その頃アスプロスは自身の指導者であった聖闘士といた。双子座の称号を授かる前に語らいたいと言って呼び出したのだ。
イサクは純粋に教え子の成功を喜んでいた。
「あんな小さかった子供が明日には黄金聖闘士か。感慨深いな。覚えてるか。聖域に来たばかりの頃おまえは――」
「夜風も気持ちいいですし、少し外の空気を吸いませんか」
アスプロスは聖闘士に先だって歩きだした。
「弟と二人で聖域に来た時から、あなたには大変お世話になりました。もうご面倒はおかけしません」
「うむ。しかしおまえが凶星を双児宮に連れて行くと聞いた時には驚いたぞ。あれは私に任せて、おまえは地位に相応しい栄光だけを受け取ればいいものを」
「弟の面倒を他人に任せるわけにはいきません」
「そうかそうか。殊勝な心がけだな」
ずっと不思議だったんですよ、と候補生は呟いた。
「俺たちに聖闘士の素質があると見出して聖域に連れてきたのは自分じゃないとあなたは言う。なのにイサクさんは今日まで俺たちを見張り、鍛え、事あるごとに予言を言い聞かせてきた。どうしてですか?」
「だからもう称号を返上して引退された方に頼まれたと前にも言っただろう。青銅聖闘士は上の指示に従って動くのが務めだ。考えるのは私の仕事じゃない」
「方針を決めた人に逆らうのは出来なかったということですか」
「逆らう意味がない」
「問題を抱えているなら教皇に相談してみろと、しつこく勧めてきた友人がいます」
イサクは驚き、教え子の前に回りこんだ。
「まさか、この前の謁見で凶星のことを話したのか」
「話してませんよ。だから宿舎の周りもあなたの周りも静かなものでしょう。喋っていたら今頃は大騒ぎです」
アスプロスは彼の横を抜けて歩を進める。
「なんと言っても俺の半身です。デフテロスが傷ついたり苦しんだりするのは見たくありません。あなたが理不尽な理由を付けてデフテロスに拳を振るう度に、俺は恨みで体が冷たくなりました。それでもあいつをいたぶる人間は、あなたや取り巻きの雑兵に限られていた」
「今更恨み言か? あれへの執着が強すぎるぞ、アスプロス」
「過ぎたことを言い立てるつもりはありません。俺はあなたよりも格上の称号を手に入れ、あいつに手出しをさせない算段も付いた。けれど、ここでもし不用意にあいつのことを公表すれば、今度は誰に暴力を振るわれるか分からない。凶星だから痛めつけても構わないという人間が出てくるでしょう。予言のことを知る者がいる限り、ずっとその恐れがつきまとう」
「そうだな。だから隠し通すのが一番だ」
聖闘士はもっともらしく頷いた。
「教皇宮から調べが入った時もうまくごまかしておいた。凶星のことを上に知られる心配はない」
夜風が呼吸を止めた。月は地平線に沈んだ。ぬるりとした闇が辺りを満たしている。
「凶星とは聖域に仇なす存在である。なぜそう解釈した時点で殺さなかったんでしょうね。なぜ生かし続ける必要があったのか。理由はあるんでしょうか」
「知らん。おまえたちが私に預けられた時にはもう全て決まっていたから、詳しいことは知らん」
「俺は考えましたよ。最強の聖闘士になる星の下に生まれたのが俺で、凶星の下に生まれたのがデフテロスだと確定させたのも、デフテロスを殺さずに存在を隠したまま育てようと決定したのも、全部あなたの上役だった人なんでしょう。でも、もしかしたら逆だったかも知れない。双子座に選ばれるのがデフテロスで、覆面をして影に息を潜めるのが俺だったこともあり得たんです。なぜデフテロスは殺されずに済んだのか。ねえ、何ででしょうね」
「アスプロス」
男はようやく彼自身の思うところを述べた。
「おまえは賢い。私には理解できない視点で色々と考えることのできる生まれながらの将だ。だが私にもこれだけは言える。――怖がるな。迷うな。受け入れろ。双子座の黄金聖闘士になるのはおまえだ、アスプロス。それだけは間違いない」
いつしか居住区は遠ざかり、二人は人気のない聖域の外れ近くまで来ていた。
若者は立ち止まり、前方を見透かした。
「覚えていますか。この先ですよ。俺と弟が聖域を逃げだそうとして、あなたに捕まって半殺しにされた所です」
