【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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覆面の下の秘密

 

 平地では雪もすっかり溶けて風も緩み出した、ある日のこと。マニゴルドはハスガードに誘われて、闘技場帰りに金牛宮に立ち寄った。

 

 牡牛座《タウラス》の称号を授かり、猛々しい雄牛を象った黄金の聖衣を着けたハスガード。その姿は初々しいどころか、歴戦の勇士のように堂々としたものだった。

 

「黄金聖衣の着心地はどうよ」

 

「鏡を見る度ににやけている。いや、身が引き締まるぞ」笑いながら言い直す。「だが一方でしっくり着慣れた感じもある。先人から受け継いだものなのに、最初から俺のために誂えてあったようにぴったりだ。不思議なものだな」

 

「ふーん。こんなごつい甲冑がねえ。ちょい貸して」

 

 双角の兜を借りて被ってみたマニゴルドに、

 

「聖衣を着けてみるのは初めてだろう。どうだ、小宇宙を燃やしてないと重いぞ」

 

と、若者は得意げになる。

 

「たしかにジジイの被ってるやつより重てえ」

 

「むっ、教皇の兜か? ……もういい返せ」

 

 ありがたみのない奴だと、新米聖闘士は水を差された表情で兜を取り返した。

 

「今日呼んだのは、べつに聖衣を自慢したかったからではないんだ。聖域に戻った日から、おまえには礼を言わねばとずっと思っていた。忙しさにかまけて随分と日が経ってしまった」

 

「俺、何かしたっけ」

 

 首を捻る少年を、ハスガードはいきなり抱擁した。硬い聖衣に当たった腕やら肩やらが痛くて、マニゴルドは思わず顔をしかめた。もちろん相手には見えない。

 

「ありがとう」

 

 ハスガードは全身で感謝を示した後、ようやく客人を拘束から解放した。

 

「だから何がだよ」と腕を擦りながらマニゴルドは尋ねた。

 

 宮の守護者は悪童に椅子を勧めて、自分も掛けた。

 

「修行地に行く前に、アスプロスを見てやってくれと頼んだだろう。あいつは優秀な候補生だし人当たりもいい。だけど誰に対しても心を閉ざしているんじゃないかと思うことがある。俺やシジフォスといる時でさえ、あいつはもう他人行儀に取り澄ました顔しか見せない。それで俺が修行に出てそのまま黄金位を授かってしまえば、アスプロスはもう誰とも仲良くすることはないんじゃないか。そんな不安もあっておまえに頼んだんだ」正解だった、と彼は破顔する。「俺が帰ってきた日、おまえたちは雪合戦をしていたな。実は俺が乱入したのは、あいつがはしゃぐところを数年ぶりに見て嬉しくなったからなんだ。だからありがとう、だ」

 

「心配しすぎじゃねえの。俺のことも買いかぶりだ」

 

「いやいや。俺やシジフォスが誘っても、あいつは雪遊びなんかに乗っては来ないだろうよ。……もう無理だ」

 

「昔は違ったのか」

 

 いつもは快活な笑顔を浮かべているハスガードの顔が曇った。あまりよそでは言うなよ、と前置きして若者は旧友の過去を語った。

 

「昔、あいつは死にそうな大怪我を負ったことがある。修行中の事故だったそうだ。それ以来俺たちにも他の候補生にも、あいつは気を許さなくなった。人が変わったというほどじゃないが、俺たちから距離を置くようになった。シジフォスは自分が射手座を授かると決まったのがきっかけで対抗心を持たれたと思ってる。でも俺はそれが理由じゃないと思う。負けず嫌いなのは事実だけどな」

 

 最後の言葉にはマニゴルドも同意見だった。アスプロス本人はうまく隠せていると思っているようだが。

 

 ハスガードは卓上の兜に手を乗せた。

 

「それでだな。俺がこうして金牛宮の主となった以上、以前のように候補生たちと連むのはよせと上で言われてしまったんだ。立場を弁えろってことらしい」

 

「上って、ジジイがそんなこと言ったのか」

 

「猊下じゃなくて神官長にな」

 

「あの髭の小言なんか聞き流してろよ」

 

