【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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聖域の人々

 

 聖闘士の称号を授かることができなかった者たち。彼らは無位の聖闘士ともいえる雑兵として、影から聖域の活動を支えることになる。それが嫌なばかりに候補生という待遇にしがみ続けた者もいたが、多くは自然ななりゆきとして雑兵の道を受け入れていた。

 

 

【教官】

 

 聖闘士まで後一歩に迫ったような実力のある雑兵は、格闘術や語学を候補生に指導することもある。教師は常に生徒より優れているべしという決まりはない。いつか生徒が成長して教師を上回れば、それでいいのだ。小宇宙についてはさすがに正式な聖闘士でなければ教えられないが、それ以外の、人間の闘士として必要なことはむしろ積極的に雑兵が教えるようになっていた。

 

 それに俗世から連れて来られたばかりの子供は、素質はあってもまだ小宇宙に目覚めていない者のほうが多い。そういった者たちの面倒を見るのも指導役の雑兵に任されていた。しかし、なかには問題児もいる。

 

 魚座の黄金聖闘士が連れてきた新顔もそうだった。

 

「こら! 目潰しは止めろと言っただろう!」

 

「うっせえ。効き目がある技使って何が悪いんだよ」

 

 相手がイタリア出身だと聞いていたので、彼も拙いイタリア語で注意する。それでも口答えした悪童を張り飛ばして、指導役は両目に指を突っ込まれた候補生の具合を調べた。幸い眼球に傷は付いていなかったが、慣れていない者が急所狙いをするのを見過ごすわけにはいかない。

 

 そもそも相手をねじ伏せることが訓練ではない。訓練中の怪我を減らす意味でも、攻防の反復練習をしやすくする意味でも、拳は寸止めにしろと、素人に過ぎないこの段階の候補生には指示している。目潰しなどもってのほかだ。

 

 初心者の集団訓練の後、彼はその問題児を残らせて説教した。ふて腐れた顔で聞いていた少年が説教の後に発した言葉は、「もう帰っていい?」だった。

 

「おまえな。人の話を聞いていたのか」

 

「聞いてたよ。聖闘士になるならってことだろ。だったらそんなのになる気のない俺は、どんな手を使ってもいいってことだ」

 

「無理矢理連れて来られて気が腐るのは仕方ない。今おまえが弱いことも皆知ってる。皆もそうだったからな。だけど最初からやる気のないようでは、他の奴にどんどん置いて行かれて、いつまで経っても一番弱くて卑怯な奴のままだぞ。少しの間辛抱して、真面目に取り組んでみろ」

 

「少しって、どんくらい」

 

 指導役は一瞬だけ考え込み、「俺を圧倒できるようになるまでだ」と告げた。

 

 それを聞いた少年は「そんなの無理だ」とか「何年掛かるんだよ」と喚いていたが、とりあえず真面目に訓練に取り組むようになった。そうすると周りも彼を仲間として受け入れ、やがてギリシャ語を身に付けたその新顔は馴染みの顔となった。

 

 そのうちに彼が教皇の弟子だという噂が流れた。指導役は彼を連れてきた魚座の黄金聖闘士に、事の真相を確かめた。もし事実ならただの雑兵には荷が重い。しかしその場で、確かにかの少年の後見役は教皇であるが、これまで通りに指導してやってほしいと頼まれてしまった。

 

「べつに特別扱いする必要はないからな。他の者と同じ扱いをしてやってくれ。鼻っ柱の強い少年だから、たまに完膚無きまでに叩きのめしてもいいぞ」

 

と穏やかな微笑みを浮かべて告げる黄金聖闘士を前に、指導役は黙って承諾するしかなかった。

 

 噂のせいで他の候補生たちに距離を置かれても、本人は意に介さなかった。それで周囲の態度も徐々に元の状態に戻った。むしろ以前よりも打ち解けた。彼の、世間の裏側をよく知って大人びているところが年頃の男子に受けて(本当の大人から見ればただの擦れっ枯らしだったが)、なかなか人気もあった。元々が陽気な性質らしく、本人も楽しそうにしていた。

 

