【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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続唱(セクエンツィア)――セージの退位

 

 マニゴルドは屋外で空を見上げていた。

 

 師が星見を行うというので、いつものように従者の代わりにスターヒルの麓まで付いてきたのだ。

 

 明るい星の少ない秋空の中で簡単に見つかるのが、秋の四辺形を持つ天馬星座《ペガサス》。聖闘士にとっては特別な役回りの星座であり、まだその称号を授かるべき者は現れていない。四辺形を成すのは、マルカブ、シェアト、アルフェラッツ、アルゲニブ。

 

 教えられた星を辿り、マニゴルドは深々と息を吐いた。修行という名目で師から与えられた雑用のせいで、どうにも気が散ってしまう。

 

 その雑用をこなす前から神官の派閥争いがあることは知っていた。一つは、教皇の下で日々を平穏に務めれば良しとする神官長派。もう一つは、神官が聖域を導いていくことに熱を上げるテオドシオス派。陳腐だが、保守派と改革派とも言い換えられるだろう。

 

 マニゴルドが二つの派閥を知った時には、前者が優勢だった。ところが今や形勢は後者に傾きつつある。中立を気取る日和見派がそちらに流れ込んだからだ。狭い世界で何をやっているのかと彼は呆れたが、人の集団に派閥抗争は付き物だと師は笑っていた。

 

「ま、俺があれこれ考えたってしょうがねえか」

 

 その時、何かの気配が伝わってきた。方角は闘技場や居住区のある中心部ではなく、聖域の外れに近かった。

 

 遺跡の一角でも崩れたのだろうと思おうとして、悩んだ。宿舎からは遠く、今の音には誰も気がつかなかったかも知れない。マニゴルドが気づいたのも、小宇宙を高めて感覚が鋭くなっているからこそかも知れない。もし誰かがそこにいたら。敵の侵入だったら。

 

 星見が始まったばかりで、師も当分は下りて来ない。彼は邪魔なカンテラを置いて気配の正体を探りに行った。

 

 気配の主は建物の陰にいるようだった。息を殺してこっそり回り込むと、居た。

 

 青い闇の中で格闘の訓練をする人影があった。

 

 夜まで修行とは熱心な馬鹿だと思いながら、物陰から眺めやる。構えや動きには見覚えがあったし、夜に自主訓練をすると本人から聞いたこともある。つまりマニゴルドの視線の先にいる人影はアスプロスに特徴が似ていた。後ろを向いているが、背格好も。

 

 しかし本人ではない。それは断言できる。セージの影武者を務めたハクレイを見破ったように、彼にとっては自明の理だった。

 

(ってことは誰だよ)

 

 声がして人影はそちらを向いた。振り向きざまに見えた横顔は覆面のせいで人相が判らない。ずいぶんと浅黒い肌をしているとマニゴルドは感じた。

 

 やって来たのは本物のアスプロスで、彼は小走りに人影のもとへ駆け寄った。さりげなく人影は足元の地面を均した。

 

「探し回ったぞ。見つかったらどうするんだ」と、アスプロスは人影の肩を叩いた。候補生仲間の誰に見せるよりも親しげだった。

 

「ごめん」覆面の人物はくぐもった声で謝った。

 

「しょうがない奴だな。出歩いたのが知れたらまた殴られる。さあ、帰ろう」

 

 アスプロスは相手の肩を抱いて去っていった。二人が去った後には、夜の静けさが戻ってきた。

 

 一部始終を眺めていたマニゴルドは物陰から出た。覆面の人物が激しく動き回っていた所は地面が削れていた。アスプロスと同じくらい小気味良い動きができる候補生というと、聖域内でもかなり限られるし、顔も知られている。しかし覆面をしてまで夜に訓練をするような人物は思い当たらなかった。

 

 あ、と少年は声を上げた。マニゴルドが人の命を奪うところを見たのは、表に出ることを禁じられた人間だとアスプロスは言っていた。出歩いたのが知られると誰かに殴られるという今の覆面の人物こそが、それに違いない。アスプロスにとってはかなり親しい間柄のようだったから話しぶりとも一致する。

 

 彼は納得し、スターヒルの麓に戻って師の帰りを待った。

 

          ◇

 

 別の日の夜。人目のない時間を狙って、教皇の私的な書斎を一人の神官が訪れた。

 