 悪童の言いように新任の黄金聖闘士は笑った。ようやく本来の明るさが戻ってきた。

 

「そんなわけでアスプロスのこと、引き続き頼むぞ。双子座になることはほぼ決まっているにしても、それまでは候補生だ」

 

「まあいいけど」

 

 渋々といった態度でマニゴルドは受け入れた。しかし素直に頼みを聞くのは癪に障るので、恨み言を述べることにした。

 

「っていうか先に教えろよ。アスプロスの周りにあいつと仲の良い奴がいるじゃん。アスプロスを頼むってんなら、あの野郎のことも言っとけって話だよ」

 

 ハスガードは不思議そうに首を捻った。「誰のことだ?」

 

「とぼけなくていいから。俺はそいつの名前も知らないけど、付き合いの長いあんたなら知ってるだろ。アスプロスと同じ背格好で、肌の浅黒い野郎だ」

 

「知らんなあ。あいつと知り合ってもう長いが、そんな親しい者がいる話など聞いたことがない」

 

 え、と素っ頓狂な声を上げたマニゴルドに、ハスガードは逆に目を丸くした。それから腕を組んで訝しげに彼を見つめた。

 

「嘘だと思うなら他の候補生にも聞いてみろ」

 

 しばしの沈黙を経て、自分の勘違いだったとマニゴルドは発言を撤回した。ハスガードもそうだろうと当たり前に受け入れた。彼は本当にそんな存在を知らなかったのだ。

 

 それから二人は他愛ない世間話に興じた。

 

 そういえば、とハスガードは椅子の背にもたれかかった。

 

「おまえ何座の候補生だ? そろそろ公表されないと困る年齢じゃないか。小宇宙も体得しているのに雑兵になるのは勿体ないぞ」

 

 マニゴルドは硬い髪を掻き回した。

 

「俺に言われてもなあ。ジジイが教えてくれねえんだよ」

 

「守護星座は」

 

「それも知らねえ。予想付けてるのはあるけど、それだと今は公表できない理由が説明できるんだ」

 

「ええと……。あっ、牡牛座だったら済まん。まだ聖衣は譲れない」

 

「馬鹿。違げえよ」

 

 若者の杞憂を笑い飛ばし、マニゴルドは言った。「天馬星座《ペガサス》だ」

 

 ハスガードはなるほどと唸った。

 

 天馬星座の聖闘士は特殊な存在だ。格としては青銅位だが、聖戦においては黄金位と同じくらい記録に名を残す称号である。神話の時代より繰り返されてきたいくつもの聖戦で、常にアテナの傍らにあったという。

 

 ゆえに天馬星座の聖闘士の誕生は、聖戦と女神の降臨が近いことと関連づけて考えられていた。そのためアテナの行方を掴めず降臨が伏せられている現状、その称号を得ることは難しい。

 

 黄金位を得て女神降臨にまつわる諸事情を知ったばかりのハスガードにも、少年の仮説は納得のいくものだった。

 

「それなら猊下がお側に置いて導くのも当然か……。そうか、天馬星座か」

 

「まだよそには言うなよ」

 

 ちなみに二人は大真面目である。弟子の守護星座を知っているセージが聞けば頭を抱えたことだろう。

 

 金牛宮に暇を告げると、マニゴルドは闘技場に引き返した。

 

「おいアスプロス。ちょっとツラ貸せや」

 

「聖闘士より三下の悪党のほうが向いてるな、おまえは」

 

 それでもアスプロスは彼の後を付いてきた。人気のない建物の陰に入ると、マニゴルドは早速詰め寄った。

 

「おまえさ、覆面野郎のことハスガードに話してねえの? 付き合い長いんだからてっきり知ってるとばっかり思って、危うく喋りそうになったんだけど」

 

「付き合いの長さは関係ない。彼には話す必要がない」

 

「シジフォスは?」

 

「知らない」

 

「他に知ってる奴は?」

 

「誰も。知っている人間はいても隠す側だから白を切るぞ」

 

「そこまでするって覆面野郎って何なんだよ」

 

「なんだ。訳知り顔で脅してきたわりに何も知らないんだな。だったらもう俺たちに関わるな」

 

