【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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科学について
入祭唱(イントロイトゥス)――アリの去就


 

 男は戸の鍵が開く音に顔を上げた。扉の向こうにいるのはきっと死に神だ。鼓動が速まり、胸が痛くなった。大きく開かれた戸口に立っていたのは、恐れていた相手。少し前まで侮っていたはずのその相手が、今は無性に怖かった。

 

 ――迎えに来た。

 

 そう告げた死に神と目が合った瞬間、男の意識は途絶えた。

 

          ◇

 

 山上に立つ教皇宮は見晴らしが良い。

 

 ことに日の出と日の入りの時刻の眺めは格別だ。山肌は赤く、それよりなお鮮やかな茜色の空を背景に薔薇色の雲が浮かんでいる。

 

 セージが窓の外の夕焼けを眺めていると、一人の神官が声を掛けてきた。ぜひとも教皇にお伝えしたいことがある、と書類を手にして言う。廊下は暗く、表情はよく見えなかった。明日では駄目なのかと尋ねても、できれば今すぐにと言って引き下がらない。男は神官としての地位が高くなかったから、これまで教皇に話しかけてくることはなかった。一体何事かと、立ち話ながらもセージは男の話を聞こうとした。

 

 そこへ男の上役に当たる別の神官が現れた。彼は部下が教皇を引き留めている状況を見て、代わりに話を聞くことを引き受けた。テオドシオスと呼ばれる彼は面倒見も良く、目下に慕われていたから、教皇も安心して後を任せた。

 

 翌日、テオドシオスは男が職を辞した旨を教皇に伝えた。急なことではあるが、家の事情で故郷に帰ることになったそうだ。すると面談の目的はその暇乞いだったのかと、教皇は納得した。去った男の地位であれば、辞める時には神官長の許しをもらうだけで良かった。もし男が称号持ちの聖闘士であれば、必ず教皇の許しを得なければならないところだ。

 

 その場で人員の補充を乞われ、セージはそれを許した。

 

 

 聖域はアテナを奉じる聖闘士の本拠地である。

 

 常人を超えた奇跡のような力を持っている聖闘士ではあるが、あくまで彼らの本分は戦うこと。幼いうちから肉体を鍛える修行に入り、戦場へ赴く彼らには不向きな仕事もある。

 

 そこで教皇を支え、聖闘士に代わって事務方を預かるようになったのが神官だった。職務からいえば書記官という名称のほうが相応しいだろう。なかには聖闘士でありながら実務能力を買われ、「聖衣の上に法衣を重ねた」者もいるが、ごく珍しい例外だ。基本的に聖闘士とは異なる命令系統に属している。

 

 ちなみに序列だけでみれば神官長は黄金聖闘士より低い。平の神官は青銅聖闘士よりも格下だ。しかし聖闘士が目通りを許されなければ教皇と会えないのに対して、神官は教皇と同じ建物で働いており、日常的に直言することさえできた。

 

 その日、教皇は教皇宮の公部分に属する一室に入った。明かり取りの小さな窓しかない、薄暗い部屋である。そこに神官たちが待っていた。

 

 居並ぶ法衣姿の男たちは教皇に一礼し、彼が椅子に腰を下ろしたのを見届けてから着席した。装飾の類の一切ない質素なこの部屋こそ、聖域と聖闘士を支える重要な場所だった。

 

 教皇の間は教皇と聖闘士の集う表舞台である。それに対しこの部屋は、限られた神官が実務的なことを論じる舞台裏だ。個人の聖闘士がいくら英雄叙事詩の登場人物に似た存在であっても、全体では生身の人間の組織である。こうした場が必要だった。

 

 簡単に「評議」と呼ばれる時間が始まった。

 

「今年の冬至に捧げる羊も、去年と同じ頭数を予定しております。その他の供物についても同様でございます。皆様いかがでしょうか」

 

 数ヶ月後の祭礼に向けての準備である。典礼係の提案に一同が賛意を示す。

 

「では儀礼自体も例年通りに執り行いますので――」

 

