【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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説教のあとの幻影

 

 翌日にはマニゴルドとゲンマは聖域への帰途に就いた。

 

 無事に聖域入りした二人は、そのまま十二宮に上がった。ゲンマは顔をしかめながら「本当は候補生は上がるべき場所じゃないんだぞ」と、当然の顔をして付いてくるマニゴルドを振り返った。

 

「おまえと引き合わされたのが教皇宮だったから一応は連れていくけど、教皇の間には入れないからな」

 

「はあ」

 

 教皇の弟子は、今更自分の立場を明かすこともないだろうと生返事をした。

 

 教皇宮に上がったゲンマは、冠座の青銅聖闘士として教皇への帰還挨拶と報告を行った。教皇は重々しく頷いた。

 

「こたびの働き大儀であった。同行させた未熟者はそなたにとってさぞや足枷となったことだろう」

 

「はっ、そのようなことはございません。むしろ聖闘士を目指す若人に実際の働きぶりを見せる機会。下手なところは見せられぬと、私も気合いが入りました」

 

「ならば良い。して、そなたの目から見てあの候補生は使いものになりそうか? 指導者はまだまだだと思っているのだが」

 

 そういえば道中マニゴルドが自身の指導役について何も語らなかったことにゲンマは気がついた。師弟仲が拗れているから他人の自分に預けられたのだろうか、と彼は気を回した。

 

「さようですね……。今回の任務に立ち回りはなかったので戦闘については申せませんが、度胸と胆力は十分にございます。本人の気質的に、どちらかといえば裏方仕事に実力を発揮すると見受けました」

 

「なるほど。指導者の参考になる意見だ」

 

 聖闘士が退室すると、廊下で番兵と談笑していたマニゴルドが近づいてきた。

 

「ゲンマのおっさん」

 

「おう。謁見が終わったから俺はもう帰るが、おまえはどうする。途中まで一緒に行くか」

 

「俺はまだ用があるからここに残る」

 

「そうか。じゃ、ここで解散だな」

 

 候補生は真面目な顔になり、道中世話になった礼を述べた。ゲンマも彼が後輩になる日が来ることを期待した。

 

「ちゃんと修行していい聖闘士になれよ」

 

「称号貰えたら、そん時には一杯奢ってくれ」

 

 図々しい奴だなと笑いながらゲンマは去った。

 

 マニゴルドは廊下を聖闘士とは反対の方角へ進み、教皇の間を迂回して奥に入った。するとちょうど戻ってきたセージと執務室の前で鉢合わせた。

 

「ただいま」

 

 弟子が挨拶すると老人は兜の陰で微笑み、中に入るよう促した。

 

 マニゴルドは執務机の向かいの椅子に掛けるなり両足を投げ出した。そんな弟子を見てセージは眼を細めた。

 

「疲れたか」

 

「まあ多少は。っていうか聖闘士でも人を相手に仕事することがあるんだな」

 

「神を相手取って戦うといっても、我々とて人の世に生きる人の身だ。聖戦のない時代にはひたすら人を相手にすることになる。時には聖闘士という正体すら明かさずにな。冠座の任務を見ておまえはどう思った」

 

「とりあえず聖域の安定した収入のからくりが分かって納得。やっぱり世の中綺麗事だけじゃ飯は食えないよなあ。思ったより阿漕なことしてなくてほっとしたと言うか、がっかりしたと言うか」

 

「いったい何を想像していたのやら」

 

 セージは苦笑すると真っ白な紙の束を弟子に寄越した。

 

「今回の件を自分の任務だったと思って報告書を書いてみなさい。書きかたは誰に聞いてもいいから」

 

 心底面倒だと少年は腹の底から溜息を吐いた。

 

「ただしゲンマに聞くのと、書庫に保管されている前例を丸写しにするのは駄目だ。シジフォスあたりに書式を教えてもらうといい。……ああ、シジフォスと言えば、人馬宮で双子座の候補と話をしたぞ」

 

「アスプロスと」

 

 マニゴルドは俄然身を起こした。あのいけすかない友人には双子の弟のことを教皇に打ち明けろと勧めた。本人は理由を付けて渋っていたが、教皇に直接事実を伝える機会を逃す手はない。

 

「あいつ、なんて言ってた?」

 

「聖域に身内はいないと断言した」

 

 え、と呟きつつ、心のどこかでは納得していた。

 

