【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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赦祷文(レスポンソリウム)――シジフォスの困惑

 

 教皇による詮議は続き、今やとっぷりと日が暮れていた。教皇譲位の件と公金横領の件をまとめて聞き取りしているのでどうしても長引く。

 

 詮議の最後を締めくくるのはテオドシオスだった。教皇の間では先に話を終えた者たちも居合わせている。皆で彼の到着を待つばかりだった。

 

 と、黄金聖闘士の二人が、ついで若い神官たちが、最後に年長の神官たちが、扉のほうを見やった。玉座の主だけは悠然と前を見据えたままだ。

 

 太った法衣姿の男が前屈した恰好で宙に浮きながら入室してきた。否、自分より大きな男を担いでマニゴルドが入室した。

 

「お師匠どうしよう。デブが死んじまった」

 

 少年は言うなり男を床にどさりと転がした。麦の大袋よりぞんざいに運ばれてきたのはテオドシオスの体。広間の隅にいた神官たちは慌てて駆け寄った。

 

「テオ殿! しっかりなさってください」

 

 一人が彼を助け起こし、頬を叩いた。しかし反応はない。脈を、そして呼吸を確かめるが手遅れだった。まだ温かい体を囲んで神官たちは慌てふためいた。

 

「何をした小僧!」

 

「知らねえよ。俺は何もやってない。部屋に迎えに行って戸を開けたら、その場でぶっ倒れたんだよ」

 

 見かねたシジフォスが混乱の中に分け入って、テオドシオスの蘇生を試みた。しかし効果はなく、やがて半開きだった死者の瞼が閉ざされた。

 

 その間にマニゴルドはセージに促されて人の輪から遠ざかっていた。

 

「お師匠」

 

「言うな。道のりがどうあれ、彼はここにいる」

 

 老人の視線は弟子の顔から右にずれ、左肩の少し上に向けられた。何もない空間だ。しかしセージはその何もない宙に手を差し伸べ、ゆっくりと元に戻した。マニゴルドの視線も自分の顔の左から師の指先へと移っていった。

 

「後は任せておけ」

 

 その言葉に少年は頷いた。重要なものを引き渡してほっと一息吐いた。

 

 ばさり。教皇が場の空気を変えるように法衣の袖を翻した。

 

「テオドシオスに逃げ切りを許すつもりはない。まだ聞きたいこと、確かめたいことは残っておるのだ。ゆえにこの場で彼を甦らせよう」

 

 一同は耳を疑った。

 

「まだ蘇生が間に合いますか」

 

「アテナが我が祈りに応えて下されば可能だ」

 

「祈り……?」

 

 周囲の戸惑いをよそに、セージは懐から古ぼけた一枚の札を出した。死者の胸に置かれたそれを見て一同は息を呑んだ。アテナの霊血《イーコール》をもって御名が記された護符。俗に「アテナの護符」と呼ばれる、一時的にアテナの加護を受けるための道具だ。神々との戦いで後年セージが大盤振る舞いすることになるが、平和な時代には見る機会のない秘具である。

 

 死者の頭の横に片膝を付いて座り、セージは一同を見渡した。

 

「私に女神の代理人としての資格がないと弾劾した者たちは、よく見ておくがいい。女神のお力添えで私がこれから行うことを」

 

 横たわる者の額に手をかざしてセージは目を瞑った。姿勢が崩れそうになるが、弟子がすかさず支えた。

 

 やがてテオドシオスは息を吹き返した。ゆっくりと目を開いて辺りの様子を確かめ、眠りから覚めたように身を起こした。

 

「ここは教皇の間? 私は……今のは夢か」

 

 周りにいる神官たちを見回し、その流れで少年の存在に気づき、「ひい、処刑人」と身を竦める。

 

「テオドシオスよ。そなたは生き返った。すべきことは分かっておろうな」

 

 呼びかけた教皇と目が合う。その瞬間テオドシオスは平伏した。

 

「真に申し訳ありませんでした。このテオドシオス・カトリヴァノスが犯した罪、全て猊下に申し上げます!」

 

「うむ。全て白状するがいい」

 

 鷹揚に頷く教皇と、罪を悔い改める罪人。その光景に、神官たちは全てを丸く収める風が吹いたと感じた。

 

「奇跡だ……!」

 

「アテナ万歳!」

 

「教皇セージ万歳!」

 

