【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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聖体拝領唱(コンムニオ)――ルゴニスの傍観

 

 評議を始めるというセージの言葉に最初に反応したのはシジフォスだった。彼はさっと脇に寄った。それより一拍遅れて、神官たちが無言のままざわつき始めた。どういうことかとテオドシオスのほうを見る者もいる。ヨルゴスも友人に答を求めた。テオドシオスは首を横に振った。彼の予定にもなかった。

 

 戸惑う者たちを前にセージは言葉を連ねる。

 

「評議とは話し合いの場。あの小さな部屋でなくとも顔ぶれが揃えば行うことはできよう。私は教皇位を返上し、持っているのは次期教皇の指名権のみである。しかしこの場にいる黄金聖闘士の同意を得て、評議を滞りなく進めるために臨時でこの座に着く。教皇と神官長がどちらも不在の場合、神官長代理より黄金聖闘士の意思が優先される旨、相違ないな」

 

「相違ございません」

 

とシジフォスがすかさず応える。彼はセージの言葉に驚きをみせず、それどころか呼応して動いていた。やはり二人は通じていたのだと何人もの神官が悟った。

 

 老人は頷き、今度はテオドシオスを見据えた。

 

「神官長代理よ。そなたが次なる教皇にと望む者が同席するのだ。このまま評議を開いても構わぬな」

 

「お待ちください。譲位の後ではいけませんか」

 

「ならぬ。ここに聖域の財産が不当に持ち出されたとの報告がある。その真偽を論ずるのが先だ」

 

 場がざわついた。老人はそのまま話を始めようとした。しかしそれにテオドシオスが待ったを掛けた。

 

「教皇ではない方が玉座に掛けられたままというのは納得がいきません。我々も立ったままでは些か辛うございます。やはり場所を変えませんか」

 

「では床に座ろうじゃないか」と射手座の若者が快活に言った。聖衣を身に付けたまま器用に絨毯の上に胡座を掻く。ふむ、とセージも頷き、兜を玉座に置き去りにして玉座前の階段に腰を下ろした。仕方なく神官たちも床に座り込んだ。どことなく遊牧民の部族会議を思わせるような光景が生まれた。

 

 場の長老が改めて口を開いた。

 

「射手座よ。まずは予定よりも外部任務が長引いた経緯をこの場で詳らかにいたせ。神官たちはそなたの帰還が遅いことに気を揉んでおったようだぞ」

 

 一同は老人の言葉に同意した。神官長代理が苦々しげに前方の床を睨んでいるのを、隣でヨルゴスは心配げに見守った。

 

「今回の我が任務は女神捜索でした。アテナに関する情報収集をしながらの旅でしたので、各地の噂も耳にいたします。帰路でのこと、去年から羽振りが良くなったという家の噂を聞きました。時期的にみて降臨したアテナのご加護を受けた可能性を考えました」

 

 ――若者は近隣でその家のことを聞いて回った。

 

 その辺りでは一番の旧家だという評判だった。先代の当主が外国の貿易船か何かに投資して、それが失敗した時に土地のほとんどを売り払ったそうだ。しかし去年に土地をまとめて買い戻し、家は再び持ち直したともっぱらの噂だった。

 

『大きなお屋敷ですから、行けばすぐに判りますよ』

 

 噂好きの近所の女房に教えられた道を進むと、確かに立派な家構えである。外から見た限り怪しいところはなく、そのまま訪問することにした。現れた使用人にロドリオ村にある聖堂の名を告げて、主人に会いに来た旨を伝える。彼は客間に通された。

 

 やがて現れた当主は気のよさそうな四十代の男だった。前触れもなく訪問した客を見て、訝しそうに目を細めた。

 

『聖堂の方というのはあなたですか』

 

『いいえ、実は偽りの身分を名乗りました。私の所属はご主人だけにお伝えしたかった。私は聖域と呼ばれる地から参りました』

 

