれをいただくよ」

「お腹は減っています?」

「実はぺこぺこなんだ」

「分かりました。任せてください」

 希佐があれこれと料理を注文している傍らでは、アランとマシューが静かに言葉を交わしていた。注文を終えたところで耳を傾けてみると、マシューがダブリンにいた頃の希佐について話して聞かせているところだった。

「あれからもう何年も経つのに、行きつけだったパブでは、思い出したように彼女のことが話題に上るんですよ。それで、あの子がちゃんと元気にしているのか、本当に上手くやっているのかを、代表で見に行って来いとうるさくて」

「そうですか」

「向こうのパブでは常連客がみんなで今日のライブ配信を見るんだって大きなモニターを運び込んでいましたから、今頃はここと同じくらい騒がしいことになっているはずです」

「皆さん変わらずお元気ですか?」

「元気だよ。ああ、でも、アイザックが畑仕事で腰を痛めてしまってね、代わる代わる手伝いに行っている。徐々に良くなっているから、心配はいらないよ」

「お大事にとお伝えください」

「その言葉を君の口から直接聞くことができれば、彼の腰もすぐによくなると思うのだけれど」マシューは悪戯っぽくそんなふうに言う。「飛行機に乗れば一時間ほどの距離だ、またいつでも遊びにおいで」

「はい」

 運ばれてきた料理に舌鼓を打ちながら、希佐はほんの少しだけ、ダブリンでの昔話に花を咲かせた。口数は少ないものの、アランはよくマシューの話に耳を傾け、真摯に言葉を交わしてくれている。

 本当は何一つ興味などないのかもしれない。少し前までのアラン・ジンデルならば、面倒臭いと一蹴して席を立っていたのではないだろうか──希佐がそんなふうに思いながら、人知れず笑みを溢していると、不意に視線が投げかけられた。

 この人は言葉足らずなところがあるけれど、誰よりも他人の心の機微に敏感な人だから、あえて口にする必要のない言葉は、大抵の場合はすぐに飲み込んでしまう。その言葉をほんの少しでも吐露してくれたなら、多くの誤解を生まずに済むのではないかと、そんなふうに思ってしまうこともある。だが、その心の内を理解できる特別な間柄であることを、嬉しく思ってしまうのも事実だ。

 今も、何を笑っているのだと少しだけ責めるような、微かに妬くような緑の眼差しが、希佐の視線を射止めている。

「そういえば」徐々に顔と顔の距離が近づいたかと思った次の瞬間、マシューが思い出したように口を開いた。「舞台上で歌うキサちゃんを見ていたら、君がダブリンを発つ前の日の夜に、私のために歌ってくれたことを思い出したよ」

「あー……」希佐はアランの目を見やったままそう漏らし、マシューの方に視線を動かした。「恥ずかしいです」

「どうしてだい?」

「あの頃はまったく稽古をしていませんでしたし、人前で歌うのも本当に久しぶりだったので」

「今夜に勝るとも劣らない素敵な歌声だったよ」

「あ、ありがとうございます」

 あはは、と困ったように笑いながら頬を掻く希佐を、アランは目を細め、どこか興味深そうに見やっている。言わんとしていることを理解した希佐は、どうにかその質問から逃れる方法はないかと思案したが、アランは希佐の口が開かれるのを待たず、マシューに顔を向けて言った。

「キサは何を歌ったんですか?」

「あ、ちょっとアラン──」

「Catsのmemoryです」マシューはにこにこと笑いながら、アランの問いに嬉しそうに応じている。「キサちゃんがアイルランドを発つ前に何かしてあげたいと思いまして。次はイギリスに行くつもりだと聞いていたので、ロンドンの空気感を知っておいた方がいいだろうと思って、遊びに連れて来たことがあったんです。そのときに二人でCatsを観たんですよ」

 へえ、と相槌を打つアランの横目は、希佐に向けられている。

 散々世話になっておきながら、何の謝礼もせずに立ち去ることが憚れて、何かお礼をしたいと思った。だが、希佐には歌を贈るくらいのことしか思いつかなかったのだ。広い公園の片隅で密かに練習し、当時の自分に出せる限りの力を出し切って、思い出の歌を贈った。

 イギリスで暮らしてきたこの数年間、希佐自身は何度かCatsの舞台に足を運んでいるが、その話題が会話にのぼったこともなければ、アランにmemoryを歌って聞かせたこともない。

 小競り合いでも始まりそうな気配を察知したのだろう、マシューは微かに苦々しい笑みを浮かべながら言葉を続けた。

「この子はあまり過去を語りたがりませんし、自分のこともほとんど話さなかったので、あんなふうに歌えたなんて知りませんでした。だから私は、こんなふうに言ってしまったんですよ。君には人が羨むような才能があるのに、それを生かさないのはもったいない。もっとその才能を生かすべきだって。でも、この子がダブリンを発ってすぐ、そんなふうに言ってしまった自分を恥じました。彼女は誰の目から見ても訳ありで、きっと自分の意思には関係なく、何かを諦めながら生きているのだろうということは、私にも分かっていましたから」

「オーナーさん……」

「それに、当時は多少の妬みもあった」え、と声を漏らした希佐の方を見て、マシューは口角を持ち上げた。「私は舞台役者になるのが夢でね、若い頃はこのロンドンの小さな劇団に所属していたんだよ。でも、まったく芽が出なかった。堪え性がなかった私は、早々にダブリンに帰ってしまった。でも、どんな形であれ舞台表現には携わっていたかったから、あの地下の物件を買い取って、小さな劇場を作ったんだ。若い子が夢を諦めることなく、舞台に立ち続けることができるように」

「そうだったんですね」

「あのときは君の才能にすっかり当てられてしまったんだ。失礼なことを言ってしまって、申し訳なかったね」

「いいえ、そんな」

「私がこんなことを言うのはお門違いも甚だしいだろうが、君を心から誇りに思うよ」

「ありがとうございます」

 人と人との出会いは、きっと必然なのだろうと、希佐はそう思うようになった。人と人は出会うべくして出会うのだと。そして、人と人は思わぬところで繋がり合っていることがある。

「あれ?」カウンター席で話し込んでいると、すぐ近くから聞き慣れた声が聞こえてきた。「もしかして、マシュー?」

 振り返った先にはジョシュアが立っていて、その眼差しはアランの隣に座るマシューに注がれていた。本当に驚いているのが分かるほど、大きく目を見開き、口をぽかんと開けている。

「君、マシュー・コーヘンだよね? ぼく、ジョシュアだよ。君と同じ劇団に所属してたんだけど──いや、ぼくが入ってすぐに辞めていったから、もしかしたら認知されてないかも。劇団の見学に行ったとき、君の歌声を聞いて、ここに入ろうって決めたんだぁ。他にもいくつか劇団を見て回ったけど、君の歌が一番良かったから。どうして辞めたの? 故郷に帰ったって聞いたけど。っていうか、君たち知り合いだったの?」

 いつものようによく回る口で一方的に話をしたジョシュアは、カウンターの向こう側にいるスタッフを呼び寄せると、コースターの裏側にメモ書きをした注文を読み上げている。ポケットから取り出したくしゃくしゃの紙幣を差し出そうとすると、アランがそれを制して、自分に付けておくようにとスタッフに告げていた。

「いいの? 悪いね」ジョシュアは得をしたと言うふうに、にたりと笑う。「ごちそうさま」

「イライアスは?」

「家族のところに戻ったよ。ぼくもこの飲み物を運んだら別の場所に移ろうかと思って。あの二人、目の前で急にいちゃつきだすから、正直一緒に居たくないんだよね」

 これだからフランス人は──そう呆れたように言うジョシュアは、未だ自分を見て呆然としているマシューを目に留め、不思議そうに小首を傾げている。

「……君が、来たから」

「えっ?」

「君の歌声を聞いて、自分の歌に自信が持てなくなったから、国に帰ったんだ」

「そうだったの?」心底意外だという顔をして、ジョシュアは声を微かに裏返らせる。「ごめん、全然知らなくて」

「いや、もう昔のことだからね」

「まあ、ぼくもこれに出会って、舞台の道は諦めた口なんだけど」これ、と言いながら、ジョシュアは平然とした顔をしてアランを指差した。「ねえ、向こうに昔の仲間が来てるんだ。そこで一緒に飲まない? もちろん、君が良ければだけど」

「構わないのかい?」

「嫌だったら誘わないよ」ジョシュアはあけすけに言って笑うが、それからすぐにアランの方を見た顔は、やや不満そうに見えた。「あのさ、今夜は本当に歌わないつもり?」

「俺はそのつもりだけど」

「無理強いをしたいわけじゃないし、こちらは風の噂を耳に挟んだ程度だから、事情なんて知らないようなものだけどさ。これで彼らは身に染みたと思うよ。人前に立つ機会を増やしてもらうだけじゃ名声は得られないってね。彼ら、歌は上手いけど、ただそれだけだ。聞くのは一曲だけで十分だよ」

「何事も経験だろ」

「君さ、分かってる? 君の無茶振りをすんなり受け入れる、この子やイライアスやアイリーンの方が、存在的には稀なんだってこと。普通だったらとっくの昔に心が折れてる。やるかやらないかを選べるのは、事前に入念な下準備を重ねてきた人だけであって、何の準備も心構えもない人間が、突然こんな魔窟のような場所に放り出されたら、大抵の場合は上手くいかないよ」

「君は彼らを擁護したいの。それとも、俺の歌を聞きたいの」

「両方」

「ふうん」

 大して興味がなさそうに相槌を打つ姿を見て、ジョシュアは不満の表情を更に色濃くさせると、ウイスキーのグラスに伸びようとしていたアランの手の甲を、ぴしゃりと叩いた。

「なーんか腹立つなあ。ねえ、君はさ、周りからのお膳立てがあって、どうにかこうにか今日の舞台に復帰できたんじゃなかった? 散々背中を押されて、尻を叩かれて、腕を引っ張り上げられて、そりゃもう手取り足取り、何なら介護されるくらいの勢いで、ようやくあの舞台に立てたんだよね? ふうん、なんて偉そうに構えていられるようなご身分なの?」

 至極真っ当なことを指摘されたアランは、珍しくもきょとんとした面持ちを浮かべ、緑色の目を丸くしてジョシュアを見つめている。ぱちん、と目を瞑るたびに音が聞こえてきそうな瞬きを繰り返す様子を目の当たりにして、希佐は思わずくすくすと笑ってしまった。

「チャリティーで歌うって言うから、うちの防音室を無料で貸してあげたんだよ。もし本当にこのまま歌わないつもりなら、使用料を倍額した請求書を事務所宛に送りつけるからね」

 運ばれてきたドリンクを「ありがと」と言って笑顔で受け取ったジョシュアは、アランを鋭く睨みつけてから、夫妻が待つテーブルへと戻っていった。ジョシュアが立ち去ったあと、ため息まじりに頭を掻いているアランは、多少ばつが悪そうにも見えた。

「ジョシュアは私の歌の先生なんです」

「そうだったんだね」世間は狭いねと言いながら、マシューはどこか苦々しい表情を浮かべている。「まさか、こんな形で自分の過去と向き合う日が来るとは思わなかったよ」

 そのマシューの言葉が、まさに今現在の自分の境遇を言い表しているようだと希佐は思った。

 逃げ回ることはできない。相対しなければいけない。己の罪を償わなければならない。もう十分に遠回りをしてきたのだから。

「未熟だった私は、自分よりも若く有望な才能を目の当たりにして、怖気付いてしまったのだろうね。自分が何をしたいのかも分からず、この先の見通しも立たない。最後に残っていたのは、まるで抜け殻のような、世に名を残したいという漠然とした気持ちだけだったんだ。そしてある日の朝、目が覚めてみると、舞台への情熱は嘘のように失われてしまっていた」

 きっかけは彼だったのかもしれないけれど、国に帰ることを決めたのは、他ならぬ私自身なんだよ──そう言うマシューの表情は、物悲しげではあるが、どこか晴れやかにも感じられた。

 マシューが「せっかくだから呼ばれてくるよ」と言って席を立つと、カウンター席には希佐とアランだけが取り残された。後ろを振り返れば、正面にステージが見える。アランから出番を押し付けられた出演者たちは、ステージを取り囲んでいる自らのファンを、十二分に楽しませているようだ。

「どうなるのかな」

「なにが」

「今度の舞台」希佐はカウンターに向き直り、隣に座るアランを見上げる。「どうなると思う?」

「あまり悲観的な物の考え方はしてないって言ってなかった?」

「もちろん、あれは本心だけど、いろいろ思うところはあるというか……」

 言い淀む希佐を横目に見ていたアランは、小皿の中に一粒だけ残っていたアーモンドを口の中に放ると、かり、と奥歯で噛み砕き、グラスに残っていたウイスキーを飲んだ。

「もう話はついてる」

「え?」

「現行の脚本は渡す」

「……どういうこと?」

「クロエ・ルーは改編された脚本に興味がない」アランは希佐以外の誰にも聞かれないよう、耳元に唇を寄せ、囁きかけるような声で言った。「あの女は、何度でも求められるままに改稿に応じろ、原形がなくなっても構わないから、ケネス・ガルシアの望むままに書き直せと言った。だから俺は、その通りに脚本を改変し続けたんだ。あれは今や原形を止めない、スポンサーの要望を織り込みに織り込んだ駄作だよ。さすがの俺も、自分の名前を冠して世に出したくはない」

「それって──」

 希佐が言いかけた次の瞬間、これだけ騒がしい店内に、一人の男の怒号が響き渡った。

 一瞬にして静まり返った店内のその中心には、豊かなブロンドの髪から何かを滴らせているクロエ・ルーと、渦中のプロデューサー、ケネス・ガルシアの姿がある。

「では、よろしいのね?」肩で呼吸をしているガルシアとは対照的に、余裕の表情を浮かべたクロエが、濡れた髪を掻き上げながら面白そうに言った。「こんなお芝居のような経験ははじめてよ」

 二人がいるテーブルの脇で棒立ちになっている男性が、酷く青ざめた顔をしていた。エールの注がれたグラスを持つ左手が大きく震え、その都度エールが溢れていく。恐らく、ガルシアがその人の手から奪い取ったエールを、正面に座るクロエに浴びせかけたのだろうと推測することができた。

 くそ、と小さく悪態を吐いたアランは、瞬時に席を立つ。希佐は顛末を目撃していたバーテンダーから清潔な布巾を受け取り、急いでアランの背中を追いかけた。

「利口なやり方とは思えませんね」

 プロデューサーと対峙するようにして立ったアランは、自らが着ていたジャケットを脱ぎ、それを傍らに座るクロエに向かって放った。後から駆け付けてきた希佐が、ビニール袋から取り出したばかりの布巾を差し出すと、クロエは「ありがとう」とにこやかに笑いながら受け取る。

「脚本家風情が我々の問題に口出しをするな」

「確かに俺は一端の脚本家風情ではありますが」アランの目がすっと細められ、据わる様子を目の当たりにすると同時に、希佐は背筋が少しだけ冷たくなるのを感じていた。「舞台上の情緒というものをまるで理解しようとなさらない、後援者に謙るだけの責任者よりは物を言う資格を有していると自認しています」

「回りくどい言い方はおよしなさい」クロエは布巾で顔や髪を拭いながら、未だ立ち尽くしている哀れな男性客を見やった。「本当にごめんなさいね。どうぞお気になさらないで。この浴びるほど美味しいエールのお代は私がお支払いしますから」

 クロエの優しい声音で硬直の呪縛から解き放たれた男性は、ほとんど逃げ出すようにしてこの場を離れていく。放られたジャケットに腕を通し、毅然とした態度で佇まいを正したクロエは、雑にまとめただけの布巾をテーブルの上に置いた。

「今、あなたの手元にある脚本は無償で差し上げると言っているのに、一体それの何が不満だとおっしゃるの? そもそも、あなたはこの子の起用を、最後まで大反対していたではありませんか。どうぞ、その脚本をお使いになって、お気に入りのあの娘を起用なさればよろしいわ」

 この子、と希佐のことを指して言ったクロエは、まるで所有権を主張するように腕を引き寄せ、自らの隣に座らせる。テーブルを挟んだ向かい側にいるケネス・ガルシアは、親の仇を睨み付けるかのような形相で、こちらを睨んでいた。

「この子に役者としての市場価値はないとおっしゃったのに、この子の動画が世界で評価された途端に手の平を返したわね。この子はまさに現代のシンデレラだとおっしゃっていたかしら」

「……私にすべてを委ねてくれれば、君を世界的なスターにする準備は出来ている」ガルシアの酷くギラついた眼差しが、クロエにではなく、希佐に真っ直ぐ向けられていた。「だが、その女についていけば、君はこの先の約束された多くのキャリアを手放すことになるだろう」

 これは脅されているのだと、希佐はすぐに理解した。イライアスもこれと同じようなことを言われたに違いない。

 多くの役者にとっての夢が一体何なのか、希佐には分からない。この人の言うように、世界的なスターになることが最終目標の人も、この世界のどこかにはいるのだろう。だがしかし、希佐は世界的なスターになりたいわけではないのだ。誰もが羨む経歴を欲しいとも思わない。ただ、最初で最後、誰かから与えられたものではなく、自分で選び、勝ち取った役を演じ、舞台に立ちたい──それだけが望みだった。

「役者には自らの価値を証明し続ける義務があります」自分は、ただ有名になるために舞台に立つのではないと、希佐は思う。「そして、私には自らの価値を証明し続ける力があります」

 もし、明日世界が滅びるとしても、目の前にたった一人でも観客がいてくれるのなら、全身全霊、命を賭して演じるだろう。立花希佐にとって、舞台に立つということは、呼吸をすることと同義なのだ。スポットライトを浴びているときだけ、生きていることを強く実感することができる。月明かりの差す銀色に輝く石畳の地面の上でも、太陽の降り注ぐ公園の片隅でも、どこでも構わない。場末の薄汚れた小劇場だっていい。希佐にとっては、目の前にいるのが千人の客だろうと、たった一人の客だろうと、何も違わないのだ。

「私は自らの価値を高めるために自分以外の強大な力を頼りたいとは思いません。自らの能力以上の評価を得てしまえば、私のような表現者は近い将来、それこそ身を滅ぼすことになります。分不相応なことは望みません。私はただ、私という才能を正当に評価してくださる方の下で、私の存在意義を証明し続けたいのです」

 そう言い切った瞬間、背中に回されたクロエの腕が、ぎゅう、と希佐の体を抱き締めるように引き寄せるのが分かった。思わず横目に窺い見るが、その横顔に表情の変化は感じられない。むしろ、一切の表情を消し去った、冷酷な面差しにすら見受けられる。

「お二人とも、人目がありますよ」

 はあ、と大きくため息を漏らしながら仲裁に現れたのは、スペンサー・ロローだった。胃の辺りをさすっているのを見るに、強いストレスを覚えているようだと分かる。スペンサーはテーブルの脇に立つアラン・ジンデルを一瞥し、クロエの隣に座っている希佐を素早く見てから、睨み合うプロデューサーを交互に見やった。

「話し合いは日を改めて行いましょう。ここまで注目を浴びてしまっては、続けられる話でもありません。お互いのためにもよろしくない」

「ええ、そうね」

 スペンサーの提案に同意はするものの、クロエの態度はむしろ好戦的で、後へ引こうという意思は感じられない。だが、徐々に喧騒を取り戻しつつある店内の至る所から、興味本位な眼差しと、聞き耳を立てられている気配は、あまりにもはっきりと感じられる。

「ケネス」スペンサーは静かにその名前を呼ぶ。「タクシーを呼びましょうか?」

「結構だ」

 不愉快極まりないという様子を隠そうともせず、テーブルに両手を叩きつけるようにして席を立ったガルシアは、傍らに立つアランと目配せを送り合っていたスペンサーを睨むように見た。

「スペンサー、お前もここに残るつもりか?」

「今夜は母のエスコートをしなければならないので」

「賢いお前なら、もちろん分かっているな」

「身の振り方は弁えているつもりですよ」

 荒々しい足音と共に立ち去っていった背中が、店を出て行くのを見届けてようやく、希佐は大きく息を吐くことができた。異性からの敵意のある眼差しを目の当たりにすると、幼い頃に借金の取り立てにやって来ていた男たちのことや、あの事件のことを、どうしても思い出してしまう。

「キサ」

「えっ?」香水の甘い香りと、ほんの微かなアルコール臭のするクロエに力一杯抱き締められ、希佐ははっと我に返った。「す、すみません、あの、私、差し出口を──」

「よく言ってくれたわね。私、ぐっと来ちゃった」

 ふふふ、と耳元で優しく笑う息遣いがくすぐったくて、希佐は思わず首を竦める。しかし次の瞬間、クロエの髪の先から滴った水滴が鼻先に落ち、自然と顔が上向いた。正面から見つめ合った青い目の奥には、さらに深い青が見える。

「大丈夫? 怖くなかった?」

「は、はい、私は大丈夫です」希佐は小さく頷いてから、一パイントのエールを浴びせかけられたクロエの姿を改めて見やった。「マダムこそ、早くシャワーを浴びて着替えられた方が」

「確かに少し臭うわね」

 クロエは希佐を椅子から立たせると、少し待つように言い残し、カツカツと早足でカウンターの方に歩いていった。その視線の先には、申開きを待つやや呆れ顔のメレディスが立っている。しかし、カウンターに肘をつき、身を乗り出しながらにこやかに話し出したクロエを、メレディスは咎めるでもなく見つめていた。

「いやはや、困ったね」本当に困っていると分かる声で、乱暴に頭を掻きながらスペンサーが言う。「マダムに今ここを離れられたら、彼女が声を掛けて回った出資者候補たちの相手は、一体誰がすればいいんだ?」

「君がすればいい」

「これ以上胃が痛くなるようなことを言わないでくれ」我関せずという面持ちのアランを見上げ、スペンサーは鋭く睨みつける。「私はもういっそこの船から飛び降りたい気分なんだ」

「海は大荒れだよ」

「だから踏ん切りがつかないんじゃないか」

「好きでもない演出家の仕事をいつまで続けるつもり?」

「君にだけは言われたくない台詞だな」

「俺はこの仕事も悪くはないと思ってる」

「嘘を吐け」

「こだわりはないけど、自負はあるから」アランはそう言うと、ほんの微かに口角を持ち上げて笑った。「引き受けた仕事を途中で投げ出したことはない。それは君も同じだろ?」

「どちらに転んだとしても、私にとっては地獄でしかないんだよ」

「たまには金にならない仕事をするのもいい」

「業界に干されたら?」

「名前を変えろ」

「父の名前でも名乗ってやろうか」

 スペンサーは自らの頭を抱え、ぐったりと項垂れてしまっている。クロエはそこに戻ってくると、項垂れているスペンサーの肩をとんとんと叩き、沈んだ顔を上げさせた。

「ねえ、あなたたちどこのホテルを取っているの?」

「ソーホーホテルですよ」

「いつものホテルじゃないのね」

「母がここから近い方がいいと言うので──」スペンサーが最後まで言うのを待たず、失礼、と言い残したクロエは、エステルがいるボックス席へと駆け寄っていった。それを目にしたスペンサーは、途端にぎょっとした表情を浮かべる。「おい、待てよ、嫌な予感がするぞ」

 クロエはエステルと一言、二言話したあと、ハグとキスをしてから小走りで戻ってきた。そして、スペンサーの腕に自らの腕をするりと絡め、引っ張るようにして歩き出す。

「さあ行くわよ、スペンス坊や」

「あー、もう、はいはい、分かりました。分かりましたから、離れて歩いてくださいよ、マダム。ゴシップのネタにされるのはごめんなんですから」

「一時間で戻るわね」スペンサーの小言をすっかり無視し、こちらを肩越しに振り返ったクロエは、希佐とアランに向かって軽くウィンクをした。「いいこと、それまで支援者たちをしっかり足止めしておくのよ」

 うんともすんとも言う暇も与えられず、ただ理不尽な任務を託されて唖然としながら、希佐は隣に立つアランを見上げた。アランは何を言い返しても無駄だと分かっているのか、どこか達観した面持ちで、大きく肩をすくめて見せる。

「……支援者って?」

「舞台の出資者──になる可能性のある誰か」詳しくは聞いてない、とアランは言った。「ケネス・ガルシアと縁を切るためには潤沢な資金が必要だ。あの女は彼のコネクションに期待して手を組んだわけだけど、大手スポンサー各社は舞台そのものよりも、プロモーション活動に比重が傾いた物の考え方をしてる。どうやって金儲けをしようか、ということしか考えてない連中も多いってこと」

 小さく頷く希佐を見て、アランは周囲に視線を走らせてから、更に小声で続けた。

「愚かしいほどの大金が動く代償として、出演者たちは舞台の稽古をする合間に、スポンサーの広告塔として働かされ、着ろと言われた服を着て、渡された台本通りの言葉を話すように指示される。それ自体は珍しいことでもなんでもない。でも、何も知らない新人同然の役者なら、大抵の場合はプロデューサーの思惑通りに動いてくれるし、文句を言えるような立場でもないから、大人しく言うことを聞く。そして、汚い世界を見せつけられ、思い知らされ、夢や理想とはあまりにかけ離れた現実を目の当たりにして、打たれ弱い連中はこの世界を去って行く──これが、スペンサーが悪どいことをしていると言われる所以だ」

