【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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原石の憂鬱

 

 夜。眠りに落ちかけていたマニゴルドは、近づいてくる気配に静かに覚醒した。

 

 部屋に入ってきたのは一人。外で他に待ち伏せる者はなく、単独行動のようだ。殺気はない。そして気配を消す技量もない。足音こそ忍ばせているが呼吸が乱れている。素人だ。セージの寝首を掻こうとしていた頃の自分を思い出して、少年は恥ずかしくなった。

 

 戸を閉める音をきっかけに、マニゴルドは寝たふりを止めた。燈火と共に入ってきた者に目を向ける。年頃の娘である。ジャミールに滞在する間この部屋を貸してくれている一家の末娘だ。といっても彼よりは年上だった。

 

「なに。何か用?」

 

 声を潜めて尋ねる。

 

 娘はマニゴルドに目を向け、ひっそりと微笑んだ。そして彼に見せるように服を脱いだ。

 

 小さな火が娘の裸体を仄かに照らしだした。丸みを帯びた肢体と、そこへ落ちる微妙な陰影。息をする度に大きく上下する乳房をマニゴルドはまじまじと見つめた。それから柔らかそうな腹の下の、うっすらとした茂みを。

 

 その視線で自信を持ったのか、娘はマニゴルドの寝床へ滑り込んできた。年頃の少年としては惚れられたと思いたいところだ。けれど相手の態度があまりに潔すぎる。

 

「なんで俺なんだ」

 

 仮によそからの客をもてなす風習があったとしても、マニゴルドは客とは言いがたい。どちらかと言えば単なる居候である。彼がジャミールの言葉でなぜと問うと、娘は拙いギリシャ語で答えた。

 

「長からあなた強いと聞いた。強い男、好き」

 

「ヒグマの件か。俺じゃなくても聖闘士なら誰だってできる。修復する聖衣を持ちこむ奴だっているだろ。その度にこんな事してるのか」

 

 彼のギリシャ語をどこまで理解したのか、娘は宥めるように微笑んで「好き」と繰り返した。少年の硬い髪を指に絡めながら囁く。

 

「強い男の子供、きっと強い。母は偉い。強い戦士の母は、もっと偉い」

 

 まあいいや、とマニゴルドは温かな肌に手を伸ばす。「言っとくけど責任はとれねえからな」

 

「父になれば、あなたもジャミールの民。私の家に住め。長も認めた」

 

「は?」

 

 一気に頭が冷える。

 

 昼にハクレイからジャミールの暮らしはどうかと尋ねられたばかりだ。嫌でも連想する。

 

「もしかして、あのクソジジイがあんたを寄越したのか?」

 

 娘は首を傾げた。

 

 マニゴルドの中である図式が浮かんだ。もしジャミールの女に手を出したことが聖域に伝われば、彼が教皇の弟子に相応しくないという論調が復活する。そうなれば師も庇いきれなくなり、マニゴルドの身はハクレイの預かりとなる。そしてめでたくハクレイは弟子を一人獲得することになる。そんな図式だ。ただ懐柔を狙うよりも性質が悪い。

 

「悪りいなお姉ちゃん。今は相手できねえわ」

 

 彼は娘の滑らかな両肩を押しやった。娘は悲しげに何かを呟き、マニゴルドのその気になりかけていた部分を見やった。

 

「こっちはいいから。とにかく帰って。ごめん」

 

 床に脱ぎ捨てられていた服を押しつけて、戸を示す。態度の豹変した少年を繋ぎ止めようと手足が絡みついてきたが、それも押し戻した。太股を触った時には強烈に惜しい気はしたが、ここで敵の手に乗るわけにはいかない。

 

「ごめんな」

 

 再三謝るとようやく娘は服を着た。けれど部屋を出ていく様子はなかった。

 

 仕方なくマニゴルドのほうが部屋を出ることにした。

 

 その足で彼は長老の館に乗り込んだ。戸に鍵は掛かっていなかったが、もし戸締まりされていても破るつもりだった。敵の懐に入ったのは彼なりの考えだった。娘の行動がハクレイの差し金だったとしても、さすがにここまでは遠慮して追って来ないはずだ。

 

 物音で目覚めた館の主が出てきた。マニゴルドの抗議に、ハクレイは心外だとばかりに顔をしかめた。

 