 神官の言葉を遮るように教皇は軽く指を上げた。事実、それだけで典礼係の唇は動きを止めた。神官長が「何かございますか」と恭しく尋ねた。

 

 教皇は神官の仕事ぶりを信頼しているので、いつもは評議の内容に口を出さない。定期報告を受けて疑問や問題がなければ後は任せるようにしていた。この時のように話に入ってくることは珍しい。何事かと一同が見つめるなか、老人はゆったりと発言した。

 

「今回はアテナが降臨されて初めての冬至となる。それなのに例年と同じというのはいかがなものか」

 

「お言葉ですが猊下。盛大に祝うのであれば、我らが主神を聖域にお迎えしてからがよろしいかと。未だ地上のどちらにおわすのかも判らず、聖闘士にも何も明かしていない状態でございます。儀礼だけを華やかにしては却って不審を招くだけかと存じます」

 

 神官長の言い分を教皇は渋々受け入れた。周りの神官は内心胸を撫で下ろした。アテナが地上に降臨したという星見から一月が過ぎ、半年が過ぎ、それでもまだ足りずに捜索が続けられていた。

 

「しかしいつまで」

 

 誰かが漏らした呟きは、聞く者の心に波紋のように広がった。

 

 いつまで今の状態が続くのか。

 

 そもそもアテナが降臨したという拠り所は教皇の星見だけである。その読みが間違っていたのではないかと、多くの神官が疑うようになっていた。その思いはともすれば何かの拍子に口から溢れそうになる。

 

 ――これ以上は無駄だから捜索は打ち切ろう、と。

 

 評議の後、二人の神官が所用で教皇宮から下がった。十二宮の階段を下りながら話すのはアテナ捜索についてである。教皇が近くにいる教皇宮ではむしろ触れにくい話題なので、こうして外で話す者が多い。

 

「やはり一年という区切りで打ち切るのがいいでしょうね」と痩せた青年神官が口を開く。

 

「さよう。しかし猊下をどのように説得するか、そこが問題だ。ご自身の判断が誤っていたとお認め頂くわけだから」と年上の神官が重々しく言った。

 

「これまで捜索中止を提言した者はいるのでしょうか」

 

「いいや。こういうことは高位の神官からさりげなく伝えてもらうのが一番だが、神官長は役に立たんな。猊下の首振り人形であるし、先ほどのような止め方が精一杯だ」

 

「猊下のお弟子については、そうでもないように見受けられましたが」

 

 若い神官の言葉に年長者は苦笑した。確かに神官長は教皇の弟子取りに関しては強く反発している。一時、教皇が執務室に弟子を入れて教えを授けようとしたことがあったが、公私混同を盾に反対したのは神官長だった。

 

「あの人は猊下がお務めをおろそかにされては困ると、それしか考えていないだろうよ。聖域のことを真に考えているテオ殿のほうが」

 

 その先を飲み込んで、年かさの神官は教皇宮のほうを振り向いた。若手もそれに倣う。誰かが下りてくる。

 

 階段を駆けてきたのは教皇の弟子だった。通りすがりに二人に挨拶して、そのまま横を抜けていく。

 

「まあ、神官長にも理があったからな。全ての聖闘士に等しく目をかけたいからと、長らく弟子を取ることを拒まれ続けていたのは猊下ご自身だ。そこをコロっと態度を変えられては、小僧にうつつを抜かすのではと心配にもなるだろう」

 

「でしょうね。下の宿舎に入れて他の候補生と同じように扱えば良かったんですよ」

 

 見る見るうちに悪童の後ろ姿は小さく遠ざかっていった。

 

          ◇

 

 マニゴルドは長い階段を駆け下りた。

 

 道と闘技場を隔てる石垣に飛び乗って、対手になってくれそうな者を探す。すると組み手がもうすぐ終わりそうな二人組を見つけた。終わったらまだ体力に余裕のあるほうに申しもうと決めて、石垣に腰掛けた。

 

