【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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続・教皇宮の人々

 

 この話に何度か登場している「用人」について、今更ながら説明しよう。

 

 教皇宮には聖闘士でも神官でもない使用人が複数いることは、ここまでお読みになった読者であれば、すでにご承知だろう。彼らを統括する使用人の長、俗世で言えば家令にあたる者は、時代によってその呼び名が変わった。宮宰と呼ばれ神官たちを抑えて権勢を誇った時代もあるが、セージの時代には使用人頭として教皇宮の内向きを預かっていた。その役職をここでは「用人」と記している。

 

          ◇

 

 教皇がイタリアのお忍び視察から戻ったと聞いて、用人は使用人の誰よりもほっとした。教皇不在の間、影武者を務めていた教皇の実兄がここぞとばかりに貴重なワインを空けまくるので、不安になっていた頃だった。

 

 教皇は一人の少年を連れていた。

 

 使用人に案内されて廊下の奥へ向かう少年を見かけた用人は、主人の許へ向かった。主人とその兄の会話が終わるのを待ってから、少年の遇し方について尋ねる。わざわざ「イタリア語を解する世話係をつけるように」と指示されたからには、少年はイタリアから来たのだろう。だが用人には教皇の意図が分からない。

 

 客人として招いたにしては、少年は幼すぎたし、あまりにもみすぼらしい恰好だった。それに客人があるなら主人の性格からして予め知らせてくれるはずだ。

 

 聖闘士にすることを見込んで連れてきたのなら、十二宮を通すまでもなく、候補生たちの宿舎に置いてくれば済む。なにも世話係を付けてまで厚遇することはないのだ。

 

 そう思って聞けば、従者の小部屋を少年の寝室にあてがえ、と教皇は言う。ああこれは従者見習いにするつもりだと用人は納得した。

 

 廊下を戻ってくると使用人たちが興味津々で少年の正体を尋ねてきた。その中に教皇の従者を務めている男の姿があったので、用人は答をはぐらかした。

 

「それより、猊下はあの子供とのお食事をお望みだ。食卓の準備を」

 

「猊下が」

 

 使用人たちは色めき立った。彼らが知る限り、教皇が誰かと食事を共にすることは滅多になかった。独り淡々と食べるその姿は祈りを捧げるように静かだ。そこへ、何者とも知れない子供を同席させるとは。

 

 彼らは頭を振り振り、散っていった。

 

 用人は教皇の従者を呼び止めた。

 

「かの少年の今夜の寝室についてだが」

 

「はい」なぜそれを自分に伝えるのか、と従者は訝しげだ。

 

「従者の小部屋を使うよう、猊下からのお指図があった。おまえには悪いが、承知してくれ」

 

 従者は一度瞬きし、はい、と返した。子供にその役目を奪われるかも知れないと察したとしても、主人の意向には抗えない。

 

「済まんな」

 

「あなたに謝られるこっちゃないでしょう。大丈夫ですよ、俺は元々あの部屋は使ってないんです。ご自由にどうぞ」

 

 老いた従者は笑ってみせた。

 

 やがて夕食が始まった。

 

 主人たちの使う食堂とは違う部屋で、使用人一同も揃って食事を取る。一人が途中で席を立った。それから間もなく、食堂で給仕を務めているはずの者が戻ってきて、空いた席に腰を下ろした。どうやらこの夜の給仕は、野次馬見物の連中が交替で務めることにしたようだ。

 

 様子を聞かれ、野次馬は見てきたことを興奮気味に語った。

 

「おかしかったですよ。あの教皇猊下がまあ面白いくらいに子供に構って。喋るのに夢中でお手元が進まないんですから」

 

 その場にいた誰かが吹き出した。

 

「それで小僧のほうは」

 

「ひどいもんです。まるで獣でしたよ。ろくな育ち方はしていないでしょうね。で、食べ方を猊下に注意されて嫌々直しているもんだから、こちらも手元が進みません」

 

「今夜の食事は時間が掛かりそうですね」

 

 用人は頷き、後で自分も見に行った。

 

 少年は生意気そうな顔をしていた。機嫌の悪い様子なのは、始終注意されているせいか。翻ってそれに話しかける教皇は楽しげだ。用人はその場を去った。

 

          ◇

 

 少年が教皇の側で暮らし始めてから数日経った頃、こんな事が起きた。

 

 若い使用人が困り顔で用人に報告してきた。裏庭に来てほしいと言われ、ついて行けば、地面一面に文字が書かれている。何かのまじないかと思ったが、よく見れば、それは少年の名前だった。

 

「文字の練習でもしたのだろう。消しても構わないと思うぞ」

 

「ただ消すだけでいいでしょうか」

 

