【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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女神降臨せず

 

 教皇の星見は、その結果が聖闘士の行動指針の基となる重要なものだ。そして聖闘士にとって最も重要な、女神と聖戦に関わる内容については、後の参考になるよう記録もしっかり残される。

 

 セージは集まった面々に言った。

 

「遠慮は要らぬ。欲しいのは私の星見が誤っているという証拠だ。そなたたちは各時代の女神が降臨した記録を調べよ。そなたは同じく当時の星見の記録を用意。そなたたちは、私が使った暦ではなく別の暦で再検証せよ。もしかしたら降臨は正しくは今夜かも知れぬ。急いで頼むぞ」

 

 女神が降臨するというセージの読みに誤りがなかったか、聖闘士と神官を交えた検討会が始まった。

 

 マニゴルドは不思議だった。

 

 赤ん坊の生まれる日が予測とずれたからといって、何の問題があるだろう。母親だっていつまでも身重でいられるはずもない。待てば済むだけの話なのに、と思った。教皇が取り仕切る儀式も当分なさそうなので、自室でぐっすり一眠りした。

 

 昼前に起きた彼は、執務室を覗いた。

 

 セージは対面するハクレイの意見に耳を傾けていた。疲れの影が色濃く浮かんでいるのが見てとれた。

 

 女神に仕える巫女たちは神殿に籠もり、ひたすら降臨を待ち続けている。神官たちは書庫から過去の記録を根こそぎ持ってきて調べ物をしている。教皇宮の使用人たちまで声を潜めている。どこを見ても深刻な顔ばかりだった。

 

 青空の下、マニゴルドは久しぶりの聖域を見て回ろうと思った。

 

 十二宮の階段を下りていくと、人馬宮でシジフォスに会った。彼もまたアテナ神殿の外で一晩を過ごした一人だった。

 

「よう、シジフォスさん元気?」

 

 マニゴルドが声を掛けると、どこか無理のある笑顔で「元気だとも」と返ってきた。

 

 教皇宮にいる者たちよりは気軽に話ができそうなので、マニゴルドは少し留まっていくことにした。シジフォスは年長者らしく彼を気遣った。

 

「少しは眠ったか? おまえも夜通し頑張って疲れただろう」

 

「さっきまで寝てた。俺はね。お師匠たちは怖い顔してずっと作業してる」

 

 それを聞いてシジフォスが表情を曇らせた。

 

「辛いな、猊下のお心を思うと」

 

「なあ、なんで皆そんなに困ってるんだ? 死産だったのか?」

 

 少年の素朴な疑問に、射手座の黄金聖闘士は戸惑った。頭を掻いて回答に悩んだ。とりあえず座れ、と壁際に置いてある椅子を指差す。

 

「どこから話そうか。アテナが人の肉体を持って神殿に降臨される、ということが昨夜起こるはずだった。これは分かるか?」

 

「うん。お師匠は神の子がイエスとして生まれるようなものって言ってた」

 

「ああ、キリスト教徒に向けた説明だな。人の肉体を持って、とは言っても母親の腹から生まれるわけじゃないんだ。ある日突然、アテナは女神像の前に赤子の姿で現れるという。アテナに母親はいないんだ」

 

「じゃあ誰が産むんだよ」

 

「それはやっぱり、父神のゼウスが頭をかち割って産むんじゃないか」

 

「神から産まれるのに人って、変じゃねえの」

 

「でも昔からそう伝わってるしなあ」

 

 アテナの降臨を素直に信じてきたシジフォスは、マニゴルドの疑問に困惑するしかない。

 

「人の肉体ってことは、両親が人だってことだろ。どこかで生まれた赤ん坊を連れてきて、勝手に女神だってことに決めてるだけじゃないの」

 

「いやいや。それなら昨夜のような事態にはならんだろう」

 

「だから目星を付けてた妊婦が死産だったんじゃないかって聞いてるんだよ」

 

「意外に拘るね、おまえ」

 

 苦笑したシジフォスに、マニゴルドは言い募った。

 

「だって別の赤ん坊を連れてくれば済むだろ。お師匠が悩まなくてもいいじゃんか」

 

「別の赤ん坊、では意味がないのだよ」

 

 穏やかな男の声が割って入った。二人が振り返ると、魚座の黄金聖闘士が佇んでいた。

 

