日が沈み、星が輝きだしても、少年は戻ってこなかった。
「どこで道草を食っているやら」
少し散策してくると言い置いて、セージは教皇宮を出た。墓地まで足を伸ばすことも考えたが、その必要はなかった。悪童は十二宮の一つにいた。
正確には柱の台座を枕に眠り込んでいた。階段を上る途中で一休みしたところ、激しい運動の疲れでつい眠ってしまった、というところか。
昇り始めた月の下で見る少年の表情は穏やかだった。殴られた箇所の腫れが引いて青黒い痣になっているが、それでもあどけない顔だった。
セージは少年を背負い、来た道を戻り始めた。
揺れる感覚に少年が目を覚まし、身じろぎした。運ばれていると知れば嫌がってすぐに下りたがるだろうとセージは思った。だがよほど歩きたくないのか、相手はそのまま寝たふりを始める。
「明日はちゃんと自分の足で帰ってくるのだぞ」
ふりをする内に本当に眠ってしまった少年を寝台に運び、セージは一人で食事を済ませた。
食後に自室で読書をしていると、人の起き上がる気配が隣室から伝わってきた。ペタペタと裸足で歩く音が、次いで細めに開いていた戸が軋む音がした。
「起きたか」
「なんでここ開いてんだ」
開口一番、それだった。普段は閉ざされている戸の隙間から差し込む明かりに引き寄せられてやって来たのだった。
セージは少年を呼び入れた。水差しから注いだ冷水を手渡すと、少年は一気に喉へ流し込んだ。
「腹は」
「減った」
壁際の棚を指差すと、少年はそこへ飛んでいった。棚に置かれた盆には、パンと小皿料理が乗っている。いつ起きるか分からない者のために使用人の手を煩わせることはないと思い、いざとなれば自分の夜食にしようとセージが夕食の一部を取り分けさせた物だった。
少年は床に盆を置いて座り込んだ。セージの私室にはトルコ風に絨毯とクッションを敷き詰めた一角が設けてある。椅子に座るよりそちらで足を伸ばしたほうが楽だと思ったのだ。
部屋の主も椅子から離れて、少年の近くに胡座をかいた。
チーズ入りのパンに齧り付いた子供は、皿の上の、暗赤色の外皮と白い身を持つ丸いものに興味を示した。
「なにこれ」
「タコだ」
炭火焼きにしたタコの足をぶつ切りにしたシンプルな料理だ。セージは一切れつまみ食いした。分け前を取られた少年が文句を言って、自分も一口食べた。その食感に首を傾げる。
「……貝?」
「いや、タコだ」
冷めて少し硬くなってしまった。セージは棚から瓶と酒器を取り出した。タコの歯応えに苦戦しながら少年がそれを目で追っている。
老人がグラスに注いだのは透明な液体だった。ところが水を足すと乳白色に色が変わった。驚いた少年に「ウゾーという酒だ」と説明して、セージは酒を嘗めた。タコがあるとたまに酒が欲しくなる。
「俺も飲みたい」
「おまえは腹を満たせ」
その後は沐浴して汚れを落とせ、と言われて、少年は頬を膨らませた。
「なんだよ、あれしろこれしろって命令ばっかり。ジイさんは俺の何なんだよ」
「さて。何であろうな」
もう一切れと皿に手を伸ばそうとしたら、盆ごと遠ざけられた。俺の飯だと主張するので、セージは呆れ、笑った。「私はおまえの庇護者だぞ」