 どういう意味かと問うと、使用人は地面を指差した。そこにあったのは、処女神に仕える聖域には相応しくない落書き。用人は思わず眉をひそめた。

 

「あの小僧に言ってやってくださいよ。俺はイタリア語が喋れないんです」

 

 面倒だな、と用人は思った。彼もまたイタリア語を使えないが、それが理由ではない。犯人が使用人であればためらうことなく叱れるが、主人は少年を使用人として扱おうとしない。直接注意して、分を過ぎたことをするなとこちらが叱られるのはご免だ。

 

「猊下から注意して頂こう。おまえ、猊下にここをお見せしろ」

 

 相手は尻込みした。主人に直接苦情を訴えるのは気が重いのだろう。用人は説明した。

 

「私が間に入ると大事だと思われるかも知れない。だが落書きを見つけたおまえがお伝えすれば、事を知る者が最小限だと猊下は思われるだろう。あまり騒ぎ立てる事でもないし、かといって何も手を打たないような方ではない。猊下のお言葉なら、あの子供も聞き入れるだろう」

 

 使用人はまだ納得していないようだったが、彼の言うようにした。

 

 翌日、なにやら騒がしい気配を感じて、用人は柱廊に顔を出した。使用人たちが集まっている。彼らの視線の先には、若い下働きと箒を奪い合っている件の少年がいた。少年が何かを喚きながら箒を取ろうとすれば、若者は仕事の邪魔をするなと追い払う。

 

「何を騒いでいる」

 

「さあ。わしらが来た時には、もうあの状況で」

 

 もしや地面の落書きと名前を消されたことを怒っているのかと用人は考えた。増える野次馬の中にイタリア語の分かる者を見つけたので、彼を介して少年に理由を尋ねた。すると少年が教皇から庭掃除を命じられたということが判明した。

 

「それは、おまえの仕事として命じられたということか?」

 

と用人は聞いた。もしそうなら監督下の使用人として扱うつもりだった。だが返ってきた答は、昨日の罰として、というものだった。

 

「何をしでかしたのか、聞きますか」

 

「いや結構」

 

 通訳の申し出を断り、用人は少年を見下ろした。睨んでくる視線は子供のものにしては鋭かったが、ここ聖域では珍しいものではない。掃除を妨害されていた下働きの若者を呼び寄せて、今日の掃除を手伝わせるようにと言い含めた。

 

「今日だけですか」

 

「そうだ。頼んだぞ」

 

 若者がまだ何か言いたそうにしているのを無視して、彼は辺りに集っていた野次馬たちを散らしにかかった。

 

 用人が別の仕事を終えて再び柱廊を抜けようとすると、ちょうど掃除が終わる頃だった。道具を片付けている使用人が、

 

「また手伝わせてやってもいいぜ」

 

と言うと、少年が何かを言い返した。その後二人で笑い合っている。互いに相手の言葉が分からないはずなのに意味が通じる程度には、打ち解けたらしい。

 

 そこへ年かさの女官がやってきて、罰を終えた者に「はい、ご苦労様」と菓子を差し出した。差し出されたそれを受け取ろうとせず、少年は不思議そうに女を見上げた。

 

「菓子だよ、お・菓・子」

 

 若い下働きが食べる真似をすると、少年は唇を噛み締めた。そうかと思うと次の瞬間には女官の手から菓子を掴み取って、いきなりどこかへ走り去ってしまった。

 

「なんだありゃ。礼くらい言えっての」

 

 若者が呆れている横で、女官はふふ、と嬉しそうに笑った。

 

「ようやく受け取ってもらえました」

 

「ようやくとはどういう意味だね」

 

 気になった用人も話に加わった。

 

「あの子、あんなに細くて小さいのが可哀相で、何度か菓子をやろうとしたのです。でも声を掛けるといつも逃げられてしまって。私はそんな怖いおばさんに見えるのでしょうか」

 

 少年が女官から逃げるのは講義を無理矢理受けさせられると思っていたからなのだが、当事者でない者たちにそこまでの事情は分からない。

 

「そんなことはない。きっと人見知りなのだろう」

 

 用人はそう慰めた。

 

 教皇から直々に菓子の礼を言われて女官が泡を食うのは、後日のこととなる。それでも彼女は懲りずに少年を呼び止めては、せっせと餌付けしているようだった。

 

          ◇

 

 いつの間にか中庭に面した柱廊は少年と教皇の学びの場となっていた。

 

 二人が語らった後には、講義の形跡が残っていることもある。地面に刻まれた文字や図形がそれだ。午前のうちに庭掃除の者が掃き消してしまうが、運が良ければ残っている。最初はアルファベットだった。やがて簡単な綴りを示すようになった。それを見て、その日何を教えていたのかを想像するのが、用人の密かな楽しみとなった。

 

