【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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ろうそくの火を消す少年

 

 ハスガードが修行地へ発った日の午後だった。

 

 子犬座の聖闘士の称号を賭けて、円形闘技場で仕合が行われることになっていた。候補生や時間のある聖闘士たちは、こぞって見物に集まった。

 

 闘技場をすり鉢状に囲う観客席に、マニゴルドはアスプロスを見つけた。かなり後方の段である。彼の性格上、たとえ空いていても砂かぶりの席に座ることはないだろうなとは思っていた。隣に掛けると、ちらりと視線を寄越してきた。

 

 中央には候補生ゴメイサが早々に到着して準備運動をしていた。齢二十に届こうとする立派な若者だ。自信に満ち溢れている。

 

「相手はこの前手合わせした女か」

 

と頬杖を突いたアスプロスが言った。

 

「ニキアな。どう? あんたの目から見て」

 

「よくて接戦、順当にいってゴメイサが勝つだろう」

 

「そっか」

 

 残念だがそういう仕合もあるだろう。

 

 最前席に着いた一人の男を見てアスプロスが、「あれがニキアとやらの師匠っぽいな」と言った。聖域で見かけない顔だという。

 

「聖域住人全員の顔覚えてるのかよ」

 

「全員は無理だ。そうじゃなくて、辺りをキョロキョロ見回してるだろう。観客席ではなく闘技場の周辺ばかり見ているのは、弟子を探しているからじゃないかな」

 

 対戦相手どころか、立会人の教皇でさえすでに場に到着している。それなのに当事者のニキアがまだ来ていないというのは奇妙だった。便所じゃないの、とマニゴルドは軽く言ったが、アスプロスには賛成してもらえなかった。

 

 片一方の対戦者が現れないまま、定刻となった。教皇は聞く者が姿勢を正してしまうような威厳のある声で宣言した。

 

「これより候補生ゴメイサと候補生ニキアによる一本勝負を行う。勝者には子犬座の聖衣を授けるものとする」

 

(お師匠は教皇のときはこんな感じなのか。声でけえ)

 

 新鮮な気持ちだったが、ニキアのことが気に掛かる。マニゴルドは隣に尋ねた。

 

「この仕合、ニキアが来ないまま始まったらどうなるんだよ」

 

「不戦勝でゴメイサの勝ちだろう」

 

「そういうのよくあるのか」

 

「さあ。そんなしょっちゅう聖衣争奪戦があるわけじゃないから、俺もよく知らない。でも皆聖衣が欲しくて修行しているのに、その機会から逃げる候補生というのはなあ」

 

 逃げた?

 

 自分が勝つところを見せてやると言ったのは、ニキアの虚勢だったのか?

 

(そんなわけない)

 

 じりじりしながら待っていると、無情にも開始の合図があった。とはいえ、そこにいるのは候補生ゴメイサ一人だけだ。対戦のしようがない。

 

 教皇は待った。普通の御前仕合ならとっくに勝負が付く時間が過ぎても待った。それでもニキアは現れなかった。補佐の聖闘士から再三促されて、教皇は渋々中央に歩み出る。

 

「……戦いに背を向けた候補生ニキアは挑戦の権利を失った」

 

 期待でゴメイサの表情が明るくなる。しかし次の教皇の言葉で彼は凍り付いた。

 

「規定の時刻に対戦者が揃わなかったため、この勝負は無効とみなす。よって、この勝負に勝者はない。勝者に与えられるべき子犬座の聖衣は、新たな挑戦者が現れる日まで再び神殿で保管される。若き候補生たちよ、女神の子らよ。励み、次の聖闘士を目指せ。以上」

 

「お、お待ちください猊下!」

 

 闘技場にゴメイサの声が響いた。「対戦者が来なかったのは本人の責任です。ですが、なぜ俺まで負けになるのですか! 俺はここにいる。聖衣は俺にください。聖闘士にしてください!」

 

 悲痛な叫びだった。

 

 あれは可哀相だ、とアスプロスが声もなく呟いた。候補生やかつて候補生だった聖闘士には、彼の気持ちがよく分かる。何年もかけて修行した、その成果がようやく実を結ぶ時なのだから。

 

 教皇は兜の陰から候補生を見下ろした。

 

「不戦勝はない」

 

 冷厳な声に、観客席はざわついた。ゴメイサは取り縋っていた教皇の法衣から手を離した。教皇は声を和らげて彼に語りかけた。

 

「案ずることはない。別の候補者が見つかったら再戦の場を設けてやる。それまで英気を養え。よいな」

 

「ありなのか?」とマニゴルド。

 