 日差しと柔らかい風が肌に心地よい。

 

 思わず上半身を倒して横になった。

 

 そのまま目を閉じていたら、「寝に来たのか」と足首を下に引っ張られた。仕方なく起き上がれば、アスプロスが石垣の下から彼を見上げていた。

 

「よう」マニゴルドは足首を振って知り合いに挨拶した。

 

 アスプロスは軽やかに跳んで隣に上がってきた。

 

「後悔して落ち込んでいるのかと思ったが、元気そうだな」

 

「後悔?」マニゴルドは首を傾げた。

 

「候補生が立て続けに死んだだろう」

 

 その言葉にマニゴルドは死者たちのことを思い出す。ニキア。ゴメイサ。その取り巻きたち。聖域では全て終わった事として片付けられている。

 

「なんでそれで俺が落ち込まなきゃならないんだ」

 

 アスプロスは声を落とし、そっと囁いた。「きみが五人の命を奪うところを見た者がいる」

 

 マニゴルドは意味が分からない、というように頭を傾げた。相手がその話題を持ち出してきたのは、脅すためとしか思えない。

 

「何のことだか。だいたい死んだ候補生は七人だぜ。七人を殺したって言わねえのか」

 

「では訂正しよう。ニキア以外の者についての話だ。あの日、彼女の埋葬にきみも立ち会うだろうと思ったのに来なかった。弔いが終わって宿舎に戻れば、候補生たちの集団死で大騒ぎだ。その矢先にきみの殺しを見たという話を聞かされた」

 

「現場を見たっていうなら、俺に遠慮せずに誰かに知らせれば良かったのに。なんでそうしなかったんだ、おまえ。脅しても何も出ねえぞ」

 

「脅すつもりはないし、目撃者は俺じゃないよ。理由が知りたいだけだ。彼女が不当に貶められたと訴えることもできたのに、きみが聖域の掟を犯してまで他人の仇討ちをする意味が分からない」

 

 アスプロスもセージと同じように、当時マニゴルドが積尸気冥界波を習得しようとしていたことを知っていた。何が起きたかについても、ニキアの指導者より正しく想像できただろう。

 

「……ニキアの師匠が空を見上げて叫んだんだ。奴らに天罰を、ってアテナに。でもそんなの願ったって無駄じゃん。アテナに人を助ける気があるなら、聖闘士として身を捧げるつもりだったニキアを酷い目に遭わせたりするはずない。地上を守護するっていっても、足元の人間を守ってくれるってことにはならないんだよ」

 

「女神は聖闘士を守らない」

 

「そういうこった」

 

 他の者なら――たとえばシジフォスなら決して口にしないようなことを、アスプロスは容易く言葉にした。マニゴルドは嬉しくなって足を打ち合わせた。

 

「聖闘士は女神の矛であり楯である、ってな。いくら言葉を飾ったって、アテナにとっちゃ聖闘士っていうのは敵に突っ込むための道具であって、庇護すべき哀れな子羊じゃねえんだよ、きっと」

 

「それは猊下のお考えでもあるのか」

 

 積尸気使いとしての師がどう考えているかはさておき、教皇の立場ではそこまで言わないだろう。マニゴルドは首を横に振った。

 

「アテナのお導きがどうこうってよく言ってるから、お師匠はアテナを信じてる。でも人間同士のことは人間が片付けないと駄目だってさ」

 

「だから神に代わって力を揮う。それがきみの言い分か」

 

 少年は鼻で笑った。

 

「聖域に来る前、俺がどうやって生きてきたかは言わねえよ。けど、神サマなんてあてにならないものを信じて待つより、自分で動いたほうが手っ取り早いと思ってる。それだけのことだ」

 

「手っ取り早い、か」

 

 アスプロスは遠くを眺めた。つられてマニゴルドも同じほうを向く。二人の視線の先には接近戦の修行をする若者たち。全員が彼らの顔見知りで、同じ道を目指す仲間だ。

 

「候補生を殺したことを、後悔しているか?」

 