「わしは罠なぞ仕掛けとらんぞ。ジャミールの女は強い男が好きじゃ。妙な勘繰りなどせんと抱けば良かったものを。それともあの娘が好みではなかったか?」

 

「そういうことじゃねえ。族長のあんたにゃ悪いが、俺はさっさと聖域に帰りたいんだよ。その場っきりで終わる商売女ならともかく、堅気の娘を押しつけるな」

 

「入り婿も悪くないと思うがの」

 

 やれやれと老人は首を振った。

 

 それでも長老の館からは追い出されずに済んだ。これで夜這いの問題は片付いたとマニゴルドは安心した。

 

 しかし早合点だった。次の夜は別の娘が部屋にやってきて、少年はやむを得ず梁の上に撤退した。

 

 翌朝ハクレイを睨むと、老人は素知らぬ顔でそっぽを向いた。

 

 そこへシオンが朝の挨拶に入ってきた。マニゴルドは口を閉ざした。子供に聞かせる話ではない。

 

「おはようございます、ハクレイ様」

 

「うむ」

 

 シオンはマニゴルドに、精錬したガマニオンが冷えたから見るかと他人行儀に尋ねた。

 

 ハクレイの耳がない場所に来てから、マニゴルドは子供の肩を小突いた。

 

「今朝はずいぶんと澄ましてるな」

 

「しっかりしてないと怒られる。ハクレイ様は師弟のれいぎにきびしいんだ」

 

「へえ」

 

 マニゴルドは顎を撫でた。自分たちとは大違いだ。

 

 彼は今更セージに対して畏まった態度を取る気が起きない。師のほうも周囲から苦言されているだろうに、一向に弟子の態度を改めさせようとしない。

 

「まあ、師弟も色々だよな」

 

「なんで笑ってるの」とシオンに袖を引っ張られた。

 

「なんでもねえよ」と彼は流した。

 

 作業小屋には誰もいなかった。修復を待つ聖衣が朝日を照り返して光っているだけだ。

 

 冷却を終えた鉱物が灰の山から取り出された。表面に灰を被っていることを差し引いても、ただの鉄の塊にしか見えなかった。

 

「見て」

 

とシオンは棒状に固まった一本を手に取り、ボロ切れで表面をゴシゴシと拭った。やがて粗く磨かれたそこだけが、淡い銀色の光を放ち始めた。

 

「星の光には遠いな」

 

 だが石ころと呼ぶには輝きが強い。

 

 シオンが頬を膨らませた。

 

「ちゃんとみがけばそこの聖衣みたいに光るよ」

 

「人間もそうだったらいいのになあ」

 

 子供はボロ切れをマニゴルドの顔に近づけた。目が真剣である。放っておくと本気で顔を拭かれそうなので「止めろ」と彼は子供を抱き止めた。

 

 日が沈んだ後、マニゴルドは鉱床で拾った最初の原石を取り出した。囲炉裏の明かりに照らして見ても、やはりただの石だ。火に投げ入れても黒く黙っている。

 

 部屋に入ってきたハクレイが炉の前の主人の席に腰を下ろした。すぐに石がくべられていることに気づき「危ないじゃろうが」と素手で取り出す。

 

「おや、ガマニオンか」

 

 老人はマニゴルドの膝の前に石を置いた。

 

「こんな普通の火では熱が足りんよ。もっと高い温度で燃やす。そうして初めて石ころは価値ある金属に生まれ変わる」

 

「ふうん」

 

「修復のために聖衣を持ちこむ聖闘士は多い。なのに実際の作業まで見る奴はめったにない。自分の身を守り、導いてくれる聖具のことくらい、もっと知っておくべきじゃて。体を鍛えるばかりが修行ではない。セージの奴も……」

 

 ハクレイは何かを言いかけて、話題を変えた。

 

「……ところでおまえは作業場の炉の中に何を見た」

 

 とろ火を見つめたまま、少年は答えた。

 

「星が燃えるところ」

 

 正確にはマニゴルドが思い出したのは、初めて小宇宙を燃やした時のことだ。体内の炉をふつふつと燃やして、煌めく星の名残を胸から掬いあげた、あの夜明け。

 

「でも俺は石ころのまんまだ。星になんて届かない。塵芥だ」

 

 冗談めかして言ったのに、ハクレイはにこりともしなかった。

 

