嫌なことがあったばかりだし、ロドリオ村で気晴らしをしてくるといい。
テオドシオスはそう言ってマニゴルドとの約束を果たした。聖闘士の世界では、一度取り決めたことは口約束でさえも決して容易に破られるものではない。それは聖闘士と雑兵の間でも、教皇と神官の間でも、神官と候補生の間でも同じことだった。
少年はアレクシオスという名の神官に連れられて聖域の結界を抜けた。日用品を買い入れた時の掛け金をまとめて支払いに行くというのが、この神官がロドリオ村に行く目的だった。いなくなった出納係の代理である。
聖闘士も一人同行していた。大金を携行しているから護衛が付くのだと説明された。
日はゆるやかに天頂を目指しつつあり、影は実体の足元に蹲っている。草木のない、岩場に囲まれた荒れ地を進むと、やがて人里が見えてきた。なにも特徴のない平凡な村だ。
ロドリオ村に入っても、彼らに奇異の目を向ける者はいなかった。私服姿のマニゴルドと聖闘士は農民のようだし、神官は正教の修道士の恰好をしている。
アレクシオスは、少年を振り返った。
「これから私は用事を済ませるから、きみは好きに村を散策してきたらいい。太陽があの山に掛かる頃までに、村の入口に戻ってくればいいから」
マニゴルドもできれば好き勝手にしたいところだった。
「聖域が金勘定するところって見たことないから脇で見てたいんだけど、駄目かな」
神官は意外そうな顔をしたが、断ることはなかった。
彼らは白い漆喰壁の聖堂に向かった。聖域と俗世の取引の場としてこの聖堂が建てられたと聞いて、マニゴルドは首を傾げた。聖域とはアテナを信奉する集団であるはずだ。それがキリスト教徒のための建物を建てたというのは、どうにも奇妙な話だと思った。
「何のために私がこんな恰好をしていると思う」と、アレクシオスは自身の着ている黒い修道服の袖を振った。「聖域は隠された地だ。その存在を世間に対して知らしめる必要はない。むしろこの村が聖域と繋がりがあると知られて困るのは我々だよ。だからギリシャで俗世間の者と折衝をもつ際には、こうして正教会の一派という立場を装うことが多い」
世を忍ぶ仮の姿というわけか、とマニゴルドは納得した。俗世の争いに巻き込まれないという姿勢を守るのも、なかなかに苦労が多そうだ。
聖堂にも黒い服を着た髭面の中年男が待っていた。アレクシオスが「山から参りました」と告げると、男は「お待ちしておりました」と丁寧にお辞儀をして、彼らを奥の部屋へ案内した。
聖闘士は付いてこなかった。イコンに祈るふりをしながら待つそうだ。マニゴルドにはただ突っ立っているだけに見えたが、仕方のないことである。ギリシャで信仰されている正教と、少年の出身地イタリアで信仰されているカトリックとでは、同じキリスト教であっても教派が異なっていた。
案内された先の部屋には別の男がいて、アレクシオスはまた挨拶を交わした。どうやらこの男が商売相手らしい。売り買いされた物の一覧と金額が示され、アレクシオスは革袋から支払いを済ませた。値切り交渉自体は品物を手に入れる前に済んでいたため、この時のやりとりは短く済んだ。銀貨と銅貨の枚数を確かめて二人が握手を交わすところまで、マニゴルドはしっかりと見届けた。案内してくれた男も壁際に控えて、やりとりを見守っていた。
取引を終えるとアレクシオスはその商人に一杯誘われて、連れ立って部屋を出ていった。マニゴルドは部屋に残り、机の位置を直している中年男に近づいた。
ここの神父なのかと尋ねると、そうだという答が返ってきた。信仰はさておき、彼もまた聖域の協力者だった。
「私は元々この村の出でしてね。お山の教皇様には名付け親になって頂きました」
と言って、男は誇らしげに微笑んだ。マニゴルドは相手が「聖域」という言葉を避けていることに気づいた。
ところで、と神父は話題を変えた。
「ずいぶんとお若く見えるが、あなたもお山のお使いでしょう。先ほどの方とご一緒されなかったのは、私に何かご用があるからでは?」
