この一週間は怒涛のように過ぎていった。
まず、本当に仕事を辞めた。たいして愛着のある仕事ではなかったが、給料だけは良かったので、辞めてしまうのは何となく惜しい気持ちもあった。アランの言葉を借りるなら、クソまずい日本食を提供してはいるのだが、客の入りは多かったのだ。おそらく、本物の日本食を口にしたことがないのだろう。それなのに変に通ぶった客が多く、日本人としては複雑な気持ちになることも多かった。
次に、運良く更新日が近かったこともあり、アパートも引き払った。引越し作業は慌ただしく行われた。案の定、勝手なことをするのではないと兄のロバートに酷く叱られていたアランが、面倒臭がりながらも引越し作業を手伝ってくれたので、何とか期日までに間に合ったのだ。
「これが年頃の女の部屋か」
希佐の部屋に足を踏み入れるなり、アランは呆れたようにそう呟いた。だが、そう口に出したくなる気持ちは、希佐自身にも分かるのだ。
希佐が暮らしていた古いアパートの一室は、お世辞にも広いとは言えない。日本で言うところの六畳一間にバスルームと簡易的なキッチンがあるだけの部屋だった。服は本当に困らない程度しか持っていない。しかも、ユニヴェール時代の名残で、女性らしい服は一着も持っていなかった。
部屋の面積を狭めていたのは大量の本だ。多くは古本屋で購入したものだが、これでかなりの貯金が持っていかれている。床には日本語と英語が入り混じった紙やノートが散らばり、勉強をしながら寝落ちする生活を続けていることが、ありありと想像できるだろう。
「君、脚本も書くの?」
ホチキスで留めてあるだけの冊子を見つけて、アランが声をかけてくる。本を段ボールに詰めながらそちらを振り返った希佐は、首を横に振った。
「それは、学生時代に演じた舞台の脚本を、英語の勉強のために英訳していただけです」
「あの舞台演出家の話も?」
「あれは学校の先輩が個人的に書いた脚本だと思うので、どこかで発表するために書かれたものではないと思いますが──」希佐は紙の山の中から目的の冊子を引っ張り出すと、それをアランに差し出した。「ご覧になりたいなら、どうぞ」
冊子をぱらぱらとめくるアランを尻目に、希佐は次々と箱詰め作業を行っていった。ダブリンからロンドンに移動するときも、日本を出てくるときと同じように手持ちの本の多くは処分していたが、今回は住む場所を移動をするだけなので、全て持っていかなければならない。
夕方になり、段ボールに詰められた荷物はアランが出してくれた車に詰め込まれた。希佐はアパートの管理人に挨拶を済ませると、荷物と一緒に車の後部座席に乗り込む。スタジオに到着すると、稽古に来ていたらしいノアとジェレマイアが、部屋に荷物を運び込むのを手伝ってくれた。
「うわ、なにこれ重い!」
「あ、気をつけてくださいね。段ボールの中身、ほとんど本ばかりなので」
「ここはもうゴリラに期待しよう、ゴリラに」
「おい、誰がゴリラだ」
「自覚あるんじゃん」
ノアとジェレマイアは仲が良い。というよりも、ジェレマイアの面倒見が良いと言った方が、正しいのかもしれない。ノアからゴリラと称されている通り、よく鍛えているのが分かる体つきをしている。
この数日で、全員の関係性が何となく見えてきたような気がすると、希佐は思っていた。
ここにはいないバージルは劇団の最年長で、言葉に棘が多いアランの代わりに、全体の潤滑油のような役割を担っている。とても頼れる兄貴分、という感じだ。
イライアスは本当に言葉が少ない。無口で寡黙。けれど劇団員のことを誰よりも良く見ていて、些細な変化も見逃さない。
アイリーンは受けた印象通りの人だ。怒り顔も美しく、とても迫力がある。希佐がこれまでの人生で出会ってくることのなかったタイプの女性のはずだが、妙な既視感があるのはなぜなのか。
