教皇と浮浪児
セージがその者と出会ったのは、彼の長い人生の終わり頃に近かった。
「年寄りが部屋に籠もってばかりで、足腰が弱っても知らんぞ。留守番をしてやるから、たまには近所を散歩でもしてこい」
そう理由をつけて、セージを執務室から追い出したのは実兄である。世俗とは異なる階級社会で位人臣を極めたセージに、ずけずけと物を言えるのは、肉親くらいなものだ。そして老境になっても、セージは兄に頭が上がらなかった。
早速言われた通りに「散歩」がてら、近隣の情勢を己の目で確かめておこうと考えた。ギリシャに住まう彼が行き先に選んだのは、イタリア。彼にとっては「近所」の範疇に入る場所だ。
オスマン帝国の支配下にあるギリシャから、船で隣の半島に渡ると、そこはナポリ王国。未だ統一されたことのないイタリアは、小競り合いと謀略の嵐にさらされていた。
時は十八世紀。イタリアをほぼ統一することになるナポレオン・ボナパルトが誕生する、数十年前のことである。
◇
セージはその地を、それこそ散歩の気軽さで巡った。供も護衛もない、単身の忍び旅だった。高位にあるだけのただの老人であれば、なんとも無謀な旅となろうが、彼は凡人ではなかった。
ある地方で噂を聞いた。
――ローマに通じる街道沿いに、破壊された村がある。そこに夜な夜な幽霊と追剥ぎが出るという。
幽霊も追剥ぎも、廃墟にいて不思議はないが、一緒に出るとは聞いたことがない。興味を惹かれ、噂を確かめに行くことにした。
夜を待って廃墟と化した村に入れば、死の匂いが微かに漂っていた。それは死肉から放たれる腐臭とは異なる。気配と言ってもいい。セージの異能が感じるものだ。
その気配を辿っていくと、瓦礫の山の陰に人影を見つけた。死霊ではなく生者だった。
年端もいかない浮浪児だった。煤で汚れた大人の服を着て、何をするでもなく座り込んでいる。声を掛けようとして、その指先に遊ばせている青い炎を見た。
ひらひらと舞う青い鬼火は死者の霊魂。
それをなだめ、操る力はセージと同じ異能だ。
現れた老人の視線の先にあるものに気づき、少年はようやくまともに彼を見た。その霊魂たちは近しい者かというセージの問いには答えず、倦み疲れたような笑みを浮かべる。
――死ねばどんな大人も子供も、聖者も悪党でも同じ。小さな鬼火になってしまう。
「所詮、人の命なんてのは塵芥と同じなんだよ」
歳に似合わぬ厭世的な言葉を吐く少年に、セージは名を尋ねた。名前ねえ、と物憂げに呟く少年から、鬼火が離れていった。
「死刑執行人《マニゴルド》」
言うなり、装身具を狙って刃物で斬りつけてきた。セージは僅かに引いたが、完全には避けなかった。服が斬られた。
まさか相手が見切った上でそうしたとは思わず、少年は勢いづいた。そうして踏み込んできたところを、セージは片手で吊り上げた。
その老人とも思えぬ力強さ、素早さ。相手が悪かったと観念した少年は、抵抗を止めた。そして笑った。
己もまた塵芥。さっさと始末をつけてくれ、と。
何もかもを諦観するには幼すぎる者が、そう言った。粋がるでもなく、強がるでもなく、寒々しい無常で心を満たしていた。
セージはゆっくりと腕を下ろして少年を解放した。
子供の追い剥ぎ風情をどうこうするつもりはない。ただ、知っていて欲しかった。人の生が塵芥などと卑下するものではないことを。もっと輝き、尊いものであることを。
魂と触れあう者だからこそ、その美しさを知っているはずだ。
知らないのであれば、示してやりたい。伝えてやりたい。命を燃やして戦い、散っていった同胞たちの眩いほどの生を。
命は塵芥などではない。
「おまえの命も、また」
そう告げれば、少年は顔を背けた。
にじむ涙を隠して少年は問う。塵芥でなければ、人の生は何なのかと。
