まだ春浅い山中。唐突に風が吹き抜けた。
若葉が芽吹く前の木立。枝の間を渡る形持つ風。それを追って同じく枝から枝へと飛び移るもう一つの風。二つの風は常人の域を大きく超えた人であった。
追跡者が手刀を振るった。見る者があれば「遠すぎる」と思う距離だ。その手が先行者に当たることはない。しかし背後から近づく無音の軌道に、先行者は梢を蹴って横に逸れた。一瞬遅れてそこへ到達した衝撃が枝を断った。地上に落ちた枝。まるで刃物で落とされたように綺麗な断面を見せている。
横へ飛んだはずの先行者は不意に姿を消した。しかし追跡者は慌てない。地面に下りて別の方角へ走り出した。枝を走り続けていれば思わぬ方角から攻撃を食らうことを察していた。ふっと音もなく現れてその背後を取ろうとするのは、手刀を避けたばかりの者だった。追う者と追われる者が入れ替わる。
右へ左へ。上へ下へ。木立という戦場を縦横無尽に駆け巡り、二つの人影は相手の首を掻こうと駆け引きを続けていた。
一人が軽やかに木立を抜けて、山の尾根に出た。
悪戯っぽい笑みを浮かべたマニゴルドだ。悪童は追ってきた相手に向き直り、拳を構える。
時を置かずもう一人も木立から飛び出した。
こちらは刃物のような鋭い雰囲気をまとった少年である。聖域にいた頃はマニゴルドやアルバフィカとも交流のあった候補生――のちにエルシドと名乗る少年だ。当時に比べると背も伸びて強靱な肉体になり、一見すると大人のようだ。ここは彼の修行地。長い両腕を顔の前で交差させて突っ込んできた。
その一撃を流してマニゴルドは拳を振るう。
「うらあっ!」
「ぬるい!」
黒髪の候補生が真っ向からそれを受け止める。
拳にまとわせた小宇宙がぶつかり合う度に、灼熱の光が爆ぜ、落雷のような轟音が響く。熱を帯びた空気が陽炎を生んだ。それを切り裂いて鞭の鋭さで打ち込まれる一蹴。
風が吹く。
虚無から受容へ変わりつつある、空ろで軽やかな風と。
全てを切り裂き、己を貫こうとする強靱な風と。
絡み合い、渦巻く二つの意志ある風が嵐となって吹き荒れる。
嵐から逃れることのできなかった立木がメキメキと悲鳴を上げて倒れた。
――初めは再会の挨拶代わりにほんの軽い手合わせをするだけのはずだった。聖闘士に連れられて偶然この地を訪れたマニゴルドを、エルシドが山に誘った。笑って見送った指導者も、本人たちでさえも、真剣勝負になるとは思っていなかった。ところが対峙してすぐに相手の強さに手応えを感じ、互いに対抗心と小宇宙を燃やした。気づくと山全体を戦場とした本気の仕合になっていた。
おそるべき脚力のもとに踏みにじられた大地がひび割れ、小宇宙に当てられた雑草が一瞬で塵と化した。二人の動きに痛めつけられた空気はバチバチと紫電の悲鳴を上げる。
二人は相手の攻撃を躱し、流し、反撃し、決定的な一撃を打ち込む隙を求めて互いの目の奥を窺った。そこに見るのは生の根源。命の最も深い所から湧き出す力。
聖域の悪童は笑う。楽しげに声を上げて。
山奥の候補生も笑う。唇に静かな喜びを湛えて。
エルシドの攻撃は手刀といえども決して油断して受けてはいけない。小宇宙をまとったそれは、ひとたび受ければ人体など容易に切り裂く絶命必至の一撃。研ぎ澄まされた一太刀の斬撃。
だがそれはことごとく虚空を裂いただけだった。
マニゴルドは不可視の刃を見切り、蛇が鎌首をもたげるように僅かに身を引くことで避けた。彼は攻撃の合間に何度か対手を指差した。本気で積尸気冥界波を仕掛けるつもりはなかったが、その機会があることを確かめようとした。
冥界波は相手の魂を強制的に肉体から引き抜く。従って技を掛けられた者はその時点で死が決まると言って良い。しかしエルシドは指を向けられることを嫌がって、決して隙を与えなかった。
「おまえ、俺が何しようとしてるか知ってんのか!」
「知らん!」
候補生は短く否定した。マニゴルドは薄く笑った。本能で察しているのだとしたら大したものだ。
「こっちは見えてないくせに」