「あ、おっさん、久しぶり」

 

「いつ戻ったのだ? 昨夜見かけた時は驚いたぞ。後でアルバフィカに顔を見せてやってくれ」

 

 ルゴニス様、と呼びそうになって新米の黄金聖闘士は言い直した。「ルゴニス殿はもうご出仕ですか」

 

「ああ。検討に参加する。おまえは上からの指示がない限り待機していて良いぞ」

 

「すみません」

 

 ルゴニスは二人の少年を面白そうに見やった。

 

「シジフォス、黄金聖闘士たる者、女神の降臨について説明できないようでは、下の者に示しが付かないぞ」

 

「はい」

 

「マニゴルド。アテナは聖戦に備えて、人の姿を取って女神像の前に降臨される。だが本質はあくまで神だ。ゼウスが雄牛の姿で乙女を攫うとしても、心まで雄牛に変わるわけではないのと同じだよ。赤子の姿で降臨された女神は人と同じように時間を掛けてご成長され、その中で人との絆を育まれる。成人した姿で降臨されないのはそのためだと聞く」

 

「本当は人じゃないんだ?」

 

「人ではないな」

 

 なんだ、とマニゴルドは吐き捨てた。「それなら生まれる日も、生まれる前から女の子だって分かってるのも、おかしくないな」

 

 ルゴニスの説明で事情を理解した少年の胸に、別の疑問が浮かんだ。女神降臨を予見できるのなら、それを逆に利用して、敵が赤子の命を狙いに来ることだってできる。いくら神でも赤子の状態では無防備だろう。

 

「その考えはもっともだ。だから降臨はしばらく伏せられる。神殿に降臨される瞬間を拝めるのは、教皇と少数の巫女だけだ。私たち黄金聖闘士は神殿の外で警護に当たるが、多くの聖闘士は何も知らない。それがアテナの御身をお守りすることになるからだ。下の様子を見ただろう」

 

「下?」

 

「十二宮より下のことだよ。聖域に戻ってきたときに見たはずだ。皆、普通に過ごしていただろう」とシジフォスが横から言った。

 

「知らない。俺、教皇宮に上がるまで聖域の連中とは会ってない」

 

 どうやって帰ってきたんだ、とシジフォスが訝しげに少年を見た。秘密、と少年はそらとぼけた。

 

 二人の黄金聖闘士に別れを告げて、マニゴルドは十二宮を下りた。確かにシジフォスの言う通り、聖域内の雰囲気はいつもと変わらない。候補生を叱咤する監督者の声。闘技場を修繕する木槌の音。

 

 彼はアルバフィカに会いに行った。外から声を掛けてしばらく待つと、魚座の弟子は庭仕事中の土だらけの恰好で姿を現した。数ヶ月ぶりの再会。だが相手は仏頂面でマニゴルドを睨んでいる。

 

 なにかまた怒らせただろうかと悪童は首を捻ったが、聞いてみると何のことはない。ジャミールに行く前にマニゴルドがエルシドには顔を見せたのにアルバフィカには挨拶していかなかったという、それだけのことに拗ねていた。

 

「あの無表情な奴に『マニゴルドは聖域を去った』と知らされた私の気持ちが分かるか?」

 

「悪かったよ。あの時は時間がなかったんだ。あいつにだって小屋に荷物を取りに行くついでに、おまえに言付けしただけだよ」

 

「ふん。どうせ今だって先にあいつのところに行ってきたんだろう。無駄足で気の毒なことだったな」

 

「無駄足? あいつに何かあったのか」

 

 マニゴルドが首を傾げると、アルバフィカは溜息を吐いて落ち着いた。怒ってみせたのは演技だったと思われるほどの変わりようだった。

 

「あいつは聖域を去った。おまえがいなくなって間もなく、修行地に行ったんだ。何年かかるか分からないが、聖闘士になるまで戻ってこないだろう。行く前に私に伝言していった。『生きてまた会おう』と、おまえに伝えてくれと」

 

 人はいつ死ぬか分からないと言った者への、エルシドからの返事だった。アルバフィカはマニゴルドが何か言うことを期待したが、彼は「へっ」と笑い飛ばして終わらせた。

 