「へえへえ、慈悲深き我が庇護者、女神の代理人たる尊き御方、願わくば我らの日用の糧を今日も我らに与えたまえ」
アーメンと呟きながら、少年はキャベツの漬け物をこれ見よがしに口へ運んだ。しばらく夜食を詰め込むことに専念していたその口が喋り出したのは、皿の上があらかた片付いてからだった。
「そういえば訓練が終わっておっさんの所に顔を出しに行ったらさ、あのアルバフィカのクソガキが、もの凄い顔で俺を睨んでた。あいつ何なんだよ」
その光景が目に浮かび、セージは苦笑した。
「あの者は師を敬愛している。まして養い親でもあるし、おまえがたとえ名目上でもルゴニスの弟子になるということに、心穏やかではいられぬのだろう」
「俺に先生取られたって妬いてるわけ?」
馬鹿か、と呆れ声で呟く。
「まあそう言ってやるな。言葉が通じるようになったら、おまえから誤解を解いてやればいい」
少しの間を置いて、少年が口を開いた。
「……無理だよ。俺、ルゴニスのおっさんのこと『先生』って呼ぶから」
「分かっておる」
僅かに心が沈んだことをセージは自覚した。それは少年が誰かを先生と呼んでいることにではなく、そうさせている自分に対してだった。
――教皇セージには弟子がいない。
名君の誉れ高き彼の目に適う逸材が現れないからだと、周囲は言う。
理由を問われれば本人はこう答える。教皇の務めだけで精一杯だと。そして全ての聖闘士に等しく目を掛けたいからだと。
だがもう一つ、口に出したことのない理由がセージにはあった。
それは彼の現在の地位が、本来であれば実力の優る兄ハクレイが受けるべきものを強引に押しつけられたに過ぎないという、長年の思いによる。
技や知識は兄弟同等、地位は兄から仮に預かっているもの。となれば、今の地位は兄に返すのが妥当だ。弟子を取っては鍛え上げるのが趣味の男であるし、後の時代に受け継がれる系統は兄ハクレイが作るべきだ。己は傍流に過ぎない。
はっきりとそう考えたわけではないが、兄への負い目にも似た思いが、セージに弟子を取らせることを良しとしなかった。
「マニゴルド」
別の酒杯を差し出すと、少年はすかさず受け取った。恐る恐る舐めてみて、なんだ水かと文句を垂れる。そんな姿を見ながら、セージは、
「もしおまえが望むなら、私を師匠と呼んでも構わぬぞ」
と、内心の迷いを隠しながら言った。
杯の陰で両目が大きく開かれた。どうだ、と問われて、少年はゆっくりと杯を下ろした。口元に冷笑のかけらが浮かんでいる。
「本気か? 教える立場にないってジイさん自分で言ってたくせに」
「そうだが、ただ呼ぶ分には支障はなかろう」
「そんなことしたら面倒なことになるって」
「だからそれを承知するなら呼んでも良い」
冷笑が剥がれ落ち、表情が消えた。
おや、とセージが期待すると、唐突に酒器が突き返された。
「勝手なこと言うなクソジジイ!」
そんな罵倒を吐き捨てて少年は部屋を出て行った。
老人は深く溜息を吐き、残った肴を酒に浸した。
間違っただろうか。
あの幼い者にどう接すればいいのか、距離感の取りかたがまったく見当が付かない。手取り足取り甘やかすのか、放任するのか、徹底的に躾けるのか。そもそもなぜ教皇宮に置いているのか?
