【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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後の世の人々について
祭壇座の見解


 

 二人が聖域に入った頃には、夜が闇色の袖を空に広げつつあった。

 

 少年が不思議そうに老人を仰ぎ見た。「なあジイさん、ここはもうジイさんの縄張りなんだろう? なんで兜を被ったんだ」

 

 セージは少し前から頭部を蔽う兜を着けていた。安全なはずの本拠地でなにを警戒するのか、という少年の疑問はもっともだった。

 

「これは防具というより、これを被っている者が私であるという目印だ」

 

「子分に顔も覚えられてねえの? 却ってそんな顔の隠れるもの被ってるから悪いんじゃねえの」

 

 悪童にかかっては、権力者の威厳など形無しだ。彼は苦笑するしかなかった。

 

 時折すれ違う者たちが、セージの存在に驚き、丁寧に挨拶していく。ギリシャ語は知らずとも、イタリア語と近い響きの呼びかけが何を意味するかは子供にも分かった。教皇だって、と呟く少年に、便宜上そう呼ばれていることをセージは教えた。聖闘士の指導者は代々「教皇」と呼ばれている。

 

「ローマと兼任してるわけじゃないよな」

 

「もちろん違う。神の代理人という位置づけが、身内だけでなく外部にも分かりやすいように、同じ言葉を用いているだけだ」

 

「なるほどね」

 

「本当に理解したのか?」

 

「神様がたくさんいるなら、その代理人だって何人いても不思議はねえよ。ローマにいるのはキリストの代理人。ジイさんはアテナの代理人。分かったって」

 

 その柔軟さにセージは感心した。この少年が聡明なのか、それともこの年頃になれば誰でもそうなのか、普段子供に接することのない彼には分からない。

 

 それにしても少年は遠慮無く話すようになった。打ち解けてくれたからだとは、セージはまだ考えていない。お調子者を装って本心を隠しているだけだろう。そうやって韜晦(とうかい)するのを得意とする人間を、彼はよく知っている。

 

 少年の目が、ふと宿舎の一棟に向けられた。大勢の人の気配と煮炊きの匂い。集められた子供が集団生活を送ると聞いたばかりだ。

 

 苦々しい表情になった少年を、セージは別の道へ促した。

 

「候補生でもない者を、あちらで迎えるわけにはいかぬ。おまえの今夜の宿は別の場所だ」

 

 どこかと問われて、彼は住処の方角を指差した。それは前方やや上。少年の目には宵空を背景にした黒々とした山影しか見えないが、聖域を見下ろす高みに位置する宮殿。通称、教皇宮である。

 

 ――聖闘士は三つの階級に分かれる。最上位の黄金聖闘士は、聖域中枢部の守護を担う。その下に通常の実働部隊である白銀聖闘士と、白銀聖闘士の活動を補佐する青銅聖闘士が続く。正式な聖闘士はここまでで、力量の足りない者は無位の雑兵となる。聖闘士を目指す候補生の多くは聖闘士にはなれず、神官に転向できる僅かな者を除いては雑兵止まりで終わる。

 

 雑兵といっても、世間的に見れば肉体の強靱さは常人の域を超えている者ばかりである。黄金聖闘士ともなれば、その力と伎倆は人よりも神に近い。戦女神の尖兵として他の神の兵と戦うのだから、それくらいでなくては務まらない。ただし普通の人間に対して振るうべき力ではないため、歴史の表舞台に現れることもない。

 

 そんな歴史の裏の階級社会の頂点に立つ者が教皇であり、この時代はセージがその座にあった。

 

 長い階段を上って教皇宮に着いた時には、子供は疲れ切ってその場にしゃがみ込んでしまった。

 

 セージは出迎えた従者に少年を引き渡して、湯浴みさせるよう言いつけた。食事と部屋の用意も必要だ。世話係にはイタリア語を解する者を、と言い添えることも忘れない。

 

 少年は従者に促されるまま、素直に連れて行かれた。

 

 一人となったセージは勝手知ったる己の執務室に入った。

 

 部屋にはもう一人の彼が待っていた。

 

 といっても幻影ではない。セージと瓜二つの実兄、ハクレイである。

 

 白髪の老人だが、矍鑠たる肉体と若々しい知性の持ち主だ。それはセージにしても同じなのだが、この兄弟、見た目と裏腹に性格だけは大いに違う。

 

