【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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海辺の僧侶

 

 アテネから遠く北東に位置する港町で、聖域からの一行は礼節を持って迎えられた。会合の会場となるのはキュリエと呼ばれるイスラム教の複合施設だ。

 

 セージと神官の打ち合わせも順調に終わり、会合まで時間ができた。周囲は老体を気遣って別室での休憩を勧めた。セージはそれを断った。

 

「ここの養生所を見てみたいのだが、頼めるか」

 

 大都市のキュリエには、モスクを中心に市場、病院、救貧院、学校、共同浴場などを擁する巨大なものもある。この町にあるのはそこまで立派な施設ではなかったが、市場と病院が併設されていた。

 

 施設から宛がわれた世話役も心得て、すぐに案内すると即答してくれた。大勢で押しかけて入院患者を驚かせても悪いので、従僕代わりの弟子だけを連れて行くことにする。

 

 彼らは隣接する棟に案内された。

 

 青と白のタイルも鮮やかなモスクから一歩病院側に踏み入れると、素っ気ない漆喰壁の世界に切り替わった。

 

 病室に並べられた寝台では患者たちが思い思いに過ごしている。説明によれば、身寄りのない者や、自腹で医者にかかれない貧しい者が多いという。

 

 セージは病人の間を回り、一人一人に声を掛けた。時にはさりげなく相手に触れて、小宇宙を送り込んだりもした。生気の源である小宇宙を受け取れば、病の痛みや辛さも少しは和らぐ。

 

 触れられた者は奇跡を得た喜びで彼を拝んだ。彼の正体を病人たちは知らない。けれどその佇まいや自分の身に起きた小さな奇跡から、気品ある訪問者がただの慈善家ではないことを常人なりに察していた。

 

 マニゴルドはというと病室の入口に寄りかかって、

 

「まるで聖人だねえ、うちの長老サマは。ありがてえこった」

 

と聞こえよがしに呟いた。セージが見やると露骨によそを向く。入ってくるように呼びかけても無視。

 

 そこで次の病室へ移る際に、セージは案内人を待たせて弟子を廊下の端へ連れていった。先ほどの態度は何だと問い詰めると、そんなことかと冷笑された。

 

「小宇宙なんか分けたって無駄なもんは無駄だ。もうすぐ死ぬ奴に何したって寿命は伸びねえよ」

 

 積尸気使いには死期の近い者が分かる。この感覚が常人でも分かるところまで強まることを「死相が出る」という。セージが触れた者の中には、その日が間近である者も混ざっていた。

 

「つまり死が近ければ苦しんでも致し方ないと。苦しみから解放してやるために死を強制した者の言い分としては、些か矛盾しておるな」

 

 相手は言葉に詰まった。そして少し間を置いて、

 

「じゃあ俺があそこで冥界波を使っても良かったのかよ。あの部屋の病人、まとめて魂引っこ抜いて黄泉比良坂に送ったら、困るのはあんただろうが」

 

と言い返してきた。

 

「ほう。やれるものなら今からでもやってみるがいい。この養生所の内にある全ての魂を地に繋ぎ止めておくくらい、私には造作もない」

 

 未熟な積尸気使いは悔しそうに唇を噛んだ。セージはその肩に手を置いて歩みを促した。

 

「おまえも小宇宙を人に分け与えてみなさい。無駄かどうかを論じるのはそれからでも遅くなかろう」

 

 マニゴルドはセージの手を邪険に払いのけた。

 

「嫌だね。連中が求めてるのはお師匠だ。俺じゃねえ。それに病人との触れ合いで俺が改心するとでも思ってるなら大間違いだ。薄っぺらい善行ごっこなんか誰がするもんか」

 

「マニゴルド」図星を指されて思わず声が尖った。

 

 弟子も反抗的に彼を睨み上げた。久しぶりに目が合った。

 

 と、二人は同じ方角を振り向いた。案内人も何事かとそちらを見やった。

 

 ほぼ同時に一人の男が廊下の角を曲がってきた。正教会の修道服を身につけた初老の男だ。

 

 佇む三人が自分のほうを向いていることに男は驚いた。しかしセージを目指して一直線に駆け寄った。

 

