【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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蟹座の愛する世界

 

 早朝の自主訓練で闘技場にいたアスプロスは、誰かが小宇宙を燃やしながら近づいてくるのを感じた。覚えのない小宇宙の輝きに訓練の手を止める。

 

「あれは……」

 

 数日前の夜の見回りで、スターヒルの麓にいたのを見かけた後輩だった。教皇の弟子だったとハスガードから聞かされたが、それが何だとその時のアスプロスは鼻で笑った。彼は黄金位を目指しているが、当代の教皇に阿る気はない。

 

 それでも数日前にはまだ小宇宙に目覚めていなかった少年が、今朝はこうして清冽な小宇宙を発しているのだから、その成長ぶりに関心を持った。

 

 走ってくる少年の正面で待ち構える。

 

 軽やかに、なにか大きな喜びに突き動かされるように走っていた少年は、行く手を塞ぐアスプロスの前で立ち止まった。

 

「おはよう。いい朝だな」少年から声を掛けてきた。

 

「ああ、おはよう。きみも朝練か」

 

「違げえよ徹夜明けだ」

 

「徹夜? そんな修行を」

 

「ちょっくら死んでた」

 

「は?」

 

とアスプロスは思わず間の抜けた声を上げた。相手は楽しそうに笑い、

 

「生きてるって素晴らしい」

 

とその場でひらり身を翻す。

 

「ちょっと待て、きみ。ええとマニゴルド」

 

 名前をようやく思い出し、腕を掴む。不思議そうに振り返った少年に、手合わせをしないかと持ちかけた。

 

 結果としては、マニゴルドは息も絶え絶えに地面にひっくり返り、アスプロスはその横で軽く息を弾ませる程度で終わった。後者が小宇宙を我が物としているのに引き替え、前者は目覚めたばかりという条件の違いはあれど、二人の実力差はかなり大きい。

 

 これが教皇の弟子か、とアスプロスは落胆した。教皇が側に置いているというからどんな逸材かと思いきや、聖闘士として抜きん出た素質があるようには見えない。目覚めたばかりの小宇宙がどう成長するかにもよるが、アスプロスの地位を脅かすことはないだろう。

 

 息が落ち着くとマニゴルドが言った。

 

「強いな、あんた」

 

 その賞賛は受け慣れていた。「さすがアスプロス」と羨ましがる連中にアスプロスは憤る。機会を与えられているのに、努力もせず他人を羨むだけの奴に、何が分かるのかと。羨む暇があったら己を磨けと。この年下の少年もその同類だと思った。

 

 しかし相手は言葉を継ぐ。

 

「俺も早く強くならなくちゃ」

 

「急ぐ理由でもあるのか?」

 

 身を起こした少年は、唇の端に笑みを乗せた。

 

「ジジイがさ」

 

「爺?」

 

「ま、それは置いといて俺のダチが、一人はもうだいぶ前に修行地に行っちまったんだけど、もう一人別のも聖衣を授かるための仕上げの修行に入ったんだ。俺だけ置いてかれるのは嫌じゃん」

 

と言う。

 

「友がいるのか」

 

「うん。どうせなら三人とも聖闘士になれたら――ああ。あいつらにも言ってやりゃ良かった。馬鹿だな、俺」

 

 舌打ちするのを見たアスプロスの心が動いた。三人。それは彼とハスガードとシジフォスの関係を彷彿とさせた。黄金の戦友になることを目指して競い合った日々。一人はすでに射手座の位に上がった。

 

「立て」

 

 アスプロスは相手の手を引いて無理矢理立たせた。

 

「生温いぞマニゴルド。皆で仲良く手を繋いで聖闘士になれるのだったら誰も苦労はしない。きみは友人と一つの聖衣を奪い合うことになるかもしれない。その時に容赦なく拳を友人の胸に突き立てる覚悟がなければ、聖闘士にはなれないだろう」

 

 マニゴルドの目がアスプロスを見つめた。非情だと言うなら言えばいい。そんな気持ちでアスプロスは見つめ返した。

 

 するとマニゴルドは悪戯小僧の笑みを浮かべた。

 

「俺、あんたみたいな奴、好きだわ」

 

 毒気を抜かれたアスプロスに「じゃあな先輩」と手を振り、悪童はどこかへ走っていった。

 

          ◇

 

 嵐が吹き荒れるような一時の歓喜が収まると、マニゴルドは落ち着きを取り戻した。眠いと言って朝食後に寝室に戻る弟子を、セージは止めなかった。夜半からの黄泉比良坂での出来事は、若い魂にも消耗を強いたはずだ。

