【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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どん底

 

 内々にお耳に入れたいことがある。双子座の黄金聖闘士からそう切り出された時、良い話題でないことは察しが付いた。アスプロスの端正な顔に迷いが浮かんでいたからだ。

 

 教皇の間から人払いをして、セージは話を促した。

 

 双子座の若者は報告した。セージの弟子が蠍座の候補生カルディアの命を奪おうとしたと。

 

 俄には信じがたかった。つい先刻その指導者が来たばかりだが、変わった様子はなかった。だからセージも相談された事についての指示しか与えなかった。

 

 尤もだと双子座は話を続けた。

 

「正に先ほど、その者が教え子の部屋を外していた間に起きたことでございます。私も教皇宮まで同行するつもりでしたが、候補生の容態が気になって途中で引き返しました。そこでマニゴルドが右の人差し指を寝床に向けるところを見たのです」

 

 異様な小宇宙の高まりもあって、その意味を察したアスプロスは、すぐに止めに入ったという。そのため候補生は命を奪われずに済んだそうだ。

 

「念のため指導者が戻ってくるまで側に付き添ってやりました。候補生は今も臥せっております」

 

「そうか。してマニゴルドのほうは」

 

「宿舎を出て行った後は存じません。問い糾した時にあっさり殺意を認めましたので、私としてはそのまま雑兵のところへ突き出すこともできました。しかし先に猊下のご判断を仰ぐべきと考えて、こちらへ参った次第です」

 

「蠍座の候補と我が弟子の間に確執があったか、そなたは何か知っておるか」

 

「それなりに縁はあったようですが……」

 

 双子座はためらいを振り切るように、猊下、と呼びかけた。

 

「しでかしたことは決して許されるべきではありませんが、マニゴルドの胸の内もご配慮下さいませ。己の守護星座も知らず未来の見えない焦りと苛立ちを抱えているところへ、黄金位候補と明かされた者がいきなり現れたのです。しかもそれが年下で病弱となれば、嫉妬も生まれましょう。聞くところによれば蠍座の候補生に、面と向かって死に神と罵られたこともあるそうです」

 

「その恨みを晴らそうとしたと?」

 

 聞きながらも、それは無いだろうとセージは内心で否定した。その程度のことで恨みを抱く弟子ではない。

 

「本人に自覚はないでしょう。ですが、殺そうとした理由を尋ねましたら、黄金位の候補がこの有様では教皇も取り替えたくなるだろうと申しておりました。それと戯れ言でしょうが『あんまり苦しそうだったから』と」

 

 セージは腹の前で手を組み、天井を見上げた。

 

 アスプロスが嘘を吐いて他人を陥れるとは思えなかった。彼は彼の目撃したことを正直に報告したのだろう。それでもセージは、マニゴルド本人の口から真実が聞きたかった。できれば蠍座の候補生にも話を聞きたいが、それは当人の体調が戻ってからだ。

 

 本当に殺そうとしたのか。

 

 何のために、誰のためにそうしようと考えたのか。

 

 天井の梁の木目をなぞりながら思案していると、若者がもう一度口を開いた。

 

「もしマニゴルドに処罰を与える時は、私にお申し付け下さい。友の過ちを見過ごすわけに参りませんし、お弟子の汚点を表沙汰にして猊下のご威光に傷を付けることのないよう、取り計らいましょう」

 

「あれの友と言ってくれるか。気遣いは嬉しいが、黄金位にそのような仕事はさせられぬ。下がれ。少し考えたい」

 

「若輩者が出過ぎたことを申しました」

 

 双子座の黄金聖闘士は綺麗に一礼して退出した。

 

 

 夕方になって戻ってきた弟子をセージは呼び寄せた。

 

「なにお師匠。今度は何の用事? 書類はちゃんと片付けただろ」

 

 屈託無く入ってきたマニゴルドは、手招きされるまま近づいて来た。服の襟元に、染みができていた。

 

「おまえ、私の名を騙って酒を持って行きおったな」

 

 初耳だ、と言わんばかりに弟子は目を丸くした。しかし襟元の染みを指してやれば、すぐに演技を止めて醒めた表情になる。

 

