【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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続・聖域の人々

 

 水場の脇にカモミールの白い花が咲いていた。

 

 女は水桶を置いて身を屈めた。

 

 昨日はまだ蕾だった。やっと咲いた小さな一輪ではあるけれど、主に捧げれば喜ぶだろう。石造りの神殿は荘厳ではあってもどこか寂しい。

 

 その時、遠くを歩く光が目に入った。日を受けて輝く白いマントと、黄金色の重厚な輝き。

 

 それを見て、女は花を手折ろうとした手を止めた。

 

 聖域の麓には、ここよりもっと花の咲いている場所がある。それを思い出した。

 

          ◇

 

 キクレーはアテナに仕える巫女の一人だ。

 

 といってもその身に神を降ろすわけではなく、女神の身の回りの世話をする侍女のようなものだった。少なくとも聖域に迎えられた時にはそう説明された。アテナが降臨する時期が迫ってきたので、巫女に相応しい少女として選ばれたという話だった。

 

「降臨されて数年は乳母がお側に付きますが、ご成長されてからのお世話はあなたたちのお役目です。それまでの間に巫女の務めを完璧に覚えてもらいます。よろしいですね」

 

 女官長だという貫禄のある中年女性に言い含められて、キクレーともう一人の娘は「はい」と返事をした。巫女と言っても親元を離れたばかりのただの娘。奉公に上がるのと変わらない。

 

 それから女官や神官から様々なことを教わった。さしあたっては神殿の清め方といった日々の務めや折々の儀式での作法。そのうち裁縫や音楽も教えてくれるという。まるで行儀見習いのようだった。教えてくれる女官はとても優しかった。よく「あの子に比べればあなたたちは天使です」と誉めてくれた。「あの子」というのが誰なのかは教えてもらえなかったが。

 

 巫女はアテナの居住空間である神殿で寝起きすることになっていた。神殿は山の頂上、教皇宮を抜けた先に鎮座している。それなりに人のいる教皇宮と違い、しんと静まりかえった建物だ。夜になれば尚更だった。こんな寂しい所で育つなんてアテナは可哀相、とキクレーは思う。だからもう一人の巫女グリシナと「お姉さん代わりになってたくさん遊んであげよう」と誓い合った。

 

 けれど約束された夜になっても、アテナは女神像の前に降臨しなかった。理由は教えてもらえなかった。

 

 数日後には儀式用の祭壇や篝火も撤去された。娘たちは神殿前からその作業を眺めた。

 

「乳母の人は帰されちゃったね」

 

「仕方ないじゃない。お乳飲ませる相手がいないんだもの」

 

「これから私たちだけだね」

 

とグリシナは不安そうに腕を擦った。

 

 二人は乳母と違い俗世に帰されることはない。アテナがいますが如くに祭れという神官長の指示を受けていた。しかしそれはどういう意味ですかと聞き直せなかった。なにやら神官が苛ついていたので。

 

 キクレーも溜息を吐いた。「どうしましょう」

 

「悩むことはない。神殿を清め、供物を捧げ、祈りを捧げよ」

 

 近くから聞こえた声に娘たちは顔を上げた。そして慌てた。兜と法衣という奇妙な組み合わせにもかかわらず、それが滑稽ではなく威厳を感じさせる佇まい。風雪に耐え続けてきた大木の風格。教皇だった。アテナを除けばこの聖域で一番偉いお方だと女官から教えられていた。

 

 老人だということは一目で分かった。肌には皺が刻まれ、髪も真っ白だ。しかし精神の柔軟性を失ったがゆえの鈍重さや頑固さとは無縁だった。兜の奥から見える目は若々しく鋭い。声にも張りがある。

 

「アテナがこの聖域にお戻りになられる時に速やかにお迎え申し上げられるかどうかは、そなたたちにかかっている。ゆえにそこに在られることを想像して、実際にお世話をする気持ちで務めよ。それがいますが如くに祭るということだ。分かるか」

 

 娘たちが承服したので老人は去っていった。

 

 何の気無しにそのまま教皇の背を見送っていると、誰かが駆け寄っていくのが見えた。キクレーたちと同じ年頃の少年だ。どうやら神殿の階段下で教皇を待っていたらしい。親しげに話している。

 

「グリシナ、見て。男の子」

 

「本当だ。きっと猊下の従者よ」

 