「おまえはまだ温度が低いんじゃろう。不純物が落ちないまま燻っておるのもきっとそのせいじゃ。もっと小宇宙を燃やせ。燃やし尽くしたと思ったその先に、きっと手にするものもある」

 

「第七感?」

 

 それに対してハクレイは直言を避けた。

 

「さて、な。おまえの望む聖衣かも知れんぞ」

 

 それからもマニゴルドは昼は肉体労働をこなし、夜は迫り来る女たちから逃げ回ることとなった。

 

 老人が諦めるのが先か、少年が落ちるのが先か。

 

 そんな勝負に付き合ってはいられない。

 

 マニゴルドは覚えたばかりの念話でギリシャの師に泣き付いた。ジャミールの里に己の安眠できる場所はない、もう帰りたい。そう必死に訴える弟子の言葉をどう思ったか、セージは少し早めの帰還を許した。

 

 帰り際、ジャミールの長に別れの挨拶をすると、恩知らずな奴だと散々にこきおろされた。

 

「耄碌したかジジイ。世話にはなったけど恩知らずと言われるほどのことはしてねえぞ」

 

「黙れ悪たれ。おまえの将来を思って手を尽くしてやったのに、そんなにセージがいいか」

 

「女を使うことのどこが手を尽くしたことになるんだよ」

 

「聖域では自由に抱けんじゃろう。まあ小童には少しだけ早かったか」

 

 ハクレイは「セージによろしく」と言った後、思いついたように付け加えた。「帰ったらセージと語ってみるといい。あやつの持つ聖衣についてな」

 

「なんでだよ。俺には関係ないのに」

 

「まあそう言うな。あちらからは返す、こちらからは要らんと、まるで望まれない継子のようで可哀相じゃ」

 

 何の話だ、とマニゴルドは眉をひそめた。

 

 聞き直そうとしたら、シオンに服の裾を引っ張られて邪魔された。半泣きの表情だ。

 

「なんでもうかえるの。もっと聖域の話してくれるって言ったのに」

 

 懐かれてマニゴルドも悪い気はしなかった。弟分のような子供の頬を軽く拭ってやる。

 

「俺にも色々あんだよ。おまえが聖域に来い」

 

 シオンは目を輝かせて己の師を振り返った。けれどすげなく却下されて項垂れた。

 

「わしの弟子として表に出すには、まだまだ修行不足じゃ。悪たれも余計なことを吹き込むな」

 

「へえへえ」

 

 それじゃ、と軽く挨拶して、彼は世界を渡った。

 

          ◇

 

 聖域に戻ってすぐに師のところへ顔を出したが、セージは素っ気なかった。それどころか弟子の不在は小一時間程度だったかのような態度で、茶を淹れろと命じてきた。マニゴルドも気にしない。忙しい人だから弟子がいてもいなくても同じだろうと思っている。

 

 むしろ、そのあと麓で顔を合わせた友人に驚かれて、大袈裟だと感じたほどだ。

 

「マニゴルドじゃないか。もう終わったのかよ」

 

「何が」

 

 意味が分からず、彼は瞬きした。候補生仲間はその肩を叩き、荒っぽく祝った。

 

「とぼけるなよ。まずはおめでとう」

 

「だから何がだよ」

 

 そこで改めて聞いてみると、マニゴルドがジャミールに行ったことは、聖闘士になるための最後の試練として伝わっていたようだ。友人の反応は、それが帰ってきたからには称号を得たに違いないという、候補生ならではの思い込みによる。

 

「俺そんなこと言った覚えないぜ」

 

「だってジャミールだぞ。黄金聖闘士も裸足で逃げ出す凄い人がいるって言うじゃないか。あ、その人に負けて帰ってきたんだったら残念だったな。次の機会に頑張れよ」

 

 ハクレイに負けたのは事実でも、それが聖衣獲得の試練という事実はない。見当違いの応援にマニゴルドは苦笑した。

 

「まだ何座の候補なのかも聞いてねえよ」

 

「またまた。いい加減その嘘は聞き飽きた」

 

「じゃあ麒麟座で」

 

「ふざけんな俺の目指してる称号だぞ、それ」

 

 肩口を小突かれ、笑った。マニゴルドも分かって言っている。

 

「あ、マニゴルドだ」

 

「本当だ。何座になったんだ? 聖衣見せろよ」

 