 女神と教皇を称える歓声が広間に響いた。

 

 テオドシオスは蘇生したその夜のうちに全てを自白した。

 

 横領は十年ほど前からずっと重ねていたそうだ。経費に水増しする形で、金庫にある実際の貨幣と帳簿上の数字をすりあわせた。それは聖域の金庫を預かる彼にとってたやすいことだった。

 

 横領に手を染めたきっかけについてはこう答えた。聖闘士より聖域に貢献しているのに評価されず、何らかの形で対価が欲しかったのだと。不当に手に入れた金を使って同僚や部下をねぎらったのは、彼と同じ不満を抱いている神官たちの鬱憤を、和らげてやりたかったからだと。

 

 そしてアテナ捜索が始まって金が頻繁に動くようになったのを利用し、今度は聖闘士の外部任務の経費を隠れ蓑にした。捜索に金がかさむことを理由に女神捜索の中止を提言すれば、教皇も考え直すはず。捜索中止が聖域のためだと誰もが考えているのだから、その理由を用意するのも役目のうちだった。もし経費の無駄を見直そうという動きが出て横領が明るみに出たら、その時は出納係のアリスティディスに罪を着せるつもりだった。

 

 俗世の商人を介しての生家への送金にも、やはり聖域の金を宛てていた。建材購入を装ったのは、まとまった額を動かしても不自然ではないから。方法についてはセージとシジフォスが語った通りだった。

 

 欲と不満と綺麗事と。しかし印象を良くするために口にした綺麗事の中にも、間違いなくテオドシオスの真実があった。

 

「汚泥と砂金を練り上げたような男だな」

 

と、陪席したルゴニスが評した。すると同じく陪席していたシジフォスが忌々しげに、

 

「なにが砂金ですか。泥と糞の間違いでしょう。この者は罪を犯しました。猊下を背任者呼ばわりしながら自らが聖域に背きました。今述べたこともどこまで本心か。紛うことなき悪人です!」

 

と非難した。若者らしい潔癖さだった。

 

 テオドシオスは黙って頭を下げた。

 

 セージはその後頭部を眺めていたが、唐突に「続きは明日にしよう」と取り調べを終えた。テオドシオスは麓の宿舎にある自室に帰された。表に監視の雑兵がつくが、牢獄に繋がれるのとは比べものにならない待遇の良さだ。帰りがてらということで、ルゴニスが送っていった。

 

 教皇の間から退出するセージの後をシジフォスが追った。

 

「なぜあの薄汚い裏切り者を帰したのですか、猊下」

 

「新教皇が即位した、その恩赦というのでは納得がいかぬか」

 

「いきません。失礼ながら猊下はお人が善すぎます。あのような殊勝な態度に騙されてはいけません。悪人は即刻処刑すべきです。本当は私があの場で殺してやりたかった。猊下が生き返らせた奇跡を無駄にするのも、教皇の間を血で汚すこともしたくありませんでしたから、どうにか耐えましたが」

 

 射手座は火の性である。その性質そのままに食ってかかる若者にセージは苦笑した。

 

 そこへ、神官たちの控え室に使った部屋からマニゴルドが出てきた。灯りと水差しを盆に乗せている。

 

「終わったぜ、片付け」

 

「ああ、ご苦労。水差しはまだ厨房には持っていくな」

 

「分かってる。誰も飲まなかったな」

 

「なんだ。水が余ってるなら少しもらうぞ」と、怒りで喉の渇いたシジフォスは水差しに手を伸ばした。

 

「駄目だ」

 

 セージが彼の手を押さえ、マニゴルドは盆を遠ざけた。

 

「な、なにが駄目なのですか」

 

 戸惑うシジフォスを見て、老人が頬を歪める。

 

「私が善人でテオドシオスが悪人だと? 逆だろう。私は業の深い人間だよ」

 

 師弟は廊下の奥へと消え、その場には立ち尽くすシジフォスが残された。

 

          ◇

 

 翌朝、教皇宮への呼び出しのため宿舎を訪ねた人間が、寝台で冷たくなっているテオドシオスを発見した。アテナの護符の力で生き返っても、命数までは伸ばせなかった。そう同僚たちは納得した。事実を白日の下に引き出すためにアテナが教皇に力を貸したのだと、そういう結論に達した。

 

