【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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喜びと情熱について
子供の領分、大人の言い分


 

 弟子が聖闘士になりたいと願い出ても、セージは一度も首を縦に振らなかった。理由を聞いても駄目の一点張りで、水掛け論で数日を費やした。

 

「なんでだよ」

 

「獅子座の言葉でその気になっただけなら頭を冷やせ。星を目指せというのは、聖闘士になれという意味に限らぬ」

 

「きっかけは何でもいいじゃねえか。弟子が聖闘士になるって言ってるんだから、喜べよ教皇なら」

 

「私の顔を立てるためならその気遣いは必要ない」

 

「お師匠のためじゃねえよ、俺のためだよ。ここで暮らすなら、そのほうがいいと思ったんだ」

 

「ほう。聖域で暮らすための方便で聖闘士になると申すか」

 

 馬鹿者、とセージは弟子を見た。その視線の厳しさに打ち据えられたように身を固くし、それでもマニゴルドは師を見返した。

 

 教皇という権力者の庇護下にあることを、少年は卑屈に思ってはいない。己のことを悪し様に言われても気にすることはなかった。所詮は塵芥のような存在だ。しかしそんな取るに足らない存在のせいで教皇と神官の間に緊張が走っているとなれば、話は別だった。

 

 聖闘士になれば、師の側にいても誰も文句は言われないだろうと彼は考えた。師も同意見だと思った。強くなりたいと告げた時に喜んでくれたのは、つい最近のことだ。だから聖闘士を目指すことをセージに否定されたのがどうしても理解できない。己の道は己で決めよ、と聖域に入る前に彼に言ったのはセージだ。

 

(喜んでくれると思ったのに)

 

 思わず悔し涙が出そうになるのを深呼吸して堪え、少年は師に宣言した。

 

「俺は諦めねえからな」

 

 教皇宮の中庭を横切って去っていくのをセージは黙って見送った。

 

 マニゴルドは厨房に押し入ると、パンや果物、干肉などを手当たり次第に抱えて(泥棒だと料理人が叫んだが無視した)自室に戻り、必要な荷物をまとめた。そして教皇宮を飛び出した。

 

 少年は怒りのままに十二宮を駆け抜け、道と魚座の住居を隔てる境でようやく立ち止まった。

 

「アルバフィカ! いるか」

 

 少しして茂みの中から美しい少年が顔を出した。髪に葉が絡まっている。

 

「何の用だ」

 

「どこで糞してんだてめえは」

 

「おまえが切羽詰まった声で怒鳴るから近道をしただけだろう」

 

 二人は友人と呼べるだけの関係を築いていた。アルバフィカは悪童の荷物に気づき、急いで門のほうへ回り込んだ。何事かと問われてマニゴルドは告げた。

 

「家出してきた」

 

「家出?」

 

 大きな目を丸くする友人に頷き、髪についた葉を取り除いてやった。アルバフィカは詳しい話を聞こうと、庭のほうへ彼を案内しようとした。それを断って、マニゴルドは立ち話を続ける。

 

「クソジジイが考えを改めるまで教皇宮には戻らない。訓練には今まで通り参加するつもりだから、聖域にはいるけどな。クソジジイの知らないところで勝手に聖闘士になってやる。ざまあみろだ」聖衣を授けることができるのは教皇だけ、という事実をすっかり忘れている。

 

 興奮している友にアルバフィカは瞼を伏せた。教皇宮を出てきた足でやって来たということは、寝起きする場所を求めてのことだろう。その期待には応えてやれそうにない。

 

「悪いが……うちには泊めてやれない」

 

「分かってるよ、そんなことは」

 

 魚座の薔薇の餌食になるのも恐ろしいが、ルゴニスから教皇へ連絡がいくだろうことは容易に予想が付く。大人は頼れない。

 

「適当に屋根があって人が来ない所ならどこでもいいんだ。おまえ生まれた時から聖域にいるなら、どこか良い場所知ってるんじゃないかと思ってさ」

 

