【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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余話「朝の宗教講義」

 

 まっさらな青空が中庭に覆い被さっている。

 

 セージは腰の後ろで組んでいた手を解いて、弟子を振り返った。

 

「今日は何から始めようか、マニゴルド」

 

 柱廊の縁に片脚立ちして遊んでいた少年はセージを見上げた。その拍子に体が揺れて、床に両足が付いてしまった。小宇宙どころか、闘士として基本的な体幹さえ身についていない子供だ。

 

 もう少し日が高くなったらマニゴルドは山を下りて、魚座のルゴニスの所へ顔を出した後に闘技場に行く。それまではセージとの修行の時間だ。修行と言っても、まだギリシャ語の日常会話と計算、それに聖闘士の常識のような簡単なことしか教えてやれていない。

 

 掛けなさい、と促してセージは柱廊の端に腰を下ろした。隣に少年も座り込む。セージの胸にも届かない背丈なので、座ってもやはり頭の位置は彼よりだいぶ低い。

 

「そういえば昨日おまえが見かけたという、黒い服に黒い帽子、付け髭を付けた者のことだが」

 

「そうそう。あの黒い男。聖域であんな奴初めて見た。あれ何だ?」

 

「普段は教皇宮で働いている神官だろう。用事で聖域の外に出る時、修道士の恰好をすることがある」

 

 少年は首を傾げ、今まで散々に見たことのある修道士の姿とは違うと言い返した。

 

「茶色とか灰色とか赤とか、坊主の服が色々あるのは知ってるけどさ、丸筒みたいな変な帽子被ってたし、髭の坊主なんて初めて見たぜ。待てよ、会う度に俺を睨んでくるおっさんも実は坊主で付け髭か」

 

「神官長は正教徒ではないし、髭も自前だ」

 

 でもあの髭が、と子供は妙なところに拘っている。

 

「髭は本人の好みだ。それ以上でもそれ以下でもない。今朝は、髭と同じように自由意志で決められる神の話をしよう」

 

 老人と少年、二人きりの講義が始まった。

 

          ◇

 

 世の中の信仰には二種類ある。

 

 何だと思う、とセージは尋ねた。

 

「神様を信じるか信じないか、だろ」

 

「多くの神々の中からその時自分に都合の良い一柱を選ぶやり方か、唯一の存在に頼るか頼らないかを決めるやり方だ」

 

「信じることが前提なわけね。俺には関係ねえな」と少年は嘲笑した。

 

 無神論者のようなことを言う。セージは物寂しい気持ちで弟子の肩を抱いた。

 

「そう言わずに話を聞きなさい。今ここにいる者たちは、数多の神々の中からアテナを奉じることを選んだ。しかし他に選びようがなかったのも事実だ。人の世界を守るためには、唯一手を差し伸べて下さったアテナにお縋りするしかなかった」

 

 その点で聖闘士は、多神教的であると同時に一神教的でもある。

 

「数多の神々がおられるという感覚は、まだおまえには理解しがたいだろう。だから今日は、唯一無二の全能神を信じる者たち――アブラハムの宗教についての話に限定しておこう。アブラハムの宗教は三系統ある。成立順にユダヤ教、キリスト教、イスラム教となる。おまえも馴染みがあろう」

 

「ねえよ」

 

「町でこういうものを見たことがあるはずだぞ」

 

 セージは地面に置かれていた枝切れを拾った。庭掃除の者が、主人のためにさりげなく用意しておいてくれた物だ。

 

 その枝切れでまず描いたのは、単純な十字。

 

「十字架なら知ってる」

 

「教派によって棒の長さや本数は様々に種類があるが、基本的にこれだな。これを掲げているのが、ナザレのイエスを救世主とするキリスト教の教会だ」

 

「けったくそ悪い坊主共の巣窟」と悪童は吐き捨てた。

 

「おまえの育ったイタリアではローマ・カトリックが主流だが、聖域周辺では正教会という別の教派が盛んだ。昨日見かけたという黒い修道服に黒い帽子、髭を生やした恰好は、正教会の一般的な修道士の装いだ。二つの教派の違いについては後で話そう」

 