 そして死者を一時的に生き返らせるという奇跡を起こした教皇セージに対して、女神の代理人に相応しくないと申し立てる者はいなくなった。その陰には老人への畏れが半分ほど含まれていた。なにしろ自身は教皇宮にいながらにして、神官とは異なる筋から聖域の実情を調べあげて把握したのだ。下手な隠し事は身の破滅につながる。

 

 神官へは軽重様々な処分が下った。それに伴って教皇宮はしばらく騒然としていた。神官のまとめ役とその右腕がいなくなって大丈夫かと心配されたところに現れたのは、追放されたはずの髭の神官長だった。

 

 彼は故郷へ戻る途中に元出納係を訪ねていたという。そこでテオドシオスの汚職の件を知り、これは聖域の一大事と確信した。真相を明らかにするためアリスティディスを連れて聖域に戻ろうとした。すると途中で運良く任務帰りの射手座と出会ったので元部下の身を託した。そして事件の早期解決に貢献したことが教皇の目に止まって、追放処分を取り消されたということだった。

 

 こうして教皇の座に返り咲いた老人のもとで、髭の男も神官長の座に舞い戻った。彼は再び神官の手綱を取ることになった。

 

 また、神官たちの意見にも聞くべきところがあったと認めた教皇によって、女神捜索の人員は大幅に削られた。捜索を中止することはできないが、神官たちの言い分に譲歩した形である。

 

 一方で、テオドシオスたちに協力していた白銀聖闘士は身柄を押さえられる前に姿を消していた。射手座の帰還を知ってすぐに聖域を逃げ出したらしい。そこで聖闘士の掟に従い、聖域から追っ手が差し向けられた。しかし今のところ逃亡者を始末できたという連絡は入っていない。宿舎には聖衣が置かれたままだったから、もはや聖闘士として生きるつもりはないのだろう。

 

 かくして、この一連の事件は教皇宮の中だけで終わりを迎えた。神官にとっても教皇にとっても、表沙汰になられては困る事件だった。公の記録には、「教皇セージの治世の間に、数人の神官が聖域の財産を私した罪で処刑された」とだけ記されることになるだろう――。

 

 マニゴルドは醒めた表情で耳を掻いた。

 

「それでいいじゃんべつに。めでたしめでたし」

 

「良くない」

 

 彼の前には冴えない表情のシジフォスがいた。

 

 二人は射手座の守護宮である人馬宮にいる。闘技場に行こうとしたマニゴルドを、シジフォスが「聞きたいことがある」と引き留めたのだ。

 

「なあマニゴルド。どこまでが猊下の計画だったんだ?」

 

「何が? 何も企んじゃいないだろうし、企んだところで俺みたいなガキに話すわけないじゃん」

 

 へらへらと笑う悪童を見て、シジフォスは溜息を吐いた。

 

 彼は騒動に巻き込まれてその始末を間近で見ていた身だ。終わってみると、一連のできごとが全て教皇の描いた筋書き通りだった気がしていた。

 

 手紙での指示を受け、彼はまずツィメント商会へ向かった。同行していたマニゴルドが相手の警戒を解き、取引台帳を見せてもらうことに成功した。新聖堂を建てる参考にしたいという作り話をしたのだ。思わずその話は何だとシジフォスは聞いた。ロドリオ村の聖堂の神父が思い込んでる仮説に乗ったのだと悪童はずるがしこい顔で笑った。それから二人で協力して、聖域の関わった取引記録を片端から書き留めていった。その中に予想通りカトリヴァノス家の名前があった。

 

 次に二人は件の家を訪ねた。そして当主の話を人の好い顔で聞きながら必要な情報を手に入れた。ここでツィメント商会を仲介して聖域からの仕送りがあったことはもちろん、その額や仕送りの時期も確かめられた。

 

 それを終えて教皇に念話で「調べを終えたので聖域に帰還したい」と伝えると、神官長の連れてくる者を拾って戻ってこいという指示があった。神官長が聖域を離れていることにシジフォスは驚いた。しかしその事実を聞いてもマニゴルドは平然としていた。事態の異常さを理解していないのだとシジフォスは思った。

 

 それからアテネの市街地にある宿屋で待つこと二日。シジフォスたちの前に待ち人が現れた。神官長が連れてきたのはシジフォスの知らない男だった。元神官だと紹介され、聖域まで連れて帰るよう頼まれた。一方で神官長は宿に残った。彼が追放されていたとシジフォスが知ったのは教皇の間に着いてからだ。教皇宮に上がる前に双魚宮でそこの守護者と合流し、言われるがまま元出納係と教皇の弟子をルゴニスに託した。

