【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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病より癒えゆく者
外は雪


 

 聖域のあるギリシャはいわゆる地中海性気候に属している。明るい日差しや青い空と海が見られるのは、春から秋にかけてのことだ。その間は天気が良く空気も乾燥しているが、冬はよく雨が降る。標高の高い十二宮やその上の教皇宮では、時に雪になることもあった。ましてや十八世紀は小氷期にあたり、現代より冬が厳しかった。

 

 朝、従者が鎧戸を開けていった窓からセージは外を眺めた。灰色の空と、どこまでも白い無彩色の景色が広がっている。何もかもが雪の下に蹲り、眠っているようだ。

 

「ほう。一晩で随分と積もったな」

 

 道理で静かなわけだと一人で納得し、服を着替える。隣室でもマニゴルドが起きるなり窓辺へ駆け寄り、「マジかよ」と叫んだ。

 

 朝食を終えて、師弟は同じ方角に向かった。

 

 ――神官との間に起きた面倒を片付けた後、セージは改めて執務室で弟子に修行を付けることを実行に移した。神官たちの反応を見るためである。期待通り、もう苦情を述べる者はいなかった。

 

 これまで冬のあいだは柱廊での朝の講義は取り止めていた。底冷えのする吹きさらしの場所は、組み手ならともかく座りきりの講義に適しているとはいえないからだ。だからといって私室を使うのでは、夕食後の修行と同じで代わり映えがしない。そんな何となくの理由で昨冬までは朝の時間に何もしなかった。しかし今冬からは違う。

 

「あー寒みい。心臓止まりそう」

 

「若い者が何を言っておる。世の中には永久凍土の地で肌着だけで過ごしている聖闘士もおるのだぞ。少しは見習え」

 

「またまた。お師匠の冗談つまんねえよ」

 

 そんなことを喋っていると、後ろから用人が追いかけてきた。

 

「お待ち下さい猊下。マニゴルド様も」

 

「何事だ」

 

「取り急ぎマニゴルド様のお力をお借りしたいことがございまして。午前中だけでもお時間を頂けないでしょうか」

 

「俺?」つい自分を指差した少年は、すぐに思い出した。「あ、そうか。雪掻きか」

 

「恐れ入ります」

 

 恐縮する用人に、主人は鷹揚に頷いてみせた。「相分かった。体力だけはすでに聖闘士並みの小僧だ。午前だけと言わず作業が終わるまで、存分に人手として使ってくれ」

 

 セージは執務室に向かい、マニゴルドは廊下を戻った。

 

 平地ならば雪を踏み固めるだけで済む。しかし山の上に建つ教皇宮と女神神殿周辺には麓よりも雪が降りやすく、そこに至る道は階段が連なっている。となると、雪掻きをしなければ毎日上り下りする者には危険な氷の坂道となってしまうこともある。神官が転んで法衣の尻を濡らしてしまうのは冬の風物詩だ。

 

 そこで十二宮を抜ける表の道は宮付きの従者がしっかりと通りやすい道を作る。それと同じように教皇宮の前や使用人たちが密かに使う裏の階段の雪も除けるのだ。

 

 聖域に連れて来られた年から、マニゴルドも教皇宮の住人として雪掻きに駆り出されていた。

 

 途中でふと思いついて、彼は中庭へ寄ってみた。予想通り、誰の侵略も受けていない処女雪が彼を待っていた。ためらいもなくそこへ倒れこむ。くぐもった音を立てて雪は彼を受け止めた。なだらかだった表面を荒らしまくったところで身を起こす。辺りに誰もいないのを確かめて、小便で絵を描いた。

 

 存分に雪を蹂躙して満足すると、悪童は部屋から服を着込んできて、雪掻きの現場に急いだ。

 

 すでに男手総出で作業が始まっていた。

 

「遅せえぞ小僧っこ」

 

「悪りい、うっかりお師匠と一緒に表に行きかけてた」

 

 渡されたスコップと共に、マニゴルドは魁(さきがけ)の役目を仰せつかった。今や彼もすっかり主戦力扱いされている。

 

 まずは建物の正面側だ。双魚宮から正面入口まで続く小径を作る。その次に取りかかるのは、教皇宮裏手の隠し階段だ。

 

