ライフストリーム!   作:白月リタ

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Ⅲ.雪丸 ⑩

 

 

「ごきげんよう、さくどんさんと駒場さん。絶好の屋内プール日和ですね。」

 

うーむ、この天気を『屋内プール日和』と表現するのか。土砂降りの雨が降っている、八月十一日の午前九時。つくば市のスポーツジムに到着した俺と夏目さんは、建物の軒先に立っている秋山さんからの挨拶を受け取っていた。

 

つまるところ、俺たちは水泳対決の動画を撮るために茨城県を訪れているのだ。夏目さんが連絡してすぐに秋山さんからのオーケーをもらえたので、直近で空いていた木曜日の午前九時半から十時半の貸切予約をして、こうして車で現地にやって来たわけだが……いや、外のプールじゃなくて本当に良かったな。屋外だったら撮影中止になっていたレベルの大雨だぞ。

 

ラッキーなんだか不運なんだか分からない空模様に内心で苦笑した後、車に積んであった大きめの傘を夏目さん側に七割、自分側に三割で翳しつつ返事を飛ばす。今日の秋山さんはそこまで奇抜な格好じゃないな。シャンブレーシャツと濃い色のジーンズ、そして黒いワークキャップという出で立ちだ。

 

「おはようございます、雪丸さん。今日もよろしくお願いします。」

 

「あっ、おはようございます。……雨、大丈夫でしたか? 急に降り始めましたけど。」

 

「車で来たので平気ですよ。そういえば紹介していませんでしたね。あれが『雪丸スタジオ号』です。」

 

誇らしげな秋山さんが指し示す先にあるのは……おー、ちょっと古めの車だな。十五年落ちのオオカワの真っ赤なノッチバッククーペだ。あの車の場合は『古い』じゃなくて、『渋い』と言うべきかもしれない。カーマニアなら誰もが知っている名車だぞ。

 

「オオカワのフォーマルハウトですか。良い車ですね。」

 

「おや、駒場さんはご存知でしたか。バイトで貯めた金で買ったんです。前期モデルですよ。」

 

「あー、言われてみればバンパーが前期のやつですね。全部ノーマルですか?」

 

「消耗品とホイール以外はノーマルです。私は改造の技術を持っていませんし、そもそも『カスタム派』の人間ではありませんから。前の所有者がマフラーを弄ってしまっていたので、純正パーツを探し出して付け直した程度ですね。状態が良いので割と素直に走ってくれていますよ。」

 

そっちのタイプか。例えば豊田さんはカスタム派の人なので色々と弄り回しているが、秋山さんのようにそのままの状態……というか、出荷時の純正パーツを好む人も多いのだ。ちなみに俺は単車だとカスタム派で、自動車だとノーマル派だぞ。ここは完全に趣味嗜好の範疇だな。

 

機材が入ったバッグを持ち直しながら車を観察していると、三脚を手にしている夏目さんが言葉を放った。どこか懐かしそうな顔付きでだ。

 

「その車のこと、昔動画にしてましたよね。雪丸さんがまだローマ字の『YUKIMARU』で活動してた頃に、『免許を取ったら絶対にこの車を買います』って動画内で喋ってた記憶があります。」

 

「何とまあ、懐かしい話じゃありませんか。確かそれは『免許を取れるまであと一年』というタイトルの動画だったはずですから、私が十七になったばかりの頃……つまり、二年前の春先に上げた一本ですね。メインチャンネルを移転する直前です。ちなみにですが、私もさくどんチャンネルが『さくどんの動画』だった当時から見ていますよ。」

 

「……あの頃の動画を思い出すと恥ずかしくなります。初期の初期は一言も喋らずに、公園の鯉に餌をあげてる動画とかを投稿してました。週に一、二本くらいのペースで、つまらない以下の『無の動画』を上げ続けてたんです。」

 

うーん、さくどんチャンネルと雪丸スタジオの歴史を感じる会話だな。二人がライフストリームに動画を投稿し始めたのは、今から四年以上も前のことなのだ。当時中学二年生だった夏目さんは『さくどんの動画』というチャンネルで活動しており、高校一年生だった秋山さんも前身のチャンネルである『YUKIMARU』で動画をアップロードしていたらしい。

 

一応それらのチャンネルは今も残っているので、俺も興味本位で軽くチェックしてみたことがあるものの……まあうん、両者共にホームビデオっぽい動画ばかりだったな。電線に止まっているカラスの大群を映した十五秒の動画とか、旅行先の名物ソフトクリームを撮った三十秒弱の動画とか。あくまでエンターテインメントとして今の彼女たちの動画と比較した場合、『雲泥』という熟語がよく似合うだけの差があったぞ。

 

もちろんそういう時期を経たからこそ今があるわけだし、あれもあれで『ライフストリームらしさ』を感じる良い動画だったのだが、やっぱり見返すと恥ずかしくなってしまうのだろう。ジムの屋根の下に入りながら苦々しい笑みで語る夏目さんへと、秋山さんも同じ顔で相槌を打つ。

 

「私だって同じですよ。最初期の自分の動画を見ると身悶えします。……さくどんさんがライフストリームに『嵌った』切っ掛けはどの動画だったんですか?」

 

「切っ掛けですか? ……んー、花火大会の動画ですかね。三年前に大きな花火大会に家族で行ったので、深く考えずに花火を撮影してアップロードしてみたら、それまでにないくらい一気に伸びたんです。それが多分、私がライフストリームに嵌った切っ掛けなんだと思います。」

 

「私の場合は靴紐の結び方でしたね。父から一瞬で結べる解け難い結び方を教えてもらったので、何の気なしに動画で撮って上げてみたら……まあ、さくどんさんと一緒ですよ。予想外に伸びて、感動して、魅力に取り憑かれたわけです。」

 

何だか不思議な話だな。花火大会の動画と、靴紐の結び方の動画。それが彼女たちの初めての成功で、スタート地点なわけか。感慨深そうに話す秋山さんに、夏目さんが困ったような笑みで声を返した。

 

「知ってますよ、靴紐の動画。私の花火大会の動画と同じ頃に投稿したやつですよね? フォーラムの時に雪丸さんも言ってましたけど、私たちには共通点が多いみたいです。」

 

