【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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兄弟

 

 アスプロスは聖域育ちの聖闘士候補生である。

 

 幼い頃からひたむきに研鑽を積み、その実力は聖域でも折り紙付きの俊英だ。共に黄金位を目指した仲間たちに続いて、双子座の黄金聖闘士という称号を得ることが期待されている。

 

 その双子の弟デフテロスもまた聖域育ちである。

 

 しかし兄と共に育てられたのも今や昔。兄が頭角を現すにつれて彼は陰に押し込められ、存在を示す記録は消された。顔を露わにすることも許されず、幽霊のように身を潜める暮らしを強いられている。

 

 この境遇の差は、彼らが生まれる前に示された二つの予言に由来する。

 

『最強の聖闘士となれる星座の下に生まれる』

 

『双子のうち、一人は凶星の下に生まれる』

 

 かつて双子が聖域に引き取られた時、引受人は一つ目の予言がアスプロスを、二つ目の予言がデフテロスを指すものだと考えた。兄は両親と同じ肌と髪の色をした子。弟は親戚や祖父母にもいないような浅黒い肌の子。この二人を比べれば、弟が凶星の下に生まれた者としておあつらえ向きに見えた。なにより肉親が忌み子として見ていたから、そうなのだろうと考えた。

 

 ところでこのことは教皇に報告されなかった。今となってははっきりした理由は分からない。双子を引き取り、その処遇を決めた当時の責任者が聖域から去って久しいからだ。そして現在聖域では聖闘士候補生アスプロスだけがその存在を知られており、デフテロスは聖域に入ったという記録すら残っていない。

 

 デフテロスのことを知る数少ない存在の一人が、イサクという聖闘士である。彼はアスプロスの指導役であると同時にデフテロスの監視役でもあった。

 

 彼は予言を信じ切っていた。特にアスプロスの守護星座が双子座だと明らかになってからは、ますます予言が現実になるのだと確信した。そしてデフテロスを虐げた。殺すまで至らなかったのは、単に自分の身に災いが降りかかるのを恐れたからに過ぎない。

 

 アスプロスは他の大人に助けを求めようとした。けれどイサクは狡猾だった。兄弟の事情を知った者と接触し、彼らの言動や行動を逐一報告させた。そして二人が脱走計画を企てたことを掴むと、それが実行に移されるまで泳がせた。二人に「脱走など考えるだけでも無意味」「頼れる者はいない」ということを心と体に叩き込むためである。

 

 そうして実際にその通りにした。

 

 さらに逃走に失敗して打ち拉がれた兄弟へ、『凶星が生きていると知られれば聖域に殺されてしまう。こうやって隠すことで守っているのだ』と吹きこんだ。現に彼の舎弟のような雑兵たちは予言を口実にデフテロスをいたぶっていたから、他の者もそうだと言われれば兄弟に否定はできなかった。アスプロスは友人にも事情を話せなくなった。

 

 皮肉なことに、兄が最強の聖闘士を目指してそれに近づくほどに二つの予言の信憑性が上がった。そのせいで弟はますます凶星とみなされ、聖域の暗がりに押し込められることになった。けれど二人は気づかない。

 

 予言は双子の兄弟を歪な絆で縛り上げていた。

 

「九百九十八、九百九十九、千。お疲れ、兄さん」

 

 デフテロスに声を掛けられてアスプロスは反復の鍛錬を終えた。月明かりの下で、汗に濡れた若い身体が光っている。

 

 双子の兄は夜も自主的に鍛錬を行っていた。最初は宿舎を抜けて弟に会いに行くための口実だったが、弟を守るためにも力が要ると悟ってからは、本格的に鍛えるようになった。お陰で夜に宿舎にいなくても他の候補生に不審がられることはない。

 

 汗を拭く兄に弟が話しかけた。

 

「そういえば、双子座の称号が貰えるのが決まったんだってな。おめでとう」

 

「まだ確定じゃない」

 