 主従と思しき二人連れは教皇宮に吸い込まれていった。

 

 

 神殿での暮らしも一年を過ぎた頃、キクレーは所用で女官長に会いに教皇宮へ行った。ところが女官が常駐している部屋には誰もいない。

 

 探しに行こうかと廊下に出たところで声を掛けられた。

 

「あんた新入り?」

 

 軽薄な声に振り返ると、一人の少年がいた。

 

 教皇宮より下町にいるほうが似合いそうだった。人懐こい笑顔を浮かべている。一年前に見かけた相手とは思い出せず、キクレーはその場に立ち尽くした。

 

「可愛い格好してんじゃん。直してほしいんだけど頼んでいいか」と抱えていた修行着を見せる。脇腹のところが大きく裂けていた。

 

「私にですか?」

 

 戸惑うキクレーに少年は当然のように言う。

 

「針仕事は女官の仕事だろ。苦手なら女官長にでも渡しておいてくれればいい。急ぎじゃねえから」

 

 女官じゃない。その憤りに娘はようやく自分を取り戻した。

 

「私は女官ではありません。アテナに仕える巫女です。教皇宮の雑用はしなくていいと女官長より言われております」

 

「巫女?」

 

 キクレーは無遠慮に観察された。くるぶしまである白いキトンに、頭からストールのように被っているヒマティオン。古代のレリーフから抜け出してきたような衣装という自覚はある。女官とは違う装いなのだから、声を掛ける前に気づいて欲しかった。

 

「それが何で教皇宮にいるんだよ」

 

 女官長を探していたと答えると、少年は服を脇に抱え直した。

 

「じゃあ一緒に探してやろうか。俺の用事もそれで済むし」

 

 ほら、と手を差し出されたがキクレーは一歩後ずさった。少年は気を悪くした様子もなく、その手を自分の首の後ろへやった。

 

「そっか。自己紹介がまだだったな。俺はマニゴルド。教皇の弟子やってる。ずっとここで暮らしてるけど、あんたの顔は見たことねえな。見たら忘れるわけないのに」

 

 馴れ馴れしい男、とキクレーは警戒した。少しくらい格好良いからといって、声を掛けられた女の子が皆喜ぶと思ったら大間違いだ。舐められまいと背筋を伸ばす。

 

「普段は神殿に籠もってこちらには参りませんから、ご存知ないのも当然です。私はキクレーと申します。教皇に連なる方でしたら、今後もお目に掛かる機会があるでしょう。どうぞよしなに」

 

 せいぜい優雅に挨拶すると、相手は気後れしたように眉尻を下げた。

 

 二人は歩き始めた。手は繋がない。

 

「巫女って要するにアテナの世話係だろ? 今は何してんだ。大きな声じゃ言えねえけど、本人はいないんだから」

 

「いいえ、今もです。そこにアテナがおられるが如くにお世話をしております」祈りの時間を除けば今のところ神殿の掃除ばかりだが、そんな事は言わない。

 

 そりゃ大変だ、と、どこか馬鹿にした口ぶりで少年は呟いた。「一人でやってんのか。寂しくないの」

 

「巫女はもう一人おります」

 

「あんたみたいな美人?」

 

「グリシナはとても美しい娘です。誰が見ても美しいと言うでしょう。私と比べる意味などありません」

 

 キクレーは正面を向いたまま答えた。あんたみたいな、などと思ってもいないことを口にする不誠実な男など嫌いだ。

 

 しかし彼女の内心の声を聞き取ったのか、少年は言った。「いやいや。あんたも綺麗だって。特に目が」

 

「目?」

 

 キクレーは驚き振り返った。彼の顔と向き合うことになった。

 

「そう、その澄んだ目。宝石みたいだ。俺はそのグリシナって子は知らねえけど、誰と比べようがあんたは綺麗だよ。宝石は宝石箱に入れっぱなしじゃ勿体ないぜ。たまには神殿から出てきて見せてくれよ」

 

 見つめられたほうが戸惑うほど、少年は真摯だった。実家にいた頃はそんな風に言われたことはなかったし、神殿に入ってからは若い異性と言葉を交わすこともなかった。少女は困って顔を背けた。慣れていなかったのだ。

 