「猊下が仰るならありなんだろう」とアスプロスはつまらなそうに目を細めた。「実現することはないと思うけど」そしてさっさと観客席を出て行った。

 

 他の見物人たちも散り始めている。最前席にいたニキアの師匠らしき人物が、帰ろうとする教皇に話しかけていた。詫びに行ったのだろう。

 

 それにしても、と打ち拉がれているゴメイサを見下ろしながらマニゴルドは考える。ニキアはどうしたのだろう。

 

「まさか道に迷ったんじゃねえだろうな」

 

 なにしろ前科がある。普段の訓練で使う闘技場に間違えて行ったのかも知れない。闘技場を使うような人間は大方こちらの観戦に来てしまっている。道を尋ねることもできずに右往左往していたら笑ってやろう。

 

 少年は探しに行った。

 

 

 そこは普段でも滅多に人の来ない石切場の近くだった。

 

 白い石の粉が地面を覆っている場所に、ふと黒い部分を見かけた。それが妙に目についた。切り出された石の陰。二本の脚が投げ出されている。黒いのは乾いた血だった。まだ鮮やかな色の血の池に少女が倒れていた。知らない女だと思ったのも束の間、乱れた黒い髪に目が止まった。

 

「……ニキア?」

 

 すぐに彼女だと分からなかったのは、仮面が外れていたからだ。マニゴルドは彼女の素顔を知らない。近くに落ちていた仮面を拾ってから確信した。倒れているのは間違いなくニキアだった。

 

 露わになっていたのは顔だけでなく、下腹もだった。服を脱いで腰を覆ってやった。血を吸い込んですぐに赤く染まった。

 

 強めに頬を叩いて、何度も名を呼ぶうちに少女が反応を示した。うっすらと目が開き、マニゴルドのほうを向いた。

 

「俺だ。分かるか?」

 

 仮面を、と彼女は声なく囁いた。一言目にそれかとマニゴルドは呆れたが、被せてやった。彼女は女聖闘士だった。

 

「すぐ人のいるところに連れてくから、もうちっと頑張れ」

 

「痛い。動かさないで」

 

「我慢しろよ」

 

 怪我人をどうにか担ぎ上げようとした。けれど本人から止められた。石の粉にまみれた腕が地面に落ちる。

 

「いま、師匠を呼んだから……あんた無理しなくて、いいよ」

 

 いつ呼んだのかと思ったが、小宇宙での念話に決まっている。

 

「何でこんな場所でこんな事になってんだよ」

 

「闘技場への、近道って、言われて……嵌められた」

 

「誰に? 誰がやった?」

 

 知らない連中、と言いかけて彼女は咳き込んだ。「痛い」

 

 もって数時間。マニゴルドにも手遅れだと言うことは分かっていた。いくら小宇宙を燃やしたところで死は間近に迫っている。

 

「私の師匠が来たら、すぐ楽にしてくれるから……それまでの辛抱だ、ね」

 

「痛い?」

 

「痛いし、寒い。早く楽になりたい」

 

 しん、と音がして心が静まった。マニゴルドは彼女の手を握った。

 

「俺が楽にしてやろうか」

 

 瀕死の目がぼんやりと彼を見た。言葉の意味が分からないようだった。マニゴルドはもう一度繰り返した。

 

「あんた、みたいな、坊やが……」

 

「大丈夫」

 

 彼女はマニゴルドの目を見つめた。浅い呼吸。仮面の脇から流れる黒い髪が白い粉で汚れ、そこに赤い血が固まっていた。

 

「なら頼むよ……。ほんとに、痛くて」

 

「分かった。誰かに伝えておくことは?」

 

「師匠と、アテナに、お……詫び、を。それだけ……」

 

 ニキアはそれだけ告げると、真上の青空を見上げた。

 

 少年の指は魂の行き先を示した。

 

 

 一人の聖闘士が石切場に駆けつけた時、少女は既に息を引き取っていた。

 

 弟子の名を呼びながら飛んできたその男に場所を譲って、マニゴルドは辺りを見回した。地面は切り出した石のかけらが粉となって積もっている。激しく格闘したような形跡はなかった。石切場の出入り口から出て行く白い足跡を見つけた。複数ある。それが犯人のものか、仕事で出入りした雑兵のものかは判断が付かない。石切場を出たあとどちらへ向かったかも分からなかった。

 

 マニゴルドはニキアの師の側に戻った。

 

 男は顔を上げた。血の気の引いた唇が動いた。

 

「……きみは」

 

「候補生のマニゴルド」

 

「そうか。ありがとう」

 

 なぜ礼を言われるのかと少年は目を見開いた。「俺がニキアを殺したとは思わないのかよ」

 