「私には当然のやり方に思えるけれど」

「程度の問題だよ」アランは僅かに屈めていた腰を伸ばし、目に掛かった前髪を掻き上げる。「それに、今回はあの女やスペンサーが間に入って、向こうのプロデューサーが君やイライアスと個人的な接触をしないように壁の役割を果たしてた。まあ、その努力も虚しく、イライアスはガルシアと鉢合わせして、脅しを受けたみたいだけど」

「でも、契約書がすべてでしょう? 私は契約書の内容に納得してサインをした」

「問題は、これがプロデューサー同士の仲違いということだ」スタッフの尽力で店内がいつもの雰囲気を取り戻し始めると、人の往来が激しくなってくる。アランは希佐の手を取り、カウンター席まで戻った。「二人の間に契約書は存在しない。あの女のことだから、故意に作らなかったと考えた方が無難だな」

「脚本は無償で渡すと言っても、原案の権利は?」

「無償で渡したとしても著作権は消滅しない。あの脚本自体の権利は放棄するつもりだけど、原案はあの女のものだ。今後は弁護士同士の話し合いが主になると思う」

「……お金、足りないの?」

「君が心配するようなことじゃない」アランは僅かに目を見張ったあと、小さく吹き出すようにして笑った。「資金繰りの問題は、多分なんとかなる。もし足りなければ俺も出資する。あの女が金を掻き集めようとしているのは、ガルシアの助力がなくても舞台を完成させられると示すためだ。でも、本来の論点はそこじゃない」

「論点?」

「二人とも君とイライアスを手放したくないんだよ」アランは苦笑いのような表情を浮かべながら、人差し指の背で希佐の顔の輪郭をそっと撫でた。「これから先の人生で、どうしても金が必要になるなら、ガルシアについた方がいい。ただ、これから先も役者としての尊厳を守りたいと思うなら、クロエ・ルーを信じるべきだ」

 生きていくためにはお金が必要だ。お金の重要性は子供の頃から嫌というほど痛感させられている。だが、だからといって、お金のために自分の身や信念を売りたいとは思わない。そんなことをして舞台に立つくらいなら、死んだ方がましだろうと、今ならば思う。

「言ったでしょう?」希佐は自身の頬を撫でる大きな手に触れ、アランの目を真摯に見つめた。「私は、私という役者の才能を正当に評価してくれる人のところで、存在意義を証明し続けたいって」

 ここにいると、自分はまだ終わりではないと、そう思えるのだ。もっと先へ、もっと高みへと駆け上がっていく自分を、今はまだ想像することができる。最後の瞬間まで、成長し続けることができると、そう信じられる。最期の幕が下りるその瞬間まで、何一つ諦めたくない。

「私もマダムを信じてついていく」

「私も?」

「アランだってマダムのことを信じているから、脚本を渡すことに同意したんじゃないの? 違う?」アランは何も答えず、ただ希佐の目を見つめ返している。「話し合ってね、アラン」

「分かってる」

「本当に?」

「……感情が邪魔をして上手く話せないんだ」

 自分も、父親と腹を割って話せと言われたら、同じように感情が邪魔をして上手く話せないだろうと、希佐は思った。だから、アランの気持ちはよく分かるのだ。だが、ガルシアからエールを浴びせかけられたクロエを見て、誰よりも早くその場に駆けつけたアランになら、最善の解決策を見出すことができると信じている。

「良い雰囲気のところを申し訳ないのだけれどね」こほん、と小さな咳払いが聞こえてきた方に目を向けると、胸の前に腕を組んでいるメレディスが立っていた。「マダム・ルーから、大切なお客様を一人たりとも店の外にお出ししないようにと言付かっている」

「こっちは足止めをしておけと言われた」

「彼らは特別なショーをお望みだそうだよ、アラン・ジンデル」

 メレディスはそう言ったかと思うと、店内のどこかに意味深な眼差しを向ける。その視線を追いかけるようにして振り返ったアランは、何もかもを察したかのような顔をして、微かな嫌悪感を露わにした。

「マイク片手に朗読でもするか」

「お好きなように」

 ふう、と大きく息を吐き出したアランは、メレディスが差し出した水のペットボトルを受け取ると、再び希佐の手を取って歩き出す。その足が向かった先は、先程クロエが駆け寄ったボックス席だった。デジタルカメラの小さな液晶を覗き込み、写真の確認をしていたレオナール・ゴダンは、目の前に現れたアランと希佐を交互に見やると、にっこりと笑った。

「やあ、お二人さん。とんだ目にあったようだね」

「レオが支援者だとは思わなかった」

「こちらのお嬢さんもだよ。僕だけじゃない」

「ねーえ、とっても退屈だわ」お嬢さんと呼ばれたエステルは、テーブルに頬杖をついたかと思うと、まるで挑発をするような目でアランを見上げた。「退屈すぎてホテルに帰ろうかどうか考えていたところ」

「ただの脚本家に道化になれと?」

「ええ、そう」エステルは甘く香るような微笑を浮かべる。「出資はチャリティーとは違うのよ」

「似たようなものでしょう」

「見返りくらいは求めたいじゃない?」

 公平、不公平の話をし始めたら、きりがないことは分かっている。平等たり得ないこの世界で不平不満を漏らしても、その演説を足を止めて聞く者は少ない。人は、力ある言葉の前で、歌の前で、踊りの前で、おもむろに足を止める。取るに足りないものの前では、ただ残酷に通り過ぎるだけだ。誰もが前者でありたいと願うが、この世にありふれているのは後者のような人ばかりであることを、ジョシュアに連れて行かれたセント・パンクランス駅で思い知らされた。

 もし自分の演技が、歌が、ダンスが、実際誰にも評価をされず、目の前を素通りされたらと思うと、背筋が冷たくなる。

 今だって、自分に絶対的な自信を持つことはできないし、過信もしたくはない。今の状態が永遠に続くことはないと思っている。もしかしたら、ある日突然、この舞台への情熱が跡形もなく消え去ることだってあるのかもしれない。

 明日、何が起こるのかは、まだ誰にも分からないのだ。

 一歩先にある世界は、その一歩を踏み出した者にしか、見ることはできない。

 だから、もしあのときこうしていれば、なんていう後悔だけは、本当は誰にもしてほしくはない。自分の実力が招いた結果ではなく、ただ挑戦しなかった先にある結果は、生涯引きずることになるだろう。

「アラン」差し出がましいかもしれないと思いながら、希佐は声を上げる。「クローディアさんのことも含めて、いろいろと思うところはあるのかもしれないけれど、今は自分の心に従うのがいいんじゃないかな」

 店内のどこを見回してみても、ダイアナとクローディア・ビアンキの姿は見当たらない。恐らく外に出ているのだろう。今日はこのまま戻っては来ないのかもしれない。

 自分のサロメがクローディアの琴線に触れたのだとしたら、それはとても名誉なことだと希佐は思う。だがしかし、それ以上に大きな痛手を与えてしまったのだとしたら、本意ではないとも思った。クローディアに対してどのように接することが最も正しいのかは分からない。けれど、結果を憐れんで足を止めることだけは違うと、そう思うのだ。

「人に巡ってくるチャンスの数は限られてる。残酷だけれどこの世界は決して平等なんかじゃない。そんな中で、自分を立たせてくれるための舞台が用意されて、そこに立つことを望んでもらえるなんて、とても光栄なことだと思うんだ」

 時には誰かのために一緒になって足を止め、寄り添うことも必要なのかもしれない。そうすることによって救われる人は少なからずいるのだろう。それでも、もし自分が同じ立場だったとしたら、決して後ろを振り返らず、一直線に駆けて行ってほしいと考えるはずだ。

「私なら、明日死んでしまっても絶対に後悔しない方を選びたい」

 間違った道ばかりを選んできた。あまりに自分本位で、罪深く、到底許されはしない選択ばかりを繰り返してきた。だが、過去を振り返ってみれば、そうした選択の数々を後悔したことはない。自分はきっと地獄に落ちるのだろうと希佐は思う。今生を思うままに生きたのだ、罰が当たるくらいが丁度良い。

「これ以上の言葉が必要?」

「もう一声かな」

「私はもうこれ以上、あなたの歌声を綺麗な箱の中に閉じ込めておきたいとは思わない」アランは希佐の言葉を享受するために、緑色の目を瞼の裏にそっと隠した。「私はあなたの歌声を閉じ込めた綺麗な箱の蓋を今すぐに開けてあげたい」

 ゆっくりと開かれた瞼の下の、見る者を虜にするようなその眼差しが、柔らかく細められる。つい先程まで微かに滲んでいた迷いの色が消え、むしろ悪戯な雰囲気が漂っていた。一瞬、出会ったばかりの、長く分厚い前髪で顔を隠していた頃のことが思い出されたのは、伸びた前髪越しにその目を見たからに違いない。

「──じゃあ、適当に」

「わたしたちを飽きさせないで」

「善処はします」

 にこにこと機嫌良く手を振っているエステルに対して、アランは少しだけ厄介そうに応じている。そのまま通路側に腰を下ろしているゴダンといくつか言葉を交わしたあと、最後に希佐を見下ろした。

「リクエストは?」

「えっ、それを今聞くの?」困って眉を顰める希佐の眉間に、アランは笑いながら唇を押し当てた。「楽しんでね」

「ん」

 ぴんと背筋の伸びた後ろ姿を見ていると、きっと大丈夫ではなく、絶対に大丈夫だと思うことができる。出会った頃のどこか丸まった背中は影を潜め、しゃんと立つ姿は美しく、気高さすら感じられた。それでも、舞台に立つ大切な人を見送ることには慣れず、どういう訳か少しだけ怖いと感じるのだ。これが緊張というものだろうかと希佐は思った。

 今もまだ、繋いだ手の感触と、温もりが残っている。

「キサ」呼ばれて振り返ると、そこには席から立ち上がったゴダンの姿があった。「ここに座りなさい。飲み物はどうする?」

「あ、それなら私が──」

「次は僕の番なんだ」

 ゴダンは希佐の背中に手を回し、ボックス席の奥へと促すようにして座らせた。隣にはエステルが、向かい側には日本からやって来ている先輩方の姿がある。全員の視線を一身に受け、どこか居心地の悪さを覚えながら、希佐はゴダンに目を向けた。

「では、クラブソーダを」

「かしこまりました」

 先程の希佐を真似て恭しくそのように言ったゴダンは、希佐の膝の上に大切なカメラを預けると、軽い足取りでカウンターへと向かっていった。

 とても高価そうな一眼レフのデジタルカメラだ。デジタルは趣味で、仕事はほとんどフィルムカメラを使用していると、そんなふうに話していたことを思い出す。グラスミアで写真を撮ってもらったときは後者だった。

 あの写真の現像は済んだのだろうか──手元のカメラを見下ろしながらそのようなことを考えていると、ねえ、と隣から声を掛けられた。

「わたしもあなたをキサと呼んでも構わない?」

「はい、もちろん」

 エステル──スペンサー・ロローの母親だと紹介された女性は、有名な賞を何度も受賞している女優だ。ハリウッドの映画はもちろん、フランス映画にも多数出演している。希佐がメレディスから薦められたいくつかのフランス映画にも、フランス語の勉強をするために観ていたドラマにも出演していた。最近は女優業を休業しているという話だが、その美しさはまったく衰えていない。

「わたしのことはエステルと呼んで。ミスもミセスも必要ないから」希佐の躊躇うような表情を見逃さず、エステルは続ける。「レオナールのことを愛称で呼べるのだから、わたしのことを名前で呼ぶなんて簡単なことでしょう?」

「あの、はい、最大限努力してみます」

 エステルからは爽やかな柑橘系の香りがした。体を拭いてはいるが、舞台上で掻いた汗が臭うのではないかと、思わず心配になる。少しだけ距離を取るようにして座り直しながら、希佐は向かい側に座る先輩たちに目を向けた。根地黒門は相変わらず、怒涛の勢いでノートに何かを書き連ね続けていた。

『今夜のショーはお楽しみいただけましたか?』

『とんでもない刺激になったよ』更文はそう言いながら、テーブルの一角を陣取る黒門を横目に見やった。『こいつはずっとこんな感じだ。ノート一冊書き終わるまでこの調子じゃねぇかな』

『根地先輩のインスピレーションの助けになれたのなら嬉しいです』

『ちょっと、若』

 更文の隣に座っている青年が、つんつんと腕を突きながら口を開く。ああ、と思い出したように声を上げた更文は、青年を指して言った。

『希佐、この人は高科流師範代の東雲さん。兄貴と同い年で、俺の兄弟子だ。仕事の手伝いでイギリスまで同行してくれたんだよ』

『初めまして、立花希佐です』

『こちらこそ、初めまして。自分は東雲雅也です』東雲が広いテーブル越しに差し出した手を、希佐は腰を浮かせて握り返した。物腰の柔らかそうな、はんなりとした人だ。『立花さんの踊りには感銘を受けました。あの七つのヴェールの踊りには日本舞踊を取り入れていますよね? 西洋と東洋の踊りを絶妙に融合されていて、我々のような舞踊家の目には、とても新鮮に映りました。勉強させていただきました』

『そんな、恐縮です』

『本当に驚きましたよ。だって、立花さんの踊りには、確かに──』

 そうして東雲が何事かを言い掛けた瞬間、その隣でペンを走らせ続けていた根地が、何の前触れもなく伏せていた顔を上げる。まるでノートに書き込んでいる間中息を止めていたのかと思うほど大きく息を吸い込み、麦茶でも飲むように泡の消えたエールを一気に飲み干してしまった。

『──んっ、ぷはー!』ばんっ、とテーブルにグラスを置き、手の甲で口元を拭う様子を希佐が見ていると、不意に目が合う。『おや、立花くん。いつからそこに?』

『ほんの少し前ですよ、根地先輩』

『いやね、今夜のショーがこの僕の脳髄にひらめきの大洪水を起こしてくれたもので、忘れないうちに思ったことを片っ端から書き留めておこうと思ったのさ』

 ホラっと言って見せられたノートのページには、相変わらず本人以外には読み取れない絵や記号や暗号や、みみずがのたくったような文字の羅列が、びっしりと書き込まれている。

『君のサロメはファム・ファタールの権化というものだよ、立花くん! まさに宿命の女!』根地はその場に立ち上がり、希佐に手渡したノートをむしるように取り戻すと、演説でもするように声高らかに続けた。『君のサロメをその目に見た者は恋に落ちずにはいられないんだ! もちろん、この僕ですら例外ではないよ。君のサロメには心臓を射抜かれ、鼓動を止められてしまった! あ、これは比喩表現ね。本当に心臓が止まってしまったら、こうして君への熱い思いを伝えることもできなくなってしまうだろう? ああ、もし叶うなら、君が演じるサロメの舞台を実際にこの目で観劇してみたかった! 悔やんでも悔やみきれないこの僕の気持ちを理解できるかい? ねえ、白田くん!』

『あー、はいはい、そうですね』

『僕が日本で見ていた君の動画は、どれも歌唱を披露しているものばかりだったからね。今日は君の真髄がダンスにあるのだということを思い出したし、改めて思い知らされたよ。君は昔から誰よりも努力家だったけれど、それは今も変わりないようだ。フミだってそう思っただろう?』『ああ、そうだな』

『なんだい、なんだい? 君たちちょっと元気がなさすぎやしないかい? こんなに興奮する舞台は本当に久しぶりじゃないか。いやあ、とても刺激的だったねぇ。日本ではなかなか味わえないよ。特に玉阪座ではこんなハイカラなステージはお目にかかれない。自由な校風のユニヴェールとは対比的な、伝統と格式を重んじる玉阪座にはない、実に革新的な演出だった。まさか、カルメンとサロメが同時に存在する舞台なんて、誰も想像だにしていなかっただろう?』

『なあ、クロ。お前の希佐に対する熱い気持ちは良く分かったから、もう少し声を抑えてくれ』

『そうですよ、根地さん』更文の言葉に同調した白田は、うんざりしたような目で根地を見やった。『正直、恥ずかしいです』

『立花くんならこの熱い思いを受け止めてくれるだろうね?』

『はい、もちろんです。ありがとうございます』

『立花、お前は根地さんを甘やかすな』

 ほんの一瞬だけ、希佐は自分の感覚がユニヴェールの学生だった頃に引き戻されるのを感じていた。だがしかし、ここはイギリスはロンドン、ソーホーの一角にあるパブだ。あの頃とは、何もかもが違う。それでもこの懐かしい感覚は、希佐の心に青春の甘酸っぱさと、煌めくような輝かしさと、もうあの頃には戻れないのだという郷愁を呼び起こさせた。

「随分と盛り上がっているようだね」人数分の飲み物をトレイに乗せて戻ってきたゴダンが、それをテーブルの上に置きながら言う。「コクトーの声がカウンターの方まで聞こえていたよ」

「つい熱が入ってしまって」

 あはは、と笑いながら頭を掻く仕草がどこか子供染みていて、根地は素直に甘えられるほどゴダンのことを慕い、尊敬しているのだろうということが、希佐には良く分かった。

 根地とゴダンの付き合いは、アランのそれよりも長いのだ。この親戚の叔父と甥のような関係を目の当たりにして、密かに焼き餅を焼いているのではないだろうか──希佐がそう思いながらステージの方に目をやると、ピアノの前に座ったアランが、ステージの下まで駆けつけてきたらしいジョシュアと話をしている様子が見える。

「カメラをありがとう」ゴダンは希佐の隣に腰を下ろし、膝の上に置いていったカメラを手に取った。「旧友とのやりとりが盛り上がっているようで安心したよ」

「楽しんでいただけたみたいで、ほっとしています」

「そうそう、ものは相談なのだが」ゴダンは手に取ったカメラを構え、そのレンズを希佐に向ける。「今度サロメの衣装を着た君を撮影させてくれないかな」

「私の一存では何とも言えません」

「義務的な返答が上手になったね」

 残念そうにカメラを下ろすゴダンを見て、希佐は小さく笑った。

「個人的な趣味の撮影ならお手伝いします。ですが、あの衣装はダイアナに返すものなので」

「では、僕からも彼女にお願いしてみるとしよう」そういえば彼女から連絡が来ていたんだよと言って、ゴダンはスマートフォンを手に取る。「今夜は戻らないかもしれない、だそうだよ」

「そうですか」

「クローディアと出て行ったが」

「はい」

「何かがあったのだろうと推測するが、深入りはしない方が良さそうかな?」

「……あの、私にはとても難しい問題で」この胸に抱いている感情を上手く言葉にすることができず、希佐は思わず眉を顰めた。「安易なことは言いたくないんです」

 希佐は、ゴダンが買ってきてくれた炭酸水入りのグラスに手を伸ばし、それを引き寄せた。細かな気泡が水面でぱちぱちと爆ぜ、微かな音を立てている。からん、と位置を変える氷を見ていると、ゴダンは希佐と同じ飲み物を手に取り、口を開いた。

「僕はいつもすべての物事が上手くいくようにと祈りながら生きている。でもその傍らでは、そんな人生はきっとつまらないだろうとも思っているんだ。それは毎日が晴れなら良いのにと、暖炉の炎が揺れる温かい家の中から、雨が降る肌寒い外の世界を眺めている感覚と良く似ている」

 レオナール・ゴダンの物言いは、相手をたった一つの正解へと導くのではなく、この問題の答えは一つきりではないのだと、そう教えてくれているように感じられた。

「僕は、晴れの日も雨の日も、どちらも同じくらい好きだと言える人間でありたいと願っているんだ。君はどう思う?」

「私もそうありたいと思います」

「人間、生きていれば壁にぶつかることはままあるものだよ、キサ。大切なのは、その壁をどのようにして乗り越えるかだ。そして、その壁は自分の中にだけ存在しているもので、たとえ乗り越えることができなかったとしても、自分以外の誰かのせいにしてはいけない。人生なんていうものは所詮不公平で、神という存在は実に不誠実だ。最後の最後は、自分自身の力で道を切り拓いていくしかない」

「自分の頭で考えて、自分の体で行動を起こす」二人の話を聞いていたらしいエステルが、コニャックのグラスを揺らしながら口を開いた。「結局はその繰り返しね。どこの世界でも、それを出来る人間が一番強い。人間力のある人って人を呼び集める魅力があるのよ。この人の力になりたい、この人の人生の一部になりたいって、そんなふうに思わせてくれる。適宜救いの手を差し伸べてもらえる人には、こういうタイプの人間が多い」

 確かに、自分がこれまでに出会ってきた成功者の多くは、人間的に優れている人ばかりだったと、希佐は思う。それはユニヴェールにいた頃から変わらない。今、こうして目の前にいる三人の先輩方、それ以外の先輩、同期、後輩──尊敬できる人たちは皆、才能以外にも、人としての魅力を兼ね備えていた。

「壁を乗り越える瞬間は一人きりでも、一緒に土台や足場を作ってくれる仲間は何人いても構わない。そういう人徳がある人ほど、チャンスは誰よりも多く巡ってくるものよ。そして、与えられたチャンスをしっかりと握り締めて離さない人が、この世界では成功を手に入れられる」

 与えられるチャンスの大きさは、周りからの期待の大きさと比例する。

 希佐は常に、このチャンスを無駄にしないよう、その期待を裏切らないよう、自らに与えられた役割と真剣に、真摯に向き合ってきた。それが立花希佐の芯にある役者としての矜持だった。

「だけれども、今上げた例は下積みからコツコツ頑張ってきたような子が、最終的に得られる最高の評価みたいなものね。実際にあるのよ、何処の馬の骨かも知れないぽっと出の新人が、突如としてオーディションに現れたかと思えば、すべての審査員の目を掻っ攫って主役の座を手に入れるなんてことがね」

 エステルはそう言うと、自分の方を向いている希佐の鼻先を、人差し指でつんと突いた。

「正直なことを言うと、そういう子には腹が立つものなの。この業界のルールも知らない、何の実績もない子が、これまでに幾度となく主役を演じてきた役者を押し退けて、最も重要な席に腰を据えたように見えるのだから」

 最終オーディションを終えたあと、何か劇的な演出があるわけでもなく、あまりにもあっさりと合格が告げられた。自分の歌に自信が持てないまま与えられた栄誉に浸ることもできず、どうしてあんな子が合格をするのだと言う声を聞いた。だから、自分の合格が必ずしも望まれたものではなかったことも分かっている。

「あなたみたいに一見すると擦れたところのない、純朴そうな感じの子は特によ。覚悟なさい。あなたは間違いなく人間関係に恵まれていて、所謂大物と呼ばれるような業界人に好感を持たれているけれど、その事実が原因で反感を向けられることもあるの。妬みの感情は人を衝動的にさせるものよ。あなたを陥れようとする人も出てくるかもしれない」

 昔からそうだった。立花希佐はいつも人間関係に恵まれている。前にも後ろにも、右にも左にも立ち行かなくなったときはいつだって、誰かが救いの手を差し伸べ、良き道を指し示してくれた。日本でも、アイルランドでも、このイギリスでも。

 なぜこんなふうに優しくしてくれるのだろうと、不思議に思ったことがある。今の自分には何も返せるものなどないというのに。すると、彼らは口を揃えてこう言うのだ。自分もかつての恩返しをしているだけなのだと。

「今夜のあなたはそれほどまでの注目と喝采を浴びた。あなた以外の出演者たちの多くが揃って霞んでしまうほどのね。それがクロエの狙いだったのでしょうけれど、果たしてそれが喜ばしいことなのかどうか、わたしには分からない。もしわたしがクロエの立場なら、最後の最後まであなた一人が目立つような演出にはさせなかった」

 あれは本来の演出とは違っていたのだと言い訳をすることは出来た。だが、この人が言いたいことの本質はそこではないような気がして、希佐は黙っている。

 自分はただ、いつだって全身全霊で舞台と向き合って生きてきただけなのだ。それが唯一の生き甲斐だった。卒業を待たずにユニヴェールから逃げ出し、あの教会で天使の歌声に出会うまでの数年間は、半分死んだように生きていた。

「黙りね」エステルはどこか冷たく、突き放すような物言いをする。「言い返したっていいのよ」

 エステルの言葉はご尤もなのだろうと、希佐は思う。

 役者としての自分を守るために、商業の道に進むことなく、ロンドンの小劇場の舞台を転々としてきた。傍から見れば、希佐など経験のない、ぽっと出の役者という扱いなのだろう。その証拠に、商業の華やかな舞台に立つ人々は、立花希佐の名前など知りもしなかった。

 だがしかし、立花希佐には十六歳から舞台に立っているという矜持がある。あのユニヴェールの大舞台には、ここでの商業の舞台に匹敵するほどの活気と、華やかさと、そして誇りがある。

 あの三年間の下積みを経験と呼ばずして何と言うのか。ただ彗星の如く現れたかのように見える者の後ろにだって、コツコツと積み上げられてきた実績と経験はあるのだ。それを、まるで何の努力もなしに手に入れた地位だと思われたくはない。その物言いは立花希佐を否定するばかりか、ユニヴェールでの日々や、自分を信じて選んでくれた審査員の総意をも、否定することになりかねない。

「お言葉ですが、エステル」希佐がそのように声を上げると、間近に見えるエステルの目の瞳孔が、微かに広がるのが分かった。「私は注目や喝采を浴びるために舞台に立っているわけではありません」