 体術のほうもその頃からめきめきと力を付けていった。

 

 まず体運びが変わった。

 

 対手の動きを見る目がついた。

 

 伸びとキレも良い。力を抜くべきところも体で理解している。

 

 やがて頃合いを見て指導役は少年と一対一の組み手を行った。そして自分以外にも彼を教えている存在がいることをはっきりと感じた。雑兵の身ではとても敵わない相手が、目の前の少年の背後に見えた。

 

 突き出された拳は、それを受ける身にも体温が感じられるほど近いところで寸止めされた。

 

「お見事」と、素直に負けを認めてやると、歯を見せて笑った。

 

 最初の指導役を負かしたことで少年は力量を認められ、次の指導役のもとへ移っていった。雑兵の宿舎で同僚から聞いたところによると、それから一年もしないうちに小宇宙を体得し、もう一段上の訓練を受けるようになったそうだ。

 

「このままトントン拍子で聖闘士になるのかねえ」

 

 もしもそれが実現すれば、教皇の弟子というのも伊達ではなかったことになる。そうなればいいと、子供たちを最初に指導する役目の雑兵は、未来の聖闘士に思いを馳せた。

 

 

【炊事係】

 

 生活に身近なところでは、宿舎での朝夕の食事作りや、防具の修理、薬草園の手入れなどを雑兵が受け持っている。

 

 彼がその少年と初めて会ったのは、食料庫の中だった。夕食に使う野菜を取りに来て、ふと、視線を感じた。小部屋にいるのは自分一人のはず……だったが、振り返って上を見ると、天井と壁の隅で手足を突っ張って張り付いている小柄な人影を見つけた。この宿舎で食材泥棒は珍しくない。犯人は例外なく育ち盛りの候補生だった。

 

「下りて来い小僧」

 

 呆れながら声を掛けると、その人影は壁を蹴って彼の前に着地した。堂々と彼を見上げるのは、態度のふてぶてしい少年だった。チーズの塊を脇に抱えたままである。

 

「俺の管理する食料庫に盗みに入るたあ良い度胸だな、おう」

 

「素人に見つかるなんざ、俺も焼きが回った。煮るなり焼くなり好きにしな」と少年は擦れた口調で吐き捨てた。

 

「生意気言いやがって。素人はどっちだ」

 

 彼は盗人の頭に一発ゲンコツを落とした。大袈裟に叫んで食材泥棒は首を竦めた。

 

「おら、とっとと修行に戻れ」チーズは取り返し、盗人は追い返した。

 

 少年は捨て台詞を吐きながら走っていった。干し肉がごっそり無くなっているのに気づいたのは、その後のことだった。やられた、と思ったがもう遅い。

 

 それで食事の時に叱り直そうと待ち構えていたのだが、宿舎にいる候補生たちの中に悪童の顔はなかった。ならば若くして聖衣を授かった聖闘士だったのかと、他の宿舎にも当たってみた。そちらにもいなかった。では早々に自分の才能に見切りを付けた新米の雑兵か。これも違った。神官見習い。悪童の雰囲気からしてこれは違うだろう。案の定、そのような人物は在籍していないと言われた。

 

 泥棒の正体が分からないまま、幾日か過ぎた。しかしその間にも食材がちょくちょく消える。彼は雑兵たちの宿舎で仲間に相談してみた。

 

 すると一人が訳知り顔で頷いた。「そりゃきっと教皇猊下の弟子だ」

 

 その雑兵は教皇宮の警備を担当しており、出入りする人間はおおよそ把握していた。

 

「最近猊下はお弟子を取られてよ、上で一緒に暮らしてたんだ。これが猊下とは大違いの小憎たらしい、野良犬みたいな坊主でな。なんか師弟で大喧嘩して追い出されて、今は下にいるんだとよ。どこかの宿舎に潜り込んでるもんだとばっかし思ってたが、もしかしたら飯だけ盗み食いに来て、寝起きは別の所でしてんのかもな」

 

「へええ、猊下が弟子をねえ」

 

 ある日、彼は食料庫ではない所で件の悪童を見かけた。翌月の行事で使う道具を納屋に取りに行った時のことだった。

 