「思わないよ。きみの力量ではニキアに返り討ちに遭うのがおちだ。今しがた本人から連絡を受けたばかりだが、血の流れた量からして、襲われたのはかなり前。しかもきみに付いた血は返り血の付き方ではない。倒れていた弟子を見つけて側にいてくれたんだろう? だから最期を看取ってくれたことに礼を言ったんだ」

 

「礼を言われるほど大したこと、やってない」

 

「これはきみの服か?」

 

 男は遺体に掛けられた服を持ち上げた。無表情のまま、それを戻す。「仮面を外さずに体だけ辱めたか」

 

「俺が来た時は、仮面もニキアの近くに転がっていた」

 

 男は低く呻いた。

 

「最期にニキアは何か言い残してはいなかったか?」

 

「相手については知らない連中とだけ。後は、師匠とアテナにお詫びを、と。俺が聞けたのはそれだけだった」

 

「詫びか」

 

 俯いていた男は、やおら天を仰いだ。

 

「戦女神も御照覧あれ! ここに命を落としたのはあなたに拳を捧げんとした娘です。それに対してこの仕打ちか、清らかな灰色の乙女よ! これがあなたの思し召しか! 違うと仰せならば、忌まわしき所業に及んだ悪漢どもに報いを!」

 

 少年は彼の怒号を聞きながら、ただ少女の銀色の仮面を見つめていた。

 

 それから男は自分も上だけ脱ぎ、その服で少女を包んで抱き上げた。血まみれの体が見えなくなった分、いくらか惨さは隠せた。

 

 宿舎までの道案内を頼まれ、マニゴルドは素直に引き受けた。上半身裸の二人と物言わぬ一人は、女子用宿舎の一室に入った。男は弟子を寝台に横たえた。

 

 マニゴルドは通りがかった女聖闘士をつかまえて手伝いを頼んだ。要領の良い説明はできなかったが、相手は肝の据わった女戦士。寝台の少女を一瞥するなり「少しお待ち」と踵を返した。頼もしい限りだ。

 

 これで助っ人が戻ってくるまで師弟二人きりにしても良かった。しかしその前に少年にはやることがある。部屋に入った。

 

「おっさんに伝えとくことがある」

 

というマニゴルドの言葉に聖闘士はゆっくり振り返った。

 

「ニキアは嵌められたって言ってた。仕合のある闘技場への近道だと言われて石切場を通ることにしたって。でもあそこは近道じゃないし、人気のない場所だ。犯人は最初からニキアをおびき寄せて、酷いことをするつもりだったんだと思う」

 

「なるほど」

 

「誰がやったんだって俺が聞いても、知らない連中だってニキアは答えた。顔見知りのほうが少ないんだから仕方ない。でも犯人はきっとゴメイサの取り巻きだ。もしおっさんがニキアの仇を取るなら、案内するぜ」

 

 男の目の奥で炎が燃え上がり、一瞬で鎮まった。

 

「……証拠がない限り、それはやってはいけない。大事な勝負の場から逃げ出したという弟子の不名誉さえ雪げれば、今はいい」

 

 でも、と反論しかけてマニゴルドは思い留まった。

 

「分かった。それじゃ、俺もう行くから」

 

「マニゴルド」

 

 今度は男に引き留められた。

 

「きみは弟子と知り合いだったようだから、ぜひ知っておいてほしいんだ。この娘の名前を。ニキアの本名は――」

 

「ハンナだろう。知ってる。本人から聞いた」

 

 素っ気なく返すと、マニゴルドは戸を閉めた。

 

          ◇

 

 夕食後、聞きたいことがあるとセージは弟子から告げられた。

 

「また指を怪我したか」

 

 ずっと右の人差し指を庇っているようなのでそう尋ねた。しかし違うと首を振られた。マニゴルドの話は、子犬座の称号を賭けて行われるはずだった仕合についてだった。

 

「そう言えばおまえも見物していたな。あの候補生の嘆きを見たか。皆ああやって必死に聖闘士を目指しているのだ」

 

 ゴメイサの様子に感じ入って、聖衣を軽んじたことを心から反省したのだろうとセージは期待した。しかし弟子は何か別のことを考えているようだった。

 

「なんであの場で、対戦相手が来ないのにゴメイサの勝ちを宣言しなかったんだよ? 何か知ってたのか」

 

「聖闘士の称号を賭けた戦いに不戦勝はない」

 

 聖闘士になるための最終試練で、複数の候補生が一つの称号を争う形式が採用されることは多くない。守護星座が同じ若者が同時期に候補生として存在する状況がそもそも少ないからだ。常に複数の候補者が現れる天馬星座《ペガサス》は例外だが、それだけ特殊な称号であるとも言える。