「でもほぼ決まったってイサクは言ってた。今日、教皇宮に呼ばれて話をしたって」

 

 兄は舌打ちした。念願の聖闘士になれる日が来たら、誰よりも早く弟に伝えるつもりだったのに、それが邪魔された気分だ。

 

「あいつがわざわざおまえに話したのか。珍しいな」

 

「アスプロスの身内が聖域にいないかって聞かれたらしいんだ。あの人はいないと答えたそうだけど、俺が出歩いたところを見られたせいで秘密が漏れたんだって、また殴られた」

 

 アスプロスは振り返った。

 

「ごめん。守ってやれなくて」

 

 弟を守ること。それが彼の強くなった原動力であり、目的の全てだった。たとえデフテロスが兄の自分に隠れて一人で鍛えていたとしても、それは変わらなかった。

 

 けれど彼がどんなに鍛錬して実力を付けても、気づくとデフテロスはすぐ後ろまで迫っている。それでいて素知らぬ顔でもっと上を目指せ、強くなれと兄に囁く。その恐ろしさは誰にも理解してもらえないだろう。

 

 どんなに速く走っても、足元に寄り添う影から逃げられないのと同じだ。

 

 それが嫌なら、影が地面に差さないほど高みを飛ぶしかない。星の高さまで。

 

「あいつのことだ。またおまえのことを殺すと言っていたんじゃないか? ごめんな。もっと強くなるから」

 

「兄さんが謝ることじゃない。あの人が脅すのはいつものことだし、油断してた俺のせいだ」

 

「おまえのせいじゃない」

 

「じゃあ誰かが言ったのかな」

 

「そうかも知れないな」

 

 以前にマニゴルドと交わした会話を思い出して、アスプロスは溜息を吐いた。直接の暴露はせずとも、教皇に勘付かせてしまうような言葉を彼が口にしたに違いない。肝心なところで詰めが甘いことは、普段の手合わせでも分かることだ。

 

 兄の言葉に弟は息を呑んだ。それはつまり、教皇も自分の存在と予言を知っているということではないか。

 

 そんな弟の怯えを感じ取って、兄は急いで弁解した。

 

「いや猊下ははっきりした事はご存じないと思う。マニゴルドが予言のことで探りを入れたらしいから、それで妙に思われたんだろう。余計なことをしてくれたものだ」

 

「探りって教皇に直接……? もしかして教皇の弟子っていうのは本当なのか」

 

「ああ。残念ながらあの悪党は正真正銘、猊下の弟子だ」

 

「悪党って」

 

 大袈裟な、と弟は苦笑しかけた。しかし思い返せば候補生の命を取ったり、小屋を燻しだそうとしたり、ろくでもない行動しか目撃していない。唯一擁護できそうなのは、自分たちへの食べ物のお裾分けくらいだ。

 

 兄は頭を振った。

 

「食い物の差し入れだって単なる好意やお節介じゃない。あいつにとっては損得勘定のうちだぞ。大人になれば俗世であくどいことに手を染めそうな、妙に狡(こす)っ辛い奴でな。聖域に来る前は何をしてたんだろうな。盗賊団の下働きくらいのことは絶対にやってたと思う。前に神官がそんなことを言っていたし」

 

「……そんな奴も聖闘士を目指しているのか」

 

 暗がりにいるデフテロスにとって、それは遠くに見えた灯台の灯りに思えた。太陽のような兄の存在に比べれば明るさは全く及ばなかったが、それでも確かに灯りだった。

 

「性根としては候補生かどうかも疑わしいけどな。でも小宇宙にも目覚めてるし、特異な力もある。そういえば小宇宙は俺が手助けしてやったから体得したようなものなのに、あいつときたら全く感謝してこない。恩知らずな奴だ。態度も大きいし、一度叩きのめしてやろうかと思うよ」

 

