【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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仮面たちの中の自画像

 

 放っておけば勝手に浮かんでくるものを、こまめに取り除く。

 

 それだけ聞けば、まるで庭の草抜きだとマニゴルドは思わずにいられない。師の前で口に出せば説教されるから言わないが。

 

 彼は今、巨蟹宮にいる。

 

 目の前の壁には白い顔が全部で十四。

 

 顔の一つ(丸鼻・丸顔の男で、マニゴルドはプルチネッラと名付けた)が呟きを発した。内容は特に意味を為さない。「辛い」とか「苦しい」とか、マニゴルドの戯れ相手の鬼火たちと同じような嘆きだ。

 

 しかし、鬼火なら彼の意思に従って動いてくれるのに、この顔たちは壁から離れてくれない。巨蟹宮と死者の相性はすこぶる良いらしい。

 

「おっさん、何がしたいんだよ。こんな誰もいない所に出てきたって、仕方ねえだろうに」

 

 聞いてもプルチネッラ氏は反応を示さない。人の顔はしていても、鬼火よりも意思が通じない。

 

 マニゴルドは教わったばかりの積尸気冥界波を早速試してみることにした。

 

 人差し指をプルチネッラの鼻先に突きつける。鬼火を操るのに似ているが、師から言われているのは少し違う感覚。そろり、指を動かすとプルチネッラの顔は壁から離れた。上手くいった。

 

 自分は天才じゃないかとマニゴルドが思ったのも束の間、向かうべき積尸気の穴が示されなかったためにプルチネッラ氏は元の壁に戻ってしまった。

 

 それではと、先に黄泉比良坂に通じる穴を開けることにする。やはり人差し指を虚空に向ける。だがセージに言われたようにやっても、何も起きなかった。何度やっても同じだった。感覚を知らないのだから一朝一夕に上手くいくはずがない。

 

 彼は天井を仰いでひっくり返った。薄暗い天井の隅に蜘蛛の巣が張っている。巣の上を歩いている蜘蛛を指差して、呻いた。

 

「積尸気冥界波……」

 

 アラクネの子孫は悠々と糸を渡りきった。

 

 ――自身の機織りの腕が女神にも優ると、神を嘲る織物を織った傲慢な女、アラクネ。ときに人の技量がそれを司る神さえ上回ることを身をもって証明した、愚かな先駆者。

 

 マニゴルドは身を起こした。

 

 あと十回やって駄目だったら気分転換に闘技場に行こう。そう決めて、彼はその通りに行動した。

 

 闘技場に向かってすぐに手頃な相手も見つかった。ところが頭の隅で積尸気を開く方法を考えていたせいだろう。組み手で指を怪我してしまった。

 

 何をやっても駄目な日というのもある。割り切って彼は十二宮の方角へ帰り始めた。途中でサンダルの紐が解けたので結び直そうとするが、片手の怪我のせいで上手くいかない。

 

 悪態を吐きながらやり直していると、見かねた通行人から声がかかった。

 

「結んでやろうか?」

 

 顔を上げると、仮面があった。

 

 といっても巨蟹宮の白い死に顔とは違う。装着者がしっかりいる、銀色の面である。それは女聖闘士や聖闘士を目指す少女たちのつける覚悟の証だ。

 

 マニゴルドが女官以外の女を間近に見るのは、聖域に来てから初めてのことだった。男に比べて女の人数が少なく、近づく機会がなかったというのも、もちろんある。しかしそれよりも、並の男を寄せ付けない女聖闘士たちの気性の激しさと厳しさに、年若い候補生たちが近づくのを尻込みしているという現実があった。マニゴルドも新入りの頃に「ここの女は怖いぞ」と散々脅された。いや、この場合は脅しではなく真剣な忠告だったのかも知れない。

 

 男社会の中で、男と同じ条件の下で肩肘を張って生き抜くしかない彼女たちが、多少は刺々しくなったとしても仕方のないことだ。

 

 その仮面の主は、手早くサンダルの紐を結び直してくれた。

 

「ほら」

 

「ありがとう」 

 