「……ああ、そうか」
高科更文のファンの女性に、雰囲気が似ているのだ。とても美意識が高く、自己顕示欲が強く、自分に確固たる自信がある。まるで更文に見合う女になりたがるように、自分磨きを欠かさない。
希佐はそうした存在を目の当たりにすると、素直に凄いと思ったものだ。誰かに見合う自分になれるよう、自分を変えられる人間は凄い。それも一つの才能で、努力だ。
アイリーンがそういう人間なのかどうかは分からないが、アランのために必死で努力をしている姿は、少しでも更文に近づきたくて躍起になっていた頃の、かつての自分の姿を思い起こさせた。
ノアはとても人懐っこい人物だ。いつもにこにこしていて、誰に対しても気さくに話しかけている。自分の機嫌を取るのが上手いのかもしれない。場を盛り上げるムードメーカーでもあるようだった。
荷物を運び込むだけ運び込むと、今度は引っ越しを手伝ってくれたノアとジェレマイアも連れて、四人で劇場地区から少し外れた場所にあるパブに向かった。ダブリンでは現地の友人とパブに足を運ぶこともあったが、ロンドンに来てからは一度もなかった。
「そういえば」パブの扉に手をかけた格好のまま、アランが希佐を振り返る。「君、何歳?」
「二十歳ですけど」
「あ、そう」
外国の人から見ると、日本人は童顔に見えるらしい。だからだろう、ダブリンではよく年齢確認をされていた。あれこれと説明をするのも面倒なので、身分証はいつも携帯するようにしている。
アランを先頭にして四人が足を踏み入れたパブは、伝統を感じさせる木造の建物だった。店内は古い木とエールの匂いが混ざった、独特な香りがしている。不快感はない。客は大入りで、酷く騒がしかった。
「よう、アランじゃねーか」
「どうも」
「あんたがお仲間を連れてご登場なんて珍しいな!」
「はいはい」
意外だったのは、アランがパブに入ってくるなり、多くの人が声をかけてきたことだ。しかも、適当にあしらわれても嫌な顔一つせず、からからと愉快そうに笑っている。こういうお酒の席は苦手そうに見えるが、実際は違うのかもしれない。
「メレディス」
人波を掻き分け、ようやくカウンターまでたどり着くと、アランがエールを注いでいた中年の男に声をかけた。すると、メレディスと呼ばれた男は顔を上げ、機嫌よく笑みを浮かべる。
「やあ、アラン」
「この前話した、うちの劇団の新人」
アランは、辺りを興味深そうに見回していた希佐の腕を掴んで引き寄せると、自分の隣に立たせた。カウンターの前に押し出された希佐は、サーバー越しにメレディスと目が合う。
「これはこれは、アランが直々に頼み込んでくるくらいだからどんな子が来るのかと思っていたら、実に可愛らしいお嬢さんだ」
「た、立花希佐といいます……」
「キサと呼んでも?」
「はい」
一体何の話をしているのだろうと思いながら隣を盗み見ると、その視線に気づいたアランが希佐を見る。
「ここ、君の新しい働き先だから」
「……えっ?」
「いやあ、助かったよ。ちょうどスタッフが一人抜けてしまったところでね、君のおかげで求人を出す手間がはぶけた」
「えっ、あの、どういうことですか?」
「前の仕事よりも条件がいいところを紹介するって言ったろ。詳しい話はメレディスから聞いて。ここの責任者だから」
じゃあ、と言って、アランはその場を離れていく。ジェレマイアは「がんばれよ」と言ってその後ろをついて行った。ノアは既にアルコールの注文を済ませ、グラスを片手に、近くのテーブルで綺麗な女の人たちと話し込んでいる。
「混乱しているようだね」
訳が分からないという顔をして、別のカウンターでグラスを受け取っているアランを睨んでいると、その様子を見たメレディスが声をかけてきた。バーテンダーの格好をしたメレディスは、困った顔をしている希佐を見て笑うと、カウンターに両肘を載せて身を乗り出してくる。