「へえ、そう?」

「私はただ、舞台に立つことが好きなのです。舞台に立てるのなら主役でなくても精一杯演じます。名前や台詞のない役でも喜んで引き受けます。先程も言いましたが、私は自分自身の役者としての価値を証明し続けたいだけなのです」

 自分は酷く生意気なことを言っているのだろうと、希佐は思った。大抵のことは笑って聞き流す程度の許容は持ち合わせているが、周囲の人々にまで言及するような物言いを差し置くことはできないと、そう思ってしまったのだ。

「私を使いたいと言ってくださる方が、私のことをどのように評価するかは、私が決めることではないと考えています。あのオーディションに合格したのも、私の役者としての価値を、審査員の方々が認めてくださったという認識です。だからこそ、私は可能な限り期待に応えたいと思っていますし、そのための努力は惜しみません。先立ってのオーディションの結果に不満を持っている方がいることは知っています。ですが、オーディションとは必ずしも個々の才能や技術の優劣で合格、不合格を決められるものなのでしょうか。もし私が審査員だったら、その役柄に最も相応しい役者を選びたいと考えるはずです。私よりも歌って踊れる役者はいたでしょう。それでも、私は私をその役に相応しいと後押ししてくれた方々の期待を裏切らないために、最後まで諦めるわけにはいかないのです」

 これが私の考えです──希佐がそのように続けると、エステルが何かを言うより先に、ゴダンがくつくつと肩を震わせて笑い出した。思わずそちらに顔を向ければ、ゴダンは希佐に優しく手を触れながら、蠱惑的な目を三日月のように細めた。

「クロエの言う通り、あなたは誰が相手でも臆さないのね」香り立つコニャックで唇を濡らしてから、エステルは続けた。「試すような真似をしてごめんなさい。早い段階であなた自身の人間性を知っておきたかったの」

「……これでお分かりになりましたか?」

「ええ、大体は」そう言ってにっこりと笑う顔には、ある種の威圧感のようなものがある。「あなたが立つ舞台のためにお金を出すのだから、その主演女優の人となりを知っておきたいと思うのは当然のことでしょう? だからどうか怒らないで」

「大丈夫です」

 そのとき、ぽろぽろと指を慣らしているような、やわらかいピアノの音色が聞こえてきた。反射的に顔を向ければ、鍵盤に両手を乗せてクラシックの曲を流すように弾くアランの姿が目に入る。演奏する曲は少しずつ変化していき、聞き覚えのある旋律に差し掛かると、白田が思わずというふうに小さく声を漏らした。

『おお、愛するハヴェンナよ──』根地がそっと曲名を唇に乗せる。『今度は淡色、だね』

 それからも曲は次々と移り変わっていき、次は何の曲だろうと耳を傾ける客たちの口は次々と塞がれていった。最後には、あれだけ騒がしかった店内がひっそりと静まり返り、ピアノの音色しか聞こえなくなる。

「俺はここで適当に雑音を鳴らしてるから」アランはピアノを奏でながら、目の前のマイクに顔を寄せて、静かに言った。「いつものように、飲んだり、食べたり、雑談を楽しんで」

 アラン・ジンデルはそう前置きをしたかと思うと、自らが弾くピアノの音色に合わせて、まるで語るように歌い出した。その歌声は、雑音と呼ぶにはあまりに優しく、静かで、あたたかい。

 希佐の隣でカメラを構えたゴダンがシャッターを切る。その音が、いつもより大きく聞こえた。

「ちゃんと許可は取っているよ」希佐が咎めるより早く、ゴダンは自らを弁明をする。「このシャッターチャンスを逃したら絶対に後悔するだろうからね」

 誰もこの歌声に抗うことはできないのではないかと、希佐は思う。

 それは、甘く、切なく、少し掠れた、柔らかな歌声だ。当初は、劇団カオスの公演が決まる度に渡される、仮歌の音源の中でしか聞くことができなかった。ヘッドフォンの小さなスピーカーから聞こえてくる秘密の歌声は、希佐の頭の中にだけ響き渡る、特別なものだった。

 本当は、この歌声がいつまでも仲間内だけのものだったらいいのにと、そんなふうに思う瞬間もあるのだ。でも、この歌声を箱の中に閉じ込めておくのは、あまりにもったいないから。停電の夜、満点の星々を周りの人々と共有したいと思うように、この一音一音が星屑のように煌めく音楽を、多くの人に聞いてもらいたいと思う。

 真夜中に、スタジオ裏の教会のピアノを弾きながら歌う姿は、自分だけのものだから。ギターの練習をしていると、気まぐれに寄り添ってきて一緒に歌ってくれるのは、自分だけの特権だから。この歌声が、本当に、本当に大好きだから。

「今夜はあなたの一人勝ちだとばかり思っていたけれど」ふうん、と興味深そうな目でステージの方を見やりながら、エステルが小さく漏らした。「そうでもなさそうね」

 チャンスをものにするということは、リスクを冒すということだ。勇気を振り絞り、果敢に挑んでみせたところで、空振りに終わる可能性は多分にある。失敗について考えない者はいないだろう。いつだってプランBは必要だ。希佐自身も、頭の片隅ではもしものことを考えて、以前演じたサロメの台本を念入りに読み返していた。不測の事態が訪れたときに対処できるように。

 どうしようもなかったことなのだ。舞台はつつがなく終わりを迎えることができた。だが、七つのヴェールの踊りを最後にして、バージルが提案してくれた通りに舞台の幕を下ろしていたとしたら、こんなふうに烏滸がましい罪悪感を覚えることもなかったのではないかと、そんなふうに考えてしまう。

『──バージルは、自分よりも凄い人に出会ったことはある?』

『そんなやつはいくらでもいるだろ』

『この人には絶対に勝てないって、そんなふうに思ったことはあるかってこと』

『絶対に勝てない、ねぇ』

 不意に、なんでもない日に交わされたバージルとの会話が、希佐の脳裏に蘇ってきた。

『あるよ』バージルの答えは明確で迷いがなかった。『そのときは俺もまだまだ若造だったからな、上には上がいるもんだと思ったよ。心が折れるどころか、何とかしてそいつの技を盗もうと考えて、毎日そいつのいるところに通い詰めた』

 夢を実現させる力を持つ人は、総じてこういう人なのだろうと、希佐は思った。

 立花希佐よりも凄い役者は大勢いる。劇団カオスの面々がそうだ。個々の才能を引き合いに出されてしまえば、間違いなく勝ち目はない。だが、彼らの技を盗み、自分の中に落とし込んで、少しずつ近づくことはできる。

 希佐は、バージルが自分と同じ考えを持っていることが、無性に嬉しくてたまらなかった。

「多くの夢追い人たちは、目の前の成功者を羨望と嫉妬の眼差しで仰ぎ見ながら、いつかは自分にも大きなチャンスが巡ってくるはずだと信じて活動を続けている」ゴダンは構えていたカメラを下ろすと、酷く愛おしいものを見るような目で、アランを見つめていた。「でもね、そういう人々は往々にして、受け身でいることが多いんだ。いつか誰かが自分を見つけてくれると思っている。まあ、そういう人も中にはいるだろうが、そんなものは宝くじを買うのと同じで、百万に一つの可能性もない」

「バージルが言っていました。チャンスは巡ってくるものではなく、掴み取るものだって」

「僕も同意見だ。死に物狂いで掴み取ったチャンスほどその後の縁を繋いでくれる。あとはもう自分次第なんだよ。縁は縁を呼び、点と点が結ばれて、やがては蜘蛛の巣のように関係性が張り巡らされていく。この業界は広いようで狭い。知り合いの知り合いが知り合いだったりする。キサはこれを強く実感しているだろう?」

「はい」

 不意に視線を感じてそちらを見やれば、二人の会話を聞いていたのか、根地黒門と視線が交わる。希佐がレオナール・ゴダンと知り合う何年も前から、この人はゴダンと友人だったのだ──そう考えると、とても不思議な気持ちになった。

「あの頃は、彼がこんなふうにステージに立って、人前で歌う日が来るなんて、想像すらできなかった」ゴダンはアランの歌声に耳を傾けながら、隣に座る希佐を見た。「彼と君の点が結ばれた結果がこれだ。ありがとう、キサ。君のおかげで彼は勇気を取り戻し、また一つ恐怖を克服した」

「すべてアランの努力の賜物です」

「彼もチャンスを掴んで離さない人間だったということかな」

 世界的に有名な脚本家であるアラン・ジンデルが、多くの屈辱と挫折を経験してきた青年であることを知る者は少ない。だが、これからは少しずつ、知る機会が増えていくのかもしれない。アラン自身はそれを煩わしく思うのかもしれないが、秘密を抱え、隠し続けることの困難さと心苦しさを、希佐は知っている。

「舞台裏で何が起こっていたのか、僕には知る由もないが──」盛大な拍手に紛れ、ゴダンが希佐に顔を寄せて言った。「君やアランは舞台への道を一度は諦めたが、こうして戻ってきたわけだろう?」

「え?」

「真実舞台に立ち続けることを諦められないのであれば、彼女もここへ戻ってくるはずだ」

「でも」

「言ったはずだよ、キサ。たとえ目の前の壁を乗り越えることができなかったとしても、それを自分以外の誰かのせいにしてはいけないのだと」この人はどこまで理解した上でこの話をしているのだろうと、希佐は思う。「君たちの世界では結果がすべてだ。僕は彼女のカルメンも素晴らしかったと思うよ。個人的にはトスカよりもハマり役だと思うね」

 圧倒的な才能を前に、思わず尻込みをしてしまうことはある。

 今でも鮮烈に覚えているのは、アンバーの凱旋公演で観た『我死也』のことだ。田中右宙為の暴力的な芸術表現に気圧され、あんなものに勝てるのだろうかと、そんなふうに考えてしまったことがあった。だがすぐに、どうすれば勝てるのだろうと、そんなふうに考えをシフトできたのは、なぜだったのか。

 当時の立花希佐にはどこにも逃げ場などなかった。そもそも、ユニヴェールを辞めて家に帰るという選択肢など、最初から存在していなかった。ユニヴェールに居続けることが夢を叶え続けるための唯一の道で、たった一つしか存在しない選択肢だったのだ。

 立花希佐は勝ち続けるしかなかった。自らの価値を証明し続けるしかなかった。そうしなければ、ユニヴェールの舞台に立ち続けることはできなかったから。その考え方が今でも頭に深く根を伸ばしている。

「……私にとっては、舞台がすべてで」

「うん」

「任せてもらえた役を演じることがどんなにつらく、苦しいものでも、そこに立たないという選択肢はなくて」

「だから自分にはクローディアの気持ちが分からない?」

「理解することはできるんです。ただ……」

「ただ?」

「私ならその感情すら喜んで演技の糧にするのだろうなと、そう思いました。自分がどのような立場に置かれて、どのような感情になったとしても、私は新しい自分に出会えることが嬉しい。そういう経験は年々少なくなっていますから」

 震える足に力を入れ、今にも折れそうになる膝を叱り付けて、舞台に向かったことがある。自分自身の心に従った結果、自分の心が死ぬとしても、この舞台に命を捧げられると希佐は思ったのだ。あのときの地獄のような苦しみは、間違いなく立花希佐という役者を成長させ、長い年月が過ぎ去った今も心の支えになっている。

 だがもし、あのときハヴェンナ行きの小舟を漕ぎ出せなかったとしたら、自分の人生は一体どうなっていたのだろうと考えると、酷く恐ろしく、大きく体が震えた。恐らくは、そのままユニヴェールを去り、舞台や演技の道から外れて生きることになっていたはずだ。地元に帰り、実家のために身を粉にして働きながら、大して語ることもない一生を終えたに違いない。

 刹那の恐怖に耐えるか、それとも、一生涯付き纏う恐怖や後悔と共に生きていくか──今の自分ならば間違いなく前者を選ぶだろうと、希佐は思った。性別を偽り、良心の呵責に耐えかねて逃げ出した自分だからこそ、後者の苦しみを理解することができる。

「私は、人にはやり直す機会が与えられて然るべきだと、そう思うんです」でも、と希佐は続ける。「自分にはやり直す機会が与えられて然るべきだと、そんなふうには思えません」

 やり直す機会を与えるかどうかは周りが決めることであって、自分自身がやり直しを望んだとしても、その思いが受け入れられるとはかぎらない。だからこそ、自らの罪を懺悔し、償ったあとのことは、まだ何も考えられない。

「君は本当に難儀な子だね、キサ」ゴダンはどこか呆れるように眉を顰め、希佐の目を覗き込みながら言った。「それに、自分に厳しすぎるきらいがある。もう少しいい加減に生きてみたらいい。心に余裕のある人になりなさい。そうすれば、いずれ自分のことも許せるようになる」

「何が正解かなんて誰にも分からないものよ」二人の話に耳を傾けていたらしいエステルが、肩をすくめながらそう言った。「わたしは自分の心を守るためなら逃げたって構わないと思うけれど。なぜなら、わたしたちの代役ならいくらでもいるから。現に、わたしが銀幕の世界から離れた途端、そのポジションには別の女優が据えられた。この業界で唯一無二になれる才能なんてほんの一握りしかいない。誰もがエディット・ピアフやキャサリン・ヘップバーンのようになれるわけじゃない」

「おや、珍しく酔っているねぇ」

「わたしはむしろ心が軽くなったのよ、レオナール。だって、別にわたしが頑張らなくても良いと分かったのだもの。周りの人たちのためにがむしゃらに働く必要なんてなかったの。わたしはただ、自分のやりたいようにやればよかったのよ」

「ああ、そうだね、エステル」

「これ以上は前に進めないと思うのなら、別の方向に舵を切ればいい。選択肢なんて探せば無数に存在するものよ。人生という旅路は続いていく。足を止めても、時間は待ってくれない。だったら、他人のために悩むなんて時間の無駄だと思わない?」

「え、あ、あの──」

「そのことについて考えるのは、あなたの仕事ではないと言っているの」エステルは妙に据わった目で希佐のことを睨みながら、確信めいたことを口にした。「あなたはただ、自分のやりたいようにやればいいのよ」

 据わっているように見えた目が、ゆっくりと細められていく。細められた目はついには閉じてしまい、体は自らの意思を失って、重力には逆らえずに希佐の方へと倒れ込んできた。わ、と小さく声を上げながら両手で支えようとするも間に合わず、エステルは希佐の膝枕ですやすやと寝息を立てはじめる。ふわりと舞うような香水の香りが、心地よく鼻腔をくすぐった。

「おやおや。キサ、大丈夫かい?」

「は、はい、大丈夫です」

「この子は酔うとすごく饒舌になるんだ。そしてすぐに寝る」ゴダンは愉快そうに笑いながら、ぱしゃり、とエステルの寝顔の写真を撮った。「目を覚ましたときには酔いは覚めているよ。しかし、もったいないね。彼の歌を最後まで聞かずに、夢の世界へ旅立ってしまうとは」

 水をもらってくる──そう言ったゴダンは、着ていたジャケットを脱ぎ、それをエステルに掛けてやってから静かに席を立った。その場に取り残された希佐は、膝に伸し掛かる命の重みを見下ろし、彫像のように美しい寝顔をこっそりと覗き見る。年齢的にはクロエ・ルーよりも年上のはずだが、三十過ぎの子供がいるとは思えないほど、エステルの寝顔はあどけないものだった。

「……」

 そのときだ。身動きを取ることができず、どうしたものかと希佐が考えていると、正面に座っていた更文がこちらに目を向けた。その手には、飲みかけのギネスのグラスが握られている。根地と白田、東雲はステージの方に体を向け、アランの歌を聞いているようだ。

『夜にはより良いステージをお見せします、って言ってたよな』

『はい』

『あの七つのヴェールの踊りは──』更文がそう口にしたとき、隣に座っている東雲が、ちらりとこちらを見るのが分かった。『踊りの根っこに日舞があるのを感じたよ。もっと言えば、あれは高科の舞に近い何かだった。こっちには日舞の師匠もいるのか?』

『いえ、日舞の先生はいません。ただ、私のパートナーが世界中のダンスに精通していて、彼に教わることはあります。支持している日本舞踊の先生がいるそうで』

『へえ』

『それ以上に、フミさんから教わったことが、今でも私の中に深く根付いているんです』

『なんていうか、そんなふうに言ってもらえると少し複雑だけど』更文は持っていたグラスを呷ろうとして止め、テーブルに置く。『俺は仕事でこっちに来たって言ったっけ?』

『はい』

『高科がロンドンにある劇団と懇意にさせてもらっているんだ。もう何年も交流があって、親父が病気をしてからは兄貴が年一で通ってたんだけど、今年は俺にお鉢が回ってきたんだよ』

『そうだったんですね』

『滞在中に体験型のワークショップを開くから、良かったら遊びに来ないか?』

『えっ、いいんですか?』

『全然大丈夫ですよー』そう答えたのは更文ではなく、その隣で人好きのする笑みを浮かべている東雲だった。『枠ならまだ空きがあるので、是非ご友人も誘って遊びにいらしてください。大使館主催の催し物なんかもあるので、そちらもよろしければ!』

『催し物、ですか?』

『劇場をお借りして日舞の真髄をお見せします』

『東雲さん』前のめりになりかけた東雲の体を引き戻し、更文は苦笑いを浮かべながら唇に人差し指を立てた。『日本の伝統芸能を国外の方々にも広く知ってもらおうっていう催しだな』

『是非お伺いしたいです』

『どーぞ、おいでください』

 当然のことながら、当時と同じように会話を弾ませることなどできるはずもなく、僅かに空気が重くなるような緊張感が、ちくちくと肌を刺す。何も告げずに去った罪悪感がそう感じさせるのだろうか。この人は今、どのような気持ちでここにいるのだろうと、そんなことを知りたいと考える自分は、十中八九どうかしていると希佐は思う。

 大人と呼ばれる年齢になってみて分かったことがある。

 あの頃の、自分の置かれていた状況が、どれほど異常だったのか。通常男子の入学しか認められないユニヴェール歌劇学校に入学し、女性であることを隠しながら平然と舞台に立っていた。女性であることがバレてしまったら、もうユニヴェールの舞台に立つことはできなくなると、自分本位な物の考え方をしていた。まるで悲劇のヒロインにでもなったかのように、嘘が露見することを恐れていた。

 ユニヴェールで過ごした三年の間に、どれほど自分の心を曝け出したか分からない。しかしながら、立花希佐が本物であったことは一瞬たりともなかったのだ。

 子供だったことを言い訳にするつもりはない。自分をユニヴェールに招き入れた校長の中座秋吏を責めるつもりもない。一生分の夢を叶えさせてもらった。ルールを捻じ曲げてまで。選択をした。自分自身の意志で。

 それでも、もし今後、自分と同じように自らの性別を偽ってまで、ユニヴェールに入学しようとする女の子が現れたとしたら、全力で止めるだろうと希佐は思った。絶対に良いことではないと分かるから。舞台の世界に進みたいのなら、他にも道はあるはずだから。ユニヴェールを卒業したあとも、あなたの人生はこれからもずっと、続いていくのだからと。

 もしかしたら、心の奥に潜む自らの仄暗い部分を吐露してしまえば、この人は解決の糸口を見つけてくれたのではないかと、そんなふうに考えてしまったことがある。ダブリンにいた頃のことだ。あまりの心細さに、考えるのはユニヴェールでの輝かしい日々のことばかりだった。いつだって自分を助けてくれたこの人なら、こうなる未来を避ける選択肢を一緒に探してくれたのではないかと、そんなふうに考えて自らの不甲斐なさから逃げようとしたことがあった。

『一度でも逃げることを覚えた人間は、次もまたすぐに逃げ出すよ』何かの映画で、主人公が言われていた言葉を、希佐は不意に思い出す。『何かに立ち向かうより、その方が楽だって知っちまってるんだからな』

 自らの罪を受け入れ、これを償うべきだと、そう強く思っている。だが、もし明日にも、自分のことなど誰も知らない土地に逃げられるのなら、どんなにか楽だろうと思ってしまうことも事実だ。たった一人、暗闇の中の虚空に閉じ篭もることの心地良さを知ってしまった人間は、またそこに逃げ込もうとする。

 もちろん、それが何の解決にもならないことは、十分に理解しているのだ。ただ先延ばしにしているだけだということも。逃げられるものなら、逃げ出してしまいたい。それでも、立花希佐は今この瞬間、ここで足を踏ん張らせている。逃げずに向き合う道を選択したのだから。

 キーン、とした頭痛のするような耳鳴りの後、ふと、ピアノの音色が蘇ってくる。

 あの単調だが、実に美しく、印象的なイントロダクション。

 瞬時に誰もが理解する曲目。

 立花希佐が初めて受けたオーディションの最終審査で披露した、あの歌。

 一瞬にして現実に引き戻された希佐は、更文を見つめていた琥珀色の目を、ゆっくりとステージの方へと向けた。目と目が合うと、アラン・ジンデルは会釈をするように小さく首を傾け、そっと目を伏せて歌い出す。

 不思議と分かるのだ。これだけ大勢の客がいる中でも、この歌だけは間違いなく、自分のために歌ってくれているのだと。

 君がリクエストをしてくれないから適当に決めたとでも言うつもりなのだろうか。それとも、旧友との話に夢中で歌を聞いている様子のない自分を見て、臍を曲げたのだろうか。嫉妬はしないと言っておきながら、本当はやきもきとしていることを、気づいていないとでも思っているのだろうか。

 ユニヴェールで過ごした三年間と、あのスタジオで暮らした三年間は、比較できるものではない。希佐にとってはどちらもかけがえのない思い出の日々だ。だがしかし、立花希佐は過去ではなく、今を見つめ、未来を見据えて生きている。過去の人間関係が、今の人間関係に影響を及ぼすことなど、ありはしない。どちらがより大切なのかと問われても、どちらも大切だと答えるしかない。だが、もっと大切なことは、今の自分を見失わないということなのだろうと、希佐は思う。過去は過去──今は、今だ。怖いけれど、今は隣でこの手を掴んで離そうとしない、心配性の脚本家が一緒にいてくれる。

 こちこちの結び目がやわらかく解けていくように、希佐の体を覆っていた緊張感が優しく溶け落ちていった。その歌声に耳を傾けていると、今日一番、心が穏やかな気持ちになってくる。

 ジョシュアが言っていた「これに出会って舞台の道は諦めた」という言葉は、いくら軽口を叩くように吐き出されたものだとしても、その重みは何年経っても変わらない。もちろん、諦める一つの要因になったことは、間違いないのだろう。その人の存在が引き金になったことは事実なのかもしれない。

 でも、気持ちは分かる。自分には、こんなふうには歌えないと、希佐自身も感じるからだ。

 もし自分が歌を強みにして頑張っていこうと、そう意気込んでいる役者で、今まさに夢に向かって邁進しているときにこの歌を聞かされたら、きっと、心を折られてしまう。

「……ああ、そうか」

 目指している高みがある。その場所にいつ到達できるのかは分からない。それでも日々の努力を惜しまないのは、一日でも早くその高みに上り詰めたいからだ。一歩一歩、ゆっくりと、しかし確実に、前へと進んでいる実感がある。そうした日々に充実感を覚えている。このまま突き進んでいけば、いつか自分の夢は叶うと、そう信じていた。

 だが、もしも自らが目指している高みを、理想を、究極を、目の前で見せつけられたとしたら。自らが相当数の年月をかけて追い求めてきたはずの完成形を、もしくはそれ以上のものを目の当たりにさせられたとしたら。例えばそれが、何の苦労もなく、ただその人自身の才能だけで成り立っているものだと、そう感じられたのだとしたら。

 そう考えると、果たして陰で努力をすることは美学なのだろうかと、そんな疑問が芽生える。人は目に見えるものを見て多くのことを判断しがちだ。その努力を見たこともない人々が口を揃えて「あの人には才能がある、天才だ」などと言う。何の下積みも、苦労も、努力もなく、その歌声や、舞踏力や、演技力を手に入れたと決めつけられることすらある。

 天才の定義が、何の努力もせずに何でも完璧に熟せる人間なら、この世界に天才など存在しないだろう。天才とは、そうなるべくしてなる者のことをいうのだと、希佐は思っている。少なくとも、希佐の周りにいる天才と呼ばれる人々は、自らの才能を過信せず、努力を続けている者しかいない。

 出会ったばかりの頃は、この人は何て怠惰な人なのだろうというのが、アラン・ジンデルの印象だった。何事も面倒臭がり、日中の多くの時間を事務室のソファーで横になって過ごすその姿は、希佐の目には堕落して映った。

 だが、希佐は知らなかったのだ。希佐が眠っている時間帯や、仕事などで不在のときに成されていた努力の数々を。文筆業の仕事の他にも、最低限の歌やダンスの稽古は継続して行い、人知れず努力を続けていたことを。舞台への憧憬を捨て去ることができず、不眠と食欲不振に悩まされながらも、自らの体に鞭打っていたことを。

 ステージの上で弾き語りをするこの美しい人を見て、多くの人々は「彼は天才だ」と称賛するのかもしれない。しかし、そうではないのだ。希佐はアラン・ジンデルの努力を知っている。思うように歌えず、踊れず、何度も繰り返し練習していたことを知っている。

 人は結果だけを見て敗北を知るべきではないと希佐は思う。

 結果に至る過程も知らないまま、勝手に敗北感を覚え、自分には勝ち目がないと諦めるのは愚の骨頂だ。どうせなら、すべてを知った上で完膚なきまでに心に深い傷を負い、その苦しみを生涯忘れずに生きていけばいいと思う。上辺だけの才能ではなく、血反吐を吐くような努力の数々を目の当たりにしてから、勝手に絶望を感じていればいい。