「これから久しぶりに聖域をぶらつくけど、おまえも一緒に行くか」

 

「行かない。ルゴニス先生が最近ずっとお忙しそうだから、薔薇の世話は私がしっかりしないと」

 

 黄金聖闘士は弟子にも女神降臨のことを明かしていないらしい。

 

「そうか。それじゃ仕方ないな」

 

 軽く手を挙げて友人と別れた。その後聖域の様子を見て回ったマニゴルドは、女神降臨を知る者が本当にごく僅かであることを知った。

 

(教皇があんなに困ってるのに)

 

 腹の底で怒りが湧いた。それが何も知らない聖闘士たちに対するものか、何もできない己に向けたものなのか、よく分からなかった。 

 

 夕方になって教皇宮に戻っても、女神が降臨しなかったことについての結論はまだ出ていないようだった。

 

 翌日も、その次の日も、女神は現れなかった。

 

 少年は師の姿を執務室かアテナ神殿の近くでしか見かけないことに気づいた。睡眠も食事もまともに取っていないのだ。時が経つにつれ、セージの苦悩と疲れが澱のように溜まっていくのが分かった。

 

 マニゴルドは思い立って厨房に足を向けた。

 

          ◇

 

 セージは教皇の間に一人座していた。

 

 明かりのない夜の暗がりで、彼は彫像のように動かない。

 

 教皇の星の読み方が誤っていないことは、再三の検討ではっきりした。だがその星見の内容通りに女神が降臨しなかった理由については、誰も答を見出せなかった。正に神のみぞ知るというわけだ、と笑ったハクレイの顔にも精気がなかった。

 

 聖域の長い歴史の中でも初めての事態に、誰もが当惑していた。しかしセージは教皇として対処しなければならない。

 

 お師匠、と呼ぶ声が聞こえた。

 

 顔を上げると、扉の向こうからマニゴルドが顔を覗かせている。何かあったのかと尋ねると、弟子は小走りに教皇の間へ入ってきて、

 

「飯。できたから食ってよ」

 

と法衣の袖を引っ張った。

 

「今は忙しい。おまえ一人で先に食べておれ」

 

「そうやってここんとこお師匠がまともに飯食ってないの、俺知ってるからな。料理人に聞いたんだから隠したって無駄だぜ。ここから動きたくないって言うなら、皿持ってくるよ。スープ作ったんだ」

 

 セージは聞き返した。「作った?」

 

 少年は頷いた。「俺が作った。師匠なんだから弟子の成果を評価しろよ」

 

 この忙しい時にと苛立ったが、その時初めてセージは余裕を無くしていることを自覚した。ふっと息を吐いて、弟子の顔を見る。マニゴルドは心配そうに師を見上げていた。

 

「……そうか。では食べるとしよう」

 

 弟子は彼を私室に導いた。途中の廊下で用人から料理の乗った大きな盆を受け取り、危なげなく部屋まで運んだ。

 

 簡素なスープを想像していたセージは、具のたっぷり入ったギリシャ料理を見て驚いた。

 

「おまえが作ったのか? いつ覚えたのだ」

 

「教わったんだ。手っ取り早く食えて年寄りの体にも優しいやつを。いけすかない料理人だけど、あの野郎もお師匠の体のこと心配してたから」

 

 老人はスープを口に運んだ。小さく切られた野菜と柔らかく煮込まれた米が、胃に温かさを落としていく。食事とまともに向き合うのは随分と久しぶりな気がした。

 

「食えそう?」

 

「ああ」

 

 頷くと、セージは弟子の手料理を心から味わった。マニゴルドは安心した様子で向かいに座り、師の食事を見守った。

 

「おまえたちにも心配を掛けていたのだな。済まなかった」

 

「少しは身体のこと考えろよ。年なんだから」

 

 投げやりな口調は相変わらずだが、その奥には不器用な気遣いが見えた。人を思いやることができるようになった弟子を、セージはじっと見た。細かった腕や脚には筋肉が付き、背も伸びた。しばらく見ない間に大きくなったと老人は目を細めた。女神降臨に合わせて帰ってきた時には、それに気づきもしなかった。

 

「なんだよ」

 

「おまえが聖域に来て、どれくらい経つのかと思っただけだ。あんなに細くて小さかったのに」

 