 ある日、少年が一人で中庭にうずくまっていた。何か地面に書いている。視線に気づいて顔を上げた少年は、自分を見ているのが用人だと知って、走ってきた。

 

「あんた、名前は何?」

 

 少年は簡単な会話ができるようになっていた。この質問もギリシャ語講座の一環なのだろうと察して、用人は名を名乗る。そして良かれと思って少年にも名を尋ねると、

 

「マニゴルドだよ、ばーか!」

 

と、なぜか悪態混じりで返ってきた。教皇が罵倒語を教えるとも思えないので、十二宮より下の訓練場で覚えてくるのだろう。思わず主人に同情しながら、用人は柱廊を歩み去った。

 

 その日の夕方、使用人の一人に呼ばれて柱廊に出てみた。地面を見てくださいと言われた時は、また悪童の落書きかと用人は苛ついたが、書かれているものを見て首を捻った。人の名だった。

 

「ほら、あそこに猊下のお名前があるでしょう」

 

 用人を連れてきた男が、中庭の中央を指し示す。確かにその名が記してあった。その下とも横とも言いがたい所に斜めに少年の名もあった。そしてそれを取り囲むようにしたかったのだろうか、教皇宮で働いている者たちの名が庭一面に刻まれていた。

 

 もちろん用人の名もあった。抜けている者もいなかった。たまに綴りを間違えている名もあったが、それくらいはご愛敬。ほっとした。

 

「この使用人名簿は、やはりあの悪童が書いたのかな」

 

「他にいないでしょう」

 

 用人が名前を確認している間にも、数人が連れ立って見に来ては、自分や仲の良い同僚の名前を見つけて喜んでいた。

 

「これは明日まで残しておいてもいいですか?」

 

 いつものようにすぐに消してしまうのは惜しいと、その使用人は言う。用人も同意見だった。

 

「そうだな。猊下にもお目に掛けたいな」

 

 翌朝中庭を見た教皇がどのような反応を取ったかを、用人は見ていない。ただ、綴りの間違っていた名前が正しい表記に改まっていたと聞いた。

 

          ◇

 

 用人は教皇の従者を務める男を呼んだ。

 

「最近はどうだ、膝の調子は」

 

「へえ。まあ、いつも通り、騙し騙しやってます」

 

 やや背の低い、いつも腰を屈めているような老人だった。教皇と一緒にいるところを見れば従者のほうが年寄りに見えるが、実際には彼のほうが余程若い。

 

「猊下のご様子はどうだろう」

 

「もちろんお元気ですよ。部屋にいる時は、大抵あの小僧に構っているようです」

 

「そのマニゴルドについてだが、おまえの仕事を手伝ったりすることはあるか?」

 

 老人はゆっくりと膝を打った。

 

「……俺はまだ、従者の勤めをこなせると、思っていたんですがねえ」

 

「勘違いするな。なにもおまえに暇を出そうというんじゃない。あの子供が端から見て使用人の一人だと思われているかもしれなくてな」

 

「ほう。たとえばどんなお役目の」

 

「間違われるとしたら、掃除の下働きか、従者かな」

 

「それはまた極端な二択だ」

 

 実は神官から苦情がきていた。聖闘士でない者が十二宮より上に表だって顔を出し、正面から出入りするのは秩序と権威の維持から鑑みて望ましくない。使用人であれば教皇宮の出入りには通用口を使うべきだ、云々。

 

 苦情の対象が、毎日十二宮を上り下りしている少年であることは間違いなかった。教皇宮勤めの使用人には教育を徹底しているという自信が用人にはある。だからその時は神官に対して事実を述べた。かの者は教皇の庇護下にあり、十二宮の通過も教皇自身が許可している。使用人でない者が教皇宮に正面から出入りしたことで当方を責められるのはお門違いだ――ということを遠回しに伝えた。

 

 口頭でのやりとりでもあり、その時はその場で済んだ。だが、少年を使用人だと思い込んでいるのが個人ではなく神官全体だったとしたら、用人にとっては迷惑なことだ。

 

「あの子供が来た当初、猊下は従者見習いにするおつもりなのかと私は思っていたんだ。おまえに直接言うのは酷だと思って、今まで黙っていたが」

 

「そうですか。まあ、俺がお暇を貰うことになったら、あの小僧に後を引き継ぐのが、一等楽でしょうね。でも従者にはならない気がしますよ」

 

 マニゴルドが教皇の身の回りの世話をすることはあっても、それは弟子としての行動だろうと従者は言う。

 

「あの二人はやはり師弟だろうか」

 

「師弟でしょうよ。俺だけじゃなくて他の使用人にもそう見えるんでしょう? だから新ストア派だとかいう冗談も生まれる」

 

「確かに」

 

 用人は溜息を吐いた。

 