「自分に兄弟があるとすればそれは聖闘士という同胞であると言っておった。本人が兄弟の存在を否定し、指導者も否定し、調べにも出てこない。関係者の証言が一致した以上、アスプロスに兄弟はいないというのが聖域の結論だ」

 

 少年はゆっくりと椅子の背に身を預けた。

 

 深く息を吸い、また吐き出す。

 

 ややあってから彼は笑ってみせた。すぐには無理だったから。

 

「しょうがねえな。俺の勘違いってことになるか」

 

「もっと踏み込んで調べろと主張しないのか」

 

「そうさせないために俺が聖域にいない間に片付けたんじゃねえの。いいよ。あいつが否定してお師匠もそれでいいって言うなら、俺が混ぜっ返すことじゃねえよ。はいはい、今回の件は俺の早とちりでした。それで万事解決」

 

「マニゴルド」

 

 少年のよく動く舌と唇はその一言で縫い止められた。セージは続けて尋ねる。

 

「もしアスプロスに兄弟がいるとしたら、どういう名前だと思う」

 

「……デフテロスとか、かな」

 

「二番目《デフテロス》か。アスプロスが兄でその者が弟であろうな、きっと」

 

「そうかもな」

 

 不意にセージは横を向いて眉間に皺を寄せた。なにか不愉快な失敗でも思い出したようだった。

 

「お師匠?」

 

「なんでもない」

 

 セージは改めてマニゴルドに視線を戻した。淵のように深い色を湛えた目が弟子を見つめた。

 

「おまえは意味のない嘘は吐かないし、目も曇っていない。麓で多くの者と接するおまえが気づいたことを、教皇宮にこもりきりの私が嘘と断じるつもりはない。アスプロスには兄弟がいるのだろう」

 

「信じてくれんの?」

 

 情けないことに声が掠れた。

 

「当たり前だ。けれど当事者の協力を得ずに事を暴いてどこまで影響が及ぶか、いささか見えてこない。なにせ全ての関係者がその存在を認めないのだからな。かといって立場上、聖域の公式な見解を教皇が勝手に覆すわけにもいかぬ。それゆえの現状維持だ。こらえてくれ」

 

「お師匠が信じてくれるならそれでいい」

 

「弟子を信じずになんとする」

 

 老人は兜の奥で小さく笑った。

 

「アスプロスは教皇の助けを必要としていなかった。だがこの件は、時が全てを解決してくれるという都合の良いことにはならないだろう。予言の件も含めていつか、いつか必ず向き合うことになるはずだ。それまでマニゴルドが彼らのことを見ていてくれ。彼らの友として」

 

「無理だよ。あいつはもう俺の顔も見たくないんじゃないか」

 

 デフテロスのことを告白しない道をアスプロスは選んだ。その時点で、マニゴルドのしたことは彼にとって余計なお世話でしかなくなったはずだ。先日『あまり引っかき回してくれるようなら、おまえも敵と見なす』と釘を刺された通り、もう潔癖な候補生がマニゴルドを信用することはないだろう。

 

 少年はそう思ったが、師の見解は違うようだった。

 

「なんの。向こうも別れ際に言っておったぞ。帰還が間に合うようだったら、シジフォスとの立ち合いを見にきて欲しいと」

 

 ちょうど明日だな、とセージは窓の外に目をやった。マニゴルドもつられて外を眺める。翌日も晴れそうないい天気だった。

 

          ◇

 

 射手座の黄金聖闘士と双子座の候補者との仕合は、闘技場の一つで行われた。見物人は少なかった。限られた者しか近くで見物することを許されなかったからだ。ちなみにその条件とは、黄金聖闘士の攻撃が流れてきても自分の身を守れることだ。場外への影響は立会人の教皇が抑えるが、それでも万全とは言い切れない。

 

 現れた教皇に、一人の男が歩み寄って挨拶している。

 

 アスプロスを指導する聖闘士イサクだろう。あいつだったのか、とようやくマニゴルドは顔と名前を一致させた。三十前後の細身の男だが、へつらうような物腰のせいで聖闘士らしく見えなかった。

 

 その相手をしている師の姿を眺めていると、隣に重量感のある体が座りこんだ。ハスガードだ。

 

「なんだよ。こんなに空いてるんだから、わざわざ隣に来ることないだろ」

 