「遅くなりまして申し訳ありません。初めてお目に掛かります。私は――」

 

 名乗りかけたのを制してセージは笑顔を作った。

 

「はて。遅くなったとは何の事でしょう。私は確かに人と会う約束をしておりますが、それはもう少し後の時刻。今は名も無き者として人々を見舞っているに過ぎませぬ。ここは養生所。静かにいたしましょう」

 

「……失礼。星の方にお会いできる喜びで舞い上がっておりました。差し支えなければ、しばらくご一緒してもよろしいでしょうか」

 

「はるばるコンスタンティノポリスからの旅路でお疲れでなければ、どうぞ」

 

 初老の男はほっと肩の力を抜いた。白髭が揺れた。

 

 二人の会話から男がセージの会談相手と察して、弟子は静かに退いた。普段は騒がしい悪童でも、その気になれば場を弁えることはできるらしい。

 

 白髭の男はコンスタンティノープル総主教である。そしてセージはアテナの代理人。両者に直接は関係のないイスラム教の施設が会合場所に選ばれたのには、諸々の事情があった。それを語るには多くの言葉を要するので、ここでは割愛する。

 

 少し遅れてキュリエの責任者であるイスラム法学者もやってきた。こちらはまだ黒々とした髭の壮年の男だ。会合の主役二人が揃っているということで、案内役を代わる。

 

 次の病室でもセージは小宇宙を病人たちに分け与えた。総主教は触れられた者たちの様子を注意深く眺めてから、彼の手元を覗きこんだ。解剖の講義に参加する医学生の熱心さだった。

 

「その手業が星の方の起こされる奇跡ですか」

 

「そんな大それたものではありませんが、聖闘士に興味がおありですか」

 

 セージが尋ねると、白髭の総主教は懐かしげに微笑んだ。

 

「昔、まだ神学生だった若い頃に、銀の星の輝きを見たことがあります」

 

 聖域から正教会に送り込まれた雑兵の報告によれば、この総主教はかつて、任務中の白銀聖闘士と接触があったそうだ。星の輝きとは小宇宙を発した状態のことだろう。

 

 一方で黒髭の法学者が首を傾げているが、これは仕方ない。彼は聖闘士とは直接の接点がなかった。

 

 白髭の総主教は思い出話を続ける。

 

「あの光景を見た時、心が震えました。身の内から滲み出すあの見えない輝きこそ、人が神の似姿を回復していく過程を形にしたものに違いありません。私もかくありたいと願ったものです」

 

 なるほど、とセージは控え目に相槌を打った。

 

 正教会においては、人は原罪を背負い堕落した存在ではない。不完全ではあるが、成長を続けて創造主の「すがた」に近づく可能性を持つ存在である。研鑽を積んで小宇宙を身に付けた聖闘士は、その意味で確かに神に近いだろう。

 

「ですからその星々を統べる方とお会いできると知って以来、この日を待ちわびていたのです」

 

「ご覧の通り、ただの白髪の年寄りですよ」

 

 年長者の謙遜に、総主教はとんでもないと手を振った。

 

「お会いして、ぜひとも克肖者(聖人)に加えるべき方と確信しました。いずれ列聖させて頂きたい」

 

 セージがやんわりと断っても引き下がらない。

 

「星の方々は表向きに正教会の一宗派を名乗られることもあるそうですね。でしたら何の問題もないでしょう。もちろん列聖はあなたの死後ですからご心配なく」

 

 相手は本気だった。セージは廊下に出てから改めて断った。

 

「お気持ちは嬉しいのですが、私はあなたがたの神の教えを心から受け入れる者ではありません。はっきり申せば異端どころか異教の者です。お申し出を受けることはできません。なにより正教会の信徒の方々に対して心苦しい」

 

 総主教は目を丸くしたが、すぐに落ち着いた表情を取り戻した。

 

「そうですか。残念です。……ですが、我が信徒のことを慮ってのお言葉に感謝いたします」

 

「申し訳ない」

 

「いいえ、却ってお気を遣わせてしまったようで、こちらこそ申し訳ない。ローマの強引な連中に比べれば余程お話ができる方と、些か舞い上がっておりました。異教よりも異端のほうが憎い、というのはなかなかの真実でして」