「そうですね。投稿し始めたのも、切っ掛けを得たのも、チャンネルを新設したのも同時期です。私は『本当に面白い動画』をきちんと作っていこうと決めたので、高校三年生に進級した春に『YUKIMARU』から『雪丸スタジオ』へと拠点を移したわけですが……さくどんさんは何故さくどんチャンネルを設立したんですか?」

 

「根本的には雪丸さんと同じ理由です。それまでは何となくで投稿してましたけど、あの時期に本気でやっていこうって決意しました。ちょうど日本でもロケットカワノさんがレビュー動画を出したり、CAWINGさんがチャレンジ動画を上げたりしてライフストリームが勢い付いてきた頃だったので……私も頑張ってみようと思って。それで高校に進学したタイミングで心機一転チャンネルを新しくして、やってなかった顔出しも解禁して、お二人を真似して『誰かを楽しませるための動画』を上げ始めたんです。」

 

ロケットカワノさんというのはディヴィジョンフォーラムでも壇上に上がっていた、日本ライフストリーム界におけるレビュー動画の先駆け的存在だ。そしてCAWINGさんは、身体を張ったチャレンジ系動画を日本で最初に継続的にやり始めた人のはず。

 

当時のライフストリームには広告システムなんてものは存在していなかったので、その時代の投稿者たちは一切対価を受けずに動画を作っていたことになる。それでも彼らが投稿し続けて盛り上げてくれたからこそ、日本という市場はキネマリード社の目を引けたのだろう。彼らの投稿スタイルは現在のライフストリーマーたちの基盤になっているわけだし、正に日本ライフストリーム界の土台を築いた人たちだと言えそうだ。

 

いやはや、ライフストリームで食っている人間としては頭が上がらないぞ。傘を畳みながら偉大な先駆者たちのことを考えていると、秋山さんがニヤリと笑って話を締めた。

 

「その二人は私にとっても師匠ですよ。私とさくどんさんが競い合っているように、彼らもライバル意識を持ち合っていたのかもしれませんね。……それでは、行きましょうか。まだまだ話したいところですが、予約の時間が迫っています。こういう昔話はいつか改めてやりましょう。私たちにはまだ早いですよ。さくどんさんがどうであれ、少なくとも私はこれからが本当の『始まり』だと思っていますから。」

 

「……私だってそうです。まだ後ろを振り返るつもりはありません。」

 

「素晴らしい、そうでなければ困ります。……収入を得られるようになった今、ようやく日本でも『戦国時代』が始まろうとしているんですよ。個々人の面白さを競い合う時代が。私はそれを嬉しく思っています。競争なくして進歩はありませんからね。」

 

戦国時代か。ライフストリームは実力主義の世界なわけだし、ぴったりの表現かもしれないな。秋山さんの発言に唸りつつ、彼女に続いてスポーツジムの中に入る。そのまま受付らしきカウンターに歩み寄って、そこに居た女性に話しかけた。

 

「どうも、プールの貸し切りを予約したホワイトノーツの者です。」

 

「あー、はい。貸し切りの。少々お待ちくださいね。」

 

ややラフめの口調で応対してきたポロシャツ姿の四十代くらいの女性は、カウンター下の引き出しを開けて何かを探し始める。俺は普段ジムを利用しない人間なので、こういう施設には詳しくないのだが……そこそこ広めのエントランスなのに誰も居ないな。がらんとしているぞ。

 

とはいえ駐車場にはちらほらと車があったので、流行っていないわけではないはずだ。みんなジムスペースに居るのかなと思考しながら待っていると、一枚の紙を取り出した女性が確認を寄越してきた。

 

「えーっと……はいはい、ホワイトノーツさんですね。九時半から十時半の利用で間違いありませんか?」

 

「間違いありません。」

 

「では、こちらに代表の方のサインをお願いします。プールはまだ清掃中ですけど、更衣室はもう使えますよ。そこの廊下の突き当たりを曲がってすぐです。更衣室から直接プールに入れるので、立ち入り禁止の看板を無視して入っちゃってください。貸し切り中に一般のお客さんが入らないように置いてあるだけですから。」

 

「はい。」

 

早口だな。渡されたボールペンでサインをしながら応じてやれば、女性は矢継ぎ早に説明を続けてくる。動作もやけにテキパキしているし、この世代の女性特有の勢いを感じるぞ。

 

「更衣室の隣のシャワーも使って大丈夫ですし、プールサイドから男女共用の小さな専用更衣室にも入れますよ。一般利用の方と一緒に着替えたくないって場合はそこで着替えてください。他の細かい注意事項はこっちの……はい、どうぞ。ここに書いてあります。」

 

パウチ加工されて、リングで留められている数枚の紙……濡れないようにかな? をカウンターに出した女性へと、サインを終えた書類を返しながら応答した。

 

「十時半ギリギリまでプールを利用して、その後着替えを行うのは可能ですか?」

 

「ええ、可能ですよ。プールさえ空けてくれれば問題ありませんから、シャワーや着替えはごゆっくりどうぞ。次の予約は十一時なので、数分超過するくらいなら平気ですしね。……あと、料金は先にお願いします。一万五千七百五十円です。」

 

「あーっと、領収書をいただけますか? 宛名は片仮名の『ホワイトノーツ』で。」

 

夏目さんと秋山さんのメールのやり取りの中で『こっちが出しますよ論争』が起こったので、とりあえず支払いはホワイトノーツが持っておくことになったのだ。会計を済ませてからカウンターを離れて、後ろで立って待っていた夏目さんと秋山さんに促しを送る。受付の女性との会話は聞こえていたようだし、説明を繰り返す必要はなさそうだな。

 

「行きましょうか。」

 

「はい。……お金、後で返しますね。」

 

「さくどんさん、返すのは私ですよ。三本勝負は私の企画なんですから。」

 

「けど、水泳対決はさくどんチャンネルで上げる動画です。それなら私が払うべきだと思います。」

 

おっと、議論が再燃し始めているな。夏目さんも頑固に抵抗しているようだし、秋山さんとの会話には大分慣れてきたらしい。そんな担当クリエイターの変化を感じ取りながら、するりと二人の間に割り込んだ。