自分がどうしたいのか分からないという経験は初めてだった。胸のつかえを酒で押し流そうとしたが、まったく効果はなかった。
◇
よほど怒ったのか、一晩経っても少年は誰も近寄らせず、一言も喋らなかった。起こされる前に人の気配で跳ね起きるのは元々だったが、この日は使用人が手伝う前に自分で顔を洗い、服を直した。食堂でも黙々とパンを片付け、向かいのセージを全く見ないまま席を立った。
「具合でも悪いのでしょうか、あの者は。触られるのを嫌がるのは以前からとはいえ、猊下に対してのあの態度」
給仕係が、少年の出て行った戸口を眺めた。
「案ずるな。あれは機嫌が悪いだけだ」
静かな朝食を終えると、セージは教皇として気持ちを切り替えた。
神官の形式的な報告を受けた後は、執務室で書類の裁可にとりかかる。
単調な作業の合間にふと外に目を向けて、思わずペンを取り落としそうになった。中庭に面した柱廊を少年がぶらついている。
セージはペンを置き、柱廊へ出て行った。少年は彼が近づいてくるのに気づくと立ち止まった。腕を組み、来るなら来いと挑戦的な目をしている。
「そこで何をしておる」
「時間潰し」
訓練までだいぶ間があり、女官から逃げ隠れしなくてもよくなったので遊んでいた。そう言って、悪びれもせず教皇姿のセージを見上げた。
「それ」
細い指が無遠慮に差したのは教皇の被る兜。
「いつも被ってるわけ?」
邪魔ではないかと言いたげな口調に、セージは「私は教皇だからな」と軽やかに答えた。
「被りっぱなしは禿げるぜ」
「この歳になれば、それも仕方なかろう」
まだ豊かな髪を持つ老人は、床の端に腰を下ろした。促されて少年も隣に座った。柱廊と中庭の段差は小さく、少年の足でも悠々と中庭の土の上に投げ出すことができた。
「時を無為に過ごすくらいなら、少し覚えていけ」
セージは小石を手にして、土を掻いた。
「何を書いてるんだよ」
「マニゴルド、と」
へえ、と少年は身を乗り出してその文字列を見つめた。見たことの無い記号だと首を傾げるので、ギリシャ文字だと告げた。ついでに行を変えてイタリア語の表記も書き足す。
「上段がギリシャ語、下段がイタリア語でのおまえの名だ」
「一文字目だけ同じ形なんだ」
興味を持ったのか、床から腰を上げ、地面にしゃがみこんだ。セージの書いたものを手本にしながら土に名を刻む。少しして、引き攣れたような歪な署名が書き上がった。
「やっぱ駄目だ」
と忌々しげに少年は自分で書いた分を掻き消した。
放りだされた石をセージは拾い上げ、もう一度持たせた。細い右手を上から握り、導きながらゆっくりと、書いている文字を一音ずつ発語しながら書き直した。文字は完璧な形に整っていた。
セージが手を離すと、子供は少し考えてから、手本の横に名を書いた。一人で最初に書いたときよりもずっと文字らしい。
「そうだ。上手いぞ」
セージは癖のある髪を軽く撫でてやってから、その場を離れた。
執務室に入る前に振り返ると、小さい背を丸めて、せっせと土に書いている姿が見えた。
その後、移動の際に柱廊を通った時にはもう少年は姿を消していたが、代わりに剥き出しの地面に、その名が所狭しと残っていた。
……これは余談だが、翌日、下働きの使用人がセージを裏庭に案内した。地面には至る所に拙い引っ掻き文字が刻まれていた。どれもマニゴルドという名を誇らしげに主張している。教皇の表情が綻んだことに、使用人は気づかなかった。
「土ですからすぐに均して消せますけども、こういう落書きは、猊下のお近くに相応しくないと思いまして。お坊ちゃんには猊下からお話ししてもらえませんでしょうか」
使用人の視線の先には、名前の練習に飽きて書いたと思しき落書きがある。卑猥な意味の絵だという。
セージは少年を呼び出して、アテナのお膝元に下町の悪所のような落書きを残すなと説教し、罰として庭掃除をしてこいと言いつけた。
これがきっかけで教皇宮で働く使用人たちと少年が、親しく言葉を交わすようになるのだが、それはまた別の話。
◇