星明かりの下に見えるのはただの荒れ野だ。
同じ方角を望んで、聖闘士は昔を懐かしんだ。
「恨んでいるか?」
「とんでもない。感謝しています。俺はあれを切っ掛けに聖闘士を目指すと決めた。誰の顔色を窺う必要もない、我を通せる強さを手に入れると誓ったんです。ようやくそれが叶う」
ゆっくりと端正な顔が振り返る。男は弾かれたように飛び退った。
男が見たのは二つの炎だった。苛烈な決意の炎が若者の目を輝かせていた。
「やはり恨んでいるんじゃないか」嗤おうとして彼は失敗した。
「違うと言ったでしょう。ただ邪魔なんです。あなたが生きている限り、俺たちは安心して生きていけない。死んでくれ、イサク。俺とデフテロスのために」
男の足は走り出していた。
アスプロスの殺意が剥き出しになる。
「なぜ逃げる! 聖闘士らしく立ち向かってみろ」
「私の力ではおまえをいなすことはできん。明日になれば聖衣を手に入れる弟子に手を汚させるわけにいかない」
「俺はおまえを師とは認めない」
二人は荒野を駆ける。
月のない夜。
追われる者にとっては悪夢だ。まさか育ててきた若者に殺されるなど、数秒前まで思ってもいなかった。
追う者にとっては夢に描いた瞬間だ。不吉な予言という後顧の憂いを断ち切る日を、ずっと待ち望んでいた。
未来が過去を襲う。
牙が獲物を捕らえようとした時、横から何か回転する物が飛んできた。
それはアスプロスとイサクの間を横切って地面に落ちた。二人の動きは思わず停まった。木の枝だった。飛んできた方角を見れば、人影が一つ走ってくる。
「デフテロス」
「なにを勝手に歩き回っている! 小屋に戻れ!」
枝に続いて二人の争いに割って入ったデフテロスは、イサクを背後に庇い兄と向きあった。
「兄さん、殺しちゃ駄目だ」
「どけ、デフテロス。そいつはおまえをいたぶってきた男だぞ。おまえはイサクたちが憎くはないのか?」
「俺は殺されてない。この年まで生きてこられたのは、間違いなくイサクたちのお陰でもあるんだ。俺は兄さんと一緒に生きてる。それで充分だ。それにどんな理由があったって人を自分の都合で殺すなんて駄目だ。いけないんだよ。イサクを殺したら兄さんの手が汚れてしまう」
「おまえのためだ。構うものか」
「俺は嫌だ。絶対に嫌だ。兄さんは正道を歩むんだ。それに聖域の掟では私闘は禁じられてる。掟を守って正々堂々と聖域を変えるって、兄さんがいつも言ってることだ」
「それとは別問題だ。どのみち俺に殺されかけたとそいつが誰かに告げたら、俺たちは終わりだぞ」
「そうなったら俺が名乗り出る。聖闘士を殺そうとするなら候補生より凶星のほうが適任だ。暗くて見間違えられたって言えば教皇だって信じる。だって俺たちは双子なんだ。兄さんが間違ったことをするなら、俺は命を賭けても正す」
双子は睨み合った。
やがて弟は背中に庇った男に声を掛けた。「行って下さい、イサクさん」
長年虐げてきた凶星に命を救われた男は、黙ってその場を立ち去った。その姿が荒野から消えるまで、二人は動かなかった。
やがて兄がゆっくりと口を開いた。
「……どうしておまえがここにいるんだ。双児宮に行ったはずだろう」
「一度は行ったよ」
その後でマニゴルドが、片付けをしているアスプロスの手伝いに行くと言って出ていった。しかし小屋には片付けるような物などない。デフテロスの引っ越しなのに本人が何もしないのもおかしい。そう考えたデフテロスは彼を追いかけた。
「そうしたら兄さんはこっちにいるって教えてくれた。兄弟で片を付けろって」
「おまえを巻き込みたくなかったからあいつに頼んだのに」
双子に関する予言を知りデフテロスを虐げる者がいる限り、兄弟揃って表に出ることは叶わない。だからアスプロスは事情を知る全ての者を消すことにした。それが称号を授かる前にすべき身辺整理だと考えた。
それを弟自身によって邪魔されるとは計算外だった。アスプロスは溜息を吐いた。
「それじゃ帰るか。イサクが上に訴え出る前に本当に身の回りの片付けをしないと」