 アルバフィカは首を横に振った。聖域育ちと言っても、薔薇の庭以外の場所へ足を運んだことがない。頼られているのに役に立てないというのは、とても歯痒いことなのだと彼は知った。

 

「よし」とマニゴルドは彼の手を引いた。「それじゃ一緒に俺の隠れ家探しにつきあえや」

 

 有無を言わさず連れ出され、アルバフィカは怒ろうとした。けれどどうしても笑うのを我慢できなかった。マニゴルドもその笑顔を見て、つられて笑った。

 

 二人は聖域のあちらこちらを覗いて歩き、ついに忘れられたまま朽ちていきそうな納屋を見つけた。粗末な戸に鍵は付いていない。元浮浪児は慣れた身のこなしで中に入り込んだ。早く来い、と急かされてアルバフィカも慌てて入る。

 

 外から見た時は放棄されたとばかりに見えた納屋は、意外にも整頓され、現役で使われている様子だった。人の出入りが頻繁だったらどうしようとアルバフィカは心配したが、死角が多いから大丈夫だとマニゴルドは請け負った。入り口付近からアルバフィカは声を掛けた。

 

「どうだ」

 

「うん。俺一人なら余裕」

 

 奥から物を動かす音がして、埃まみれのマニゴルドが出てきた。預けていた荷物から毛布を取り出し、祭具らしき大きな道具の陰に巣を作る。アルバフィカはわくわくしながらそれを見守った。

 

「夜は大丈夫か? 蝋燭を持ってこようか」

 

「要らねえ。明かりが漏れるとバレやすくなる」

 

 その時、納屋の中に光が差し込んだ。誰かが戸を開けたのだ。二人は陰に身を潜め、息を殺した。足音が近づく。何かをドサリと置く音。僅かに間を置いて金属質の物が地面に当たる音。

 

「あ」

 

 声がして、気づけばマニゴルドは棚越しに相手と目を合わせていた。

 

 知った顔だった。マニゴルドが教皇の弟子だということが聖域に知られるようになった発端の候補生である。相手が唖然としているうちに、マニゴルドは「よう」と手を挙げて、道で会ったような挨拶をした。

 

 後にエルシドと呼ばれることになる候補生――ここでもその名で記すことにしよう――は、つられて片手を挙げると、自分のその動きは本意ではないと言いたげに仏頂面で手を下ろした。そして尋ねた。

 

「そこで何をしている」

 

 物堅い口調の存在に興味を持ったか、アルバフィカが顔を出そうとした。その頭を押さえつけながら、マニゴルドは唇の端を引き上げる。

 

「言えないな。知ればおまえも共犯だぜ」

 

「……何の」

 

「いいんだな、知っても?」と脅しを掛けて、それでも相手が退かないと知りマニゴルドは答えた。「しばらくここで暮らすことにした」

 

 エルシドは「追い出されたか」と言った。マニゴルドはむっとしただけだったが、アルバフィカが吹き出した。候補生の目が陰にいる存在に向けられた。

 

「そっちも」

 

「いや、こいつは俺の協力者」

 

と、悪童はそれ以上アルバフィカを隠すのを諦めて、彼を引っ張り出す。光が溢れるようなその美しさにエルシドは息を呑んだ。期待通りの反応にマニゴルドは内心ほくそ笑んだ。アルバフィカに愛想笑いを期待するのは無駄なので、とりあえず話を進める。

 

「おまえも今から協力者な。俺がここにいることは、こいつとおまえだけの秘密だ」

 

 唆すと候補生は案の定満更でもなさそうな顔になった。だが彼は真面目だった。

 

「しかし、おまえがここで寝起きするのは勝手だが、届けは出しているのか」

 

「は? そんなことしたら秘密が秘密じゃなくなるだろうが。俺はおまえとアルバフィカの二人が協力して俺を助けてくれるもんだと思ったのになあ」

 

「え、ルゴニス先生にも言っちゃ駄目か」

 

とアルバフィカが口を挟んだ。

 

「当たり前だろ。男ってのは秘密を背負って生きていくもんなんだぜ」

 

「なるほど」

 