「はい。神父さんに聞きたいことがあって。いいですか」
どうぞ、と中年の神父は袖の中で手を組んだ。
それから聞いた話では、聖域と俗世の商取引や契約は常にこの部屋で行われ、その場には必ず神父が立会人として同席するという。立ち会った際のことも書き留めてあるというので見せてもらった。神父の日誌には、日常の奉神礼(礼拝)の合間に隠れるように、聖域の使いがこの聖堂を訪れた用件とその時の出席者が、符牒を使って書かれていた。万が一他者に見られても聖域との繋がりを知られないようにするためだろう。問題の建材購入の件についても書かれていて、聖域の記録と一致した。
「神父さん。失礼ですけど、山から使者が下りてきた回数はこれに書かれた通りですか」
「まあ、金銭の絡まないちょっとした用事などは与り知らない事もあるでしょうね。ただ金銭や契約の絡む時には、揉め事を防ぐために必ずこの聖堂を使うことにされていると、以前にお聞きしました。ですから私がここを預かってからは全て記しているつもりです。せいぜい十四年ほどですけどね」
「十四年も。俺が生まれる前からじゃないですか」
マニゴルドは神父の記録を片端から手元に控えた。最近否応なしに鍛えられたお陰で、素早く書き留めることには苦労しない。ペン先の動きが目で追えないほどの速さで綴られていくので、神父が驚いていた。
「さすがにお山のお方は違いますな」
素直に感心されてしまい、少年は苦笑した。
「いや、どうなんでしょうね、これ。聖闘士には必要無い技だし」
「おや。神官見習いではなく聖闘士でいらっしゃったか」
純粋な好奇心で聞かれ、候補生に過ぎない半人前は気まずい思いで黙り込んだ。秘密の多い聖域の触れてはいけない部分だったのかと、神父も口を噤んだ。
やがてマニゴルドは必要と思われることを書き写し終えた。改めて神父に、昨年あった建材購入のことや、取引のために来た聖域の出納係のことで何か気になったことはないか尋ねる。
「とくにはないですな。その件について尋ねるということは、新聖堂の建築に何か問題が?」
「新聖堂? あ、ええ。神父さんはご存知なんですか」
「ほら、物を買い入れる時はいつも品物の届け先はロドリオ村にして、お山から寄越した人足で運ぶでしょう」
俗世の商売人を聖域に入れないために、納品場所にロドリオ村を指定する。そして雑兵が聖域へ品物を運び込む。そのやり方はマニゴルドも雑兵から聞いて知っていた。しかし新聖堂とは知らない話だ。
「それが建材を買う時だけはこの村ではなく、別の場所に届けさせることがあると、あるとき私も気づいたのですよ。ははあこれはお山の出先として、新しい聖堂を建設するに違いないと悟ったわけです。だからこっそり商人に聞いて教えてもらいました。届け先のことを」
「やるじゃねえか、おっさん!」思わず地が出たマニゴルドは慌てて咳払いし、先を促した。「失礼。それで届け先はどこだと聞かされましたか」
「たしか……カトリヴァノス氏だとか。現地で差配する人なんですかね」
「さあ。偽名を使った聖域の協力者かも知れませんから。場所は判りますか」
ここに来て謎の人物の登場である。少年はその名前と、その家があるという地名を書き留めた。
満足して顔を上げた彼は、神父が不安そうに見ていることに気づいた。「どうかしましたか」
「もしや、その件で何か厄介な事でも起きたのですか。それで私に話を聞きに?」
この神父は事件に関わっていそうにないが、ここで不審がられて横領犯に連絡を取られては困る。マニゴルドは急いで言い訳を組み立てた。
「いいえ、厄介事なんて。実は、山のほうでも同じ建材を使って建物を建てようかって話になってるんですけど、先に大工と監督者に聞きたいことがあって。なのにその聖堂建設に関わってたうちの人間が、俺が若すぎるって馬鹿にして、何も教えてくれないんですよ。他にも色々揃えたい物があるのに。それで仕方なくこうやって遠回りに調べてるんです」
「おお、それは苦労されますな」
