硝子窓にコツンと頭を打ち付けて、ハッと目が醒めた。
昼ご飯を入れた腹と、電車特有の揺れに眠気を誘われたようだ。
車窓から見える景色を覗いてみた。特に趣き深いというわけではない。電信柱や針葉樹、民家が次々に流れてゆくだけの、プレーンクッキーのような味わいだ。
風を切って走る電車とは裏腹に、僕の心は棒立ちだった。
────「時」の歩みは三重である。 未来はためらいつつ近づき、現在は矢のように速く飛び去り、過去は永久に静かに立っている。
棒立ち。過去。
これは世に言うノスタルジーという感覚なのだろうか。都内の大学に進学し初めての帰省である。いまいち実感が湧かない。
ふと車が横切っていった。真っ赤な車である。タイヤの忙しない回転運動が、視界の中心で渦を巻いた。
目が回りそうだった。
いつの日か遊んだ、ぐるぐるバットをふと思い出した。蹌踉とした足取り。思わず足が縺れて、彼女と盛大にぶつかってしまった。痛いはずなのに、思わず吹き出す二人。あの頃は箸が転がっただけで面白かった。
車内にアナウンスが響いた。目的の駅だ。軽く腰を浮かせ、スーツケースの取っ手を持った。
電車は、駅へと滑り込んだ。降車すると、冷房の効いていた車内とは一変して、むわっとした熱気が肌に纏わりついた。
ふと黄緑色のベンチが目に入った。電車通学だった高校生活。つい半年ほど前までそれを使っていたはずなのに、ひどく懐かしく感じる。
あの時も。そう、今日みたいに暑い、高校生活最後の夏休みのあの日も。僕はここに座っていた。
自然、頬に雫が伝った。
ああ。今度は本当にノスタルジーという感情らしい。
昼下がりの短い影が、寂しく立ち尽くした。
平静を取り戻した僕は、実家の前までやってきた。縁側から母が覗いていた。母はにっこり笑って告げた。
「おかえり」
「ただいま」
縁側の戸が閉められ、玄関にまわる足音が聞こえる。庭を見ると、赤いハイビスカスの花が見事に咲いていた。
久々に入る実家は、どこか独特な匂いがした。居間には、父がテレビを見ながら座っていた。タンクトップ一枚にハーフパンツ。父の夏のスタイルだ。
「父さん、久しぶり」
「おう」
久闊を叙す、という割にはあまりに素っ気ない会話だが、元々僕と父との間には会話が少なかった。
母が麦茶を注いでやってきた。
「暑かったでしょ? ほら飲みなさい」
「うん」
グラスを傾け、麦茶を呷った。冷たさが五臓六腑に染み渡った。飲み干してコップを卓袱台に置くと、中央の漆が剥げているのが見えた。幼い頃、僕が煮えた薬缶を直接置いてしまったからだ。
「どれくらいいるつもりなの?」
「今日と明日泊まって、明後日帰るつもり」
「あんたの部屋、掃除しておいたから使いなさい」
「ありがと」
テレビでは、情報番組が放送されている。コメンテーターとして呼ばれているお笑い芸人が冗談を飛ばした。
それに笑うのは母だけだった。父は唇を固く結んで、ぼんやりと画面を見つめている。
僕は立ち上がった。
「懐かしの場所を見て回ってくるよ」
「あら? 長旅で疲れてるんじゃないの?」
「そこまでじゃないよ」
「晩御飯までには帰ってくるのよ」
居間の襖を開け、懐かしの言葉を背に受けた。次の瞬間だった。
「水野さんのお宅には行くのか?」
父が口を開いた。
身体中に電撃が走った。麻痺した僕は、動作をピタリと止める。
徐ろに振り返ると、父は真っ直ぐと僕の方を見ていた。
テレビを見ているぼんやりとしたものしたものとは違う。強く訴えかけるような視線だ。口数の少ない代わりに、細やかな動作でコミュニケーションを取るような親子だったと、今更ながらに思い出した。
「分かんない」
漸く絞り出した返答はひどく曖昧だった。