少年は体を動かすのが性に合っていたようで、毎朝出かけては、汗と埃にまみれて夕方戻ってくるようになった。同年代の子供たちと打ち解けるまでに時間はかからず、そうすると日常会話程度のギリシャ語を身に付けるのも早かった。
「毎日約束通り、朝夕に必ず私のところへ挨拶にやって参ります。マニゴルドのお目当ては我が弟子のようですが」
と、教皇宮に報告にやってきたルゴニスは苦笑する。
彼の美しい弟子と仲良くなりたい一心で、少年は他の子供から仕入れた話で気を引こうとする。そして聖域の情報だけならまだしも、決してルゴニスが口にすることの無いような猥談や、覚えたての卑猥な言葉を教え込もうとする。
「それは……」
表情を隠す兜の下からでも分かる教皇の困り声に、ルゴニスは慌てて付け加えた。
「猊下がご案じになることはございません。アルバフィカを生涯薔薇園に閉じこめて純粋無垢に過ごさせるつもりは、私はないのです。外の世界に慣れさせるという意味で、マニゴルドは貴重な存在なのです」
もし話の卑猥さに我慢できなくなると、怒ったアルバフィカは容赦なく相手を殴って黙らせようとするそうだ。悪童はだいたいそれをきっかけに退散する。
「私も弟子があんなに手が早い、血の気の多い子だとは知りませんでした」
見た目がいくら繊細でもやはり男の子ですね、と養い親は嬉しそうだった。
とはいえ、汚い言葉ばかり覚えるようでは困るので、セージも時間を見つけては、悪童にギリシャ語を教えるようにした。その教室は食堂や風呂場であったり、夜のバルコニーであったりした。二人が一番好んだ教室は、朝の柱廊だった。
中庭のほうを向いて並んで座り、時折は中庭の土に綴りを示す。それは少年が訓練に出かける前の、ほんの短い時間。二人の他に通りがかる者もない静かな時間は、瞑想に似た清々しさがあり、セージは気に入っていた。
ただし通りがからないだけで、知る者は知っている。柱廊の二人を称して「ストア派でございますね」と言った神官がいた。ギリシャ哲学のその一派は、講義場所がストア・ポイキレ(彩色柱廊)だったことに名を由来するという。それに因んだ冗談だった。
教皇は笑って頷いた。
◇
ある日、一人の男がふらりと聖域に入った。
男は教皇への目通りを願い、すぐに許された。
「獅子座《レオ》のイリアス、ただいま帰還いたしました」
教皇の前に片膝を付いた男は、ルゴニスと同格の黄金聖闘士で、十二宮五番目の獅子宮の守護を担っている。つまり教皇に次いで責任ある地位にあるのだが、一所に留まるのを好まず、人に馴染まなかった。
教皇も無理に聖域に留めようとせずに、各地の調査任務という名目で男の放浪を黙認していた。
「そなたが自ら戻ってくるとは、珍しいこともあるものだな。息災であったか」
「はい」
日に焼けた精悍な顔をまっすぐ教皇に向けると、イリアスは「聖域にも風が吹くと、大地が教えてくれました」と言った。謎めいた言葉だがセージは慣れている。
「そうか。それは良い風か」
「風はただの風に過ぎませぬ。善し悪しを決めるのは人の勝手でございましょう」
「違いない。だが良い頃合いにそなたを聖域に呼び戻してくれたのだ。悪くはなかろうよ」
「頃合い、でございますか」
セージは玉座から腰を上げ、階段をゆっくりと下りた。膝を付いているイリアスの側で身を屈め、囁く。
「近くそなたの弟が射手座《サジタリアス》の聖衣を継承する」
「シジフォスが」
男の目に喜びの色が浮かんだ。己の後を追うように聖闘士を目指してきた年の離れた弟を、イリアスが気に掛けていることは、セージもよく知っていた。
聖闘士には聖衣《クロス》と呼ばれる、称号ごとに受け継いでいる固有の防具がある。聖衣を継承する――それは聖闘士として認められることを意味していた。逆に言えば、それを授からない限り、正式な聖闘士とは名乗れない。
継承の儀まで暫くここに居れ、と教皇に肩を叩かれては、イリアスも断る理由がなかった。
そのままセージはイリアスを供にして双魚宮に向かった。ルゴニスは礼儀正しく教皇を出迎え、僚友に向かっては「久しいな」と微笑んだ。イリアスも軽く頷いて応える。
