【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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救憐唱(キリエ)――ハーミドの決心

 

 朝の潔癖な光が十二宮を照らす。

 

 神官テオドシオスは階段の途中で一休みしていた。太った体で一気に十二宮を踏破するというのは、なかなかに難しい。毎日のことなので、同僚たちも気に留めずに先に上がってしまった。

 

 汗を拭き拭き教皇宮のほうを仰ぎ見ると、一つの影が見えた。崖を駆ける鹿の身軽さで、階段を数段抜かしで下りてくる。

 

 朝から下りてくる者など決まっている。教皇の弟子だ。

 

 少年はテオドシオスより十数段上まで来た時に、大きく踏み切った。しなやかな体が宙を飛ぶ。見えない羽根を持つ者の奔放さ。

 

 ああ、と心の内に洩らす。少年の持っている若さも、小宇宙も、どちらも今の彼から遠かった。

 

 音を立てずに着地したマニゴルドは、朗らかに挨拶した。

 

「おはよう、テオドシオスさん」

 

「……ああ、おはよう」

 

「こんな所で何してんだよ。腹でも痛くなった?」

 

「なに、少し息が上がってしまったから休んでいただけだよ」

 

「ああ。デブだもんな」

 

 遠慮無く指摘されて、思わず彼は笑った。

 

「済まないが、この荷物を一緒に上まで運んでくれないか」

 

「いいけど、なんならあんたも一緒に担いでいこうか」

 

「それは遠慮しておこう。己の足で教皇宮まで辿り着けない者は引退しなければいけないからね」

 

 荷物持ちを連れて彼は階段を上り始めた。マニゴルドは渡された本を見て、これは何なのかと尋ねた。

 

「写本だよ。聖域には貴重な古書が多いが、紙の劣化はどうやっても防げないからこうして写しを取っておく。文殿に納める前に写字の誤字脱字を調べないとならないから、こうして上に持って行くのだよ。きみも下に文殿があるのは知っているだろう」

 

「ああ、あの陰気くさい書庫。っていうか写本なんて古くさいことしてないで印刷すればいいのに」

 

「印刷するほど大量に要らないからこれで良いのだそうだ」

 

 テオドシオスは単に荷物として運んでいるだけで、文書の管理はまた別の神官の担当である。細かいことはよく知らない。

 

「さっき階段を下りてる俺のことずっと変な顔で見てたけど、何か叱られるようなことしたっけ」

 

「変な顔?」聞き返してすぐ思い出した。しかし羨んでいたとは口が裂けても言いたくない。「あまりに身軽だったから感心してね。ヘルメスに何か借りたのかと思ったほどだ」

 

 ギリシャ神話では、英雄ペルセウスがメデューサを退治するにあたり、アテナから盾を、ヘルメスから翼のあるサンダルを、ハーデスから姿を隠せる兜を、それぞれ借りた。

 

 聖域にいる者にとっては常識だが、少年はサンダルではなく違う部分に注意がいったようだった。

 

「ヘルメスか」

 

「なにか引っかかる節でも?」

 

「テオドシオスさんは、ヘルメスがどういう神か知ってて言ってるのかよ。まあ知ってるか」

 

 ヘルメスはオリンポス十二神のなかでも、司るものがもっとも多岐にわたる。伝令、旅、商売、幸運、賭博、いかさま、策略、泥棒……。

 

「いちいち挙げてたらきりねえな。でも、泥棒の神様ってのがいいよな。ヘルメス軍ってのがあったら、俺はそっちに馳せ参じてもいい」

 

 少年は自分だけ納得して笑った。意味が分からないので神官は話を変えた。

 

「ところで修行のほうはどうだね」

 

「うーん」少年は唸った。聖闘士になるには全く関係のない雑用をさせられている、と口を尖らせる。「近くにいるから使い走りにしやすいとでも思ってるんじゃないの」

 

「それで伝令神が嫌なのか」

 

 教皇の使い走り、もとい弟子は軽く肩を竦めた。

 

 階段の尽きたところでテオドシオスは写本を返してもらった。

 

「ここまで運んでもらって助かったよ。道を引き返させてまで荷物を運んでもらった礼をしなくてはな」

 

「べつにいいよ」

 

 興味のなさそうなそぶりの少年を見下ろしながら、テオドシオスは肉に埋もれた顎を撫でる。

 