セージは答える。宇宙であると。
力強く断言したあと、彼は一緒に来るよう少年を誘った。多すぎる死を見つめ、生に絶望したままの状態で放り出すのは忍びなかった。そして許せなかった。
「見せてやろう。おまえの見捨てかけた命の尊さを。それを守るために戦う者たちの美しさを」
セージは歩き出した。噂の正体が分かった以上、留まる理由はない。ところが後ろからついてくると思った足音は聞こえてこなかった。
振り向けば少年は空を見上げている。
老人の胸の内に突風が吹いた。
突風の正体は怒りなのか、焦りなのか。己にもよく分からなかった。とにかくその突風に突き動かされて少年のもとに取って返し、手を掴んだ。少年は目を丸くしたが何も言わなかった。
セージは小さな手を引いて、廃墟を後にした。
掌に包んだ細い手は冷たかった。それが子供らしい温もりを取り戻す頃には、謎の突風はセージの中から去っていった。
彼は改めて少年に名を尋ねてみた。
「マニゴルド」
「それは通り名を気取ったものだろう。親から貰った名を聞いておる」
「そんなもん、ねえよ」
少年は冷たく吐き捨てた。
「孤児院でつけられた名前なんて、家畜の名前だ。俺の名前じゃない。逃げ出した時に捨てた」
「では、そのマニゴルドというのは? 意味は分かっておるのか」
「分かってる。自分で決めたんだ。金持ちも貧乏人も善人も悪人も、死んだら皆同じと分かった記念に」
マニゴルド。死刑執行人。悪党。
人の死を、その霊魂が肉体という殻から抜け出る様を見つめてきた子供の、幼いながらの決心だったのだろう。セージも根掘り葉掘り聞き出すつもりはなかった。
「では、その名が良きものとして人々に記憶されることを祈ろう」
少年は黙って薄暗い笑みを浮かべた。老人の言うような日は来ないと信じている様子だった。
それでも得体の知れない相手に大人しくついてくるのだな、とセージは思った。流されやすい性分にも見えないが、諦めているのだとしたら不憫なことだ。
仲間はいるのかと尋ねた。返ってきたのは否という短い答。物騒なこの地域ならば、盗賊団で使われているのではとも考えたが、それも否定された。
「俺は一人だ」
「そうか」
哀れむつもりはなかった。強引に連れて行く前に、親しい者に別れを告げさせたいと思っての問いだったから、未練がなければそれで良かった。
二人はそれきり黙って歩いた。
やがてセージの投宿先に着いた。
愛想良く出迎えた亭主は、客の服が切られていることには気づかず、あるいは気づかない振りをして、連れている浮浪児に嫌悪感を示した。
「旦那、そういうのは人目に付く場所へ連れてこないでくださいよ」
蚤と臭いが移っちまう、とぼやく亭主を、セージは金を握らせて黙らせた。
部屋に連れて行くと、少年は扉の近くで留まった。いくら椅子を勧めても掛けようとしない。遠慮することはないと言っても、首を横に振るばかりだ。
「腹が減っているなら、何か食べ物を頼んでやる。もう夜も更けたが、パンとチーズくらい用意してもらえるだろう」
少年はまた首を振った。
「では好きなほうの寝台で眠ればいい。私は仕事があるから、まだ明かりは消してやれぬが」
言うなり、セージは少年に背を向け、書き物机でペンを取った。去りたいなら好きにすればいいと、示してやったつもりだった。
視察をしていて気づいたこと、改めて各地の部下に訓示すべきことを書き付けているうちに、時間は瞬く間に過ぎていった。
ふと、そういえば奴はどうしているかと振り返ると、少年は二つ並んだ寝台のどちらでもなく、窓の下の床で眠っていた。野生の獣が眠りながらも辺りに耳を澄ましているのと同じ顔で、毛布にくるまっている。
明かりの下で改めて見ると、意志の強そうな眉と口元の少年だった。死の気配を漂わせながら、逆にそれを飲み込むほど生命力は強い。希有な素質を持っていることがセージの目には見てとれた。