「もし嫌でなければ、ここで働いてくれないかな。スタッフが抜けて困っているのは本当なんだ。給料は他のスタッフと同じだけ支払うし、お客からもらったチップはすべて懐に入れてくれて構わない」
「あ、あの……」
「アランは言葉が足りないところがあるからね、なかなかすべてを説明してくれることはないだろうけど、このロンドンで役者としてやっていきたいなら、ここは君にとって条件のいい働き口だと思うよ」
「そう、なんでしょうか」
希佐が未だ困惑を隠しきれずに応じると、メレディスは大人の魅力たっぷりに、ふふ、と笑った。
「今日はご覧の通り忙しいから、明日になったらまたおいで。午後三時がいいかな。仕事の内容について話してあげよう」
「は、はい、わかりました」
「最初の一杯は僕のおごりだよ。何を飲みたい?」
「じゃあ、ギネスを」
「いいチョイスだ」メレディスはグラスにギネスを注ぎながらも話を続ける。「そういえば、君には少しアイルランドの訛りがあるね」
「ロンドンに来る前はダブリンで暮らしていました。一年間だけですが、英語も地元の人に揉まれながら勉強したので」
「ああ、それは分かるな」
「分かる、ですか?」
「君の英語は自然だから」はい、と差し出されたグラスを受け取る。「必死になって勉強をした跡が見えない。たくさん努力をしたんだね」
メレディスは「楽しんで」と言うと、希佐をフロアに送り出した。カウンターにはすぐに次の客が流れ込み、ご注文は? という声が聞こえてくる。
希佐はグラスになみなみと注がれたギネスをこぼさないよう気をつけながら、人の間を慎重に進んだ。一緒に来た三人は、ピアノとギター、マイクだけが置かれている、小上がりになったステージ横のテーブルについていた。手元に集中している希佐を見つけると、ノアが近くまでやってくる。
「前を見て歩かないと危ないよ、キサ」
持ってあげると言って希佐の手からグラスを取り上げたノアだったが、きめ細かい泡の表面に視線を落としたかと思うと、わあ、と歓声を上げた。
「ちょっと! 見てよ、見て!」
「なんだよ、うるさいな」
「ほら、シャムロック! メレディスがお気に入りの女の子にしか描いてあげないって噂のやつ。わあ、僕初めて見たよー」
「シャムロック?」
「ギネスの泡の表面に三つ葉のアートが見えるでしょ?」
「そんなに珍しいの?」空いていたアランの隣の椅子に座りながら、希佐は首を傾げる。「ダブリンのパブではよく見たけれど」
「ここでは珍しいの」
ふうん、と言いながら、希佐は手元に引き寄せたギネスのグラスを覗き込んだ。そして、特に何を思うでもなく、グラスを口に運ぶ。正面に座っていたノアはじっとりとした目で希佐を見やり、わかってないなあ、と漏らしていた。
「何か言われたか?」
ノアとジェレマイアが話しているのを横目に見てから、アランが声をかけてくる。
「明日の午後三時にまた来るように言われました。その時に仕事の話を聞かせてくれるって」
「他には?」
「他ですか?」希佐は中身が半分ほどになったグラスを置き、椅子の背もたれに体を預けた。「アランは言葉が足りない、と言っていました」
「へえ」
「あと、ロンドンで役者としてやっていきたいなら、ここは私にとって条件のいい働き口だって」
「そう」
自分から話を振っておきながら、アランは相変わらず興味がなさそうな態度で希佐の話を聞いている。しかし、アランは希佐にだけではなく、他の誰が相手でも常に興味がなさそうにしているので、これが普通の状態なのかもしれない。
「もう一杯飲む?」
話は終わったのか、まだ終わっていないのか分からないまま、アランは立ち上がった。テーブルについている全員にそう声をかけると、ノアとジェレマイアから声が上がる。
「君は?」
「私はもう結構です」