「もしお伺いするなら、これ持って行きなさい」
母がお勝手から紙袋を持ってきた。中を覗くと、菓子折りが入っていた。包装には、老舗和菓子屋の名前が印刷されていた。
「中は最中よ」
最中。彼女の好物だったものだ。
「ありがとう」
僕が貰ったわけじゃないのに、何故か深々と頭を下げて、村へと繰り出していった。
はじめに足を運んだのは、川だった。町を二分するように流れる川。その支流である。
一歩踏み出して、土手に降りてみた。クローバーのふかふかとした感触が、靴裏に優しい。
小学生の時分は、よくここで彼女と遊んだものだ。彼女は、白いワンピースをよく着ていた。おばあちゃんに誕生日祝いに買ってもらったのだという。その割には、ここで草花と戯れて緑色に汚していた。
そこにハイビスカスのコサージュを合わせるのが、彼女のお気に入りだった。
川の流れに目をやる。
天心を少し外れた太陽の光が注がれている。水は滔々と流れ、反射した光を洗っている。
近くじゃ気付きにくいけれど、俯瞰してみるとその川は蛇行していて、ここはその曲線の一部なのだという。彼女が教えてくれたことだ。
彼女は、地図を見るのが好きだった。地元のものは勿論、別の土地の地図も穴が空くほどに見ていた。度々、此処には何があるだの、この地名にはこういう由来があるだの僕に、講釈したのだった。
ある日、土手で四つ葉のクローバーを探していた時だった。矢庭に彼女はこう言った。
「私ね、大きくなったら東京にいきたいんだ」
小さな村だった。小学校の同級生は彼女と僕だけ。
「どうして?」当惑した僕は思わず尋ねた。
すると、彼女は非常に難しそうな顔をした。
「特に理由はないかな?」
「理由がないのに、東京に行きたいの?」
「強いて言うなら、知りたいの。この世界のこと。地図から見ただけじゃ分からない。実際に足を運んで、自分の目で見てみたいの。だって、人生は一度きりなんだよ。狭い鳥籠の中だけを飛び回るのは、勿体ないじゃん」
小学生にしては達観した考え方だった。普段はおきゃんな女の子。それでいて途端に理知的になる。その二面性が、どこか抜きん出た人間だと感じて、僕は置いていかれているようで不満だった。
「あ、みっけ!」
素早く四つ葉のクローバーを摘み取ると、彼女は立ち上がり天に掲げた。
屈んでいた僕の前で、彼女は両手を広げる。見上げると、白いワンピースの中に凛然と咲くコサージュの赤が、一層鮮やかだった。
中学校から路地を二つ挟んだところにトンネルがあった。トンネルといっても、短い、小さな代物だった。道路を舗装するにあたって、どうしても切り崩さなければいけない地形だったらしい。例のごとく彼女が教えてくれたことだ。
車通りすら少ない田舎道には不要だと思えてしまう。しかし、そこは僕と彼女との隠れ家的な場所だった。
夏休みも目前といった、暑い日のことだった。僕と彼女は、歌の練習をしていた。
変声期のせいで、うまく歌えない僕に、彼女が指導してくれたのだった。
薄暗い影を落とすトンネルの中で、透明感のあるソプラノの音が反響した。
それに合わせて僕も歌う。ホースから一気に水が噴射されたように、裏返った声が大音量で吐き出された。
彼女は腹を抱えて笑い始めた。
「笑うなよ。僕は本気でやってるのに」
「ごめんごめん。でも可笑しくって」
僕はぷっくりと膨れた。
「でも、声変わりなんて感慨深いねぇ。キミも大人になろうとしているってことじゃん」
「大人ねぇ……」
唇の裏側でそっと呟いた。
大人になるということが一体どういうことなのか。その答えを追い求めていたが、答えの求め方は極端なものだった。