 彼の明かした言葉に、当主は『おお』と頷いた。『弟がその地で働いております。働く、という表現でいいのか判りませんが、とにかく若い頃からそこにおります。よそに聞かれる時は弟は修道院に入ったと説明しておりますが、聖域の方をお相手に隠す必要もありません』

 

 聖域の存在は隠されるべきもの。肉親がそこに連なる者として、男の対応は正しかった。

 

 当主の弟は聖闘士候補生として聖域入りしたという。そこで成功して、今では生家に仕送りをしてくれるのだそうだ。前年に大金が手に入ったのも弟が手を回してくれたからだった。アテナとは何の関係もなかった。

 

 シジフォスの話の途中だが、堪らず神官の一人が疑問を呈した。「お待ちください。『聖域で成功した』とは、どういう意味でしょうか。聖闘士の称号を得ても、それで財を成すのは難しいと存じますが」

 

「さよう。何か後ろ暗いことでもやっているのではないか?」

 

「まあ待て。射手座様の話の途中だ」

 

 ――シジフォスは兄弟がどのように金をやり取りしていたのか当主から聞き出した。

 

 それによればまず、聖域にいる弟がなにがしかの品物の代金として俗世の商人に金を払う。この際、品物の納品先を聖域ではなく兄のいる生家としておく。そして品物が届いたその場で、兄は商人に同じ品物を売却する。商人は品物を買い取った代金を兄に支払う。こうすることで兄弟は周囲には肉親の仕送りと気づかれることなく金をやり取りできる。商人のほうでも労せずして手数料代わりの差額が手に入るのだという。

 

 その旧家を辞したシジフォスは聖域への道を遠回りして、仲介者となった商人を訪ねた。

 

「仲介人にとってはただの商いの一環ですから、しっかりと記録が残っておりました。それを見せてもらいましたが、聖域にいる側の取引人の名が弟本人の名前ではなく、聖域の使う偽名で記されていたのです、しかもこの仲介人、普段から聖域と付き合いのある商人でした。つまり台帳には金の支払人として聖域の偽名が並ぶばかりで、それが正しく聖域としての買い物なのか、個人の送金の隠れ蓑にされたのか私には区別できませんでした」

 

「それは仕方ないのではありませんか」と神官マタイオスが口を挟む。「弟のほうも俗世に送金をしていると知られたくなかったのでしょう」

 

 若者はそれを無視した。「ここに取引を控えてきました。聖域の出金記録と照らし合わせて、金の出どころが区別されているか神官に確かめてもらいたい。……と、このような調査をしていたため帰着が遅れた次第にございます」

 

「それはご苦労だった。ちなみにその商人は何と申す」

 

 セージの問いにシジフォスは答えた。

 

「プラカ地区にあるツィメント商会です。ソティロス聖堂の近くに店を構えております」

 

「ほう。それは奇遇な。私のほうでもつい最近その名を聞いた」

 

 不思議そうな一同に向かい、老人は説明する。

 

「皆も知っているように、収入と支出は帳簿によって管理されている。私の手の者がある用事で――これは今回の件には関わりがないから省略するが、昨年の経費を精査した。その結果、闘技場の改修のために大金が使われたという記録を見つけた。しかし実際には普請の計画はなく、購入したはずの大量の建材は聖域内には保管されていなかった。つまり架空の普請だったということだ」

 

「失礼ながら、それは確かでしょうか」

 

と神官の一人が不満そうに反論した。「去年の記録と仰いますが、表だって見えないところで普請をとうに終えていただけかも知れませんよ」

 

「聖域の普請を請け負う雑兵が下にいる。まとめ役は棟梁と呼ばれているそうだが、その棟梁にも確認済みだ。彼はこれまで手がけてきた普請の内容を手元に控えていた。後を引き継ぐ者たちのために事細かにな。その裏付けを取ったうえで、架空の計画だったと申しておる」

 

「取引があったように装い、金を持ち出した。そういうことですか。いったい誰がそんなことを」

 

 気色ばむ神官を宥めてセージは話を続ける。

 