彼はギリシャに帰ることにした。
予定ではもう少し地方を回るつもりだったから、鬼の居ぬ間の洗濯時間が短縮されて、部下たちは落胆するだろう。
(されど見るべきほどのものは見つ)
セージは少年の寝顔を眺めながら思う。
この子供を見出すのが目的ではなかったはずなのだが、心は既に満足してしまっている。どうしたことかと考えあぐね、答を出すほどの問題でもないと見切りをつけて、寝台に横たわった。
静かな部屋に幼い寝息が聞こえる。
他人と同室に眠るのは、はて幾年ぶりかと思いながら、老人はゆっくりと目を閉じた。
◇
翌朝、セージは少年を連れて宿を発った。
前の晩と同じように、二人は言葉少なに歩いた。話しかけられれば少年はそれに応えるが、そうでない時には黙って老人の後をついてきた。連れが無口な性質だとは思えず、セージは思わず言った。
「おまえはなにも聞かぬな。知りたいことがあれば聞きなさい。答えられる問いならば答えよう」
荷馬車が二人を追い抜いていった。ガラガラと音と土煙を残していく。そしてまた道に二人きり。
少年はセージの顔を見上げた。媚びのない、怯えのない、靱い視線で。
「ジイさん、人買いか」
セージは微かに笑みを浮かべた。人の悪い兄であれば、その通りとうそぶくところだが、彼は正直に答えた。
「人買いでも人攫いでもない。将来有望そうな者を見繕って集めているという意味では、似たようなものかも知れぬが」
「学校かよ」
「これから向かうのは、修道院と練兵所を兼ねた城砦とでも言うべき場所だ」
俺を兵士にするつもりか、と少年が眼で問うた。セージはその背中に手を添え、横に並ばせて歩き出した。
「私は長年そこで暮らしておるのでな。おまえを連れて帰る所というと、他に思い浮かばなんだ」
「ジイさんそこで何してんの」
「信仰ではなく拳を以て戦女神に仕えておる」
直接的な答を求める少年は、老人の言い回しに少し苛立ったようだった。宥めるために頭を撫でようとしたら、嫌がられて手をはね除けられてしまった。仕方なくセージは言葉を継ぐ。
「神はな、大勢おられるのだ」
人間に啓示を与える唯一絶対の神などいない。代わりにいるのは欠点だらけ、欲望まみれの神たちだ。その戦いの記憶の一部が、ギリシャ神話としてこの世に伝わっている。
「ゼウスやヘルメスの名くらいは耳にしたことがあるだろう。冥王ハーデスに海皇ポセイドン……。私が仕えるのは女神アテナ。知恵と技芸と戦を司る女神だ」
「芸術の話は分かんねえよ」
「貴族好みの古典教養を語っているのではない。地上に降臨せずとも神々はいる。それは事実だ。そして我々は拳を以てアテネに仕える闘士。聖闘士《セイント》という」
「聖人《セイント》ねえ」
「単語は同じだがキリスト教のそれとは意味が違う。聖闘士はあくまで戦士だ。アテナは地上の覇権を狙う他の神々から、この世界を守っておられる。聖闘士はアテナの尖兵として、他の神の兵と戦う。私はその聖闘士をまとめるだけの役回りだ」
子供の目が胡乱げにセージに向けられた。荒唐無稽な話と思われようが、セージの語ったことは事実である。
「ジイさん馬鹿なこと言ってるけど、まとめ役ってことは意外に要塞のお偉いさんだったりするんじゃねえの。俺を連れて行くにしてもさ、『ワシは偉くて金持ちだから、付いてくれば腹一杯飯や女を喰えるぞワハハ』って威張れば、浮浪児なら引っかかるとは思わねえの」
「嘘で釣っても仕方なかろう」
第一私が権威を笠に着たところでおまえは付いてくる気になるのか、と問えば、首を捻って、ならねえな、と答えた。
「私もおまえも魂を視る。生きている間にどんなに富や権力をかき集めても、死ねば魂だけの存在となることを知っている」