 しかつめらしく話す兄を見て、弟は逆に表情を緩めた。話を逸らすためとはいえ、アスプロスがここまで他人のことを話すのは久しぶりだった。以前はシジフォスやハスガードという名前が話に出てきたが、最近はそれもない。アスプロスが二人を味方とみなさなくなったからだ。例外は冬の日の出来事くらいだった。

 

 それは聖域に大雪が積もったときのこと。候補生数人で雪合戦をして、最後まで勝ち残ったと兄が話してくれたことがあった。その様子があまりに楽しそうだったので、夜にもこっそり二人で雪合戦をした。デフテロスにとっても楽しい思い出だ。その時の話で久しぶりにハスガードの名を聞いたのが印象に残っていたが、たしかマニゴルドという名前も登場した。それを思い出した。

 

「兄さん」

 

 弟の声が深くなった気がして、アスプロスは悪童をこき下ろすのを止めた。「どうした」

 

「マニゴルドと仲良くしなよ」

 

「友達が欲しくなったか? あいつは止めておけ」

 

「俺のことじゃなくて、兄さんの話だ。悪党でも何でもいいけど、縁は切らないで」

 

「あいつが教皇の弟子だからゴマをすれと?」

 

 自尊心の高い兄の目が険しくなる。

 

「違う。そんな真似は兄さんには必要ない。そうじゃないんだ。俺のいない場所でも兄さんには笑っていてほしい。ずっと陰で見てるから知ってるけど、兄さんあんまり笑わなくなっただろう」

 

 思わぬことを指摘され、アスプロスは首を傾げた。「そうかな」

 

「そうだよ」とデフテロスは頷く。

 

「だったら、おまえが一人辛い思いをしてるのに俺だけ笑っていられないってことだよ」

 

「つまり俺は兄さんの楽しみを奪って生きてるのか」

 

 兄が絶句したのを見て弟はすぐに「ごめん」と謝った。

 

 二人は兄弟喧嘩をしたことがない。

 

 彼らは衝突することを怖がっていた。唯一信じられる相手と仲違いすることを何よりも恐れていた。

 

 俯いてしまった弟から目を背け、兄は足元の石を蹴飛ばした。

 

「……マニゴルドから、おまえのことを教皇に打ち明けたらどうかと言われた。おまえはどうしたい?」

 

「俺は今のままで構わない。それが兄さんの負担だというなら、教皇に全て暴露して俺みたいな重荷を捨ててくれてもいい」

 

「馬鹿。そんなこと言うな。おまえがいなくてどうして俺の望みが叶う。俺の願いは兄弟揃って暮らすことなのに。そう簡単に諦めるな」

 

「兄さんが明るいところで輝いてくれれば、俺はそれで希望が持てる。諦めてなんかいないよ」

 

「そうだな」と彼は弟を振り返った。やはりマニゴルドの言うことを真に受ける必要はないのだと安心した。

 

「俺は誰の力も借りずに最強の聖闘士を目指す。そして誰にもおまえを凶星などと呼ばせないようにする。もう少しだ。それまで待っていてくれ」

 

 デフテロスは頷いた。

 

 

 ある日アスプロスは射手座の黄金聖闘士から呼び出しを受けた。

 

 初めて上る十二宮は、どこまでも階段の連なった白い道だった。ハスガードのいる金牛宮を抜けると、シジフォスの待つ人馬宮までは無人の神殿が続く。

 

 少しばかり飽きて横を眺めると、遠くまで広がった春の聖域が見えた。普段入り浸っている闘技場も、宿舎の屋根も、火時計も、全てが眼下に広がっている。普段は見上げるばかりの星見の丘も少しだけ高さが近い気がする。

 

 ただの候補生に過ぎないアスプロスが初めて見るそんな風景も、教皇の弟子には見飽きたものだろう。けれど羨ましいと思ったのは一瞬だった。訓練で疲れた体で上るのはきついと、すぐに気付いた。

 

 人馬宮に着くと、シジフォスに奥へ案内された。

 