 彼は教皇の命で問題の支払い記録について内密に調べていた。セージがマニゴルドに与えた課題の帳簿類も、この男に用意させたものだ。

 

 これまでセージはできるだけ調べに関わる人間を絞ってきた。できれば自分一人で調べを進めたかったほどである。決定的な証拠を掴むまで、横領の件を調べていると犯人に勘付かれずにいたかった。相手は聖域の事務方を預かる神官。疑われていると感じれば、すぐにでも尻尾切りなり証拠隠滅なりして、身の安全を図るだろう。この辺りが、愚直に身の潔白を訴えることを初手とする聖闘士との違いだ。

 

「記録自体については偽造など不審な点はございませんでした。支払いの相手方は、これまでにも聖域と取引のあるツィメント商会の名前でした。金庫からの出金も日付通りに間違いなく行われており、台帳の締め日には出納係とは別の者が勘定の帳尻が合っていたことを確認しております。出金までは記録通りだったとみて良いでしょう」

 

 セージは手の中で松笠を弄びながら報告を聞いた。この松笠は聖域を歩き回っている時にマニゴルドが拾ったという。なんでも本人に言わせれば「土産」だそうだ。

 

 そのマニゴルドはというと、眠そうな顔で同室していた。これまでの流れを整理してみろとセージが水を向けると、瞬きを繰り返してから答えた。

 

「えっと……、闘技場を直すために建材を買ったっていう去年の記録があって神官たちはそれで良しとしてたけど、今も闘技場はぼろいままだって俺が言ったから、それじゃ買った物はどこに行ったって話になって、お師匠が俺をこき使って調べてみた。そしたら普請の予定なんか誰も知らないし、聖域にそれっぽい物もないのが分かって、でも支払いだけはちゃんと記録通りに済ませてると。そんな支払い記録が一件だけじゃなくてちょこちょこあったのは俺の調べで間違いなし」

 

「つまり、どういうことになる」

 

 一声唸ってから弟子は続けた。「逃げた出納係はめちゃくちゃ大金をネコババしてた。それがバレそうになって慌ててとんずらした。そんな感じじゃねえの。取引相手に騙されて金だけ持って行かれたっていうのは無さそうだしさ。一回だけの大ポカならいきなり逃げたりはしないだろ」

 

「概ねそのあたりであろうな。出納係は自身の仕事について何も引き継ぎをせずに急に辞めてしまった」

 

 セージは神官のほうを見た。

 

「ダビドよ。そなたは何か聞いておるか」

 

「いいえ猊下。何も」

 

 正確には、男は辞める前日に何事かを教皇に告げようとしていた。ちなみにその用件は引退願いだったと、教皇に代わって男の話を聞いたテオドシオスは報告している。

 

「支払いも含め、建材を買い入れた時の取引はどこで行ったか判るか」

 

「記録ではロドリオ村となっております。俗世と接点を持つ際にはあの村を使いますので、これも不自然ではございません。ただし実際のところは判りかねます。金を支払いに行ったのは出納係のようです」

 

「取引に同行した者は」

 

「外出記録によれば、神官は出納係の一人のみ。護衛として聖闘士が一人ついておりました。この者にはまだ確認を取っておりません。私から聖闘士に接触するのは目立ってしまうので、どうしても……」

 

「よい。そこはマニゴルドに任せる。取引の場に現れた者の情報も手に入れば助かるな」

 

 弟子は首を竦め、確認したところで判明するのは取引場所だけではないかと反論した。

 

「ただの用心棒は、相手が本物の石屋かどうかなんて覚えてないと思うけどな。聞くだけ聞いてみるけどよ」

 

「手間を掛けるな、マニゴルド殿。私がロドリオ村まで行って調べられれば良いのだが、そうもいかなくて」

 

「ん、……まあ。べつに」少年は身じろいで、目を逸らした。

 

「そなたが謝ることはない。あまり下のほうにこの件を知られて、聖闘士と神官の間に溝を作りたくないだけだから」

 

「猊下のお心遣いには痛み入ります」

 

と神官は頭を下げる。

 

「私が考えますに、ここまでくれば出納係を探しだして聖域へ連れ戻すべきでしょう。横領の犯人ならばそのまま罰を与えることもできます」

 

「えっ。犯人ならば、ってそれしかねえだろ」と少年は驚いた。

 