 

 次に二人でゆっくり話す機会ができたのは夕食時だった。マニゴルドからは小宇宙の気配が消えていた。

 

「疲れは取れたか」

 

「まあ、だいたいは」

 

 元気よくラム肉とひよこ豆の煮込みを頬張っているので、セージは己の分の肉も弟子の皿に移してやった。トマトの酸味が肉と野菜に馴染んで飯が進む一品だ。

 

「寝台ではなくまた床で寝ておったな」

 

 なぜそれを知っているのかと、少年の顔が渋くなった。

 

「最初は俺だって寝台で寝てた」

 

「途中で移ったのか。一体どうしたのだ。最近はきちんと寝台で眠るようになっていたのに」

 

 少年は口ごもり、しばらくしてようやく一言、悪夢を見たと白状した。黄泉比良坂での体験のせいかとセージは思った。しかし本人はそれを認めなかった。

 

「俺をその辺のガキと一緒にするなよ。死人がうじゃうじゃいようが、地獄への穴が開いていようが、怖かねえよ」

 

「ほう。ではおまえが見た悪夢とはどのようなものだ?」

 

 返事は返ってこなかった。

 

「……話は戻るが、固い床の上なら悪夢を見なくなるものなのか」

 

「すぐに起きられるから」

 

 寝心地が悪いほうが、すぐに眠りから醒められるのだと言う。セージが黙っていると、少年は舌打ちしてフォークを置いた。

 

「止めようぜ、この話は。飯が不味くなる」

 

「分かった」

 

 老人は頷くとワインで口を湿らせた。

 

「ところで小宇宙だが、その後どうだ。感覚は掴めたか」

 

「一眠りしたら感覚忘れちまった」

 

「笑って言うことか。思い出せないならまた冥界波を味わわせてやるぞ」

 

「それいいね。お師匠頼むわ」

 

 屈託なく笑う弟子に、セージは溜息を吐いた。

 

「黄泉比良坂を恐ろしい場所だとは思わないのか」

 

「全然。あ、遠くに逃げても大穴の所に戻っちまうって意味では恐ろしかった。そういやお師匠に聞きたかったんだけど、覚え違いじゃなければ俺、あの場所は知ってると思うんだ。毒薔薇にやられた時あそこに行っただろう? あの時も俺は死にかけてたのか」

 

「あれは積尸気を用いた近道だ」

 

「近道?」

 

「黄泉比良坂は道だ。現世という家を出て、冥界という新しい家に入るまでの。魂が別の家を訪れるためには道を歩き、戸をくぐらなければならない。戸にあたるのが積尸気であり、黄泉比良坂にある大穴だ。だから冥界波を応用して地上の遠隔地も繋ぐことができる」

 

「何それ便利」

 

 マニゴルドは呆れたように笑って、付け足した。「もしかして、ハクレイのジジイもジャミールとの往復にその近道を使った?」

 

「よく分かったな」

 

 おまえも覚えたいかと尋ねると少年は気軽に頷いた。元々、弟子が小宇宙に目覚めたら教えようとは思っていた。

 

「素質さえあれば積尸気冥界波を覚えることはできる。我々はその才のある者をまとめて積尸気使いと呼んでいる。だが冥界波をただの便利な技と思われては困る。積尸気使いは聖闘士の陰も背負うことになるからだ」

 

「陰?」

 

「今夜はその話だ」

 

 私室に戻った師弟は、いつものように向かい合った。二人の間ではマニゴルドの淹れた茶が湯気を立てている。

 

 歴史を教える時と同じようにセージは静かに語り出した。

 

「私が蟹座の黄金聖闘士だということは前に言ったな。巨蟹宮の守護者たるこの位には、必ず積尸気使いが就く。聖闘士の頂上にいる黄金聖闘士の中で、この力のために、蟹座は他の十一の黄金位に比べて陰を背負うことが多い」

 

 弟子は怪訝な顔をした。

 

「お師匠より前の代の話だよな、それ。教皇が陰のわけないだろ」

 

「教皇位はここでは関係ない。我らの主神と敵対している冥王ハーデスは、どこを治めておる?」

 

「冥界」

 

 積尸気冥界波は、現世にある魂を冥界の手前まで送る技だ。術者が自らは肉体を持ったまま黄泉比良坂に乗り込むこともできる。つまり敵の本拠地付近に出入りできるという利点がある。一方で、敵に寝返るのではないかと味方に疑われる恐れも常にある。対冥王の聖戦において、冥界に通じる技を使う蟹座は、重要、かつ危険な立ち位置にあると言えた。