 屋根がないので雪は積もり放題である。しかも夜の間に雪溜まりになっていたのか、階段の作られた斜面は大人の太股くらいまで積もっていた。そこへ少年は切り込んだ。雪をざっくり四角く切り取って横の崖下に落としていく。雪の下から石段が現れて人一人が通れる程度の幅を確保したら、次の段へ。通れる幅を広げたり細かいところを掃くのは後続に任せる。

 

 石段は途中で折れ曲がり、上の段から落とした雪が下の段にまた溜まっていた。一向に減らない雪の量にうんざりしながら、ひたすら雪を除ける。雪の塊を切り分けながら、どんどん下りていく。

 

 ひたすら黙々と道を切り開いていると、後続のほうから声が掛かった。休憩にしようという上からの伝言だった。どうやらマニゴルドが気がつかないうちに昼になっていたらしい。厚い雲に遮られて太陽の位置は判らなかった。

 

 教皇宮に戻ると熱いスープが用意されていた。焦がし小麦粉の香りも豊かな、とろみのあるスープだ。腹にも溜まるし、体を内側から温めてくれる。労働を終えた男手は今更体を温める必要もなかったが、昼食代わりだ。皆で暑い熱いと汗をかきながらそれを飲み干した。もちろん教皇の弟子もそこにいる。

 

「今回は思ったより早く片付きそうだ」

 

「雪の量は多いけども、まだ凍ってなかったからね。それに今年はマニゴルドが大活躍だ」

 

「そうだな。まさか一人で階段全部片付けるとは思わなかったぜ。最初の年はすぐにへばってたのになあ。成長したもんだ」

 

「おお、坊ちゃんが大きくなられて爺やは嬉しゅうございますってか」

 

 男たちにからかわれ、少年は頬を膨らませた。

 

「そう不機嫌になるなって。おまえは十分に働いた。後は俺たちでやるからもういいよ。これ飲み終わったら修行してこい、候補生。闘技場のほうでな」

 

 最後の言葉を聞いて彼ははっと顔を上げた。

 

「猊下にはおまえが一日中頑張ってたって報告しておくよ」

 

「分かった。ありがとな!」

 

 器の底に残っていたスープを飲み干すと、マニゴルドはすぐに席を立って部屋を飛びだしていった。

 

「まだまだガキだねえ」と誰かが呟いた。

 

          ◇

 

 十二宮の麓にも雪は積もっていた。雑兵や聖闘士といった大人たちは宿舎に籠もっているので、外にいるのは元気の有り余っている候補生ばかりだ。幼い者に混じって年長者まで童心に返って雪合戦に興じている様子は微笑ましい。マニゴルドもそこに加わった。

 

 聖域に来るまで、彼にとって冬は「生き延びるもの」だった。栄養状態の悪い浮浪児はいつ死んでもおかしくなかった。街にいた頃は、浮浪児同士で身を寄せ合って暖を取っても朝起きると隣にいる子供が眠ったまま冷たくなっていることがあった。命というものが呆気なく終わることを彼はよく知っていた。

 

 屋根の下で寝られて餓えずに済むことがどんなにありがたいか、セージの庇護下に入ってしみじみと実感した。こうして遊ぶという余裕さえある。そんなことを漏らすと、寒村出身だという仲の良い候補生も大いに賛成してくれた。そして至近距離から雪玉をぶつけられた。

 

 しばらく遊んでいると、ふと視線を感じた。マニゴルドがその元を見やると、道にいるアスプロスが顔を背けるところだった。大声で誘ったが無視された。

 

「あの先輩は真面目だから雪遊びなんかしねえよ」

 

 友人はそう言って諦め顔だが、マニゴルドは足元の雪を急いで集めて握り固めた。

 

 彼の投げた雪の塊は模範生の背中に当たった。アスプロスは振り向いたが、犯人を見定めるとそのまま去ろうとした。しかし「おまえが遊ばねえなら代わりに覆面野郎連れて来いよ」という言葉に踵を返して駆け寄ってきた。無表情で詰め寄られてマニゴルドは唇の端を引き上げた。

 

「あ、やっぱり遊ぶ?」

 

「調子に乗るな。いいか。次にそのことを口にしたら承知しないからな。俺を脅そうといってもそうはいかんぞ、下衆が」

 