先ほどから鬼火を使ってエルシドの視界を邪魔しているのだが、どうにも反応がない。光って揺れ動くものが視界に入ればそちらに気が逸れるはずなのに、エルシドはマニゴルドだけを見ていた。集中を切らさないようにしているというよりは、まるで鬼火が目に入っていないらしかった。彼が「視えない」人間であることはほぼ間違いない。
「鈍感な奴はやりづれえ」
悪童はぼやき、エルシドの背後へ回り込んだ。そう、背後を取るのに苦労したが取ってしまえばやることは決まっている。
「必殺!」
言いながら相手の胴体を両足でぎりぎりと締め付ける。
「くっ」
「参ったって言え! 胴体へし折るぞ」
「言わん!」
こうなると意地の張り合いである。
エルシドは内臓を潰される前に抜け出そうとし、一瞬でその考えを捨てて身体に巻き付く足に肘を打ち込んだ。けれどそれだけでは鋼のように鍛えられた脛は緩まなかった。彼は思いきり勢いを付けて背中から地面に倒れ込んだ。
意図を察したマニゴルドは離れようとしたが、逆に足を押さえられて逃げることができなかった。
したたかに背中を打ち付けた。
拘束が弛んだ隙にひらり起きた黒髪の候補生は、すかさず手刀を振るった。固形化した闘気。マニゴルドが反射的に身を捻って避けた後に大きな地割れができた。裂け目はそのまま広がって尾根の一部を削り取った。
ずるり。足元が沈む感覚に二人の少年は我に返った。
戦いに耐えきれなくなった山の尾根が土砂崩れを起こした。鈍い地響きと共に足場が消える。地形を知り尽くしたエルシドは難を逃れた。しかしマニゴルドにとっては初めての場所。危うく巻き込まれかけた。手を引っ張り上げられて事なきを得た。
マニゴルドは礼を言うより先に喚いた。
「馬鹿! 山崩すとか普通なしだろ! 無関係の奴を巻き込んだらどうすんだ考えろよ! こんな山奥に人がいるわけねえけど!」
「済まん。つい」
友人に怒鳴られ、エルシドは謝った。表情も声が全く変わらないので反省したようには見えない。けれどマニゴルドには生真面目な彼が本気で落ち込んだのが分かった。「仕方ねえ奴」と苦笑して彼の胸をどんと突いた。
「戻ろうぜ。腹減った」
「ああ」
二人は薪を拾いながら小屋に帰ることにした。
少年二人が拳で語らっていた間、小屋でも聖闘士たちが久闊を叙していた。
「やっぱり山は冷えるねえ」
暖炉の前に陣取っている訪問客は言わずもがなのことを呟いた。傍らに置いた大きな箱と壁に掛かっている黒い外套は、聖闘士が外部任務に出る時の共通の装いである。
エルシドの指導者である小屋の主も暖炉前の椅子に腰を下ろした。熊のような髭面のわりに柔らかい口調で尋ねた。
「ゲンマさん、あなたが連れてきたあの少年はお弟子でしょう? いつ弟子取りされたんです」
「いや、それが違うんだよ。任務に連れてけって押しつけられたんだ。お荷物ってほどじゃないが」
「では今回の任務は候補生と関係あったんですか?」
「そうさなあ」
客は足を投げ出して、小屋に来る前に片付けた仕事のことを話し始めた。
◇
――街道の両脇には畑が広がっていた。作物はすでに芽を出して葉を広げつつある。それでも黒っぽい地面がまだよく見えた。故郷では今頃ようやく大麦を蒔く季節だ。風が強いと足元に蒔いたはずの種が遠くまで飛んでしまって、ちゃんとやれと父に叱られたものだ。
青銅聖闘士、冠座《コロナ・ボレアリス》のゲンマは、子供時代を思い出して大らかな気分になった。聖衣の入った箱を背負い直し、後を付いてくる連れを振り向いた。
「もうすぐだぞ」
連れは黙って頷いた。今回の任務に同伴してほしいと教皇直々に頼まれた相手だ。荒事の任務ではなかったのでゲンマも軽い気持ちで引き受けた。そうして謹厳な教皇から引き合わされたのは、小憎たらしい少年だった。正式な聖闘士ではなく、まだ候補生だという話だった。
常人の足では聖域から一ヶ月半かかる旅程を、二人は十日ほどで駆け抜けた。なにも聖闘士が候補生に合わせて足を緩めたわけではない。人のいる場所ではあまり急がなかったからこそ、それだけ掛かってしまったのだ。周辺への影響を無視して走れば三日足らずで移動できただろう。
