教皇交代劇から一夜が明けた。神官たちはいつもと同じように教皇宮に上がった。そう、いつもと同じ朝であるべきだった。新教皇の体制が確定するまでは、周囲に状況を知られるわけにいかない。
セージが退位の意思を示したことは、書面という記録でしっかりと残っている。しかし現状、その後を継ぐ新教皇にはまだ誰も指名されていなかった。老人は「シジフォスが帰還したら指名する」と言うのみで、それまで教皇位は空位のままだ。おそらく神官たちの望む後継者を指名した時点で用無しとされることを警戒したのだろう。
その考えはテオドシオスにも理解できた。だから無理に文面を書き直させることをしなかった。代わりに余計な気を起こさないようにマニゴルドの身柄を奪ったが、それくらいはお互い様だった。
老人が教皇として冷静に判断するなら、自身の身の安全を確保してから神官たちの首を軒並み刈っていくという手段に出てもおかしくはない。たとえ教皇宮の使用人や聖闘士が巻き添えになっても玉座を固守するだろう。場合によっては黄金聖闘士の一人くらい切り捨てることもあり得る。たとえば、教皇交代劇の責任をシジフォスに負わせて叛乱の罪で処刑するというような。テオドシオスたちの目論見を潰すならそれが一番簡単だ。
教皇の弟子の身柄を拘束するのは、それに対するテオドシオスなりの保険だった。教皇の弱点が愛弟子であることはすでに証明されている。神官長の狼藉の一件しかり。評議の場での一件しかり。
問題は、この譲位計画が聖闘士たちの賛同を得ていないことだ。聖闘士にとって教皇は雲の上の存在で、神官は小宇宙も体得していないただの人間。その平凡な者たちによって教皇が交替させられたと知れば、血気盛んな聖闘士たちがどう動くか予測できない。新しい教皇さえ立てば神官はその盾の後ろに隠れられるが、今の状況でそれは叶わない。それもまた、シジフォスの早い帰還を願う理由の一つである。
ちなみに聖闘士と違って、教皇宮詰めの使用人や雑兵は問題にならない。彼らには、「冥王軍の内通者が教皇を狙っているという情報を掴んだので、聖闘士であっても教皇に近づけてはいけない」と伝えてある。老人が部屋に閉じこもっていても不思議に思わないだろう。ただし時間が経てば状況の不自然さに勘付く者が現れる可能性が高くなる。できれば昨日のうちに終わらせたかった。
(だいたい帰還予定日に合わせて事を起こしてやったのだから、あの若造はさっさと帰ってくるべきなんだ)
シジフォスが知ればそんな理不尽なと頭を抱えてしまっただろう。しかし計画を立てたテオドシオスには関係ない。教皇の座を差し出されればシジフォスは喜んで受け取るだろうと考えていた。なにしろ教皇が傅くのは女神に対してだけだ。それ以外の全ての者に傅かれて権力を振るうのも思いのままという栄光の座なのだから。
不摂生の肉体をまとって彼が十二宮の階段という難敵と戦っていると、上から慌てた様子の同僚がやってきた。援軍ではないようだ。
「テオ殿、大変なことになりました。あの小僧が独房から姿を消しました」
なに、とテオドシオスは目を見開いた。
「セージ様はどうされている? 誰か部屋にいることを確かめたかね」
「はい。静かにお過ごしです。とくに変わった様子はありません。それが逆に怖いと言えば怖いですが。見張りによれば昨晩から部屋には誰も近づいてはおらず、今朝の朝食も全て召し上がったそうです」
行動を制限するだけの軟禁なので、食事に毒を盛るつもりはない。むしろ絶食でもして衰弱されれば後で非難されかねないから、健康的な生活は大いに結構なことだった。
「それなら逃げたのは弟子のほうだけなのだね」
「ええ。しかしどうしましょうか。大々的に聖域内を探すというのは躊躇われますが」
「ああ、聖闘士に嗅ぎつけられない範囲で探してくれ」それから彼はもう一つ付け加えた。「最初に魚座殿に教皇宮として確認を。細かい事情は告げなくていい。少年を匿っているとしたら、まずそこだ」