「先走るな。さて俗世の建材屋との取引さえも架空のものなのか。記録として教皇宮の書庫に収められていた契約書は偽造のものなのか。それを確かめるべく、取引の場とされたロドリオ村に調べに行かせた。そして金の受け渡しが記録の通りに行われたことが確かめられた。この建材屋がツィメント商会だ。ただし買った建材の納品場所はロドリオ村ではなく、まったくべつの遠い地が指定されていたそうだ」

 

 まさか、と神官ソネルが呟いた。「まさかさきの射手座様の話に繋がるのですか。仕送りというのは聖域の財産を横流しして行ったと……?」

 

 セージはテオドシオスのほうを見やった。

 

「ここまで調べを付けたところで私は教皇の座を追われた」

 

「ならば今後は私のほうで調べを進めます」とテオドシオスが後を引き取った。

 

「現金の絡む俗世との取引は出納係に任せておりました。ご存知のように私の部下だったアリスティディスです。その立場を利用して横流しを行ったのでしょう。あの者が聖域から去ったのも、きっと事の露見を恐れてのことに違いありません。犯人はアリです。上役だった私が、責任を持って奴の犯した罪を暴きます」

 

 神官長代理の言葉に、ふ、とセージは笑った。

 

「しかし彼の本名はアリスティディス・コレティス。射手座が調べてきた分限者は何という家だ?」

 

 シジフォスが答える。「カトリヴァノス家です」

 

 神官たちの目がある一点に集中した。セージも同じ先を見つめた。いつか見せた、鎌の刃が光るような笑みを浮かべている。

 

「私の調べでも同じ名前が出てきた。つまり生家に多額の仕送りをしている当主の弟というのは、そなただな。テオドシオス・カトリヴァノス」

 

 一同の視線の先では、神官長代理が身じろぎもせずに床を見つめていた。

 

「そなたはかつて候補生として聖域に入り、小宇宙を体得できなかったために神官に転向した。そして今や神官長まで手が届くほどに出世した。それは成功といって良いだろう。しかし神官の身で財を成したと兄に誇るために何をした?」

 

「言いがかりでございます」とテオドシオスは顔を上げた。「私は俗世を捨て、ただの一神官としてアテナにお仕えする身です。兄に送る金など持ち合わせておりません。誰かが私の名を騙ったか、私を貶めようとしたのではございませんか」

 

「そうかな。聖域の財産を着服して、一部を生家に流していると考えると合点がいく。なにしろこの件以外にも、不自然な支出が見つかっておる。帳簿の辻褄合わせは上手いようだが、水増しした金額を小さく見せることまではできなんだか」

 

「な、なにを……」

 

「主計を司るそなたであれば、俗世との金のやり取りも帳簿の書き換えも怪しまれずに行える。出納係が姿を消したのは、その片棒を担がされた罪悪感からではないかな」

 

「すべて想像でしょう」

 

「想像ではないぞ」と、シジフォスが高らかに言った。「ほら、証拠が来た」

 

 若者の視線の先には、今まさに入室してくる三人の姿があった。先頭は魚座の黄金聖闘士。それに伴われているのは元出納係。そして大量の台帳や紙の束を抱えてやってきたのは、これまで行方不明だった教皇の弟子だった。

 

「なぜ」と呻く声が隣から聞こえ、ヨルゴスは友人を振り返った。しかし、すぐに気を持ち直して三人に尋ねた。

 

「何用でございますか、魚座様。ここは教皇の間ですぞ。黄金位であるあなたはともかく、法衣を返上した部外者と候補生まで連れてお越しになるとは」

 

「ふん」

 

 温厚な良識派として知られるルゴニスの返答であった。老人が苦笑している。

 

 魚座のルゴニスはセージと向かい合うように広間の入口に近い側に陣取った。次いで元出納係のアリスティディスがその後ろに控えた。マニゴルドは何かの書き付けを師に渡してから、運んできた帳簿類を座の真ん中にせっせと広げている。