聞きたいことはあらかた聞けたので、マニゴルドは礼を言って神父の部屋を後にした。
イコンの前で立っている聖闘士が彼のほうを見ていた。まさか見張られていたとは思わず、マニゴルドは肝を冷やした。
「こんな所で何してんだよ。あんたはアレクシオスの護衛だろ」
「随分長居をしていたな。何の話だったんだ」
「べつに。神父の名付け親がうちの教皇だって自慢された」
聖闘士が本気で聞き耳を立てれば、漆喰の壁や木の扉など何の障害にもならないはずだ。どうやらこの男は、そこまで本気ではなかったらしい。聖堂を去ろうとするマニゴルドの後を聖闘士は追って来た。邪魔なので文句を付けると、
「おまえのお目付役だ。久しぶりの俗世に浮かれて騒動を起こさないよう見張っておけと、テオドシオス殿から言われている」
と、淡々と応じられてしまった。
「あのデブ」
悪態を吐き、マニゴルドは聖堂の外壁にもたれかかった。見張りが付いていては謎のカトリヴァノス氏や、取引相手のことを調べに村を出るわけにもいかない。
仕方ないので、気分を切り替えて久しぶりの俗世を楽しむことにした。ここには血汗をかきながら修行に励む若者はいない。いるのは陽だまりに居眠りをする老人や、大声で井戸端会議をしている逞しい女たち。工房で黙々と椅子を直している職人。石畳の道を優雅に歩き回る猫。窓辺に飾られた鉢植えの花。そんなのどかなものだ。どこからか赤ん坊の泣き声も聞こえる。
道の行く手から歩いてきた村娘が、見慣れぬ少年に気づいてちらりと目をくれた。すかさずマニゴルドが視線を返すと、娘は慌てて俯いた。擦れ違ってから振り返れば、向こうでも彼のほうを見ている。手を振った。娘もはにかみながら同じように返してくれた。
後ろを付いてくる聖闘士のことを徹底的に無視できれば、それなりに有意義に時間を過ごせた。
◇
やがて合流した三人は聖域に帰ることにした。
もうすぐ聖域の外縁部を覆う結界に踏み込もうという所まで来た時、神官が前方を指差した。
「この先に枯れ木があるはずだ。枝に何か見えるかい」
問われたマニゴルドは目を凝らした。遠く、立ち枯れた木があった。
「何か結びつけてある。ひらひらした……布かな」
「何色だ」
「白か黄色。夕陽のせいで、ちょっと判んねえ」
神官は頷き、歩き続けた。その木の脇を通り過ぎる時に布は回収された。
彼らは聖域に入り、そのまま居住区を抜けて十二宮を上った。教皇宮に入ったところで、上役に報告があるというアレクシオスとは別れた。
聖闘士がマニゴルドの背を小突いて教皇宮の奥へと促した。思わず彼は文句を言った。
「付いてくるなよ。こっちは教皇の私的な空間だぞ」
「部屋まで送ってやろう。大人しく歩け」
そのまま教皇宮の公と私の部分を隔てる扉さえ抜けて、聖闘士は教皇の生活部分に入った。教皇の私室の前に番兵が対で立っていた。この厳戒態勢はマニゴルドの知る限り初めてのことだ。立っている顔にも見覚えがない。普段教皇宮にいる番兵ではない。
少年は無造作に部屋に放り込まれた。たたらを踏んで顔を上げた先に、椅子に掛ける老人の姿があった。セージは立ち上がり、彼の後ろの聖闘士に書類を渡した。
扉が閉まる。
「おかえりマニゴルド」
「ただいま。ところで表の物々しい警備は何事?」
「後で話す。それより村は楽しかったか」
マニゴルドは頷き、ロドリオ村で得た情報を語った。テオドシオスの手引きで村に行くことは予め師には伝えてあった。黙っていてもどうせ露見するだろうと諦め半分、この時期に神官と行動することに問題がないか確かめたかったのが四半分。そして、あわよくば小遣いを貰えることを期待したのが残りの四半分である。ちなみに快く送り出してはくれたが、小遣いは銅貨一枚貰えなかった。
「それでさっきの話だけど、なんで部屋の前に見張りが立ってるんだよ」
セージがこれまでの経緯を話そうとしたとき、扉が叩かれた。部屋に入ってきたのは少年にも見覚えのある神官だった(たしかヨルゴスと名乗っていたはずだ)。先ほどまでマニゴルドと行動を共にしていた聖闘士を連れている。