荒野を抜けようという辺りで、二人は居住区のほうからやって来たマニゴルドと鉢合わせた。
マニゴルドは兄のほうに声を掛けた。
「今あの聖闘士と擦れ違ったけど、いいのか」
「もういいんだ」とアスプロスははっきり告げた。
「荷物の片付けは止めたってことね」
「そういうことだ。おまえには無駄な手間を掛けさせたな」
「まったくだよ」
あーあ、と首を回すと、悪童はアスプロスを見据えた。
「だったらもう必要ないだろうけど一応教えとく。どんな理由であれ俺が丸一日教皇宮に戻らなかったら、ある手紙がうちのジジイの手元に届くようになってる。おまえがデフテロスを守るために指導者を殺すこと、口封じに俺を殺すこと……。まあそういう感じのことを書いといた。事実と違った部分は後で書き直すけどな。俺が無事な限りはおまえたちの秘密は守られる。だけど俺を殺したら全てがおじゃんになるってこと、覚えとけ」
教皇の弟子が双子の事情を知っていることは、教皇にも秘密を隠し通したいアスプロスにとって脅威となる。それを彼とマニゴルドは理解していた。
「兄さんを脅すのか」とデフテロスはマニゴルドを見つめた。兄の居場所を明かしてくれたことには感謝するが、脅すとなればその気持ちも消え失せる。
「睨むなよ。殺しの片棒を担がせて用が済んだら口封じにそいつも殺す。よくある手口だろうが。こっちだって無駄死にしたかねえよ」
アスプロスは空を仰いだ。
頭上に広がるのは星空。いつのまにか吹き始めていた夜風が頬に心地よかった。
再び友人に向き直ったその顔には、ただ苦笑だけがあった。
「そこまで分かってて、どうして俺に手を貸した? その言い方だと、俺が『荷物を片付けたい』と言った時にはもう、その『荷物』に自分も含まれていることを勘付いていただろう」
デフテロスの視線が兄とその友人の顔を忙しく往復した。
「まあな。でもせっかく頼ってくれたんだから、応えてやらなきゃ悪いだろ。おまえを抑えるならさっきの手紙の話だけで充分だろうし」
「本当にそれだけか」
「試しに殺してみる?」
おどけるマニゴルドに、気負った様子はない。
デフテロスは思わず兄の手首を掴んだ。
アスプロスは弟を振り向かずに「それは止めておこう」と静かに首を振った。「殺しはいけないとこいつに説教された。雑兵たちはどうしてる?」
「三人とも小屋に放り込んであるよ」
もの凄い剣幕で兄の居場所を聞いてきたデフテロスを荒野へ向かわせた後。マニゴルドは宿舎裏の小屋へ向かい、デフテロスの代わりに小屋に入った。あまり長い時間を待つことなく、三人の雑兵がやってきた。翌日になれば双子の兄は黄金聖闘士として双児宮に入り、弟も引き取られる。そのことをイサクから聞いていた彼らは、最後とばかりにデフテロスをいたぶりにやってきたのだ。
小屋の中でうずくまっていたのがデフテロス本人だと疑わなかった雑兵たちは、少年を腕ずくで引っ張り出そうとした。その瞬間を狙ってマニゴルドは魂を引き抜いた。それが彼の頼まれた「片付けの手伝い」だった。当初のアスプロスの計画では、イサクの後に三人を始末するはずだった。
「魂も肉体の近くに放ってあるからそのうち目が覚める。片付ける気がねえなら好きにしな」
「済まん」
「こっち側に来ると思ったのに」
それだけ告げてマニゴルドは踵を返した。
その背中を見送るアスプロスが「ありがとう」と言った。デフテロスは兄の手首を放した。友人への礼を述べたと思ったからだ。
しかし兄は弟の背を叩いた。「おまえに言ったんだぞ」
意識のない雑兵たちを道まで引っ張り出した後、兄弟は双児宮で眠った。殺されかけたことをイサクが上に訴えれば、アスプロスが双子座の称号を得ることはできなくなるだろう。牢屋に引き立てられる前に、せめて一晩だけでも兄弟揃って過ごしたかった。
ところが双子の覚悟をよそに、何も起きないまま朝が来た。教皇宮から来た神官が「こちらにいらっしゃいましたか」とアスプロスを迎えに来るまで、誰も二人を探しに来なかった。
アスプロスは双子座《ジェミニ》の黄金聖衣を拝領した。彼の颯爽とした立ち居振るまいは、聖闘士の鑑となるべき黄金聖闘士にふさわしいものだった。