 

 神官ヨルゴスは今度はセージに向かって訴えた。

 

「百歩譲って、アリは本件の犯人としてこの場に召喚してもいいでしょう。しかしあなたのお弟子は聖闘士ではない。即刻この場を立ち去ってもらうべきです」

 

「我が弟子のことは雑兵だと思って無視せよ。資料を運ばせただけだ。私や射手座の話が推測ばかりで根拠のないものか、そなたら神官たちの目で確かめてもらおうと思ってな」

 

 独房を抜け出した後の少年の行動を聞くべきか。流用に関わっている疑いが濃厚な元出納係を弾劾すべきか。それとも老人の話を確かめるべきか。テオドシオスの指示が欲しくてヨルゴスはもう一度振り向いた。しかし友人はというと、丸い顔に脂汗を浮かべて黙するばかりだった。

 

 そうこうするうちに、少年は何食わぬ顔で部屋の隅に引き下がってしまった。仕方なくヨルゴスは三番目の選択肢を取った。

 

「……エウゲニオス殿、頼む」

 

 名指しされた神官は少し狼狽してからそれに従った。テオドシオスに不利な証拠が出るのを恐れて止めさせようとする者もいた。しかしヨルゴスはそれを無視した。同志たちの動揺は友人の身の潔白をもって抑えればいい。そう考えたのだ。

 

 エウゲニオスは金の流れを確かめ始めた。契約書や台帳、帳簿を見比べる様子を一同は無言で見守った。と、老人の声に意識を引き戻される。

 

「ところでハーミドよ。聖闘士が外部任務に赴く時に路銀を与えられるのは知っておるな」

 

「あ、はい。心得ております。任務に掛かる日数や地方に応じた額を計算し、出納係に連絡するのは私の務めでございます。用意された路銀を出立前の聖闘士に渡すのも同じく」

 

「ではそなたも帳簿で己が仕事の結果を見るがいい」

 

 ハーミドは同僚の調べている出金台帳を横から少し借りてページをめくった。俗世への支払いと同じように、聖闘士に渡された路銀の額もそこに記載されている。次第に彼の顔は険しくなっていった。担当者である彼の記憶よりも多額の路銀が支給されていた。

 

 指示は書面でも伝えていたはずだが、どこで間違ったのか。床に置かれた台帳の中から神官同士の連絡記録をまとめたものを探し出して、自分の書いたものを確かめた。支払い額を記した帳簿と同じ額の連絡。つまりはハーミド自身の指示通りに路銀が用意されたことになる。しかし本人の感覚よりも額が大きい。

 

 納得がいかず連絡書を見つめていると、ふと金額の部分に違和感を覚えた。目を凝らした。気づいて「あっ」と叫ぶ。金額を示す数字が巧妙に書き換えられていた。別の機会の連絡書も確かめてみると、いずれもハーミド自身の出した元の額より金額が高くなっていた。

 

「金額部分が改竄されております。しかし聖闘士に渡す前にこの目で現金を確かめておりますが、その時には一度も差違はなかったのですよ。アテナに誓って事実です。私が差分を着服したのではありません!」

 

 セージが真向かいに座る者に声を掛けた。「アリスティディス。当時の出納係として説明を」

 

「はい。聖闘士の任務用の金はハーミド様の指示通りの額を用意いたしました。連絡書の金額が書き換えられたのはその後。ですからハーミド様に責はございません。金庫から密かに引き出した実際の額と帳尻を合わせるために、任務が完了した記録に手を加えられたのです。過去の連絡書面など誰も見返しませんから、気づく者もありませんでした」

 

 疑り深いソネルがハーミドの所までいざり寄って、その手元の資料を見つめた。そして元出納係を見やる。

 

「あなたが改竄を行ったのですか?」

 

「彼ではない」

 

と、セージは穏やかに否定した。

 