「失礼します、セージ様。この書類はどういうおつもりですか」
「どうもこうも、そなたたちの求めた譲位の同意書ではないか」
その場にいる者で驚いたのは少年だけだった。聖闘士がおもむろに彼の腕を取って立たせた。
神官は書面を老人の前に差し出した。
「私どもが提示した内容と違っているのは気のせいでしょうか? 射手座様に譲位するという文章はどこへ消えたのですかね」
「神官ともあろう者が文を読めぬか。譲位の条件はそこに書いた通りだ」
神官が手にしているのは、先ほどセージから聖闘士に渡された書類。教皇を退位する旨を記して署名したものだった。ただし老人が認めたのはあくまでも退位に関してだけ。テオドシオスたちが求めるシジフォスの指名は行わずに、後継者指名は本人の前で行うという条件でセージ自ら書き直したものである。
「予定ではシジフォスは明日にでも帰還する。その時に指名すればいいのだから、何の問題もなかろう。どうしても誰かを名指ししなければならないのなら、イリアスの名を記そうか」
「お話になりませんな」
神官は聖闘士に合図してマニゴルドを部屋の外に連れ出した。事情を知らない少年は腕を振り解こうと暴れたが、白銀聖闘士の手からは逃れられなかった。
「セージ様のお考えがまとまらないようですので、やはりお弟子は私どもがお預かりします。よろしいですね」
「よかねえよ。なに勝手に人のこと決めてんだ。おいこら」
「それでは失礼します」
セージ一人を部屋に残して、神官は戸を閉めた。
「おまえら、お師匠に何させたんだ」
少年の不安に神官は答えない。どうにか聖闘士の拘束を解こうともがいたが、マニゴルドは教皇宮から連れ出された。そしてそのまま独房に押し込められた。
「俺が何したっていうんだよ! 今は豚箱行きになるような悪いことしてねえぞ!」
「そう。何もしていないよ、きみは」
と、牢の鍵を掛けてからようやくその神官は答えた。「セージ様が我らの要求にお答えになるまで、しばらくここで過ごしてもらう。なに、誰からも危害を加えられない安全な場所だ。十分に寛ぎなさい」
「うっせえ」
格子をガンと蹴りつけ、少年は相手を睨みあげた。神官はまったく意に介さずに立ち去った。それに続いて聖闘士も去り、牢獄の近くには誰もいなくなった。
独房の床に隙間はなく、壁は厚く、格子は頑丈だった。最初から聖闘士を収容するものとして設計されたのだろう。小宇宙を込めて殴っても蹴っても、爪で剥がそうとしても、どんなに力を加えてもどうにもならなかった。脱走が不可能だと判っているから見張りも立てなかったのだとマニゴルドは気づいた。
彼は檻にもたれかかった。
何がなんだか判らない。
考えても埒が明かないので、師に聞こうと決めた。たとえ身体を拘束されていても、小宇宙が発揮できなくても、それができるのが積尸気使いの強みだ。
肚を決めたのと前後して、スープとパンの夕食が届けられた。ちょうど腹も減ってきたところだ。とくに警戒もせず一気に掻き込んだ。
それからマニゴルドは肉体という檻を抜け出して、教皇宮へ向かった。
◇
セージはふと顔を上げ、宙を浮いている弟子の姿を見て呟く。
「来たか」
魂だけでやって来たマニゴルドは、ふわりと床に降り立って腕を組んだ。
(説明してくれよ、お師匠)その声は常人には届かない。
一方で老人は普通に唇を動かして声を出した。
「今おまえはどこにおる」
弟子が牢獄の場所を伝えると、「そこなら安心だ」と老人は表情を緩めた。後に天馬星座の青銅聖闘士も、身柄の保護を目的として同じ並びの独房に入れられている。
(俺のことはいいから。説明)
「うむ。手短に言うとな、テオドシオスが神官たちを煽動して、年寄りにはもう教皇の資格がないから次にシジフォスを指名して譲位しろと、そう言ったのだ。そして新体制が確立するまで余計なことをするなとこうして軟禁されておる」
(教皇クビになったのか?)