 

 その後の教皇の間での評議では、宿屋で受けた指示通りに発言した。まるで芝居の演者になった気分だった。教皇の再即位の後は、そこにいてくれればいいからと頼まれて、分かったような顔で陪席していた。そして神官への尋問を聞いて、ようやく一連の流れを把握したのである。

 

 評議の場では、教皇の弟子は大した存在感はなかった。しかし教皇の手足となって裏で色々と調べ回っていたのは、シジフォスではなくマニゴルドだ。教皇の思惑を知っている者がいるとすれば、その弟子だった。シジフォスの考えではもう一人いるが、話を聞きやすいのは目の前の少年だ。

 

 ちなみにルゴニスは「何もしないのが私の役目だった」としか教えてくれなかった。彼もまた巻き込まれた側だったらしい。

 

「白を切るにしても、ある程度のことは教えてくれてもいいじゃないか。俺だって猊下の計画で使われた身だぞ。なあ、テオドシオスの二度の死は自然なものなのか」

 

「そりゃ保証してもいい。一度目も二度目も本人が勝手にくたばったんだ。デブだから心臓がくたびれてたんだろ」

 

「一度目の死を確認したのは俺だ。確かに死んでいた。甦ったのがアテナの護符による力だというのも認めてもいい。だけど生き返らせる直前におまえたちがやり取りしていたのは、あれは何だったんだ」

 

「問い詰められてたんだよ。俺が殺したんじゃないかって」

 

とマニゴルドは肩を竦めた。

 

「では俺に水差しの水を飲むなと言ったのは? こんな想像はしたくないが、毒が入っていたんだろう。反逆者たちをまとめて片付けるためか」

 

「毒なんて知らないね。あ、そうそう。虫が入ったんだ」

 

「しかしヨルゴスは蝋燭の炎が消えるのどうのと、猊下から予言を受けたと言っていた。つまり猊下は最低でも一人を息絶えさせるおつもりだったはずだ。それを甦らせるのも織り込み済みで。そうでなければ、あんな都合良くアテナの護符が出てくるものか」

 

「あの場で殺されるかもしれなかったのはお師匠も同じだぜ。たとえばデブ……テオドシオスが逆上してさ。身を守るための道具を隠し持ってたっていいじゃん。準備万端で何が悪い」

 

「周到過ぎたんだ。あれは奇跡を起こして、我こそが女神の代理人であると神官たちに認めさせるためだろう。あの流れを用意できたなら、他にも前もって色々と考えられたはず。叛乱の予兆だって掴めていてもおかしくない」

 

 へえ、と熱のない相槌だけを返して、マニゴルドは膝に置いた包みの端をいじった。教皇宮から持ってきた包みは、掌に乗るくらいの小ささだ。

 

 シジフォスは前のめりになって言葉を紡ぐ。

 

「放っておけば、猊下に対する神官の反目は遅かれ早かれ致命的なものになったかも知れない。しかしアテナをお救いする前に捜索を打ち切られるわけにはいかない。だから神官の反目を逆手にとって、猊下は求心力を取り戻そうとされた。教皇の間で語られたことは、偶然の積み重ねとしてテオドシオスを追い詰めることになったように見える。俺への指示もそうだった。でも実際はあの場は、神官全員の意識を変えるために猊下が用意された舞台だったんじゃないか」

 

「話がくどくて何言ってるか判んねえ」

 

「要するに、テオドシオスを頭目とした造反が起きたのはそう仕組まれたからだろう?」

 

 騒動の翌日、テオドシオスが死んだ日からずっとシジフォスが考え続けていたことだった。

 

 神官たちが事を起こしたのは、神官長が追放されてシジフォスが帰還する直前という時だった。聞けば神官長が聖域から追放された理由は、教皇の弟子を殺しかけたからだという。しかし彼は罪を許され、今は何事もなかったかのように元の地位に収まっている。

 

 教皇はわざとテオドシオスたちに好機と思わせるような隙を見せたのではないか。シジフォスにはそう思えてならなかった。

 