「おまえが無視するのが悪いんだろ。こっちのこと羨ましそうに見てたくせに」

 

 マニゴルドがそう言った途端、アスプロスは彼の腹を殴った。思わず腹を抱えてしまう。その場に居合わせた候補生たちはアスプロスの珍しい激昂ぶりに戸惑い、様子を見守った。

 

「……痛ってえ。なんだよ、あんた雪合戦が弱いのか」

 

「そんな子供の遊びで俺が引けを取るわけがないだろう」

 

「なるほど」事も無げに頷くと、マニゴルドは仲間たちに声を掛けた。「アスプロス大先生も入ってくれたから、これで三・三の対抗戦ができるな」

 

 それを聞き、アスプロスは鼻で笑った。

 

「舐めるな。五人まとめて掛かってこい」

 

「へっ。あとで吠え面かきやがれ」

 

「その台詞はそっくりそのまま返す。……場所を変えようか」

 

 称号の獲得も確実と言われる聖域の実力者が本気になったと知り、巻き込まれた候補生たちは気を引き締めた。修行を始めて間もない子供も近くにいて、彼らが本気で動くには向いていなかった。場所を変えるとはつまり、遠慮する必要のない戦場に移るということだ。

 

 マニゴルドとアスプロスは歩きながら決め事を話し合った。

 

「胴体に三発当たったら負け。首から上や手足に当たっても無効。胴体に当たる前に弾いたり払ったりするのはあり。負けた奴は正直に申告して大人しく場外で見てること。……っていう約束事でさっきまで遊んでたけど、アスプロスはそれでいいか」

 

「構わない。ただ、勝負を始める前に雪玉の蓄えを作っておきたい」

 

「いいぜ。誰が作ったやつを使ってもいいことにして、山ほど作っておこう。ただし中に石を仕込むのは無しな」

 

「当たり前だ。おまえのような卑怯者でもあるまいし」

 

「ひでえな。あ、あと小宇宙を燃やすのはありだけど、それで雪玉を体に当たる前に消すのは無し。聖闘士の技を使うのも無し」

 

「良いだろう」

 

 まだ手つかずの雪が膝まで積もった広場があったので、そこを戦場とすることにした。

 

 早速その場で雪を握り始めたアスプロスに、マニゴルドは「林でもいいのに」と言った。人数差があるからせめて障害物のある環境で条件を互角に戻してやってもいい、と仄めかす。しかし、そんな彼の親切心をアスプロスは鼻で笑った。

 

「たしかに多勢に無勢ならそれも妥当だが、所詮おまえたちが相手だからな。大量の雪玉を用意してくれる礼代わりというか、おまけだ」

 

「うっわ腹立つ。なにその偉そうなツラ。おいユスフ、こいつ絶対ボコボコにしてやろうぜ」

 

 なんで俺に言うんだよ、と友人がぼやいた。なぜ遊びや悪ふざけに見向きもしない修行一筋の真面目なアスプロスを、マニゴルドは構うのか。そしてなぜアスプロスが悪童の誘いに乗ったのか。端で見ている候補生たちには理解できない。

 

 ユスフ、マティ、シュルマ、アンサー、そしてマニゴルドの五人は両手に雪玉を持ってアスプロスと対峙した。孤軍の相手は足元に雪玉の小山を積み上げている。

 

 マニゴルドが「見ろよ、この圧倒的戦力差。アスプロス、おまえが言い出しっぺなんだから負けても言い訳するなよ」と言えば、

 

「そちらこそ今から負け惜しみの言葉を練っておいたほうがいいんじゃないか、マニゴルド。言うことがいちいち小物臭い」とアスプロスが悪童を煽り、その仲間には「ああ、きみたちも遠慮せずにかかってこい」と微笑みかけ、

 

「あ、はい。ありがとうございます」と他の四人は気合いを入れた。同じ候補生同士といっても、相手は間違いなく最強格の一人だ。

 

 雪合戦が始まった。

 