 風雨に晒された納屋の前に座り込んで、少年は空を見上げていた。何の感情も浮かべずに、ただ純粋に青空を仰いでいる。その顔は年よりも幼く見えた。

 

 しかし近づいてくる彼に気づいた途端、すぐに前に見た時のような小狡い顔になった。身を翻して逃げようとするので急いで呼び止めた。

 

「おまえに用があって来たわけじゃねえが、丁度いいや。俺のこと、覚えてるか」

 

 少年は振り返り、「食いもん返せって言われても遅せえよ。もう全部食っちまったからな」と腕を組んだ。

 

 開き直った悪童の口ぶりに、彼は苦笑した。

 

「じゃあ食った分だけおじさんと喋っていけや。坊主、猊下の弟子なんだって?」

 

「ほら吹きだって言いたけりゃ言えばいいじゃねえか」

 

「聞いただけだって。そう喧嘩腰になりなさんな。で、教皇宮を追い出されて、おまえ今どうやって暮らしてんだ。ちゃんと飯食ってんのか」

 

「うっせえな」

 

「盗み食いするくらいなら宿舎で食ってけ。席は余ってるはずだし、候補生が宿舎で飯食ったって誰も文句は言わねえ」

 

 え、と少年が目を瞬かせた。

 

「勝手に食材を持ってかれるとな、献立とか仕入れの予定が狂うんだよ。それよりは最初から頭数に入ってろって言ってんの」

 

「それって……、あっ。お師匠から何か命令されたんだな? だったらいいよ。放っといてくれよ」

 

「意地張るなら勝手にしろ。人の親切無駄にしやがって。どけ」

 

「ああっ、おっさん俺が悪かった! 飯食わせてくれる人、俺大好き!」

 

「縋り付くな離れろ邪魔くさい」

 

 とても女神の代理人に師事する者とは思えない悪童だったが、その日の夜から食事時だけ宿舎に現れるようになった。それが幾日も続いた後、ある日を境にぷっつりと現れなくなった。悪童と親しくしているという黒髪の候補生が理由を教えてくれた。

 

「あいつは師の言いつけで聖域を離れました」

 

 そうかい、と彼は返した。聖域から突然いなくなる候補生は珍しくない。現にその黒髪も、修行地に赴くため三ヶ月後には聖域を去った。

 

 教皇の弟子と再会したのは更に何度か月が巡った後になる。ひょっこり現れた悪童は、「飯、世話になったのに礼を言うの忘れてたから」と言って笑った。

 

「今は教皇宮に戻ってるから、もう俺の分の飯は作ってくれなくていいぜ」

 

「勘当を解いてもらったのか。そりゃ良かったな」

 

「は? 勘当なんてされてねえっての」

 

 むきになって否定するのを軽く流して、彼は内心迷いながら少年に頼んでみた。

 

「礼をしてくれるなら、食材費をもう少しだけ融通してくれるよう神官に言ってくれねえか。おまえも食ったなら判るだろうけどよ、もうちっとパンを大きくしてやりたいんだよ」

 

 暮らしに関わる物を全て自給自足で賄っていた時代は遠い。小麦や油も含めて、聖域は多くの品を俗世から買い入れていた。そして聖域の金庫番は神官がその役目を担っていた。教皇の弟子ならば神官にも伝手があるだろうと期待したのだが、相手は「それは難しいかも」と表情を曇らせた。悪童はその立場ゆえに、神官に疎まれているのだという。

 

「でも駄目元で言ってみるわ。もし話が通ったら、喜ぶのはあんた一人じゃないもんな」

 

 ところが翌日早くも「駄目だった! なんか叱られた」と結果を伝えられてしまった。

 

 それ自体は想定していたが、驚いたことにその日のうちに教皇と神官のそれぞれから書簡が届いた。教皇の弟子という立場には何の影響力もなく、それを介して自身の主張を上に認めさせようとする行為は認められない、というのである。

 