「用人の野郎がチクったな」

 

「あの者は職務を全うしただけだ。よりによって教皇命と偽るなど言語道断だ。しかも一番高価なものを指定したそうだな。誰と飲んだ」

 

「今は亡き我が友と」

 

 予想外に詩的な回答に、それはそれは、とセージは小さく笑った。弟子は相手の名を答えるつもりはないらしかった。

 

「では二つ目。候補生を積尸気送りにしかけたというのは事実か」

 

 マニゴルドは彼の目を真っ直ぐに見返した。

 

「本当だ」

 

 その言葉よりむしろ雄弁に目が語っていた。己の行いに恥じることは何もないと。

 

 セージは深く息を吐いた。一日にいくつ問題を起こせば気が済むのかと問い質したいところだが、もしかしたら関わりを持つ一連のできごとの可能性もある。

 

「そっちはアスプロスが言いつけたんだな。あいつに邪魔されて冥界波を掛けるところまでいかなかったんだよ」

 

「殺そうとしたのは、面罵された事への遺恨か」

 

「なんでそんな意味ねえこと」

 

「ではワインを捧げた亡き友とやらのためか」

 

「知らねえよ」

 

 弟子はとても柔らかく目を細めた。

 

「カルディアが苦しそうにしてたんだ。小宇宙を燃やすと熱が出るんだってさ。黄金の候補だっていうけど、そんな奴に聖闘士なんて重荷だよ」

 

「その者が消えれば蠍座の候補に成り代われると思ったのか」

 

「違うって。今にも死にそうな奴が目の前にいたら、いっそ楽にしてやるのが親切ってもんだ。お師匠なら判ってくれるだろ。俺たちには楽に死なせてやれる力があるんだから」

 

「本人が死を望んだのか」

 

 弟子は頭を振った。「生きたいって言ってた」

 

 それでもなお冥界波で魂を送ろうとしたのであれば、死を強要したことになる。それを問うと、弟子は至極当然という態度で頷いた。

 

「死ってやつはさ、住人の望む望まないに関わらず訪れる客なんだ。借金の取り立てみたいに、一度追い返したって必ず別の日に出直して来る。それが解ってねえ奴が多すぎる」

 

「ではカルディアには返済期限が来ていたのか?」

 

「べつに。まだ遠かった」

 

 セージは目を伏せた。すると、どこか誇らしげだった弟子の口調に曇りが生じた。

 

「……お師匠は俺が人助けするのが気に入らねえのか。それとも人を殺すのは良くないって言いてえのか。そんな今更なこと」

 

 今更だろうか。セージは弟子と目を合わせた。

 

「マニゴルド。かつておまえが追い剥ぎをして人を殺めていたことを私は責めない。しかし今回は違う。蠍座の候補はおまえの同朋だ。否、同朋でなくとも相応の理由と覚悟がなければ見逃すわけにはいかぬ。辛そうだから楽にしてやりたい、そう思うのはいい。しかし死を救いだと押しつけることはおまえの身勝手だ」

 

 弟子は苛々と首筋を掻いた。

 

「じゃあいいよ俺の勝手で。積尸気使いの力で何しようが俺の勝手だよ。なんだよ。殺しにしか使えねえ力を殺しに使って何が悪いんだよ。冥界波を教えたのはお師匠じゃねえか」

 

 セージは目の前の魂を積尸気の穴に叩き込んだ。

 

 続いて自分も肉体を纏ったままその穴に飛び込む。

 

 ――薄闇の空と不毛の荒野。鉛色に滲んだ地平線。冥界を目指す亡者たちの沈黙。

 

 そうして彼は、修行以外の場で初めて弟子に手を上げた。

 

 相手は咄嗟に腕で頭を庇ったが、セージはその防御もろとも張り飛ばした。よろめいて地を離れる体。それでも着地と共に体勢を立て直そうとする。

 

 そこをセージは上から蹴りつけた。マニゴルドの判断のほうが一瞬早かった。少年は身を起こさずに横に転がる。雷撃に似た蹴りは地面が受けた。重圧を受け止めきれず、地盤が砕けた。

 

 ガラガラと音を立てて地面が崩れていく。

 