やがて見えてきた地方領主の館がゲンマの目的地だった。
扉の覗き窓に顔を見せた使用人に、とある修道院の使者であることを告げる。訪問することは予め手紙で伝えてあった。ところがしばらく経って戻ってきた使用人は、
「主人はその修道院とは縁を切ったと申しております。お引き取り下さい」
と言って覗き窓を閉じた。
つまるところ門前払いされた。
彼は躊躇うことなく扉を押した。鋼や木材の断末魔の悲鳴は一瞬だった。重い城門さえ指先で開けられる者を食い止めるには、たかが鍵や閂では荷が重すぎた。蝶番のいかれた扉を壁に立てかけてゲンマは館に入った。使用人たちが異様な物音を聞きつけホールに集まってきた。玄関の惨状を見て彼らは一様に呆気にとられた。
「帰れと言われて帰るわけにはいかん。主人と話がしたい」
彼がずいとホールに乗り込むと、周りは彼の力を恐れて一歩引いた。
「ご、強引に寄付を求めるなんて、ど、どこまで図々しいんだ」
「そうだ。人の家の玄関先で暴れるなんて……」
弱々しい抗議を聖闘士は鼻で笑い飛ばした。
「どうやら誤解があるようだな。我々は寄付を求めに回っているわけではない。言ってみれば家賃の取り立てに来ただけだ。もう一度言う。主人に会わせろ。さもなくば勝手に探させてもらうぞ」
「やめてくれ。館が壊れる」
階段上から苦々しい叫びが聞こえた。その声の主が現れると誰かが「旦那様」と呟いた。たとえ呼びかけがなくてもゲンマにも分かった。その場に集まっている誰よりもいい身なりをした男。ゲンマはせいぜい丁寧に挨拶した。
「これはこれはムッシュ。ごきげんよう。こんな大勢に出迎えてもらって光栄ですよ」
男はしかめ面のまま階段を下りてきた。
「その壊した扉は弁償してもらうぞ。先祖代々受け継いできた貴族の屋敷を何だと思っておる」
「そのご様子からすると、あなたの引き継いだ屋敷の建つこの土地が誰の物か、お忘れなのでしょうな。その件についてお話に参りました。手紙には目を通して頂けましたか?」
「……書斎へ」
忌々しそうに館の主人は顎をしゃくった。
ゲンマは外で待っていた候補生を呼び寄せた。少年はへらへら笑いながら「どうも」と軽薄に入ってきた。招かれざる二人の客を見る館の者たちの目は白い。けれど二人とも全く臆さなかった。
書斎に通されても椅子は勧められなかった。ゲンマは背負っていた荷物を床に置いた。中身は大切な聖衣なので、上に尻を乗せるようなことはしない。候補生は扉近くに控えて、大人たちを冷めた目で眺めている。
「さてムッシュ」と聖闘士は切り出した。「互いに忙しい身だ。手短に話しましょう。あなたは家賃を踏み倒そうとしている店子、我々はそれを取り立てに来た大家です。後々のことを考えると、家賃を踏み倒すのは良策とは言えませんなあ。我々は他の店子を見つけてあなたを追い出すこともできる」
「無礼な言いがかりも大概にしろ」
「言いがかりではありません。あなたが先祖代々受け継いできたというこの荘園は、私の所属する修道院が期限を定めてお貸しした土地の上にあります。我々が所有する土地をあなたがたが借りて利用し、その間の利益はあなたがたが手にするというわけです。従ってその期限更新ごとに契約金をお支払い頂きます。これは初代当主との間で取り交わした契約であり、この国の王であろうと覆すことはできません。ところが前回あなたは支払いを拒否なさった。契約を更新する気がないと仰るなら、土地を返して頂きます。爵位を相続された時に、そのことを教えられませんでしたか? 荘園存続に関わる重要な秘密だと思いますがね」
「そんな契約は知らない」
と、領主は尖った声を上げた。それに対して聖闘士はあくまで穏やかに返した。
