【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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余話「百獣の王と花の王」

 

 ある朝、獅子座のイリアスは聖域を歩いていた。朝といってもまだ早い。空は夜の気配を残し、聖域は静かな眠りに包まれている。

 

 彼は緑が濃く生い茂る聖域の外れで足を止めた。ひんやりした空気に植物の瑞々しい匂いが漂う。そこは魚座が暮らす薔薇園だった。イリアスはしばらく薔薇の茂みを眺めていた。

 

 少しすると茂みの間を縫うようにして赤毛の男が現れた。薔薇園の主、魚座のルゴニスだった。僚友がそこにいることを予期していたのか、驚く様子はない。

 

「もう行くのか」

 

 ルゴニスの言葉にイリアスは頷いた。

 

 その旅装と荷物を見れば、彼がまた旅立とうとしていることは明らかだった。どこへ行くともいつに戻るとも、ルゴニスは問わないし、イリアスは告げない。弟のシジフォスが射手座の黄金聖闘士となり、イリアスを聖域に繋ぎ止めるものはなくなった。彼は二度と戻らないだろう。

 

 つまりこれは今生の別れになる。

 

 人付き合いを好まないイリアスが挨拶に来たのは、後に残るルゴニスに自分の分の負担を背負わせることになるのを申し訳ないと思ったからだった。

 

 前夜まで、彼は誰にも何も告げずに姿を消すつもりだった。教皇も彼が去る時期までは知らないだろう。なのに魚座の黄金聖闘士は何もかもを見通したように彼を穏やかに見ている。

 

 ルゴニスはイリアスの生きかたを理解できなかった。

 

 イリアスはルゴニスの孤独を癒せなかった。

 

 けれど確かに二人は同時代を生きた戦友だった。

 

「これを」

 

 ルゴニスは小さな袋を渡した。中を開けると茶色い種が一握りほど入っている。

 

「おまえがこれと思う場所に蒔いてくれ。丈夫な品種だからどこでも根付いてくれるだろう。できれば日当たりの良い場所がいい」

 

「何の種だ」

 

「魔宮薔薇《デモンローズ》の原種だ」

 

 毒薔薇を世界にばらまくつもりかと、イリアスは友を疑いの目で見た。ルゴニスは笑った。

 

「毒はない。原種といっても複数あるうちの一つだ」

 

 魔宮薔薇の特徴は、いくつもの原種を掛け合わせた末に発現したものなのだと庭の主は説明した。だが植物の交配などイリアスの知識の範疇外だった。

 

「どんな花が咲く?」

 

「私にも分からない」

 

 種から育った薔薇は、親種と全く違う姿に育つこともある。だから餞別に渡した種がどんな花実をつけるかは、冗談でなくルゴニスにも想像が付かない。

 

 イリアスは袋の中の種をもう一度見ると、それを懐にしまった。にこりともせずに言う。

 

「きっと大地が祝してくれる」

 

 そして相手の言葉を待たずに、きびすを返して去っていった。ルゴニスは彼の背を見送り、

 

「さらばだ、友よ」

 

と呟いて住まいに戻っていった。それはまだ起きる者のいない、早朝の出来事だった。

 

 

 

【パターン1】

 

 時は移ろい、魚座の聖衣はルゴニスの弟子のアルバフィカが受け継ぎ、獅子座の聖衣はイリアスの息子のレグルスが授かっていた。

 

 双魚宮に駆け込んできたレグルスは、そのまま教皇宮へ抜けるかと思いきや、宮の守護者の姿を探して大声で呼ばわった。

 

「アルバフィカ、いる?」

 

 太陽のようにきっぱりとした小宇宙がやってくることはだいぶ前から感じていたので、アルバフィカはすぐに姿を現した。ただし訪問者には決して近づかない。

 

「私に用か」

 

「これ見て、これ」

 

 少年は邪心のない笑顔で持ってきた物を掲げた。小さな花の付いた植物の枝だった。

 