『どうしてなんだろうね』セント・パンクラス駅から劇場に向かっているタクシーの中で、ジョシュアがこんなふうに話していた。『人は自分よりも才能ある人を前にすると、その人が生まれつき才能豊かな人間だと錯覚してしまう。自分はこんなにも努力をしている。だから、この人はもっと凄まじい努力をしているに違いないとは、すぐには思えないんだ』

 得体の知れないものに遭遇したとき、人は真実を受け止めるのに時間が掛かる。自分自身の想像を超える才能と出会い頭に衝突すれば、判断力も鈍る。自身の中に迷いが生じていれば尚のこと、決断は後ろ向きに傾いてしまう。

 しかし、人は気付くべきなのだ。目の前にいる誰かがどんなに才能豊かで、天才と称されるような人物であったとしても、自分には何の関係もないということを。自分がその人にはなれないように、その人もまた、自分にはなれないのだということを。

 天才との出会いがきっかけで、進むべき道を変えざるを得なくなることはあるだろう。だとしても、それが夢を諦める理由にはならない。迷ってもいい。悩んだっていい。その末に、また新しい夢を見つければいい。人生は長いようで、きっと、あっという間だ。

 自分には、こんなふうには歌えないと思いながら、アラン・ジンデルの歌声に耳を傾ける。その歌声に酔いしれていると、笑いたいような、泣きたいような、不思議な気持ちになる。全身の肌がざわざわと泡立つように波立って、心臓の鼓動が速くなる。

 どうか、すべての人の夢が、等しく叶いますように──そんな夢物語は願わない。ただ、多くの人の夢が打ち砕かれ、軽んじられ、踏み躙られることのない、そんな世界であればいいのにと思う。そう思うこと自体が、夢物語なのかもしれないが。

 

 

 クロエ・ルーはロロー親子が宿泊しているホテルでシャワーを浴び、身支度を整えて戻ってきた。それからすぐ、店内に留まってくれていた支援者候補たちの元を、立花希佐を引き連れて順番に訪れることになる。

 クロエは各所でKISAという役者のことを丁寧に紹介し、いかに素晴らしい才能に恵まれているかを語り、自分の舞台には欠かせない存在だということを熱弁して聞かせた。普段の、どこかのらりくらりとした印象とはまるで違う、毅然とした態度で話をするその姿には、圧倒的な説得力があった。

「確かに、ケネス・ガルシアは優秀なプロデューサーです。これまでにも多くの舞台作品を成功に導いてきました。ですが、私が思い描く理想の舞台像と、彼が思い描いている舞台像は、あまりにかけ離れたものでした。私は、その時限りの娯楽作品ではなく、後世に残る舞台作品を制作したいのです。レ・ミゼラブルやミス・サイゴンのような」

 その場で支援の約束をする者もいれば、一度持ち帰らせてくれと言う者もいた。そのどちらに対しても、クロエ・ルーは紳士的な態度を崩さなかった。

 今夜の舞台に立つことよりも、支援者候補たちに挨拶をして回る方が、酷く希佐をくたびれさせた。だが、皆一様に今夜の催しを楽しんでくれたことが、何よりも嬉しく、希佐の心をほっと安堵させた。

「一杯奢るわ」閉店時間が近づき、自らが招いた客人をすべて送り出したクロエが、その場でぐっと伸びをしながら希佐を振り返った。「何を飲みたい?」

「いえ、私は──」

「ギネスね、分かった」

 クロエは有無も言わせずにそう言うと、カウンターに向かって歩き出す。既にラストオーダーの時間は過ぎているが、クロエが二本の指を立てて注文をすると、そこにいたメレディスは言われるがままにギネスを二杯、サーバーからグラスに注ぎ入れていた。きめ細やかな泡には、いつものようにシャムロックが描かれている。

 メレディスは希佐に向かって「お疲れさま」と言い、心から労うような眼差しを向けてから、店内の後片付けに向かった。ほとんどの客は退店したが、身内とも呼べる人々は店内に留まって、未だ酒盛りを続けていた。その中には、クォーツの先輩方の姿もある。

 スペンサー・ロローと根地黒門はすっかり意気投合したようで、熱の入った舞台談義の真っ最中だ。高科更文と白田美ツ騎は好奇心旺盛なノアに捕まり、何やら質問攻めにされている。大方自分のユニヴェール時代のことを聞き出そうと質問攻めにしているのだろうと、希佐は思った。

「ほら、座って」

 クロエは希佐の背中に手を回し、近くのカウンター席に座らせる。隣の席に腰を下ろし、ギネスのグラスに口をつけるでもなく、泡の中に描かれたシャムロックを見下ろしながら、クロエは小さく笑った。

「昔はこんなに上手には描けなかったのよ」それが癪だとでも言うふうに、クロエは微かに唇を窄める。「人間、少しは不器用な方が可愛いとは思わない?」

「私には不器用なメレディスの姿を想像することもできませんが」

「あの子も完璧な人間を演じることに慣れてしまったのね」

 あの子も──その言葉で、きっとクロエ自身も完璧な女優を演じることに慣れてしまったのだろうと、希佐は瞬時に悟った。人目のある場所では常に、大衆が求めるクロエ・ルーという女優を演じているのかもしれない。そう思った瞬間、希佐はなぜか、この人に自分と同じ何かを感じ取っていた。言葉では言い表すことの難しい何かが、同じなのではないかと。

「あなたは嘘を吐くことに慣れていて?」

「え?」

「私は嘘を吐き過ぎて、何が嘘で、何が本当だったのか、分からなくなってしまうの」

「私は……」希佐は少しだけ言い淀み、ギネスを一口だけ飲んでから、静かに口を開いた。「最近は、嘘を吐かないように心掛けています」

「そう」

 一つ嘘を吐いてしまうと、その嘘を隠すために、また別の嘘を吐く。

 一つ目の嘘は、自らの性別を偽ったこと。二つ目の嘘は、自身が立花継希の妹だという事実を隠したこと。その後に続く嘘も、すべて保身のために吐いたものだ。

 嘘を吐かざるを得ない状況にいた。嘘を吐かなければ自分の夢を叶えることはできなかった。

 だが、嘘を吐き、大切な人たちを欺いてまで叶えた短い夢は、覚めた瞬間に呪いとなって、自分や周囲の人々を苦しめた。

 必ずしも嘘が悪いものだとは思わない。人の心を軽くする優しい嘘があることも知っている。だがしかし、可能なかぎり嘘を吐きたくはないと、希佐は考えるようになった。

「あなたは賢明ね」

「そうでしょうか」

「ええ」そう言った伏し目がちなクロエの横顔は、息を呑むほどの美しさだった。「本当に」

 もし大勢の人々が真実を知ったとしたら、この人がアラン・ジンデルにした仕打ちは、到底許されることではないと、そう断じられるのかもしれない。だがしかし、それは二人だけの問題であって、周りがとやかく口を挟むべきではないと希佐は思うのだ。クロエ・ルーの仕打ちを許すのか、許さないのかは、アラン・ジンデルだけが決められる。だから、希佐は考えない。

「あなた、お母様は?」

「私が幼い頃に他界しました」

「それはお気の毒に」I’m so sorry. とクロエは言う。「他にご家族はいらっしゃるの?」

「父と兄がいます。兄とはもう長らく音信不通になっていますが」

「そうだったのね」

 クロエはそうとだけ言い、それ以上のことを訊ねてこようとはしなかった。ただ、カウンターの向こう側に見えている、様々な酒瓶が並んでいる棚をぼんやりと眺めながら、少しずつギネスを口に運んでいる。

「何か聞きたいことがあるのなら、今がチャンスよ」クロエはカウンターに頬杖をつき、こちらに向かって魅力的な微笑を浮かべながら言った。「今なら何でも答えてあげる」

「私からお尋ねしたいことは何もありません」

 思考することすらなくそう言い切った希佐を、クロエはどこか呆気に取られた眼差しで見つめている。自分がそう言えば、希佐が自らとアランの関係性について訊ねてくるだろうという確信が、クロエにはあったに違いない。だがそれは、継希と希佐が兄妹であることと同じように当然で、改めて確認するようなことではなかった。

「マダムがお話したくなったときに、そのお話を聞かせていただきたいです」

「なあに、それ」

「私に聞かれたから答えるのではなく、マダム自身の意思でお話したいと思っていただけた方が、私は嬉しいので」

「強欲な子ね」

「否定はできません」

「あなたは笑顔が素敵」ふふ、と笑った希佐の顔を見て、クロエは脈絡のないことを口にする。「今日は本当にありがとう、キサ。あなたのおかげで助けられたことがたくさんあるわ」

「お力になれたのであればよかったです」

「あなたは自分がどれほどのことをしたのかを、正しく理解していないのよ」クロエはそう言うと、まるで母親が子供に対してそうするように、希佐の頭をそっと撫でた。「あなたに出会えてよかったわ」

「え……」

「心からそう思うのよ」

 こちらの目を見つめながらそう言ったクロエは、何かを思いついたような顔をして、希佐の右手を取る。そして、自らの小指に収まったピンキーリングを外し、希佐の右手の小指にゆっくりと押し込んだ。

「あ、あの──」

「差し上げるわ」クロエは指輪を最後まで押し込んでから、朗らかに笑う。「ほら、あなたの指にぴったり」

「ですが」

「私にとっては、私を捨てた男から贈られた、忌むべき指輪だった。でも、今となっては、あの子と一緒に三十年もの日々を過ごしてきた、価値ある指輪になったの。施設に預けたとき、売って何かの足しにしてもらえたらいいと思っていたわ。まさか、こうして自分の指に戻ってくるなんて思ってもみなかった」

 鈍く輝く、金色の指輪。久しぶりに嵌めるというのに、妙に柔らかく感じられるのは、まだクロエの体温が残っているからなのかもしれない。

「返すと言われたのよ」そう言って少しだけ困ったように笑ったクロエの目元が、今は年相応に、むしろそれ以上に、年齢を感じさせた。「必要ないと言ったのだけれど、打ち捨てられてしまった。当然よね。きっと私だって同じことをする。自分を捨てた母親の偽善の塊を、いつまでも手元に置いておきたいとは思わないもの」

「マダム……」

「何度も処分してしまおうと思ったのだけれど、どうしてもできなかった。あの男に対する愛情が残っているわけじゃないの。あの子を愛する気持ちがあるのかどうかも分からない。ただ、捨てられなかった」

 一瞬、この人にとってのこの指輪は、自分にとっての鯉結びと同じなのではないかと、希佐はそう思った。捨てようと思っても絶対に捨てられない。自分という存在を確立するためには欠かすことのできない、大切なものだから。

 希佐自身も、まさかこの指輪が自分の小指に戻ってくることがあるなんて、想像すらしていなかった。アランに贈られた薬指の指輪と並んで輝くそれを指先で慈しむように撫でてから、希佐はクロエに目を向けた。

「では、マダムが返して欲しいとおっしゃるまでは、私が大切にお預かりしておく──というのはいかがでしょうか」

「差し上げると言っているのよ」

「私は強欲な女なので、この指輪を自分のものにしてしまったら、もしマダムの気が変わられても、絶対に指輪を手放さないと思います。マダムが私の小指を切り落としたとしても、私の気は変わりません」

「人に差し上げたものを返して欲しいなんて、この私が言うはずがないわ」

「いいえ、マダム」希佐は確信を持って首を横に振った。「マダムは返して欲しいと思われるはずです。いつかは分かりませんが、絶対に」

「そうかしら」

「はい」クロエは希佐の指先を持ち上げ、ふうん、と一見気のない相槌を打った。「ですから、そのときまでは私が責任を持ってお預かりしておきますね」

 クロエはどうしても捨てられなかったのだと言った。今はその理由が分からず、この小さな指輪が得体の知れない物に感じられて、困惑をしているだけなのだ。その指輪が視界を掠める度に心がざわつき、思考を支配されることに、ほんの微かな苛立ちを覚えているのかもしれない。

 指輪には本来、指輪そのものの価値しかないはずだ。だがしかし、人間はその指輪を贈ってくれた人や、場所や、経験を付随させ、更なる価値を持たせていく。それは指輪そのものの価格以上の価値となり、少しずつ、手放し難い物になっていく。

 たとえ今は煩わしくても、いつか、その価値に気づく瞬間がやってくるはずだ。

「……分かったわ」呆れたというふに大きなため息を吐いてから、クロエは言った。「そういうことにしておきましょう」

「私の我儘を聞き入れてくださってありがとうございます」

「みんなはこうやって少しずつあなたという人に毒されていくのね」

 返答に困るようなことを言ってから、クロエはグラスに残っていたギネスを飲み干し、椅子から立ち上がる。希佐のグラスに、まだ半分以上のギネスが残されているのを一瞥してから、クロエは追加の酒をカウンターの内側にいるバーテンダーに注文した。ラストオーダーの時間はとうに過ぎているなどと野暮なことは言わず、バーテンダーは素早くウイスキーを給仕していた。

「これからもどうかよろしくね、キサ」

 それは自身のことを言っているのか、はたまたアラン・ジンデルのことをよろしく頼むと言っているのか、希佐には確証を得ることはできなかった。バーテンダーからウイスキーのグラスを受け取ったクロエは、また後で会いましょうと言って、その場を後にする。

 一人取り残された希佐はカウンターに向き直り、残ったギネスを飲みながら、小指と薬指に並ぶ指輪をぼんやりと眺めていた。この指輪が希佐の手元に戻ってきたと知ったら、アランはどんな顔をするだろうと考える。きっと、一度は不快感を露わにするだろうが、すぐに仕方なさそうに笑って、多くは語らないだろう。

 あの二人は、心のどこかでは互いを憎からず思っているはずだと、希佐はそのように考えている。感覚でそのように判断したのではなく、短いながらも二人の関係性を目の当たりにしてきたからこその判断だ。何とか話し合いで丸く収まることを願っているが、今はまだ感情が理性を飛び越えてしまい、冷静に話すことができないのだと、アランは話していた。

 厄介なことに、これは時間が解決してくれる問題ではない。希佐が見たところ、二人は非常に似たもの同士で、酷く意地っ張りなところがある。一度口にした言葉を取り下げることはしないだろう。売り言葉に買い言葉を重ねていくうちに、取り返しのつかないことにならなければよいがと、二人の親子関係を案じずにはいられなかった。

『希佐』

 ギネスの最後の一口を飲み込んだところで、自分を呼ぶ声が背後から聞こえてくる。振り返るまでもなく、こんなふうに綺麗に自分の名前を呼ぶ人を、希佐は他に知らなかった。

 希佐は小さく息を吐き出し、気持ちを整える。疲れた体に摂取したアルコールが気分を少しだけ高揚させているおかげで、体は先ほどよりも強張っていない。

 その場に立ち上がった希佐は、空になったグラスをバーテンダーに返し、後ろを振り返った。

 ボックス席を一瞥すれば、そこには更文がいなくなった代わりに、加斎とダンテの姿が見える。思いの外盛り上がっているその様子を見て思わず失笑を浮かべる希佐を見やり、更文も後ろを振り返っていた。

『お前のユニヴェール時代の話で盛り上がってるんだよ』

『そうだろうなと思っていました』

『挨拶回りはもういいのか?』

『はい、みなさんもうお帰りになられたので』二人でそうして話をしていると、気を利かせたバーテンダーが、何か飲まないかと声を掛けてくる。『フミさん、何かお飲みになりますか?』

『希佐は何を飲んでいたんだ?』

『ギネスです。フミさんも先ほど飲まれていましたよね』

『お前も飲むなら、同じのをもらうよ』

「『分かりました』。あの、ギネスはまだありますか?」

「残り二、三杯ってところかな」

「じゃあ、二杯お願いします」

 そう言って希佐が代金を支払おうとすると、バーテンダーは笑いながら首を横に振った。

「どうせ洗浄するために捨てるつもりだったから、これは店の奢りだ」

「駄目です。チャリティーデイなんですから、きちんと払わせてもらわないと」

 希佐はワンピースのポケットに忍ばせていた紙幣を手に取り、腕を伸ばしてバーテンダーの胸ポケットに押し込んだ。

「今日の君は百万ポンド分の輝きを見せてくれたよ」

 このお金はチャリティーボックスに入れておくからねと言って、バーテンダーはギネスのグラスをカウンターに置くと、その場を離れていった。

『すみません、全然格好が付かなくて』希佐は苦笑いを浮かべながら、一方のグラスを更文に差し出した。『どうぞ』

『ん、ありがとう』グラスを受け取った更文は、つい今し方までクロエが座っていた席を見やる。『もし良かったら座って少し話さないか?』

『はい、もちろん』

 喜んで──そう言う声が上擦らないように、希佐は話し方に酷く気を使っていた。

 あの頃、自分はこの人とどのように話していただろうかと、そんなことを考えながら、もう一度足の長いカウンター席の椅子に腰を下ろす。舞台に立つときは決して覚えることのない緊張感で、妙に喉が渇くような気がしていた。

『いつかまたお前に会うことができたら何を話そうって、ずっと考えてたんだ』口元に運び、傾けていたグラスの表面でギネスのきめ細かい泡が僅かに揺らぐのを、希佐は見ていた。『でも、実際に顔を合わせてみると、何も思いつかないもんなんだな』

 希佐はどのように答えるべきかと考えながら、手にしていたグラスをカウンターに置く。返事を待つように横目を向けられていることに気づき、頬の内側を軽く噛んでから口を開いた。

『私は、せっかくいらしてくださった先輩方に中途半端なものをお見せするわけにはいかないと思って、自分史上最高のステージを披露するつもりで励みました。ご満足して頂けたのなら嬉しいのですが』

 自分が咄嗟に発言した言葉は、更文の言葉に対して何の返答にもなっていないと、希佐は思った。案の定、更文は少しだけ驚いた顔をしてから、困ったように微苦笑を浮かべていた。

『なあ、俺が舞台に立つお前を見てどんなふうに思ったか、知りたくないか?』

『え?』更文の目が、今度はまっすぐに希佐を見つめている。『……はい、知りたいです』

 更文の目からは、燃える情熱のような、しかしどこか怒りにも似た、厳しい圧のようなものが感じられた。ユニヴェールで過ごした三年間、たったの一度も目の当たりにしたことのないその眼差しを受けて、希佐の心臓はどくんと大きく波打つ。

 熱いようで、冷たい。

 それは、ゾッとするような敵意だった。

『ふざけんな。ああ、腹が立つ』表情を崩すことなく、言葉を選ばずにそう言った次の刹那、更文は大きく息を吐き、綺麗に笑った。『俺はさ、自分はずっと、今でもお前の前を走ってるはずだって、そんなふうに思って生きてきたんだよ。それなのに、今夜のお前が俺の想像を遥かに超えたパフォーマンスをして見せたから、無性に腹が立ったんだろうな』

『フミさん、あの、それは……』

『自分でもこの言い方はどうかと思うけど、俺なりに賞賛してるつもりだから、悪い方に捉えないでくれ。こいつはやっぱりすげぇやつなんだって、改めて思い知らされたよ』

『……ありがとうございます』

『希佐が役者を続けていてくれて嬉しいし、お前の才能がこの上なく評価されていることも嬉しく思ってる。ああ、悪い。なんかこんな言い方をすると上から物を言ってるみたいだな。お前の方が俺なんかよりもずっと成功してるってのに』

『成功なんて、まだまだです』どうしようと思いながら、希佐は首を横に振る。『私はただ、運が良かっただけで』

『運も実力のうちって言うだろ』

 立花希佐が高みを目指す原動力にしていたものは、このロンドンの地にいても、ユニヴェールにいた頃と同じものだった。

 上を目指し続けることの意味を教えてくれた人がいる。自らの価値を証明し続けることができれば、誰も自分には触れられず、自分の居場所を自分で決めることができるのだと。

 希佐にそれを教えてくれた人が、今、目の前にいる。

『今夜、舞台に立つお前を見て、俺は継希さんを思い出したよ』

『継希にぃを?』

『ユニヴェールに入学してすぐの頃、公演の過去映像を観たんだ。一年生のときのユニヴェール公演で、あの人はアルジャンヌを演じてた』

『青いドレスの、ですか?』

『なんだ、お前も見たことがあったのか』

『はい』

『今でもあの鮮烈な青が俺の記憶の中に強くこびり付いてるんだよ。あの人はたった一年で稀代のアルジャンヌに手が届こうとしていたんだ。俺はアルジャンヌとして舞台に立って、個人賞金賞を与えられ続けてたっていうのに、稀代のアルジャンヌと呼ばれることはなかったのにさ』

 継希の公演映像を観ようと、そう決意をするまでには、かなりの時間が必要だった。だが、それを観ずにユニヴェールを去ることはできないと思い、一年生の頃の新人公演から順番に、継希の公演遍歴を追いかけることにしたのだ。

『俺は子供の頃から扇を持たされて女形としての英才教育を受けてきた。だから、どうすれば女よりも女らしく見えるのかを熟知していたんだ、ユニヴェールに入学する前からな。でも、継希さんはそうじゃない。心のどこかではずっと不思議に思ってたよ。あの人はどうして、あんなふうに女を演じることができたんだろうって』

 継希が初めて女性を演じた日のことを覚えている。

 母がこの世を去ったとき、それが悲しくて悲しくて堪らなかった希佐は、自らが生きる意味すら見失いかけていた。だがしかし、継希はそんな希佐のために、母親を演じようとしてくれたのだ。美しく、たおやかで、優しい女性を。

 あの日から始まったごっこ遊びは、希佐に生きる希望と活力を与え続けてくれた。今も、その延長線上に生きている。本当の自分でいる時間よりも、別の何かを演じているときの方が、自分の心に素直でいることができた。普段は吐露することができない言葉も、役を借りて口にすることができた。寂しいし、悲しい。つらくてたまらないのだと、気持ちを吐き出すことができた。

 継希が演じる女性はいつだって美しかった。本物の女性のようだった。

『継希さんのあの演技は、妹の──立花希佐の模倣だったんだって、お前のサロメを観て気付いたよ』

『……それは違うと思います』希佐は静かに更文の言葉を否定した。『私たち兄妹は幼くして母を亡くしました。私はまるで太陽を失ってしまったかのような気持ちになって、毎日を暗闇の中で過ごしていました。何も食べられなくなって、夜も眠れなくなって。そんな私を心配して、継希にぃは母親を演じてくれたんです。ずっと一緒だよって。あのときから、兄が演じる女性は生身の女性のように生々しかった。兄の演じる女性が、もし誰かの模倣だというのなら、それは私だけではなく、母の模倣も含まれたはずです』

 あの公演映像を見たとき、確かに既視感を覚えた。誰かに似ていると思った。そして、希佐は既に忘れかけていた母親の匂いや、声や、記憶の断片を、思い出せるような気がした。

『そうでなくても私たちは家族ですから、似ている部分は多くあると思います。私は兄を模倣したつもりはありませんでしたが、メアリー・ジェーンでシャルルを演じたとき、公演後に根地先輩から、まるで立花継希の生き写しのようだったと、そう指摘されたこともありましたし』

『お前と継希さんが似ていることは、俺だって良く理解してる』

『何かを理解することと、それを知っているということは、同じようで実はまったく違うことなんだよ、フミ』落ち着いた低い声音、言い聞かせるような口振り、穏やかな物言いで希佐が言うと、更文はこちらを見る目を大きく見開いた。『継希にぃなら、こう言うと思います』

『……そうかもしれないな』

『すみません、生意気なことを言って』なぜかは分からない。だが、グラスが水で満たされていくように、何かの良からぬ感情が、表面張力のようにぷっくりと盛り上がっていくのを、希佐は感じ取っていた。『私はただ、皆さんには純粋にステージを楽しんでいただきたかったんです』

『もちろん、十分に楽しませてもらったよ』

『でも、フミさんは舞台に立つ私を見て、私とご自分を比べられましたよね?』引力によって盛り上がったグラスの水面から、すうっと、一筋の水が流れ落ちる。『それに、私の踊りと演技を見て、継希にぃを思い出したとおっしゃいました。私の昔話が、少しでも皆さんの酒の肴になるのなら、どうぞお話しください。過去の私と今の私を比べていただくことも構いません。ですが、他ならぬフミさんにだけは、今の私だけを見ていただきたかったです』

 自分が思うままに口走った言葉が、どれほど残酷なものかは、口にする前から理解していた。

 何故こうも感情がざわざわと波立つのか。加斎中が言っていた通り、この人たちは自分が姿を消したあの日から、本当に時を止めていたのかもしれない。人が一人いなくなったところで、時間は過ぎる。世界は回る。人生は変わらず続いていく。私は死んだものと思ってください──そのような置き手紙でも残してくれば、この人たちの時が止まることもなかったのだろうか。

 五年は決して短い時間ではない。

 立花希佐は、高科更文に恥ない自分でありたいと思っていた。いつだって目の前に感じられる大きな背中を心の支えにしていた。その背中を追いかけてさえいれば、自分を見失わずに済むと信じていた。どうしようもなく無才に思えたときも、あの人は今この瞬間にも努力をしているはずだと、自分を奮い立たせることができた。

