ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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転機

 あの日の晩、教会で出会った親子から夕食の席に招かれた希佐は、沈黙を恐れ、自己紹介がてら自分の簡単な身の上話をして聞かせた。

 二年ほど前に日本を出てアイルランドに行き、ダブリンで一年暮らしたこと。その後ロンドンにやって来て、一年近くが過ぎたこと。週末には足繁く劇場に通い、演劇やミュージカルを楽しんでいること。たくさんの本を読み、翻訳に挑戦してみたり、脚本に書き起こしてみたりしていること。踊ることや歌うこと、演じることが好きだということ。日本には、もうずっと帰っていないということ。

 親子、特に息子のミゲルは、興味津々といった様子で希佐の話を聞いてくれた。

 それからというもの、希佐は仕事が休みの日には、度々その教会を訪れるようになった。そしてとある日曜日、教会で炊き出しを行うというので、その手伝いのためにやって来ていた希佐に向かって、ロバートが声をかけてきた。

「キサ、あなたは確か、日本で歌劇学校に通っていたと言っていましたよね?」

「え? あ、はい」スープを取り分けていた希佐は突然の問いに目を丸くするものの、それを笑顔で受け渡してから、傍らにやってきたロバートを見て頷いた。「通っていましたが、それが何か?」

 希佐の隣ではミゲルが機嫌よくパンを配っている。教会の中は、日曜日になるとたくさんの人が集まって、わいわいと賑やかだ。あの日の夜の静けさが嘘か幻のように思えてくる。

「実は、あなたに会ってもらいたい人がいるのですが……」

 しかし、そう言うロバートの物言いは歯切れが悪い。まるで本当は会わせたくないと思っていそうな面持ちを浮かべている。

「会ってもらいたい人、ですか?」

「私の弟です」

「ああ、そうなんですね」希佐はそう言うと、教会の中をぐるりと見回す。「この中にいらっしゃるんですか?」

「いえ、弟は別の場所にいます。この教会の裏にある事務所にいるのですが、彼はちょっと変わり者でして」

 ロバートは気乗りがしないという顔のまま、大きくため息を吐いた。それから、炊き出しの列が丁度途切れたところを見計らって、パンを配っていたミゲルにも声をかけた。

「ミゲル、キサをアランのところへ連れて行ってくれないか。お腹を空かせているだろうから、パンとスープを持っていっておくれ」

「うん、分かった」

 物分かりが良いミゲルは父親の頼みを快く聞き入れると、希佐に一杯のスープを所望した。

 こぼすといけないので、これは自分が持って行った方が良さそうだ――そう思った希佐は、ミゲルにはパンを持つようお願いすると、連れ立って歩き出した。

 この教会に足を運ぶようになって一カ月以上が過ぎていたが、ロバートに弟がいるという話は聞いたことがない。息子に案内をさせるくらいなので、不仲というわけではないのだろう。父親の弟ということは、ミゲルにとっては叔父にあたる人物だ。

「叔父さんって、どんな人?」

「面白い人だよ」

 そういうことを聞いているのではないのだがと思いながら、希佐はミゲルの後ろをついて行く。

 教会の外は石畳の道になっていた。通りからは少し奥まった場所にあり、細い小道があちこちに伸びている。この辺りは古いアパートが立ち並び、移民や外国人の姿が多く見られた。

 裏にあるという事務所は、本当に教会の真裏にあった。二階建てのレンガ造りの建物で、外壁には緑のツタがびっしりと蔓延っている。扉は重厚感があって、両開きだ。鍵は掛かっておらず、ミゲルは扉を重たそうに押し開けると、それを押さえたまま希佐を中に通してくれた。

「わあ……」

 そこには広々とした空間があった。壁の一方は鏡張りになっていて、バレエバーが無造作に置かれている。窓が蔦に覆われているので、電気の付いていない室内は薄暗かったが、ここが何かのスタジオであることはすぐに分かった。