 

 ローマ教皇庁が「カトリックこそが唯一絶対の教会」という声明を出して正教会とプロテスタントから反感を買ったのは、二十一世紀に入ってからの出来事である。キリスト教が正教会と西方教会に分裂して以来、未だ和解は成っていない。この時の総主教は冗談に紛らわせたが、その言葉には日頃の鬱憤が混じっていた。

 

 黒髭の法学者が流れに乗った。

 

「解ります。一つの谷を挟んで向かい合った断崖があるとき、その距離が十分に離れていれば谷の深さよりも互いの遠さに気を取られます。しかし断崖の距離が近ければ近いほど、それを隔てる谷の深さと日の届かぬ暗さが強調されるものです」

 

「良い喩えですな」

 

「スンニとシーアよりも、同じ学派内の論争のほうが激しい弾劾合戦になる理由を考えたことがあるのです。なまじ身内に近いほうが骨肉の争いになるという、当たり前の結論しか出ませんでした」

 

 蛇足だが、後世の中近東でスンニ派とシーア派が対立しているのは、教義の解釈の違いといった宗教的な理由ではなく、政治的・経済的な理由に因るところが大きい。ここで三人が話題にしている信仰のあり方とは、別の問題である。

 

 セージは二人に言った。

 

「それでも論争ができるだけの仲間がいるというのは羨ましい。我々聖闘士にとっては仲間に出会えることがまず貴重なのです。派を割る余裕すらない」

 

 そして聖闘士の性として、意見が異なれば最終的には論ではなく拳で戦うことになる。その結果に納得できず離反する者や追放される者はあっても、個人の問題として片付けられてきた。

 

「小さな宗派でも割れる時は割れます。きっと星の方々はしっかりとした教義をお持ちなのでしょうね。それこそ羨ましい」と白髭の総主教が首を振る。

 

 女神の代理人は答えた。「明文化された教義や教典がなくとも、主神が定期的に降臨するのが大きいですな」

 

 それを聞いて、二人の宗教者は納得と羨望の表情を浮かべた。本人も気づいていないだろう侮蔑が微かに混じるのは、黒髭の法学者だ。

 

 セージは涼しい顔で「それはさておき」と続けた。

 

「いかがでしょう、この話題は立ち話よりも会合に相応しいと思われませんか。さきの喩えに倣うならば、崖の上に立つ互いの位置を元に己の場所を測るべき時です。自己と他者の違いを認め、その違いを元に己の考えをより磨く。それが理性ある者の務めだとあなた方もご存知のはずだ」

 

「そうですね。この貴重な機会は相互理解と交流のために設けられたのですから、仰る通りです」

 

「たしかに。自己の無謬性を信じて良いのは神のみ。人は他者という鏡によって己の姿を知るものです」

 

 二人と共に見舞いに戻ろうとしたセージは、その場に足を縫い止められた。

 

 前方にマニゴルドがいた。少年は彼らのほうを見ていなかった。随行の神官と言葉を交わした後、セージのほうを振り返ることのないまま走り去っていった。

 

 代わりにその神官がやって来て、身支度を促した。

 

          ◇

 

 会合は和やかに終わった。夜は法学者の自宅で宴を開いてもらうことになっていたが、それまでは自由な時間だ。

 

 セージは控え室で地味な平服に着替えた。部屋を出る時に神官に告げる。

 

「晩課の鐘かアザーンか、先に聞こえてきたほうに合わせて戻る」

 

「かしこまりました。お気を付けて行ってらっしゃいませ」

 

 会合後に微行することは予め伝えてあったので、神官たちは素直に送り出してくれた。護衛の聖闘士が遠くから付くし、傍には従僕も兼ねた弟子が付き添う。

 

 マニゴルドは会合前の苛ついた様子から一変して塞ぎ込んでいた。セージも具合を尋ねる空々しい真似はしなかった。

 

 港へ続く坂の途中に小さな食堂があった。そこで昼食を取ることにした。注文を済ませ店の人間が立ち去ると、マニゴルドは片頬を歪めた。

 

「これが最後の晩餐かな」

 