 分かっている。それは希佐自身が勝手に抱いていた幻想でしかなく、実際のところ、更文がどのような暮らしを送っていたかなど、知る由もなかった。知ろうともしなかった。知る権利がないと思っていた。利己的な考えに固着し、日本から逃げ出してきた自分には、過去の栄光を振り返ることすら罪深いことのように思えていた。

 だがそれでも、この人にはいつまでも自分の前を走っていてほしいのだと、希佐は思ってしまう。俺について来いと言ってこの手を引っ張り上げてくれる人であってほしいと願ってしまう。自分と誰かを比べて劣等感を抱くような人であってほしくはない。

『……お前は本当に強いやつだと思うよ。自分の身一つで日本を飛び出して、右も左も分からない海外での生活を始めたんだからさ。そりゃ強くもならなきゃいけなかったんだろうけど』

 更文はギネスを半分ほど勢い良くごくごくと飲んでから、はあ、と大きく息を吐き出した。

『俺はお前が目の前からいなくなって、情けない話、何年も立ち直れなかった。自分があまりに不甲斐なさすぎてな。当時は、お前の考えていることを聞こうともしないで、無責任にも玉阪座で待ってるだとか、卒業後は一緒に住もうだとか、そんな無神経なことばかり口走ってた。どうしようもないガキだったよ。物事を楽観的に捉え過ぎていたんだ。お前が自分から相談しようって気になるのを待ってなんかいないで、卒業後はどうするつもりなんだって、自分から声をかけるべきだったんだよな』

『そんなふうに聞いていただいても、多分私は、まだ考え中ですってお茶を濁していたと思います。早い段階で海外に行くことは決めていましたから』

『早い段階って?』

『そういう選択肢もあるんだなって思ったのは、一年生の時です』ついに閉店時間を迎えると、スタッフが管を巻く常連客たちをやんわりと店の外に追い出しにかかり、出入り口の扉の鍵を閉めていた。『加斎くんが卒業後は海外に行くつもりだと話してくれて。それがずっと心の片隅に引っかかっていました。そのための準備をはじめたのは、二年生になってからです』

『俺に相談しようとは思わなかった?』

『フミさんは玉阪座に入門したばかりでお忙しそうでしたし、結局のところ、これは私自身の問題で、最終的な決断は自分自身の意思で下さなければならないと分かっていましたから』

 それに、と続けようとする希佐のことを、更文は如何ともし難い面持ちで見やっていた。

『フミさんに相談をしたら、海外に行くことを反対されると思ったんです。当時の私は、自分がユニヴェールから姿を消せば、多くのことが解決するはずだと信じていました。フミさんとは懇意にさせて頂いていましたし、置き手紙を残そうかとも考えたのですが、そうすると自分自身の決意が揺らぎそうで、何も言わずに立ち去ったんです』

『懇意、ね』どこか落胆したような表情を浮かべ、更文はため息を吐いた。『お前を恋人だって思っていたのは、俺だけだったってことか?』

『それは──』

『それとも、なかったことにしたい関係ってこと?』

『違います。どうしてそんな──』

『俺はこの五年間、お前を忘れたことは一日たりともなかったよ、希佐。お前はどうだ?』

『どうしてそんなことをお聞きになるんですか』

『それがお前の答えだよ』更文は少しだけ皮肉っぽく笑う。『所詮俺は、お前に良い人ができれば、すぐになかったことにされる程度の男だったってわけだ』

『フミさん』

 この人は、こんなことを言う人ではなかったはずだと、希佐は思ってしまった。しかし次の瞬間には、自分はこの人の何を知っているのだろうと、そう思い直す。本当は何も知らなかったのかもしれない。誰も人の心の奥底までは踏み込めない。表面上、この目に見え、この手で触れられる部分だけを目視して、誰よりも知ったような気になっていた。

 誰かがステージ上のグランドピアノを奏でている。

 話し声は遠い。

 ここはイギリス、ロンドンだ。それなのに、目の前にはユニヴェールの先輩であり、かつて恋人であったはずの人が、形容し難い面差しをこちらに向けて座っている。

 頭の中がぐるんと回転するような、奇妙な眩暈を覚えたあと、希佐は少しだけ早く鼓動を打つ心臓に服の上から触れた。すると、その様子を見ていた更文は、徐にポケットに手を入れて取り出したそれを、希佐の前に差し出して見せた。

『……鯉結び?』

『この先も幸せでありますようにって、希佐と一緒に願った鯉結びだよ』手の平の上で悲しく横たわるそれを見て、希佐は静かに顔を伏せる。『ついさっき切れたんだ。お前が舞台上で七つのヴェールの踊りを踊り終えた、丁度その時にさ』

 更文は切れた鯉結びを、関節が浮き上がる程強く握り締めてから、すっとポケットの中に落とした。

『お前は今、幸せなんだな、希佐』

 幸せだった。今、この瞬間までは。

 それなのに、この人の言葉がまるで呪いや毒のように、心を黒く染めていく。自らの犯した過ちが、今更になって重くのしかかってくる。許されないことをしたのだという罪の意識が色を濃くしていく。自分は幸せになどなってはいけないのだと、そうした思いに支配されていく。

 

 

「あらあら、見てご覧なさいな。随分と良い雰囲気だこと」

 ステージの段差に腰を下ろし、ジョシュアらと話をしていたアランの元にやって来たかと思えば、ウイスキーグラスを片手に居座っていたクロエ・ルーが、カウンター席の一角を見やりながら面白そうに言った。

 まだ店内に残ることが許されている客の多くは、メレディスと懇意にしている者やその身内ばかりで、それ以外は既に退店済みだった。スタッフは邪魔にならない場所から清掃をはじめている。メレディスからのお達しが出ているのだろう、新しく酒の注文をしても、嫌な顔一つせず応じてくれていた。

「あれはキサと、隣は──誰だっけ?」

「キサの昔の男よ」首を傾げるジョシュアに向かって、クロエがにっこりと微笑みながら言う。「サラフミ・タカシナ。数百年と続く日本の伝統舞踊の後継者なんですって」

「へえ」

 サラフミ・タカシナ──そのように復唱しながら、ジョシュアは自らのスマートフォンを使って、名前を検索に掛けている。真っ先に出てくるのは、玉阪座に在籍している座員のプロフィールだ。そこに記された輝かしい経歴の数々を認め、ジョシュアは「わお」と声を漏らす。

「キサの元彼、日本では結構な有名人なんだね。女形かぁ。確かに相当な美人だったけど。あ、もしかしてキサって面食いだったりする?」

 ジョシュアはそう言いながらアランを見やる。にんまりと笑うように細められた目は、何か物言いたげだ。アランは何も答えずに小さく肩をすくめると、カウンター席に目を向けた。

 クロエ・ルーの言う通り、二人は一見すると閉店後のパブでひっそりと語らう、雰囲気の良いカップルに見受けられる。だがしかし、この女がそんな二人を肴にして、機嫌良く酒を呷るはずもない。アランの目には、見るからに険悪な雰囲気が漂っているように見えた。

 つい少し前、日本人達との話に飽きたのか、こちらに移動して来たノアが、ステージの上でピアノを弾いていた。一番上の兄がピアノを習っていて、実家には物心付く前からグランドピアノがあったのだという。楽譜は読めないが、簡単な曲なら見様見真似で弾けるようになったと話していた。しかしながら、実際のところ身長の割に大きな手は良く回り、ショパンなんかを軽々と弾いて見せるのだから、兄はピアノを辞めたくもなるはずだ。

『正直な話、僕は脳機能が変な方向にバグっていると思うんだよね』ある日の雨宿り、半ば濡れ鼠になりながら駆け込んだカフェの窓際の席で、雷雨が通り過ぎるのを待ちながらノアが言っていた。『毎日何かしらの新しい知識をこの脳味噌に食べさせ続けないと、退屈で死にそうになるんだよ。行き過ぎた知識欲って物凄くグロテスクだと思う。僕が天文学を学んでいるのだって、それ自体に果てが見えないからなんだ』

 雨の日の余興で、カフェに設置されているピアノの演奏がはじまると、ノアはそちらに目をやりながら続けた。

『ああ、でも、ピアノは子供の頃の良い暇潰しだったな。ピアノは弦楽器の中で一番好きなんだよね。耳で聞いた音を探しているうちに、いつの間にか一曲弾けるようになっててさ。まあ、兄さんみたいには弾けなかったんだけど』

 特に子供の頃は、目の前で見せつけられる技術にばかり目がいって、感性を理解することは難しいものだ。ノアの一番上の兄は、自分が苦労して弾けるようになった曲を、末の弟が難なく弾きこなしてしまう様子を見て絶望した。しかし、末の弟は一番上の兄の演奏から自分とは異なる感性を汲み取り、すぐさま自分にピアノは向いていないのだと悟った。耳で聞いた通りに演奏できる能力が持て囃されるのは子供の特権に過ぎない。かつては神童と呼ばれた子供も、大人になればただの人だ。

 例えば、誰かの才能に圧倒されて自らの夢を諦めることは、何か酷く言い訳じみているような気がすると、アランは思う。他者が才能に溢れていることと、自らの才能がそれよりも劣っていることに、一体どのような因果関係があるというのだろう。目の前にある才能を目の当たりにして、自分には絶対に勝ち目はないと、そんなふうに考えることのおこがましさは、思わず失笑を漏らしてしまうような馬鹿馬鹿しさがあった。

 自分の敵は自分だとはよく言ったものだ。実際のところは、目の前の誰かに終止符を打たれたのではなく、自分自身の意思で自らに終止符を打っている。誰かのせいにしなければ心の平穏が保てないのだろう。

 そうした人々の多くは、どこかに辞める理由が転がっていないだろうかと、脇見ばかりをしている。自分の夢に実直な者ほど、自分と他人を比べたりはしない。他者には目もくれず、脇目も振らずに駆け抜けていくものだ。

「助けに行かなくていいのかしら、王子様?」唇を濡らすウイスキーを舐めとるクロエを横目に一瞥し、アランはすぐに視線を逸らす。「よりを戻しちゃうかも」

「あれで?」

「男女の関係って何処で何が起こるか分からないものでしょう?」

「あんたが言うと説得力が違う」

「私たちには彼女が必要なのよ、アラン・ジンデル」

「彼らにとっても必要な存在なのかもしれない」

「いいえ、私の方が必要としています」

 立花希佐の過去の人間関係に口を挟むべきではないと、アランは考えていた。昼間は思わず感情的になってしまったが、それによって希佐の人間関係に亀裂が入るようなことがあってはならない。それに、本人がいずれは日本に帰ると言っているのだ、今ある人間関係を良好に続けていけるのであれば、それに越したことはない。

 だがしかし、アランやクロエが間に割って入るまでもなく、一人の人影が二人に歩み寄っていく。クロエは「Ah là là」と漏らしながら、口元を隠して意外そうに目を丸くした。

「彼、意外と男らしいところがあるのね」

 意外と、ではない。

 イライアスは無関心な相手にはただひたすらに無関心だが、自らが心を許した相手ならば、愛情深く接することのできる人間だ。特にアイリーンや希佐には並々ならぬ庇護心が発揮される。今日は日本から元パートナーがやって来ている分、いつも以上に目が離せず、二人の動向には常に目を光らせていたことだろう。むしろ、自分なんかよりも強い嫉妬心を露わにするのではないかと、アランは考えていた。

 二人の間に肩を入れたイライアスは、元パートナーには目もくれず、希佐と向き合って何事かを話している。彼らの家族はアイリーンがホテルまで同行しているはずだ。一緒に行かなかったということは、それほど希佐が心配だったのだろう。

 希佐のことだ、そのまま置き去りにして立ち去るようなことはしないだろうと思っていると案の定、高科更文が先に席を立った。いくつかの言葉を交わし、高科はその場を後にしていた。

「さて、と」そう言って椅子から立ち上がったクロエは、空になったグラスをアランに押し付けてくる。「バージルに呼ばれているの。私に大切な話があるのですって」

「そう」

「気にならない?」

「別に」

「プロポーズだったらどうしましょう」

「もしそれが現実になったら俺は世を儚んで明日の朝日を見ずに死ぬよ」

「そんなに嫌がることないじゃないの」

 誰もがこの女のことを好いている。好かれる理由も十二分に理解できる。もし自分を捨てた女という前提がなければ、ここまで嫌悪する理由もない。だが、本気でこの女を憎んでいるのだとしたら、こうして同じ空気を吸い、言葉を交わし、軽口を叩き合うような真似はしないはずなのだ。許すつもりなどさらさらない。

 そもそも、この女は許されたいなどとは微塵も思っていないのだろう。成功のためには手段を選ばない。今回自分に声が掛かったのも、成功のための布石に過ぎないのだから。

『この世に自分が存在するということは、間違いなく一人の女性が命懸けで子供を産んだという事実の証明になる』診察後、精神科医の仮面を外したジョーが、そんなふうに言っていたことがある。『僕は最期の最後まで母とは分かり合えなかった。僕は男だとカミングアウトしたときから、母は僕を見ようとはしなかったんだ。体を患って入院したときも、今際のときも、入室を断られた。葬儀に参列することすら許されなかった。母は僕を憎んでいるのだと思っていたよ。それなのに、母の墓参りに行ったら偶然遭遇した父に、思い切り殴られてね。母は死の間際に僕の名前を呼んだ、お前に会いたいと言ったんだと、そう言われた。そんなこと知らないよね。だって、僕は病室の前まで言ったのに、妹に追い返されたんだから』

 自分はどうしても母のことを好きにはなれなかったが、嫌いにもなれなかったと、ジョーは話していた。自分から壁を作り、拒絶をしたというのに、最期の瞬間には子供の名前を呼び、会いたいと口にした女のことを、ジョーは勝手な人だと言って苦笑いを浮かべていた。

『父に顔面を思いっきり殴られて、その話を聞かされたときは、なんて理不尽なんだろうと思った。でもね、時が経つにつれて、別の感情が湧き上がってきたんだ。何を言われても、何度拒絶されたとしても、最後まで歩み寄る意思を見せ続けるべきだったんじゃないかってね。そうすれば、もしかしたら、別の結末を迎えられたんじゃないかって。でもそれは、母のためじゃない。僕自身のために、そうするべきだったと思うんだ。もう母はこの世にはいない。それなのに、こうしている今も、生きているとき以上に僕の心を苦しめている。僕の心はね、もう一生、死ぬまで母から解放されることはないんだよ』

 なぜ、今更になって。

『十月十日、僕は母のお腹の中にいた。それは君も同じだ、アラン。自分が愛されていたかどうかは問題じゃない。ただ、その間だけは間違いなく、僕たちは母親に守られていたんだよ』

 希佐が言うように、話し合う必要があるとは強く感じている。だが、その機会を設けようとするたびに、この女は理由をつけてのらりくらりと逃げていく。

『僕は楽しく愉快な人は好きだけれど、ふざけた人間は大嫌いなんだ』不意に、いつかのゴダンの言葉が蘇ってくる。『彼女は間違いなく後者だよ』

 レオナール・ゴダンの本質を見抜く目は鋭い。あの見るからに人好きのする女をつかまえて、そう短くもない人生の中で出会ってきたどんな相手よりも人間性を疑う、と言わしめるほどだ。

 確かに、人間性はこの上なく悪いのだろう。だが、あの女を心の底から憎むことができないのは、自分を産んだ女であることはもちろん、自分が今の人生に満足しているからなのかもしれないと、アランはそんなふうに思う。この人生が未だ絶望の最中にあったとしたら、こんなふうに考えることなどできはしなかったはずだ。

 クロエ・ルーが以前、このパブで『La vie en rose』を歌った日のことをよく覚えている。

 まるで夢見る少女のような眼差しで、ここではない何処かを見つめながら歌うその声は、まさに珠玉の歌声だった。かつては少女だったあの女の本心が、その歌のすべてに込められているような気がした。

 十月十日、あの女の腹の中にいた。

 ただ、それだけは間違いなく、嘘偽りのない真実だ。

 

 

『お前は今、幸せなんだな、希佐』そう言った高科更文の声が鼓膜にこびりついている。『所詮俺は、お前に良い人ができれば、すぐになかったことにされる程度の男だったってわけだ』

 この五年間、立花希佐は自分の人生を精一杯に生きてきた。これから先の人生だって、自分の意思で選び抜いた道を、自分の責任で歩いていきたいと考えている。

 継希がいなくなったときは、人生に絶望した。大切な人ばかりを奪っていくこの世界を嫌いになった。だが、世界は当たり前に回り続ける。昨日は今日に、今日は明日に。時間は立ち止まる者を待ってはくれない。だから、希佐は継希のいない世界で生きていくしかなかった。継希と共に生きる人生を諦めるしかなかったのだ。けれど、継希が存在しない日々にも徐々に慣れて、何でもない毎日を過ごせるようになった。それが普通なのだと思っていた。人の悲しみはそう長くは続かない。心はそういうふうにできているのだと。

 この五年間、日本語で日記を綴るたびに、更文のことを思い出していた。まるで手紙を綴るように、誰かに向けて日常を記録し続けてきた。幸せではなかった数年間と、幸せを噛み締めていた数年間。嘘偽りのない立花希佐の本心が、何冊ものノートの中に込められている。

 とにかく胸を張っていようと思ったのだ。恥じることのない自分でいるために、毎日毎日、努力を続けてきた。きっと、あの人も自分と同じように、もしかしたらそれ以上に、研鑽を積んでいるはずだと信じていた。だから、ただ見てもらいたかった。

 私は、こんなふうにも踊れるようになったんですよ、フミさん──ただ、それだけだった。

 悪いのは間違いなく自分だと、希佐は分かっている。すべての元凶であることも。だが、時の過ぎ行く中で、自らの心に折り合いをつけられるかどうかまでは、責任を負うことはできない。

「今日は飲まないんじゃなかったの」

 イライアスに少しだけ一人にして欲しいと頼み、カウンター席の椅子に座ってぼんやりとしていると、背後からそう言う声が掛かった。振り返るまでもない。希佐が何も答えずにいると、アラン・ジンデルは僅かに口紅の移った、空のウイスキーグラスをカウンターの上に置く。

 カウンターの向こう側から店のスタッフに「何か飲む?」と訊ねられ、隣に立ったアランは首を横に振っていた。

「イライアスに行けって言われたから来たけど」その明け透けな物言いを聞いて、希佐はアランに横目を向ける。「邪魔ならすぐに消えるよ」

「あなたを邪魔に思ったことなんてない」

「そう」

「どうぞ、座って」

 希佐がそう言って隣の椅子を引くと、アランは何も言わずに腰を下ろした。体のどこにも触れていないというのに、距離が近づいた腕に、じんわりとした体温を感じた。

 アラン・ジンデルの沈黙はいつも穏やかだ。だが、立花希佐の沈黙を、アランがどのように感じているのかは分からない。

「何か話した方がいい?」

「君が話したければ」

「そんな言い方をされたら、明日までずっと黙っているかも」

「別に構わない」

「アランが何かお話ししてくれる?」

 希佐がそう言って振り仰ぐと、アランもこちらを見下ろして、緑色の蠱惑的な目を僅かに細めてみせた。カウンターに乗せていた手を取り、自身の口元までそれを運びながら、アランは希佐の目をそっと覗き込んでくる。

「俺の歌は?」間違いなく小指を一瞥したはずなのに、そのことに触れるつもりはないようだ。「どうだった?」

「Not bad」いつものようにアランが言ってくれる言葉を返すと、どこか釈然としない眼差しが向けられる。「すごく良かったよ」

「周りの連中との話に夢中で、俺の歌なんか聞いていないように見えたけど」

「耳は傾けていました」

「どうだか」

「The Roseは私のために歌ってくれたんでしょう?」

 アランは何も答えないが、その代わりに、右手の薬指に柔らかく唇を押し当ててくる。

 本当なら、もっと気の利いたことを言って、アラン・ジンデルの舞台復帰という輝かしい日に花を添えたかった。夜が明けるまで語り明かし、カーテンの向こう側に朝の光を感じてから、幸せな気持ちのままベッドに潜り込みたかった。

 だがしかし、とてもではないが、今はそんな気持ちにはなれそうにない。

「今日は疲れたな」

「え?」

 その同意を求めるような物言いに目を丸くするものの、言われてみれば、ここ数日は忙しさのせいで何も感じなくなっていた体が、ずっしりと重たく感じられる。いつにも増して気持ちが沈みがちなのも、この疲労感のせいなのかもしれないと希佐は思う。

「……そうだね」希佐は、こちらを気遣うように見ているアランの顔を見上げ、苦笑いを浮かべた。「やっぱり少し疲れたかも」

「帰ったら風呂に入って寝る」

「うん」

「明日、お互いの気持ちが落ち着いたら話をしよう」アランは苦笑いを浮かべている希佐の頬を、大きな手の平で包み込んだ。「どう思う?」

「良い考えだと思う」

 そう言う希佐を見てアランは表情を綻ばせると、親指の腹で目の下から眦に向かってを優しく撫で上げ、どこか名残惜しそうにその手を離した。それから、希佐のグラスに半分ほど残っていたギネスを水のように飲み干し、席を立つ。

「オーナーさんはもう帰られた?」

「昔の劇団仲間と話し込んでる」

「アランは?」

「なに」

「昔の劇団仲間とはお話しをしたの?」

「俺は──」椅子から立ちあがろうとする希佐の背中に手を添えながら、アランは続けた。「まあ、メレディスが呼んだ何人かとは。良くしてくれた人の多くはもう自分の生活があるし、ロンドンを離れた人もいる。ここには思い出が多すぎるから」

「そうなんだ」

「ロビンはメレディスが心臓の役割を果たしていたから、彼が離脱した時点で、もう先は長くないだろうと思ってた。俺は距離を置いていたから詳しくは知らなかったけど、最後には自然消滅したらしい。何もかも上手くいかなくなったって」

 希佐は、78期が卒業した後のユニヴェールやクォーツのことを何も知らない。あれほどまでに夢に見ていたユニヴェールでの三年間を終えた途端、過去を一度として顧みることもなく、自らユニヴェールを遠ざけた。かつては腑抜けのクォーツと呼ばれていた時代が再び訪れることのないよう、後輩の指導には尽力したつもりだが、どのような結果を残したかは彼らの努力次第だ。

 これから先の人生のすべてを投げ打ってでも叶えたかった夢の先に今、立花希佐はいる。それはユニヴェールでの日々があったからこそ出会えたものであると同時に、立花希佐自身が果てしない努力の末に手に入れたものだ。

 幸せになんてなれないと思った。幸せなど望んではいけないと思っていた。それでも、幸せになりたかった。何も偽る必要のないこの人の隣では、この上ない幸せを感じられたから。

「やあやあ、麗しのお二人さん」追加の飲み物を注文しに来たらしいスペンサー・ロローが、上機嫌でそう声を掛けてくる。「コクトーはね、実に面白い子だよ。知識もアイデアも向上心も申し分ない。弟子にするならああいう子がいい」

「酔ってるの、スペンス」

「ああ、そりゃ酔っているとも」

「注文は? 代わりに持っていく」

「スコッチを一、二、三、四──」

「分かった」すっかり良い気分になってしまっているスペンサーを回れ右させ、アランはその背中を押し出した。「席に戻ってて」

「悪いね」

 ふらふらと覚束ない足取りで歩く友人の後ろ姿を見てため息を吐いたアランは、カウンターに向き直ると、そこにいたバーテンダーに向かって言った。

「申し訳ないけど、あそこのボックス席の人数分の水を用意してくれる?」

「スコッチをご所望のようだったけど?」

「あれに若い連中を付き合わせるのは酷だろ」

「確かに」

 バーテンダーはにやりと笑い、すぐに用意すると言って、小走りで冷蔵庫に向かった。

 ボックス席に座っている顔に変化はない。ただ、大盛り上がりをしているのはスペンサー・ロローと根地黒門ばかりで、他の面々はその二人の会話に耳を傾け、時折口を挟んでいるだけのようだ。白田美ツ騎は当然、帰りたがっているように見える。一瞬、その目がこちらに向けられたような気がして、希佐は低く右手を挙げた。

「白田先輩が助けてくれって言ってる、ような気がする」

「まあ、だろうな」

 既に氷の入れられたグラスが人数分と、ミネラルウォーターのボトルが数本、二つのトレーに分けて用意される。アランは感謝の言葉を口にしながら重たい方のトレーを抱え、希佐の方を一瞥した。心得たとばかりに頷いた希佐は、軽い方のトレーを腕に乗せ、先を行くアランの背中を追いかける。

 案の定、ボックス席に到着して水が乗ったトレーをテーブルの上に置くと、スペンサーは良い顔をしなかった。だがしかし、アランは我関せずという顔をして、まるでワインを注ぐような美しい所作でグラスに水を注いでいく。

「飲み直したいなら席を移るかよその店に行けばいい。いずれにせよ、君たちが席を立たないことには、彼らはこの場を離れることもできない」

「そんなことはないさ。実に興味深く有意義な議論を交わしていたところだ」

「だったら水を刺して悪かったよ」

 アランが水を注いだグラスを隣にいるエステルに手渡してから、ゴダンは自らもそれを受け取り、ごくりと美味しそうに飲んでいる。文字通り水を刺された形になるスペンサーは、僅かに赤らんだ顔をむっとさせていたが、年長者が文句を言わない手前、口を噤まざるを得ない状況だと悟ったようだ。