 

「まあ、そこは後回しにしましょう。それより今は撮影です。……どの時点から始めますか?」

 

「えっと、プールサイドでスタートさせたいです。そこでこれまでの流れとか今日のルールとかをサラッと話して、五種目で勝負する感じですね。」

 

「クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ、自由形の五種目ですよね? ……さくどんさん、結局全て二十五メートルでやるんですか?」

 

二人ともバタフライで泳げるのは凄いな。俺は出来ないぞ。……今回はさくどんチャンネルの動画になるので、詳細なルールは夏目さんが決めることになったのだ。更衣室への通路を歩きながら問いかけた秋山さんに、夏目さんは眉間に皺を寄せて回答した。

 

「……トリの自由形だけ五十メートルにしましょうか。その方が盛り上がりそうですし、どっちもクロールを選択した時に一戦目の焼き増しになっちゃいますから。」

 

「私は何でも構いませんよ。そちらの企画に従います。」

 

「ターンが入ると見応えがありますし、トリを五十メートルにするのは良いアイディアだと思いますよ。それでいきましょう。……私が先に行って機材の準備をしておきますね。荷物を預かります。」

 

近付いてきた更衣室を見て賛同しつつ呼びかけてやれば、夏目さんがずっと抱えていた大きめの三脚を、秋山さんがいつものアニメプリントのリュックから出したカメラと小型の三脚を手渡してくる。

 

「はい、お願いします。」

 

「お任せします、駒場さん。三脚は付け根のロックを外すと脚が伸びますよ。サイズ相応の高さにしかなりませんが。」

 

「なら、雪丸さんの三脚はゴール地点に置かせてもらいます。そしてこっちの三脚を広角で映せる位置に設置して、私は移動しながら撮ることにしましょうか。」

 

「そんな感じで大丈夫です。細かい位置はプールに行ってから決めるので、先ずは適当に置いちゃってみてください。……じゃあ、着替えてきますね。」

 

夏目さんの返答と共に女性用更衣室へと消えていく二人を見送ってから、奥にある男性用更衣室に入室してみれば……おー、ちょっとだけプールの匂いがするな。何だかテンションが上がってくるぞ。

 

ただまあ、当然ながら俺は水には入らない。スーツ姿のままでプールサイドから撮影するだけだ。ちょびっとだけ残念だなと苦笑いを浮かべつつ、プールの入り口に近いロッカーを開いて使わない荷物を仕舞う。靴下を脱いで、ジャケットも中に置いていくか。水飛沫くらいは飛んでくるかもしれないし。

 

荷物を入れたロッカーにきちんと鍵をかけてから、数名の利用者たちを横目にプールに続くドアを抜けてみると、ちょうど出てこようとしていた若い男性職員が声をかけてきた。受付の女性と同じ黄色いポロシャツを着ているし、どうやらこれがこのスポーツジムの制服であるようだ。

 

「あ、貸し切りのお客様ですか? 清掃は終了しましたので、もう使えますよ。プールサイドの備品もよければ使ってください。」

 

「ありがとうございます。」

 

ばっちりのタイミングだったな。まだ九時半まではちょっとあるので、少しだけ得をしたらしい。掃除用具を手にしている男性職員に目礼しながらすれ違って、プールサイドに足を踏み入れると……うーむ、写真で見た通りの綺麗なプールだ。三コースだけなのでやや小さめではあるものの、これで一時間一万五千円は安いと思うぞ。

 

とはいえまあ、相場からすると際立って安いってほどではないんだよな。ここはジムに併設されているプールなのでまだ分かるけど、貸し出し一本でやっている施設はどうやって利益を上げているんだろう? ……よくよく考えてみれば普通の市民プールとかも利用料金が安めな気がするし、実はそんなに維持費がかからないとか?

 

縁遠い業種すぎてよく分からんと一人で首を傾げつつ、プールサイドを歩き回ってせっせと撮影の準備を進めていく。タオルを隅に置いて、三脚を設置し、そこに装着したカメラの電源を入れて画角のチェックをしていると、背中に着替えを終えたらしい秋山さんの声が投げかけられた。……おお、競泳水着か。彼女が着ているのは太ももが出ているタイプの、赤いライン入りの競泳水着だ。ガチガチの選択をしてきたな。

 

「駒場さん、お待たせしました。さくどんさんも今来ますよ。」

 

「はい、準備はほぼ終わっています。……似合っていますよ、秋山さん。スポーティな美しさがありますね。」

 

競泳水着はスレンダーな体付きの秋山さんにぴったりだなと思って、ストロベリーブロンドの長髪を纏めている彼女に感想を述べてみると……秋山さんは三秒ほどぴたりと動きを止めてから、僅かにだけ目を逸らして反応してくる。

 

「……褒め上手ですね、貴方は。急に本名で呼ばれたから驚いてしまいました。」

 

「っと、すみません。二人の時はそうすべきかと思いまして。嫌でしたか?」

 

「嫌ではありませんよ。ただ貴方から何か感想を言われるとしても、『雪丸』としてだと予想していたんです。……秋山深雪として褒められると、存外気恥ずかしいものですね。随分とストレートな褒め方でしたし、雪丸と違ってこっちの私は褒められ慣れていませんから。」

 

顔を背けながらの秋山さんがそう言ったところで、女性用更衣室に繋がるドアから夏目さんが現れた。褒められ慣れていないのか。秋山さんの容姿なら、慣れていて然るべきだと思うんだけどな。

 

疑問を抱きつつカメラの設定を弄っている俺に、二日前にも見た白い水着姿の夏目さんが話しかけてくる。ちなみに下にはショートパンツ型の水着を重ね着している状態だ。追加で合いそうな物を買ったのかな? 彼女は妹の警告を重く受け止めたらしい。

 

「駒場さん、大丈夫そうですか?」

 

「問題なさそうです。固定カメラを調整する前に、オープニングを撮ってしまいましょうか。そっちは手持ちで撮るわけですし。」

 

「オッケーです。……雪丸さん、いけますか? 更衣室で話した感じで撮りますね。」

 