 そこまでは同じだったが、神官からの分には「猊下のご意向もあり、一度目は注意で済ませてやる。次また同じ事をやったら首を飛ばす。文句があるなら教皇宮まで直談判に来い」ということが遠回しに書いてあった。無論、雑兵に過ぎない彼にそんな勇気はない。おそらく、のこのこ行けば更なる訓戒か処罰が待ち受けている。

 

 一方で教皇からの分には「家出中の弟子が世話になったようだし、今回だけはその礼に予算増額を認める」という一文がこっそり忍ばせてあった。彼は教皇宮の方角を拝んだ。「ただし他の者には内密にすること。候補生の身分で虎の威を借る狐になられては困る」という念押しも、今後の影響を考えればごく当然のことだったので受け入れた。

 

 それからというもの、少年を懐柔して自分の希望を通そうという同僚が現れる度に、彼は神官からの書簡を見せた。そしてそれがいかに無謀で無駄な行為かということを、懇々と言い聞かせるのだった。

 

 他人に言い聞かせるばかりではない。食材購入費の増額が認められて一年ほどは神官からねちねちと嫌味を言われ続けたので、彼はもう二度と悪童を使った頼み事はしなかった。

 

 

【従者】

 

 人柄が認められた者は、十二宮に上がることもある。黄道十二星座の名を冠した、十二の守護宮。そこに配属される宮付きの従者は雑兵の花形だ。

 

 守護者が在位している宮の従者は、自慢半分、愚痴半分の話を宿舎に戻ってから仲間にすることがある。たとえば人馬宮の従者は、外部任務で不在がちの若い主が可哀相だとぼやくことが多い。双魚宮の従者は、魚座の黄金聖闘士が背負う役目が特殊な性格を帯びているために、あまり他人に自宮のことを話さない。

 

 巨蟹宮の従者も、誰かに打ち明けたくて堪らない秘密を知っていた。

 

 守護者と呼べる存在は教皇宮にいるので、普段の仕事は宮の手入れだけである。掃除が終われば昼には宿舎に戻れる。当然、気楽な仕事だろうと周りからは思われていた。しかし担当になった者だけに明かされる、ある秘密が巨蟹宮には隠されていた。

 

 亡霊が出るのだ。

 

 今の従者も、前任者から申し渡された時はまさかと笑い飛ばした。しかし相手は真顔で『もし出ても騒いではいけない。守護者にも言わなくていい。害はないから見て見ぬふりをしろ』と心得を言い渡した。まあそれならば、と新任者として殊勝に頷いた。

 

 一月ほどは何事もなく過ぎた。しかし二ヶ月目に入り、宮の奥を掃除していた時のこと。壁に人の顔のような染みが浮かんでいるのを見つけた。カビかと思ってごしごし擦っても消えない。染みは見る見るうちににくっきりとした目鼻立ちになり、壁自体が凹凸を作って、まるで壁から顔が生まれてきたようになった。湿気で壁が歪んだのではない。確かに人の顔をしていた。亡霊とはこれのことかと納得した。不気味だがそのうち慣れた。朝も昼も夜も常に同じ場所に居続けている亡霊など、家具のようなものだ。壁飾りだと割り切って、そちらを見ないようにすれば我慢できた。

 

 しかし日を追うほどに壁の顔は増えていき、気のせいか壁に近づくと呻き声まで聞こえるようになった。さすがにこれはまずいと思い、教皇に知らせた。ところが『分かった』という返事だけで特に対応もしてくれずじまいだった。

 

 やがて壁の住人が四人を超え、陰気な声が隣室でもはっきり聞こえた時、従者は堪らず宮を飛び出して教皇宮に駆け込んだ。

 

『もう無理です。頭がおかしくなったみたいです。理由? 言えるわけないじゃないですか。とにかく配置換えしてください!』

 

 神官に泣き付いているところを、教皇が通り掛かった。従者の様子を見て、慣れた調子で『今夜片付けるから辛抱してくれ』と言い、その日はもう帰って休むように従者に勧めた。主人の勧めに従者は大人しく従った。

 

 翌朝、前任者に頼み込んで一緒に巨蟹宮に付いてきてもらった。なんと、不気味な顔は一つ残らず消えていた。

 