「そうだな、まだきみは聖域に来てから一度も外へ出ていないと聞いた。俗世が恋しかろう。少しだけ聖域の外に出てみないか」

 

「えっ」

 

 少年は驚いて振り向いた。

 

 マニゴルドは聖域を去りたければ勝手に去っていいと、セージから言い渡されていた。但しそれはセージの許を去る時だと自分で決めていたので、これまで聖域の結界を抜ける気が起きなかった。一時的に出歩くのもありだったのかと、その発想が今まで浮かばなかった己の間抜けさに驚いたのだ。

 

 しかし、さすがにテオドシオスにそこまでは伝わらない。単純に、外に出る機会が訪れたことに喜んだのだと受け取った。聖域の出入りが自由に許されている者は少ない。候補生はまず、ない。

 

「聖域の用事でロドリオ村へ行く神官がいたら、その者の従者として一緒に。どうだい」

 

 聖域は外部に存在を秘している隠れ里だが、近くのロドリオ村とは交流がある。元々は聖域で働く者が暮らしていた集落だったのが、いつしか普通の村となった所だ。だから現在でも村人は聖域住民の生活に協力している。彼らとの繋がりを保つために、教皇も稀に村を訪れることがあった。それほど聖域には身近な場所だ。

 

「でも……そういうのはお師匠に相談してみないと」

 

「猊下には秘密だ。というのも、神官の従者のふりをしてもらうのは、そうすれば番兵に気付かれず結界を抜けられるからだ。ただそういう抜け道を使うことに猊下は良い顔をされないだろう。だから秘密だ」

 

 黙り込んでしまった少年に、彼は優しく声を掛けた。

 

「大丈夫。せいぜい半日もかからない用事のときに誘うよ。猊下に相談でもしようものならこの話は潰れてしまうから、決して誰にも言ってはいけないぞ」

 

「……分かった」

 

 少年とはそこで別れ、男は教皇宮に出仕した。

 

 神官たちの詰める広間に入ったテオドシオスは、持ってきた写本を本来の担当者に渡した。恐縮する相手を笑って受け流したのは、なにも相手のためだけではない。教皇の弟子を本人に疑われずに外へ連れ出す口実が欲しかったのだ。

 

          ◇

 

 セージの見るところ、小宇宙を内面に向かって燃やすという修行は最初の段階を過ぎた。

 

「修行の成果か実感が欲しいとおまえが言うから、これまで知性の働きを高めた状態のときに知識を集中的に授けてきたな」

 

「小宇宙で詰め込み勉強させたって言えよ」

 

「それが真に身についたか、確かめてみよ」

 

 用意された資料に目を通して、弟子は眉をひそめた。そこにあったのは様々な書類だった。聖闘士の任務報告書。世界中の修行地への送金記録。聖域外からの収入を記した台帳。目録。それらを元に、前年度の年間収支を計算することが課題だった。聖闘士の修行からはほど遠い。

 

「何だよこれ。帳簿類って神官が管理してるやつだろ。持って来ちゃって大丈夫なのか」

 

「もう用済みの去年の記録だから問題ない。正解も私の手元にあるからちょうど良いだろう」

 

 帳簿をまとめた最終的な報告書、セージが言うところの正解である収支報告書は公文書として提出されている。書庫にしまわれていた過去の帳簿類をまとめてごっそり持ってきてもらったが、そのことで事務が滞ることはないはずだ。

 

 それなら仕方ないと弟子は渋々課題に取り組み始めた。

 

 そして数日かけて課題が仕上がった。小宇宙の使いかたを知らない状態のままだったら、帳簿の付けかたを覚えるだけで半年は掛かっただろう。本人もそれを感じているだけに、無駄なことをさせられたと文句を言うのを我慢していた。その代わりに別の不安を口にした。

 

「お師匠は俺を会計係かなにかにしたいわけ?」

 

「なりたければ止めはしないが、そういう意図はない。ああ、今たしか主計を司る神官が助手を必要としていたな。テオドシオスのところだが、手伝いに行くか?」

 

「やなこった」

 

 舌を出す弟子に苦笑し、セージは答合わせを始めた。

 

 マニゴルドの提出した収支計算は、教皇の手元の公文書の記載と合致した。それを告げると、弟子は少しだけ得意げに頬を緩めた。

 