 他の友人たちも集まり、また一から誤解を解く羽目になった。

 

 そのまま皆で談笑していると、背後から「隙あり!」と声がした。

 

 マニゴルドは真横に身を引いて跳び蹴りを躱した。子供の足が突っ込んできた。その持ち主の肩を掴んでねじ伏せる。

 

 一声叫んで潰れたカルディアは、彼を睨みあげた。傍若無人な表情が途端に変わった。

 

「なんでいるんだよ」

 

 間違えた。明らかにそう顔に書いてあった。

 

 人違いで襲われては堪らない。マニゴルドは子供を小突いた。

 

「クソガキ、どういうつもりだ。闘技場外での組み手は受け付けてねえぞ。やるんだったら特別料金だ」

 

「それなら拳をくれてやる。って言ってもいいけど、おまえなんかに用はねえ」

 

「じゃあこいつらの中の誰に用だ。誰に奇襲するつもりだった」

 

「うるせえなあ。誰でも良かったんだよ。おまえじゃなきゃ」

 

 二人の応酬を皆ニヤニヤと傍観している。子供がマニゴルドの背後に近づいてくる間も、そうして笑っていた連中だった。

 

「おいカルディア」と一人が子供に声を掛けた。「マニゴルドはおまえの餌食になったことのない候補生だぞ。相手してもらったらどうだ」

 

「こいつはいやだ!」

 

 そう吐き捨てて子供は走り去っていった。

 

「なんだあいつ」とマニゴルドは通り魔を見送った。

 

「カルディアだよ」

 

「それは知ってるけど」

 

「掟知らずの狂犬さ」

 

 友人たちは教えてくれた。

 

 候補生カルディアは、集団での基礎訓練には姿を現さないのだという。一方で、体力のないうちから場所も相手も構わず喧嘩を売っていたそうだ。聖域では闘技場以外での争いは私闘とされ、処罰の対象とされることもある。それを気にせずカルディアは奇襲紛いのことを仕掛ける。大抵は相手のほうが強いので、呆気なく負ける。むしろ格上の者にこそ挑んでは返り討ちに遭う。それを繰り返しながら力を付けている最中だという。

 

 へえ、とマニゴルドは熱のない相槌を打った。

 

「場所を弁えないのは良くねえけど、実践派ってやつじゃねえの」

 

 彼の言葉に友人たちは口々に反論した。

 

「馬鹿言え。夜寝てる時に喧嘩吹っかけられてみろ。鬱陶しくて仕方ない」

 

「あと便所に入ってる時な。あれ本当に止めてほしい」

 

「同じようにやり返すと怒られるのはこっちだもんな。年季が長いからってさあ。納得いかないよ」

 

「そもそもあいつ、人の言うこと聞かないから。先生がいくら注意しても『好きなようにやる』って言い張るし、当番の仕事もやらない」

 

 次々に飛び出すカルディアへの不満に、マニゴルドは口を挟んだ。

 

「でもそんな奴なら、新入り苛めで潰されそうなもんなのに」

 

「標的にはなった」

 

 目障りで聞き分けのない新入りということで、仕返しや宿舎でのいびりも陰湿なものになったそうだ。ところが勘と要領が良いのか、カルディアはうまく立ち回ってそれを凌いでいるという。それどころか過激な仕返しに出るので、今では積極的に近づく者はいないという。

 

 それを良いことに、カルディアはますます奔放に振る舞っている。

 

「ふてぶてしい奴だよ。あいつ絶対おまえに興味示すと思ったんだけどな」

 

「なんでだよ」とマニゴルドは首を捻る。

 

「同じ問題児同士、惹かれ合うものがあるんじゃないかと」

 

「あって堪るか」

 

 同類扱いとは心外である。カルディアと違って他の候補生に大した迷惑は掛けていないし、どんな集団にも掟があることは理解している。少なくともマニゴルド本人はそのつもりだった。

 

 憤然とした彼を見て、友人たちは笑った。

 

 別の日、彼は宿舎が並ぶ付近を歩いていた。

 

 向こうから勢いよく走ってくる者がいたので、なんとなくそちらを見る。カルディアだった。先方でもマニゴルドに気づいて、さっと建物の陰に入った。

 

 一瞬置いて、喚く声が聞こえた。

 