自分が外出してる間にとんでもないことが起きたものだと、マニゴルドは驚いた。
(あのデブ俺を遠ざけて事を起こしやがったのか。俺が駆けつけて連中を手当たり次第積尸気送りにしたら困るから。お師匠一人ならどうにかなると思ったんだな)
「テオドシオスはおまえが積尸気使いだとは知らぬはずだ。そうではなく、私との交渉に使う材料としておまえを仲間と共に行動させたのだ」
聖闘士が側にいたはずだと指摘され、マニゴルドは理解した。ロドリオ村に付いてきた聖闘士の役目は神官の護衛ではなく、教皇の弟子の見張りと、もしもの時の始末だったらしい。聖域に入る前に見かけた目印が白ではなく他の色だったら、彼の身はどうなっていたことか。そして確信する、彼が部屋に帰ってきた時に引き替えに老人が差し出した書面の意味。
(もしかしてお師匠、俺のせいで退位するしかなかったんじゃ)
ところが師は視線を逸らし、「さて」と腕組みをするだけだった。白を切るその態度に胸の奥が爆発した。
(馬っ鹿じゃねえの)
とマニゴルドは怒鳴った。(俺なんかのために大事な仕事を投げ出すんじゃねえよ!)
彼の剣幕にセージは意外そうに眉をひそめた。
「馬鹿と言われるのは心外だ」
(だって馬鹿じゃん。俺が人質に取られてたから連中の言うこと大人しく聞いたんだろ。俺なんか無視して要求突っぱねれば良かったんだ。こうなることが判ってたから俺を聖域の外にやりたかったんだろ? 本当にジャミールにでも追いやってくれたら良かったのに、なんで俺の言うこと聞いたんだよ。馬鹿だよお師匠。大馬鹿だ)
足手まといになった自分に吐き気がしていた。
初めは弟子に食ってかかられて驚いていた老人だったが、やがて目を細めた。笑っている。
「違うと言っても聞く耳がなさそうだな。そうだ。可愛い弟子の命と引き替えだと脅されては、さすがに老いぼれも抵抗できなくてな。泣く泣く譲位に同意せざるを得なんだ。おまえの責任は重いぞ。反省したら師の恩に報いるため、綺羅星と輝く立派な男になるがいい」
(茶化すなよ)
恩着せがましい言葉に、マニゴルドは鼻白んだ。
退位という瀬戸際に立つわりには、あまり深刻ではない様子なので、彼は怒るのを止めた。弟子の負い目を軽くしようと冗談めかしただけかも知れないが、どうやっても暖簾に腕押しだ。
(本当にもう退位するって認めちまったのか)
「それを覆すことはできないが、手はあるからおまえは気に病むな」
(何か考えがあるんだな)
「うむ」
セージが話を続けようとした時、戸が開いた。外の見張りが中を覗き込み、室内に老人一人の姿しかないことを確かめて怪訝そうな顔をした。祈りの最中だと澄まし顔で取り繕われると、見張りはすぐに詫びて戸を閉めた。賊徒が教皇を狙っているから守れと命じられているだけの雑兵だ。セージにはまるで脅威ではない。
それから声量を落としてセージは話に戻った。
「先ほど神官たちと話して確信したが、彼らはシジフォスに話を通していない。譲位が成立する前に私たちが顔を合わせることを拒んだのだ。本人が就任を承知していればまったく問題ないはずなのにな。おそらく事前に話をすると、反対された上に教皇に密告されると考えたのだろう。それよりは本人のいないところで譲位の既成事実を作って、反対できなくしてしまえというのがテオドシオスの計画だ」
つまりシジフォスはこちらの手駒の一つとして使えるのだ、と老人は言った。
(それがなんだよ。帰還したらいきなりおまえが新しい教皇になったからよろしくって、そりゃシジフォスも気の毒だけどよ。あいつが聖域に帰ってきたら終わりだろ?)