 そこには兜を着けた法衣姿の老人がいた。その小宇宙の雄大さと大河のような穏やかな流れ。泰然と椅子に掛けていても滲み出る威風。まさしく教皇だった。

 

 アスプロスはすぐさま膝を折った。

 

「ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます。聖闘士候補生のアスプロスにございます」

 

「うむ。そなたを人馬宮へ呼びつけたのは私だ。ゆっくり話がしたくてな」

 

「はっ。一候補生たる身には余る栄誉、このアスプロス望外の喜びにございます」

 

「そう畏まるな。ここは教皇の間ではない。面を上げて楽にするが良い」

 

「ははっ」

 

 楽にしろと言われて楽にできるわけがない。畏まったままの彼を見下ろし、教皇の周りの空気が微かに揺れた。頭を下げたままのアスプロスにも、苦笑されたことが判った。

 

「そなたには我が弟子が世話になっている。組み手の相手や助言をしてくれているそうだな。師として礼を言う」

 

「勿体ないお言葉にございます。僭越ながらお弟子様とは聖闘士を目指す同志として、切磋琢磨していきたいと存じます」

 

「殊勝なことだ。そなたは候補生どころか聖闘士と比べても随一の実力者と聞いておる。そこでだ、一度そなたの立ち合いを見てみたい」

 

「猊下のご所望とあらば否やはございません」

 

「では来週この射手座と立ち合え」

 

 アスプロスの目が輝いた。「承知仕りました」

 

「シジフォスも聞いたな」

 

「しかと」

 

「では下がってよい」

 

 シジフォスは一礼して部屋を出て行った。かつて彼が射手座の聖衣を賜る際に、現役の黄金聖闘士の胸を借りて仕合を行った。その時に魚座のルゴニスが果たした役目を、今度はシジフォスが担うことになる。

 

 教皇が僅かに姿勢を変えた。弟のことを聞かれると思い、アスプロスは内心身構えた。

 

「さて、他に聞く者もなし、少し砕けた話をしようか。といっても、我々の間で共通の話題になりそうなのは我が弟子のことくらいだな」

 

 シジフォスやハスガードのこと。それに小宇宙やアテナへの忠誠のことでも良いはずなのに、教皇はそれらについて触れる気はないらしかった。アスプロスは余計なことを言わずに相手に委ねた。呼び出された理由は分かっている。

 

「マニゴルドが闘技場ではどのような感じか、聞かせてくれぬか。私がいくら聞いても、あやつは『べつにー』だの『ふつうー』だのとはぐらかすのだ」

 

 雲上の人とばかり思っていた老人が、いきなり悪童の口調を真似するので、思わずアスプロスは吹き出してしまった。

 

「失礼いたしました。ご安心下さい。彼は確実に力を付けています。小宇宙を体得してからの様子しか存じませんが、最近はとみにその使い方が上手くなっているようです。他の候補生からも教えを乞われる姿を見かけます」

 

「未熟者のくせに人に物を教えるなど、おこがましい」

 

 そう言いながらも、教皇はどこか嬉しそうだった。

 

「あやつはいささか突拍子のないことをしでかす奴でな。上でも悪童呼ばわりされておって私も頭が痛い。そなたには迷惑を掛けておらなんだか」

 

「滅相もない」

 

「気を遣わずに正直に申してよいのだぞ」

 

 見透かされたような気がして、アスプロスは少し赤くなった。

 

「……決して迷惑など被ってはおりません。その、候補生にはなかなかいない類の性格といいましょうか、楽しく付き合っております」

 

「そうか。楽しくか。下で他の者を困らせていなければ良いのだが、その点はいかがであろう」

 

「たまに叱られていますが、困らせると言うほどのことではありますまい」

 

「きちんと叱られているのだな。教皇の縁者ということで周りを萎縮させたり腫れ物扱いされたりはしておらぬのだな」

 

「はい。マニゴルドが猊下のお弟子ということを知っていても誰も意識しておりません。いえ、猊下のご威光が届いていないというのではなく、本人の気質のせいかと存じます」

 