 

 だから多くの試練では、己自身や自然に挑むような、挑戦者一人で完結する形式となっている。たとえば到達困難な場所に安置された聖衣を取りに行くこと。物理的であれ精神的であれ、抜け出すことが困難な状況から自力で脱出すること。

 

「聖衣は意思を持った聖具だ。そこに宿った歴代聖闘士の意思が、己の後継者と認めるに価する実力の持ち主でなければ、身に纏うことも難しい。不戦勝では聖衣が納得しない」

 

 セージはそこまで語り、弟子の顔を見つめた。マニゴルドはまだ納得していない。それだけが理由ではないだろうと、目が話の先を求めた。

 

「……争奪戦の決まりだ。勝負が始まる前までに挑戦者が一人でも辞退したり、怪我をした場合。その原因・理由が何であれ、他の挑戦者も聖衣に挑戦する資格を一時的に失うことにしてある。全員に同じ条件で戦いに臨んでほしいというのが一番だが、相手を脅したり闇討ちしたりしてでも優位に立とうと考える者もいるからな。そうした者への牽制として決めた。だから――」

 

 説明を続けようとしたセージの言葉を遮ったのは、弟子の場違いに大きな声だった。

 

「さすがお師匠! 教皇のご温情とやらは分かった。だけどゴメイサはその決まりを知らなかったと思うぜ」

 

「あの時の反応からするとあり得るな。どんなに不利であろうと正々堂々と戦いに臨むのが聖闘士としての基本姿勢。細かい反則規定など知る必要がないと考えるだろう。まして勝負の場から逃げるなど考えられぬ」

 

 マニゴルドは唇の端を歪めた。

 

「違う、そうじゃない。ゴメイサの対戦相手は逃げたんじゃない。死んだんだ」

 

「なに」

 

 セージの耳にその報告は入っていない。愕然としている彼を見て、「まったく人はいつ死ぬか分からねえなあ」と少年は乾いた声で嘲笑った。その両腕を掴まえて、言葉の真偽を、いつのことなのかを問うた。マニゴルドは笑いながら言い放つ。

 

「そんなの俺に聞かなくても教皇の部下が報告してくるだろ。それとも候補生一人くたばったくらいじゃ誰も気にしないかな?」

 

「マニゴルド」

 

 名を呼ぶと、弟子は笑うのを止めた。その表情はイタリアで初めて会った頃と同じものだった。世界の理不尽さに倦み疲れ、諦めることで生きていた頃の。

 

「おまえは何を知っておる?」

 

 なるべく穏やかに聞いた。

 

 顔を歪ませ、少年は黙りこくった。掴まれた腕を振り解き、拳を作って振りかざす。けれどその拳はすぐに力を失い、軽く握った手が師の胸に触れただけだった。それが答だった。マニゴルドは部屋を出て行ってしまった。

 

 セージは壁際に用意された茶器を準備した。弟子が反省したら淹れさせようと思っていたのに、この夜も一人で喫することになってしまった。

 

 茶炉にかけた湯が沸くのを待つ。

 

 聖闘士の称号に挑む予定の候補生が死んだのが事実なら、その報は間違いなく教皇のもとに届くはずだ。だから弟子の言うようにその報告を待てばいい。死んだ時刻によっては、勝負から逃げ出したという汚名も晴れるだろう。生きている候補生のほうは、残念ながら当分は候補生のままということになる。しかし彼も二十歳に届こうという、候補生にしてはとうの立ちすぎた年頃だ。

 

 ちなみに聖闘士の肉体的な絶頂は十八歳頃だと言われている。もちろん修行を重ね場数を踏むことで、戦士としての絶頂期をその後に迎える者も多い。しかし正式な聖闘士の資格を得るのは十八歳より手前の、十四、五歳頃が一般的だ。その年頃を過ぎてもまだ聖闘士に届かなかった者は、諦めて雑兵としての道を歩み出す。神官に転向する者もある。この運命の決まる時期を教皇の意向で更に早めることもできるが、今はまだ必要ないとセージは思っている。

 

 いずれにせよ、十八歳を過ぎてなお候補生でいるというゴメイサのような例は珍しい。だから彼の執念をセージは買ったのだが、残念な結果となった。守護星座を同じくする者が現れたら再挑戦させてやるとは約束したが、次の機会はないだろう。

 

 やがて湯がふつふつと音を立て始めた。

 

 明日を待って、候補生が死んだという報告が正式に入って、全てはそれからだ、とセージは肚を決めた。

 


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