長年に渡って彼を指導してきた聖闘士の姿はそこになかった。もっとも儀式の進行には支障がなかったので、表だって取り沙汰されることはなかった。
儀式の陰でその男が聖衣を返上したことをアスプロスが知ったのは、更に翌日のことである。教えてくれたのは引退を認めた教皇その人だった。初めてアスプロスが伺候した時に、何かの拍子でその話題になった。
「初めて耳にいたしました」
言葉にしてはそう応えたものの、アスプロスに驚きはなかった。一日待っても私闘を行ったことに関して音沙汰がなかった。その理由を考えるうちに、薄々予想していたことだった。なにしろアスプロス相手に勝算なしとみて戦いから逃げ回った男だ。聖域からも逃げたのだろう。
教皇は僅かに体重を肘掛けに傾けた。溜息を吐いたように見えたが、見た者の気のせいだったかも知れない。
「かの者が引退する理由を何と述べたか分かるか。弟子が黄金聖闘士になって、聖闘士として己が果たせる務めはこれ以上ないと実感したそうだぞ。新しく弟子を取ってもアスプロスと比べてしまうだろうと。そなたはよほど印象深い弟子だったとみえる」
もしそれが事実だったとしても、良い印象ではないだろう。若者は軽く頭を下げるに留めた。
双子座のアスプロスの伺候はそれで終わった。
彼が長い十二宮の階段を下りてくると、双児宮の手前でマニゴルドが待ち受けていた。なにやらニヤニヤと笑いを浮かべている。
「知ってるか? イサクが――」
「いま上で聞いてきた。あの卑怯者は俺から逃げた」
苦々しげに言う彼に、少年は笑いを貼り付けたまま問いを重ねた。
「じゃあ、雑兵が飛ばされるって話は?」
「雑兵のことなんて知るわけないだろう」
興味のないことが明らかな声音に、教皇の弟子はわざとらしく頭を振った。
「イサクの舎弟みたいな三人、聖域外の拠点運営のほうに回される。珍しく神官が昨日のうちに処理してたから、たぶん今日明日には飛ばされるんじゃねえの。どうよ。これでもまだ興味沸かないか」
デフテロスをいたぶってきた全員が聖域から消える。これにはさすがにアスプロスも驚いた。
「三人とも?」
「そう。しかも三人ばらばら。配置替えを推薦したのはイサクだ。自分の聖衣返上を願い出たその場でうちのジジイに具申したんだと」
「なぜ、……いや、そうか。子分の命を守るつもりか」
「そういう考え方もありだろうけどさ」
気怠そうに首を掻くと、少年は笑うのを止めて十二宮の向こうへ目を向けた。山の裾野に広がる建物群。その向こうに広がる荒野。
「遠くに行った雑兵の言うことなんざ聖域がいちいち構うわけねえ。それと俗世に潜る雑兵はだいたいそのまま所帯を持って聖域には戻ってこなくなるらしい。つまりはこれも口封じのやり方。そう言えなくもない」
「あの男が俺の代わりに邪魔な雑兵を片付けたと?」
「てめえも含めてな」
マニゴルドは視線をアスプロスに戻した。
「聖闘士が弟子を取るってのは、そいつの生き方とか面倒事も背負いこむことになるんだってよ。場合によっちゃ尻ぬぐいしてやることもあるってさ。イサクのおっさんはそれをやっただけだ。生き残る打算だろうが、おまえに不利なことはしてねえ」
弟子に手を汚させるわけにいかない。そう叫んだ男の背中を思い出した。アスプロスは小さく笑った。
「なるほど。人の好い考えだが、たしかに猊下はおまえという面倒の塊を背負われている」
「俺の話はどうでもいいんだよ」
少年はごまかすように、手にしていた紙を突きだした。「下の宿舎から預かってきた。おっさんの部屋にあったんだと」
「俺宛の文なら宮の従者にでも預ければ済むのに」言いながらアスプロスが受け取った紙は手紙と言うよりただの書き付けだった。「名前がないじゃないか。本当に俺宛か?」
「下の連中はただの捨て忘れた覚え書きだと思ってる。いいから見てみろ」
促され、紙を広げてアスプロスは息を呑んだ。「gen 27:40」と記してあった。
「な、おまえに向けたもんだろ」
「ああ。……『汝は剣をもて世をわたり、汝の弟につかえん。されど汝繋ぎを離るる時はその軛(くびき)を汝の頸より振るいおとすを得ん』。確かに俺宛のようだな。なにせイサクの言葉だ」