「たしかにこのままシジフォスが帰ってくれば私は居場所が無くなる。厄介者扱いされて聖域から追い出されたらどうしようか。魯を出た孔子のように野をさすらうことになるが、付いてきてくれるか」
(真顔で寝惚けたこと抜かしやがってクソジジイが。っていうか、その場合俺はどの弟子なんだ)
「子路で良かろう」
(やっぱそっちか。どうせ顔淵じゃないですよ俺は)
一人しかいない弟子なのに最高の弟子とは認められないのかと、少年はがっくり肩を落とした。子路は孔子の弟子の一人で、師に最もからかわれ、また叱られた人物だという知識くらいはマニゴルドにもあった。ギリシャにあっては縁遠い外国の古典も読ませられることがあったからだ。積尸気冥界波という技名が漢名由来だからというより、単にセージの趣味だと思われる。
「おまえは後先考えずに動くことが多いからな」
と漢籍を押しつけた張本人は楽しそうに笑った。
「それはさておき、当分あの者は聖域には戻ってこない。おまえがカトリヴァノスのことを掴んできてくれて方針も定まった。シジフォスが戻ってきた時に攻守が入れ替わるだろう」
評議の部屋で神官たちに取り囲まれている間に、セージはシジフォスに連絡を取った。連絡は小宇宙を用いた念話という手段で取ったから、神官たちには勘付かれていない。そもそも念話を使える者がいるということを神官は知らないのだ。
そのころ任務を終えて帰還途上にあったシジフォスは、念話を受けて今頃はアテネの市街地で待機している。聖域近くのロドリオ村を使わないのは、今は聖域の関係者に見つかりにくい所にいてもらったほうがありがたいからだった。
シジフォスだけでなく、セージは聖域内にいるルゴニスにもおおよその事情を伝えてある。
『神官どもの宿舎に叛乱成功の祝い花を贈ってもよろしいですか』
とルゴニスはセージに願ったが、それは思い留まらせた。毒の香気を放つ魔宮薔薇を贈りかねない剣呑さを、魚座の黄金聖闘士の念話は孕んでいた。いいという時まで動くなと、強く言い渡してあるので問題は起こさないはずだが。
――そんな師からの説明を受けて、マニゴルドはようやく少し安心した。黄金聖闘士たちが味方に付いているなら、譲位の話も神官の思うように進みはしないだろう。しかし疑問なのは、セージのやりようだ。なぜ教皇の強権で事を収めようとしないのか。
(お師匠と黄金位で一気にかかれば神官なんて楽勝じゃん)
「拳を振るって解決するなら、とうに昼のうちに終わらせている。問題の根底に考えかたの違いが横たわっている以上、力だけでは解決できないのだよ」
(じゃあ連中を皆殺しにする予定もなし?)
「それは乱暴に過ぎる。今は機を見て、彼らが私の話に耳を傾けやすい状況が訪れるのを待っている」
話せば判ってもらえるとでも思っているのか。少年は唇を噛み締める。もしそうなら、これまでの折々の評議で機会は十分にあったはずだ。その機会を見逃しておいて、今更。
「一度にまとめて片付けようとしたのが裏目に出てしまったな。ともあれ、これは教皇と神官の問題だ。聖闘士を巻き込みたくないという考えは互いに一致している」
(でもロドリオ村で俺を見張ってたのも、俺を豚箱にぶち込んだのも聖闘士だぜ。そっちはよ)
「その者には後で確かめる必要があるが、……そうだな、ついでにそれも調べてきてもらおうか」
そろそろ戻るように、と老人は告げた。
言われるがまま肉体という鞘に戻ったマニゴルドは、隣に生身の師が立っていることに驚いた。
「なんでいんだよ」
積尸気使い相手に軟禁は意味がないのだとセージは笑った。それでも大人しく部屋で過ごしているのは、相手を油断させるためでしかない。拘束できないと知れれば、神官たちが毒殺や刺殺などの直接的手段に及ぶ可能性もある。
「おまえにはこれを届けてきてもらいたい」
老人は用意していた袋を手渡した。
マニゴルドは積尸気を抜けて聖域の外へ送られることになった。この世ではない場所を経由することで、聖域全体を覆う結界にも触れることなく外地と往来できるという。当然、牢獄の檻に阻まれることもない。なんと便利な技。
目的はアテネで待機しているシジフォスのところへ、今後の行動を指示する手紙と当座の資金を届けに行くことだ。セージ本人が行ければ話は早いが、もし見張りが室内を覗いた時に姿がなければ騒ぎになってしまう。一方で、懲罰房としてしか使われないこの牢獄には見張りが来ないことを、セージは知っていた。
「パルテノン神殿に繋ぐから、そこからは歩いていけ」
「判った」
有名なアテネの遺跡は、この時代にはオスマン帝国の要塞としての役割を終え、ヨーロッパからの観光客を惹きつける名所となっていた。さすがに夜になれば物好きも遺跡から引き上げるだろう。
「物盗りと、悪い大人に絡まれないように気を付けてな」
「誰に言ってんだよ。それじゃ行ってきます」
手紙と金を入れた袋をしっかりと肩に掛けて、マニゴルドは師が開けた積尸気の穴に生身のまま飛び込んだ。