すると魚座のルゴニスからはこんな返答があった。
――教皇のお弟子は久しく訪れていないが、もしお疑いなら薔薇園の中を自由に探されるがよろしい。我が住まいに彼がいたとしても、既に冷たい骸となっていることだろう。魚座の守護者以外には耐えられない猛毒の花の海に入る時は、十分に気を付けられよ、と。
「ふむ」
と、神官長の席に着いたテオドシオスは顎を撫でた。
「事情を知っているかどうかは明らかではないが、少なくともすぐに動く予定はなさそうだな」
少年が聖域内に留まっているなら、すでに誰かに老教皇と自分の身に起きたことを話しているだろう。わずかな面会の時間を使って老人からの言伝を預かったかもしれない。教皇に忠実な聖闘士がそれを聞けば必ず動く。逆に動かなければ、神官たちの決起を黙認したことになる。マニゴルドが逃げ込んだ先が魚座の住まいだったとしても同じことだ。そして未だにルゴニスが何の行動も起こさない時点で、テオドシオスの敵ではない。他の聖闘士にも動きはみられなかった。今朝の聖域も静かなものだ。
「小僧がここに留まっていなければどうしますか。聖域内に味方を期待せずに、俗世へ逃げたということもあり得ます。途中で帰途にある射手座殿と出会って事情を話したら、射手座殿がどう動くか判りません。もしここに殴りこまれたら……」
と別の可能性が挙がった。
教皇宮に乗りこんでくるならむしろ好都合だとテオドシオスは考えた。教皇の間でシジフォスと対面することがセージからの譲位の条件だったからだ。セージ自身から玉座を譲られれば、若者は神官に手を出す理由を無くすだろう。
「ところで少年の逃げた状況は?」
神官マタイオスが牢獄の様子を報告した。
「私が駆けつけた時、牢には鍵が掛かっておりました。明かり取りの窓や檻の格子には、鼠が通れる程度の隙間しかありません。抜け穴はないかと雑兵に探させましたが見つかりませんでした」
「昨夜運んだ食事はどうなっていたかね」
「全て平らげた空の食器がありました。昨夜の食事を運んだ時には、格子を揺さぶったり体当たりしていたと雑兵が証言しています。当然、牢の鍵も掛かっていたでしょうね」
「その雑兵の証言は信用できるかな。密かに教皇の意を受けて少年を逃すことはできそうか」
淡々と質問を重ねるテオドシオスの穏やかさに、周囲は平凡な会議を行っている錯覚に囚われた。
「鍵を手に入れることさえできれば逃がせるでしょうが……。今朝も食事を届けて、そこで小僧の脱走に気づいて報せてくれた者です。あの者が黙っていればまだ私たちはマニゴルドの脱走を知らないでいたでしょうから、信用してもよろしいかと」
隣から神官ディミトリオスも口を挟んだ。
「私もそう思います。あの雑兵はこれまで教皇とその弟子に接したことがあまりありません。とくに昨日は全く教皇と接触しておりませんでした。だからこそ弟子に食事を運ばせる役に選んだのです。教皇と同じように身柄を保護する必要があるから、安全な場所にいてもらうのだと事前に説明してあります。小僧を逃がそうとする余計な情は持たないでしょう」
ほほう、とテオドシオスは太い腕を組んだ。「では他に鍵を手に入れられる者となると――」
ヨルゴスが親友の言葉を遮って発言した。
「テオ殿。皆も。聞かれる前に先に私から言っておきます」
彼は懐から鍵の束を取り出した。じゃらりと音がした。
「あの牢獄の鍵は、このとおり私が預かっています。小僧を独房に入れた時も確かに鍵を掛けました。先ほどマタイオス殿に貸しましたが、それ以外には誰にも触らせていません。もし逃亡の手引きをした者がこの場にいるとしたら、最も疑わしいのは私です。しかしアテナに誓って私はそのような事をしていない。嘘も吐いていない。信じて頂きたい!」
宙に突き出された鍵束を、テオドシオスは横から掴んだ。
「我が誠実な友がそのような裏切りをするはずがないと、私も知っている。少なくとも昨日の時点では鍵を掛けたことを一緒に行った聖闘士が間近で見ていただろう。互いに相手の行動に不審な点があれば気づいたはずだ。大丈夫。あなたではない」