「こっちだよ」

 ミゲルはそう言うと、スタジオの奥に向かって歩き出した。そこには別部屋に続いている扉があり、僅かに開いている。中からは大音量のクラシック音楽が聞こえてきていた。

 これは、マーラーの交響曲第六番だ。

 そう、ちょうど、あのハンマーが打ち付けられる――希佐がそう思った瞬間、ミゲルがドアノブを掴むのとほぼ同時に、部屋の中から衝撃音が聞こえてくる。

 ミゲルは、わっ、と驚きの声をあげて、持っていたパンを落としてしまった。希佐は後ろにのけ反って転びそうになった背中を支え、何とかスープを死守すると、恐る恐る部屋の中を覗き込んだ。

 ほとんど真っ暗な部屋の中で、パソコンのディスプレイだけが煌々とした光を放っていた。その光の中に、人間のシルエットが浮かび上がっている。

「まったく、もう!」

 大音量に掻き消されまいと大声を張り上げながら、ミゲルは拾い上げたパンと一緒に、部屋の中に入っていった。そして、オーディオの前で足を止めると、耳が痛くなるほどの大音量で流れていた音楽を止める。

「アラン! こわい音楽をかけるのはやめてって言ったのに!」

「ん、ああ、ミゲルか」暗い部屋の中から声だけが聞こえてきた。「悪い、悪い」

「お客さんだよ」

「客?」

 ぱちん、という音と共に、部屋の電気がついた。パソコンの前、椅子に座ったまま眩しそうに振り返った人物が、ドアの前に立っている希佐を見る。

「……誰?」

「キサだよ、前に話したことがあるでしょ?」

「知らないな」

「話したってば」

 部屋の中は雑然としていた。本や何かの冊子、CD、レコード、くしゃくしゃになった紙、楽譜やイラストなどが、そこら中に散乱している。希佐は途端に既視感を覚えた。根地黒門の作業部屋が脳裏をよぎる。

 足の踏み場もないほどだが、アランは器用に本のタワーの合間を縫って出てきたかと思うと、呆然と立ち尽くしている希佐の前で足を止めた。

「それで、あんたは誰だって?」

「だから――」

「お前は黙ってろ」アランはそう言うと、自分の腰の辺りにあるミゲルの頭をぐりぐりと撫でた。「名前は?」

「……希佐です。立花、希佐」

 Kisa Tachibana――と、何かを思い出そうとするように呟きながら、アランは希佐の顔をじっと見つめている。

 アランはロバートとは似ても似つかない男だった。物腰が柔らかいロバートに比べて、粗野な印象を覚える人物だ。赤毛の髪は肩よりも長く、ぼさぼさで、清潔感に欠けている。ただ、前髪の隙間から覗いている緑色の目だけは、宝石のように美しかった。

「……ん? ああ、思い出した。ロブが言ってた歌劇学校出身の日本人か」

 スープの器を抱えている日本人の女を奇妙そうに見たアランは、どうも、と言ってそれを取り上げた。しかし、それを食べようとするでもなく、スタジオの隅に置かれている長テーブルの上に置くと、こちらを振り返った。

「ほら、何かして見せてよ」

「……はい?」

「歌うとか、踊るとか、できるんでしょ? 暇じゃないから、早くして」

 なんというぞんざいな態度なのだろう。この男が本当にロバートの弟で、あの天使のようなミゲルの叔父なのか、と希佐は思う。長テーブルに寄りかかり、腕組みをして欠伸を漏らすさまは、酷く感じが悪い。子供のミゲルの方が、希佐を見て申し訳なさそうにしているくらいだ。

 だが、希佐は上着を脱ぎながら、スタジオの中ほどまで進み出た。頭の中では、今何をすべきなのかを目まぐるしく考えている。このアランという男は気に入らないが、ロバートやミゲルをがっかりさせたいわけではない。何より、馬鹿にされているようで、カチンときていたのだ。