子供は頷いた。生前の地位や権力など所詮は生きている者にしか価値はなく、生そのものに価値を見出せない者には何の意味もない。
「ならば、おまえには私の地位や威厳を誇示しても無意味。示してやれるのは私の在りかただけだ。ところで、馬鹿なこととは何だ」
「だって神様と戦争なんて馬鹿なこと教会の奴でもなきゃ……あれ、悪魔とじゃないのか」
「さよう。我らはアテナを奉じて他の神と戦う」
唯一神を信奉するのではなく、数多の神々の中の一柱に仕えるということ。マリア信仰が盛んな地域とはいえ、一神教と共に育った者には共感しにくいはずだ。
普通、キリスト教やイスラム教の浸透した地域から聖闘士の候補者を迎える時には、アテナや聖闘士にまつわる概念を教えるのに、もう少し時間を掛ける。
この時のセージも、話したことを一度に受け入れさせようとは思っていなかった。
しかし少年は「へえ」とセージの言葉を受け入れた。無感動は無理解ともとれる。
「驚かぬな。神は唯一にして絶対の存在だと、教会で教わったことこそが正しいのだと怒らぬか」
べつに、と素っ気ない返事が返ってきた。
「どうせ俺を気に掛けてくれる神様なんていねえからな。審判の時が来ても、俺なんか隅のほうで忘れられてるってさ」
誰に言われた言葉なのかと、セージは眉をひそめた。神に忘れられた存在だと蔑まされれば、己を含めた命全てを塵芥とみなすことにもなろう。
「だから俺のことを知らない奴が、一人なのか大勢なのかなんて、どうでもいい」
「では、アテナがおまえを気に掛けられているとしたら、どうだ?」
返事が返ってこなかったのでセージの独り言のようになってしまった。
「私は女神の降臨まで聖闘士を預かる代理人だ。おまえと出会ったのはアテナのお導きやも知れぬ」
「そりゃジイさんの都合だろ。俺には関係ないところで勝手に戦争でもなんでもやってろ」
心底どうでもよさそうだった。全てに無関心というわけでもないだろうが、老人の話だけでは現実味がないのだろう。
同時に、外国勢力に勝手に支配権を争われている土地の民らしい言葉だった。つまりそれは、神々に支配権を争われているとも知らない、大多数の人間の言葉でもあった。
セージは「そうだな」と頷いた。
「では祈りを捧げるときに、おまえと出会えたことをアテナに感謝するとしよう。最後の審判など私は信じないが、アテナだけはおまえを見ていてくださるように」
その言葉に少年がセージを見上げた。
セージも少年を見つめ返した。
「言っただろう、神は大勢おられると。中には他の神が見捨てたものを愛される方もおられる」
「アテナは変わり者?」
「人のために人として生まれて他の神々と戦うことを選ばれたのは、アテナのみだ。その意味では」
何かを言いたげに、けれど何も言わず、少年は前に目を向けた。幼い横顔には、怒りに似た強張りが浮かんでいた。
◇
やがて港に着いた。
行き先を問われ、ギリシャに帰ると告げた。
「故郷を離れるのは嫌か」
老人の問いに、少年はゆっくりと首を横に振る。
「べつに。言葉さえ判ればどこだって同じだ」
強がりではなさそうだ。死ねば皆同じと達観する者には、生きる場所など関係ないのだろう。諦めたような穏やかさだった。
セージは「イタリア語の分かる者もいるが、言葉は追々教えてやろう」と応えて、手を差し伸べた。
「来なさい」
手を取るか。
背を向けて去るか。
選ばせるかのようなセージの声に、少年は迷うことなく、セージの手を掴んだ。
二人の乗り込んだ船は、イオニア海を渡ってパトラスの港を目指す。
少年は船縁で遠ざかっていく陸地を眺めていた。その背中が小さく、いかにも心細そうだったので、背の高い老人は後ろから包み込むように肩を抱いてやった。
