【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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第九の波濤

 

 セージは弟子に向かって冥界波を放つ。床に横たわっている弟子の肉体から魂が引き剥がされる。魂は空の穴に向かって落ちていく。セージはその様子を見つめ、魂が積尸気を通る寸前に穴を閉じた。マニゴルドの魂は自力で肉体に戻った。

 

 死と魂を操る師弟の修行風景である。

 

「分かったか?」

 

 身を起こしたマニゴルドは軽く頭を振った。そして「やっぱり今一つ」と溜息を吐いた。こればかりは体で覚えてもらうしかない。

 

「お師匠は冥界波を覚えるのにどれくらいかかったんだ」

 

「忘れたな。兄上と互いに技を掛け合って体得したのは確かなのだが」

 

 怖い兄弟だ、とマニゴルドは笑った。

 

「俺の小宇宙はむらっ気があるって言われたんだ。もっと思うように制御できるようになったら、冥界波も使えるようになるかな」

 

「その通りだ、とは言わぬ。しかしおまえもなかなか候補生らしいことを考えるようになってきたな」

 

 弟子は絨毯の上に胡座を掻いた。部屋はほんのりと明るい。蝋燭の明かりの他に、弟子が引き寄せた鬼火が青い光を部屋にもたらしているからだ。その光の一つが、ついとセージの手元に飛んできた。

 

「聖闘士の技を覚えるのは、小宇宙の基礎を体得して聖衣を得てからでいいんだとも言われた」

 

「おまえの師は誰だ? その者か、私か」

 

「目の前のジジイだよ」

 

「ならば私の教えに従いなさい。技を体得できずに焦るのは分かるが、まだ小宇宙を発現してから日も浅い。数年かけて修行しても小宇宙に目覚められない者もいるのだから、それに比べれば順調に進んでいると思え」

 

 マニゴルドの目は師の手元を飛ぶ鬼火を見ている。セージがその手を伸ばすと、弟子は微かに指先を向けて鬼火を引き取った。

 

「でもお師匠は、早く覚えて欲しいんだろう?」

 

「基本だからな」

 

「先になんか適当な聖衣を貰って、その後で冥界波の修行に専念するっていう手もあるんじゃないの?」

 

 全ての鬼火が揺らぐのを止め、消えた。

 

「調子に乗るな。おざなりに授けられる聖闘士の称号などない。そんな不届き者は雑兵で十分だ」

 

 弟子の顔がさっと青ざめた。彼が口を開く前にセージは言う。

 

「全天八十八の全ての称号が等しく尊いものだ。それぞれに星の加護を受けている。どれ一つとして粗末に扱うことは許されぬ。実力のある者を見極め、その者に相応しい聖衣を授ける私の務めを軽んじられるのも心外だ」

 

「ごめん、お師匠」

 

 小さく謝った弟子にセージは背を向けた。壁際に据えてある書き物机に向かって座り、「もう行きなさい」と告げた。

 

 彼の背後で扉が開き、閉まった。

 

 セージは机に両肘を突き、組んだ手に額を当てた。

 

 弟子の言う「適当」の意味が「適切」であれば良かったのだが、マニゴルドにその意図はなかった。正式な聖闘士になるために候補生たちが血反吐を吐くような修行を重ねていることを知っていれば、出てくるはずのない台詞だった。死にものぐるいの努力を重ね、それでも聖衣を得られない者のほうが多いのだ。マニゴルドが修行の苛酷さを感じていないというのなら、よほどの素質を備えているか、あるいは師の怠慢か。

 

「……私が甘いのか」

 

 彼の自問は虚空に溶けた。

 

          ◇

 

 宙に昏い穴が開いた。

 

「やった!」

 

 マニゴルドが快哉を叫んだ途端、穴は小さく萎んで消えてしまった。

 

 巨蟹宮の奥で一人、冥界波を練習するだけの日々が続いていた。試行錯誤しながら、ようやく積尸気らしきものを開くことができるようになったのは、この日が初めてだった。

 

 失言してからというもの、師は修行を付けてくれなくなった。このまま師弟の縁を切られてしまうのではないかと気が気でなく、せめて課題だけでも達成しようと、少年は一人で奮闘している。

 

 あとは壁に浮かび上がっている顔を積尸気に導いてやればいいのだが、なかなか思うようにできなかった。

 