 セージは次に、三重の同心円を横半分にした円弧の中心を、縦棒で貫いた左右対称な図を描いた。

 

「これは分かるか」

 

「知らない」

 

「ユダヤ教でよく用いられる七枝の燭台だ。百年ほど前に広まった図案としては、こういうものもあるな」

 

 隣に三角形を二つ重ねた六芒星を描くと、少年は「こっちは知ってる」と指差した。

 

 この時代、ユダヤ人の多くは東欧で暮らしていた。マニゴルドがユダヤ人に会いたければ、イスタンブールやフェズに行くのがいいだろう。

 

「ユダヤ教については、キリスト教で言う旧約聖書を唯一の正典とする教えということだけ、今は覚えておけ。最後にイスラム教だが、この教えは象徴的な図案を持たない。代わりに開祖の使った印章を象ったものや、信仰告白という短い言葉を掲げることが多い」

 

「それは書かないのかよ」

 

 セージは枝切れを地面に突き立てた。

 

「書かぬ。『神は唯一の存在であり、ムハンマドがその使徒である』という意味合いの言葉だぞ。ムハンマドというのはイスラム教の開祖のことだ。仮にもアテナの代理人たる私が、アテナのお膝元の大地に記していいものではない」

 

 三日月と星がイスラム教の象徴として広まるのは、オスマン帝国が国旗として制定した後のことであり、この時代から見ればまだ未来のことである。そもそもイスラム起源の図案ではない。

 

「お師匠にしては厳しいね」

 

 心外だ、とセージは片眉を上げた。

 

「信者同士の助け合いの精神は見習うべきだと思っている。しかしイスラム教は偶像崇拝を禁じているのだ。それだけなら好きにしたらいいが、他の信仰で崇められている神仏の像まで破壊して回る悪い癖がある。万が一聖域に侵入されて、向こうにおわす(とセージは後ろを仰ぎ見た)アテナの神像を汚されたらと思うと、気が気でない」

 

「十二宮で撃退しろよ」

 

「そのような日が来ないことを祈ろう。さて、三系統の括りについてはこれくらいにしておこう。理解できたか」

 

「全然。違いが分からない」

 

 率直な感想にセージは軽く頷いた。

 

「ユダヤ人が、絶対服従する代わりに豊かな地をもらうという約束を神と交わしたのがユダヤ教だ。約束を守ること、すなわち戒律を守ることが求められる」

 

 マニゴルドは膝に肘を乗せ、頬杖を突いた体勢で聞いている。

 

「ユダヤ人だけのものだったユダヤ教から派生したのがキリスト教だ。教えをユダヤ人以外に広めるために、神に服従する見返りを『救われる』ことにした。人があるべき姿を失ったという罪からの救いだ。ナザレのイエスを救世主とするのはここだけだ」

 

「後の二つだとどうなんの」 

 

「ユダヤ教にとっては神の子などもってのほかの異端者。イスラム教にとっては預言者の一人だ。逆にイスラム教で最後の預言者とされるムハンマドは、他の二つからは預言者を騙る知識不足の偽者とみなされている」

 

「お互い様ってわけだ」

 

「そうだな。イスラム教は、教えの内容はキリスト教と大差ない。先に言った偶像崇拝の禁止と、神がムハンマドを通して下したとされる聖典クルアーンを神聖視しているのが最大の特徴だ」

 

 イスラム教の宗派には、有名どころでスンニ派とシーア派がある。それに比べれば少数派だが、ドゥルーズ派という異色の宗派があった。それについて説明しようかどうしようか、セージは迷った。聖域と姿勢が似ているからだ。

 

 結局、イスラム教を初めて知った日のうちに教えても混乱するだけだろうという結論に至った。少年の理解力を軽んじているわけではないが、詰め込みすぎるのはよくないだろう。

 

「へいへい。今日は終わり?」

 

 飽きたか、とセージが笑いながら問うと、ちょっと、と弟子も笑った。

 

「もう少し続けるぞ」

 

 キリスト教の中の教派について。

 

「おまえの育ったイタリアに浸透しているのはローマ・カトリック。対してここギリシャで広く支持されているのが正教会だ。カトリックやプロテスタントのような西欧に広がった諸教会からは、東方教会とも呼ばれる」