 礼を述べると、マニゴルドは改めて彼女を見た。三つ編みにした黒髪をぐるりと頭に巻き付けている。今までに同じ髪型をした聖闘士は見覚えがない(顔で見分けが付かないのだから、髪型で見分けるしかない)。

 

「あんた、新しい候補生?」

 

「失礼な奴だね。私はもうすぐ聖闘士さ。聖域といえば聖闘士の総本山、聖闘士の中でも選りすぐりの凄い人ばかりなんだろうと想像してたんだけど、自分で紐も結べないような坊やがいるとはね。がっかりだよ」

 

 マニゴルドは苛立った。しかし親切にしてもらったことと紐に苦戦していたことは事実だ。

 

「……俺が聖域の顔だったらがっかりしても仕方ないけどよ。強い奴はゴロゴロいるから」

 

「どこに行けばそいつらと手合わせできるんだい」

 

 聞けば彼女は聖域に今日到着したばかりだという。マニゴルドは闘技場まで案内してやることにした。

 

 二人が並ぶと、マニゴルドの目の高さと彼女の肩の高さが同じくらいだった。

 

「俺はマニゴルド。あんたの名前は?」

 

「ニキア」

 

 これのことさ、と彼女は指をヒラヒラさせた。正確には爪を見せたのだ。本名ではないだろう。

 

「いいね。たしか黒と白の縞瑪瑙の語源だろ。あんたの髪と肌の色と同じだ」

 

「生意気言うんじゃないよ、子供のくせに」

 

 仮面の下の表情は見えないし、声も素っ気なかった。マニゴルドは肩を竦めた。オニキス(縞瑪瑙)という名詞が、ギリシャ語のニキア(爪)に由来するという師匠の受け売りを思い出して口にしただけだ。

 

「もうすぐ聖闘士ってことは、ニキアは聖衣を受け取りに来たのか」

 

 聖衣を授かるための最後の試練のために聖域入りしたのだと、彼女は答えた。そんな大事な時に組み手などしていて大丈夫なのかとマニゴルドは眉をひそめる。しかしニキアは少年の心配を笑い飛ばした。

 

「修行地からやってきたその日の内に試練を課されても困るよ。聖域や聖闘士のしきたりを学ぶってことで、早めに聖域に入れるように私の師匠が手配してくれたんだ」

 

「なんだよ。それじゃあんたも今は候補生だろうが。年上かも知れねえけどそれだけで威張るな」

 

「悪かったね。これが私の地だよ」

 

「あっそ」

 

 女聖闘士は皆こういうものなのかとマニゴルドは少しだけ落胆した。教皇宮詰めの年増の女官たちのほうが、よほど可愛げがある。

 

 彼は前方を示した。

 

「あそこが小宇宙体得組の使う闘技場。で、あっちで腕組んでる偉そうな奴が今日の監督役。あいつに挨拶したら、適当に手の空いてる奴に組み手を申し込んでいいよ。今は自主訓練の時間だから」

 

「分かった」

 

 ニキアは頷いて、闘技場に揚々と向かった。

 

 彼女の実力がどれほどのものか気になったが、マニゴルドは見届けようとは思わなかった。それよりも今は怪我をした指を治したかった。

 

          ◇

 

 教皇宮に戻ってきた弟子は、指を怪我していた。原因を聞くと、組み手の時に相手の攻撃を流し損ねたせいだという。

 

 セージは小宇宙で治癒してやりながら言った。

 

「考え無しに動くからそうなる。人差し指を使えなくして、どうやって積尸気冥界波の構えを取るつもりだ」

 

 魂を抜く相手を指差す。これが冥界波の基本の構えである。

 

「それだけどさ」

 

とマニゴルドは腑に落ちない表情で反論してくる。

 

「そもそも技をかける相手を指差すって、どういう意味があるんだよ。原理からしたら、念じるだけで魂を抜けるのに」

 

 余計な動きを伴えば敵に警戒されるだけではないか、と弟子は訴える。

 

「それも一理ある。だが、指差すことでより強く対象に注意が向く。ただ見て頭の中で確認するだけに比べれば、技の精確さが増す」

 