用意された茶席で三人は和やかに語り合った。
他愛ない世間話のように、世界に忍び寄りつつある影について情報と見解を交わす。聖域を離れることのないルゴニスにとってはイリアスの話は全てが新鮮だ。部下の報告とは違う見解で語られる情勢には、セージも耳を傾けた。
やがて喋り疲れたイリアスが語り手の交代を求めた。
紅茶のお代わりを注ぎながら、ルゴニスが「ところで猊下、マニゴルドの件はお話しになられたのですか」と水を向けた。耳慣れない名に、イリアスはセージを見た。
後で挨拶に向かわせるつもりだったと断ってから、セージは拾ってきた子供のことを掻い摘んで話した。
「そういえば最近はギリシャ語だけでなく計算も手ほどきされていると、本人から聞き及びましたが」
「知っていて損は無かろうと思うてな。あやつ最初は十までの数も数えられなんだが、銀貨を使って教えたらすぐに飲み込んだわ。現金な奴よ」
茫洋とした顔で聞いていたイリアスは、なるほど、と呟いた。
「風とは、猊下のお弟子のことかも知れませぬな」
「勘違いするなイリアス。マニゴルドを庇護しているのは真だが、弟子としたわけではない。あれは聖闘士にはならぬし、決して私を師とは呼ばぬ。それで言うならあれの師は公にはルゴニスだ」
「そのお言葉には首肯しかねます」
教皇の主張を獅子座がはっきり否定した。自分は名を貸しているだけだと反論しかかったルゴニスは、面白そうに彼を見やった。
「私の師は大地です」とイリアスは述べた。「私が大地を師匠と呼ばなくても、師はあらゆることを教えてくれます。風や雲、小さな虫や草花でさえ私を導いてくれます。自然は私を弟子とは呼びませんが、私が師事することを拒みません」
「このセージが呼称に拘っていると言いたいのか、獅子座よ」
「他者を導く存在は師匠。他者に導かれる存在は弟子。なにも聖闘士だけのための特殊な言葉ではないかと」
「では聞くが、そなたが師から受けた最大の教えは何だ?」
「言葉では表せませぬ。私が大地に乞うている教えは、聖闘士としてのものではなく、もっと深い、命を生きるためのものです」
セージは腕を組んだ。元々が寡黙なイリアスも自分からは喋り出さない。沈黙が重くなる前に、ルゴニスが話に加わった。
「そういうことであれば、私も、猊下とマニゴルドとの間には、語学や計算の講義に留まらない師弟関係が、すでにあるようにお見受けいたします」
根拠を申せとセージは促した。
――訓練を終えた少年が、アルバフィカを相手に、訓練の教官とセージについて文句を垂れていた時のこと。『そんなに嫌なら今すぐ聖域を出て行け』と言ったアルバフィカへの反論を、通りがかりのルゴニスが聞いた。
『だってジイさんが生の輝きを見せてくれるっていうから、それまでは俺、ジイさんの近くにいないと』
そう答えたという。
「イタリア語でしたから我が弟子には伝わらなかったようですが、あの少年は本気でございました」
語るルゴニスからセージへと、イリアスは問うような視線を向けた。セージは深く息を吐いた。
「そう。私が言ったのだ。生に倦み、死に憧れていたあの子供を捨て置けなくてな。それで連れてきた」
二対の視線が老人に注がれた。
「生を教えるために?」
「ああ、そうだな」
「ならばお二人は紛れもなく師弟でしょう。生きることの意味を教え、学ぶ。これ以上の師弟関係はございません」
「そう思うか」
「はい」二人の黄金聖闘士は同時に頷いた。
獅子座が訥々と付け加える。
「獣の親は子にとって最初で最後の師でございます。生きるための知恵と技を、限られた時間のなかで子に叩き込む」
「イリアス。猊下を獣と一緒にするな。無礼だぞ」
「最も純粋な師弟の形だと言いたいだけだ」
僚友を軽く睨んだルゴニスは、ティーカップを優雅に持ち上げた。魚座の黄金聖闘士は、己の命を賭けて持てる力の全てを後継者に注ぎ込む。それこそ純粋で壮絶な師弟の形だろうとセージは思うことがある。