「知る知らないの問題ではないでしょう。説明も兼ねて私たちの使いがここに来る度、あなたはただの寄付集めの口実だと怒鳴り散らして追い返した。その後手紙でも事情はご説明したはずだ。まさか貴族のあなたがフランス語が読めないはずはないでしょう。ラテン語でよろしければ当時の契約文を読み上げましょうか。この屋敷のどこかにも写しがあるでしょうがね」
古くから聖闘士は地上の国家権力に従属することなく、歴史の陰に存在してきた。しかしその力を一度示せば戦争の勝敗さえ左右するほどの影響力がある。そのため聖闘士という正体を明かさずに、やむを得ず個人として武勇を示した者も多かった。権力者から恩賞として土地を与えられることも珍しくなかった。
そうして得られた土地は聖闘士全体の共有財産となった。聖域は隠れ蓑となる宗教施設を建てて、一個人がそこに土地を寄進するという形を取った。たとえばキリスト教圏では、それは教会なり修道院ということになる。体裁を整えるために神父や院長が要るが、何も知らない部外者が聖域の外部拠点を預かるのでは困る。そこで聖域の命で神学校で学んだ雑兵が代々その役目に就いた。イスラム圏においては聖者廟の管理人や、法学校の長老職がそれにあたった。長い歴史を持つ聖域は、その歴史自体を武器として各宗教の奥深いところと密かに繋がりがあった。だからこそできた人事である。
しかしそうまでして世を忍んでも、土地を所有することは結局それだけで俗世とのしがらみを生む。飛び地ばかりで活用しにくいという問題もあった。やがて土地の利用権を売って、表向きの権利者としての義務や、土地から得られる利益と権利は彼らに任せることにした。土地そのものを売買するのではなく、そこを利用することで生まれる価値を売買する定期借地権の考え方だ。
もっとも、俗世の政治的・経済的な事情で表向きの権利者が変わることもある。その度に聖域の下部組織たる土地の所有者は、新たな権利者のもとへ使者を遣わして契約を結び直した。その時に相手が認めなければ、それは不当に居座っているだけの部外者と見なされた。ここで初めて聖域に要請が入り、聖闘士が現地に派遣される。そして力尽くで説得するか、排除することになるのだ。
今ゲンマの前にいる男はその瀬戸際に立っていた。
ゲンマは用意してきた石を机に置いた。それを眺める領主の顔は渋面そのものだ。
「これはお宅の前の道端で拾った何の変哲もない石ですがね。我々の手に掛かればこの通り」
彼は石を軽く撫でた。聖闘士の小宇宙に影響されて、石は塵以下の存在に還元された。
魔法にしか思えない技を見せられて(正確には技でもなんでもないが)領主は目を丸くした。石の置いてあった場所を触るが、ざらついた砂のようなものしか残っていない。
「同じことはこの立派なお屋敷にもできるんですよ。やりたくはないですが、人の体にもね。そう怖い顔をなさらないで下さい。権力に訴えるというならそれも結構。我々が土地を借している先には、百合に縁のある高貴なお家がありましてね。この土地はそちらにお貸ししましょうかね」
「そ、そんな話は聞いたことがない。おまえたちの修道院が大地主だなどというのは嘘だ。嘘に決まっている」
「嘘ではありません。ただ公表していないだけです。我々の持つ土地は、フランク王国どころかローマ帝国時代から認められたものです。もちろんこちらの先代当主様にもですよ。この力があったればこそですね」と聖闘士は言うと、溜息を吐いて付け加えた。「お疑いなら撃ってごらんなさい」
その言葉に領主は弾かれたように壁際に走り、棚に飾られていた銃を掴んだ。ゲンマは動かない。発砲の準備を終えて、狙いが付くまで待ってやった。銃口は一度ゲンマを狙った。ところが不意に逸れて、彼に付いてきた少年のほうを向いた。
銃声が響いた。
その瞬間、領主は勝利の笑みを浮かべた。たとえ招かれざる客がまやかしの力を持っていたとしても、その従者は常人だろうと彼は考えた。しかし、
「……わあ。びっくり」