「最も疑わしい人物ではあるが、誰かに脅されて行った可能性もある。あるいは揉み消しをさせられたということも。そのときは処罰を与えるなら黒幕の名を吐かせてからだ」と神官が説明する。

 

「ふーん。誰が連れ戻しに行くんだよ」

 

「雑兵で十分でしょう」

 

 セージも同意見だったので、次の話題に移った。

 

「ところで神官の派閥争いのほうはどうなっておる」

 

「髭が静観しているのをいいことに、恰幅の良いほうが着々と取り巻きを増やしているようですな」テオドシオスは以前に神官全員を招いて酒宴を催したことがあった。そこで己の財力を誇示した後、これはと思う者から一本釣りしていったようだ、とその神官は説明した。

 

「ということは餌は金か」

 

「相手によって変えているようです。自身が神官長となった後の人事やら、聖域の理想やら、暮らし向きの改善やら。一言で表すなら餌は『薔薇色の夢』ですな」

 

 うんざりする弟子とは対照的にセージは笑った。聖域とは呼ばれていても、そこに暮らすのは希望も嫉妬も人並に抱えた人間である。

 

「何かを相談・報告するにしても、神官長ではなく彼のところに行く者の多いこと多いこと。髭の神官長はただのお飾りで、もはやテオドシオスが神官長であるかのような有様です」

 

「彼が神官長になれば私もお飾りの教皇になりそうだ」

 

「笑い事ではありませんぞ、猊下」

 

「そうだな。済まぬ」神官の生真面目な忠告に対して、セージはせいぜい相槌を打つ程度の気分で応えた。

 

「もしかしてお師匠、いざとなったら自分に歯向かう神官は全取っ替えすればいいとか考えてるんだろ」

 

「まさか」

 

 一人前の仕事が出来る神官を育てるにも時間が要る。そんな問題事まで背負い込みたくはなかった。

 

「それじゃ何でそんなに平気そうなんだ」と弟子が問う。

 

「私もお聞きしたい」と神官も口を添える。

 

 セージは微笑み、松笠を置いた。笠の開いたそれは机の端に飾ると丁度良かった。

 

「教皇には、問答無用で他人に言うことを聞かせる手段があるのだ。それを使えば相手が聖闘士だろうが神官だろうが、私の意に背くことはできなくなる。少々荒っぽい手だから、使わずに済めばそれに越したことはないがな」

 

「何でございますか、それは」

 

「言わぬよ。使う気もない」

 

「勿体ぶりやがって。使う気がないなら無いのと同じじゃねえか」

 

 二人には問い詰められたが、セージは明かさなかった。荒技を使わなくても事は解決するだろうと考えていた。

 

 

 神官が夜陰に紛れて去った後、セージはしばらく今後のことを考えていた。それを邪魔しないように、弟子も離れた所で大人しく教皇兜を磨いている。

 

「のう、マニゴルド」

 

 顔を上げた弟子のほうではなく、彼の目は机上の灯りに向けられたままだ。口にした問いも、半ば独り言であった。

 

「テオドシオスは神官長になるだけが目的だろうか」

 

「へっ? ……あ、神官長になってから何がしたいかってことか。あいつデブだから、十二宮の階段上らなくても麓で仕事できるようにしたいんじゃねえの」

 

 セージは問いの意味を訂正する労を惜しんだ。口を閉ざした彼には、無視かよ、と弟子が頬を膨らませたのも目に入らなかった。

 

 セージの気がかりは、テオドシオスが女神の降臨に関する星見のことを取り上げて教皇を非難しだしたことだ。神官長の地位を求めるだけなら、むしろ教皇に取り入り、自分を任命させるように動くはずだ。しかしセージの方針に反対する時点で、教皇の好意を得ようとは思っていないだろう。

 

 好意や信頼を当てにしなくても、教皇が神官長に指名せざるを得ないような隠し玉を持っているのか。たとえば神官たちの人望がそれに当たる可能性がある。

 

 あるいは神官長の人事に教皇が関われなくするような方法を見つけたのか。膨大な文書から前例を探し出すのは神官の得意技だ。

 

 それとも教皇以上の後ろ盾を得たのか。

 

 彼はそこまで考えて、なんとなく弟子の手元を見やった。鈍く光を反射する教皇兜。それを眺めるうちに唐突に彼は気がついた。教皇位がセージのものでなくなれば、テオドシオスにとっての問題がいくつか解決することに。

 