ヨルゴスは身内びいきはいけない、と首を振った。テオドシオスの視線はそんな友人から他の者たちをぐるりと一巡した。
「無論、ここにいる者の誰でもないことを信じている。マニゴルドを逃がした者が合い鍵を持っていただけのことだ。そこで彼を逃がす理由を持つ者という面からすこし考えてみよう」
友人から取り上げた鍵束を机に置いて、彼は言葉を継いだ。「簡単に言うとセージ様の意を受けている者になるが。まず、ご本人が弟子を逃がしたというのは不可能だろうか」
「たしかに。本当に一晩中部屋から抜け出さずにおられたとは言い切れません。見張りを籠絡したということもあり得ます」と一人が頷く。
「そうでしょうか」とディミトリオスが首を傾げる。「見張りは、本人は護衛のつもりですから、教皇一人では決して外出させてはいけないという我々の命令に背くことはありません。今朝も『教皇を一晩守りきった』と、誇らしげに報告していましたよ」彼はどうも雑兵に甘いようだ。
「では戸口からではなく窓から出入りしたのでは?」
「無理でしょう。窓の外は足場もない。だからこそ我々も庭に見張りを立てなかったのですから」
「そうだな。それにあの方がこっそり牢獄まで行って弟子を逃がしたというなら、なぜ自分だけわざわざ部屋に戻ったのかということになる。普通は一緒に逃げるだろう」
周りに敵しかいない教皇宮に敢えて戻ったのはそこに隠された秘密を守るため、などの理由は彼が退位に同意した事実を前提にすると考えにくい。それよりは、セージ自身は部屋から出ずに大人しく軟禁されていたと考えたほうが自然だった。
「ご本人でないとすれば、先ほどから言いたかったのだが、我々に協力している白銀聖闘士が非常に怪しい」
とこの場では年長の神官がすかさず発言した。「教皇はなんといっても聖闘士の頂点だ。我々の指示に従うふりをしてセージ様に寝返っている恐れは大いにある」
「奴が裏切っていたら、ロドリオ村に小僧を連れて行くことさえ事前に筒抜けになっていた可能性すらありますよ。信用しないでどうします」
「そもそも奴はなぜ私たちに協力しているのですか」
神官たちの問いを受けて、テオドシオスは苦々しげに答えた。
「金だよ。外部任務で俗世に出たときに賭け事に嵌ったそうでな。借金を抱えていたのを知って、私が肩代わりしてやった。それから話を持ちかけたのだよ。このことが教皇に知られれば当然処分されるから、奴が裏切る心配はない」
それを聞いて好意的な反応を見せた者はいなかった。
「テオ殿が尻拭いをしてやる必要などないのに」
「これだから聖闘士というやつは……」
話が逸れる前にテオドシオスは言った。
「聖域の者に下手に探りを入れるのは止めておこう。射手座殿が戻ってくるまで現状を維持できれば良い。余計なことをして疑惑を招くことはない。寝た犬は起こすなと言うだろう」
消極的な案だったが、長めに見積もって一日持ちこたえればいいことなので、一同も反対はしなかった。
「小僧のほうはどうしますか」
「保護の名目で追っ手を出そう。なに、相手は小銭も持たない候補生だ。昨夜から一晩のうちに動けた距離はたかが知れているよ。聖闘士だと教皇へ出立の挨拶をしたがるから使えないな。動かすのは雑兵でいい」
「もし見つけられたら、その時は……?」躊躇いながらマタイオスが尋ねた。
テオドシオスははっきりと言った。
「ご老体に対する人質として使える限り、殺してはいけない。私たちは野蛮な聖闘士ではない。知恵ある神官だ。暴力ではなく理性によって聖域を革めよう」
彼らは頷いた。聖闘士が超人だと知っているつもりだったが、せいぜいが優れた膂力(りょりょく)の持ち主という認識だった。