「いけますよ。いつでもどうぞ。」

 

いつものローポニーテールになった秋山さんの返事を耳にして、夏目さんはこくりと頷きつつプールがバックになる位置へと移動した。そこに二人が並んだのを確認してから、録画ボタンを押したビデオカメラを向けてみれば……夏目さんが毎度お馴染みの台詞で動画をスタートさせる。

 

「どうも、さくどんです! そして隣に居るのは──」

 

「ごきげんよう、さくどんチャンネルの諸君! 雪丸スタジオの雪丸です。」

 

「というわけで、今回は雪丸さんとの対決企画の続きになります! ……でもでもこの動画から見てる人はぽかーんってなっちゃうかもですから、軽くだけ前回までの流れを説明しますね。」

 

まあ、そうすべきだろう。秋山さんから合いの手をもらいつつ、夏目さんは企画全体の説明やゲーム対決動画への誘導を行っていくが……こうして見ると相性が良い気がするぞ。両者共に慣れているというのも勿論あるんだろうけど、柔らかくて丁寧な夏目さんと、鋭くて勢いがある秋山さんの二人が揃うとトークにメリハリが付くな。

 

モノクロシスターズしかり、この二人しかり、ある程度対照的な存在が横に居ると互いの魅力が引き立つらしい。対して同系統の人同士だと元々の雰囲気に拍車が掛かるのだろうし、コラボレーション動画というのはやはり面白いな。組み合わせ次第で動画の色がガラリと変わりそうだぞ。

 

現状の日本ライフストリームではコラボ動画がまだあまり一般的ではないけど、これは今後力を入れていくべき部分なのかもしれない。会社に戻ったら香月社長と本格的に話し合ってみよう。……どうせならお盆休みにでも外国の動画を研究してみるか。向こうではライフストリーマー同士がコラボすることがちらほらとあるようだし、構成や撮り方を学ばせてもらわねば。

 

───

 

「ぷぁ。……あれ、負け? 私、負けました? うあー、負けちゃいましたか。」

 

そして撮影開始から四十分ほどが経過した現在。俺はゴールにタッチした後で嘆いている夏目さんのことを、プールサイドから撮影していた。今回の勝負も接戦だったな。秋山さんがやけに自信満々だったから、最後の自由形にまで決着がもつれ込むとは思わなかったぞ。

 

プールの中で悔しそうに項垂れる夏目さんへと、隣のコースで疲れ果てた面持ちになっている秋山さんが応答する。彼女がタッチして顔を上げた瞬間に夏目さんがゴールしていたので、一秒そこらの僅差で決着が付いたことになるな。ちょっとホッとしたぞ。夏目さんがあと一秒速かったら、対決企画は二本先取で終了してしまっていたのだから。

 

「私の勝ちですね、さくどんさん。……貴女、物凄く速いじゃありませんか。負けるかと思ってひやひやしましたよ。」

 

「私もちょっとだけ『勝っちゃったらどうしよう』と思ったんですけど、ライフストリーマーらしく真剣勝負で挑みました。……あー、悔しいです! かなり僅差でしたよね?」

 

ランナーズハイならぬスイマーズハイで声が大きくなっている夏目さんが、カメラに……というか審判役たる俺に尋ねてきたのに、なるべく短く回答した。俺の声が入るのはあまり良くないけど、ここは答えておくべきだろう。今までだって稀にあったことだし、テロップの括弧書きで『スタッフ』と入れれば大丈夫なはずだ。

 

「一秒あるかないかの差でした。」

 

「えぇ、そんなに惜しかったんですか。……まあでも、負けは負けですね。水泳対決は三対二で雪丸さんの勝利です!」

 

「この水着で、途中からスイムキャップまで被ってギリギリの勝利でしたが……これで対決そのものは振り出しに戻りましたね。次も勝たせていただきますよ。」

 

夏目さんはハイテンションだが、秋山さんはスタート前よりもむしろ低くなっているな。俺が思っている以上に疲れているのかもしれない。クロールとバタフライで秋山さんが勝ち、平泳ぎと背泳ぎで夏目さんが勝っていたからプレッシャーが大きかったのだろう。

 

ちなみにこのプールは水泳帽無しで泳いでもオーケーだということで、動画の見栄えを重視して最初は二人とも被らずにやっていたのだが、後が無くなった秋山さんが四本目のバタフライ勝負から着け始めたのだ。……どちらもキャップ有りかつ競泳水着だったら、夏目さんが勝っていたかもしれないな。タイムからするに秋山さんも充分に速いわけだし、夏目さんは当人の認識以上に水泳が得意だったらしい。

 

秋山さんのキャップを脱ぎながらの発言に、プールから出た夏目さんが返答を返す。……二人とも化粧落ちなんか一切気にしていないのは、やっぱり若さなんだろうな。落ちるどころかそもそも化粧をしていないようだし、ここまでの全力水泳勝負は今しか撮れない映像だったのかもしれない。

 

「私だって負けるつもりはありません。次の勝負も頑張ります! ……それじゃあ、早速最後のお題を決めましょう。抽選タイムです!」

 

夏目さんがプールサイドに置いてあった白いタオルで手を拭きつつ、隅のベンチに用意しておいた抽選箱を取りに行っているが……秋山さんは上がらないのか? 何故か彼女はプールの中で浮かんだままだ。打ち合わせでは彼女が抽選することになっていたはずだぞ。

 

秋山さんの様子を怪訝に思っていると、箱を持ってきた夏目さんが小首を傾げて問いを口にする。彼女も疑問に感じているらしい。

 

「えと、今回も雪丸さんが引くんですよね? 次の対決は雪丸さんの『主催』なわけですし。」

 

「そういう予定でしたが、思い直しましてね。ゲーム対決では敗者たる私が引いたでしょう? ならば今回はさくどんさんが引くべきですよ。どうぞ、次のお題を決定してください。私は勝者の特権としてここから見物させていただきます。」

 

「そ、そうですか? そういうことなら……はい、私が引かせてもらいますね。」

 

