【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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墓場の歌
黄泉比良坂


 

 ジャミールで過ごした数ヶ月の間に、マニゴルドの体力は格段に向上した。ハクレイの課した容赦ない鍛錬の甲斐もあり、体力だけでいえば他の候補生には引けを取らなかった。

 

 しかし肝心の小宇宙には目覚めなかった。

 

「なんでだよ!」

 

とマニゴルドは頭を掻き毟る。

 

「小宇宙は己の内に感じるものだ。己が生を価値のないものと思っている限りは掴めぬ」

 

 床に寝転がった弟子を見下ろしたセージは少し考えて、「外の雑音に気を散らしているのもあるだろう」と付け加えた。

 

 星見に行くというセージに従って、マニゴルドも教皇宮を出た。スターヒルに登っていく教皇を麓から見送って、カンテラを消す。辺りは月明かりに静まりかえっている。精神を落ち着かせるには良い夜だ。

 

 少年は平らな地面に立って目を閉じた。

 

 意識を内側に集中させる。奥へ、奥へと。濁った水の中を沈み、泥の下で煌めくそれを掴み取るために。

 

「おお、凄いな」

 

 突然の声に、意識を表に引き戻された。目を開けば、周りには青白い火が集まり、マニゴルドを中心に渦を巻いている。光の向こうにカンテラの明かりと二つの人影が見えた。一人が声を掛けてきた。

 

「とんでもない技を使うな、きみ」

 

「技じゃねえよ。ただのくせだ」

 

 集中する余り、無意識のうちに死霊を引き寄せてしまったらしい。マニゴルドが息を吐くと、魂はゆっくり散っていった。

 

 現れた二人組は青い光の中を泳ぐようにしてやって来た。カンテラがマニゴルドの顔を照らすと同時に相手の顔も照らした。端正な顔立ちの少年で、マニゴルドよりやや年上に見える。体格の良いもう一人は、興味深そうに消えゆく鬼火を眺めていた。

 

「見たことがあるな。きみも候補生か?」

 

「も、って何だよ。誰だよあんたら」

 

「俺はアスプロス。こちらはハスガード。二人とも候補生だ。見回りをしていたら、この月光の洪水を見つけて来てみたんだ」

 

 どちらも、射手座のシジフォスに実力で肩を並べると言われている名前だった。候補生同士とはいえ訓練が重なったこともないほど格が違う。今のマニゴルドの立場では、見習うべき先輩ということになる。渋々名乗った。

 

「技の練習でないとすると、マニゴルドは何をしていたんだ? ここは猊下が星見をされる丘の麓だぞ。今も上においでのようだ。邪魔をしてはいけない。宿舎に戻りなさい」

 

「教皇の邪魔なんかしてない。俺は小宇宙を掴みたいだけだ。静かな場所だからここが良いんだ。下手な所でやると、今みたいに鬼火を呼んだ時に騒ぎになりそうだし」

 

「鬼火……亡者か、この光は」

 

「そう」

 

 近頃のマニゴルドは、セージの星見が終わるのを待っている間、こうして小宇宙を高める訓練をしていた。教皇の従者はその度に集まってくる亡霊の気配を嫌がって、星見の供を彼一人に任せるようになった。

 

 ハスガードが興味深そうに顎を撫でる。

 

「小宇宙の会得なあ。よし、少し俺が見てやろう」

 

「おい、見回りの途中だぞ」

 

とアスプロスが眉をひそめた。「おまえはどうしてそう他人のことに首を突っ込みたがるんだ」

 

 窘められたハスガードは頭を掻き、マニゴルドに目をやった。

 

「しかし後進が四苦八苦していたら、助言の一つでもしてやりたくなるじゃないか」

 

「それは指導者がすべきことだ。だいたい小宇宙の何たるかをおまえが言葉で説明できるとは思えないな」

 

「俺もべつに見てもらわなくていいよ」

 

「そら見ろ。本人がそう言っている。先に行くぞ」

 

 アスプロスは突き放した口調で言うと、去っていった。残ったハスガードは軽く溜息を吐いた。マニゴルドはこの大柄な少年を見上げた。

 

「あんたも行けよ。俺の師匠ももうすぐ戻ってくると思うしさ」

 

「そうか。師がいるのか」

 

と安心したように頷くと、ハスガードは師の称号を尋ねた。答えようとしてマニゴルドははたと気づく。

 