「あれ。怒った? もしかして俺が適当にお世辞言ってると思ってる? 本当に綺麗だから、こっち向いてくれよ。俺が嘘言ってねえって目を見てくれれば分かるから」

 

「何をしておいでですか、マニゴルド様」

 

 声のしたほうを向けば、廊下の中央に中年の女が仁王立ちしている。少年はへらりと笑った。

 

「よう女官長。怖い顔するなよ。あんたには笑顔のほうが似合うぜ」

 

「お黙りなさい。修行を怠けて巫女に言い寄っていたと猊下に言いつけますよ」

 

「うへえ。そりゃ勘弁」

 

 肩を竦めた少年はキクレーから離れた。そして女官長に服を託して去っていった。

 

 女官は渋い顔のまま娘に向き直った。

 

「いけませんよ、キクレー様も。教皇宮を歩き回らないようにと言ったでしょう。それとマニゴルド様の言葉を真に受けてはいけません。彼は女と見たら尼僧でも口説く国の男ですからね。子供だと思ってたのに、いつのまにか口ばっかり達者になってしまって。本当にもう」

 

「ごめんなさい。女官長を探していたんです」

 

 急いでキクレーが謝ると、女は表情を緩めた。教育係と言うよりは叔母の表情に近かった。

 

「……本当に、あまりこちらの建物に来てはなりませんよ。マニゴルド様は猊下のお側で修行中の身。その修行を蔑ろにさせた原因と思われては、きっと猊下にもお叱りを被ってしまいますからね。さ、部屋に戻りましょう」

 

 なんでも神官長から重要な話があって女官たちは部屋を外していたということだった。もしキクレーが教皇宮に通い詰めていたら、それが神官長代理の引き起こした事件に関わる話だったと勘付いたかも知れない。しかし全ては片付いたことだ。女官たちでさえ蚊帳の外だった事件が巫女に明かされることはなかった。

 

 神殿に戻ったキクレーが教皇の弟子に会ったことを話すと、グリシナは興味を示した。優美な顔を輝かせて詰め寄ってくる。

 

「もしかしてそれって、一年前に神殿の前で猊下と話してた子じゃない。従者じゃなかったんだ」

 

「よく覚えてるね」

 

「ここにいると人と会うことなんて滅多にないもの。猊下のお弟子ってことは才能があるんだ。ねえ、格好良かった?」

 

 まあね、と彼女はしかめ面で答えた。そこは認めざるを得なかった。

 

 

 山頂にある石造りの神殿は、冬は底冷えがする。二人の巫女は冬になるとありったけの服を着込んで日々の祭礼を行った。

 

 大雪の日も同じだった。教皇宮との間にも雪が積もって神殿に閉じ込められた形になったが、二人とも平気だった。薪もある。食べ物もある。主が不在であってもアテナ神殿は聖域という砦の最奥。防衛の備えは万全だ。それに本当に困った時には、雪を掻き分けて教皇宮まで助けを求めればいい。そう分かっているから気楽なものだった。

 

 朝、水を汲みに神殿の外へ出ると、遠くからおおいと呼ぶ声が聞こえた。辺りを見回すと、真っ白な雪原を突っ切って少年が走ってくる。太股の辺りまで積もった雪の中を漕いでやってくる。

 

 教皇の弟子はキクレーの前で立ち止まった。

 

「元気か、巫女さん。雪に閉じ込められて困ってるだろ。道作りに来たから」

 

 雪を踏み固めて教皇宮まで通れるようにしておくという。巫女の格好で雪を掻き分けたりすれば、風邪を引きかねないと彼は心配していた。

 

「お気持ちはありがたいですが、あなたの仕事ではないでしょう」

 

「んー」彼は頭を掻いた。「昨日は別の所を雪掻きしてたんだ。そのついでにやれば良かったんだけど、うっかり忘れてた。まあ使用人は神殿に近づくのを遠慮してるし、俺一人でも十分だから」

 

 そう言って彼は自分の足跡を辿って戻っていった。キクレーも水桶を抱えて一度神殿内に戻った。髪の乱れを直し、衣に変な皺が付いていないか見直す。

 

 それから表へ出て見てみれば、本当に少年は雪をせっせと踏み固めていた。教皇宮から真っ直ぐに続いている細い径。見守っているとその径はじりじりと彼女のいる所まで延びてきた。

 

 待ち遠しく、もどかしい。胸がむずむずする。

 