思い直したのか。まあうん、勝者の特権に関してはいまいちピンと来ないものの、敗者が次のテーマを決めるというのは分からない話じゃないな。一本目のお題を夏目さんが、二本目を秋山さんが決めたのだから、順番的にはそっちの方が自然なのかもしれない。

 

いきなり予定を変えてきたコラボ相手に流される形で、よく振った抽選箱に手を入れた夏目さんは……中から引き当てた一枚の紙をカメラに示してきた。

 

「えっと、最後の対決のお題は……じゃじゃん、『お弁当』です! 三連続で私が書いたやつになっちゃいましたね。」

 

「おや、私はどうも運がないようですね。つまりは料理対決ですか。……まあ、それもそれで燃えてきますよ。さくどんさんの得意分野なればこそ、私の勝利が際立つというものです。お弁当勝負、受けて立ちましょう!」

 

「さくどんチャンネル的に料理で負けちゃうのはマズいですし、私としても絶対に負けられないお題です。ここは得意分野で勝たせてもらいます!」

 

二人が熱く抱負を語ったところで、夏目さんが締めに入ろうとするが……それでも出ないのか。秋山さんはプールに入ったままで終わらせたいらしい。高低差があって撮り難いぞ。

 

「……あの、雪丸さん? このまま締めちゃって大丈夫ですか?」

 

「締めはさくどんさんにお任せしますよ。合わせますから、ご自由にどうぞ。」

 

「あー……はい、分かりました。立ち位置、ここで二人とも入りますか?」

 

「問題ありません。」

 

ここは編集で切りそうだな。完全に動画外の話し方で聞いてきた夏目さんに、小さく首肯しつつ応じてやれば、彼女は気を取り直すように深呼吸してからカメラに向けて口を開く。

 

「そんなわけで、次の勝負が対決企画の最終決戦になります! お弁当対決の動画は雪丸スタジオの方で上げる予定ですから、さくどんチャンネルのリスナーさんたちも、雪丸スタジオの皆さんも私たちの対決を見届けてくださいね。多分ですけど、この動画がアップされた次の日に上がるはずです。」

 

「応援よろしく頼みますよ、諸君!」

 

「ではでは、今日もさくどんチャンネルの動画を見てくださってありがとうございました。もし良ければ他の動画も見ていってくれたら嬉しいです。それじゃあ、ばいばいっ。……必ず勝ちます。」

 

最後に笑顔でグッと拳を握って一言付け足した夏目さんは、数秒空けてからカットを知らせてきた。

 

「オッケーです。お疲れ様でした。」

 

「お疲れ様でした、さくどんさん。良い撮影になったと思いますよ。」

 

「お二人とも、お疲れ様でした。片付けは私がやっておきますから、シャワーと着替えをどうぞ。」

 

貸し切りの時間にはまだ余裕があるわけだし、片付けはそこまで急いでやらなくてもよさそうだ。俺一人で平気だろう。カメラを下ろして夏目さんにタオルを渡しながら言ってやれば、未だプールの中の秋山さんが謎の要求を場に放つ。

 

「折角ですから、私はそっちの専用更衣室を使わせていただきます。さくどんさん、私の着替えと荷物を運んできてくれませんか? ロッカーの鍵はそこにある私のタオルの下に置いてありますから。」

 

「へ? 私がですか?」

 

「勝者の気分をもう少しだけ味わわせてくださいよ。ちょっとした罰ゲームってところです。」

 

「あの、はい。分かりました。持ってきますね。」

 

相変わらず奇妙なことを言い出す人だな。身体を拭きながらちょびっとだけ腑に落ちていない顔付きになっている夏目さんが、それでもこっくり頷いて女性用更衣室に入っていった後で……秋山さんが俺を手招きしてくる。今度はどうしたんだ?

 

「……駒場さん、来てください。」

 

「どうしました?」

 

プールに歩み寄って質問してみれば、秋山さんは俺を見上げながら報告を寄越してきた。バツの悪そうな面持ちで、物凄い『重大報告』をだ。

 

「……何と言えばいいか、脚に異常が発生しているようでして。太ももが尋常ではないくらいに痛いんです。」

 

「……はい?」

 

「プールから自力で上がれそうにないので、引っ張ってくれませんか? ちょっと泣きそうになるレベルの痛みなんですよ。さっきのゴール直後に痛み出して、どんどん強くなってきています。」

 

「……つまり、怪我をしたということですか?」

 

恐る恐る問いかけた俺へと、秋山さんは気まずげな声色で肯定してくる。だから頑なにプールから上がろうとしなかったのか。どうして黙っていたんだ。

 

「間違いなくしていますね。何せ今の私は、これまでの人生で五指に入るような痛みを感じていますから。痛さのジャンルこそ違いますが、強さ的には子供の頃にした骨折の苦痛を思い出します。こうして冷静に喋っていますけど、心の中は痛さと焦りで大混乱中です。」

 

「いやいや、大変じゃないですか。施設のスタッフさんを呼んで──」

 

「それはダメです。誰にも言わないでください。特にさくどんさんには。」

 

「……何故ですか?」

 

骨折と同レベルの痛みとなれば、確実に大怪我じゃないか。担架とかを用意してもらうべきだぞ。こっちもこっちで焦りながら尋ねた俺に、秋山さんは渋い表情で理由を語ってきた。

 

「……だってこんなの、『イベントではしゃぎ過ぎて怪我をするヤツ』みたいじゃありませんか。さくどんさんにだけはそう思われたくないんです。」

 

「しかしですね、何かあったら大変ですよ。自力で上がれないほどとなると、すぐ病院に行く必要が──」

 

「駒場さん、お願いします。面倒なヤツだと思われたくないんです。撮影の後味も悪くなってしまいますし、さくどんさんには内緒にしてください。いつの日か今日の撮影を思い返した時、『そういえばこいつ、怪我をして周囲に迷惑をかけたな』と白い目で見られるのだけは絶対に、絶対に嫌なんですよ。」

 

秋山さんがかなり真剣な顔で頼んできたタイミングで、彼女の着替えと荷物を両手で抱えた夏目さんがプールサイドに戻ってくる。そんなに嫌なのか。そこまで言うなら、俺としても協力したいけど……でも病院には行くべきだぞ。なるべく早くだ。

 

「雪丸さん、持ってきました。」

 

「ありがとうございます、さくどんさん。そこに置いておいてください。」

 

「はい。……じゃあえっと、片付けを手伝いますね。」

 

「いえ、私がやりますからさくどんさんは着替えてください。カメラと三脚を回収するだけなので一人で平気ですよ。」

 

とりあえず話を合わせて着替えを促してやると、夏目さんは素直に更衣室へと入っていくが……どうしよう、これ。どうすればいいんだ?