『そんな、確かに昨日までは顔が、顔がここに』

 

 狼狽する彼の横で、前任者は優しく頷いた。

 

『知ってる知ってる。猊下が片付けると仰ったのだろう? 片付いてるじゃないか』

 

 それこそが巨蟹宮の秘密。蟹座を守護星座とする者がいる時にだけ起こるという怪奇現象だった。

 

『ただ宮の奥の壁に出てくるだけで、あの顔は俺たちには何にもしねえよ。段々増えてくけど、猊下が数ヶ月に一度まとめて消して下さるから我慢すりゃあいい。消し方? 知らねえよ。夜の間に壁からもぎ取ってどこかに埋めなさってるんじゃねえか。裏の地面でも掘り返してこいよ』

 

『冗談でも止めろよ。どうすんだよ掘り起こして本当に出てきたら。しかもそいつら呻き声上げるんだから怖えよ』

 

 前任者は笑い、そういうことはないから安心しろと彼の肩を叩いた。

 

 当初は本気で配置換えを願っていたが、人間というのは慣れるもので、新任の従者もその例に漏れなかった。定期的に処理されるというのも本当だった。徐々に数を増して鬱陶しく呻いていた顔たちが、翌日には綺麗に消え、そして時間が経つにつれ再び浮き出してくるという流れが、巨蟹宮にはあった。

 

 その流れを何度繰り返したことだろう。

 

 ある日、教皇から言伝があった。

 

 ――しばらく巨蟹宮の奥を片付けないが、我慢して欲しい。

 

 片付けない、つまり不気味な顔たちを放置しておくということだが、従者はもう「はいはい」と気軽に頷ける程度に免疫ができていた。そのつもりだった。

 

 甘かった。

 

 壁の顔が十を超えると、気持ち悪いのと薄気味悪いのとうるさいのとで気が変になりそうだった。彼はその場所に近づきたくなくなった。幸い、そのことを察した主人から、宮奥の掃除はしなくて良いという許しもあった。そこでなるべく顔たちから遠ざかって仕事をするようにした。

 

 顔の数が一ダースを超えた頃、教皇から次の言伝があった。

 

 ――巨蟹宮の奥を弟子の修行の場として使わせるので、候補生が立ち入るのを見ても放っておくように。修行中は危険なので、宮から退出していても構わない。

 

 あの不気味な場所でどんな修行をさせる気なのかと、従者は気になった。しかし修行を覗くことは禁じられていたし、現れた生意気そうな候補生に尋ねても答えてくれなかった。従者は手入れする範囲を宮の出入り口付近だけと決めて、それが終わると大人しく仕事場を離れることにした。

 

「本当におまえ、気楽な仕事だよな」

 

 同僚にやっかみ半分に言われ、ならば怪奇現象に囲まれながら仕事をしてみろと言い返したくなった。しかしそれはできない。彼は唯一巨蟹宮のことを話せる前任者に打ち明けた。

 

「十四? それはさすがにきついな」

 

 同情してくれる者の存在に、彼は泣いた。

 

 そしてしばらく日を置いた後に、主人から命令があった。顔の数を数えてこいという。無理なら自分で数えに行くとの気遣いの言葉も添えられていた。

 

 さすがに教皇に足を運ばせるのも申し訳なかったので、彼は意を決して巨蟹宮の奥に乗り込んだ。どうせ相手はただの顔。気持ち悪いがただの顔。どんなに近づいても目が合ったことはないのだから、きっとこちらに気づくほどの知性はない。そう自分に言い聞かせながら、長いこと立ち入らなかった部分に足を進める。

 

 うっすらと埃が積もっているだろうと予想していた床は、意外にも掃き清められていた。隅のほうに埃が残っていたり、掃き残しの筋が残っていたりと、少々雑な印象だ。それで却ってほっとした。誰かが掃除したことが明らかだったからだ。その証拠に、長箒が片付けられずに廊下の隅に出されたままになっていた。

 

 箒を手に取り、問題の場所へ近づく。顔は十五面あった。

 

 主人にそれを伝えた日から三日後、全ての顔が消えた。

 