呆れたような馬鹿にしたような、のんびりした声は少年のものだった。候補生は自分に向かって飛んできた弾丸を、蟻をつまむより容易くあっさりと捕まえていた。聖闘士にはできて当たり前の反応だが、常人の目には奇跡としか映らない。少年は領主の顔を見てせせら笑った。そして弾丸を軽く横へ弾き飛ばした。その飛ばした先で壁に穴が開き、隣室で何かが割れる音がした。
呆然としている領主の手から銃をもぎ取り、ゲンマはその銃身を柔らかく真っ二つに折り曲げた。
「どうされますか。ご納得頂けるまで続けてもこちらは構いませんよ。今あるものを壊すというのは簡単なのです。先代のご当主まで続けられてきた我々との関係を、あなたが無かったものにするのと同じようにね。誤解の無いように付け加えますと、我々は不要な力を振るうつもりはありません。あくまでも店子が家賃を踏み倒す時に少しお灸を据えるだけです。払いのいい方には、多少の便宜も取り計らいますよ」
その後も脅したりすかしたりして、一時間後には支払いを約束させた。壊した物の修理代やら賠償金やらは一切負担しないことにも同意させた。ついでにこれまでの契約金よりも額を引き上げた。
土気色の顔色をしている領主は、ゲンマが手形と証文をしまうところを未練たらしく見つめていた。
「それでは我々はお暇させて頂きます。あなたの命とご家名を守るためにも契約はきちんと履行して頂きたいものですな。次に我が修道院の使者に対して手荒な対応をなさったら、……知りませんよ」
「分かった。それはもう十二分に理解した。私が悪かった」
「では失礼。オルヴォワール」
聖闘士と候補生は悠々と領主の館を出た。
しばらく二人は黙々と畑の間の道を歩いていたが、やがて少年のほうが笑い出した。
「女神の闘士が聞いて呆れる。ただの取り立て屋じゃねえか」
「幻滅したか」
ゲンマは自嘲気味に笑った。初めてこの手の任務を請け負った時には、自分が力を磨いたのは何のためだろうと自己嫌悪に陥ったものだ。
少年は大人びた仕草で首を振った。
「聖戦を回すにも金は要るだろうさ。金は戦争の神経である(Nervos belli, pecuniam)ってな」
「生意気な口ききやがって」
彼は少年を小突く真似をした。
「いやいや冗談抜きで。生きてく以上、金は必要でしょ。まして大勢を食わせるとなりゃ、それなりの手段がないと」
少年の割り切った返答に気をよくして、彼は訪問のもう一つの目的を明かした。
「聖域が土地を貸しているのは地元の有力者だ。手に負えないような妙な事件が起きたら、上の権力者に介入させる前に先に俺たちに連絡してくる。事件が神や伝説絡みだったら俺たち聖闘士がそのまま対処するし、人間の常識で解決できる厄介事だったらしかるべきところに連絡しろと助言しておしまいだ。俗世にも雑兵が情報の網を張ってるが、それとは別に異変を知らせる地元民の協力もあったほうがいいからな。持ちつ持たれつってやつだ」
蛇足だが、後世、特に二十世紀に入るとこの関係は崩れることになる。時の教皇は聖域の資金繰りと情報網の再構築に苦労することになるが、それは彼らの知るところではない。
「さて、任務は済んだから少し遠回りするか」
「どこへ?」
「近くに知り合いの聖闘士がいるんだ。ここまで来たら挨拶の一つもしておこうと思ってな」
ゲンマは少年を連れて、山脈を越えた所にいる僚友の住まいを訪ねた。
◇
「――で、ここに来たってわけだ」
訪問客の話に、小屋の主は鬚を引っ張った。
「そんな任務に候補生を連れ回して大丈夫なんですか。指導者は何を考えているのやら」
「まったくなあ。世間を見聞させる心積もりだったとしても、弟子を任せる前に師匠本人から挨拶くらいあっても良かったよなあ。俺への紹介も猊下が間に入られるくらいだし、師弟仲が微妙なのかもな」
ゲンマは普段は聖域の外にいる聖闘士だ。聖域の内情には疎く、教皇の弟子の存在を知らなかった。聖域から遠く離れた地に籠もっている小屋の主も、もちろん知らない。
「なんならあなたの弟子に引き抜けばいいじゃないですか」
「ははは。それは遠慮しておこう。任務が多いから俺も面倒を見てやれない」