『早い時間からお疲れさまでした、白田先輩』

『それはお前も同じだろ』

 希佐はゴダンらと話をしているアランを横目に見てから、日本からやって来た客人たちと視線を合わせる。

『ホテルに戻られるのなら、タクシーをお呼びしますが』

『僕とフミは、レオと一緒に、イズリントンにある彼の自宅に帰るんだ』

『そうなんですね』

『あの、自分は明日も仕事があるので、先にホテルに戻って休ませてもらいます。色々と準備もありますし』東雲と紹介された男がそう言って立ち上がる。『タクシーをお願いしても?』

『もちろんです』

 希佐はポケットからスマートフォンを取り出すと、このパブが提携している会社に電話をかけた。普段は店のスタッフがすることではあるが、向こうのオペレーターとはここで働いていたとき、電話越しに何度も話したことがある。向こうも希佐の声を覚えていたようで、事情を説明するまでもなく、すぐに車を行かせると言ってくれた。

『十分くらいで来てくださるそうです』

『ああ、すみません』一度席を立った先輩方に向かって軽く会釈をしてから、東雲はボックス席の奥から出てきた。『どうもありがとうございます』

『いえ、このくらいのことでしたらお安いご用です』

 希佐がそのように応じると、東雲はにっこりと人好きのする笑みを浮かべる。そしてすぐに、再び席に腰を落ち着けようとしていた更文を、微かに厳しい面持ちで振り返った。

『いいですか、若。明日は遅刻厳禁ですからね。九時に宮殿劇場前、時間厳守ですよ』

『分かってますよ、東雲さん』

『道に迷われても困りますから、タクシーを使って来てください。イズリントンからなら、そうですね、二十分くらいで到着するはずです』

『無駄遣いはしないようにって話じゃありませんでした?』

『初日から遅刻をして印象を悪くするよりはマシですから』やれやれ、とでも言うふうに頭を振ってから、東雲は白田を見る。『白田くんはどうします? 一緒に戻りますか?』

『そうさせてもらいます』

『えー、白田くん。もう帰ってしまうのかい?』ぶうぶう、と実際にブーイングの音を口に出しながら、根地は唇を尖らせていた。『宴はまだ始まったばかりじゃないか』

『明日は人と会う約束があるんですよ』

『仕事相手かい』

『まあ、そんなところです』

『それなら引き止めるわけにはいかないね』

『俺も明日から仕事なんだけどな』

『フーミンはもうちょっと付き合いなさいよ。第一、アタシたちはレオが帰るって言わないと帰れないのよ。もう観念なさい』

 じゃれつく二人を横目に見ながら、必要最低限の荷物しか入らないような小さなバッグを襷掛けにし、白田は希佐の隣に立つ。はあ、と疲れた様子でため息を吐く姿を目の当たりにして、希佐は気遣わしく思いながら声をかけた。

『白田先輩、大丈夫ですか?』

『少し気疲れしただけ』そう言う白田の声に、昼間ほどの張りはない。『ここのテーブル、ひっきりなしに色んな人がやって来て、長々と挨拶をしていくんだ。そちらの大御所さんたちと一緒にいるから、こっちにまで好奇の目を向けてきてさ。ああ、でも、僕の歌を聞いたって言ってくれた人もいたよ。名刺ももらった。なんだか恐れ多いけど』

『白田先輩の歌、もっと聞いていたかったです』

『機会があればな』

 どこか悪戯っぽい面持ちでそう言った白田は、東雲と共にゴダンたちに挨拶をしてから、店の前の通りに到着したタクシーに乗ってホテルに帰っていった。店の外まで見送りに出ていた希佐が店内に戻ろうとすると、そこに加斎とダンテが現れる。

『やあ、立花』

『二人とも、今帰り?』

『ええ』ダンテは後ろ手に扉を閉めながら、希佐を見下ろして柔らかく笑った。「あなたのサロメには心を奪われてしまいましたよ、希佐。正直、今もまだドキドキしています」

「ありがとう、ダンテくん」

 出入り口を塞がないように少しだけ場所を移動してから、あのさ、と加斎が言った。

『俺たち、近々ロンドンを離れるんだ』

『えっ、そうなの?』目を丸くする希佐を見て、加斎はどこか苦々しく笑う。『それは急な話だね』

『そうでもないよ。今回のイベント出演がなかったら、俺もダンテも、多分リオだって、もうロンドンを発っていたはずだしね。これでも長居してるんだ。俺たち、君と同じ舞台に立ちたかったからさ』

『私もみんなと一緒にここの舞台に立てて嬉しかった』

『うーん、俺は素直に嬉しかったとは言えないかな』

『どうして?』

『俺は君の隣に立ちたかったからだよ』ユニヴェールにいた頃と変わらない真剣な面差しで、加斎は希佐をじっと見つめていた。『でも、立花の隣に立つためには、まだまだ修行が足りないって思い知らされた。だから俺は、ブロードウェイに戻って自分を鍛え直すことに決めたんだ。またオーディションを受けて、新しい経験を積むよ』

『そっか。応援しているね』差し出された手を握り返してから、希佐はダンテを見上げる。『ダンテくんはどうするの?』

『僕もアタルと一緒にアメリカに渡ります。そしてしばらくは、リオと三人でシェアハウス暮らしです』

『何だか楽しそうだね』

『希佐もご一緒にいかがですか? ユーなら大歓迎デスよ』

『じゃあ、いつか遊びに行ったときに泊めてもらおうかな』

『楽しみにお待ちしていマスね』

 ふふ、と笑ったダンテは、ぱちん、と魅力的なウインクをしたかと思うと、丁度目の前を通りかかったブラックキャブに向かって手を挙げた。滑るように止まったタクシーを目指して歩き出したダンテの背中に、加斎が呆れた様子で声をかける。

『ちょっとダンテ、お金は節約しようって話をしたばっかりだろ!』

『まあまあ、ここは僕が払いますから、節約は明日からでいいでしょう?』

『俺も乗るし、半分払うよ』加斎は小走りで僅かに進んでから、肩越しに希佐を振り返った。『じゃあね、立花。また連絡するよ』

『うん、二人とも元気で』

『チャオ、希佐』

 意図せず二台のタクシーを見送った希佐は、今度こそヘスティアの店内に立ち戻ってきた。先程よりも閑散としてきてはいるが、まだ二十人ほどの客が居残っている。その多くは見知った顔だ。顔馴染みの常連客や舞台関係者は店のお得意様なので、メレディスが無理に追い出すことはない。特に今日は特別なイベントの日だったので、大目に見てくれているのだろう。

 出入り口の近くでは、バージルとリオがテーブル席に腰を下ろし、向かい合って話し込んでいた。二人の邪魔をしないよう静かに通り過ぎようとすると、キサ、とリオに呼び止められた。

「アタルとダンテ、何か言ってなかったか?」

「近々ロンドンを離れてアメリカに戻るって」

「ああ、実はそうなんだ」座れと言うふうに椅子を差し示された希佐は、バージルの顔を見やってから、その隣に腰を下ろした。「エージェントからいくつかオーディションの話が届いてさ、それを受けに戻るって話をしたら、あいつらも一緒に来たいって。まあ、こちらから誘ってみるつもりではあったんだけど」

「三人でルームシェアして暮らすんだとよ」

「そう言ってた」

「ま、あの辺りで暮らすとなると物件探しから難ありだし、家賃も高いからな。俺の向こうの持ち家を格安で貸してやることにしたんだ」

「えっ、バージルってアメリカにもお家を持っているの?」

「狭いコンドミニアムだけどな」バージルは言いながら肩をすくめる。「三人で住むとなると多少手狭ではあるが、その辺りは上手くやってくれ。近所に迷惑はかけるなよ」

「分かってるって」

 これが部屋の鍵だ──そう言ってバージルが差し出した鍵を、リオは恭しく受け取っている。

「本当に感謝してる」

「若い連中を応援してやるのも老体の役目だからな」

「またそれだ」キーリングを指先に引っ掛け、鍵をぎゅっと握り締めながら、リオは睨むようにしてバージルを見た。「そうやって年齢を盾にするのはやめろってば。大体、まだ四十だろ? オレに言わせれば、役者としては一番脂の乗った良い年齢だと思うけどね」

「まあ、そうなのかもな」バージルはそう言ってから、すんすんと鼻を鳴らしたかと思うと、テーブルに頬杖をついて希佐を見る。「お前、酒飲んだだろ」

「えっ? あ、う、うん、一杯と少しだけ……」

「今日はやめとけって言っただろうが」

「もう飲まないよ」

「気分は?」

「全然平気」

「ったく、水もらってきてやるから、ちょっと待ってろ」

 テーブルに手をついて立ち上がり、希佐の頭をぐりぐりと撫でてから、バージルはカウンターに向かって歩いていく。その後ろ姿はあまりにも均整が取れていて、もし自分が男性だったらこうありたいと思うような、格好良いシルエットだ。

 希佐がそんなふうに思っていると、向かい側に座っているリオも似たようなことを考えていたのか、バージルの後ろ姿を見て、深いため息を漏らしていた。

「キサのことが本気で羨ましいんだ。可能ならオレだってあの人に教えを乞いたい」

「頼んでみたらどうです?」

「もちろん、頼んでみたさ。だけど断られたよ。弟子は一人で十分だって」リオはそう言いながら、どこか恨みがましそうな目で希佐のことを睨んだ。「嬉しそうだな」

「そう見えますか?」

「ずるいよなぁ」

 にこにこと笑う希佐から視線を逸らし、リオはエールビールをぐいっと呷る。それから、カウンターの前に立ってスタッフと話をしているバージルの背中を見て、もう一度大きなため息を吐いた。

「オレは君に憧れてタップダンスを始めたわけだけど、タップダンス歴で言ったら君とオレなんて誤差の範囲だろ? オレだって短い期間だけどあの人からタップダンスを教わって、多くのことを学んだ。でも、あの人からもっといろんなことを学びたいと思ったんだ。そのためなら、イギリスに残ってもいいと思った」

「本人にそう伝えましたか?」

「当然」リオはぐわっと目を見開いてから、意気消沈するようにその目を細めた。「でも、バージルはありがとうって言ったあと、皮肉っぽく笑って、今の俺にはそんなふうに思ってもらえる価値はないって、そう言ったんだよ」

 バージルは自分のダンスに誇りを持っている。いつだって自信満々だ。それなのに、自分の才能に後ろ向きなところがあることは、希佐も感じ取っていた。ダンスは楽しくなければ意味がないとバージルは言う。ダンスを楽しめなくなったときが、引き際なのだと。

「かつてはタップダンス界の至宝なんて呼ばれた人が、このまま後進の育成に回るなんて正直勿体無いと思う。あの人なら後進を育てながら、自分の足で舞台に立つことだってできるはずだ。このままじゃ文字通り宝の持ち腐れだよ」

「人にはそれぞれ自分の考えがありますから」

「何か聞いてるの?」

「いいえ」バージルが踵を返し、こちらに戻って来ようとしている。「ただ、誰しも自分のために自分のことを考える時間が必要だって思うんです。あっという間に決断できる人もいれば、年単位で悩み続ける人もいます。でも、たとえ後者の場合だって、その時間が無駄になることはないと思うんです」

「それは君自身の経験?」

「さあ、どうでしょう」

 ふふふ、と肩を揺らして笑いながら、口元に指を立てる希佐を見て、リオは肩をすくめながら椅子の背もたれに体を預けた。氷の入っていない常温の水が注がれたグラスを、テーブルまで戻ってきたバージルが、希佐の目の前に差し出してくる。

「ほら、たーんと飲め」

「ありがとう、師匠」

「ったく、見せつけてくれるぜ」ぶすっとした顔をしながら立ち上がり、リオは握り締めていた鍵をポケットに入れた。「じゃ、オレももう行くよ。しばらくは会えなくなると思うけど、元気でな、オッサン」

「向こうに着いたら連絡しろよ」

「分かってるって」バージルに肩を叩かれ、リオは少しだけ笑う。「キサも、またな。いろいろと大変そうだけど、君たちの舞台の成功を祈ってる」

「リオも素敵な役と巡り会えますように」

「ありがと」

 じゃあなと手を振り、リオは弾むような足取りでヘスティアを出て行った。希佐と顔を見合わせたバージルは、小さく肩をすくめてから、水を飲めと急かしてくる。逆らわない方が良さそうだと思いながら大人しく水を飲んでいると、バージルが再び隣に腰を下ろした。

「お前の昔の男、どんな感じだった?」

「……どんな感じって?」

「さっき二人きりで話してただろ?」テーブルに頬杖をついてこちらの顔を覗き込んでくるバージルを、希佐は横目に見る。「茶化してるわけじゃない。遠目に見てもお前の肩が強張ってるのが分かったから、柄にもなく緊張してたんじゃないかと思ってな。俺の勘違いだったらいいんだけど」

「ただ少しお話をしただけだよ」

「ふうん」

 全くもって信じられないという顔をして、バージルはますます希佐に顔を近づけてくる。その様子に思わず笑ってしまうと、バージルは少しだけ安心したように目元を和らげた。

「昔の恋人と顔を合わせると微妙な空気になるだろ」

「バージルもそうなの?」

「俺は、自分からアプローチをしたこともなければ、別れ話を切り出したこともない甲斐性なしでな。帰ってきたら女が出て行った後だったり、俺の荷物だけが外に放り出されてたりで、まともな別れ方をしたことがねぇんだよ。自分と仕事のどっちが大切なんだとか、私のことなんてたいして好きじゃないんでしょとか、そんなのばっかりだった。女の方は、俺と別れてすぐに結婚したり、子供が生まれたりしてな。俺は結婚に興味がねぇし、子供だって欲しくない。ただ惰性で付き合ってたようなもんだから、俺のことを恨んでる女もいる。自業自得ってやつなんだろうが、女運も悪いんだろうな」

「バージルは誰かのことを本気で好きになったことはないの?」

「あるよ」当然、適当にあしらわれるのだろうと思っていたが、バージルはどこか神妙な面持ちを浮かべて、希佐の質問に答えてくれた。「若い頃に、ブロードウェイで出会ったんだ。そいつはタップダンサーで、顔と体とタップダンスの技術以外は、本当に最悪な女だった。態度も口も悪かったしな。人間性も最低だった」

「魅力的な人だったんだね」

「まあ、人間として魅力的ではあったな」

「その人のことをずっと忘れられない?」

「ああ」バージルは真摯に頷く。「忘れられる気がしない」

「そっか」

「自分の根っこにはいつだってあいつの存在があって、それはこの先何があっても、誰と出会っても変わらねぇんだ。別に好きな女ができたとしてもな。俺はあいつ以上に誰かを愛せるとは思えねぇし、愛せなくていいんだと思ってる。それに、その気持ちを相手に打ち明ける必要性も感じない」

 バージルは希佐とアランの関係に横から口を挟んでくることはあっても、自らの恋愛について語ることはほとんどなかった。少なくとも希佐は聞いたことがない。希佐は少し意外に思いながらも、これはとても大切な話を聞いているような気がして、そっと耳を傾けていた。

「四十年も生きてきたんだ。例えば、俺と同じだけ生きてきた独身の相手が、ただの純真無垢な人間ってことはほとんど考えられないだろ? お互い何事かを内に秘めていたって、何も不思議なことじゃない。そういうタイミングが訪れれば話すことはあるのかもしれねぇが、必ずしも打ち明ける必要はねぇと俺は思う」

「うん」

「中には無理に聞き出そうとしてくるやつもいるさ。でもな、自分が誰かを思う気持ちがどれだけ強かったとしても、その誰かの心の内側に無理やり分け入って、その心を蹂躙していい理由にはならねぇんだ。誰かの言葉にほんの少しでも違和感を覚えたのだとしたら、その違和感に従った方がいい。誰かを思って自分の心を曲げる必要はない。それは誰かを拒絶してるんじゃなくて、ただ自分の心を守っているだけだからだ。俺が言っていることの意味、分かるか?」

「……うん、多分」

 Perhaps──と応じる希佐を見て、バージルは少しだけ口角を持ち上げて笑った。

「アランのやつはこんな話し、してくれねぇだろ?」

「そんなことないよ」希佐は小さく頭を振る。「明日話をする約束をした」

「そいつは良い心掛けだな」

 また水を飲めと急かされる前に、希佐は自分の意思でグラスを口に運ぶ。常温の、生ぬるい水を舌の上でゆっくりと転がし、何回かに分けて嚥下した。冷えた水と違って爽快感はないが、このじんわりと染み入っていくような感覚は、嫌いではない。

「バージルにもロマンスがあったんだね」

「お前、俺をなんだと思ってるんだ?」バージルは思わずというふうに眉を顰める。「俺は結構モテるんだぞ」

「もちろん、知ってるよ。バージルのことを振る人がいるなんて信じられない」

「だろー? こんな優良物件は他にねぇと思うんだけどなぁ」

 軽口を叩くバージルの表情はいつも通り晴れやかだ。感傷的な様子は微塵も感じられない。酒は口にしていないはずなので、酔った勢いの話などではなく、希佐のことを思って打ち明けてくれたことなのだろう。

 これまでのことを言っているのか、これからのことを言っているのか、もしくは、その両方なのか。酷く身につまされると思っていると、バージルは不意に、希佐から視線を逸らした。その視線の先には、場所を移してレオナール・ゴダンと話をしている、アラン・ジンデルの姿がある。

「俺はさ、キサ」

「ん?」

「あいつの幸せを願ってるんだよ」

 途端に『お前は今、幸せなんだな、希佐』と言った更文の声が、再び蘇ってきた。心臓が萎縮するような窮屈さを覚えている希佐を尻目に、バージルは先を続けた。

「大なり小なり問題は山積みだけど、俺の目には、今のあいつは幸せそうに見える」

 まるで、希佐と更文の話を盗み聞いていたかのような物言いだが、そんなことは疑う余地もない。日本語を解さないバージルには、たとえ声が届いていたところで、交わされていた会話の意味など一つも伝わらなかったことだろう。

「お前があいつを幸せにしてやってるんだからな、キサ」

「えっ……?」

「たとえそれがほんの一時の幸せだったとしても、あのときの自分は間違いなく幸せだったっていう確信さえあれば、人間ってやつはなんとなく生きていけるもんなんだ」

 ま、お前はまだ若いから、よく分からないかもしれねぇけどな──バージルはにっと笑って、希佐の額を指先で軽く小突く。

 幸せというものは実に曖昧な感情だ。ふとした瞬間、ふとした言葉で、その感情は砂のように崩れ去り、風に吹き流されて跡形もなくなってしまう。間違いなく幸せだったはずなのに、頭から冷水を浴びせかけられたかのように冷え切って、ぬくもりを思い出すこともできない。

「キサと出会ったばかりの頃は、お前がどんなやつなのか、俺もまだよく分かっていなかったからな。なんつうか、余計なことを言ったような覚えもあるんだが」バージルの手がこちらに伸びてきて、とん、と希佐の頭に乗せられる。「今はちゃんとお前のことも思ってるからな。それに、あいつのことを心配するのと同じようにお前のことも心配しているし、そしてなによりも幸せを願ってる」

「バージル」

「俺だけじゃないぞ。カオスの連中はお前を無条件に愛しているし、俺たちはなんの疑いもなくお前に愛されていると思い込んでる」

「思い込みなんかじゃないよ」希佐は不意に泣きたくなるのを堪え、不器用に笑った。「私だってみんなのことを愛してる」

「周りの感情に流されるなよ、キサ」希佐の頭を少しだけ乱暴に撫でて、その手は離れていった。「俺たちはこれからも、この世界のどこにいたって、ずっとお前の味方だ。だからお前は、根っこを生やしてどっしり構えてろ。折れそうなときは仲間を頼れ。忘れるなよ。お前は、お前が生きたいように生きられるんだ」

 他の人々から贈られる言葉を軽いと感じているわけではない。だが、バージルが度々口にするこうした言葉には心地の良い重みがあって、心の深いところにいつまでも留まっていてくれる。

 自分もバージルと同じだけ生きたら、すべての言葉の意味を正しく理解することができるのだろうか。二十年近い先の未来のことなど、まだ想像することもできないが、こんなふうに誰かの背中にそっと手を添えられるような、そんな人になれたらと、希佐は思った。

 すっかりスタッフの数が減った店内を見まわした希佐は、残りの水を飲み干すと、自らグラスをカウンターまで戻しにいった。そこにいたメレディスは「ありがとう」と言って、そのグラスを受け取る。

「洗い物を手伝おうか?」

「あとこれだけだから大丈夫だよ」

「じゃあ、フロアの掃き掃除を──」

「キサ」掃除用具入れに向かおうとした希佐を、メレディスは落ち着いた口振りで引き止めた。「何かしていないと落ち着かないのだね」

「……」

 何も言わず、ただこくりと頷く希佐を見て微苦笑を浮かべ、メレディスは目の前の椅子に座るように言った。そこへ腰を下ろすと、小さな皿に乗せられた、一粒の丸いチョコレートが差し出された。

「それを口に入れて」希佐は言われるがままに、チョコレートを口に放り込む。「ゆっくり、溶かしながら味わうんだよ」

 歯を立てず、飴を舐めるように舌の上で転がしているうちに、口腔内の体温でチョコレートの表面が溶けていく。上顎に貼り付いたチョコレートを舐め取るようにして味わい、とろけて溢れ出した苦味のあるカラメルにちょっとした感動を覚えていると、自然と口角が持ち上がってくるのが自分でも分かった。バージルから指摘されていた、終始強張っていた肩が、チョコレートの甘さで脱力していく。

「……逃げてるって思う?」

「いいや」メレディスはグラスを磨きながら首を横に振った。「君は努力していると思うよ」

「もう閉店時間は過ぎているから、セールストークは抜きにして」

 カウンターの向こう側にいるメレディスは、いつも透明な仮面を被り、こちら側にいる人を気持ち良くさせるような言葉を意識的に選んで話をする。お客様に不快な思いをさせることなく、気持ち良く帰って頂くのが、パブの在り方だと言っていた。

 希佐がこの店で働いていたときは、王様と従者、雇用主と従業員、上司と部下のような、所謂身内のような関係性だった。だが、客に戻ってからは、以前ほど歯に衣着せぬ物言いをしてくれない。

 自らを上目遣いで見つめてくる希佐を見やり、メレディスは小さく息を吐くと、磨いていたグラスをそっと置いた。

「君は何に怯えているんだい?」

「……理想と現実に」

「では、君は独り善がりな夢を見ていたのだろうね」メレディスは途端に容赦のない物言いをした。「現実とは往々にして人々の理想を打ち砕くものだ」

「私は褒めてもらいたくて舞台に立っていると思う?」

「その質問の答えは、君自身が時間をかけて自問自答を繰り返していくことでしか得られないと思う」メレディスは次のグラスを手に取り、それを磨きながら続ける。「言うなれば、君は自分という存在を認めて欲しくて舞台に立っているのではないかな」

「存在を?」

「舞台の上でこそ己が生を実感することができる──これは君自身が常々思っていることだろう?」頷く希佐を見て、メレディスは更に続けた。「君は自分自身の才能ではなく、存在そのものを知ってほしいと、そんなふうに思っているのではないかと感じるよ。他者と才能を競わせ、比較するなんて、野暮で無粋なことだと思っているのではないかな。君はただ、見るべきものを見て、感じるべきものを感じ、その瞬間の感動を覚えていてほしいだけなんだ。刹那的な舞台の上に、君という役者が確かに存在していたのだという事実をね」

 希佐は思わず大きく目を見開いて、食い入るような眼差しでメレディスを見つめた。

 自らの中に明確な答えがあったわけではない。だが、メレディスの言葉には反論する余地がないほどの、一から十まで腑に落ちるような正解を感じていた。

「どうして……」

「分かるのかって?」メレディスは少しだけ笑うと、そのまま手元のグラスに視線を落とした。「そのように思っているのは、何も君一人だけではないということだよ。役者という生き物は承認欲求の権化だからね。一人でも多くの人に認知されたいと思うものだ」

「メレディスもそんなふうに思っていた?」

 にこりと営業用の笑みを浮かべるメレディスを見て、これ以上は踏み入らない方がいいのだろうと、希佐は瞬間的に感じ取っていた。

 メレディスは希佐と同じように、あまり自分の過去を語りたがらない。極端な秘密主義というよりも、語る必要性を感じていないだけなのだろう。本当に必要なときは、心の引き出しをそっと開いて、語って聞かせてくれることを希佐は知っている。

「意見を聞かせてくれて、どうもありがとう」

「どういたしまして」メレディスは店主の顔に戻り、品良く黙礼をした。「少しは君のお役に立てたかい?」

「今日は本当にいろんなことがあって」

「分かるよ」

「ざわついた心の整理をしたかったんだ。メレディスのおかげで、自分の気持ちに居場所を見つけられそう」

「それはよかった」

 ゆっくりしているんだよと言ったメレディスにチョコレートのお礼を告げてその場を離れた希佐は、軽く店内を見回してから、ステージ近くの席に向かって歩き出した。そこには、ジョシュアとダブリンからやって来てくれたマシューの姿がある。マシューは近づいてくる希佐の姿に目を留め、軽く手を挙げて応えてくれた。