訝しげに振り仰ぐ顔に笑いかけると、彼は少年の眺めていた方角へ目をやった。
「なにも永の別れというわけではあるまい。望郷の念に駆られたら帰れる距離だ。イタリアとギリシャは目と鼻の先だ」
「そんなんじゃねえ」
鼻を鳴らす少年を潮風から守るように腕の中に抱き、セージは海を眺めた。地中海の風に煽られて、少年の癖毛がセージの視界の端で揺れている。子供の体温はなるほど大人より高いのだな、となんとはなしに思った。
「うっとうしいな。あっち行けよ」
老人を肘で押しのけ、少年は再び海を眺めた。セージは客用甲板に戻ろうとした。
不意に背後で奇妙な音を聞いた。
振り返ると、少年が海に身を乗り出していた。小さな背を丸めて、胃の中の物を戻している。セージは少年のもとに戻り、その背中を撫でてやった。
「……止めろ。胸糞悪いんだ」
「我慢せず、吐けるなら吐いておけ」
撫でるのを止めない手に、少年は不服そうに口をつぐんだ。と、またこみ上げてくる吐き気に、慌てて船縁から首を突き出す。
老人は彼が落ちないようにしっかりと支え、空いた手で何度も背中を撫でてやった。子供の体は、服越しにも分かるほど肉が薄い。
嘔吐するものがなくなっても、少年は海を覗き込んだまま、しばらく荒い息をしていた。
セージは「下ばかり見るとまた気分が悪くなるぞ」と小さな体を抱きかかえて、その場に腰を下ろした。少年は抵抗する気も起きないらしく、大人しく老人の膝に頭を乗せている。
「なんか食い物に当たったかな」
「ただの船酔いだろう」
「船に、酔う?」
「波に揺られ続けることで頭の中が悪酔いしたようになるのだ。波に慣れれば治るから案ずるな」
少年は小さく悪態をついて目を閉じた。汚れた口元を拭ってやりながら、セージは尋ねる。
「船に乗るのは初めてか」
「初めてだ。足の下が上下して面白いと思ったのにな……。ジイさんは気持ち悪くならないのかよ」
彼は苦笑した。子供に船酔いを心配されるとは。
少年の目が薄く開き、下から睨み付けてきた。
「済まぬ。おまえを笑ったわけではないのだ。私の身を案じてくれる者は久しくなくてな。嬉しかったのだ」
微笑む老人をじっと見上げていた少年は、寂しいジジイだな、と呟いて目を閉じた。かも知れぬ、とセージも返して、少年の硬い髪を撫でた。
風向きが変わり、にわかに甲板の上は騒がしくなった。帆を調整する水夫たちが慌ただしく走り回る。一人の水夫が座り込む老人に声を掛けた。
「どうした旦那。病人か」
「連れが船酔いでな」
老人の腕の中を覗き込むと、男は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。仕立てのいい服を着た上品な老人と、垢まみれの浮浪児の取り合わせが信じられなかったのだろう。
「誰が誰を連れていようが勝手だけどよ、もし小僧が密航したのなら、海に叩き落とすぜ」
「私の連れだ。船賃も二人分払っている」
水夫はまだ疑わしげだったが、仲間に呼ばれて立ち去った。
セージは少年を抱き上げた。船縁にいては水夫たちの邪魔になるだろうし、子供も静かな場所のほうが落ち着くだろう。客用甲板に引き揚げたほうがいい。
少年は抱かれるのを嫌がったが、老人の胴体に腕を突っ張るのが精一杯で、それもすぐに諦めた。老いてなお逞しい胸に頭を預けて「格好悪りい」と呟く。
「なんの。誰もおまえを笑いはせぬ」
船室の隅に少年を横たわらせて、セージは一度その場を立ち去りかけた。
ふと、呼ばれた気がして振り返れば、ぶかぶかの上着の下から、少年が彼を見つめている。物言いたげな視線に、「どうした」と促した。すると相手は顔を隠してしまった。水を貰ってきてやるから大人しく寝ているよう言いつけても、返事はなかった。