「指さし確認? 要らねえよ」

 

「いいから必ず相手に指を向けるようにしなさい」

 

 それに、と彼は続けた。

 

「念じるだけで技を使えるということを、敵に知らしめてやる必要はない。指差さなければ技が発動できないと敵が思っていれば、それはこちらの切り札ともなる」

 

「手を縛られてもいざとなれば使えるから?」

 

「そう。腕をもぎ取られようが、目を潰されようが、積尸気使いは速やかに相手を殺すことができる。ただしそれは最後の最後だ。切り札を知られないように、技を使う時は必ず構えを取りなさい。誰がどこで見ていないとも限らないのだから」

 

「……はい」

 

 治った指を動かしてみて、マニゴルドは師に礼を言った。

 

 夕食の用意が調ったと知らせが来た。

 

 食卓には、潰したひよこ豆を丸めて揚げた料理が出ていた。材料違いの空豆のものも一緒に並んでいる。どちらが好きかと弟子は尋ねてきた。

 

「どちらも嫌いではないが……、おまえはどちらだ」

 

「強いて言うならひよこ豆のほうかなあ」

 

「それなら一つやろう」

 

 修行の最中でも、こうした生活の中でも、二人の会話は基本的に同じ調子だ。

 

 世間話として、マニゴルドは昼に会ったという候補生のことを話題に上げた。

 

「そいつ聖域の外で修行してたって言うんだけど、聖衣を貰うためにわざわざ聖域に来たんだってさ。やっぱり聖域に来てお師匠に、教皇に認めてもらわないと聖闘士になれないのか」

 

「どうしてもというわけではない」

 

 素質を見出された子供は、聖闘士の下で修行を積む。指導経験の浅い者が師となった時は、修行を終えた弟子を聖闘士への推薦という形で聖域に送り、そこで改めて第三者が聖闘士として相応しいかを判断することが多い。判断の拠り所とするための最終試練は様々だ。師となる聖闘士の指導実績によっては、新たな聖闘士を承認する権限を委任されることもある。そうすると子供は聖域を一度も訪れないまま聖闘士となることも可能だ。

 

 しかし指導者の実績や与える聖衣の種類を問わず、できる限り全ての聖闘士を己の手で祝福したいとセージは考えている。美味しいところだけを横取りすると指導者たちに恨まれても、こればかりは譲れない。もっとも、そういった苦情は一度も来ていないが。

 

「私が若者と話したいだけだ。その者が聖闘士として相応しいかを認めるのは聖衣だからな」

 

 聖闘士になれるかどうかの判断は、教皇や指導者ではなく、最後には聖衣自身にかかっている。ごく稀に、教皇が聖闘士としての称号を認めても聖衣を纏うことができない――すなわち聖衣自身が己の主として認めないという場合もあるのだ。聖衣はただの鎧ではない。過去にそれを身に付けて戦い散った者の記憶を持つ、生きた聖具でもある。

 

「……もしかして聖衣って、凄い?」

 

「何を今更。そしてそれを修復することのできる兄上は、とても凄いのだぞ」

 

「ただの鍛冶屋だと思ってた」

 

「馬鹿者」

 

 マニゴルドは笑って誤魔化した。セージも苦笑で許してやった。

 

          ◇

 

 朝陽の差し込む教皇の間で、射手座のシジフォスは教皇に謁見した。若者はこれから再び女神を探すために旅立つ。

 

「今度こそは探し出してみせます」

 

「頼むぞ」

 

 シジフォスの見る限り、教皇の態度は常のように威厳を保っている。しかし兜の陰で、その目に微かな焦りが浮かんでいるような気がする。

 

 いや、焦っているのは己のほうだ、とシジフォスは気を改めた。手がかりがほぼ無いとはいえ、探す相手は聖闘士の奉じる主神。あまり長いこと俗世で待たせておくわけにはいかない。

 