 自身の実力を存分に発揮することのできる脚本を、頭の中で取捨選択していく。大した稽古もせず、舞台を見て真似た程度のものでは、満足な演技はできないだろう。

 スタジオの真ん中に立った希佐は、小さく咳払いをした。目を閉じ、大きく吸い込んだ息を、ゆっくりと吐き出す。手にしていた上着を、スタジオの端に放り投げた。

 この緊張感は、久しぶりだ。

 だが、心地よい。

 

『……天には目覚めの光を!』

 かつて根地黒門が見せてくれた一人劇だ。

 黒門が卒業した後、放置されていた段ボールの中から脚本を見つけ、勝手に譲り受けていた。こっそり稽古もしていた。脚本、演出、主演、すべて根地黒門によって行われた舞台を直接見ていた希佐には、この舞台を理解することができている。

 こちらに来てから、勉強のために脚本の台詞を英語に書き直していたのが、こんなふうに役立つ日が来るとは思わなかった。一年生の新人公演から、三年生のユニヴェール公演まで、まるで思い出をなぞるように。

『地は安らかに眠れる土をいっぱいに敷け!』

 子守歌は、打ち寄せる波の音――根地黒門による美しい日本語の台詞を損なわないよう、選びに選んだ英語の言葉を声に乗せる。

 この演目を選んだのは、十分に稽古をした経験を生かせると思ったからだ。それに、一人で数多くの人物を演じることになるので、手っ取り早いとも思った。芝居、歌、ダンス、すべてを見せることができる。

 根地黒門が何か思うところがあってこの脚本を書いたことは知っている。だが、こうして自分が演じても怒りはしないだろうこともまた、理解していた。あの海を越えて、はるか遠いこの土地で、天才の脚本を演じられる。あの人なら面白がってくれるはずだと、希佐は確信していた。

『私は演出家――』

 声音、姿勢、態度、表情、すべてを使い分け、まったく違う人間を演じる。

 ああ、ああ。

 演じるとは、こんなにも、こんなにも、素晴らしいことだったか。

 忘れかけていた感覚がよみがえってくる。体の奥底から喜びが湧き上がってくる。指の先にまで喜びが行き渡り、びりびりとした痺れを感じていた。

 自分が演じ、誰かが見ている。視線を感じる。体中に血潮が巡り、熱くなる。

『こんにちは』

 がらりと変わった声、眼差し、息遣い――希佐は美しい微笑を浮かべ、テーブルに寄り掛かったままのアランを、まっすぐに見た。演出家の才能を奪う、女優そのものの顔で。

『あなたが演出した舞台、以前から拝見していました。一緒にお仕事できるなんて、光栄です』

 

 すべてを演じ終えた時、窓からは夕焼け色の木漏れ日が差し込んでいた。体力維持のために毎日の運動は欠かさなかったが、やはり体力は落ちてしまっているようだ。それでも何とかやり終えた希佐は、僅かに呼吸を乱しながらアランを見やった。

「……君さ」

 アランはテーブルに寄りかかっていた体を起こし、こちらに向かって歩いてくる。何を言われるのかと身構えていた希佐の前で再び足を止めたアランは、ぐっと目の鼻の先まで顔を寄せてきた。

「今の今までいったいどこで何をしてたの?」

「……え?」

「なんですぐに俺のところに来なかったの?」

「あ、あの、何の話を――?」

「うちの劇団入って。小さい劇団だけど、まあまあフォロワーはいるし、出演料も少しなら出せる。脚本渡すから、ちょっと待ってて」

「えっ、あの、ちょっと……」

 つう、と頭皮から流れてきた汗が頬を伝い、床に落ちる。奥の部屋に入っていこうとするアランの背中に向かって声をかけるが、完全に無視だ。

 子供にとっては面白味のない演目だったのか、はたまた意味が分からず興味を持てなかったのか、ミゲルは床に転がって眠ってしまっていた。その体には、アランが先ほどまで着ていた上着が、そっとかけられていた。

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