 練習にも疲れたので、誰かと手合わせしようと彼は巨蟹宮を出た。

 

 闘技場に向かう途中、後ろから呼び止められた。ニキアだった。腕を掴まれた。

 

「丁度良いところに来た。どこか人目に付かない所、知らないかい」

 

「お」少年は軽く目を見開いた。「誘ってんの、お姉さん」そう言った途端に蹴られた。

 

「そういう冗談は嫌いだよ。いいからどこか静かで開けた場所を知らないかって聞いてるんだ」

 

 なぜ女聖闘士はこうも居丈高なのかと首を傾げながら、マニゴルドは彼女の先に立った。家出をしたときに塒の候補として聖域中を下調べしたから、その手の場所には自信がある。あの時はアルバフィカと一緒で楽しかった。

 

 遺跡の陰の、石舞台のようになっている場所へ案内した。辺りを見回して、ニキアは満足したようだった。

 

 銀色の仮面がマニゴルドのほうを向いた。

 

「ありがとう、もういいよ。あんたは帰りな」

 

 彼女はくるりと身を返し、北の空を望んだ。ぴんと背を伸ばす。かと思うと踵を打ち鳴らしながら踊り出した。

 

 初めて見る踊りだ。マニゴルドは手頃な所に腰を落ち着けて、彼女を見守った。終わったあとは拍手までしてやった。

 

「ちょっと止めてよ。見せ物じゃないんだ」

 

とニキアは手を振った。照れ隠しか、少し冷たい声だった。故郷の祭で踊られるものだという。

 

「お祭りはね、毎年この日にあるんだ。師匠にも許してもらって、こうやって少しだけ参加した気になる。馬鹿みたいだろ」

 

 そう言って遠くの空を眺めるので、マニゴルドもつられてそちらを見やった。故郷を懐かしむ気持ちなど彼にはないが、ニキアの気持ちを馬鹿にするつもりはなかった。故郷を尋ねると、ある地名が告げられた。聞き覚えのない地名だった。

 

「湖の近くにある小さな村だよ。私はお母さんとお父さんと弟とお婆ちゃんと一緒に暮らしてた。弟はあんたみたいに生意気な奴でね、しょっちゅう喧嘩してた」

 

 しかし平凡な少女の生活は、小宇宙に目覚めた日を境に一変した。彼女の周りで、突然壁が崩れたり、窓が割れたり、物がはじけ飛んだりするようになった。無意識のうちに小宇宙で破壊したためだろう。怪我人が出るに至り、魔女と疑われるようになった。そんな時に村を訪れたある旅人が、彼女を一目見るなり養女として引き取りたいと申し出た。村人に殺されるよりはましだと家族は彼女を旅人に託した。

 

「どこの馬の骨とも分からない輩に売り飛ばされたと、その時は私も泣いたけどね。それが任務帰りの聖闘士だったんだよ。今の私の師匠さ」

 

「へえ。運が良いやら悪いやら」

 

 俗世で小宇宙を発現させた者は、似たような経緯をたどって聖闘士に見出されるはずだとニキアは語った。見出されなかった者は、聖人とみられて崇められるか、魔女や悪魔憑きとみなされ殺されるかのどちらかだ。

 

「聖闘士ってのはきっと、そういう行き場のない私たちのためにアテナがお与えくださったお役目なんだよ」

 

 マニゴルドは肯定も否定もしなかった。今はアテナ自身が聖闘士に見出されるのを待っている。もし女神が強大な小宇宙を発現させたら、人々はその子供をどう扱うだろう。救世主か、それとも化け物か。

 

 しかし女神の将来を案じたところで仕方ない。きっと今頃は、普通の女の子の名前を付けられた一人の赤ん坊に過ぎないはずだから。

 

「あんた、本当の名前は?」

 

「ハンナ。ありきたりな名前だろ。あんたこそマニゴルドというのは本名?」

 

 そうだよ、と少年は薄く笑った。彼は他に名を持たない。

 

「顔を見せてよ、ニキア」

 

「死にたいのかい」

 

 マニゴルドは今度は声を立てて笑った。

 

 女聖闘士は仮面で顔を隠している。素顔を男に見られたら、相手を殺すか愛するかしなければならないという極端な掟を、彼女たちは掲げている。素顔を見られることは裸身を見られるより屈辱なのだそうだ。

 