「そりゃあ育ち盛りだぜ」と少年は笑った。「そのうちお師匠の背だって抜いてやる」

 

「おお、そうか」

 

「だから俺、お師匠の役に立ちたいよ」

 

 なにが「だから」なのか分からないが、セージはその気持ちだけで十分だと答えた。マニゴルドは頭を振り、彼なりに考えたことを喋り出した。

 

「俺さ、女神が降臨するって聞いた時、女の子が産まれるんだとばっかり思ってたんだ。どこかの女が産んだ赤ん坊にアテナという名前を付けるんだって。違うんだってな。女神は最初から女神なんだって」

 

「そうだ」

 

「なんで神って分かるんだよ。赤ん坊なんだろ」

 

「定められた日の定められた刻に、女神像の前に突如として現れる御子なのだ。普通の赤子のはずがないであろう」

 

 その赤子が女神であるかどうかは、実は状況で判断するしかなかった。圧倒的な小宇宙を持つアテナではあるが、降臨直後は普通の人の子と変わらない。

 

 そこが分からない、と少年は腕を組んだ。

 

「どの辺まで許容範囲なんだよ。星見の日付がずれてるっていう方向で考えてるみたいだけどさ、他にもずれる要素ってあるんじゃないの? たとえば教皇宮の屋根の上に赤ん坊が落ちてくるとか、赤ん坊が男だとか」

 

「男の赤子は困るな」

 

とセージは笑った。

 

 だがすぐに真剣な顔になった。弟子の言うことにも一理あった。歴代のアテナが降臨したように、今回の降臨も当然そうなるはずと信じていたことが、聖闘士の常識に囚われた思い込みかもしれない。その可能性を指摘されたのだ。

 

 彼は兄の許へ向かった。

 

「兄上!」

 

「おお、あの悪ガキの手料理はどうじゃった」

 

「それどころではありませんぞ」

 

と話を流したが、弟子の作ったものを残すような無碍なことを、セージがするはずがない。しっかり完食してきた。

 

「アテナの降臨について盲点がございました。日を見定めることは当然のこととして星見を行いましたが、それだけでは不十分だったのかも知れませぬ」

 

 マニゴルドの意見を踏まえて、セージは仮説を立てた。説明しながら考えをまとめたので論がぶれることもあったが、ハクレイは弟の言わんとすることを正確に理解した。そしてセージは結論を出した。

 

「……つまり、今生のアテナは、あるいは聖域の外に降臨されたのではないかと」

 

「可能性としては否定できん。というより今となってはその説に縋らざるを得んな」

 

 兄弟はよく似た互いのしかめ面を見つめた。

 

 セージは重い声を押し出した。

 

「急ぎ、お探ししなければ」

 

「落ち着け。このような事態は聖闘士の歴史上初めてじゃ。見つけ出した赤子が間違いなくアテナだという根拠がなければ、世界中の女の赤ん坊を連れて来ることになるぞ。ましてその目的を冥闘士に気づかれてみい。保護できない子供は皆殺しにされるわ」

 

 そうですな、と弟は溜息を吐いた。

 

「『ベツレヘムおよびすべてその付近の地方なる、二歳以下の男の子をことごとく殺せり』」

 

 新約聖書の一節である。それによればヘロデ王は、星に導かれてキリストを探しに来た東方の三賢者の「王が生まれた」という言葉に、己の地位をおびやかす者が現れたと思った。三賢者に悪意はなかったが、後にキリストと同じ年頃、同じ地域に生まれた男児は皆殺しにされた。

 

 弟の暗誦の後を、兄が引き取った。

 

「『声ラマにありて聞こゆ、慟哭なり、いとどしき悲哀なり。ラケル己が子らを歎き、子らのなき故に慰めらるるを厭ふ』か。アテナのお嘆きなど聞きとうないわ。冥王軍がヘロデ王の真似をする前に、なんとかここへお迎えせねばの」

 

「聖域の近くからしらみつぶしに探していくしかなさそうですな。もしかしたら偶然見つけたアテナを拾い、我が子として届ける者もあるでしょうから」

 

「すると人の親から生まれた神ということになるか。ますますキリスト教色が濃くなるのう。いっそ黄金と乳香と没薬を持ってお探しするか」

 

「兄上。戯れ言が過ぎます」

 