 

「そうですか? なら、お願いします。パパッと着替えてきますね。」

 

「ゆっくりで大丈夫ですよ。ロビーで落ち合いましょう。」

 

夏目さんの背に声を飛ばした後で、プールの中の秋山さんに向き直ると……彼女は無言で両手をこちらに伸ばしてきた。引っ張れということか。

 

「待ってください、秋山さん。痛むのはどっちの太ももですか?」

 

「左ですね。底に足が当たるだけでも痛いです。」

 

「となると、肉離れかもしれません。……どうしても他の人を呼ぶのはダメですか?」

 

「どうしてもダメです。……駒場さん、ここは私の気持ちを汲んでくれませんか? 大事になればさくどんさんに気付かれてしまいます。私は彼女にだけは嫌われたくないんですよ。友人としての頼みです。二人だけで処理させてください。」

 

縋るような表情で懇願してくる秋山さんに、困り果てた気分で返事を口にする。夏目さんをライバルとして認めているからこその発言なのだろう。要するに、格好の悪いところを見せたくないわけか。痩せ我慢ってやつだな。

 

「さくどんさんはそんなことで面倒くさいと思ったり、嫌ったりはしない人ですよ?」

 

「それでも嫌なんです。……分かってもらえませんか? この気持ち。せめて彼女に抜かれるその日までは、完全無欠の『カッコいい雪丸』で居たいんですよ。さくどんさんには情けない姿を見せるわけにはいきません。」

 

「……分かりました。気持ちは何となく理解できますし、そういうことなら二人だけでどうにかしてみましょう。脇を持って慎重に持ち上げるので、痛かったら言ってください。」

 

「……感謝します、駒場さん。」

 

そうまで言われたらもう仕方がない。付き合うぞ。誰かに対して格好を付けたい気持ちはよく分かるさ。ホッとしたようにお礼を送ってきた秋山さんを、しゃがんで持ち上げてみれば……痛むのか。彼女は呻きながら何とかプール際に浅く腰掛けた後、弱り切った声色で話しかけてきた。

 

「……これはまた、水から出ると思っていたよりも痛いですね。不安になってきました。肉離れというのはこんなに痛いんですか?」

 

「私はなったことがありませんし、そもそも肉離れかどうかも断定できませんが、重度のやつだとかなり痛むらしいです。中学の頃に運動部の友人がなって、次の日松葉杖を突いて登校してきていました。……肩を貸せば歩けそうですか?」

 

「厳しい気がしますが、そうする他ないでしょうね。自分が言い出したんですから、どうにかやってみせますよ。」

 

「……背負った方が楽かもしれません。どうぞ、負ぶさってください。痛む箇所には手を触れないように更衣室まで運びますから。」

 

しゃがんだままで背中を向けた俺へと、秋山さんは小さな声で警告を投げてくる。触ると痛いだろうから、横抱きにするよりは背負った方がマシなはずだ。

 

「……服が濡れますよ?」

 

「そんなの大したことじゃありませんよ。水なんだから乾かせばいいだけです。今は秋山さんの身体を優先すべきでしょう? ……ちょっと無理な背負い方になりそうなので、首に強めにしがみ付いてください。更衣室までなら何とか運べると思います。」

 

「……ありがとうございます。」

 

弱々しい口調で感謝を述べた秋山さんは、呻き声を漏らしながら俺に負ぶさってきた。いつもの彼女からは想像できないような声色だし、余程に痛いらしい。揺らさないように慎重に運ばなければ。

 

「……すみませんが、太ももを触れないとなるとお尻の辺りを持つことになりそうです。構いませんか?」

 

「そんなことで文句を言える立場じゃありませんし、駒場さんが背負い易いようにしてください。緊急時なんだからどこを触ってもいいですよ。……つくづく律儀な人ですね、貴方は。」

 

「まああの、可能な限り気を使って持ちます。……では、いきますね。」

 

背中が濡れる感覚と、全体重を預けてくる秋山さんの柔らかい重さを感じつつ、ゆっくりゆっくりプールサイドの隅にある男女共用の専用更衣室まで移動していく。既に手がズレてきて変なところを触っている気がするし、傍から見れば相当間抜けな背負い方なんだろうが……今の俺は落とさないように必死でそれどころじゃないぞ。『おんぶ』というのは片方の太ももを持てないと非常に難しくなるらしい。一つ勉強になったな。

 

「ちょっとだけ持ち直しますね。このままだとずり落ちそうなので。」

 

「どうぞ。……ひぁ。」

 

「……痛かったですか?」

 

「いえ、そうではなくて……何でもありません。気にしないでください。」

 

奇妙な声を上げた秋山さんの吐息を首に受けつつ、手から伝わってくる水着と肌の境目の感触を無視しながら進んでいって、ようやく到着したスライド式のドアを肩で開けてみれば……これは助かるぞ。バリアフリーの小さなロッカールームが目に入ってくる。

 

そういえばジムのホームページに、特別支援学校等へのプールの貸し出しには割り引きが利くと書いてあったな。そういった需要もきちんと見越してこの更衣室を作ったわけか。自前のプールが無い学校が、課外授業とかに使ったりするのだろう。

 

「ゆっくり降ろしますね。」

 

「お願いします。……この座り方なら大丈夫そうです。タオルと着替えを持ってきていただけますか?」

 

「分かりました、任せてください。」

 

ジムの姿勢に感謝しながら部屋の中央のクッション付きベンチに秋山さんを降ろして、プールサイドに戻って彼女の着替えを回収するが……一人で着替えられるんだろうか? 裸を見られるのはさすがに嫌だろうし、こっちとしても気が引けるぞ。