「でもこれ、目録と台帳見て知ったんだけどさ、去年は石材とか木材とかやたらいっぱい仕入れてるんだよ。闘技場改修のためってことで。支払いも全額済んでるみたい」

 

「それがどうした」

 

 その年に何をどれだけ買ったかという細かいところまで教皇は把握していない。評議の場でその話題が出るか、書類が提出されるか、奏上されるかして初めて知ることになる。

 

 弟子は机に積んである書類の山から支払い台帳が引っ張り出し、その中の一ページを示した。確かに建材を買い、聖域外の商人に支払いを済ませたという記録があった。

 

「これな。どの闘技場を直すのかまだ決まってないんだったら、練習闘技場がいいな。西のもやばいって話だから、余裕があればそっちも」

 

「何を言っておる。どこを建て替えるか決めずに建材だけ仕入れるわけがなかろう」

 

「だけど普請しそうな様子の闘技場なんて全然ないぜ」

 

 セージの表情が自然と険しくなる。

 

 大量の建材を購入すれば、その置き場所は普請場の近くになるはずだ。支払いだけ済ませて現物の納入待ちという可能性もあるが、マニゴルドの示した支払い記録は、年度初めの頃のものだった。彫刻や絨毯のような手間の掛かる工芸品ではないのだから、いくら何でも丸一年経ってまだ現物が届かないということはないだろう。

 

「……マニゴルド」

 

「なんだよ、嘘は言ってねえぞ」

 

 支払額が多いわりにその内容に首を傾げるような例が他になかったかと尋ねる。しかし、判らないと弟子は答えた。建材購入の件は関心のあった闘技場のことだったから目に止まっただけで、ほとんどの支払いについては金額を追うだけだったという。

 

「では勘定の元となる報告書に立ち戻り、一件一件、怪しいところがないか精査しろ」

 

「怪しいって、どういうやつ」

 

 意図の伝わっていない様子なので、セージは噛んで含めるように言い直した。

 

「経費を隠れ蓑にして、聖域の財産を横流しした者がいるかもしれない。この建材の件のように、使い先を実際に確認できないものを探せ。とりあえず過去五年分で良い」

 

 弟子は呻いてぐったりと机に突っ伏した。

 

「俺なんかよりも神官に調べさせろよ。いるんだろ、そういうのに詳しいやつ」

 

「出納係は辞めた」

 

「え?」

 

「田舎に帰りたいと願い出て急に聖域を去ったのだ」

 

「判った」とマニゴルドは首だけ起こした。「そいつが犯人だ。ネコババがばれそうになったから逃げたんだ」

 

「とにかく頼むぞ」

 

 セージは弟子の頭をくしゃりと撫でた。子供扱いされるのを嫌がってマニゴルドは彼の手を払いのけた。

 

 

 出納係がいないことは、思わぬところにも影響を及ぼした。

 

 教皇と神官たちの評議の場で、出席者の一人が発言を求めた。テオドシオスだった。

 

「先日、我が部下が法衣を返上いたしました。まだそのお役目を引き継ぐ者がいないものですから、本日のための資料は私が用意いたしました。その際に気がついたことについて、この場を借りて申し上げたいことがございます」

 

 彼は立ち上がった。

 

「聖域の出費には、聖闘士の外部任務に掛かる経費がございます。額だけみれば食費や修繕費、修行地への送金より控えめですが、ここのところ無視できない額に膨らんでおります」

 

 この部屋で報告されるのは経費の総額だけだったので、その内訳までを把握している者はいなかった。金儲けに縁のない集団には、収支の帳尻さえ合っていれば良いというどんぶり勘定で十分だったからだ。

 

「外部任務が増えているということでしょうか」

 

「はい。しかも黄金聖闘士の出動が多いのです」

 

「任務であれば致しかたないでしょう」

 

「必要な任務であれば、そうでございましょうな」

 

 神官たちの会話に、セージはゆっくりと瞬きをした。テオドシオスが何を言わんとするのか予想できた。

 

「本来であれば十二宮を守るべき黄金聖闘士が聖域を離れるのは、聖域外に降臨されたという我らが主神をお迎えするためですが……、報告はいかがなものですかな」

 