 地の底の冥界まで届きそうな穴ができた。

 

 危うく難を逃れた弟子は、地面の惨状を目の当たりにして口を開けた。それからセージに見つめられていることに気づいて、爆心地から遠ざかろうとする。

 

「ちょ、ちょっと待てってお師匠! 顔がマジじゃねえか! やばいやばいやばい待って」

 

「うろたえるな小僧」

 

 冬の嵐の冷徹さでセージは相手に迫った。

 

 狼狽しながらもマニゴルドは嵐から身を守るために動いた。

 

 もし少年に肉体があれば、骨は折れ、内臓は破れ、身の内の至るところに血溜まりができているに違いない。防御を覚えた体が致命的な一撃を受けることを避けている。そのせいで余計に傷を負うことになった。

 

 苦しいだろう。痛いだろう。

 

 動きかたを教えたのは自分か、とセージは皮肉でもなんでもなく思った。

 

 イタリアで初めて会った時、その子供は虚無と死霊を友としていた。同じ異能を持つ者としてそのまま捨て置けず、セージは子供を聖域に連れ帰った。死に親しい者だからこそ感じ取れる生の素晴らしさがある。それを理解させたかった。

 

 人の命を弄ぶような者に育てたつもりはなかった。

 

(どこで間違えた)

 

 後から空しさと悲しみが追いついてきた。

 

 黄泉比良坂の大地がみるみる荒らされていく。絶え間ない地響きと轟音と小宇宙の暴風。雷よりも奔放な力の浪費が地上で繰り広げられる。

 

 黄泉比良坂は冥王の本拠地のすぐ手前にあるのに、その兵は誰も様子を見に来なかった。自分たちには関係ないと思っているならその通りだ。これはセージとマニゴルド二人の問題である。

 

 亡者たちも周りの変化に興味を示さず、冥界へ続く大穴を目指して歩き続けている。

 

 マニゴルドはその沈黙の行列を盾にしようとした。亡者の列を飛び越えてセージはそれを捕まえた。

 

 頭を掴んで地面に叩きつける。一度、二度。

 

 三度目の前にマニゴルドは自由な下半身をバネにしてセージの脚を払った。そのまま強引に彼の手を逃れる。距離を稼ぐと割れた額を触り、顔をしかめた。

 

「らしくねえよお師匠。ジャミールのジジイに何か影響されたか」

 

 ジャミールに預けている間に、ハクレイがマニゴルドの力を試すために黄泉比良坂へ連れて行った。そのことはセージも把握している。

 

「兄上は関係ない。これは不出来な弟子への折檻だ。理由が分からぬなら己の胸に手を当てて考えるがいい」

 

「その暇よこせ!」

 

 いつもの彼ならそうしただろう。弟子を叱る時に手を上げたことは、これまで一度もなかった。ひたすら言葉を尽くし、理を尽くす。それが彼の流儀だ。

 

 そのためマニゴルドに尋ねられたことがある。浮浪児上がりの子供を相手に長々と説教するのは徒労だと思わないのか、なぜ殴って言うことを聞かせようとしないのか、と。

 

 たしかその時こう答えた。

 

 ――おまえは獣ではない。力で押さえつけなくても、意志で行いを改めることができるはずだ。人は己の意志で変わることのできる唯一の生き物なのだから。

 

(偉そうなことを口にしながら、所詮は私も感情の生き物だったというわけだ)

 

 セージは額に手を当て、溜息を吐いた。

 

 不意に攻撃の構えを解いた彼に弟子が戸惑った。「え、本当に待ってくれるわけ?」

 

 甘い。答える代わりにセージは掌底を繰り出した。気づかぬうちに懐に入り込まれたマニゴルドは、まともに衝撃を浴びる。仰け反ってよろめく弟子の姿に、セージは再び溜息を吐きたくなった。

 

 だが法衣の袂を引き千切られているのを見て、それは飲み込んだ。無抵抗を貫く従順な弟子ではなかった。

 

「おまえに積尸気冥界波を授けたのは間違いだった、とは思いたくない。しかし未だに生を理解できないどころか、他人に死を強要する傲慢さを慈悲だと嘯くなら、師たる私が責任を持って、その過ちを正してやらねばなるまい」