 五人は扇形に広がってアスプロスを緩く取り囲もうとした。しかしアスプロスが待つはずもない。牽制がてらに左端のマニゴルドへ一球。投げると同時に走り出した。尋常でない握力で握り固められた雪玉は石つぶて並みの凶器と化し、音よりも速く拳を繰り出すことのできる腕が、肩が、それを生身の人に向かって投げる。しかし投げられたほうも常人ではない。自身の体に当たる前に払い除けてみせる。乾いた音を立てて雪玉が四散した。

 

「右翼気を付けろ!」

 

 マニゴルドは怒鳴ったが、その頃にはアスプロスは行く手の方角に近いマティにも一球。相手の意識が防御に逸れている間に、敵右端のユスフの横へ走りこんだ。その間に一発背中に当たったが構わず地面の雪玉をすくい上げてユスフにまとめてぶつける。三発どころではなかった。足元が雪に埋もれているせいで横からの攻撃に向き合うのが間に合わず、ユスフ敗北。彼は潔く場外に出ようとした。

 

 ところが「おっと」と呟きアスプロスは彼の腰に片手で抱きついた。そして自身の盾としながらマティに突進した。右手はすでに別の雪玉を三つ掴んでいる。至近距離から味方ごと近づかれマティは焦った。敵の体はユスフの陰で狙うことができない。

 

 アスプロスは盾をマティのほうへ突き飛ばして「わあ転んだ」と白々しく声を上げながら姿勢を低くする。マティは思わず友人の体を受け止めた。同時に低い位置から打ち込まれた雪玉を横腹に食らい、敗北。彼我の差は五対一から三対一に縮まった。

 

 マティがぐったりしたユスフを担いで退場していく。最初の敗者が消耗したのはアスプロスのせいというより、味方もろとも敵を仕留めようとした非情な者たちのせいである。その非情な三人は敗れていった友を惜しむこともなく、敵を挟み撃ちにしようとひた走っていた。

 

「ユスフの弔い合戦だ!」

 

 マニゴルドとアンサーの二人が左右から、シュルマが中央から包囲陣を狭める。

 

 場外から「死んでねえ!」とか「俺は?」とか叫んでいるのが聞こえるが、敗者の声など誰も耳を貸さない。

 

 三人は敵の全身に雪玉を打ち込むが、アスプロスが後方へ飛び退るほうが早かった。一瞬前まで彼のいた所に雪玉が殺到し、宙でぶつかりあい氷の粉となった。地面に当たった分は積雪を抉り、白い煙を巻き上げる。

 

 そこへ白煙を突っ切りシュルマが敵に肉薄した。三方を塞がれたら生き物は残り一方へ逃げる。それが本能だ。ところがマニゴルドは慌てた。

 

「だめだ、近づくな!」

 

 行く手のアスプロスは腰を落として待ち構えていた。突っ込んでくる相手を見据えながら積もった雪を打ち据える。ただしその場所は足元よりやや前方で角度も浅く、押し出すのに近かった。腹の底に響く打撃音と同時に、アスプロスの前に白い波が立ち上がった。積雪が衝撃を受けて宙へ飛び出し、彼を守る防壁となってシュルマの視界を遮った。

 

 マニゴルドは雪玉を掴み上げ、シュルマを挟んで反対側にいるアンサーのほうへ続けざまに放った。しかし現れたアスプロスによって全て叩き落とされる。白い壁を利用して敵がアンサーのほうへ向かうだろうというマニゴルドの予想が当たった形だ。しかし敵の狙いは間近にいるアンサーではなく、足を止めてしまったシュルマだった。その無防備な背中に二発当たる。仕返しと牽制でアンサーが投げるが、その全てをアスプロスは片腕で捌いた。マニゴルドが突っ込むと敵は足元の雪を蹴り上げてまた移動した。

 

 その一秒先の行く手を想像しながら三人はどんどん雪玉を投げる。しかしアスプロスは雪上だということを忘れさせる軽やかさで逃げ回り、一発も当たらない。用意しておいた分の雪玉が尽きてしまったのでシュルマが雪をすくい上げた。

 

 次の瞬間マニゴルドが彼の体に腕を伸ばした。それでもシュルマの屈んだ腰の上で雪玉が弾けていた。蛙の潰れたような声を上げて三人目の敗者は雪の上に崩れ落ちた。マニゴルドの手首の下、雪玉が掠ったところが皮が剥けていた。

 