 なぜそんな面倒なものを付けているのかと、マニゴルドは師に尋ねたことがある。女を捨てる覚悟の証にしても、裸の体よりも顔を隠したがる意味が分からなかった。

 

『顔を見られたところで、双方が無かったことにすれば済む話だ。掟の起源は私も知らぬ』と教皇たるセージはざっくばらんに語った。一つの仮説としてこんな話をしてくれた。

 

『あの仮面は女たちの顔を守る防具でもあるという。戦いの中で顔に怪我を負っては少女が可哀相だろう、と発案者が思ったかどうかは定かではないが、少なくとも顔に傷ができることを恐れる必要はなくなる。そして聖闘士は常在戦場の心構えであるべきだから、常に仮面を付けているというわけだ』

 

『それだと女を捨てるって話と逆じゃん』

 

『しかし戦士としての覚悟を示すなら、髪を短くするのでも、アマゾネスのように片方の乳房を切り落とすのでも、他にやりようはある。己の意思で好きな時に外すことができるというのが大事なのだと、私は思う』

 

 その後は長々と、顔を隠すことで得られる神性やら、元々の人格とは異なる個性を獲得するための儀式やら、マニゴルドには理解できない話をセージはしてくれた。

 

『無理に仮面を剥がそうとしてはならぬぞ。それは彼女たちの覚悟と意地を踏みにじることだ』

 

 だからこそ本人の意に反して素顔を見られることが、屈辱だという話につながるのだという。今マニゴルドの前にいる少女は聖闘士として、在る。

 

「死にたくはないな、まだ」

 

 彼は勢いを付けて立ち上がった。

 

 教皇宮に戻ったあと、ニキアの故郷を地図で探した。近くにあるという湖は見つけたが、村の名前は載っていなかった。

 

          ◇

 

 巨蟹宮の死者の顔が十五に増えていた。

 

 このままではいけないなと思いつつ、未だ冥界波を成功させたことのないマニゴルドである。

 

 一日中練習して、それでも駄目だった。とぼとぼと十二宮の階段を上がる。上からは勤めを終えた神官たちが下りてくる。すれ違う時に彼らの雑談が聞こえた。候補生二人が聖衣授与を賭けて戦うという。もしやと思った。

 

 踵を返して神官の袖を掴まえる。

 

「今の話は本当?」

 

 掴まれた袖を迷惑そうに振り払い、神官は頷いた。

 

「子犬座《カニス・ミノル》の称号をかけた御前仕合だ」

 

「戦うのは何という名前の奴か分かる?」

 

「たしかゴメイサとニキアといった」

 

 ゴメイサは聖域で修行しているからマニゴルドも知っていた。年季の入った候補生だ。小宇宙に目覚めて間もないマニゴルドと彼が手合わせをしたことは無い。けれど舎弟数人を引き連れて歩いているのをよく見かける。

 

「御前仕合は、教皇猊下のご威光が分かりやすく示される絶好の機会だ。おまえも見に行くといい」

 

 仕合の日時を聞いてマニゴルドは立ち去った。別れてから数秒後に、その神官が連れに囁くのが耳に届いた。

 

「星見と違って猊下も判断を誤られないしな」

 

 嗤う彼らは、まさか離れた所の少年にまで聞こえるわけがないと思ったようだ。しかし小宇宙を燃やして感覚が鋭敏になっているマニゴルドの耳には、しっかり入っている。

 

 階段から蹴り落としてやろうかと思った。

 

 しかし師の立場を慮って思い留まった。アテナ降臨に関する星見は未だに神官たちの間で尾を引いている。行方不明のアテナが見つかるまでは、彼らの見解が外れているとも言い切れない。

 

 だがセージを侮られるのは腹が立つので、とりあえずマニゴルドはいつの日か痛い目を見させてやるつもりで、神官の顔をしっかりと覚えた。

 

 翌朝一番に彼は下へ走った。最終試練にあたるこの仕合のことをニキアにも教えてやろうと思ったのだ。しかし当人にはとっくに報されていたこと。呆れ、笑われてしまった。

 

「でも、ありがとうね。仕合の日は師匠も聖域に来てくれるんだ。私の勝つところをあんたらに見せてやるよ」

 

 そう言って頭を撫でようとするので、少年は身を引いて逃げた。彼女はどうもマニゴルドを弟分のように扱いたがる。

 

 巨蟹宮へ戻ろうとした彼の視界に、ハスガードとアスプロスの姿が映った。ハスガードが彼に気づいて手を上げたので、二人のところまで歩いていった。

 