 教皇が教え、少年が学ぶ。他人の目からは、二人は師弟関係を結んでいるように見える。しかしなぜか教皇が明言しないために、自分たちが気を揉むことになっているのだ。

 

 曖昧な状態のまま長引かせて、誰が得をすると主人は考えているのだろう。早く公表してしまえばいいのに、と用人は思った。

 

 そしてそれは叶った。

 

 少年が魚座の毒に倒れたのを機に、教皇は庇護下に置いた少年が自身の弟子であるということを隠さなくなった。

 

          ◇

 

 それからの使用人たちと少年との関係は、概ね平和だったと言えるだろう。少年の存在を忌々しく思っていても、それを表に出すような者はいなかった。

 

 いや、一人いた。

 

「あのクソガキ、やっぱり泥棒だったんですよ! 宮殿内を調べてください。他にも盗まれた物があるかもしれませんよ!」

 

 マニゴルドが食材を大量に盗んでいったと、料理人は憤りのまま用人に報告した。年頃の子供らしくただ腹が空いただけではないのかと用人が言っても、怒りは治まらない。いきなり厨房に押し入り、ギラギラした目で食材を片端から掠っていったと、料理人は手振りを交えながら再現する。

 

「分かった、分かった。後はこちらで調べるから、おまえは仕事に戻りなさい」

 

「今夜の食材まで根こそぎ盗られたんですよ!」

 

「何もないなら下の宿舎から借りてこい」

 

「いや、何もないってわけじゃ……」

 

 廊下に戻った用人の視界に、私室から出て行く少年の姿が入ってきた。声を掛けようとしたが、少年はあっという間に走っていってしまった。大きな荷物を抱えていた。

 

 まさかと思いながらも急いで後を追いかけるが、相手の足は速く、追いつけなかった。仕方なく用人は若い下働きの男を呼んで、少年の行き先を突き止めるように頼んだ。

 

 予想より早く追跡者は戻ってきた。聖域の外まで追う可能性も用人は考えていたが、少年は聖域の内に留まっているという。

 

「聖域を脱走する気配はありません。少なくとも今夜は納屋で明かすつもりのようです」

 

「納屋?」

 

 少年は食料と毛布を持って行った。料理人の言葉を鵜呑みにしたわけではないが、貴重な品々が盗まれていないことは念のために確認してあった。教皇宮にいられない理由でもできたかと考え、用人は思い出した。少年と教皇が近頃ずっと言い争っていたことを。

 

 執務を終えた教皇に、少年が教皇宮を出て行ったことを報告すると、兜の陰でその口元が歪んだ。が、怒りの気配はない。しばらくの間、教皇は口を開こうとしなかった。

 

 用人も黙って待っていた。少年が隠れ家とした納屋の場所は敢えて報告していない。聞かれたら答えるつもりだった。だから主人が次に言うことは何だろうと考える。「そんな馬鹿は放っておけ」か。「急いで連れ戻せ」か。予想しようにも教皇の様子が静かすぎて難しかった。

 

 やがて教皇は、

 

「今夜の食事は私の分だけでいい」

 

と言って、部屋に戻ろうとした。思わず用人は声を掛けようとした。だがそれより先に相手に「余計なことはしなくていい」と釘を刺されてしまった。

 

 使用人の使う食堂に戻ると、教皇が弟子を迎えに行くのが先か、それとも悪童が自分で戻ってくるのが先かを賭けて、場が大盛り上がりしていた。彼は全員まとめて叱り飛ばした。

 

          ◇

 

 その夜から教皇宮は静けさを取り戻した。

 

 訓練から戻ってくるなり腹が減ったと騒ぐ者がいない。子供を叱る声がない。浴場での調子外れな歌声がない。長い廊下を走り抜ける軽い足音もしない。悠久の歴史や神話を語る者と、それに時折言葉を挟む者のやりとりもない。

 

 マニゴルドがやって来る前の日常が戻ってきた。

 

 ただそれだけのことなのに、教皇にはかなり堪えているようだ、と使用人たちは見ていた。毎晩のようにスターヒルに上がっているからだ。主人が不在の時間に彼らは一つ部屋に集まって、主人を肴に盛り上がる。

 

「夕食の後は私室にお一人だからな。お弟子のいないことを思い出して余計にお寂しいのだと思う」

 

「星見の丘でもお一人なのは同じだろう」

 

「でもあそこは教皇しか入れないから一人で当たり前、余計なことは考えんで済むぞ」

 

「俺なら却って思い出しそうだけどな」

 

「思いついた。丘に上がると見せかけて、実は小僧の様子を見に行っている、ってのはどうだ」

 

「星見にはナーゼルの爺さんが付いていくだろ」

 

「じゃあ戻ってきたら爺さんに聞いてみよう」

 