「そういや知らねえ。何だろう?」

 

「何座の聖闘士かも知らずに師事しているのか」

 

 屈託なく笑うと、ハスガードは大石に腰掛けた。「その方が戻るまではここにいてやろう。さあ、修行を続けるがいい」

 

 気が散るんだけど、と口の中で呟き、マニゴルドはこの恩着せがましい先輩を無視することにした。だが集中しようとすると、死霊が寄ってくる。異能の少年は舌打ちをした。相手は幼い頃からの遊び相手だ。セージの言う「外の雑音」が死霊のことなら、それを無くせというのはマニゴルドには難しい。

 

 小宇宙を掴もうとする時に近づいてくるなら、いっそこの死霊を取り込めばいいのでは、と碌でもないことを考えついた。

 

 ハスガードに背を向けて、声によらず魂を引き寄せた。彼らとの対話はいつも無言のうちに行われる。掌の上でゆらゆらと揺れる光に目を凝らす。

 

 死者の魂の奥底へ。

 

 揺らぐ波面を抜けて、静かな水底へ潜るように。

 

 暗く冷たい深海の、更に深みへ――……。

 

「馬鹿者」

 

 強い力で背中を叩かれて、マニゴルドは我に返った。気づけば星見を終えたセージが背後に立っていた。カンテラに下から照らされた顔が怖い。

 

「何をしておる。取り憑かれるぞ」

 

「いや、小宇宙の参考になるかと」

 

「生命の源を死者に求める奴があるか」

 

 セージはマニゴルドと相対している鬼火を掬うようにして空に放った。ふわりと浮かんだところを指差せば、鬼火は空に開いた暗い穴に落ちていった。穴はすぐに閉じた。後に見えるのは夜空だけだ。

 

「なに、今の」

 

「生者に取り憑くことを覚える前に、行くべき所に行ってもらった。おまえには小宇宙よりこちらの技のほうが理解できるかも知れぬな」

 

 セージは跪いている候補生の前に立った。

 

「そなたはそこで何をしておる?」

 

「この候補生が一人で小宇宙の修行をしておりましたので、監督するつもりでおりました。危険なことを行っていると気づかず、猊下にはお手数をおかけいたしました。申し訳ございません」

 

「そうか、ありがとう。我が弟子が面倒をかけた」

 

 セージは微笑み、弟子に向かって手を差し伸べた。マニゴルドは師の側に歩み寄った。ハスガードの目と口が驚きに開かれる。

 

「お師匠って何の聖闘士?」

 

「言っていなかったか。私は元蟹座だ」

 

「ハスガード、俺のお師匠は蟹座だって」

 

「お師匠が猊下の……それなら俺も知ってます。あ、そういう意味ではなくて、教皇でいらっしゃいますから。あの、アスプロスが待っていますので、もう俺は見回りに。……出過ぎた真似をいたしました」

 

 しどろもどろに言い訳しながら去っていったハスガードを「変な奴」と片付けて、マニゴルドは師と共に歩き始めた。怖いもの知らずの少年は、

 

「蟹座って強いの?」

 

と本人に単刀直入にぶつけた。

 

「黄金聖闘士だから白銀よりは強い。だが十二の黄金聖闘士の強さに優劣はつけられん」

 

「へえ。じゃあハクレイのジイさんは何の星座?」

 

「兄上は祭壇座の白銀聖闘士だ」

 

「お師匠のほうがあのジジイより強いんだな」

 

「私より兄上のほうが格段に強い」

 

「でも白銀なんだろう?」

 

「だが強いぞ」

 

 セージが笑いながら言うので、からかわれているのだと少年は思った。

 

          ◇

 

 弟子が小宇宙の体得に苦戦していても気長にやればいいと思っていたセージだったが、ある謁見をきっかけに考えを変えた。

 

 教皇に謁見を願い出たのは、魚座の黄金聖闘士ルゴニス。養い子のアルバフィカを正式に魚座の後継者とすることを伝えにきたのだ。これから先ルゴニスは、師か弟子か、どちらかの命が尽きるまでの後継者育成に全てを注ぎ込む。成功すればアルバフィカは毒の化身となり、失敗すれば命を落とす。それは数年に及ぶ、苛酷な血の儀式としてセージの知識にあった。

 

「良いのだな」

 

「はい」

 