 アルバフィカは納得すると、目の前の無愛想な相手に向かって手を差し出した。「では私たちは共通の秘密を背負うわけだ。仲良くしよう」

 

 相手が落ちるまでもう少し。マニゴルドは溜息を吐いて弱々しく付け加えた。

 

「悪いな。俺が教皇の弟子ってことが知られてなければ、こんな苦労もさせなくて済んだんだけどな……」

 

 落ちた。黒髪の候補生は天を仰ぐと、覚悟を決めた目でアルバフィカの手を握った。

 

「分かった。乗りかかった船だ」

 

 その後三人で物を移動させ、マニゴルドの寝床を見つかりにくくした。後から加わったエルシドは寡黙だがよく働いた。自分より小さな二人を見て、保護者役を買って出ようとしたのかも知れない。

 

 そこへ第二の闖入者が現れた。

 

「片付けか? 感心だな」

 

 朗らかに声を掛けられ、三人の少年は固まった。

 

「戸がきちんと閉まっていなかったから見に来たが、どうせなら開けたほうが明るくて作業しやすいぞ」

 

 納屋に入ってきた人物の視線は一番背の高い候補生から家出少年を経て、最後にアルバフィカに留まった。その途端、一声叫んで両目を腕で覆い隠したかと思うと後ろを向いた。

 

「済まん、顔は見ていない」

 

 マニゴルドはアルバフィカと顔を見合わせた。候補生が闖入者のところへ駆け寄った。彼の尊敬する人物だったからだ。

 

「シジフォス様」

 

「いやしかし、いくら幼かろうと、聖闘士の候補生であるならば仮面は付けるべきだな。それともこの二人には見せても良いという覚悟があるのか? ははは」

 

 なにやら独り合点している様子だ。彼らに背を向けて喋っている若者が、新任の射手座の黄金聖闘士だった。彼自身まだ少年と呼ばれる年代だが、少なくともこの場にいる中では群を抜いて年長である。マニゴルドは彼の背中に声を掛けた。

 

「シジフォスさんよ。これにはちょっと事情があるんだ。こいつのために、俺たちとここで会ったことは口外しないでくれねえか」

 

「私のために? どういう――」

 

 アルバフィカの口を押さえて、マニゴルドは仲間に目配せした。エルシドは躊躇いながらもシジフォスを納屋の外へ押し出した。

 

「ごめんなさい、シジフォス様。見なかったことにしてください」

 

「いや、謝らなくてもいい。事情があるなら無理には聞かないさ。でも、もし自分たちだけで対処できなくなったら私に言いなさい。他の者には黙っていてやるから」

 

 おそらく事情も状況も何一つ分からないままなのに、シジフォスは気にすることはないと候補生の肩を叩いて去っていった。彼が自分の言ったことを守る人間だということは、聖域ではよく知られていた。

 

 納屋の中では事情を悟ったアルバフィカが憤慨していた。

 

 聖闘士は「女神を守る少年」である。ここでの「少年」の定義は時代によって変わるが、性別が男ということは一貫して変わらない。しかし女に生まれながら聖闘士を目指す者も、少数ながら昔からいた。彼女たちは女を捨て、女神に忠誠を誓う覚悟を示すために仮面を付ける風習があった。

 

 つまり、シジフォスの口にした「仮面を付けるべき」という言葉は、アルバフィカを少女と勘違いしていなければ出てこないものだった。

 

「どいつもこいつも目が節穴の奴ばかりだ! ルゴニス先生は私を女だと間違えたことはないぞ」

 

 育ての親が性別を間違えるわけがないだろう、と思いながらマニゴルドは言った。「落ち着けって。おまえの顔が綺麗だから仕方ないんだよ」

 

「綺麗だからなんだ。役に立たないぞそんなもの。もっと実用的なのが欲しい。おまえも誤解を招くようなことを言うな。だいたい仕方ないとはなんだ。そこのシジフォス信者は、ちゃんと私が男だと分かっていたじゃないか」

 