「そなたらが揃って唆してくれたお陰で、私があれを弟子としても問題はないという気がしてきたぞ。どうしてくれよう」
「あるがままでよろしいかと」
とイリアスは答えた。水を堰き止めようとせず、風を壁で防ごうとせず、流れのまま受け入れれば自然は害を為なさない。無理に抗おうとするからいけないのだ。男はそう主張する。
「簡単に言うがな、イリアス。セージ様はこれまで弟子を取られたことがない。初めて弟子を取られることで、周囲の動揺をどれほど招くか分からないのだ」
「その程度で動揺する惰弱な者など、聖闘士には不要だ。そういう余計な気を回さなければならないから聖域は好かん」
「おい」
教皇の手前、ルゴニスがイリアスを窘めようとすると、教皇本人が小さく笑った。「確かにな」と肩を振るわせる。「確かにイリアスの申す通りだ。聖闘士を目指す者ならば、誰が誰と師弟関係にあろうと動揺する暇はない」
「御意」
軽く一礼するイリアスを眺めて、ルゴニスは溜息を吐いた。
爽やかな風が双魚宮の中を吹き抜けた。外はまだ日が高いが、熱気は屋内までは届かない。
三人は静かに涼風を楽しんだ。
遠く山脈を眺めながら、セージが口を切った。
「申したいことがあれば申せ、イリアス」
「何もございませぬ」
同じように外に目を向けたまま男は応えた。
「マニゴルドの話をするうち、そなたの私を見る目が変わったぞ。無駄に長生きのくせにたかが小僧一人に気迷って、と言わんばかりにな」
「そのような」
否定するわりには泰然とした姿を、セージは面白そうに見やった。
「幻滅したか」
イリアスはゆっくりと首を横に振った。
「教皇も法衣以外を纏うことがあるのだと、候補生の頃以来の疑問が解けました」
意外なことにルゴニスが吹き出した。怪訝な顔をしたセージに説明する。
「私たちがまだ候補生だった頃、教皇は夜眠るときも法衣と兜を着けたままだという噂がありました。まさかと思いつつももしかしたらという気持ちを捨てきれず、夜中に教皇宮に忍び込もうとしたことがございます」
どうかお許しを、と二人は頭を下げた。
「それほど猊下は……セージ様は、常に教皇でいらっしゃいました。黄金位になってお側に上がる機会が増えても、威厳と慈悲で聖域を守っておられる姿しかお見せにならなかった。ところがマニゴルドに関してのセージ様は、あえて教皇という立場から離れていらっしゃいます。イリアスにはそれが新鮮だったのでしょう」
聖域にいる時間の長いルゴニスは、セージと直接言葉を交わすことも多い。その本音に触れることもある。しかしこれまで権威が服を着たような教皇を敬遠してきたイリアスには「この人にも人間らしいところがあったのか」と驚くような話だった。
「そうか。そうだな、私はずっと教皇の法衣ばかり着てきた。着替えるという考えさえ浮かばなかった」
「服は着替えることも、重ねることもできます。セージ様ならすぐに着こなされることでしょう」
己より遙かに若い者たちに励まされ、セージは力強く頷いた。
「ところで、若造どもは年寄りの寝姿を見られたのか。どうも覚えがないのだが」
「結局、教皇宮の遙か手前の天蝎宮で見つかり、説教より先にアンタレスを食らいかけました。蠍座は厳しい方でしたから、告発されないだけ恩情があったと思うべきなのでしょう」
ふっとその場に沈黙が下りた。十二宮の九番目を守っていた当時の守護者は、今はもう亡い。
聖闘士は常に代替わりしていく。子供は育ち、大人は老いていく。その流れに取り残されていく思いを、セージは時に抱くことがある。己より後に生まれた者に先立たれるのは、いつだって堪らない。
セージは再び外に目をやった。遠くの山並みに橙色の光が当たっている。もうすぐ訓練が終わる時間だ。
語らいの時間は過ぎた。下の住まいで少年を迎えるというルゴニスと、弟の顔を見に行くというイリアスは連れ立って下りていき、セージは教皇宮に戻った。
ところが彼もすぐに魚座の住まいに下りていくことになった。ルゴニスが世話をする薔薇園の中で、少年が意識を失って倒れていたと知らせが入ったからだ。