「実際に殺されかけたというおまえには悪いが、おまえが相手を怒らせてそう仕向けたんじゃないか。直前に叫んだのも、人を呼んで神官長の兇行を目撃させるためだろう。違うというならなぜ神官ごときに大人しく首を絞められたんだ。いきなり首を絞められた奴が大声で叫んだりできるか。ちなみに聞こえた叫び声は若かったという証言がある。神官長の声じゃない。おまえの声だ」

 

「…………」

 

 もしマニゴルドがただの少年なら、力の差で大人に殺されかけても無理はない。しかし彼は聖闘士の候補生で小宇宙にも目覚めている。神官や雑兵に力負けすることはないとシジフォスは知っている。

 

「神官長は追放処分を受けた。しかしそこで成功すれば処分を取り消すという約束で密命を帯びたんだろう。その密命が元出納係という証人の確保だ。処分取り消しもありがたいが、うまくすれば政敵を蹴落とせて一石二鳥だ。神官長にとっても悪い話ではなかろうよ」

 

「それだと出納係が行方不明だった場合どうすんだ。相手が都合良く故郷にいたからよかったけど、殺されてたらどうにもなんねえ。出納係の証言があったから神官たちだって教皇の話を信用したんだ。いるかどうか分かんねえ奴を迎えに行かせるなんて、お師匠にとっても割に合わねえ賭けだ」

 

「いや、もし元出納係が口を封じられていても、神官長については後から特赦を出せば呼び戻せる。それに証人がいなくても俺たちが見つけてきた証拠がある。まともな判断力がある者がそれを見れば、テオドシオスが叩けば埃の出る身だと分かるだろう。多少時間は掛かってもそれで十分彼は追い詰められる」

 

 ふうん、とようやく少年は相槌を打つ。

 

「それで? 射手座の黄金聖闘士様は、陰謀論をご開帳して俺に何を教えてくれるって?」

 

「茶化すな。不敬なことを考えているのは分かっているんだ。今回の一件を引き起こしたのは神官の増長だけではないなど」

 

 言ってはならないことだ、と若者は膝に肘を突いて項垂れた。そうして床と見つめ合うと床に沈み込みそうな錯覚に陥った。一方でマニゴルドの声はいつものように軽く微風に乗ってくる。

 

「考えるのはあんたの勝手だろ。でも、その結果うちのジジイのやり方に疑問を持ったらちゃんと反対しろよ。不満があっても黙っているなら賛成してるのと同じだ」

 

 シジフォスが言い返そうとするのを無視して、少年は先を続けた。

 

「だけどな、葬式が終わった後で死者の顔をもう一度確かめたいって言っても通らねえんだよ。埋葬は終わったんだ。いまさら墓を掘り返したって死者は甦ったりしない」

 

「おまえはそういう立場なのか」

 

「なんのことだか」マニゴルドは包みを持って席を立った。「もういいかシジフォス。俺、下に用があるんだ」

 

 宮の主人は出口まで見送った。

 

 少年の姿が階段の向こうへ消えていっても、その表情はまだ浮かない。

 

 マニゴルドに尋ねたことはセージへの不敬を疑われかねない内容だった。神官長よりは口が軽い相手と思って期待したが、思うような答は得られなかった。けれど、きっとそれで良かったのだろう。たとえ真実が得られても今度は別の不満が生まれることは分かっていた。

 

 シジフォスの胸を塞いでいるのは、セージへのある種の懸念だった。

 

 横領に気づいた時点でテオドシオスを罰していれば、彼は造反というより重い罪を犯さずに済んだはずだ。神官長が消え、教皇の弟子が手中にあるという絶好の機会を得て初めて彼の計画は実行された。機会という試練を与えたのは教皇だ。

 

 試練。誘惑。

 

 どちらもギリシャ語ではペイラスモスという単語で表される。打ち克つことが求められるのが試練だとすれば、それに挫折してもいいと思う気持ちが誘惑だ。

 

 かの神官は誘惑に弱かった。だから不摂生をし、横領をし、人に持て囃されたがり、時を待てずに教皇を取り替えるという暴挙に出た。

 

 弱い人間だった。

 

 けれど誰の心でも時に強く時に弱くなるものだ。シジフォスもそう自覚している。また、死んだ相手をいつまでも悪く思うのは彼の性分ではない。だから時が経つほどにテオドシオスへの怒りは薄れ、むしろ同情に変わっていった。

 

 試練に克てるほど強い人間というのは、きっと教皇が期待しているより多くない。

 

(猊下)

 