アルコールは飲み慣れていない。自分から飲みたいと思うこともなかった。パブにやってくると、自分の限界は知っておいた方がいいと良く言われていたが、自分を見失うような酒の飲み方はどうかと思う。おもしろおかしく楽しめるお酒の席は好きだが、酔っ払いに絡まれることが、希佐は好きではなかった。
そう、ちょうど、たった今テーブルの脇までやって来た、下卑た顔をする男たちのような。
「おっ、あんたら、アランのところの劇団の連中じゃねーか」
こういうとき、希佐はほとんど無意識に、自分が女であることを忘れようとした。瞬時にジャックのスイッチを入れる。これ見よがしに足を組みなおし、同じように腕も組んで、背もたれにゆったりと寄りかかった。
「なんだよ、今日はあの歌の上手いねーちゃんは来てないのか」
「あの美人のねーちゃん、芝居はいまいちだけど、歌だけはうまいからなぁ」
「ったく、『男』だけでやってくるなんて期待外れもいいところだよ」
「え? なんで、男だけって……あっ」
退屈そうに頭を掻く演技をしている希佐を見て、ノアが驚いたような声をあげた。ぽかんとした顔で希佐を見つめている。
さっさといなくなれ、そう思いながら組んだ足のつま先を細かく上下させていると、酔ってふらついた男がその足にぶつかってきた。
「なんだ、おい、お前今俺を蹴ったのか?」
「失礼、ミスター」普段とは違う低い声で、希佐は多少は申し訳なさそうに振舞った。「でも、アルコールの飲みすぎは体に毒ですよ」
「ここはパブだぜ、坊や。酒を飲まずに何をするってんだ」
「ナニをするってなぁ!」
げらげらと笑う声が不快感を煽る。周囲のテーブルにいた客たちも、酔っぱらった男たちを見て迷惑そうにしている。ダブリンのパブでは、女友達がしつこいナンパ男に向かってエールをひっかけていたが、ここで働かせてもらおうとしている自分が、客に対してそんな失礼を働くわけにもいかない。
ここは穏便に――そう希佐が気持ちを落ち着かせようとしていると、カウンターまで飲み物を買いに行っていたアランが戻ってきた。酔っ払いたちには目もくれない。付き合うだけ無駄という態度で、希佐の隣に腰を下ろした。
「なんだよ、アラン。俺たちのことは無視か? ちょっとばかり名前が売れてきたからって、良い気なもんだよなぁ」
「ああ、ごめん。あんたら誰だっけ?」まとめて持ってきたグラスをそれぞれに受け渡しながら、アランは酔っ払いたちを見もせずに言う。「いやあ、俺みたいに名前が売れてくると、馴染みのパブが同じっていうだけで友達面してくるしょうもない野郎がいるんで、困ってるんだ」
「……なんだと?」
どうやら酔っぱらいはアランの言葉にカチンときてしまったらしい。上擦るようだった声を途端に低くし、グラスを持っている方の手を大きく振り上げた。
「この三流役者どもが――!」
あっ、と声を漏らし、ひやあ、と口元を覆ったのは、希佐の前に座っているノアだった。
希佐の桜色の髪からは、麦の香りがする液体がだらだらと流れ、服を汚し、床に滴っていた。アランにひっかけようとしたエールが、酔っぱらっているが故に手元が狂い、希佐にかかってしまったのだろう。
そうか、エールをひっかけられた男はこんな気持ちになるのかと、希佐は考える。
「何が新進気鋭の脚本家だ。歌もダンスも三流以下のことしかできなかった野郎が、偉そうなこと言ってんじゃねーぞ。あの女だって、パブのステージに立って客を喜ばせるのが精々だろうな。その辺のカラオケパブにでも行った方が、もっとマシな歌を聞けるだろうよ」
他にも何かごちゃごちゃと言っていたような気がする。だが、希佐の頭の中は、別のことでいっぱいになっていた。央國のシシアだ。歌劇など下賎な見世物だと言った巡回兵に殴りかかる、アドラの姿が脳裏をよぎる。
「おい、大丈夫――」