 死ぬのが怖いのかと尋ねたのではない。愛弟子を死なせるかもしれない覚悟、そして生き残っても弟子に孤独の道を歩ませる覚悟ができたのかと聞きたかった。

 

「無理をせずに時期を待っても良いのだぞ」

 

「アテナが降臨された以上、先延ばしは却って弟子のためになりません。アルバフィカは魚座の黄金聖闘士となり、生きた砦として女神と聖域をお守りする身です」

 

 温情のつもりで言った言葉は、本人によってきっぱり拒まれた。

 

「私が死んでも、あの子の血の中で私の毒は生き続けます。私の中に師の毒が流れているのと同じように。それがあの子の支えとなってくれるといいのですが」

 

 控えめに笑い、ルゴニスはセージを見上げた。

 

「最終的にどちらかが命を落とすことは、弟子には伏せております。私の去った後のアルバフィカをよろしくお願いいたします」

 

「相分かった」

 

 一礼して退室する男の背を、セージは扉が閉まるまで見送った。

 

 ルゴニスは覚悟を決めた。翻って己はどうだろう。弟子が小宇宙に目覚めないのをいいことに、ずるずると技を引き継ぐ日を先送りしている甘さを突きつけられた気分だった。

 

 夕食時。中をくりぬいた野菜に米を詰めて煮込んだ料理を、マニゴルドはつまらなそうに中身だけ食べている。ハーブや香辛料と玉ねぎを混ぜ込んだ具は確かに美味いが、外側も一緒に食べろと注意したら、後で食べると口答えされた。

 

「今日な、訓練の帰りにアルバフィカの所に寄ったら、具合が悪くて寝てるっておっさんに言われたんだ」

 

「アルバフィカの体調が悪いと?」

 

 謁見を終えて戻るなりルゴニスは最初の儀式を行ったのだろう。その潔さにセージは改めてルゴニスの決意を知った。

 

「もう会いに来るなって言われた。良くなってから来い、じゃなくて、もう来るな、だぜ? 俺が悪い道に引き摺り込むと思ってるなら今更すぎるだろ」

 

 マニゴルドはズッキーニを切り分けて、やや小さすぎるほどズタズタにしてから、口に放り込んだ。突然言い渡された友人の養父からの絶交宣言に、動揺しているのがありありと見てとれる。

 

「ルゴニスがおまえを遠ざけようとしたのは、誰のせいでもない。アルバフィカが魚座の聖衣を継ぐための修行が本格的に始まったのだ」

 

 少年の目が軽く見開かれた。

 

「……そっか。人里離れた修行地に行く代わりに、他人との接触を禁じられたんだな。それじゃ仕方ねえか」

 

 理解が早くて助かる。セージはワインを飲んだ。今夜のワインは茶がかった不透明な赤。血の色だ。マニゴルドにどこまで魚座の血の儀式のことを話すべきか迷った。だが不思議なことに悪童は何も尋ねてこなかった。

 

「俺も早く聖闘士にならねえとな」

 

と、全て己一人で納得してしまって、食事を続けている。

 

「それには早く小宇宙に目覚めてもらう必要があるが……時にマニゴルド。おまえには常人にない異能がある。そちらについても並行して教えていくことにした」

 

「あ?」

 

 食後に外に出ようと伝えると、弟子はこくりと頷いた。

 

          ◇

 

 夕食の後、マニゴルドは墓の広がる丘へ連れ出された。

 

「おまえは死霊と戯れる時、それがどこから来て、どこへ行くのかと考えたことはあるか?」

 

「さあ」と彼は肩を竦めた。

 

「では鬼火を呼べ」

 

 指示通りに鬼火を集めると、師はゆっくりと空を指差した。その指の示す先に穴が開く。セージの周りから燐光が浮かび上がり、それにつられるようにして鬼火が穴に吸い込まれていった。

 

「あの穴、お師匠が開けたのか?」

 

「そう、地上の霊魂が昇る穴だ。おまえにも分かりやすいように見せてやった。蟹座の黄金聖闘士は現世にいながらにして、魂を冥界の手前まで導くことができる。積尸気冥界波という技だ」

 

「何語だよ」

 

「命名者が支那人だったのだろうな。積尸気というのはプレセペ、夜空に浮かぶ蟹座のちょうど中央に位置する星団の漢名でな。肉体を抜け出た死者の魂が冥界に向かう姿だという。それに因んだ技名だ」