「おまえも捜索に加わるか?」

 

と、ハクレイは戸口のほうに声を掛けた。師の後を追って来ていたマニゴルドが顔を覗かせた。

 

「赤ん坊捜しなら手伝うよ」

 

「そら、これでちょうど三人じゃ」

 

 少年を室内に迎え入れるとハクレイは豪快に笑った。セージも苦笑した。

 

 老兄弟の表情は明るくなった。見当違いの可能性はあっても、進むべき方向が見えたのだ。

 

 次の日から聖域外でのアテナの捜索が始まった。指揮は射手座のシジフォスが執った。若くとも黄金聖闘士、女神を迎えるという大役をこなすのに相応しい者だった。

 

 ハクレイもジャミールに帰ることになった。長がいつまでも故郷を空けているわけにはいかない。アテナが見つかったらすぐに連絡を寄越せと念を押して帰って行った。

 

 聖域の頂上は落ち着きを取り戻した。

 

 教皇はアテナ神殿に用意された祭壇が片付けられる様子を眺めていた。女神を聖域に迎える日がいつになるかは、誰にも分からない。明日かも知れないし、数年後になるかも知れない。

 

(それでも私は待ち続けよう)

 

 セージは教皇宮への階段を下りていった。マニゴルドが彼の戻りを待っていた。

 

「俺、聖闘士になりたいんだ」

 

「またその話か」

 

 立ち止まろうともしない師に、弟子は食い下がった。

 

「ハクレイのジジイから、お師匠たちの悲願を聞いた。聖戦が始まったら封印したい奴がいるって。でもこれからアテナを捜すようじゃ、いつそれが叶うか分からないだろ。お師匠たちジジイだから、いつくたばるか分かんねえ。アテナが見つかったら、その喜びでぽっくり逝くかも」

 

 あまりな言いように老人は苦笑した。

 

「私はそう簡単には死なない。宿願を成就させるまでは石にかじりついてでも生きよう」

 

「聖衣の墓場にいた連中もそのつもりだった」とマニゴルドはさらり吐き出す。「あいつらも聖衣が直ったらまだまだ戦うつもりで、だけどその手前で死んでいった。谷にはそんな連中でいっぱいだった」

 

「おまえ、あの谷の声を拾ったのか」

 

「ちゃんと聞いてたぜ、毎日」

 

 ジャミールの集落に入る前の深い谷。弟子がそこを訪れたことは承知していたが、負の感情しか残っていない亡霊の声を聞いていたとは予想外だった。無念と後悔が渦巻いている場所だ。セージは足を止めた。

 

「なぜそんな危険な真似を。おまえまで死に引き摺られよう」

 

「平気だよ。目的を果たせないまま死んだら、お師匠もやっぱりこんな恨み節を言うのかなと思って。で、考えた」

 

 マニゴルドは大きく息を吸うと、言った。

 

「もしお師匠が死んだら俺が後を引き継いで、代わりに宿敵をぶっ飛ばす。お師匠が死ぬ時に悔いがないようにしてやる。だから俺は聖闘士になる。教皇の駒でも何でもなってやる」

 

「アテナのために身を捨てる覚悟はあるか?」

 

「行方不明の赤ん坊なんか知らねえ。けど、お師匠がアテナのためにって言うならそれでもいいぜ」

 

「おまえという奴は……」

 

 セージは笑いながら弟子を引き寄せた。

 

「お師匠?」いつまでも身体を震わせて笑っているセージに、マニゴルドが困惑の声を上げた。「なに泣いてんだよ」

 

「いや、嬉しくて笑っているのだ。そうと決まればおまえは聖闘士の候補生だ。ただの駒では終わらせぬ。私の全てを叩き込んでやる。今までのように甘くはないから覚悟せよ」

 

 弟子の身体を放すと、セージは教皇宮へ歩み出した。マニゴルドが慌てて追ってくるのを感じて、彼はもう一度笑いがこみ上げてくるのを抑えきれなくなった。

 

 弟子が彼の意志を継いでくれるというなら、聖戦を待ち続けるのは苦にならない。むしろ来たるべき時に備えてどこまで弟子を鍛えられるかを思えば、時間が惜しかった。

 

 子供の成長は早いからな、とセージは横を歩こうとする少年を見下ろした。

 


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