 

「愛の鞭ってわけか。ありがたくって涙が出らあ」

 

 傷だらけになろうと口の減らない悪童である。

 

「いい加減真面目に聞け。本人が死を願ったのならともかく、生きたいという者を死に叩き込むのは傲慢だと思わぬか。生きるために泥水を啜ってきたはずのおまえが、なぜ他人のそれを簡単に捨てさせようとする。積尸気使いが他人の生殺与奪を自由にしていいという主張が正しければ、私がここでおまえにとどめを刺してもいいはずだな」

 

 暗い世界の一角が突如として照らし出された。蒼白く輝く炎。鬼火の奔流がセージの意思に従い、マニゴルドの体を包みこむ。少年が慌てた声で制止を求めるがセージは聞かなかった。

 

 温度を持たない炎には夢幻の美しさがある。けれど炎に巻かれた者にとっては劫火の責め苦。

 

 それは鬼火を糧に燃え上がる技だった。技を掛けた相手の魂を直接損なうので、軽々しく人に対して用いてはならない。そう弟子に教えたのはセージ自身だ。

 

 灼けつく痛みと己が表面から崩れていく恐怖には、誰もが泣き叫んで命乞いする。魂そのものを食らい尽くす、どちらかといえば外道な技かも知れない。

 

 マニゴルドは叫ばなかった。

 

 若い積尸気使いは歯を食いしばりながらこれに対応した。炎を生む鬼火の一つ一つに小宇宙を込めて、瞬間的に解放させる。すると鬼火が爆発する。火種そのものがなくなり、彼を取り巻く炎は消えた。

 

 ただしマニゴルドが使った技は、本来は霊的なものを爆発させて敵を攻撃するためのものだ。爆発の只中にいた本人もぼろぼろになった。

 

「なるほど。鬼蒼焔を魂葬破で消し飛ばしたか。考えたな」

 

 弟子の表情が緩む。

 

 しかしまだ終わっていない。セージは低く拳を繰り出した。腹をえぐる。

 

 マニゴルドの体は遠くへ飛んでいった。一度大きく跳ねてから、崖の向こうに消えた。亡者の群も同じ所へ消えていく。

 

 セージは歩み寄り、崖の下を覗いた。

 

 冥界へ続く奈落の淵にマニゴルドはいた。

 

 崖の端に指をかけて凌いでいる。凌いでいるだけだ。腕が伸びきっていて、すぐには上がれそうにない。少し離れた所からは亡者が落ちていく。

 

 高みから見下ろしたままセージは言った。

 

「生にしがみついておるな。それを引き剥がして穴に突き落としてやることが私の慈悲か」

 

「ごちゃごちゃ言ってねえで引っ張ってくれよ」

 

 黄泉比良坂の大穴に落ちれば、何人たりとも生きては戻れない。そのまま冥王の支配する世界へ向かうのが定め。積尸気使いにも覆せない摂理だ。

 

 セージは弟子の指先を勢いよく踏んだ。短い呻き声が上がった。無視して何度も踏みつけた。何度も。何度も。

 

「ほら、落ちろ。死にたくないなら早く謝れ。あるいは私を殺してこの足を退かしてみろ。おまえの言う積尸気使いならば容易いだろう」

 

「やめ、お師匠やめろよ、本気か」

 

 本気で冥界へ落とすつもりなら、手を踏むなどという回りくどいことはしない。手首を切断することも、崖の縁ごと叩き離すこともできる。なぜセージがそうしないのか考えない者に、本音は明かせない。

 

「おまえは積尸気使いの力を殺しにしか使えないと言ったな。私や兄上も積尸気使いだ。つまりは私たちもただの人殺しに過ぎぬと、そう言いたいのだろう」

 

 何も知らない他人の偏見などいくら受けても平気だが、同じ積尸気使いの道を歩む者には誤解されたくないことがある。ましてそれが弟子となれば。

 

「あ、あれは俺のこと! 俺のことを言ったんだよ! あんたたちは違う」

 

 必死に否定する相手に「何が違う?」とセージは優しく尋ねた。苦悶に顔を歪めながらマニゴルドは答えた。

 