「戻ったか」

 

「留守居役、ありがとうございました」

 

 兜を取り、弟は静かに一礼する。それに対して兄は「おお、もう飽き飽きしたわ」と立ち上がるや、肩に引っかけていた教皇の法衣を、ぞんざいな仕草で脱ぎ捨てた。留守の間の弟の影武者を務めていたのだ。今回のセージの視察は非公式なもので、ハクレイも正式にはここを訪れていない。

 

「慣れんことはするものではないな。やはり教皇位はおまえに押しつけて正解だったわ。留守の間に溜まった仕事はそっくり残してあるから、精々励め」

 

「祭壇座の言葉とも思えませぬな」

 

 それを聞いて、教皇の補佐が務めの祭壇座《アルター》の聖闘士、ハクレイはにやりと笑った。「わしもよ」

 

 悪びれない兄に、弟は苦笑した。

 

 ハクレイからの申し送りが一段落してセージが安心したところへ、何気ない問いが投げられた。

 

「ところで、散歩中に面白いものを拾ってきたようじゃが、あれはわしにくれる土産か」

 

 連れてこられた少年をいつの間に見かけたのか、目敏い兄にセージもいちいち驚きはしない。

 

「あの子供でしたら兄上には差し上げませんよ。上物のワインを見繕って参りましたので、それでご勘弁を」

 

「ふむ。仕方ない」

 

 存外あっさり引き下がったな、という弟の内心の声が聞こえたわけでもないだろうが、兄が言った。

 

「まあ、弟のおもちゃを横取りするのは見苦しいか。ましてやわしと違うて、弟子にするほどおまえが気に入ったおもちゃは初めてだからな。初弟子か」

 

と、セージが弟子に取ることを疑っていない。

 

 セージにはそんなつもりはなかった。

 

 今まで大勢の人間が弟子入りを志願したり、あるいは取るように推挙してきた。血縁や家柄の無意味な聖闘士にとって、師弟関係は何より重要なものだ。

 

 だがどんなに勧められても、兄に説教されても、セージは頑として拒否してきた。彼は教皇の勤めで忙しいのだ。余計なものまで抱え込む気は今まで無かったし、これからも無いだろうと考えていた。特定の誰かに思い入れして、教皇としての公平な判断ができなくなることを恐れていた。兄も理解していたと思っていたのだが。

 

「どういった根拠でそうお考えに?」

 

 ハクレイは僅かにたじろいだ。それは弟が心底不思議そうに聞いたことに呆れたためだった。

 

「セージよ。おまえが小僧を連れてきたここは、どこだ」と床を指差す。「聖闘士でさえ許可無くば立ち入れぬ聖域の中枢、教皇宮ということをお忘れではございますまいな、猊下」

 

「止してください、兄上」

 

 嫌味に顔をしかめたセージは、分が悪いことを認めた。兄に言われるまで気づかなかった己の迂闊さ。相手の言わんとすることは察しがついた。しかしハクレイは止めなかった。

 

「ものになりそうな子供を聖域に連れてくる。これは構わん。聖闘士ならば誰にでも認められた行為だ。しかし候補生には候補生のいるべき区画がある。それを無視して教皇宮まで立ち入らせるなど、よほどのこと。下の宿舎に放り込まずに、ここまで上がらせた理由は何じゃ」

 

 慣例を破った理由など無い。無いが、それでは下の者に示しがつかない。

 

「私はあの者を聖闘士にするつもりはありません。ですから候補生用の宿舎には入れなかったのです」

 

「ほう。では聖域へ迎えたのは何故じゃ。神官か従者にでもするつもりか」

 

 聖域は、聖闘士の本拠地として、俗世から隔絶された集落である。近隣の村はさておき、一般には存在さえ知られないようにしている地へ、容易に部外者を迎え入れるべきではない。敵の間者という可能性もある。

 

 もし「可哀相な孤児」を憐れんだだけなら、聖域に入る前に地元の教会や慈善家に託せば済んだ。しかしセージはそこで少年の手を放さなかった。聖域中がその理由を知りたがるだろう。

 

「聖域の役に立てようと思って連れてきたのではないのです。とりあえず連れてきたと申しますか」

 