 露骨に避けられたことはどうでもいいが、誰かとぶつかったらしいと察してマニゴルドは冷笑した。現場に向かう。

 

 すると地面のそこかしこにパンが転がっていた。呆然と立ち尽くす二人の子供と、引っ繰り返った大きな籠。そして二人に罵倒を浴びせて走り去るカルディアの後ろ姿。

 

「あーあ。ぶつかってそのまま行っちまったのか」

 

 幼い候補生たちは年長者の登場に安心し、泣きそうな顔になった。シオンより僅かに年上なくらいだろう。

 

 マニゴルドは横倒しになっている籠を置き直した。それから何をしていたのかと尋ねた。

 

 子供たちのたどたどしい説明によれば、聖闘士たちの寝起きする宿舎で前日から竈が壊れているので、そちらの食事もまとめて用意して、出来上がった物から運ぶことになっていたという。地面に落ちたのは、その日の夕食の分だった。

 

「なるほど。こっちの宿舎の分は別に確保してあるんだろうな。ならそっちを聖闘士用に回せ。で、候補生連中には地面に落ちたほうを食ってもらえ。死にゃあしねえ。ほら、おまえらもぼうっとしてないで拾え。土ちゃんと払えば大丈夫だから」

 

 十八世紀当時の衛生概念は現代とは違う。加えて、大勢の分を用意し直すには時間が足らず、材料の損失も大きすぎるとマニゴルドは計算した。

 

「で、でも作ってくれる人にはなんて言えば……」

 

 大人に叱られるのが何より怖い年頃である。

 

「あー。じゃあそっちは俺が説明するから、おまえらは落とした分を拾ってろ。ただし候補生の皆に理由を話して謝るのは、ちゃんと自分たちでやれよ。そこまで付き合ってやらねえからな」

 

「ありがとうございます」

 

 幼い子供たちは声を揃えて礼を述べた。

 

 カルディアが彼らにぶつかった遠因が自分にあるとはいえ、少々甘いか。頭をがりがりと掻きながらマニゴルドは厨房に向かった。

 

 炊事係にしても、またパンを焼き直すのは手間だし、材料の無駄遣いだと神官からいびられるのは避けたいところだ。手短に事情を説明したら、すぐに了承を得られた。

 

 宿舎から出ると、声が聞こえた。

 

「ふざけんなよ! 地面に落ちた物なんか食わせんな!」

 

 逃げたはずのカルディアが戻ってきていた。「土の付いた物を洗いもしないで食うなんて汚いだろうが」

 

「パンを洗ったらふやけちゃうよ」と年少者が恐る恐る言い返す。

 

「当ったり前だ。だから食わねえって言ってんの! 床に落ちた物なんか召使いに片付けさせるもんだ。いいから捨てろ。そんなの食ったら腹壊す」

 

 籠が蹴られ、再びパンが散乱した、一つが踏みにじられた。

 

「なんだよその眼は。言いたいことあるなら言えよ。告げ口したきゃしてこいよ。俺は全然平気だけどな」

 

とカルディアはせせら笑った。

 

 マニゴルドは一度目を閉じた。そして静かに見据えた。三人のもとへ近づく。

 

 カルディアは彼が現れたことに気づくと、急いで身を翻した。それを捕まえて、相手の顔が地面に付くほど低く頭を押さえつけた。その鼻先には転がったパンがある。

 

「なんだよ放せよ」とカルディアは喚いた。

 

「拾え」

 

「やだね!」

 

 マニゴルドは掴んだ頭を地面に押し込んだ。痛い、と悲鳴が上がった。

 

「これでおまえも地面に落ちた物だな。食ったら絶対腹壊すから、捨てていいよな」

 

「ふざけんな。俺は食い物じゃない」カルディアは頭の上から腕を引き剥がそうと暴れた。それでもマニゴルドが離さなかったので、ふて腐れて呟く。「なんでおまえが怒るんだよ」

 

「てめえが食わねえのはてめえの勝手だ。けど食い物を粗末にする奴は許せねえ」

 

 安い日銭のために朝から晩まで働いてすり減っていくだけの者たちを、マニゴルドは知っている。体を壊して仕事にありつけず、安宿からも追い出される者たちを知っている。病を隠しながら夜ごと街角に立つ女たちを知っている。親を失い、いつも腐った匂いのする下水道でどぶ鼠と住まいを分け合う幼い者たちを知っている。