アスプロスは紙を握り潰した。
ここで言うイサクとは、旧約聖書において諍いのあった双子、エサウとヤコブの父親のことを指す。弟ヤコブは、やがて族長となって兄エサウを従えるだろうと預言されていた。しかし預言を信じられずに策を弄して父を欺し、長子の権利を奪った。それをエサウに恨まれて、兄弟は仲違いするようになった。
旧約聖書の創世記、二十七章四十節。それは父イサクから長男エサウに宛てた言葉の一節だった。
「弟に仕える、か。あの男の最後の嫌がらせだな。俺はエサウじゃないし、デフテロスはヤコブじゃない。それともテフテロスを切り捨てろという意味か」
「デフテロスって誰だ。おまえに弟なんかいねえだろ」
咄嗟に顔を上げたアスプロスを、マニゴルドはとくに表情らしいものもないまま眺めている。そして噛み含めて諭すようにゆっくりと言った。
「いるとすりゃあ聖闘士っていう血の繋がらない同胞。なに驚いてんだよ。おまえ自身が教皇に言ったことだぜ」
「マニゴルド」
「一昨日の夜だって、俺はずっと星見の丘の麓でうちのジジイ待ってただけだ。双児宮におまえ以外の誰かがいるなんて知りもしないし、おまえが聖闘士になった以上はおやつも分けてやんねえ。そういうことだ」
それはデフテロスの存在について今後一切触れるつもりはないという、マニゴルドの意思表示だった。
アスプロスは戸惑いながらも頷いた。今までいくら彼が頼み、脅しすかしても聞かなかったことを、今になって受け入れた。その心境の変化は何だろうと考える。
「俺が死んだ時にジジイに届くはずだった手紙も、もう焼くよ。それで全部片付けは済んだことにしてくれ。だけど俺もジジイも死者と対話できるから妙な気は起こすなよ」
「大丈夫だ。その気は完全に失せた。おまえを始末しなくて良かったと今は思ってる」
「さすがに告げ口されるのはアスプロスでも嫌か」
「いや。おまえが聖闘士になったら俺の下で使ってやろうかと思って」
その言葉にマニゴルドは目を見開いた。
アスプロスはこの小憎たらしい後輩を驚かせたことに満足した。彼がしたり顔になったのを見て、マニゴルドもまた唇の端を引き上げる。
「……へへえ。黄金聖闘士様のお役に立てるなら喜んで、なんて言うと思ったか糞ったれ。聖衣もらったくらいで偉そうにすんな」
少年はアスプロスの肩口を拳で打った。アスプロスも笑いながら拳を受け止め、それを握り直した。
「おまえはヘラヘラしていても油断のならない奴だ。敵には回したくない。仲良くしよう」
「とか言って右手で握手してるけど、左手に短剣を隠し持ってるんだろうな。まあいいや。俺たちが仲良くしてればお師匠やハスガードは安心する。いいぜ」
純粋な友情と呼ぶには思惑が多すぎる。打算と呼ぶには甘すぎる。けれどアスプロスはそれを悪くないと感じた。そう、悪くない。
握手と抱擁。相手もそれに応えた。
ふと、マニゴルドが身を離し、笑いを収めた。
彼が口を開く前からアスプロスは予感していた。これから喋る内容のために彼は双児宮で待っていたのだろうと。
「さっきの走り書き。軛ってのは誰かのことじゃなくて、おまえの気の迷いのことなんじゃないかな。余計なこと考えるのは止めて頑張れってさ」
それだけ言うと彼は身を翻し、階段を上り始めた。
アスプロスは言い返そうとしたが、階段を上がる背中は反論を待つ気はなさそうだった。
それきり、イサクの伝言が二人の間で話題に上ることはなかった。デフテロスの存在についても同様である。マニゴルドは二度とアスプロスの身内と予言のことを口外しなかった。
◇
教皇宮から張り出したバルコニーに弟子が佇んでいる。
セージが近づいてもマニゴルドは振り返らなかった。手すりにもたれかかって、組んだ腕に顎を乗せている。
手を伸ばして頭に手を置こうとすると横目で睨まれた。出会った当初もそうだったが、最近また撫でられるのを嫌がるようになった。人と接することへの警戒心はなくなっても、今度は年頃の見栄というのが生まれたらしい。