 教皇の前を辞して青空の下へ出た。山上にある教皇宮の正面からは聖域を見渡すことができる。朝の光を反射する巨大な女神像。結界の外に広がる荒野。遙か向こう、空の下端で光っている一角は海だ。

 

 彼は階段を下り始めた。

 

 魚座のルゴニスは半ば隠遁して弟子に修行を付けているから、双魚宮は素通りだ。その次の宝瓶宮も、そのまた次の磨羯宮にも守護者はいない。シジフォスが外地に出ている間、十二宮は全くの無人となる。守るべき女神はなく、聖なる砦は今その意味を為さない。

 

 寂しいな、とシジフォスはぼんやり思った。兄のイリアスがいてくれればと考えることもあるが、所詮は無駄な仮定だ。あの世間離れした戦士は、今頃どこで何をしているやら。

 

 物思いに沈みながら歩いていると、眼下の巨蟹宮から小宇宙を感じた。誰かが宮の奥で小宇宙を燃やしている。宮付きの使用人ではないだろう。まして守護者でもない。

 

 彼は僅かに緊張しながら階段を下りていった。わざと足音を立てて巨蟹宮の中に向かう。すると廊下の奥からひょっこりと顔を出した者がいた。小憎たらしい顔の少年だ。思わず呆れて声が出た。

 

「マニゴルド?」

 

「なんだよシジフォスさん。勝手に人の守護宮に入ってくるなよ」

 

「おまえの守護宮でもないぞ」

 

 シジフォスの所まで少年は急いで走ってきた。小宇宙を発しているのは目の前の彼だった。

 

「何か用か。ジジイが俺を呼んでた?」

 

「爺と呼ぶな。猊下も誰も呼んではいないよ。ここから小宇宙を感じたから、誰がいるんだろうと思って覗いただけだ」

 

「それ俺」

 

 その時低く唸る人の声がした。マニゴルドの来た方角からだ。

 

「今のは誰だ。怪我人か?」

 

 声が聞こえたかと問われたので、言葉までは聞き取れなかったとシジフォスは正直に答えた。少年は慣れた様子で答えた。

 

「あれはプルチネッラのおっさん。通風に悩む巨蟹宮の付き人だよ」

 

 気になって奥を覗こうとする彼の腕を取って、マニゴルドは外に向かって歩き出した。「ここで修行しろってお師匠が言うんだ。でも少し飽きたから見送りしてやるよ。また外の任務だろ?」少し早口だった。

 

 シジフォスは手を引かれるまま、

 

「しかしおまえが小宇宙に目覚めていたとはな。前に会った時はまだだったろう。次に俺が聖域に戻ってきたら、第七の感覚に目覚めていたりしてな」

 

と笑った。マニゴルドは肩を竦めて、それより先にやることがあると面白くなさそうに言った。

 

「そうだ。あんたは何も無いところに穴を開けて別の場所に繋いだりできる? そういう技知ってる?」

 

「知っていたとしても、技の詳細をたとえ味方とはいえ他人に容易く教えるわけにはいかん」

 

「なにも技そのものを教えてくれって言うんじゃないんだ。感覚を知りたいだけ」

 

 意外に真面目に修行しているのを感心に思い、シジフォスは少し真剣に考えた。彼自身はその類の技を持っていない。しかし技の持ち主には心当たりがある。

 

「双子座の黄金聖闘士の技で、そういうのがある」

 

「いないじゃん、双子座なんて」

 

「ああ」

 

 彼は肯いた。そう、まだいない。「アスプロスがその候補だ。真面目なあいつなら、もしかして受け継ぐべき技についても調べているかも知れない」

 

「体得してるかどうかは分からない、と」

 

「まあな」

 

「分かった。ありがとな」

 

 巨蟹宮の出口でマニゴルドは立ち止まり、射手座の出立を見送った。シジフォスも軽く手を上げて別れを告げた。

 

「俺が留守の間、十二宮をしっかり守れよ」

 

「無茶言うなって。俺は黄金どころか聖闘士ですらねえ」

 

 少年の返事にシジフォスは笑った。少し心が軽くなった。

 

          ◇

 