「つれないことを言うな。一緒に応援するぞ」

 

「応援って、どっちを?」

 

「どっちもだ。でも今回はアスプロスかな」

 

 マニゴルドはふんと鼻で笑って目を闘技場に戻した。

 

 刻限となった。

 

 教皇が、この仕合が双子座の称号授与を賭けたものであることを宣言した。白い法衣と日を反射して輝く兜が眩しい。昨夜磨いた甲斐があったと少年は目を細めた。

 

「ほらマニゴルド、どこを見てる。始まったぞ」

 

 ハスガードに注意されて立ち合う二人に目を戻す。

 

 早速シジフォスが踏み込み、アスプロスがそれに冷静に応戦していた。どちらが挑戦者か分からない。

 

 黄金聖闘士の動きは速かった。最初から小宇宙を燃やして一気に全てを相手に叩き込む。光の速さで繰り出される拳を目で追えた者は、この場にもわずか数人しかいなかった。

 

 けれど対戦者はその全てを受け止め、あるいは受け流していた。対手に呼応するように高まった小宇宙が燦然と輝く。

 

 もっぱら拳での応酬が続く。ぶつかり合った小宇宙が花火のように白く弾けては消えた。

 

 と、二人は示し合わせたように力を抜いて動きを止めた。顔は真剣そのものだし、言葉も交わしていない。けれどマニゴルドには二人が笑ったように見えた。

 

「肩慣らしが終わったな」とハスガードが解説する。

 

 今度はアスプロスから動いた。体にまとう眩い煌めきは濃密な小宇宙。その煌めきが陽炎のように揺らいで、ふっとシジフォスの懐に飛び込んだ。

 

 シジフォスが仰け反った。拳を突き上げたアスプロスを見れば、顎に一発入れたのだと理解が追いつく。マニゴルドはその狙いの的確さに感心したが、少し離れた場所にいた見物人は「何が起きた?」と連れに尋ねていた。

 

 アスプロスはいつまでも腕を伸ばしていないし、シジフォスもやられたままではいない。すぐにまた拳の、というよりそれにまとわせた小宇宙の応酬になった。

 

 唸る、唸る。風が咆える。

 

 一挙手一投足の鋭さと容赦のなさはそれだけで凶器だ。岩をも粉砕する打撃を二人は繰り出し合い、打ち消し合った。余波が周囲の空気を振るわせる。

 

 凄い、と見物人が呟いた。マニゴルドはそちらを冷ややかに一瞥して肩を竦めた。

 

「遊んでんじゃん」

 

「マニゴルドも分かるか?」

 

「まあな」

 

 対戦者たちは二人とも隙らしい隙を見せない。隙のように見えても、それは対手を誘うための陽動だ。互いにそれが分かっているから笑っている。教皇の御前なので頬を緩めたり歯を見せたりはしないが、小宇宙は正直だ。純粋な喜びに泡だっている。

 

 マニゴルドの目には、一触即発の危険な遊びに歓喜する二人の子供が映っていた。

 

「俺も混ざりたい」

 

とハスガードがうずうずしている。マニゴルドは聞こえないふりをしようとした。が、隣で貧乏揺すりをされて気が散るので、脛を蹴飛ばした。

 

「止めろよ。黄金が三つ巴で戦ったら聖域が壊れんだろ。雑兵のおっさんに怒られるぞ」

 

「じゃあ十二宮でやればいい。黄金聖闘士が戦うことを前提に、壊れにくい構造になっていると聞いた」

 

 どこまで本気か分からない金牛宮の守護者の相手をするのは止めて、マニゴルドは闘技場に意識を戻した。

 

 速い。

 

 とにかく二人とも速い。

 

 四肢の全てを意志の力で御して動き回っている。肉体を鍛えているといっても小宇宙を燃やさずに同じ事をやろうとすれば、皮膚は破れ、筋肉は裂け、骨が砕けることだろう。それでも臆せずに前に進む者。それがアテナの闘士に求められる覚悟であり、向かい合う二人が冷酷なほど自覚していることだった。

 

 腕を振るうたび、身を捻るたび、肉眼ではっきりと見えるほどの小宇宙の残滓がほとばしっては霧散する。血か汗のようだった。

 

 攻防は小競り合いが続いていた。大技を決めようとしても相手に悟られて防がれてしまうのだ。実力が拮抗し、互いの手の内を熟知している者の戦いだ。

 