仕方なく弟子が眺めていただろう景色に目をやる。
青い空。遠くに望む山々の主脈にはまだ白い雪が残っているが、中腹より下は緑がかって見えた。
「なにやら凹んでおるな。組み手で初心者に負けたか?」
「そうじゃねえ」憂えたというよりはふて腐れた表情。「ガラにもなく他人のために動いてみたけど、なんか、終わってみれば俺が首を突っ込まなくても同じ結果になったんじゃねえかと思うとがっかりしてさ。しょせん俺ができるのは人殺しだけで、人助けは無理なんだよ」
「本気でそう思っているなら勘違いだぞ。マニゴルド」
弟子はまた目だけでセージのほうを見上げた。
「まず『終わってみれば』という考え方は、もっと時間を置いてからするものだ。一息吐けた時が終わりというのは甘いぞ。死が人の終わりではないように、一区切り付くことはあっても完全に終わるものはないのが人の世だ」
「そういう意味かよ……」とマニゴルドは呻く。
「今はおまえの行動が全く影響を及ぼさなかったように見えても、もっと長い目で見れば、いつかどこかで影響は出てくる。もっともその時になれば、誰の行動が原因でそうなったかということを皆忘れていたりもするがな」
「水面の一点に動きがあれば必ず周りに波紋が広がるって言ってた、あれのこと?」
「よく覚えておったな」
数年前に掛けた言葉だ。セージが思わず驚くと、弟子は決まり悪げに鼻の下を指で擦った。
その手を取って、掌を上に向けさせる。
「おまえの手は人を殺すことも、物を奪うことも知っている。しかしそれだけではない。己の糧を誰かに分け与えることもできる。他の者の運ぶ重荷を支えてやることも、歩き疲れた者の手を引くこともできる」
「…………」
「茶を美味く淹れることを覚えたように、やり方さえ分かれば家を建てたり、人の怪我を治すこともできるだろう。人殺ししかできない手というのは存在しない」
そうかな、と小さな声で疑うので、そうとも、とセージは頷いた。「小宇宙と同じように、心がけ次第でなんでもできる。おまえの手はそういう手だ」
手を放すとマニゴルドは自分の掌に溜まった日の光をじっと眺めていた。
「だったら雑兵でもいいから早く仕事覚えたいとこだわ。俺、さっき部下になれって黄金聖闘士から勧誘されたんだ」
「雑兵か……」
セージは引退を願い出た男と交わしたやり取りを思い出した。
アスプロスを指導してきたその男は、黄金聖闘士を育て上げたことで聖闘士としての務めを果たしたと言った。その結果に満足しているとも。
『アスプロスは私が育て上げた最高の弟子でございました』
はたしてマニゴルドが成長した時に、自分もそう断言できるだけのことをしてやれるだろうか。そう思ったセージは男の意志を尊重して慰留せずに引退を認めた。当然、教え子のほうでも師の思いを酌み取ってくれるだろうと期待していた。
ところが男の引退を当のアスプロスに伝えても反応は薄かった。指導者をあまり尊敬していないようだった。
まったく親の心子知らずとはこのことだ、と感じた。その時の気分が甦ってきた。
マニゴルドに継がせるべき称号はすでに決まっている。セージが長く担いすぎて埃を被ってしまった称号、蟹座《キャンサー》だ。
けれどそれを伝えて何になるだろう。積尸気使いとして未熟。聖闘士として未熟。人として未熟。教えるべきことはまだまだ多い。そんな相手におまえは黄金の器だと告げれば、慢心するか、萎縮するかしてしまうだろう。
そんなことを考えながら見つめていると、やがてマニゴルドが落ち着きを失い始めた。
「あ、あのさ、そんな怖い顔で黙りこまれると俺も困るんですけど。呪われた星座とか、すげえ悲惨な死に方が約束された称号とかが用意されてるんだったら、遠慮する」
仕方のない奴だとセージは脱力した。
安寧の生涯とは無縁になるという意味では、どの称号の聖闘士であっても同じだろう。それを呪いと呼ぶか栄光と呼ぶかは、その者の働き次第だ。
できることなら後者であって欲しいと願う。
「……行くぞ。修行を付けてやる」
それを聞き、弟子はそぶりだけは面倒そうに、けれどセージよりも素早くバルコニーを離れた。