「劇団の皆さんとはゆっくりお話し出来ましたか?」

「ああ、君のおかげで懐かしい面々と久しぶりの再会を果たせたよ。長年のわだかまりも解くことが出来た。本当にありがとう、キサちゃん」

「私のおかげだなんて、そんな」

「私がここへ足を運んだのは、君からの招待状があったからだと思うけれど?」

「それは──ええ、そうです」

「へえ、珍しい」二人掛けのテーブルで向かい合って座っていたジョシュアが、もったりとしたエールを口に運んでから言った。「キサが食い下がらないなんて」

「オーナーさんには頭が上がらないので」

「ふうん」

 ジョシュアは席を立ち、隣のテーブルから椅子だけを抱えて戻ってくると、丁度二人の中間に希佐を座らせてくれた。

「深く聞いたわけではないけれど、ダブリンでもいろいろあったみたいだね」

「ああ、すまない、キサちゃん。勝手に君の昔の話をしてしまって」

「いえ、大丈夫です。隠すようなことは何もありませんから」

 本当のことを言わないことと、嘘を吐くことはまったく別の問題だと、性別を偽っていた当時は強く自分に言い聞かせていた。そう思うことで罪悪感を和らげていた。だが、今は違う。本当のことを言わないことも、嘘を吐くことも、どちらも同じように苦しい。

『お前は、本当は早く見つかりたいと、そう思っているのではないのか』

 田中右宙為の言葉が脳裏を過ぎる。

 その通りなのだろう。立花希佐は、自らの未来にどのような結末が待ち構えているにせよ、この罪悪感を脱ぎ捨てて、自由になることを求めている。たとえそれが分不相応な望みなのだとしても、自分の人生は自分だけのものだと、そう思いたいからだ。

「そういえば君、彼にmemoryを歌ってあげたんだって?」ジョシュアはそう言いながら、にやりと悪戯っぽく笑った。「録音しておいてくれたらよかったのに。十代最後の歌声だろう? ぼくも聞きたかったな」

「あの歌声は私だけのものだよ」

「ずるい」I’m jelly.と言ってむくれるジョシュアを見て、マシューは苦笑いを浮かべている。「そうだ、ちょっとここで歌って聞かせてごらんよ」

「えっ? 誰が、何をですか?」

「キサが、memoryをだよ」

「……ジョシュア、酔っています?」

「ぼくが酔いどれている姿を見たことがあるの?」

「いいえ」

「心配しなくても、今この店内にあのミュージカルの関係者は一人もいないよ。動画を外部に流出させるような輩もね」そう言うが早いか、ジョシュアは希佐に背中を向け、ステージの方に向き直った。「そこの坊やたち、ちょっとピアノを使わせておくれ」

 希佐の意思を確認することもせず、ジョシュアはそう言いながら、ステージの上でピアノを爪弾いていたノアと、その様子を眺めていたジェレマイアのところへ行ってしまう。小さく息を吐き出し、その後ろを追いかけようと立ち上がった希佐を見上げ、マシューは口を開いた。

「いいのかい?」

「え、何がです?」

「君が今ここで歌うことだよ。彼は相変わらず少し強引なところがあるようだから」

 気遣わしそうにこちらを窺うマシューを見て目を丸くしてから、希佐は口角を持ち上げてやわらかく微笑んだ。良いから歌えとステージに押し上げる者が多い中、このような反応は新鮮だと感じる。

「ここで歌うことには慣れているので、大丈夫です」それでも事の強引さに納得がいっていない様子のマシューを認め、希佐は先を続けた。「それに、オーナーさんには是非とも、今の私の歌を聞いていただきたいんです。もちろん、あの頃よりも上手く歌えるようになった自信はあります。ここに残っていらっしゃる皆さんは顔見知りの方々ばかりなので、この余興を楽しんでくださるはずです」

「君は……」マシューはそう言い淀んでから、いや、と言って首を横に振る。「心して傾聴させていただくよ」

「よろしくお願いします」

 あの頃、希佐はあの歌の歌詞に共感を覚えていた。

 夜の暗闇を友とし、愛していた。

 時に鋭く刺すような月明かりの下で、明日の朝が訪れないことを切に願っていた。

 この夜が明けなければ、慣れない文化の中での日々の生活や、人々との関わりや、この先に待ち構えているであろう展望の見えない未来について頭を悩ませ、苦心せずに済むのにと、そんなふうに考えていた。過去を振り返っては、ユニヴェールでの日々が酷く輝かしく、幸福に満ちたものであったと、そう強く感じていた。

 舞台上で光り輝いていた頃の、美しかった自分はもうどこにもいない。今ここにいるのは、過去の栄光に縋る、かつては美しかったはずの、何者でもない誰かだ。夜は希佐を卑屈にさせた。だが、同じだけ希望を与えてくれることもあった。何者でもない自分と、何者にでもなれるはずの自分の狭間で、立ち往生をしていた。

 何の文句もなく席を開け渡してくれたノアとジェレマイアは、代わる代わるに希佐の肩を励ますように叩いて、ステージを降りていった。向かった先は、根地や更文たちがいるボックス席の近くだ。ノアは根地たちに何事かを話しかけ、こちらの方を指差している。

「キサ」ジョシュアに名前を呼ばれ、希佐はステージに上がった。「途中の別パートはぼくが歌うからね。あとは君の好きなように歌って」

「分かりました」

「相変わらず肝が据わっている」

「チャンスは一つも無駄にしたくないので」

「そうだね」

 あのときは、この歌を自らに言い聞かせるようにして歌った。明日こそは、この夜の闇を超えて、あの眩い朝の光を浴びさえすれば、今日とは違う幸せな一日が始まるかもしれないと思っていた。いつまでも過去の栄光に後ろ髪を引かれているのではなく、今までとは違う新しい人生を始めるべきなのだと、そんなふうに自分の心を慰め、奮い立たせ、旅立たせるための歌だった。

 だが、上手くはいかなかった。旅立った先の新しい土地は、希佐の心をより窮屈にさせた。

 天使の歌声に出会うまで。

 劇団カオスの仲間たちと出会うまで。

 神のみぞ知る、あの舞台を終えるまで。

 グランドピアノの隣に立ち、希佐は一つ、大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

 ロンドンでのすべてはこの場所から始まった。この、他のどのパブよりも居心地の良い、まるで自分の家のように寛ぐことのできる、この店のステージから。

 白田美ツ騎と根地黒門は、希佐がこのパブのステージで歌う動画を見たと話していた。恐らく二人だけではない。その動画はもっと大勢の人々の目に触れているのだろう。

 怖くないと言えば嘘になる。だが、今の自分には、いつだってお前の味方だと言ってくれる心強い仲間がいるのだ。この先の未来に何が待ち構えていようとも、彼らは自分に寄り添っていてくれるだろう。

 だから、もう逃げはしない。

 毅然と頭を上げて、真正面から向き合っていく──そう、決めた。

 立花希佐は今、間違いなく幸せなのだと、そう胸を張って生きていくために。

 

 

 

 少し二人だけで話をしないか──そう言われたのは、希佐が美ツ騎たちを見送るために席を外したときだった。レオナール・ゴダンは、アランの返事を待たずに席を立ち、失礼するよと断りを入れてから、ボックス席を離れていった。

「お友達を放っておいていいの」

「あの子なら上手くやるよ」ゴダンは向こうには声が届かない程度に離れた二人掛けの席に腰を下ろし、アランにも座るように勧めてくる。「彼らが気になるのかい?」

「あまり良好な再会にはならなかったようだから」

「それはそうだろう、彼らの間には五年間の隔たりがある」

「人間は五年もあれば人が変わる」

「君のように?」向かい側に腰を据えたアランを見やり、ゴダンは皮肉っぽく笑った。「数年ぶりに再会した君は、僕が知っているアラン・ジンデルではなくなってしまっていた」

「昔の俺の方が好きだったのなら、そう振る舞うけど」

「確かに、かつての君の方が僕好みではあったよ」ゴダンは膝に置いていたカメラを構え、レンズをこちらに向けてくる。「だからと言って、今の君を好ましく思わない理由にはならない」

「彼らがあなたと同じように思えるとは限らない」

「彼らはまだ若いからね」

「キサはもっと若いよ」

「そこは人生経験の違いだろう。内海で生きてきた者と、外海の荒波に揉まれて生きてきた者とでは、物の見方に歴然とした差が生まれる。彼らは才能豊かな役者であり、将来有望な脚本家なのかもしれないが、何しろそれと比べる母数が少ない。今回の彼らの旅が実りあるものであることを願うよ」

 アランは時々、こうしてこの男の至極残酷なところを目の当たりにする。興味があるものの前では、何色とも形容し難い目を美しく輝かせるが、それ以外のものの前では酷く冷めた目をするのだ。今回はそこまであからさまではないものの、何かに失望したような、寒々とした空気を感じ取っていた。

「レオがそこまでキサのことを気に入っているとは思わなかった」

「そうかい?」カシャリ、とシャッターが切られる。「もしかしたら、彼女は僕の新しいミューズになってくれるかもしれない。そう思いたくなるくらいには、彼女はとても魅力的な人間だ」

「キサはレオを好いてる」

「好かれるように振る舞っているからね」

「彼女を傷つけたら許さないと言ったら?」

 明日の天気を語るような軽い口振りでそう言うと、ゴダンはデジタルカメラの液晶画面を見下ろしたまま、朗らかに笑った。

「今でも僕の優先順位の最上位にいるのは君だよ、アラン」

「どうだか」

「僕は絶対に君のことを裏切らないと約束をしたはずだ。キサがグラスミアまで僕を訪ねて来たときだって、何もかもすべて正直に話しただろう? それに、君が誠実であろうとする相手には、僕も誠実でいようと努めている」

「何もかもすべて正直に?」

「もちろん。キサに秘密にしてくれと頼まれたことは、君にも言うつもりはないが」

「それでいいよ」

 何のために二人だけで話をしようと呼び出したのか、そのまま取り止めのないやり取りを続けている途中、正面にいるゴダンがアランの背後に視線を滑らせた。次いで、すぐに自分の名を呼ぶ声が聞こえてくる。アランが肩越しに後ろを振り返ると、そこには加斎中とダンテ軍平の姿があった。

「お話のところ、すみません」

「いや、構わんよ」ゴダンは椅子の背もたれに身を預け、そっと手の平を見せる。「どうぞ」

 加斎はゴダンに向かって礼儀正しく会釈をしてから、アランの方に目を向けた。

「俺たち、数日中には荷物をまとめて、イギリスを発つことにしました」

「そう」アランはだらしなく丸めていた背中を伸ばし、座った格好のまま加斎とダンテを交互に見やった。「ブロードウェイに戻るの」

「はい。今夜の立花を見ていたら、居ても立ってもいられなくなって。時間を無駄にしているつもりはないんですけど、俺たちはもっと自分を追い込むべきだって、そういう結論に」

「ふうん」

「Mr.ジンデルにはお世話になったので、こうしてご挨拶に伺いました」

「別に世話をした覚えはないけど、まあ、何か困ったことがあったら連絡して。コネを使うのが嫌じゃなかったら、向こうには何人か知り合いがいるし、紹介する」

「バージルもそう言ってくれました」加斎はそう言いながらにこにこと笑う。「実は俺たち、アメリカに戻ったらリオも含めて三人でルームシェアをするんですけど、バージルが向こうの持ち家を格安で貸してくれることになったんです」

「よかったな」

「僕たちの健闘を祈っていてくださいね、アラン」ダンテは茶目っ気のある口振りでそう言い、魅力的に片目を瞑った。「希佐にも負けないくらいの、ビッグな役を射止めてみせますので」

「吉報を待ってる」

 加斎くんがいてくれたから、私は海外に目を向けてみようと思えたんだ──そう言っていた希佐の言葉を思い出す。だがしかし、現実を突き付けられた希佐が、次の舞台を最後に役者を辞めるという決断に至らせた張本人も、この加斎中だ。

 遅かれ早かれ、立花希佐はユニヴェール時代を知る誰かに見つかっていたはずだ。けれど、その最初の人物がこの溌剌とした好青年で良かったのではないかと、アランは思っている。

「スペンサーとは話したの」

「もちろん、一番に」

「そう」

「希佐がどこへ行ったか知りませんか?」

「彼女なら店の外までミツキたちを見送りに行ってる。そろそろ戻ってくると思うけど」

「俺たちも出るところなので、外で声を掛けてから帰ります」

 加斎とダンテは別れを惜しむでもなく、今度の舞台は必ず観に来ると言い残して、アランの前から去っていった。出入り口付近にある席にいたバージルとリオに声を掛け、そのまま足を止めずに店の外へと出ていく。彼らの今後の展望は明るそうだと感じるのは、別れを語るその姿や、立ち去る背中に悲壮感を覚えないからなのだろう。

「つい先程、彼らが僕たちのいるボックス席までやって来て、コクトーたちと一緒に学生時代のキサの話をして聞かせてくれてね。それをスペンサーがとても喜んでいたよ」

「スペンサーはキサのことが分からないってよく嘆いてる」

「それが彼女のいいところだろう?」

「演出をする以上は役者としての特性を把握しておきたいらしい」

「君は彼女の特性を把握しているのかい?」

「いや」

「今日一日、キサを観察していて感じたのは──」ゴダンが言う観察は、間違いなく言葉通りの意味の観察なのだろうと、アランは思った。「やはり掴み所がないということだ。彼女は誰に対しても裏表がない上に、自分を取り繕ったりもしない。自分は自分だという確固たる信念もある。それなのに、彼女は相対する者に不快感を与えることがほとんどないんだ。むしろ、彼女が隣にいると心地良さすら覚える。一見すると、ただの八方美人と受け取られかねないのにね。そんな彼女に対して負の感情を抱く者も多かれ少なかれいるのだろうが、眩い光の周囲には常に羽虫が集うものだ」

「その物言いはどうかと思うけど」

「僕の世界は美しいものとそれ以外のものとで二分されているんだよ」

「価値観の問題?」

「その通り」

 レオナール・ゴダンは醜さの中にも美しさを見出せる芸術家だ。外面だけで物の美醜を判断できないことを知っている。どれだけ見てくれが良くても、中身が伴っていなければ、ゴダンはそれを醜いと断じるのだろう。

「彼女を疎ましく思う者は恐らく、かつては、もしくは今まさに、彼女のようになりたいと願って止まない者なのかもしれない。彼女はまさに物語の主人公だよ。舞台の上でも、そうでない場所でも、常に人々の輪の真ん中にいる。僕は彼女のようになりたいと願う若者を大勢この目で見てきたが、彼らは誰も理解していなかったよ。彼女のような人間は、そうした特性を生まれながらにして獲得しているということをね。彼女は脇役たり得ない人生を歩むよう宿命づけられている。それが幸せなことなのかどうか僕には分からないが、君になら分かるのかもしれないね、アラン・ジンデル」

「……あなただって俺たちと同じだ」

「いいや」ゴダンは朗らかに笑ったまま続ける。「僕が手にしている栄光は所詮、親の七光りから得られたものに過ぎないよ。写真家や映画監督を名乗る者は大勢いる。今はこうした一眼レフやスマートフォンが一台あれば、誰でも写真や映画を撮影できる時代だ。SNSや動画投稿サイトを見てごらん。あそこには素晴らしい作品がごろごろと転がっているが、評価されるのはその中のほんの一握りだ。才能ある人間は大勢いる。彼らに最も必要なものは、時の運だ。或る瞬間、居るべき場所に居ること。出会うべき誰かと出会うこと。話すべき言葉を話すこと。成功を掴みたければ、たった一つの選択も誤ってはいけない。逆に言えば、成功を掴む者は、こうした日々の選択を誤らないということだ。まあ、これはどの世界に身を置いていても言えることだね」

「身につまされるよ」

「君は自分が舞台から降りたことを誤った選択だったと思っているのかい?」何も答えようとしないアランを見て、ゴダンはやわらかく目を細めた。「僕は君が正しい選択をしたのだと、あの映画で証明して見せたつもりだったのだが」

「そうしてあなたが肯定する世界と、誰かが否定する世界が同時に存在していることについては、どう考えているの」

「ふむ、それは実に難しい質問だね」時間稼ぎをしているとしか思えない呟きを漏らしながら、ゴダンは自分の顎を撫でている。「だが、それはもはやどうすることもできない問題なのではないかな? 人が生まれてくる場所を選べない以上、この世は皆平等に不平等だ」

 人生は一度きりのものだ。他人の人生に干渉する暇があるのなら、自分の人生に目を向けるべきだとアランは思う。失われた時間は二度と戻らない。アラン自身が、誰よりもその現実を痛感しているからこそ、そう強く思うのだ。

「僕は恵まれた家庭に生まれた。そのおかげで、多くの人よりも早くスタートラインに立つことができた。だが、誰かはそれを不公平だと言う。早く始めた者の方が優位だと言いたいのだろうね。こちらの業界も似たようなものなのではないかな。例えば、バレエダンサーの家庭に生まれれば、幼少期から英才教育を受けることができる。だが、それは果たして幸せなことなのかな。将来の選択肢が狭められ、親から強要されたダンスを嫌でも踊り続けなければならない人生を強いられる者を、僕は幸せだとは思えない。もちろん、その子がダンスを愛していて、両親とも利害が一致しているのなら、それは願ってもないことなのだろうが」

 確かに、この世界では親の意向で演劇やダンスを始める者は少なくない。両親がエンターテイメント業界に属していなくても、自らの子供をスターに仕立て上げようとする者もいる。子供はわけが分からないまま始めさせられ、物心がついた頃にはもうそれが当然のこととなり、疑問を持つこともしなくなった、という話はよく聞くことだ。それが大成すればいい。だが、そうならなかった者の末路はあまりに悲惨だ。

「誰もが平等な世界などただのディストピアだ。僕は一生を幸福に過ごすよりも、山あり谷ありの人生を歩んでいきたいと思う。困難は試練だと表現する者もいるが、僕に言わせればちょっとした余興のようなものだよ。アクシデントのない人生なんて退屈なだけだろう?」

「レオはマゾヒストだから」

「否定はしないよ」ゴダンはくつくつと笑った。「僕は自分の人生を自分の足で歩いている人が好きなんだ。それが前向きだろうと、後ろ向きだろうとね」

 アランと機嫌良く話していたゴダンは次の瞬間、おや、という顔をしてカメラを構えた。レンズはアランに向いていない。反射的にカメラが向けられている方へ顔を向ければ、そこにはバージルと希佐が程近い距離感で話しているのが見えた。

「あの子は本当に良い表情をする」

 ゴダンはデジタルカメラでもたくさんの写真は撮らない。何枚か撮影し、すぐにカメラを下ろす。以前、ダイアナを手伝うために雑誌の撮影現場に同行したことがあったが、そこにいたカメラマンは着飾ったモデルの姿を、何千枚と写真に収めていた。その中から最も見栄えの良い一枚を選び、それが雑誌へと掲載される。

 その話をしたとき、ゴダンは「良い時代になった」と話していた。昔は現像するまで写真の出来栄えを確認することができなかった。今はフィルム代が掛からなくなって、大幅にコストが削減されている。自分はアナログが好きだから続けているだけで、別にデジタルを忌み嫌っているわけではない。おもちゃとしてはもってこいだよ、と。

「コクトーはこの国で自由に伸び伸びと暮らすキサのことを快く思ってはいなかったようでね」

「だろうね」

「僕が偶然セント・パンクラス駅で撮影した動画を送ったら、それを見たあの子は酷く動揺していたよ。コクトーはその動画を目にする瞬間まで、キサを良心の呵責に苛まれて日本を出て行かざるを得なくなった可哀想な子だと信じていた。それなのに、あんなふうに歌で喜びを体現する彼女を見て、怒りが込み上げてきたようだ」

 希佐がユニヴェールのことを語るとき、そこにはいつだって、感謝や尊敬の念が込められていた。何かを悪く言ったことなど一度もない。根地黒門が書いたという舞台演出家の脚本を大切にし、その他の舞台脚本も自分で書き起こすほどの愛着を覚えている様子だ。あの手首に巻いていた色褪せたミサンガだって、希佐は今も大事にしている。

「だが、今夜のキサの活躍ぶりを見て、あの子はどうやら認識を改めたようだね」テーブルに頬杖をつき、ゴダンは向こうのボックス席の方を見やった。「人は圧倒的な才能の前ではあまりに無力だ」

「もう一人の方はあんまり良い感情を持ってはいないようだけど」

「ああ、フミかい?」ゴダンは僅かに眉を持ち上げ、姿勢を正した。「彼のあれは一体どんな感情なのだろうね。怒りにも似た何か──いや、やはり嫉妬かな。前にキサがフミについて話してくれたことがあったが、彼女はフミをとても尊敬していたようだよ。いつまでも自分の前を走り続けていてくれる人だと」

「ふうん」

「逆転現象が起こっているのかもしれないね」

「キサが彼の前を走り出した」

「自分の方がより優れていると思っていたら、急に足元を掬われたわけだ」ドラマがあると言って、ゴダンはその他人事を面白そうに笑う。「今後の進展に期待しよう」

「あまり突き回さないで」

「キサが心配かい?」肩を竦めるアランを見て目を細め、ゴダンは次いでステージの方を見た。「確かに危うさを感じさせる子ではある。だが、何度奈落の底に突き落とされたって、舞台のためなら自力で這い上がってくるような、そんな気骨のある子でもあるだろう? 彼女は自らの過去から逃げることをやめた。だったら、彼らとも向き合っていかなければならない」

「キサなら迷わず正面から向き合うよ。そんなことは分かってる。だから心配なんだ」

 誰かと真正面から向き合おうとすることで、希佐は多くのことを抱え込むだろう。自分のことを棚上げにしてでも、誰かのために、何かをしてやろうとする。共倒れするかもしれないというときですら、希佐はアラン・ジンデルに救いの手を差し伸べたのだ。自分のことだけで精一杯という状況下にあっても、希佐は目の前にいる迷える誰かを無視することができない。

 きっと、日本から来た彼らが立花希佐に何かを要求するのであれば、立花希佐は全力でそれに応えようとするのだろう。そうすることが自分自身に課せられた贖罪だとでもいうふうに。

 口を噤んだアランをじっと見つめていたゴダンは、間を置いてから穏やかに笑った。

「僕も君に心配されたいものだ」

「酒を控えて、長生きして」

「もう一度君の脚本で映画を撮るまでは死ねないよ」

「脚本を書かなければ永遠に生きていてくれるの」

「永遠には生きられないが、君の瞼が永遠に閉じられるその瞬間までは、君の記憶の中で共に生き続けることを約束しよう。君が僕の存在を忘れたければ話は別だがね」

 人はあっという間に死んでしまう。体を患えば日に日に衰え、痩せ細り、自力では起き上がることすらままならなくなる。食事を口に運んでも飲み込むことができない。呼吸をすることすら苦痛そうだった。それでも延命を望んでしまうのは、一分、一秒でも長く、共に生きていたいという健康な者のエゴなのだろう。本当に愛しているのなら、その延命装置の電源を切り、苦しみから解放してやればいいのにと、かつてはそんなふうに思っていた。

 だが、今ならば、分かるような気がする。

 大切な人の死を受け入れられない、その気持ちが。

「おや」希佐の動向を窺っていたゴダンが、ステージの方を指す。「何かはじめるようだよ」

 ステージ上、ピアノの前には既にジョシュアが腰を下ろしていた。それを追い掛けるように、階段に足を掛けている希佐の後ろ姿が目に入る。ステージ下の席には、希佐がダブリンで世話になったというマシュー・コーヘンの姿があった。

 ピアノの隣に立ち、真剣な様子でジョシュアと話をしている希佐の横顔を見つめながら、アランは小さく息を吐き出した。Catsのmemory──希佐が自分から言い出すとは思えないので、ジョシュアが歌うように仕向けたのだろう。

『キサにはもっと場数を踏ませた方がいいと思っていたんだよね』チャリティーイベントの出演を決めたときに、ジョシュアが言っていた。『更なる自信をつけてもらうためには、実感が必要なんだ。彼女の歌は人に聞かれてこそ磨かれる。歓声があの子をより一層輝かせるのさ』

 希佐が自己満足のために舞台に立ち続けるのなら、それでよかった。自分が立つ舞台を好きに選び、疲れたら休んで、また次の舞台に立つ。

 立花希佐は舞台の大きさなど少しも問題視していない。数十人、数百人規模の小劇場だろうと、ロイヤル・アルバートのような巨大なホールだろうと、心持ちに違いは生まれない。権威あるホールでも、場末のパブのステージでも、希佐にとっては同じ舞台だ。目の前にたった一人でも自分の歌を聞いてくれる客がいれば、希佐は全身全霊で歌うのだろう。アラン・ジンデルの前で、舞台演出家の脚本を演じてみせたときのように。

 次の舞台も、今こうしてヘスティアのステージに立つのも、希佐にとっては同じ意味を持つことなのだ。それは自分自身の存在意義を確かめる行為であると同時に、それを見聞きした者の頭の中に鮮烈な記憶として住み着いて、自分は確かに存在したのだという証を立てている。

 もし何十年もの時が過ぎ去って、立花希佐という役者の名前が忘れ去られたとしても、あの舞台で歌い、踊り、演じ、光り輝いていた役者がいたと、そう永劫に語り継がれるのであれば、役者冥利に尽きるに違いない。

 名前も、性別も、国籍も、肌や目の色も関係ない。

 舞台の上に今を生きる人間がいる。

 向かい側の席を横目に見やるが、ゴダンはカメラを構えてはいなかった。ただ、ステージ上で歌う希佐の姿を真っ直ぐに見つめ、穏やかな面持ちを浮かべている。何か思うところでもあるのか、何やら満足げな顔にも見えた。