「む、無念……」

 

 シュルマは芝居がかった様子で呻いて目を閉じた。しかしすぐに立ち上がり、場外へ出た。敗者たちには「おまえ背中ばっかり当てられてんじゃねえよ」「俺も今度からおまえの背中狙おうかな」と温かく迎えられた。これで二対一。

 

 アスプロスは足を止め、雪を握り固めた。油断無く周りに気を配っているので攻撃しても届きはしないだろう。同じくマニゴルドとアンサーも雪玉を作り溜めた。

 

 ほんの僅かな間、辺りは静けさを取り戻した。細かい氷の塵となって漂っていた雪の粉がゆっくりと積雪の上に降っていく。日が差していればきらきらと輝いて見えたはずだ。

 

「さーて、どうすっかな。挟撃する前に個別に落とされちまったし。あいつ意外にやり口が汚ねえし」

 

 マニゴルドは気づいていた。数の有位を活かせずに連携が上手くいかなかった現状。それは個々の動きに差があるせいだった。膝まで積もった雪の中で動き回るのは訓練場での格闘とはまた違うこつが要る。アンサーが彼に声を掛けた。

 

「マニゴルド、俺にいい考えがあるんだ。援護してくれ」

 

 突然の申し出に戸惑いながら、彼は了承した。二人の視線の先では敵がすでに準備を終えて待っていた。

 

「いくぞ」

 

 敵めがけて飛び出していった味方のためにマニゴルドが牽制で投げつける雪玉は全て粉砕された。ともあれ反撃を許さない程度には弾幕として役に立っている。アンサーは敵の正面で踏み切り、宙高く飛んだ。家の屋根さえ軽く越える高さだ。上から狙い、さらに相手を飛び越えてその背後に降り立とうというのだろう。

 

「何やってんだ、馬鹿!」

 

 マニゴルドは焦りながら手を休めることなく雪玉を投げ続けた。しかしアスプロスはアンサーを横から見上げる位置にずれて、相手が空中にいる間に続けて何発も放った。白いつぶてが方向転換できない相手に真っ直ぐに飛んでいく。二発当たった。そして着地の寸前にもう一発当たった。アンサーの自滅である。良い考えとは何だったのか。

 

「その奇襲はもっと味方が残ってる時にやれよ」とか「なにが『いい考えがある』だよ馬鹿」「飛んだらいい的になるだけだろ考えなし」といった野次も彼の心を抉る。がくりと膝を突いた敗者のことを、生き残った二人は見ていなかった。

 

 乱れた髪を掻き上げてアスプロスが笑う。

 

「ほらな。五人まとめて相手にしても問題なかっただろう」

 

「おいおい、まだ俺が残ってるぜ。俺がおまえを倒せば俺たちの勝ちだ」

 

 マニゴルドも不敵に笑う。相手は片眉を上げただけで言い返さなかった。

 

 二人は間合いを取りつつ動き始めた。

 

 その場に留まり続けることは負けに直結する。上体を起こせば的になるから地を這うような走りになる。踏み荒らされた足場をものともせず彼らは走り、投げた。片手ですくった雪を握り固めてそのまま相手へ射れば、雪玉と言うより氷のつぶてと化した塊が流星となって敵の胴体を狙う。狙われる面積を小さくしようと体を斜めにしたまま、鋭く飛んでくる雪を払う。砕く。ときに避ける。

 

 僅かに走る速度を落とすと、マニゴルドの足を狙った紡錘形の氷が行く手の地面に次々と穴を穿つ。攻撃が外れて忌々しそうなアスプロスの顔が視界に入った。マニゴルドは相手の接近を誘ってから雪面に拳を打ち出した。周りの雪が衝撃に跳ね起き、立ち上がる波となって周囲に広がった。敵が先にやったことを真似したのだ。アスプロスは木々より高い跳躍で白い波を躱すが、死角から飛んできた雪玉に反応できなかった。背中に当たった弾は弾けて塵と消えた。相手が宙にいる間に片を付けるべくマニゴルドは一気に雪をぶつけていく。アンサーのやられたことをやり返す。

 