と、太った神官は隣の同僚に問いかけた。聖闘士の任務に関する諸事を司るその神官は、教皇をちらりと窺ってから重い口を開いた。

 

「残念ながら、現時点ではまだ女神を見出すところまでは至っていないようです」

 

「さようですか。黄金聖闘士が動いても手がかりすら掴めずにいると。探索方も手を尽くしているようですが、一年近く経っても未だお目にかかれないとなると、女神が地上におわすという前提も改めるべきかと存じます」

 

「テオドシオスよ、決定したことに異を唱えるか」

 

 髭を震わせながら叱ったのは神官長だった。セージは軽く手を上げて問題発言を受け止めた。神官たちの間で教皇の星見についての信頼が揺らいでいることは自覚している。

 

「率直な意見は尊重したい。が、アテナ降臨についてはすでに論を尽くしたはずだ。ここにいる者も皆、私の方針に同意したのではなかったか」

 

「ええ、ええ。猊下の星見が正しかったと、我々も存じております。けれど、今一度まっさらな状態から捉え直すべきではないでしょうか。降臨されたのが聖域の外だったとしても、その方角さえ掴めなくては何も分からないのと同じ。知恵の女神がそのようなことを慮って下さらないのは、些か不思議でございます」

 

 あの時点で探索に幾月もかかると思っていた者がこの場にいたでしょうか、とテオドシオスは両手を左右に広げた。

 

「聞けば、星見に降臨の予兆が現れたころ猊下はお弟子様と諍いがおありだったとか。お心の揺れが観察に影響しなかったとは言い切れますまい」

 

「いい加減にせぬか。女神とその代理人に無礼であるぞ!」

 

「構わぬ」

 

 セージは神官長をやんわりと黙らせた。真っ向から教皇の決定に異を唱えた男を見つめる。相手もこのとき初めて教皇を向いた。

 

「つまりそなたは、金が掛かるから探索は打ち切れと、そう申したいのであろう」

 

「経費だけの問題ではございませんが、今年一年分の探索費があれば、修行地への送金を倍額にできたはずなのです。今は候補生の人数を絞ることで対応しておりますが、その枷がなくなります」

 

 探索に出る度に聖闘士が湯水のように金を使っているとは思えない。セージはそう反論したが、相手は退かなかった。

 

 それでも弟子の発見した建材の購入記録の件を、セージは持ち出さなかった。

 

 聖域の財産を横流しした者がいるという話をすれば、テオドシオスの主張――外部任務に金が掛かりすぎるという部分――も、ひとまず牽制できるだろう。どの経費が水増しされたものか調べなければならないからだ。さらには主計を司るテオドシオス自身の責任も追及できる。

 

 しかし、事を明らかにするにはまだ証拠が足りなかった。調べを終える前に証拠となる文書を隠されたり捏造されたら、元も子もない。そして神官たちが求めているのは金の使い道ではなく、アテナが未だに見つからないことへの答だ。

 

「猊下、どうかお認め下さい。女神は未だ地上には降臨されていないのです。アテナの代理人とはいえ猊下は人の身、誤られることもあるでしょう」

 

「星の読み違いではない。アテナはこの地上のいずこかにおわす」

 

 二人のやり取りを聞く周囲の者たちの間に、うんざりした空気が流れた。

 

 とにかく、とセージは押し切った。「この話を蒸し返す気はない。探索は女神を聖域にお迎えする日まで続く。良いな」

 

「では本日の評議はこれまでとする」

 

と、神官長が散会を宣言した。

 

 

 そのまま執務室に戻った教皇を追いかけるようにして、神官長も執務室を訪れた。セージは机の前の椅子を勧める。

 

「見上げ続けるのは首が凝るのでな。そなたもそこへ掛けるといい」

 

 神官長は遠慮無くそうした。ぎしりと椅子が軋んだ。

 

「猊下。このままではいけません」

 

と、彼は単刀直入に懸念を述べる。

 

「神官たちは猊下が星見を誤られたと思い、恐れ多くも女神の代理人たる猊下を侮るようになっております。しかもそれをテオドシオスめが煽っております。猊下の、ひいては女神のご威光が貶められかねない状況でございますぞ」

 

「そなたが抑えてはくれぬのか」

 

「私が対処できるのは教皇宮での振る舞いだけです。彼らの心の内までは変えられません。まして、その流れる先は」

 