小屋の外壁に何かが当たる音がした。薪を積む音だ。ここで修行中の少年が、客の連れを伴って帰ってきた。
「ただ今戻りました」
「ああ」と熊男は弟子を振り返り、四人分の夕食の支度をするように言った。夕食の支度は弟子の仕事だ。食材は客が宿賃代わりに持ち込んだ物がある。
「おまえも手伝え」とゲンマも旅の連れに言った。訪問客であっても働く者食うべからず。マニゴルドは腹が減ったとぼやきながら友人を手伝った。
食卓を四人で囲んだ後は、早々に大人たちは「子供は早く寝ろ」と候補生たちを屋根裏に追いやった。客の手土産である酒を酌み交わすのに邪魔だからだ。
マニゴルドは用意された寝床に倒れ込んだ。隣の寝台では生真面目な友人が脱いだ服をきっちり畳んでいる。肘枕を付いてマニゴルドは尋ねた。
「ここって意外に客多いのか?」
小屋で暮らしているのは二人きりの様子だった。それにも関わらずよく毛布や枕が足りたものだと、彼は感心した。毛布を一枚借りて床に寝ることも覚悟していた。
黒髪の候補生は「少し前まであに弟子がいたんだ」と答えた。
「今は?」
「……怪我を負って聖闘士になる道は諦めた。今は先生と俺の二人きりだ」
相手の声の暗さに、そのあに弟子が死んだのかとばかり思ったが勘違いだったようだ。マニゴルドは「まあ生きてるならいいじゃん」と気軽に言った。
「しかし俺よりもよほど聖闘士になるべき人だった」
「そうそう、聖闘士って言やあ、おまえの先輩。シジフォスは相変わらず任務であっちこっち行ってるけど、今年の頭にハスガードが牡牛座になったんだ。少しは落ち着くかも」
「アルバフィカは元気か」
「あいつも魚座の正式な後継者になって頑張ってるよ。最近会ってないから元気かどうかは知らねえ。とりあえず死んではいないと思う」
彼は聖域の近況を語った。特に共通の知り合いだった少年たちがどうしているかについて。多くは候補生のままだが、年長の者たちはそれぞれの道を歩み出している。聖闘士の称号を得られた者もいれば、聖域の雑兵になって黙々と働く者もいる。雑兵でも情報収集のために世間に出ていった者もいる。
ほとんど相槌も打たずに話を聞いていた友人は、話の切れ目でやっと口を開いた。
「俺は山羊座《カプリコーン》の黄金聖闘士の候補だ」
「えっ」悪童は驚き、肘枕から首だけ起こした。「なんで前に言わなかったんだよ」
「ここに来てから先生に告げられたんだ。鍛え方次第では、今年中にも称号を得られるかも知れないと言われた。俺も、あに弟子のためにも必ずものにしてみせると鍛錬してきた」
こいつが鍛えるべきは表情筋だとマニゴルドは思った。
「他人との手合わせは今日が久しぶりだったが、それなりに強くなっている自信はあった。なのに全力を出してもおまえを負かすことができなかった」
「昔はおまえのほうが圧倒的だったのにな。差が縮まって悔しいか」
にやにやと笑いを浮かべ冗談めかして言うが、それで憤慨するような相手ではなかった。じっと三白眼でマニゴルドを見下ろす。
「悔しくはない。他の誰かと比べるよりも昨日の自分と比べて、技を磨けばそれで良い。しかしおまえも強い。……どの称号だ」
「知らねえ。教えられてねえし」
「あり得ん」
「そう言われてもな」と肩を竦めてみせる。
「言え」黒髪の候補生は長い脚を伸ばしてマニゴルドを小突く。「何座の候補だ」
マニゴルドは溜息を吐いた。アルバフィカが魚座で、目の前の朴念仁でさえ山羊座。それに引き替え守護星座さえ定かではない自分。つい見栄を張りたくなって、言わなくても良いことを言った。
「絶対誰にも言うなよ。たぶん天馬星座だ」
表情の乏しい少年でさえ、目を見開いた。
「するとアテナが降臨される日は間近ということか。重要な役回りだぞ。おまえで大丈夫か」
「どういう意味だこの野郎」
枕を投げると、友人は目だけで笑ってそれを叩き落とした。
そのまま取っ組み合いになってふざけていたら、階下から上がってきた熊男に「静かにしなさい!」と二人揃って窓の外へ放り出された。