 若者は我知らず手を組んでいた。そこへ額を押し当てる姿は祈るようでもあり、後悔しているようでもある。教皇にはもう二度と誰かの忠誠心や忍耐心を試すような真似をしてほしくなかった。

 

 少なくともこの時のシジフォスはそう思ったのだ。

 

          ◇

 

 マニゴルドは延々と続く階段を下った。

 

 聞く者のいない白亜の道で、にっと唇を吊り上げる。

 

「さすがに渦中の人物ともなると、勘付いてくるか」

 

 神官長追放に関してシジフォスが想像したことは惜しかった。神官長もまた教皇の駒の一つである。

 

 そもそものはじめ、マニゴルドの学習のために過去の帳簿を書庫から運んできてくれたのが神官長ダビドだった。才覚こそテオドシオスに劣るが、教皇への忠誠心だけは誰よりも篤い男だ。聖域の財産が流出していると発覚してからも、マニゴルドと手分けして色々と調べていた仲間のようなものだ。

 

 それが人を殺めかけたなどという無駄な汚点をつけられて、彼も気の毒だとマニゴルドは同情している。教皇宮が落ち着いたら「あれは単なる言い争いだった」と教皇に告白したことにして彼の罪自体を取り消してもらおうと思っている。狂言芝居の指示を出したのが教皇だとしてもだ。

 

 あの髭面の男は少年の首に手を掛けることさえなかなかできなかった。マニゴルドが大声で叫んだ後でも、まだ首に触れるのを嫌がっていた。

 

『どうしてもやらないと駄目かね、マニゴルド殿』

 

『いいからさっさと締めろよ。鶏を締めるつもりできゅっと』

 

『そんなことをすれば死んでしまう』

 

『温いこと言うな髭。殺る気出せよ。もう人が来る』

 

 けっきょく脈を取る程度の強さでしか触ってこなかったので、仕方なくマニゴルドが上から手を押さえつけて締められるふりをした。そこへ駆けつけてきた雑兵が見たのが、「教皇の弟子の首を絞める神官長」という光景だ。

 

 そして神官長は聖域を離れ、俗世へと旅立っていった。 

 

 あとの流れを見る限り、シジフォスの想像通りだろうと思う。テオドシオスの造反を誘発して反教皇派をあぶり出し、それを叩き潰す。一般の聖闘士には気づかれないよう穏便に、かつ、その場にいる神官たちには確実に伝わる方法で。横領の罪を明らかにするのを神官全員が揃うまで待ったのは、その効果を高めるためだった。

 

 更にアテナの代理人として教皇の力の一端を見せつける。そのための奇跡が神官の死と蘇生だった。

 

「あんな頃合い見計らったような倒れ方されちゃあなあ」

 

 部屋に迎えに行った途端にテオドシオスに死なれた時はさすがに驚いた。そしてその魂が積尸気に向かおうとするのを少年は目の当たりにした。それを捕まえて、体と一緒に教皇の間へ持っていった。セージは魂を引き取って、元の体に戻した。戻す前にセージの体がよろけたのは、自らも魂だけとなってテオドシオスの魂と会話していたからだ。あの場にいてそれを知るのは、マニゴルドのみ。魂を視て語らうことのできる積尸気使いだけだった。会話内容については少年が『えげつねえなあ』と思ったことだけを記しておく。

 

 マニゴルドは闘技場へ向かった。

 

 シジフォスに言ったことはでたらめではない。手合わせの約束を守れなかったことを友人に詫びに行くのだ。

 

 もちろん教皇宮で起きた事件に巻き込まれていたという本当の理由は、友人には明かせない。しかし相手は細かいことは気にしない男だ。詫びの手土産に、女官から貰った菓子もある。

 

 ところがそんなマニゴルドの思惑を裏切り、その候補生は闘技場にいなかった。そのとき、顔見知りが道を横切るのを見かけた。

 

「アスプロス!」

 

 優しげな顔が振り向き、マニゴルドを認めて微笑んだ。「久しぶり」落ち着いたふるまいと声。いつもの模範生ぶりだった。

 

「ちょうどよかった。ユスフ知らねえか」

 

「一足遅かったな。彼ならさっき指導者と連れ立って荒野のほうへ出かけたのを見たぞ」

 

 修行に出かけたなら戻りは夕方になるだろう。

 

 マニゴルドは一瞬だけ迷ったが、手元の袋をアスプロスに見せた。

 