 老人が玉座から去れば、そこを継ぐ者が現れる。テオドシオスはその者から神官長に指名されればいい。その時期を早めるために評議で女神捜索の中止を申し立ててセージに反対させ、彼が依怙地になった老害だという印象を周囲に植え付けて孤立させ――。

 

(いや、それでは悠長すぎる)

 

 彼は大きく息を吐き、考え直した。

 

 評議の場でのテオドシオスの言動は、むしろ女神の代理人としての資格がないと弾劾してセージを玉座から追い出すための前振りとみたほうがいいだろう。女神降臨の件でセージの正当性が疑われているとは、神官長にも以前指摘されたことだ。

 

(つまり、今は事を起こす好機を待っている段階か)

 

 この時点でセージにはその考えを裏付ける材料はない。ただの杞憂という可能性もあることを自覚していた。しかしこれまでの働きぶりからみて、テオドシオスにそれだけの行動を起こす熱意と才覚があることを、彼は知っていた。そんな相手から事の主導権を取り返すには、先んじて行動を起こすべきだった。

 

 まずは掣肘のきっかけが欲しい。

 

(となるとやはり出納係が要る)

 

 直接の上役であるテオドシオスの責任を追及するための仕掛けとして、横領に関わったはずの彼の身柄を確保する。それにはまず彼を連れ戻す者が必要だが、その人選の重要度が上がった。下手な者に頼むと、テオドシオス一派にこちらの意図を勘付かれる恐れもある。あまり多くの者を巻き込みたくないし、誰が神官と繋がっているか判らない。とくに普段から聖域にいる者たちはいつ神官と接触してもおかしくない。では逆に日常的に俗世にいる者は。

 

(シジフォスは保留だな)

 

 次の教皇になりうる者をセージは手駒から外した。野望家の神官を唆して、陰からセージを廃しようとした張本人である可能性――とまではいかなくても、本人の知らないところでテオドシオスの駒にされていることは考えられる。黄金聖闘士たちの忠誠心を疑ってはいないが、可能性を無視する気はなかった。

 

 彼は弟子を呼んだ。

 

「しばらくの間ジャミールに行ってきてくれ」

 

「また厄介払い? って冗談だってば」セージの機嫌の変化を察してマニゴルドは慌てて手を振る。「でも当分俺はここを離れないほうがいいと思う。だってお師匠がこの件で使える駒って限られてるんだろう。なのに俺が遠くに行ったら、調べ物だって自分でやるしかなくなるぜ。ロドリオ村のほうだって調べてないのに、どうすんだよ」

 

「だからその調べ物をしてきてほしいのだ。ジャミールに行くように装って市井から例の元出納係を探しだし、ここに連れてきてほしい」

 

 セージにとってはそれが最も安全な方法に思えた。

 

 しかし悪童にとっては突拍子もない指示に思えた。

 

「ちょっとちょっとお師匠。聖域ではともかく世間的には俺まだ小僧としてしか見られないからな。相手がどこに住んでるのか知らねえけど、人捜しってことは街の連中と接触するってことだ。もう少し信用できそうな見た目の奴を使ったほうがいいと思うぜ。多分そのほうが時間が掛からない」

 

「大丈夫だ。おまえはもう浮浪児には見えない」

 

 嫌そうに舌打ちする悪童を見て、セージは首を傾げた。どうにも首を縦に振りたがらない様子には、何か理由があるのだろうか。

 

「……理由ってほどはっきりしてるわけじゃないんだ。でも、もうすぐ何か起きそうな気がする。聖域の外にいる時にそれが起きたら、俺はお師匠を恨むからな」

 

 嵐の予感。実は同じ感覚をセージ自身も抱いていた。常に微量に燃やしている小宇宙の影響で、予見の力が働いたのだろうと彼は考えていた。それは状況をふまえて判断した無意識の囁きであり、根拠のないただの勘とは違う。

 

「もうすぐ何かが起きそうだからこそ、おまえには聖域を離れてほしかったのだがな」

 

 セージは弟子の身を案じて聖域から遠ざけようとした。

 

 マニゴルドは不測の事態の時に師の側にいたかった。

 

 そして折れたのは師のほうだった。

 

          ◇

 

 ある日、教皇宮を守る番兵は若い叫び声を聞いた。

 

