ばいばい、ユニヴェール   作:しきり

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劇団カオス

 誰かのために演じるという行為が立花希佐に久方ぶりの高揚感を与えたことは言うまでもない。この二年間、とにかく何かを吸収したくて、演劇漬けの生活を送ってきた。そして、上質な演劇を浴び続けた結果、その先に見えたものは、猛烈な飢えと渇きだった。

 自分も同じように演じたいと思った。演じられると思った。なぜ自分はあの舞台に立っていないのだろうとも思った。嫉妬したのだ。あのきらびやかな舞台の上で、あの焼けるほどに熱いスポットライトを浴びて輝いている、物語の主人公たちに。

 

 翌日、仕事が終わったら来てと半ば強引に約束させられた希佐は、午後八時過ぎに教会裏のスタジオに到着した。あの親子に挨拶をしてからと思ったが、残念ながら教会は固く門戸を閉じ、消灯も済ませたあとだった。

 雨上がりの石畳の道は、街灯の明かりを反射させて、しっとりとした雰囲気を漂わせていた。壁を覆い隠すほどの蔦は、水滴の化粧を施されてきらきらと輝いている。

 扉の前に立ってブザーを押し込むと、ジジジジジ、という痺れるような音が鳴った。間もなくすると、扉が内側から開かれる。

「なんだよ、勝手に入ってこいよ、めんどくさい」

 希佐の顔を見るなりそう言ったアランは、ほら、と言って扉を大きく開き、中に入れと頭を傾ける。

 いやいや、まるで気心が知れた相手のような扱いを受けているが、そうではないのだ。昨日だって、勝手に劇団に入るよう強要されただけで、希佐の口から入りたいとは一言も告げていない。だからこそ、詳しい話を聞かせてもらわなければと思い、こうしてやってきたのだ。

 開口一番、抗議の言葉を口にしようとした希佐だったが、昨日はがらんどうとしていたスタジオの中に何人かの人影が見えて、思わず口を噤んでしまった。

「さっき話してた新人、来たぞ」

「待ってください、私は――」

 後ろを振り返って、希佐はすぐさま反論しようとした。しかし、アランは扉を閉めながら、話を先に進めようとする。

「昨日渡した台本、読んだ?」

「え? あ、はい、読みましたけど」

「どうだった?」

「……興味深い内容でした」

「面白かった、とは言わないんだな」

「そう素直に言える内容ではなかったので。ただ、良いストーリーだとは思います」

「そりゃどうも」

 アランは無感動にそう言うと、希佐を追い越して、すたすたと歩いて行った。

 各々稽古をしていたらしい面々は、全部で五人。それぞれが、それぞれの感情をあらわにした面持ちで、希佐の方を見ている。中にはあまり良い感情を持っていない視線が含まれているようだ。

「紹介するから、こっち来て」

「いや、あの、私は――」

「ほら、早く」

 どうしてこうなったと思いながら、希佐は五人の前に立たされる。真っ先に目に飛び込んできたのは、あからさまな敵意をむき出しにしている女性だった。道を歩いていたら、絶対に無視をできないような美貌の持ち主だ。希佐の真正面に立っているので、その視線が全身に突き刺さる。

「目の前で君を睨みつけてるのが、アイリーン。見てくれ通り平和とは程遠い女だ」

 誰よその女、と言いたげなのが、視線から伝わってくる。どうやら、アイリーンはアランに対して、少なからず好意を寄せているようだ。他の劇団員が全員男なのを見ると、女は全員この人に追い出されてしまったのではと、よからぬことを想像してしまう。

「男どもは右から、バージル、ジェレマイア、イライアス、ノア」

「よろしくね」

 一番左に立っていたノアと呼ばれた青年が、にこやかな表情を浮かべて声をかけてくる。穏やかな笑顔だ。年齢も自分とあまり変わらないような気がすると、希佐は思う。ユニヴェールにいれば間違いなくジャンヌという容貌をしていた。

 劇団員の年齢はまちまちのようだ。下は二十歳程度、上は三十代後半といったところだろうか。それぞれが個性的で、まるでタイプが違う。似ていると感じる人が一人もいない。

「こいつは、キサ」アランは変わらぬ声の調子で続けた。「次の舞台の主役だ」

「……は?」

 誰かが希佐と同じタイミングで、同じように声をあげた。

 それはそうだろう、突然連れて来られた新人の小娘が、次の舞台で主役をするなどと言われれば、誰だって非難の声をあげたくもなる。それは希佐だって同じだ。あまりに勝手がすぎるだろう。

「いい加減にしてください、ミスター――」

「ミスターはやめろ」アランはぼさぼさの頭を掻きながら言う。「それから、その慇懃丁寧な話し方もここでは禁止だ。嫌味っぽく聞こえる」

「人の話、聞く気ありますか? 私、入団するなんて一言も言ってませんよね?」

「『あなたが演出した舞台、以前から拝見していました。一緒にお仕事できるなんて、光栄です』って言ったろ」

「あれはただの台詞です」

「ただの台詞」アランは少しの間をおいて、前髪の隙間から除く緑の目を希佐に向けた。「俺の耳には、ただの台詞には聞こえなかった。俺に向けられた言葉だって感じた。だからうちの劇団に入れって言ったんだ」

「それ、理由になっていないと思うんですけど」

「なに、俺の舞台に立ちたくないの?」あまりにストレートすぎる物言いに、希佐は思わず口ごもる。「俺は、君に俺の作る舞台に立ってほしいって思った。ずっと探してたんだ、あいつを演じられる役者。それが君だった。それだけだよ、理由は」