 一瞬で決まるか。

 

 延々と消耗戦にもつれ込むか。

 

 そのどちらかしかない。勝負を決めるのはほんの僅かな集中力の綻びだ。

 

 シジフォスが飛んだ。精悍な顔に純粋な戦意を滲ませてアスプロスに飛びかかる。体重と小宇宙を乗せた足が、アスプロスの身に振り下ろされる鎚になった。アスプロスは避け、大地が巻き添えを食った。短い地響きと共に闘技場の床が粉々になった。

 

 観客席まで飛んできた石の破片に、見物人たちはそれぞれの方法で対処した。悲鳴を上げて頭を庇ったり、自分の所へ飛んできた物だけを避けようとしたり、あるいは受け止めようとしたり。

 

 マニゴルドは手で払い落とした。

 

 破片の多くは横から来た。そちらの方向、つまりハスガードのほうを見れば、腕組みをしている。ハスガードの周辺だけ破片が一つも落ちていなかった。

 

「あんたが弾いた分がこっちに飛んでくんだけど」

 

「済まん。次は俺の後ろに隠れてもいいぞ」

 

「するか格好悪い」

 

 土煙が舞う中、アスプロスは後ろへ飛び退った。速すぎたせいか土煙はほとんど彼の動きに付いていけなかった。完璧に体を動かせるというのはこういうものかとマニゴルドは再び感心した。

 

 シジフォスは距離を保ったまま、昂揚していながらも冷静な目を対手に向けた。風を読み、獲物を狙う狩人の目だ。

 

 再び巨大な力がぶつかり合った。

 

「シジフォスにとっちゃアスプロスは獲物なのかな」

 

「殺るか殺られるか、という対等な立場のな。久しぶりに相手に遠慮せず暴れられるとあって楽しんでる」

 

「ハスガードが相手してやればいいのに」

 

「そういうのじゃないんだ、シジフォスとアスプロスは……」

 

 ハスガードは少し目を細めて戦う二人の友人を眺めた。マニゴルドも闘技場の中央を見た。

 

 アスプロスが両腕を頭の上で交差させようとしていた。高まる小宇宙が渦を巻いて煌めいた。その迸る力の流れ。空に浮かぶ銀河が地上にも出現した。

 

 シジフォスは驚いてそれを見つめた。そして白い歯を見せて笑った。

 

 ――星々が爆ぜた。

 

 やがて闘技場に教皇の朗々たる声が響いた。

 

「そこまで。勝者、アスプロス」

 

 アスプロスは地面に引っ繰り返ったシジフォスに近づいた。敗者に手を差し伸べて、何かを喋っている。その勝ち誇ったような顔からして、嫌味の十や二十はぶつけているのだろう。シジフォスはよろよろと身を起こしてアスプロスの肩を借りた。最後に受けた大技がかなりきているようだ。

 

 彼らが教皇に向き直ると、教皇は勝者に祝福を与えた。

 

「二名ともよく戦った。射手座の黄金聖闘士に土を付けたアスプロスには、十二宮の守り手となるに相応しい実力があると認めよう。アスプロスよ、双子座《ジェミニ》の黄金聖闘士となり、我らが女神の盾となり矛となれ。その拳をもってアテナに勝利を捧げよ」

 

 アスプロスも膝を付いて謝辞を述べた。

 

「アテナとその代理人に、勝利と栄光と忠誠を捧げます」

 

「アテナに栄光あれ」

 

 横からシジフォスが口を添える。

 

 儀式を伴う正式な称号授与はまだ先だが、これで十二宮三番目・双児宮の守護者が無事に定まった。

 

 教皇が去ると、ハスガードが待ちかねたように闘技場に飛びこんだ。戦いを終えた二人に被さる。シジフォスはその重みに耐えられずにその場に崩れた。

 

「何はともあれおめでとう、アスプロス。これで念願叶って三人一緒に黄金位だな」

 

「ああ、ありがとうハスガード。この馬鹿野郎がわざと技を受けるなんてしなければ素直に喜べたんだが……」

 

 視線を受け、シジフォスが二人を見上げた。「だって凄そうな技だったから威力が気になるじゃないか」

 

「自分で受ける奴があるか」

 

「ふっ。一度受けた技はもう俺には通用しない」

 

「じゃあもう一発受けるか」

 