 話が済んだとみてアスプロスはその場を立ち去った。

 

 マニゴルドは謎に包まれて一人途方に暮れた、わけはなかった。

 

          ◇

 

 

 翌日の夜。

 

 雑兵の宿舎の裏手には、壁に貼りつくようにして建てられた小屋がある。疎らな林が近くにあり、夏はヤブ蚊が多くて人は近づかない場所だ。道からも死角になっていて、そこに小屋があると知る者はほとんどいない。

 

 マニゴルドは知っていた。家出をした時に人目に付かない場所を求めて調べていたからだ。戸が開かないので結局その時は寝床にするのは諦めた。今も鍵が掛かっているのか、押しても引いても開かない。戸を叩いてみても反応無し。

 

 彼は小屋の横にしゃがみ込んで待った。

 

 しばらく経つと、誰かが小屋のほうに近づいてきた。建物の角の向こうにいるから姿は見えない。マニゴルドは気配を絶って、相手が更に近づいてくるのを待った。しかし先方のほうでも彼の存在に気づいたらしい。不意に踵を返した。その目の前を鬼火が横切る。気配の主は驚いて足を止めた。

 

「待てよ、アスプロス」

 

 マニゴルドは曲がり角から顔を覗かせた。

 

 足止めを果たした鬼火は、すうと尾を引いて積尸気使いの近くへ戻った。その光につられるようにアスプロスは振り向いた。片手には布巾を掛けた籠を提げている。

 

「……なぜここにいる?」

 

「覆面野郎がここにいるから」とマニゴルドは答えた。

 

「おまえもあいつを殴りに来たのか」

 

 アスプロスが僅かに片足を引き、姿勢を変えた。マニゴルドは軽く上げた手で鬼火をあやしながら言った。

 

「覆面野郎の飯の時間だろ。俺に構わず食わせてやれよ」

 

 彼が手を前に出すと、青白い鬼火は放たれた犬の勢いで籠の側へ飛んでいった。思わずアスプロスはそれを踏みつけた。が、その足の下から何事もなく鬼火は抜け出してきた。からかうように足首の周りを巡り、淡くなって消える。

 

「そいつと同じように覆面野郎も幽霊だったら、俺もここには辿り着けなかった。生きた人間は飯を食う。聖域で食い物を手に入れられる場所は限られてんだ。俺にも覚えがあるけど、食料庫に盗みに入れば雑兵に気づかれるんだよ。余計な面倒を増やさないように、口実を作ってちゃんと食事を用意させたほうがいい。そうだろう?」

 

 そう考えたマニゴルドは、前日のうちに、宿舎で食事を世話する者に何人分の食事を用意するのか尋ねた。それぞれの宿舎にある部屋数と寝起きしている人数は把握済みだ。すると雑兵の宿舎で毎日余分な量を作っていることが判った。投獄された者の分も合わせて作るからだそうだ。少し前にマニゴルド自身が神官に投獄された時に出された食事も、おそらくここで作られたものだろう。

 

 覆面の人物が投獄された罪人であれば、出歩いたのが知れたら殴られるとアスプロスが話していたのも筋が通る。

 

 ちなみに覆面の人物が日中は堂々と過ごしているという可能性は、最初から考えなかった。背格好がアスプロスと似ていて肌の浅黒い者を、他に見かけたことがなかったからだ。

 

 そして食事を運ぶ係に聞いた牢へ行ってみると、雑兵が二人入っているきりだった。マニゴルドが入れられた懲罰房も公に知られているものだが、滅多に使われないということだった。

 

「聞いてみたら、喧嘩とかして一晩頭冷やすとき用の檻の他に聖域のどこかに隠し牢があって、そこに入ってる奴が一人いるんだってさ。そっちの牢屋には真面目な候補生が毎日食事を運んでるって言うから、今朝そいつの後を尾けた。そしたらおまえはここに来た。こんな掘っ立て小屋が隠し牢って、冗談きついだろ」

 

 マニゴルドはそう言って小屋のほうを顎でしゃくった。場所を突き止めた段階で、覆面の人物が候補生でも雑兵でも、まして聖闘士でもないことを彼は悟った。

 