 うまく説明できないが、と彼はもどかしい思いで首を振った。

 

 そんな弟を見る兄の目が、ふっと優しくなった。

 

「まあ良いわ。わしより、下の連中にどう言うか考えておくのだな。これからも手元に置いておくのなら、弟子にするのが一番手っ取り早いし、弁解の手間も省けると思うがの」

 

 せいぜい上手くやれ、とハクレイはワインを手にして帰って行った。

 

 セージはしばらく物思いに沈んだ。

 

 用人が執務室の戸口に現れた。セージの連れてきた少年の部屋を用意するために、その扱いについて確認したいという。「お客様でしたら客間をご用意いたしますし、聖闘士の候補でしたらそれなりの部屋か、下の宿舎にお連れいたしませんと」

 

 セージは顎に手を当てて考えたが、長くは掛からなかった。

 

「では、私の寝間の隣へ。手頃な広さだ」

 

「従者の小間でございますか。猊下のご寝所とは続き間でございますよ」

 

「構わぬ」

 

 主人の決定に用人は一礼して下がった。

 

 やがて食事の用意が調った。

 

 テーブルの末席で少年が待っていた。いくつかの席を隔てた定位置に腰掛けてから、セージは彼の正面へ席を移るよう少年に指示した。端に座っているのは、少年が遠慮したからではなく、用人がそうさせたのだろうと察していた。

 

 面倒そうに移ってきた少年を、向かいから眺めた。

 

 清潔な服の襟元や袖口から、風呂上がりで上気した肌が覗いて見える。湿り気を帯びた髪は相変わらず野放図だが、汚れはすっかり落とされたようだ。

 

「さっぱりしたか」

 

「頭から爪先まで、芋みたいに洗われた」

 

 全身ヒリヒリする、と口を尖らせる少年に、セージは言った。

 

「では明日からはもっと優しくするよう言いつけておこう」

 

「いい。自分の体くらい自分で洗う。それより、明日からって」

 

「しばらくここで暮らせ。良いな」

 

「俺に良いも悪いもねえけど、ジイさんの家の人はいいのか」

 

 殊勝な言葉だが、運ばれてきたスープに少年の気は奪われつつある。

 

「私に家族はいない。少なくとも同居している者はいない」

 

「俺を風呂に連れてったおっさんは」

 

「あれは私に仕える従者だ」

 

 スープの匂いを嗅いでいた少年は、僅かに顔を上げた。上目遣いに老人を見、薄く笑う。子供らしからぬ表情だった。

 

「なんだ」

 

「……いや、べつに」

 

「寂しいジジイだと言いたければ言えば良かろう」

 

 少年は肩を竦めただけだった。

 

 質素な料理が並んだところで、彼は重々しく宣言した。「では食べようか。……その前に」と、勢いよく貪り始めようとした少年を、制止する。

 

「なんだよ、お祈りか」

 

「聖域流のな。それとおまえの食べかたを直さねばならん。私の真似をして、同じように食べてみなさい」

 

「あいにく育ちが悪いんだよ」

 

 放っといてくれ、と露骨に嫌そうな顔をした少年に、セージは説いた。

 

「食事の作法というのはな、基本的には料理を最大限に味わうための技よ。どうせ同じものを食べるなら、美味しいほうが良いだろう」

 

「肩の凝るお上品な食いかたで、美味いわけがねえ」

 

 食べ始めた様子を見てセージは「違う」と声を上げた。何のことか分からず怪訝そうな少年の横の席に座り、小さな手から匙を抜き取った。

 

「何するんだよ」

 

「匙はこう持つ」と彼の知る正しい持ちかたを見せる。「良いか。こうだ」

 

 返された匙を正しく持ち直した少年は、ふてくされた顔で食事を再開した。セージにじっと見つめられていることを意識しつつ決してそちらを見ない。それでもセージに言われた通りにしようとしているのを見れば、老人の頬は自然と緩むのだった。

 

 よく噛め、美味いか、一気に飲み込もうとするな。しきりに話しかけているうちに、いつの間にか料理は全て片付いていた。

 

 老人にとっては楽しい食事となったが、少年にとっては四苦八苦するばかりの大変な時間だったようだ。食後の茶を喫するセージに向かって口を尖らせる。

 