 

 これと正反対なのが、古代ギリシャ哲学のプラトン派やカルデア人の説いた説だ。それによれば、人間が生まれる時に、その身体に宿るべき魂が天上より降りてくる門が蟹座だという。

 

 魂の出入り口は蟹座にある。

 

 故に蟹座の黄金聖闘士は死と魂を司る。

 

「あの穴の先に道がある」

 

「天国への道?」

 

 セージは首を横に振った。

 

「道の先にはまた穴がある。死者の魂はその穴の底に向かう。冥王ハーデスの支配する世界、冥界だ。冥界で定められた時を過ごした魂は、再び人に宿る」

 

 マニゴルドは腑に落ちない表情で首を傾げた。

 

「意味分かんねえ」

 

「確かに言葉だけでは分かるまい。その目で見よ」

 

 頭のてっぺんを引っ張られたような気がした。

 

 直後、マニゴルドは誰かの体を支える師を上から見下ろしていた。セージは彼を見上げ、抱いていた体を地面に横たえた。それはマニゴルドと同じ姿をしていた。

 

(俺の)

 

 彼は体に手を伸ばそうとして、逆の方向に引き寄せられる感覚を覚えた。抗えない流れ。そちらを見ると、みるみる近づいてきた穴が彼を飲み込んだ。

 

 真っ暗だ。

 

 

 気づくとマニゴルドは暗い場所に立っていた。曇夜のような昏い空の下、乾いた大地が広がっている。遠く地平線に至るまで一切の色彩が奪われたかのような荒野だった。

 

 この風景には覚えがある。魚座の毒薔薇に倒れた時に、師の腕に抱かれて見たものだった。

 

「ここは黄泉比良坂」

 

 いつのまにか横に立っていたセージが言った。

 

「冥界に続く道だ」

 

 見ろ、と師は辺りを示した。荒野には歩いている人影がちらほらとあった。生者でないことは直感的に少年にも分かった。周りにいるのは亡者ばかりだ。

 

「俺も死んだの?」

 

「正確にはまだ死にきっていない。私の積尸気冥界波でおまえの魂はここに運ばれた。今ならまだ現世の肉体に戻って生き返ることができる。だがもう一度冥界波を受けるか、この先にある大穴を落ちてしまえば、冥界に下ることになる。その時おまえは死ぬだろう」

 

「じゃあさっさと戻ろうぜ。どうせ死んだらここに来るんだろ」

 

 弟子の頭を軽く撫でると、セージは言った。

 

「生を感じよ。そして帰ってこい」

 

 老人は背後に口を開けた積尸気の穴を抜けて姿を消した。とんでもない所に置き去りにされたとマニゴルドが気づくまで、たっぷり一分はかかった。

 

 薄情な師への思いつく限りの罵倒を並べ立て、マニゴルドは溜息を吐いた。

 

「畜生、後で覚えてろ」

 

 気を切り替えて彼は辺りを見回した。見渡す限りの荒野に建物らしき影はない。

 

 どうすれば聖域に戻れるか分からなかったので、とりあえず周りの亡者と同じ方向を目指してみることにした。四方から集まってきた亡者は、小川が集まり大河となるように大きな列を成した。足音も衣擦れの音もしない静かな列は、遠くの山を目指しているようだった。

 

 山は寄せてくる人波を黙々と迎え入れている。だが、斜面を下りてくる者はいない。下り道は山の向こう側にあるのかとマニゴルドは考えた。

 

 坂を上るにつれて、頂上で起きていることが見えてきた。

 

 頂上には、火山の火口のようにひび割れた大穴が開いていた。穴の底は見えず、ただ黒々とした闇が待ち構えている。やってきた死者がそこへ次々に身を投げる。嘆きもない。ためらいもない。真っ暗な奈落へと静かに落ちていく。亡者が整然と穴に吸い込まれていく様は、蟻が巣に帰るのに似ていた。ただの山、ただの火口でないことは少年にもすぐに分かった。

 

 マニゴルドは穴の縁で立ち止まった。覗き込めば深淵に吸い込まれそうになる。思わず後ずさりした。横でまた誰かが身を投げた。

 

 この下が冥界か、と穴に落ちるためにやって来る亡者たちを眺める。彼らの虚ろな顔に表情はない。歩いてきたのも、穴に落ちるのも本能のようだ。冥界の手前でのんびり留まっているマニゴルドだけが、この世界では異質だった。