 

「どっちの呼び方が正しいんだ」

 

「ギリシャでは正教徒がほとんどだから、正教会と呼ぶほうが無難だろう。――そうだな、ここにエクレシアというワインの醸造工房があったとする」

 

 セージは例え話で説明することにした。エクレシアとは人々の集まり、すなわち教会を指すギリシャ語だ。

 

「この工房のワインが広く売れ始めるにつれ、そこで働く職人たちの間に、理想のワインに対する考えの違いが生まれた。昔ながらの製法を守り『何も引かない、何も足さない』を座右の銘とする一派と、『客の求めと時代に合わせた普遍的な味を提供していく』ことにした一派だ。前者をまとめるのがオルトドクス氏、後者をまとめるのがカトリコス氏だ。二人は長らく工房の未来について話し合ったが、カトリコス氏を支持する町の不埒者が、オルトドクス氏の家を打ち壊したことがとどめとなって話し合いは決裂。喧嘩別れになった」

 

 第四回十字軍が正教会の中心地であるコンスタンディヌーポリを攻略した事件である。

 

 しかしこの事件がなかったとしても、いずれ二つの教会は分裂していただろう。それまでの数世紀の間に正教会とカトリックは、ローマ教皇に対する見解や祈祷文などを巡って差異を深めていった。たとえば相互破門はその経緯の一つに過ぎず、決定的な分裂のきっかけではない。

 

「エクレシア工房は二つに分かれた。オルトドクス氏は東に工房を構え、カトリコス氏は西に工房を構えた。それぞれが、『我こそが正当なエクレシア工房の味を受け継いでいる』と主張して今に至る」

 

「本家と元祖の争いみたいなもん?」

 

「まあそうだな。カトリコス氏の弟子の中に、『工房設立当時の職人が書き残した製法しか信じない』と抗議して独立した者たちがいた。ただし伝統を重視するといっても、オルトドクス氏のワインの造り方は参考にしていない。プロテスタントと呼ばれ、ドイツやイギリスにいる者たちのことだが、聖域で暮らす限りは縁がないだろうから省略するぞ」

 

 少年は深く息を吐いた。難しいか、とセージが問うと首を横に振った。

 

「カトリック教会の頂点にはローマ教皇がいる。翻って正教会はそのような最高権威を認めていない。全教会の頂点はハリストス(キリスト)と考えているからだ。その代わり地域ごとにまとめ役の主教がいて、最も格の高い総主教と呼ばれる者同士は対等とされている。儀礼上はコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭格となっている」

 

 かつて正教会が東ローマ帝国に庇護されていた頃は、皇帝に任命されたコンスタンディヌーポリ総主教が東ローマ帝国領を統括していた。トルコ、ギリシャからブルガリア、セルビア、ロシアまでを含む地域である。皇帝が幼帝の時には総主教が摂政となった例もあった。キリスト教会の首位の座をローマ教皇と争っていた時代もあったのだ。

 

 セージたちが生きているこの時代においても、コンスタンディヌーポリ総主教庁はオスマン帝国領内の正教徒を統括している。

 

「ここ聖域と正教会の仲は概ね良好でな。聖闘士が身分を偽って外地で活動する時には、正教会の一組織――自治教会を名乗ることもコンスタンディヌーポリによって黙認されている。というよりもこの自治教会は聖闘士のために用意されたものだ」

 

 この事実を知った聖闘士が大抵そうであるように、弟子も驚いたようだった。

 

「いいのか、そんなこと。教皇を認めてないなら、お師匠が教皇と呼ばれてることだって正教会からしたら許せねえだろうに。あ、そっちは秘密なのか」

 

「あくまで正教会が認めていないのは、キリスト教世界の頂点に教皇という一人物が立つ、という考え方だ」

 

 そもそも教皇《パパ》という呼称はローマ教皇だけのものではない。遠い昔は都市ごとの主教に対しても用いられていた。やがてその対象者は絞られていったが、十八世紀当時も二十一世紀においても、アレクサンドリアにいる正教会総主教とコプト正教会総主教の二人が《パパ》と呼ばれている。

 