 

「秋山さん、一人で着替えられそうですか?」

 

心配しながら更衣室に再入室して聞いてみれば、ベンチの上の秋山さんは苦い笑みで応答してきた。

 

「上半身は普通に動くので、着替えは可能なはずです。……重ね重ねすみませんが、足だけ拭いてもらえませんか? 他は自分で出来ますから。」

 

「了解です、なるべく優しく拭きますね。」

 

ベンチに着替えを置いた後で更衣室にあったタオルを手に取って、秋山さんの脚の水滴を丁寧に拭っていく。近くで見るとやけに白くて細い脚だな。『女性の脚部を拭く』というのは滅多にある状況じゃないし、何だか緊張してくるぞ。

 

「……シャワーはどうしますか? 手摺りがあるので、浴びられないことはないと思いますが。」

 

俺が足の裏を拭く度にぴくぴくと小さく震えている秋山さんに問いかけてみると、彼女は首を横に振ってから口を開く。今拭いているのは右足だし、痛くて震えているわけではないはずだ。擽ったいのかな?

 

「時間をかければいけるかもしれませんが、貴方と私が長く戻らないとさくどんさんに怪しまれるでしょう。なのでシャワーは諦めます。……それと、駒場さん。そこは自分で手が届くので、膝から下だけで充分です。」

 

「あーっと、失礼しました。」

 

右の太ももを丹念に拭いている俺へと、秋山さんが僅かにだけ赤い顔で注意してきたのに軽く謝ってから、左足も拭いて立ち上がる。……問題はここからだな。本当に着替えられるのか?

 

「では、私は外に出ておきます。……扉の前で待機しておくので、何かあったら呼んでくださいね。」

 

「大丈夫ですよ、一人で出来ます。それより機材の片付けをやっておいてください。さくどんさんが様子を見に戻ってきてしまうとマズいですし、時間短縮のためにも並行してやっていきましょう。」

 

秋山さんの冷静な指示を背に更衣室から出て、ドアをしっかりと閉めた後で機材の片付けを始めるが……『片付け』と言ってもまあ、プールサイドにあるカメラと三脚を一箇所に集めるだけだ。こんなのすぐに終わってしまうぞ。

 

男性用更衣室に続くドアの近くに荷物を纏めてから、念のため忘れ物がないかプールサイドを一周してチェックして、専用更衣室の前に戻ってきてみれば……中からガタンという大きめの物音と、秋山さんの声が響いてきた。思わず出した感じの変な声がだ。

 

「なぅっ!」

 

「……秋山さん? 大丈夫ですか?」

 

「……だ、大丈夫ですよ。問題ありません。平気です。」

 

ドア越しに三連発で無事を知らせてきた秋山さんは、暫く無言でガタガタという物音を立てていたかと思えば……やがてこちらに改めて呼びかけてくる。かなり情けなさそうな声色でだ。

 

「……駒場さん、入ってきてもらえますか?」

 

「……いいんですか?」

 

「構いません、入ってください。」

 

一応再確認した後で、着替えが終わったのかなと考えながらドアを抜けてみると……えぇ、どういう状況なんだ? ベンチの下の床に仰向けに倒れている秋山さんが視界に映った。しかも下半身は下着のままでだ。上半身にはちゃんとシャンブレーシャツを着ているから、上を着てパンツを穿いた時点で何らかのトラブルに見舞われたらしい。

 

オレンジ色の下着を丸出しにして諦観の半笑いを浮かべている秋山さんは、目を逸らしている俺に疲れ果てた声で依頼を送ってくる。

 

「……私を起こして、ジーンズを穿かせてくれませんか? せめてもの尊厳を守るためにパンツだけは意地で穿きましたが、ズボンはもう無理です。変な体勢で穿こうとして椅子から落ちてしまいましたし、あまりにも痛すぎてお手上げですよ。全てを諦めました。穿かせてください。」

 

「あー……では先ず、起こしますね。」

 

「お願いします。」

 

頑張ったけど、無理だったわけか。何とも悲しい白旗宣言だな。腕で顔を覆いながら呟く秋山さんに従って、横たわっている彼女に近付いて脇に手を差し込む。そのまま引き上げる形で慎重にベンチの上に座らせた後、近くに落ちていたジーンズを穿かせ始めた。結構硬めのジーンズだし、『本物』であることが徒になったらしい。これは穿き難いだろう。

 

「痛かったら教えてください。……なるべく見ないように穿かせますから。」

 

「もうどこをどれだけ見られたところで変わりませんし、好きにしてください。痛さと情けなさで泣きそうです。さくどんさんとの企画で怪我をして、駒場さんに迷惑をかけまくった挙句、幼児よろしくズボンを穿かせてもらうことになるとは……今朝ウキウキで家を出たのが遠い過去に思えます。あの頃の私は幸せでした。」

 

うーむ、落ち込んでいるな。ジーンズを太ももまで上げつつ何と言葉をかけるべきかと迷っていると、秋山さんは自嘲するような薄笑いで思い出話を語り出す。

 

「私という女はいつもこうなんですよ。毎回毎回皆が盛り上がっている時に限って事件を起こして、周囲から煙たがられるんです。……小学校の林間学校では高所から得意げに飛び降りて右足を骨折。運動会では張り切りすぎて派手に転んで保健室送り。中一のクラス親睦会では具合が悪いことを誰にも言えずに嘔吐。中二の合唱コンクールでは指揮者に立候補しておいて当日盲腸で入院。」

 

ジーンズを穿かせた俺へと己の『失敗』を列挙した秋山さんは、ジッパーを上げながら尚もそれを継続してくる。まだあるのか。もうお腹いっぱいだぞ。……もしかするとそういう出来事が原因で人から嫌われた経験があるから、あれほど頑なに夏目さんに知られることを拒絶していたのかもしれないな。

 

「そして中学の卒業式では卒業証書を受け取った直後、ステージから降壇するための階段を踏み外して盛大に流血。高校の文化祭ではボヤ騒ぎを起こし、修学旅行では一日目に高熱を出してずっとホテルで療養。……失敗談を挙げようと思えばまだまだあります。私はそういうタイミングの悪い、間抜けで迷惑な女なんですよ。面倒くさいのは話の内容だけではないんです。幻滅したでしょう? 友達をやめたくなったなら言ってください。私だったらこんな女と付き合うのは御免ですし、別に怒りませんから。」