テオドシオスに限らず、神官は聖闘士の持つ小宇宙の力は、単純に肉体を強化するだけのものと考えている。闘技場での訓練の様子や、聖闘士からの任務の報告。それらが彼らに錯覚させていた。例えば外部任務で聖闘士が敵を撃退した時、詳しい戦闘の内容が教皇宮に報告されることはない。敵については事細かに報告しても、自身がいかにそれを打ち破ったかについて聖闘士は明らかにしなかった。必要なのは敵を破ったという結果だけだからだ。
だから小宇宙がどんな使い方ができるかということを、神官たちは知らないままでいる。聖衣の持つ特殊な力を駆使しなければ、聖闘士も力の強い勘が鋭いだけの人間に過ぎないと思っていた。聖闘士の戦いを目の当たりにしない限り、その誤解が解ける機会はないだろう。そして雑兵と違い、神官が聖闘士の歩みに付いていくことはない。
更に積尸気使いについて言えば、聖域ではセージ以外にその力を持つ者は長く現れなかった。怪力乱神を語らず、というわけではなかったが彼は自身の力を誇示しなかった。巨蟹宮で定期的に死者を返していることさえ、宮付きの従者しか知らない秘密だった。最近になってその技を覚えつつあるマニゴルドも、人前で力を振るったことはない。魂を操り、黄泉比良坂への道を開くことができると知らしめても常人を怯えさせるだけ。セージはそう考えていた。基本的に積尸気使いはその力を隠そうとする傾向にある。戦場以外で死に神が歓迎された試しはない。
つまるところ、神官たちは聖闘士を侮りすぎていたのだ。
そして彼らにとっての頼みの綱でもあるシジフォスは、一日経っても二日経っても、まだ帰還しなかった。
事故にあったか旅先で病を得たのではと心配する神官もいた。しかしさすがにそんな事態になれば連絡の一つも寄越すだろう。単身の任務なので、連れを通じて確認することはできなかった。
「帰還すれば玉座を譲られると知って尻込みしたのではありませんか」
「それを知らせに走ったのが小僧ということか」
シジフォスだけでなく、マニゴルドの足取りも掴めていなかった。彼らは知らなかったが、少年はこの世ではない場所を通って外へ出ていった。この世に足取りを求めること自体が無駄だった。
「射手座殿がこちらの計画を知っている、しかし協力する気はないということになると……、黄金位たちにはセージ様を助ける気概はないんですかね」
「やはり聖域を憂えているのは私たち神官しかいない」
同志たちの会話を聞きながら、テオドシオスは元教皇と面会をしたいと親友に打ち明けた。しかしヨルゴスはいい顔をしなかった。彼が直接セージと顔を合わせることに危険を感じたからだ。もし相手が事態の打開を図ろうとしてテオドシオスの首元に刃物でも突きつければ、神官たちには手出しができない。
「今更そんな悪足掻きをされるような方ではないさ」
テオドシオスは杞憂だと笑うが、先に人質を取った立場では、そうも楽観できない。
「軟禁されて四日ですから、先方も無為のままよりは面会を希望するでしょうが、しかし会って何を話すんですか」とヨルゴスは尋ねた。
「射手座殿を聖域から遠ざける指示を出したか確かめる。そしてできれば一度だけ、教皇として帰還命令を出してもらう」
「それだけならあなたが出ていく必要はない。私が代わりに面会します。一つ厄介なのは、射手座殿が帰還すれば自分の身は解放されると先方が知っていることです。未だに部屋に留め置かれている、すなわちまだ射手座殿が帰還していないということから、こちらの焦りをセージ様は察しているかもしれません。交渉に応じてくれるとは限りませんよ」
「厄介だね」
「だからまずは私が様子見すると言っているんです」
テオドシオスは友人の肩をぽんと叩いた。
「分かった。下手に相手に判断材料を与えるのは止めよう。射手座殿の路銀はすでに尽きているはずだ。もう少しだけ待ってみようか」
彼が長い十二宮の階段を下りて宿舎に帰ると、戸口の前で数人の少年たちが屯(たむろ)していた。候補生が神官に会いに来るとは珍しい。おおかたは行方を眩ませた教皇の弟子についてだろうと見当を付けてから、彼は一団に近づいた。