「彼は記録が改竄されたことに気づいて私に報告しようとしたのだ。しかしそれを察した犯人に脅された。金銭を扱う機会は多いが下級の出納係に過ぎない者と、次期神官長の座も近い上級の管理職とでは、どちらの話が信用されるか。どちらが横領犯として見られるか。報告すればその罪はおまえのものになると脅され、報告しなくても共犯を強いられることになる。そしてどちらも選べなかったアリスティディスは聖域を離れた」

 

「申し訳ありません!」

 

 一声叫んで元出納係は平伏した。

 

 わずかに首を捻って魚座のルゴニスもその様子を眺めた。彼は他の神官から、元出納係の身を保護するためだけにこの場にいた。そして評議に参加する予定はない。言うなれば高みの見物ができる立場だ。

 

 ソネルが平伏したままの元同僚から老人へ目を転じる。

 

「本人の言葉を信じて、金額の改竄を行ったのはこの者ではないとしましょう。ではお伺いしますが、誰が改竄を行い、聖域の財産を不当に目減りさせたのですか。出納係の目を潜って金を持ち出すことを、誰ができたのですか」

 

「どう思う、上役だったテオドシオスよ」

 

 同僚の疑問に、そして老人の問いかけに太った男は答えない。血の気が引いているその姿は出来損ないの蝋人形に見えた。

 

「沈黙もまた答なり。ではアリスティディスに聞こう。そなたに罪を被せようとした者は誰だ」

 

「…………テオドシオス様でございます」

 

 教皇の間に泥めいた沈黙が広がった。

 

 離れていた所で眺めていた悪童が欠伸をした。

 

 しばらくして、嘘です、と一つの呟きが生まれた。神官ヨルゴスが友人を庇って声を上げた。

 

「嘘です。テオドシオスは譲位を進めようとする者。それに抵抗する方々が彼を嵌めようとして、このような手を打ったのでしょう。神官長に騙されたのでしょう。目をお覚まし下さいセージ様!」

 

「それは言いがかりだ。そこにある出納の記録は間違いなく正式なものだ。実際に聖闘士に渡った金額は記録より少ないようだがな。正確なところが知りたければ、受け取った本人たちに確かめるがいい。任務の報告書と照らし合わせれば話の信憑性も分かる。少なくとも私の手の者はそうして裏を取った。雑兵に普請の件を聞きに行ったのと同じようにしてな」

 

 それまで俗世の商人を介しての金銭の流れをみていたエウゲニオスが、ようやく帳簿から顔を上げた。

 

「セージ様と射手座様のお話は筋が通っているようです。少なくともツィメント商会を通じて聖域の資金が俗世の一領主に流れていたことは、事実のようです。これほど額面が一致するのは……、信じたくはないのですが……」途中でつっかえ、彼は一つ息をして落ち着いてから言い直した。「失礼。聖域の記録や売買契約の書面では、聖域としての通常の取引と、それを装ったカトリヴァノス家への送金の違いは見てとれません。いずれも建材を買うために聖域の金庫から代金を支払われております」

 

「そこまで違いがないなら、ロドリオ村で先方と顔を合わせている出納係が怪しいということではないかね。直接先方に納品場所を伝えられるのはその者しかいないのだから」

 

と、ようやくテオドシオス本人が反論した。

 

 元上役に睨まれ震えながらも、アリスティディスは答えた。

 

「この商会に代金を支払う際は、テオドシオス様から二種類の鳥の羽根を持たされておりました。ある時は山鳩の茶色い羽根。別のある時は鶏の白い羽根。それを現金と共にツィメント商会の者に渡すのです。意味は分かりませんでしたが、私は外出記録の一部として日記に書き留めておりました。故郷にいた私を迎えにきた方にその事をお話ししますと、それが私の潔白を示すものになりうると言われました。今この場にその日記を持参しておりますので、お確かめください」

 

 彼が懐から出した小さな手帳を、近くの神官が受け取った。ここで手を差し出した者が二人いた。

 

「その嘘吐きの私物はこちらで預かる」とテオドシオス。

 