「おや。ではこの後おまえの接吻を受けると、私は冥王軍にでも捕まるのか」セージは服の上から懐の財布を叩いた。「実は私も、ここにある金を餞別代わりにやるつもりだった。銀貨三十枚ではないが」

 

 ユダがイエスを裏切った報酬として得たのが銀貨三十枚と言われている。弟子は表情を硬くした。

 

「俺はあんたを裏切ったのか。カルディアを殺しかけたことがそんなに酷いことかよ」

 

「裏切り者は私だ。星の導きやアテナの下された奇跡に抗って、おまえを俗世に返そうとした。聖闘士とそれに連なる者全てを裏切って私情に走った、ひどい教皇だ」

 

 黄泉比良坂で始末を付けてやるつもりだったのに、奇跡によって阻まれた。そうとなれば、師弟の縁を切って追放するしかないではないか。

 

「今のおまえは文字も読めるし計算もできる。若く健康な体もある。それだけあれば追い剥ぎに戻らず真っ当な職に就けるはずだ」

 

 彼は窓の外を眺めた。建物の間から海が見えた。港から少し離れた沖合には大型船が一隻。その上に広がる青空には海鳥が張り付いている。

 

「ここの港は各地からの船が集う。イタリアの、例えばバーリやブリンディジに行く航路もあるだろう。そう思って連れてきたのだが……」

 

「はいワインね」

 

と、店の女将が卓の横に現れた。

 

「旦那、せっかく注文してくれた焼き魚だけど、タイがもう切らしてたんだよ。スズキでもいいかい」

 

「ああ、構わない。マニゴルドもいいな」

 

 少年はおざなりに頷いた。

 

「ごめんねえ」と少しも悪びれない女将が去ったところで、セージは話を再開しようとした。

 

 ところがその時ちょうど大人数の客が入ってきて、店の中は一気に賑やかになった。お陰で真面目な話をする雰囲気が消えてしまった。マニゴルドは白けた顔を窓に向けた。セージも苦笑して、椅子の背もたれに寄りかかった。

 

 料理が来ると弟子はそちらに気を奪われた、ふりをした。

 

 大きなパーナ貝の酒蒸しは、二枚貝の出汁とウゾ酒の風味が濃厚だ。新鮮な身もぷりぷりと弾力があって美味しい。皿に溢れた汁にも貝の旨みがたっぷりと詰まっていた。マニゴルドは貝殻を匙代わりにそれを掬って飲もうとしたが、上手くいかずパンに浸して食べた。殻つきの海老をトマトソースで煮込んだサガナキは、熱せられた鉄板にソースと溶けたフェタチーズが弾けて食欲を刺激する音楽を奏でる。少し時間が掛かって最後にスズキの炭火焼きも来た。焦げた皮は香ばしく、中のふっくらした白身を塩が引き立てていた。好みでオリーブオイルを掛けてもいいが、他の料理が濃厚だったので淡泊な味が逆にありがたい。

 

 一時も休むことなく食べ続ける少年を見て、店の女将がセージに話し掛けてきた。

 

「お孫さん、いい食べっぷりだねえ。何か足してあげなよ、旦那。お孫さん育ち盛りなんだからさ」

 

 猛然と平らげる原動力は空腹だけではない。自棄と開き直りも混じっている。しかし訂正するほどのことではないので、セージは女将お薦めの一品とやらを追加した。

 

 孫と間違われた弟子が、海老の殻を剥きながら彼を見た。けれど指に付いたトマトソースを舐め取ると、再び視線を皿の上に戻した。祖父ではない老人も、ただグラスを傾けた。

 

 食事を終えた二人は緩やかに坂を下った。

 

 港は船荷の積み揚げで活気づいている。忙しく行き交う船乗りや商人たち。怒号に近い人足の声。

 

 港を通り過ぎ、そのまま歩き続けた。

 

 やがて坪庭ほどの小さな磯まで来た。

 

 午後の波が光る。沖の船は相変わらず小島のようにどっしりと構えている。眠気を誘う規則正しい波音が、やけに大きく響いた。

 

 朽ち果てた流木にセージは腰掛けた。水平線を眺める彼の傍らで、弟子は足元に視線を落としていた。

 

「海は嫌いか」

 