「聞いてくれマニゴルド!」

 

と興奮気味にハスガードは少年の背中を叩く。かなり痛い。

 

「俺は聖衣を授かるための最後の修行に入ることになった!」

 

「そりゃおめでとう。何の聖衣?」

 

「牡牛座《タウラス》だ」

 

 驚いた。黄金位だ。本人には言わないが、そこまでの実力とは思わなかった。理想の黄金聖闘士と賞賛され大物感を漂わせていた獅子座のイリアスや、教皇の助言者としても頼れる魚座のルゴニスと比べると、近所の兄貴分でしかない。シジフォスも射手座の黄金聖闘士だという事実は、次のハスガードの言葉を聞くまで少年の頭からすっかり抜けていた。

 

「これが決まったら、あちこち飛び回ってるシジフォスも少しは助けてやれる」

 

 早くも聖闘士になることが決まったかのように喜ぶハスガードの横で、アスプロスも静かに微笑んでいる。

 

「それでなマニゴルド、俺が修行を終えて戻るまでの間、こいつが何かやらかさないように見張っといてくれないか」

 

 ハスガードに「こいつ」と指差されて、アスプロスが瞬きした。

 

「……俺がやらかす? 聞き捨てならないな。今まできみやシジフォスの尻ぬぐいを散々してきた俺を掴まえて、言うに事欠いて何かやらかすだと?」

 

 次第に怒り出す友人をよそに、ハスガードはマニゴルドに笑いかけた。

 

「こいつは俺やシジフォスのお目付役に甘んじてきたからな。二人ともいなくなれば途端にたがが外れるかもしれない。だからマニゴルドが俺たちの代わりにこいつに面倒を見させてやれば――」

 

「世迷い言もいい加減にしろ」

 

 アスプロスがハスガードの向こうずねを蹴った。「俺のことはどうでもいい。きみは人の頭上の蠅を追う前に己の蠅を追い払え。浮かれている暇があるなら、早く支度をしてとっとと修行地へ行け」

 

「ほらな。こういうお節介な奴なんだ」

 

 更に蹴飛ばされても、ハスガードは笑うだけだった。

 

 アスプロスは軽く舌打ちして、マニゴルドに向き直った。

 

「ところで積尸気冥界波のほうはどうだ。会得したか?」

 

「なんだそれは」とハスガードが口を挟んだ。

 

「蟹座の黄金聖闘士の技だよ。なあマニゴルド」

 

 マニゴルドは咄嗟に返事ができなかった。

 

「……なんでおまえが知ってるんだよ」

 

「きみが自分で言いふらしてるようなものじゃないか。世界を開く技を知らないかと聞いてきた人間は、死霊を操ることができて、しかも蟹座の黄金聖闘士だった教皇の愛弟子だ。魂に関わる蟹座の技を継承しようとしていると推察して当然だろう。あの場では黙っていたが、丸わかりだ」

 

 いちいちもっともなのでマニゴルドは両手を挙げて降参した。ハスガードが二人を見比べて、嘆息した。

 

「さすがアスプロスだな。一を聞いて十を知る」

 

 軽く首を振ると、聖域の誇る秀才は当たり前の顔で、

 

「黄金位を目指す者として、各聖闘士の使う技くらいは把握している」

 

と言った。

 

 マニゴルドがハスガードを見ると、大柄の若者は勢いよく首を横に振った。

 

「俺は知らないぞ。聖闘士なんて、小宇宙をどーんと燃やしてすぱっと敵を倒せばそれでいいじゃないか。要は小宇宙だろう」

 

「その単純な考えで黄金に手が届くのだから、賞賛に値するよ」

 

 嘆いてみせる言葉こそ皮肉っぽいが、アスプロスの声は穏やかだった。ハスガードも微笑んで、

 

「難しいことを考えるのはおまえに任すさ」

 

と友人を見やった。次いでマニゴルドにも目を向けて「おまえも頼むぞ」と、彼の肩をがっしりと掴んだ。

 

 マニゴルドはわざと嫌そうな声を上げた。皆に明るい未来が待っていると信じてもいいような、くすぐったい気持ちだった。

 

 しかしその気分も長くは続かなかった。

 

 子犬座の称号を賭けて仕合が行われるはずだった日。ニキアが死んだ。

 


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