「ちなみに、隠し牢ってスニオン岬のほうに本当にあるらしいぜ。お師匠が言ってた」

 

「そんなことはどうでもいい。おまえの目的は何だ?」

 

「覆面野郎と話がしてみたい。いったい誰で、何のために身を隠しているのか。あいつが居留守を決め込むなら煙で燻しだしてやってもいいんだ」

 

 小屋の前には焚き火と、乾ききっていない家畜の糞の用意がしてある。燃やせばさぞかし臭い煙が出るだろう。アスプロスは溜息を吐いた。

 

「狐の巣穴じゃないんだ。やめてくれ。それに火事で騒ぎになったらどうしてくれる」

 

「人に気づかれたくなかったら覆面野郎と会わせろ。でないとこの小屋、このまま燃やしてやるからな」

 

「そんなことをすればおまえの殺しの件を公表するぞ」

 

「へっ、死人に口なし、もう片付いた件だ」

 

「おまえは一度縛り首になるべきだよ」

 

 罵ってから、アスプロスは小屋の戸を叩いた。

 

「俺だ。開けてくれ」

 

 すると小屋の戸が開き、中から肌の浅黒い少年が姿を現した。マニゴルドが見かけたいつかの夜と同じように、顔の下半分を覆面で隠している。出てきた覆面の人物に悪童は笑いかけた。

 

「よう。初めまして、だな。俺はマニゴルド」

 

 陽気に挨拶した初対面の相手を覆面の人物は警戒した。側にいるアスプロスを窺い、その苦虫を噛み潰した顔を見てから名乗り返した。

 

「…………デフテロスだ」

 

 マニゴルドは単刀直入に聞いた。「おまえ、罪人?」

 

「違う。何もやってない」

 

 デフテロスの否定する声は大きくなかったが、どこか悲鳴のような響きがあった。アスプロスが一歩前に出てマニゴルドを睨む。

 

「もう気は済んだだろう。帰れ」

 

「挨拶しか済んでねえよ。とりあえず食おうぜ」

 

 マニゴルドは小屋の前に座り込んだ。そして自分でも持ってきていたパンを懐から出した。そんな悪童の様子を見て、デフテロスは困惑した。追い払うのを諦めたアスプロスが頷く。彼らもその場に腰を下ろした。

 

 デフテロスは覆面を外した。そしてアスプロスの持ってきた夕食を食べ始めた。籠にはパンの他にも、蓋付きの深い器に注がれたスープが入っていた。

 

「それスープ用じゃなくて酒用のジョッキじゃねえの」

 

「運びやすいから使ってるだけだ」

 

 マニゴルドの指摘にアスプロスが面倒そうに応えた。機嫌を取るわけではないが、マニゴルドは自分のパンを割って二人にも分けてやった。デフテロスは戸惑いながら、アスプロスは嫌そうに礼を言ってパンを受け取った。教皇の弟子は教皇宮に戻ればきちんとした食事が待っている。候補生も先に済ませてきた。だからこの場で食べなくてもいいのだが、デフテロスの食事を黙って見守るよりは、形だけでも付き合ったほうがいいと二人とも思ったのだ。

 

 しばらく三人は食べることにしか口を使わなかった。

 

 食後に話を切り出したのはマニゴルドだ。

 

「改めて聞くけど、デフテロスってアスプロスと双子?」

 

 目の前にいるのは整った目鼻立ちも瓜二つ、声もよく似た二人の少年。肌の色さえ同じなら双子だと確信できるのだが。

 

 デフテロスが答えようとすると、

 

「こいつの話には付き合わなくていい」

 

とアスプロスが遮る。共通の知り合いがいたほうが相手も口を割りやすいだろうと思っていたが、マニゴルドの誤算だったようだ。いちいち話の腰を折られる。

 

「去年の秋からこっち、何度かアスプロスに食い物持たせたことあるんだけど、ちゃんとおまえまで届いてるか?」

 

 デフテロスは驚いてマニゴルドの顔を見た。「もしかして菓子の人か?」

 

「ああ、届いてるならいいんだ。アスプロスに独り占めされてねえか心配でさ」

 

 そんな事するか、とアスプロスが怒鳴った。

 