「しねえよ。公に知られたらお師匠に迷惑が掛かるだろうなって心配はする。でもやったこと自体はちゃんと納得ずくだ。俺の名前はイタリア語で『死刑執行人』って意味なんだ」

 

「処刑人は誰かが下した裁きを実行する者のことだぞ。裁きを下す者のことじゃない」

 

「ごちゃごちゃ細かいこと言うなよ。とにかく、殺すとか殺されるってのがどういうものか知ってるって言ってんの、俺は」

 

「そうか」

 

 アスプロスはようやくこちらを振り向いた。少しだけ、その肩から力が抜けたようにマニゴルドには見えた。

 

「おまえが肚を括っているなら、俺ももう何も言わない。もし行いを悔いて迷っているなら聖域の裁きに従うべきだと思ったが、違うんだな」

 

「ああ」

 

 それなら好きにしろ、と彼は億劫そうに後ろ手を突いた。

 

「アスプロスって、もっと人の道とか聖域の掟とか大事にする奴かと思った」

 

「もちろん大事さ。それが役に立つ限りは」アスプロスは冷たく鼻で笑った。シジフォスやハスガードには言うなよ、と前置きして彼は続ける。

 

「聖域の秩序とか、そんなの本当はどうでもいいんだ。俺は、俺たちの身を守るために聖闘士になると決めた。誰も守ってくれなかったし、他に道がなかった。きっと聖闘士になっても変わらないと思う。俺が守りたいのは俺たちだけだ」

 

 不思議に一人称と二人称の入り混じる語り口だった。整った横顔にうっすらと怒りが滲んでいた。

 

「五人が死ぬところを見たのは、表に出ることを禁じられた人間だ。あいつが表を堂々と歩ける身で現場を見たなら、俺はきっと証言させていたと思う。でも違う。あいつは俺にしか打ち明けられなかったし、あいつにそんな暮らしを強いる聖域のためになんか、俺は動かない」

 

 いったい誰の話をしているのだろうとマニゴルドは彼を見つめた。その困惑ぶりに気づき、アスプロスはうっそりと笑った。

 

「他人の目を気にせずに動けるおまえが羨ましいよ」

 

 それだけ言うと、彼は隣を見ずに石垣を下りて去ってしまった。一人残される形になったマニゴルドも地面に下りて、目を付けていた候補生に組み手を申し込んだ。

 

          ◇

 

 ある日のこと。師から新しい修行を付けてもらえると聞いてマニゴルドは喜んだ。積尸気冥界波を体得してから、ようやく次に進むことになる。

 

「どんな技教えてくれんだ?」

 

「技ではない。全ての基本である小宇宙だ」

 

 小宇宙というと戦闘に用いるような「外向き」の作用が注目されがちだが、実は「内向き」に使って精神の働きを高めることもできる。精神集中の先にある広い視界。神がかり的に研ぎ澄まされる感覚。意識せずに最高の能率を引き出す心と体。

 

「上手く扱えるようになれば、学んだことも頭に入りやすいし、念話もできるぞ」

 

 そう説明されても、あまり面白そうではない。「それだけかよ」

 

「肉体の活性化と同じように精神を活性化する。これを突き詰めていくと、小宇宙の究極たる第七感《セブンセンシズ》、第八感《エイトセンシズ》にも到達できる、こともある。意識の使い方が切り替わるのだな」

 

「それって小宇宙に目覚めるのとはまた別?」

 

「第八感は私も目覚めたことがないから説明するのは難しい。その手前の第七感はとりわけ特別な感覚ということはないな。しかし小宇宙が無尽蔵に湧き出る魔法の壺を手に入れたも同然だ」

 

「魔法の壺ねえ」

 

「あるいは小宇宙という水を汲み出す元が、小さな泉から大海になるようなものだ。いくら汲み出しても尽きることがない」

 

 聖闘士であっても第七感に目覚める者は少ないと聞き、マニゴルドは深く息を吐いた。ところが師は弟子の前途の不安をお見通しだったようで、まあ精進しろと控え目に励まされた。難しいがゆえに、第七感に目覚めれば黄金聖闘士の座は一気に近づくという。