「上で菓子貰ったからやるよ」

 

「ありがとう。しかし俺ばかり分けて貰っているから、たまには別の者にも……」

 

「いいんだよ。その代わりちょっと話しようぜ」

 

 マニゴルドは有無を言わせず彼を建物の陰まで引っ張った。

 

 出させた掌に菓子を乗せていく。針金のように細い小麦粉の生地を焼き固めてシロップを染みこませた菓子は、持ち上げる度に角がパラパラと剥がれ落ちた。

 

「全部で六切れあるんだ。俺の分が二つで」

 

「待て。三・三でいい」

 

 慌てる相手に対し、マニゴルドはのんびりと答える。

 

「ハスガードが前に『アスプロスは貰った食べ物を半分残して持って帰る』って言ってた。三つよりは四つのほうが分けやすいぜ」

 

「しかしそんなに貰えない」

 

「まあ聞けよ。俺の分が二つで、おまえの分も二つ。で、もう一人の分も二つ」

 

「もう一人だと」

 

「持って行けよ、覆面野郎に」

 

 アスプロスは僅かに目を見張り、絶句した。その掌の上には菓子が四切れ。

 

「あいつのことを秘密にしたいのはなんとなく察してる。だけどおまえさ、俺がやったことは誰にもチクらねえって言ったよな。ある神官が俺の名前が死刑執行人って意味だと知っててしかも怯えた顔でこっち見たんだけど、おまえの仕業だろ」

 

 強張りの解けた候補生は苦笑した。

 

「それは誤解だ、とは言い切れないな。……ここ数日姿の見えなかったおまえを心配して、ユスフたちが神官に様子を尋ねたんだ。そこに俺も居合わせた。例の件が明るみに出たのか、他にも何かやって罰せられたのかと思ってな。それが逆に変に思われて問い詰められた。だから仕方なくマニゴルドの名前の意味を教えたんだ。あと抽象的だがおまえの能力について。それだけだ」

 

「それ相手どういう奴だった? 太ってたか」

 

「ああ。かなり」

 

 他に何か話したのかと悪童は聞き、何も喋っていないとアスプロスは正直に答えた。

 

「ならいい」

 

「過去に怯えるくらいなら素直に罪を償えばいいだろうに」

 

「現在進行形の隠し事に縛られてる奴に言われたくないね」

 

とマニゴルドは鼻を鳴らした。

 

 アスプロスは掌を彼のほうへ突き出した。「返す。これはユスフたちにやれ。この俺を菓子如きで口止めしようなどと思うな。ついでにおまえなんかに俺たちの秘密をとやかく言われたくない」

 

「菓子が口止め料とか意外におめでたいよな。俺としちゃ疚しいところのある者同士、これから仲良くしようぜっていうお近づきの印のつもりだったんだけど」

 

 マニゴルドが覆面の人物の正体として思いついたのは、お尋ね者だった。

 

 知ってはならないことを知ったために命を脅かされる者がいる。面倒から逃れるためなら、名前も家族も捨てて夜逃げする者もいる。追っ手を諦めさせるために、自分は死んだと見せかけて潜伏する者もいる。

 

 そういった事情を持つ人物だと考えた。アスプロスはその事情を知って協力しているのだと。犯罪の臭いがするなら、「やあご同輩」と気さくに声を掛けたいくらいだ。

 

 しかしアスプロスは動揺しつつきっぱり言い切った。

 

「俺もあいつも疚しいことなんて何もない!」

 

「そう思うなら覆面野郎と一緒に太陽の下に出てこいよ。俺もジジイも疚しいこと大ありだけど堂々と顔を晒して歩いてるぜ」

 

「猊下を引き合いに出すな」

 

「だってあのジジイは自分のこと善人だなんて思ってないぜ。清濁併せ呑む度量って言うのかな、教皇やるにはそれが必要なんじゃねえの。むしろ清い奴じゃ務まらない。今回つくづくそう思ったね、俺は」

 

 じゃあな、と手を振ってマニゴルドは相手を置き去りにした。

 

 残されたアスプロスは拳を握ろうとして――手の中に菓子があるのを思い出した。ぎりりと歯を食いしばるが、それで踏みとどまる。手を握れば脆い菓子が形を崩してしまう。

 

「なんて卑怯な奴だ」

 

 忌々しげに呟くと、アスプロスは歩き出した。貰った菓子を大事に手の中に包んで。

 


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