 それをごまかすように、親切な方、と呟いてみる。

 

 声には出さなかったのに彼は顔を上げた。キクレーを見て呆れたように片眉を上げた。

 

「中にいりゃいいのに。寒いだろ」

 

「あなたを置いてですか。そんな薄情なことできません」

 

「でも鼻が赤いぜ」

 

 少女が慌てて顔を両手で覆うと、相手は小さく笑った。「可愛いな、あんた」

 

「からかわないで下さい。それより、マニゴルド様は神殿に近づくのはよろしいのですか」

 

 神殿には儀式でもない限り神官さえも近寄らない。女神の御座所という思いがある聖域の住人なら、誰でも恐れ多く感じるものだという。

 

「候補生っていう立場的にはよろしくねえよ。でもたかが階段を上るのを怖がるようじゃ、生と死の境を越えられねえな。生と死。貴と賤。光と闇。境界線があるようで、意外にみんな繋がってんだ」

 

「繋がってませんよ。生死の境を越えたら死にます」

 

「うん。まあ、そうなんだけど」

 

 二人が話していると、声を聞きつけたのかグリシナも出てきた。どちらの方、という彼女の問いに少年は気さくに答えた。

 

「あんたがもう一人の巫女さんだな。俺はマニゴルド。教皇宮の住人だ。たしかにキクレーが言ってた通りの美人だな」

 

 グリシナは黙って微笑んだ。

 

 キクレーは彼女も言い寄られるだろうと気構えた。しかしその心配をよそに、二人はありきたりな初対面の会話を交わしただけだった。

 

 雪の中の小径はとうとう神殿にかかる階段まで到達した。

 

「よし、終わり!」

 

「ありがとうございます。中でお茶か朝食でも――」

 

とグリシナが言いかけたので、キクレーが急いで遮った。

 

「と申し上げたいところですが、聖闘士以外は男子禁制の神殿でございます。その決まりは越えないで下さいまし。お礼もできずに申し訳ありませんが」

 

「いいよべつに。俺だって向こうの建物に行けば朝飯が待ってる。それじゃな」

 

 少年はあっさり立ち去った。

 

 キクレーが神殿の中に戻ろうとすると、グリシナが緩い笑みを浮かべながら背中をつついてきた。

 

「なかなかの男前じゃない」

 

「やめてよ。グリシナだって美人と言われて浮かれてたくせに。神殿に男を招き入れたと知れたら叱られるだけじゃ済まないのに、なに考えてるの」

 

「だってあなたが止めてくれるって分かってたから。そこで改めてお礼すればいいのよ。あなたが」

 

「私が?」

 

 キクレーは立ち止まって聞き返した。グリシナは思わせぶりな含み笑いと共にさっさと奥の部屋に戻っていった。

 

 ところで巫女たちは特別な針仕事も行う。女神の衣装や教皇の法衣、儀式で使われる祭具の下に敷く敷物などは、彼女たちの手によって飾られるのだ。呪術的な意味が含まれていることは言うまでもない。

 

 キクレーは祭壇の飾りの合間に、手慰みで自分用のクッションにも取りかかっていた。それの刺繍の意匠を途中で変えた。グリシナには「色も地味だし、可愛くなくなった」と不評だったが構わなかった。男の子にあまり可愛い物を渡しても迷惑がられるだけだろう。

 

 刺繍が完成すると「雪の日のお礼です」と手紙を添えて、教皇の弟子に渡してくれるよう女官に託した。

 

 

 少年が再び神殿に現れたのは春先のことだった。

 

 キクレーが見かけた時、彼は階段に腰を下ろして聖域を眺めていた。それがふと振り返り、彼女に笑いかけた。

 

「よう」

 

「……こんにちは」

 

「クッションありがとな。死んでる時の枕にちょうどいい」

 

 使っている状況は分からなかったが、使ってもらえていると知ってほっとした。「お礼、ですから」

 

 彼は手の中に握っていた物をスルスルと伸ばした。刺繍を施した二組の綺麗なリボンだった。彼女の視線がそれに注がれているのを見て、少年はにやりと笑った。

 

「このまえ聖闘士と一緒に俗世で仕事してきたんだ。これはその土産。あんたたちに」

 

「ありがとうございます。グリシナも呼んできますからお待ち下さい」

 

「あんただけでいい」

 