「俺、花は食べられるか食べられないかしか分からなくて。でもこいつのことは前から気になってたんだ。さっき急に思い出して取ってきた。アルバフィカなら、何の植物か知ってるんじゃないかと思ってさ」

 

 相手に触れないよう注意しながら、アルバフィカは枝を受け取った。野生児は彼を植物博士か何かと勘違いしているようだが、正直、薔薇以外のことには詳しくない。それでも「博識なデジェルに図鑑で調べてもらったほうが早いだろう」と提案しなかったのは、少年の目があまりに彼を信じていたからだった。

 

 花弁を見て、匂いを嗅ぎ、葉の縁をなぞり、茎の表皮を剥がす。野薔薇の一種だろうと見当は付けたが、それ以上のことは分からなかった。

 

「どこでこれを見つけた?」

 

「見つけたっていうか、父さんの体を埋めた時に俺がその上に種を蒔いたんだ。今日久しぶりにそこへ行ってきたら、この花が咲いてた」

 

「では種を採取した元の場所は」

 

「分からない。父さんが生きてる間ずっと持ってた袋に種だけ入ってた。父さんが大事にしてた物なら、ちゃんと根付かせてやろうと思ったんだ」

 

「イリアス殿が」

 

 手がかりどころか謎が増えただけだった。

 

「私には分からないな」

 

「そっか。それじゃ仕方ないね」

 

「済まない。私では役に立たないようだ」

 

と枝を返そうとすると、少年は「それはアルバフィカにあげるよ」と言って風のように出て行った。

 

 アルバフィカはしばらく考えてから、双魚宮にあった花瓶にその枝を挿した。それが師の贈った魔宮薔薇の原種だということを、彼が知る由もない。

 

 聖域から遠く離れた地で、獅子の骸の上に薔薇はこれからも咲き続けるだろう。

 

 

 

【パターン2】

 

 在位する黄金聖闘士のなかで最も若いレグルスは、怖い物知らずの若獅子である。

 

 仮眠を取っていたマニゴルドを叩き起こし、手にした枝をずいと突き出す。

 

「……なんだよ?」

 

「これ、何の花だか知ってる?」

 

 寝起きに枝を突きつけられて、男は少しの間ぼんやりした。守護宮が隣とはいえ、なにゆえ専門外の植物のことを尋ねられるのか。どうせ聞くなら薬草園の世話をしている雑兵でもいいし、博学多識で知られる同僚でもいいはずなのに。

 

「最初はアスプロスに聞いたんだ。でも分からないって謝られて、マニゴルドなら花を贈り慣れているから詳しいはずだって」

 

「あのクソ野郎」

 

 品行方正な澄まし顔が思い浮かび、男は少しだけ腹を立てた。皮肉られるほど女遊びはしていないつもりだが、夜遊びの後に寝ていた身では、八つ当たりすることもできない。

 

 彼は起き上がって枝を調べてみた。決して女が喜ぶような鮮やかな花ではない。だが枝先に付いた花に改めて顔を近づけた時、脳裏の一部を何かが横切った。この香りには覚えがある。いつ。どこで。

 

 心当たりはあった。

 

          ◇

 

 期待顔のレグルスを連れて彼は十二宮の階段を上った。着いた先は双魚宮。

 

「アルバちゃーん、遊びましょ」

 

「帰れ阿呆」

 

 毎度の軽口に毎度のあしらい。気心の知れた二人にはいつものやりとりだが、レグルスは少々面食らった。魚座は孤高の人という印象が強かった。マニゴルドは少年を前に引っ張り出した。

 

「なんてな。今日はこいつの用事。俺は付き添い」

 

「用事?」

 

 アルバフィカはレグルスの持っている枝に目を留めた。レグルスは後ろの付き添いに促されて、枝をアルバフィカに渡した。

 

「これ、何ていう植物か知ってる?」

 

「おそらく野薔薇の一種だとは思うが、名前までは分からない。済まないな」

 

 一通り眺めて返そうとするのを、マニゴルドが遮った。「匂いを確かめてみろ、アルバフィカ」口元には悪戯っぽい笑みが浮かんでいるが、目は笑っていない。

 