 巨蟹宮の奥は静けさを取り戻した。日が経つと再び顔が浮き出してきたが、今度は一つ浮く度に片付けられるようになった。

 

 ただし顔を片付けに来るのは教皇ではなく、その弟子に変わった。まだ修行が続いているのだと説明された。彼は日中堂々とやって来て、ものの数分も掛けずにそれを完了させるらしい。らしい、というのはその場を見ることを禁じられているからだ。

 

「べつに見てもいいけど、あんたまで顔と同じ運命を辿ることになるぜ」

 

と、その候補生は真顔で言う。それは困るので、宮の表に近いほうで、のんびりと大理石の柱を磨く。

 

 従者が手を付けられなかった間の巨蟹宮の奥を掃除していたのは、この教皇の弟子だった。師の守護宮を少しでも綺麗に保ちたかったというから微笑ましい。もっとも言葉としてはたいそう捻れた表現をしていたので、その本意を理解できるまで時間が掛かったが。

 

 まもなく、候補生は足取りも軽く奥から戻ってきた。

 

「終わったぜ」

 

「はい、お疲れさん」

 

 ぱしりと互いの手を叩き合って、それで終了。候補生は巨蟹宮を去り、従者は誰もいなくなった奥へと掃除に向かった。

 

 

【大工】

 

 聖域の歴史は古い。

 

 歴史と同じく建造物も古く、ほとんどの建物が古代の遺跡を利用している(ちなみに、上下水道は古代ローマ時代に作られた物が現役だ)。そのため建物は常にどこかしらが手入れを必要としていた。建物の状態によっては、修繕だけに留まらず土台から建て替えられることもあった。

 

 しかし普請のためとはいえ俗世の者を聖域に入れることは避けたいので、必然的に聖域内の普請には雑兵や聖闘士が駆り出される。おかげで大工顔負けの腕を持つ雑兵もかなりいた。

 

「親方にちょっと聞きたいことあるんだけど、いいかな」

 

 突然やって来た若い候補生を一瞥したきり、棟梁は無言で仕事に戻った。おまえらが訓練でも遠慮なく闘技場を壊すからこっちの仕事が増えるんだ判ってるのか判ったら相手をしてやる暇はないからとっとと失せろ――ということを、背を向けることで示す。たとえ相手が聖闘士でも態度を変えない。それが彼の意地だった。

 

 彼の拒絶の態度を見て、ほとんどの者は諦める。近くには助手もいるので、話をするならそちらを通してからにしようと思うのが普通だった。ところがこの少年は、

 

「仕事の邪魔はしねえよ。まあ空いてる耳だけこっちに貸してくれや」

 

と、その場に腰を落ち着けてしまった。

 

「この前さ、聖域と修道院が似てるって話になったんだよ。あ、俺の仲間内でな。ガキの頃に親父にくっついて毎週修道院に薪を納めに行ってたって奴がいて、そいつが言うには、修道院にあるもんはだいたい聖域にもあるっていうことらしいんだ」

 

 それは突飛な話ではなく、聖闘士の世界に入ったばかりの者が抱く感想としては普通だった。

 

 たとえば薬草園がある。その片隅では養蜂もしている。聖闘士には知られていないが写本の作業室もある。法衣姿の神官も往来するので、初めて聖域入りした新米聖闘士などが、ここは修道院も併設しているのかと勘違いするそうだ。そして大抵は先輩格に、修道院がここを参考にしたのだと言い返されて納得する。真偽は誰も知らないが、エジプトで修道院の原型が生まれた頃にはすでに聖域が現在の形で存在していたという。だからそれが定説となっていた。

 

 どうでもいい話だ。棟梁は振り返らない。

 

「それじゃ逆に聖域にしかないものって何だろうってことで、火時計とか星見の丘とか闘技場とか色々出たんだけど、俺は親方たち大工だと思うんだよ」

 

 聖堂修復などで大工が修道院に入ることはあっても、常駐することはないはずだと、この候補生は言った。

 

「なあ、親方はどう思う?」

 

 無視。

 