 さもありなん、と教皇は溜息を吐いた。

 

「基本的には俗世の悪童だからな。この前など、土産だと言って下の松林で拾った松笠を寄越しおった」

 

「松ぼっくり? 恐れ多くも猊下にそんな物を?」

 

「そうだ。神官には汚いから捨てろと言われたが、弟子の寄越した物を捨てるのも忍びなくてな。机に飾っておる。するとあろうことか、マニゴルド本人にまで邪魔だからどかせと言われてしまった。どうしたらいいだろうか」

 

 弟子煩悩の悩みなんか知るか、とアスプロスは内心毒づいた。まさか自分がそんな不敬なことを思うとは、数分前まで予想もしなかった。教皇と間近で会うのもまともに言葉を交わすのも、この日が初めてだ。近寄るのも恐れ多い存在だとずっと思っていた。

 

 厳しい強さのうちに優しさの滲む深い声。老熟した知性と教養の光を湛えた目。抑制された典雅で無駄のない仕草。小宇宙を差し引いても、老人は女神の代理人と呼ばれるに相応しい人物だった。

 

 しかし同時に、初弟子に振り回されている人間でもあるのだ。それが短い会話で分かった。分かるようにされた、とまでは思い至らなかった。アスプロスもまだ若い。

 

「マニゴルドは猊下のような方を師に持てて幸運ですね」

 

 それはアスプロスの本心だった。

 

 もし自分の指導役がイサクのような乱暴で高圧的な聖闘士ではなく、教皇だったら――という無意味な仮定をアスプロスは描かない。たとえ幼い頃に教皇に見出されたとしても、どうあってもデフテロスと予言の問題はついて回る。その時に聖域に君臨する老人がどのような冷徹な判断をするかを想像すると、今まで教皇に見つからずに済んで良かったという思いが先に立つ。

 

 それでも、教皇に師事していることで時折見られるマニゴルドの優遇ぶりには嫉妬した。その恵まれた境遇があれば、最強の聖闘士の座にもたやすく手が届くだろうと。今のところマニゴルドは候補生の身に甘んじていて、それが彼にはもどかしい。もっと努力すれば、もっと修行すれば。持てるものをなぜ使わないのか。彼が悪童に苛立つのはその点に関してだ。

 

「甘やかすなと人には言われるがな。弟子がこの前拾ってきた妙な話もなかなか捨てる気になれぬ。聖闘士に調べさせても根も葉もない嘘だと報告された、妙な話だ」

 

「どのようなお話ですか」

 

 尋ねる言葉を口にしながらも、アスプロスは相手の切り出したい話題をすでに知っていた。

 

「はっきりとは言わなんだが、そなたの身内が聖域にいるようなことを仄めかした。それ以上は問い詰めても口を割らなかったがな。誰かとの約束だと申しておった」

 

 ではマニゴルドは裏切らずに踏みとどまったのだ。

 

 それを知ってアスプロスはゆっくりと瞬きをした。弟を安心させるためにマニゴルドが信用できるようなことを言ったが、本当は不安だった。

 

『打ち明けてみてもいいんじゃねえかな。なあ、そうしろよ。悪いようにはならないと思うぜ』

 

 その言葉を、少しは信じてもいいのだろうか。

 

 教皇の深く落ち着いた声が聞こえる。

 

「そなたの師イサクに確かめたところ、この聖域にそなたの身内はいないと断言された。そこでこの件が我が弟子の思い違いであれば、なぜそのような誤解が生まれたのか知りたいのだ。他人から見ればつまらないこだわりかも知れぬが、松笠を捨てられないのと同じだよ」

 

 アスプロスは弟の顔を思い浮かべ、いよいよ来るはずの問いに備えた。

 

 ところが教皇はすぐには核心に迫ろうとしなかった。

 