「神秘主義の色が濃い辺境の一教会、というのがここ聖域に対する外向きの見解のようだ。狭い共同体の中で古い呼称が伝統的に残っているだけならば、教皇と呼ばれる存在がいても問題なかろうよ。むしろローマ教皇の無謬性を否定するためにも、教皇が複数存在したほうが正教会としては嬉しいかも知れぬ」

 

「正しいって何だろう」とマニゴルドは呟いた。

 

 少年の困惑に老人は頷いてみせた。

 

「正教とは何かということについて、正教会は『ハリストスのいのちそのものであり、いのちとは言葉で説明できないもの』という姿勢を取っている。その真髄は体験の中からしか掴めず、体験を通じてしか伝えられないのだそうだ」

 

 小宇宙みたいだ、と弟子は言った。話を聞くだけでなく体感しなければ理解しがたいという点において、聖闘士の真髄と共通している。

 

「そうだな。そういえば、神の像と肖という考え方が正教会にある。これも聖闘士を理解するのに役立つだろう」

 

「ぞうとしょう?」

 

 キリスト教において、人間は神の姿に似せて造られたとされている。ここまではどの教派も共通しているはずだ。

 

 正教会ではその似姿のことを、像と肖に区別する。神に近づくための力や可能性や出発点である神の像《エイコーン》と、その実現や完成を意味する神の肖《ホモイオーシス》だ。

 

「最初の人間が犯した『原罪』が、その子孫である今日の人間全てに染み渡ってしまい、人は神と別物の堕落した存在になったとするのがカトリックの考えだ。正教会は違う。神の肖はアダムとイブによって失われてしまったが、像のほうは消えたのではなく壊れた形でまだ残っている。ゆえに全ての人は神の似姿を残した尊いものだとされている」

 

 自身も含めて人は塵芥だと諦観する少年は、この時も黙って冷笑した。セージは胸の内に溜息を漏らして説明を続けた。

 

「つまり人はどんなに成長しても完成することのない不完全な存在ではあるが、成長することで神に近づき、神に似ていくことはできる。像はどんな人生にも関わらず失われないが、肖は意識的に自分の中に取り入れる必要がある。それが正教会の考えかただ。

 

 ……さて、修行を重ねた聖闘士が、必ず手に入れているものがある。それは何だろう」

 

 称号と聖衣、と弟子は答えた。それも間違ってはいないが、セージの求める返答ではなかった。

 

「小宇宙だ。奇跡さえ起こす生命力の源。たとえば青銅や白銀聖闘士の実力では百人束になったところで黄金聖闘士に歯が立たないが、小宇宙を高めることで実力差が帳消しになる可能性も生まれる。黄金聖闘士のように第七感に目覚めた者が更に極限まで小宇宙を高めれば、生死の理さえ超えることができる。それは神々に立ち向かうために、我々もその領域へ近づいていく必要があるからだ、とも考えられよう」

 

 足の先をぶらぶらと揺らしていた弟子が、その動きを止めた。

 

「考え方が似てるから正教会と聖域が仲が良いってのか。でも変じゃね? 聖闘士はアテナを奉って他の神と戦うんだろ。正教会はアテナを神様と認めてるのか」

 

 鋭いな、とセージは弟子を誉めた。

 

「たしかに正教会は一神教だ。神が唯一であることが第一に信ずべきこととされている。アテナは唯一神ではないから、彼らにとっては神ではないだろう。表面がいくら似ていても、根本では我々と違う」

 

「そらみろ」

 

「ただ正教会が地域的にギリシャや小アジアの影響を強く受けていることは、世間に知られた事実だ。聖域から正教会の内部へ送り込まれた雑兵も多いから、聖闘士の持っていた知識や思想も多少は先方に影響している。たとえばこの概念が、そうだ」

 

 セージは地面に「藉身(せきしん)」と書いた。

 

「受肉ともいうが、神が人となることを指す言葉だ。正教会ではイエスは神の子ではなく、神そのものとされている。神が人の子として生まれることを藉身という」

 

 藉身したことで、神は人の肉体だけでなく人としての全てを得た。生身の人となることで、喜びも、苦しみも人と分かち合った。

 

「降臨されるアテナと同じなのだよ」

 

 

 

 余話「朝の宗教講義」(了)

 


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