 任務に出る射手座が去った後、マニゴルドは巨蟹宮の奥に戻った。死仮面の浮き出ている壁の前に立つ。

 

「人が来た時くらい静かにしてくれよ」

 

 返事のつもりではないだろうが、一つの顔がまた小さく怨嗟を吐いた。

 

 シジフォスのような死霊に縁のない人間にも、その声が伝わるというのは驚きだった。浮遊し、マニゴルドの意思に従う普通の亡者よりも、やはり確たる芯を持っているのだ。

 

(でも見たらびっくりするだろうな、やっぱり)

 

 顔の浮かぶ壁を目の当たりにした人間にこれは何だと問い詰められても、マニゴルドも困ってしまう。早いところ積尸気冥界波を習得して、壁を綺麗にしたいものだ。

 

 彼は虚ろな顔たちを睨み、掲げた人差し指を突きつけた。蝋燭の炎が風に揺れるように顔は揺らいだが、それだけだった。行き先を示してやらない限り、どこにも動かないだろう。

 

 アスプロスに会ってみよう、と彼は思い立った。世界を開く技を持っているかはともかく、前回別れた時の感情はもう落ち着いていていいはずだ。向けられる憎悪が増していたらそれはそれで、と割り切る。

 

 十二宮を抜けると、白羊宮に続く階段の下から、教皇宮を見上げる人物がいた。仮面を付けて、三つ編み髪を頭の周りに巻いた少女。

 

「ニキアじゃん」

 

 ぼんやり佇んでいるように見えたので名を呼んでみると、「やっぱりマニゴルドか」と意外そうな声が返ってきた。

 

「さっき、射手座様が下りて来られるのをお見かけしたんだ。立派な方だねえ。あんた、あの人の従者か弟子なのかい。追いかけるなら早く行きな」

 

「追わねえよ」

 

 彼女は再び山の上を仰いだ。つられてマニゴルドも振り返る。白亜の宮殿の連なる先に、教皇宮の屋根の一部と女神像の頭部が見えた。

 

「……あの頂上にアテナがおわすんだね」

 

 今はいないぞ、と呟き、少年はニキアに目を移した。横から見る喉はすっきりとして白い。やっぱり若い女だなあと思う。

 

「こんな所でのんびりしてて、試練のほうは大丈夫かよ」

 

「まだ日はあるからね」

 

 闘技場に用があるとマニゴルドが言うと、彼女も付いてきた。本当は一人で行くつもりだったが道に迷ったという。マニゴルドは呆れた。方向音痴の人間が聖闘士になれるのだろうか。

 

「俺が聖域を案内してやろうか」

 

「頼むよ。知り合いと言えばあんただけだから」

 

 女子用の宿舎で寝起きすることになったとニキアは言ったが、誰とも同室にならなかったために、まだ親しい者はいないらしい。

 

「昨日の組み手はどうだった」

 

「やっぱり師匠と違う相手は新鮮だね」

 

 マニゴルドが口を開きかけた途端、ニキアはさっと手で制した。「あんたとはやらないよ。私のほうが強い」

 

 少年はむっとした。「やってみなきゃ分からねえだろうが」

 

「分かるよ。あんた、私の弟に似てるから。多分喧嘩しても私の圧勝だね」

 

 短くイタリア語で罵ると、マニゴルドは鋭い突きを繰り出した。が、その腕は絡め取られ、呆気なく地面に転がされた。

 

「ほらね。動きはいいけど、小宇宙の膨れあがり方で次に何をするかすぐ分かるんだよね」

 

 心なしか得意げな声に腹が立つ。道行く雑兵から「私闘は禁止だぞ」と注意の声が飛んできた。闘技場などの定められた場所以外での組み手・喧嘩は、私闘として禁じられている。聖闘士同士の私闘は重い罰が与えられる。それは候補生であっても同じだ。

 

 しかし彼女は楽しそうに笑った。

 

「私闘にもなりゃしない」

 

 余裕の態度で手を差し出されたので、マニゴルドは渋々それに捕まり、立ち上がった。戦いの要は小宇宙で、それを己がものとして操る術に未熟だということを自覚した。

 