「何の用かな」
代表者らしい、しっかりした顔つきの少年が口を開いた。
「俺たちはマニゴルドという候補生の友人です。ここ最近あいつが闘技場に顔を見せないので心配しているんですが、あいつは教皇宮で暮らしていて気軽に会いに行けないんです。それで代わりに教皇宮へ上がれる人に様子を教えてほしくて、こうしてお願いに来ました」
聖闘士はさりげなく教皇宮から遠ざけている。警護の番兵は口を割らない。そうなれば、教皇宮の様子を知りたい者が神官に接触してくるのは当然の成り行きだった。
「彼は毎日闘技場に通っていたのかい」
「毎日というわけではないと思いますが」と代表者は後ろを振り向いて、一人を前に引っ張り出した。「こいつが手合わせの約束をしていたそうなんです。おいユスフ、自分で説明しろ」
「え、説明してくれないんですか」
「俺は放っておけと言ったのに、きみたちがどうしてもというから付き添ったんだぞ。なに人任せにしようとしてる」
黙って見ているといつまでも仲間内で揉めていそうなので、テオドシオスは口を挟んだ。「それできみとマニゴルドが手合わせの約束をして、どうしたね」
「あ、あの俺、あいつと明後日手合わせしようなって約束したんです。でもあいつ来なくて、手合わせの約束すっぽかすような奴じゃねえからおかしいなって思って。でも怪我でもして動けないなら仕方ないかなと待ってたんだけど、全然来ねえし、それで心配になって」
「ちなみにこいつが言っている『明後日』というのは約束した時点からみた明後日で、今から三日前のことになります。分かりにくくてすみません。こいつ説明が下手で」と、テオドシオスの疑問に先回りするように、最初に事情を説明した候補生が補足した。
マニゴルドが手合わせの約束を翌日ではなく二日後にした理由を神官は察した。翌日にロドリオ村に行く予定があったからだ。その次の日にはマニゴルドは牢獄から姿を消していた。もちろんテオドシオスは、そんな事情を候補生たちに明かすつもりはない。
「彼のことは今まで気に留めたことがなかったから、今すぐ状況を教えられるわけではないが、明日もし会ったらその時に聞いてみるということでいいかね」
「はい! ありがとうございます」
ほっとした様子の候補生の肩を別の候補生が叩く。「良かったなユスフ。おまえ心配してこっそり十二宮まで上がりかけてたもんな」
「うるせえ。俺が足の骨折った時、あいつ笑いに来やがったから、同じことしてやろうと思っただけだ」
微笑ましい少年たちのやり取りにテオドシオスは頬を緩めた。彼らのうちの何人が聖闘士になれるかは不明だが――全員が挫折することだってあり得る――今は同じ道を目指す同志。せいぜい足を引っ張り合うことなく励まし合ってほしいと思う。
ところが一人、最初に事情説明をした候補生だけは険しい表情のままで、そっと彼に囁いてきた。
「ユスフとの手合わせの前日、マニゴルドが正教会の人間と聖闘士と一緒に歩いているのを見ました。あいつは何の掟を破って処罰されたんでしょうか」
やはり関連づける者もいたか。牢獄に入れたところを見られてはいないだろうかとテオドシオスは不安を覚えた。それでもざわつく心を抑えて、彼は穏やかに「確認してみよう」と言うに留めた。
翌日も同じ顔ぶれの少年たちが待っていた。彼は「マニゴルドは師匠との修行が終わるまでどうしても来られない」と説明した。修行であれば仕方ないと候補生たちは納得するようにできている。その解答で満足して去っていった。
一人だけ、ロドリオ村への外出のことを誤魔化さなければならない少年が残っていた。その候補生には「一緒に歩いていたのは聖闘士と神官で、マニゴルドは聖域の外へ用事に出た神官の見送りと迎えに行ったらしい。処罰されるようなことはしていない」という話をした。候補生は少し考えて「それならいいです」と腑に落ちない顔で頷いた。踏み込んで聞くことを控えたようだ。