 

「おまえが山頂はどこだと問うから答えたが、おまえ自身は山の麓に辿り着いたところだ。登る前から山の高さばかり嘆いて二の足を踏んでいても仕方あるまい。まずはやれ」

 

 その時からというもの、マニゴルドは暇があればひたすら「内向き」に小宇宙を練らされた。

 

 その修行は格闘のような激しい動きを伴わなかった。自分が何をさせられているのか今一つ呑み込めなかった彼は、師に不満をぶつけた。頭を使うより体を動かすほうが好きだったからだ。

 

「一度決めた道だろう。『この故にわれ汝のために思い、かつ謀りて汝の我に従うを最も善しとせり、我は汝の導者となりて汝を導き、ここより不朽の地をめぐらむ』」

 

 突然のイタリア語の諳誦に、マニゴルドは瞬きした。「なにそれ」

 

「読ませたはずだぞ。『神曲』だ」

 

 それでイタリア語の読み書きを学んだ折に読まされた本だと思い出した。作者の創作にしては、地獄の描写がアテナの宿敵の支配する世界に詳しいという、聖闘士にとっては曰くのある物語でもある。地獄、煉獄、天国を巡る主人公ダンテを煉獄の途中まで導いた古代の詩人・ウェルギリウス。セージが吐いたのは、ウェルギリウスがダンテの導き手になる時の台詞だった。

 

「そんなの一語一句覚えてるわけねえだろ」

 

「あれは冥王軍のことを知る入門書のようなものだ。もう一度読んでおきなさい」

 

 本棚にあったからという理由でその場で読み直させられた。マニゴルドはページに目を落としたまま呟いた。

 

「ていうか……、『我を導く詩人よ、我を難路に委ぬるにあたりて、まづわが力のたるや否やを思え』」

 

「なんだその弱気は」

 

「いやいや何でも」師の冷たい視線に慌てて、弟子はページを捲った。「『汝言によりわが心を移して往くの願いを起さしめ、我ははじめの志にかえれり。いざゆけ、導者よ、主よ、師よ、両者に一の思いあるのみ』。やりゃいいんだろ」

 

「よろしい」

 

 少年はばたりと本を閉じて、顔を上げた。「あんまり好きじゃないな、この本」

 

 作者の恨み辛みが籠もっているからかとセージは尋ねたが、マニゴルドの理由は違う。

 

 煉獄篇の終盤。ダンテはそれまで険しい道のりを手を引き危険な場所では抱きかかえて運んでくれたウェルギリウスから、永遠の淑女ベアトリーチェに案内人を替える。その時のダンテの態度があまりに薄情だと思ったのだ。マニゴルドはその箇所を読むまで、自身をダンテに、セージをウェルギリウスに重ねて感情移入していた。

 

 ところがそんな弟子の思いをよそに、セージは首を傾げた。ダンテは十分に別れを惜しんでいた印象があったと老人は言う。「ウェルギリウスが煉獄の先へ進めないのは、話の最初から分かっていたことだろう。まずウェルギリウスが案内役を買ってでたのもベアトリーチェに頼まれたからであるし」

 

「でもいくら好きな女と会ったからって、あんまりじゃん。直前まであんなに世話になって、先生先生って頼りきってたくせに。おまけにその後の天国篇は面白くないし」

 

 感想は人それぞれだな、とセージは苦笑した。

 

「ベアトリーチェさえベルナルドゥスに案内役を交替するというのに何を拘っておるのか。おまえもいつかアテナと出会い、そのお導きを受けるようになったら、私など置いて先に進むようになるよ」

 

「判るもんか」

 

 口を尖らせて反発すると、本を取り上げられた。そしてセージはパラパラとページを飛ばして一節を読み上げた。

 