 神官長は唇を舐めてから言葉を継ぐ。

 

「評議の場で彼が女神の捜索中止について意見を述べたのは、それに猊下が反対されるのを見越してのことでございます。先の見えない捜索が続くことに神官たちが倦厭し、女神の代理人としての猊下の正当性を疑うように。テオドシオスはそう仕向けているのです」

 

 その目的までは神官長は告げられなかった。しかしセージには伝わった。権威の失墜した教皇が、これまでのように権力を保ち続けていられるかどうか。そして求心力を高めた一人の神官が、どこまでそれに迫れるか。

 

 神官はどうやっても教皇の座には就けない。なぜなら教皇は黄金聖闘士の中から選ばれると決まっているからだ。しかし聖闘士の長である教皇になれなくても、聖域の統治者としての実権を奪い、教皇をお飾りにすることは神官にも可能だった。

 

 なるほど、とセージは相槌を打ち、机の上で手を組んだ。

 

「なかなか興味深いが、告げてくれたのがテオドシオスにその地位を脅かされつつある神官長だというのが、どうもな」

 

「わ、私が奴を陥れるために讒言したと?」

 

と、神官長は声と髭を振るわせた。

 

「私がこれまで猊下の下で何年勤めてきたとお思いですか。私の忠誠をお疑いになるのですか。猊下がお弟子を取ることに良い顔をしなかったことを未だにお恨みですか?」

 

「私が悪かった。ただの言葉の綾だ。落ち着け」

 

 太い溜息を吐いて、神官長は気を鎮めた。この髭の男とテオドシオスを比べれば、才覚では後者が優ると誰もが感じる。本人でさえも。

 

「そなたの言葉を裏付けるものはあるか?」

 

「……いいえ。私は蹴落とされる立場ですから。そのような男の前で彼らも下手な動きはいたしません」

 

 意趣返しのような、それでいて情けない返答にセージは薄く笑った。

 

「言葉だけでは教皇は動けぬよ」

 

 猊下、と神官長は顔をしかめた。

 

 外からひっそりと湿気が忍び込んできた。雨が降り出したな、とセージは思った。

 

          ◇

 

 神官ハーミドは「差し向かいで話がしたい」と持ちかけられ、テオドシオスの部屋に招かれた。いいワインがあるという言葉に釣られたのは否めないところだ。

 

「やあやあ、よく来てくれたハーミド殿。この前の夕食会では挨拶だけで終わってしまったからね。あなたのように思慮深い人とは一度じっくり話をしたかったのだよ」

 

「ここで?」

 

 寝台と小さな机・椅子を置けばそれでいっぱいになってしまうような小さな部屋は、修道院のそれと大差ない。幅のあるテオドシオスと一緒にいると、妙な圧迫感を感じてしまう。

 

 目を横へ移すと中央の窪んだ寝台が目に入る。それを覆うのは、擦り切れた敷布と、綻びの目立つ毛布。とても豪勢な酒宴を催すような男の寝床には見えなかった。

 

「狭くて申し訳ないが、他の者に話をあまり聞かれたくなくてね。たとえばさっきも言った夕食会、ああいう場では、なかなか込み入った話はしにくいだろう」

 

「神官長を招いたのはあなた自身だろうに」

 

 おまえの敵だからな、という本音をハーミドは声に滲ませた。テオドシオスも肩を竦める。

 

「まさか来るとは思わなかった。あの人は私のやることを奢侈(しゃし)だといって嫌がっているからね。私費なのだから大目に見てくれればいいものを」

 

 まったく堅物だ、と言って笑った。

 

「どうかな、ハーミド殿。私の宴は神官には過ぎた贅沢だったろうか。聖域を真に支えている我らが、聖闘士と同じような暮らしに甘んじなければならないだろうか。連中はただ身体を鍛えて教皇猊下の駒として働ければ満足だろうが、我々は聖域のことや世界中の聖闘士のことを考えて、いろいろと采配を振るわなければならない。いわば我らこそが聖域の頭で、聖闘士は手足だ。それにも関わらず連中は神官に敬意を払わない。せめて神官長が神官の待遇を良くすることに気を払っても、罰は当たらないと思うのだが」

 