 星見の供から戻ってきた従者に確かめると、教皇がスターヒルに上がるという時は、言葉通りスターヒルにいると断言された。使用人たちは顔を見合わせて肩を竦めた。従者が主人と口裏を合わせていることも考えられる。もし従者が事実を述べていたとしても、教皇が彼を出し抜いてスターヒルを抜け出すのは簡単だろう。使用人たちは好きなように解釈した。

 

 ちなみに、教皇が頻繁にスターヒルに上がっていたのは、事実星見のためである。この頃になると女神降臨の予兆が現れ始めていた。それを知るのは教皇とごく一部の神官のみであり、教皇宮の使用人たちは聖域住人の大多数と同じくらい何も知らなかった。

 

          ◇

 

 ある昼のこと、用人は、廊下の行く手でうろうろしている女官を見つけた。教皇宮の中でも、聖闘士や神官が出入りする表に近い所だ。彼女は一人の若者を見つけて話しかけた。相手は黄金の聖衣を着ている。用人は少し足を遅めた。二人の会話が聞こえてきた。

 

「射手座様は、ここで男の子が暮らしているのをご存じでしょうか」

 

「ああ、マニゴルドのことなら知っているが、彼が何か?」

 

「今あの子は訳あって教皇宮に帰ってこないのですが、聖域には留まっているということでして、もしあの子に会ったら、ぜひ渡して頂きたい物があるのです」

 

 彼女に限らず、女官が聖域の下部を自由に歩き回ると奇異の目で見られる。だから聖闘士に託すというのは自然な判断だったが、相手は渋った。

 

「そう言われても」

 

「お願いします。偶然見かけた時にでも渡してくだされば良いのです。お礼は必ずいたしますから」

 

「困ったな。……礼など要らんが、たまたま見つけたらその時でいいのだな」

 

「ええ、ええ」

 

 女官が差し出したのは小さな籠だった。籠に掛かった布をひょいとめくり、若者は「分かった」と頷いた。

 

 用人の足は二人のいる所で止まった。女官が振り返り、彼の顔を見てたじろいだ。彼は若者の持っている籠を見て、それから若者に笑いかけた。

 

「よろしければ、荷物を下までお持ちしましょう」

 

「いや、それには」及ばないと言いかけ、若者は気が変わったのか「ではよろしく」と籠を預けてくれた。

 

 用人は女官に頷いてみせた。女官は両手を組んで祈るように二人を見送った。

 

 射手座の黄金聖闘士の少し後ろについて、用人は教皇宮を出た。外は今日も抜けるような青空だ。

 

「マニゴルドはいいなあ。心配してくれる人がいて」

 

と若者は、青空をそのまま音にしたような明るい声で言った。

 

「意地を張るのもいい加減にして、猊下のところに戻ればいいものを」

 

「射手座様はいつからこの事をご存じでしたか」

 

「この事というのが何を指すのかにもよるが、あの悪ガキがどこに居着いたかは、最初から知っている」

 

 彼はそう言うと、用人のほうを僅かに振り返った。

 

「驚かないのだな」

 

「マニゴルド様が飛び出した時に後を追わせました。その者には口外しないよう命じてありますから、教皇宮の使用人のほとんどはあの方の行方を知りませんがね」

 

「なぜ?」

 

「事は猊下とお弟子のお二人の問題ですから、使用人ごときが口を挟むべきではありません。余計なことを知らなければ、余計なことを言わずに済みます」

 

「なるほど」

 

 若者は苦笑を滲ませた相槌を打った。「猊下に二心を抱いていたのは俺だけではなかったと」

 

「二心など滅相もない。私は猊下のご下問があればいつでもお答えするつもりです」

 

「聞かれていないのか」

 

「今のところ、まだ」

 

「セージ様も意外に強情だな。俺も何も聞かれていない。それともご自身で見つけられたのかな」

 

「さて、どうでしょう」

 

「あなたもマニゴルドの居場所を知っているなら、何度か様子を見に行っているのではないか」

 

「いいえ。これが初めてです」

 

 そう言うと、若者は少し驚いたようだった。

 

 石の階段を二人は下りていく。十二宮を抜けるのは、聖域の裏方である用人には滅多にない機会だった。

 

「先ほどの女官が俺に目を付けたのは運が良かった。マニゴルドの顔を知る聖闘士はいても、普段どこにいるかまで知っているとも限らないから」

 

「マニゴルド様のことを気に掛けてくださっているのですね。お礼を申し上げます」

 

 若者は照れたように首筋を掻き、

 

「そんな大したことではないんだが、俺の後輩が最近あの悪ガキとよく一緒にいて、何となくな。早く帰れと直接言っても聞かないだろうから、猊下が心配しているようなことをそれとなく吹き込んでいる。向こうは嫌がらせだと思っているようだが」