 

「全ての聖闘士の中で最も死に親しいという立場を利用して、かつての聖戦では冥界への内通者を装うこともあったという。基本的に味方に疑われやすいのだ」

 

 なんだそれ、とマニゴルドは吐き捨てた。

 

「意味分かんねえ何だそれ。お師匠はそんな損な役回りでいいのかよ?」

 

「英雄だけでは戦は勝てぬ。誰かが泥を被る必要はあるし、それに適した位がたまたま蟹座だったというだけのことだ」

 

「なにが適してるっていうんだよ」

 

「考え方が、な」

 

 セージは茶を飲み干し、茶器を少年の目の高さまで上げた。ガラスの茶器越しに見えるマニゴルドの顔は憤っている。

 

「この物の形を、おまえはどう見る」

 

「形?」

 

 横から見れば釣り鐘を逆さにしたような茶器は、真上から見れば円を描く。

 

「生の世界しか知らぬ者は、言うなれば横からの形しか見えぬ。だが積尸気使いは横からだけでなく、上や下からも形を見ることができる。死の側から生を見ることができる」

 

 死の世界を実際に知ることが、積尸気使いの価値観に及ぼす影響は大きい。世界の全てを相対的なものとして、一歩離れたところから見るようになるからだ。己に対しても同じだ。一種の達観だった。だから蟹座の黄金聖闘士は世界や女神を愛しながらも、その考え方は他の聖闘士と大きく異なったものにならざるを得ない。

 

「それで何か困ることでもあんの」

 

 絨毯の毛を無意識に縒りながらマニゴルドは聞いた。

 

「その前にマニゴルド。正義とは何だと思う」

 

 突然の質問返しに弟子は戸惑った。

 

 例え話をしよう、とセージは話を続ける。

 

「今から六、七百年前のことだ。十字軍は聖地奪還を掲げてエルサレムに進軍した。騎士団の者たちはそれがキリストのため、自軍の正義のためと信じて疑わなかっただろう。領土欲しさに同じキリスト教の国に攻め入ったことはこの際置いておく。当時エルサレムを治めていたイスラム教徒にとっては、彼らは単なる野蛮な外患に過ぎなかった。イスラム教徒にとってもエルサレムは聖地で、数百年そこでキリスト教徒やユダヤ教徒と共存して暮らしていたのだしな。しかし彼らが寛容なのは唯一絶対の神を信じる経典の民にだけであって、我らのように神々が複数いると信じる者には容赦が無く、また偶像を拝むことを許さず像を破壊してしまう。それがどれほど貴重なものであってもお構いなしだ。そして十字軍の進軍を煽ったキリスト教の商人たちにとっては、戦争は絶好の商機であり、イスラム商人に独占されていた地域への商路拡大の手段だった。

 

 ――さて、この戦いにおいて正義は誰にあったと思う?」

 

 これでもかなり省略・単純化している。十字軍の歴史を正しく語ろうとしたら、とても一晩では終わらない。一言で表すなら「地中海情勢は複雑怪奇」だ。

 

 少し考えてから、少年は分からないと首を振った。

 

「まあ、それが正解だな」

 

「なんだよそれ!」

 

「戦争においてどちらの軍が正義でどちらが悪か、など決まってはいない。あるのは勝つ者と敗ける者だ。そして正義を語れるのは勝った者だけだ。敗けた者がいくら正義を語っても、それは負け犬の遠吠えだな」

 

 だからこそ我々は勝ち続けなければならない、と女神の軍勢をまとめる彼は語る。

 

「私は教皇の座にある者として、アテナの正義を疑うことは許されない。けれど積尸気使いは、その力のために絶対の正義などないことを心の底では知ってしまう。今おまえも、十字軍の話を聞いて誰に正義があるか分からないと思っただろう。それはおまえが当事者ではなく後世の者の目で考えたからだ。蟹座は常にその目で世界を見ている」

 

 しかしその突き放した見方は、指揮官としてはともかく一般の聖闘士としては危うかった。聖戦の当事者である聖闘士が皆その考えに染まれば、士気は下がり聖戦に負けてしまうだろう。

 

 聖闘士は女神の矛であり盾である。物事を単純化して考えるような訓練を若い頃から受ける。雑念が少なければ、より純粋に小宇宙を燃やせると信じられている向きもある。

 