戻ってきた時、少年は脱いだ上着を被って眠っていた。歩き詰めで疲れていたのかも知れない、とようやくセージも思い至った。休みたいと相手が一言も零さなかったから、つい道を急いでしまった。前の晩から見知らぬ他人と一緒にいて、少年はずっと気を張り続けていたはずなのに。
「信用を得るのは難しいものだな」
セージは自嘲気味に呟いて座った。
閉鎖社会でいくら崇拝されたところで、それを知らない者にとって、彼はただの老人に過ぎない。そんな数多の人間こそ、彼と、彼の仕える女神の守るべき尊い存在であること。そんな初心を改めて噛み締める。
やはりこの少年と出会うための旅だったのだと、確信した。
◇
船が港に着いた。
体調の回復した少年は勢いよく桟橋を渡っていった。行き交う人足と水夫と船客とで、辺りはごった返す騒ぎだった。
セージが急いで後を追うと、少年は人相の悪い男たちに取り囲まれ、何かを責め立てられていた。周囲の人間は余計な揉め事に巻き込まれまいと、目を逸らして通り過ぎていく。
セージは男たちに声を掛けた。
「もし、その子供は私の連れだが、何か迷惑を掛けただろうか」
男たちは振り返り、老人の旅装を値踏みするや目配せし合った。逃げようとした少年は襟首を掴まれ引き戻された。
「てめえが主人か。このガキがぶつかってきたくせに謝りもしねえで行こうとしたんだよ。お陰でこちとら服が汚れちまった。使用人のやらかしたことは主人が償えよ」
「謝ればよいか」
「謝り方は分かるよな、爺」
頭らしき男に付いてこいと言われたので、セージは大人しく従った。一団は人目のない路地裏に入った。
腕を掴まれたまま、少年は諦めたように呟く。
「馬鹿じゃねえの、こいつら。ジイさんが俺のために金出してくれるわけないじゃん」
「分かる言葉で喋れ」と、イタリア語を聞きつけた一人がいきなり激昂した。少年を容赦なく殴る。少年はよろけたが、抑えられているせいで倒れることもできなかった。
眉をひそめたセージの肩に、頭目が馴れ馴れしく肘を置く。
「おいおい、お上品な爺は今のでびびっちまったか? まだ序の口だろ。早く有り金全部出してくれねえと、今度はあんた自身が痛い目に遭うぜ」
「あいにくだが、金で片付けてやる気が失せた」
言うなり老人は動いた。
横にいた男の腹に肘を打ちこむ。次いで少年を捕まえていた者に向かって飛んだ。ふわりと音もなく舞う老人が眼前に立つまで、相手は気づかなかった。膝蹴りを受けた首が本人の意思と無関係に上を向く。最初に肘鉄を食らった頭目が胃液を吐き出し、腹を押さえて蹲った。少年は自分を掴んだまま倒れる男に引っ張られて尻餅をついた。
「大事ないか」とセージが助け起こすと、「あ、うん」と子供は頷いた。
言葉を交わす間に、少年を人質にしようとした男を肩を粉砕して宥め、困惑しつつ立ち向かってきた二人には控え目な裏拳で退場いただいた。みしりと鼻の軟骨が砕ける感触がすぐに拳から遠のいていく。
芸のない平凡な叫び声を上げて、無事な一人が逃げだそうとした。セージは助走も無しに跳躍すると、その男の上を飛び越えて前に立ちはだかった。
「どこへ行く?」
男は破れかぶれになって掴みかかってきた。その腕を受け流して背中を軽く押してやれば、相手は壁に激突した。
六人とも骨折くらいはしているだろうが、殺してはいない。セージからすれば、花を愛でるように繊細に扱ってやったつもりだ。本来の力を発揮すれば、六人の男たちは自身も気づかぬうちに一瞬で肉塊となって飛び散っていただろう。
「済まなかったな、おぬしら。こやつが不注意でぶつかったことは謝ろう」
呻きの六重奏を背中に聞きながら、老人は少年を連れて路地を出た。何度も後を振り返る少年に、安心しろと肩を叩く。
「それよりマニゴルド。どこかで休もう。腹は減っていないか」
「減った」