「そうか。あんただったのか。兄さんは差し入れをくれる人のことを何も教えてくれなかったし、礼を言う機会もないだろうと思って俺も諦めてたんだ。ありがとう。直接言えて良かった」

 

「おう」

 

 マニゴルドは軽く頷く。食事のしかたや話しぶりを見るに、デフテロスはいたってまともだった。わざわざ人目から隠すような異常性は見られない。

 

「菓子の人なら答えても良いか。さっきの質問だけど、たしかに俺とアスプロスは双子だ。俺が覆面を取った時に驚いただろう」

 

「べつに。おまえのそれ」とマニゴルドは外されたままの覆面を指差した。「鉄仮面みたいだと思ってたから、何となく納得した」

 

「鉄仮面って何だ、兄さん」

 

「数十年前のフランスに実在した、正体不明の謎の囚人のことだ。人前に現れる時には必ず顔を隠していたそうだ」

 

 現代に至るまでその正体は不明のままだが、当時からフランス国王・ルイ十四世の兄弟だという噂が出回っていた。しかしアスプロスはその説について口にしなかった。なぜなら言えば自身をルイ十四世になぞらえることになる。太陽王と鉄仮面。弟との境遇の差がそれに近いものであっても、これほど強烈な喩えはなかった。

 

「そうなんだ。さすが物知りだな、兄さんは」

 

 デフテロスは何も知らずにしみじみと感心している。マニゴルドはむしろ兄のほうに同情した。

 

「アスプロスだけじゃなくて俺も知ってるっつうの。最初におまえに罪人かって聞いたのは、それもあったからだよ。謎の隠し牢に誰か入ってるって話からここに辿り着いたんだから。で、だ。この掘っ立て小屋のバスティーユにおまえがいる理由は何だ。誰かの隠し子ってわけじゃなさそうだ。兄貴のせいか?」

 

「違う。兄さんのせいじゃない」

 

 弟はすぐに否定したが、その先を、正しい理由を答えることを躊躇った。代わりにその兄が重々しく口を開く。

 

「……予言だ」

 

 思いもしなかった理由に、マニゴルドは「へえ」と間の抜けた声を上げるしかなかった。アスプロスは乾いた笑いを漏らした。

 

「いま馬鹿にしたな? 俺も笑い飛ばしたいさ。だけど俺たち二人は生まれた時から予言に縛られている」

 

 笑いを収めると、双子の兄は自分の胸を指した。「曰く、最強の聖闘士となれる星座の下に生まれる」

 

 彼が双子座の黄金聖闘士になることで、その予言は成就しつつある。

 

 続いて弟が傍らの覆面を手にして言った。「曰く、双子のうち一人は凶星の下に生まれる」

 

 なぜそれがデフテロスを指したものだと言い切れるのかマニゴルドは不思議に思った。けれど彼と同じ色の肌を持つ者は両親や祖父母にもいなかったと聞いて、納得せざるを得なかった。ただでさえ双子を不吉とみることもあるのに、片割れや親とも違う浅黒い子供というのは、いかにも縁起が悪そうだ。

 

「それで凶星ってのは? 生まれつき運が悪いってことか?」

 

 しかしマニゴルドの予想とは違った。弟は覆面を着け直し、兄が説明を引き継いだ。

 

「一つ目の予言が聖闘士に関わるものだったから、二つ目もそれと関連があると思われた。そこで凶星とは魔星、すなわち冥王軍の配下の者を示す言葉と似ていることが重視された」

 

 聖域にとっての凶星だと解釈された時、デフテロスの存在は敵の捕虜にも等しいものとなった。そして彼の身が万が一にも冥王軍の手に落ちないように、人知れず聖域内で保護されることが決まった。それからというもの双子の弟は行動を制限され、他人との接触を禁じられている。

 

「その覆面は凶星を封じる呪でも掛かってんのか」

 

「いいや」

 

「ただの覆面だ。誰かに見られても、俺たちが双子だということが発覚しなければ予言を連想されずに済む。自衛として着けていろと言われた」

 

「一人で鍛錬してたのも身を守るためか?」

 

「俺はそんなことしてない!」

 