 ところがアスプロスは空中で身を捻って足の一薙ぎで雪を塵にした。さらに難を逃れた雪玉が通り過ぎようとするのを捕まえて地上に投げ返す。予想外の動きに虚を突かれている間にマニゴルドの体に雪玉が当たった。すぐに立て直して二の矢を防いだが、相手の着地を狙う暇はなくなった。

 

 二人は十歩ほど置いて対峙した。やはりこれくらいの距離がやりやすい。アスプロスの掴んでは投げる雪をマニゴルドが大雑把に叩き落とす。雪玉が壊れるたびに水晶の割れるような音がした。一つが彼の肩で弾けた。

 

「今のはありだろうな」的中にしろと言うアスプロス。

 

「ねえよ。肩だもん」胴体ではないと却下するマニゴルド。「てめえが負けそうだからって焦るなよ」

 

「誰が!」

 

 アスプロスは一気に距離を詰め右の拳を振りかざす。振り上げられた手の中に雪は見えない。ただ握られた拳があるだけだ。殴る気かとマニゴルドが身構えた瞬間、腹に掌底が押し当てられた。アスプロスはにやりと笑った。彼が左手を放すとそこから溶けかけた氷のつぶてが落ちた。「これで五分」

 

「……この!」

 

 両手に雪を握り、マニゴルドは相手に挑み掛かった。

 

「なにが白色《アスプロス》だ。てめえなんか黄色《キトリノス》に改名しちまえ!」

 

「なんだと?」

 

 アスプロスはいきり立った。唸りを上げてかかってきたマニゴルドの拳を受け止め、ついでに掴んだ腕を捩って相手を地面に叩きつける。マニゴルドはすぐに跳ね起きて牽制球を投げつけ、相手から遠ざかった。

 

 実はキリスト教圏では伝統的に、黄色にはあまり良い意味がない。一説によればイスカリオテのユダの衣の色が黄色だとされたことから、「裏切り」や「卑劣」、「嫉妬」といった印象が付いたとも言われている。聖域ではそのような意味づけはないが、ギリシャで暮らしている以上、言いたいことはアスプロスにも通じる。

 

「侮辱するのか」

 

「てめえがな!」

 

 二人の間で局地的な吹雪が発生する。殺気の籠もった雪玉の嵐をかいくぐり、反撃しながらマニゴルドは叫ぶ。

 

「いっつも聖人ぶった澄まし顔のくせに、俺よりやることが汚ねえ。あくどいんだよ。よくそれで人を卑怯者呼ばわりできるよな」

 

「おまえが俺を揺さぶるからだろう!」

 

 人頭ほどの大きさの雪の塊が豪速で投げつけられ、マニゴルドは両腕で体の前面を守った。一瞬で弾け飛び、砕け散っていく塊の向こうからぬっと腕が伸びてきて彼の襟首を掴んだ。

 

「いいか。おまえが何を考えているのか知らんが、おまえの在りようが卑怯だと言っているんだ。猊下の弟子だから優遇され、大目に見られているということを忘れるな。俺がおまえの立場だったら、俺たちはもうとっくに――」

 

 アスプロスは不意に上空を見上げた。マニゴルドも見上げた。二人の上に影が落ちた。人の背丈より二倍も大きな雪の塊が彼らの所へ降ってくる。

 

 二人は相手がその場を退いたら自分も退くつもりだった。しかし目が合いそうになった瞬間には、肩を並べて拳を突き上げていた。雪玉が粉砕される。石の割れるような轟音。密な雪玉は重く、そして固かったが、二人の前に霧散した。しかしそれで終わりではなかった。二人は巨大雪玉の陰に潜んでいた人物の両腕に首を引っかけられた。

 

「ぐっ」

 

「げええ」

 

 その勢いのままに地面に引き倒される。雪の欠片が舞い散る白く閉ざされた世界の中で、先に闖入者の名を呼ぶことができたのはアスプロスだった。

 

「ハスガード!」

 

「久しぶりだな! 元気だったか。ああ元気に決まってるか」

 

 雪の塵はゆっくりと地面に還っていった。

 

 大柄の少年は笑いながら二人の髪に付いた雪のかけらを払い落とした。黄金位を得るための最後の修行に出たはずの彼が戻ってきたと言うことは。

 

「やったんだな、あんた」

 