「おっさんたちが年がら年中とんかんやってるのを、今まで俺ぜんぜん気に留めてなかったんだけど、これって結構凄いことなんだよな。だって材料どうしてんだよって話でさ。建材って聖域にそんな多くないと思うんだよ。石切場はあるけど、あそこにあるのだって、どっかから運んできた石っぽいし。材木とか漆喰とかも。漆喰って石を塩で焼いたやつなんだって? しょ……しょうなんとか」

 

「消石灰」

 

「それそれ、その元の石とか」

 

 棟梁は太い息を吐き出して、候補生に向き直った。

 

「大工になりたきゃ候補生を辞めて、普通にどこかの徒弟になれ。推薦状は書いてやれんがな」

 

 候補生はやけに慣れた仕草で肩を竦めた。百姓の出ではないと棟梁は見てとった。街の人間、それも薄暗い場所の匂いがする。有り体に言って柄が悪い。

 

「推薦状のために親方のところに来たんじゃねえよ。闘技場を建て直すために、大量の建材を去年の二月に仕入れたって話を聞いたんだ。親方なら当然知ってるよな?」

 

「知らんな」

 

「あれ、おかしいな。俗世の商人に金も支払ったって聞いたけど。それで俺、どの闘技場が新しくなるのかなーって楽しみにしてたんだぜ」

 

「勘違いじゃねえか」

 

 棟梁は馬鹿馬鹿しくなって図面引きに戻った。大規模な普請の話が持ち上がれば、まず最初に彼のところに神官からの連絡が来るはずだ。しかしここ数年は小規模な修復ばかりで、そのような計画の話は来ていない。つまりはそのような計画は存在しない。候補生たちの他愛のない噂に付き合ってやる酔狂さを、彼は持ち合わせていなかった。

 

「そっか。親方が知らねえんじゃ仕方ねえ」

 

 諦めたのかと思いきや、少年は「だったらもう一つ」とその場に居座り続けた。

 

「これまで親方が監督してきた普請で、いつどれくらいの建材を使ったかっていう記録は残ってねえかな。もしあれば見てみたいんだけど」

 

 確かに過去にあった普請はそれがどんなに些細なものであれ、記録には残している。しかし候補生が興味本位で調べることではないだろう。

 

 もしや相手を候補生と思っていたのはこちらの早合点で、実は神官なのか。金勘定が絡む建材の仕入れには、聖域の金庫番たる神官が深く関わっている。そこからの使いではないかと棟梁は疑った。彼は神官という連中が嫌いだった。手も動かさず現場も見ずに、命令ばかりしてくる頭でっかちの連中だ。

 

 候補生の恰好をしている少年はバリバリと頭を掻いた。

 

「それが俺のお師匠が変わり者でさあ。調べ物も修行の一環だって言うんだよ。聖闘士になるのに必要かって思うんだけど、まあ口答えすれば叱られるから素直にはいはいって言うしかねえわけ。頼むよ親方。協力してよ」

 

「おまえの師匠ってのは?」

 

 どの称号を持つ聖闘士だと尋ねたことに他意はなかった。そんな修行を付ける指導者もいたのかと興味を持ったのだ。

 

「教皇セージ」

 

「馬鹿野郎」不敬な候補生を思いきり叩いた。「もっとマシな嘘をつけ」

 

「痛ってえな。嘘じゃねえって。信じなくてもいいけど協力してくれよ。じゃあ協力してくれたらワイン一瓶。普段がぶ飲みしてるようなのじゃなくて、教皇も飲んでるような極上のやつ。それでどうよ」

 

 図面から顔を上げて、棟梁はもう一度候補生の顔を見た。叩かれた頭を撫でながら、候補生はこちらを見ている。

 

 それでも彼は極上の酒という誘惑には屈しなかった。

 

 代わりに少年の情熱に根負けした。たとえその結果ワインを手に入れることになったとしても、酒に負けたわけではない。

 

 腕組みをしながら見張っている彼の前で、候補生は必要なことを手元に書き取っていった。

 

 後日届けられたワインは確かに美味かった。鼻へ抜ける芳醇さが違う。これに比べれば普段のはただの果汁だ。

 