 デフテロスが鋭く叫んだ。突然の剣幕に思わず「お、おう」とマニゴルドは怯む。そこまで隠したいことだとは知らなかった。

 

「その腕の痣、鍛錬で作ったもんじゃねえの」

 

「これは雑兵に殴られた痕だ」

 

「なんだ。おまえを知ってる奴いるじゃん」

 

 数人だと覆面の少年は答えた。凶星の監視役とその知り合いの数名だけが、彼の存在を知っている。

 

「そしてその数人がデフテロスを虐げている」

 

 アスプロスが横から静かに言った。その視線に気づいたデフテロスが兄と目を合わせた。

 

「俺は修行するのも禁じられている。でも兄さんがいる」

 

「そうだ。俺が庇ってやるからいいんだ。だからデフテロスが」

 

「拳を振るう必要はない」

 

 まるで鏡に向かって暗示を掛けるような光景。妙な息苦しさを覚えてマニゴルドは喉を掻いた。

 

「その辺の話って、教皇が決めたのかよ」

 

「いや。ご存じないと聞いている。予言のことを報告すればデフテロスは殺されてしまうから、聖域に入ったという報告すら上げていないそうだ」

 

 それはそれで問題があるが、ひとまず教皇の弟子は「なるほどね」と溜息を吐いた。セージが指示したことだったら申し訳ないと思っていたから安心した。

 

「だったらそんな押しつけの決まりを守る必要もないだろうに」

 

「決まりは守るのが当たり前だろう」

 

 そう答えるデフテロスの声は、穏やかなものだった。マニゴルドは知っている。これは諦めという穏やかさだ。太陽が東から昇るのと同じように、デフテロスは現状を受け入れている。隣ではアスプロスが歯痒そうに口を開き、また閉ざした。

 

「逆になぜマニゴルドは決まりを守らない? 俺は以前、おまえが候補生の命を奪うのを見たことがある。なぜ殺したんだ」

 

 なぜ。それは彼が死刑執行人だからだ。

 

「死者は生者に復讐したくても直接は手を出せない。だから生きた人間が代わりに片をつける。殺す必要があったから殺した。単純な話だろ。むしろ現場を見かけたっていうおまえが黙ってた事のほうが不思議だ。なんで?」

 

「俺は出歩いてはいけないと言われている。おまえたちを見かけた場所はここから遠かったから、候補生たちが倒れたと誰かに知らせれば俺も叱られる。だから兄さんにだけ話したんだ。マニゴルドは聖域の掟を破るのは平気だったのか? 人を殺すのはよくないことだ」

 

 以前にアスプロスにも同じ事を聞かれた。

 

「先に掟を破ってニキアを殺したのはあいつらだぜ。目には目を、ってやつだ。前にアスプロスに言ったことあるけど、親切な奴に助けてもらうのをあてにするより、自分で動いたほうが確実なこともある。あと、俺は元々悪人なんでね。手を汚すのは平気なんだ」

 

 悪童はせいぜい悪く見える顔で笑ってみせた。

 

「デフテロスだって自分の身は自分で守りたいだろう」

 

 だから隠れて一人で修行していたんじゃないのか、と本当は問いたかった。しかしアスプロスにさえその事を隠したい様子なので、この場では口には出さない。

 

 するとデフテロスは残念そうに言った。

 

「俺が抵抗すれば、それだけ折檻は厳しくなる」

 

「抵抗するのが嫌なら、ここを逃げたっていいじゃん。聖域から逃げて予言のことなんか誰も知らない所に行けばいいのに」

 

「もうやった」

 

と、双子は声を揃えた。

 

 一度だけ、兄弟は手を取り合って聖域を逃げ出そうとしたことがある。けれど子供たちの脱走は失敗に終わり、二人揃って生死の境をさまようことになった。聖域脱走は死罪である。未遂で見つかったお陰で殺されずに済んだとも言える。

 

 辛かったのは、味方だと思い、脱走計画を相談するほど頼っていた雑兵に裏切られたことだ。その雑兵の密告によって聖域側に脱走が伝わったと知った時は、二人とも感情を忘れた。この事は聖域には敵しかいないと双子に思わせるに十分だった。

 