放心状態になっていた希佐の肩に手を乗せ、アランが声をかけてきた。その声は珍しく気づかわしげだ。しかし、希佐は自分が酔っ払いにエールをひっかけられた、哀れな日本人の女になるつもりはない。
「歌劇の何たるかも分からない人が、それを軽々しく貶すようなことを言わないでください」
希佐はすっくと立ちあがると、自分よりもずっと背の高い男をまっすぐに見上げた。
結果、やはり明日からは来ないでくれと言われても致し方ないと、希佐は思った。けれど、これだけは、絶対にこれだけは譲れないのだ。
「舞台人は皆、命懸けで舞台を作っています。そんなことも分からないような人に、舞台を貶す資格はない。それに、あなたはパブのステージに立って客を喜ばせるのが精々だと、そうおっしゃいましたね。このステージに立って歌うことがどれだけ凄いことか、分からないんでしょう」
頭の中に、ハセクラがルイスに軽んじられ、耐えきれずに舞台上で叫んだ向井の姿が、久しぶりに現れる。
酔っ払いは今にも殴りかかってくるのではないかという形相で希佐を睨んでいた。何かを言い返そうと口を開きかけるが、希佐はそれを言わせず、先を続けた。
「そんなことはないと言い返せるなら、今ここで、ステージに立って歌ってください」
「なっ、――」
「その度胸もない人が、舞台の上に立って表現をする人間を、馬鹿にしないでください」
いつの間にか、パブの店内は水を打ったように静まり返っていた。希佐も後には引けないが、この男も後には引けなくなっている。
少しの間睨み合いが続いた後、酔っ払いの男は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに鼻で笑った。
「な、何をムキになってるんだか。なあ、お前ら――」
そう言って仲間に助けを求めるものの、先ほどまで一緒にいた者たちは、既に逃げ出した後だ。途端に、男が慌てだすのが分かった。
「俺は別に、あんたらを貶そうとして言ったわけじゃ……」
「歌もダンスも三流以下なんて誉め言葉は聞いたことがないな」テーブルに頬杖をつきながら、アランが言う。「俺は確かに三流以下だが、自分の仲間を馬鹿にされて黙っていられるほどお人よしってわけじゃない」
「俺はただ、酒の勢いで……」
「酒は飲めば飲むほど本心を吐き出させるもんなんだよ」
静寂が訪れる。それからすぐに、かつ、かつ、という固い足音が聞こえてきたかと思うと、にこやかな面持ちのメレディスが現れた。
「お客様、一度外に出て酔いを醒ましてきてはいかがでしょう。カウンターでお水をご用意します」
棘のない穏やかな物言いで酔っ払いを誘導し、後はホールのスタッフに任せると、次はお前たちだとばかりの目を向けてくる。希佐が審判の時を待つかのような面持ちでいると、メレディスは手にしていた新品のタオルを差し出してきた。
「どうぞ」
「あ、ありがとう、ございます」
希佐はそのタオルを素直に受け取ると、エールで濡れた髪や服をそっと拭った。そうしている間に、メレディスは未だテーブルに頬杖をついているアランを見やり、何か物言いたげにしている。
「……なんだよ」
「この落とし前はどうつけてくれるんだろうね」その声にぎくりとしたのは希佐だ。「そうだな、どちらかを選んでもらおうか」
「あの、悪いのは――」
横から口を挟もうとした希佐を、アランとメレディスが同時に制する。その圧を受けて口を噤むと、メレディスは口元に微かな笑みを浮かべた。
「この場にいるお客様全員に、お好きな飲み物を一杯ずつご馳走して差し上げるか」
「げぇ、嘘だろ」
そう言うノアの声に、他の客席から笑い声があがる。
「もしくは」メレディスは立てていた人差し指の隣に、中指を添わせた。「そのステージに立って一曲披露する」
「……」
「幸い、ここにいるお客様方は三流以下の役者が歌う歌でも、快く受け入れてくださる実にお優しい方ばかりだ」