「何を考えてるの」

「何だと思う?」

「あまり良いこととは思えないけど」

「そう悪いことでもないさ」

 ゴダンに希佐を紹介したことは後悔していない。アランはゴダンを信頼しているし、ゴダンとの出会いは、希佐の人生の選択肢を何倍にも広げてくれるはずだと信じている。もしも自分との関係が切れたとしても、レオナール・ゴダンならば、立花希佐を支援し続けることだろう。

 希佐が歌うOn My Ownを聞いたときは、酷く心を打ちのめされた。だが、もしかしたら今度は、このMemoryを聞いているあの青年が、あのときの自分と同じように打ちのめされているのかもしれないと、アランは思う。

 歌が終われば、店内には拍手や、口笛や、二人を称える「bravi!」の声が上がった。

 希佐は恥ずかしげに微笑んだかと思うと、小さく首を竦めながら、傍らにいるジョシュアの話に耳を傾けている。音を大きく外したわけではないが、喉が疲労しているのだろう、後半は少しだけ締め上げるような歌い方をしていた。その注意を受けているのかもしれない。だが、それを差し引いてもあまりある歌声だった。

 箱の中に閉じ込めておくには惜しい歌声だ。

「そうだ」そう言うゴダンの声を聞いて、アランはステージに向けていた目をテーブルに戻した。「実は、写真展に並べる作品が、何だか少し物足りなくてね」

「ふうん」

「昔の作品もいくつか展示するつもりではいるのだが、大部分は新作を発表する形で準備を進めているんだ。正直な話をすると、グラスミアで撮影したキサの写真を使わせてもらいたいと思っている」

「本人には言ったの」

「いや、まだだよ。彼女には契約の問題もあるからね」

「……まさか」アランが不快感を表すように眉を顰めると、それとは対照的に、ゴダンはにこりと笑ってみせた。「レオがあの女を支持するなんてどういう風の吹き回しかと思っていたけど、そういうこと」

 要は、自らの利益のためならば、多少の負の感情に蓋をしてでも、クロエ・ルーへの後押しを惜しまない選択をしたということだ。例えば、希佐が件のプロデューサーが提示した契約から解放されれば、ゴダンはグラスミアで撮影した写真を展覧会で使用することができるようになる。

「妬いているのかい?」

「別に」

「支援を快諾したのは君のためでもあるのだけれどね」

「それはどうも」

「久しぶりに絵を描こうと思うんだ」何の脈絡もないその言葉に、アランは思わず目を丸くする。「モデルになってくれないかな」

 一見すると、ゴダンはにこにこと穏やかに笑っているように見受けられるが、その目は至って真剣そのものだった。冗談を言っているような口振りでもない。ふう、と息を吐き、アランは言葉を選びながら口を開いた。

「それこそどういう風の吹き回し?」

「父への餞にね。彼の死期が近いんだ」

「どうして俺なの。本人の肖像画を描いてあげた方がいいと思うけど」

「父は僕を褒めてくれたことがなくてね。どんな自信作も、まだまだだとか、まあまあだとか、そんなふうにしか言ってくれない。でも、斜陽の雲だけは手放しに褒めてくれたよ。特に脚本が素晴らしいと言ってね。父はいつか君に会ってみたいと話していた。ロンドンに来る予定もあるにはあったが、病気が進行してしまって長距離移動に耐えられない。君が父に会いにフランス下りまで足を運んでくれるのならこの問題は解決だが、それは無理な話だろう?」

「それならビデオ通話でもいいはずだ」

「僕の実家がどれほど辺鄙なところにあるか教えてあげようか?」

「……」

「頼むよ、アラン」

 自分の倍以上は生きているはずのこの男はときどき、捨てられた子犬のような目でこちらを見てくることがある。これが演技であることは明白で、自らの言葉に従わせるための魂胆であることは十二分に理解しているのだが、毎度抗うことができない。孝行するべき父親がおらず、何ならこの男を父親を慕うように思っていることが、正しい判断能力を低下させている所以に違いなかった。

「悪いけど暇じゃないんだ」

「あまり時間は取らせないよ。一日一時間くらいかな」

「これから毎日レオの家に通えって?」

「僕のお喋りに付き合うくらいの感覚で来てくれたらいい。アメリカに戻ったらまたしばらくは会えなくなるのだから、いいじゃないか。座りながら仕事をしていても構わないよ」

「……」

 普段のゴダンは決して他者に無理強いをすることはない。自らの意のままにしようと口先で誘導することはあっても、ここまで食い下がること自体が珍しい。アランは思わず口を噤み、ゴダンの目を見つめ返した。この流れは良くないと思いながら否定の言葉を探していると、ステージを降りた希佐が、こちらへとやって来るのが視界の端に映り込む。

「キサの前でその話はしないで」

「どうしてだい?」

「賛成するに決まってるから」

「確かに、そうだろうね」ゴダンは口元を押さえながら、くつくつと声を押し殺すようにして笑った。「良い返事を期待しているよ、アラン・ジンデル」

 アランの元にやって来た希佐の顔には、先程よりも濃い疲労の色が浮かんで見えた。いつものように歌を聞いてくれたかと訊ねてくることもなく、後ろを歩いてくるジョシュアとマシューを振り返っている。

「二人ともお帰りになるって」

「そう」

「お話中にごめんなさい、レオ」

「いや、話なら今済んだところだよ」ゴダンはそう言い、テーブルに手をついて立ち上がったかと思うと、希佐に空いた席に座るよう示した。「さて、我々もそろそろお暇するとしようかな」

「タクシーをお呼びしますか?」

 希佐がそのように問いかけるのを聞き、ゴダンはやわらかく微笑みながら首を横に振っている。希佐のことを本当に気に入っていると分かるのは、その表情や態度、言葉の端々から、相手の思いを尊重しようとする意思を感じられるからだ。

「近いうちにアランと二人で僕のアトリエまで遊びにおいで。グラスミアで撮影した写真を一緒に見よう」

「はい、是非」

「待っているからね」

 そう言って希佐の肩に手を置いたゴダンは、アランに向かって軽く目配せを送ってから、連れが待つボックス席へと戻っていった。自分の隣を通り過ぎていくゴダンの姿を、明け透けな眼差しで見ていたジョシュアだったが、マシューが小さく咳払いをすると、素直に顔をこちらに向ける。

「いやあ、なんていうか、恐ろしく色気のある人だね」ジョシュアは感銘を受けたように言った。「オーラがあるって、ああいう人のことを言うんだろうな。周りとは存在感が違うもの」

 僕は至って普通のおじいさんだよと、ゴダンなら言うのだろう。老い先短いと冗談のように言うことも増えたが、周囲の目には若く映る。九十を超える父親は未だ現役だと聞いていたが、体を病に蝕まれては、ゴダンの言う通り先は長くはないのかもしれない。

「今日はとっても楽しかったよ」

「そう」

「ぼくはもうそちら側の世界に戻りたいとは思わなくなったけど」ジョシュアは少しだけはにかむように笑い、小さく肩をすくめた。「今夜は少しだけ羨ましくなった」

「君ならいつでも歓迎される」

「お世辞だとしても嬉しいよ」別れの挨拶をしながらハグをする希佐とマシューの様子を横目に見ていたジョシュアは、アランを見上げて軽く手を挙げる。「じゃ、またね」

「ああ」

「お会いできてよかったです、Mr.ジンデル」

「こちらこそ」マシューが差し出した手を握り返し、アランは目礼する。「またいつでも遊びにいらしてください」

「ええ、いずれまた」

 再び外まで見送りに出て行こうとする希佐を制し、二人は揃ってスマートフォンの画面を覗き込みながら店を出ていった。最後にこちらを振り返ったマシューに向かって手を振り、ふう、と無意識に息を吐いた希佐は、そのまま椅子に腰を下ろす。

「俺たちも帰ろう」

「うん、そうだね」

 向かい側の席に座りながら、アランはスマートフォンのアプリでタクシーを手配した。疲れ切っている一日の最後に全身全霊で歌った弊害だろう、その目は酷く眠たげに瞬かれている。

「キサ」

「ん?」

「眠いの」

「大丈夫だよ」

 何かを求められると嫌とは言えず、必ずや期待に応えたいと考える心意気は立派だが、大切な誰かの身を案じるように、自分のことも大事にしてほしいとアランは思う。だが、そういう人間だからこそ強く惹かれ、愛おしく思うのもまた事実だ。

 そのとき、こくり、と希佐の頭が大きく船を漕ぐ。アランは咄嗟に腕を伸ばし、テーブルに打ち付けられそうになった頭を手の平で支えた。安堵の息を吐き出し、希佐の頭を支えたまま席を立つと、その細い体を膝に抱えて椅子に座り直す。希佐はアランの首筋に鼻筋を寄せ、恐らく無意識に、頬を擦り寄せてきた。

『おやおや』結い上げられていた髪を解き、手櫛で梳いてやっているところに、ルイと妻のディナが腕を組んでやって来る。『こんなところで眠ってしまったのかい? ベーべちゃんだね』

『あまり見ないでやって』

『ルイ、ジャケットを貸してあげたら?』

 アランはmerci.と言いながら、差し出されたルイのジャケットで、希佐の体をすっぽりと覆った。念の為に額に唇を押し当ててみるが、今のところは発熱の兆候はないようだ。

『平気かい?』

『タクシーを呼んだから、このまま抱えて帰る』

『わたしたちも一緒に行きましょうか?』

『いや、大丈夫』

 ブブブ、とポケットの中のスマートフォンが微かに振動した。タクシーが到着したのだろう。アランは希佐の体を軽々と抱えたままゆっくりと立ち上がり、そっと抱え直した。すると、その様子を見ていたらしいカオスの面々が、続々と集まってくる。

「キサの寝顔、癒される〜」

「ノア」

「何だよ」

「怒るよ」

 希佐の頬を突こうと指を伸ばしているノアの手首を掴み、イライアスは背筋の凍るような冷めた眼差しを向けている。ノアは「こわぁ」と漏らしながらくすくすと笑い、降参するように両手を挙げていた。

「二人だけで大丈夫か?」

「うん」

「そうか」バージルは多くを言わず、あの女がいる方を一瞥してから、もう一度アランを見上げた。「気をつけて帰れよ」

「なら、オレらも一緒に出るか」

「そうだね」ジェレマイアの提案に、ノアはこくりと頷く。「イライアスはどうする?」

「帰る」

「んじゃ、途中まで一緒に帰ろっか」

 もう少し残るというバージルに諸々への挨拶を託し、夫妻に感謝の言葉を伝えてから、アランは希佐を抱えたままヘスティアを後にした。

 その様子を見て他の連中がどのような顔をしていたのかは知らない。牽制と捉えられても構わないと思った。ここではまだ、限界間際の体を引きずってやって来るのが自分の隣だということに、アランは人知れず安堵していた。

「今夜はゆっくり休めよ」

「君たちも」

「明日の後片付けは無理に出てこなくても大丈夫だからね」

 タクシーのドアを開けてくれたイライアスは、二人分の体が後部座席に収まったのを見届けると、おやすみなさい、と言って静かにドアを閉める。アランが運転手に行き先を告げると、タクシーは滑るように発進した。バックミラー越しに見えた三人は既に、反対方向に向かって歩き出していた。

「……アラン?」

 膝に抱えられた格好のまま眠っていた希佐の意識がぼんやりと覚醒した。未だ夢現の中にいるような微睡んだ声で名前を呼ばれ、微かに甘い眩暈を覚える。

「なに」

「どこに向かっているの?」

「俺たちの家」アランがそう答えると、希佐は目を閉じたまま、ふふ、と穏やかに笑った。「何を笑ってるの」

「私がアランを幸せにしているんだって、バージルが言ったんだ」

「へえ」

「アランが私を幸せにしてくれていたんだって、改めて分かったの」

「そう」

 幸福を享受することは恐ろしい。一瞬でも気を抜けば永遠の幸福を望んでしまいそうになるからだ。それを失った自分の姿を想像すると、それ見たことかと、後ろ指を差してやりたくなる。分不相応な望みを掲げるから、そんなふうに惨めな姿を晒すことになるのだと。

 だがしかし、幸せというものはもしかしたら、それを手放したときにこそ強く実感するものなのかもしれないと、アランは思う。幸せとは舞い込んでくるものであって、無理矢理に掴み取ろうとするものではないのだということを、この数年で知れたような気がしていた。

 幸せを幸せのまま享受できる──それは、この上なく幸運なことなのだ。

 到着する頃には再び寝落ちてしまった希佐の体を抱え、アランはタクシーを降りる。

 先程まで降っていた雨が乾き切っていない道路は、街灯と月明かりに照らされて銀色に輝いて見えた。濡れたアスファルトと湿り気を帯びた空気の匂いに、今は不思議と不快感を覚えない。

 タクシーが目の前から走り去るのを待ちながら、アランはポケットからスタジオの鍵を取り出した。ずるりと滑った希佐の体を抱え直し、車通りのない道を渡る。この辺りは昼間でも静かな住宅街だが、夜になると一層ひっそりと静まり返るのだ。

 希佐の体を片腕で支えながら、素早く鍵を開ける。足を使って押し開き、体を滑り込ませてすぐに鍵を掛けた。すやすやと寝息を立てる希佐をハンモックに下ろしてやり、一息吐きながら肩を大きく回す。寒そうに身震いをして自らの体を抱く仕草に目を細め、キサ、と呼びかけると、小さく呻くような返事があった。

「家に着いたよ」

「ん」

「起きてるの」

「……」

 先程よりも明らかに呼吸が浅い。今度こそ目を覚ましているはずだ。甘えているのか、恥ずかしがっているのか──希佐なら後者だろうと思いながら顔を覗き込もうとすると、腕で顔を隠されてしまった。

「キサ」

「……恥ずかしい」

 I'm embarrassing──消え入りそうな声でそう言うのを聞き、アランは思わず吹き出すようにして笑ってしまった。それを非難するように唸る希佐の隣に寝転ぶと、ハンモックが大きく揺れる。腕の隙間からこちらを覗き見る目と視線がぶつかった。

「何が恥ずかしいって?」

「どうしようもなく眠たくて」こそこそと内緒話をするように、希佐は小さな声で話す。「気づいたらタクシーの中だったの」

「うん」

「私、ここまでアランに抱えられて帰って来た」

「そうだけど」

「いつもそんなふうだって思われてしまったら、どうしよう……」

「それは誰のことを言っているの」

「ヘスティアにいた人たち」特定の誰かの名を口にするわけでもなく、希佐は続けた。「お酒に酔って潰れたように見えたと思う?」

 あのとき店内に残っていた者らは、誰一人として、立花希佐が酒に酔い潰れたなどとは思ってもいないだろう。彼らは希佐が朝から晩まで動き回っていたことを知っている。特にここ数日はほとんど休みもせずにチャリティーイベントの準備を手伝い、他の出演者の面倒も積極的に見てやっていた。

「君は疲れてる」アランは希佐の手を掴み、指先に唇を寄せながら言った。「そんなことはみんなが知ってる」

「疲れているのは──」

「自分だけじゃない」先回りをしたその言葉を聞いて、希佐は僅かに眉を顰めた。「今日は俺も疲れたよ。他の連中も同じだ。疲れているから余計なことを考える。風呂に入って、さっさと休もう。朝になれば少しは気分も晴れる」

 アランはそう言って希佐の額にキスをすると、先にハンモックから起き上がった。後ろを振り返れば、ハンモックの上で上半身を起こした希佐が、こちらに向かって両腕を伸ばしている。

「Pick me up.」

 肩の上に乗っていた髪の毛が、ゆっくりと、ほどけるようにして落ちていく。出会った頃よりもずっと長くなった髪が、共に過ごして来た日々の長さを物語っていた。こういう物言いが正しいのかは分からないが、希佐はあの頃よりも女性らしく、たおやかで、より大人っぽくなった。

 毎日一緒にいるからこそ、日々の中にあるほんの微かな変化を見逃してしまう。一生懸命に見つめていても、昨日と今日、今日と明日の違いを見つけることは難しい。だが、それが一週間ならば。一ヶ月、半年、一年だったなら。

 アランは希佐がユニヴェールで過ごした三年間を、ダブリンで過ごした二年間を知らない。だがしかし、このロンドンで共に過ごした三年間のほとんどを知っている。

 それだけでいいのだと、自らに言い聞かせるようにして思った。

 アランはこちらに向かって両腕を伸ばしている希佐の脇に手を入れ、子供を抱き上げるようにして自らの胸に抱き留めた。すると、希佐はアランの首に両腕を回し、両足を体にきつく絡めて、しがみつくように体を寄せてくる。

「……私ね」

「ん?」

「私、今がすごく幸せなんだ」耳元で囁かれる希佐の掠れ声が、アランの鼓膜をくすぐるように引っ掻いた。「この幸せがいつまでも続けばいいのにって思うくらいに」

 この瞬間、自分たちは間違いなく終わりに向かって歩き出しているのだということを、アランは改めて思い知らされていた。

 最初から終わりを見据えた関係だったはずだ。だからこそ、互いを名前のある関係性に当て嵌めず、恋人としての始まりを避け続けてきた。始まりがなければ、終わることもないのだと信じていた。

 だが、いつか必ず訪れる終わりのその先では、自分たちはこれまでと同じように、こうして肌を寄せ合える関係で居続けることはできない。周囲には、今までと変わらず仲の良い友人同士だと、そう説明することになるのだろう。もう二度と、以前のようには戻れないというのに。

 何があっても、どんなことが起こっても、自分は彼女にとって特別な存在であるという証が欲しいと、アランは思った。宝石や指輪を交換することや、体を重ね合わせること以上に、もっと深い約束が欲しいと。

『彼女を繋ぎ止めておきたいのなら、プロポーズでもすればいい』

 もし今ここで、君と結婚したいと伝えたら、希佐はどんな顔をするのだろうかと、アランは考える。下手をすれば、日本からやって来たかつての恋人の存在に焦燥感を覚え、そんな世迷い言のような、血迷ったことを口走っているのだと、そんなふうに思われてしまうかもしれない。

 もし本気で受け取られたとしても、それは出来ないと、そう断られてしまったらと思うと、胸が押し潰されるような痛みを覚える。希佐は、結婚を申し込まれ、それを断った相手とは一緒に暮らせないと考え、今度こそこの家を出ていく準備を始めるに違いない。

 今のまま。

 このまま。

 どうか、最後のその日が訪れるまでは、恋人のように振る舞うことを許してほしい。君に一番近い場所で、愛していると囁かせてほしい。それ以外のことは、多くを望まないから。だからどうか、この先もずっと、この最愛の人が幸せであれと、アランは強く願う。

「キサが幸せなら、俺も幸せだよ」

 真っ暗なスタジオの中、蔦越しに入り込んでくる街灯と月明かりが、まるで木漏れ日のように木の床を照らしていた。辺りには何の音もなく、互いの息遣いだけが近くに聞こえている。

 この人が隣にいてくれる人生は、きっと幸福に恵まれ、つつがなく、健やかに終わりを迎えられるのだろうと、容易に想像することができた。

 だがしかし、そうした普通の生活というものは間違いなく、才能を停滞させる。甘ったるい幸せは足元の地面をどろどろに溶かし、泥濘に嵌まらせ、考えることを止めさせる。今、この瞬間がずっと続けばいい──その言葉は思考を鈍らせ、本当に正しい選択の邪魔をする。

 アラン・ジンデルは才能の翳りを待ち望んでいた。頭の中に虫のように湧いてくる着想を吐き出し続けていれば、いずれ枯渇する日がやって来るはずだと、そう信じていた。ようやく、その翳りが見えて来たところだった。すべてを穏やかに、緩やかに終わらせられるはずだった。

 それなのに、舞台上で浴びるスポットライトの光があまりに眩しいから。観客の視線が焦げ付くように熱いから。自分ではない誰かを演じていたあの頃の喜びを思い出してしまったから。

 どちらか一つしか選べないのだとしたら、ただ連綿と続くだけの幸せに手を伸ばすことはしないだろうと、アランは思った。苦難が好きなのではない。だが、苦難のない世界は退屈だ。退屈なだけの世界に身を置いていると、生も死も、どうでもよくなってくることを、アランは知っている。きっと、希佐も同じはずだ。

 好きだから、愛しているから、この人とは一緒にはいられない。お互いのためには別れるしかない。そんな脚本を書く者の心理が、アランには到底理解できなかった。しかしながら、世の中にはそうすることでしか解決できない問題も、間違いなくあるのだということは分かった。

 アランの肩に頬を寄せていた希佐が身を起こす。間近から顔を覗き込み、目を見つめながら徐に口を開いた。

「……何を考えているの?」

 今の思考を余すことなく伝えようと思ったら、あっという間に朝を迎えてしまうだろう。もしかしたら、それでも足りないかもしれない。

 アランは希佐の唇にそっとキスをすると、その体を抱きかかえたまま、事務室に向かって足を踏み出した。

「レオに絵のモデルになってくれないかって頼まれた」

「え、写真ではなくて?」暗がりの中で頷くアランを見て、希佐はほんの僅かに眉を顰めた。「確か、レオのお父様が写真の他にも絵を描かれていて──」

「その父親が病床に臥していて、もうあまり長くはないらしい」

 開け放ったままにしていた扉を抜けて、散らかった事務室の暗闇の中を、記憶だけを頼りにして縫うように進んでいく。降りると言う希佐の言葉を無視し、その体を抱えたまま階段を上り切ったところで、足先からゆっくりと降ろしてやった。

「その父親に俺の絵を描いて贈りたいって」

「どうしてアランの絵なの?」

 希佐が壁にある電気のスイッチを押しながら言う。その尤もな疑問に、ゴダンが言った通りの言葉で答えると、希佐はキッチンに立って手を洗い、うがいをしてから口を開いた。

「理由は分かったけれど」そう言って、自分の隣でがらがらとうがいをしているアランを見上げる。「アランはどう思っているの?」

「どうって?」

「レオは本来の目的を別の理由ではぐらかすことがあるでしょう?」希佐があまりに的を射たことを言うので、アランは二度目のうがい用に口に含んだ水を、思わず飲み込んでしまった。「お父様のためにアランの絵を描きたいというのは本当だと思う。だけど、本来の目的はそうではなくて、あなたの肖像画を今度の個展に展示したいのではないかなって」

「多分、そうだとは思うけど」

「嫌なら断った方が良いと思うよ」

「別に嫌ってほどじゃない。面倒なだけ」希佐が差し出してくれたタオルを受け取り、アランは口元を拭ってから続ける。「キサなら描いてもらえばいいって言うと思ってた」

「どうして?」

「なんとなく」

「そこまで無責任にはなれないかな」希佐はそう言ってから、あ、と小さく声を上げた。「お風呂はどうする?」

「まだ酒が残っているならやめておいたら」

「少し寝たら酔いも目も覚めてしまったみたい」

「また溺れられたら困るから俺も入る」

「じゃあ、お湯を張ってくるね」

 そう言って早足でバスルームに行く背中を引き止めようと、無意識に伸ばしかけていた手で拳を作る。そのあからさまに演じているような態度を見るに、無理やり雰囲気を引き戻そうとしているような、自分の発言をなかったことにしたがっているような、そんな気配を感じた。

「いや、避けたのは俺か……」

 素直に君とのこれからのことを考えていたと、そう言えばよかったのだろう。何時間掛かろうと、朝日が登ってこようと、言葉のかぎりを尽くして。

 アランがテーブルに腰を預けて立ち、ぼんやりと足元を見やっていると、視界に希佐の足が映り込んだ。ゆっくりと顔を上げれば、なぜか仕方なさそうに笑う希佐がこちらを見上げている。

「なに」

「私に何か言いたいことがあるんじゃないかなーと思って」

 アランは大きく目を見開いた後、その目をそっと細めてから、自らの手を希佐に向かって差し出した。すると、希佐はその手を両手で包み込み、すぐ側まで寄ってきてくれる。

「レオに頼まれていた映画の脚本を書き始めようと思ってる」

「えっ、本当?」

「書いてみたいことがあるんだ」

「どんなこと?」

「まだ内緒」希佐は興味津々というふうなきらきらと輝く目で、アランを見上げていた。「レオが気に入るかどうかは分からないけど」

「レオはアランが書きたいと思ったことに価値を見出してくれるんじゃないかな」

 脚本を書こうと決心したのは、希佐がこの手を握ってくれた、まさに今この瞬間だった。寸前まで、そんなことは露ほども思っていなかった。だが、どうしても書きたくなってしまったのだから、仕方がない。

『……次に書く脚本はラブストーリーにしたらどうです?』

『なんで?』

『時々すごくロマンチックなことを言い出すので』

『ハッピーエンドは苦手なんだ』

『そうだろうなと思っていました』

 不意に、懐かしい会話が蘇ってくる。アランが思わず笑みを漏らすと、希佐は少しだけ不思議そうにしてから、同じように微笑み返してくれた。途端にアランは堪らない気持ちになって、希佐の体を引き寄せ、腕の中にすっぽりと包み込む。

 脚本を書き終え、映画が完成したとしても、その頃にはもう希佐はこのロンドンにはいない。それでも、この世界のどこかでその作品を観ていてくれたらいいと、そう思う。

 彼と彼女のような物語を。

 ハッピーエンドには程遠い真実の物語を。

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