 声の聞こえた方向へ急行すると、日の届かぬ廊下の暗がりで揉み合う二つの人影が見えた。法衣姿の男が誰かに覆い被さっている。小柄な相手はばたつかせている足しか見えなかった。

 

「何をしている!」

 

 一人がもう一人の首を絞めていると判ったのは、彼らの横に割って入った時だった。争いの当事者を知って、番兵は絶句した。

 

 己の首に掛かった手を外そうと、苦しげにもがいているのは教皇の弟子だった。そして彼を縊ろうとしているのは、あろうことか神官長だった。番兵によって両手をはがされた神官長は、青ざめた顔で被害者を見下ろしていた。

 

「大丈夫か」

 

 番兵はうずくまって咳きこむ少年の背をさすった。少年はどうにか頷き、神官長を見上げた。彼と目があった瞬間、神官長ははっと我に返り、「おまえのせいで!」と震える指を彼に突きつけた。

 

 番兵は神官長の腕を下ろさせた。

 

「猊下のご判断を仰ぎましょう。一緒においで願えますか」

 

 二人の立場を考えると、さすがに見ぬふりはできない。番兵はあとの処分を教皇に任せることにした。そして少年を振り返り、急ぎの用がなければ自室に帰るように言った。追って教皇から事情を聞かれるかも知れないからと伝えると、少年も了解した。

 

 番兵は悄れた神官長を促して歩き出した。周りには騒ぎを聞きつけた神官たちが集まりだしていた。

 

 教皇は番兵の報告を聞いてその場で処分を下した。神官長は聖域から追放された。

 

 この一連の出来事に快哉を叫んだのは、神官長代理に指名されたテオドシオスである。神官の総意を後ろ盾に教皇セージを退位させるという計画の最大の障害が、髭の神官長だった。長くセージの下で勤めてきた男が、強引な教皇交替に賛同するはずはない。彼がテオドシオスのやり方を弾劾すれば、それに動揺し、離反しかねない神官も多い。だからこそ彼の影響力を下げるために神官長派の切り崩しを図ってきた。そして彼は追い詰められ血迷った揚げ句に、教皇の弟子に手を掛けようとしたという。教皇の怒りと処分は当然のものだったが、テオドシオスにとってはそれ以上だった。教皇は自ら味方を切り捨ててしまったのだ。

 

 テオドシオスは実行を前倒しすることにした。実質的な神官の長となって自分だけ満足してしまうのではないかと疑う者たちに応えるために、行動で示す必要もあった。

 

「聖域の未来のために」

 

 決起の前夜、彼らは声に出して誓い合った。

 

 

 そして神官長代理の権限で評議が開かれ、一同は質素な部屋に教皇を迎えた。

 

 些細な報告を二件終えると、部屋は静まりかえった。広くもない部屋に帯電した沈黙が満ちる。

 

 テオドシオスがゆっくりと立ち上がった。他の神官もそれを合図に次々に席を立った。そして彼らは神官セージに対峙した。その異様な雰囲気に、座したままの教皇は優雅に首を傾げた。

 

「どうしたのだ、そなたたち。今日はもう散会か」

 

「いいえ、猊下。評議はまだ終わっておりません。ここで我らの意志をお伝えいたします。評議に参加していない者も含めて、我々神官一同は、新たな女神の代理人を仰ぐことを望んでおります。どうぞ猊下の後を継がれる方に、その兜と玉座をお譲り下さいますよう」

 

 部屋で椅子に座ったままでいるのは教皇だけだった。神官長がいた頃はテオドシオスに賛同しなかった者たちも、今は流れに抗わずに彼の側に付いている。神官全員が敵に回ったことを悟り、教皇は溜息を吐いた。

 

「そなたはもう少し上手く立ち回ると思っておった。まさかこのような愚かな真似をしでかすとは思いもせなんだ」

 

「苦渋の判断だったのです。ご理解下さいとは申しませんが、聖域の将来のため、どうぞお容れ下さい」

 

 セージは小さく笑った。

 

「老いたりとは言えかつては黄金聖闘士であったこの私を、力づくで押さえつけられるとでも?」

 

 鎌が煌めくようなその笑みに背筋を冷やした者もいた。しかしテオドシオスは臆した様子を見せなかった。

 

「力尽くではございません。理を尽くしております」

 

「ならば私を玉座から引きずり下ろしたい理由を聞こう」

 