「俺のお師匠からも、親方に礼を言っといてくれって。だからこれはお師匠から」と、少年は二本目の瓶を差し出した。「調べたことを報告したらさ、昔は自分も土を練ったり左官屋の真似事をしたことがあるって懐かしそうに言ってたぜ」

 

「聖闘士が? いつの話だ」

 

 重い建材を運ぶ以外に聖闘士の手を借りるほど人手が足りなかった時期は、彼の知る限りない。それは彼が棟梁どころか雑兵になるより以前から変わらないはずだ。

 

「聖戦終結後。聖域が壊滅して人手が無かったんだって」

 

「またそういう嘘を吐く」

 

と棟梁は少年の背を叩いて追い払った。「もういい。帰んな」

 

 二人の語らいを耳にした別の雑兵が、かの少年が真実教皇の弟子であることを棟梁に告げるのは、その夜のことである。出来の悪い冗談だと彼は笑い飛ばした。しかしその後何年経っても、貰った二本目のワインを空けることができなかった。

 

 

【番人】

 

 口が固く、規則に厳格だという評価を得た者は、十二宮より更に上の教皇宮に上がる機会がある。そこでは重要な扉を守る番人としての役目を与えられた。ここまで来ると人目に触れることはほとんどない。

 

 その中の一つが、教皇宮の「表」である公部分と「奥」である私部分を隔てる扉だ。そこは決まった時刻に閉めることになっている。教皇と一緒に寝起きしているという少年も扉が開いている時はそこから出入りしているが、たまに時刻を過ぎてもまだ帰らないことがある。そういう時でも番人は決まり通りに扉を閉める。使用人の使う裏口から戻ればいいので、苦情を言われたことはない。もちろん言われれば夜でも開けるが、教皇でさえそれが面倒なのか、星見に出かける時は裏口を使っているようだ。

 

 日没頃、足音も軽く少年が帰ってきた。門限ぎりぎりの時間だった。なぜか手に松笠を持っている。焚き付けにでも使うのだろうか、と詮ないことを番人は思った。

 

「閉めるぞ」

 

「ほいよ」

 

 このいつも軽い態度の少年がいるせいで、聖域の中枢を守るという誇りと栄誉が薄らいでいる気がする。その反面、教皇が気さくに声を掛けてくれるようになったので、悪いことばかりではないのだが。どうやら教皇は、弟子のせいで番人に余計な仕事が増えたのではないかと気を遣っているらしいのだ。

 

 目の前を通り抜けた少年の頭の位置に、おやと気がついた。いつの間にかこちらの胸に届くほど背が伸びている。教皇に庇護されたばかりの頃はせいぜい腹を越すくらいだったはずだ。手足の大きさからみて、これからも若木のように背が伸びていくだろう。聖闘士を目指す者としては申し分ない。

 

 この成長ぶりを教皇は知っているのだろうかと彼は思った。毎日の微妙な変化は、常に近くにいる者には却って見えにくい。

 

「あ、そうだ」閉まりかけた扉に手を掛けて、向こう側から少年が顔を覗かせた。「夜番はあんただよな。今夜こっちに来る奴を黙って通せって話、聞いてる?」

 

「ああ、猊下から伺っている」

 

「ならいい」

 

 なにやら画策している教皇と、それに一枚噛んでいるらしい悪童。それを詮索する権利は番人にはない。彼はただ扉を守る。

 

「そんじゃお休み」

 

「お休み」

 

 閉まった扉の向こうから、僅かに声が届いた。ただいまと元気よく告げる高い声と、おかえりと温かく迎える低い声。二つの声は語らいながら遠ざかり、廊下には静寂が戻った。

 

 

 この他にも雑兵の仕事はいくつもある。更に聖域の中だけでなく俗世にあって重要な役目を担う者たちもいるが、それを語るのは別の機会にしよう。

 

 ちなみに雑兵の役割を監督するのは基本的に神官である。聖闘士は任務や弟子に修行を付けるために聖域を不在にする期間があり、監督まで手が回らないからだ。雑兵と神官。聖闘士ではない者として、彼らは山の麓と頂から聖域を守っていた。

 


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