 信者呼ばわりされたエルシドは「男だったのか」と意外そうに呟いた。「俺を愛してくれるのかと思って嬉しかったのに」

 

「どいつもこいつも!」

 

 アルバフィカの踏む地団駄で、床に埃が舞った。初対面で彼を少女だと勘違いした二人の少年は「落ち着けよ」と同時に言った。

 

 夕方になり協力者二人が帰ると、マニゴルドは寝床に転がった。夕食代わりの干肉を薄く削いで口に入れる。部外者に見られた以上移動すべきだったかも知れないが、居場所を知られること自体は実は怖くない。怖いのは聖域から放逐されることだった。

 

 聖域の境界には、普通の人間が入って来られない結界が張られていると聞いた。今マニゴルドがその境界線を越えれば、二度と戻って来られないような気がした。強くなる方法は聖域にいる限りは分かる。けれどもし聖域の外に出たら、指導者もないままどうやって聖闘士を目指せばいいのか分からない。

 

 だから少年は聖域に留まっている。

 

 食べ物は十分に持ってきた。無くなれば雑兵用の食料庫に忍び込んで盗めばいい。昼は候補生のふりをして訓練をして、体が痒くなったら泉で水浴びする。夜は体をねじ込む隙間があればどこでも寝られる。

 

 マニゴルドはナイフを眺めた。少しくらい飼い慣らされただけでは、野良犬の生きかたは忘れない。セージのほうでも、しばらく餌をやっていた野良犬が急にいなくなったところで、きっと溜息一つで終わるだろう。

 

(そもそも俺が聖闘士になりたいのは、堂々とお師匠の側にいるためなのに)

 

 なぜあのクソジジイは分かってくれないのか、と少年は干肉を行儀悪く噛んだ。

 

          ◇

 

 日中の執務を終えてセージが教皇宮の奥向きに戻ると、用人が主人を待ち構えていた。マニゴルドが荷物を持って出ていったという。聖闘士になることを諦めないという弟子の捨て台詞を思い出し、彼はゆっくりと瞬きをした。まったく、子供のやることは短絡的だ。

 

 迎えに行くのが先か。

 

 それとも音を上げて帰ってくるのが先か。

 

 今の状況は、師弟のどちらが先に折れるかというマニゴルドからの挑戦だった。

 

 主人の指示を待つ用人に、夕食の支度は自分一人の分でいいと伝え、それでもなお物言いたげな相手に、何もする必要はないと念を押した。

 

 私室に戻った彼は棚を開けた。そこにマニゴルドが聖域を去る時に返すと約束した品が保管してある。衣類に手を付けた様子はない。ナイフだけが持ち去られていた。追い剥ぎで手に入れた金銭さえそのまま残っていた(手段はどうあれ本人が稼いで手に入れた物だ。没収するのは忍びなかった)。

 

 世間を知る身が無一文で出奔するはずがない。それどころか、行きがけの駄賃に銀製品の一つや二つ持って行くはずだ。つまり、マニゴルドはまだ聖域内のどこかにいて、外へ出るつもりはない。

 

 それだけ分かれば十分だった。

 

 夕食の時間が過ぎても、マニゴルドは戻らなかった。

 

 蝋燭の明かりがグラスに反射して、机上に広げた報告書と計算書に歪な光を映し出す。読むともなしに書類の字面を眺めながら、セージはじっと物思う。

 

 弟子が聖闘士になりたいと言った。

 

 客観的に見てそれは喜ばしいことなのだろう。セージも当初は、マニゴルドが聖闘士に関心を持つことを望んでいた。彼らを通して生の輝きに触れてくれればと思ったからだ。

 

 教皇の心を奪い聖域を蔑ろにさせようとする邪魔者、という目でマニゴルドを見る者たちは、聖域に貢献する意志が少年にあると分かれば、おそらく態度を変える。彼らもまた聖域を愛しているからだ。マニゴルドの発言はそれを計算している。

 

 だが、そんな打算だけが理由だとしたら、彼の判断をセージは喜べなかった。

 