「話は変わるが、私には兄がいる。今は故郷の地で聖衣の修復師をしているから、そなたも聖闘士になった暁には世話になることがあろう。祭壇座のハクレイという。覚えておくといい」

 

「はい。祭壇座というと、教皇の補佐を務めとする白銀聖闘士でございますね」

 

「そうだ。――兄と私では、どちらが強かったと思う?」

 

「それはもちろん猊下でいらっしゃいます。黄金聖闘士の更に上に立つ聖闘士の頂点こそが教皇であらせられますから」

 

 それを聞いた教皇は苦く笑った。

 

「本当は私より兄のほうが強かったのだ。なのに兄は、本来自分が受けるべきだった黄金聖闘士の称号も教皇の座も、私に預けてきた」

 

「え?」

 

 初めて聞く話にアスプロスは礼儀も忘れて驚いた。

 

 教皇の話が事実なら、ハクレイという人物にも黄金位を受けるべき資格があったことになる。それを弟に譲って自身は格下の白銀位になり、補佐役に甘んじているというのか。一番優れた黄金聖闘士こそが教皇に選ばれるべきなのに、それより優れた者がいるとは信じたくなかった。

 

 何かが心に囁いた。――兄を差し置いて弟がその地位を奪うのを許せるのかと。

 

 心臓がどくりと大きく脈打った。

 

 一瞬にしてどす黒い憤りが雨雲のように湧き起こった。けれどアスプロス自身は全くそれを面に出さずに冷静にいられた。まるで彼自身の感情とは別のところから湧いた怒りのようだった。

 

「そんなことが許されるのですか?」

 

「私と兄の守護星座が同じだったから可能だったことだ。聖戦後も私たちは互いに助け合い、困難を乗り越えてきた。兄がいてくれて良かったと何度も思ったものよ。とくに年を取って知己に先立たれることが多くなると、しみじみ身内のありがたみを感じる。……ああ、これは若い者には判らぬか」

 

 教皇は候補生の顔を見て、老いを語るのを止めた。

 

「とにかく、聖闘士にとって血縁はあまり意味のないものだが、だからこそ無理に切り捨てる必要もないと私は思うのだ。ゆえにもし身内が聖域にいるのにそのことを隠す者があれば、その理由を知りたい。身内贔屓できる状況と無縁ならば特にな。解決できる問題であれば手も貸そう。謂われのない困難に囚われているなら共に知恵を出し合おう。双子は不吉なものとして俗世では忌まれることもあるが、私は気にしない。迷信も予言も、人の受け止めかた一つで意味が変わるだろう」

 

 アスプロスは床を見つめた。

 

 彼の頭の中では教皇の話が濁流となって渦巻いていた。

 

 教皇はその地位を兄から預かったと言った。それを言葉通りに受け取っていいものだろうか。もしかしたら教皇は、兄を蹴落としてその地位を奪ったのではないか。世の中にはそんな話がごまんとある。血を分けていても、否、いるからこそ、協力するよりも争い合う兄弟のほうが多い。

 

 デフテロスという弟の存在を知った時、教皇は兄たるアスプロスをどうみるだろう。弟同士というつながりに関心を持ち、聖闘士に相応しいのは弟のほうだと考え直すようなことになりはしないか。野心的なアスプロスと違って、弟は無垢で純真だ。それが好まれることもあるだろう。

 

(違う)

 

 アスプロスは拳を握った。双子座の候補はアスプロスであってデフテロスではない。弟のために目指してきた地位を弟に奪われることなどありえない。

 

 ありえないはずだ。

 

 必死に打ち消す不安の一方で、全てを告白したいという欲求が、彼の胸の中心を貫いている。何の憂いもなく兄弟揃って堂々と日の下を歩ける日を夢見て研鑽を重ねてきたのだ。今ここで、その夢が叶うかも知れない。

 

 教皇の目が若い候補生に注がれた。

 

「のうアスプロス。一度だけそなたに聞く。――聖域にそなたの縁者はおるか」

 


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