周囲の大人を、「これは理想の大人じゃない。反面教師にしなくちゃ駄目だ」と見境なく唾棄していたのである。
思い返せば、それが思春期特有の、反抗心とも呼べないような、哀れな逆張りの精神であることは明白だった。
あろうことか、矛先は大人に見えるものなら誰でも良かったらしい。
「君は相変わらずなんだな。この村を出ていきたいのか?」
僕は苛ついたように言った。
「そこは初志貫徹ってやつ。変わらないよ、私は。この村だけで人生を終えるなんて絶対嫌」
「こんな小さな村は不満か?」
「そうは言ってないよ。ただ、もっと色んなものをみたいの。ここじゃ見ることのできない景色や人の考えを」
彼女は射抜くような視線で僕を見ていた。それにいたたまれなくなった僕は目を伏せる。
地面の置かれた彼女のバッグ。ハイビスカスのコサージュは、キーホルダーに改良してバッグに付けられていた。薄闇の中でも、その色は鮮やかだった。
小学生時代の彼女の像が、ふと浮かんだ。変わらぬ視線で僕に微笑む。屈託のない視線。むきになっていた自分が恥ずかしくなった。
僕はゆっくりと歩き出した。
「君は昔から大人なんだな」
「そんなことないよ」
彼女は小走りで追いかけてきた。カバンにつけたキーホルダーがゆさゆさ
と揺れた。
僕と彼女は高校に進学した。
隣の市にある高校で、村からでも電車で通える距離にあった。
高校三年生の夏休み。帰りの電車だった。
「あーあ。夏期講習、疲れたなぁ」
自分の肩を揉みながら、絞るように声を出した。
彼女はそれを流し目で見ながら言った。
「肩を揉んでほしいのはこっちのほうなんだけど」
「その節は本当にありがとうございます」
君と同じ大学に行きたい。勉強を教えてくれないか。
僕が言い出したのは、去年の暮れになった頃だ。
遅すぎる自我の芽生えといって良かった。或いは、彼女を追いかけていただけなのかもしれないが。
彼女が以前から見たいといっていた外の世界。それを、自分も見てみたくなったのである。傷つくことや、辛いこともあるかもしれない。
しかし、彼女が一緒なら、怖いものはないと、何故か思えてしまったのだ。
「でも、もっと頑張らないとなぁ」
「まあ、夏は始まったばかりだし。ここからが踏ん張り時だよ。少年」
「了解です。先生」
二人は顔を見合わせて吹き出した。
その瞬間、電車は目的の駅に滑り込んだ。
吐き出された乗客は僕と彼女だけ。辺りはすっかり暗がりだった。
彼女を実家まで送り届けることにした。彼女に出された英単語を答えながら歩いていると、あっという間に目的地だった。
「じゃあ、また明日ね」
「うん」
彼女は大きく手を振った。鞄につけたキーホルダーが、身体の揺さぶりとともに左右に振れた。
しかし、明日なんて来なかった。
翌日、待ち合わせの駅まで向かう道中。
彼女は車に轢かれて死んだのだった。
次に向かった先は、彼女の実家だった。
インターフォンを押そうとする指が、小刻みに震えた。じっとりとした汗が背中に流れてゆく。大きく息を吸って、指に力を込めた。
ねっとりと呼び鈴の音が反響するのが分かった。ガラガラと音を立てて、引き戸が開かれた。
「はい?」
「お久しぶりです。おばさん」
ひょっこりと顔を覗かせたのは、彼女のお母さんだった。
「あらまあ、すっかり大人びちゃって。ほら、上がって上がって」
記憶の中にあるおばさんの通り、急かすような口調で中に通された。居間では、彼女のお父さんが座椅子に掛けていた。
「よく帰ってきたねぇ。そこに座りなさい」
おばさんとは対照的にゆったりと話すおじさん。相好を崩すと、深くなったほうれい線をより際立たせた。
「大学はどう? 慣れてきたかしら。少し痩せたんじゃない。ちゃんとご飯食べてる? 向こうでの友達はできた?」