「きみはマニゴルドが何かやらかしたと考えているようだが、根拠があるのかね」
「いいえ、根拠と呼べるほどのものはありません。ただ、彼は軽率なところがあるようなので」
「それだけではないだろう。昨日のきみは、彼が聖域の掟を破ったのだと決めてかかっていた。今もまだそう考えているはずだ。彼のことを思うなら話してみてくれないか」
候補生は言葉を選びながら告白した。
「彼はヘルメスの力を持っています」
ヘルメスの、とテオドシオスは鸚鵡返しに呟く。つい最近もその言葉を聞いた――むしろ彼自身が発したのを思い出した。悪童の身軽さを称えた時に、相手はヘルメスは泥棒の守り神だと嘯いて笑ったのだ。
「神官様は、かの伝令神が何を司っているかご存じですよね」
「当然だ。マニゴルドは盗人だったのか」
「そうなんですか」と候補生は驚き、声を上げた。そのことにテオドシオスも「そういう意味ではないのかね」と戸惑いの声を上げる。
「俺が言いたかったのは、魂の運び手としての力です」
今一つ呑み込めない様子の神官に、候補生はもどかしげに右手を宙にさまよわせた。しかし何かを決めた表情になって、テオドシオスを見た。
「どうも勘違いだったようなので、これ以上はお話しできません。忘れて下さい」
「このまま忘れられるものかね。いったい何を言うつもりだった? 怒らないから話してみなさい」
「彼の名前は『死刑執行人』という意味が込められているそうです。俺に言えるのはそれだけです。失礼します」
「待ちなさい。今度詳しく話を聞かせてもらうことになるかもしれない。君の名は?」
「アスプロスです。でももうこの件に関してはお話ししません。すみません」
再び礼儀正しく一礼して候補生は去ってしまった。彼は結局マニゴルドについて思わせぶりなことしか言わなかった。
――ヘルメス。ゼウスの伝令にして、商業と牧畜、旅と競技の神、盗人や詐欺師の守護者。その多岐に渡る職能をまとめるならば、神々の伝令、富と幸運の恵み手、そして旅人の守り手の三つに分類される。いずれも「価値あるものを運ぶ」ことから派生したと考えると分かりやすい。
しかもこの旅人というのは生者に限らない。ヘルメスは死出の旅の案内人でもあった。彼は生と死の境をも自由に行き来できた。ギリシャ神話では、試練のために冥界へ赴くヘラクレスの道案内も務めたことがある。また、英雄の魂はヘルメスが、凡人の魂はタナトスが冥界へ運ぶともされた。
しかしこれはあくまでも世間に伝わる神話上の話だ。ヘルメスは地上の覇権には興味がないのか、これまで一度も聖戦に参戦したことがない。だからテオドシオスたち聖域の人間にとっても、実際にどのような力を持っているのかは明らかではなかった。
死刑執行人という名を持つ者がその力を持っているというと、どう考えても死にまつわるものが連想される。あの候補生の考えでは、マニゴルドがその力で処罰を受けるようなことをしでかしてもおかしくないようだった。誰かを殺したことがあるのか。
あの悪童がそんな大それたことを、とテオドシオスは鼻で笑い飛ばした。
彼の知るマニゴルドは、ただの野放図な子供でしかなかった。たとえヘルメスの子孫だったとしても、死者の導き手ではなく、セージの言葉をシジフォスに届ける伝令役のほうがしっくり来た。
(いや、しっくり来る来ないは別にして、これは年寄りを揺さぶる種になるか)
やはり老人と面会をしようとテオドシオスは決心した。結局その役目は、不測の事態が起きることを恐れたヨルゴスに横取りされてしまうのだが。
射手座のシジフォスが帰還したのは、その面会の最中。真昼のことだった。
ギリシャ風の覚えにくい名前の神官たち
テオドシオス:メタボな神官長代理。
ヨルゴス:テオドシオスの親友。魚座のルゴニスと名前は似ていても無関係。
マタイオス:テオの腰巾着その1。
アレクシオス:テオの腰巾着その2。マニゴルドをロドリオ村まで連れだした。
ディミトリオス、エウゲニオス(未登場):長い物には巻かれろ。