 

 落ちる。

 

 また一人、落ちていく。

 

 従順な亡者は身を投げる。

 

 真っ暗な穴はただ彼らを受け入れるだけだ。

 

 せめて嘆くなり祈りを捧げるなりすればいいのに、と少年は思った。亡者にはまるで人間味がない。どうやら理性の類は、肉体と一緒に現世に捨ててきたらしい。

 

 延々と続く身投げ風景に対して、不思議とマニゴルドの感情は動かなかった。引き留める気も起きない。死にたい奴は勝手に死ねばいい。亡者を引き留める理由を彼は見出せなかった。

 

 奈落の淵に一人きり。

 

 周りでは絶えず亡者が坂を上ってきては穴に身を投げているというのに、なぜ己はその気にならないのかとマニゴルドは考えた。簡単なことだ。セージが言ったように、まだ死んでいないからだ。

 

(そうだ、お師匠が待ってる)

 

 心がざわついた。こんな所で落ち着いている場合ではないと急に焦り出す。

 

 帰らなくては。

 

 彼は山を下り、亡者の来た道を逆にたどり始めた。どこまでも続く鈍色の空の下を走った。冥界に続く大穴から遠ざかれば、死からも遠ざかるのではないかと思った。

 

 後ろを振り返っても山の輪郭が見えなくなって、ようやく一息吐く。辺りの亡者の数は少し疎らになった。彼は更に前へ進んだ。

 

 やがて前方に丘が見えてきた。だが、再び列を成し始める亡者たちの姿に嫌な予感を覚えた。丘と見えたそれは近づくにつれ巨大な山として姿を現した。更には頂上に開いたひび割れた大穴と、そこへ飛び込む亡者。マニゴルドは低く呻いた。

 

(元の木阿弥かよ)

 

 同じ場所に戻ってきてしまったか、別の穴を見つけたのかは重要ではない。どうやらこの世界にいる限り、この穴からは離れられないらしい。走るのも疲れた。彼はその場に脚を投げ出して座った。見上げた空は暗雲が立ちこめるばかりで、方角を読む手立てはない。

 

 相変わらず静かに穴を落ちていく亡者たちを見ていると、意外に穴の底は広々としたいい場所なのかも知れない。ふと、亡者に交じって穴を落ちてみようかと思った。そしてそんな己にぞっとした。

 

(このままじゃ死ぬぞ、俺)

 

 それもいいかと流されそうになる心を抑えて、彼は現世に戻る手立てを考えた。師の言葉に手がかりがあるはずだ。たとえば積尸気冥界波。魂を強制的に黄泉比良坂に送り込む技なら、逆に現世に戻ることだってできそうなものだ。

 

「あ、でももう一度食らったら冥界行きって言ってたか。危ねえ危ねえ」

 

 どのみちマニゴルドには使えない技である。

 

「つうか二段構えの技って意味あんのかよ。どうせなら冥界に直接叩き込めば手っ取り早いのに」

 

 わざと声を出した。穴を目指す亡者が沈黙を保ち続けるなら、辺に留まる自分は喋るべきなのだ。

 

 そういえばこの場所は何なのだろう、と彼は地面を撫でた。手に当たる感触は、どこか火事で焼け焦げた煉瓦を思い出させた。もちろん気のせいかも知れない。彼は今、魂だけの存在なのだから。

 

 空は昏いが、闇夜というほど暗くはなかった。少なくとも亡者の顔を見分けられる程度には薄明るい。現世と冥界の間の、中途半端な死後の世界。死者の魂は肉体を離れ、現世から積尸気の穴を通りここに来る。そして黄泉比良坂の穴を落ちて冥界に至る。ほらまた一人、中途半端でいられなくなった亡者が落ちた。

 

「穴ばっかり」

 

と少年は独りごちた。

 

 人が現世に生を受ける時にも、母の腹から出るために穴を通る。その手前の、生まれる直前に魂が門をくぐって天から下りてくるという説も加えて、魂はぐるぐると穴をくぐり続けていることになる。

 

「俺ももう一回穴を抜けないと帰れないかな?」

 