 冷ややかなアスプロスの言葉に、満身創痍のシジフォスは「勘弁してくれ」と手を振った。

 

「そんなに効くなら俺もやってもらおうかな」とハスガードが楽しそうに笑った。

 

「きみまで言うか。いいさ今度食らわせてやる。ただし今はこの馬鹿を人馬宮まで連れて行ってくれないか」

 

「分かった」

 

「黄金聖闘士を顎で使うとは大した奴だな、アスプロス」

 

 言いながら、大柄の友人の肩を借りてようやく射手座が立ち上がる。背負われることを拒否したのは黄金位の意地だろう。

 

「自分で歩いて帰れるならそうするか?」

 

 ハスガードは楽しそうに彼を振り回し、半ば強引に十二宮に連れて帰った。候補生時代に戻ったかのように無邪気に笑いながら。

 

 アスプロスは顎を上げた。

 

 彼の視線の先にはマニゴルドがいる。階段をゆっくりと下りてきた悪童に、双子座の若者はぎこちなく笑みを浮かべた。

 

「来たんだな」

 

「おまえが見に来いって言うから」

 

 言い返すマニゴルドの笑みも硬い。

 

 アスプロスは服の裾で汗を拭った。土埃と混ざって服も顔も汚れた。

 

 黄金聖闘士が去ったのを見て他の候補生たちもやってきた。マニゴルドは場を外そうとした。ところがアスプロスに腕を掴まれて、その場を立ち去ることができない。勝利とその先に待つ栄誉を祝いに来た同輩たちを、アスプロスが誠実かつ適当にあしらうのを横で見るはめになった。

 

「なあ、もう行っていい? なんで捕まってんの俺」

 

「待ってくれ。おまえと話がしたい」

 

 そんな会話をしている間にやってきたのはイサクだった。後ろに雑兵を引き連れている。

 

「最強の聖闘士になるという予言を受けただけのことはあった。私も鼻が高い」

 

 男は試合内容については触れなかった。アスプロスは「ありがとうございます」と言葉少なに礼を述べた。

 

「今後に向けた話がしたい。宿舎に来い、アスプロス」

 

「すみませんがその話は後で伺います。先にこの友人と話をさせてもらえませんか」

 

 そこで初めてイサクは悪童を見下ろした。聖闘士が候補生に向ける目にしては、やや険がある。

 

「おまえの守護星座は? 何の候補生だ」

 

「……まだ教えてもらってねえ」

 

「だったら今後の称号獲得も望み薄だな。星の巡り合わせが良ければこのアスプロスのように黄金聖闘士にもなれるが、悪ければどんなに頑張っても報われん。それでも構わないというならあっちで修行してこい。そして私の弟子の時間を無駄に使わせないでくれ。アスプロスも余計な奴に構うな」

 

 マニゴルドはむっとして言い返そうとした。だがアスプロスの掴む力が強まるほうが一瞬早かった。

 

「イサクさん。マニゴルドは教皇猊下に師事しているんです」

 

「猊下に?」

 

 イサクは瞬きして、悪童を見直した。

 

「それは失礼。そういえばマニゴルドという名は聞き覚えがあるな。きみがそうか。いや、それなら有意義な時間だ。猊下のお弟子であれば、きみもきっと称号を得られることだろう。そうだ。きみさえ良ければぜひ私にも指導させてくれないか。お弟子からみた猊下のお姿というのもぜひ聞きたいものだ」

 

 分かりやすく権威に弱い男だなとマニゴルドは呆れた。

 

「今はアスプロスと話したいんだ。余計な奴にもちょっと時間くれよ」

 

「そんな卑下せずに充分話すといい。猊下によろしく伝えてくれ」

 

 馴れ馴れしく肩を叩かれた。

 

 雑兵たちも媚びるような笑みを作った。一人はマニゴルドの知らない顔だが、他の二人は何度か見たことがある。雑兵のまとめ役が、すぐに仕事を怠けて姿を消すと愚痴っていた二人だ。聖闘士の腰巾着を優先していれば、仕事に身が入らないのも当然だろう。

 

 イサクたち四人が去ると、辺りに人影はなくなった。目に入るのは闘技場の床のなれの果てばかりだ。二人は適当な瓦礫に腰掛けた。

 

「あれがおまえの指導役か」

 

「非常に不本意だがな」

 