 べつに、とふて腐れた返事。セージは水面に目を向けたまま言った。

 

「ここは地中海の奥だが、西のジブラルタル海峡を抜ければ大西洋だ。おまえの友が散った海と繋がっている」

 

 マニゴルドは固まった。それで彼も自分の推測が正しかったことを確信した。

 

 聖域を発つ前に、彼は事件が起きた日の弟子の行動を洗っていた。元から不誠実な舌を持つ悪童だから、候補生を殺そうとした裏に、何かを隠していても不思議はない。

 

 そしてセージが見つけたのは一件の報告だった。雑兵たちが多くの人々を助け、新たな人脈を築いたという美談の陰に、命を落とした新米雑兵の存在があった。

 

「生者を間引いたところで死者は帰ってこない。分かっておろうに。死者を悼むなら……」

 

「そうじゃねえ。そうじゃねえんだよ、お師匠」

 

 少年は目を伏せたまま首を振った。

 

「生ってのは不公平だ。そんなのは分かってる。俺があの時カルディアも死ぬべきだって思ったのは、あいつが苦しそうにしてたからだ。苦しいのを我慢して修行しても、結局は死ぬんだなって思ったんだよ。あいつらだけじゃない。もちろん俺もそうだ」

 

「マニゴルド」

 

「積尸気使いのくせに俺はそのことをユスフが死ぬまで忘れてた。違うな。死んだと知るまで、だ。だからせめてカルディアの時は積尸気使いらしくやったんだ。なのに」

 

 不意に言葉が途切れた。

 

 マニゴルドは何かを拾い上げた。薄曇りの青空に似た色の小石だった。海水に潜らせたそれを日に透かせば、表面が濡れて薄青色の透明さが際立った。

 

「色つき水晶かな」

 

「ガラスの破片だろう」

 

 元々は瓶か何かの一部だったはずだ。割れた時は鋭く尖っていたであろう破片が、長い歳月と波に洗われて、柔らかな色と形を得た。

 

 貴石ではないと知ってマニゴルドは途端に興味を失ったらしい。ガラスの小石はその場に捨てられた。

 

 セージはそれを拾い直した。ざらつく表面や丸みを帯びた形は手触りも良い。

 

「なにも捨てることはあるまい。涼しげで趣があると思わないか」

 

「じゃあ持って帰れよ」

 

 少年の冷笑が潮風に混じって空気を振るわせた。これから弟子を捨てるのに、という含みがあった。

 

「話が途中だぞマニゴルド。『なのに』どうした」

 

 あまり乗り気ではない様子で少年は話を続けた。

 

 ――会合の間、他の随行員たちと一緒に待機することにマニゴルドは飽きた。そこでモスクの中庭に出て人でも眺めて暇を潰すことにしたという。

 

 しばらくすると隣に座る者が現れた。どす黒い顔の中年男だった。

 

『ここいいかい。一緒に病室を回っていたお祖父さんはどうしたね』

 

『別の用事の最中だよ。お師匠に何か用か』

 

『なんだ、肉親じゃないのか。いや、おまえさんと話したくてね』

 

 男は入院患者だった。初めはマニゴルドのことを尋ねてきたが、はぐらかすうちに察したのか少年の身の上には触れなくなった。代わりに頼んでもいない色々な話を聞かせてくれた。会合が終わるまで面倒事を起こしたくないマニゴルドも、大人しく相手をしていた。

 

 しかし次第に男のやけに優しい目つきが気色悪くなって、追い払いにかかった。

 

『もういいだろ。あっち行けよ。俺の周り、妙な感じがするだろうけど、勘違いするなよ。それ「死」の匂いだぜ。俺の正体はイズラーイールなんだ』

 

 イズラーイール(アズラエル)とは、イスラム教において死と魂を司る天使の名だ。ところがマニゴルドがわざと死の気配を濃厚にさせても、男は逃げなかった。それどころか『倅に似たお迎えなら諦めもつくさ』と疲れた表情で笑った。医者にも長くないと宣告されたそうだ。マニゴルドの目にも男の命数は残り僅かだった。

 

『おまえさんの背格好や仕草が倅に似ていて、それでつい話しかけた。無理に相手させて悪かったな』

 