 

と言った。

 

「ありがたいことです」

 

 用人は心から感謝した。

 

 無人の十二宮に二人の足音と声が響く。若者は己の守護宮で聖衣を脱ぎ、二人は更に下へ下りる。

 

「それの中身を見た」と若者は用人の持つ籠を指す。「マニゴルドはいつもそういう菓子を食っているのか」

 

 籠の中には焼き菓子と干し果物が入っている。家出してからは甘味を口にしていないだろうと女官が思った結果だ。

 

「いつもではありませんが、女官が勝手に与えているようです」

 

「いいなあ」

 

 心底羨ましそうに若者は声を上げた。聖闘士の最高位に相応しい、威厳のある言葉遣いを心がけているようだが、ふとした瞬間に若さが顔を覗かせる。

 

「あいつに渡さないで俺が食ってやろうかな」

 

 笑って、用人のほうを見た。用人も黙って見返した。

 

「……冗談だ」

 

「分かっております。ですが、できましたらこの菓子は射手座様に差し上げられたもののお裾分けとして、マニゴルド様に渡してくださいませんか。そのほうが抵抗なく受け取ってもらえると思いますので」

 

「そんな小細工はしなくても大丈夫だろう。あなたから渡せばいい。そのために付いてきたのだろう」

 

「いいえ、ご自分への差し入れだと言われても恐らく拒まれるでしょうし、私は主人からは何もするなと命じられているので、表だっては何もできないのです」

 

 それを聞いて射手座の目に憐れみが過ぎった。

 

「そうか。ではせめて顔だけでも見ていってくれ」

 

 十二宮を抜けきった先には、人通りの多い区域につながる。射手座の若者は訓練場に意識を向けて、そこにマニゴルドがいないと分かると別の道を取った。

 

 やがて二人の行く手に古びた納屋が見えてきた。その前で人影が二つ、跳んだり跳ねたりしている。

 

「あなたはここで」

 

 言われるままに用人は籠を手渡して、若者が納屋へ歩いていくのを物陰から見守った。納屋の前にいた二人の子供は、近づいてくる人物に気づいて、走り回るのを止めた。

 

 若者は籠を掲げて朗らかに言った。

 

「上で菓子を貰ったぞ。おまえたちにも分けてやろう」

 

「ありがとうございます」と、背の高い黒髪の少年が堅苦しく答えた。射手座の言う後輩とは、彼のことのようだ。

 

「貰ったって、誰からだよ」と生意気そうな少年が言う。元気そうだった。「女からか? 上には年増と婆しかいねえだろ。憎いね、この年増殺し」

 

 久しぶりに聞く軽口も相変わらずだ。隣の少年に叩かれてもへらりと笑っている。

 

「あのさ、アルバフィカにも少し貰っていいかな」

 

「明日来るんだっけ」

 

「うん」

 

「この前の綺麗な子か? いいぞ。好きなだけ持っていけ」

 

 二人の子供は頭をくっつけながら籠を覗き込んだ。

 

 教皇宮に戻った用人は女官に少年の様子を伝えた。安心した彼女はその後も射手座の若者に差し入れを託そうとしたようだが、時機を逸してうまくいかなかったらしい。

 

 それには理由がある。教皇宮が忙しくなったからだ。

 

          ◇

 

 用人は教皇の執務室に呼ばれ、主神が降臨すると聞かされた。

 

「私ごときにも伝えられたとなると、その日が定まったということでしょうか」

 

「うむ。それに備えて私は潔斎に入る。今後は古式に則った日々を送ることになるので、この者から詳しい作法や禁忌について聞いておいてくれ」

 

「かしこまりました」

 

 聖域で最も重要な儀式ともなれば、毎年の恒例行事とは比べものにならない煩雑な作法がある。そこで主人から指南役につけられたのが典礼に詳しい神官で、用人は彼の言葉と押しつけられた分厚い文書の内容とを必死に頭に叩き込んだ。なにしろ事は主人の生活全てに関わるから、自分が覚えるだけでなく、監督下の使用人たちにも徹底させなければならない。

 

 ふと用人は思った。主人は弟子をどうするつもりなのかと。一連の儀式を終えるまで放任しておくつもりだろうか。いや、これからは女神に全てを捧げることになるから、面倒を見きれない弟子を手放すという冷淡な選択もありうるのではないか。冷淡だと感じる程度には、悪童に思い入れをしていることを自覚した。

 

 主人の判断を聞いてみたかったが、師弟関係に立ち入るのは分が過ぎている。聞きそびれているうちに少年は教皇宮に戻ってきた。使用人たちの賭けは数十日ぶりに清算された。勝ったのは「教皇自ら迎えに行く」ほうに賭けた者たちだった。この後、教皇は弟子に甘いというのが使用人たちの常識となる。