 アスプロスは苦々しげに吐き捨てると、話を切り出した。

 

「そんなことはどうでもいい。猊下から何か聞いてるか」

 

「ああ」マニゴルドは頷いた。「聖域におまえの身内はいないってのが聖域の公式見解だ。俺の勘違いってことで片付くよ」

 

「なるほど。今まで通りか。俺は礼も詫びも言わないぞ。頼んでもいない仲介をしたのはおまえの勝手だからな」

 

「こっちだってそんなもの期待してねえよ。おまえ、人に頭下げるの嫌いだろ」

 

「ふん」

 

「けっ」

 

 二人はそっぽを向いた。

 

 相手の顔を見ないまま、マニゴルドは口を開いた。

 

「……あいつのこと、うちのジジイにばらしちまったのは悪かったと思ってる」

 

 アスプロスが笑いを含んだ声で言う。「おまえが謝るのか」

 

「うっせえ。秘密を守るって言っといて自分からそれを破ったのに、それでもおまえのほうは俺の殺しを黙ってくれてる。これ、どうみても俺が格好悪いだろ」

 

「気にするな。どうせおまえは三下の小悪党だ。それに猊下はデフテロスが俺とどういう関係にあるのか、どういう予言を受けているのかまではご存知ではないようだった。だから密告返しするほどのことではないと判断したんだ。むしろおまえが冷静なのが意外なくらいだ。『人の好意を無駄にして』と怒鳴りこみに来ると思ってたから。それとも何かまだ企んでるのか」

 

「信用ねえなあ」

 

 マニゴルドは大袈裟に嘆いた。

 

「デフテロス本人が助けを求めてるわけじゃないからさ。おまえもあいつを守るってのが拠り所みたいだし、俺のやってることは余計なお世話だって言われるのは分かってんだ」

 

「拠り所?」

 

「要するに兄弟二人で勝手に完結してればいいんじゃねえかって思ったわけよ。おまえが双児宮に引き取ればデフテロスだって少しは安全になるんだろう」

 

 それで落ち着いてから改めて教皇に相談してみても遅くはないはずだ。今この場で持ち出してもアスプロスに否定されるだろうが、セージとマニゴルドはその日が来ることを期待している。

 

 アスプロスはじろじろと悪童を見つめた。

 

「やけに物分かりが良いな。本当か?」

 

「本当だって。でもまあ全部ひっくるめると、うちのジジイがおまえと仲良くしろって言うから、仕方なくだ」

 

 不本意だということを示そうと溜息を吐いてみせる。ハスガードのような純粋な友情で接するよりも、損得や思惑含みで接するほうが自分には似合う。

 

 思った通り、アスプロスはくっくと喉の奥で笑った。

 

「それなら分かりやすい。俺もデフテロスに免じて大目に見てやる」

 

 笑いを収めると彼はマニゴルドを真っ直ぐ見つめた。「俺が双子座の黄金聖闘士になったら、デフテロスにも人目のない時に住まいを移ってもらわないとならない。そのついでに邪魔な荷物を片付けたいんだが、手伝ってくれないか」

 

 風が吹く。

 

「荷物?」

 

「そうだ」

 

 マニゴルドは声を立てずに笑った。

 

「いいぜ。ただし俺も抜け出せる夜は限られてるからな。他人に知られたくないなら、お師匠の星見に合わせてくれ」

 

 それは双子座の聖衣を正式に授かる日の前夜に実行された。

 

 双児宮に人知れず辿り着く上での関門は金牛宮だ。ハスガードが退去して、従者もいないことをマニゴルドが確認する。もしこの時にハスガードが留まっていればその注意を惹きつける役目も負っていた。彼の合図でデフテロスは無人の白羊宮と金牛宮を抜ける。

 

 こうして双子の弟は宿舎裏の小屋から双児宮の隠し部屋に速やかに移った。文字通り身一つでの転居だった。

 

「それじゃてめえは大人しく隠れてろ」

 

 マニゴルドはそう言って部屋を出ようとした。と、デフテロスに引き留められた。

 

「兄さんは?」

 

 マニゴルドがデフテロスを導く間、アスプロスは同行していなかった。双子の兄はどこで何をしているのか。

 

「後片付けだよ。俺も手伝いに行く」

 

 にっと口の端を引き上げて、マニゴルドは闇夜に飛び出した。

 


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