「こちらへ。日付と羽根の関係だけ確かめたい」とエウゲニオス。

 

 手帳を預かった神官は一瞬だけためらった。それから真っ直ぐにエウゲニオスのところへ持っていった。ぱらり、ぱらりとページをめくる音が皆の耳に届いた。日記の記述と、帳簿と、商会の取引記録と。それらを見比べたあとでエウゲニオスが出した結論は、

 

「鳩の羽根が聖域としての正規の取引。鶏の羽根がカトリヴァノス家への横流しを意味しているようです」

 

ということだった。

 

「つまり一度取り決めをしておけば、聖域にいるままツィメント商会に連絡ができるということだ。金を運んだ者には気づかれずに、何度でも」

 

「後でツィメント商会に聞いてみましょう。託された羽根の意味と、その習慣を始めた者が誰なのかを」

 

 セージとシジフォスの会話を聞いて神官長代理は俯いた。膝の上で両の拳がきつく握りしめられた。

 

 ヨルゴスが友人に声を掛けようとした時、再び老人の深みのある声が場を支配した。

 

「さて、私はテオドシオスを始めとする神官たちによって、星見を誤り女神に背いたとして弾劾された。けれど旗振り役自身が己の欲のために聖域を謀っていたとなると、その言い分も純粋に聖闘士の未来を考えたものであるか疑わしいところだ。聖域で恣(ほしいまま)にふるまうための詭弁でないと誰が言い切れよう。それともそなたらは自分も甘い汁が吸えれば良しとして目を瞑るのか。それは堕落した者の考えかたである。女神の意に背いているのが誰なのか、よく考えるがいい」

 

 神官たちは老人の顔を見ることができなかった。しかし一人が羞恥心を堪えて反論した。

 

「それを理由に退位そのものを反古になさるおつもりですか」

 

「否。私は先日書いた譲位同意書の内容を翻すつもりはない。射手座が聖域に戻ったら後継者を指名すると言ったことについても同様だ。約束は守ろう」

 

 神官たちの視線は不安げに交錯した。

 

 シジフォスを次の教皇に就けようとしたのは、テオドシオスのもと、神官主導の聖域の新体制に移行するためだった。それなのに計画の要であるテオドシオスが脱落してしまった。少なくとも彼が神官長に就任する未来はなくなった。

 

 そして黄金聖闘士の二人は、セージがすでに教皇ではないと聞いてもまったく動じていない。これまで互いに接触していなかったはずなのに、まるで全てを知っているようだ。

 

 このまま話を進められては神官にとって不利な方向に進むのではないか。神官たちはそう感じた。

 

「お待ちください。少し休憩を挟みませんか」

 

と、ヨルゴスが割って入った。体勢を立て直す時間が欲しいのだと誰もが理解した。彼にとっても、友人が聖域の財産を着服していたという事実は衝撃的だった。しかし老人は落ち着く時間を与えなかった。

 

「いや、このまま進めよう。すぐ終わる」

 

 そんな、という悲鳴に近い呟きを最後に、神官は主導権を取り返すことを諦めた。

 

「さて私の目には二人の黄金聖闘士が見える。二名とも、前へ」

 

 シジフォスとルゴニスが前へ進み出た。彼らがセージの前に膝を折る姿を神官たちは見つめた。年長の黄金聖闘士から先に問いを受ける。

 

「魚座のルゴニスよ。そなたは玉座を継ぐ意志はあるか」

 

「我が身は健やかさを失いつつあります。とても聖闘士の全てを双肩に担う力はございません。恐れながら辞退させて頂きます」

 

「射手座のシジフォスよ。そなたは玉座を継ぐ意志はあるか」

 

「若輩の身なれば、辞退させて頂きます」

 

「もう一人黄金位がいるが、あの者は同じ問いにどう答えるだろうか」

 

「我が僚友、獅子座のイリアスならばこの場にいないことをもって返答とするでしょう」

 

「正しくそれが兄の答であると、弟の私が保証いたします」

 