「いつもこんなゆっくり食うのかよ。年寄りに調子を合わせてたら、時間ばっかり掛かってしようがねえや」

 

「いや。普段は一人だからな。喋る相手もおらんですぐに終わる」

 

「飯の連れが欲しいならそう言えよ」

 

「卓上に足を乗せるな」

 

 少年は素直に食卓から足を下ろしたが、不満げに老人を睨み付けた。

 

「ジジイ。出て行きたくなったらいつでも出ていいって言ったこと、忘れんなよ」

 

「忘れはせぬ。が、甘やかす気はない。昼はともかく、朝と夕の食事は、こうしておまえと一緒に取るつもりだ。食事の作法を身に付けるまで続くと思え」

 

 澄まして言えば、悪童はむくれてそっぽを向いた。

 

          ◇

 

 祭司長と施政者を兼ねる教皇は忙しい。

 

 夜明け前の勤行に始まり、日没前後の夕の勤行、夜の星見といった祭祀の合間に、謁見や各所への指示、外界の権力者との付き合いといった散文的な日々の業務をこなす。

 

 朝から晩まで、セージの生活に公私の区別はなかった。

 

 旅から戻った翌日でも、それは変わらない。

 

 その日もまだ暗い時分に起き出した彼は、朝の勤めを終えて寝間に戻ってきた。身支度を手伝った従者が、隣も起こして参りましょうかと尋ねた。旅の後で少年も疲れているだろうから、もう少し寝かせてやろうとも思ったが、前夜に「甘やかす気はない」と宣言したのを思い出した。

 

 主人の意を受けて続き間へ入った従者が、小さく声を上げた。

 

 何事かとセージも隣室に入ると、寝台脇に立っていた従者が不作法を謝った。寝台の上はもぬけの殻だ。セージの顔が険しくなりかけ、従者は慌てて壁際を指差す。棚の陰の小さな塊。

 

 少年は毛布で作った床上の巣に身を丸めていた。声で目が覚めたのか、ノロノロと身を起こそうとする。

 

 セージは小さく溜息を吐いて、少年の傍らに膝を突いた。

 

「どこで寝ておる」

 

「……ああ、ジイさんか」

 

 よく眠れたか、と脇に手を差し入れて起こしてやる。寝起きの子供の温もりが、冷えた手に快い。

 

「この寝台は気に入らぬか」

 

 何が不服かと聞いても、少年はただ黙り込むばかりだった。

 

 従者の手を借りて少年に顔を洗わせ、朝食へ連れて行った。

 

 糧を横取りする競争相手がいないことに気づいたらしく、少年は比較的落ち着いて食べていた。パンを服に隠す瞬間を目撃したが、セージは見ぬ振りをした。

 

 食後は教皇宮で働く者たちに少年を紹介し、それから後のことは用人に任せて、公務用の謁見の間に向かおうとした。

 

 ふと振り返る。

 

 窓の外を眺めていた少年が、視線に気づいて彼を見つめ返した。何も求めない、醒めた目をしている。

 

 掛ける言葉が見つからなかったので、セージは曖昧に手を挙げて、立ち去った。

 

 たった一言「行ってくる」と言えば良かったのだと閃いたのは、昼近くなってからのことであった。 

 

 夕方、奥向きに戻って少年を見かけたときには、セージは忘れずに告げた。

 

「ただいま、マニゴルド」

 

 少年は朝と同じ目で老人を見上げた。ただそれだけだった。セージは気にせず、そのまま彼を連れて食堂に赴く。道すがら、今日は何をしたかと話を向けた。

 

「教皇宮の奥のほうを連れ回された。入っちゃ駄目だって所ばっかりだな。それから忙しいから一人で遊んでろって言われて、昼まで一人で見て回ってた」

 

「面白そうなものはあったか」

 

「べつに」

 

 すげない返事だったが、少年がぽつりと付け加えた。あるバルコニーから望む景色だけは気に入った、と。そこはちょっとした時に、星を観測するためにセージが使う場所だった。

 

 己が夜に天を見上げる場所で、子供は昼に大地を見下ろしていた。その対比がやけに新鮮に思えた。

 

「空が近くって、遠くまでよく見えて……。遠い山ほど青いんだ。地面は土色だし木や草は緑のはずなのに、なんで青く見えるんだろうな」

 