 ちなみに二人の体調が回復するまで面倒を見たのは、彼らを半殺しにした聖闘士だった。それが更に二人を打ちのめすことになった。

 

 それ以来、弟は逃げたいと言わなくなり、自身の境遇を受け入れた。兄は弟を自分一人の力で救おうとあがいてきた。

 

「そういやハスガードが言ってたな。昔アスプロスが修行の事故で大怪我を負ったことがあるって。もしかしてその事故ってのは」

 

「脱走に失敗した時に聖闘士にやられたんだ」

 

 技量が今より未熟だったにせよ、アスプロスを叩きのめした聖闘士がいると聞いてマニゴルドは興味を持った。今も聖域にいるのかと尋ねると、イサクという聖闘士だとアスプロスは答えた。

 

「あの男は俺たちを道具と見ている。デフテロスをいたぶって憂さを晴らしながら、自身の評価を高めるために俺には黄金聖闘士になれと言う。そんなあいつの姿を見て、ひどいことをすると同情してくれた雑兵だったんだがな。嘘だったんだ。結局は聖域の人間だった。あれで誰も味方じゃないと思い知らされた。痛い教訓だったよ」

 

「そんなことねえだろ。ハスガードはおまえのことを気に掛けてる。シジフォスも。友達だろ、話してみろよ」

 

「聖域の人間は信用できない。あいつらはいい奴だが、事態を公表して俺たちを追い詰めるだけだろうから特に話せない。黄金聖闘士である以上は、俺たちより聖域の秩序を重く見るだろう」

 

 友人さえも信用しないと言い切るほど、脱走失敗の一件は彼の中で尾を引いているらしい。

 

「おまえだって黄金位になるくせに」

 

「俺は俺たちのために上を目指しただけだ。あの二人とは根底から違う」

 

 それならばとマニゴルドは自分を指差した。

 

「俺は? 教皇の弟子だぜ。こんなべらべら喋って大丈夫かよ。まあ今更だけど」

 

 まったくだ、とアスプロスは苦笑した。「さすがにデフテロスの家に火を付けられては困るからな。もしおまえが猊下の弟子にふさわしい、聖闘士の規範のような奴だったら話すことはなかった。だがどうにも薄暗いところがある身らしいからな。余計な正義感は発揮しないだろうと思ったんだ」

 

 マニゴルドは肩を竦めた。誉められているのか貶されているのか判断がつきかねる。彼は話を戻した。

 

「なあ。もう一度足抜けしてみれば? 今のおまえなら追っ手も返り討ちにして逃げられるだろ」

 

「俺はもう逃げない」

 

とアスプロスは昂然と顔を上げた。

 

「掟は破らない。黄金聖闘士になって、堂々と弟が表に出られる場を作る。掟を破らずに変えてみせる。それが今の俺の目標だ」

 

 その目に迷いはなかった。弟も眩しそうに兄を見つめていた。

 

「おまえはそれでいいの?」

 

 マニゴルドが問うと、デフテロスは嬉しそうに頷いた。

 

 彼は双子と別れて教皇宮に帰ることにした。好奇心は満たされても、なにやら妙な気疲れがした。

 

(お師匠に相談してみようか)

 

 本人たちはアスプロスが黄金聖闘士になれば、すぐに問題は解決すると思っているらしい。黄金位が聖闘士の中で権威のある地位なのは事実だ。しかしそれで何もかもが思い通りになるわけではない。全聖闘士の上に立つ教皇でさえ、意見を通すために苦労をすることもあるのだ。

 

 それにデフテロスの安全を確保した上で存在を公表するなら、どのみち教皇の協力を仰ぐことになるはずだ。いや、もしかしたら知らないふりをしているだけで、すでに双子と予言のことを把握しているという可能性さえある。もし何らかの思惑があって教皇が指示したことの結果が現在なら、アスプロスがあがいても、何も変わらないかも知れない。

 

 ああ面倒臭い、と彼は首を掻いた。

 

 アスプロスが直接教皇に相談してくれれば、それが一番誤解が少ない。

 

「なんで俺がこんな他人事で頭悩ませてんだろ」

 

 マニゴルドは独りごちながら階段を上った。

 


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