「全部だ。あんたは教皇で、元は黄金聖闘士だ。ハクレイのジジイだってジャミールの長で修復師で、黄金連中も怖がる強さの鬼だ。二人ともやれることが沢山ある。俺にはない。強さも知恵も、何にもねえ。聖闘士になれるかどうかも分かんねえ。同じなわけねえよ!」

 

「同じよ」

 

 セージは足を引いた。

 

「おまえの守護星座は私と同じだ」

 

 弟子は目を見開いた。

 

「嘘だ」

 

「嘘ではない。おまえは私の聖衣を継いで、同じ蟹座の黄金聖闘士になる可能性がある。それでも違うと申すか」

 

 嘘だ、とマニゴルドは繰り返した。「どうせ俺をびっくりさせるための嘘なんだろ。だって今更そんな」

 

「黙っていたことは認めるが、断じてこの場限りの出任せではない。おまえは私と同じ蟹座だ」

 

 奈落の淵にぶら下がる少年は瞬きすら忘れて、彼を見つめた。見下ろすセージはふと思う。イタリアで初めて会った宵も、子供はこんな表情を浮かべて星空を見上げていたのではなかったか。

 

 急に哀れになった。

 

 積尸気使いのありようを誤解しているのは本人のせいではない。セージの伝え方が悪かっただけだ。まともな指導者に師事していれば、きっと輝かしい未来を手にしていただろうに。

 

 セージが教皇という責任ある地位について長い。聖域の統治はそれなりに巧くやっている自信はあるし、聖戦に向けての聖闘士の育成体制と世代交代も順調だ。なのにこの初弟子のことに限っては思惑が外れてばかり、見当外れのことばかりだった。

 

「不甲斐ない師で済まぬ。もっと早く伝えていれば、こうはならなかったかも知れぬな」

 

「お師匠――」

 

 ずるりと音がした。

 

 崖に張り付いていたはずのマニゴルドの体の前面が見えた。ゆっくりと仰向けになっていく。本人にも不測の事態であることは、その表情を見れば明らかだった。

 

 空を掴む手がやけに白っぽく見えた。

 

 弟子は黄泉比良坂の大穴に飲まれて消えた。小宇宙の気配も闇に消えた。

 

 そして灰色の辺に老人一人が残された。

 

          ◇

 

 弟子が冥界へ続く穴に落ちて、どれほど経っただろうか。セージは穴の中を見つめ続けていた。

 

 底の見えない闇が迫ってくる。

 

 その闇よりも彼の心は昏かった。

 

 女神の代理人と呼ばれて玉座に君臨していながら、弟子一人まともに育てられない不甲斐なさ。失望。悔恨。慚愧。罪悪感。聖闘士たちにも顔向けできない。

 

「申し訳ありません、アテナ」

 

 彼は立ち上がり、淵から身を乗り出した。

 

 後ろからもの凄い勢いで誰かが坂を駆け上ってきた。穴に飛び込もうとしていたセージは、胴体を抱えこまれて後ろへ引っ繰り返った。

 

 雨雲と同じ色調の空が視界一杯に広がる。それまで見つめ続けた穴の暗さに比べれば、その暗雲さえ明るく見えた。

 

「待て待て待て。なんであんたまで死ぬんだよ意味分かんねえ」

 

 下敷きになっていた背後の者が這い出して、彼の前に姿を現した。セージは息を呑んだ。相手が彼の目の前で冥界へと落ちていった弟子と同じ声、同じ顔をしていたから。しかもなぜか肉体をまとっている。思わず身を起こした。

 

「おまえ……落ちたのでは」

 

「落ちたよ。途中まで」

 

 穴を下っていく途中、無我夢中で積尸気の穴を開いた。頭上にではなく落ち行く足先に開けたのが功を奏した。魂は落下するまま自然にその穴を通り、現世に出ることができた。本人はそう言うのだ。

 

 死線をくぐり抜けたにしてはさっぱりした顔をしているのもあって、俄には信じがたかった。

 

「そんなでたらめがあって堪るか」

 

「怒るなよ。俺だって必死だったんだよ。もう一回やれって言われても、多分無理」

 