 マニゴルドが聖闘士を目指すなら、それが子供の夢で終わらずに実現することをセージは予想していた。養い親の贔屓目ではない。教皇として多くの若者に聖衣を授けてきた経験、そして目の前の報告書がそれを示している。

 

 彼は机上の書類を手に取った。マニゴルドの身上調査の報告書だった。教皇の近くにいる者や、聖域内で一定以上の地位にある者は、敵の間諜である可能性を徹底的に調べられる。それは神官であろうと下男であろうと例外はなく、セージは調査がマニゴルドに及ぶことに反対はしなかった。むしろ積極的に調べさせた。

 

 ――まだマニゴルドが聖域に来て日の浅い頃のことだった。寝る前のひとときに二人でカードをしていたら、ふと気になった。

 

『そういえば、おまえは孤児院にいたとか』

 

『いたよ』と少年は反抗的な目で老人を見た。『なに、どこの馬の骨とも分からない奴が教皇のお側にいるのはけしからん、とでも言われた?』

 

『そう喧嘩腰になるな。赤子の時に捨てられたのか』

 

『らしいぜ。ラ・ルオータ(回転板)に乗せられて、哀れな赤ん坊の運命は教会へ!』

 

と少年は手にした絵札を場に捨てた。カードに描かれていたのは、イタリア語で「ラ・ルオータ・デラ・フォルトゥーナ」と呼ばれる「運命の輪」だった。

 

 セージは手札を見て一枚引いた。『どれくらい前のことだ。はっきり言うと、おまえは今何歳だ』

 

 マニゴルドは指を折り、途中で諦めた。

 

『分かんねえな。ずっとその日の飯のことで精一杯だったから。何年くらいだろう。一人で追い剥ぎするようになってからは多分一年、いや二年くらいかな。その前はさっぱりだ』

 

『生まれた日は分かるか?』

 

 嫌そうに眉をひそめた少年は、すぐに目を見開いた。

 

『もしかしてジイさん、俺の父親……?』

 

『違う』

 

 間髪入れずに入った否定に、悪童は『焦ってやんの』と笑いを浮かべた。

 

『ボナ何とかの日の頃に拾われたって聞いたけど、詳しくは知らねえ』

 

『夏生まれなのだな。私もそうだ』とセージは微笑んだ。イタリアで祝われる聖ボナベントゥラの日は七月にある。セージの誕生日の前日にも聖ヨハネと聖ペテロの祭日がある。キリスト教圏では毎日誰かしらの聖人が祝われているが、近いと言えば近い。

 

 しかしそんな共通点に興味はないとばかりに、マニゴルドは手札に目を落とした。

 

 セージも絵札を一枚出し、向きを相手に合わせた。壺を持つ裸婦と幾つもの星が描かれたカード。彼はカード上部に描かれた星を指先で順になぞった。星座を作るように。

 

『星は希望となる。人には守護星座というのがあってな。それはこの世に生まれ落ちるのと同時に定まるのだ。おまえを守り、導く星座を調べても良いか』

 

『いやだ』

 

 なだめすかしながら孤児院の場所と付けられた名前を聞き出そうとしたが、本人はどちらも忘れたと嘯いて口を割らなかった。それで調べが付くまでに半年も掛かってしまった。

 

 調査を得意とする聖闘士が、篤志家のふりをしてイタリア各地の孤児院を訪れ、過去の台帳を片端から引っ繰り返した。そしてようやくマニゴルドの特徴と合致する男児の記録を見つけた。死亡扱いになっていた。寄付を仄めかすと、男児は死んだのではなく失踪したのだと院長は明かした。誰もいない所に話しかけたり、不気味な光を身に纏わせたりしていたから、きっと悪魔憑きだったのだろう、それである日気が触れて姿を消してしまったのだと院長は自信たっぷりに答えた。

 

 院長室から帰る篤志家を見つめる子供たちは、誰もが血色悪く痩せこけて、目ばかりがギラギラと大きく光っていた。彼らを気の毒だとは、篤志家もとい聖闘士は思わなかった。彼もまた貧農の出で、幼い頃に聖域に売られた身だった……。