「『目のよくこれに教うるをまたず、ただ彼よりいづる奇しき力によりて、昔の愛がその大いなる作用を起すを覚えき。わが童の時過ぎざるさきに我を刺し貫ける尊き力わが目を射るや、我はあたかも物に恐れまたは苦しめらるるとき、走りてその母にすがる幼子の如き心をもて、ただちに左にむかい、一滴だに震い動かずしてわが身に残る血はあらじ。昔の焔の名残をば我今知る……』」

 

 目で直接確かめたわけではないが、彼女の発する不思議な力が、そこにいるのが彼女だと教えてくれる。子供が母親に駆け寄るように心が吸い寄せられる。そういう内容の、ダンテがベアトリーチェに再会した場面での一節だ。

 

「聖闘士が女神を求めるのも、また同じ」

 

 セージの目がマニゴルドに注がれた。

 

 師が遠い昔にアテナに相まみえ、その指揮の下で戦場に立ったことがあるというのを、マニゴルドは思い出した。少年にとってはウェルギリウスがセージだ。しかしセージにとってはベアトリーチェがアテナだった。すると聖闘士にとっては、ベアトリーチェの後を引き継ぐ三番目の案内人・ベルナルドが教皇ということになるのだろうか。

 

 セージは弟子に説いた。聖闘士は、女神から感じられるものがあることを魂で知っている。たとえ会ったことがなくても、女神の戦士である彼らは同じ感覚を肌で共有している。だからこそシジフォスは捜索に駆り出されることに不満を持たない。それはアテナがこの地上に在ることを感じ取っているからだと。

 

「でもお師匠。神官たちは」

 

 その肩に手を置いて、老人は「今は小宇宙のことに集中しなさい」とその先を言わせなかった。生意気な小ダンテは師の言葉に渋々従った。

 

 神官たちは女神を感じることができないから、教皇の言葉だけしか信じるよすががない。これは聖闘士とそうでない者の間で、どうしても分かち合えない点だった。

 

          ◇

 

 日が落ちると聖域は青々とした闇に包まれる。

 

 石造りの宿舎が建ち並ぶ居住区にも明かりが灯り始めた。宿舎内の大部屋では、聖闘士や雑兵たちが豆のスープとパンといういつもと同じ慎ましい食事を始めた。

 

 ところがこの夜、居住区の片隅に位置する神官たちの宿舎だけは様子が違った。

 

 惜しみなく灯された沢山の蝋燭が室内を昼のように明るく照らし、酒もふんだんに用意された。塩漬けオリーブ、各種のチーズ、ひよこ豆とゴマのペースト、チーズの包み揚げ、刻み野菜を葡萄の葉で包んだ蒸し焼き、ヨーグルトといった前菜を肴に、彼らは飲み始めた。

 

 いったい何の祝い事かと疑うような豪華さだったが、これは「たまには神官同士で親睦を深めたいので夕食を振る舞いたい」と、テオドシオスが個人的に用意させたものだった。

 

 彼は神官の中でも高位の役職にある。今の神官長が引退すれば後任候補の筆頭になるだろう。その面倒見の良さは教皇も知るところだった。

 

 招かれた一人、神官ハーミドは目も眩む思いだった。故郷ではこのような宴は婚礼くらいでしかお目にかかったことがなかった。聖域で特別な行事がある時よりも豪勢だ。

 

 羊の胃袋スープの後には、聖域では滅多に振る舞われない肉料理も運ばれてきた。この日のために羊をまるまる一頭潰したという。食卓代わりの長テーブルに着いた一同は、テオドシオスの心づくしを褒め称えた。

 

 燭台の火に、肉の炙り焼きがてらてらと脂を光らせる。それをハーミドがぼんやり眺めていると、隣の同僚に腹具合を心配されてしまった。

 

「いや、なに。こんな豪華な食事を全て自腹で振る舞われて、テオドシオス殿の懐は大丈夫なのかと気になってしまって」

 

 彼の心配を同僚は笑い飛ばした。

 

「あの人は実家が名家だそうですから、仕送りがあるのでしょう。私や向こうのアレクシオス、あとはマタイオスなどはよくテオ様にご馳走になりますが、いつも大盤振る舞いですよ」