 少年はキクレーをその場に留めると、リボンを彼女の栗色の髪の横にあてた。手が髪に触れて、キクレーは思わず身じろいだ。

 

「二本ともあんたに似合いそうなのを選んできたんだ。好み分かんねえから色は変えて。だから好きなのを先に取れよ。残ったほうがもう一人の分。あ、残り物だってことは言うなよ」

 

 リボンを渡されて、彼女は戸惑った。

 

「グリシナのほうが美人なのに、なぜ私に構うんですか」

 

「そりゃあんたが気に入ったから。言ったろ、目が綺麗だって」

 

「からかわないでください。他の女の人にも同じようなことを言っているんでしょう」

 

 少年は慣れた仕草で肩を竦めた。

 

「信用ねえなあ。つうか声掛ける他の女ってどこにいるんだよ。女官はババアだし、女聖闘士相手に下手なことしたら、殴られるのが目に見えてるっつうの」

 

「嘘です」

 

「嘘じゃねえよ。今度確かめに行くか」自分で言ったことを妙案だと思ったのか、彼はしきりに頷いた。「そうだ。そうしよう。なあ、キクレーは花は好きか」

 

 唐突な質問に少女は戸惑った。神殿付近には雑草さえあまり生えないから、しばらく草花を見た記憶がない。しかし思い返せば嫌いではなかった。

 

「じゃあいい所がある。せっかく堂々と顔を晒して生きていける身なんだ。たまには神殿から出てこいよ」

 

 言うだけ言って彼は立ち去りかけた。それを慌てて呼び止める。

 

「あの、マニゴルド様はどちらがいいと思いますか」

 

「何が?」

 

「リボン……。どちらがお好きですか」

 

 両手にそれぞれ持って、顔の横まで掲げてみる。少年は迷わず「赤いほう」と言った。やけにぶっきらぼうな口調だった。

 

 神殿内に戻ったキクレーは、部屋で寛いでいたグリシナに若草色のリボンを渡した。

 

「可愛い。どうしたの、これ」

 

「教皇のお弟子が外で仕事してきた時のお土産だって」

 

「うそ凄い。でも私が頂いていいのかな」

 

「もちろん。渡してくれって頼まれたんだから。私も色違いを貰ったの」

 

 見せてほしいとせがまれたので赤色のリボンも渡した。けれど二本を二人の共有にしないかという言葉には決して応じなかった。

 

 ある晴れた日に少年は迎えに来た。

 

 表から呼ぶ声に気づいたのはグリシナだったが、彼女にせっつかれてキクレーが対応に出た。

 

「こんにちは、マニゴルド様」

 

「ようキクレー。せっかく花を持ってきたけど、あんたの前には霞んじまうな」

 

 差し出された一輪のアネモネ。少女は顔を綻ばせた。

 

「気に入ったなら咲いてる所見に行こうぜ」

 

「誘ってくださったのは嬉しいです。でも巫女が神殿を離れればきっと叱られてしまいます。この一輪で十分です」

 

「大丈夫。見つからねえように行くから。そこに隠れて立ち聞きしてる姉ちゃん、そういうわけだから頼んだぜ」

 

 柱の陰からもう一人の巫女が顔を覗かせた。「逢い引きね。任せなさい」

 

「グリシナ!」

 

「女官にはキクレーは気分が悪くて臥せっていると言っておきますから、心配しないで出かけていらっしゃい。けれどマニゴルド様、私にも花を頂きとう存じます。一輪だけでは寂しいから、もっと沢山摘んできて下さいまし。それで手を打ちましょう」

 

「話が早くていいね。あまり遅くならないようにするから、後は頼んだぜ」

 

 マニゴルドとグリシナの間で話が付いてしまった。

 

 行ってらっしゃいと笑顔で見送られて、キクレーは少年と一緒に神殿を離れた。

 

 十二宮を抜けて山を下りるのかと思いきや、少年は教皇宮の裏手へ回り込んだ。使用人の使う隠し階段があるという。実際にその階段を見下ろして巫女は感心した。確かにこれなら見つかりにくい。

 

「でもあんたの足じゃ階段下るだけでも時間掛かりそうだな。……ちょっと失礼」

 

 いきなり抱え上げられ、キクレーは短い悲鳴を上げた。抱かれてみると安定感があることにも驚いた。筋骨隆々には見えず、身長も自分とさほど変わらない少年なのに。

 