 テオドシオスは述べた。ありもしない女神降臨に固執するのは老人の妄執に過ぎないと。仮に星見で降臨を読み取ったとしても、それが実現しない以上は女神に見放されたのだと。聖闘士を使って行うべきは幻を追い求めることではなく、次の世代の育成であることだと。

 

 言葉こそ激しかったが、概ね評議の度に主張してきたことの繰り返しだった。そして彼は、

 

「これまで何度かお諫めして参りましたが、猊下はお聞き入れ下さらなかった。ですから我々は次に期待することにいたしました。これは澱んだ聖域に新しい風を入れるための第一歩です」

 

と結んだ。

 

 セージは素っ気なく指摘する。

 

「聖域思いの麗しい大義だが、大きな思い違いがあるぞ。女神降臨の真偽を判断するのはそなたの役目ではない」

 

 それです、とそれまで黙っていた別の神官が口を挟んだ。「この押し問答に我々は飽きたのです」

 

「…………そうか」

 

 セージは一度目を閉じ、再び開けて目の前に居並ぶ神官たちの顔を順繰りに眺めた。その厳しい視線を受けた反応は様々だった。真っ直ぐに見返す者。気まずそうに目を逸らす者。最初から目を合わそうとしない者。

 

 部屋の空気が妙になりかけたことに気づき、テオドシオスは「論点を変えましょう」と声を上げた。

 

「なぜ猊下は教皇位にこだわられるのですか。もしや降臨を宣言された以上、アテナをお迎えする前に退位しては示しが付かないとお考えですか」

 

「それは否定しない」

 

「恐れ多くも、女神の降臨は聖戦が近いことを告げる烽火と言われておりますな」

 

 そこから来たる日に備えて戦力を整える猶予は十年から二十年。不思議なことに、その期間には小宇宙を体得して聖闘士となる若者が多くなる。地上に降りた女神を追いかけて空から星座が下りてくるように。そうして聖戦が近づくにつれ、聖闘士という戦力は充実していくのだ。

 

 教皇の役目も、平時の統治者からアテナの軍勢を指揮する者へと切り替わる。そこで女神降臨から数年のうちに、教皇位を若い黄金聖闘士へ譲る前例が多く見受けられた。それは女神軍の大将に、判断力と統率力を十分に身に付けた年代で聖戦を迎えさせようという意図によるものだ。

 

「猊下の星見通りにアテナが降臨されたなら、きっと今頃は次代へ譲位されることをお考えになっていたかと存じますが、いかがですか」

 

「否。まだ早い」

 

「ではいつならよろしいと?」

 

 セージは一瞬だけ黙ったようにみえたが、すぐに「機が熟し、人が熟した時だ」と答えた。

 

「それが今でございますよ。アテナがすでに地上におわすならば、その降臨の夜をもって猊下は立派にお役目を遂げられました。アテナが聖域に入られるまで在位なさりたいというお気持ちは判ります。けれど、もしアテナがこの地へお戻りになる日が聖戦の直前であったらどうなさるおつもりですか。それまで玉座を誰にも譲られないのですか? それより先に聖域の体制を万全にしておくべきとは思われませんか」

 

 そもそもアテナはまだ降臨していないという前提でテオドシオスは動いている。だから彼が喋っているのはただの詭弁に過ぎなかった。老人にも受け入れやすい言葉を選んでいるだけだ。

 

「アテナをお迎えしたいというのは猊下のお心です。しかし教皇は聖闘士全体のことを最優先で考えなければなりません。猊下はこれまで十分に聖闘士を導かれ、アテナに尽くされてきました。どうかこの辺りで後進にお譲り下さい。猊下が育てた立派な若者たちが、これからは猊下のご意志を継いで参ります。どうかそれを見守って下さいますようお願い申し上げます」

 

 お願いいたします、と神官たちも口々に言う。

 

 悪童が見れば「先にボロクソ貶したくせに今更ヨイショかよ」とへそを曲げそうな流れだった。

 

 教皇は唇を引き結んだ。

 

 テオドシオスの斜め横ではその片腕のヨルゴスが、頑固な老人に苛立っている。

 

「ここまでお話ししてもまだご決心が付きませんか。では、あまり気が進みませんが別の事実をお伝えしましょう」

 

「止せ」とテオドシオスがたしなめた。

 

「いいえ言います。ある候補生が今は聖域の外に出ております。その少年が無事に聖域に帰ってこれるかどうかは、師匠にあたる方のお心がけ次第でございましょう」

 