 

 提出された報告書の内容は、セージの予想した通りのものだった。だが、そこに記載された日付や方角などを元に、マニゴルドの守護星座を割り出した時、彼は慄然とした。

 

 黄道十二星座の一つ、蟹座。

 

 八十八ある全天の星座のどれがその者の守護星座になるかを決めるのは、運命でしかない。一人の人間が複数の守護星座を持つこともあるが、その場合はどれが優先され、どれが補助に回るかも決まっている。人の意志で変えられるものではなかった。

 

 出生時の情報で不足している部分を、条件を様々に変えて再計算した。間違いを恐れて何度か計算をやり直した。しかし何度やり直しても、最も対象者に影響を及ぼす星座として必ず蟹座が浮かび上がった。これは蟹座の聖衣をまとえる可能性を示している。

 

 聖衣を譲れる後継者が現れないまま、その座に長く在り続けている蟹座《キャンサー》の黄金聖闘士は、この結果に震えずにはいられなかった。蟹座の黄金聖闘士にして現教皇――すなわちセージである。

 

 蟹座、天秤座、魚座の黄金聖闘士になるには、小宇宙の強さの他に、それぞれ特殊な素質が必要とされる。

 

 蟹座の場合は、死と魂を従える能力。

 

 死霊を操り、魂と対話するマニゴルドは、十分すぎるほどその力がある。だから同じ異能を持つセージは彼を気に掛けて聖域に連れてきたのだが、まさか守護星座まで同じとは思わなかった。

 

 同じ異能を持つ者は少し前まで候補生にもいた。ただしその若者の守護星座は他にもあった。若者の師は最初からそちらの聖衣を継がせることを望み、教皇もそれを認めていた。ところが黄金聖闘士の座を欲していた当人はそれを受け入れず、師から破門されるに至った。それきり、蟹座の候補者は現れていない。

 

 実力があっても星と聖衣自身に認められなければ、聖衣はまとえない。

 

 星の加護があっても異能がなければ、その位には届かない。

 

 異能があっても力がなければ、聖闘士にはなれない。

 

 全てを兼ね備えるのは難しい。セージも、己の後継者と期待してマニゴルドを聖域に迎えたつもりはなかった。

 

 しかし初めて赴いた土地で、己と同じ能力と宿星を持ち合わせる子供に出会った偶然。他人を初めて傍らに庇護する気になった偶然。師弟関係になった偶然。アテナの降臨が予兆され始めたこの時期になって、弟子が聖闘士を目指すと言い出した偶然。聖闘士としてのセージに長い間後継者のいなかった偶然。偶然。偶然。

 

 ありえない。もはやこれは必然だった。

 

 マニゴルドは聖闘士になるだろう。もはやこれはセージの中で予想ですらない、確定した未来だった。

 

 だからこそ、弟子が打算のもとに聖闘士になりたいと声を上げたのなら、その判断をセージは喜べなかった。マニゴルドが生きている間におそらく聖戦が起こる。その時に彼は、聖闘士こそ己の望んだ道だと言い切れるだろうか? 教皇に連れて来られたばかりに神々の戦いに巻き込まれたと、セージを呪うのではないだろうか。それを思うと胸が痛む。

 

「いや、違うな」

 

 セージは独語し、自嘲した。マニゴルドに恨まれるのが怖いのではなかった。胸を締め付けるのは、慕ってくれる子供を死なせたくないという、ありきたりな感傷だった。

 

 今までにも多くの若者を死地に送り込んできた。なのに己の弟子だけは死なせたくないというのは、指揮官として口にしてはならないことだ。

 

 彼はグラスをくるりと回した。

 

 兄と話がしたくなった。

 

 セージと同じだけの歳月を送り、多くの弟子を聖闘士に鍛え上げ、そして喪ってきた兄ならば、きっと割り切りかたを知っているだろう。

 

 夜は静かに更けていく。

 

 マニゴルドは今夜の寝床を見つけただろうか、とセージは窓の外を眺めた。月光を融かした夜空がほんのりと明るい。

 


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