『見舞いに来ねえのか、あんたの息子は』

 

『もう死んだからな』

 

 子供も妻も流行病で亡くして、酒浸りになって体を壊した末にこの病院に入院したという。

 

『死ぬ前にもう一度女房や倅に会いたかったんだ。それが未練と言やあ未練だったんだけども、だから神様はおまえさんを寄越して下さったのかな。告死天使、頼みがある』

 

 抱き締めさせてくれという願いをマニゴルドは聞き入れた。男は礼を言うと、息子の名を呼んで彼を抱き締めた。頃合いを見て冥界波で送ってやろうと若き積尸気使いは考えた。それが慈悲だろうと。しかし。

 

『あのご老体は幸せだな。いつかおまえさんに看取ってもらえるんだろう。身内に告死天使がいるってのも悪くない』

 

 マニゴルドは思わず相手を押しのけていた。

 

 突然の拒絶に男は驚いた顔で彼を見つめた。マニゴルド自身も驚いていた。咄嗟に口走った。

 

『俺はお師匠を送らねえ。あんただって送ってやらねえ。死ぬまで勝手に生きてろ』

 

 言い終えた途端、ひどく動揺した。それ以上その場に留まることができなかった。そして会合が終わるまで控え室に閉じこもっていた。

 

 ――そこまで語ると、少年は額に手を当てて表情を隠した。

 

「我ながら喋ってても訳分かんねえわ。あんなおっさん一人、黄泉比良坂に送るのは簡単なのに。なんでやらなかったんだろ、俺」

 

「そもそも殺す必要がなかったからではないか」

 

 積尸気冥界波は刃物のようなものだ。刃物で人を殺めることはできる。しかし、刃物を手にした者は必ず人を殺して回るべしという決まりはない。もしそう思い込んで、戦場でもない場所で実行する者があれば、それは狂人だ。

 

「つまりおまえは刃物の使いどころを理解していないだけで、何が何でもそれを振り回さないと気が済まない狂人ではなかったということだ。喜べ」

 

「気違いに刃物じゃあるまいし」

 

 呆れたような相手にセージは告げた。

 

「一緒に聖域に帰るぞ」

 

 波が寄せて返した。

 

 その後にようやくマニゴルドは困惑を示した。

 

「だって、お師匠は俺のやり方とか考え方が気に食わねえから破門するんだろ? 俺がただのおっさん一人殺せない奴だから逆に安心したのか。いきなりそんなこと言い出すなんて」

 

「唐突ではない。先ほどの会合前から考えていた」

 

 セージは手の中の小石をゆっくりと弄んだ。

 

「意見の違う他者の存在を認めよ、などと偉そうなことを言いながら、弟子の異論を認められない私は偏狭よな。同じ母から生まれた兄上とさえ考えが合わないこともあるのに、弟子のそれは許せないとは」

 

 師弟という関係はいつでも彼の距離感覚を戸惑わせる。むしろセージの言うことを弟子が鵜呑みにせず、違う考えを持てたことを喜ぶべきであったのに。自嘲する彼を見て、マニゴルドが眉をひそめた。

 

「私たちは違う人間である以上、ものの見方も違って当然という話だ。たとえ同じ守護星座、同じ積尸気使いの師弟であっても同じ考え方をするとは限らない。まずそのことを頭に入れておくべきであった」

 

 二人の宗教者との語らいが気付かせてくれた。弟子を手放すつもりでこの港町へ連れてきたのを、思い留まらせてくれた。

 

「じゃあ、本当に……?」

 

「ああ」

 

「本当に俺も蟹座なのか」

 

「ああ」

 

「貰っていいのか」

 

「意思を継いでくれるのだろう。ならば何を躊躇うことがある」

 

 何度も確かめられ、セージはその度に答えた。マニゴルドは深く息を吐いた。

 

「……俺が聖闘士になりたいって言い出した時には、もう守護星座のこと、お師匠は知ってたんだろ。後継ぎが俺ってのが嫌で黙ってたんじゃねえのかよ」

 

「そうではない。しかし私の後継になりうる身と早々に知ったら『ああやはり』と思うのではないか。何の縁もない浮浪児を拾ったのは、自身の後継者にする算段だったのかと」

 