 神の兵士は迷ってはいけない。女神は正しい。女神の望む正々堂々とした英雄的な戦いをしたい。それが基本的な聖闘士の姿勢だ。この時代においては、ハスガードがその理想型に近いだろう(まだ候補生の身ではあるが)。

 

 一方で、世界における己の立ち位置を俯瞰してしまうのが積尸気使いだった。彼らにとっては生前の栄光も死後の栄誉も深い意味はない。だから華々しい活躍は他の者に任せて、汚れ仕事であろうと貧乏くじであろうと、苦にせず引き受ける。多くの聖闘士が重んじるものを、彼らは軽やかに切り捨てる。

 

 積尸気使いが聖闘士の陰を背負うというのは、この考え方に因るところが大きい。

 

「代々の蟹座の黄金聖闘士に一癖ある者が多いのは、決して偶然ではないだろう」

 

「お師匠が曲者には見えないけどな」

 

 マニゴルドは師の顔をしげしげと見つめた。セージは静かに笑った。弟子の前でそう振る舞う必要がないだけで、神官や外部の権力者が相手の時にはいくらでも権謀を巡らす教皇である。兄などには「涼しい顔してわしよりえげつない」などと言われる始末だ。年の功というのも無論あるだろうが。

 

「そういったわけで、己の立場を割り切った蟹座をはじめとした積尸気使いには、色々と後ろ暗い仕事が回ってくることもある。そもそも死に近いというだけで忌み嫌われやすいし、我々もそれを逆に利用しているところがある」

 

「だけど」

 

 少年は眉をひそめた。そこまで覚悟しても、敵が聖闘士の行動を許し続けるとは限らないだろう。冥界に通じる力がいつ無効化されるか分からない。

 

 弟子の疑問にセージは微笑みと共に答えた。

 

「案ずるな。積尸気使いは常にアテナと共に在る。元々この力は、遙か昔の聖戦でアテナが勝ち取られた権利だと聞く。だから冥王と敵対しても力を封じられることはないのだ。私はこの力に誇りを持っているし、代々の蟹座もそうであったことを聖衣は憶えている」

 

「何でそんなもの戦利品にしたんだ。やっぱり偵察のため?」

 

「私は、魂の正しく巡るのを助けるためでもあると思っている。冥界がなければ、この世は亡者の魂で溢れかえってしまうだろう。魂を冥界へ送る積尸気使いは、さしずめ案内人といったところであろうな」

 

 時に地上の覇権を狙い、アテナと敵対するため、ハーデスは聖闘士に悪しざまに思われている。しかし根本はあくまで冥界の王だ。死者の魂が生まれ変わるためには、正しく冥界を経る必要があった。それをよく知っている積尸気使いは、冥王への感情も他の聖闘士とずれてしまう。

 

「さて、私の話は終わりだ。どの聖衣を授かろうがたとえ雑兵に終わろうが、冥界波を体得したあとは、一般的な聖闘士と同じ考え方はできなくなると覚悟してほしい」

 

「何を今更」

 

 いっそ冷淡なほどの声音で弟子は肯った。

 

「亡霊と遊んでる時点で、他人と同じ考え方なんてできっこねえよ。お師匠だって分かってんだろうが」

 

 セージは胸の内に溜息を抑えた。

 

 少年は茶を飲み干してポットを取り上げた。自分の分も注がれる琥珀色の茶を眺めながら老人は言った。

 

「逆説的になってしまうが、積尸気使いの本領は生を示すことだ」

 

 メメント・モリ。死を思え。人は死の影を見ることで生の輪郭を知る。人の生を愛するアテナは、だからこそ死の力を己の戦士に与えた。

 

「おまえは黄泉比良坂を女の腹に、積尸気使いを産婆に喩えた。闇雲に死を厭うことなく、死の中に生を見出すことができたなら、きっといい積尸気使いになれるだろう」

 

 マニゴルドは頬を掻いてそっぽを向いた。

 

「これでも磨きながら今の話を整理しておけ」

 

 セージは教皇の証を弟子に渡した。鈍く金色に光る兜は、そう易々と他人の手に預けて良い物ではない。両手に乗った重みにマニゴルドは慌てて師を見上げた。

 

「磨き終わったら今度は冥界波の原理を話をしてやろう」

 

 その間に少し仕事を片付けておくから、とセージは書き物机に向かった。

 

 ふと振り返ると、弟子がこっそり教皇兜を被ろうとしていた。

 


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