「おう。どうにか無事に帰ってこられた。さっき聖域に入ったんだが、すごい雪だな」

 

「荷物も下ろしてないじゃないか」と、アスプロスが友人の背中を見て眉をひそめた。「それで氷山みたいなのと一緒に飛び込んでくるとは、ずいぶんなご挨拶だな」

 

「おまえたちに早く報告したくてな。こっちに行ったと言われて来てみたら、雪合戦してるじゃないか。交ざらない手はない」

 

「派手な参戦だな」

 

とマニゴルドは呆れて笑った。アスプロスも笑った。そしてさりげなく手を動かした。油断していたマニゴルドの胸に雪玉が当たった。

 

「あ」

 

 アスプロスが得意げな顔になって「俺の勝ちだな」と宣言した。

 

「なんだこの卑怯者! ハスガード、あんたのせいだぞ!」

 

「え、済まん、何がだ?」

 

「気にするな。どうせ大したことは言っていない」

 

 三人が雪の中に座り込んで騒いでいると、場外から他の候補生たちも寄ってきた。彼らも口々にハスガードの帰還と修行終了を祝った。ついでに雪合戦に破れたことを告げられて落胆した。

 

 戦場が荒れすぎてもう勝負にならないので、彼らは雪遊びを切り上げることにした。

 

 宿舎へ戻る六人と別れてマニゴルドは山を登る。

 

(ハスガードが牡牛座《タウラス》で、きっとアスプロスも双子座《ジェミニ》になって……でも俺は)

 

 黄金聖闘士やそれに近い者たちと親しくしていても、マニゴルド自身はただの候補生だ。帳簿周りの調べ物をしていた時には教皇の役に立っている自信があったが、それも聖闘士としての働きではなかった。手紙と小宇宙の指示だけで立ち回ったシジフォスのようには動けない。冬に入って小宇宙と積尸気の扱い方を集中的に指導されるようになったのは、きっと弟子の使えなさにセージが歯噛みをしたからだろうと少年は思う。

 

(このままだとやっぱり雑兵かな)

 

 雑兵になることに抵抗はない。けれど聖闘士と雑兵では、できることが全く違うのを少年は理解していた。

 

 なれるものならば、やはり聖闘士になりたかった。

 

          ◇

 

 教皇宮に着く頃には、また雪が舞い始めていた。

 

「ただいま」

 

「ああ、お帰り」

 

 部屋ではセージが手紙を読んでいた。弟子は師の横からその手紙を覗きこんだ。

 

「なんか楽しそうな顔してんじゃん。良いことでも書いてあった?」

 

「クレスト様が弟子を取られたと報せがあった。かつて水瓶座《アクエリアス》の黄金聖闘士だった方だ。未だにご健勝そうで私も負けてはおれぬと思うてな」

 

「ふうん」

 

 教皇であるセージが敬っているということは、相手は同時代の戦友か先輩格ということになるはずだ。クレストという人物を知らないマニゴルドはそう考えた。実際はセージが若い頃に起きた聖戦の、更に前の聖戦を経験した最古老である。自分以上の年配者が弟子取りをしたと聞いて、セージもつい張り合いたくなったのだ。

 

「あれ、そうすると俺にしわ寄せが来るのか? その弟子っていうのも凄い奴?」

 

「さてな。おまえより年下の子供だそうだからまだ先のことは判らぬ。しかしクレスト様が直々に目をかけられたとなると、見込みはあるのだろう。デジェルというそうだ」

 

 その名が雪解けという意味だと聞いて、マニゴルドは肩を竦めた。

 

「この辺じゃまだ雪解けは遠そうですけどねえ」

 

「春は来る」

 

 セージは力強く言うと、弟子の頭に手を置いた。「それまで修行すべきことは多いぞ、我が弟子よ。今日一日遊んでいた分の遅れを取り戻すためにも明日はしごいてやる。まずは積尸気往復五百回からだ。クレスト様や兄上のような年寄りに後れを取るな」

 

「お師匠だってジジイだあっつ痛い痛い痛いごめんなさい」

 

 大袈裟に身をよじって謝ったマニゴルドは、なんとなく楽しくなって笑い出した。それにつられてセージも笑った。

 

 表では積もった雪が光を孕み、ほんのりと明るい夜になった。

 


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