 それは、とハーミドは言葉を探して口を閉ざした。聖闘士を侮る気風は、神官であれば多かれ少なかれ持っているものだった。もちろんハーミドも例外ではない。テオドシオスの言葉はその神官特有の思いを形にしたに過ぎない。けれど彼は同意するのを避けた。

 

「……それは、聖域の収入が聖闘士の働きに頼ったものであることを踏まえての考えかね」

 

 聖闘士が力を揮うことで利益を得た者が払う報賞が、聖域に入ってくることをハーミドは知っていた。しかしそんな反論を相手は一笑に付した。

 

「安定した収入源は人よりも土地だよ。しかしそれは今は置いておこう。聖闘士のものの考え方というのは、浮世離れしているところがある。神官が聖域の中心にどっしりと構えているからこそ、連中も暮らしのことを気にせず鍛錬に明け暮れていられるのだよ」

 

 ハーミドは黙ったまま、なんとなく手元のグラスを揺らす。

 

 彼の反応の鈍さに、テオドシオスは声の調子を変えた。

 

「私は聖闘士を蔑ろにしようというのではない。むしろ憂えているよ。今の猊下を戴いたままでは、聖域は傾いてしまうのではないかとね」

 

「なに?」ハーミドは眉をしかめたが、太った神官はあくまで真剣だった。

 

「ハーミド殿もアルスロス王の物語は知っているだろう。円卓の騎士だの、聖杯だの、王妃と騎士の密通だのの、あれだ」

 

 アーサー王伝説のことである。王宮に現れた聖杯の幻に魅了され、騎士たちは聖杯探索に出かける。長年の探索の末に聖杯を手に入れることには成功したが、騎士たちの多くは戻ってこなかった。円卓の騎士は瓦解し、やがて王国も滅びた。

 

「王が国を守りたければ、聖杯探索を許可すべきではなかった。探索に出かけたばかりに命を落とした者、消息を絶った者のなんと多いことか」

 

「ただの昔話だぞ、テオドシオス殿」

 

「そうだろうか。猊下は星見で女神の降臨を予期された。しかし降臨はなかった。その時点で誤りをお認めになれば良かったのだ。人の身であれば間違えることもある。なのにご自身の誤りを認めたくないばかりに、猊下は、女神は聖域外に降臨されたとして黄金聖闘士を探索に使われている。幻を追い求めておられる」

 

「誤りとも言い切れないだろう、……まだ」

 

「いいや。女神が真に地上におわすなら、その力を示して聖域にお入りになるだろう。こちらからお迎えに上がらなくても、御身の力でな。それが未だに為らないということは、女神降臨は今はまだ幻でしかない。その幻に惑わされたのは猊下お一人だ」

 

 ハーミドが黙っているので、テオドシオスは話を続けた。

 

「猊下は聖杯が見つかるまで探索を続けさせるだろう。聖闘士も猊下のご命令には背かないだろう。その結果、育成を後回しにされた聖闘士は使い潰されてしまう。本当に降臨されたとき、己の戦士が無意味な任務で磨り潰されたとご存じになったら、どれほど女神がお嘆きになることか。金だけの問題ではないことを猊下は判って下さらない」

 

 その声には焦りがあった。

 

「それであれば、評議の場で費用の件を持ち出すべきではなかったね。テオドシオス殿の主張したいことは金勘定なのかと思った」

 

「あれはどちらかと言えば同輩に対しての問題提起だ。猊下が目をお覚ましになるのを待っても無駄だと私は考えている。人は年を取ると頑固になるから」

 

 彼が何をしたいのか、ハーミドは気になったが尋ねなかった。聞けば否応なしに巻き込まれる予感があった。

 

「猊下にはご退位頂く」

 

 やはり聞かなければよかった。

 

「……なんと恐れ多いことを。正気か」

 

「正気だとも。今ならお弟子の育成という別のやりがいも見つけられたことだし、お寂しくはないだろう」

 

 ハーミドは深く息を吐いて、ワインを飲み干した。

 

「テオドシオス殿。その考えは酒の席であなたの仲間内に喋る分には聞き流してもらえるだろうが、なぜ私にまで打ち明けた。私はこのままあなたを、反逆のかどで神官長のところへ突き出すこともできるぞ。政敵が減って神官長は喜ぶだろう」

 