少年の気は見事に逸れた。
二人で港近くの酒場に入った。
オリーブ油と魚介を使った料理は、少年にも馴染みある味のはずだった。適当に頼んだ皿は育ち盛りの子供に押しつけ、自分は大して美味くもないワインで舌を湿らせる。住まいに戻ったら、とりあえず茶を飲みたいなどと思いつつ、向かいの様子を眺めた。
「美味いか」
尋ねても返事はなかった。
少年は必死だった。皿に顔を押し当てるようにして物を口に詰め込んでいく。誰かに取られまいと、噛む暇もないほど急いで掻き込む。めいっぱい頬張っては、彼の食事を狙う者がないか、上目遣いで辺りを窺う。
それは孤児院で、そして路上の片隅で、少年が身に付けたものだろう。
連れを眺めながらセージは考えた。
これから向かう場所には、同じ年頃の子供たちが、聖闘士を目指して集団生活を送っている。もちろん本人の願いとは無関係に、口減らしで親に売られてきた子も珍しくない。彼らはもう元の家には戻れないことを悟り、歯を食いしばりながら強くなっていく。
その中にこの少年も加えるべきだろうか。本人が聖闘士になりたければ悩む必要はない。しかし違うなら、本人の望まない酷なだけの修行を強いることになりはしないか。生の輝きは聖闘士でなくても感じられるものなのに。
(連れて行くのは聖闘士にするためではない。そこを間違えてはこの者のためにはならない)
老人は悩みを振り切るようにワインを飲み干した。
酒場を出た二人は、港を抜け、街を抜け、山へと続く道をひたすら歩いた。
強い日差しの下、険しい山道が続いても、少年は弱音を吐かなかった。けれど長身で健脚のセージに子供の足で付いて行くのは大変で、少年の目は前方ではなく、ひたすら足元を見ていた。
ようやく老人が足を止め、少年が一息付いたとき、二人の全身は夕焼けに赤く染まっていた。
「日の入りだ」
セージの指し示す先には、地平線の彼方に溶けようとする夕日があった。
遮るもののない広い空と、茫々たる大地と、全てが暮れていく。山から望む曠野の世界に人の気配はない。まるで少年とそれを導く老人の二人きりしかいないような景色だった。
「もう少しで我らの本拠地、聖域《サンクチュアリ》に入る」
少年は圧巻の景色に目を奪われていたが、老人の声が届いている証拠に表情が改まった。
「聖域は結界で守られている。普通の人間は立ち入ることも見ることもできない場所だ。だが私がおまえを連れて行くのは、そこへ閉じ込めるためではない。おまえに考えを改めてもらうためだ。出て行きたいと思ったら、自由に去って構わない」
それが彼の出した結論だった。
「いいのかよ」と少年は卑しい笑みを浮かべた。「明日には金目の物と一緒にずらかってるかも知れねえぜ」
聖闘士の集う地で盗みができたら大したものだ、とセージは内心苦笑する。
「それも仕方ない。己の道は己で決めよ。だが私はおまえに生を、宇宙を見せると言った。その約束を果たすまでは逃したくない」
「なら首輪でも付けとくか」
「肉体を引き留められても魂までは鎖に繋げない。権威はおまえに通用しない。だから私にはおまえを誘うのが精一杯だ」
そう言って片手を差し伸べた。
「おいで、マニゴルド」
夕日を映した子供の目が、老人の手を、そして顔を見上げた。
差し出された手を少年が握ったのは、これまで僅かに二度。
一度目は追い剥ぎ稼業から引き上げられた。
二度目は見知らぬ土地へ連れてこられた。
では三度目は。皺と節の目立つ手は、細くて汚れた手をどこへ導くだろう。
少年がゆっくり伸ばした手を、セージは小さな幸福感と共にすぐに握りしめた。
――のちに彼ら二人は死と魂を従えさせる力をもって、死の神タナトスに挑むことになる。それは戦いの記録に残る栄光の一ページ。しかしこの時点でそれを知る者はいない。