 

 しかし帰ってきた翌日に弟子を今度は別の場所へ預けてしまうとは、誰も予想できなかった。

 

 

 夜も執務室で仕事をしている主人の許へ、用人は盆を運んだ。灯りが揺れる。古書を読んでいた教皇は顔を上げ、茶を運んできたのが用人だと知って、少し意外に感じたようだった。

 

 その白い髪が火の色を受けて橙色に染まっていた。

 

「兜は被っていらっしゃらないのですね」

 

 珍しいことだった。日中に限らず教皇宮のごく私的な空間に戻るまで主人が被り続けている教皇の象徴は、このとき机の脇に置かれていた。

 

「ああ。マニゴルドに言われたのだよ。ずっと被っていては禿げるだろうと」

 

 何と返したものか。用人は黙って茶を置いた。

 

「薄情だと思うか」言いながら教皇は茶器に手を伸ばした。「弟子を追い出した私を」

 

「追い出したなどと」

 

「あれがジャミールに行った頃から、どうもおまえの様子がおかしい」

 

 用人は安心した。その話をするつもりでここへ来たのだ。

 

「申し訳ありません。教皇宮を飛び出されたマニゴルド様のところへ射手座様が猊下をご案内したと知って、動揺しておりました。マニゴルド様の居場所を把握していたにも関わらずご報告しなかった私を、猊下はお咎めになるだろうと。今までお話しできなかった私をお許しください」

 

 遅まきながら告白し、叱られることを覚悟した用人の耳に、小さな苦笑が聞こえた。

 

「さようなことか。咎める気はない」

 

 人の少ない夜の教皇宮。二人が無言になった途端に静けさが押し寄せてきた。老人の手が傍らの兜をぽんと叩いた。誰かの頭を撫でる代わりに。

 

「……あれがここで暮らし始めて一年も経っておらぬ。なのにいなくなった途端に使用人たちは意気消沈しておるようだな。皆、私が奴を厄介払いをしたと見ているのだろう?」

 

「いいえ」

 

 用人は教皇に向き直った。

 

「マニゴルド様を預けられた先について、従者のナーゼルが皆に話してくれました。聖闘士を多く輩出した地の長老であられるそうですね。もしマニゴルド様が教皇宮に戻られたとしても、女神をお迎えするために教皇宮は常の状況にはありません。失礼ながら、猊下もお弟子に目を掛けられるお時間はないかと存じます。そうであれば、いずこかへ預けられるというのは正しいご判断でしょう」

 

「そうだろうか」

 

「はい」

 

 事実と己の本心を述べたのに、主人はあまり信じていない様子だった。

 

「それではなぜ食事の献立に、しばしばマニゴルドの好物を入れているのだ。私への当てつけではないのか」

 

 初耳だった。少年の好物など給仕を務める者でなければ知る由もないし、その手の報告は受けたことがない。儀式などで制限がない日は料理人の独断で献立が決まり、そして料理人は少年との接点を持ちたがらない。

 

「料理人に他意はないと存じますが、お疑いならば確かめて参りましょうか」

 

 教皇の表情が動く。気まずそうな主人の顔は初めて見た。つまりは、一人で食事をする度に弟子を思い出していると口を滑らせたも同然だった。

 

「それには及ばぬ」

 

と教皇が手を振ったのを合図に、用人は退室した。

 

          ◇

 

 やがて時が満ち、女神が降臨する瞬間が近づいてくると、ジャミールの長に連れられて少年も戻ってきた。

 

 しかし降臨の際に問題が起きたという。使用人たちは事情を知らないが、それでも主人の苦悩は彼らにも影を落とした。

 

「猊下がまたお残しになった」

 

と、厨房まで下げてきた盆を見下ろし、一人が嘆いた。食事は執務室で取ると言われて運んだのに、盆の上の料理は大半が残っている。

 

 料理人も残り具合を見て眉をひそめた。

 

 重要な儀式の間は、材料、調理法、使う道具や触れ方といった細かいことを神官に注意されながらの料理だった。その期間が終わって、久しぶりに主人が食べ慣れた物を作ったのに、主人の食欲はすっかり衰えてしまった。相手は聖域を治める教皇。老人の食が細いという一般論で済ませてしまうことはできない。

 

「どうしましょう」

 

 対策を求められても、用人はうんと答えたきり黙るしかなかった。心労が原因だろうと想像できるからこそ、使用人の身ではどうしようもない。厨房の沈黙はそのまま澱んでいく。

 

 と、厨房に子供が走り込んできた。入口に向いて座っていた料理人が大声を上げた。

 

「こらクソガキ!」

 