「お、下ろしてください。まさかこれで麓まで行く気ではないでしょう」

 

「おんぶのほうが良いか? 安定するのは、あんたの横腹に頭を入れて肩に担ぐやりかただけど」

 

「そんな家畜みたいな運びかたは嫌です」

 

「じゃあこれでいいだろ」

 

 問答に飽きて少年は階段を下り始めた。キクレーの足腰に回された手にいやらしさはなかった。しっかりと荷物を抱えているだけだ。少女は彼の首にしがみついた。飛ぶような速さに思わず目を瞑ると、いつの間にか麓まで着いていた。一歩も歩いていないのに心臓が高鳴っていた。

 

「こっちだ」

 

 彼女を下ろすと、少年は慣れた様子で歩き始めた。

 

「あっちには闘技場がある。危ないから近づくなよ」「煙の上ってる辺りが宿舎だ。今の時間だとパンを焼いてるんだと思う」「あの塔は神殿からでも見えるだろ。火時計だ。時計座ってのが管理してるんだ。笑っちまうよな」「薬草園。世話してる奴がうるさいから勝手に抜くなよ」

 

 道すがら話す様子からは、彼がこの聖域を熟知していることが伺えた。

 

 連れて行かれた先は、緑の丘が連なる場所だった。

 

 赤や紫や白のアネモネが夢のように風に揺れている。菜の花の黄色も。柔らかい草の間でひっそりと咲いているのは白いカモミールだ。

 

 けれどそれより目に付いたのは、草から突き出す無数の墓標たちだった。

 

「ここはお墓ですか」

 

「そう。聖闘士の墓地。春は花が咲いてて綺麗なのに、誰も見に来ないんだよな。もう少し日が伸びたら薬草園のほうでも別の花が咲くぜ」

 

 誰も来ない。せっかく墓があるのに、戦い散った戦士たちを誰も悼もうとしないのか。それは少し寂しいように思えた。

 

 戦女神に仕える巫女は背を伸ばした。

 

 散っていった彼らの武勇を讃え、死を悼む歌を歌った。歌声は不思議と伸び、風に乗って丘の向こうへと伝わっていった。

 

 その間、少年は彼女の傍らで空を眺めていた。

 

「ありがとうございます、マニゴルド様。いつかアテナにもここをご覧に入れたいものです」

 

「俺の想像してた反応と違うけどそれなら良かった、のかな」

 

 そのあと持って帰る花を選びながら、キクレーはグリシナもここへ連れて来たいと思った。しかし巫女が揃って神殿を空けては問題になるだろう。一人では道が分からないだろうから、自分と同じように少年に連れ出してもらう必要がある。

 

 その件を頼むと少年は渋った。しかしキクレーはどうしてもと拝み倒した。マニゴルドは「その目で頼まれたら断れねえよな」と、苦笑と共に折れた。

 

 帰りの階段は背負ってもらった。彼の背に身を預けると安心した。温かい背。きっと聖闘士を目指している人だから、地上の平和を担う人だからだろうとキクレーは思った。行きと同じくもの凄い速さで駆け上るので目を閉じる。弾む足音。心地よい律動。

 

 階段の長さが二倍になればいいのにと思った。

 

 急に少年の動きが止まった。

 

 目を開けると、もう階段の尽きるところだった。ただし行く手に壁が立ち塞がっていた。教皇だ。西日を背負って待ち構えている姿にキクレーは恐怖さえ感じた。高揚していた気分が一瞬で冷える。

 

 彼女は少年の背から滑り落ちて跪いた。

 

「アテナの代理人たるお方に申し上げます。巫女の身でありながら許しなく神殿を離れたのは、偏(ひとえ)に私の軽率さゆえでございます。亡き聖闘士たちに挽歌を捧げたいと望み、通り掛かったこちらの方に墓地までの道案内を頼んだのです。私が頼んだのです。どうかマニゴルド様をお叱りになりませぬよう」

 

 本人は必死だが、片腕に大量の花を抱えた姿である。説得力はない。

 

 ざり、と少年が一歩前に出た。

 

「違う、お師匠。俺がこの巫女を神殿から引っ張りだした。アテナは聖域を治める存在なんだろう。そのねえやが聖域のことを把握してないで務まるか? だから俺は聖域を見せた。悪いことはしてねえ。文句あるか」