 

どんよりした雰囲気で話す秋山さんに、苦笑いで返事を飛ばした。そういった逸話は誰しもが一つや二つは持っているものだが……まあ、そこまでバリエーションが豊富なのは珍しいな。

 

「あのですね、こんなことで友達をやめたりはしませんよ。迷惑をかけたりかけられたりしても、後で思い返して笑い話に出来るのが友人というものでしょう?」

 

「……そういうものなんですか?」

 

「確かに今の秋山さんは情けなくて、迷惑で、面倒ですが……それに付き合ってこその友達ですよ。私だってつまらない意地に友人を付き合わせたことがありますし、バカバカしい失敗の埋め合わせを手伝ってもらったこともあります。嫌だ嫌だと文句を言いながら、皆最後には仕方がないなと手を貸してくれました。今では酒の席の笑い話です。」

 

「……しかし、私と駒場さんはまだ友人になったばかりですよ? 貴方にとって手助けに値する人間だとは思えません。」

 

不安そうに言ってくる秋山さんへと、肩を竦めて返答する。明るい笑顔でだ。

 

「でも、私たちは握手をしたでしょう? それなら充分理由になるんです。友情の切っ掛けなんて得てして些細なものですよ。小さな切っ掛けで繋がった仲が、今日みたいな体験を経て深まっていくわけなんですから。……弱いところを見せたり、寄りかかったり、問題を預けたりしてください。秋山さんがそうやって頼ってくれるなら、私は友人として仕方がないなと苦笑いで支えてみせます。」

 

「苦笑いで、ですか。」

 

「実際、秋山さんがさくどんさんに対して格好を付けたい気持ちは分かりますしね。私もまあ、好きな人や尊敬する人の前で強がったり痩せ我慢をした覚えがあります。コラボ相手のマネージャーとしては早く病院に行ってもらいたいところですが、友人として頼まれた以上は最後まで付き合いますよ。私は貴女の友達なんですから、当たり前のことじゃありませんか。」

 

「……なるほど。」

 

ポツリと端的に応じた秋山さんは、ちらりと俺を見た後で視線を右の方に逸らしていったかと思えば……ほんの少しだけ赤い顔で要望を寄越してきた。裸足の右足を俺の方に伸ばしながらだ。

 

「なら、靴下も履かせてください。……駒場さんがそう言うのであれば、今回は存分に頼らせてもらいます。その代わり貴方が窮地に陥ったら、今度は私が全力で助けますよ。つまりはそういうことなんでしょう?」

 

「ええ、その時は苦笑いで助けてください。秋山さんなら頼りになりそうです。」

 

「……深雪でいいですよ。名字で呼び合うのは友達っぽくありませんからね。私も駒場さんではなく、『瑞稀さん』と呼ぶことにします。」

 

「……では、『深雪さん』で。」

 

あらぬ方向に目をやりつつ呼び方を変えてきた秋山さん……深雪さんに首肯してから、彼女の足に靴下を履かせていく。若干気恥ずかしいけど、折角提案してくれたのだから素直に改めておこう。

 

「これで着替えは完了ですね。……今ふと思い付いてしまったので言いますけど、よく拭けば水着の上から服を着られたんじゃないでしょうか?」

 

「……なるほど、素晴らしいアイディアです。思い付いたタイミング以外はですが。」

 

「まあはい、今更ですね。思い付かなかったことにしてしまいましょう。……ここからどうしますか?」

 

名案というのはいつも遅れて登場するな。二人して苦い表情になった後で尋ねた俺へと、深雪さんは一つ咳払いをしてから答えてきた。微妙に視線を外したままでだ。……『友情確認』に照れているんだろうか? 俺まで恥ずかしくなってくるからやめて欲しいぞ。

 

「さくどんさんをどこかに降ろして、一度戻ってくるのは可能ですか? この足でクラッチ操作が出来るとは思えませんし、となれば私は独力で病院に向かえません。駒場さん……ではなく、瑞稀さんに運転してもらう必要があります。」

 

「それなら忘れ物をしたことにして戻ってきます。カフェかどこかに降ろせば大丈夫でしょう。……ですが、その後はどうします?」

 

「私が病院に居る間に、さくどんさんを東京まで送り届けてください。そして電車か何かで病院に戻り、私の車で再び東京に移動するんです。……非常に面倒なことをやらせようとしている自覚はありますし、かなり申し訳ないとも思っています。その上で言いますが、頼めませんか?」

 

「……最後まで付き合うと言ったからには、何があろうとやり切りますよ。悪くない案に思えますし、その作戦でいきましょう。」

 

やってやるさ。こうなったら俺としても意地だ。とことん付き合ってみせるぞ。気合を入れながら立ち上がって、とりあえず深雪さんの水着やタオルを回収していると……ベンチの上の参謀どのが気まずげに『問題』を知らせてくる。

 

「……瑞稀さん、その前に私たちはプールから出る方法を考えなければならないようです。私は貴方に支えてもらわないと動けませんが、しかし二人では女子更衣室も男子更衣室も通れません。中々厳しい問題ですよ、これは。」

 

ああ、そうか。それもあったな。どちらかを通らなければプールから出られないんだった。解決策を見出せなくて停止している俺に、深雪さんはフッと笑って追加の問題を告げてくる。今までにも何度か目にした笑い方だけど……ひょっとしてそれ、何かを誤魔化す時の笑みなのか?

 

「あと、痛みが更に強くなってきました。いよいよ不安です。まさか歩けなくなったりはしませんよね? そうなったらあまりにも間抜けすぎるんですが。」

 

「……急ぎましょう。何とかしますから。」

 

深まった友情と、積み重なる問題。それらのことを思案しつつ、深雪さんの『痩せ我慢の笑み』を見て痛む額を押さえるのだった。……何れにせよ、医者からは何故早く来なかったのかと怒られるだろうな。そこだけは確信を持てるぞ。

 


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