 用人が振り返ると、もの凄い顔をしたマニゴルドが彼の横をすり抜けて竈の所へ駆けていった。竈の外側に手を触れて、少年は料理人を睨む。盗み食いに来た様子はない。

 

「なんだよ」

 

 料理人はゆっくりと少年の前に立ち、威圧感たっぷりに腕を組んだ。竈に触れている手に視線を向け「何の真似だ」と尋ねる。少年は明瞭なギリシャ語で答えた。

 

「ヘスティアのご加護を」

 

 用人は瞬きした。助手が料理人のほうを窺う。少年と諍いを起こしたことのある男は、やがて組んでいた腕を解いた。

 

「……よくそんな古い習わしを知ってたな」

 

「お師匠が教えてくれた」

 

 炉の女神であるヘスティアは、嘆願する者の保護者。その神聖な炉端は駆け込み寺のような存在であったという。追い出すのは話を聞いてからにしてくれ、と少年は古代ギリシャの風習にかこつけて言っているのだ。蛇足だが、ヘスティアは孤児の守護神でもある。

 

「何の用だ。食材を盗んだ詫びか?」

 

「ああ、謝ってほしけりゃいくらでも謝るよ。悪かったな。でも俺が来たのはそれが理由じゃない」

 

 料理を教えろ、と少年は不貞不貞しい態度で言い放った。

 

「お師匠が食わねえのが、あんたのせいじゃないってのは分かってる。でもさ、弟子の俺が作ったとなりゃ、少しは食う気になってくれるかも知れない」

 

 用人も少しばかり後押しする。

 

「マニゴルド様、それはいい考えかもしれません。ぜひともお願いします。おまえも協力してくれるな? これは猊下のためであるのだから」

 

 料理人は渋々受け入れた。少年の熱意に負けたのではなく、用人の有無を言わさない圧力に負けた。

 

 喧嘩腰のやり取りをしつつも調理の下ごしらえを始めた二人を、用人は時間の許す限り見守った。

 

 ふと思い出したことを料理人に尋ねる。

 

「そういえば、猊下しかいらっしゃらない時期のお食事にマニゴルド様の好物を出したそうだが、どういうつもりだ?」

 

「なんですかそれは。俺はこの(ガキ、と言いかけて引っ込めた)かたの好物なんて知りませんよ。第一、当人がいない時に好物を出しても、誰も得しないでしょうに」

 

「じゃあ俺の好物を教えたら、あんたそれ献立に考慮してくれるの」

 

「絶対にしてやらない」と男は断言する。

 

「だと思った」と少年も素っ気なく言う。

 

「そんな勘違いを言いつけたのは、どいつです?」

 

「猊下だ」

 

 二人は同時に用人のほうを振り向いた。

 

 驚きから立ち直ったのは少年のほうが早かった。口元にじわじわと笑いが滲みだしてくる。

 

「あのジジイ、そんなことを」

 

 ふうん、と鼻に抜けるような声を出した後は、素直に料理人の指示に従っていた。

 

 後は煮込むだけという段になった時に、料理人が切り出した。

 

「ところで随分前のことになるけどよ。悪かったな」

 

 さりげなさを装っているが緊張しているのが用人には分かった。おそらく彼が謝っているのは数ヶ月前、まだ教皇宮に来て間もなかった頃の少年を怒鳴った件だ。具体的に何と言ったのかを料理人も助手も口外しなかったが、主人にだけは知られたくないということだった。

 

 だから、

 

「なんだっけ、それ。覚えてねえよ」

 

と少年がすげなく返すのを聞いて、これは駄目だなと用人は目を背けた。

 

「猊下とおまえを侮辱した時の事だよ」

 

「ああ。あの時の俺は教皇に庇護された謎のガキだったしな。でもギリシャ語なんて全然分からなかったから、あんたが何言ったかなんてさっぱり知らないね」

 

「……とにかく悪かった」

 

「ふん」

 

 その夜、教皇の私室へ運んでいった盆を少年が下げて戻ってきた。事を知った使用人たちも待つ厨房に入ってきて、空になった器を見せる。控えめな歓声が沸く中、料理人と少年が頷きあった。

 

 翌日から教皇の食欲は元通りとなり、少年は教皇の側で弟子として修行に励み、教皇宮の裏方を預かる用人としてはやっと落ち着いた日々が戻ってきた。

 

 ちなみに、この後マニゴルド少年と料理人が仲良くなった――という都合の良い話はない。彼らはそれからも冷ややかな距離を保っている。

 

          ◇

 

 奥向きにある柱廊では、今朝も師弟の会話が聞こえた。後で用人が見に行ってみると、地面にはうねるような模様といくつもの凸や×の記号が描かれていた。この日の新ストア派の講義は、どうやら戦史だったらしい。

 


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