 正直なところ、悪い気はしていなかった。嬉しいとすら思っていた。しかしながら、はいそうですかと素直に了承するわけにはいかない。

 ユニヴェール時代は、歌劇がすべてだった。歌劇のための日々を送っていた。稽古をする時間がふんだんにあり、環境も整っていた。だが、今は違う。あの三年間のように、歌劇のためだけに時間を割くわけにはいかないのだ。

「本当にありがたいお話ですけど、無理なんです」

「まあ、自分の身の程を知っているようで、安心したわ」そう言ったのは、希佐に対して敵意をむき出しにしていたアイリーンだった。「そんな子に主役を任せるだなんて、あなた気でも触れたんじゃないの?」

「ああ、そうかもな」

「私は真面目に話しているのよ、アラン」

「俺だってそうだ」アランは小さくため息を吐いてから、再び希佐を見た。「一応聞くが、どうして無理なんだ?」

「……朝から晩まで働きづめで、稽古をする時間が取れません」

「どこで働いてるの?」

「レストランです。日本食の」

「ああ、あの大通り沿いにある、クソまずい店」確かにクソまずいので、反論の余地はない。「じゃあ、その仕事辞めて。そうすれば稽古の時間が作れるだろ」

 この人は馬鹿なんじゃないのかと考えるだけで、口には出さなかった自分を褒めてやりたいと、希佐は心の底から思った。顔にも出してはいないはずだ。演じることには慣れている。

「じゃあ、アパートの家賃はあなたが支払ってくれるんですか?」

「アパートも引き払えばいい」

「私に路頭に迷えと?」

「ここの二階、一部屋空いてるから好きに使っていいよ。家賃はいらない。新しい仕事も紹介する。君が働いてるレストランよりも条件がいいところ」

 この人は絶対におかしい。間違いなくおかしなことを言っているはずなのに、誰も助け船を出してくれようとはしなかった。それどころか、団員たちは顔を見合わせ、面白いものを見たとでも言いたげな顔で笑っている。

「諦めな、お嬢ちゃん」バージルが言った。「そいつは一度言い出したら聞かないんだ」

「相当惚れ込まれたみたいだな」

「アランがここまで食い下がる姿、見たことないもんね」

 ジェレマイアとノアがけらけらと笑っている隣では、イライアスと紹介された男がつまらなそうにぼんやりとしている。どうやら、この話題にはまったく興味が持てないらしい。早く終わってくれとでも思っているようだ。

「ここに住めばスタジオが二十四時間使い放題だ。好きなときに、好きなだけ稽古ができる。悪い話じゃないだろ」

 希佐の気持ちは揺れていた。

 今のままの生活を続けていては、舞台との距離が広がっていくばかりで、自分がそこに立てる日はもう二度と来ないのではないかという気はしている。だが、このアランという男の懐に飛び込んでいくことが、なんとなく恐ろしいのだ。取り返しのつかないことに足を踏み入れようとしているような、漠然とした恐怖がある。

 それでも、久しぶりに感じた演じるという歓びを振り払うことは、どうしてもできなかった。

 イギリスにいられる時間は、もう一年ほどしかない。それならば、行き着く先に何が待ち受けていようとも、一思いに飛び込んでみた方がいいように思えた。やらずに後悔するよりも、行動を起こした末に後悔した方が、ずっとマシだ。

「……分かりました。私の負けです」

「やった!」そう嬉しそうな声をあげたのは、ノアだ。「これでやっと僕にも後輩ができるんだね」

「やっと?」

「もう一年近く団員を取ってなかったからさ。僕がずーっと新入りだったんだけど、君が入ってくれて本当によかったよ。これでお使いを頼まれることもなくなる!」

「お使い……」

 ああ、これは先が思いやられると思いながら、希佐は苦笑いを浮かべる。

 大方、立花希佐の劇団入りを喜んでいる様子だが、ただ一人だけ、終始憤懣やるかたないという顔で文句を垂れている者がいた。アイリーンだ。

「私は反対よ、アラン!」

「無駄だよ、アイリーン。アランが良しと言って、彼女がそれを受け入れたんだ。これでキサは僕たちの仲間――」

「何が仲間よ、そんなの認めるわけがないでしょう?」激しく主張するアイリーンを見て、ノアはやれやれと肩をすくめている。「みんなもどうかしているわ。そもそも、誰もその子の演技を見ていないじゃない。日本の歌劇学校出身だか何だか知らないけど、たった数年学んだだけで何ができるっていうのよ!」

 私、帰る――感情のままにそう言って、自分の荷物をひっつかみ、アイリーンは怒涛の勢いでスタジオを出て行った。追いかけなくていいのかとアランを見るが、問題の元凶は手に持った台本をぱらぱらと眺めている。

「あ、あの……」

 そうして希佐が何かを言いかけると、ぼうっと立ち尽くしていただけだったイライアスが急に踵を返した。何も言わないまま、アイリーンに続いてスタジオを出て行く。

「イライアスに任せておけば大丈夫だよ、キサ」

「でも」

「アイリーンはこの劇団に入るために相当な努力をしたからなぁ。お前さんみたいにアランから強く求められたわけでもないから、妬いてるんだろうよ」

 歌劇は羨望と嫉妬の世界だ。舞台の真ん中に立つことができる人間の数は限られている。立花希佐はその舞台の真ん中に立ち続けてきた。天才と呼ばれることもあったが、人一倍の努力もしてきたつもりだ。だが、そんなものは、一見するだけでは伝わらない。

「気にするな」二人が出て行った扉をじっと見つめていた希佐に向かって、台本に目を落としたままアランが言った。「俺は君の演技を見た。こいつらも、すぐにそれを見ることになるんだからな」

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