「なに」教皇の眼光が険しくなった。

 

「人質など卑怯な手は使いたくないとテオドシオス殿は反対したのです。その気持ちを汲み取っては下さいませんか」

 

 嘘である。「ロドリオ村へ行く」という誘い文句で神官がマニゴルドを連れ出したのは事実だが、それを指示したのはテオドシオスだった。

 

 神官長(もはやその頭に「元」を冠すべきか)の狼藉も記憶に新しいうちに弟子を使った脅しを掛けることには、同志から心配の声もあった。教皇を刺激しすぎて、却って強硬な反発を食らうことを恐れたのだ。しかし処分の速さからみるに、教皇の弱点が弟子だということは間違いなかった。ならば利用しない手はないというのがテオドシオスの考えだ。人質になりうるのは聖域住人や世界各地の聖闘士も同じだが、神官の手に余る。

 

「卑怯者と誹られても構いませんが、お弟子の身が取引の材料とされることは、セージ様が教皇であられる限り予測できた事態でございましょう。しかし逆にお考え下さい。退位なされば誰に気兼ねすることなくお弟子との時間が手に入るのですよ。後のことは若い者に任せて、ご余生をゆっくりとお過ごし下さい」

 

「どうかご賢察を。猊下」

 

 部屋には再び沈黙が下りた。

 

 やがてその沈黙を教皇が破った。

 

「……しかしそなたらの首謀者の望みは神官長になるという個人的なものであろう。私が退位するならテオドシオスも引退して聖域を去るのが条件だ、と言ったら」彼は神官たちを見やり、「皆はどうする?」と投げかけた。

 

 テオドシオスは神官の誰よりも前に立っている。その目が動揺したのを見ることができたのは、対峙している教皇だけだった。しかし同志のおかげで、その動揺もすぐに治まった。

 

「猊下と共に教皇宮を去るのはテオ殿ではありません。髭の神官長だけで十分です。テオ殿にはこれからの聖域を導く理念があります!」

 

 そうだそうだ、と数人が同意した。

 

「私は星見を誤ったとは考えていない」

 

と、セージは軽く溜息を吐き、組んでいた手を解いた。それを降参の仕草と見て一人が動いた。机上に用意されていた書類とペン立てが教皇の前に押し出された。

 

「それでは猊下、譲位にご同意頂けますな」

 

 後継者としてシジフォスの名がすでに記してあった。老人がそこに署名をすれば、退位を認めたことになる。その期待で神官たちの面はうっすらと紅潮していた。ところがセージはゆっくりと文面に目を通すと、署名することなく書類を裏返してしまった。

 

「この期に及んでお見苦しい抵抗をなさいますか。今すぐご決断ができないというのであれば、その間、お弟子はこちらでお世話をいたします。聖闘士をお弟子の傍に付けますから、訓練中の事故や食中毒が起きたとしても、安心でございますよ。お弟子も強くなられたとはいえ、話を聞く限り称号持ちの聖闘士に太刀打ちできるほどではない様子。愛弟子の元気な顔をまた見たいとお望みなら、そちらに署名を」

 

と、ヨルゴスが畳みかける。

 

 教皇は苦々しげに首を振り、それでもペンを取ろうとはしなかった。「あれの無事な顔を見た時に署名しよう」

 

ヨルゴスは困り顔で親友に目をやった。テオドシオスは仕方ないという風に頷いた。

 

 彼らが教皇に対する切り札でその弟子を人質に取ったのと同じく、教皇は書類へ署名することを自らの手札として確保したのだ。言い換えれば、老人には他に対抗する手段がないということになる。たとえば何らかの方法でこの部屋に聖闘士を呼び出し、神官全員を圧倒的な力で制圧するような手に出られれば、テオドシオスには対処のしようがなかった。

 

 それを考えると、弟子の無事と引き替えに玉座を明け渡してくれることは十分な成果だった。

 

「ご理解頂き感謝いたします」

 

 テオドシオスは恭しく頭を垂れた。その背後に居並ぶ者たちも彼に倣った。教皇は席を立ち、部屋を出た。その立ち居振る舞いはいつもと同じ、静かで雅なものだった。

 

 だから神官たちは想像しなかっただろう。玉座を追われ、部屋に押し込められる老人が、兜の下で猛々しい笑みを浮かべていたことに。

 


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