 あり得ない助かり方をしたのは偶然だろうか。それとも聖闘士になるべき者が死の間際に奇跡を起こしたか。

 

(アテナよ。これはあなたの御業か)

 

 あるいは冥王軍がセージの許へ送り込んだ偽者の可能性さえ疑った。

 

 乱れた思考のまま見つめていると、少年は彼の手を取って自分の首筋に当てた。温かい血が脈打っているのが感じられた。

 

「な、生きてるだろ。とりあえず体に戻って、しばらく執務室で待ってたんだぜ。けどいつまで経ってもお師匠帰ってこねえから、もしかしたらと思ってこっち来たんだ。そしたらこれだ。びっくりだよ」

 

 殺されかけた相手の様子を見るためにわざわざ戻ってきた。その事実にセージはまた驚いた。

 

「また穴に突き落とされるとは考えなかったのか」

 

 少年は見慣れた仕草で肩を竦めた。それならそれで仕方ない、と言う。

 

「お師匠がどうしても俺の息の根止める気なら、世界の果てまで追いかけて来そうだし。またやる?」

 

「いや、もういい」

 

 己の命さえ軽んじるこの姿勢、間違いなくマニゴルドだ。セージは軽く首を振った。弟子が生きていたことを実感した途端に肉体の疲れがやってきた。

 

「積尸気使いは死の力しか持たないという主張が正しければ、おまえは今生きていまい。落ちようとした私を引き留める者もいなかったはずだ。そのことをよく噛み締めよう」

 

 弟子は頷かなかった。

 

「土壇場で助かりたくて冥界波を試した時点で、俺が喧嘩に負けたのは分かってる。でもお師匠が何から何まで正しいとは思わねえんだ。冥界波はやっぱり人殺しの技で、積尸気使いはそれを使っていいと思う。でもお師匠の前では、そういう事は言わないようにする。それでいいだろ」

 

「それだからおまえを蟹座に据えられぬ」

 

「あっそ。だったら他の称号寄越せ。そんで蟹座の聖衣は墓の中まで持ってけ業突張りのジジイ」

 

「馬鹿者。よいか、積尸気使いであろうと人の命を軽々しく弄んではいけない。私が言っているのはそれだけだぞ。簡単なことだろう。なぜ理解できぬ」

 

「すみませんね頭悪いもんで」

 

 喧嘩腰の相手にセージも言い返そうとした。しかしそれでは話が進まない。そう思い直して一呼吸。

 

「……もう少し互いに頭が冷やそう」

 

 二人の周囲では今も亡者たちが絶え間なく零れていく。音のない雑踏である。騒ぐ者こそいないが、落ち着いて語り合うにはあまり相応しくない場所だった。

 

 静かな所に行きたいと思った。

 

「海に行こう」

 

と、聞く側にとっては脈絡のない提案を、セージは口にした。

 

 普段は山の頂上から睨みを利かせている教皇でも、聖域の外に出ることがある。一番多い機会はロドリオ村への訪問だ。次に各界の代表者や指導者との会合。聖闘士が歴史の表舞台に出ないからこそ、舞台裏では各方面とも付き合う必要があった。そんな会合の一つが近々港町で予定されている。

 

 非公式とはいえ教皇としての行事に、セージが単身で赴くことはない。聖域からは随行団とでも呼ぶべき一行が付き随う。最近膝の調子が悪い従者に代わってマニゴルドもそこに加われということだ。

 

「出立まで日がある。それまでは謹慎して、身の回りを片付けておけ」

 

「それって……」絶句しかけたマニゴルドは、一呼吸置いて畳みかけてきた。「だったら聖域から直接追い出せば良いだろ。弟子を育てるのに失敗したって知られるのがそんなに怖いかよ。旅先から追放なんて小細工するくらいなら、今ここで縁切ってみろよ教皇様! ほら、ほら!」

 

 当人にしてみれば、首に縄を掛けられたまま、中途半端に放置された気分に違いない。ただし別れるにしても、相応しい場所と頃合いというものがある。素直に、はいさよならというわけにはいかなかった。

 

 セージは喚く弟子を引きずって帰った。

 


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