 

 そして糧を得るためなら人を殺めることも厭わなかった者を知っている。

 

「そのパンだって、勝手に空から降ってくるわけじゃねえぞ。どこかの百姓が育てた小麦を、聖闘士の稼いでくる金で買って、雑兵が聖域に運んできて、炊事のおっさんが捏ねて焼いてるんだぜ。それを簡単に捨てろとか、いいとこの坊ちゃんなんだろうな」

 

 喋っている間に人が集まってきた。面白がっている野次馬たちを見て、急に馬鹿馬鹿しくなった。掴んでいた頭を突き放す。

 

「まあどうでもいいや。拾え」

 

 カルディアは振り向いて睨んできた。それから顔を背け、黙ってパンを拾った。

 

 周囲の野次馬がざわついた。

 

 命じた本人にも意外だった。どうせそのまま逃走を図るだろうと予想していたのだ。しかし落ち着き払って声を掛けた。

 

「全部拾ったら土は払い落とせよ」

 

 カルディアはのろのろと言われた通りに動いた。行動が鈍いのはせめてもの抵抗だろう。作業を見張る間に、マニゴルドは幼い候補生たちに本来の仕事を終えるように促した。二人は素直に宿舎に駈けていった。

 

「あいつらだって悪いのに」

 

 自分だけ作業をさせられることにカルディアが不平を鳴らした。

 

「もう忘れたか。おまえは同じ事を二回やったんだぜ。一回目はおまえだけのせいじゃないと思ったから、俺たちで片付けた。でも二回目は違うよな。今やらせてるのは二回目の後始末だ」

 

 けっ、と吐き捨てるカルディアの尻を蹴飛ばした。

 

「おう坊ちゃん、まだ解ってねえな。後で宿舎の皆に謝るのもおまえがやるんだぞ。皆の飯を台無しにして済みませんでしたってな。泣き真似か体調が悪くなるふりするつもりなら、今のうちに練習しとけ」

 

「誰がそんな同情引くふりするかよ」

 

 野次馬たちはなおもざわめいている。彼らの囁き声がマニゴルドにも届いた。

 

「……あのカルディアが人の言うことに従うなんて」「しかもそれがマニゴルド……」「年下を叱るようになるとはなあ。聖域一の悪童もまともになって」「掟知らずの狂犬も指導次第では大人しくなるかな……」

 

 なにやらしみじみした雰囲気に、少年は居心地が悪くなった。説教をする柄ではないことは自覚している。作業を終えた後輩を引っ張って、早々にその場を立ち去った。

 

 そしてその夜の夕食の場で、同じ宿舎の者たちへ謝らせた。カルディアはふて腐れていたが、それでも詫びるところをみせた。

 

 これまで散々に掟知らずの狂犬に悩まされてきた一同は驚き、腕を組んで睨みを利かせているマニゴルドのほうを窺った。

 

 しかし彼は狂犬の飼い主ではない。軽く肩を竦めると、食堂から出て行った。後ろから「バーカ、もう来るな」というカルディアの罵倒が聞こえても無視した。関わりあいたくないのはお互い様だ。

 

 外にはカルディアの指導役がいた。少年の目が険しくなる。

 

「おいあんた。なに他人事みてえな面で突っ立ってるんだよ。あいつはあんたの弟子だろうが」

 

「済まない。師匠といっても私は名ばかりで、何を言ってもあの子の耳には届かないんだ。他の者でも駄目だった。きみが厳しく叱ってくれて助かった。あの子もきっときみを好いているから言うことを聞き入れたのだろう。これからもよろしく頼む」

 

「冗談じゃねえ」

 

 二重の意味で頷けなかった。

 

 カルディアは彼に好感情を持っているから指示に従ったわけではない。彼の怒りに怯んだのでもない。忌み嫌う「死に神」を早く遠ざけるには、逆らうのは得策ではないと気づいただけだ。

 

 マニゴルドも厄介な後輩の面倒など見たくない。だから頼まれようとも自分から積極的に関わるつもりはなかった。

 

 

 ――けれど事件は起きた。

 

 ある日、「死に神」の指がカルディアに向けられた。

 

 何のために、と問われればマニゴルドは躊躇いもなく答えただろう。

 

 無論、殺すためである。

 


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