 

「ご馳走と言っても、ここでの食事は」

 

 言いかけてハーミドは気がつく。旨い物を食べに聖域の外へ出かけるという手もある。いやいや、と同僚は手を顔の前で振った。

 

「外に行くのは些か面倒ですからな。あの人はこの棟の厨房に頼んで作らせるのですよ。ワインも取り寄せて貯蔵庫に入れて、若い者の話を聞いてやる時には飲ませてやるんだとか。マタイオスはそれで一発で参ったそうです」

 

「ほう」

 

 ハーミドは話題の人物のほうを眺めた。贅を尽くした食事をしていれば、肉も付くだろう。テオドシオスは大きな体を揺らして、両隣の神官たちと楽しそうに語らっていた。

 

「そう恨めしそうな顔で見ないであげて下さい。ハーミド殿は神官長派だから、テオ様も声を掛けにくかったんだと思いますよ」

 

「人を勝手に派閥分けしないで頂きたい」

 

 ハーミドが辺りを見渡すと、神官長の居心地が悪そうな顔が見えた。そして食事も早々に切り上げて帰ってしまったのも見た。

 

 そんなことには構わず酒は人々の間を回り、いつしか場の話題は教皇のことになった。いつの世も上司の悪口は最高の肴である。

 

「それにしてもご老体はいつまで星見の結果に拘っているのやら。アテナはまだ地上にあられない! それでいいではないですか。ねえ」

 

「そうだ、その通り。年寄りは頑固でいけない。誰か直接言ってあげないと」

 

「何と言うんです。いい加減諦めろと? 間違いだったと認めたら、女神の代理人として失格ってことになるんですよ。無理むり。認めるはずない」

 

「無理かあ。テオ殿が言ってくれたらなあ」

 

 酔っぱらいたちは遠慮無く教皇をこきおろした。小うるさい神官長がいないために、口も滑らかに動く。

 

「ところで思うんだがね。その間違い星見の頃、あの方は弟子と喧嘩してたっていうだろう。それが判断力を鈍らせる原因になったんじゃないかね」

 

「おっ鋭いね。私もそう思ってた」

 

「弟子取りなんて慣れないことをされるから。そうでしょう」

 

「あの子供にも問題があると思うが、ご老体の考えが甘かったな。なにせ一緒に暮らしているのだろう? 気持ちを切り替えられなくても仕方ない」

 

「老いらくの恋とはっきり言ったらいいじゃないですか。趣味は悪いが、どうせそういう手合いで拾ってきたに違いないんですから」

 

「いっそ教皇なんて引退して、弟子を育てるのに集中してもいい頃合いでしょうなあ。もう年も年ですし」

 

「おいくつなんですか、あの方」

 

「私も知らん。前の聖戦を経験してるっていうのは嘘にしても、相当な年でしょうよ」

 

「いつまでも今の地位にしがみついていないで、聖域のことを考えて後継者を定めてほしいところだな」

 

 宴会が果てると、主催者は全ての客人を順繰りに抱き締めて、またこうして夕食をご馳走させて欲しいと、旧友のように別れを惜しんだ。

 

 そして客が去った後の大部屋には主催者と、その親友であり右腕でもあるヨルゴスが残る。テオドシオスが呟いた。

 

「悲しいな。星見の内容が内容とはいえ、たった一度の誤りで神官は猊下への敬意を失ってしまった。皆この聖域の将来を不安に思っているようだな」

 

「神官長は皆の不満を抑えられるほど力はありませんし、仕方ないでしょう。おおかたの者はあなたに期待しているようです」

 

「やれやれ。荷が重いことだ」

 

 テオドシオスは溜息を吐いた。しかしそこに僅かながら喜びが滲んでいたのをヨルゴスは聞き取った。

 

「そろそろ始めますか?」

 

「そうだな」

 

 男たちの目は雑兵が片付けを始めた室内から、すでに別のものへと向けられていた。


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