「おっかぁ。そう早口でしゃべっちゃ困っちまうだろ」
「あらやだ、ごめんね」
口を手で覆い隠すおばさん。
「これ、うちの両親からです」
一拍会話に隙が生まれたので、菓子折りを渡すことにした。
「まあ、お気遣いさせちゃって。悪いわね」
「中は、最中だと聞いています」
「あらそう。じゃあ、早速お供えしようかしら」
そう言って、おばさんは居間と仏間を隔てている襖を開け放った。重厚な黒い長方形が、僕を見下ろしていた。
「君からもお参りしてちょうだい」
おばさんに勧められて、ゆっくりと仏間に近づいてゆく。おじさんの手前を横切るとき、静かな声が耳朶を打った。
「早いねぇ。あれから一年かぁ」
座布団に座り、仏壇を見上げた。屈託のない笑顔を浮かべる、彼女の写真だった。
「りん」の音が部屋の中で響いた。目を閉じて合掌する。
瞼の裏に、彼女との最後の時間が浮かんできた。
白装束に包まれた彼女の細い身体。
小学生時代のワンピースの活動的な白とは違う。一ミリも動かない、恐ろしい白さ。
喪服を着込んだ人々が、花を棺桶の中に入れてゆく。その中で一輪、真っ赤な目を引く花。彼女のお気に入り。ハイビスカスのコサージュだった。
彼女を轢いたのは、免許を取得したばかりの、帰省した大学生。僕達の小中学校の先輩だった。気が大きくなって、ついスピードを出しすぎたのだという。
葬儀に駆けつけてきた加害者のご両親に、唾がかかるほど罵声を浴びせていたおじさん。それを泣きながら静止していたおばさん。普段とはまったく違う二人の挙措にひどく驚いた。
蓋が閉められて霊柩車に乗せられていく。バタンと無機質なドアの音が響いた。
滲んでゆく視界に、澄んだ空の色が痛々しかった。
思わず潤んだ目を拭うと、階段から駆け下りてくる音が聞こえた。彼女の弟だった。僕の訪問に気付いたようで、軽く会釈をされた。
彼に近づいてみると、記憶の中にあるよりも一回り大きかった。
「久しぶりだね」
「はい」
声も野太い。半袖のワイシャツから覗く首筋は日焼けしていて、喉仏がくっきりと浮き出ていた。
「今年、高校受験なんだっけ?」
「ええ。俺、これから夏期講習なんです」
鋭い眼光が僕を刺した。憎悪を孕んだ、灼けるような眼差し。
蛇に睨まれた蛙というのだろうか。
それ以上、僕は何も言えなかった。
彼は、僕を恨んでいるだろうか。
大学生というものを恨んでいるのだろうか。
そんな問いに応えてくれるはずもなくて。
運動靴の踵を履き潰しながら、彼は足早に去って行った。
帰宅し、久しぶりに母の手料理を食った後、風呂に浸かり、泥のように眠った。
ふと目が醒めてしまった。
スマートフォンの待ち受け画面のデジタル時計は、五時三十分を示していた。
寝汗を乾かそうと思って外に出てみる。東の空からかすかに朝の光が漏れ出ていた。
庭に植えられたハイビスカスの花が、開いていた。吸い寄せられるように花に近づく。母さん、ごめん。一言詫びを入れて、一輪摘み取った。
足を向かわせたのは、あの川だった。さらさらとしたせせらぎが、朝の風とともに涼しい。
水面を覗いてみた。光の反射の法則に従って、僕の顔が映し出される。
川の中の僕は、まっすぐとこちらを見ていた。思い出すのは、昨日の弟君の目である。
あの目は、僕に向けられたものじゃない。世界に向けられたものだ。自分の姉を魅了した、外の世界。しかし、彼女がついに見ることのできなかった外の世界。その理不尽を射殺さんとした目だったんだ。
手に持っていたハイビスカスの花を、そっと川に浮かべる。
ゆっくりと、ゆっくりと。
花は、水の流れに身を委ねて。
越せなかった夏を、進んでゆく。