 仕方なく嗅いで、あ、と声を上げた。薔薇に囲まれているアルバフィカには、品種による香りの微妙な違いも分かる。今そこにあるのは魔宮薔薇の特徴的な香りだった。姿は似ても似つかないが、香りだけなら同じものといって良かった。

 

「これは一体……?」

 

「説明してやれレグルス」

 

「うん。父さんが死ぬまで持ってた大事な種を蒔いたら生えてきたんだ」

 

「俺に話した時よりかなり端折ったな、おい」

 

 マニゴルドは苦笑して話を補足した。先代の獅子座が死に、息子のレグルスがその亡骸を葬った時に遺体の上に種を蒔いたという。ささやかな遺品の中にあった種なので、亡父の大切な物だと思ったのだそうだ。植物は芽吹き、花を付けた。

 

「イリアス殿は園芸に興味がおありだったのか?」と生前を知らないアルバフィカは尋ねる。

 

「全然!」と息子は即答。

 

「無かっただろうなあ」と僅かに言葉を交わしたことのある男も答える。「で、この花の匂いからして、おまえのとこの毒薔薇と縁があるものだと俺は思ったんだが、どうよ」

 

 嗅覚は記憶と深く結びついているという。幼い頃に魔宮薔薇の香気を吸って倒れたことがあったから、マニゴルドはそう推測できたのだ。

 

 アルバフィカは持ち込まれた枝をもう一度注意深く調べた。

 

「確かに言われてみれば、原種の一つかもしれない。花弁の形は全く違うが、この香りは毒を乗せるための重要な要素だ」

 

「見た目は違うが同じ品種ってのはあり得るのか」

 

「ああ。種から育てると親種の特徴を引き継がないことがある。だから通常は挿し木で増やす」

 

 へえ、とマニゴルドは相槌を打った。少年は魚座の毒薔薇と同じ香りだと知って、好奇心のままに花の香気を吸い込んでいる。アルバフィカは首を捻った。

 

「しかしなぜイリアス殿が種を持っておられたのか」

 

 マニゴルドが呆れた顔で彼を見やった。

 

「おいおい、本気で分からねえのかアルバちゃん。冗談きついぜ」

 

「何がだ」とむっとして言い返す。相手はさらりと答を差し出した。

 

「ルゴニスのおっさんがイリアスのおっさんにやったんだろう。きっと餞別だ」

 

 レグルスがはっとして顔を上げた。「誰?」

 

「魚座のルゴニス。アルバフィカの先代だよ。つうか直近の黄金聖闘士の名前くらい覚えてろ」

 

「その人が父さんに種をくれたの?」

 

「証拠はねえが、あり得る話だろ。同じ頃に在位してた黄金聖闘士同士だ。つきあいくらいあったさ」

 

「父さんは花が一番喜ぶ所に種を蒔きたいって言ってた」

 

「ああ。それじゃおまえは正しい場所を選んだな」

 

 マニゴルドは少年の頭に軽く手を乗せた。

 

「父さんは……」レグルスは枝を握りしめ、強く目を瞑った。そして再び目を開けると、枝をアルバフィカに差し出した。

 

「あげる」

 

 差し出された枝を受け取って良いのか、アルバフィカは迷った。今の話は全て推測に過ぎない。もしかしたら真実はまるで違う可能性だってある。けれど、この場には二人の先代を知る者がいた。

 

「受け取れ、魚座。獅子座からの返礼だ」

 

と、マニゴルドが穏やかながら厳しい口調で促すので(それはどこか彼の師父たる教皇を彷彿とさせた)、アルバフィカは両手で枝を引き取った。

 

 ふわりと漂う香気に思わず目頭が熱くなった。

 

「ありがとう、レグルス」

 

 美しい微笑みを向けられ、レグルスは照れ臭そうに笑った。見守っていたマニゴルドは「良かったな」と誰に向けるでもなく呟いて、大欠伸をした。

 

 余話「百獣の王と花の王」(了)


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