 

 石畳と見つめ合っている少女の耳に、重い溜息が聞こえた。老人の厳格な声が言う。「恐れ多くもアテナを言い訳に使うな」

 

 申し訳ありません、と彼女は更に身を縮めた。

 

「巫女よ。こたびの勝手な外歩きの罰をそなたに申しつける。その花をこちらへ」

 

「はい」

 

 お師匠、と少年が叫んだが、キクレーはもう諦めた。一生外の光を拝めなくなるか、逆に聖域から追い出されるか。いずれにせよ最後に良い思い出はできた。

 

「次にそこの浅慮者。明日、巫女二人に聖域を案内せよ。ただし十二宮を通って堂々とだ。候補生が巫女の供をするのだから、貴婦人の供をする下僕の如くせよ。当然肌に触れることは罷りならぬ。そして二人を平等に敬え。片方を贔屓することはならぬぞ」

 

「それじゃ十二宮をちんたら練り歩くことになるじゃねえか。俺に晒し者になれってのかよ」

 

「文句を言える立場か。考えなしに動きおって。闘技場に行くと嘘も吐いたな」

 

「闘技場のほうへ行くって言ったんだ。嘘は吐いてねえ」

 

「詭弁を弄するならもう少し工夫しろ」

 

「あ、あの猊下」とキクレーは思い切って二人の会話に割り込んだ。「私への罰はどうなるのでございますか」

 

 二人はよく似た表情で巫女を見た。どこか悪戯めいた、意地悪な笑み。しかし教皇がすぐに謹厳な顔を作ったので、似ているという印象は消えてしまった。

 

「すでに与えたであろう。これだ」と教皇は取り上げた花束を掲げた。「おおかた同僚への機嫌取りで持って帰るつもりだったろうが、それは許さぬ。没収とする」

 

 罰としては軽すぎる。そう思ったが口答えする勇気はキクレーに無かった。教皇の弟子が代わりに説明してくれた。

 

「このジイさんは神殿を離れたこと自体は問題にしてねえ。黙って抜け出して、それがばれた段取りの拙さを怒ってるんだ。その辺は俺のせいだから、キクレーが罰を受けるこたあ無いわけよ」

 

 彼が説明している間に、教皇は早くも踵を返して教皇宮へ戻っていった。

 

「良いの、ですか」

 

 安堵がぽろりと溢れた。少年は困り顔で彼女の頬に手を伸ばした。

 

 ……神殿には青ざめた顔のグリシナが待っていた。いきなり教皇がやってきて、巫女が一人いないのを見抜いて去っていったという。ごまかしきれなかったのは自分のせいだと、それで自責の念に駆られていた。

 

 謝る友人に、教皇は千里眼を持っているから仕方ないと、キクレーは笑った。

 

 翌日、二人の巫女は教皇の弟子に付き添われて聖域を回った。たくさんの花を摘み、遊び、彼女たちは久しぶりにただの娘に戻った。

 

          ◇

 

 あれからもう何年も経つ。

 

 女が物思いに耽っている間に、黄金の輝きを纏った青年は通り過ぎてしまった。

 

 彼女も汲んだ水の分だけ重くなった水桶を持って神殿へ戻ることにした。少女の頃から毎日続けている仕事だ。もう目を瞑ってでもできる。

 

 主にはこんな所で健気に咲いている一輪を捧げるより、一面に広がる花畑を見せたほうが喜ばれるだろう。なにしろ神殿と教皇宮の往復ばかりの毎日だ。気が塞いでしまうだろうし、たまの気晴らしに麓を散策するのは名案に思えた。それに花輪を身に付けているくらいだから、少なくとも花が好きなのは間違いない。

 

 主の喜ぶところを想像して、女は一人微笑む。十人の男がいれば十人とも心動かされるような美しい微笑みだった。

 

 聖域内を散策したいと言えば教皇はきっと許可を出してくれるだろう。問題は十二宮の守護者たちだが、そこはマニゴルドに教えてもらった裏の階段を使えばいい。あの生意気な悪戯小僧は、本当に色々な抜け道を知っていた。

 

 そうだ、そうしましょう、とキクレーは晴れやかに空を仰いだ。優雅に結い上げたその髪には、赤いリボンが編み込まれていた。

 


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