「そりゃまあ。納得したと思うよ」

 

「それを避けたかった」

 

 聖闘士になれる素質のために拾われたと少年が思った場合、そのことにのみ己の存在意義を見出すことになりかねない。己に価値はないと卑下するよりはいいが、それもまた人として危ういことのようにセージには感じられるのだ。

 

「生の素晴らしさを教えるという約束を果たせないまま、おまえに苛酷な一本道を強いるのは卑怯だろう」

 

「お師匠は自分の聖衣が嫌いなのか」

 

「いいや」

 

 セージはハクレイとの兄弟間の機微について明かす気はなかった。話したところで問題は解決しないし、この少年の得になることは何もない。

 

 それに。

 

「先の聖戦を蟹座として戦えたことは私の誇りだ」

 

 多くの先達に捧げる畏敬。共感。彼らから託された情熱。悲願。歴史の重み。長年相棒として付き合ってきた聖衣への愛着。感謝。それらをまとめて一言で表すなら「誇り」以外に何があるだろう。

 

 それが紛れもない真実だった。

 

 少年は身を震わせた。ややあってから押し出された言葉はいつもの調子だったが、顔は僅かに紅潮していた。

 

「それでお師匠は、約束破られた俺がへそ曲げて修行しなくなるのを心配したわけか。信用ねえな」

 

「逆だ。私の悲願成就のために教皇の駒になると言い切ってくれたおまえのことだ。我を殺して、蟹座を継ぐに相応しい評価を得ようとしたに違いない」

 

 少年は「買い被りじゃねえの」とそっぽを向いた。

 

「思い通りに動く手足は便利だが、おまえにはもっと大きなものを見て、考えて、動いてもらいたかった」

 

 そのために役立てばと小宇宙や積尸気の技を教えたつもりだ。だからこそ「積尸気使いの力は人殺ししかできない」という言い分を許せなかった。与えてやれたのがそれだけだったと認めたくなかった。

 

「まして冥界波の力に奢る者には、危うくて聖衣は譲れぬ。おまえはもっと生を知らなければならない。人にはそれぞれ適した修行場所があるが、おまえの場合は聖域では足りないようだ。今回それが分かった」

 

 セージは相手の手の中にガラスの小石を押し込んだ。マニゴルドは不思議そうに手元を見下ろした。

 

「たとえ鋭い破片でも、波に洗われるうちに磨かれ形を変える。海に入れ。そして他の石とぶつかって来い。聖域からの放逐ではないぞ。疲れたら浜に上がればいいし、私が良い頃合いだと思ったら拾い上げてやる」

 

 弟子は小石の縁を指でなぞり、ぼやいた。

 

「それって切れ味が鈍るってことじゃねえかなあ」

 

「そうとしか受け止められないようでは、修行不足だな。言葉と同じよ。おまえはギリシャ語を覚えた時に私だけを師としたか。他の候補生とも語らって、彼らの喋りかたも真似たはずだ。神官や使用人や雑兵……様々な者の言葉に揉まれて、今のおまえのギリシャ語がある。生まれつき備わっているものではなく、他人と触れ合い知識を深めることで身に付けたものだ。それと同じだ。あらゆる生を知り、己の生を見つけろ。おまえにはそれが必要だ」

 

「それが次の修行?」

 

「そして最後の修行でもある」

 

 それが叶った時、マニゴルドは蟹座の守護者に相応しい、死に最も近いがゆえに最も生の価値を知る者になっているだろう。そこまで成長すれば、セージももう弟子の歩む道に不安は抱かない。

 

「よってそれを成し遂げたと判断した時に、蟹座の称号を授けると約束しよう」

 

「へっ。今の言葉、後悔するなよ」

 

 マニゴルドはガラスの小石を宙に投げた。そして落ちてきたそれを握りしめると、セージに向かってにっと笑った。

 

「べつに海は嫌いじゃねえんだ」

 

 そうか、とセージも微笑んだ。

 

 空を照り返し銀色に光る地中海。太陽から続く強烈な光の道に目が眩みそうだ。波の下にあらゆる生き物とその残骸を隠して、海神は静かに眠っている。

 


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