「私とて誰彼となく打ち明けているわけではないよ」

 

と、太った神官は首を振った。

 

「親しくても聖域を思う危機感まで理解してくれる者は少ない。けれどハーミド殿、あなたには共に聖域のために動いてほしいと思ったのだ。仲間にはあなたを説得するのは難しいと止められた。けれど私はどうしてもハーミド殿に同志になってもらいたかった。聡明なあなたなら、神官が教皇を動かすという事の重大さも判るだろう。あなたがいなければ聖域は立ちゆかない。どうか頼むよ。我が友」

 

 手を取られてもハーミドはそれを振り払えなかった。じわじわと毒に冒されるような心の熱が、そうさせなかった。それでも抵抗はしてみせる。

 

「聞くが、神官には女神の代理人を選ぶ権限はない。何をどうやって猊下の退位に持ち込もうと考えている? 血なまぐさいことはご免だ」

 

「そんな野蛮なことはしない。説得あるのみだよ。教皇位にしがみつくより後進へ譲るほうがいいとご理解頂く。その辺りは任せてくれ」

 

 人をおだてる陰で、テオドシオスは権力拡大を狙っている。新教皇を擁立するのも神官長の座を手に入れるためだ。自身の就任に助力してくれた者を遇しない者はいないだろう。そして経験不足の新教皇は聖域運営に長けた神官を必ず頼る。その時にこそ、テオドシオスが聖域を裏から支配することになる。

 

 そうと判っていてもハーミドは、神官の手で聖闘士の長を交替させるという計画に心を惹かれてしまった。聖域の歴史が始まって以来初めての出来事に、自分が関わる興奮。それには抗えなかった。

 

 神官が聖闘士に対して抱く感情は屈折している。

 

 聖闘士は小宇宙《コスモ》という、人の限界を超える奇跡の力を手にしている。それに引き替え、神官は肉体的にも精神的にもごく普通の人間に過ぎない。肉体労働の代わりに頭脳労働を行う雑兵とも言える。

 

 しかし神官にも誇りがあった。仕事場が教皇宮で、どの聖闘士よりも頂点に近いところで働いているということ。超人的な力はあっても現役時代の短い聖闘士より、年を取っても勤め続ける自分たちのほうが聖域を把握しているということ。戦時よりも平時のほうが圧倒的に長い聖域の歴史を次代に残していくのは、聖衣の記憶ではなく、自分たちが記す記録であること。

 

 それでもなお、神官は陰の存在である。華々しい活躍をする聖闘士を支えるためだけに彼らはいる。その神官が聖闘士の頂点に君臨する教皇位を左右できると聞けば、心動かされない者はいない。

 

「……わかった」 

 

 ハーミドはとうとう折れた。

 

「ありがとう」

 

 もう一度力強くハーミドの手を握ると、テオドシオスは身を離した。瓶を片手に「もう一杯いかがかな」と尋ねる。

 

「頂こう」

 

 グラスに注がれる淡い黄色が、ふんわりと芳香をふりまいた。

 

「ところで次の教皇のあてはあるのか」

 

「もちろん。若手期待の星、射手座だ」

 

「なるほど。しかし彼は任務で外を飛び回っている。よく説得する暇があったな。それともこれからか」

 

「前任者の署名さえあれば本人の同意など必要なかろうよ。下手に説得など仕掛けて、猊下に密告されては困る。外にいる間にこちらで全てを終わらせ、帰還した足で玉座まで一直線に進んでもらうのが理想の段取りだ」

 

 射手座の若者は担がれることをまだ知らない。知らせる必要もないだろうと神官たちは考えていた。

 

 そういえば彼がそろそろ聖域に戻ってくる時期であるのを思い出して、ハーミドは決起の日が近いのかと尋ねた。

 

「いやいや。まだこちらも足場を固めたいし、同志も増やしたい」

 

 頃合いは状況を見て決めたいとテオドシオスは言う。しかし明かさないだけで、すでに計画は動いているだろうとハーミドは見てとった。

 

 部屋を出た足で、ハーミドは外の空気を吸いに表へ向かった。頬の火照りが夜気に冷やされる。その熱はワインのためだけではなかった。

 

「アテナよ、お許し下さい。長い目で見れば聖域のためになることなのです」

 

 男の声は夜空に溶けた。

 


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