 二人は深く頭を垂れ、声を揃えた。

 

「我らの前におわす方こそが次なる教皇。聖闘士を導くにふさわしい方でございます」

 

 セージは淡々とその礼を受けた。

 

「打診した者全てに断られてはやむを得ない。このセージ、再び老骨に鞭打って精一杯務めることにいたそう」

 

 そう言って老人は立ち上がると、段上に向かった。置かれていた教皇の兜を被り、玉座に腰掛ける。こうしてセージは茶番とも言える再就任を済ませた。

 

 見慣れた景色を取り戻し、セージは神官たちを見回した。彼らは祝福することも異議を申し立てることも選べなかった。

 

「新教皇のもとでそなたたちもこれまで通り励むがいい――と言いたいところだが、それには些か問題があるな。問題を解決して未来に向かうために話をしよう」

 

          ◇

 

 そのまま神官たちは別室に押し込められた。そして下位の者から一人ずつ呼ばれては、教皇のもとへ連れて行かれた。譲位計画にどれほど関与したのか、そして恭順の意志はあるのかを問われるためだ。

 

 ちなみに神官を教皇の間へ連れて行くのは教皇の弟子だった。黄金聖闘士の二人は教皇の側に控えているし、雑兵についてはテオドシオスに抱きこまれた者とそうでない者をセージはまだ区別できていない。

 

「あんな小僧に……! 独房に閉じ込めるなど情けを掛けないで、やはり殺しておくべきでしたよ」

 

「もういい。ヨルゴス。私たちは負けた」

 

 一度呼び出されて部屋を出ていった神官は戻ってこなかった。お陰で少しずつ部屋は広くなったが、誰かが憂鬱な溜息を吐いた。

 

「つまり決起の首謀者に近いほど後回しというわけですね」

 

「立場の弱い者は独力で権威に立ち向かえない。寝返りを狙ったか」

 

「いや、セージ様――もう猊下でいいか――が話をすると仰っているのはテオ殿のこともでしょう。横領に関与していないことが明らかな者や、現場に近い者から順に事情を聞いているのではありませんか」

 

 彼らは項垂れている神官長代理のほうを見やった。そしてもう一度溜息を吐いた。いきなり教皇に寝返って元同志を糾弾する側に回るほど彼らは厚顔ではなかった。かといって聖域の財産を私した者を庇うには情に徹しきれなかった。

 

 やがて日も沈み、部屋は真っ暗になった。気を利かせたつもりか、マニゴルドが灯りと水差しを持ってきた。部屋は明るくなったが雰囲気は暗いままだ。

 

 そして最後の二人が残った。ヨルゴスが、ふと老人から言われていた言葉を思い出した。

 

「……今宵、ある一本の蝋燭の火が風に吹かれることなく消える。同じ燭台に据えられた他の蝋燭も、やがて同じ運命を辿るだろう」

 

 テオドシオスが顔を上げた。「それは何だ、ヨルゴス」

 

「昼に猊下とお会いした時に皆に伝えるようにと告げられた言葉です。予言めいていますが、今の状況を予見してのことでしょうね。今更思い出しても何もできませんが」

 

 ヨルゴスは自身の不甲斐なさを鼻で笑った。

 

「一本目の蝋燭はテオ殿、あなたの夢でしょう。すでにそれは消えた。二本目は皆の信望だ。あなたに幻滅し、託した希望が消えた。私たちは負けたのです」

 

「いったいどういう話の流れで出たのだね。その予告は」

 

「小僧のことを話した後でした。この予言の直後に射手座殿が戻られたのです。あんな取るに足らない者のことなどのんびり喋っている場合ではなかったですね」

 

「そうだな」とテオドシオスは力なく笑った。「そういえば、ヘルメスとはどういう意味か判ったか」

 

「猊下が仰るには、死者の魂を冥界へ運ぶ導き手のことだとか」

 

「死者の」

 