やばい、どうしよう、まずいことになった――そう思った希佐は、助けを求めるようにノアやジェレマイアの方を見るが、どういうわけか二人はにこにこと笑っている。二人だけではない、周りにいる他の客たちも、この問題の行く末をどこか穏やかな表情で見守っていた。
はあ、という大きなため息が聞こえてくる。希佐が後ろを振り返ると、アランが椅子から立ち上がるところだった。
「ほんと、お優しくて泣けてくるね」
「あとで一杯奢ってやるさ」
「ほら」よく分からないが、何とか収まるべきところに収まりそうだと安堵しかけた希佐の腕を、アランが引っ張った。「君も歌うんだ」
「えっ? 私も?」
「当たり前だろ、騒ぎを大きくした張本人なんだから」
「でも、いいんですか?」
このステージは誰かにとっての大切な場所で、そこに突然やって来た自分のような者が立つのは、酷くおこがましいことのような気がしてしまう。希佐がそう感じていることを察したのか、メレディスはふっと吐息を漏らすように笑うと、促すように手の平を差し向けた。
「歌えないと言うなら、お客様全員に――」
「あっ、それは無理です。歌います。歌わせてください」
先にステージに立っていたアランを追いかけて、希佐も隣に並ぶ。しかし、希佐は最も重要な問題に直面した。
「あ、あの……」
「なに?」
「何を歌えばいいんでしょう、か?」
「何なら歌えるの?」
「私、洋楽はあんまり知らないんです」
「あんまりってことは、歌える曲はあるってことだろ。好きな曲でいいよ、合わせる」
だめだ、何も思いつかない。だが、早くしなければ、お客様を待たせてしまうことになる。一端の舞台人としては、それだけは避けなくてはならない。
かろうじて、これならば確実にできると思ったのは、映画の劇中歌だった。アイルランドにいた頃、友人から見るようにすすめられたダブリンを舞台にした映画で、希佐はその歌をとても気に入っていた。
「Onceって映画、知っていますか?」
「ああ」
「あれのFalling Slowlyなら、歌えます」
映画化し、後に舞台化もした作品だ。劇場地区を本拠地としているパブの常連客なら、誰もが知っているだろう。それ故に失敗することはできないが、成功すれば確実に心を掴むことができる。
「ギターは?」
「弾けます」
「じゃあ、メインで歌って」
「私がですか?」
「他に誰がいるの」
「でも、メインは男性で……」
「できるだろ」
「……分かりました」
希佐はスタンドに立てかけてあったギターを手に取った。ストラップを肩にかけ、長さを調節する。チューニングの確認をしている間に、メレディスがマイクの用意をしてくれた。不意に目が合うと、メレディスは悪戯っぽく笑い、ぱちんとウインクをくれる。健闘を祈る、と言われているような気がした。
「ええと」ぱちん、とマイクの電源を入れ、話し出す。「希佐といいます。ミスター・アランの劇団に入ったばかりの新人です」
すると、アランがすかさず「ミスターはやめろ」とマイク越しに言い、パブが笑いに満たされた。希佐も少しだけ笑うと、言葉を続けた。
「私のような貧乏役者には、皆さんにお酒をご馳走できるだけの蓄えがないので、代わりに一曲披露します。曲は、アイルランドはダブリンの街を舞台にした映画の、劇中歌です」
希佐は少しだけ言いよどんでから、再び口を開く。
「……私は二年前に日本を飛び出して、単身アイルランドに向かいました。右も左も分からず、英語もろくに話せなかった私を、ダブリンの人たちはあたたかく迎え入れてくれました。だから、私はあの映画も、この歌も、大好きです」
後ろを振り返り、ピアノの前に座っているアランに目配せを送る。アランは腕まくりをすると、小さく頷いた。
指でギターの弦を弾く。
ピン、と張り詰めた空気感が、希佐には酷く心地よかった。