 一度生まれた赤子は、もう母親の腹には戻らない。目の前の穴を落ちていった亡者は生き返らない。落ちた穴からよじ登るのは、摂理に逆らうことなのだろう。それでもマニゴルドが現世に戻るには、流れに逆行する必要がある。できるはずだった。黄泉比良坂にいる魂は、まだ死にきっていない。腹の中にいる赤子が、まだ生まれていないのと同じ。

 

 ここは産道なのだと唐突に理解する。中途半端なのも当然だ。

 

「問題はどこに俺の使える穴があるか、だな」

 

 さてどうするか、と首を捻った時に思い出す。セージが「生を感じよ」と言ったことを。マニゴルドにとって生は師の傍らにある。肉体のない今、生への執着は魂の内側に残るものしかない。それを感じろということは、

 

「小宇宙か」

 

それしか考えられなかった。

 

 小宇宙を感じようとすると集まってきてしまう鬼火が、この世界にどれほど存在するのか想像するのも恐ろしい。だがここまで来た亡者は目指すべき場所を知っている。現世で鬼火がマニゴルドに寄ってくるのが、死に親しむ彼の気配を好んでのことだとしたら、この世界にその理由は存在し得ない。鬼火に邪魔されることなく小宇宙を高めることができるかもしれない。

 

 全て想像だけの可能性の話だった。それでも試す価値はある。死に引き摺り込まれるのを待つのは、足掻き疲れてからでいい。彼は亡者の群から離れて荒野に走っていった。逆走する少年を振り返る者はいない。

 

 やがて黄泉比良坂に小さな光が生まれた。亡者から剥がれ落ちた魂の欠片が何かに反応し、燐光となって燃え上がった。

 

 

 

 水の匂いがした。

 

 

 少年が目を開けると、逆さまになったセージが上から覗き込んでいた。更にその頭上には木の陰と、藍色に澄んだ空が見えた。

 

(――生きてる!)

 

 彼は跳ね起き、喘いだ。

 

 くらくらと目眩がする。歓喜のままに溢れだす小宇宙を留める術を知らず、マニゴルドは師の法衣を掴んだ。涙が出てきた。

 

「俺、生きてる」

 

「ああ。生きているとも」

 

 少年は元の姿勢に寝転がった。師が涙を拭ってくれた。空は徐々に白みつつある。清冽な空気。夜明けが近い。

 

 彼らは聖域の墓場に設けられた水場の辺にいた。木の幹に背を預けたセージは胡座を掻き、その足に弟子の頭を置いている。ずっとそうしていたのかと尋ねても、セージは微笑むだけで答えてくれなかった。

 

「どれくらい死んでたんだ、俺」

 

「せいぜい数時間だ。長く感じたか」

 

「そりゃもう。小宇宙に目覚めるくらいには長く」

 

 マニゴルドは宙に手を伸ばした。本当ならもう薄れて消えているはずの朝の星がすぐ近くに見えた。空の向こうと体の中がつながっている感覚。身の内から湧き出す力が、血液と一緒に体内を駆け巡っている。

 

「母親から生まれた時もこんな感じだったんだろうな。魂は穴を抜けて次の世界に生まれるんだ。今、全部チカチカして眩しい」

 

「ではおまえはこの世に生まれ直したのだな」

 

 おめでとう。呟くとセージは弟子の頭に両手を添えて、己の小宇宙を同調させた。穏やかな師の小宇宙に導かれて弟子のそれが抑えられる。触れている手の温もりと共に流れ込んでくるものをマニゴルドは感じ取った。

 

「これ、お師匠の小宇宙だったのか。黄泉比良坂から俺を引っ張り上げてくれただろ。一人で戻ってこさせるつもりじゃなかったのかよ」

 

「積尸気を開くのはおまえにはまだ無理だ。私が引き上げなくてどうする」

 

「産婆だな、まるで」

 

 少年は目を閉じたまま笑った。笑った拍子にまた涙が零れた。傍らに置いていた兜を被り、さて、とセージは声を上げた。

 

「もうすぐ勤行の時刻だから私は教皇宮に戻るが、おまえも行くか」

 

 もう少しここにいると伝え、マニゴルドは師の立ち去るのを見送った。

 

 やがて最初の朝の光が生まれた。

 

 丘の頂上が橙色に染まり、光を反射する草の海がきらきらと波を起こした。朝日は一瞬のうちに世界を鮮やかに照らし出した。

 

 不意に視界が滲む。

 

 彼は己の頬に触れた。濡れて、温かい。

 

 

 生きている。

 

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