 闘技場に着くと、予想通りアスプロスがいた。白銀聖闘士を相手に組み手をしている。頃合いを見計らってマニゴルドは彼を呼んだ。

 

 アスプロスが振り返り、訓練を切り上げてやって来た。その顔にはまだ気まずさが残っている。

 

「おはようアスプロス」

 

「……おはよう」

 

 努めて平静にしようとしているのがおかしい。マニゴルドは衒うことなく用件を切り出した。

 

「ひとつ聞きたいんだけどさ、何も無いところに穴を開けて別の場所に繋ぐ技ってどんな感覚か、あんた知ってる?」

 

 アスプロスは渋い顔で、ニキアは首を傾げて少年を見つめた。

 

「……なぜそれを俺に聞く」

 

「人づてに、そういう技に心当たりがあるのがアスプロスだと聞いたから。技の原理を知りたいんじゃない。感覚でいいんだ。世界を開く感覚。道を繋ぐ感覚。俺、それが分からなくて困ってるんだ。あんたの技を盗んだりするんじゃないから、頼むよ教えてくれよ」

 

 必死に食い下がると、アスプロスは溜息を吐いて天を仰いだ。それから観念して、親切に色々と教えてくれた。それはセージの教えとは少し違っていたが、今のマニゴルドは積尸気を開く手がかりが一つでも多く欲しい。感謝して耳を傾けた。

 

「ありがとう。助かった」

 

 アスプロスは彼の謝意を複雑な顔で受け入れた。

 

 二人の話を横で聞いていた少女が、そこで初めてアスプロスに話しかけた。

 

「私は候補生のニキア。あんたに時間があったら、手合わせをお願いしたい」

 

 乞われた側は「どうぞ」と彼女を闘技場の中へ案内した。

 

 用事の済んだマニゴルドはそこで帰ってもいいはずだった。しかし聖域の案内をすると言ったばかりでもあり、二人の手合わせを見てやることにした。

 

 闘技場の端に腰を下ろして、組み手を眺める。意外にも攻守の均衡が取れた手合わせだった。

 

 終わったあと、アスプロスがいくつか助言して、それにニキアが頷いている。俺には何の助言もしてくれなかったのに、と以前にアスプロスと組み手をした時のことを思い出した。マニゴルドとの組み手を断ったのに、アスプロスには自分から組み手を申し込んだニキアにも気がささくれる。

 

(面白くねえ)

 

 我知らず口を尖らせていると、二人がマニゴルドのほうを見た。そして顔を見合わせて笑った、ような気がした。ますます面白くない。

 

 二人は連れ立って彼の所に戻ってきた。

 

「おまえも手合わせするか?」

 

とアスプロスが涼しい顔で問うので、マニゴルドは「また今度」とだけ答えて立ち上がった。ニキアがアスプロスに礼を言った。

 

 闘技場を後にしながら、彼女は「あの人は強いね」と呟いた。「私に合わせて手加減してくれてた」

 

 マニゴルドは少しだけ溜飲が下がった。自分を叩きのめした男が弱いと思われるよりは、ずっと良い。

 

「そうだろ。強いだろ」

 

「それに面倒見も良い。あんたのことを気にしてたよ。まだ小宇宙にむらっ気があるってさ。私もそう思う。もっと制御できるようにならないと」

 

と銀色の仮面が少年のほうを向いた。

 

「でも俺、自分で小宇宙を燃やせるようになったのでさえ、一週間前のことだぜ」

 

 それを聞いて仮面の奥の目がたじろいだ。

 

「……そう」

 

「師匠泣かせの不肖の弟子なんだよ」

 

「そうなんだ」

 

 言葉少なくなったニキアを連れて、マニゴルドは聖域を案内した。後で気づいたことだが、かつてセージに案内されたのと同じ道順だった。

 

 宿舎まで彼女を送った後は、再び巨蟹宮で積尸気冥界波の練習に入った。アスプロスから聞いた、技を掛ける時の感覚を想像する。しかし一度も積尸気は開かなかった。

 


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