「青く見えるのは大気があるからだ」

 

 思いがけず返ってきた答に、少年が老人を見上げた。セージにはその反応が嬉しい。

 

「今度そこに行ったときに説明しよう。あの場所は、私も気に入っている」

 

「教えてくれんの」

 

「分かることであればな」

 

 少年は関心を失ったように再び前を向いた。喜ぶかと思ったセージは肩透かしを食らった気分だった。

 

 一朝一夕には変わらない食べかたを注意しながら、午後の出来事も聞き出した。聖域のことやギリシャ語を教えるよう言いつけてあったのだが、結果ははかばかしくなかったと先ほど女官長が謝りに来た。何があったのか、少年の口から聞きたかった。

 

「昼を食べた後は、何をしておった」

 

「デナっておばさんが来て『一緒にお勉強しましょうね』って」

 

「デスピナか。優しかっただろう」

 

 少年は答えない。豆の煮込みを睨み付けている。

 

「デスピナに、正確にはその上の者に、ここのことをおまえに教えてやってくれと頼んだのは私だ。それがうまくいかなかったとなれば、経緯と原因を知りたい。何があった」

 

「何も」

 

 言葉と裏腹に、仇敵を討つような力を込めて、少年はフォークを皿に突き立てる。そら豆の腹が裂けた。それきり黙々と食べている相手をセージは眺め、やがて話題を変えた。

 

「明日はこの聖域を回ろう」

 

 教皇ともあろう者が子供のご機嫌取りかと情けない気もしたが、効果はあった。少年はまだ少し低い声で「聖域って何」と尋ねた。

 

 デナに教わらなかったかと聞けば、悪童がふて腐れるのは分かっていた。セージはこの地の住人にとっての模範解答を答えようとした。

 

「女神アテナを祀る神殿を中心とした、聖闘士にとって神聖な――」向かいに座る少年を見て、気が変わった。すでに一度答えているではないか。ここは同胞と敵軍の、血と無念が染み込んだ土地。「城砦だ」

 

「どこの砦? オスマンか」

 

「我々は地上のどこの勢力にも属さないのだよ。スルタンにもローマ皇帝にも恭順したことはない。唯一アテナにのみ忠誠を誓う」

 

「じゃあ敵は誰」

 

「その時代時代で変わるが、最近だと冥王ハーデスだな」

 

「本当に神様かよ」

 

 呆れた叫び声を聞いて、老人は薄く微笑んだ。

 

「そう。神々は昔から地上の覇権を争っていると言っただろう。アテナはその神々から人々をお守りになるため、人の肉体を持って地上に降臨される。受肉のようなものと言えば分かるか?」

 

「なんだそれ」

 

 キリスト教において、神の子がナザレのイエスとして生まれたことだと簡単に説明すると、少年ははあ、と曖昧な相槌を打った。

 

「教会で聞いたことくらいはあるだろう」

 

「坊主の説教なんて糞喰らえだ」

 

 悪態を聞き流してセージは話を続ける。

 

「神々は人の肉体を依り代にして地上に降臨する。そして地上や海中に拠点を作って出兵の足掛かりとする。アテナの地上における拠点は、降臨の場でもある、ここ聖域だ」

 

「じゃあアテナもここにいるんだ」

 

「今はおられない」

 

「あっそ」

 

 少年は煮豆を口に放り込んだ。そして僅かな嘲りと共に「もしかして、この世の終末まで現れないんじゃないの」と呟いた。

 

 アテナが地上に降臨するのは「聖戦」と呼ばれる聖闘士の総力戦――具体的には神々との戦い――が迫っている兆しだ。セージにとって崇敬の対象である女神は、人の力だけでは抗いきれない嵐の時代が近いことを知らせる烽火でもあった。

 

 それが未だ現れないのは、仕える者にとっては不敬だが、考えようによっては平和が続く証ともいえる。

 

 だから彼は「あるいはな」とだけ応えた。その穏やかな頷きをどう解釈したのか、少年は急いで言った。

 

「べつにジイさんを馬鹿にしたわけじゃないぜ」

 

「分かっておる」

 

 神々の戦いなど一生知らないままのほうが幸せだ。実際には、それが歴史の陰で幾度となく繰り返されてきたのだとしても。

 


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