「猊下が言明を避けられたので、彼が人を殺したことがあるかどうかは結局判らずじまいでした。もっとも、ないと断言されなかった以上は後ろ暗いところがあるとみていいでしょうね。もっと早く情報を掴んでいれば敵の弱点になり得たかもしれないと思うと、残念です」

 

 部屋の戸が開いて、外から話題の少年が覗き込んだ。「次。ヨルゴスさん」

 

 お先に、と会釈してヨルゴスが部屋を去った。

 

 最後の一人となったテオドシオスは、友人の残していった言葉を噛み締めた。部屋の隅で燃えている灯りを睨みながら。

 

 蝋燭が消える。

 

 それは野望が潰えるくらいで済むだろうか。普通の比喩ならば命の火が消えることを意味するだろう。教皇を譲位させるという計画を立てた時点で、失敗すれば処刑されることは頭にあった。ただ、失敗をするとは思っていなかった。

 

 無血の譲位計画だった。お陰で今まで誰一人として死んでいない。帳簿の細工に気づいて教皇に密告しようとした小賢しい出納係さえ、殺さずに済ませた。濡れ衣は着せたが、命は取らずに聖域から離れるだけで許してやった。それなのに自分だけは死ななくてはならないのが、急に理不尽に思えてきた。

 

(猊下はそれでも私を処刑するだろうか)

 

 どうにか金を工面して返納して減刑してもらおう。これまでに使い込んだ金が幾らになるか覚えていないが、同僚や部下を歓待した分も入っているから彼らにも負担してもらおう。聖域の金で飲み食いさせたのも共犯者になってもらうためだ。関係ないような顔をさせてなるものか。

 

 それから兄からも仕送りした分も返してもらおう。そもそも生家へ金を送ったのは、家を没落から救うためではなかった。俗世にいる家族に己の才覚を見せつけてやりたかったからだ。ただ家を繋ぐことしか望みのない兄や、聖闘士など訳の分からないものを目指すのは止めろと言っていた家族たち。それを振り切って聖域入りしたのに、聖闘士になることは叶わなかった。それでも聖闘士を見下ろす場所で、聖闘士の指導者を動かすことはできるはずだった。自分は間違っていないのだと知らしめたかった。

 

 年下の獅子座や魚座の黄金聖闘士が表舞台から退場しても、神官の自分はまだまだこれから輝けると思った。

 

 だが失敗した。

 

「やはり私は死ぬのか」

 

 彼は自分の声が掠れていることに気づき、不意に動揺した。

 

(死にたくない)

 

 息苦しさを覚えた。落ち着こうと卓上の水差しに手を伸ばしかけた。が、あまりに震えている手を見て止めた。何か他のことを考えて気を紛らわせようとする。しかしうまくいかなかった。

 

 そのうちに教皇の弟子が迎えに来るだろう。その時こそ蝋燭の火が消える時だとテオドシオスは考えた。

 

(そういえば、死刑執行人だとか言っていたな)

 

 少年の名の意味を思い出し、彼は己が身を抱いた。教皇の弟子は人殺しだ。そして堂々と死刑執行人を名乗っている。きっと教皇も知っている。マニゴルドは教皇の命を受けて咎人を処刑しにやってくる。この部屋にはもう彼一人しかいない。目撃者はいない。ヘルメス。なにが象徴なものか。正しく死の使いだ。

 

 テオドシオスは戸の鍵が開く音に顔を上げた。

 

 戸の向こうにいるのはきっと死に神だ。鼓動が速まり、胸が痛くなった。きい、と音を立てたほどだ。いや、今のは蝶番が軋んだ音だった。大きく開かれた戸の外に立っていたのは、教皇の弟子だった。少し前まで侮っていたはずの相手が、今は無性に怖かった。

 

「迎えに来たぜ」

 

 そう告げた少年と目が合ったとき、彼の心臓が限界を超えた。

 

          ◇

 

 あ、とマニゴルドは声を上げた。目が合った途端、太った神官が白目を剥いて倒れてしまったからだ。

 


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